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2015年6月26日 (金)

親子逆転と代理配偶者 Ⅱコリント12:14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.28

 親子逆転という言葉を聞かれたことがあるでしょうか?日本では子どもが親の手伝いをすることは美徳とされています。特に片親が親の役目を果たしていない時、長男もしくは長女が家を支えるということがあります。とかくそういう子どもは頭が良くて、能力があります。だから、周りの人たちは「良くやっているわねー、偉いわねー」とほめます。でも、そういう子どもが大きくなると、周りの人たちから嫌がられます。なぜでしょう?とかく仕切りたがるからです。その人はとても優秀かもしれません。でも、その人といるとなんだか支配されているような感じがするのです。その人が結婚して家庭を持ったとします。外にいるときは解放されて自由ですが、家の中ではたくさんの責任を負っているので気が休まることがありません。自分もしくは身近な人のことで思い当たるふしがあるでしょうか?


1.親子逆転とは


サンフォード師は『内なる人の変革』という本の中で、このように定義しています。「親子逆転」とは、片親もしくは両親が未熟過ぎたり、親としての務めを果たせていなかったりするため、子どもが自分の親の親代わりになるという責任を負ってしまうときに起こる問題を表現する用語です。これは神の定めた秩序を逆にするものです。子どもが気兼ねなく子どもでいられ、安心できる家庭を提供することは親の務めです。親が子どもの面倒を見るのであって、その逆ではありません。様ざまな雑用や責任を任せていくことは子どもにとって良い訓練ですが、家族の面倒を見るという責任の重圧は、あくまでも子どもではなく両親の方に置かれるべきです。親子逆転の罪は、憎むのが難しい罪です。多くの人にとって、それが人生の「崇高な」目的となってしまっているからです。その犠牲的な奉仕は、みことばに基づいたもののように思えます。しかし、神が私たちに、人のために自分のいのちを捨てなさいと言われたのは、神ご自身のためであって、私たちの傷ついた心からくる不純な動機のためではありません。なぜそこに罪の側面があるかというなら、うまく務めを果たしていない親に対して、軽蔑の気持ちが隠されているからです。親を敬うことが必要であり大切なのですが、親によって失望させられ、がっかりした気持ちを抱いてしまっています。


 歯科医でエリヤハウスの奉仕をしておられるジョンという人の証です。私は1950年、4人兄弟の長男として生まれました。父は一生懸命働きましたが、給与が良くありませんでした。父は2つの仕事を持っていたために、家にほとんどいませんでした。それでも豊かとは言えず、月末になると、食べ物が家に無い状態がありました。私は10歳で新聞配達をし、弟にも自分のもとで働かせ、小遣いをやりました。月末に食糧がなくなると、自分の稼いだお金でステーキを家族に食べさせました。私が家族の必要を満たしているという誇りを持ちました。弟や妹は喜んでくれたし、母も自分の息子はすばらしいことをしていると思っていました。ただし、お父さんは複雑な表情をしていましたが、なぜだか分かりませんでした。私は自分のことを誇りに思っていました。夜、父が仕事に出て行くと、母はいろんなことを話してくれました。確かに、母が息子に対する特別な関係だったかもしれません。しかし、そういう自分に誇りを抱いていました。私は弟と二人の妹をいつも守っていました。弟やもう一人の妹が、幼い妹をからかっているとき、「妹をもっと大事にしなさい」と叱りました。一番下の妹が私を慕ってくれたことを誇りに思っていました。私は弟を狩りや魚釣りに連れて行きました。お父さんが自分でやってくれたらいいのにと思ったことを弟にやってあげました。弟は自分のことを愛してくれたし、私も弟を愛しました。そういう自分を誇りに思っていました。



 彼の証の中に時々出て来たフレーズは何だったでしょうか?そうです。自分を誇りに思っていたということです。それから、彼自身の中にあった隠された思いとは何でしょうか?なぜ、父親は複雑な表情をしていたのでしょうか?彼自身がおっしゃっていますが、父を愛していましたが、尊敬はしていなかったのです。なぜそこに罪の側面があるかというならば、うまく務めを果たしていない親に対する軽蔑の気持ちが隠されていたからです。彼は大人になってどういう人になったでしょうか?彼は、頼るべき強い人になるという態度を身につけました。職場でも教会でも私が一番、献身においても私が一番と思っていました。彼は牧師に仕えましたが、牧師から祝福されたいという気持ちになれませんでした。時々、牧師よりも自分の方が良くわかっていると思いました。彼は「自分が重要だ」と思うあまり、他の人のことを認めることができませんでした。彼は家庭を持ちましたが、子どもたちに最高の子育てをしなければならないと思っていたので、ちっとも平安がありませんでした。自分の家庭を持っても、なお自分の弟のことを面倒見ていました。弟はすでに立派な大人だったのに狩りに連れて行きました。彼は親子逆転の典型的な例だと思います。彼の中には自分が一番だというプライドがありました。職場でも教会でも、家庭の中ででもそうでした。


2.親子逆転の実


大人になったときに現われる、親子逆転の実とはどういうものでしょうか?

・弱い人々を助ける強い人間

・問題解決をする人、命を与える人

・どんなに疲れていても休むことができない

・周りの状況を常にコントロールし、人間関係が常に上手にいっていなければ気がすまない。

親子逆転の夫は「嫁と姑」の口論を見ていられません。本当は口論をしながら、二人で仲直りしていくものです。子どものときに、たくさんの喧嘩を見てきたので、そういうことは想像もできません。一方、親子逆転の妻の場合は、気も体も休まることがありません。ストレスがたまる生き方をしています。

・何事もうまくいっていなければ気がすまない

・人を信頼するのが難しい。自分の方がちゃんとできると信じているので他の人に任せることができません。他の人の自主性を奪います。また、夫婦の場合は、配偶者を出し抜こうとします。夫もしくは妻の役目を奪い、人間性を尊敬することができません。

・神を信頼することが難しい。 神さまのすることを、弱くて助けが必要な存在と思っています。だから、「私にはできません」と言えません。

・高慢さ。この人は「崇高な殉教者」です。人々と神様のために尽しているのに、なぜ人から恨まれるのか分かりません。

・非常に大きな恐れ。 「もし自分が今やっていることをやめてしまったら、家族の生活や自分の生活、世の中すべてがめちゃめちゃになってしまう。私のせいで」と思っています。

・乱暴や無秩序にどう対処していいかわからない

・感じることができない。問題が起こると、感情を殺して理性で解決しようとします。配偶者や子どもたちと親密な関係を築き、一体になることができません。


 今、思えば、私の一番上の兄と一番上の姉が親子逆転の傾向を持っていました。我が家は8人の兄弟がいましたが、父が国鉄をやめてから働かないで毎晩お酒を飲むようになりました。時々、怒り出しては母を殴り、私たち子どもにも暴力が及ぶことがありました。一番上の姉はお嫁に行ってからも、実家の私たち兄弟を経済的に支えてくれました。長女はいつも母の見方でした。また、一番上の兄は稼業を継がないで、関東の会社から仕送りをしてくれました。母は長女を「姉さん」、長男を「兄さん」と呼んで頼っていました。しかし、私たち下の子どもは、長女のお世話が好きでありませんでした。彼女が買ってくれたセーターや靴が気に入りませんでした。また、長男がお盆や正月に帰って来ますが、私たちを「百姓」と馬鹿にしました。勉強を教えるとき「こんなことも分からないのか?」と見下しました。また、お年玉を投げるようにくれたので、ありがたいとは思いませんでした。特に上から二番目の兄は頭があまり良くなかったので、良くできる長女と長男を心の底から憎んでいました。つまり、親が親らしく経済的にも精神的にも治めなかったので、下にいる子どもたちが不安になったのです。長女や長男が家をささえたので、バランスがくずれてしまったのです。成人してから長女の家や長男の家を何度か訪問したことがありました。その時は分かりませんでしたが、今思うと、親子逆転の実がそれぞれの家庭にもあることを知りました。長女の家では、彼女が忙しく動いて、一緒にテーブルに座っていることができません。長男は会社にいるときは明朗活発でとても能力がありますが、家ではとても支配的です。彼らは自分を犠牲にして、私たち弟や妹の世話をしてくれました。私たちが高校を出られたのも、彼らのおかげです。でも、彼らは父親をとても憎んでいました。「なんで私が、なんで俺が」と怒りを持ちながら、実家を支えたからそうなったのだと思います。


3.親子逆転のいやし(ミニストリーをする人の立場から)


まず、自分の親を赦すことです。ある人は、ちゃんとしてくれなかったお父さんを赦すのは簡単でした。しかし、そこにいたお母さんを赦すことができませんでした。だから、両親を赦すことが必要です。注意することは、その人の気持ちの部分を取り扱うことです。心の奥に怒りが隠されていることをわかってもらいます。「それでも自分で頑張ることができる子どもの絵」を見せます。子どもが親の代わりをするのはフェアーではありません、無理です。心の中が怒りでいっぱいになります。自分自身の子ども時代を失った怒りとさみしさがあります。親の面倒をみることが、子どもの責任でないということをわからないうちにやっていたからです。しかし、もっと深い部分において、だれも私の面倒を見てくれる人はいないと思っていました。周りの人は利用するだけなんだと怒っていました。子どもらしさを失った小さな子どもがいます。基本的信頼感、つまり、お父さんがみんなを守ってくれることを信頼できなかったのです。エリヤハウスでは癒しを行なう場合「5本の指」のステップで行います。


第一は認識です。何を赦すべきか、ということを認識するように助けます。いなくなった親、かまってくれなかった親に対して腹を立てたこと(憎しみを持ったこと)が分かるように助けます。心の動機が隠されています。

第二は親を赦す祈りをします。親がしたこと、あるいはしてくれなかったことについての赦しのことばをイエス様に聞いてもらい、受け入れてもらいます。

第三は悔い改めです。親をさばいたことについて悔い改めます。神様を弱々しいと思ったことも赦さなければなりません。大切なことは、大人の自分が赦すことを選ぶことです。神様がその人の子供の部分に触れて下さるように祈っていきます。

第四は十字架と復活です。親子逆転の構造とその行ないを十字架につけます。新しい構造が与えられるように祈ります。

第五サポートです。新しい行ないを勧め、励まします。可能であれば、親に電話して「愛しているよ」と伝えます。親や配偶者、同僚をコントロールしようとするのをやめます。指摘されたら、コントロールしようとしていたことを認めます。


 さきほどの、ジョンはどうなったのでしょうか?ここからは彼の証です。「神様どういうことでしょう?私は一生懸命、最高の自分になろうとしています。私の仕事を見ても成功しています。子どもは良い服を着ています。みんなをバケーションにも連れて行ってやっています。それなのにどうして私の人生に問題があるのでしょうか?」。妻が私にミニストリーをしてくれました。彼女は私に言いました。「あなたは私に対しても距離を置いています。他の人に対しても距離を置いています。そして、人々を遠のけています。あなたは私を自分の心の中に入れません。他の人も心の中に入れません」。ジョン。私には石の心があって、自分自身と他の人々の間に高い壁をめぐらしていました。他の人には許容範囲内で恵みを与えていました。私は自分の心の動機が間違っていたことを悟りました。自分がすべてのことを面倒見ていかなければならないと思っていました。私は母のことを赦しました。自分の父をさげすんでいたことに気づきました。自分は父親を尊敬していないことに気づきました。神さまに対して悔い改めました。父に対して悔い改めました。妻に対して悔い改めました。母に対して悔い改めました。そして、父を赦すことを選び取りました。父は私たちに食べさせるため一日16時間働いていました。そのため不在だったのです。父を赦しました。それから、父は私のことを赦してくれた。母も私のことを赦してくれました。妻も私のことを赦してくれました。神様も私のことを赦してくれました。親子逆転のパターンが次の世代へと受け継がれていきます。けれども私は子どもたちが大きくならないうちに、カウンセリングを受けたので、そのパターンを止めることができました。神様は家族の悪いところを止めて、癒すことができます。


4.代理配偶者


代理配偶者は親子逆転のさらに深刻な形です。親が同性、あるいは異性の子どもに対して不適切な頼り方をする時に生じる状態です。母親もしくは父親が不在のとき、たいていは、異性の子に不適切な心理的な頼り方をします。子どもが残された親に対し、肉体関係までは行かなくても、配偶者のようになります。心理的な面で夫と妻になります。息子(娘)が母親(父親)に性的な思いを抱くことが決してなくても、無意識のうちに、好ましくない感情と刺激とを打ち消さなければなりません。心の深い部分に、「これは母親(父親)だから、そんなふうに思ったり、感じたりしてはいけない」という声にならない思いが生じてきます。そして、子どもは性的な欲求が起こったとき、スイッチを切るメカニズムが生まれてしまいます。その人が大人になり結婚したときに、妻もしくは夫と自由な関係を持つことができなくなるのです。たとえば、夫が亡くなってしまった場合、妻は夫に話すべきことを長男に話すかもしれません。長男は彼女のカウンセラーのようになって、「こうしたら良いんだよ」とアドバイスをします。長男はお母さんを愛しているのですが、なんだか恋人のように思えてきます。お母さんも長男を恋人みたいに思えてきます。お母さんから抱きしめられると変な気持ちになります。実際はそうでないので、長男は「こんなことを感じてはいけないのだ」とスイッチを切ってしまいます。やがて長男が結婚したとき、自分の妻がお母さんのように思えてしまって、親しい関係を持つことができないということです。これは娘とお父さんという、逆の例にもあるということです。代理配偶者は親子逆転よりもさらに深刻なものです。親が心理的な必要を満たすために、子どもを打ち明け相手にするからです。


こういうことは、日本ではあまり話さない内容ではないかと思います。日本は恥の文化なので、かつてこういう状況があったことを話さないでしょう。でも、代理配偶者であったことの実が必ず現れます。特に、結婚生活がうまくいかなくなるということです。それでは、どのようにしたら癒されるのでしょうか?現在、ミニストリーを受けている人の多くは、両親から離れて生活しています。親子逆転や代理配偶者の実のほとんどは、親以外の身近な人々との関係において現われます。まず、両親を赦すことです。そうすると、自分をそのような行動に駆り立てている力が取り除かれ、変化が起こり始めます。また、お父さんもしくはお母さんと出来てしまった心理的な関係を御霊の剣によって断ち切る祈りも必要です。親に対する隠れた憎しみと怒りを悔い改めます。そして、新しい生き方を身につけるようにします。


きょうは、親子逆転と代理配偶者という、普段は話さない内容を分かち合いました。しかし、この教えを分かち合った後も、罪の問題なのかどうなのか分からない人がいます。なぜなら、その人は責任感が強くて、成功し、すばらしい生活、豊かな生活をしているからです。やっていることはすばらしいかもしれません。しかし、心というか、動機の面で罪があります。その人は、何故こういうことをしているのか、自分が何でもかんでもコントロールしていることを気がついていません。そして、まわりの人を傷つけ、汚していきます。なぜなら、コントロールは愛を生み出すことができません。天のお父様はすべてのことを担っており、だれよりも力があります。それなのに神様は、一方的に私たちをコントロールしません。愛のゆえに自由にして下さいます。エリヤハウスでは「コントロールすることは殺人に近い」と教えます。なぜなら、コントロールされている人は良い気がしないからです。人間性を尊重されていないと感じます。その人は、愛で接しているのではありません。コントロールによって人との関係を持っています。コントロールとは愛の反対から出ているものです。だから、親子逆転の罪を認め、悔い改める必要があります。もし、あなたがそれをしないならば、子どもから孫へと転嫁されていきます。長男が長女が一番のターゲットになります。せっかく彼らが親孝行をしているのに、罪とされるのは遺憾なことであります。でも、それは神さまの秩序に反していることなので、悪い実がみのってしまいます。そういう人は偉大なる父なる神さまのもとで安らぐ必要があります。そういうい人は、子ども時代がなかったので、安らいだことがないのです。詩篇23篇にはこうあります。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

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2015年6月19日 (金)

パフォーマンス指向 ガラテヤ3:1-3 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.21

 この世で、パフォーマンスPerformance)は、楽曲を演奏する、演劇やコントを上演する、ダンスを披露するという意味で使われています。しかし、本来、パフォーマンスには、良い行ない、功績、偉業という意味があります。私たちは良い行ないや功績ではなく、恵みによって救われたはずです。しかし、クリスチャン生活をしていく中で、不要に思われていたものが、もう一度、息を吹き返すということはないでしょうか?「神さまを喜ばせたい」「神さまのお役に立ちたい」という思いは立派ですが、「良い行ないや功績がなくてはならない」という思いが起こったらどうでしょう。初めは純粋だったかもしれませんが、「神さまや人々から認めてもらうために、もっとやらなければならない」と休まずに頑張ってしまいます。 

1.パフォーマンス指向とは何か

 新生したクリスチャンが常に持つ傾向は、人間的努力による頑張りに逆戻りしてしまうことです。頭と霊では、救いが無償の賜物であるとわかっていても、何かをすることによって愛を得ようとする習慣が、まだ心に残っているからです。神の愛に根ざしていない動機から仕える中で、自分でも気づかない内に、頑張りや緊張、恐れに蝕まれていってしまうのです。「パフォーマンス指向」という言葉は、私たちの働きや、その結果成し遂げたことを指すのではなく、私たちを動かしている誤った動機を指しています。アメリカからきた先生が「なんで日本の教会は忙しいのか?」と驚いたそうです。日本のクリスチャンは「主のためにしなければ」と、必要以上に「もっとしなくっちゃ」と、あせって頑張るところがあると見抜きました。日本では、勤勉に対する美徳が成功を収めています。しかし、そのために人間関係が犠牲になっています。教会の中でも純粋な主の愛がありません。「もっとしなくっちゃ」、「良いクリスチャンにならなくっちゃ」という偽りのメッセージが伝わっています。どうでしょうか?思い当たる節はないでしょうか?

 私はこのことに長い間はまっていたので、渦中にいたときは何なのか分かりませんでした。しかし、今は90%くらい癒されたので、パフォーマンスで動いている人をみるとよく分かります。クリスチャンは存在そのものがすばらしいとか、恵みによって救われているということを頭では分かっています。はじめはそのことで感動したかもしれません。しかし、救われてから昔の価値観、つまり、肉が働きます。「もっと神さまのためにできるはずだ」と自分の力で頑張ります。しかし、心の深いところでは、「まだ足りない、まだ不十分だ。これでは神さまから受け入れてもらえない」という恐れがあります。私は8人兄弟の7番目で生まれましたが、優秀な兄や姉のため、全くほめてもらえませんでした。どうしても自分の存在価値を認めさせる必要がありました。そのため図工や運動会などで、たくさんの賞状を集めました。大人になって、資格を取らなければと努力しましたがけっこう挫折しました。クリスチャンになって、「あなたは高価で尊い」と言われ、私の存在そのものがすばらしいと分かりました。しかし、献身してから、牧師や周りの人たちの対応が変わりました。「言動がきよくない」とか「献身したのだから」と言われ、「あれ、このままじゃダメなの?」と不安を感じました。聖書勉強の他に様々な奉仕が舞い込んできて、猛烈に働くクリスチャンになりました。教会の倉庫で、全国に大川牧師の礼拝テープを配送していた時がありました。関根音楽主事から「一生懸命やっているね」と言われた時、「しもべは気が狂いそうです」と答えました。あるとき大和キリスト教会で3回説教を語る機会がありました。2回目の説教の後、ホルンの宮田四郎先生から、「とても大変そうに見える」と言われました。この状態は、亀有の会堂建築後もしばらく続きました。これはおかしいと分かったのは、2000年くらいに「恵みの歩み」というセミナーと、エリヤハウスの「パフォーマンス指向」に出会ってからです。ウォッチマン・ニーの本の中に、「肉にある者は、神を喜ばせることができない。肉によって神さまを喜ばせる必要はない」と書いてありましたが、とても安心したことを覚えています。

 エリヤハウスのジョン・サンフォード師はご自身の本の中でこのように述べています。新生したクリスチャンの中でも、人間的な努力に再び陥ってしまうという傾向が常に見られます。霊の部分と頭では、救いが無償の賜物であることを理解しても、心にはまだ、何かをすることによって愛を得ようとする習慣が残っているのです。多くの場合、「救われた」私たちは、いつの間にか、神の愛以外の動機で奉仕をするようになり、葛藤と苛立ちと不安に満ちた人間的な努力に陥ってしまいます。しかも、自分ではそのことに気づいていません(惑わされています)。たとえ薄々感づいてはいても、なぜ、どのような動機によってそうなってしまうのかまでは分かっていません。「パフォーマンス指向」という言葉は、私たちの働きや、その結果、成し遂げたことを指すのではなく、私たちを動かしている誤った動機を指しています。アーメン。では、「誤った動機」とは何でしょう?「良いことをしなければ愛されない、受け入れられないのでは?」という不安や恐れ、緊張があるということです。外からはとても真面目で全く問題がなさそうに見えます。しかし、神さまへの愛からではなく、神さまや他の人たちから認めてもらいたいために頑張っているのです。こういう人の心の奥底には、「このままでは受け入れられていない」という不安と恐れが隠されています。「パフォーマンス指向」とは、私たちが行う奉仕の内容ではなく、私たちを駆り立てている間違った動機を指す用語なのです。

2.パフォーマンス指向はどこから来るか

ジョン・サンフォード師は、幼い子どもは、程度の差はあれ、皆何らかの偽りを受け入れ、それを自分の性質に取り込むと言っています。中でも最も広く浸透し、私たちの行動を腐敗させている嘘は、「正しく振舞わなければ愛されない」「パパやママの言う通りにしないと、受け入れてもらえない」というものです。たとえば、トイレ・トレーニングで、「よくできたわね。ママはあなたのことが大好きよ」と言ったとします。もちろん、母親は、子どもが何度、下着を汚したとしても同じように愛してくれるでしょう。しかし、まだ幼い頭脳はその行動と愛を結び付け、逆の結論に達するのです。「トイレのことでも、他のことでもちゃんとやれなかったら、ママは私のことを愛してくれない」と考えます。「まあ、新しい服が良く似合っているわねえ。ママはあなたが大好きよ」と言ったとします。子どもは外見を良くすると愛される、そしてだらしない恰好をしたり、見た目が悪いと愛されないというメッセージを受け取るかもしれません。「一晩寝て、一度も泣かなかったね。いい子だ。お父さんはお前のことを誇りに思っているよ。大好きだ。」しかし、子どもの心は、良き振る舞いと愛されることを融合させてしまいます。「私のかわいい息子はどこへ行ってしまったのかしら。さっきまでここにいたのに。こんなことをする子が私の子であるはずないわ」。このような文句は私たちに「自分の本当の姿は受け入れられない、お人形さんのような愛らしい姿、他の人がこうあるべきだと考える姿だけが自分のあるべき姿であると直接教えます。そして自分がそうなれないと、不安に襲われます。他の人から見離されたり、自分を失ったりするのを恐れるあまり、自分自身を作ることで身を守るのです。皮肉なことに、期待されている姿を演じるのに成功すればするほど、実際に自分の本来の姿から離れていってしまいます。子どもは、いたずらをして当然。天使のような瞳と汚れた肌のいたずらっ子、それが私たちの姿なのです。

ある姉妹は小さい時、抱っこされた覚えがありませんでした。褒め言葉を聞いたこともありません。どこかで絶えず、「良い子でなければ受け入れられない」という印象がありました。人と一緒になることを恐れ、批判的になり、どうしても受け入れられません。無理やり頑張ってみますが、安心感がありませんでした。また、あるお兄さんは、妹と比較されました。妹の方がトイレが早くできるようになりました。食事もお兄さんより早くなりました。二人の間に競争がありました。親もつい比較して、「妹はできたでしょう。見てごらん」と言いました。お兄ちゃんは嫉妬の気持ちが起こり、あせって妹より早くできるように食事をすましました。そして、周りの人たちと競争するようになりました。無意識に他の人よりちょっとでもすぐれている態度を取ることにより、自分の価値観を確認したくなりました。このような人たちは、周りとの関係がおかしくなりやすいのです。クリスチャンになるとき霊は新しく生まれ変わりますが、心(思い)はそうではありません。福音によって新しくなっているところもあれば、そうでないところもあります。特にパフォーマンスがやっかいなのは、本人が「私は神さまのために良いことをしている」という自負心があることです。ガラテヤの教会員は信仰によって救われたということを体験しました。ところが、後から来た人たちが、「信仰だけではなく、律法を守らなければ救われない」と言いました。彼らは、「ああ、そうだったのか?」と恐れがやってきました。そして、正しい行ないによって神さまに近づこうとしました。彼らは律法を守り、とても宗教的になりました。しかし、そうすればするほど、神の子ではなく、奴隷に逆戻りしてしまったのです。

ジョン・サンフォード師の『内なる人の変革』で、このように述べています。教会においては、パフォーマンス指向は、クリスチャン精神とはかけ離れた宗教的な霊を作り出します。宗教とは人間の神への探求、人が聖書を学んだり、教会に通ったり、良い行ないをしたり、献身することによって神を見出し、神を喜ばせようとすることです。クリスチャンの信仰はその逆です。神が人を見つけ、その絶えざる愛を人に降り注ぐことなのです。宗教においては人が神にしがみつこうとしますが、真の信仰は神が人を捕えることです。宗教においては人間的な努力、恐れ、自分は駄目だ、自分には無理だという誤った罪意識があります。信仰においては、自分中心の世界は御父の手に明け渡され、自分でするよりも上手に神が私たちを作り変えてくださるということから来る安息と平安があるのです。信仰にあっては、どんな苦闘も平安のうちに守られています。神が私たちを愛し、選んでくださったのです。一時的に神との交わりから離れてしまうことはあっても、神の愛から外れることはなく、そんな時にも、神が私たちを追いかけ、捕えてくださるのです。ですから安心です。失敗する自由が与えられているため、それほど失敗しなくても良くなるのです。宗教的な人々は、パフォーマンス指向を神に向けます。そして、厳しい「要求」を私たちに課す父親というイメージで神を見るのです。聖霊を受けるや否やパフォーマンス指向の人は意識下で、「さあ、神さまの期待に応えるために頑張らなくては」と思い、完全を目指すのですが、それは実はイエスへの愛から出ている動機ではなく、拒絶されることへの肉的な恐れから来るものなのです。パフォーマンス指向と宗教心が結びついているということです。

3.パフォーマンス指向の実

 これまでは目に見えない根の部分についてお話ししました。実とは外側から見えるものです。パフォーマンス指向の実にはどのようなものがあるでしょうか?第一は、「どうせ自分は」という「負け犬」的姿勢を身につけることもあります。たとえば、人に好かれようと一所懸命になるあまり、自分自身を見失います。愛を得るために自分を身売りしている、あるいは人を騙しているように感じます。

第二は絶対に「成功」しなければ、と思い込むということです。ガラテヤ110「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」テキストにはこのような特徴が記されています。人からの賞賛が必要。人からの褒め言葉が信じられない。常に自己防衛的。あらゆることについて「自分がやらなければ」と思う。常に超多忙。他人を責めがち(やっていない人をさばくということです)。疲れている。隠されていることもあるが怒りがある。人のために何かミニストリーをすることはあっても、自分が人からのミニストリーを受けることができない。何かしてもらったら、お返しせずにいられない。周りの人々や状況をコントロールしようとする。真に親密な関係を持つことができない。孤独。人から赦されることを要求するあまり、その人自らの意志で赦してくれるようになるのを待てない。リーダー的立場に立つと、人々の自発性や喜びを抹殺してしまう。あてはまることはあったでしょうか?超多忙、疲れている、人をコントロールするようなところがある。でも、なぜ、そんなに頑張らなければならないのでしょう?その人は存在ではなく、行ないに価値観を置いているからではないでしょうか?もう1つは、神さまよりも人の評価を重んじているということです。私も牧師として「あれもしなければ、これもしなければ」とやってきました。「あなたは私たちの献金で生活しているのだから、もっとやってくれないと困る」という声なき声も聞こえてきます。「伝道して、受洗者を上げて、教会をもっと大きくしなければ」という負い目がいつもありました。しかし、ある時から、神のしもべ、牧師という存在そのものがすばらしいんだと悟りました。「弟子訓練もセルも失敗したなー」とがっかりしたときがありました。でも、私はみことばを語るpreacher説教者であることは失敗していないと悟りました。数年前、死人を何人もよみがえられたタンザニアのガジマ師の聖会に出席しました。彼のメッセージはとてもシンプルでしたが力がありました。私はそのとき、学歴や資格よりも、神さまからの油注ぎにはかなわないということを知りました。私の説教には神さまからの油注ぎがあると自覚しました。アーメン。何かできるからではなく、神さまは私を召して下さった、そのことが大事だと悟りました。

テキストには、パフォーマンス指向がもたらすものとして以下のことがあげられています。

パフォーマンス指向がもたらすもの…恐れ、頑張り、慢性的疲労感、不安感。

パフォーマンス指向の極端な結果…鬱、虐待(抑圧的)。

パフォーマンス指向の人は、批判を受けるのが難しい。

パフォーマンス指向の人は常に忙しい。

 どうでしょう?ご自分自身がパフォーマンス指向の人でしょうか?あるいは身近な人がパフォーマンス指向の人でしょうか?パフォーマンス指向の人は、自分の最も身近な人に対して、その人がどれだけのことを自分にしてくれたかによって、愛情を示す度合いを変えます。良くしてくれない相手には、愛を与えません。「ふさわしくない」からです。自分もそのように扱われてきたので、周りの人に対してもそのような接し方をしています。クリスチャンの愛は、パフォーマンス指向的な行動の反対でなければなりません。相手が良い行ないをしても良い行ないをしなくても、変わらぬ愛を与えることです。これは、自分の中に、ありのままを愛してくれているキリストの愛がない人には不可能です。条件付きの愛で生きて来た人は、人を支配する道具として、愛を利用し続けるのです。結果として、多くの人が傷を受けることになります。

4.パフォーマンス指向のいやし

ジョン・サンフォード師はこう教えています。「キリストのために生きるのをやめなさい」と言うのではありません。古い動機が死に、新しい動機が誕生しなければならないのです。私たちは十字架につけられるまでは、その奉仕の裏には必ず罰を恐れる気持ちからであったり、神さまの愛を得るためであったり、そうしなければならないという義務感があったり、間違った良心の呵責からであったり、他人の目を気にしてであったり、受け入れられないのではないかという恐れがあったりと、すべて間違った動機からなのです。それらはすべて死ななければなりません。私たち一人ひとりを駆り立てる純粋な動機は、私たちを通して流れるイエスの愛でなければいけません。何かを期待してするのではなく、また相手から同様にされることを求めてでもなく、自分が受け入れられ愛されていることを確認するためでもなく、恐れを遠ざけるためでもありません。これらの必要は、イエスという賜物によってのみ、真に満たされるものなのです。しかし私たちの不信仰な心がこの事実を真に悟るまでは、私たちは頑張り続けることでしょう。ついにパフォーマンスに死んだ後にも、主のために前と同じ奉仕を同じ形ですることになるかもしれませんが、私たちを通して流れるものは肉的なものからイエスの愛にかわるため、周りの人もすぐに気づくでしょう。アーメン。ジョン・サンフォード師のことばの中に、「動機」ということばが何度も出て来ました。間違った古い動機を捨てて、新しい純粋な動機に取り替えるということです。この作業のためにはどうしても、パフォーマンス指向は醜い罪であることを認めなければなりません。パフォーマンス指向はその人の生活、生き方になっています。樹木は、根、幹、実という3つから成り立っています。パフォーマンス指向は幹の部分、つまりその人の構造になっています。ですから、これは十字架に持っていくしかありません。古い構造は死ななければなりません。頑張って死のうとすると駄目であり、頑張ってはできません。「主よ。あなたの十字架で死なせてください」と願いましょう。

パフォーマンス指向の人は、これまで十分な愛を受けてこなかったのです。受けたとしても、条件付きの愛です。自分の受け止め方も歪んでいたかもしれません。でも、結果的には、愛をもらいたい、認めてもらいたいと必死に頑張って来ました。行ないは立派だったかもしれませんが、「こんなにやっているのに、分かってもらえない」と人をさばいていました。ですから、パフォーマンス指向の人は無条件の愛を神さまからたくさんいただくべきです。クリスチャンになったからと言って、奉仕をしなければならないという強迫観念を持つ必要はありません。神さまはキリストにあって、何をしなくても、私たち存在そのものを愛して、受け入れておられるからです。また、過去において、自分に十分な愛を与えてくれなかった最も身近で重要な人々を赦す必要があります。このことによって、パフォーマンス指向が身についた原因の根っこが癒されます。最も身近で重要な人々は分かってくれなかったかもしれませんが、イエス様は分かってくれています。イエス様は受け損なったものを全部、贖ってくださいます。極端に言うなら、人から認められることを手放すべきです。人とは元来いい加減で、自己中心的な存在です。それよりも、神さまの御目のもとで生きれば良いのです。たとえ失敗しても私の存在価値は失われません。疲れたときは休んで良いのです。神さまのもとで安息しましょう。神さまから「それはしなくて良いと言われれば」たとえ良いことでもしなくて良いのです。私たちは肉にではなく、内におられるイエス様によって生きれば良いのです。

 

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2015年6月12日 (金)

根にふれる祈り マタイ7:16-20 亀有教会鈴木靖尋牧師 2015.6.14

 『根にふれる祈り』という本が7,8年前に発行されました。この著者は日本のエリヤハウス・セミナーに来られたことがあるロブ先生です。この本は「どんなに努力しても、私たちの悩みや難しい問題が、なぜ繰り返し起こるのか」という問に具体的な洞察を与えてくれます。私たちは緊急な用事や忙しさにかまけて、繰り返し起こる問題に目をとめることをしません。目先の問題だけを解決しようとます。しかし、そこには過去に蒔かれた種が、根をはって、悪い実を結んでいる場合があります。その悪い実をもぎ取っても、また悪い実がなります。一番の問題解決は、悪い実から根をたどり、その部分に解決を与えることであります。

1.実とは何か?

 聖書には植物や樹木のたとえが多く記されています。イエス様は「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」(マタイ716-17と言われました。実というのはその人の行ないや生活ぶりと言って良いでしょう。使徒パウロは「根が聖ければ、枝も聖いのです」(ローマ1116と言いました。上から順番に言いますと、実、幹、そして根があります。根の部分は地面に隠れているので、あまり注目されません。私たちはいつも実に注目します。「良い実がなっている」とか、「悪い実がなっている」と言います。たとえば一人の人を見ても、明朗活発な良い実もありますが、他の人をさばく悪い実もあります。人から重んじられると頑張りますが、認められないとやる気をなくすところもあります。私たちは一人で生きていません。だれかと関わり合いながら生きています。そこには緊張関係があったり、軋轢があったり、阻害されていると感じるときがあるのは何故でしょう。私たちはしばし立ち止まって、繰り返されているパターンに気づく必要があります。「なぜ、良い上司に恵まれないのだろうか?」「私だけが怒られている感じがする」「伴侶とあることでいつも衝突してしまう」「大切なときにミスをしてしまうのは何故だろう?」「今が言うべき時なのに言えない」「ついつい相手の言いなりになるのは何故だろう?」「いつも私が残業して、他の人の尻拭いまでするのは何故だろう?」

 多くの場合、私たちは他の人のせいにします。「上司の器が大きくなれば良いんだ」「うちの妻が、夫がもっと思いやりがあったなら」「あの人がいなくなれば、すべてうまくいくんだ」「あの人がもっと自分の仕事に責任を取れば良いんだ」。このように他の人のせいにしたり、他の人を変えようとします。たとえば、相手に70%の非があり、自分には30%の非があるとします。相手を変えることは難しいですが、自分の30%の非を改善することは可能です。自分の悪い実の原因をさぐって、取り除けば良いのです。そして、良い実が多くみのるようになれば良いのです。さきほど、実と幹と根の話をしました。テキストにもありますが、実とは人生の表面的な部分を表わしています。悪い実とは、怒りとか恐れ、さばきや自己憐憫です。その人自身は分からないかもしれませんが、悪い実は人々を汚しています。さらには、相手から悪いものを引き出してしまいます。たとえば、私がある人をほめたいと近づいたとします。笑顔いっぱいで、「○○が、すばらしいですね」と言ったとします。しかし、相手の人は無表情で「ありがとう」とも言いません。そうすると、「私の言い方がまずかったのかな?」と思います。すると次からは、その人のところに行ってほめるのを控えるようになるでしょう。やがて、その人は「私のことをだれも評価してくれない、こんなに頑張っているのに」と思うかもしれません。もしかしたら、その人には「重要な人から評価されるどころか酷評された」という心の傷があるのかもしれません。だから、他の人の評価を受け入れられないでしょう。そうすると、その人の中から、「あなたはどうせ私のことを評価してくれないのでしょう。評価してくれなくても結構です」という雰囲気がかもし出されます。それが他の人を汚すことであり、人から悪いものを引き出すということです。ヘブル1215「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」と書かれています。原因は苦い根であり、それが苦い実になっているのです。自分自身を汚し、さらには他の人をも汚しているのです。

 『根にふれる祈り』という本の中に、「否定的な期待も悪い実の1つである」と書かれていました。皆さんは、自分でこのように考えたことはありませんか?「なぜ男性(女性)は、私をこういうふうに扱うのでしょう?」「なぜ私はいつも、人に利用されるのだろうか?」「なぜできの悪い失敗者が私の周りに引き寄せられてくるのだろう?」これらは、自分の中に否定的な期待があるので、周りの人たちの最悪を引き出してしまうのです。たとえば、自分の期待を低くして、「男性はこんなもんだ」と偽りを信じている女性がいるとします。その人はどんなに嫌がったとしても、最悪な候補者に囲まれて、その中で相手を選ばなければならない運命なのだと感じています。ある日、目が覚めて「私はこんな人と結婚するはずではなかったのに」と言ってしまうのです。男性の場合も同じです。「ああ、なんてことだ。僕はまるで母のような人と結婚してしまった!」と嘆きます。このように悪い実は他の人に影響を与え、悪いものを他の人から引き出します。ある特定の性格の人と、いつも言い争いになってしまうかもしれせん。ある特定の人たちが周りにいると、支配されていると感じたり、罪意識や恥意識が起こってきたりします。ある場合には、特定の人たちの振る舞いに過剰反応をしないようにするため、ものすごく努力をしなければならないということもあります。おそらく、何も言われなくても、周りの人のある雰囲気が私たちにやる気をなくさせたり、落ち込ませたりするかもしれません。時にはそれは、その人の表情やほほえみ、にやにや笑いや笑い声が、私たちの内にある否定的な感情を呼び覚ましてしまう場合もあります。私たちは意識するしないにかかわらず、悪い実を与えながら生活しています。一番手っ取り早い方法は、そういう人から身を避けることでしょうか?しかし、自分の中にも他の人から悪いものを引き出してしまう実があるとしたらどうでしょうか?

2.根を見極める

 悪い実を見つけてそれを取り除いても、しばらくすると悪い実がみのります。悪い実に袋をかぶせて、ないもののように思っても無理です。あるいは、他の良い実で必死に補うかもしれません。でも、悪い実は死の力をもって私たちを苦しめます。真の解決は悪い根を見極めて、さらには良い根と取り替えるべきです。詩篇13923-24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」『根にふれる祈り』から引用させていただきます。「神さまは、私たちのすべてをご存じです。自分の根の問題を見つけ出そうと試みる時はいつも、神さまをこの行程の中にお招きするようにしてください。神さまこそが誰よりも、私たちの過去をよく御存じで、過去のできごとが、現在、戦っている悪い実と結びついているかも良く知っておられるのです。」アーメン。前のポイントで、繰り返し起こるパターンを知るということを申し上げました。なぜ、悪い実が今みのっているのでしょうか?それは、幼い時に、悪い種を蒔いたからです。それらがしばらく時間をかけて成長し、花が咲き、実がなり、現在に至っているのです。私たちは悪い根を見つけて、それを抜き取り、代わりに良い種を植える必要があります。ガラテヤ68-9「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

 

まず、実から根を探る作業が必要です。なぜなら、現在の悪い実のテーマは、根と同じテーマだからです。怒りの実がある人は、怒りの根があります。さばきの実のある人は、さばきの根があります。恐れの実のある人は、恐れの根があります。心の傷の実のある人は、傷の根があります。エリヤハウスでは、このような悪い根を総称して「苦い根」と呼んでいます。多くの場合、苦い根はゼロ歳から子どもの時に形成されたものです。苦い根は土の中に隠れていて、何本もの根が入り乱れ、重なり合っています。ですから、実から根をたどっていく作業は簡単ではありません。では、どういう時が一番、良いのでしょうか?それは感情的に、過剰な反応をした時であります。つまり、日常の生活ができなくなるほど、怒ったり、さばいたり、恐れたり、傷ついたり、落ち込んだりした時であります。まず、悪い実のテーマを頭に入れて、「このように感じるのは他にどんな時があるか」または、「これと同じような出来事が起きたのは、他にいつあっただろうか?」と自分に問います。思い出す限り、実例をあげていきます。友達に助けを求めることは、根の問題を明るみに出すためには大変役に立ちます。エリヤハウスでは4-5人位のチームでお互いにミニストリーをします。たとえば、自分の悪い実のテーマは「自分は取るに足りない存在だ」ということだとします。そのことを頭に入れて、神さまに「他に、いつ、どんな時に、自分は足りない存在だと思ったのか」尋ねてみます。記憶が思い出されたら、それを書き留めていきます。

実例をあげながら、他に3つのことも書き留めていくと良いです。第一は気持ちです。「その出来事は、あなたをどういう気持ちにさせたか」ということです。たとえば、「重要でない」「拒絶された」「自分なんかどうでも良いんだ」「自分はいない方が良いと思われている」などと書きます。第二は私の反応です。「その出来事に関与した人たちに対して、あなたが取った罪深い反応は何でしたか?」ということです。たとえば「父を恨んだ」と書きます。第三は信じた嘘・偽りです。「あなたはどんな偽りを信じ、また、どんな否定的な決断をしましたか?」ということです。たとえば「私はあまり価値のない存在だ」と書きます。これは、1つの例ですので3つは無理だという人は1つでも構いません。私は李光雨師や丸屋真也師からカウンセリングについて学びました。共通していえることは、自分のテーマを見つけ出すということです。つまり、「私はこのことを攻撃されたら自分が壊れそうになる」というテーマです。もちろん人は複雑なので、1つだけではありません。他に2つ、3つあるのが普通です。でも、一番のウィーク・ポイント、これを突かれたら爆発するスイッチがあるはずです。多くの人たちは、「ああ、地雷を踏んだ」と言います。それをお互いに避けることも知恵かもしれませんが、向き合って、イエス様から癒しを受けることが最良の策だと思います。

 こういう心の癒しを扱ったカウンセリングの弱点は、何でも過去のせいにするということです。「いつも自分の傷ばかり見て、後ろ向きで良くない。それよりもコーチングが良い」と言われたりします。『根にふれる祈り』の著者はこのように述べています。困難な時期にいるからといって、必ずしも私たちの過去に、その原因を起こしている根があるとは限りません。ただ、人生がバランスを失っていて、それも絶えずそのようであるとしたら、注意して根のことを考えてみると良いでしょう。自分の処理できる以上の問題を抱えていて、時間がたっても解決されるように思われない時、「人生は不公平だ」とか、「なぜ、いつも自分にだけこんなことが起こるのだろう」とか「何をしても無駄のように思える…」などと、自分で言い始めているのに気がついたなら、それはほぼ確実に、何かの根の問題を取り扱わなければならないということなのです。もし、このようなパターンがあなたの人生の中にあるなら、それらは悪い実であるかもしれません。アーメン。私たちは毎日の生活に追われています。すべきことがたくさんあります。その中で人間関係の軋轢を経験します。恐れや不安がありますが、なんとか打ち勝って生きています。しかし、日常から少し離れて、自分自身やその生活を見つめるということも重要です。常に走っている状態ですから、1日ぐらい休んでもダメです。3日くらい休むと自分の姿が見えてきます。『根にふれる祈り』という本に「心を深く耕すために」という質問がたびたび出て来ます。「あなたはどのような過剰反応をしてしまいますか?」「あなたはどのように自分を押さえていますか?」「不快な気持ちや否定的な感情を避けるために、いつもしてしまうことは何ですか?」しばし、歩みを止めて、心を深く耕しましょう!

3.根にふれる祈り

『根にふれる祈り』という本で強調されていることはこのことです。「私たちに何が起こったかよりも、それに対してどのように反応したかがもっと重要なことです。」この世の中では、いろんな不幸なことを経験します。幼いとき親から捨てられた人もいます。親がいても、肉体的にも精神的にも虐待された人もいます。だからと言って、そういう人たちが悪い実を結んでいるかというと必ずしもそうではありません。そのとき、罪深い反応をした場合、やがては悪い実を刈り取るということです。たとえば親から拒絶されたとき、親に対して怒り、さばく気持ちを持ったとします。その人が新しい拒絶の体験をするたびに、最初の拒絶体験から受けた痛みをもう一度引き出します。するとだんだんそれが強化されていきます。初めは「誰も私を好きにならない」と思っていましたが、やがて「私はだれも必要としない」というふうになります。拒絶という要塞ができあがり、どんな人も入ることができません。人間ですから、傷つけられたら、怒ったりさばいたり、罪深い反応をするのは当たり前です。ある場合は「一生忘れない、一生赦さないから」と、恨みを握って離さない場合もあるでしょう。その人の後の生涯はどうなるでしょう?おそらく、ひどい扱いを受けるたびに恨みの度合いが増すでしょう。さらに、恨みを抱かせるような機会が増し加わるのではないでしょうか?そういう人に近づいた場合、マイナスのエネルギーが噴出してくるような感じがします。自分も汚し、周りの人たちも汚す要素を持っているのです。

種蒔きと刈り取りは不動の法則です。しかし、それを打ち破る、聖書の約束があります。Ⅰヨハネ19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。神さまは心の中にあってなかなか消えることのなかった罪深い反応を取り去ってくださいます。そのために私たちのなすべきことは、自分の罪を告白していくということです。私たちの罪深い反応は、自分を傷つけた人たちに対して赦せない気持ちでいることです。それは、苦々しさ、憤り、さばく思い、憎しみ、仕返しをしたいという気持ちなどになって現れてきます。しなければならないことは、種蒔きと刈り取りの過程の初めとなったそれらの罪深い反応を告白することです。しかし、私たちは被害者ですから、「私が悪かったです」とすぐに謝ることなどできはしません。そのために、「根にふれて祈る」ことが必要なのです。では、根にふれて祈るとはどういうことをするのでしょうか?それは、イエス様に何が起こったかを話すことです。詩篇1422「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。」とあります。その時、自分がどのように感じたのか、イエス様と分かち合います。私もエリヤハウスでミニストリーをしたことが何回もありますが、奥の手は、その人がイエス様を呼び求めることです。「イエス様、私がひどいことをされて、泣いていたとき、あなたはどこにいたのですか?」とその人が聞きます。しばらく、沈黙が続きます。その人は昔のことを思っているのですが、そのシーンの中にイエス様がいたことがわかります。イエス様も一緒に泣いていたことがわかります。イエス様の御手が肩の上にあるという場合もあります。超自然的なことなので、何とも言えませんが、その人がわかるかたちで慰めてくださいます。ひと泣きするかもしれません。でも、それが癒しにつながります。

イエス様の慰めを受けたあと、4つのことが必要です。第一はイエス様に罪深い反応をしたことを告白します。怒ったこと、さばいたこと、苦々しい思いを持ったことを告白します。第二は自分に不適切な扱いをした人たちを赦すということです。赦すということは、復讐したい権利を放棄するということです。赦しは感情ではなく、意志です。「○○を赦します」とはっきり言う必要があります。第三は自分のどのような罪深い否定的な決断や偽りを破棄します。「お父さんを決して赦さない」「お母さんのようにはならない」「もうだれも信用しない」「自分には愛される価値がない」というような決断や誓いを放棄します。自分が信じてきたかもしれない嘘・偽りを完全に放棄し、神さまの語られる真理を置き換えていく、絶交の機会となります。第四は赦しと癒しの祈りを受け取るということです。言い換えるなら新しいいのちを受け取るということです。

妻が赤ちゃんを流産したのに、悲しんだり泣いたりすることのできないジョーという夫がいました。ジョーはどうして自分は悲しむことができないのかイエス様に祈りました。すると、子どもの頃に犬を飼っていたことを思い出しました。ジョーが家に帰ると飼っていた犬がいなくなっていました。「お父さん、犬はどうしたの?」と聞くと車にひかれて死んでしまったのだと告げられました。父親がその犬を見つけて、そしてゴミ箱に捨ててしまっていたのでした。父親は何日か経つと、その犬の代わりとなる他の犬を連れてきました。だれもその犬の死について泣かなかったのです。ジョーはその犬がどんなに自分に忠実であったのか、家族は誰もしてくれなかったけれど、その犬はジョーが学校から帰ってくると必ず迎えてくれたということを思い出しました。彼がひとりぼっちだと感じたり、誰かに誤解されていると思ったりしたとき、その犬と一緒にいて慰められていたことも思い出しました。その犬はいつもジョーと一緒にいてくれて、彼を愛してくれていたのです。ジョーがこのことを分かち合っていると、悲しみがこみ上げてきました。そして悲しみとともに、死んでしまった犬を自分に見せてくれず、埋めることさえさせてくれなかった父親に対しての怒りがこみ上げてきました。祈りの中でジョーは言いました。「天の父なる神さま、私は犬が死んでしまったこのできごとをあなたの前に持っていきます。今だから分かるのですが、死んでしまった犬をゴミ箱に投げ捨てられてしまい、最後にさよならさえ言わせてもらえなかったことで、自分はひどく傷つきました。そのことは、その犬がまるで投げ捨てられるゴミのかたまりであるかのように、価値がないように思わせました。私の両親は、犬を失った私が悲しめるようにすべきだったのです。私は悲しむことなんて価値がなく、馬鹿げたことだと思い込んでいました。泣くことは価値がないと決めていたことを放棄します。祈った後、さらに悲しみがジョーの内側からこみ上げて来ました。この悲しみは、妻が自分の子どもを流産してしまった悲しみでした。ジョーはやっと悲しみを分かち合うことができたのです。このように、私たちは実から根をたどり、その部分に解決を与えることが必要です。

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2015年6月 5日 (金)

エリヤの聖書的基盤 申命記5:16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.7

エリヤハウスとはジョン・サンフォード師が創設した、内面の癒しのミニストリーです。テキストの序文をお読みいたします。「現代、私たちが享受しているあらゆる技術の発達は、正確かつ不動の自然法則を発見し、それに従うことから生まれたと言っても良いでしょう。自然法則に従うことこそ、科学全般に欠かせない条件です。しかし、矛盾があります。私たちは、科学に関して最も謙遜で従順な態度であるのに、私たちの霊と心を治めている法則に関しては傲慢になり、すっかり惑わされているのです。神さまは自然界の法則と共に道徳的な法則も造られたのです。」サンフォード師は3つのみことばをご自分のミニストリーの基礎に置いています。

 1.あなたの父母を敬え

 申命記516あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えられようとしておられる地で、幸せになるためである。」エペソ62-3「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。」十戒は、前半の4つは神さまに対する戒めであり、後半の6つは人に対する戒めになっています。第五の「父と母を敬え」は神さまと人々をつなぐ橋のような役目をしています。だから、パウロはこれを第一の戒めであると言っています。サンフォード師は「あらゆるクリスチャン・カウンセリングの基礎となる単純な1つの鍵は、第五戒にあります。この1つの原則、すなわち自分の両親を敬う人にとって人生は良きものとなり、そうしない人にとって人生は困難なものになります。あらゆる夫婦の問題、子育てのジレンマ、道徳的、あるいは不道徳的傾向のすべての根本を説明するのに十分です」と言いました。ある姉妹が「たえず職場の上司の横暴ぶりに頭を痛めています。私は常に不当な扱いを受け、いつ職場を追い出されるか分かりません」と相談しに来たとします。そういう場合、カウンセラーは「あなたのお父さんとの関係はどうでしたか?」と尋ねます。多くの場合、「自分のお父さんも横暴であり、そういうお父さんを心の中でさばいていた」と答えるそうです。サンフォードご夫妻はこのように述べています。私たちは年間1200時間カウンセリングに費やしながら、20年間やって来ました。自分の両親、あるいは自分を育ててくれた人との関係こそが、私たちの人生の根となり、幹となっているものです。現時点において現れてくるものは、それらの根から生じるものなのです。カウンセリングは根本的には意外と単純なものであり、神の律法はそれほど基本的なものだということです。」

 

しかし、「もし、敬えるような父母だったら敬えるよ」と反発したくなるでしょう。確かに利己的で、自分のことしか考えない親がいます。「躾け」と言いながらも虐待を加えている親もいないわけではありません。聖書で「敬え」というのは、両親の行ないや人格に基礎を置くものではありません。神さまがその両親を私に与えたという一点のゆえに「敬え」ということなのです。申命記6章に書いてありますが、イスラエルでは親が子どもに、唯一の神と、その神を第一に愛することを教えました。なぜなら、そのことが子ども自身の幸せと繁栄につながるからです。もし、子どもが、親に逆らって言うことを聞かないならどうなるでしょうか?そうすると、その子は神さまを信じることができず、不幸な道を歩んでしまいます。ですから、父と母を敬って、聖書の教えに聞き従うことは、その子自身にとって幸いことなのです。でも、残念なことに世の中に完全な親はいません。子どもの人格を否定したり、感情的に叱ったりするかもしれません。親自身も神さまを信じていないし、この世の考えや習わしに従って生きているかもしれません。そうなると、聖書の戒めから来る祝福は、逆に呪いとなってしまうでしょう。

 

 

養育をする親に問題があるかもしれませんが、子どもにも問題があります。子どもの中にも罪があるので、罪深い反応をしてしまうかもしれません。親が聖人であれ、ひどい人物であれ、正常な人であれ、精神疾患を持つ人であれ、大切なのは子どもがどう反応したかです。サンフォード師ご夫妻は、残虐な虐待を受けていながら、愛情豊かで優しい大人へと成長した人々の例を数多く見てきたそうです。たとえ親が一生懸命、子育てをし、良いしつけをしようとしたところで、子供の方は「懲らしめてくれてありがとう」とは言いません。そのため、親に対して否定的な気持ちを持つ場合があります。エリヤハウスの先生がこのような証をしています。私は、実は子供時代にそういう心の問題がありました。私は非常に意地っ張りな娘でした。親から懲らしめを受けるのが嫌いでした。心から父や母を敬うことをしませんでした。そういうことがある度に、「どうしてお尻をぶたれるの」「どうしてあれをさせてくれないの」「これをさせてくれないの」と思いました。ということは、心の中で何度も何度も両親を敬わない気持ちを抱いてしまったということです。私は、まだ幼い少女の時に「私が大きくなって子供が生まれたら、お母さんみたいにはならないわ。もっといいお母さんになるわ」と思っていました。しかし、実際自分が親になってみて、初めて「子育てというのはそれほど楽なものじゃない」と気付きました。私は自分の親に対して敬わない思い、赦せない気持ち、苦々しい思いという悪い種を蒔いてしまっていました。だから、自分と子供との関係においても問題を刈り取るようになっていたのです。

 

 

人格における根の部分は人生初期の6年間ぐらいで形成されます。幼い時、私たちがほんの小さな子供だった時に、「こうだ」と思ってしまった思いが、現在、刈り取っている結果の原因だということです。子供の時に受けた心の傷やその傷から持ってしまった怒りの気持ちがどれほど今の自分を支配しているかということを知らないで生きている人がたくさんいます。しかし、その傷に気付き、またそこにある悪い思いを悔い改める時に多くの人々がそのような束縛から解放され、人々との関係、神様との関係において回復を経験していくのです。第一の法則はこれです。「私たちが親を敬うことのできたあらゆる領域において人生は上手く行き、敬うことのできなかったあらゆる領域において人生は上手く行かない。」ということです。

 

 

2.さばいてはいけない

 

マタイ71-2「裁いてはいけません。裁かれないためです。あなた方がさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」ローマ21「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」イエス様は「人を裁くと、自分も同じように裁かれる」と言われました。自然界には作用反作用の法則があります。道徳的な世界にも「裁くと裁かれる」という絶対的な法則があるということです。私たちはどうして他の人を裁くような性質があるのでしょうか?それはアダムとエバが「善悪の知識の木」から実を取って食べたことに起因していると考えられます。本来、善悪は絶対者なる神さまのお決めになることです。ところが人間は、この木の実を食べてから、神さまよりもしゃしゃり出て、「これは悪ですよね」とさばくようになったのです。もし、他の人のことをさばくとどうなるでしょうか?自分の中に「ああ、私は同じことをしてはいけない」という呪いが生じます。そして、その人が同じことをした場合、神さまからあわれみを求めることができなります。なぜなら、他の人のことをさばいて、自分のことを赦してくれとは虫が良すぎるからです。私は家内に対して「テレビを見過ぎだ」と怒ってさばいたことが何度もあります。そうすると自分が笑点とか他の番組を見ていると、心が落ち着きません。なぜでしょう?人にテレビを見るなと言って、自分が見ているからです。だから、パウロはすべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」と言っています。

 

 テキストにはこのように書かれています。裁く思いとは私たちが誰かに対して、「この人はこうだ」と決めつける思い、責めるような思いを抱くことです。どこからそういう思いを抱いてしまうのでしょう。これもやはり幼い時から、心に抱く印象です。また、人生で辛い出来事を経験すると、私たちは裁く思いを持つようになります。また、成長してからでも意識してそのような思いを抱くことがあります。意識して持ってしまった思いは、見つけやすいものです。しかし、多くの場合、大人になってから、子供の時に父親や母親に対してどのような裁く思いを持ってしまったかは思い出せなくなっていることがあります。だからこそ、「聖霊様、私の心を示して下さい」と祈ることが必要なのです。また、もう一つ覚えておくことは、人生に悪い実がなっているならば、必ず悪い根が存在することです。私たちがさばくときに、私たちも同時にさばかれます。エリヤハウスの先生の証です。私が子どものとき、母は怒ると、鍵をかけて34日も出て来ないでひきこもっていました。小さい頃、「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、私の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちが起こりました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。しかし、自分が結婚してから、絶対にしないということをするようになりました。私は母が傷つけたようなやり方で、自分の家族を傷つけました。お母さんがした同じことをやっていたのです。過去の傷と恨みが残っていました。私がお母さんを裁いたため、私自身もさばかれることになったのです。

 

 エリヤハウスでは「苦い根の裁き」というテーマで詳しく学びます。子どものとき、両親をさばくとそれが根のように心の中に居座ります。するとそこから幹が伸び、枝が張り、花が咲き、実がなります。どんな実でしょう?「さばき」の実です。その人は他の人をさばくので、他の人はそれによって汚されます。ヘブル12章には「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」と戒めています。バートとマーサというご夫妻がサンフォード師のところに相談にやってきました。バートは「マーサの太り過ぎに我慢できないと言いました。一方、マーサは「バートがいつも批判するのをやめてくれさえすれば、もっと簡単に痩せることができる」と言いました。二人にいくつかの質問をしていくと根が見えて来ました。バートを育てた母親は肥満していただけではなく、だらしない人でした。家はいつも散らかり放題、トイレに行くときも戸を開けたままでした。バートは母親の外見と習慣に対して、裁く気持ちを抱きました。一方、マーサの父親は非常に気難しい人で、マーサがいくら努力しても、父に気に入ってもらうことができませんでした。マーサは批判的な父を裁きました。バートとマーサが初めて出会った当時、マーサはほっそりした美しい女性でした。しかし、結婚して妊娠してお腹が大きくなるにつれ、バートは彼女のことを感謝したりほめることができなくなりました。出産後も元の体に戻るまでしばらく時間がかかりました。バートは以前にも増して苛立ち、批判的になりました。バートは今では、自分は母とそっくりな女と結婚してしまったと確信するようになっていました。一方、マーサは責められると動揺して不安になり、慰めを得るために食べ続け、ますます太っていきました。これこそが、裁きの法則です。

 

 

 何かの行為をしたり、心に裁く気持ちを抱いたりするのは、壁に向かってボールを投げつけるようなものです。ボールの重さと大きさ、壁までの距離、そして投げつける力がわかれば、物理学者はボールがいつ、どのくらいの反動力で跳ね返ってくるかを割り出すことができます。これは自然界の法則です。私たちは容易にそれを理解します。しかし、これは道徳的、霊的な世界にもあてはまることです。イエス様は「裁いてはいけません。裁かれないためです。あなた方がさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」と言われました。バートは母親を裁いたので、肥満を刈り取ることになりました。自分の妻ほど、その刈り取りをするのにふさわしい人物が他にいるでしょうか?しかし、マーサ自身にも裁く気持ちがあったので、それがまず批判的になりやすい男性を結婚相手として引き寄せ、その後相手が批判的になるよう仕向けました。マーサの蒔いた種が熟し、バートを通してそれを刈り取ることになったのです。苦い根の裁きはあらゆる夫婦の関係において、またおそらく人生全般においても、最も共通で根本的な罪なのです。第二番目の法則はこれです。「私たちが人を裁いたのと同じ領域において、私たちは損害を受ける。」ということです。

 

 

3.種を蒔けば、刈り取りもする

 

ガラテヤ67-8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」サンフォード師が書いた『内なる人の変革』という本の中で、このように説明されています。「種蒔きと刈り取りの法則は、アダムとエバが創造される以前から、この宇宙全体においてとこしえに働くものでした。罪が入る前、この法則は祝福が増幅するために造られたものだったのです。そしてそれは、今でも変わりません。しかし罪の幕開けによって、この同じ法則が今度は破滅の方向へ撥ね返るようになったのです。そのため、創造を計画された初めの時から人が罪を犯すことをご存じだった父は、私たちに降りかかるべき悪を刈り取るため、イエスを遣わすことを計画されたのです。箴言1321「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい人に報いる」とあります。神の法則は、他のあらゆる自然界の法則がそれ相応の結果をもたらすと同様に、報いや罰を私たちに降りかからせるべく、積極的に働きかけるのです。」サンフォード師のことばを聞くと、「ああ、因果応報か?」と嫌になるかもしれません。確かにそういうところがあると思います。しかし、神さまはこの自然界を造られたとき、法則も一緒に造られました。神さまは愛なる方なのですが、法則を曲げない義なる方でもあります。本来は御霊によって善を蒔けばいのちを刈り取るという良い法則です。しかし、同時に肉を蒔けば滅びを刈り取るという悪い方にも働くということです。

 

 

自然界を見てもわかりますが、種を蒔けば刈り取りがあります。私たちが蒔く種は、ごく小さいものかもしれません。子どもの頃、家族のだれかに対して抱いた怒りや恨みなのです。私たちはもう、それらを忘れてしまっています。それにきづかないまま、またはそれを無視したまま時間が経てば経つほど、その種は成長していきます。テキストにはこのように書いてあります。「私たちは種を蒔いて、すぐにその実を刈り取るわけではありません。芽が出てもまだ刈り取りではありません。花が咲いても、まだ刈り取りではありません。実がなってその実が熟して初めて、刈り取りが起こります。実際の人生においては、種を蒔いた時から、実際にその結果を刈り取るまで、10年、20年、30年、40年という歳月が流れることがあります。アメリカで最近の傾向として、結婚して25年経つような夫婦での離婚が広がっています。突然、問題が持ち上がって、どうしてこんなことになったのか分からないという人が私たちのもとにカウンセリングを受けに訪れます。子供の時に何らかの種まきをしていたとしたら、40年、50年経ってからでは、どういうところから、この結果が出ているのか分からなくなってしまうのも否定できません。」独身のときは、まだ実がみのっていないので分かりません。結婚して子どもが与えられたとき、子どものときに蒔いた種がバーッと姿を現わすことは良くあることではないでしょうか?不思議なことに、自分が親にしたことを、子どもが自分に同じことをやるということがあります。そんなとき、「ああー、かつての私だった」と頭をかかえてしまいます。

 

 

しかし、種蒔きの法則はそれで終わりではありません。1粒の種を蒔いたら1粒の実しか結ばないでしょうか?そんなことはありません。アダムとエバが最初に与えられた命令は「生めよ。ふえよ。地を満たせ」でした。神の御国においてもすべてものは増加します。マタイ138別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ」とあります。そうです。種蒔きと刈り取りの法則に加えて、増加の原則というものが働きます。絵に描いてありますが、ここにいる一人の人がボールを投げます。何らかの罪の種を蒔くということです。それからずっと時間が経って、この人は前より年をとっています。最初に投げたボールはそれほど大きくありませんでしたが、受け取る時には大きな物となって跳ね返ってきます。子供の時、投げた玉は小さかったのに、大人になって返って来ているボールは、その人を押しつぶすほど、大きくなっています。蒔いたものは何倍にもなって自分のところに戻ってくるのです(良いことであっても悪いことであっても、です)。罪や苦々しい思いという種を蒔くと、ダンプトラックのタイヤみたいに大きくなって戻ってきます。幼いとき、苦い気持ちを蒔くと、苦いものも3060,100倍に戻ってくるのです。子どものときに苦々しい思いという種をまきました。「退職後はどのような生活をしようかなー」と思っていますが、巨大なボールが戻ってきます。結婚生活はダメになり、息子も娘も家出しました。その人は、「なんとか助けて下さい」と叫びます。第三の法則はこれです。「私たちは確実に自分の蒔いた物を刈り取る。しかし、そこには増加の法則も伴う。」ということです。

 

 安っぽい恵みなど、ありません。あらゆる罪は結果を要求します。赦しとは、神が反対側を向かれることや、神の掟を曲げられることではありません。イエス様はこういわれました。マタイ517「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」イエス様が十字架にかかられて、私たちが刈り取らなければならなかったものを、イエス様が代わりにその身に受けてくださったのです。イエス様は十字架の上で私たち一人ひとりのために、そのことを成してくださったのです。イエス様が私たちのために身代わりとなって十字架で死ぬためには、先ず私たちと一体になる必要がありました。私たちの罪と一体化されてはじめて、十字架の上でイエス様は刈り取りをすることができたのです。このために、十字架が必要だったのです。神はこの世を愛されたがゆえに、御子イエスを通して、私たちが本来刈り取るべき刈り取りを受けてくださったのです。しかし、十字架は自動的に働くのではありません。もし私たちが告白して悔い改めないなら、すべての結果を自らの手で刈り取りことになるのです。しかし、一瞬の告白で豊かなあわれみを得ることができます。私たちのところに、刈り取りの法則のゆえに、大きな罪と災いが襲いかかろうとしています。しかし、罪を告白して悔い改めたなら、その手前にキリストの十字架がたてられるのです。キリストの十字架こそがすべての呪いを打ち砕いてくれる神さまからの解決なのです。父なる神さまは脱出の道を与えてくださいました。それがキリストの十字架です。

 

 

 

 

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2015年6月 4日 (木)

愛における完全 マタイ5:38-48 亀有教会鈴木牧師 2015.6.4

マタイ5章でイエス様は「あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われた。

それは天の父のようにどんな人も愛せよという、愛における完全と言えるでしょう。

では、どんな人を私たちは愛すべきなのでしょうか?

その前に、どのような愛しづらい人たちが私たちの周りにいるのでしょうか?

38節から、12種類の愛しづらい人たちあげられています。

悪い者(神を恐れないであなたに悪事を働く人)

右の頬を打つような者(手の平の裏で打つこと。あなたを見下げ、軽蔑する人)

告訴する者(あなたを裁く人)

1ミリオン行けと強いる者(あなたを支配し、コントロールする人)

求める者(あなたにいろいろ請求する人)

借りようとする者(あなたを利用する人)

敵(あなたを滅ぼそうとする人)

迫害する者(あなたをいじめる人、虐待する人)

悪い人(あなたに悪意をもって近づく人)

正しくない人(正しいことをするあなたを憎む人)

取税人(あなたをだまして儲ける人)

異邦人(あなたの神を呪っているような人)

 

こんだけ?愛しづらい人々をイエス様があげているとは何と現実主義者なのでしょう!

まず私たちは人を愛する前に、こういう人がいることを前提として理解する必要があります。

クリスチャンとして牧師として、どんな人でも愛さなければならない?

そうするならうつ病になるか、偽善者になるかどちらかでしょう?

私も以前は「人はみな良い人なんだ」と心を開いてどんな人にも接してきました。

特に、セルチャーチの7つの本質の最初は「関係」です。

6,7年前に、人との関係を築き上げることが何よりも大切だと教えられました。

ところがどれから苦しくなり、人が怖くなりました。

たくさん傷つけられたからです。

そして、発見しました。「私は人間が嫌いなんだ」と。

講壇からも、「私は人の話が聞くのが苦手です。電話もしないでください」と言いました。

ある人たちから、牧師はそういうことを言うものではないと批判されました。

でも、私は携帯電話を携帯しないし、いつもバッテリーが切れています。

私が行く生協は教会と同じ電話で、呼び出し音を聞くたびに緊張感が走ります。

私は8人兄弟の7番目に生まれ、父は酒乱で母や子どもたちを打ちたたいていました。

私は裸足でよく逃げました。家は安息の場所ではありませんでした。

食事を済ませたらさっさと部屋(ありませんでしたが)に逃げ、お茶を飲んだことは皆無です。

学校では目立ちたがり屋で、うるさくて、一番私が先生から叱られました。

何故、私だけが叱られるのだろうと不思議でした。

でも、それは「きっと私が叱られるのだろう、叱られて同然」という顔をしていたからです。

25歳でクリスチャンになり、33歳で牧師になりました。

礼拝後、牧師は出口に立って、人々に笑顔で挨拶するものですが、早々にやめました。

 

クリスチャンだから、牧師だからと言って、だれをも平等に愛することができるのでしょうか?

教会に偽善者が多いのはそのためです。

本当は愛せない人なのに、仮面をかぶって「愛します」と言っています。

だから、牧師はうつ病になる傾向があります。

一番、愛するという義務を負っているからです。

では、イエス様は不可能な命令を与えたのでしょうか?

キリスト教は単なる教えでも、道徳でもありません。

キリスト教(この言い方は好きではありませんが)、キリスト教は奇跡なのです。

イエス様は十字架上で、自分を殺す人たちのために、「父よ彼らを赦してください」と祈られました。

イエス様ご自身が敵のために祈られたとは何ということでしょう!

 

では、どうしたら私たちもイエス様のように人々を愛することができるのでしょう?

私たちの肉にはそういう愛はまったくないことを最初に気づくことが重要です。

その次に、私は既に死んでおり、イエス様が私の内に生きていることを認めます(ガラ219,20)。

私ではなく、私の内におられるキリストが現われて、人々を愛させてくださるのです。

私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(ローマ55)。

人間イエス様も、内におられる聖霊によって、人々を愛されたのです。

だったら、私たちも内におられる聖霊によって、人々を愛することが可能になります。

 

大伝道者、ジョン・ウェスレーは「キリスト者の完全」ということを言いました。

まさしく、それは愛における完全ということです。

でも、ジョン・ウェスレーの結婚生活はまことに悲惨でした。

伝道から帰ると、妻は彼の長い髪の毛をつかんで、ひっぱり倒したと言われています。

彼女は精神が病んでおり、嫉妬に狂っていました。

教会の長老たちは「あなたは離婚しても良いことを私たちが認めます」と言いました。

でも、彼は生涯離婚しませんでした。

その代り、彼は馬にまたがり、世界を10周以上するくらいの距離の伝道旅行をしました。

おそらく、家庭にいるよりも、外で伝道する方が幸せだったからかもしれせん。

牧師も妻が愛すべき人たったら、あまり教会は成長しないかもしれません(冗談)。

とにかく、ウェスレー自身が妻によって聖められ、愛の完全を学んだと言えるでしょう。

ハレルヤ!私たちの周りには肉によって(自然に)、愛せない人がたくさんいるでしょう。

彼らは、私たちを聖めてくださり、やがて完全な人になれるように助けているのです。

 

堆肥を知っているでしょうか?嫌な臭いのする堆肥です。

でも、堆肥は植物を育ててくれ、実を結ぶためにはとても重要です。

私たちの周りに嫌な臭いのする12種類の人がいるかもしれません。

でも、それらは私たちたちを育てて、聖めて、完全な人にしてれる堆肥なのです!

これは、礼拝説教ではなくて、区役所のセルで語った内容です。

 

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