« エリヤの聖書的基盤 申命記5:16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.7 | トップページ | パフォーマンス指向 ガラテヤ3:1-3 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.21 »

2015年6月12日 (金)

根にふれる祈り マタイ7:16-20 亀有教会鈴木靖尋牧師 2015.6.14

 『根にふれる祈り』という本が7,8年前に発行されました。この著者は日本のエリヤハウス・セミナーに来られたことがあるロブ先生です。この本は「どんなに努力しても、私たちの悩みや難しい問題が、なぜ繰り返し起こるのか」という問に具体的な洞察を与えてくれます。私たちは緊急な用事や忙しさにかまけて、繰り返し起こる問題に目をとめることをしません。目先の問題だけを解決しようとます。しかし、そこには過去に蒔かれた種が、根をはって、悪い実を結んでいる場合があります。その悪い実をもぎ取っても、また悪い実がなります。一番の問題解決は、悪い実から根をたどり、その部分に解決を与えることであります。

1.実とは何か?

 聖書には植物や樹木のたとえが多く記されています。イエス様は「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」(マタイ716-17と言われました。実というのはその人の行ないや生活ぶりと言って良いでしょう。使徒パウロは「根が聖ければ、枝も聖いのです」(ローマ1116と言いました。上から順番に言いますと、実、幹、そして根があります。根の部分は地面に隠れているので、あまり注目されません。私たちはいつも実に注目します。「良い実がなっている」とか、「悪い実がなっている」と言います。たとえば一人の人を見ても、明朗活発な良い実もありますが、他の人をさばく悪い実もあります。人から重んじられると頑張りますが、認められないとやる気をなくすところもあります。私たちは一人で生きていません。だれかと関わり合いながら生きています。そこには緊張関係があったり、軋轢があったり、阻害されていると感じるときがあるのは何故でしょう。私たちはしばし立ち止まって、繰り返されているパターンに気づく必要があります。「なぜ、良い上司に恵まれないのだろうか?」「私だけが怒られている感じがする」「伴侶とあることでいつも衝突してしまう」「大切なときにミスをしてしまうのは何故だろう?」「今が言うべき時なのに言えない」「ついつい相手の言いなりになるのは何故だろう?」「いつも私が残業して、他の人の尻拭いまでするのは何故だろう?」

 多くの場合、私たちは他の人のせいにします。「上司の器が大きくなれば良いんだ」「うちの妻が、夫がもっと思いやりがあったなら」「あの人がいなくなれば、すべてうまくいくんだ」「あの人がもっと自分の仕事に責任を取れば良いんだ」。このように他の人のせいにしたり、他の人を変えようとします。たとえば、相手に70%の非があり、自分には30%の非があるとします。相手を変えることは難しいですが、自分の30%の非を改善することは可能です。自分の悪い実の原因をさぐって、取り除けば良いのです。そして、良い実が多くみのるようになれば良いのです。さきほど、実と幹と根の話をしました。テキストにもありますが、実とは人生の表面的な部分を表わしています。悪い実とは、怒りとか恐れ、さばきや自己憐憫です。その人自身は分からないかもしれませんが、悪い実は人々を汚しています。さらには、相手から悪いものを引き出してしまいます。たとえば、私がある人をほめたいと近づいたとします。笑顔いっぱいで、「○○が、すばらしいですね」と言ったとします。しかし、相手の人は無表情で「ありがとう」とも言いません。そうすると、「私の言い方がまずかったのかな?」と思います。すると次からは、その人のところに行ってほめるのを控えるようになるでしょう。やがて、その人は「私のことをだれも評価してくれない、こんなに頑張っているのに」と思うかもしれません。もしかしたら、その人には「重要な人から評価されるどころか酷評された」という心の傷があるのかもしれません。だから、他の人の評価を受け入れられないでしょう。そうすると、その人の中から、「あなたはどうせ私のことを評価してくれないのでしょう。評価してくれなくても結構です」という雰囲気がかもし出されます。それが他の人を汚すことであり、人から悪いものを引き出すということです。ヘブル1215「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」と書かれています。原因は苦い根であり、それが苦い実になっているのです。自分自身を汚し、さらには他の人をも汚しているのです。

 『根にふれる祈り』という本の中に、「否定的な期待も悪い実の1つである」と書かれていました。皆さんは、自分でこのように考えたことはありませんか?「なぜ男性(女性)は、私をこういうふうに扱うのでしょう?」「なぜ私はいつも、人に利用されるのだろうか?」「なぜできの悪い失敗者が私の周りに引き寄せられてくるのだろう?」これらは、自分の中に否定的な期待があるので、周りの人たちの最悪を引き出してしまうのです。たとえば、自分の期待を低くして、「男性はこんなもんだ」と偽りを信じている女性がいるとします。その人はどんなに嫌がったとしても、最悪な候補者に囲まれて、その中で相手を選ばなければならない運命なのだと感じています。ある日、目が覚めて「私はこんな人と結婚するはずではなかったのに」と言ってしまうのです。男性の場合も同じです。「ああ、なんてことだ。僕はまるで母のような人と結婚してしまった!」と嘆きます。このように悪い実は他の人に影響を与え、悪いものを他の人から引き出します。ある特定の性格の人と、いつも言い争いになってしまうかもしれせん。ある特定の人たちが周りにいると、支配されていると感じたり、罪意識や恥意識が起こってきたりします。ある場合には、特定の人たちの振る舞いに過剰反応をしないようにするため、ものすごく努力をしなければならないということもあります。おそらく、何も言われなくても、周りの人のある雰囲気が私たちにやる気をなくさせたり、落ち込ませたりするかもしれません。時にはそれは、その人の表情やほほえみ、にやにや笑いや笑い声が、私たちの内にある否定的な感情を呼び覚ましてしまう場合もあります。私たちは意識するしないにかかわらず、悪い実を与えながら生活しています。一番手っ取り早い方法は、そういう人から身を避けることでしょうか?しかし、自分の中にも他の人から悪いものを引き出してしまう実があるとしたらどうでしょうか?

2.根を見極める

 悪い実を見つけてそれを取り除いても、しばらくすると悪い実がみのります。悪い実に袋をかぶせて、ないもののように思っても無理です。あるいは、他の良い実で必死に補うかもしれません。でも、悪い実は死の力をもって私たちを苦しめます。真の解決は悪い根を見極めて、さらには良い根と取り替えるべきです。詩篇13923-24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」『根にふれる祈り』から引用させていただきます。「神さまは、私たちのすべてをご存じです。自分の根の問題を見つけ出そうと試みる時はいつも、神さまをこの行程の中にお招きするようにしてください。神さまこそが誰よりも、私たちの過去をよく御存じで、過去のできごとが、現在、戦っている悪い実と結びついているかも良く知っておられるのです。」アーメン。前のポイントで、繰り返し起こるパターンを知るということを申し上げました。なぜ、悪い実が今みのっているのでしょうか?それは、幼い時に、悪い種を蒔いたからです。それらがしばらく時間をかけて成長し、花が咲き、実がなり、現在に至っているのです。私たちは悪い根を見つけて、それを抜き取り、代わりに良い種を植える必要があります。ガラテヤ68-9「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

 

まず、実から根を探る作業が必要です。なぜなら、現在の悪い実のテーマは、根と同じテーマだからです。怒りの実がある人は、怒りの根があります。さばきの実のある人は、さばきの根があります。恐れの実のある人は、恐れの根があります。心の傷の実のある人は、傷の根があります。エリヤハウスでは、このような悪い根を総称して「苦い根」と呼んでいます。多くの場合、苦い根はゼロ歳から子どもの時に形成されたものです。苦い根は土の中に隠れていて、何本もの根が入り乱れ、重なり合っています。ですから、実から根をたどっていく作業は簡単ではありません。では、どういう時が一番、良いのでしょうか?それは感情的に、過剰な反応をした時であります。つまり、日常の生活ができなくなるほど、怒ったり、さばいたり、恐れたり、傷ついたり、落ち込んだりした時であります。まず、悪い実のテーマを頭に入れて、「このように感じるのは他にどんな時があるか」または、「これと同じような出来事が起きたのは、他にいつあっただろうか?」と自分に問います。思い出す限り、実例をあげていきます。友達に助けを求めることは、根の問題を明るみに出すためには大変役に立ちます。エリヤハウスでは4-5人位のチームでお互いにミニストリーをします。たとえば、自分の悪い実のテーマは「自分は取るに足りない存在だ」ということだとします。そのことを頭に入れて、神さまに「他に、いつ、どんな時に、自分は足りない存在だと思ったのか」尋ねてみます。記憶が思い出されたら、それを書き留めていきます。

実例をあげながら、他に3つのことも書き留めていくと良いです。第一は気持ちです。「その出来事は、あなたをどういう気持ちにさせたか」ということです。たとえば、「重要でない」「拒絶された」「自分なんかどうでも良いんだ」「自分はいない方が良いと思われている」などと書きます。第二は私の反応です。「その出来事に関与した人たちに対して、あなたが取った罪深い反応は何でしたか?」ということです。たとえば「父を恨んだ」と書きます。第三は信じた嘘・偽りです。「あなたはどんな偽りを信じ、また、どんな否定的な決断をしましたか?」ということです。たとえば「私はあまり価値のない存在だ」と書きます。これは、1つの例ですので3つは無理だという人は1つでも構いません。私は李光雨師や丸屋真也師からカウンセリングについて学びました。共通していえることは、自分のテーマを見つけ出すということです。つまり、「私はこのことを攻撃されたら自分が壊れそうになる」というテーマです。もちろん人は複雑なので、1つだけではありません。他に2つ、3つあるのが普通です。でも、一番のウィーク・ポイント、これを突かれたら爆発するスイッチがあるはずです。多くの人たちは、「ああ、地雷を踏んだ」と言います。それをお互いに避けることも知恵かもしれませんが、向き合って、イエス様から癒しを受けることが最良の策だと思います。

 こういう心の癒しを扱ったカウンセリングの弱点は、何でも過去のせいにするということです。「いつも自分の傷ばかり見て、後ろ向きで良くない。それよりもコーチングが良い」と言われたりします。『根にふれる祈り』の著者はこのように述べています。困難な時期にいるからといって、必ずしも私たちの過去に、その原因を起こしている根があるとは限りません。ただ、人生がバランスを失っていて、それも絶えずそのようであるとしたら、注意して根のことを考えてみると良いでしょう。自分の処理できる以上の問題を抱えていて、時間がたっても解決されるように思われない時、「人生は不公平だ」とか、「なぜ、いつも自分にだけこんなことが起こるのだろう」とか「何をしても無駄のように思える…」などと、自分で言い始めているのに気がついたなら、それはほぼ確実に、何かの根の問題を取り扱わなければならないということなのです。もし、このようなパターンがあなたの人生の中にあるなら、それらは悪い実であるかもしれません。アーメン。私たちは毎日の生活に追われています。すべきことがたくさんあります。その中で人間関係の軋轢を経験します。恐れや不安がありますが、なんとか打ち勝って生きています。しかし、日常から少し離れて、自分自身やその生活を見つめるということも重要です。常に走っている状態ですから、1日ぐらい休んでもダメです。3日くらい休むと自分の姿が見えてきます。『根にふれる祈り』という本に「心を深く耕すために」という質問がたびたび出て来ます。「あなたはどのような過剰反応をしてしまいますか?」「あなたはどのように自分を押さえていますか?」「不快な気持ちや否定的な感情を避けるために、いつもしてしまうことは何ですか?」しばし、歩みを止めて、心を深く耕しましょう!

3.根にふれる祈り

『根にふれる祈り』という本で強調されていることはこのことです。「私たちに何が起こったかよりも、それに対してどのように反応したかがもっと重要なことです。」この世の中では、いろんな不幸なことを経験します。幼いとき親から捨てられた人もいます。親がいても、肉体的にも精神的にも虐待された人もいます。だからと言って、そういう人たちが悪い実を結んでいるかというと必ずしもそうではありません。そのとき、罪深い反応をした場合、やがては悪い実を刈り取るということです。たとえば親から拒絶されたとき、親に対して怒り、さばく気持ちを持ったとします。その人が新しい拒絶の体験をするたびに、最初の拒絶体験から受けた痛みをもう一度引き出します。するとだんだんそれが強化されていきます。初めは「誰も私を好きにならない」と思っていましたが、やがて「私はだれも必要としない」というふうになります。拒絶という要塞ができあがり、どんな人も入ることができません。人間ですから、傷つけられたら、怒ったりさばいたり、罪深い反応をするのは当たり前です。ある場合は「一生忘れない、一生赦さないから」と、恨みを握って離さない場合もあるでしょう。その人の後の生涯はどうなるでしょう?おそらく、ひどい扱いを受けるたびに恨みの度合いが増すでしょう。さらに、恨みを抱かせるような機会が増し加わるのではないでしょうか?そういう人に近づいた場合、マイナスのエネルギーが噴出してくるような感じがします。自分も汚し、周りの人たちも汚す要素を持っているのです。

種蒔きと刈り取りは不動の法則です。しかし、それを打ち破る、聖書の約束があります。Ⅰヨハネ19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。神さまは心の中にあってなかなか消えることのなかった罪深い反応を取り去ってくださいます。そのために私たちのなすべきことは、自分の罪を告白していくということです。私たちの罪深い反応は、自分を傷つけた人たちに対して赦せない気持ちでいることです。それは、苦々しさ、憤り、さばく思い、憎しみ、仕返しをしたいという気持ちなどになって現れてきます。しなければならないことは、種蒔きと刈り取りの過程の初めとなったそれらの罪深い反応を告白することです。しかし、私たちは被害者ですから、「私が悪かったです」とすぐに謝ることなどできはしません。そのために、「根にふれて祈る」ことが必要なのです。では、根にふれて祈るとはどういうことをするのでしょうか?それは、イエス様に何が起こったかを話すことです。詩篇1422「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。」とあります。その時、自分がどのように感じたのか、イエス様と分かち合います。私もエリヤハウスでミニストリーをしたことが何回もありますが、奥の手は、その人がイエス様を呼び求めることです。「イエス様、私がひどいことをされて、泣いていたとき、あなたはどこにいたのですか?」とその人が聞きます。しばらく、沈黙が続きます。その人は昔のことを思っているのですが、そのシーンの中にイエス様がいたことがわかります。イエス様も一緒に泣いていたことがわかります。イエス様の御手が肩の上にあるという場合もあります。超自然的なことなので、何とも言えませんが、その人がわかるかたちで慰めてくださいます。ひと泣きするかもしれません。でも、それが癒しにつながります。

イエス様の慰めを受けたあと、4つのことが必要です。第一はイエス様に罪深い反応をしたことを告白します。怒ったこと、さばいたこと、苦々しい思いを持ったことを告白します。第二は自分に不適切な扱いをした人たちを赦すということです。赦すということは、復讐したい権利を放棄するということです。赦しは感情ではなく、意志です。「○○を赦します」とはっきり言う必要があります。第三は自分のどのような罪深い否定的な決断や偽りを破棄します。「お父さんを決して赦さない」「お母さんのようにはならない」「もうだれも信用しない」「自分には愛される価値がない」というような決断や誓いを放棄します。自分が信じてきたかもしれない嘘・偽りを完全に放棄し、神さまの語られる真理を置き換えていく、絶交の機会となります。第四は赦しと癒しの祈りを受け取るということです。言い換えるなら新しいいのちを受け取るということです。

妻が赤ちゃんを流産したのに、悲しんだり泣いたりすることのできないジョーという夫がいました。ジョーはどうして自分は悲しむことができないのかイエス様に祈りました。すると、子どもの頃に犬を飼っていたことを思い出しました。ジョーが家に帰ると飼っていた犬がいなくなっていました。「お父さん、犬はどうしたの?」と聞くと車にひかれて死んでしまったのだと告げられました。父親がその犬を見つけて、そしてゴミ箱に捨ててしまっていたのでした。父親は何日か経つと、その犬の代わりとなる他の犬を連れてきました。だれもその犬の死について泣かなかったのです。ジョーはその犬がどんなに自分に忠実であったのか、家族は誰もしてくれなかったけれど、その犬はジョーが学校から帰ってくると必ず迎えてくれたということを思い出しました。彼がひとりぼっちだと感じたり、誰かに誤解されていると思ったりしたとき、その犬と一緒にいて慰められていたことも思い出しました。その犬はいつもジョーと一緒にいてくれて、彼を愛してくれていたのです。ジョーがこのことを分かち合っていると、悲しみがこみ上げてきました。そして悲しみとともに、死んでしまった犬を自分に見せてくれず、埋めることさえさせてくれなかった父親に対しての怒りがこみ上げてきました。祈りの中でジョーは言いました。「天の父なる神さま、私は犬が死んでしまったこのできごとをあなたの前に持っていきます。今だから分かるのですが、死んでしまった犬をゴミ箱に投げ捨てられてしまい、最後にさよならさえ言わせてもらえなかったことで、自分はひどく傷つきました。そのことは、その犬がまるで投げ捨てられるゴミのかたまりであるかのように、価値がないように思わせました。私の両親は、犬を失った私が悲しめるようにすべきだったのです。私は悲しむことなんて価値がなく、馬鹿げたことだと思い込んでいました。泣くことは価値がないと決めていたことを放棄します。祈った後、さらに悲しみがジョーの内側からこみ上げて来ました。この悲しみは、妻が自分の子どもを流産してしまった悲しみでした。ジョーはやっと悲しみを分かち合うことができたのです。このように、私たちは実から根をたどり、その部分に解決を与えることが必要です。

|

« エリヤの聖書的基盤 申命記5:16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.7 | トップページ | パフォーマンス指向 ガラテヤ3:1-3 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.21 »