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2015年9月25日 (金)

逆転勝利の人生 ローマ8:28 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.27

 これまで、私たちは自分の過剰反応に気づき、心の叫びを完了し、新しいコア世界観を持つということを学びました。これらのことを「心の癒し」とか「オーバー・カム」と言います。私たちは心が癒されたらそれで良いんじゃかいかと思います。しかし、李光雨師はエネルギーの源を変えなければならないと言われます。多くの場合、心が癒される前は「何くそ、今に見返してやるぞ!」みたいな負のエネルギーでやってきました。この世では、心の動機がどうであろうと、結果が良ければ良いかもしれません。箴言212「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる」とあります。神さまは、私たちの行ないよりも、何をエネルギーにしているかをご覧になっておられます。  

 

1.逆転勝利

テキストには、このように書かれています。「癒し(オーバー・カム)だけでは不十分です。古い怨念晴らしやネガティブなエネルギーの代わりに、新しいエネルギーを持たなければ、新しいライフ・ステージはなかなか生まれて来ません。これまでは、怒りとか悲しみのエネルギーに満ちていました。それを乗り越えたときに、新しいエネルギーをどのようにして見つけたら良いのでしょうか?自分自身に与えられている神さまからの賜物と神さまが自分の人生に与えてくださった召命の2つを明確化して受け止めることが、新しいエネルギーになります。この段階がとても重要です。ただし、これをあまり早くやってしまうと、とてもゆがんだ形になります。古い世界観を持ったままの段階になってしまうでしょう。」李光雨師は、「癒し(オーバー・カム)の最後の仕上げは、逆転勝利がある」と言っています。つまり、賜物の開発とか、使命にその人が導かれる前に、逆転勝利というハードルを越えているかどうかが重要だということです。逆転勝利のハードルとは、「人生に起こったことすべてが良きことに用いられるのだ」と心から納得することです。逆転勝利のテーマをその人が認識し、それと取り組んで先に進んでいるかどうかを見極めないと危険だということです。キリスト教会では「神の召し」を強調しますが、怨念晴らしで牧師になったりします。もし、怨念晴らしでやっていたなら、一番良いところで、サタンにひっくり返されてしまうでしょう。キリスト教会でそういう働き人たちが結構いらっしゃいます。始まりはとても良さそうに見えますが、最後が良くありません。なぜなら、その人は負のエネルギーでやっていたからです。ですから、その人が癒されていても逆転勝利をしているかどうかとても重要です。

では、逆転勝利とは具体的にどういうことなのでしょうか?逆転勝利とは、「人生のすべてが神さまの働きによって益となる」ということです。ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」自分の人生は神さまのために仕えることが、初めから、全部、神さまのご計画でした。そして、自分の今までの悲しみ、痛み、喪失、恨みとかが全部、ひっくり返って財産になるのです。李光雨師は、最初にその人の悩みや問題を伺いますが、その人の逆転勝利が何かをも同時に考えるそうです。たとえば、「あなたの人生の中の一番、なかったら良いものは何ですか?一番の負の財産は何か?」と聞きます。すると、その人が「親からの虐待です」と答えたとします。その人の悪循環パターンは、「自分の力では何もできない。無力感、未達成感、やっても難しい」でした。一生懸命、がんばっても、心の中に存在不安を抱いています。でも、李先生は「最大の負債がやがて、最大の財産に変わっていく。そこには神さまの仕込みがあり、必ず、プラスになるんだ。プラスになる方法を見つけてやれば良いんだ」と考えるそうです。虐待とは、「一番、可愛がってもらえるべき人から可愛がってもらえなかった。自分を面倒見るべき人から面倒見てもらえなかった」ということです。そういう人は、「良いところまで行くけど、失敗します。どうせだめだろう」と諦めてしまいます。ある人たちは、子どものとき肉体的あるいは精神的な虐待で打ちのめされた経験を持っています。言い換えると、暴虐の前に膝を屈してしまったのです。そのため、理不尽な出来事に遭遇すると圧倒され身動きできなくなります。でも、その人が神さまの絶対的な愛を受けて癒されるとどうなるでしょう?「私はたとい理不尽なことがあっても、私の魂は壊れない。人にはできないが神にはできる」という新しいコア世界観を持ちます。そこで人生のギアが反転し、神さまのエネルギーで生きるようになります。その人がある時、葛藤を覚えている人に出会います。「ああ、この人は私と同じようなテーマを持っている」と匂いでわかります。その時、これまでの負の財産がプラスになって、違いをもたらす人として神さまが用いて下さるでしょう。「あのことがあったから、今の私があるんだ」と感謝できるようになるのです。片親で育てられた人は、同じような境遇で育った人の気持ちがわかります。お兄さんやお姉さんが壁になっていた人は、同じような境遇で育った人の気持ちがわかります。このように負の財産がプラスになるのです。そして、それが賜物と召命につながって行きます。

逆転勝利をした人で最も有名な人物は旧約聖書のヨセフです。彼は末っ子で父から溺愛されました。ある時、「みんなが私を拝んだ夢を見た」と言って、みんなに自慢しました。そのため、兄弟たちから妬みを買い、エジプトの奴隷に売られました。彼は奴隷でありながらも、主人から全財産を任されるようになりました。あるとき主人の妻から誘惑を受け、上着を残して逃げました。ところが、濡れ衣を着せられ、今度は監獄に投げ込まれ鎖につながれました。そこでも、監獄の長から恵みを受けて、囚人の管理を任せられました。ある時、王様に謀反を起こしたかどで二人の官長が監獄に入ってきました。ヨセフは彼らの夢を解き明かしてあげました。解放された方の官長に「私のことをパロ王に話してください」とお願いしました。ところが、彼はヨセフのことをすっかり忘れました。それから2年たったある夜、パロは不思議な夢を見ました。エジプト中の知者や呪法師もパロの夢を解き明かすことができませんでした。その時、官長は夢を解き明かしてくれたヘブルの若者のことを思い出しました。奴隷に売られてから13年たっていました。ヨセフは兄弟たちを憎んだでしょう。ポテファルの妻を憎んだしょう。放っておいた官長を憎んだでしょう。なぜなら17歳から30歳までの青春時代を奪い取られたからです。さて、ヨセフは牢獄から出され、着物を着替えてからパロの前に出ました。そして、パロの預言的な夢を解き明かし、大ききんに備えるように進言しました。パロはヨセフの知恵にとても感動し、国のすべての財産をまかせ、王様の次の位を与えました。なんと、ヨセフは奴隷から宰相になりました。大飢饉が父親や兄弟の地域にも及びました。それで、兄弟たちは銀を携えて、穀物を買いに来ました。兄弟たちは目の前の宰相がヨセフとは知らず平伏しました。その時、夢が成就しました。ヨセフは厳しく彼らをあしらいましたが、心から罪を悔いていることを知りました。ヨセフが自分の身を明らかにしたとき、兄弟たちは驚きのあまり、答えることができませんでした。仕返しをされるかもしれないと恐れました。ところが、ヨセフはこのように答えました。創世記455「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」ヨセフは、「よくも、お前らは!」と兄たちを殺すこともできました。しかし、ヨセフは「神さまが家族を救うために、エジプトに遣わしてくれたのだ」と悟っていたのです。つまり、神がすべてのことを働かせて益としてくださったということです。旧約聖書のヨブもそうです。ヨブは10人の子どもと全財産を一瞬にして失いました。さらには全身重い皮膚病にかかり、土器のかけらで自分の体をかきました。それだけではありません。同情してくれるべき妻から「神を呪って死になさい」とまで言われました。さらに、3人の友がやってきて「お前に罪があるから、こうなったのだ」と代わる代わるヨブをさばきました。どのくらいの期間苦しんだか分かりませんが、暗いどん底でヨブは主と出会いました。ヨブは「知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか」と自分をさげすみました。ヨブの最後はどうなったでしょう?「子どもが10人と、ヨブには二倍の財産が与えられ、さらに140年生きて、4代目の子どもまで見ました。ヨブの生涯は完全に贖われ、逆転勝利を得たのでした。

 みなさんの人生においてどうでしょうか?一番いやだったこと、一番損と思われることが益になったでしょうか?それとも、「きっと見返してやるぞ!復讐してやるぞ!」と負のエネルギーでがんばっているでしょうか?一生懸命やっている姿をだれも責めることはできません。しかし、その人を駆り立てているエネルギーは何かということです。日本では豊臣秀吉、野口英雄、田中角栄を尊敬する人たちがいるかもしれません。でも、彼らは負のエネルギーで名を上げた人たちです。でも、心の中は悲惨だったのではないかと思います。箴言212「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」神さまは、あなたの行ないがどうであれ、何をエネルギーにしているか、あなたの動機をご覧になっておられます。もし、逆転勝利をしていないなら、一番良いところでひっくり返されてしまうでしょう。どうぞ、癒しを受けた後、新しいエネルギーを神さまからいただきましょう。今までの怨念のエネルギーとは違う、新しいエネルギーへの転換が必要ではないでしょうか?「最大の負の出来事が、最大の益になった」という逆転勝利をいただきましょう。そうすれば、賜物と召命という次の段階もうまく行くでしょう。

2.賜物と召命

 李光雨師は「その人が一番苦しんだ場所が、その人の一番用いられる場所になる。神さまの仕込みがそこにあったんだ」と言います。面白いですね。私たちには「あんな家に生まれなければよかった」「あんなことが起こらなければ良かった」と思っている負の財産があります。ところが、神さまがそれらを全部ガラガラ・ポンして益にしてくださるのです。たとえば、ヨセフのことを考えると、ヨセフの13年間の時間が無駄だったのでしょうか?そうではありません。彼はポテファルの家で財産を管理することを学びました。監獄では囚人たちを世話したので、人を管理することを学びました。30歳のときエジプトの宰相になりました。彼は豊作の時の穀物を蓄えさせ管理させました。ききんが来たとき人々にそれらを売りました。最後に人々は穀物を買うお金がなくなりました。その時、ヨセフは家畜や農地と引き換えに穀物を与えました。こうして、すべての土地が王様のものになったのです。ヨセフには神からの知恵がありましたが、同時に奴隷時代に体得した管理の能力も役に立ったのです。つまり、13年の負の体験が益になったのです。神さまは13年間、主人の家と監獄で、ヨセフを仕込んだと言っても良いでしょう。

 使徒パウロの生涯はどうでしょうか?彼は律法を厳格に守るパリサイ派の出身でした。ガマリエルの門下生として学ぶ、エリート中のエリートでした。ところが、「イエスは主である」という人たちが増えてきたので、「とんでもない奴らだ」と彼らを捕まえては牢獄にぶちこみました。ところが、ダマスコに行く途中、復活の主が現れ、倒されました。まばゆい光を見たので、3日間も目が見えませんでした。そのとき、「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか」という主の声を聞きました。彼はキリスト信者を迫害こそすれ、主を迫害しているとは全く思っていませんでした。その後、主から「異邦人に、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、私の選びの器です」と言われました。パウロはキリスト者を迫害する者から一変して、キリスト教会の土台を作る使徒に召されたのです。彼は自分が持っているものを「ちりあくたと思っている」とさげすんでいます。パウロは自分が持っている人間的なものを一度全部捨てました。ところが、主はそれらを拾い上げて福音宣教と教会形成のために用いたのです。パウロは自分が学んだ律法と神さまからいただいた啓示を融合させ、本当の福音を語ることができたのです。もし、パウロがいなかったなら、今日のキリスト教会はなかったと言っても過言ではありません。教会を迫害する厄介者が今度は教会を建てる者に用いられたのです。これが逆転勝利であり、主の賜物と召命であります。

 前回、私が小学校5年生の頃、記念切手を兄が取り上げて喧嘩になり、それを父が取り上げて、ストーブにくべたということをお話ししました。私はそれ以来、すべてのコレクションをやめました。しかし、梅の花や国定公園の画像を見ると、「ああ、あのような切手を持っていたなー」と思い出すことがありました。25歳でクリスチャンになりましたが、大川牧師やチョーヨンギ師のメッセージをノートに書き留めるようになりました。それだけではありません。弟子訓練会の学び、エディレオ師の説教、エリヤハウスの教えなど全部テープ起こしをして資料を作りました。それがどんどんたまり、ものすごい資料集になりました。いつの間にか私は、コレクションをしていたのです。ところが、67年前にベンウォン師が来られ、「牧師室を焼いて、外に出て行って、人間関係を作りなさい」と言いました。確かに私はパソコンの前に座って資料作りに励む時間が多かったように思います。セル関係だとかコーチングと言われ励んでみました。ところが、私は人といるよりも自分一人でいる方が好きだということが分かりました。私はそれまで自分は外交的だと思っていましたが、「人間が好きじゃない」ということに気付いたのです。牧師がそんなことを言ったら大変になりますが、電話が怖いのは事実でした。後からそれは親や兄弟から虐待を受けたのが原因だということが分かりました。でも、李光雨師からカウンセリングを受けて、はっきりと分かりました。「神さまは私のコレクションを用いて下さる」と。私はコツコツと作業をするタイプです。そして、たくさんの資料をまとめて、そこから教えたり語ったりします。「これが私の賜物なんだ」と分かったのです。その後、ジョエル・オスティーンの本や説教を聞き、大変、感動しました。神さまは一人一人に、固有のDivine destiny(神の計画)を持っておられ、生まれた時に既に備えておられたということが分かりました。生まれた後から努力して得るのではなく、生まれる前に神さまは装備してくださっていたのです。車には色んな車種があります。さらに、車を買う時、ある部分をオーダーメイドできます。納品されたとき、ちゃんと出来上がっており、エンジンがないとか、窓ガラスがない車はありません。私たちもこの世に生まれ出たとき、ちゃんと装備されていたのです。そのことが分かって、私の世界観がずいぶん健康に育ちました。それまでは、私のコア世界観は脆弱で、積極的な考えや見方を持ち続けることができませんでした。聖会やキャンプに行っても、1週間で元に戻ってしまいます。でも、新しいコア世界観にジョエル・オスティーンの教えがぴったり当てはまったのです。

 あるクリスチャンは「礼拝の説教を聞いてもその時だけ恵まれるけど、家に帰ったら忘れてしまう」という人がいるかもしれません。聖書を読んでお祈りしても、「私の人生はうまくいかない」とどこかで思っているかもしれせん。それは、あなたのコア世界観が古くて脆弱だからです。だから、信仰的で肯定的で積極的なことが、嘘みたいに思えるのです。どうぞ、コア世界観を新しいものに取り替えてください。聖書的、ローマ122「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。その後の話が、今日のテーマです。神さまから与えられた賜物と召命に生きるということです。「いやー、私は賜物と召命がわかりません」という人がたまにいらっしゃいます。昔、「ディスカバー・ジャパン」というキャッチフレーズがありました。何度も申し上げますが、神さまからの賜物と召命は、自分が触れられたくない負の財産と関係があるということです。あなたはヨセフのように、あるいはヨブのように、ひどい環境の中で、仕込まれたのです。権威ある人から、「歌をやめろ」とか「ピアノをやめろ」と言われたかもしれません。あるいは「○○に向かない」とか「お前には才能がない」と言われたかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?あなたは、一流になることを諦めたかもしれませんが、自分なりに努力してきました。神さまは日の当たらないところも、ちゃんとご覧になっています。そしてそれらを、まとめて益にしてくださいます。ただし、その前に、怒りとか悲しみ、恐れという否定的な動機を捨てなければなりません。「馬鹿にした奴らを、いつか見返してやるぞ!」では、神さまのみこころはなりません。エネギーを転換したとき、負の財産が、すべて宝物になるでしょう。パウロのように、「私が走って来たこと、労したことは無駄ではなかった」と誇ることができるのです。

最後にジョエル・オスティーンのIts Your Timeという本から引用して終えたいと思います。ジェイコブという農夫がシーザーという名の騾馬を飼っていました。その騾馬がどういうわけか15メートル以上の深さがある、廃墟の井戸の中に落っこちてしまったのです。ジェイコブは普段から、この騾馬のことをたいそう可愛がっていましたので、何とか助けようと必死でした。でも、色々と試してみましたが、シーザーを救う手段はもうないという結論に達しました。ジェイコブが上から観察する限りでは、シーザーは声をあげるどころか、ピクリとも動く気配がありません。現実主義者だったジェイコブは仕方がないと割り切り、その井戸を土砂で埋めて、墓にしてやろうと考えました。ジェイコブは友人数人を呼んできて、シャベルで土砂をすくって井戸に放り込む作業を開始しました。最初の土のひと盛りを井戸に投げ込みました。落下した土が、気を失っていた騾馬のシーザーの目を覚まさせました。そして別の土が背中に当たるのを感じたシーザーは、今何が起っているのかを理解しました。生き埋めにされるわけにはいきません。シーザーは何とかしようと考えました。土が放り込まれてきたら、彼は背中にかかった土を、体を振って払いのけ、ひずめで土を蹴って常に土の上にいるようにしました。じっとしていれば確かに土に埋まりますが、土が来るたびに払いのけて土の上に乗っかっていけば、確かに上へ上へと行けます。しばらくの間、シーザーは土を蹴っちゃ登り、蹴っちゃ登りを繰り返していました。一時間ほども作業をした頃でしょうか。ジェイコブと友人たちは、シーザーの長い耳が井戸からニュッと突き出してきたのを見た時、驚きのあまり固まってしまいました。その時、ジェイコブを含めその場にいた者は「シーザーは死んでいなかったのだ」ということを理解したのです。そこで皆は、シーザーが井戸を乗り越えてこられる高さまで土を入れて、やっとこさシーザーを自由の身にさせてやることができました。ジェイコブも友人たちも、もともとシーザーを埋葬するために井戸へやってきたのです。でも彼らは逆に、シーザーの命を救うことになったのです。あなたも、あの騾馬のシーザーがやったように、もしあなたの背中に土が放り投げられたら、ふるい落として上へ登っていただきたいのです。あなたが人生において不当に扱われたり、失望に襲われるような体験をした時、その土砂にあなたを埋葬させてはなりません。すぐさまふるい落とし登ってください。人生においては、あなたを失望させ追い詰めるかのごとき経験をすることがあるかもしれません。それは、あなたを『埋葬』してしまうために土を投げられているのと同じです。でもそれは、あなたが再び生まれ変わって、新たな良き展開を迎えるための、神が送られたチャンスなのです。あなたにも逆転勝利の人生を計画しておられる主の恵みがありますように。

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2015年9月18日 (金)

新しいコア世界観 ローマ12:1-2 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.20

 自分に悪循環のパターンがあることに気づかれたでしょうか?一番問題なのは、悪い感情ではなく、それを起こしている考え(認知)であります。しかし、その考えは、心の奥底、コア世界観から出ているということでした。あなたはどのようなコア世界観を持っているでしょうか?コア世界観を知るためには、心の叫びをワンフレーズで言い表す必要があります。心の叫びがわかると、コア世界観もおのずとわかってきます。では、どうすれば、過剰反応の悪循環パターンから解放されるのでしょうか?それは、古いコア世界観を捨てて、新しいコア世界観を持つということです。その結果、悪循環から解放され、新しいライフ・スタイルを持つことができるのです。 

1.心の叫びの完了

新しいコア世界観を持つためには、心の叫びを完了させなければなりません。そうすれば、その人は、古いコア世界観を捨てて、新しいコア世界観を持つことができるのです。では、どのようにしたら、心の叫びを完了することができるのでしょうか?その1つの方法を李先生は「インナーヒーリング」によって行ないます。最初に自分の世界が壊されるようなエピソード(出来事)があったはずです。おそらく、それは幼い時であり、相手が父母、兄弟、あるいは身近な人であったと思われます。その人のひどい言葉や身勝手な行ないによって、あなたの世界が壊されたのです。そのことが癒されないために、今日、大人になっても同じようなステージの中で、過剰反応が繰り返し起こるのです。

李先生ご夫妻は心の叫びを完了するためにインナーヒーリング(心の癒し)を用いています。基本的にはその人のエピソードを聞きながら、「自分の一番痛い経験をしたところで、神さまがその場所で、どういう視線を持っていてくださっていたか?どういうメッセージを持っていてくださったか?」ということを祈りのミニストリーを通して再体験してもらいます。過去の出来事の中にあった神さまの真実を、祈りを通して今、理解するということです。祈りの中で、インナーチャイルド(内なる子ども)すなわち、「過剰反応を引き起こす、自分の中にある子どもっぽい心」を取扱います。自分の中に辛い体験をしたときの子ども「内なる子ども」が留まっているはずです。そのインナーチャイルドに祈りのミニストリーを通して、イエス・キリストの交わりを再体験してもらいます。そして、そこでイエス様からの答え、励まし、あるいは「真実はこういうことなんだ」と言うことを追体験してもらいます。そのところに「心の叫び」が一番出て来やすいのです。たとえば、「幼い○○ちゃんは、何と言っていますか?」と聞きます。「抱きしめてよ」、つまり、「自分に安心感を与えてよ」という心の叫びであるかもしれません。ちっちゃい○○ちゃんを想像します。ちっちゃい○○ちゃんが怒っています。あるいは泣いている姿、あるいは悲しみに沈んでいる姿があります。具体的なエピソードの中での自分のイメージです。「そこにイエス様がいてくださった」という真実があります。かつての自分の痛みの場にもイエス様の臨在があったのです。

 次にこのように祈ります。「そこにイエス様がいてくださったことを祈りの中で確認してみましょうか?」すると、「はい、イエス様が言われた感じがします」と答えるかもしれません。「では、イエス様は何と言ってくださっていますか?あなたの心の叫びにどんな答えを与えてくださいますか?」というように祈りを助け導きます。そこで、インナーチャイルドと神さまが出会います。そこで、その人が心の叫びをイエス様に伝えます。つまり、イエス様がどう答えてくださるか、祈りを通して体験をしてもらいます。テキストに「最後のワンピース」という表現があります。神さまとの関係の中で、「ジグソーパズルの最後のワンピースを埋める」ことが癒しのミニストリーです。その時に心の叫びを神さまの前で最終的に完了させてもらいます。怨念晴らしを繰り返すのは、「ジグソーパズルの最後のワンピースを埋めようとしてみたが、これも駄目だった。最後に、はまらなかった」ということなのです。そして、そういうことをずっと繰り返しています。そのワンピースを神さまがピタっとはめてくださいます。そういう助けをするのが癒しのミニストリーです。その人が、神さまから絶対受容を受け取るのです。そういうリアリティをもった神さまとの関係があれば、そのワンピースが埋められます。そのことが怨念晴らしをやめさせる唯一の方法です。それがないと人は怨念晴らしをやめません。以前は、幻想に振り回されていました。唯一、神さまとの間にリアリティがあります。そこに気がついてくれたら、その人は怨念晴らしをやめることができるのです。

本人が「神さまが心の叫びを受け止めてくださった、完了した」と言える瞬間があります。そうすると、その人の歯車が変わります。信仰の先輩たちの証を見るとどこかで完了しています。そこからミニストリーが変わっています。つまり、心の叫びの完了です。Ⅰペテロ224「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」十字架の最後にイエス様は、「完了した」とおっしゃられました。十字架はそういう意味で罪の贖いの完了でもあるし、私たちの心の叫びの完了でもあります。イエスさまは十字架を私たちに与えてくださいます。結局、心の叫びを生み出すのは、だれかの罪の犠牲者になっているということです。だれかの罪の犠牲者になっていることが被害者としての自分がスタートしました。それをどう乗り越えていくかと言うことです。最終的にはイエス・キリスト、神さまとの深い交わりでそれを乗り越えて行くしかありません。心の叫びを完了するために、最後のワンピースを埋められることが、乗り越えるためのエネルギーになるのです。

 私は今から6年くらい前に、李先生からミニストリーを受けました。ちょうどその時、私の世界が壊れ、そこから怒りや恐れが吹き出ていました。神さまに必死に祈り求めても、苦しくてたまりませんでした。原因は、環境のせいではなく、自分自身の考え(世界観)だったのです。私の世界が壊れた、子どものときのあるエピソードを思い出しました。私は小学生のとき記念切手を集めていました。小学校5年生の頃、東京オリンピックの記念切手シートが発売されました。学校に遅刻して並びました。1枚のシートを私と友人と郵便職員がじゃんけんをして、私が得ることができました。ある時、3歳上の兄が、「俺にくれ」と切手シートを取りました。私は「だめだよ」と、その切手シートをひっぱりました。兄が怒って、その切手シートを手でぐちゃぐちゃにしました。私は大声で泣きました。そこに座っていた父が、「こんなものがあるからだ!」と言って、槇ストーブの中に切手をくべてしまったのです。その時、私の世界が壊れてしまったのでないかと思いました。本来なら、そこにいた父が治めるべきでした。しかし、父は酒を飲んでは、母を殴り、私たちにも暴力をふるいました。兄弟同士も互いに争っていました。今でいうと、私の家は機能不全だったのです。だれも守ってくれない中で、不当な扱いを受けて、私の世界が壊れたのです。私の心の叫びは「私は悪くないのに、なんでだよ、ちくしょう!」でした。怒りの悲しみと絶望の声でした。それから、小中高学でも先生から私が一番叱られました。「私は悪くないのに、なんでだよ、ちくしょう!」と叫びました。私のコア世界観は「私は脆弱なので、不当な世界に太刀打ちできない」でした。祈りの中で、「イエス様は私の心の叫びを聞いてくださった。イエス様は私のことを弁明してくれる方だ」と分かりました。また、ある時、「天国に私が失ったすべてものがある」と信じることができました。私の最後のワンピースが埋められて、心の叫びが完了しました。私は怒りを手放し、絶望を神さまにゆだね、次のステップに進む決断をしました。

2.新しいコア世界観

 コア世界観があらゆる生活様式を生み出します。あるクリスチャンは霊的に救われたにも関わらず、過剰反応の悪循環パターンに縛られています。なぜなら、古いコア世界観で生きているからです。このミニストリーは、古いコア世界観を改善するのではなく、新しいコア世界観に取り替えるということです。果たして、新しいコア世界観というのは聖書的なのでしょうか?私たちはイエス様を信じたときに、霊的に生まれ変わりました。しかし、mind思いまで新たにされているでしょうか?ローマ122後半「すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。これは救われたクリスチャンに対する命令です。英語の聖書は、be transformed by the renewal of your mindとなっています。「一新された思いによって、変革されなさい」という意味です。「一新された思い」とは何でしょう?エペソ人への手紙4章には「心の霊において新しくされ、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に付けなさい」と書かれています。霊の外側に魂があります。魂は、感情、思い、意志の3つの分野があります。多くのクリスチャンは、霊が新しくなっているのに、思いや考えが古いままで生きています。だから、信仰生活がぎこちないのです。私たちの思いや考えの中核にあたるものが、コア世界観です。コア世界観を新たに変えるなら、考えが変わり、感情が変わり、生活が変わるということです。李光雨先生がどこで学ばれたかは分かりませんが、古いコア世界観を改善するのではなく、別の新しいコア世界観に取り替えるということです。聖書的に言うなら、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に付けるということです。

ある人は、だれかに言われたときには、「即座にそれに対抗して、その人たちを越える論理を持たないと自分の世界はいつも脆弱で弱くて潰される」というコア世界観を持っています。「相手の言っていることにどれだけ反論できるのか?」「この人は強いのか、弱いのか?」そういう判断基準を自分の中にたくさん作り上げます。この判断基準とか行動原理をいくら変えようと思っても、コア世界観が変わらない限り、その人は変わりません。また、ある人は「自分の世界は脆弱で壊れ易い」というコア世界観を持っているとします。そうすると「目の前にいる人は自分の世界を壊す人なのか?壊さない人なのか?」という判断基準を当然持つでしょう。あいつが、自分に対して、電話やメールなどで、文句を言ってきたとします。そういう状況・環境になりました。その時、行動パターンとして、「あ、この人は自分の世界を壊す人だ」と判断したとすれば、「守らなければ」という行動パターンを起すでしょう。「この人はまだ、自分の世界を壊すインパクトの弱い人である」と思えば、「やらせておこう。いつか反撃しよう」と思います。この人はちょっとでも人の世界をすぐ壊す人であると思えば、行動パターンとしては、フル稼働で防衛反応をしなければなりません。そうするとライフ・スタイルは、関係性が難しくなります。周りも引き込んで、関係性が難しくなります。あるいは、自分の親衛隊に入らないヤツラを攻撃したくなります。そのようにしてライフ・スタイルが束縛された悪循環のパターンになります。それを途中で、「判断基準を変えよう。行動パターンを変えよう」と思っても、コアが変わっていない限り、三日坊主で終ってしまうでしょう。「脆弱だ」というところを変えないといけません。この「脆弱だ」という、従来のコア世界観をコアAだとします。

世界観の革新、つまり思いの革新というのは、コアAをコアBに変える選択をするということです。では、コアBとは何なのでしょうか?コアBとは、「自分の世界は強い。脆弱ではない。根本的に自分の世界は壊れない」というものです。このところが心理療法の弱いところであり、たぶん認知行動療法にはないと思います。彼らは「核信念(コア・ビリーフ)を変えろ」と言いますが、「何を根拠にどう変えろ」というものがありません。しかし、神さまが私たちの世界を最終的に支えておられると信じるとします。もし、見た目で弱そうでも、ぜんぜん壊れないというふうに変えられれば、判断基準が変わってきます。アイツが文句を言ってきました。そうすると、「何か言われた」という同じ状況(状況は同じ)の中で、違う行動パターンが出てきます。その行動パターンが積みあがって、生活様式が違うものになってくるはずです。その人が心の叫びを完了することによって、「従来のコアAではなく、コアBを選ぶんだ」という決断が与えられます。その人が信仰を用いて、コアBを選ぶなら悪循環パターンのギアが反転します。本人もびっくり驚くでしょう。図を見ると分かりますが、コアAの世界観で生きていくとどうでしょうか?このコア世界観は「私は脆弱で壊れやすい」です。その人の考え、つまり評価や判断基準はどうなるでしょうか?「自分の世界を壊す人か壊さない人か」であります。その人から電話やメールで文句を言われたとき、「何とか防御しなければならない」と緊張します。そうすると、うつ的になり、眠れなくなります。もう、悪循環パターンにはまっています。コアAを選んでいるなら、途中でコアBに変えることはできません。途中で越えられない壁があるからです。もし、この人が最初の地点でコアBを選択していたならどうでしょう?コアBの世界観は「自分の世界は強い、脆弱ではない」であります。その人の考え、つまり評価や判断基準はどうなるでしょうか?「何を言われても自分の世界は壊れないから大丈夫だ」であります。その人から電話やメールで文句を言われたとき、「いいんじゃない、最善を尽くしていれば」と聞き流します。そうすると、平安になり、夜もぐっすり眠れます。祝福された新しい生活様式になっています。

これをパソコンで説明するとよく分かります。数年前、ウインドウズXPが使えなくなるので、ウインドウズ7か8にするようにという知らせを受けました。XPでパソコンを使っている人は大事件だったと思います。私はXPから7にすることにしましたが、両者には互換性がなく、新らたにインストールするしかありませんでした。私は7のために新しいハードディスクを買いました。1つはいろいろなデーターが入っている従来のXPです。もう1つは、64ビットで作業が早い7のハードディスクです。従来のXPを立ち上げると、7は使えません。7を立ち上げるとXPは使えません。説明書では64ビットの7だと、XPを中に入れられるということですが、面倒でやめました。とにかく、これをたとえ話にすると、コアAは古いハードディスクです。そして、コアBは新しいハードディスクです。コアAは古いハードディスクを立ち上げると、自分の世界を壊す人か、壊さない人かびくびくしながら生活をしなければなりません。そして、悪循環のパターンから逃れられません。でも、脆弱なコアAではなく、堅牢なコアBに取り替えるならどうでしょう?「何を言われても私の世界は壊れないから、大丈夫だ」と考え、そのように生活するでしょう。

3.新しい生活様式で生きる

李先生のテキストは「新しいライフ・スタイルを身に付ける」と書いてあります。日本語の生活様式でも、ライフ・スタイルでも、どちらでも結構ですが、これが身につくためにはトレーニングが必要です。これをオーバカム・トレーニングと言います。オーバカムという英語は、「克服する」「乗り越える」という意味で、とてもうがった表現です。私たちはコアBで生きるという決断をしても、環境や状況は変わりません。相変わらずあなたの前には、敵対する人や批判する人がいるでしょう。また、不当な使いを受けたり、不条理な状況に置かれるかもしれません。特に、不安や恐れを持っている人は、感情や身体が昔のことを覚えているのです。こっちは、「コアBで新しい世界観で生きているんだ」と確信していても、過呼吸やパニックが襲うかもしれないからです。たとえ、そう時になっても、「私は死ぬことはない、たとえ死んでも神さまが復活させてくださる。アーメン」となります。その結果、困難な状況さえも喜ぶことができます。そして、過呼吸の場合は、「主は私の羊飼い、私には乏しいことがありません」とゆっくり唱えると良のです。つまり、感情や身体に兆候があったとしても、信じないのです。Ⅱコリント418「私たちは見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」。つまり、感情や身体からくる情報よりも、神さまの約束を信じるのです。新しいコア世界観を持っても、ぎこちないはずです。ですから、そこに聖書の考えを入れていく必要があります。さきほどの、新しいハードディスクのたとえと同じで、改めてデーター入れなければなりません。私は古い脆弱なコア世界観を持ったままで、積極的・肯定的信仰を入れて来ました。しかし、心の奥深で「私は弱いので、それはできない」と思っているのですから、しばらくたつと全部なくなってしまいます。たとえセミナーとか聖会に行ったとしても、1週間しかもちませんでした。でも、今は、新しいコア世界観の中にジョエル・オスティーンの積極的・肯定的信仰をたくさん入れています。だんだんそれが機能して、考えや感情、そしてライフ・スタイルまで変わっていきました。

ジョエル・オスティーンの本に「曲げられても戻るしなやかな人であれ」と書いてありました。20089月ハリケーン・アイクがヒューストンを通過した後、かなりの数の樫木の巨木がなぎ倒されました。風速毎秒44メートルの強風の前では、ひとたまりもなかったようです。大きな木も小さな木も、松も樫木も楡(にれ)の木も、皆倒れるのを免れることはできません。ところが、ある種の木はハリケーンの猛威の中でも生き残ることができます。それはどんな木かというと、見かけはあまり強くなさそうなヤシの木です。なぜでしょう?神様はヤシの木を、かなりの程度まで曲がるしなやかさを持ち、強風にあおられても折れないものとして創造されたようです。ヤシの木の柔軟さは特別です。ヤシの木のてっぺんが地面につくくらいに曲げても折れません。また、たとえ強風で木全体が曲がっても、その状態のままで5時間以上は必ず持ちこたえるのだそうです。ですから、ヤシの木は嵐を恐れません。学者によると、嵐のたびごとに根が地面に伸びるそうです。その次に嵐がやってきても、ヤシの木は嵐を恐れません。「また来な、今回も大丈夫だ」とばかり体をたわませます。ヤシの木はとても聖書的な木です。詩篇9212「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。」私たちもヤシの木のようなしなやかさを身に付けたいと思います。これからも困難なことがやってくるでしょう。不当な使いを受けたり、ひどいことを言われるかもしれません。でも、新しいコア世界観を持っている人はこのように考えます。「どんな不幸や逆境が襲ってきても、私の世界は壊れない。神さまが私と共にいて、通り抜けさせてくださるんだ。神さまが私たちの世界を最終的に支えておられる。私はヤシの木のようにしなやかに生きるんだ。アーメン」。ハレルヤ、私たちは心に傷が癒されるだけでなく、新しい世界観を持つべきです。そうすれば、違う考え、違う感情、違う行動パターンが出てきます。その行動パターンが積みあがって、新しいライフ・スタイルが生み出されて来ます。

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2015年9月11日 (金)

コア世界観と心の叫び 詩篇18:1-6 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.13

 

 前回は過剰反応から、湧き上がってくる考えやイメージを捕えるということを学びました。きょうは、私たちの考えの核となるものを定義して、心の叫びを完了するということを学びたいと思います。今回も、李光雨師の『新しいライフ・ステージ』を借用したいと思います。李先生は時々、当教会の礼拝のブログをご覧になっておられるようです。ひょっとしたら先生からクレームを付けられるかもしれません。私は先生によって癒しと解放を受けましたので、その御恩は一生忘れません。先生からミニストリーを受けたい方は、青山でやっていますので直接お申込みください。PRを兼ねたメッセージになっていますので、きっと許して下さると思います。



1.コア世界観と心の叫び



 考えの中核を占めている部分を「コア世界観」と呼ぶことにします。丸屋真也先生は、核信念、core beliefと呼んでいます。日常でも、「信念」という言葉を使うときがあるでしょう。人の心の中には、確固たる信念、揺るぎなき不動の信念みたいなものがあるのではないでしょうか?心理学者が「核信念」と言うとき、潜在意識の中に隠れているものを指すのではないかと思います。心理学者は「その人を突き動かしているものというのは、無意識の中にある」と言います。李先生はこのことを「コア世界観」と呼んでいますので、こちらの方を採用したいと思います。図を見るとわかりますが、私たちが過剰反応しているとき、湧き上がってくる考えがあります。それを認知もしくは世界観と呼んでいます。過剰反応ダイヤリーをつけていると、共通したテーマが見えてくるはずです。たとえば、「人から評価されないと自分の世界が壊れる」というのは、傷ついたセルフイメージがあるということです。ある人は「自分の力では対抗できないものが、自分の世界を混乱させている」と言うかもしれません。その人は、支配されることへの恐れや怒りがあるかもしれません。しかし、それらの湧き上がってくる考えをさらに、深めていくとコア世界観にたどり着きます。つまり、コア世界観から、考えや認識やイメージが出ているんだということです。さっきの、「人から評価されないと自分の世界が壊れる」というのは、他者評価というものがとても重要なポジションを占めているからです。おそらく、その人のコア世界観は「自分の世界は弱い、脆弱だから他者から評価を受けて世界を強くしなければならない」というものでしょう。李光雨先生は、コア世界観を定義することの天才であります。私も何年もそばにいて、その秘訣を盗もうとしました。しかし、それは職人技というか賜物であり、私には無理だということが分かりました。でも、認知行動療法はその人との共同作業で行われます。その人に「もしかしたら、こういうことでしょうか」と聞いて行くと、その人が最もしっくりくるコア世界観を定義してくれます。だから、私でも大丈夫だと言うことが分かりました。



 コア世界観を見つけ出すために、とても重要な手段は「心の叫び」であります。心の叫びが分かれば、コア世界観が分かります。丸屋真也先生は、これを「セルフトーク」と呼んでいます。丸屋師は「自動思考の中にセルフトーク」があるとおっしゃっています。セルフトークというのは自分自身に語っていることばです。「ああ、どうして私はグズなんだろう。もっと、早めにすべきだった」「あの人は、いつも批判的だ」「いつも、私は損をしている」「誰も、私のことをわかっちゃくれない」「最後に頼れるのは自分だ」。つぶやきみたいですけど、ボソボソと出て来る時はないでしょうか?私は、その人の話を30分くらい聞いていると、「この人の心の叫びはこういうことかな?」分かって来ます。だれでもそうですが、形を変えて、繰り返し出て来るのが心の叫びです。そこには、恐れや怒りの感情も伴います。しかし、難しいのは問題を認めない人、否認をしている人です。おそらく、その人はカウンセリングも受けたくないし、変わりたくもない人です。カウンセリングが万能でないのは、そういうところにあります。「癒されたい、変わりたい」という人であるなら、認知行動療法はすばらしい手法だと思います。マタイ5章に「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです。」と書いてあるのは、そのためです。



 テキストにはこのように書かれています。「心の叫び」というのは、見つけ出すのはそんなに難しいことではありません。なぜかと言うと、同じことを繰り返し言っているからです。言語として同じと言うよりも、メッセージが同じなのです。「自分の世界を壊すな!」「そんな勝手なことをするな!」「お前のせいで、自分の世界がむちゃくちゃになったんだ」などです。だれかが、理不尽に自分の世界を壊した。理不尽に自分勝手に壊していくということです。私自身は「認めてよ!」「それで良いと言ってよ!」と叫んでいる。このチャートで言いたいのは、社会生活、日常生活のいろんな部署との(人間)関係の中で、その人たちに対して過剰反応をするときには、「共通のメッセージを受け取っている」ということです。Aさん、Bさん、Cさん、相手が違っても、彼らからこちらが過剰反応を引き出されるメッセージは同じなのです。また、Kさんのパターンとしては「自分勝手に振舞う人」です。自分勝手に振舞う昔の牧師Aさん、今の牧師Bさんがいます。そういう人たちから「身勝手な自己中心的な振る舞い」メッセージやストロークを受けたときに、「そんな身勝手なことをするな!」という心の叫びがわいてきます。だから、だれかの心の叫びを見極めるのはそんなに難しいことではありません。共通してその人が発しているメッセージを見つけるということが大事です。



 コア世界観から心の叫びが出て来るということです。コア世界観は見えません。しかし、心の叫びはわかります。ですから、「心の叫びがこうなんだ」と分かれば、コア世界観もおのずとわかってくるということです。エリヤハウスでは「根っこをたどる」というテーマで学びました。ですから、私たちのやっていることは発掘調査に似ています。あれも出てきた、これも出て来た。それを分類し、「何が本体なのだろうか?何がこの人にこのような心の叫びをさせているのだろう?」ということを探検していくということです。そして、ゴールは「神さまはこの人にどのような計画を持っているのか?このような負の遺産を神さまはどのような宝物にしようと考えておられるのか?」ということです。過去の出来事を探りますが、それと同時に、神さまはどうして、このような辛い目に会せることを許したのだろうか?神さまは癒しと同時に、どのような逆転勝利を考えておられるのだろうか?このことが、ミニストリーのゴールなのです。この世の心療内科やカウンセリングは社会復帰がゴールです。だけど私たちは「せっかく世界が壊れるような経験をしたのだから、今度は神さまが持っておられるご計画を知って、それに向かって生きるべきではないか?」というところまで行きたいのです。怪我の功名?転んでもただでは起きない、ということでしょうか?



2.心の叫びを明確化する



人の心の叫びを明確にすることはそんなに難しくありません。李光雨師は、私たちが置かれた特定の状況をステージとか舞台と呼んでいます。怨念晴らしをする敵役がいて、怨念晴らしを受ける私がいます。敵役を助ける脇役もいるかもしれません。私はあるステージに引っ張り込まれました。そこには私の世界を壊してくれる敵役がいます。敵役はステージで繰り返し、心の叫びを私にぶっつけてきます。さて、舞台が終わりに近づき、スポットライトが当たります。舞台では最後の決め台詞というのがあります。クライマックスの時に出て来る決め台詞です。敵役が私に決め台詞を言った後、幕がバーッと降りて舞台は終わります。私たちの人生において、決め台詞を吐いた後、私たちのもとを去った人はいないでしょうか?あるいは、自分が吐いて立ち去ったという、逆のケースもあるかもしれません。さて、心の叫びとはステージ、つまり舞台のクライマックスで吐く決め台詞です。李光雨師はこのように教えておられます。セルフイメージの人は、セルフイメージの人の叫びのパターンがあります。不安な人は、不安な人の叫びがあります。人に対して悪口を言う人は、基本的には駄目メッセージがあります。人に駄目を出しています。結局は自分自身が駄目メッセージをどこかで受けている可能性があるのです。不安とか怒りは、自分に駄目を出すような理不尽な力を目の前にすると不安になります。あるいはそういう人に対して怒りを現します。そうすると、成育史の中で、大体、親との関係の中で、セフルイメージをゆがめられるエピソードがあるはずです。そこまで分かった上で話を聞くと、相手の世界が分かり易くなります。心の叫びは大体ワンフレーズ「○○○○○」。心の叫びは世界観とパラレル(並行しています)です。全くイコールではありませんが、コア世界観が心の叫びを生み出し、心の叫びがコア世界観を表現しているのです。



 「心の叫びの明確化チャート」というのがあります。その表を見ますと、実際の当事者という人が、A、B、C、Dと4人もいます。これはどういう意味でしょう?彼らは私たちが日常、触れている人たちです。おそらく家族のだれか、会社のだれか、教会のだれか、地域社会のだれかということになります。それぞれ過剰反応が引き出されるメッセージがあります。しかし、それぞれ相手は違っていても、共通した「心の叫び」があります。なぜなら、あなた自身のコア世界観から出ているからです。テキストには「ある姉妹のケース」が記されています。1つのケースとして理解してください。職場で、周りの人たちは仕事を全然やってくれません。自分だけが損な役割をしています。彼女が中学生ぐらいのとき、お母さんが鬱になって、家のことを全部自分がしなければなりませんでした。下に弟が二人いましたが、何もやりません。自分だけがやります。職場では何もやらない上司がいて、「あなたがやって下さいよ」という人たちが周りに一杯いました。同じことを繰り返していました。心の叫びは何でしょう?「私だけにやらせないでよ!」「私にだけ押し付けないでよ!」「私のやっていることを認めてよ!」「私がどれだけ自分を犠牲にしているか分かってよ!」です。そのベースになっているコア世界観は、たぶん、「自分が犠牲を払わないと世界が壊れる」ということです。自分を差し出さないと(貢がないと)世界が壊れるのです。その人に「責任感があって良い子だ」と言うと本人を追い詰めてしまいます。そういう励ましは解決にはなりません。基本的にコア世界観を変えていく作業のゴールは、「あなたが貢がなくても世界は壊れない」ということです。行動原理としては、「自分がしっかりやらないといけない。自分はもう、一生懸命頑張らなければならない」です。どんな状況の中でも頑張らなければいけないという行動原理があります。行くつく先は、抑うつか、脅迫観念です。脅迫観念は世界(秩序)を壊さないために(守るために)、秩序立てます。それを崩されると世界が壊れるのです。たとえば牧師夫人になったりすると、とってもカチ、カチ、カチとやるタイプです。心の叫びの見方は、共通なメッセージを受けたときに、同じ叫びを叫んでいます。それはコア世界観と表裏一体の関係になっています。コア世界観から心の叫びが生まれてくるのです。心の叫びを分かるとコア世界観が見えてきます。



 このところで何度か、「貢(みつぎ、みつぐ)」ということばが出て来ました。これも、李光雨師のうがった表現かもしれません。貢というのは1つの埋め合わせ・解決・対処行動や考えです。本来、悪循環のパターンに対してコア世界観を変える必要があります。ところがこの人は、自分の世界が壊れないように、自分を差し出すのです。謝ったり、仕えたり、贈り物をして、「これ以上、私をいじめないでね!」と言っているのです。埋め合わせ・解決・対処行動はクリスチャンもしています。奉仕や祈り、悔い改め、神さまご自身もその対象になります。一生懸命奉仕をしている、しかし、それが埋め合わせ・解決・対処行動だったら悲しいですね。私たちは本来、恵みによって救われているはずです。自分の世界が壊れないために、一生懸命やるのは辛いです。とにかく、自分と向き合い、「心の叫び」は、どうなんだと正直になることです。私は不当な扱いを受けて育ってきたので、「ちくしょう、何でだよ!」と叫んでいました。しかし、それは「私の言い分を聞いてほしい。私のことを弁護してもらいたい」でありました。ここ数か月で、22年間分のビデオ、DVDをやっと整理しました。チェックの途中、今から10年前のある週の礼拝説教を聞きました。武道館の宣教大会の分科会で「弟子訓練」の話をしてくれという依頼がありました。「よーし、ついに私が…」と思いました。ところが、土曜日の夕方、私の留守中に家内が事務局から電話を取りました。「他の人にやってもらうことになったので、今回は結構です」ということでした。その時、明日のメッセージができていませんでした。悔しさも手伝って悶々となり夜中の2時になってもできません。結論が書けないのです。おそらく、椅子の前にひざまずいて祈ったのだと思います。「何で、俺じゃだめなんだ。決まっていたのにひどいじゃないか!」。ぐっとくやしさを噛み殺しで、しばらくうずくまっていました。突然、「私もそう思うよ」という声が聞こえました。私は「え?」と驚きました。続いて「お前に、話してもらいたかったよ」と言われました。イエス様の声です!私はそこで大泣きしました。その証を「恥ずかしながら」と、礼拝説教の結論で話していました。私はそのことをすっかり忘れていました。家内に聞いたら、「ああ、そんなことあったわねー」と言いました。まさしく、私は不当な扱いを受けて、「何でだよ!ひどいじゃないか」と叫んだのです。でも、イエス様は私の叫びというか、訴えを聞いてくださっていたんですね。



3.コア世界観を定義する



心の叫びが分かったなら、コア世界観を定義することはとても簡単です。たとえば、人が言うことをなかなか聞いてくれないとします。その時、声を荒げて威嚇するかもしれません。それができないと、関係を遮断してひきこもるかもしれません。その人の世界観は「人はコントロールできない」というものです。そして、心の叫びは「私の言うことを聞いてくれ」であります。この人は世界をコントロールするために自分を犠牲にして頑張っています。ある牧師は、教会では秩序が大切だと言います。いろんな規則があって、規則を守らない場合は戒規まで決められています。おそらくこの牧師は、「私の心は脆弱で、秩序どおりなっていないと世界が壊れる」であります。こういう人はドンキホーテというお店に入れません。品物が本当に無秩序に並べられているからです。保育士や学校の先生も無理かもしれません。大体、子どもたちは言うことを聞きません。「言うことをいかない子どもがいても、私の世界が壊れない」だったら、良いですね。つまり、人をコントロールしたがる人は、逆にちゃんとコントロールできていないと世界が壊れるというコア世界観を持っているからでしょう。



また、ある人は、子どものときいじめられた経験がありました。大人になっても、目の前に攻撃的な人がいると、対処できなくなります。そして、パニック、不安、恐怖が起きて来ます。会社に行けない、電車に乗れないというふうになります。もし、この人がクリスチャンならば、「神さまが自分を守ってくださる」「神さまがいるから乗り越えられる」と考えたり、祈ったりするかもしれません。しかし、それは埋め合わせ対処行動であり、根本的な解決になっていません。その人の考え、コア世界観を変えなければなりません。そうでないとこの人は、人から祈ってもらったり、励ましてもらわなければ生きていけません。牧師も友人も、励まし手となって資源を供給する人になります。では、心の叫びは「私をそんなにいじめないで」であります。では、この人のコア世界観は何でしょう?「私の心は脆弱で、無力で、自己中心的な振る舞いに対抗できない」であります。



私が李先生のケースを聞いていて、一番、多かったコア世界観はこれです。「自己中心的な、身勝手な振る舞いによって私の世界が壊れる」であります。しかも、この人は「自分の心は弱い、脆弱だ」と思っています。生育史の中で、父親もしくは母親か、親しい人から理不尽な扱いをうけました。そのときの理不尽な言葉や行為によって自分のバリヤーが壊れてしまったのです。そのとき怒りや無力感、悲しみを覚えたかもしれません。その人がやがて大きくなって大人になりました。周りの人たちがみんな親切で思いやりがあるかというとそうでもありません。やっぱり、自己中心的で身勝手な人がいるものです。どういうわけか、会社や教会に一人や二人いるものです。その人がここはいやだと思って、別の会社、別の教会に移ってもやっぱり、自分をいじめてくれる人がいます。そのとき、環境のせいにしないで、「もしかしたら私の世界観が問題なのかな?」「私の考え方がゆがんでいるのかな?」と気づくことができたら幸いです。そうしないとその人はいつも、心の中で怒っていたり、あるいはどうしたらこういう人から避けられるか気をもむことになるでしょう。もう、フラストレーションのかたまりになります。そうではなく、「ああ、子どものときと同じ、ステージになっているんだ」と気づくべきです。ただ、相手役が違っただけなのです。でも、共通したテーマがあるはずです。「私の心は脆弱で、身勝手な振る舞いをする人によって世界が壊れる」であります。



では、この人の癒しと解放は何なのでしょうか?別なコア世界観に取り替えれば良いのです。「私の心は強いので、たとい身勝手な振る舞いをする人がいても壊れない」であります。また、ある人はセフルイメージに問題があります。その人のコア世界観は「人から評価されないと私の世界は壊れる」でありました。その人は、自分を修練してもっとうまくやろうと努力していました。でも、落ち込みや、よく鬱、無力感に悩まされていました。健全なコア世界観とは何なのでしょうか?「私には価値があるので、人から評価されなくても私の世界は壊れない」です。この人は、「あなたは神の作品である。あなたは私の目で高価で尊いよ」と言われた神さまの愛と出会った人です。でも、多くのクリスチャンは、神さまの愛に出会ったつもりで生きています。頭では「私は愛される価値がある」と思っていても、コア世界観が変わっていないので、愛される価値の人になろうと必死に頑張っています。今のままでは、愛される価値がないんだと考えているのです。イエス・キリストはあなたが価値があるので、身代わりに十字架で死なれたのです。あるクリスチャンは愛を得るために、もっとがんばらなければならないと思っています。私たちのバリヤーは自分の業績や立場ではありません。神さまの絶対的で無条件の愛こそが、私たちのバリヤーです。主は私たちの心の叫びを聞いてくださいます。詩篇186「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」

 

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2015年9月 4日 (金)

過剰反応と世界観 エペソ5:13-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.9.6

 今週から4回にわたり、李光雨師が教えてくださった『新しいライフ・ステージ』から学びたいと思います。「許可を取っているのか?」と言われるかもしれませんが、先生の名前を出して、借り物であるということを言えば大丈夫だと思います。李先生は当教会に何度もお越しくださいました。また、ゴスペルで救われた方々が軽井沢で集中的に学んだこともあります。私も青山のスクールに2年間通いました。さらには、先生から約1年間、カウンセリングを受けて癒しを受けた者でもあります。丸屋真也先生も同じようなアプローチで「認知行動療法」をなさっておられます。私には勧めの賜物がありますので、これらを分かりやすいメッセージとしてお届けしたいと思います。

 

1.過剰反応ダイヤリー

みなさんは「過剰反応」ということばを聞いたことがあるでしょうか?過剰反応とは、ある特定のステージの中で現われてくる心や体や行動、合理性を欠いた強い反応です。良く「地雷を踏んだとか、踏まれた」と言いますが、怒ってしまう一定の状況があるようです。「あんな言い方をされて落ち込んだ」ということもあるでしょう。たとえば、コーピーの取り方を上司から注意されたとき、自分の存在そのものを否定されたように感じるかもしれません。人によって違いますが、怒り、憤慨、落ち込み、不安、恐れなどの過剰反応によって自分の生活が窮屈になります。年を取るたびに、過剰反応の悪循環が加速して、社会生活を送れない人もいます。まず、自分がどのようなもので束縛されているのか知る必要があります。

自分の悪循環のパターンを知るために「過剰反応ダイヤリー」という表があります。左側に過剰反応をした日時を書きます。さらに、3つの項目について書きます。第一は状況です。過剰反応が起きた時の状況です。パニック発作、抑うつ、怒りの爆発、落ち込み、貢ぎなどが起きた、あるいは起きそうだった時の状況です。何が起こったとか、何を言われたとか、客観的に書きます。第二は感情と身体反応です。怒り、恐れ、悲しみ、抑うつ、無力感などです。100が死ぬ程だとすると、それに比べ、どの程度だったか主観的で構いません。たとえば怒りが80%、不安が50%という風に書きます。身体反応としては、心臓がバクバクした、夜眠れなかったというものです。第三はその時の考えや行動です。難しいのはそのとき、何を考えていたかを捉えることです。感情はすぐ分かりますが、考えを見つけ出すのは大変です。たとえば、不当な扱いを受けた、存在を否定された、拒絶された、プライドを傷つけられたなどです。ダイヤリーを1か月くらいつけていると、何らかの共通点、一定のパターンがあることに気が付くでしょう。

過剰反応として最も捉えやすいのが怒りです。怒りを持っている人の過剰反応の1つはキレるであります。これは怒りの爆発です。火山の下にはマグマがあって、それが火口から噴出します。火山学者は「噴出する火口はこういう場所です。地中はマグマが噴出するようなルートを形成しています」と言います。つまり、噴火している地点がA、B、Cと三箇所あっても、下のマグマはつながっています。たとえばAが会社で、Bが家庭、Cが教会だとします。怒りの爆発も同じで、いろんなところでキレる人がいますが、基本的には1つのメッセージに反応します。場所のバリエーションがあるだけで、過剰反応としての怒りの噴出は大体1つのメッセージだということです。最初にすべきことは、気づきです。自分はどういう状況のときに、過剰反応するかです。そして、そのとき何を考えていたかということを捕まえなければなりません。おそらくそこには、共通したパターンがあると思います。

2.過剰反応の正しい順番

 私たちは感情に注意が行きます。そして、その感情を何とかしようとするかもしれません。「今度から怒らないように」と反省するでしょう。あるいは、「そんなに落ち込まないようにしよう」と気分を変えようとするかもしれません。しかし、その場限りで、ほとんど解決になりません。感情は中立です。現代は、薬によって感情の起伏を安定させようとします。例外的に脳の分泌物が問題の場合もあります。しかし、感情はメーターのように、中立だということを知らなければなりません。たとえば、車の温度計が上がっていた時、メーターの針を下げる人はいません。これは水が足りなくてエンジンがオーバー・ヒートしているのです。メーターは「エンジンが熱いよ」と教えているのです。では、怒りはどうでしょう?なぜ、あなたは怒っているのでしょうか?それは何かをされた時、言われた時、あなたはあることを考えたのです。「理由も聞かないで、一方的に裁かれた」と考えたので怒ったのです。あるいは「あの人は私のことを認めていない」と考えたので落ち込んだのです。つまり順番としては、状況→考え→感情→身体反応や行動です。

 心理学者は、考えのことを、認知と呼んでいます。認知行動療法というものがありますが、これは認知、つまり考え方を変えるということです。アメリカのアーロン・ベックという人が「認知療法」ということを提唱しました。それまでは、交流分析とか精神分析が主流でした。しかし、この認知行動療法は、先生と受ける人の共同作業でなされるものです。いろんなことを聞きながら、本人が「ああ、そういうところがある」と気づかされます。先生はその人の認知の歪みを修正するようにアプローチしていきます。この治療方法は、うつ病やパニック障害にかなりの効果があるようです。しかし、一般の心理療法は神さまや霊の存在を認めていません。考えの中心、コア信念みたいなところまで取り扱うことができるでしょう。しかし、いつどこで認知が壊れたのか、だれがそれを癒してくれるのかということはあまり触れません。もちろん、それで癒される人がいます。しかし、私たちは考え、思いを聖書的に変える必要があります。その根拠となるみことばが、ローマ122です。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」このみことばは、霊的に新たに生まれたクリスチャンに語られているメッセージです。多くのクリスチャンは霊的に生まれても、思い、つまり考えが新たになっていません。ここで言われている「心」は、英語ではmindであって、思いとか考えという意味です。多くのクリスチャンは、霊は新たになっているのに、mindが古いままで生きています。だから、生活が変わりません。いろんなもので縛られ、過剰反応で生きているのです。

もう一度、過剰反応の順番についてお話ししたいと思います。過剰な感情や身体反応はなぜ起きたのでしょう?それは、あなたが何かを考えたからです。しかし、その考えが問題であり、ある一定の状況に関して、歪んでいる、あるいは間違って捉えているということなのです。李光雨先生は「悪循環パターン」と呼んでいます。あなたは同じテーマで、過剰反応を繰り返していることを気づくはずです。その悪循環パターンを動かしているのが、「考え」なのであります。李先生は、フラー神学校でチャールズ・クラフト師から学びました。クラフト師は「考え」の代わりに「世界観」という言葉を用いました。世界観とは「この世界がどのように成り立っているかについて、私たちが(意識的であれ、無意識であれ)抱いている考え方」のことです。たいていは無意識のうちですが、思考のパターン、いろいろな経験をどう解釈するかという基準を身につけています。私たちの世界観は一種のフィルターのようなものです。それは、この世界に色をつけ、明らかにし、分類し、ねじ曲げ、あるものを見えなくするのです。クラフト師は、私たちの世界観は、現実を制御する「コントロール・ボックス」であると言っています。この世界観を認知や考え方と置き換えることも可能です。李光雨師は認知のことを「世界観」と言い、世界観の中心部分を「コア世界観」と呼んでいます。つまり、過剰反応の出所は、コア世界観であるということです。端的に言えば、コア世界観を変えれば、過剰反応から解放されるということです。

3.過剰反応の種類

李光雨師はこれを気づきのためのフレームワークと言います。フレームワークというのは、枠組みとか、カテゴリーという意味です。実は、その人が過剰反応の世界を作り上げたのです。それが、束縛されたライフ・スタイルになっているのです。でも、それがどこで壊れたのか、知らなければなりません。私たちは人間関係を修復させるために、現地点に目が行きがちです。しかし、それは対症療法みたいなもので、根本的な解決になりません。その人が、抱えている歪んだ世界観が原因しているからです。日常生活上の恐怖や挫折体験をBとするならば、もっと過去の「バリヤー崩壊体験A」までさかのぼる必要があります。生育史の中で、最初に世界が壊されたような体験があるものです。それは幼い時のトラウマだったり、挫折体験だったりすることがよくあります。日常生活で、同じような状況で、同じようなことが起こると、過剰に反応してしまうのです。癒しと解放のために、その人がどのようなテーマを持っているのか知る必要があります。それを大まかに3つに分類することができます。実は4つあるのですが、悪霊的な圧迫なので、最初から取り上げません。大まかに3つに分類に分類します。

第一は不安に束縛されたライフ・スタイルです。現代は昔より複雑でストレスが多いので、いろんな不安障害があります。そのため、パニック障害とかで外出できない人もいます。人間はアダムとエバ以来、不安と恐れを抱えて生きています。それを「存在不安」と言っていますが、生まれた時からバリヤーで覆って生きています。「グッドニュース」で学びましたが、それを「いちじく葉のバリヤー」と呼びました。家系、名誉、学歴、容姿、持ち物、お金、体力、頭脳明晰、能力、子ども、地位、財産、信念、職業、結婚などがあります。生まれつきこのバリヤーの強い人もいますが、生まれつきバリヤーの弱い人もいます。このバリヤーがある時、破れてしまって、中から存在不安が顔を出します。それだけでは神経症状にはなりません。しかし、日常の中で、さらなる挫折体験があります。これが重なることによって、今まで隠れていた存在のたまらない不安が表に現れてくるのです。つまり、この人は「不安」というテーマを持っているということです。

第二は怒りに束縛されたライフ・スタイルです。過剰反応として一番捉えやすいのが怒りです。日常生活上のBのところで何か理不尽なことをされたと考えられます。だから、この人は怒っているのです。でも、よく見ると、過去のAのポイントが見えてきます。怒りを持っている人の過剰反応パターンは怒りの爆発と考えられます。火山にはマグマがあって、それが火口から噴出します。私たちは、教会で爆発している場合、教会の中で問題を解決しようとします。しかし、その人は家庭や職場でも爆発しているかもしれません。つまり、入口だけを解決してもダメで、根っこである過去のAのポイントを見なければなりません。その人は生育史の中で、親やだれかから理不尽な扱いを受けて、世界が壊されたのです。だから、日常の中で、同じような状況に置かれたとき、内側に秘めていた怒りが噴き出してくるのです。噴火の後しばらくは、平穏かもしれません。しかし、また怒りのマグマがたまって次の機会を待っているのです。李光雨師は、怒りに束縛されたライフ・スタイルを「怨念晴らしのライフ・スタイル」と呼んでいます。李先生は、怨念晴らしのスペシャリストです。

もう1つ、怒りに束縛されたライフ・スタイルに鬱があります。「怨念晴らし」と鬱は双子の兄弟と言えます。精神医学ではいろんなことを言うかもしれません。脳内の機能障害とかは別として、鬱の束縛された世界から解放される道があると信じます。なぜ、鬱になるのか?李光雨師は、鬱とは、抑圧された「怒り(心の叫び)」が引き起こす「束縛されたライフ・スタイル」であると言っています。基本的には、抑圧された怒りの持って行き方の問題と考えています。第二の怒りのテーマを持った人は、「バカヤロー」と外に吐き出します。そうすると、周りの人が傷つくでしょう。でも、この人はその怒りを外にではなく、内側に向けるのです。抑圧された怒りが自分の中で行き来して、最終的には自分を破壊してしまいます。現代は鬱病の人がたくさんおられます。鬱病は人口の7%、800万人いると言われています。厚生労働省によると、「15人に1人が生涯に1度は鬱病にかかる可能性がある」ということです。不況になると、いやなことがあっても会社に文句が言えません。だから我慢します。抑圧された怒りは、最後には自分に向かいます。

第三は傷ついたセルフイメージに束縛されたライフ・スタイルです。テキストにはこのように書かれています。セフルイメージが傷ついているとは、自分自身が愛せない、自分の価値を認められないということです。自分の価値をとても低く考えていると言っても良いでしょう。だから、聖書の「愛する」ということばを使うならば、「自分自身を愛することができない」のです。「自分自身を愛してはいけない」というイメージがキリスト教会にはびこっているのではないでしょうか。神さまよりも自分を愛することは罪ですが、健全な意味で自分を愛するとは正しいことだと思います。そこから話を進めないと、セルフイメージの問題は解決できません。だから、愛するということを「価値があることと認める」と言い換えて良いと思います。多くの人は、最初は価値がなくて、イエス様によって贖われたのでやっと価値が回復したと言います。そうではなく、イエス・キリストは、私たちに価値があるから、救おうと思って十字架にかかったのです。神さまによって私たちの行ないや持ち物ではなく、存在そのものが受け入れられているのです。神さまは私たちをdoingによって愛するのではなく being よって愛しているのです。このところから話が始まらないと、セフルイメージの話ができません。アーメンです。

何故、その人は傷ついたセルフイメージに束縛されているのでしょうか?成育史の中で、誰か(特に近親者)にひどく拒絶・虐待された体験によって受けた心のダメージ(トラウマ)です。あるいは、生育史の中で、「そのままではだめ!」という存在否定のメッセージを受け続けてきた体験によってです。特に深刻なのは、「裏メッセージ」です。ほぼ間違いなく、世代から世代へと受け継がれます。たとえば「何度、言ったらわかるの?」と言うと、「お前は物分りが悪いね」という裏メッセージになります。「家の子は、みんな優秀だ」と言うと、「優秀でなければ家の子じゃない」という裏メッセージになります。結構、私たちは子どものときから、そのままじゃダメなんだというメッセージを受けてきています。そういう人が大人になると、ちょっとした指摘なのに、無能呼ばわりされたような感じがします。本来、能力と存在価値は別ものなのに、その人は1つになっています。私たちは様々な挫折を体験しますが、セルフイメージが傷ついている人は、立ち直るのがとても困難です。また、なんとかセルフイメージを回復しようとやっきになるところがあります。さまざまな資格を取ったり、業績を上げるパフォーマンス指向もそうです。

おおかまに、3つのカテゴリーをあげましたが、人によってバリエーションが違います。そう単純ではありません。でも、3つの中のどのカテゴリーに入っているか特定することが重要です。次回、学びますが、コア世界観のテーマを1つのことばで言いあらわすことが次のステップにあります。私の場合は、「不当な扱いを受けることによって世界が壊れる」ということです。だれかが、私に不当な扱いをしてくれたら、憤慨して過剰に反応するでしょう。私は3つの中で「怒り」がテーマです。私は不当な扱いを受けて育ちました。「本当はこうなのに」と弁明したかったのですが、その機会も与えられませんでした。親や兄弟、先生や年上の人はむかってもかなわないので、泣き寝入りしていました。テレビで、「必殺仕置き人」など、必殺シリーズがあります。変な時間、再放送されています。ある人がさんざんな目に遭います。しかし、最後に彼らが悪人たちを成敗してくれます。その時、私は心が洗われたような感じがします。「心が洗われた」というのも変ですが、「私の代わりに恨みを晴らしてくれた!」と思うからです。旧約聖書でダビデはサウロから命を狙われました。彼は王様の油注ぎを受けていたのに、13年間も逃亡生活を余儀なくされました。私の言葉で言うと「咎をしてないのに、なんでひどい目にあうんだ」ということです。詩篇を見るとダビデは自分の思いを赤裸々に主に向かって告白しています。詩篇544「神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。」「敵を滅ぼしてください」と、ダビデの祈りはとてもストレートです。でも、もっとすばらしいのが1節です。詩篇54:1「神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。」弁護は、英語の聖書では、vindicateであります。Vindicateには「擁護する。主張・人柄などの正しさを証明する。正当化する。…の嫌疑を晴らす。…に対する権利を主張する。財産の権限を訴訟で取り戻す」という意味があります。このVindicateが私の心にぴったりとはまりました。神さまは心の叫びを聞いて下さいます。そして、ぴったりとした答えを与えて、心の叫びを完了してくださいます。心の叫びが完了すると、次のステップに進むことができます。私は2009年に李先生からカウンセリングを受けて、癒されただけではなく、新しいコア世界観を持つことができました。25歳のとき、キリストを信じて新生したことは最もすばらしい体験でした。しかし、56歳のとき、心が新しく造り変えられた経験をしました。丸屋師の言葉を借りると、「霊は生まれ変わっても、心理的に生まれ変わっていない人がいる」のです。こんなことを言うと異端に思われるかもしれません。キリスト教会は霊的な救いを言いますが、心の問題はあまり取り扱いません。「こうしなさい、ああしなさい」と律法で抑圧するところがあります。しかし、心は内側から叫んでいるのです。心の叫びを聞かなければなりません。

丸屋師はセルフトークとか、自動思考というふうに言います。私たちは無意識のうちに、何かを言い、何かを考えているということです。きょうは「過剰反応」ということを取り上げました。私たちは、ある一定の出来事にさらされたとき、過剰に反応するときがあります。過剰反応をしているとき、湧き上がってくる考えやイメージを捕まえることができます。それは、心の深いところから出て来る「心の叫び」と一致しています。出来事は違っていても、必ずそこには共通したものがあるはずです。どうぞ、現在の過剰反応をさかのぼって、自分の世界観を特定しましょう。エペソ513-14けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

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