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2015年7月31日 (金)

肉ではなく御霊によって ローマ8:1-4 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.8.2

 イエス様を信じると霊的に新しく生まれ変わります。「ハレルヤ!私は救われました」という喜びもつかの間です。自分の中にこれまで経験しなかった争いが起こるでしょう。なぜなら、新しく生まれ変わった霊を受け入れない、古い性質があなたの心の中にあるからです。それが、あなたの霊に対して戦いを挑むのです。新参者を受け入れない自我、古い性質があります。聖書ではこれを「肉」と呼んでいます。肉とは生まれつきの性質、能力、考え方です。この世においては、肉は歓迎され、あるときは美化されるでしょう。しかし、神の御前では忌み嫌われ、やっかいな存在であります。なぜなら、肉は神を頼らないし、神に逆らうものだからです。クリスチャンになったならば、肉ではなく御霊によって歩むことを始めなければなりません。

 

1.御霊の法則

ローマ81-4「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理(ノモス)が、罪と死の原理(ノモス)から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」第一の質問です。「私たちの肉に宿っている罪と死の原理から解放してくれる別の原理とは何ですか?」それは、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理です。パウロは急に「原理」ということばを使っているように思えます。しかし、このことばはローマ7章にあった「律法」と同じことばです。神の律法とは、神の原理、あるいは御霊の原理です。反対に、悪の律法とは、心の原理、あるいは肉の原理です。英語ではすべて、lawと訳されています。lawは、法律、律法、規則ですが、その他に法則、原理という意味もあります。日本語の聖書は、文脈からあるときは「律法」、あるときは「原理」、あるときは、「法則」と訳しています。どうして「律法」に統一しなかったのか、むっとしますが仕方がありません。パウロは7章で悪と肉の律法で悩みまくっていましたが、8章で御霊の律法を発見して歓喜しています。

第二の質問です。「肉が原因で、律法にできなかったことを、神さまはどのように成し遂げてくださったのですか?」神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されました。ここは、とても解釈の難しい箇所です。イエス様は肉体をもってこの地上にこられました。イエス様ご自身は、神さまですから、自分の力や自分の考えでできたはずです。しかし、どんな時でも父なる神さまの力と父なる神さまの考えで生きました。イエス様だけが、肉体を持っていた人間であったのに罪を犯さず、律法に従い通しました。そして、律法を全うした罪のないお方が、私たちのために死にました。つまり、イエス様の従順と身代わりの死が、私たちに律法から解放される土台をつくったのであります。

第三の質問、「『肉に従って歩む(生きる)』とはどういう意味でしょう?」肉が訴える欲求を満たすために生きることです。一見、肉は醜くて悪そうですが、そうではありません。ある肉はとても美しくて魅力があります。生まれつきの親切心や愛、すばらしい能力、知恵、考えが肉であるとだれが信じるでしょうか?言い換えるなら、肉とは神さまに頼らない、神さまに源を置かないアダムから来た一切のものです。もし、肉に従って、肉に頼って歩むならどのようになるのでしょうか?ガラテヤ5章に「肉の働き」という名前で記されています。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういったものが生じてくるのです。はじめ外見的に美しく見えるかもしれません。しかし、その結果はどうでしょう?腐敗したアダムの匂いがするのです。

第四の質問です。「『御霊に従って歩む(生きる)』」とはどういう意味でしょう?」それは、どんなときでも、聖霊を歓迎し、聖霊を認め、聖霊に従うことです。ウォッチマンニ―の本から引用します。もし、私たちが自分の意思の力や努力でクリスチャン生活をしようとするなら、最後には罪と死の法則が勝利を得るでしょう。しかし、私たちが自分の意思を追放して、主により頼むなら、別の法則、すなわちいのちの御霊の法則の中に落ちるのです。引力の法則が自然の法則であるように、いのちの法則も自然の法則であるのです。鳥が落ちないのは、引力の法則に勝たせるいのちの法則を持っているからです。空を飛ぶ鳥がこのように言っています。「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則についても知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことが命の法則であるからでーす。」肉はアダムとつながっており、御霊はキリストとつながっています。肉にあって生きるとは、アダムにある自分自身の力によって何かをすることです。それは私がアダムから受け継いだ生命の古い源から力を得て、罪を犯すために備えられたものを、経験面において楽しむことです。一方、キリストにある自己について楽しむためには、私が御霊にあって歩むということが何であるかを学ばなければなりません。パウロはこのことを発見したので、歓喜しているのです。

2.肉と御霊の戦い

 ローマ85-8「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」ガラテヤ517-18「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

第一の質問です。「『肉の思い』にはどのような性質がありますか?」肉の思いは神に対して反抗します。神の律法に服従しません。いや服従できないのです。最終的には死をもたらします。改めて確認させていただきます。肉と肉体は同じではありません。私たちの肉体そのものは悪ではありません。パウロが「肉」と呼ぶとき、それはアダム以来の生まれつきの性質を指します。クリスチャンは霊的には生まれ変わりましたが、罪の性質が肉体と魂に宿っています。これを捨てなければならないのですが、どうしても慣れ親しんだ方法で生きてしまいます。                    

第二の質問。「なぜ、肉にある者は神を喜ばせることができないのでしょう?」神さまに服従せずに反抗し、神さまではなく自分の肉を喜ばせようとするからです。あるところにとても真面目なクリスチャンがいました。ある時、神さまのためにアップルパイを一生懸命作って、これを献上しました。神さまは何と言ったでしょう。「悪いねー。私はアップルパイが嫌いなんだよ。」これはたとえ話ですから怒らないでください。私たちが「神さまのためです」と一生懸命、肉で行ったとします。人間的にも外見的にもすばらしい出来栄えかもしれません。でも、神さまは、必ずしも喜ばないということです。

第三の質問です。「あなた自身の中に、肉の願いと御霊が戦っているという経験はありますか?」これはみなさんが、考えることです。「クリスチャンになったら悩みがなくなるか」というとそうではありません。どうしても克服しなければならない新たな対戦が待ち受けています。洗礼を受けてクリスチャンになっても、1,2年で去って行く人が大勢います。なぜでしょう?御霊ではなくて、肉を勝たせてしまうからです。肉の願いはこう言うでしょう。「神さまは何もしてくれない。教会も何もしてくれない。最後に頼れるのはやっぱり自分自身だ。私自身がなくなったらどうするんだ。私は私だ、私が人生の王様なんだ。私の力と私の考えで生きるしかないんだ。神さまだとか信仰だとか夢を見ていたんだ。現実を見ろ!人々は神さまなしでも立派に生きているじゃないか。やっぱり、エジプトに帰ろう。エジプトでの生活が良かったんだ。」これが肉の願いです。このため、イスラエルの民のほとんどが、約束の地に入らないで、荒野で死んでしまいました。

第四の質問。「どうすれば、肉の願い(思い)に勝利し、結果的に律法から解放されるのですか?」 御霊によって導かれることです。自分の意志やがんばりに頼らないで、御霊ご自身に働いていただくことです。日本の文化は、聖書が言う「御霊によって歩む」のと、真っ向から反対するものです。親も先生も子どもたちに「がんばれ、がんばれ」と励まします。もちろん、良い意味の「がんばれ」もあるでしょう?でも、根底には「自分の力と努力でがんばるように」という意味がこめられています。そこには、創造主なる神さま、救い主なるイエス様、助け手なる聖霊様がまったく参与していません。あるクリスチャンは、神さまがあてにならないので、自分の力、自分の考えでがんばっているかもしれません。

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。クリスチャンになるまではこのような戦いはなかったでしょう。私たちの心が御霊によって生まれ変わったために、新しい御霊の思いが入ってきました。だから、アダムの影響を受けている肉の思いとキリストにある御霊の思いとが、合い争うのです。ローマ88「肉にある者が神を喜ばせることができません」と書いてあります。言い換えるなら、肉につける私たちは神さまのために何もしなくても良いのです。私たちは律法、つまり行ないによって神さまを喜ばせるという義務から解放されています。「肉でやるくらいなら、何もしなくても良い」と神さまがおっしゃっているとは何という幸いでしょう。では、伝道も奉仕はしなくても良いのでしょうか?隣人を愛したり、聖書読んだり、祈ったりしなくても良いのでしょうか?主役は神さまであり、私たちは脇役です。私たちを通して、神さまご自身がそれらをなさりたいのです。御霊によって歩むとは、言い換えるなら「恵みによって歩む」ということです。肉の思いに打ち勝つには、「罪を犯さないように」と自分に目を向けることではなく、キリストを見上げることです。イエス様にゆだねていくとき、罪から解放され、結果的にみこころを行うことができるのです。

3.肉の行いと御霊の実

 ガラテヤ519-23「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」第一の質問です。「たくさんあげられている肉の行いの中で、まだ捕らえられているものはありますか?」男性であるなら、不品行や敵意、酩酊、遊興に対して弱いかもしれません。男性の肉は一言でいうなら、虚栄心であります。プライドと言って良いかもしれません。これを傷つけられると、全力ではむかうか、ケチョンとなって座り込みます。また、女性であるなら、魔術、偶像礼拝、そねみ、ねたみに対して弱いかもしれません。女性の肉は一言でいうなら、魔法であります。想像の世界がものすごく広がっています。自分が抱いている想像をこわされたら、全力ではむかうか、ケチョンとなって座り込みます。

第二の質問です。「肉の行いを日常的に行っている人は、どういう人たちなのでしょうか?」霊的に生まれ変わっていない人たちは、聖霊が内にいないので、肉の欲するままに生きようとします。高い教育があり、道徳的に立派な人であっても、肉の行いから免れることはできません。パウロはⅠコリント3章で「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼らには愚かなことだからです。また、それを悟ることができません」と書いてあります。でも、クリスチャンの中にも、御霊を受けたはずなのに、肉の行ないをしている人がいるということです。ヤコブは「そういうのは、二心のある人で、その人の歩む道のすべてに安定を欠いた人です」と言っています。

第三の質問です。御霊の実の中で、結ばれているものと、まだ結ばれていないものは何ですか?御霊の実は本来は1つなのですが、その中に9つの房があると考えるべきです。たとえば、みかんは外から見たら1つですが、中を割るとたくさんの房がはいっています。「私には喜びがあるけれど、愛はない」と言えるかもしれません。しかし、神さまは私たちに全部の性質を与えたいのです。そのために、あえて神さまは、愛を学べる環境や人々を与えてくださるのです。

 第四の質問です。「では、どうすれば御霊の実が結ばれていくのでしょう?道徳的にがんばることですか?」キリストにつながって、キリストからたえず命と力をいただくと良いのです。イエス様は「私はまことのぶどうの木、私にとどまりなさい」と言われました。

テキストのまとめをお読みいたします。ウエイン・コールドウェル著『聖霊の実と賜物』)を引用します。実は単数形の集合名詞であり、それは信者の人格のうちに産み出され、キリストのような歩みのうちに明らかにされたキリストの生活の多くの側面と相互に関連したいろいろな素質を暗示しています。この実は個人的努力とか人格的修養から生じる人間的なわざではありません。人間は働きますが、神は実を与えられます。御霊の実は信者のうちに生じたキリストにある神の性質です。働くは英語でworkです。結ぶは英語でproduceです。Produceは生じる、産する、作りだすという意味があります。Workというわざも重要です。しかし、人格的な実はProduce、生み出されるものです。聖霊が私たちの内におられて、御霊の実をProduceしたいと願っておられます。どんな時でもキリストにとどまりましょう。そうすれば御霊の実がProduceされるのです。

4.御霊に満たされる

 エペソ517-20「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」第一の質問です。「酒に酔うことと比較するなら、御霊に満たされるとはどういう意味でしょう?」満たされるというのは、支配されるということです。酒に酔うと、声が大きくなり、大胆になります。御霊に満たされると大胆になって福音を語りたくなります。酒に酔うと歌ってしまいます。御霊に満たされると賛美したくなります。酒に酔うとふらふらどこかに行ってしまいます。御霊に満たされると御霊の導きのまま進みます。両者はとても似ています。問題は酒に満たされるか、御霊に満たされるかであります。 

                      

第二の質問です。「御霊に満たされた結果はどのようなものでしょうか?」詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美します。そして、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝します。賛美にはいろんな種類があるようですが、ここでは省略します。聖霊に満たされたら賛美をするということです。しかし、ある教会は御霊に満たされるために賛美をする教会もあります。どちらが正しいのでしょうか?賛美は御霊に満たされるための手段なのでしょうか?ま、両方ですね。御霊に満たされたら賛美をするし、御霊に満たされるために賛美をしても良いのです。なぜなら、賛美の中にはみことばや私たちの信仰告白も含まれているからです。賛美のあふれた教会は、御霊に満たされた教会と言っても良いかもしれません。ハレルヤ!でも、「賛美を捧げなければ、ならない」と宗教的にならないことを願います。心に神さまを慕う愛があるかが問題です。心にもないことを賛美して、それっぽく見せるのは宗教です。やはり御霊に満たされて、賛美をささげるべきであります。

第三の質問です。「パウロが『主にあって御霊に満たされなさい』と命じるのは、なぜでしょう?」 御霊に満たされるならば、神さまからのすべての命令に従うことができるからです。御霊に満たされたら神さまと隣人を愛することができます。御霊に満たされたら肉ではなく、神さまの力で奉仕することができます。クリスチャン生活のすべての源は御霊に満たされることです。神さまはノンクリスチャンには「イエス様を信じなさい」と命じるでしょう。なぜなら、救いがなければ滅びに行くからです。そして、クリスチャンには「御霊に満たされなさい」と命じるでしょう。なぜなら、聖霊の満たしがなければ、神さまに従うことも、罪に勝利することもできないからです。もし、それが神様の命令であるならば、不可能なことではなく、その背後には、「わたしが満たしてあげます」という保障があるはずです。

第四の質問です。「あなたは御霊に満たされた経験はありますか?また、それはどんな時ですか?」ペンテコステ派は「聖霊のバプテスマと言って、そのとき異言や預言を伴うんだ」と言います。確かに聖霊を上からいただいて力を受けるという体験が必要です。しかし、「御霊に満たされる」という場合、少しニュアンスが違います。クリスチャンになるとだれでも内側に聖霊をいただきます。聖霊はいらっしゃるのですが、聖霊を神さまとして認めていないクリスチャンが大勢います。これはペンテコステ派の人にも言えることです。聖霊を力とか賜物として理解していますが、ご人格をもって私たちを支配する神さまとして認めていないこともあります。ですから、御霊に満たされるということは2つの意味があります。第一には、アダムから来ている肉を捨て去る、あるいは十字架につけて死に渡すということです。もう、自分を頼らないということです。第二は、聖霊様を認めて、自分のすべてを神さまに明け渡すということです。すべての力の源をキリストの御霊である、聖霊様からいただくということです。私たちがそのように願うならどうでしょう?結果的に聖霊に満たされているのです。感情があるなしではなく、信仰によって求めることが大事なのです。強いて言うなら、御霊に満たされているならば、喜びと平安があります。喜びと平安は御霊に満たされているかどうかのバロメーターと言っても良いかもしれません。ルカ福音書の最初には少なくとも4名の人が聖霊に満たされて賛美しています。イエス様の母マリヤは聖霊に満たされて賛美しました。エリザベツも聖霊に満たされ賛美しました。バプテスマのヨハネはおなかの中で、聖霊に満たされてよろこびおどりました。ザカリヤは聖霊に満たされて預言しました。つまり御霊に満たされることは異常なことではなく普通の出来事なのです。私たちが口を開けると肺に空気が入るように、信仰の口をあけたら御霊が満ちるのです。

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2015年7月24日 (金)

律法からの解放 ローマ7:7-12 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.7.26

 律法というのは神さまの戒めです。「…してはならない」という禁令と「…しなさい」という命令があります。旧約聖書では十戒を中心とするさまざまな律法が記されています。イスラエルの人たちは律法を守り行うことによって神の義を得ようとして失敗しました。使徒パウロはもと、律法を厳格に守るパリサイ派に属していました。自分の真面目さと力で律法を一生懸命守ってきた人物であります。パウロはキリストを信じて救われましたが、あることに気が付きました。律法は確かに良いものだけど、自分の中には守る力がないばかりか、律法に逆らってしまう法則があるということです。私たちクリスチャンも恵みよって救われたはずであります。ところが教会生活を正しく行うため、姿を変えた律法がじわじわと近寄って来るのであります。

1.律法の役目

 ローマ712「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」ローマ77-10「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」

 律法はギリシャ語ではノモスと言いますが、戒め、法律、規範、人間への義務という意味です。また、ノモスは法則とか原理という意味もあります。パウロは律法ということばをこれら2つの意味で用いています。最初の質問です。「律法は罪ですか?それとも、どういうものでしょうか?」聖書には、「律法は聖なるものであり、罪そのものではない」と書いてあります。第二の質問です。「律法は私たちにどんなことを知らせてくれますか?」はい、罪があることを知らせてくれます。つまり、「あなたには罪があります。不完全ですよ」と告発してきます。ダメ出しをする人がそばにいたら、いやですねー。でも、ガラテヤ書3章には「律法は私たちをキリストに導くための養育係となりました」と記されています。問題は「信仰を持ってからも律法のお世話になるべきだろうか?」ということです。パウロは「信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係りの下にはいません」(ガラテヤ325と言っています。教会には律法に対して2つの考え方があります。1つは「救われた後は、律法主義に陥る危険性があるので律法はもはや不要である。」もう1つは、「神のみこころを知るために、またクリスチャンを整えるために律法は必要である」という考えです。イエス様は福音書でこのように言われました。「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ518,19)。イエス様も使徒パウロも律法の存在を否定していません。私たちは、律法自体は聖なるもの、良いもので、永遠のものであることを知らなければなりません。私たちは律法を取り除くことはできません。律法を死なせることもできません。そうではなく、律法に対する私たちを取り扱うべきなのです。

第三の質問です。「律法は良いものですが、私たちにどのようなことを引き起こしてしまうのでしょうか?」内側にあった罪が目覚めて、罪を引き起こすということです。「むさぼるな」と言われれば、むさぼりたくなります。「さわるな」と言えられれば、さわりたくなります。「見るな」と言えば、見たくなります。世の中にどうして犯罪がなくならないのでしょうか?いくら罰則を重くしても罪はなくなりません。なぜでしょう?「…するな」という戒めが、眠っている罪を目覚めさせるからです。律法自体悪くはありませんが、私たちの中に律法に逆らいたい天邪鬼的なものがあるということです。第四の質問。「律法は私たちをいのちに導くのですか?それとも何ですか?」とあります。パウロは「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。」と告白しています。

テキストのまとめの部分を紹介します。ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』の中でこのように言っています。「律法を守ろうとすればするほど、私たちの弱さがあばかれ、そして私たちはローマ7章の状態に深入りします。そしてついに私たちは、自分が望みのないほど弱い者であることをはっきりと示されるのです。私たちは議論のないほどに、自分が弱いものであることを示されなければなりません。そのためにこそ、神は私たちに律法を与えられたのです。」言い換えるなら、律法は死んでいたはずの罪を呼び覚まし、最終的にやってはいけないことを私たちにやらせる仕掛け人でもあります。ところが、教会は律法が良いものなので、いろんなきまりを作って、人々を管理しながら育てようとしました。Ⅱコリント36「文字は殺し、御霊は生かすからです」とあります。文字とは石の板に書いた律法のことです。パウロが言っているように、律法は人を殺す力があります。クリスチャンが御霊ではなく、律法で生きようとするならどうなるでしょう。霊的に窒息し、隠れたところで罪を犯すようになるのです。教会は偽善者を作ってはいけません。そのためには、律法の役目を正しく知る必要があります。

2.

ローマ718-21「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理(ノモス)を見いだすのです。」ローマ724「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

第一の質問です。「ローマ6章に『古い人は死んだ』とありますが、私たちの肉には何が宿っているのでしょう?」古い人、つまりアダムにつく罪はキリストとともに死にました。しかし、私たちの中には、悪、つまり罪を犯す性質が宿っています。ウォッチマン・ニーは「酒を造る工場が壊されましたが、酒瓶が縁の下や車のトランクに隠されている」と言いました。これを聖書では「肉」と言いますが、肉体のことではありません。罪を犯す性質が肉体や魂に残っているということです。第二の質問です。あなたの中に「善をしたいのにできない。したくない悪を行う」法則を見出しますか?善をしたい。たとえば、昔、「わかっちゃいるけどやめられない」という歌がありました。やってはいけないと分かっているのにやってしまう。第三の質問、「ということは律法に対して、私たちの肉はどう働くのですか?」守りたくない、むしろ逆らってしまうということです。

クリスチャンにとって、聖書を読むこと、祈ること、献金すること、礼拝に出席すること、奉仕をすることは良いことです。でも、「それらをしなければならない」と強制されるならどうでしょうか?最初は「ああ、それは大切なんだ」と、やるかもしれません。しかし、だんだんおっくうになり、重荷になり、嫌になります。なぜでしょう?それらは信仰生活のために欠かせないものであり、良いことだということは分かります。でも、それらが律法になってしまうなら、私たちの肉が反応し、「いやだよー、やりたくないよー」と逆らってしまうのです。それでも、牧師が説教で言うし、それは教会員の務めなんだからと言われます。「わかりました」と仕方なく礼拝を守り、仕方なく10分の1献金を捧げます。捧げるというよりも、税金を徴収されるような感じがします。その人は、クリスチャンになる前に、「行ないではなく、恵みによって救われますよ」と言われたはずです。でも、洗礼を受けて教会員になると、いろんな義務があることに気が付きました。「え?救われた後は、行ないが必要なのですか?それでは詐欺ではないですか?」と言いたくなります。ある人たちはそれでも我慢し、肉を押し殺して従います。しかし、ある人たちはだんだん喜びがなくなり、ついには教会を去って行ってしまいます。彼らは信仰をなくしてしまったのでしょうか?そうではありません。教会もその人も肉を正しく対処することを怠っているからです。たとえ良いことでも、律法でやってしまうと、肉が目覚めて、反抗するということです。

第四の質問です。「パウロは神の律法に対して、何と言っていますか?」「悪が宿っているという原理を見いだす」と言っています。ギリシャ語では律法もノモスであり、原理もノモスです。つまり、「神の律法という原理に反応する、罪の原理が私たちの内にあるよ」ということです。原理とか法則と言うと苦手な物理を思い出させます。自然科学者はたくさんの原理や法則を発見しました。すばらしいことに、使徒パウロは神の律法に反応する罪の原理を発見した人であります。パウロはローマ724「私は本当にみじめな人間です。『だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか?』」と絶望のどん底から叫びました。しかし、突然、パウロはこのように叫びました。ローマ725「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」この箇所を読んだ人は、「パウロに何が起こったんだろう?もしかしたら気がふれてしまったのでは?」と思います。24節と25節の間には、越えられない矛盾の淵があるようです。でも、パウロはどん底に落ちてみて、別の法則を発見したのであります。なんと、どん底に自分を支える神さまの御手があったのです。

テキストのまとめの部分をお読みしたします。私たちの古い人はキリストと共に十字架につけられ死にました。たとえて言うなら、酒を生産する工場が破壊されました。しかし、肉体の中に工場で生産した酒瓶が何本か残っています。これを肉と言います。肉が律法に対して、反応し、死んでいたはずの罪が目をさますのです。しもべ(自分)の罪が明るみに出されるのは、主人があなたに何かをするように求めるときです。あなたは良い行いをしようと、肉でがんばってもできないのです。律法は、私たちがそれを守るために与えられたのではありません。ガラテヤ324「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」

3.律法という夫

ローマ71-3それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか──私は律法を知っている人々に言っているのです。──夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。パウロは結婚のたとえを用いて、律法からの解放ということを教えています。第一のポイントで律法は永遠であって死なないと言いました。パウロは律法ではなく、自分の方が死ねば良いと言っています。第一の質問です。「アダム以来、人間はだれと結婚することになりましたか?」律法という夫です。正確に言うならば、創造のずっとあと、律法は出エジプトの時に与えられました。では、アダムから出エジプトまで、律法がなかったかというとそうではありません。異邦人の私たちもそうですが、こころの中に律法があります。堕落する前は神さまと共に歩んでいたので、律法は不要だったのです。ところが、善悪を知る木から取って食べたために、神さまではなく自分で善悪を決めるようになったのです。私たちの魂の中には善悪を判断する律法があります。必ずしもそれは、聖書が言う「良心」ではありません。 

第二の質問です。「夫である律法は妻であるあなたに、どのようなことを要求するでしょう?」平野耕一先生の『これだけは知ってもらいたい』という本があります。アメリカに一人の女性がおりました。彼女はとても人のいい、やさしい女性でしたが、ちょっとおっちょこちょいで、彼女のやることには少々抜けたところがありました。反対に、彼女のご主人は完全主義者で、とても几帳面な人でした。そんなご主人が仕事から帰って来ると、指でテーブルを拭いては、「おい、テーブルをちゃんと吹いたか?ここにほこりがついているぞ」とやり始めるのです。次に部屋を見渡して「あっ、あそこに小さなゴミが落ちている。お前の掃除の仕方と言ったら雑なんだから」と言います。食事を出すと「おい、このスープ、ちょっと塩がききすぎて辛いぞ」といちいちチェックがはいります。このように彼女がすることなすことすべてにおいて、細かく欠点を指摘されるので、もともと彼女は大ざっぱな性格だったにもかかわらず、かなり神経質にならざれるをえませんでした。また過ちを指摘されるかもしれないと、彼女にとって夫はだんだん恐ろしい存在になっていきました。」このように律法という主人は、微細なことまで要求し、守らないならば厳しく責めるのです。

第三の質問です。「夫(律法)がどうしたら、自分は解放されるのでしょう?」死んだらならば解放されます。さきほどの本には、「夫はすごく健康で、風邪ひとつひかない。結婚して以来、病気になったことすらないのです」と書いてありました。

 第四の質問です。「(律法)が生きているうちに、他の男に行けば、どうなるのでしょうか?」姦淫の女と呼ばれます。テキストのまとめの部分です。律法は粗探しばかりする夫のようなものです。「もっとやらなければならない」「まだ、十分ではない」と夫は要求してきます。本当は夫と離婚したいけれど、夫が生きている間は夫に責任があります。夫が死ねばそれが可能ですが、律法は天地が滅びない限り、すたれることはありません。神さまの方法は、律法が死ぬことではなく、あなた自身が死ぬことです。しかし、実際に死んでしまったらどうしようもありません。どのようにしたら、永遠になくならない律法から解放されるのでしょうか?

4.新しい夫(キリスト)

ローマ74-6「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

第一の質問です。「神さまはどのようにして、あなたを律法から別れさせてくださったのですか?」キリストと共に死にました。キリストを信じたとき、十字架で死なせていただいたということです。バプテスマはそのことを象徴しています。キリストにあって、古い人に死んで、新しい人に生まれたということです。

第二の質問です。「あなたは今、だれと結ばれているのでしょうか?」復活したキリストと結ばれています。エペソ26「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」第三の質問です。新しい夫(キリスト)はどのようなお方ですか?マタイ1129わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。心優しく、へりくだっておられる恵み深いお方です。第四の質問です。「新しい夫がいながら、古い夫(律法)とお付き合いすることを何と言いますか?」 不倫、姦淫と言います。

 さきほどの本をもう一度引用させていただきます。「多くのクリスチャンは、意識の上で未だ二重結婚の状態にあります。律法との離婚が成立したことをまだ知らないからです。せっかく新しい夫であるキリストとの生活を楽しめるはずのあなたは、古い夫である律法と共同生活をしているのです。甘い二人だけの夕食のテーブルに、邪魔な律法がずうずうしく座り込んでいます。そうなると、楽しいはずの食事も台無しになってしまいます。その結果、あなたは新しい結婚生活にも幻滅してしまうかもしれません。『なんだ、新しい結婚生活も、前と大して変わらないのね』とあなたは誤解してしまうでしょう。…これは新しく結ばれた関係に問題があるからではなく、あなたの意識に問題があるからです。この問題は、パラダイムシフトがシフトしたことを十分に認識していないから起こるのです。」パラダイムシフトは、昔の天動説と地動説から来たものです。つまり、律法とは離婚し、恵みというキリストと結婚しているということです。あなたは一度死んだので、律法を守る義務はないのです。では、だれが、律法を守らせてくれるのですか?それはあなたの夫であるキリストがあなたを助け、あなたを導いてくださるのです。

 テキストのまとめの部分です。神さまの方法は、あなたがキリストと共に葬られ、ともによみがえることです。あなたは律法に死んで、キリストと結ばれました。新しい夫(キリスト)は心優しく、忍耐深くて、あなたを励ましてくれます。キリストは、「ただ私の愛のうちに留まりなさい」と言います。しかし、あなたは、何かもっとしたいと思うので、キリストから目をそらして、律法に目を向けます。すると、律法は「あなたは○○をしなければならない」と教えてくれます。あなたは「もっと教えてください」と願います。しかし、それは霊的姦淫であり、二重結婚です。このようにクリスチャンでありながらも、律法主義に陥っている人がたくさんいます。そうです。キリスト教会の指導者たちもこのことを理解していません。聖書を読むこと、祈ること、献金すること、礼拝に出席すること、奉仕をすることは良いことです。でも、それらも姿を変えた律法です。律法は「これで良い、十分だよ」とはなかなか言ってくれません。でも、恵みに満ちた新しい夫、キリストがおっしゃいます。何にもしなくても私はあなたを愛して受け入れていますよ。私を信じているのですから、神さまに喜ばれるために努力する必要はありません。イエス様のことばです。「私と一緒に生活しましょう。私があなたの命になって、あなたの内側から助けてあげますよ。律法ではなく、私を見てください。あなたを通して、私が行ないます。」

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2015年7月17日 (金)

キリストから任命された者 ヨハネ15:16、17:18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.19

 弟子とはだれでしょう?三回目のきょうは「弟子とはキリストから任命された者」というテーマで学びたいと思います。ある人たちは「イエス様を信じてクリスチャンになると、死んだあとは、天国に行ける」と思っています。間違いではありませんが、救いは天国に行くためだけにあるものではありません。神さまは私たちが地上から天国に行くまでの間も救いたいと願っておられます。この「救い」は人生に意味と意義を与えるという意味の救いです。それはどういう意味でしょう?イエス様はあなたを救いに導かれましたが、同時に、あなたにこの地上でやってもらいたいことも用意しておられます。私たちはイエス様から何かの目的のために任命されているという自覚がなければ、この地上の人生を無駄に使ってしまうでしょう。あなたはせっかく救われたのですから、神からの使命に目覚めなければなりません。

1.任命された目的

ヨハネ1516「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。ヨハネ1718「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」『本当の弟子』のテキストに記されている質問によって進めたいと思います。「私たちが弟子として選ばれ、任命されたのは何のためでしょう?」 それは、「行って実を結び、その実が残るため」です。任命というギリシャ語は、ティセミですが、「立てる」「任命する」「叙品する(ordain)」という意味があります。この世において、任命ということばは、どういう時に使われるでしょうか?多くの場合、任命は公務員などの官職や役職に就くときに用いられます。警察官、消防員、学校の教師、区役所…いろいろあります。彼らは試験を通過して認められたので、特定の身分があり、成すべき役目があります。もちろん、給与や厚生面も保証されています。しかし、一般の人と違って賄賂をもらったり、犯罪をやらかすとテレビのニュースに流れます。教会では、牧師だけではなく、クリスチャンもキリストの弟子として任命された存在です。「いや、私は気楽に生きたいので、そういうものはいりません」と断ることもできます。しかし、イエス様からお声がかかったなら、断ってはいけません。なぜなら、イエス様はあなたが弟子になれると見込んでいるからです。「いや、私があなたを弟子にしてあげよう」とおっしゃっているのです。

「キリストの弟子として結ぶべき実とはどんなものでしょう?」弟子として結ぶべき実が3つありますが、これは第二、第三、第四のポイントでお話ししたいと思います。短く紹介しますと、生涯を通して結ばれる聖化の実、失われた魂を勝ち取る実、生涯を通して主に奉仕する実の3つです。

「どのような実が永遠に残るのでしょうか?」Ⅰコリント312-14「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。」土台とはイエス・キリスト様です。その上に、建物を建てるのですが、どんな材料を用いるかが問題です。火というのは世の終わりのさばきであり、私たちが「キリストのさばき」の前に立った時であります。木、草、わらはたやすく手に入ります。それは私たちの肉の行ないによって建てたものです。ある人は怨念晴らしによって、建て上げる人もいます。しかし、それらは火によって焼かれてなくなってしまいます。では、その人は救われないで、滅びに行くかというとそうではありません。Ⅰコリント3:15「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」とあります。わざや働きがなくなったとしても、神さまからいただいた永遠のいのちはなくすことがありません。私たちはこの世ではなく、永遠に残るような実を結ぶような働きをしたいものです。

「イエス様はあなたが実を結ぶことができるように、どのような約束を与えたのでしょう?」ヨハネ1516後半「主の名によって父に求めるものは何でも、父が私たちにお与えになる」と書いてあります。1516の前半には「私が実を結ぶために任命した」と書かれています。1516の後半には「求めたら与える」と書いてあります。私たちは後半のみことばだけを見がちです。しかし、イエス様はご自分の目的が果たされるために、「求めたら与える」と約束されたのです。つまり、「あなたは弟子として任命されたんですよ」という前提があっての約束です。

テキストのまとめの部分をお読みいたします。牧師や一部の献身者だけが神から任命されたのではありません。ルターが「万人祭司」を唱えたように、すべてのクリスチャンが祭司として任命されたのです。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Ⅰペテロ29)。もし、クリスチャンが「任命された」という自覚がないならば、「地上で好きなことをして、天国に行ければ、ラッキー」となるでしょう。ただ今から3つの実を取り上たいと思います。

2.聖化の実

第一は聖化の実です。エペソ413「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」Ⅰヨハネ26「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」「私たちの成長における、最終的な目標は何でしょう?」完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達することです。イエス様は「天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。私たちは「完全」と聞くと、おじけづいてしまいます。完全はギリシャ語では、テレイオウですが完璧という意味ではありません。仕上げるとか、完成する、完了させるという意味があります。このところには「私たちがキリストに似た者となるまで成長する」というニュアンスがあります。特に人格的な成長であります。私の口から「人格的な成長」というと、とても不似合のような感じがします。キリスト教会に来たら、「ありのままで良いんですよ」と言われます。でも、洗礼後は「ありままじゃダメなんです」ということなのでしょうか?もし、洗礼を受けたとき霊的な赤ん坊であるなら、赤ん坊のままで良いわけはありません。肉体もそうですが、霊的にも成長していく必要があります。イエス様が私たちのゴールです。Ⅱコリント318「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とあります。このことを私たちは聖化と言いますが、これも主の恵みです。なぜなら、「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と書いてあるからです。

では、「イエス様のように成長するためには、私たちは何をすべきなのでしょうか?」キリストが歩まれたように歩むということです。つまり、イエス様のようになるということは、イエス様のライフ・スタイルをまねるということです。私たちはイエスさまと同じようにはなれません。もし、私が「イエス様のような愛と寛容な人になるんだ」と決断したとします。ある人がつかつかとやってきてピシャッと頬を打ちました。「ああ、愛と寛容だ」と赦してあげます。しばらくたって、同じ人がピシャッと頬を打ちました。「ああ、愛と寛容だ」と赦してあげました。また、しばらくたって、同じ人がピシャッと頬を打ちました。三度目です。「わざとやっているだろう!」と怒って三倍にして返すのでないでしょうか?私たちはイエス様の人格を真似ることはできません。なぜなら、真似ようとやっているのが自分の意志だからです。私たちが真似られるのはイエス様のライフ・スタイルです。

では、イエス様ご自身はどう歩まれたのでしょうか?御父と親しく交わりながら、御父に従いました。ヨハネ519「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」イエス様も神さまですから、自分の力で奇跡を行なうことがきました。イエス様も神さまですから、自分の知恵で教えることができました。しかし、イエス様はあえてそうはしませんでした。いつでも、父なる神と交わり、父なる神の力で行いました。また、いつでも父なる神と交わり、父なる神から聞いて教えました。イエス様は人間になられましたが、そのとき完全に私たちの模範になられたのです。イエス様の力の源は父なる神さまでした。もし、そうであるなら、私たち自身はどのように歩むべきなのでしょうか?そうです。キリストが御父を見て行動したように、私たちもキリストを見習って行動するということです。言い換えるなら、 自分の意志で真似るのではなく、キリストのいのち、御霊にゆだねながら生きるということです。頭ではわかりますが、これが難しいのです。ある人が肺の機能を一時的に失って、人工肺に切り替えてもらったそうです。いつものように自分で息を吸い込もうとするとうまくいきません。息ができなくて、とっても苦しくなったそうです。今度は、力を抜いて気管を開けるようにしたら自然に空気が入ってきたそうです。クリスチャン生活も同じです。最初の頃は、肉の力と御霊の力の組み合わせがうまくいきません。肉の力でやろうとすると、御霊は「ああ、そうですか」とご自身を消されます。真面目な人ほど、肉の力でやろうとします。そのため、聖書の律法主義者のようになります。人をさばきまくって生きています。それではイエスさまからますます離れてしまいます。肉の力をあきらめ、御霊にお願いすると、御霊がぐっと現れてくださいます。

テキストの最後の部分をお読みいたします。キリストに似た者に変革されるためには、どうしたら良いでしょうか?私たちはイエス様の品性を真似すべきなのでしょうか?あなたは、イエス様のように人々の罪を無限に赦すことができるでしょうか?不可能です!そうではなく、私たちはイエス様のライフ・スタイルを真似るべきなのです。そうすれば、最終的にイエス様のような品性が生み出されていきます。イエス様は毎日、父を見て、父の御声を聞いて、父と親しく交わっていました。私たちも天の父と親密な関係を持つならば、天の父の愛で隣人を愛し、天の父の働きをなすことが可能になるのではないでしょうか?第一はイエス様にとどまること、第二はイエス様のライフ・スタイル(生き方)を真似していくことです。そうすれば、私たちはイエス様の品性を身につけることができるのです。

3.魂の実

第二は魂の実です。マルコ1615-16「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」マタイ2819-20「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

「イエス様が弟子たちに(教会に)与えた最大の使命とは何でしょう?」全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えることです。「福音は人々の何を握っているのでしょうか?」それは、その人が救いを得るか、あるいは罪に定められて滅びるかという永遠の運命です。すごい!福音にはそういう力があるのですか?使徒パウロはローマ1章でこう言いました。ローマ116「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」みなさんは、福音を恥と思ってはいませんか?信じたころは一生懸命、神さまのことを伝えました。「あいつはキリスト教にかぶれた。頭がおかしくなったんだ」と言われたかもしれません。それでも、めげずに伝えました。ところがどうでしょう?あんまり信じてくれません。反対に、嫌なことをたくさん言われます。「ああ、いやだなー」でも、自分の信仰を捨てる気持ちはありません。気がつくと信じたころの熱が冷めていたことはないでしょうか?でも、聖書、特にマタイ28章とマルコ16章を見ると、福音を伝えることは絶対的な使命であると書かれています。最初に、弟子として任命された目的とは何かと言いました。公務員と同じように、任命されたからには、特定の身分があり、成すべき役目があります。では、クリスチャンの特定の身分とは何なのでしょうか?Ⅱコリント5章には「私たちはキリストの使節なのです」と書かれています。使節とは、ambassador大使という意味です。もっと言うなら、私たちはキリストを代表している神の国の大使であります。どういうことでしょう?私たちに福音という、神の国の鍵がゆだねられているということです。たとえば、私たちがひとりの人に、福音を提示したとします。その人は福音を聞いて、「私はイエス様を救い主、人生の主として信じます」と告白しました。あなたはどういうことをしたのでしょう?あなたは神の国の大使として、その人を神の国に入れてあげることができたのです。ハレルヤ!もちろん、信じない人もいます。日本では、信じない人の方が多いかもしれません。福音を伝えるのは私たちの役目であり、信じる、信じないはその人と神さまの問題です。私たちが救おうとするから大変になるのです。福音を伝えるのは私たちの役目ですが、救うのは神さまです。ハレルヤ!

「マタイ28章は、福音宣教だけではなく、さらに何が必要だと教えているでしょう?」主が命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えて主の弟子とすることです。救われた人を弟子とすることによって福音宣教のスピードが倍加されていきます。テキストには「弟子を作るための順番を説明してください」とあります。「行く、福音を宣べ伝える、バプテスマを授ける、守るまで教える」ということです。大宣教命令は、大弟子作り命令でもあります。これまでの教会は、洗礼(回心)がゴールでした。そうではなく、イエス様が教えられたことを守らせるまでがゴールです。命令の中には、マタイ28章の新たに弟子を作るということも含まれています。そうしないと、弟子作りのサイクルが回っていきません。また、過保護になりすぎると、宣教がおろそかになることも確かです。魂が新たに救われることは、キリストのからだに新しい血が注ぎ込まれることと同じです。救霊への情熱を保ちながら、弟子作りに励むことが重要です。

4.奉仕(働き)の実

第三は奉仕(働き)の実です。ヨハネ1412「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざ(works)を行い、またそれよりもさらに大きなわざ(works)を行います。わたしが父のもとに行くからです。」エペソ123「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」「イエス・キリストが地上においてなされた3つの大きなわざ(働き)は何だったでしょう?」第一は福音宣教、第二は教え、第三は癒しと悪霊を追い出すことです。イエス様はこの地上で、3の働き、ミニストリーを行なわれました。マタイ935「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」アーメン。

「イエス・キリストは弟子たちにどのようなわざ(働き)をすることを願っておられるでしょう?」福音宣教、教え、癒しと悪霊を追い出すミニストリーです。福音書を見ると、これら3つのことをしなさいと何度も伝道旅行に遣わしました。つまり、ご自分が弟子たちに見本を示し、そして、弟子たちにもそれを行なわれました。

「現在、イエス様のわざ(働き)を代わりにするところはどこでしょう?」キリストのからだなる教会、私たちです。イエス様はすでに天にお帰りになられました。その後どうなったのでしょう?聖書を見ると、「イエス様は教会のかしらになられた」と記されています。イエス様が教会のかしらです。そして、教会はキリストのからだであります。私たちのからだは、かしら、頭から命令を受けて動きます。頭だけでは、何もできません。頭の願いを反映させるのが、からだです。同じように、かしらであられるイエス様は、ご自分の願いを反映させるからだが必要なのです。そのからだとは私たち一人ひとりです。もっと言うなら私たちの集合体がキリストのからだです。私たちは何するのでしょうか?イエスさまが2000前に行っていたことを行なうのです。イエス様はどんなわざ、ミニストリーをしておられたでしょうか?福音宣教、教え、癒しと悪霊を追い出すミニストリーです。ハレルヤ!もちろん私たちには会社の仕事、勉強、家事、この世での務めがあります。税金も払わなければなりませんし、この世の法律も守らなければなりません。でも、私たちは神の国の大使です。キリストの弟子として召されています。ですから、それらを行ないながら、イエス様の3つのミニストリーを行なうのです。テキストのまとめの部分をお読みします。「奉仕」と言うと、教会の建物で椅子を並べたり、賛美をすることであると想像しがちです。もちろん、それらも大切ですが、本当の奉仕(働き)は自分が派遣されている場所で行うべきことです。会社での仕事はサラリーを得るためだけのものではなく、奉仕(働き)の場でもあるのです。主婦も家事や育児の中にも奉仕(働き)があるのです。学生も学校の中にも奉仕(働き)があるのです。働きは英語でミニストリーと言いますが、聖職者だけのものではありません。神さまから召されたところで働くことが奉仕なのです。キリストのからだは、現在、教会そのものです。教会こそがイエス様の働きを継続し、この世に拡大していく神さまが備えられた器なのです。

 きょうはキリストから任命された者として、3つの実を結ぶ必要があると申し上げました。第一は聖化の実、第二は宣教の実、第三は奉仕の実です。これら3つの実を結ぶために必要なものがあります。資源、源、リソースであります。なかなか、日本語的に難しいです。自分の力だけでやろうとするとうまくいきません。資源、源、リソースとは何なのでしょうか?それは聖霊です。3つの実はすべて聖霊によってもたらされるものです。だから、ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降ったのです。ペンテコステの日、聖霊を受けてから弟子たちができたのです。ですから私たちも聖霊をいただいて、聖霊主導によって3つの実をむすばせていただきたいと思います。難しく考えてはいけません。秘訣はイエス様にとどまり、イエス様と一緒に歩むことであります。

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2015年7月10日 (金)

キリストに学ぶ者 マタイ11:28-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.12

 先週、キリストの弟子には3つの特徴があると申し上げました。第二番目の特徴は何でしょうか?弟子とは「キリストに学ぶ者」であるということです。簡単に言うと、ラビであるイエス様のそばにいて、すべてのものを体得するということです。私の恩師、大川牧師は、私が献身を表明したとき「だれからでも学びなさい。貪欲に学び続けなさい」と言ってくれました。私はその言いつけを今も守り続けています。たまに新しいことを発見したときは、大川牧師に送ります。この間、「キリストの復活」の説教原稿をファックスで送りつけました。夕方、先生からお電話があり、ちょっと説明してみろと言われました。最後に、「言っていることは、よく分からないけど、感動していることはよく分かった。勉強しているね、大したもんだ」とほめられました。ところで、キリストに学ぶ者とは、どういう意味でしょうか?

1.キリストのくびきを負う

マタイ1128-30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」日曜日、私たちは一週間分の重い荷物を背負って礼拝に来ます。イエス様から「重荷を負っている人は私のところに来なさい。休ませてあげるよ」と言われます。「ありがとうございます」と、重荷を神さまのところに降ろします。「ああ軽くなった」と喜んでお家に帰ります。するとサタンが待っていて、新たな重荷を用意しています。次の週はもっと重い荷物を背負って教会に行きます。教会で神さまの前に重荷を降ろします。喜んでお家に帰ります。するとサタンが、さらに重い重荷を用意しています。質問があります。「一度重荷を降ろして休んだはずなのに、また次から重荷がやってくるのは何故でしょう?」それは、ある物はキリストにゆだねていますが、ある物は自分で握って離さないからです。あなたには、「これは自分が管理します。これだけは神さまに任せることはできません」というものはないでしょうか?あなたが全部ゆだねるとき、本当の安息がやって来るのです。

「このみことばから、イエス様はどのようなお方であることが分かるでしょう?」イエス様は心優しく、へりくだっているお方です。どういう意味でしょうか?独裁者のようにコントロールしないで、優しく導いてくれるということです。エリヤハウスでは、「愛の反対はコントロールである」と教わりました。私たちはうるさく言われると、肉が目覚めて逆らいたくなるのです。次の質問です。「イエス様はどうしたら、たましいに安らぎが来ると言われたでしょう?」キリストのくびきを負って、キリストに学ぶとたましいに安らぎがきます。教会ではマタイ1128節は言いますが、29節のくびきを負って学ぶことは教えません。だから、一時的な休みしか得ることができないのです。イエス様は休息だけではなく、成長して解決していく道も教えてくださいます。私たちがイエス様と一緒にくびきを負ったなら、どうなるのでしょう?あなたの荷は軽くなります。

 現代の人はくびきが何であるか分からないと思います。くびきとは、二頭の牛や馬が、一緒に働くための木製の農具です。イエス様は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言われました。たとえて言うなら、イエス様がベテラン牛で、私たちが新米牛です。ベテラン牛は経験豊富で力もあります。ところが新米牛はどうでしょうか?「お腹が減ったので草を食べたい」と横道に行きます。ある時は、「疲れたので、休みたい」と言います。ベテラン牛は「今は仕事中だ。私と一緒に働きなさい」と言います。新米牛はくびがつながっているので、勝手な行動を取ることができません。最初はとても不自由で、首も痛くてしょうがありませんでした。ところが、ベテラン牛と一緒に仕事をしているうちに、筋肉もつき、忍耐力も増し加わりました。だんだんベテラン牛に近づきました。質問があります。「イエス様と一緒にくびきを負うなら、あなたの荷はどうなるでしょう?」軽くなります。ベテラン牛であるイエス様が重い方の重荷を負ってくれるので、負担が軽いのです。信仰生活とは何でしょう?イエス様と一緒にくびきを負って、イエス様に学びながらついて行くことです。「主イエスと共に歩きましょう。どこまでも、主イエスと共に歩きましょう、いつも。うれしい時も、悲しいときも歩きましょう。どこまでも、うれしい時も悲しい時も歩きましょう、いつも。」イエス様こそ私たちのベテラン牛であり、このお方と組むならば、荷が軽くなるのです。そのようにくびきを負いながら歩むことが、イエス様に学ぶことなのです。

弟子というギリシャ語はマセテースですが、「学ぶ」という動詞から来ています。弟子、マセテースは、師匠であられるイエス様に学ぶ人、見習う人です。当時、人々は2つの場所、人から学びました。第一は父、第二はラビからでした。ラビは人生のあらゆる領域について教えることができました。イエス様は私たちの父であり、ラビです。どんなことでも、イエス様から学ぶことができます。ハレルヤ!

2.キリストと生活を共にする

マルコ313-15「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」このみことばから、質問があります。「弟子とは自分からやって来たのでしょうか?それとも、イエス様に呼び寄せられたのでしょうか?」このところには、「イエス様が呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た」と書いてあります。イエス様が主権的に選ばれたのです。ルカ福音書には「一晩中、祈ったあとに彼らを選んだ」と書いてあります。普通だったらイスラエル大学から優秀な人を選びたいところです。ところが教育のないガリラヤの漁師たちや人をだます取税人でした。疑いに満ちた人、気の短い人、ご自分を裏切る人もいました。おそらく、イエス様は御父のみこころに従ったと思われます。私たちは最初の頃、「私がイエス様を選んだ」「私がイエス様を信じた」と思っていたかもしれません。しかし、イエス様の方が最初に私たちを選ばれたのです。ヨハネ1516「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」もし、私たちがいつまでも「私がイエス様を選んだ」「私がイエス様を信じた」という信仰だったらどうでしょう?何か困難にあったとき、「ああ、私が選び間違えたんだ」と簡単に離れてしまうでしょう。洗礼を受けても数年後、教会を去る人がおられます。そういう人は、自分が信じたと思っている人です。自分ほどいい加減な者はありません。でも、イエス様はどこまでも真実です。真実なるイエス様が私たちを選んでくださったのです。このような信仰を持つと簡単には躓きません。

イエス様は何のために、十二弟子を身近に置いたのでしょう?イエス様は自分の生き方を見せたかったからです。「身近に置き」のギリシャ語はメタです。メタ、英語ではwithであり、同伴者、仲間、弟子、部下として「一緒にいる」という意味があります。イエス様は寝食を共にしながら、弟子たちを教えました。西洋の教育はカリキュラムを組み、教室の中に生徒を集めて、短期間に知識を詰め込もうとします。しかし、そういう知識はすぐなくなってしまいます。イエス様が弟子たちをそばに置いたのは、体験的に教えたかったのです。多くの場合、イエス様は町や村で、問題に遭遇したときに教えました。あるときは、「やってみなさい」と失敗するのを分かっていながらやらせました。ちょっと教えたら、それをやらせ、失敗したら「本当はこうだよ」と教えてあげました。神からの教師イエス様は、身につく体験的な教え方をされました。体験的ということが分かるでしょうか?水泳、自転車、スキーなどは教室では学べません、体験的に学ぶものです。しかし、一度体験的に学んだものは、しばらくやってなくてもすぐできます。なぜなら、体が覚えているからです。頭だけの知識は短期間しか持ちません。一夜漬けでテスト勉強をするかもしれません。でも、試験が終わったら全部忘れてしまいます。しかし、体験的な知識は永続し、実際の生活に役に立ちます。ハレルヤ!私たちも、イエス様のそばで暮らし、体験的な知識を身に着けるようにしましょう。

「イエス様の訓練の目的は何だったでしょう?」彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためです。イエス様は、ご自身の働きを弟子たちにゆだね、やがてそれが拡大していくように計画しておられました。私は15年くらい前、弟子訓練のプログラムを取り入れ、自らも学びました。ところが、「派遣」がありませんでした。いつまでも「訓練」「訓練」でした。つまり、訓練のための訓練だったのです。そうなると「まだ不十分だ、まだ不十分だ」と恐ればかり膨らんできて、外に向かうことができなくなります。弟子たちもイエス様とずっといたかったと思います。でも、たった3年半しか一緒にいることができませんでした。イエス様が天に帰られる時、弟子たちはどうみても不十分、未熟としか見えませんでした。しかし、使徒の働きを見るとわかりますが聖霊が降臨した後、別人になりました。弟子たちはイエス様から教えられたことを思い出して、実行していったのです。やがて、彼らは世界の果てにまで行きました。質問があります。「今、だれがイエス様の働きを担っているのでしょうか?」弟子たちはもう地上にいません。そうです。私たちにバトンが渡されているのです。私たちこそイエス様から遣わされたものです。福音を宣べ伝える命令と、悪霊を追い出すための権威が与えられているのです。

3.キリストに目を向ける

 ルカ1038-42「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」マリヤは主の足もとに座って、何をしていたでしょう?」彼女は、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました。そのとき、姉のマルタはどのような気持ちだったのでしょう?自分だけが働いているので、気が落ち着かなくなっていました。彼女はあれこれと思い煩っていました。さらには、イエス様が何もしないマリヤを注意しないので憤りを覚えていました。大事な質問があります。イエス様は「マリヤはその良いほうを選んだのです」と言われました。その理由とは何でしょう?人々をもてなすために気をもむよりも、静かに主のみことばを聞くことの方が大事だからです。この場合、もてなすことがベターであるなら、主のみことばを聞くことがベストです。ある人が、「ベターはベストの敵である」と言いました。

さて、マリヤからどのような弟子の姿を見ることができるでしょう?彼女の主から一言も逃さないように聞き入って学ぶ姿、これが弟子の姿なのです。多くの場合、教会の奉仕を考えて、姉のマルタに同情します。しかし、このときは奉仕のときでありません。なぜなら、イエス様がすぐ近くで教えておられるからです。マリヤはイエス様のことばを1つも逃さないように聞き入っていました。師匠の前に教えをいだだこうと座っている姿こそ、弟子の姿ではないでしょうか。詩篇1232「ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。」弟子たちは、イエス様がエルサレムで死ぬことを信じようとはしませんでした。しかし、マリヤだけがそのことを知っていました。なぜなら、主のみことばをちゃんと聞いていたからです。「ああ、香油をささげるのは今しかない」と分かりました。みことばを聞いていたマリヤだけが、イエス様の最期を予期して、ナルドの香油を注ぐことができたのです。

 高校野球を見ていると分かりますが、バッターはいつも監督のサインを見ています。バントすべきか、ヒットエンドランなのか指示を仰ぎます。もし、私たちに指示を送っておられるイエス様がおられるとしたらどうでしょう?たとえば、車を運転しているとき、「路地からだれか出てくるぞ」と教えてくれます。「覆面パトカーがいるぞ」と教えてくれたらありがたいのですが、そういうことはあまりありません。ある時は、「この人は口で言っていることと、心で思っているころが違うよ」と教えてくれます。またある時は、「疑わないで、信じて行きなさい」と励ましてくれます。私たちはイエス様にたえず目を向けるべきであります。スマホよりも、イエス様です。この世の中のガサ情報に目をとめないでください。ヘブル12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」イエス様は確かな道へと私たちと導いてくださいます。

4.メンター(霊的父親)を持つ

Ⅰコリント416-17「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。」Ⅰコリント11:1「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」「コリントの教会の人たちの霊的な父はだれでしょう?」使徒パウロです。パウロが彼らを生んだからです。つまり、彼らを救いに導いた霊的父です。「パウロはコリントの教会の人たちにどのようなことを勧めているでしょうか?」霊的な父である使徒パウロにならうということです。あなたはイエス様にならうと同時に、だれにならうべきでしょうか?」自分の霊的な父、自分を指導してくれる人です。「あなたはそのようなメンター、霊的指導者を持っていますか?」なぜ、霊的指導者が必要なのでしょう?良いじゃないでしょうか?自分で生きれば?私たちの生活を考えますと、自分の成長を助けてくれるいろんな人たちがいます。この世には知識や技術、あるいは助言を与えてくれる人がいます。しかし、信仰というか霊的な意味で自分の成長を助けてくれる人はいるでしょうか?実はこの世の知識や経験は、霊的な分野ではあまり役にたちません。まず、価値観が全く違います。そして、エネルギーの元がちがいます。この世は自分の力や努力ですが、神の国は神さまの力であり、神さまの恵みだからです。この世の人は神さまの力とか恵みというと笑ってしまうでしょう。ですから、霊的なことがわかる先輩、指導者が必要なのです。

 10年くらい前に、香港からベン・ウォン先生がコーチングについて教えてくださいました。先生ご自身、「メンターとして仕える」という本を書いておられます。序論にこのようなことが書いてありました。新しいクリスチャンはみな、「新生児」として神の国に入ります。赤ちゃんはみな「純粋な霊的ミルク」を渇望しますが、哺乳瓶を自分で持つことはできません。だれかもう少し成長した人に世話をしてもらわなければなりません。私たちはみな、成長を助けてくれる人を必要としているのです。助けは様ざまな方法でもたらされます。合同礼拝では牧師が聖書のみことばを通して教えてくれます。小グループにはその人に関わり、建て上げてくれる人がいます。しかも最も大切なのは、霊的旅路を続けるうえで、特別の関心を持って世話をし、道案内をし、友となってくれる人です。このような人を誰もが必要としているのです。このような個人的関係による養育は、人々の人生を建て上げるための聖書的パターンです。ユダヤ人の家庭では、個人的な教育のほとんどが幼児期から両親によってなされ、子どもたちの生活に神のことばを組み入れることを厳しく教えます。またユダヤ人社会には、少数の弟子を教える「師匠」にあたるラビがいます。イエス様も同じ方法で少数の人たちに教え、導きました。そしてイエス様が弟子たちに使命を与えられた時に強調したのは、他の人を弟子とすることを忘れないように、ということでした。ベン・ウォン先生は、教師と父親の違いをこのように教えておられます。教師は真理を教えますが、父親は世話をし助けます。教師はフォーマル(形式的)ですが、父親はインフォーマル(くだけた)です。私などはずっとくだけています。教師は資料やカリキュラムに従って教えますが、父親は人生のあらゆる事柄を教えます。教師はその教えから学ばせますが、父親はその模範から学ばせます。教師は教えのための時間だけですが、父親は日常生活すべてです。教師と父親の違いとは何なのでしょうか?教師は1つの務めかもしれませんが、父親であることは務めではありません。結論的に両者の決定的な違いは何でしょう?教師は知識を伝えますが、父親は命を与えようとします。大切なのは命なのです。知識は大切ですが、人を変えることができません。しかし、命こそが人を変えることができるのです。つまり、人の世話をするということは、自分の知識ではなく、自分の命を与えていることなのです。

 私も牧師のはしくれですが、「ああ、命を与えているんだなー」ということが分かります。もちろん、自分の命には限りがあります。なぜなら、そんなことをし続けていたら、いずれ燃え尽きてしまうからです。正確には、私の中にあるイエス様の命を与えているということです。イエス様が私の命の源です。イエス様からの霊が私を通して、その人に行っているというのが正確なのかもしれません。中には「そういうものは結構です、間に合っています」という人がいます。私たちも「この人は良いけど、この人からは結構です」と言いたくなります。でも、みなさん、肉体的に生まれた場合、自分の両親を選ぶことができません。生まれたてのときは必ずお世話にならなければなりません。ある程度大きくなったら、自分の教師、自分の指導者を選んだら良いでしょう。でも、最初はだれかにお世話にならなければなりません。それは、教会でも同じことだと思います。教会には3種類の人がいるとⅠヨハネ2章に書かれています。子どもと若者と父です。だれが、子どもの世話ができるのでしょう?若者は一緒に遊ぶことはできるかもしれません。でも、子どもの世話ができるのは霊的な父であり、霊的な母です。最初の頃の私たちは霊的な父、霊的な母が必要です。そして、いずれ私たちが成長したなら、霊的な父、霊的な母として子どもたちの面倒を見るのです。しかし、ここに原則があります。人から育ててもらったことのある人が、人を育てることができるのです。

 

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2015年7月 3日 (金)

キリストに従う者 マタイ4:19-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.5

 本日から『本当の弟子』というテキストから学びたいと思います。今から15年くらい前、韓国のサラン教会の玉(おく)牧師の説教を聞いたことがあります。その当時、サラン教会は弟子訓練として有名でした。玉先生は、キリストの弟子の特徴を3つあげています。第一はキリストに従う者、第二はキリストに学ぶ者、第三はキリストから任命された者なんだということです。今回、このテーマのとおり3回お話ししたいと思います。しかし、この弟子訓練は、「群衆からキリストの弟子になる」という概念があります。私はそうは思いません。イエス様を信じたときからキリストの弟子です。言い換えるとすべてのクリスチャンはキリストの弟子です。しかし、「本当の弟子か?」というとそうではありません。全く自覚をしていないし、弟子の要素もない人もいるからです。ですから、だれでも「本当の弟子」になる必要があるんだということです。

 

1.弟子への召命

 

マタイ419-20「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。」マタイ99「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」

 

 テキストには「わたしについて来なさいとはどういう意味でしょうか?」という質問があります。「わたしについて来なさい」は英語訳ではfollow meです。英語の詳訳聖書にはこう書いてありました。Come after Me as disciples-letting Me be your Guide.訳すと、「弟子として私について来てなさい。私をあなたのガイドにしなさいよ」という意味です。つまり、イエス様について行くということはライフ・スタイルであり、生活全体が含まれるということです。ある若い牧師が、カウンセラーで有名な牧師から「私のカバン持ちをしなさい」と言われたそうです。おそらく、彼は住み込みで先生にお仕えし、いろんな講演に一緒に出掛けて、先生から知識や技能を吸収するのでしょう。日本では師匠と弟子という関係がありますが、師匠はほとんど教えません。特に職人の場合は、丁稚奉公をしながら、お師匠さんから技術を盗むのです。西洋はアカデミー・スタイルで学問的な学びを重視します。しかし、東洋はイエス様もそうですが、生活を共にしながら体験的に教えるというところがあります。日本の神学校は西洋のスタイルを取り入れ、カリシュラムをこなせば良いと思っています。しかし、それで本当の弟子ができるでしょうか?

 

 では、なぜ、弟子たちはイエス様に従ったのでしょう?イエス様のもくろみと弟子たちのもくろみには若干違いがあったようです。イエス様は目に見えない神の国の拡大を目標としていました。しかし、弟子たちはローマからイスラエルを独立させ、地上に王国を建設したいと望んでいました。そしてイスラエル王国が建てられた暁には、自分こそがイエス様の右もしくは、左に座りたいと望んでいました。そのため、イエス様が十字架で死ぬと打ち明けたとき、耳をふさいで理解しようとしませんでした。なぜなら、彼らの思いはこの地上にあったからです。勘違いは、イエス様の復活後も続いていました。使徒16「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」彼らはイエス様がイスラエルの国を復興してくれるメシヤだと思っていたのです。彼らの動機がきよめられたのは、ペンテコステの火が天から降った時でした。しかし、イエス様は彼らの動機が不純であることを知りながら、彼らを弟子として召したのです。イエス様の心はなんと広く、そして深いのでしょうか。私も洗礼を受けて半年後「小さくても良いからイエス様の弟子になりたい」と祈りました。大川牧師は私を志願兵として認めて、神学校に送り出してくれました。志願兵とは司令官が召したのではなく、勝手に願い出たというイメージがあります。私は基礎科で卒業し、信徒献身者としてしばらく教会に仕えました。給料が5万円でした。ある役員さんが鉄工所を経営していたので、そこでアルバイトをしました。青年会の中には、「目立ちたいんだろう」と揶揄する人もいましたが、それほど不純ではありませんでした。本当はアメリカの神学校に行きたかったのですが、ツテもお金もないので、仕方なく日本の神学校にしたというところがありました。志願してから8年後、当亀有教会から招聘が来たのです。按手礼を受けるまで、それから4年かかりました。日本基督教団の銀座教会でさずかりました。でも、振り返って「神さまが本当に私を召したのはいつなんだろう?」と分らないところがあります。私はあの頃は、聖会に行く度ごとに、「恵みの座」に進んで祈ってもらったので、いつなのか分かりません。昨年末から、礼拝ビデオをDVDに移し替える作業をしています。新会堂ができた19935月から始めましたが、あの頃の自分の説教を見て恵まれました。その時、私は「ああ、油注がれているなー。神さまから確かに召されているなー」と分かりました。

 

 でも、弟子として召されることが牧師や伝道者になるということではありません。まず、弟子になる、その先は神さまがお決めになることです。マルチン・ルターは「ベルーフ」と言いましたが、神さまから召されたならそれは聖なる職業(天職)なのです。ペテロやヨハネは漁師でしたが、今度は人間をとる漁師に召されました。でも、彼らの動機はこの世的で、必ずしも純粋ではありませんでした。それでも、なぜイエス様は彼らを召されたのでしょう?彼らの中には「イスラエルのために、そしてこの方に賭けよう」という思いがあったのではないでしょうか?イエス様は全部、存じ上げていながら彼らをご自分の弟子として召したのです。条件はただ1つだけです。私について来るかどうかであります。そうすれば、イエス様が彼らを本当の弟子にすることができるからです。マルコ117「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」欽定訳は"Follow Me, and I will make you become fishers of men."となっています。I will make youイエス様がそうしてくださるということです。イエス様が私たちを本当の弟子にしてくださるのです。その条件は、イエス様について行くということです。

 

2.弟子としての覚悟

 

ルカ1426-2733「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。…そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

 

イエス様の弟子になるためには大切なものを捨てる覚悟が必要です。大切だと思っているものがイエス様の弟子になることを妨げてしまうのです。まず、テキストには、「父、母、妻、子、兄弟、姉妹とイエス様を、どちらを愛すべきなのでしょうか?」とあります。これは一口で言うなら、肉親の情です。ルカ9章を見ると分かりますが、自ら進んでイエス様の弟子になりたい人もいれば、イエス様から「私について来なさい」と言われた人もいます。3種類の人たちが出てきますが、最初の人はどこまでもついて行きますと口では言いました。しかし、イエス様は彼が経済的な保証があるか悩んでいたことが分かりました。今で言うなら、固定給とか社会保険や厚生面のことです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と答えました。その人は「住居も保障されてないの?」と血相を変えて、去って行ったことでしょう。二番目の人はイエス様から召されたにも関わらず、「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と言いました。彼はお父さんの葬儀に出たかったのでしょう。しかし、イエス様は「死人たちに彼らの死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と言いました。もし、彼が家に帰って、イエス様に弟子として召されたことを告げるとどうなるでしょう?お母さんから、「あなたは長男でしょう?だれが、この家を継ぐの?畑や家畜はどうなるの?」と水を差されるのではないでしょうか?三番目の人は「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」と言いました。イエス様は「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」と言われました。おそらく、彼が家に帰ったなら、「何を言っているんだ、目をさませ!」と反対されたでしょう。後ろを向くということは、家族や稼業に未練があるということです。弟子についていくことの中で最も妨げになるのは、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、肉親の情なんだということです。でも、それらを一旦神さまにささげると、神さまご自身が責任を取ってくださるのです。生まれながらの家族関係は一旦切れますが、今度は神さまを第一とした正しい関係になるのです。

 

しかし、イエス様の弟子になるために、最も妨げになるものがあります。それは何でしょう?イエス様はそのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」と言われました。まず、自分のいのちを憎むということを、自分の十字架を負うということに言い換えていることに注目してください。ある人たちは「十字架」を間違って解釈しているからです。十字架を負うというとき、自分の身内の不幸とか子どもの障害を負うと解釈する人がいます。本当はそうではありません。一番問題なのは、他の人ではなくあなた自身なのです(私の家内に言いたい!)。しかし、聖書では「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と命じられています。「自分を憎めとは何ごとでしょう?」とおっしゃるかもしれません。しかし、ユダヤでは「憎む」というのはもっと深い意味があります。旧約的用法では「ある者を他の者より選ぶ、好む」という意味の「愛する」に対して、「選ばない、斥ける、軽視する」ということです。たとえば、ここに牛乳とコカコーラーがあるとします。「どちらを飲みますか?」と問われた場合、私が牛乳を選ぶとします。そのとき、私は「コカコーラーを憎む」と言います。私たちは一方を選んだら、他方は棄てなければなりません。「そんなオーバーな?両方選んでも良いじゃないですか?」と文句をつけるかもしれません。「はい、わかりました」と言って、牛乳とコカコーラーを混ぜたらどうなるでしょうか?気持ち悪くて飲めません。もっと分かり易く結婚にたとえるとどうなるでしょう?もし、一人の女性を選んだなら、他のすべての女性を憎み、棄てなければならないのです。結婚式に来ていたおじょうちゃんが、お母さんに質問しました。「どうして、花嫁さんは白いドレスを着ているの?」お母さんは「これからの人生が明るいからよ」と答えました。さらにおじょうちゃんが、「どうして、花婿さんは黒い洋服を着ているの?」と聞きました。お母さんは「それは花婿さんの気持ちなの」と答えました。彼がすべての女性を諦めざるをえないからかもしれません。もし、弟子としてイエス様について行きたいと願うなら、親族、自分のいのち、財産すべてを憎み、斥けるんだということを忘れてはいけません。

 

テキストに「自分のいのちを捨てる」とは、自分の何を否定することなのでしょう?」と、ありますが、それは、この地上における肉の喜びです。自分が王になりたいという自分の欲望(肉の思い)。人間には「自分さえ良ければ」という本能があり、それは生き延びるために大切なことです。何かの集合写真があるとします。一番最初にだれの顔を見るでしょうか?自分の顔をみます。もし、自分が目をつぶっていたり、変な顔をしている場合、その写真を買うでしょうか?買いません。自分の肉、つまり本能にさからってイエス様について行くということは容易ではありません。だから十字架が必要なのです。私たちには、神さまのみこころに逆らってまでも、自分が生きたいという自我があります。では、「自分の十字架を負って」とはどういう意味でしょう?それは、キリストに弟子として従うことによって受ける苦しみや迫害を意味します。イエス様が苦しみや迫害を受けたのですから、イエス様について行くものが、苦しみや迫害を免れることはできません。親分のイエス様が辱めを受けたのですから、子分の自分が受けないわけにはいきません。もし、人から辱めを受けたなら、一人前の弟子です。使徒5章で使徒たちがイエス様を宣べ伝えたために捕えられ、むちで叩かれました。彼らは釈放された時どういったでしょうか?使徒541「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」とあります。自分のいのち、自我に死ぬ秘訣は何でしょう?それは自分がいつでも十字架につけられるようにするということです。そのために、イエス様は自分の十字架を負って」と言われたのです。ルカ福音書には、「日々、自分の十字架を負って」と書いてあります。「日々」、ですから毎日であります。いつでも死ねるように十字架を負うのです。「死ね」なんて言われると、「弟子になんかなりたくない」と言うのではないでしょうか?しかし。自我に死に、肉に死んで、イエス様について行くときどうなるでしょう?イエス様は十字架で死んでからどうなったでしょう?よみがえらされました。栄光に入れられました。同じように、私たちが十字架で死ぬとき、復活に預かることができるのです。No cross no crown,十字架なくして、冠なしです。

 

3.弟子の特徴

 

マタイ721-27「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 

「主よ、主よ」と言っていた人は、どんな良いことをしていたのでしょう?主の御名によって預言をし、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行いました。でも、彼らは終わりの日、イエス様から何と言われたのでしょうか?わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われました。イエス様から「あなたを全然知らない」と言われたら、どんなに悲しいでしょうか?彼らは「主よ、主よ」と告白し、主の御名で預言をし、悪霊を追い出し、奇跡も行ないました。しかし、彼らはイエス様を自己目的達成のために利用していたのかもしれません。弟子の特徴はみことばを聞いて行う人です。言い換えるならば、主のみこころを行うことです。主のみこころを行わないで「主よ、主よ」と言っている人は、宗教活動をしている人たちです。「主よ、主よ」と言った人はどういう人にたとえられているのでしょう?砂の上に建てられた家というのは、主のことばを聞いても、それを行わない人です。当時の律法学者やパリサイ人は、父のみこころではなく、自分の思いが実現されるように生きていました。私たちは外側の行ないで人を見るところがありますが、主はその人の心をご覧になられます。口先では「主よ、主よ」と言って、良い行ないをしているかもしれません。しかし、心は神さまから離れているのです。私たちは口先だけではなく、父なる神さまのみこころを行なう人でありたいと思います。

 

4.弟子としての特権

 

マルコ1029-30「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者でその百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」イエス様のために、また福音のためにすべてを捨てた人はどのような祝福が与えられるのでしょうか?この世においては、どのような祝福が与えられますか?「その百倍を受けないものありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」と約束されています。私は25歳でイエス様を信じて洗礼を受けました。その1か月後に、友人とつきあっていた彼女を同時に失いました。しかし、教会に来たら、大勢の神の家族が与えられ、ついでに結婚相手も与えられました。キリストの弟子になるとき、棄てるものはほとんどありませんでした。今、思えば「あまり持っていなかったから良かったんだなー」と思います。福音書に出てくる青年役員はイエス様について行くことができませんでした。なぜなら、財産をたくさん持っていたからです。本来、私たちが持っているものは、すべて神さまからいただいたものです。そのことを認めないで、「自分のものだ」としっかり握るなら、偶像になります。失いたくないために必死に守ろうとするでしょう。そして、イエス様の招きにもこたえることができません。イエス様の弟子になりたいなら、家、兄弟、姉妹、母、子、畑、そして自分の命さえも一旦、神さまにささげるのです。その後どうなるのでしょう?それらは自分のものではなく、神さまからゆだねられているものとして正しく管理するのです。もし、神様から「それを戻しなさい」と言われたなら、「はいわかりました」と差し出せば良いのです。でも、それは神さまに返しただけなのです。素晴らしいことに、ささげ切った人生は、失うものが何もないので、恐れがありません。所有者は神さまであり、私たちは管理者です。

 

神さまは最後に、私たちに何を与えて報いてくださるのでしょうか?「後の世では永遠のいのちを受けます」とあります。永遠のいのちとは、ただ長生きするだけではありません。だれもいないところで、一人で永遠に生きるのは辛いと思います。また、神さまがいないところ、つまり地獄で永遠に生きるのも嫌ですね。永遠のいのちとは、神さまがいらっしゃる御国で、愛する兄弟姉妹と永遠に暮らすということです。そこには地上で受けられなかった多くの報いがあるでしょう。また、なくならない平和、喜び、豊かさがあります。永遠の御国は、地上のことを忘れてしまうくらいすばらしいところだと信じます。パウロは「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない」(ローマ818と言いました。ハレルヤ!キリスト弟子とは、天の報いを仰ぎ見つつ、地上における苦しみを、イエス様と一緒に乗り越える人だと思います。

 

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