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2015年7月 3日 (金)

キリストに従う者 マタイ4:19-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.5

 本日から『本当の弟子』というテキストから学びたいと思います。今から15年くらい前、韓国のサラン教会の玉(おく)牧師の説教を聞いたことがあります。その当時、サラン教会は弟子訓練として有名でした。玉先生は、キリストの弟子の特徴を3つあげています。第一はキリストに従う者、第二はキリストに学ぶ者、第三はキリストから任命された者なんだということです。今回、このテーマのとおり3回お話ししたいと思います。しかし、この弟子訓練は、「群衆からキリストの弟子になる」という概念があります。私はそうは思いません。イエス様を信じたときからキリストの弟子です。言い換えるとすべてのクリスチャンはキリストの弟子です。しかし、「本当の弟子か?」というとそうではありません。全く自覚をしていないし、弟子の要素もない人もいるからです。ですから、だれでも「本当の弟子」になる必要があるんだということです。

 

1.弟子への召命

 

マタイ419-20「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。」マタイ99「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」

 

 テキストには「わたしについて来なさいとはどういう意味でしょうか?」という質問があります。「わたしについて来なさい」は英語訳ではfollow meです。英語の詳訳聖書にはこう書いてありました。Come after Me as disciples-letting Me be your Guide.訳すと、「弟子として私について来てなさい。私をあなたのガイドにしなさいよ」という意味です。つまり、イエス様について行くということはライフ・スタイルであり、生活全体が含まれるということです。ある若い牧師が、カウンセラーで有名な牧師から「私のカバン持ちをしなさい」と言われたそうです。おそらく、彼は住み込みで先生にお仕えし、いろんな講演に一緒に出掛けて、先生から知識や技能を吸収するのでしょう。日本では師匠と弟子という関係がありますが、師匠はほとんど教えません。特に職人の場合は、丁稚奉公をしながら、お師匠さんから技術を盗むのです。西洋はアカデミー・スタイルで学問的な学びを重視します。しかし、東洋はイエス様もそうですが、生活を共にしながら体験的に教えるというところがあります。日本の神学校は西洋のスタイルを取り入れ、カリシュラムをこなせば良いと思っています。しかし、それで本当の弟子ができるでしょうか?

 

 では、なぜ、弟子たちはイエス様に従ったのでしょう?イエス様のもくろみと弟子たちのもくろみには若干違いがあったようです。イエス様は目に見えない神の国の拡大を目標としていました。しかし、弟子たちはローマからイスラエルを独立させ、地上に王国を建設したいと望んでいました。そしてイスラエル王国が建てられた暁には、自分こそがイエス様の右もしくは、左に座りたいと望んでいました。そのため、イエス様が十字架で死ぬと打ち明けたとき、耳をふさいで理解しようとしませんでした。なぜなら、彼らの思いはこの地上にあったからです。勘違いは、イエス様の復活後も続いていました。使徒16「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」彼らはイエス様がイスラエルの国を復興してくれるメシヤだと思っていたのです。彼らの動機がきよめられたのは、ペンテコステの火が天から降った時でした。しかし、イエス様は彼らの動機が不純であることを知りながら、彼らを弟子として召したのです。イエス様の心はなんと広く、そして深いのでしょうか。私も洗礼を受けて半年後「小さくても良いからイエス様の弟子になりたい」と祈りました。大川牧師は私を志願兵として認めて、神学校に送り出してくれました。志願兵とは司令官が召したのではなく、勝手に願い出たというイメージがあります。私は基礎科で卒業し、信徒献身者としてしばらく教会に仕えました。給料が5万円でした。ある役員さんが鉄工所を経営していたので、そこでアルバイトをしました。青年会の中には、「目立ちたいんだろう」と揶揄する人もいましたが、それほど不純ではありませんでした。本当はアメリカの神学校に行きたかったのですが、ツテもお金もないので、仕方なく日本の神学校にしたというところがありました。志願してから8年後、当亀有教会から招聘が来たのです。按手礼を受けるまで、それから4年かかりました。日本基督教団の銀座教会でさずかりました。でも、振り返って「神さまが本当に私を召したのはいつなんだろう?」と分らないところがあります。私はあの頃は、聖会に行く度ごとに、「恵みの座」に進んで祈ってもらったので、いつなのか分かりません。昨年末から、礼拝ビデオをDVDに移し替える作業をしています。新会堂ができた19935月から始めましたが、あの頃の自分の説教を見て恵まれました。その時、私は「ああ、油注がれているなー。神さまから確かに召されているなー」と分かりました。

 

 でも、弟子として召されることが牧師や伝道者になるということではありません。まず、弟子になる、その先は神さまがお決めになることです。マルチン・ルターは「ベルーフ」と言いましたが、神さまから召されたならそれは聖なる職業(天職)なのです。ペテロやヨハネは漁師でしたが、今度は人間をとる漁師に召されました。でも、彼らの動機はこの世的で、必ずしも純粋ではありませんでした。それでも、なぜイエス様は彼らを召されたのでしょう?彼らの中には「イスラエルのために、そしてこの方に賭けよう」という思いがあったのではないでしょうか?イエス様は全部、存じ上げていながら彼らをご自分の弟子として召したのです。条件はただ1つだけです。私について来るかどうかであります。そうすれば、イエス様が彼らを本当の弟子にすることができるからです。マルコ117「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」欽定訳は"Follow Me, and I will make you become fishers of men."となっています。I will make youイエス様がそうしてくださるということです。イエス様が私たちを本当の弟子にしてくださるのです。その条件は、イエス様について行くということです。

 

2.弟子としての覚悟

 

ルカ1426-2733「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。…そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

 

イエス様の弟子になるためには大切なものを捨てる覚悟が必要です。大切だと思っているものがイエス様の弟子になることを妨げてしまうのです。まず、テキストには、「父、母、妻、子、兄弟、姉妹とイエス様を、どちらを愛すべきなのでしょうか?」とあります。これは一口で言うなら、肉親の情です。ルカ9章を見ると分かりますが、自ら進んでイエス様の弟子になりたい人もいれば、イエス様から「私について来なさい」と言われた人もいます。3種類の人たちが出てきますが、最初の人はどこまでもついて行きますと口では言いました。しかし、イエス様は彼が経済的な保証があるか悩んでいたことが分かりました。今で言うなら、固定給とか社会保険や厚生面のことです。イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と答えました。その人は「住居も保障されてないの?」と血相を変えて、去って行ったことでしょう。二番目の人はイエス様から召されたにも関わらず、「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と言いました。彼はお父さんの葬儀に出たかったのでしょう。しかし、イエス様は「死人たちに彼らの死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と言いました。もし、彼が家に帰って、イエス様に弟子として召されたことを告げるとどうなるでしょう?お母さんから、「あなたは長男でしょう?だれが、この家を継ぐの?畑や家畜はどうなるの?」と水を差されるのではないでしょうか?三番目の人は「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」と言いました。イエス様は「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」と言われました。おそらく、彼が家に帰ったなら、「何を言っているんだ、目をさませ!」と反対されたでしょう。後ろを向くということは、家族や稼業に未練があるということです。弟子についていくことの中で最も妨げになるのは、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、肉親の情なんだということです。でも、それらを一旦神さまにささげると、神さまご自身が責任を取ってくださるのです。生まれながらの家族関係は一旦切れますが、今度は神さまを第一とした正しい関係になるのです。

 

しかし、イエス様の弟子になるために、最も妨げになるものがあります。それは何でしょう?イエス様はそのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」と言われました。まず、自分のいのちを憎むということを、自分の十字架を負うということに言い換えていることに注目してください。ある人たちは「十字架」を間違って解釈しているからです。十字架を負うというとき、自分の身内の不幸とか子どもの障害を負うと解釈する人がいます。本当はそうではありません。一番問題なのは、他の人ではなくあなた自身なのです(私の家内に言いたい!)。しかし、聖書では「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と命じられています。「自分を憎めとは何ごとでしょう?」とおっしゃるかもしれません。しかし、ユダヤでは「憎む」というのはもっと深い意味があります。旧約的用法では「ある者を他の者より選ぶ、好む」という意味の「愛する」に対して、「選ばない、斥ける、軽視する」ということです。たとえば、ここに牛乳とコカコーラーがあるとします。「どちらを飲みますか?」と問われた場合、私が牛乳を選ぶとします。そのとき、私は「コカコーラーを憎む」と言います。私たちは一方を選んだら、他方は棄てなければなりません。「そんなオーバーな?両方選んでも良いじゃないですか?」と文句をつけるかもしれません。「はい、わかりました」と言って、牛乳とコカコーラーを混ぜたらどうなるでしょうか?気持ち悪くて飲めません。もっと分かり易く結婚にたとえるとどうなるでしょう?もし、一人の女性を選んだなら、他のすべての女性を憎み、棄てなければならないのです。結婚式に来ていたおじょうちゃんが、お母さんに質問しました。「どうして、花嫁さんは白いドレスを着ているの?」お母さんは「これからの人生が明るいからよ」と答えました。さらにおじょうちゃんが、「どうして、花婿さんは黒い洋服を着ているの?」と聞きました。お母さんは「それは花婿さんの気持ちなの」と答えました。彼がすべての女性を諦めざるをえないからかもしれません。もし、弟子としてイエス様について行きたいと願うなら、親族、自分のいのち、財産すべてを憎み、斥けるんだということを忘れてはいけません。

 

テキストに「自分のいのちを捨てる」とは、自分の何を否定することなのでしょう?」と、ありますが、それは、この地上における肉の喜びです。自分が王になりたいという自分の欲望(肉の思い)。人間には「自分さえ良ければ」という本能があり、それは生き延びるために大切なことです。何かの集合写真があるとします。一番最初にだれの顔を見るでしょうか?自分の顔をみます。もし、自分が目をつぶっていたり、変な顔をしている場合、その写真を買うでしょうか?買いません。自分の肉、つまり本能にさからってイエス様について行くということは容易ではありません。だから十字架が必要なのです。私たちには、神さまのみこころに逆らってまでも、自分が生きたいという自我があります。では、「自分の十字架を負って」とはどういう意味でしょう?それは、キリストに弟子として従うことによって受ける苦しみや迫害を意味します。イエス様が苦しみや迫害を受けたのですから、イエス様について行くものが、苦しみや迫害を免れることはできません。親分のイエス様が辱めを受けたのですから、子分の自分が受けないわけにはいきません。もし、人から辱めを受けたなら、一人前の弟子です。使徒5章で使徒たちがイエス様を宣べ伝えたために捕えられ、むちで叩かれました。彼らは釈放された時どういったでしょうか?使徒541「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」とあります。自分のいのち、自我に死ぬ秘訣は何でしょう?それは自分がいつでも十字架につけられるようにするということです。そのために、イエス様は自分の十字架を負って」と言われたのです。ルカ福音書には、「日々、自分の十字架を負って」と書いてあります。「日々」、ですから毎日であります。いつでも死ねるように十字架を負うのです。「死ね」なんて言われると、「弟子になんかなりたくない」と言うのではないでしょうか?しかし。自我に死に、肉に死んで、イエス様について行くときどうなるでしょう?イエス様は十字架で死んでからどうなったでしょう?よみがえらされました。栄光に入れられました。同じように、私たちが十字架で死ぬとき、復活に預かることができるのです。No cross no crown,十字架なくして、冠なしです。

 

3.弟子の特徴

 

マタイ721-27「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 

「主よ、主よ」と言っていた人は、どんな良いことをしていたのでしょう?主の御名によって預言をし、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行いました。でも、彼らは終わりの日、イエス様から何と言われたのでしょうか?わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われました。イエス様から「あなたを全然知らない」と言われたら、どんなに悲しいでしょうか?彼らは「主よ、主よ」と告白し、主の御名で預言をし、悪霊を追い出し、奇跡も行ないました。しかし、彼らはイエス様を自己目的達成のために利用していたのかもしれません。弟子の特徴はみことばを聞いて行う人です。言い換えるならば、主のみこころを行うことです。主のみこころを行わないで「主よ、主よ」と言っている人は、宗教活動をしている人たちです。「主よ、主よ」と言った人はどういう人にたとえられているのでしょう?砂の上に建てられた家というのは、主のことばを聞いても、それを行わない人です。当時の律法学者やパリサイ人は、父のみこころではなく、自分の思いが実現されるように生きていました。私たちは外側の行ないで人を見るところがありますが、主はその人の心をご覧になられます。口先では「主よ、主よ」と言って、良い行ないをしているかもしれません。しかし、心は神さまから離れているのです。私たちは口先だけではなく、父なる神さまのみこころを行なう人でありたいと思います。

 

4.弟子としての特権

 

マルコ1029-30「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者でその百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」イエス様のために、また福音のためにすべてを捨てた人はどのような祝福が与えられるのでしょうか?この世においては、どのような祝福が与えられますか?「その百倍を受けないものありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」と約束されています。私は25歳でイエス様を信じて洗礼を受けました。その1か月後に、友人とつきあっていた彼女を同時に失いました。しかし、教会に来たら、大勢の神の家族が与えられ、ついでに結婚相手も与えられました。キリストの弟子になるとき、棄てるものはほとんどありませんでした。今、思えば「あまり持っていなかったから良かったんだなー」と思います。福音書に出てくる青年役員はイエス様について行くことができませんでした。なぜなら、財産をたくさん持っていたからです。本来、私たちが持っているものは、すべて神さまからいただいたものです。そのことを認めないで、「自分のものだ」としっかり握るなら、偶像になります。失いたくないために必死に守ろうとするでしょう。そして、イエス様の招きにもこたえることができません。イエス様の弟子になりたいなら、家、兄弟、姉妹、母、子、畑、そして自分の命さえも一旦、神さまにささげるのです。その後どうなるのでしょう?それらは自分のものではなく、神さまからゆだねられているものとして正しく管理するのです。もし、神様から「それを戻しなさい」と言われたなら、「はいわかりました」と差し出せば良いのです。でも、それは神さまに返しただけなのです。素晴らしいことに、ささげ切った人生は、失うものが何もないので、恐れがありません。所有者は神さまであり、私たちは管理者です。

 

神さまは最後に、私たちに何を与えて報いてくださるのでしょうか?「後の世では永遠のいのちを受けます」とあります。永遠のいのちとは、ただ長生きするだけではありません。だれもいないところで、一人で永遠に生きるのは辛いと思います。また、神さまがいないところ、つまり地獄で永遠に生きるのも嫌ですね。永遠のいのちとは、神さまがいらっしゃる御国で、愛する兄弟姉妹と永遠に暮らすということです。そこには地上で受けられなかった多くの報いがあるでしょう。また、なくならない平和、喜び、豊かさがあります。永遠の御国は、地上のことを忘れてしまうくらいすばらしいところだと信じます。パウロは「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない」(ローマ818と言いました。ハレルヤ!キリスト弟子とは、天の報いを仰ぎ見つつ、地上における苦しみを、イエス様と一緒に乗り越える人だと思います。

 

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