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2015年8月30日 (日)

~主の祈り~マタイの福音書 6章9節-15節 亀有教会副牧師 毛利佐保

<マタイの福音書 69-15節>

6:9

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

6:10

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

6:11

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

6:12

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

6:13

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

6:14

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

6:15

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

 

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「主の祈り」は、マタイの福音書とルカの福音書に記されています。

マタイの福音書69-13節では、山上の説教の中で教えてくださっています。

また、ルカの福音書112-4節では、弟子の中のひとりがイエス様に、「主よ。ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」と願ったので、イエス様が「祈る時はこう言いなさい」と教えてくださったことが記されています。

 

亀有教会では、「主の祈り」は祝祷の前に賛美で歌っていますが、多くの教会では賛美ではなく、マタイの福音書69-13節に書かれている「主の祈り」のみことばを読みあげています。

 

 

ご一緒にプロテスタント文語訳で主の祈りをともに祈りましょう。

 

~主の祈り<マタイの福音書69-13節>プロテスタント文語訳

 

天にまします我らの父よ 願わくはみ名をあがめさせたまえ

み国を来たらせたまえ  み心の天に成る如く 地にもなさせたまえ

 

我らの日用の糧を 今日も与えたまえ

我らに罪を犯す者を我らが赦す如く 我らの罪をも赦したまえ

我らを試みに遭わせず 悪より救い出したまえ

 国と力と栄えとは 限りなく汝のものなればなり アーメン 

 

 

 

私はこの「主の祈り」について、こう思っていました。「このお祈りはイエス様が教えてくださったお祈りなんだから、どんなときもこれさえ祈っていれば大丈夫!なんて便利で素晴らしいお祈りなんだろう~~~。」

・・・と単純に考えていたわけですが、この祈りの奥深さに気付くにつれ、この「主の祈り」ほど、私の心を探られ、信仰を試される祈りはないのではないかと思うようになりました。

 

葛藤の末に私が得た答えは、「だからこそ主の祈りを祈るのです。」でした。

なぜ、そのような答えを得たかということを、これからお伝えしていきたいと思います。

 

だからこそ主の祈りを祈るのです。

①父と呼び、御名をあがめることができる感謝のゆえに。

 

マタイ6:9,10

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6:9

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

6:10

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

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私たち人間は、まことの神であり、まことの人となられたイエス様を十字架に架けてしまいました。

神様から遠く離れてしまった私たちは、本来なら主の御名をあがめることなどできない存在です。

しかし、父なる神様と私たち人間との和解のために、仲保者となってくださったイエス様によって、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」と祈ることが許されているのです。

 

旧約聖書の出エジプト記207節 「十戒の第三の戒め」には、

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あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

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と書かれています。

旧約聖書に唯一神の名前として記されているヘブライ語の  hwhy (ヤハウェ)という四文字は、聖四文字と言われています。ユダヤ人たちは、長い間神の名を直接呼ぶことを恐れて、全く違う読み方でこの聖四文字を「アドナイ」と発音していました。ユダヤ教徒は今でも十戒の教えを守っていて、この聖四文字を「アドナイ」と発音します。

 

聖なる御方は聖すぎて、全くきよくない私たちは、聖なる御方の御名を唱えることもできないのです。

しかしイエス様は、私たちに、「天にいます私たちの父よ。」と、聖なる御方を「父」と呼ぶことを許してくださり、「御名があがめられますように。」と褒め称えることを許してくださったのです。

 

そして更にイエス様は、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と祈ることを教えてくださり、天の父なる神様との距離をぐっと縮めてくださっています。

 

私はそのことゆえに、心から主に感謝して、「主の祈り」を祈るのです。

 

だからこそ主の祈りを祈るのです。

②身体と心の飢え渇きを満たしてくださるがゆえに。

 

マタイ6:11

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私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

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文語訳では、「我らの日用の糧を 今日も与えたまえ」ですが、新改訳では、私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」と、「日用の糧」を「日ごとの糧」と訳しています。

 

ギリシャ語では「エピウーシオン」と書かれていますが、それをマルチンルターが「日ごとに」と訳したことから、「日ごと」という訳が定着したようです。

 

しかし、ラテン語聖書の訳者である、ヒエロニムスは、イエス様が用いたアラム語で書かれた福音書、「ナザレ人福音書」には、「マハール」、「明日(あす)」という言葉が使われているというのです。

 

ですから、「明日(あす)」という言葉で訳すと、

「我らの明日(あす)の食物を今日もお与えください。」となるというのです。

 

今日の食物だけではなく、「明日(あす)の食物を今日もお与えください。」とは、どういうことでしょうか。

明日とは、未来に向かう言葉です。「明日(あす)の食物」とは、単に明日食べる食物だけをさすのではなく、「大いなる明日」、「未来への希望」を意味するということではないでしょうか。

 

そう考えると、「日ごとの食物」というのは、肉体を満足させる物質的なパンのことだけではなく、いのちのパンのことも指すということになります。

 

私たちが生きるためには、食べ物のパンも必要ですが、生きるための神様のみことば、生きる希望を見出すいのちのパンも必要です。

 

それは、申命記83節の「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」というみことばが示している通りです。

 

聖書の中には「飢え渇く」という言葉がたくさん出てきます。

 

それは実際に食べるものや飲むものがないというだけの意味ではなく、心の中が飢え渇いてる、たましいが枯渇していることを言います。

 

では心の渇きとは、どんな状態をいうのでしょうか。

例えば、唇がものすごく渇いていたとします。

上唇と下唇がビタ―――っとくっついていたら、どうなりますか?

無理に口を開けると、ひどい場合は、皮が剥がれてしまいます。唇に塗るリップクリームが必要になります。

そんな風に、「飢え渇く」とは、心の中がカラカラに渇いた状態になるという事です。

 

聖書には、その心の飢え渇きを満たしてくださるのは、リップクリームではなく、「主」つまり、「神様」だと書かれています。

 

詩篇107:9

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まことに主はいたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。

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私たちは、私たちの身体と心の飢え渇きを満たしてくださる御方を信頼して、「主の祈り」を祈ります。

この詩篇107:9のみことばのように、「渇いたたましい」が満ち足り、「飢えたたましい」が良いもので満たされることを願って、私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」と祈るのです。

 

だからこそ主の祈りを祈るのです。

③罪を悔い改める機会をくださるがゆえに。

 

次にマタイ6:12 (文語訳)

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我らに罪を犯す者を我らが赦す如く 我らの罪をも赦したまえ

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亀有教会で賛美している「主の祈り」は、アメリカの作曲家、アルバート・ヘイ・マロッテAlbert Hay Malotte 1895-1964) が、1935年ごろに英語の「主の祈り」のみことばに曲をつけたものです。

 

この曲の英語の歌詞を、日本語や韓国語にして歌われたりしていますが、亀有教会で歌っているバージョンは、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」が省かれています。ここの部分を全部入れた日本語バージョンもありますが、日本語の特性上、マロッテの曲にはめ込むと、なんだか不自然な形になってしまっています。

 

ですが、この省かれてしまっている、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」の箇所は、とても大事な箇所なので、みなさんにはぜひ、覚えておいていただきたいのです。

 

文語訳で使われている「罪」という言葉は、新約聖書の原語ギリシャ語では「オフェイレーマ」と書かれていて、当然支払うべきものを支払わない、義務を果たさない、という「負債」とか、「負い目」の意味になるようです。

これは、「罪」に対するユダヤ的な表現です。

 

因みに、新改訳と新共同訳のマタイでは「負いめ」、口語訳では「負債」、英語では”debt(デット)「負債」と訳されています。

 

そしてややこしいのですが、「私たちに罪を犯す者」について、私たちがすでに赦したのか、それともこれから赦すと宣言しているのかというのは、新改訳のマタイ6:12と、ルカ11:4で微妙にニュアンスが違います。

 

いずれにしても、私たちは神様に対して罪を犯し、負債を負っていました。その負債を、イエス様は十字架の贖いによって代価を支払ってくださったのです。その大きな赦しにあずかっておきながら、私たちは、身近な兄弟姉妹の罪を赦すことが、果たしてできているのでしょうか。

 

続く、マタイ6:14,15には、このような厳しいみことばが記されています。

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6:14

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

6:15

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

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本当に厳しいみことばです。

 

自分自身の罪が赦されるには、まず、「人(相手)の罪を赦す」必要があります。

 

なぜなら、人に対して赦せない心を持っていては、その心が邪魔をして、神様が私たちに下さろうとしている恵みと祝福が見えなくなってしまうからです。

 

みなさんの人生の歩みの中にも、「赦せない人」というのは存在しているのではないでしょうか。

 

私にはいます。

私の場合は、子どものころから受け続けた根深いものなので、赦すことは難しかったのですが、私は神様からの良いもので満たされたいし、恵みと祝福を受けたいので、その人を赦しました。

 

ところが困ったことに、相手を赦したつもりでいても、苦しかったことをすっかり記憶から消し去っていたつもりでいても、ある瞬間にフラッシュバックのように思い出してしまって、嫌な気持ちになるときがあるのです。

 

そんな時、「ああ、私は結局あの人のことを赦せていないのかも。ただ自分が傷つかないように、距離を置いて関わらないようにしているだけなのかも。」と思って、とても悲しく空しくなります。

 

聖書には、「赦しなさい」という教えの他に、「敵を愛しなさい。」とか、「迫害する者のために祈りなさい」とか、「あなたがたを憎むものに親切にしなさい」という教えもあります。

 

私は、私にひどいことをした人に対して、愛したり、祈ったり、親切にしたりという、とてもそんな段階にはいません。まず、「赦すこと。」これが出来ていないのです。

 

神様の戒めは、とてもシンプルですが、弱い人間には簡単には実行出来ないようなものばかりです。

このような、簡単には出来ないと思ってしまう不信仰な心に、悪は付け込みます。

 

続く、マタイ6:13

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私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

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「試み」と訳されている箇所は、英語では temptation (誘惑) と記されています。

新共同訳には、6:13 『わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』と書かれています。

 

悪い者に付け込まれそうな弱い人間が誘惑に陥ってしまわないように、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈りなさいと、イエス様が教えてくださいました。

 

イエス様はどの人の心にもあるであろう、「心の闇」についてすべてご存じです。

人を赦すことができない自分、誰にも相談できない悩みを持つ自分、誘惑に陥ってしまう罪深い自分に対する葛藤、憤り、悲しみ、すべてご存知であるからこそ、「主の祈り」を祈るようにと教えてくださったのです。

 

「主の祈り」を祈るごとに、主はその「心の闇」を明らかにされます。そしてそこに聖霊なる神様が働いてくださり、ゆっくりと私たちを光の方へと導いてくださいます。

 

そうです。私たちは、勝利の主イエス様だけを見上げて歩んでいけばよいのです。

 

また「主の祈り」は常に、「私たち」、「我ら」、と自分のことだけではなく、他の兄弟姉妹たちも含めて祈っています。イエス様は、互いに祈り合って支え合うようにと教えてくださったのです。

 

お互いの罪を赦し合い、誘惑に陥らないように、互いに祈り合って行きましょう。

だからこそ主の祈りを祈るのです。

④どんなときも、そばにいてくださるイエス様のゆえに

 

最後の頌栄は、カッコづけになっています。

 

マタイ6:13後半

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〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

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これは、イエス様が語られたみことばではなく、初代教会が付け加えたものだと言われています。

私たちの神様があまりにも素晴らしい御方だから、褒め称えずにはいられなかったからではないでしょうか。

 

私はみなさんに、「主の祈り」をもっと身近な祈りとして、毎日祈ってほしいのです。

なぜなら、この祈りは私たちの弱さを知るイエス様が、直接私たちに教えてくださった、特別なお祈りだからです。

 

そして「主の祈り」を祈るたびに、どんなときもそばにいてくださるイエス様がおられるということを、感じてほしいのです。

 

どんなに苦しく辛い時でも、悔しくて情けなくて、みっともない時でも、空しく、生きる気力すら失いそうなときでも、失敗して無様な姿をさらしても、イエス様は決して私たちを見捨てず、変わらず愛を注いでくださり、そばにいてくださる御方だからです。こんな素晴らしい神様が他に存在するでしょうか。

 

だからこそ「主の祈り」を祈るのです。

 

私たちに大切なひとり子であるイエス様を与えてくださった神様を、

①父と呼び、御名をあがめることができる感謝のゆえに。

 

私たちに、日ごとの糧を与えてくださり、

②身体と心の飢え渇きを満たしてくださるがゆえに。

 

私たちが、互いに赦し合い、

③罪を悔い改める機会をくださるがゆえに

 

私たちを決して見捨てることなく、

④どんなときも、そばにいてくださるイエス様のゆえに

 

「主の祈り」を祈り、主を褒め称えましょう!

 

もう一度、「主の祈り」をともに祈りましょう。

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2015年8月21日 (金)

共同体とその関係 創世記4:4-9 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.8.23

 共同体という言葉はあまり使われていないかもしれません。現代は、コミュニティという言葉の方を良く使うかもしれません。ドイツのある社会学者は、人間社会には2つの共同体があると言いました。1つ目は地縁や血縁、友情で深く結びついた自然発生的な共同体です。2つ目は、利益や機能を第一に追求するために人為的に形成された共同体です。教会はどちらの共同体を目指しているのでしょうか?教会は血縁を超えた、しかも利益を追求しない、神さまが集めた共同体であると言えます。この世にはあまりない共同体であることは確かです。

1.カインの罪

創世記44-9アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

第一の質問です。「カインはなぜ怒ったのでしょう?」主がアベルとそのささげ物とに目を留められたらです。私たちもこの箇所を読むとき、「神さまは偏り見ない方なのにどうしてだろう?」と思います。カインのささげ物は産物の中の1つですが、アベルのささげ物は羊の初子で、それも最上のものと書いてあります。あるいは、カインのささげ物は人間の努力のささげ物であり、アベルのそれは神さまから賜ったささげ物であります。正しい答えは見つかりませんが、カインにはアベルに対するねたみと、主に対する憤りがあったことは事実です。

第二の質問です。「カインは弟アベルに何をしたでしょう?」アベルを野に誘って、襲いかかり、彼を殺しました。最初の殺人は兄弟殺しでした。昔、ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』という映画がありましたが、この聖書が題材になっています。

第三の質問です。「主はカインにアベルの居所を尋ねましたが、彼は何と答えたでしょうか?」「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか」と答えました。

第四の質問です。「カインの答えは、どのようなことを意味しているのでしょうか?」それは、「弟アベルのことなど、私には関係ない」ということです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。サタンは神と人との関係を壊しました。人が神に対して罪を犯したので、その関係が壊れたのです。その次に、サタンは家族の関係を壊しました。神様は私たちが共同体として生きることを意図されましたが、サタンがそこへやって来て、共同体を破壊しました。カインはねたみのゆえに、アベルを殺しました。このところに関係の破壊があります。神様はカインに「お前の弟はどこにいるのか?」と尋ねました。カインは「私は弟の番人なのでしょうか?」と答えました。本来、カインが弟の責任を負うべき人なのです。カインはアベルの面倒を見るべきだったのです。なぜなら、神様は共同体として、責任を負いあう関係を持つものとして造られたからです。私は8人兄弟の7番目で育ちました。兄弟同士みな仲が悪かったです。私の父母はよく「兄弟は他人の始まり」だと言いました。兄弟同士が争い憎み合うと、他人よりも始末が悪くなります。他人だと「まあ、仕方がないか」とその場を去るでしょう。しかし、兄弟だと、血肉の争いと申しましょうか、限度を超えて、憎み合い、争い合うというところがあります。なぜでしょう?色んな理由があるでしょうが、カインの末裔だからかもしれません。私たちは生まれながら、カインのような妬みや憎しみが内側にあります。同時にそれらは、共同体を破壊する罪でもあります。罪が入ってからは、夫婦の関係、そして兄弟の関係も壊れてしまいました。

2.カインとその子孫の生き方

 創世記416-24「それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。さて、レメクはその妻たちに言った。『アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。』」

第一の質問です。「町とエデンの園の違いは何でしょう?」カインは罪を犯した後、「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう」と恐れました。そして、カインは町を立てました。ここで言う町とは城壁のある町のことです。カインは敵から侵入されないように、町のまわりに城壁を張り巡らしたのです。エデンの園には城壁がありませんでした。なぜなら、神さまご自身が城壁となってくれたからです。神さまのもとを離れたカインは自分で自分のことを守るしかないと思ったのです。

第二の質問です。「カインのそれぞれの子孫はどのようになったでしょうか?」ヤバルは家畜を飼う者の先祖、牧畜の先祖になりました。ユバルは立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖、芸術の先祖になりました。トバル・カインは青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋、工業の先祖になりました。すごいですね。現代風に言いますと、カインの子孫は身を立て、名をあげた人たちです。昔、卒業式のとき「仰げば尊し」という歌を歌いました。その歌詞の2番に「身をたて名をあげ、やよはげめよ」とあります。立身出世を歌っているということで、2番を省略して歌わない学校もあったそうです。

第三の質問です。「カインとカインの子孫の存在価値とは何なのでしょう?」互いの関係よりも自分の業績を上げることです。存在そのものよりも、「何ができるか?」ということに価値を置いたということです。私は業績志向で生きてきました。炎天下の現場から帰ってくると、事務の人たちが涼しいクーラーものとで、べらべらしゃべっているのを見て腹を立てたことがあります。仕事人間は関係をあまり重視しない傾向があります。関係人間は、あまり仕事をしない傾向があります。仕事も関係も両方バランスを取れたら良いと思います。特に企業なのでは、存在そのものよりも、「何ができるか?」ということに重荷を置いているのではないでしょうか?

第四の質問です。「カインの子孫、レメクはどのような人になったでしょうか?」レメクはふたりの妻をめとりました。レメクは敵意に満ちた人でありました。彼は「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」と言いました。これはどういうことを意味しているのでしょうか?争いが家庭内におさまらず、民族間に広まって行ったということです。

カインは主の前を去って、城壁の町を築きました。神さまご自身がおられるエデンの園には城壁がありませんでした。城壁は外部から自分を守ってくれますが、同時に外に自由に行くことができません。人間関係には、境界線(バウンダリー)が必要です。でも、城壁のような境界線は問題ではないでしょうか?数年前、松山城を訪れたことがあります。城の上には、鉄砲を打つ小さな窓がありました。また、城の真下に来た敵には石を落とすようになっていました。城壁のような人だったら、あぶなくて近寄ることができません。城壁と比べて、生垣はどうでしょうか。ちらっと向こう側が見えます。ちょっとアバウトな境界線です。主の守りがあるならば、そういう境界線が可能です。また、人間関係を壊すのは業績志向であります。サタンは私たちの存在価値を関係ではなく、業績に置くように仕向けます。ヤバルは家畜を飼うことに、ユバルは音楽家であることに、トバル・カインは鍛冶屋であることに存在価値を置きました。このように、カインとカインの子孫たちの存在価値は、みな業績に基づいていました。コーチングセミナーに来られた、ベン・ウォン師がこのように言われました。「現代の社会も私たちの存在価値は、業績に基づいています。残念なことに、教会もまた、同じことになっています。もし、あなたが金持ちであるなら、教会でもっと尊敬されるでしょう」。私たちの人間関係を壊すのは、何ができるかということで人の価値を決める業績志向です。

3.キリストによる平和

 エペソ213-16「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」

第一の質問です。「異邦人とユダヤ人は何によって近い者とされたのでしょう?」キリストの血によって両者に和解がもたらされました。

第二の質問です。「キリストは両者が1つとなるために、どんなことをされたでしょうか?」「キリストは隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された」とあります。当時、エルサレム神殿には150㎝程の高さの石垣がユダヤ人の庭と異邦人の庭とを隔てて立っていたようです。「そこには、もしこの石垣を超えて中に侵入しようとする異邦人があれば、死刑に処せられる」という警告の札が掲げられていたようです。ユダヤ人たちは、割礼を受けていない異邦人を蔑視していました。 しかし、キリストにあってこの隔ての壁が打ち壊され、ユダヤ人と異邦人が一つの共同体として神様を礼拝するということが可能になりました。

第三の質問です。「両者の関係を壊す、敵意はどうなったでしょうか?」キリストによって敵意が廃棄されました。敵意は十字架によって葬り去られたということです。しかし、これは異邦人とキリストとの関係を越えて、民族間にも、そして私たち人ひとりにも可能になったということです。このことが初代教会によって実現されました。

第四の質問です。「私たちが互いに1つとなれる根拠とは何でしょうか?」和解を与えるために十字架で死なれたキリストを通してです。言い換えるなら、肉や律法から解放されるために、新しく作られることによってです。

和解には順番があります。まず私たちは神さまとの和解が必要です。キリストはそのために十字架で血を流し、神さまとの和解の道を設けてくださいました。その次は、人との和解です。私たちは目には見えませんが、国家や民族の壁、イデオロギーの壁があります。男女間の壁があり、そして一人一人の壁があります。イエス様は大祭司として、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈ってくださいました。パウロは、Ⅱコリント5章で「神の和解を受け入れなさい」と懇願しています。つまり、私たちはキリストを通して神さまと和解したなら、今度は人間同士が和解するように求められています。テキストにはこのように書かれています。「もう、あなたと私の間に、何の壁もなくなりました。それは、あなたと神様との間の壁もなくなったからです。そして、神様があなたを受け入れてくださいました。イエス様の血しおによって、あなたが一度も罪を犯したことのないようにしてくださいました。そして私たちは1つになることができます。だから、私たちはイエス様の血しおが必要なのです。血しおなくして、一致を持つことはできません。神様があなたを赦して、受け入れてくださったことを示すのが教会です。」アーメン。イエス様の血しおとは、十字架の贖いであります。なぜ、教会にこのような十字架が立っているのでしょうか?お互いが十字架によって罪赦された者であり、十字架を通して互いに愛し合うことを教えているのです。

4.神の家族(共同体)

 エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」

第一の質問です。「私たちはどういう存在でしょう?」私たちは、他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族です。

第二の質問です。「家族(共同体)の特徴は何だと思いますか?」家族の特徴とは、存在そのものを受け入れ、愛することです。私たちが隣人を見るとき、「この人も、父なる神さまから造られ、キリストによって贖われた存在なんだ」と見るべきです。ある人たちは「生理的にこの人はダメ」と言うかもしれません。また、ある人は「好みや考えが違い過ぎるからダメ」と言うかもしれません。私たちは肉体や魂がありますので、いきなり霊的なところまで行かないかもしれません。でも、「神さまが私の罪汚れを清め、受け入れてくださった」という贖いの喜びがあったならどうでしょうか?当時の宗教家たちは取税人や遊女と絶対に交わりませんでした。しかし、イエス様だけは別でした。イエス様は彼らの友でした。私たちはイエス様以上に清いのでしょうか?

第三の質問です。「伝道の最善の戦略は何でしょう?」それは、互いに愛しあって1つになることです。ヨハネ1723「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」もし、私たちが互いに愛し合っているなら、世の人たちは「ああ、この人たちはキリストの弟子だな」と知るということです。なぜなら、そういう関係は世の中で発見することができないからです。

第四の質問。「教会は集会さえ守れば良いという集会モードからどのように変わるべきでしょう?」神さまとの関係を第一にしながらも、お互いの関係を大切にするということです。つまりは、互いの徳が高められるように交わるということです。

私が教会に来た頃のことです。礼拝が終わったとき大川牧師が講壇から「お交わりをしてから、お帰りください」と言われました。そのとき、「え?だれと?」とプレッシャーを感じました。その頃は「青年会」というのがあって、姉妹たちから誘われました。もし、男性だったなら、敵意を覚えますが、姉妹たちからだったので「ま、良いか」と思いました。最初は「兄弟姉妹」と言っても、距離を感じましたが、だんだんと親しい関係が持てるようになりました。しかし、境界線の加減が分からなかったので、傷つけたり、傷つけられたりしながら人間関係を学んでいきました。人間関係は学ぶものだとだれが教えてくれたでしょうか?教会はそういうところです。テキストのまとめの部分をお読みいたします。私たちは神の家族です。私たちは家族の一員です。共同体の一員です。だから、私たちは互いに責任を負い合います。だから、新約聖書の教会は共同体で生きるのです。伝道の最善の戦略は、愛のうちに共同体を築くことです。この世の人は愛に飢え渇いています。もし、私たちのうちに愛を見出すことができれば、その人たちは、みんな群に入って来るでしょう。集会さえ守れば良いというレベルから、共同体として生きることを何よりも求めていく必要があります。

 私たちは最初、人間関係をどこで学ぶのでしょうか?生まれ育った家庭で学びます。ところが、家庭において、存在そのものを愛され、受け入れられてきたでしょうか?最初は生まれてきたことが喜ばれたかもしれません。しかし、その直後、排せつの問題や立った、歩いた、しゃべったと、やることが多くなります。学校の勉強もあるでしょうし、入学のための内申書とかが出て来ます。無条件の愛を受ける場である家庭が、条件付きの愛になっています。人間関係において、父母が良い模範を見せてくれれば良いかもしれませんが、そうでない場合があります。兄弟同士ももしかしたらカインとアベルかもしれません。学校へ行けばいじめがあるし、いろんな戦いがあります。気が付いたら、「人間関係ほどめんどうなものはない」と思うのではないでしょうか?会社に入っても仕事は好きでも、人間関係でイヤになる場合が多々あります。学校の成績が良くでも、人間関係でうまくいかない人が大勢います。

 もし、その人が、神さまの愛を知り、キリストの贖いを知って、霊的に生まれ変わったならどうでしょうか?もちろん、教会に来て躓くこともあります。でも、その躓きを乗り越えて、損得なしで、互いに愛し合うことを学ぶのです。そうしますと、人間関係の傷が癒され、神の愛を運ぶ器となるならすばらしいのではないでしょうか?中にはクリスチャンなって、かえって生きづらくなっている人がいます。それは自分が律法主義者やパリサイ人になっているからでしょう。私たちはイエス様の愛を受けつつ、イエス様のように愛することを学ぶべきです。神さまは「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われました。この無条件の愛を受けて満たされるとき、今度は、隣人をもこの愛で愛することができるようになります。人間の愛では限界があります。しかし、神からの愛はそうではありません。人間は関係の生き物です。仕事ができて、物を持っているだけでは幸せではありません。人間関係がうまくいっている時に幸せを覚えることができます。つまり、人間関係をないがしろに生きることはできないということです。イエス様は数ある律法をたった2つにまとめました。それは、神さまを心を尽くし、思いを尽くして愛することです。第二番目は、自分を愛するように隣人を愛することです。この愛からは決して卒業することはできません。私たちは生きている限り、愛の課題に立たなければなりません。愛の課題に立つとは、一人ではなく、共同体の中で生きるということです。三位一体の神は共同体の神であり、そのような像で、私たちを造られたのです。神さまから愛をいただいて、愛の課題に立ち続けたいと思います。

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2015年8月14日 (金)

敵に対する勝利 ルカ11:17-22 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.8.16

 Ⅰヨハネ2章に、教会には子どもたち、若者たち、父たちと3種類の人たちがいると記されています。では、若者たちが乗り越えるべき課題とは何でしょうか?それは、みことばにとどまり、悪い者に打ち勝つことです。若者たちというのはこのテキストの「本当の弟子」にあたります。ですから、当然、一人前のクリスチャンになるためには、敵を知り、敵に対して勝利する必要があるということです。ところが西洋回りのキリスト教は、そういう霊的存在をほとんど認めません。ですから、日本の教会で、悪魔は戦わずして勝利しています。私たちは目から覆いを取り除いていただいて、敵の存在を知って、敵に対する勝利を得たいと思います。

1.サタンの組織

ルカ1117-22を抜粋してお読みいたします。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。…強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」エペソ612「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」

第一の質問です。「サタンの組織とはどういうものですか?」イエス様はサタンには国があると言っています。国とはkingdom、王国であります。サタンの国は、おそらくピラミッド的な組織だと思われます。どういうわけか、この世の組織はピラミッド的な組織になっています。トップダウン的であり、上の人の命令を聞かないと左遷されます。

第二の質問です。「強い人の武装を解除して、分捕り品を分け与えた方はだれですか?」これはたと話のようでありますが、サタンとイエス様のことを語っているのです。強い人とはサタンのことです。そして、持ち物とはサタンに捕らわれている罪人、人間であります。あとで出て来る「もっと強い者」とはイエス様のことであります。イエス様がサタンの武装を解除して、虜である私たちを自由にしてくださるのです。

第三の質問です。「サタンの組織階級を思わせる用語にはどのようなものがありますか?」エペソ人への手紙には「これは悪霊の階級のことではないか」と思われる箇所が1章、3章、そして6章に書いてあります。エペソ6章には、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊」と書いてあります。

 第四の質問です。「私たちの戦いはだれとの戦いではなく、本当はだれとの戦いなのですか?」血肉つまり、肉体をもった人間に対するものではなく、悪しき霊との戦いだということです。もちろん私たちの前には考えや性格の違いからくる争いというものがあります。何でも霊的な戦いと考えてはいけません。でも、その人の背後に悪霊がいて、その人を支配している場合もあります。そういう時は、その人自身と戦うのではなく、背後にいる悪霊を縛り、悪霊を追い出す必要があります。このようなことは、実践してみないと分からない分野です。おそらく、いろんな失敗を重ねながら体得していくものだと思います。時には極端になることもあるでしょう。でも、経験を重ねていくうちに、「ああ、これが中道かな?」と分かるのです。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。主イエスは福音書において、サタンには国があることを示唆しています。サタンは神様のように遍在できないので、力ある組織階級が必要です。彼らはピラミッド型の組織階級をもって、全世界を支配していると考えられます。支配や主権は、国々や州を支配する悪霊の名前と考えられます。権威や力は、ある一定の地域とか県を支配する霊ではないでしょうか。闇の世の主権者は人々の思いを支配する霊です。もろもろの悪霊は、個人個人の罪や心の傷を餌にして取り付く悪霊です。しかし、これは1つの考えであり、絶対的なものではありません。でも、確実に言えることはこのことです。生まれつきの人間はサタンの持ち物でしたが、イエス・キリストが強い人(サタン)の武装を解除して取り戻してくださいました。私たちの戦いの相手は血肉(人間)ではなく、その背後で働いている悪しき霊どもです。ケネス・へーゲンは『真の霊的闘い』という本の中でこのように述べています。「クリスチャンは悪魔と格闘する必要がある」と新約聖書は教えているでしょうか?格闘とは、戦いではなく、奮闘して努力することを意味しています。つまり、確かに私たちには人生で対処すべき悪魔がいます。しかし、「イエス様が私たちのためにサタンを打ち負かしてくださり、私たちをサタンの支配から贖ってくださった」という神のことばの教え全体の文脈の中で、そのみことばを読んでください。私たちが行う「格闘」は、悪魔と戦うことではなく、神のことばへの信仰にしっかりととどまるための「戦い」なのです。アーメンです。

 

2.サタン(悪魔)の策略

Ⅱコリント43-4「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」創世記31「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」

第一の質問です。「サタンは私たちのどこを攻撃するのでしょうか?」私たちの思い(mind)です。悪魔は私たちの思いの中に、汚れた思いや疑いを入れようとやっきになっています。ですから、私たちの思いは戦場と言えるでしょう。

第二の質問です。「サタンの人間に対する目的は何ですか?」不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにすることです。

第三の質問です。「サタンが私たちに疑いを入れるために、最も用いる方法とは何ですか?」それは、神のことばに対する疑いです。彼はエデンの園で、「神は本当に言われたのですか?」とエバに聞きました。サタンは今日も、神のことばに疑いをかけて、人々を迷わせています。

第四の質問です。「あなたは思いにおける戦いに勝利する道を知っていますか?」Ⅱコリント104-5「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ。」ここで言われている要塞は、都市や国々を支配する霊的支配のことではありません。文脈から理解すると「さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」こそが打ち砕くべき要塞なのです。私たちの思いの中に、非聖書的な議論や理論や理屈があるかもしれません。霊的に新生したクリスチャンであっても、全く手つかずの場所、ブラック・ボックスがあるのです。「それとこれとは別だ!」というこの世の理論があります。サタンはその要塞を足場にして私たちを攻撃するのです。もし、自分の中に要塞を発見したなら、ただちにそれを虜にして、主の御名によって打ち壊さなければなりません。そうしないと、いつまでもサタンはあなたをある分野において支配することが可能になるでしょう。

テキストのまとめの部分を引用します。悪魔とその諸勢力の目標は、神に敵対することです。悪魔の抱く野望は、神のみわざを打ち砕き、混沌を生み出すという一事に尽きます。また、最大の野心は人間を神から引き離し、その力の及ぶ限り、人間が神を礼拝し、神に従い、神の栄光を現わす生活を妨げることです。悪魔には限界はありますが火や嵐を起こすことができます。また、悪魔は人間に与えられた最高の賜物、知性(思い)を攻撃します。人間の体そのものにも作用し、病の中には、悪魔(悪霊)からくるものもあります。悪魔は「もし…なら」と神のことば、聖書の主張に疑いを挟ませます。周到な戦略と巧みな罠により、サタンは私たちの思考の中に「要塞」を築こうとします。そのときは、ただちに「すべてのはかりごとをとりこにして、キリストに服従」させるのです。私たちはふだんから思いの中に汚れたものを入れないで、良いもの(神のみことば)を入れるべきです。

3.悪霊が働く場所(足場)

 エペソ426-27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」ヤコブ47「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

このテーマは、「霊的解放」のところですでに学んでいまので復習になります。場所とはギリシャ語で、トポスですが、悪魔が働く場所を指しています。第一の質問です。「以下に悪魔に機会を与えるものがありますが、あなたはどうですか?」

□偶像礼拝、占い、オカルト

□悪しき思い、マインドコントロール

□悪い習慣(盗み、ポルノ、ギャンブル、薬物)

□心の傷(赦さない心、怒り、憎しみ、トラウマ)

□家系の罪、咎

第二の質問です。「悪魔に立ち向かう権威を得るためには、何が必要ですか?」罪があるなら悔い改め、そして神に従うことです。ヤコブ47「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

第三の質問です。「解放を受けるためにはどのような手順が必要ですか?」まず、悪魔の足場になっている罪を悔い改めます。悪霊が離れ去るように自分で祈ります。あるいは祈ってもらうと良いです。昔は、「悪霊を出て行け!」とすぐさま命じました。しかし、なかなか出て行きません。たとえ、出て行ってもまた戻ってきます。なぜでしょう?その人に悪霊が取りつくことのできる罪があるからです。その罪を告白し、悔い改めるとその後は、簡単に離れ去ります。最後に、聖霊に満たされるように祈ります。つまり、イエス様を主人として迎え、心を守ってもらう必要があります。

テキストのまとめの部分を引用します。悪魔は私たちの過去の偶像との契約や罪、心の傷を足場として用い、救いを受けた後でも容赦なく、その人を縛り、自由を制限し、神の栄光のために生きられないように邪魔をします。自分の側に悪魔が居座るための要塞や足場を残したままにしておけば、悪霊どもは私たちとの関わりをそのまま持ち続け、影響力を行使できます。それゆえ、私たちはキリストにある自由を自分のものとするためにも、要塞をつぶし、足場をできる限り取り外す必要があります(『解放のミニストリー』石原良人著)。

4.神の武具

 エペソ613-18「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

今年のはじめ、クリス・バトロン著の『スピリット・ウォーズ』という本が出ました。テキストの解説もありますが、今回は彼の書物を引用して解説に充てたいと思います。

◆真理の帯。この箇所の「真理」という言葉は聖書を意味しているのではわけではありません。多くの人は見せかけのものの背後に隠れ、他人に真実を知られまいとします。彼らは薄っぺらな人柄によって、一部の人たちを騙すことはできるかもしれませんが、激しい戦闘の中では、その薄っぺらな本性が雨露にさらされてしまいます。それゆえパウロは、正直でありなさい。誠実に生きなさい、神と人との前に真実でありなさいと促しているのです。

◆正義(是認)の胸当て。胸当ては兵士の心臓や他の大切な臓器を守りました。心はたましいの座席であり、霊の土台です。キリストを信じたとき、私たちは心臓手術を受けたのです。イエス・キリストこそ、喜んで心臓を提供してくれたドナーです。人は義を生み出すことはできません。ただ、守るだけです。義はクリスチャンの新しい性質の1つですが、贈り物としてもらったものです。悪魔は偽りによって責めているだけです。神の義はすべてのクリスチャンにとって命を守る胸当てなのです。

◆平和の靴。ローマ兵の履物は、現代のスポーツ選手が履くスパイクのように、底の部分にくさび形の金属片が着いていました。このくさびのおかげで、接近戦における安定性が確保されたのです。私はこの金属片を「平和のくさび」と呼んでいます。この平和のくさびは、愛を理解するための接近戦、また愛を土台とした接近戦において役に立ちます。

◆信仰の大盾。ローマの盾は木製の本体を皮で覆ったものでした。皮は防火のために水に浸すことがしばしばありました。敵の放った火矢を消すためです。霊の戦いの真の戦場は、つまるところ信仰です。そして単純にして深遠なポイントは、だれを信仰するかということです。敵の罪責の声を信じるか、目の前の状況を信じるか、善意の友人の言葉を信じるか、神の言うことを信じるかです。

◆救いのかぶと。敵は私たちの確信を揺るがし、巧妙に神との関係を悪化させるためなら、どんなことでも厭いません。しかし、救いのかぶとをかぶっていれば、神の国の水辺のほとりで憩うような気分でいることができます。救いは私たちの努力ではなく、神の働きによるものであることを忘れるなら、霊の戦いの中ですぐ平安を失ってしまいます。救いが自分の努力によって獲得したものだとしたら、救いを保つための闘いも自分次第ということになってしまいます。しかし私たちは、救いの「ために」戦っているのではありません。救いの「ゆえに」戦っているのです。

◆御霊の剣である神のことば。この箇所で「神のことば」と言われている御霊の剣は、聖書のことではありません。「神のことば」にあたるギリシャ語はレーマと言い、神が息を吹きかけたことばという意味に解釈しています。思いや意図を判別するために使う神のことばは、悪霊の攻撃から自分を守るために使うことばとは別のものだと思います。聖霊の語りかけに耳を傾け、聖霊が語ることを預言的に宣言することが、攻撃のための唯一の武器です。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。私たちはイエス・キリストのあがないだけではなく、悪魔にも勝利したことを信じなければなりません。その次に、私たちは罪を悔い改め、主イエスの血しおを受けます。そして、神の武具を身につけ、御霊の剣を用います。主が共におられるから大丈夫と思っても、悪霊は自然には退きません。私たちは信仰によって悪魔に立ち向かい、主イエスの御名によって悪霊を追い出さなければなりません。私たちには主の御名を用いる権威が与えられているのです。御霊によるとりなしの祈りは、誘導ミサイルのように、敵地を破壊する力があります。

 私たちはいろんな祈りをします。神さまに求める祈りやだれかのためにとりなす祈りがあるでしょう。一方、病や悪霊に対して祈るのは、正確には祈りではありません。もちろん、私たちは神さまに「病を癒してください」とか「悪霊から解放してください」と祈ることもあります。でも、ある場合、神さまは「私に向かって祈らないで、自分でやりなさい」とおっしゃるときがあると思います。モーセが紅海の前に立っていたとき、モーセは神さまに叫んで祈ったことでしょう。でも主は、何とおっしゃったでしょうか?「なぜあなたは私に向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」(出エジプト1416)。主はモーセに「私に願うのではなく、手を海の上に伸ばして、海に命令せよ」とおっしゃったのです。それは悪霊や病気に対しても同じです。イエス様は一度も、悪霊や病気のことを父にお願いしたことはありません。イエス様は直接、ことばを発して命じたのです。そうしたらそうなったのです。ラザロのよみがえりのときもそうでした。イエス様は「父よ。あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを感謝します」と言われました。その後、「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。そうしたら、ラザロが墓の穴から出てきたのです。おそらく、私たちはイエス様と同じ権威はないと思います。しかし、私たちは救われて神の子どもになりました。その後、イエス様は「私の名前を使って同じことをしなさい」と権威をくださったのです。

マタイ2818-16「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ」とおっしゃいました。マルコ16章でも「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語る」と約束されました。つまり私たちには「イエスの御名の権威」が与えられているのです。水戸黄門では「この紋所が目に入らぬか!」と言います。私たち自身に権威や力があるのではありません。私たちのきよさや正しさでもありません。イエスの御名の権威こそが重要なのです。5歳の子どもでも御名の権威を用いることができます。昔、夜中、金縛りにあったとき、イエス様ではなく不覚にも「ママさーん」と家内に助けを呼びました。つまり、潜在意識までイエス様の御名の権威が浸透していないことがバレたのです。ペテロは「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と警告しています。だからこそ、私たちは霊的に目を覚まし、神の武具で身を固め、主イエス様にいつもより頼みましょう。

 

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2015年8月 7日 (金)

御霊の賜物 ローマ12:4-8 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.8.9

 私たちには生まれつきの才能や能力があります。また、ピアノとか習字など、努力して身に付けた能力もあるでしょう。しかし、御霊の賜物はそれらと違って、私たちが新生したとき与えられる神さまの能力です。それをギリシャ語ではカリスマと言います。カリスマはこの世では別な意味で用いられていますが、本来は聖書的なものです。キリスト教会でも御霊の賜物に対して誤解があって、何か危険なもののように思われています。そうではなく、キリストのからだなる教会において、その人が神さまの働きができるように、聖霊が一人ひとりに与えて下さる能力です。

 

1.個人に与えられる「資質の賜物」とは?

 

ローマ124-8「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」パウロが言う「からだ」とは、教会のことです。現在、教会のかしらであるイエス様は、からだである教会を通して働きたいと願っておられます。第一の質問です。「からだの多くの器官は、何のことをたとえているのでしょう?」それは、各自に与えられている御霊の賜物のことをたとえています。

 

第二の質問です。では、「ローマ12章にはどのような御霊の賜物が記されているでしょう?」 預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善があります。合計、7つ記されています。これらを資質の賜物と呼んでいます。これらの中で、自分が喜んで用いたいものがあります。だれでも7つの中のどれか1つ突出しているものがあるはずです。

 

第三の質問です。「あなたが肉体的に生まれたときに与えられた性格とはどのようなものですか?」創世記にエサウとヤコブの双子のことが記されています。エサウは巧みな猟師で野の人でしたが、ヤコブは穏やかな人で天幕に住んでいました。二人は生まれたときから性格が違っていました。私たちはイエス様を信じたとき、霊的に新たに生まれました。そのとき、聖霊は私たち一人ひとりに霊的な賜物を与えられたと信じます。

 

第四の質問。「あなたが霊的に生まれたときに与えられた資質の賜物はこの中のどれだと思いますか?」急に言われても何のことなのか分からないと思います。ここでは簡単な説明しかできません。預言は、旧約聖書の預言者のような性格の持ち主です。この人はものごとを善か悪、正しいか正しくないか分けたがる傾向があります。主のからだの目と言えるでしょう。聖書ではバプテスマのヨハネやペテロがそうです。この人は罪と罪人を区別せずに、すぐにさばいてしまう傾向があります。ですから、愛をもって真理を語る必要があります。奉仕は、目に見える兄弟の必要に非常によく気がつき、率先してそれを行ないたいと思う人です。主のからだの手です。この人は、お掃除とか食事当番、教会の事務などもよくこなします。でも、マルタのように奉仕にとらわれるあまりに、真の意味を見失うことがあります。教えは、真理を探究し、伝えることを好む人です。主のからだの頭脳です。聖書を深く研究し、それを理論立てて教えることができます。しかし、この人は、学問だけにならないように、聖霊の満たしのために祈る必要があります

勧めは、他の人が勝利の生活を送ることができるように、勧めることを好む人です。クリスチャンの霊的成長を助けたいという強い願いがあります。主のからだの口です。注意する点は、熱心さのあまり、会話に割って入ろうとするので、他の人の不満の原因になります。自分のアドバイスを実行してくれない人には興味が湧きません。分け与える人は、他の人の益になるようなお金持ち物を惜しみなく与える人です。主のからだの腕です。什一献金を強く確信しており、その他の献金も惜しみません。ただし、人から報いを望むと失望します。栄光のためにささげるなら、神様がさらに満たして下さいます。指導は、組織だて、導き、指導することを好む人です。主のからだの肩(聖書では権威を表わす)ですこの賜物は「監督する人」とも言い、人々を組織し、長期的な目標に向かって仕事をする人です。注意する点は、忠実に仕える人をえこひいきしてしまいます。そして、自分が指導者のときは良くやりますが、自分より上の指導者に認められない場合はやる気をなくしてしまいます。慈善は必要な人に愛、あわれみ、思いやりを示す人です。心のメガネが愛であり、傷ついている人や弱い人や小さな人に関心があります。主のからだの心臓です。人の苦労や痛みがわかり、また人の痛みをいやすことができます。注意する点は、荷を負い過ぎたり、同情に流されやすい傾向があります。

 

今、御霊の賜物である資質の賜物を7つあげました。資質の賜物の特徴は、私たちの生まれつきの性格と良く似ています。その理由は、その賜物は努力しなくても、自然に出て来るからです。また、その賜物を用いるとあまり疲れないばかりか、いつまでも用いたいと思います。カリスマというギリシャ語は、カリスという喜びから来ています。だから、この賜物は私たちに聖霊によって働く意欲と喜びと恵みを与えるものです。もちろん、私たちの日常の生活において、自分の賜物でないものをしなければならない事もあります。奉仕の賜物がなくても、料理や洗濯もしなくてはなりません。慈善の賜物がなくても、病気の人の気持ちを理解しなければならないでしょう。聖霊はキリストのからだなる教会に7種類の資質の賜物を与えました。それは、互いに協力し合うためです。聖書には賜物の違う者同士が協力しあっているのを見ることができます。使徒の働きの最初を見ると、ペテロとヨハネはコンビであることがわかります。ペテロは預言の賜物でしたから、人の罪をさばく人でした。しかし、ヨハネは慈愛の賜物であり、人々の罪を理解し、それを覆う人でした。資質の賜物は、霊的な性格みたいなものです。賜物の特徴は、それを用いていると楽しい、疲れない、いつまでもそれをやっていたいということです。もちろん私たちは日常の生活や使命もありますので、賜物でなくてもやらなければならないことがあります。自分の賜物を発見し、神さまのご栄光のために喜んで仕えたいと思います。

 

2.御霊によって与えられる「力の賜物」とは?

 

 Ⅰコリント127-10「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」資質の賜物が性格的なものであるならば、力(現れ)の賜物はミニストリーをするための賜物です。建物で言うならば、資質の賜物が一階で、力の賜物は二階です。第一の質問です。「力(現れ)の賜物はひとりに集中するのでしょうか?」ひとりに集中しません。聖霊が時と場合によって、用いる人を主権的に選ぶようであります。ですから、その人が「私を用いてください」という信仰と備えができていないとダメです。「私はそんなものは信じないし、用いられたいとも思いません」という人には、決して与えられません。西洋まわりのキリスト教は、合理主義の影響を受けているので、霊の賜物には懐疑的で否定的です。聖霊様は今も「どの人に私の賜物を使ってもらおうか?」と神の人をさがしておられます。

 

第二の質問です。「力(現れ)の賜物はだれが与えるのですか?また、与えられている目的は何ですか?」聖霊様ご自身です。その目的はみなの益となるためです。Ⅰコリント1211「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」ビリー・グラハムは『聖霊』という本の中でこのように教えています。「神が与えてくださったと思われるその賜物を、謙虚に感謝して受けなさい。そうして最大限にその賜物を用いなさい。あるがままの自分の姿を認めて、持っている賜物を用いるべきである。賜物によっては、それなりの困難や危険の伴った重要な地位に召されるかもしれない。しかしまた、目立たぬ領域で奉仕するかもしれない。神は教会の一般の信者を素通りして、霊的エリートたちを召して教会の働きをさせようとはなさらない。むしろ、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられている。」

 

第三の質問です。「力(現れ)の賜物にはどのようなものがありますか?」Ⅰコリント12章にはざっと9つの賜物が挙げられています。知恵のことばとは、聖霊によって与えられる超自然的な知恵です。旧約聖書のダニエルやソロモンがその人でした。イエス様は「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか?」と問われたとき、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と答えました。これは神からの知恵です。では、知識のことばとは何でしょう?聖霊様が特定のことに関して、ずばり教えてくれるものです。エリシャは遠くから、ゲハジがナアマン将軍から銀と晴れ着をもらって家の中にしまい込んだのを知っていました。イエス様はサマリヤの女が夫を5人換えて、現在6人目と同棲していることを言い当てました。信仰とは何でしょうか?クリスチャンであるならだれでも信仰が与えられています。しかし、信仰の賜物は普通の人が信じられないようなことを信じることができます。神さまはその人の信仰を用いて、偉大なことをなされます。パウロは「山を動かすことのできる完全な信仰」と言いました。エリヤはこの信仰によって3年半雨をとどめ、その後、祈ったら雨を降らすことができました。いやしの賜物は、病気を癒す賜物です。主イエスはご自身の生涯の三分の一を病人や悪霊にとりつかれている人々をあわれみ、癒されることにお使いになられました。ある人たちは「医療が発達した今日には、癒しの賜物は不要だ」と言います。でも、皮肉なことに病院は病人であふれ、医療費は国家予算の約10分の1近くまでなっています。多くの教会はいやしのためにとりなしの祈りはしますが、具体的に手を置いて癒しをしないのはとても残念です。

 

奇跡を行なう力は旧約聖書では、モーセによる紅海徒渉、ヨシュアによるヨルダン川徒渉が有名です。イエス様は嵐のガリラヤ湖をひとことばで静めました。5つのパンと2ひきの魚で5000人の人たちを養われました。世界各地リバイバルが起きるところには、奇跡も伴います。盲人の目が開かれ、足のきかない人が癒され、歯が新しくはえるということもあります。預言は何でしょう?将来のことや隠されていることを言い当てます。新約聖書ではアガボやピリポの娘たちが預言をしています。ある人たちは「預言は聖書が完成した今は存在しない」と言いますが、それは大きな間違いです。もちろん、預言は旧約聖書の預言者ほど完璧ではありませんが、神のみこころを示してくれる大切な賜物です。パウロは「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」(Ⅰコリント141)と言いました。霊を見分ける力とは何でしょう?特定の言葉や行為、また環境の背後に働いている霊を見分ける力です。つまり、その動機や言葉、行いが何によって成されているか、またその出来事や環境の背後に、どんな霊が働いているかを見分ける力です。世の終わりには悪魔の力によって奇跡を行なったり、預言する者が現れます。偽預言者から教会を守るためにも、この賜物は重要です。異言とは、聖霊の促しにより、まったく習ったことのない発音で、自発的に話す言葉や賛美です。このとき話すのは本人自身ですが、自分の意識はまったく関与せず、御霊によって促されて発せられます。本人も何を言っているかわかりません。これは、神さまと直接交わることのできる賜物です。解き明かしのできる異言は、預言のように神さまのみこころを会衆に知らせてくれます。最後は異言を解き明かす力です。これは公に異言が語られた場合、「この意味は○○です」と解釈してくれます。これは通訳ではないので、異言の長さとは関係ありません。異言を解き明かすことによって、キリストの教会の徳を高めることができます。

 

第四の質問です。実際に体験した力(現れ)の賜物があるならば、お互いに分かち合ってみましょう。こういう分かち合いは小グループでないとできません。実際、これらの賜物も公で行うよりは小グループから始めるべきです。こういう礼拝のような公の集会で「主はこう言われます」などと預言されると困ります。また、預言者が教会に突然やって来て、「皆さんは、こうすべきですよ」と預言されてもすぐ従うべきではありません。なぜなら、牧師が教会のリーダーであり、秩序を保つように任されているからです。また、預言は複数の吟味が必要であり、何でもかんでも聞いてはいけません。自称預言者の預言を聞いて、分裂した教会やカルトになった教会があるからです。御霊の賜物は刃物のようなものであり、使い方によってはとても危険です。「刃物は一切使ってはならない」と言われたなら、台所の包丁も使えなくなります。正しく使えば良いのですが、そこには修練がどうしても必要です。また、目立った御霊の賜物を持つと、高慢になり悪魔の罠にはまってしまいます。ですから、そういう人こそへりくだって、牧師の権威に従うことが重要です。牧師自身も、自分にない賜物を持っている人をねたんだりしてはいけません。教会はキリストのからだなのですから、いろんな器官であるいろんな賜物が現われて当然だと思わなければなりません。もし、牧師や役員たちが「そんなのいらない」と言って、御霊を消すならば、御霊は他の教会に移って力あるわざをなされることでしょう。日本にはそのような教会がたくさんあります。そこには聖書のみことばがあり、秩序と聖さがあるかもしれません。

しかし、聖霊の力や現れがないとよどんだ教会になります。Ⅰテサロニケ15「福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信によったからです」コリント24「私のことばと宣教は、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現われでした」と書いてあります。ですから私たちは宣教のためには、聖書のことばだけではなく、御霊による賜物が必要なのです。私たちは偏見や無知から解放され、御霊の賜物を正しく用いる練達した働き人になりたいと思います。

 

3.教会に与えられる「職務の賜物」とは?

 

 Ⅰコリント1228-30「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。」

 

第一の質問です。「だれが教会の中に、専門的に御霊の賜物を行使する職務の賜物を与えるのでしょう?」神さまが教会の中から任命します。そして、教会がそれを承認するという形です。でも、最初からそれがわかるわけではありません。それがひんぱんに現れ、教会の徳を高めているなら、「ああ、この人は神さまからこのために召されているんだなー」と客観的に分かります。イエス様は「木は実によって知られる」と言われました。                       

 

第二の質問です。「教会に与えられた五職は何ですか?エペソ411を参考にしながらお答えください。」使徒、預言者、伝道者、牧師、教師があります。きょうは時間がありませんので、1つ1つ説明しません。テキストに記されていますのでご覧ください。

 

第三の質問です。「五職の他にどのような職務の賜物があるでしょうか?」奇蹟を行う者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者があります。彼らはまるで専門家みたいな人たちです。おそらく、聖霊様が「この賜物に忠実である」と認めた人たちなのでしょう。

 

第四の質問です。「神の家を建てるにあたって、五職はそれぞれどのような役割を果たすでしょうか?」生ける石であるクリスチャンを建て上げるためにあります。これは、『本当の弟子』というテキストで学びました。

 

4.与えられた御霊の賜物の管理

 

Ⅱテモテ16,14「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。・・・そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」

 

第一の質問です。「テモテはどのようにして、パウロから御霊の賜物をいただいたのでしょう?」 按手、頭に手を置いて祈ってもらいました。エペソでは、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました(参考:使徒196)。神の人から手を置いて祈ってもらうと聖霊の賜物が開花することが良くあります。

 

第二の質問です。「テモテがいただいていた賜物は、どうなっていたのでしょう?」弱っていました。消えかかっていました。賜物は用いないと弱ることがあるのです。

 

第三の質問です。「神さまから与えられた賜物に対して、どのようであることが最も大切ですか?」ゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守り、神さまのために忠実に用いるということです。

 

第四の質問です。「あなたが神さまから正しく管理しなさいと命じられている御霊の賜物は何ですか?」もし、自分で分からなければ、親しい人や自分のメンターに聞いたら分かります。

 

マタイ25章にはタラントのたとえが記されています。タラントは重さの単位ですが、賜物というふうにも訳されます。私たちは他の人と比べる必要はありません。自分に与えられた賜物とその量にしたがって忠実に用いれば良いのです。1タラントの人は地の中に隠したので、不忠実な者として大変、叱られました。そればかりか、持っている人にそのタラントが与えられました。主人は何と言ったでしょうか?マタイ2529「だれでも、持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」これは、御国の完成時の時だけではなく、現在も働く原則です。私たちは神さまから与えられている賜物を見つけ出しましょう。見つけ出したら、それを忠実に用いましょう。時には冒険も必要です。恥をかくこともあるでしょう。でも、神さまは「忠実な者」と認めてくださり、あなたにたくさんの物を任せてくださるでしょう。「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人と喜びをともに喜んでくれ」と言われたいと思います。

 

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