« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »

2015年5月31日 (日)

「失望しない希望」 ローマ人への手紙 5章1節-5節 亀有教会副牧師 毛利佐保

 

<ローマ人への手紙 51-5節>

 

5:1

 

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 

5:2

 

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

 

5:3

 

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

 

5:4

 

忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

 

5:5

 

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

*******************************************

 

 

 

このローマ55節の「この希望は失望に終わることがありません。」という「みことば」に、これまでどれだけの人が励まされてきたことでしょうか。

 

私もその一人です。

 

 

 

本日は、「失望しない希望がある」と、なぜパウロは確信を持って語ることができたのか。

 

そして、その希望とは何か。

 

また、そのパウロを常に守り導いてくださっている神様について、より深く知ることができるようにと祈りながら、みことばに耳を傾けていきましょう。

 

 

 

まず、「ローマ人への手紙」が書かれた背景なのですが、執筆年代は、イエス様が十字架に架かられてよみがえられた時から、20年以上経っていた、紀元56-57年ごろだと言われています。

 

この手紙は、パウロが第三回目の伝道旅行で、ギリシャのコリントに滞在した時に、ローマの教会に宛てて書かれたようです。

 

 

 

この時代のローマは、世界の政治、経済、軍事の中心地としての影響力が絶大で、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と言われていました「すべての道はローマに通じる」ということわざがあるほど交通網が発達し、世界のあらゆる民族がローマに移り住むようになっていました。

 

 

 

ユダヤ人も多く住んでおり、その頃すでにイエス様の福音はローマにも伝わり、キリスト教会も出来ていたようでした。使徒の働きや、パウロ書簡にたびたび名前が出てくる、パウロの助け手となったアクラとプリスキラという夫妻も、ローマの教会の人だったようです。

 

 

 

パウロはこのとき、まだ一度もローマに出向いたことがなく、ローマに行くことを切望していました。

 

ローマに直接出向いて、ローマのキリスト者たちを励まし、教えたいと願っていたのです。

 

それは、間違った教えや、共同体をかき乱す人たちがいたからです。

 

 

 

ローマの1章と16章にそのあたりの事情が記されています。

 

この時パウロの年齢がいくつだったかは解りませんが、そんなに若くはなかったはずです。

 

しかし、パウロはとてもパワフルに活動していました。

 

そして彼の生き方はいつでも「命懸け」でした。

 

自分の命を顧みず「命懸け」で、異邦人福音伝道を続けたパウロが語る言葉には、大変重みがあります。

 

 

 

では、5:1から見ていきましょう。

 

******************************************

 

5:1

 

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 

******************************************

 

 

 

◆希望とは何でしょう・・・希望とは、

 

①主イエスによって、神との平和を持つことです。

 

 

 

5:1は日本語聖書だと、「ですから~」で始まりますので、その「ですから~」と切り出すまでに至る、1章~4章でパウロが語った話の経緯があります。簡単に振り返ってみたいと思います。

 

 

 

1章から2章では、異邦人とユダヤ人のそれぞれの罪について言及し、3章では、

 

******************************************

 

3:23,24

 

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 

******************************************

 

と、イエス様の十字架の贖いのゆえに、信じる者は神から義と認められると述べました。

 

 

 

続く4章では、旧約聖書からの引用で、「アブラハムの信仰」を例に出しました。

 

そして、ローマ4章の一番最後の節、25節で、 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と語り、51節の「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」につながります。

 

 

 

私たち人間は、みな罪人ですが、信仰によって、神との平和を持つことができるという、「希望」があります。

 

アダムの罪によって神から遠く離れてしまった私たち人間は、イエス様の血によって、神と不和となっていた関係から和解し、平和の関係へと変えられたのです。

 

 

 

そして、続く2節。

 

******************************************

 

5:2

 

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

 

******************************************

 

 

 

◆希望とは何でしょう・・・希望とは、

 

②主イエスによって、神の栄光にあずかることです。

 

 

 

2節の、「神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」は、口語訳では、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。新共同訳では「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」と訳されています。

 

 

 

「神の栄光にあずかる」とは、第Ⅱコリント3:18に書かれているように、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」ということです。これは、「永遠のいのち」への希望です。

 

 

 

ですから私たちは、「主イエス・キリストによって神の栄光にあずかる希望を誇りにしている」のです。

 

 

 

続く、3節、4節を読みましょう。

 

******************************************

 

5:3

 

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

 

5:4

 

忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

 

******************************************

 

 

 

「患難さえも喜んでいます。」・・・というのは、この世的な価値判断では到底考えられない感覚ですが、これは、命懸けで福音を伝えたパウロの真実の証です。

 

 

 

彼はどんなときも主に在って喜んでいました。

 

ピリピ4:4に書かれてある通り、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と語っては、苦難の中にある兄弟たちを励ましていました。

 

そうやって人を励ませるのは、いつも自分自身が主にあって喜べているからですよね。

 

 

 

「患難は忍耐を生み出し、」・・・ここで言うパウロの忍耐は、彼の生き様を見ればわかるように、消極的にただ黙って我慢をするような忍耐ではなく、不屈の精神で、不動の信仰をもって、平たく言えば、「腹をくくって」神を証し、積極的に生きていくということです。

 

 

 

パウロがどんな患難に遭ってきたかということは、第Ⅱコリントの11章に詳しく書かれています。

 

 

 

<第Ⅱコリント1124-27節>

 

******************************************

 

11:24

 

ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、

 

11:25

 

むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。

 

11:26

 

幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、

 

11:27

 

労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 

******************************************

 

 

 

・・っと、「まったく、パウロはよく生きていられたな~」と思ってしまうようなことが列挙されています。

 

そして、パウロの患難は外側のことだけではなく、心の内にもありました。

 

 

 

******************************************

 

11:28

 

このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

 

11:29

 

だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

 

******************************************

 

ここから、パウロがどれだけコリント教会のひとりひとりに気を配り、心労を重ねていたかということが、よくわかります。

 

 

 

ここでみなさんに考えていただきたいのは、このことは、聖書に書かれている遠い昔の外国の人の話ではないということです。現代に生きている私たちにも、それぞれ人生の荒波があります。

 

次々と湧き上がる困難な問題や、襲いかかってくる苦難は、仕事上でも、学校の中でも、家庭の中でも、健康上でもあるでしょう。また、信仰をもっているが故の圧迫や、困難も数々あるでしょう。

 

 

 

それでも、「さすがにパウロのような患難は来ないだろう。命懸けで何かをするなんてことも、そうそうないだろう。」と思ってはいないでしょうか。そんなことはわかりません。

 

今ある平和な時間が、あっというまに取り去られることがあるかもしれません。

 

 

 

そんな時、患難さえも喜び、忍耐を生み出すことができるのは、信仰を土台として、腹をくくった生き方をしている人たちではないでしょうか。

 

 

 

信じるべきもの、守るべきものがはっきりとしている人は幸いです。

 

 

 

私は今はまだ、「腹くくりの訓練中」ですが、しっかりとした信仰を土台として、覚悟を決めて生きていきたいと思っています。

 

 

 

次にパウロは、「忍耐が練られた品性を生み出し」と言っています。ここでの「練られた品性」は、「熟練」とか、「練達」した人柄のことを指します。

 

 

 

数々の人生のトライアル(試み)によって練られた人格は、鋼のように強くしなやかで、そして柔和で、精錬されて不純物が取り除かれた、なんとも純粋な品性を生み出します。

 

本当に、このような人格者となりたいものです。

 

 

 

そして、この「練られた品性」が「希望」を生み出すのです。

 

 

 

******************************************

 

5:5

 

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

******************************************

 

 

 

◆希望とは何でしょう・・・希望とは、

 

③聖霊によって、心に注がれる神の愛です。

 

 

 

冒頭でも申しましたが、この5節の、「この希望は失望に終わることがありません。」という御言葉が、どれだけ私たちの心を慰め、勇気づけてくださることでしょうか。

 

 

 

パウロはなぜ、このように確信を持って「この希望は失望に終わることがありません。」と言えるのでしょうか。

 

 

 

それは当然のことですが、パウロを守り導いておられる主なる神様が、本当に素晴らしいお方だからです。

 

パウロは、主イエスキリストに、全信頼を置いています。

 

それは、ガラテヤ2:20で、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」とパウロ自らが語った通りです。

 

 

 

そして、パウロが「その希望は失望しない」と語ったのには、確かな根拠があるからです。

 

その根拠とは、5節の後半、「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ということです。

 

 

 

「聖霊によって私たちが神を愛する」というのではなく、「聖霊によって神の側からの豊かな愛が、私たちの心に注がれ続けている」から、「この希望は失望に終わることがない」のです。

 

聖霊によらなければ、私たちは何ひとつ受けることも、成し遂げることもできません。

 

 

 

思い起こせば、2011311日に東日本大震災が起こったとき、私は必死で聖書をめくりました。

 

被災地に家族や友人がいて、安否がわからず不安な日々を送っている方たちのために、神様からの励ましと慰めの言葉を探そうと思ったのでした。

 

 

 

しかし、どの御言葉も、私には伝わりにくい言葉のように思えました。

 

 

 

「御言葉には力があるはずではなかったのか。」と、がく然としました。

 

 

 

そんな時に、このローマの55節の「この希望は失望に終わることがありません。」という御言葉が目に飛び込んで来ました。この時、私にとってこの御言葉は、ただ「励まされた」とか、「慰められた」とか、「確信を持ちました」とかいう類ではなく、もっともっと私の心の奥底の深い部分に突き刺さりました。

 

 

 

まさに、聖霊によって神の愛が私の心に注がれた瞬間でした。

 

「失望しない希望」が、確かにあるんだと私は確信したのです。

 

 

 

神様はこの時、「御言葉には力があるから、御言葉で人を励まそう!」と短絡的に考えていた私の、そのおこがましい心を打ち砕き、私自身が、まずその御言葉をしっかりと握り締めることを教えてくださったのです。

 

 

 

最後に、

 

◆希望とは・・・

 

神様からの約束の成就を、期待して待つことです。

 

 

 

「希望」という言葉は、旧約聖書の原語のヘブル語では<へ>hwqt(ティクバー)と言います。この言葉の語源は<ヘ>hwq (カバー)で、意味は「待つ」です。動詞では、「期待する」という意味もあります。

 

つまり聖書の語る「希望」とは「神様からの約束の成就を期待して待つ」ことです。

 

 

 

神様からの約束は、聖書にたくさん書かれています。

 

信じるものに与えられる日々の恵みもそうですし、主に従う者が栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行くことや、イエス様が再びこの地に来られるという再臨もそうです。

 

 

 

では、私たちは日々どんな風にして、神様からの約束の成就を期待して待てばよいのでしょうか。

 

 

 

亀有教会の牧師館北側の花壇に、初雪カズラという観葉植物を植えているのですが・・・

 

その初雪カズラ、花壇から牧師館の床の方に芽を出し、壁の裏側の隙間を伝って伸びたらしく、なんと、2階の窓枠の隙間から新芽が顔を出しています。

 

 

 

花壇の初雪カズラの根っこが建物の床の方に伸びて、壁の裏側の隙間に間違って芽を出してしまい、薄暗い中で、はるか上方に見えるほんのわずかな光に向かって枝を伸ばした結果、このような不思議なことが起こりました。

 

 

 

この植物が生きようと必死になって、一筋の光に向かって枝を伸ばしたように、私たちもただひたすら、光であるイエス様を見上げて、聖霊によって、神様からの一方的な愛の注ぎを受けながら、患難をも喜び、自らの枝を伸ばしていけば良いのではないでしょうか。

 

 

 

◆希望とは何でしょう・・・希望とは、

 

①主イエスによって、神との平和を持つことです。

 

②主イエスによって、神の栄光にあずかることです。

 

③聖霊によって、私たちの心に注がれる神の愛です。

 

神様からの約束の成就を、期待して待つことです。

 

 

 

そして、私たちの最大の希望とは、

 

 

 

私たちの罪のために、十字架に架かって尊い血潮を流し、罪を贖ってくださり、父なる神と私たちとの仲保者なってくださった御方、生ける神の御子イエス・キリスト、その御方ご自身なのです。

 

 

 

|

2015年5月22日 (金)

御霊の導き Ⅰコリント2:9-14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.5.25

 本日はペンテコステ礼拝ですが、『タッチングヘブン』のテキストからメッセージさせていただきます。聖霊というとき、ある人たちは聖霊の賜物とか力あるわざに興味がいきがちです。もちろん、そういうことも重要ですが、聖霊は私たちの霊に語りながら、私たちが神さまのみ旨の内を歩めるように導いてくださるお方です。新約聖書では単に御霊としか出てこないときがあります。ギリシャ語は大文字で区別していませんので、神の御霊なのか、私たちの霊なのか区別できないところがあります。それだけ聖霊は私たちと共に住み、共に歩んで下さるお方なのです。きょうは「御霊の導き」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。

1.御霊による悟り

 聖霊は私たちに悟りを与えてくださいます。では、聖霊は何を私たちに教え、何を私たちに悟らせてくださるのでしょうか?それは神のことばである聖書です。聖書それ自体は、神の霊感よるもので誤りなき神のことばであります。しかし、私たちが聖書を読むとき、すぐ分からないことがあります。「これはどういう意味なのだろう?」という解釈の問題、「私にとってどういう意味なのだろう?」という適用の問題があります。ある人たちには、「聖書は難しいし、自分で読むと間違って解釈してしまう」という先入観があります。そして、注解書やだれか神学者の力を借りて読もうとします。昔、ローマ・カトリックではヴルガータというラテン語訳の聖書のみに権威が置かれました。中世の頃、一般の人たちはラテン語が分かりませんでした。しかし、教会は自国のことばに翻訳することを禁じました。それで、教会のミサに来て、ラテン語の聖書を解き明かしてもらいました。一般の人たちは聖書を持っていなかったのです。聖職者や神学者の教える聖書を学んだのであります。ですから、ヨーロッパ中に神話やジンクス、あるいは魔術が横行したのであります。彼らは霊的に全く盲目でありました。1517年、ルターの宗教改革後、聖書が印刷され、だれもが自国のことばで読めるようになったのです。ところが何百年たっても、目の前の聖書を読まないで、参考書や解説書を読むとは何事でしょう?プロテスタント教会も同じような過ちを犯しているということです。本当はどうなのでしょうか?聖書の原著者である聖霊に聞けば、聖霊が教えてくださる。なぜなら、聖霊は真理の御霊だからです。

 ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ1613「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」これらは、イエス様が弟子たちに言われたことばです。当時の弟子たちでさえ、イエス様がおっしゃることを全部理解できませんでした。そのため、イエス様はご自分の後、父のもとから遣わされる聖霊にゆだねたのであります。聖霊が来たら、ご自分が話したことを思い起こさせ、また悟らせてくださるということをご存じだったのです。私たちは使徒の働き2章のペテロの大説教を知っています。彼はペンテコステの日、集まって来たエルサレムの人たちに大胆に語りました。キリストの死と復活の意味を旧約聖書から解き明かしました。ペテロが「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と言ったら、3000人がイエス様を信じました。ペテロは、美しの門で足なえがいやされた後、もう一度、説教しました。すると、大勢の人たちが信じ、男性だけでも5000人ほどになりました。当時の宗教的指導者たちはあわてました。ペテロやヨハネを捕えて、「何の権威によって、だれの名によってやっているのか」と尋問しました。使徒413「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」この「無学な、普通の人」と言う意味は、「専門的な教育を受けていない素人」という意味です。律法の専門家たちは、「この知恵をどこから得たんだろう?」と驚いたに違いありません。なぜ、できたんでしょう?それは、ペテロが御霊によって語っていたからです。

 『タッチングヘブン』のテキストにこのように書かれています。「神さまの御声を聞きたいと願う人は、聖書に書かれている神のことばを勤勉に読んで行う人なのです。私たちが神のことばを瞑想し、行なうことをし続けるならば、聖霊は私たちの心にとどめているみことばを悟らせ、教えてくださるのです。聖霊はしばしば、私たちが問題や誘惑に直面しているとき、教え、悟らせてくださいます。」あるホームページに、ミサワ・ホーム中国(株)の正野社長の証がありました。中国といっても、岡山県であります。1982年、創業社長が急性膵炎で倒れ、わずか三日後に急逝しました。それで、専務取締役だった正野さんが急きょ社長に就任しました。会社は石油危機と事業拡大で赤字経営に陥っていましたが、業績は下降の一途をたどるばかりでした。トップとしてビジョンと具体的な戦略を示さなければなりません。赤字経営を立て直す場合、業績の悪い社員を解雇する合理化策は経営の常道です。彼はイエス様の十字架の贖いで恵みに入れられている社員を解雇することができませんでした。しかし、そうなると共倒れは必至です。損得を優先すべきか、神の愛を優先すべきか。二者択一に迫られ、ジレンマの中で進退きわまった彼に、次のみことばがくっきりと示されました。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」コリント13:13。彼は倒産を覚悟の上で、解雇しないという信仰者の道を選びました。その結果、会社はどうなったでしょうか。予想もしていなかった奇跡が起こったのです。社員たちは、この社長ならついていこうと思ったのでしょう。愛はメンバーの一致をもたらし、そこから新しいいのちが生まれます。業績はぐんぐん伸び始め、わずか2年で2億円もの赤字を解消し、高収益会社に一変してしまいました。

 このように聖霊は私たちにみことばを示して、脱出の道を示してくださいます。そのためには、聖書を普段から読んで、心の中にみことばを蓄えている必要があります。そして、私たちが祈るときに、聖霊はみことばを与えて導いてくださるのです。

2.御霊によるコミュニケート

『タッチングヘブン』の25日目に、「神さまは私たちの霊的な感覚によってコミュニケートされる」と書いてあります。コミュニケートとは、情報・知識・感情などを伝達するという意味です。神さまは霊ですから、私たちが新生すると、私たちの霊が神さまの霊と伝達し合うことができるようになります。霊は霊によってでしか伝達できません。たとえば水と油であるなら、混ざることができません。しかし、水と水であるならたやすく混ざり合うことができます。私たちは私たちの霊を通してでしか、神さまと伝達し合うことができないのです。その根拠となるみことばが、Ⅰコリント29-12です。「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」アーメン。生まれながらの人は、神の御霊に属することを受け入れません。それらが愚かに見えるし、またそれを理解することもできません。しかし、御霊を受けている人、クリスチャンは神さまの思いが分かります。なぜなら、神さまが聖霊によって、私たちの霊に語りかけてくださるからです。

 テキストには神さまからの語りかけには3種類あると記されています。第一は、神さまは霊的な耳を通して語られます。このところに「耳が聞いたことのないもの」とあります。神様は私たちに言葉を与えられます。1つの言葉もあるし、2つ、3つの言葉もあります。勇気を出して1つ目の言葉を言うと、2つ目のことばが出て来ます。それをさらに語るならば、もっと言葉が出てきます。これを聖書では、預言と呼びます。そもそも預言とは、泡のように溢れ出てくるという意味があります。しかし、これは1つか2つの言葉から始まります。たとえば、だれかに手を置いて祈るとします。突然、あなたの霊の世界に、ある言葉が浮かんできます。「拒絶」「傷」「自信がない」。何かそういう言葉です。神様はあなたに、この人の人生のあることを語りかけていることがわかるでしょう。しかし、それはあまりにも単純なことなので、それはあなた自身から出ていることではないかと思います。しかし、それはあなたではありません。神様があなたを通して語っておられるのです。ですから、それを口に出す必要があります。そうすると力強いことが起きてきます。

 第二は、神さまは霊的な目を通して語られます。このところに、「目が見たことのないもの」とあります。神さまは私たちの霊に絵あるいはビジョンを見せてくれます。止まっているような風景の絵かもしれないし、あるいは映画のように動いている絵かもしれません。エディ先生がチームでモンゴルに伝道旅行に行きました。そのときの運転手が、とても悲しそうで、全く自信がないように見えました。食事をしているとき、チームの何人が「運転手にあることが与えられた」と言いました。運転手を自分たちの席に呼んで、彼のために祈りました。その時に映画のような絵が示されました。彼が8歳のとき、だれかが彼に唾をかけました。そして彼に「お前は、豚のようだ」と言って侮辱しました。その言葉によって彼は非常に傷つきました。その後、彼は大きな都市に引っ越しましたが、彼の人生は大きく変わってしまいました。彼は拒絶されたという思いをもって生きてきました。このことを彼に伝えました。彼は泣きながら「どうしてそんなことがわかったのですか?」と言いました。神様はその人を癒されました。次の日、彼は全く変えられていたのです。

 第三は、神さまは霊的な感覚を通して語られます。「人の心に思い浮かんだことのないもの」とあります。これは霊的な印象あるいは直観と言っても良いでしょう。たとえば、部屋に入ると、あなたはそこで失望落胆を感じることがあるかもしれません。また、だれかのために祈っていると、この人と一緒に泣きたいと思うような重い悲しみを感じるかもしれません。神さまはあなたに伝えたいのです。しかし、私たちはたいてい、それを「ただの自分の感情だ」と思ってしまいます。ですから、私たちは常に練習していなければなりません。これもモンゴルの証ですが、一人の盲人の牧師が出席していました。1週間くらい前に急に目が見えなくなり、奥さんが無理やり彼を連れてきたのです。チームのメンバーの人たちは「彼はある罪を犯している。もし、彼が罪を告白するなら神さまが癒される」という共通の印象を持ちました。その牧師を個室に連れて行き、話を聞きました。その牧師は問題から逃避するために、毎日、深酒をあおっていたそうです。彼がその罪を告白した直後、目が見えるようになったそうです。聖霊様はそのようにして、印象を通して語りかけることがあります。

 私もエディ先生のご指導にならいこれらのことを何度も実践しました。その人の祝福のために祈ると、ことばとか絵が与えられます。しかし、初心者がやるとあまりにもダイレクトなので、逆に傷をつけることがあります。蒲郡教会で、みんなが輪になって実践する時がありました。北海道の一人の兄弟が私を呼んで預言してくれました。彼は私に「あなたは業績志向の人です」とズバッと言いました。その頃の私は、業績志向から「恵みの歩み」に換えていた時でした。その時、私は非常に傷つきました。人をさばくような預言はだれにでもできます。私たちは他の人の欠点が良く見えます。しかし、預言の一番大きな目的は「建て上げ」であり、「励まし」です。もし、この人が「業績志向だな」と分かったなら私だったらこう言うでしょう。「神さまはあなたがどんなにがんばっているか良くご存じです。でも、がんばっていないときもあなたを愛しているよ。行ないではなく、存在そのものを認めているよ」と。とにかく3つの神からのコミュニケートは他者に適用するときは訓練が必要です。ですから、本当に親しい人から始めましょう。また、聖霊様に対して、いつでも開かれた心を持ちましょう。

3.御霊による祈り

 エペソ人への手紙6章後半には、「悪魔の策略に立ち向かうために、神のすべての武具を身に付けなさい」と記されています。その後、いくつかの神の武具が記されていますが、最後にそれらの武具を動かす武器が記されています。最終兵器、ultimate weaponとは何なのでしょうか?エペソ618「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」あるおばあちゃんが「もう、私は年をとって、奉仕も満足にできません。ただ、お祈りするしかできません」と言ったそうです。それは「ピストルも機関銃も持っていない。ただ、ミサイルしか持っていない」と言っているようなものです。御霊による祈りは、それほど敵なる悪魔に破壊的な力を与えるということです。そうなんです。私たちは自分の知恵や知識によって対抗しようとするかもしれません。しかし、悪魔は何万年も生きて、人類をだましてきました。悪魔の方がはるかに、知恵や知識があるのです。だから、教会が何か議論しているとき、悪魔は寝ています。しかし、教会が心を合わせて祈り出すなら、「おっ!これは大変だ」と本気になるでしょう。しかし、御霊による祈りというのはどういう祈りなのでしょうか?ある人たちは「それは異言による祈りだ」と言うかもしれません。もちろん、異言による祈りも重要ですが、それよりももっと根本的な祈り方があります。

 『天路歴程』を書いたジョン・バニヤンは、1660年、勝手に説教したということで逮捕されました。彼は三度も投獄され、計12年半に亘りました。彼は獄中の中で数冊のパンフレットを書きました。その中に『私は霊をもって祈ろう』というのがあります。バニヤンは国教会の祈祷書に反対し、聖霊の導きに従って自由に祈ることが大切であると主張しました。「今日の、自ら知者だと思い上がっている人たちは、祈りの形式も内容も、自分の思いどおりに書き上げる能力を持っていると思い込んでいます。そして、毎日の祈りを、あらかじめ決めてしまっています。その日が来るもう何年も前から。クリスマスの祈りがあります。イースターの祈りがあります。公の礼拝の時には、それぞれの祈りにどの言葉をいくつ使うかまで、教会の聖職者たちは決めています。『祈祷書』を書いた人たちは、使徒がしようとしなかったことをあえてしたわけです。ある祈りを前もって決めておいて、それを何度も何度も繰り返して使う、ということです。しかし、使徒たちはそれをしませんでした。パウロがみずから認めるように、『私たちは、どのように祈ったら良いか分からない』からです。もし、聖霊がとりなしてくださらないならば。」私も同感です。私は結婚式も葬儀においても、式文の祈りはほとんど用いません。いつでも、聖霊の助けと導きによって祈るようにしています。さきほど、聖霊によるコミュニケーションに、言葉、絵、印象の3つがあると申し上げました。まさしく、それらが与えられるように祈ります。美辞麗句を伴ったどんな立派な祈りであっても、御霊による祈りにはかないません。なぜなら、御霊こそが私たちに祈りを与え、御霊こそが神さまにその祈りを届けてくださるからです。

 『タッチングヘブン』のテキストには、たびたび、「霊によって祈り、霊において神さまと交わりましょう」と書いてあります。そして、霊によって祈るとは、異言で祈ることであるとも書いてあります。ですから、私はこのテキストを公にすることを少し恐れました。これまでは、希望者だけにプレゼントしてきました。アッセンブリー教団などでは、公の礼拝でも異言の祈りとか霊の歌を歌うようです。私は福音派の出身ですので、未信者の方が躓かないように公にはしないようにしています。Ⅰコリント14章にも「初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか」と書いてあるからです。おそらく、20名以下の少人数の集会であるならば異言で祈るのは問題がないかもしれません。しかし、異言を禁じるべきかと言うとそうではありません。使徒パウロは「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいます。…私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています」と言っています。ですから、「異言は変だ」とか、「そんなのいらない」と言ってはなりません。使徒パウロは「私たちは、どのように祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ826と言いました。私は「言いようもない深いうめき」も異言の1つではないかと思います。私たちの知性では追いつかない、言葉でどう表現したら良いか分からない時があります。そういう時に、御霊が神のみこころに従って、とりなしてくださるのです。私は夜、寝ているとき、異言で祈っている時があります。私の祈りが少ないので、聖霊様がお祈りしておられるのでしょう。目覚めてから、異言で祈ろうとしますが、あまり出てきません。おそらく知性が邪魔をするのではないかと思います。

 私はみなさんに「祈りましょう」とあまり強調しない牧師の一人かもしれません。私は祈りの課題を見ながら、1つ1つ祈るととても疲れます。何だかお勤めみたいに思ってしまうからです。確かに、祈りの課題や祈りのノートは必要だと思います。でも、何よりも御霊によって導かれて祈るなら、疲れることはありません。もちろん祈り出すときは、「大変だなー」と思います。しかし、車がローギアから加速していくように、祈り出すとだんだん調子が出てきます。でも、やっと走り始めたころ終わってしまうので、ダメだなーと思います。御霊の祈りがエペソ6章後半に記されているということは、偶然ではないと思います。エペソ6章後半は霊的戦いについて書かれています。もちろん、祈りは神さまとの交わりが主であって、霊的戦いではないと思います。しかし、私たち聖徒が祈るのを邪魔する力もあるということは確かです。なぜなら、私たちが祈るときに神の御手がこの地上にさしのべられ、御国が前進していくからです。その時、父なる神様は悪霊どもを蹴散らすために、天使たちを送ってくださると信じます。どうぞ、聖霊が私たちの内におられ、私たちと共におられることを忘れないようにしましょう。私たちが聖書を読むとき、示しを受けたいとき、祈るとき、聖霊が助け導いてくださることを感謝します。

 

|

2015年5月15日 (金)

神と対話する ヨハネ14:10-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.5.17

 私たちは言葉に出さなくても、内側で会話をしています。一番多いのが、自分との会話、セルフ・トークです。たまに、つぶやきのように口から出るときがあります。また、知らないで悪霊と会話をしている人もいます。新興宗教が唱える呪文は、自分を無にさせるとともに、闇の力に扉を開くことになります。私たちがすべきことは、まことの神さまと交わることです。朝のディボーションだけではなく、日中も神さまと会話をすることが可能です。電車に乗っているときも、仕事をしているときも、買い物をしているときも神さまと会話することができます。 

 1.神との会話

 イエス様は御父と常に会話をしておられました。ヨハネ1410-11「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」イエス様がおっしゃることば、あるいは行なうわざはどこから来たのでしょうか?イエス様はご自分の中に御父がいらっしゃると言われました。「わたしが父におり、父がわたしにおられる」とは、イエス様と御父が一体であるということです。そして、地上におられたイエス様はいつも御父に聞き、御父から知恵と力をいただきました。イエス様は、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ519と言われました。イエス様も神さまですから、自分で考え、自分の力で何でもできたはずです。しかし、あえてそうせずに、御父に聞きつつ、御父から知恵と力をいただきました。なぜでしょう?それは、私たちの模範となるためです。イエス様は肉体を持っておられましたが、それは私たちと同じ状態になるためです。そして、私たちもイエス様のように御父に聞き従うなら、知恵と力が与えられるということです。あなたは日中、だれと交わり、だれと話をしているでしょうか?ある人は電話で友達と長い会話をしています。ある人はテレビの登場人物たちと会話をしています。また、ある人は自分がいかに惨めで不幸か、自分自身と会話をしています。

  テキストにはこのようにコメントされています。「もし、私たちが私たちの先生のようになりたかったなら、できるだけ多くの時間をかけて、先生から学ぶ必要があります。医者や技師、弁護士などの専門職になるためには、教師と顔と顔を合わせて勉強するために、たくさんの時間を費やすことが必要です。やがては、その人は教師のようになれるのです。そのことは私たちにも同じです。キリストと同じような霊的資質を持つために、私たちはイエス様と「顔と顔」を合わせて会う必要があります。ディボーションは大切ですが、その後の主との時間、私たちは主と継続的な会話を持つ必要があるのです。私たちは仕事をやめる必要もなく、続けて忙しく働き、勉強やビジネスや他のことができます。」アーメン。

  主と絶え間なく会話をした歴史上の人物がいます。彼の名前はブラザー・ローレンスです。彼は1611年生まれで、パリに住んでいました。ローレンスは神学者でも、牧師、あるいは偉大な説教家でもありません。彼は修道院の厨房で働く、一介の料理長でした。しかし、彼は主と絶え間なく会話することを実践し、それを「神の臨在を実践する。コランディオー」と言いました。コランディオーはラテン語で、「神の御顔の前で」という意味だと思います。ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を良くまとめて一人の牧師の文章を引用致します。「彼は、祈りの中ばかりでなく、日常的な仕事の中でも、事あるごとに神様に思いを向け、神様に語りかけ、神様の御声に耳を澄ますという、神様を思う訓練をしました。最初はうまくいかなかったようですが、何度も繰り返すうちにそのことが習慣となり、彼の喜びと力の源泉になっていったようです。修道会に入ったばかりのときに彼に与えられたのはコックとしての仕事でした。慣れない仕事の中でも、その仕事を神様からのものとして受け止め、ただ神様を愛することとしてその仕事を行いました。どんな小さなわざも、神様を愛することとして行う…そういう生き方を実際に生きた人があったということが衝撃的です。神様はご自身に近づくものに多くの恵みを与えて下さいますが、彼はそれらの恵みに目を留めるよりも、神ご自身に目を向け続けました。賜物や異常な経験を求めるのでなく、神ご自身を求めました。病や痛みなど、その他、地上での多くの苦しみも彼の心の喜びを奪いませんでした。それらのものも、神様からのものとして喜んで受け入れました。単に忍耐し、がまんしたというのでなく、喜んだ…このこともまた衝撃的でした。」

  私たちも朝のディボーションの時だけではなく、日中、どんな時でも神さまと話すことができます。いつでもそこに神さまがいらっしゃるという臨在を意識したなら、悪いことはできません。その代り、神さまが私たちを内側から励まし、力を与えてくださるのではないでしょうか?私は朝夕、散歩をしています。前は自分の昔の嫌なシーンがトラウマのようによみがえりました。しかし、今ではイエス様をそこに歓迎し、「ああいうことがあったから救われたんですよね」と感謝に換えています。スーパーに買い物に行くときも「きょう何にしたら良いでしょうかね」とイエス様に聞きます。まもなく、30%引きのものを見つけることがあります。メニューが浮かばないときもありますが、尋ねると「これにしよう」と頭に浮かびます。私は物忘れが多くなり、人の名前を間違えることが多々あります。でも、イエス様のことだけは忘れたくないです。神さまの臨在を意識して生活することは、最初は窮屈に感じるかもしれません。でも、助け主であるイエス様が共におられる、これ以上すばらしいことはないのではないでしょうか?伴侶もこれほど親しくはできません。「うるさい」とか「暑苦しい」と言われるのがおちでしょう。ある人が言いました。「神さまとの電話は話し中ということがありません。いつでも会話できるホット・ラインである」と。アーメン。

 2.親密になる3つのレベル

 エディ・レオ師はテキストの中で、「神と親密になる3つレベル」について教えています。第一のレベルは反応的親密さです。私たちは毎日の生活の中で、どんなとき神様と関係を築くことができるでしょうか。神様と出会う最も良い時とはいつでしょうか。それは、私たちが問題を持っているときです。言い換えると、誘惑に遭っているとき、困難に直面したとき、人生のチャレンジに直面したときです。たくさんの問題が起こっている時こそが、神を体験する最善の時です。私たちの証は、困難の状況において、神様を体験したときの証が多いと思います。もしも、病気、夫の失業、子どもの問題と3つ重なったらどうするでしょうか?そういう時こそ、奥の部屋に逃げ込むのです。イエス様はマタイ66で「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われました。「私の家は狭くて、奥まった部屋はありません」と言われるかもしれません。椅子かベッドに平伏して、目をつぶると奥まった部屋になります。普通の祈りは、自分の問題を神さまに詳細に述べます。悪いことではありません。でも、神さまは私たちの問題を全部ご存じなので、いちいち知らせる必要はありません。では、どうしたら良いのでしょうか?私たちは神さまの偉大さ、神さまの約束、神さまの恵みについて告げるべきなのです。たとえばこうです。「主よ、そういえば、『聖書に死の陰の谷を歩くことがあっても』と書いてありますね。あの意味は、死の陰の谷にテントをはって留まることではないですね。I walk through 通過するということですね。だったら死の陰の谷をあなたと通過できることを信じます。アーメン。」このように、神さまがみことばを通して、教えてくれることがあります。問題ではなく、神さまがどんなお方か注目するのです。

  大和カルバリーの大川牧師は、「祈りに導かれることはすべて良し」とおっしゃっています。つまり、日常起こる問題や悩みが、神さまに向かって祈ることをさせます。私たちは平穏無事なときはあまり祈りません。しかし、問題や悩みが起こると必死に祈ります。過去を振り返ると、「一番神さまが近いと感じたのは、そういう時だったなー」と分かります。聖歌490「われはおさなご」という賛美があります。「われはおさなご、われ主にすーがらん、小さくあれど、信仰をいだきて」3節目はこうです。「晴れたる朝も、われ主にすーがらん、嵐の夜はすーがり、祈りせん。たえず主イェスの手によりすがらん、静けき昼も、風吹く夜も」。私たちは、嵐の夜こそ主が近くにおられることが分かるのです。

  第二のレベルは、積極的な親密さです。問題があるときだけ、神様と関係を築くことはしないようにしたいと思います。次の段階は、積極的に関係を築くということです。エディ・レオ師がこのような実験をしてみました。まず、自分のポケットの中にメモ用紙を入れておきます。神様を思い出したときに、神様と語りかけたとき、神様の臨在を感じたとき、1つ印をつけます。また、何かをやっているとき神様を思い出した。そのとき、次の印をつけます。また、色んなことをやって、神様を思い出した。そのとき、印をつけます。神様を思い出した時に、印をつけるようにしました。1回につき1つだけ印をつけるのです。先生は1日それをやってみました。1日の終わり、夜眠る前に、神様をどれだけ思い出したか数えてみました。先生はとても、すごくショックを受けました。牧師であるのに、神様を思い出したのは1日に20回だけでした。しかし、自分の問題に気付いたのは100回でした。エディ牧師は悩みました。「若い人たちは、彼氏や彼女のことを1300回思い出すことができる。しかし、私が神様のことを思い出したのは20回だけだった。このようなことで、どのようにキリストに似た者となることができるだろうか。どのようにして神様と親しい交わりを持てるだろうか。」先生は、「次の日、もっと増やすぞ!」と、そのようにして習慣化していったそうです。私は先生のメッセージを聞いたとき、「私には無理だなー」と思いました。ところが、この間、テレビを見たとき驚きました。サウジアラビアにも日本製の100円ショップがあり、金持ちたちがよく訪れるそうです。実際は日本円にして200円位なのですが、大変繁盛しているそうです。何が一番売れるかベスト3というのがありました。ベスト2がカウンターでした。手でカチカチと押すカウンターです。なぜ、そんなものが売れるのでしょう。イスラム教徒は1日に5回礼拝します。その他に、ある祈りのことばを20回唱えるそうです。指を折って数えると、途中、何かあったとき、祈った数が分からなくなるそうです。しかし、このカウンターを使うと、間違えないで20回、ちゃんと祈ることができます。私はそれを見ていて、「自分はなんと生ぬるいんだろうなー」と反省しました。義務的になってはいませんが、意識的に神さまを思い、神さまを礼拝するということはとても重要です。

  使徒パウロはピリピ48すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」と言いました。私は今年からこのような決意をしています。朝起きてすぐテレビを見ない。短いディボーションの本を読むか、すぐ散歩に出かける。散歩しながら、主と交わる。その後、じっくりディボーションをする。朝食をとりながら、テレビのニュースを見る。テレビは寝る前に見ないで、信仰書を何冊か読む。テレビのニュースは悪いニュースがほとんどです。しかも、いろんな局で同じことを放映しています。ニュース・ステーションの古舘○○アナウンサーがおります。彼は世の中の不条理を常に扱っています。私は彼がいつか病気になるのではないかと余計な心配をしています。牧師の特権は、聖書や本を読んで主と交わる時間がとても多いということです。しかし、世の中で働いている人は誘惑が多くて大変です。満員電車から始まり、いろんな人と会うし、いろんなものを見る機会が多いと思います。ですからよっぽど工夫しないと霊性を保つことができないでしょう。イヤホーンでだれかのメッセージを聞いたり、ゴスペルを聞くのも良い方法です。鞄に聖書や信仰書を入れておいて、ちょっとした時間に開いて読むということも良いです。箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」アーメン。

 第三のレベルは、自動的親密さです。エディ・レオ師「はいつも、神様にささげて生きていると、ガラテヤ2:19,20のみことばがあなたの人生に成就する」と言いました。ガラテヤ2:19,20しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」いつも、祈りをささげるので自分の我と肉が死にます。「神様、あなたなしに私は何もすることができません。私には問題があります。神様、あなたなしでは生きてゆけません。神様、助けてください」。これは自分の我と肉を十字架につけるという意味です。自分の我と肉が死ぬとイエス様が生きます。何が起こるでしょうか。あなたはイエス様のようになれるのです。私たちは、この第三のレベルに行きたいです。しかし、いきなりこの第三の「自動的な親密さ」に行くことはできません。だから、第一のレベルから始めなければなりません。つまり、問題があったときに、すぐ神さまと交わるということです。また、誘惑を受けたり、トラウマや嫌なことを思い出すときがあります。そういうときに「ハレルヤ!主よ、あなたを礼拝します」と置き換えれば良いのです。そうしたら、常に神さまと交わることができます。

 3.関係のゴール

 継続的に神さまと交わって行くとどうなるでしょう?成熟さを増していき、ついには神さまとツーカーの関係になります。そんなことがあるのでしょうか?2つの例をあげて説明したいと思います。第一は「しもべから友へ」ということです。ヨハネ1514-15「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」神さまと親密な関係を建て上げていくと、イエス様は私たちをしもべではなく、友と呼んでくださいます。しもべは主人のすることを知りませんし、いや、知ろうともしないでしょう。しもべは、必要最小限のことしかしません。余計なことを知ると、やることも多くなるからです。友はどうでしょうか?イエス様が私たちを信頼しているので、ご自分の思いも打ち明けてくださるということです。アブラハムは神の友と呼ばれました。あるとき、主が御使いたちと一緒に、アブラハムを訪れました。ソドムとゴモラを滅ぼすために来たのですが、アブラハムにそのことを伝えました。アブラハムはそのことを聞いて、その町に50人の正しい人がいたら、滅ぼさないでくださいとお願いしました。いや45人いたら、40人、30人、20人、10人いたらと交渉しました。主はアブラハムにとりなしてもらいたかったのです。創世記1817「主はこう考えられた。わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか?」と書いてあります。私たちも、神さまから、「実はこうしようと考えているのだが、お前はどう思う?」みたいなことを言われたいですね。イエス様は「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。そこには、神さまへの従順さが求められます。イエス様にすべてをささげ、喜んでイエス様に従っていくなら友となることができます。しかし、そんな日が来るのでしょうか?私たちがイエス様を求めていくなら、イエス様の方から、「あなたは私の友だよ」と、手を差し伸べてくださると信じます。

 もう1つは、子どもから息子もしくは娘への成熟です。テキストにはこのように書かれています。ローマ815-16には、人が新生したら、ただちに神の子どもとなると説明されています。ギリシャ語の聖書では、子どもはテクノンであり、children であります。しかし、私たちが子どもになるだけではまだ十分ではありません。聖霊によって継続的に導かれる必要があります。聖霊がその人を継続的に導いていくなら、その人は神の子どもになります。ローマ814「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」とあります。このところの子どもは、ギリシャ語でフィオスです。フィオスは成熟した息子であり娘です。ですから、私たちは聖霊によって導かれることを学ばなければなりません。聖霊によって導かれるとは、すなわちイエス様によって導かれると同じであります。しかし、厳密に違うのは、私たちの霊の部分に宿っている聖霊は、御霊と呼ばれています。霊は私たちのもっと深いところにある、いわば至聖所みたいなところです。私たちには心の傷があるために情緒が不安定なところもあるかもしれません。あるいはマインドに問題があり、一貫性に欠けるかもしれません。でも、大丈夫です。私たちが意志して、キリストの御霊にお願いするなら、私たちを内側から支配してくださり、ちゃんと導いてくださいます。御霊によって歩むとはそういうことです。御霊によって導かれるならば、御霊の品性が私たちのうちに実として現れてくるでしょう。それが、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらはイエス様の品性でもあります。イエス様が私たちの中から現れてくるとしたら、何とすばらしいでしょうか。

  キリスト教は外側から「ああしなさい」「こうしなさい」と戒めを与えて導くものではありません。それは道徳であり、律法主義です。私たちの場合は、キリストの御霊が私たちのいのちそのものになってくださいます。私たちがこの方によりたのむならば、キリストご自身が現われてくださいます。言い換えるなら、聖霊が私たちの言動を導いてくださるのです。ですから、私たちのすべきことは「イエス様どうしたら良いでしょうか?」「こうしましょうか?」「こうしたいですね?」といつも会話をしながら、生活することなのです。イエス様は私たちの友です。そして、私たちは父なる神様の息子であり、娘です。私たちは奴隷ではありません。私たちの願いや希望をちゃんと聞いてくださいます。いろいろ、話し合いながら決めていくのです。そうしたくないときがもちろんあります。そういうときは、自分が降りて神さまのみこころを優先させるようにします。そのように勝利の体験を重ねていくと、ますます、神さまに従うことが最善であると分かって来ます。三位一体の神さまと親しく交わり、正しい道に導かれて、実りある人生を送りたいと思います。

 

 

|

2015年5月 8日 (金)

想像力を用いる ローマ1:20-28 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.5.10

 

 想像力は神さまが私たちに下さった素晴らしい能力です。しかし、私たちが何を想像するかによって、人生が良くもなり、悪くもなります。イエス様は「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」(マタイ622-23と言われました。この目とは何でしょう。目は想像(イメージ)と置き換えることも可能です。もしあなたの想像が健全なら、あなたの全身が明るいでしょう。しかし、あなたの想像が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。私たちは想像力を正しく用いなければなりません。 

 

1.偶像と想像

 

神さまは、私たちが他の神々を持つことを望んでおられません。まことの神さま以外のものを拝むことを偶像礼拝と言います。偶像礼拝がなぜそんなに悪いのでしょう。出エジプト203-5「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」3節をヘブル語聖書から訳すとこのようになります。You shall not be to you gods other ones before face of me.「私の顔の目の前に、他の神々があってはならない」と書いてあります。神さまは「あなたは私の目の前に、他の神々があってはならない」と言われました。なぜ、「私の後ろに他の神々があってはならない」と書いてないのでしょう。なぜ、「私の横に」とか書いていないのでしょう。なぜ、「私の前に」と書いてあるのでしょう。なぜなら、神の目の前には、あなたがいるからです。あなたと神との間に、何も存在してほしくないのです。あなたにとって、神さまは、唯一の神であって欲しいと願うからです。もし、他の神があなたの生活の中にあるならどうでしょう?あなたは神さまと親しくなることができません。たとえば、この縫いぐるみを偶像だと思ってください。私の前に神さまがおられます。もし、神と私の間に偶像があるなら、何が起こるでしょうか。私は神さまを見ることができません。このところには親密さはありません。これは非常に危険です。ですから、私たちは他の神を追い払う必要があるのです。

 

ところで、ローマ人への手紙1章には、「諸悪の根源は何か」ということが書いてあります。ローマ120「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」パウロは「だれでも、想像力を働かせるなら、神さまを見ることができる。クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、誰ひとり、神さまを否定することはできない」と言っています。人間は想像力を働かせるなら、神さまを見ることができるはずです。しかし、問題が起こりました。人間は、神さまを礼拝したくないので、神のイメージを変えてしまいました。ローマ121-23「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」人間は、神さまを礼拝したくないので、神さまのイメージを人間や動物のイメージに変えてしまいました。これが、偶像礼拝です。テキストには「人間の想像による偶像礼拝から、どのような結果が生じましたか?」という問があります。偶像礼拝の結果がローマ124以降に記されています。24節「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだを辱めるようになりました」と書いてあります。26-27節「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」とあります。これは同性愛のことですが、ある人たちは「当然の報いとはエイズである」と言っています。28節「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」三回、「引き渡された」と書かれています。これは「見捨てる、見放す」という神のさばきを意味しています。29節以降には、不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みなど、ざっと21個の罪が記されています。諸悪の根源は、まことの神さまをあがめず、神さま以外のものを想像し、礼拝したことです。

 

イエス様は「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」と言われました。つまり、「あなたの想像力が悪ければ、あなたの全身が暗くなる」ということです。ですから、私たちの想像(イメージ)を守る必要があります。人間がそうしなかったために、神様は欲望のままに支配されることをお許しになりました。これらの罪に打ち勝つために、私たちは間違った想像に打ち勝つ必要があります。テキストの解説の部分にはこのように記されています。「不品行と姦淫は、自分たちが礼拝している想像から始まります。彼らは神ご自身である神のみことばを想像しないで、官能的な女性や情欲的な情景を想像したり、考えています。彼らが抱く悪い欲望やむさぼりは、この世の喜びに関する想像と悪い行ないの始まりです。彼らの想像が積み重ねられたとき、人は罪へと陥ります。私たちはどのように偶像礼拝に打ち勝つことができるでしょうか?悔い改めて、神を礼拝するだけです。私たちの心(思い)が攻撃を受けたときは、いつでもただちに、主を礼拝することに転換しましょう。」アーメン。第一のポイントでは、私たちは何を見るか、何を想像するかとても大切だということがわかりました。昔、ジョン・レノンが「イマジン」という歌を歌いました。彼は「想像してごらん。天国なんて無いんだと。地面の下に地獄なんて無いんだと」と歌いました。何と非聖書的な歌でしょう。天国もあります。地獄もあります。私たちは架空のものではなく、真実である神のみことばを想像すべきであります。

 

2.礼拝と想像

 

 パウロは、「人間が想像力を働かせるなら、神を見ることができる」と言いました。しかし、パウロはこの考えをどこから得たのでしょうか?その根拠と考えられるみことばがエゼキエル8章にあります。主はエゼキエルの霊をエルサレムへ携えて行きました。そして、エルサレムの神殿の前にまで来ました。エゼキエル8:8-10 「この方は私に仰せられた。『人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。』私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。この方は私に仰せられた。『入って行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。』私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。」エゼキエルが神殿の1つの穴から入ると、壁一面に、はうものや忌むべき獣など、あらゆる偶像が彫られていました。エゼキエルは非常に驚きました。外側から見限り、神殿はすばらしいものでした。しかし、中に入ると神殿の壁一面に、いろんな像の絵に満ちていました。パウロはコリント人への手紙で、「あなたがたの体は神の神殿である(Ⅰコリント316619)」と言っています。私たち個人が神の神殿であり、また教会も神の神殿です。私たちの神殿、つまり私たちの生活の中に数々の偶像があったらどうなるでしょう。言い換えると、私たちの生活の中にたくさん絵があり、それを想像しているとしたなら、どんなことが起こるでしょうか?多くの人たちはパソコンやスマホでたくさんの画像を見ています。電車でちらっと見えることがありますが、若い女性は洋服やスィーツを見ています。若い男性は果たして何を見ているのでしょうか?テレビや映画、雑誌からも絵や画像を見ることができます。でも、ただ肉眼で見ているのではありません。私たちの頭で何かを想像しながら見ています。

 

人々は神殿の中で何をしていたのでしょうか。エゼキエル811-12また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた』と言っている。」この方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか』。彼らは、主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた」と言っている。なんと、神殿の内部では、70人の長老たちが香炉を持って忌むべき像を拝んでいました。それだけではありません。彼らは「主は私たちを見ておられない」と言っていました。すべての人間は自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは何でしょう。私たちのプライベートな部屋とは、私たちの想像の世界です。他の人は私のプライベートな部屋を見ることが出来るでしょうか?あなたのプライベートな部屋をだれも見ることができません。だれもが、プライベートな部屋を持っています。そこで神様を礼拝しています。しかし、それと同時に、たくさんの偶像もそこに入っています。

 

私のことばで言うと問題が出る恐れがあるので、インドネシアのエディ・レオ師のメッセージを引用したいと思います。「だれもがそのようなプライベートな部屋を持っている。そのプライベートな部屋で、私たち男性は、色んなイメージを作る。私たちは自分の好きな女性たちをそこに作る。『私は黒人の女性が好きだ。でも、髪の毛はちょっとアジア系の女性が良い。』『私はこのモデルが好きだ。だれも知らない』。そして、毎日これを拝む。『あなたは何と美しい方だろう。あなたと会えることを嬉しい。なんと美しいのだろう』。『おお、なんと美しい』。私たちは様々な想像を作っている。そして、それを拝んでしまう。これが姦淫である。これによって、性的な罪が起こされる。女性の罪は何だろうか。女性は男性と違って、セックッスのことはあまり考えない。しかし、もっとロマンティックな出来事を描く。男性が現れすごく丁寧にしてくれる。すごく優しく語りかけてくれる。女性はまた、物を見るのが好きである。どんなことを想像するか。奇麗なドレス、ハンドバック・・・『ああ、ルイビトン』『エルメス』『クリスティアン・ディオール』。様々なイメージを礼拝していく。女性がこういう物質的なものを礼拝して行くと、どのように現れてくるだろうか。買い物である。買い物が悪いとは言っていない。しかし、ある女性たちは物質主義の考えに支配されている。」男性も女性も、プライベートな部屋である、自分の想像をコントロールする必要があるということです。

 

誘惑は罪ではありません。しかし、それを楽しむときに罪となります。イエス様は悪魔から誘惑を受けましたが、みことばによって勝利しました。私たちはどうすれば良いのでしょうか?ルターは「誘惑とは、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものである。頭の上を鳥が通り過ぎることを妨げることはできない。しかし、鳥があなたの頭の上に巣を作ることは避けることができる」と言いました。エディ・レオ師は「男性は一日に240回、4分に一回性的な誘惑がやってくる」と言いました。先生は、何度も性的な誘惑が来たとき、頭から追い出そうとしました。「イエスの御名によって出て行け!」とニュェーと引き出す。しかし、4分たつとピューと入って来る。「イエスの御名によって出て行け!」とニュェーと引き出す。しかし、4分たつとピューと入って来る。先生はイライラしました。悪魔は「あなたは良い牧師ではない。牧師はそういうことを考えたりはしない」と告発しました。そのとき、エディ先生は悟りました。ただ、出て行けと言っただけでは、頭は空っぽになる。聖書に「家が空っぽのままだったら、悪霊がまたやってくる」と書かれている。それで、すばらしいことを発見しました。「人間は、礼拝する存在として創られた。だから、誘惑を追い出した直後、イエス様を礼拝しよう」と決意しました。4分間後にまた誘惑がやって来きました。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。また、4分間後やって来ました。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。どういうことが起こるでしょう。1日に240回神を礼拝できます。なんと、男性であることを喜ぶことができます。女性よりも、もっと神様を礼拝する機会があるからです。誘惑が来るたびごとにイエス様を礼拝しましょう。

 

3.想像の刷新

 

イメージ・トレーニングがスポーツにおいて欠かせないということを聞いたことがあります。1988年ソウルオリンピックでフローレンス・ジョイナー選手が金メダルを取りました。彼女はクリスチャンですが、レース前には、神にお祈りをしてイメージしたということです。彼女は自分がそのレースに勝つ姿をイメージしました。彼女自身が言っています。「それも一緒に走る他のランナーたちが、私のはるか後方を走っているような、大差で勝つところを想像するのよ。すごく気持ちよく走っている自分の姿をね…」。彼女がゴールする寸前、ニコーと微笑んでいる姿を今も忘れません。でも、このイメージ・トレーニングは怪しげなカウンセリングにも用いられています。ある人たちは催眠術をしたり、前世を呼び出すような祈りをします。「潜在的な能力を開発する」と言いながら、闇の力を借りています。人間が持っている想像力はとても力があるので、悪魔も手ぐすね引いて待っています。しかし、想像力は神さまがくださった能力ですから、正しく用いるならばすばらしい効果をもたらすでしょう。

 

 モーセはカナンの地をさぐるために12人の偵察隊を派遣しました。40日たって、彼らは大きなざくろやぶどうを携えて戻ってきました。カナンの地には多数の先住民が住んでおり、頑丈な町の城壁も見ました。カレブは「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができる」(民数記1331と言いました。しかし、10人の偵察隊は「あの民は私たちよりも強い。彼らは背が高くて、自分がいなごに見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と悪く言いました。イスラエルの会衆は、「ああ、荒野でこのまま死ぬか、それともエジプトに帰った方が良い」とつぶやきました。しかし、ヨシュアとカレブは「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。主が私たちを導いてくださる」と主張しました。結局、カナンの地に入れたのはヨシュアとカレブだけで、他の民たちは荒野で死にました。10人の偵察隊が失敗したのは、目に見えるものを見続けたからです。彼らはその地にいた巨人と敵たちを見ました。一方、ヨシュアとカレブは、共におられる主に目を注ぎました。二人は霊的な領域を見て、「彼らは私たちのえじきになる。彼らの守りは彼らから取り去られている」と言いました。あるクリスチャンは問題を前にして、「神さまにはできる」と祈ります。しかし、目を開けたとたん「現実はきびしいからな」と言います。せっかく、信仰を得たのに、即座にキャンセルしてしまうとは何事でしょう?

 

 もう1つテキストには、Ⅱ列王記6章の出来事が記されています。アラムの王様は、預言者エリシャのところに大軍を送りました。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲しました。預言者の召し使いが朝早く起きて外に出ました。なんと馬と戦車の軍隊がその町を包囲していました。彼はエリシャに「ああ、ご主人さま。どうしたら良いでしょう?」と言いました。エリシャは「恐れるな」と言って、召し使いの目が開かれるように祈りました。彼が見ると、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。どういうことでしょう?召し使いは肉眼で見える世界を見て恐れました。しかし、エリシャは、彼が目に見えない霊的領域が見えるように祈りました。すると、彼は自分たちと共にいる天使たちが、敵よりももっと多いことが分かったのです。私たちは環境を見て恐れます。しかし、私たちは目に見えない霊的領域が見えるように求めなければなりません。使徒パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないもにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリト418と言いました。ですから、私たちはこの肉眼ではなく、霊の目、信仰の目で想像する必要があるのです。

 

たとえ、医者が診断書を見せて、「あなたの余命は数か月ですよ」と言っても信じてはいけません。私たちは神さまの診断書を見なければなりません。かつて、ジョエル・オスティーンのお母さんドディは転移性の肝臓がんであると診断されました。夫のジョンが呼ばれて医者から「化学療法をしても数週間しか生きられません。牧師さん、数か月じゃないですよ、数週間ですよ」と言われました。ジョンは「私は家内を連れて帰ります。私たちは奇跡を信じています。」と答えました。二人の長男ポールはお医者さんでしたが、それを聞いて激しく泣きました。肝臓がんの人は死ぬことになり、生きながらえる望みがあまりないことを医学で知っていたからです。家に帰ったドディはどうしたでしょう?悲しみに打ちひしがれて、ベッドに寝たでしょうか?体重は40キロでしたが、いつもの時間に寝て、いつもの時間に起きて、顔を洗って病人のような行動はしませんでした。まず、ジョンと心を合わせて祈りました。マタイ18章の合意の祈りをしました。それからどうしたでしょう?ベッドのそばにウェディング・ドレスを着ている写真を置きました。そして、「ああ、主よ、私の結婚式のような気分になれたら良いと思います」と祈りました。休暇で農場に行ったときの写真も取り出しました。「ああ、神さま、私はもう一度、馬に乗ることができたら良いと思います」と祈って、その写真を冷蔵庫の扉に貼りました。体がとても具合が悪くなりましたが、無理やり自分を動かして、入院している人のために祈りに行きました。さらに彼女は癒しについて書いてある聖書のみことばを選び出しノートに書いて音読しました。その数は40にのぼりました。そのうち、彼女は神のことばを自分のことばとして話すようになりました。そのころから信じがたいことが起こりはじめました。ある日突然というわけではなく徐々に、でしたが、彼女の体調がよくなっていったのです。神さまが自らのことばを実行にうつされたのです。神さまは彼女を癒し、元気を取り戻させてくました。癌を告知されてから30年以上たった今も、彼女のがんは完治しています。

 

私たちには想像力が与えられています。しかし、何を想像するかによって運命が分かれます。聖霊は私たちの心と霊を新たにしてくださっています。どうぞ、自分の前から偶像を取り除き、まことの神さまだけを求めましょう。また、神のことばである聖書から約束をいただき、それがなったように想像しましょう。私たちにとって信仰と想像は矛盾しません。現実にそれを見る前に、まず霊の領域を見るのです。そうすれば、時が来たら、現実にも見えてくるでしょう。

 

|

2015年5月 1日 (金)

みことばを思い巡らす 詩篇25:10-14 2015.5.3

 4回にわたって『タッチングヘブン・チェンジングライフ』のテキストから学びたいと思います。簡単に言うと「神との親密な関係を持つ」ということです。私たちはどのようにしたら、神さまと親密な関係を持つことができるのでしょうか?そのことを4回にわたって学びたいと思います。本日は、ディボーションについてお話ししたいと思います。ディボーションとは聖書を思い巡らすことによって神さまと親しく交わり、神さまを個人的に礼拝するということです。

 

 

1.思い巡らす

 

聖書には「思い巡らす」ということばが何度も出て来ます。英語ではmeditate ですが、一般的には「瞑想する、黙想する」と訳されています。近年、東洋の宗教である禅やヨガが注目され、多くの人たちが瞑想にはまっています。特にニュー・エージと言われる、オカルト的で汎神論的な宗教がこの瞑想を取り入れています。彼らは瞑想によって、宇宙の大霊と言われる神と交わります。そしてやがてはその神と一体となり、一部となります。神と自分が一体となるので、「自分も神である」と言います。大変、危険な宗教で、漫画やゲーム、映画や音楽のプロデュースもしています。人々は知らず知らずのうちに、ニュー・エージの背後にいる悪霊に捕らえられてしまいます。私たちの神さまは、そういう人格のない神さまではありません。私たちを愛しておられるキリストの父なる神さまです。贖い主であるキリストなしで、神さまに到達できる道はありません。ところで、ディボーションとは、聖書のみことばを思い巡らしながら、神さまと交わり、神さまを礼拝する行為です。一方、カトリック教会の「黙想」は、自分の内なる声に耳を傾ける要素が大きいと思います。彼らは「人間の中には神のイメージが刻まれているので、神を見出すことができる」という考えがあるからでしょう。確かに、自然や人間の心には、神さまを部分的に写し出すでしょう。しかし、聖書は神さまの特別な啓示であり、神さまは、聖書のみことばを通して語りかけると信じます。聖書を用いない「黙想」は、真の神さまから離れて、さまよう危険性があると思います。迷走をしないで、瞑想しましょう!

 

思い巡らすとは、どういう意味でしょう?日本語の聖書は、他のところで、「口ずさむ」「思いを潜める」と訳しています。これは、牛や羊が草を反芻することと似ています。彼らは胃袋が4つくらいあって、口に何度も戻して、消化しにくい草をかみ砕いています。私たちも聖書のみことばに何が書いてあるのか、よく反芻する必要があります。何度も読んでいくうち、「ああ、こういうことが書いてあったのか?」と感動することが良くあります。人から教えられたことはすぐ忘れますが、自分で発見したことは忘れません。ディボーションには宝を発見したときの喜びに似たものがあります。また、神のことばは、霊的なご飯ですから、よく噛んで味わい、自分の中に取り入れる必要があります。こういう説教は、聖書を美味しく調理したディッシュみたいなものです。私はシェフとして、皆さんに味付けしたみことばを提供しています。鉄人シェフになれたら良いと思いますが、一週間一度では足らないでしょう。ぜひ、毎日のように自分で聖書を読んで、霊的ご飯をいただいてください。

 

 

『タッチングヘブン・チェンジングライフ』には、いくつかの質問が記されています。質問はディボーションを助けるために、大変役に立ちます。水曜日の集会では、私が「マタイによる福音書」からテキストを作っています。これも、質問形式になって自分で発見できるようになっています。こういう質問や解説書付の本がキリスト教書店にも売られています。月刊もので一冊500円から600円位だと思います。最初はそういうガイドブックを用いると良いでしょう。しかし、だんだん自分でできるようになります。何でもコツがあるように、ディボーションにもコツがあります。全体的には聖書のみことばを思い巡らすのですが、どのような項目で思い巡らすべきか、ちょっとだけ説明をさせていただきます。

聖書を順番に読んでいきますが、その日の聖書箇所は多くて1章、短いときは数節で構いません。できれば大学ノートに記入すれば良いのですが、めんどうくさい人もいるかもしれません。そういう人は聖書に書き込みをしたら良いでしょう。第一は「内容観察」です。何が書いてあるのかゆっくり読みます。詩篇の記者は「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」(詩篇11918と求めています。何度か繰り返して読んでいると、いくつか発見するものがあります。たとえば、「同じことばが出て来た」「ここは言い換えている」「ここが重要なことだ」と分かって来ます。このとき、あまり注解書とか他の参考書を見ないでください。とにかく、真理の御霊なる聖霊に聞くことに集中します。そうすると、聖霊があなたに示してくださいます。第二は「教え」を受け取ります。教えの中には色々な要素が含まれています。約束や励ましがあるでしょう。避けるべき罪や行なうべき命令があるかもしれません。従うべき模範もあります。私は説教者としてメッセージをそのところから受け取るようにしています。第三は「適用」を考えます。適用とは、「今いただいた教えを自分の人生にどう実行するか」であります。「愛しなさい」と教えられたなら、だれをどのように愛すべきか具体的に考えます。最後に教えられたことを感謝し、それが実行できるように祈ります。時間的に15分から30分持てたら良いでしょう。習慣になるまでは大変です。しかし、テキストのように40日間やれば身につきます。問題は「いつやるか?」であります。

 

 ヨシュア記にはみことばを思い巡らす人の受ける祝福について記されています。ヨシュア18「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」アーメン。

 2.ワークショップ

 

 

それでは、テキストの1ページから一緒にディボーションをやってみましょう。持っていない人も大丈夫です。礼拝中なので、一緒にやりたいと思います。詩篇2510-14がその箇所になっています。礼拝の直前に、その箇所を読みました。聖書を持っている方は、詩篇2510-14をお開きください。テキストのM2に質問が3つあります。第一は「主の小道とはどのようなものですか?どのような人が、主の道を歩むことができるのでしょう?」テキストには書かれていませんが、これは10節にあります。詩篇25:10 「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。」とあります。このところには、主の小道は「みな恵みとまことである」と書かれています。どのような人かというと「その契約とそのさとしを守る者」です。今のものは、見て分かる内容観察の質問です。第二は「ダビデはどのようにして、自分が主を恐れる者であることを表わしていますか?」とあります。これは、11節にあるとカッコで教えています。詩篇25:11「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。」まさしく、御名のために「私の咎を赦してください」と罪の赦しを求めている人です。つまり、主を恐れる人とは、もし自分の罪があるならば悔い改める人だということです。この質問は、意味(解釈)質問です。これはちょっと考えなければ、分かりません。第三「主を恐れる人はどのような祝福を主から受け取ることができるでしょうか?」12節から14節まであります。詩篇2512-14「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」主を恐れる人には、たくさんの祝福があります。主はその人に選ぶべき道を教えられます。その人のたましいは、幸せの中に住みます。その子孫は地を受け継ぐことができます。主は主を恐れる者と親しくされます。主はその人にご自分の契約を教えられます。ざっと5つありました。

 

私は5つある中の「幸せの中に住む」というところに目がとまりました。聖書に本当に「幸せ」と書いてあるのか?疑問に思いました。一般のディボーションではここまでやる必要はありません。このところに書いてある、「幸せ」はヘブル語ではトーブです。トーブは「良いこと、美、卓越、喜びあふれること、良い物、最も良いものにあずかること」という意味です。ですから、英国の聖書は「永続する繁栄を喜ぶ」と訳しています。また、英語の詳訳聖書は「安らかに住む」と書いてあります。他の英語の聖書は「繁栄する、裕福になる」と訳しています。しかし、日本語の聖書は「幸い」とか「幸せ」「恵み」です。つまり、日本人の捉え方がとても精神的であり、欧米の方が物質的だということです。これまで、日本のキリスト教会は精神的な「幸せ」を第一にして求めました。欧米が言う「繁栄の神学」というものをとても嫌いました。ところが、お隣の韓国はとても貧しい中から、繁栄を求めてとても豊かになりました。教会の長老さんはどこかの社長さんばかりで、教会の会計がとても潤いました。しかし、現在の韓国は物質的な繁栄がもたらす罪も増してしまったようです。かつての時よりも汚職や離婚が増えました。精神的な「幸せ」と、物質的な「幸せ」どっちが良いのでしょうか?聖書は「一方の幸せだけを言っているのではない」ということは確かです。両方がバランスよく存在しているべきだということです。使徒パウロはこのように言っています。ピリピ411-13「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」多くの人たちは13節だけを強調します。でも、パウロが言いたいのは、「私を強くしてくださるキリストによって、私は貧しさの中でも、豊かさの中でも幸せに生きることができる」というということです。


本題のディボーションに戻りたいと思いますが、M3は適用のための質問です。第一は「主の御前で、またお互いに、どのような罪を告白する必要があるでしょうか?今から、罪深い行いときよくない思いを拒絶する決断をし、またその計画を立てましょう」とあります。なぜ、「罪」の問題がここに出てきたのでしょう?それは、罪がなければ、さきほどの5つの祝福が得られるからです。罪があるとその祝福にあずかることができません。詩篇2511-12「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。主を恐れる人は、だれか。」とあります。主を恐れる人とは、もし自分に罪があるならば悔い改める人だということです。「私にどんな罪があるのだろう?」としばし考える時を持ちます。「私はキリストにあってすべての罪が赦されています。私は神の子どもであり、永遠のいのちが与えられています。でも、罪は神さまとの交わりを遮断してしまいます。そのため、神さまが与えたいと願っておられる祝福もやってきません。さて、それは何だろうか」と神さまに聞きます。私自身のものを分かち合いたいと思います。テキストにこのように書きました。「人の徳を下げるような意地の悪いことばを発する。ことばを職業とする者として良くないことである。親切で塩味のきいたことば」と書きました。アーメンと言わないでください。私は唐辛子とか、黒胡椒の入ったことばを発する癖があります。

 

もう1つ勧めのことばがあります。「神様に従うために、あなた自身をささげる祈りをしましょう。また、罪深い思いに襲われたときには、神様を礼拝しましょう。」私は悪いことばが浮かんで、出そうになったとき「ハレルヤ!主よ、感謝します」と言うと書きました。同じような戒めが、4日目のテキストにも書いてありました。ダメ押しみたいでした。このように神さまは私たちに語ってくださいます。人から言われるとムカッときますが、神さまからみことばを通して言われると、アーメンとなります。不思議なことに、ちゃんとできていない場合は、何度も同じように語ってくださいます。みことばが示されたらすぐに従う者となりたいと思います。繰り返しになりますが、主を恐れる人には、たくさんの祝福があります。主はその人に選ぶべき道を教えられます。その人のたましいは、幸せの中に住みます。その子孫は地を受け継ぐことができます。主は主を恐れる者と親しくされます。主はその人にご自分の契約を教えられます。アーメン。

 

 

3.神との親密な関係

 神さまとの親密な関係を妨げるものは罪です。テキストにこのように書かれています。「罪の解決はたった1つ、それは悔い改めることです。悔い改めには2つの段階があります。第一は罪を認め告白することであり、第二は罪を捨てることです。」とあります。しかし、ディボーションする度ごとに罪を示され、罪を悔い改めなければならないとしたら嫌にならないでしょうか?みなさんはダメ出ししてくれる人と毎日会いたいでしょうか?それよりも、自分を励まし、力になってくれる人がいたなら毎日会いたいでしょう。私が長い間、ディボーションを続けられている理由は、神さまが後者の方だからです。私たちが、ディボーションを楽しんで継続するためには以下の3つのことを理解する必要があります。

 

 第一は罪の正しい意味を知る必要があります。「罪とは自分が何か悪いことをした」というふうに捉えているかもしれません。確かにそういう意味もありますが、それだけではありません。ヘブル語において、罪は3種類あります。1つ目は「ハーター」です。これは、「道を踏み外す」という意味です。英語ではtrespass「あやまち」とも訳されています。1週間過ごして、失敗したことのない人はいないでしょうか?2つ目は「アーオーン」「曲げる」です。英語ではpervert「曲解する」とも訳されています。私たちは神さまのみこころを曲解していることは多いのではないでしょうか?神さまは災いではなく、希望を与えたいと願っておられます。そして、3つ目は「ペシャ」です。これは「背き」です。英語ではtransgression「越える」とも訳されています。越えてはならない線を越えること、それは「そむきの罪」となります。これらのことを人生の小道pathを歩くことに例えたいと思います。道に穴ボコがあるのに気が付かず、ころんでしまいました。どうすれば良いでしょう?起き上がって泥を払えば良いでしょう。また、あるときは「こっちの道が平らで歩きやすい」と楽な道を選びました。しかし、それは滅びの道でした。どうしたら良いでしょう?引き返して正しい道に戻るべきでしょう。また、ある時、スマホを見ながら道を歩いていたら、路肩から落ちてしまいました。どうしたら良いでしょう?斜面を登って、道の中央に戻れば良いでしょう。聖書のみことばは、これら三つのことを教えてくれます。詩篇の記者は「わたしは、あなたの道を思うとき、足をかえして、あなたのあかしに向かいます。」(詩篇119:59口語訳)と言っています。足をかえしてとは、悔い改めるということです。

 第二は神さまのイメージを正しくする必要があります。ある人たちは、自分の親が厳しく躾けたので、神さまもそういう方ではないかと恐れています。この世には、虐待に近いことをしている親たちがたくさんいます。あなたも悪いことをして、手やお尻を「ぺしっ」と叩かれたことがあるでしょう。神さまも私たちが罪を犯すと、「こらっ!」と怒って、一撃されるお方なのでしょうか?私の父はひどかったので、神さまに対するイメージがゆがんでいました。旧約聖書に「神を恐れよ」と書いてありますが、「何か罰を受けたら怖い」と思っていました。しかし、ローマ8章には「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」と書いてあります。私は英語でstand by youということばが大好きです。これは、「あなたを援助する、支持するよ」という意味です。神さまはあなたを一方的にさばく方ではなく、あなたの偉大な味方なのです。それから、イエス様はどんなお方でしょう?ローマ834「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。イエス様が弁護士のように、間に入ってとりなしてくださるということです。旧約聖書の詩篇3524「あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ」というダビデの祈りがあります。英語の詳訳聖書にはJudge and vindicate meとなっています。Vindicateは「…に対する非難が不当であることを証明する(嫌疑を晴らす、弁明する、擁護する)」という意味です。私はこの訳が大好きです。「あまりにも、不当な扱いを受けて来た、弁明の余地も与えられなかった」という傷があるからです。つまり、私たちの神さまは義なる神さまであり、キリストにあって私たちを擁護してくださるということです。イエス・キリストの十字架によってすべての罪が赦されているのです。だから、私たちを何とか良い方向に導いてあげたいという良き神さまであり、愛なる神様なのです。これからも私たちの罪を赦すことをお決めになっておられるのです。だから、私たちは喜んで罪を悔い改め、もとの正しい道を歩みたくなるのです。

 

 第三はこちらから神さまを慕い求める必要があります。詩篇13923-24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139篇を読むと分かりますが、神さまは私たちのことを全部ご存じです。口で何かをしゃべる前から知っておられます。私たちが天に上っても、陰府に床を設けてもそこにおられます。主は、私たちの内蔵を造り、母の胎の中で組み立てられました。私たちが目覚めるとき、いつも共におられます。神さまに何か、隠し立てすることは不可能です。ですから、私たちは神さまを慕い求め、傷ついた道があるかないか見てもらい、とこしえの道に導いていただきましょう。私たちはお医者さんのお世話になるとき、全部を見せなければなりません。恥ずかしい場合もあるでしょう。でも、見せなければ治療を受けられません。神さまは紳士なので、私たちの同意なしに「見せろ、治してやる」とは言いません。私たちが父なる神さまを信頼して、自分をゆだねるときに、神さまは私たちを取り扱ってくださいます。どんなふうに取り扱ってくださるのでしょうか?私たちの罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。また、私たちに夢と希望と信仰を与えてくださいます。なぜなら、私たちを通してご自身の永遠の目的を果たしたいからです。

 

 

 

|

« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »