« キリストに従う者 マタイ4:19-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.5 | トップページ | キリストから任命された者 ヨハネ15:16、17:18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.19 »

2015年7月10日 (金)

キリストに学ぶ者 マタイ11:28-30 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.12

 先週、キリストの弟子には3つの特徴があると申し上げました。第二番目の特徴は何でしょうか?弟子とは「キリストに学ぶ者」であるということです。簡単に言うと、ラビであるイエス様のそばにいて、すべてのものを体得するということです。私の恩師、大川牧師は、私が献身を表明したとき「だれからでも学びなさい。貪欲に学び続けなさい」と言ってくれました。私はその言いつけを今も守り続けています。たまに新しいことを発見したときは、大川牧師に送ります。この間、「キリストの復活」の説教原稿をファックスで送りつけました。夕方、先生からお電話があり、ちょっと説明してみろと言われました。最後に、「言っていることは、よく分からないけど、感動していることはよく分かった。勉強しているね、大したもんだ」とほめられました。ところで、キリストに学ぶ者とは、どういう意味でしょうか?

1.キリストのくびきを負う

マタイ1128-30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」日曜日、私たちは一週間分の重い荷物を背負って礼拝に来ます。イエス様から「重荷を負っている人は私のところに来なさい。休ませてあげるよ」と言われます。「ありがとうございます」と、重荷を神さまのところに降ろします。「ああ軽くなった」と喜んでお家に帰ります。するとサタンが待っていて、新たな重荷を用意しています。次の週はもっと重い荷物を背負って教会に行きます。教会で神さまの前に重荷を降ろします。喜んでお家に帰ります。するとサタンが、さらに重い重荷を用意しています。質問があります。「一度重荷を降ろして休んだはずなのに、また次から重荷がやってくるのは何故でしょう?」それは、ある物はキリストにゆだねていますが、ある物は自分で握って離さないからです。あなたには、「これは自分が管理します。これだけは神さまに任せることはできません」というものはないでしょうか?あなたが全部ゆだねるとき、本当の安息がやって来るのです。

「このみことばから、イエス様はどのようなお方であることが分かるでしょう?」イエス様は心優しく、へりくだっているお方です。どういう意味でしょうか?独裁者のようにコントロールしないで、優しく導いてくれるということです。エリヤハウスでは、「愛の反対はコントロールである」と教わりました。私たちはうるさく言われると、肉が目覚めて逆らいたくなるのです。次の質問です。「イエス様はどうしたら、たましいに安らぎが来ると言われたでしょう?」キリストのくびきを負って、キリストに学ぶとたましいに安らぎがきます。教会ではマタイ1128節は言いますが、29節のくびきを負って学ぶことは教えません。だから、一時的な休みしか得ることができないのです。イエス様は休息だけではなく、成長して解決していく道も教えてくださいます。私たちがイエス様と一緒にくびきを負ったなら、どうなるのでしょう?あなたの荷は軽くなります。

 現代の人はくびきが何であるか分からないと思います。くびきとは、二頭の牛や馬が、一緒に働くための木製の農具です。イエス様は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言われました。たとえて言うなら、イエス様がベテラン牛で、私たちが新米牛です。ベテラン牛は経験豊富で力もあります。ところが新米牛はどうでしょうか?「お腹が減ったので草を食べたい」と横道に行きます。ある時は、「疲れたので、休みたい」と言います。ベテラン牛は「今は仕事中だ。私と一緒に働きなさい」と言います。新米牛はくびがつながっているので、勝手な行動を取ることができません。最初はとても不自由で、首も痛くてしょうがありませんでした。ところが、ベテラン牛と一緒に仕事をしているうちに、筋肉もつき、忍耐力も増し加わりました。だんだんベテラン牛に近づきました。質問があります。「イエス様と一緒にくびきを負うなら、あなたの荷はどうなるでしょう?」軽くなります。ベテラン牛であるイエス様が重い方の重荷を負ってくれるので、負担が軽いのです。信仰生活とは何でしょう?イエス様と一緒にくびきを負って、イエス様に学びながらついて行くことです。「主イエスと共に歩きましょう。どこまでも、主イエスと共に歩きましょう、いつも。うれしい時も、悲しいときも歩きましょう。どこまでも、うれしい時も悲しい時も歩きましょう、いつも。」イエス様こそ私たちのベテラン牛であり、このお方と組むならば、荷が軽くなるのです。そのようにくびきを負いながら歩むことが、イエス様に学ぶことなのです。

弟子というギリシャ語はマセテースですが、「学ぶ」という動詞から来ています。弟子、マセテースは、師匠であられるイエス様に学ぶ人、見習う人です。当時、人々は2つの場所、人から学びました。第一は父、第二はラビからでした。ラビは人生のあらゆる領域について教えることができました。イエス様は私たちの父であり、ラビです。どんなことでも、イエス様から学ぶことができます。ハレルヤ!

2.キリストと生活を共にする

マルコ313-15「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」このみことばから、質問があります。「弟子とは自分からやって来たのでしょうか?それとも、イエス様に呼び寄せられたのでしょうか?」このところには、「イエス様が呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た」と書いてあります。イエス様が主権的に選ばれたのです。ルカ福音書には「一晩中、祈ったあとに彼らを選んだ」と書いてあります。普通だったらイスラエル大学から優秀な人を選びたいところです。ところが教育のないガリラヤの漁師たちや人をだます取税人でした。疑いに満ちた人、気の短い人、ご自分を裏切る人もいました。おそらく、イエス様は御父のみこころに従ったと思われます。私たちは最初の頃、「私がイエス様を選んだ」「私がイエス様を信じた」と思っていたかもしれません。しかし、イエス様の方が最初に私たちを選ばれたのです。ヨハネ1516「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」もし、私たちがいつまでも「私がイエス様を選んだ」「私がイエス様を信じた」という信仰だったらどうでしょう?何か困難にあったとき、「ああ、私が選び間違えたんだ」と簡単に離れてしまうでしょう。洗礼を受けても数年後、教会を去る人がおられます。そういう人は、自分が信じたと思っている人です。自分ほどいい加減な者はありません。でも、イエス様はどこまでも真実です。真実なるイエス様が私たちを選んでくださったのです。このような信仰を持つと簡単には躓きません。

イエス様は何のために、十二弟子を身近に置いたのでしょう?イエス様は自分の生き方を見せたかったからです。「身近に置き」のギリシャ語はメタです。メタ、英語ではwithであり、同伴者、仲間、弟子、部下として「一緒にいる」という意味があります。イエス様は寝食を共にしながら、弟子たちを教えました。西洋の教育はカリキュラムを組み、教室の中に生徒を集めて、短期間に知識を詰め込もうとします。しかし、そういう知識はすぐなくなってしまいます。イエス様が弟子たちをそばに置いたのは、体験的に教えたかったのです。多くの場合、イエス様は町や村で、問題に遭遇したときに教えました。あるときは、「やってみなさい」と失敗するのを分かっていながらやらせました。ちょっと教えたら、それをやらせ、失敗したら「本当はこうだよ」と教えてあげました。神からの教師イエス様は、身につく体験的な教え方をされました。体験的ということが分かるでしょうか?水泳、自転車、スキーなどは教室では学べません、体験的に学ぶものです。しかし、一度体験的に学んだものは、しばらくやってなくてもすぐできます。なぜなら、体が覚えているからです。頭だけの知識は短期間しか持ちません。一夜漬けでテスト勉強をするかもしれません。でも、試験が終わったら全部忘れてしまいます。しかし、体験的な知識は永続し、実際の生活に役に立ちます。ハレルヤ!私たちも、イエス様のそばで暮らし、体験的な知識を身に着けるようにしましょう。

「イエス様の訓練の目的は何だったでしょう?」彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためです。イエス様は、ご自身の働きを弟子たちにゆだね、やがてそれが拡大していくように計画しておられました。私は15年くらい前、弟子訓練のプログラムを取り入れ、自らも学びました。ところが、「派遣」がありませんでした。いつまでも「訓練」「訓練」でした。つまり、訓練のための訓練だったのです。そうなると「まだ不十分だ、まだ不十分だ」と恐ればかり膨らんできて、外に向かうことができなくなります。弟子たちもイエス様とずっといたかったと思います。でも、たった3年半しか一緒にいることができませんでした。イエス様が天に帰られる時、弟子たちはどうみても不十分、未熟としか見えませんでした。しかし、使徒の働きを見るとわかりますが聖霊が降臨した後、別人になりました。弟子たちはイエス様から教えられたことを思い出して、実行していったのです。やがて、彼らは世界の果てにまで行きました。質問があります。「今、だれがイエス様の働きを担っているのでしょうか?」弟子たちはもう地上にいません。そうです。私たちにバトンが渡されているのです。私たちこそイエス様から遣わされたものです。福音を宣べ伝える命令と、悪霊を追い出すための権威が与えられているのです。

3.キリストに目を向ける

 ルカ1038-42「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」マリヤは主の足もとに座って、何をしていたでしょう?」彼女は、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました。そのとき、姉のマルタはどのような気持ちだったのでしょう?自分だけが働いているので、気が落ち着かなくなっていました。彼女はあれこれと思い煩っていました。さらには、イエス様が何もしないマリヤを注意しないので憤りを覚えていました。大事な質問があります。イエス様は「マリヤはその良いほうを選んだのです」と言われました。その理由とは何でしょう?人々をもてなすために気をもむよりも、静かに主のみことばを聞くことの方が大事だからです。この場合、もてなすことがベターであるなら、主のみことばを聞くことがベストです。ある人が、「ベターはベストの敵である」と言いました。

さて、マリヤからどのような弟子の姿を見ることができるでしょう?彼女の主から一言も逃さないように聞き入って学ぶ姿、これが弟子の姿なのです。多くの場合、教会の奉仕を考えて、姉のマルタに同情します。しかし、このときは奉仕のときでありません。なぜなら、イエス様がすぐ近くで教えておられるからです。マリヤはイエス様のことばを1つも逃さないように聞き入っていました。師匠の前に教えをいだだこうと座っている姿こそ、弟子の姿ではないでしょうか。詩篇1232「ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。」弟子たちは、イエス様がエルサレムで死ぬことを信じようとはしませんでした。しかし、マリヤだけがそのことを知っていました。なぜなら、主のみことばをちゃんと聞いていたからです。「ああ、香油をささげるのは今しかない」と分かりました。みことばを聞いていたマリヤだけが、イエス様の最期を予期して、ナルドの香油を注ぐことができたのです。

 高校野球を見ていると分かりますが、バッターはいつも監督のサインを見ています。バントすべきか、ヒットエンドランなのか指示を仰ぎます。もし、私たちに指示を送っておられるイエス様がおられるとしたらどうでしょう?たとえば、車を運転しているとき、「路地からだれか出てくるぞ」と教えてくれます。「覆面パトカーがいるぞ」と教えてくれたらありがたいのですが、そういうことはあまりありません。ある時は、「この人は口で言っていることと、心で思っているころが違うよ」と教えてくれます。またある時は、「疑わないで、信じて行きなさい」と励ましてくれます。私たちはイエス様にたえず目を向けるべきであります。スマホよりも、イエス様です。この世の中のガサ情報に目をとめないでください。ヘブル12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」イエス様は確かな道へと私たちと導いてくださいます。

4.メンター(霊的父親)を持つ

Ⅰコリント416-17「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。」Ⅰコリント11:1「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」「コリントの教会の人たちの霊的な父はだれでしょう?」使徒パウロです。パウロが彼らを生んだからです。つまり、彼らを救いに導いた霊的父です。「パウロはコリントの教会の人たちにどのようなことを勧めているでしょうか?」霊的な父である使徒パウロにならうということです。あなたはイエス様にならうと同時に、だれにならうべきでしょうか?」自分の霊的な父、自分を指導してくれる人です。「あなたはそのようなメンター、霊的指導者を持っていますか?」なぜ、霊的指導者が必要なのでしょう?良いじゃないでしょうか?自分で生きれば?私たちの生活を考えますと、自分の成長を助けてくれるいろんな人たちがいます。この世には知識や技術、あるいは助言を与えてくれる人がいます。しかし、信仰というか霊的な意味で自分の成長を助けてくれる人はいるでしょうか?実はこの世の知識や経験は、霊的な分野ではあまり役にたちません。まず、価値観が全く違います。そして、エネルギーの元がちがいます。この世は自分の力や努力ですが、神の国は神さまの力であり、神さまの恵みだからです。この世の人は神さまの力とか恵みというと笑ってしまうでしょう。ですから、霊的なことがわかる先輩、指導者が必要なのです。

 10年くらい前に、香港からベン・ウォン先生がコーチングについて教えてくださいました。先生ご自身、「メンターとして仕える」という本を書いておられます。序論にこのようなことが書いてありました。新しいクリスチャンはみな、「新生児」として神の国に入ります。赤ちゃんはみな「純粋な霊的ミルク」を渇望しますが、哺乳瓶を自分で持つことはできません。だれかもう少し成長した人に世話をしてもらわなければなりません。私たちはみな、成長を助けてくれる人を必要としているのです。助けは様ざまな方法でもたらされます。合同礼拝では牧師が聖書のみことばを通して教えてくれます。小グループにはその人に関わり、建て上げてくれる人がいます。しかも最も大切なのは、霊的旅路を続けるうえで、特別の関心を持って世話をし、道案内をし、友となってくれる人です。このような人を誰もが必要としているのです。このような個人的関係による養育は、人々の人生を建て上げるための聖書的パターンです。ユダヤ人の家庭では、個人的な教育のほとんどが幼児期から両親によってなされ、子どもたちの生活に神のことばを組み入れることを厳しく教えます。またユダヤ人社会には、少数の弟子を教える「師匠」にあたるラビがいます。イエス様も同じ方法で少数の人たちに教え、導きました。そしてイエス様が弟子たちに使命を与えられた時に強調したのは、他の人を弟子とすることを忘れないように、ということでした。ベン・ウォン先生は、教師と父親の違いをこのように教えておられます。教師は真理を教えますが、父親は世話をし助けます。教師はフォーマル(形式的)ですが、父親はインフォーマル(くだけた)です。私などはずっとくだけています。教師は資料やカリキュラムに従って教えますが、父親は人生のあらゆる事柄を教えます。教師はその教えから学ばせますが、父親はその模範から学ばせます。教師は教えのための時間だけですが、父親は日常生活すべてです。教師と父親の違いとは何なのでしょうか?教師は1つの務めかもしれませんが、父親であることは務めではありません。結論的に両者の決定的な違いは何でしょう?教師は知識を伝えますが、父親は命を与えようとします。大切なのは命なのです。知識は大切ですが、人を変えることができません。しかし、命こそが人を変えることができるのです。つまり、人の世話をするということは、自分の知識ではなく、自分の命を与えていることなのです。

 私も牧師のはしくれですが、「ああ、命を与えているんだなー」ということが分かります。もちろん、自分の命には限りがあります。なぜなら、そんなことをし続けていたら、いずれ燃え尽きてしまうからです。正確には、私の中にあるイエス様の命を与えているということです。イエス様が私の命の源です。イエス様からの霊が私を通して、その人に行っているというのが正確なのかもしれません。中には「そういうものは結構です、間に合っています」という人がいます。私たちも「この人は良いけど、この人からは結構です」と言いたくなります。でも、みなさん、肉体的に生まれた場合、自分の両親を選ぶことができません。生まれたてのときは必ずお世話にならなければなりません。ある程度大きくなったら、自分の教師、自分の指導者を選んだら良いでしょう。でも、最初はだれかにお世話にならなければなりません。それは、教会でも同じことだと思います。教会には3種類の人がいるとⅠヨハネ2章に書かれています。子どもと若者と父です。だれが、子どもの世話ができるのでしょう?若者は一緒に遊ぶことはできるかもしれません。でも、子どもの世話ができるのは霊的な父であり、霊的な母です。最初の頃の私たちは霊的な父、霊的な母が必要です。そして、いずれ私たちが成長したなら、霊的な父、霊的な母として子どもたちの面倒を見るのです。しかし、ここに原則があります。人から育ててもらったことのある人が、人を育てることができるのです。

 

|

« キリストに従う者 マタイ4:19-20 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.5 | トップページ | キリストから任命された者 ヨハネ15:16、17:18 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.7.19 »