« 「失望しない希望」 ローマ人への手紙 5章1節-5節 亀有教会副牧師 毛利佐保 | トップページ | エリヤの聖書的基盤 申命記5:16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.7 »

2015年6月 4日 (木)

愛における完全 マタイ5:38-48 亀有教会鈴木牧師 2015.6.4

マタイ5章でイエス様は「あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われた。

それは天の父のようにどんな人も愛せよという、愛における完全と言えるでしょう。

では、どんな人を私たちは愛すべきなのでしょうか?

その前に、どのような愛しづらい人たちが私たちの周りにいるのでしょうか?

38節から、12種類の愛しづらい人たちあげられています。

悪い者(神を恐れないであなたに悪事を働く人)

右の頬を打つような者(手の平の裏で打つこと。あなたを見下げ、軽蔑する人)

告訴する者(あなたを裁く人)

1ミリオン行けと強いる者(あなたを支配し、コントロールする人)

求める者(あなたにいろいろ請求する人)

借りようとする者(あなたを利用する人)

敵(あなたを滅ぼそうとする人)

迫害する者(あなたをいじめる人、虐待する人)

悪い人(あなたに悪意をもって近づく人)

正しくない人(正しいことをするあなたを憎む人)

取税人(あなたをだまして儲ける人)

異邦人(あなたの神を呪っているような人)

 

こんだけ?愛しづらい人々をイエス様があげているとは何と現実主義者なのでしょう!

まず私たちは人を愛する前に、こういう人がいることを前提として理解する必要があります。

クリスチャンとして牧師として、どんな人でも愛さなければならない?

そうするならうつ病になるか、偽善者になるかどちらかでしょう?

私も以前は「人はみな良い人なんだ」と心を開いてどんな人にも接してきました。

特に、セルチャーチの7つの本質の最初は「関係」です。

6,7年前に、人との関係を築き上げることが何よりも大切だと教えられました。

ところがどれから苦しくなり、人が怖くなりました。

たくさん傷つけられたからです。

そして、発見しました。「私は人間が嫌いなんだ」と。

講壇からも、「私は人の話が聞くのが苦手です。電話もしないでください」と言いました。

ある人たちから、牧師はそういうことを言うものではないと批判されました。

でも、私は携帯電話を携帯しないし、いつもバッテリーが切れています。

私が行く生協は教会と同じ電話で、呼び出し音を聞くたびに緊張感が走ります。

私は8人兄弟の7番目に生まれ、父は酒乱で母や子どもたちを打ちたたいていました。

私は裸足でよく逃げました。家は安息の場所ではありませんでした。

食事を済ませたらさっさと部屋(ありませんでしたが)に逃げ、お茶を飲んだことは皆無です。

学校では目立ちたがり屋で、うるさくて、一番私が先生から叱られました。

何故、私だけが叱られるのだろうと不思議でした。

でも、それは「きっと私が叱られるのだろう、叱られて同然」という顔をしていたからです。

25歳でクリスチャンになり、33歳で牧師になりました。

礼拝後、牧師は出口に立って、人々に笑顔で挨拶するものですが、早々にやめました。

 

クリスチャンだから、牧師だからと言って、だれをも平等に愛することができるのでしょうか?

教会に偽善者が多いのはそのためです。

本当は愛せない人なのに、仮面をかぶって「愛します」と言っています。

だから、牧師はうつ病になる傾向があります。

一番、愛するという義務を負っているからです。

では、イエス様は不可能な命令を与えたのでしょうか?

キリスト教は単なる教えでも、道徳でもありません。

キリスト教(この言い方は好きではありませんが)、キリスト教は奇跡なのです。

イエス様は十字架上で、自分を殺す人たちのために、「父よ彼らを赦してください」と祈られました。

イエス様ご自身が敵のために祈られたとは何ということでしょう!

 

では、どうしたら私たちもイエス様のように人々を愛することができるのでしょう?

私たちの肉にはそういう愛はまったくないことを最初に気づくことが重要です。

その次に、私は既に死んでおり、イエス様が私の内に生きていることを認めます(ガラ219,20)。

私ではなく、私の内におられるキリストが現われて、人々を愛させてくださるのです。

私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(ローマ55)。

人間イエス様も、内におられる聖霊によって、人々を愛されたのです。

だったら、私たちも内におられる聖霊によって、人々を愛することが可能になります。

 

大伝道者、ジョン・ウェスレーは「キリスト者の完全」ということを言いました。

まさしく、それは愛における完全ということです。

でも、ジョン・ウェスレーの結婚生活はまことに悲惨でした。

伝道から帰ると、妻は彼の長い髪の毛をつかんで、ひっぱり倒したと言われています。

彼女は精神が病んでおり、嫉妬に狂っていました。

教会の長老たちは「あなたは離婚しても良いことを私たちが認めます」と言いました。

でも、彼は生涯離婚しませんでした。

その代り、彼は馬にまたがり、世界を10周以上するくらいの距離の伝道旅行をしました。

おそらく、家庭にいるよりも、外で伝道する方が幸せだったからかもしれせん。

牧師も妻が愛すべき人たったら、あまり教会は成長しないかもしれません(冗談)。

とにかく、ウェスレー自身が妻によって聖められ、愛の完全を学んだと言えるでしょう。

ハレルヤ!私たちの周りには肉によって(自然に)、愛せない人がたくさんいるでしょう。

彼らは、私たちを聖めてくださり、やがて完全な人になれるように助けているのです。

 

堆肥を知っているでしょうか?嫌な臭いのする堆肥です。

でも、堆肥は植物を育ててくれ、実を結ぶためにはとても重要です。

私たちの周りに嫌な臭いのする12種類の人がいるかもしれません。

でも、それらは私たちたちを育てて、聖めて、完全な人にしてれる堆肥なのです!

これは、礼拝説教ではなくて、区役所のセルで語った内容です。

 

|

« 「失望しない希望」 ローマ人への手紙 5章1節-5節 亀有教会副牧師 毛利佐保 | トップページ | エリヤの聖書的基盤 申命記5:16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.7 »