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2015年5月 1日 (金)

みことばを思い巡らす 詩篇25:10-14 2015.5.3

 4回にわたって『タッチングヘブン・チェンジングライフ』のテキストから学びたいと思います。簡単に言うと「神との親密な関係を持つ」ということです。私たちはどのようにしたら、神さまと親密な関係を持つことができるのでしょうか?そのことを4回にわたって学びたいと思います。本日は、ディボーションについてお話ししたいと思います。ディボーションとは聖書を思い巡らすことによって神さまと親しく交わり、神さまを個人的に礼拝するということです。

 

 

1.思い巡らす

 

聖書には「思い巡らす」ということばが何度も出て来ます。英語ではmeditate ですが、一般的には「瞑想する、黙想する」と訳されています。近年、東洋の宗教である禅やヨガが注目され、多くの人たちが瞑想にはまっています。特にニュー・エージと言われる、オカルト的で汎神論的な宗教がこの瞑想を取り入れています。彼らは瞑想によって、宇宙の大霊と言われる神と交わります。そしてやがてはその神と一体となり、一部となります。神と自分が一体となるので、「自分も神である」と言います。大変、危険な宗教で、漫画やゲーム、映画や音楽のプロデュースもしています。人々は知らず知らずのうちに、ニュー・エージの背後にいる悪霊に捕らえられてしまいます。私たちの神さまは、そういう人格のない神さまではありません。私たちを愛しておられるキリストの父なる神さまです。贖い主であるキリストなしで、神さまに到達できる道はありません。ところで、ディボーションとは、聖書のみことばを思い巡らしながら、神さまと交わり、神さまを礼拝する行為です。一方、カトリック教会の「黙想」は、自分の内なる声に耳を傾ける要素が大きいと思います。彼らは「人間の中には神のイメージが刻まれているので、神を見出すことができる」という考えがあるからでしょう。確かに、自然や人間の心には、神さまを部分的に写し出すでしょう。しかし、聖書は神さまの特別な啓示であり、神さまは、聖書のみことばを通して語りかけると信じます。聖書を用いない「黙想」は、真の神さまから離れて、さまよう危険性があると思います。迷走をしないで、瞑想しましょう!

 

思い巡らすとは、どういう意味でしょう?日本語の聖書は、他のところで、「口ずさむ」「思いを潜める」と訳しています。これは、牛や羊が草を反芻することと似ています。彼らは胃袋が4つくらいあって、口に何度も戻して、消化しにくい草をかみ砕いています。私たちも聖書のみことばに何が書いてあるのか、よく反芻する必要があります。何度も読んでいくうち、「ああ、こういうことが書いてあったのか?」と感動することが良くあります。人から教えられたことはすぐ忘れますが、自分で発見したことは忘れません。ディボーションには宝を発見したときの喜びに似たものがあります。また、神のことばは、霊的なご飯ですから、よく噛んで味わい、自分の中に取り入れる必要があります。こういう説教は、聖書を美味しく調理したディッシュみたいなものです。私はシェフとして、皆さんに味付けしたみことばを提供しています。鉄人シェフになれたら良いと思いますが、一週間一度では足らないでしょう。ぜひ、毎日のように自分で聖書を読んで、霊的ご飯をいただいてください。

 

 

『タッチングヘブン・チェンジングライフ』には、いくつかの質問が記されています。質問はディボーションを助けるために、大変役に立ちます。水曜日の集会では、私が「マタイによる福音書」からテキストを作っています。これも、質問形式になって自分で発見できるようになっています。こういう質問や解説書付の本がキリスト教書店にも売られています。月刊もので一冊500円から600円位だと思います。最初はそういうガイドブックを用いると良いでしょう。しかし、だんだん自分でできるようになります。何でもコツがあるように、ディボーションにもコツがあります。全体的には聖書のみことばを思い巡らすのですが、どのような項目で思い巡らすべきか、ちょっとだけ説明をさせていただきます。

聖書を順番に読んでいきますが、その日の聖書箇所は多くて1章、短いときは数節で構いません。できれば大学ノートに記入すれば良いのですが、めんどうくさい人もいるかもしれません。そういう人は聖書に書き込みをしたら良いでしょう。第一は「内容観察」です。何が書いてあるのかゆっくり読みます。詩篇の記者は「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」(詩篇11918と求めています。何度か繰り返して読んでいると、いくつか発見するものがあります。たとえば、「同じことばが出て来た」「ここは言い換えている」「ここが重要なことだ」と分かって来ます。このとき、あまり注解書とか他の参考書を見ないでください。とにかく、真理の御霊なる聖霊に聞くことに集中します。そうすると、聖霊があなたに示してくださいます。第二は「教え」を受け取ります。教えの中には色々な要素が含まれています。約束や励ましがあるでしょう。避けるべき罪や行なうべき命令があるかもしれません。従うべき模範もあります。私は説教者としてメッセージをそのところから受け取るようにしています。第三は「適用」を考えます。適用とは、「今いただいた教えを自分の人生にどう実行するか」であります。「愛しなさい」と教えられたなら、だれをどのように愛すべきか具体的に考えます。最後に教えられたことを感謝し、それが実行できるように祈ります。時間的に15分から30分持てたら良いでしょう。習慣になるまでは大変です。しかし、テキストのように40日間やれば身につきます。問題は「いつやるか?」であります。

 

 ヨシュア記にはみことばを思い巡らす人の受ける祝福について記されています。ヨシュア18「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」アーメン。

 2.ワークショップ

 

 

それでは、テキストの1ページから一緒にディボーションをやってみましょう。持っていない人も大丈夫です。礼拝中なので、一緒にやりたいと思います。詩篇2510-14がその箇所になっています。礼拝の直前に、その箇所を読みました。聖書を持っている方は、詩篇2510-14をお開きください。テキストのM2に質問が3つあります。第一は「主の小道とはどのようなものですか?どのような人が、主の道を歩むことができるのでしょう?」テキストには書かれていませんが、これは10節にあります。詩篇25:10 「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。」とあります。このところには、主の小道は「みな恵みとまことである」と書かれています。どのような人かというと「その契約とそのさとしを守る者」です。今のものは、見て分かる内容観察の質問です。第二は「ダビデはどのようにして、自分が主を恐れる者であることを表わしていますか?」とあります。これは、11節にあるとカッコで教えています。詩篇25:11「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。」まさしく、御名のために「私の咎を赦してください」と罪の赦しを求めている人です。つまり、主を恐れる人とは、もし自分の罪があるならば悔い改める人だということです。この質問は、意味(解釈)質問です。これはちょっと考えなければ、分かりません。第三「主を恐れる人はどのような祝福を主から受け取ることができるでしょうか?」12節から14節まであります。詩篇2512-14「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」主を恐れる人には、たくさんの祝福があります。主はその人に選ぶべき道を教えられます。その人のたましいは、幸せの中に住みます。その子孫は地を受け継ぐことができます。主は主を恐れる者と親しくされます。主はその人にご自分の契約を教えられます。ざっと5つありました。

 

私は5つある中の「幸せの中に住む」というところに目がとまりました。聖書に本当に「幸せ」と書いてあるのか?疑問に思いました。一般のディボーションではここまでやる必要はありません。このところに書いてある、「幸せ」はヘブル語ではトーブです。トーブは「良いこと、美、卓越、喜びあふれること、良い物、最も良いものにあずかること」という意味です。ですから、英国の聖書は「永続する繁栄を喜ぶ」と訳しています。また、英語の詳訳聖書は「安らかに住む」と書いてあります。他の英語の聖書は「繁栄する、裕福になる」と訳しています。しかし、日本語の聖書は「幸い」とか「幸せ」「恵み」です。つまり、日本人の捉え方がとても精神的であり、欧米の方が物質的だということです。これまで、日本のキリスト教会は精神的な「幸せ」を第一にして求めました。欧米が言う「繁栄の神学」というものをとても嫌いました。ところが、お隣の韓国はとても貧しい中から、繁栄を求めてとても豊かになりました。教会の長老さんはどこかの社長さんばかりで、教会の会計がとても潤いました。しかし、現在の韓国は物質的な繁栄がもたらす罪も増してしまったようです。かつての時よりも汚職や離婚が増えました。精神的な「幸せ」と、物質的な「幸せ」どっちが良いのでしょうか?聖書は「一方の幸せだけを言っているのではない」ということは確かです。両方がバランスよく存在しているべきだということです。使徒パウロはこのように言っています。ピリピ411-13「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」多くの人たちは13節だけを強調します。でも、パウロが言いたいのは、「私を強くしてくださるキリストによって、私は貧しさの中でも、豊かさの中でも幸せに生きることができる」というということです。


本題のディボーションに戻りたいと思いますが、M3は適用のための質問です。第一は「主の御前で、またお互いに、どのような罪を告白する必要があるでしょうか?今から、罪深い行いときよくない思いを拒絶する決断をし、またその計画を立てましょう」とあります。なぜ、「罪」の問題がここに出てきたのでしょう?それは、罪がなければ、さきほどの5つの祝福が得られるからです。罪があるとその祝福にあずかることができません。詩篇2511-12「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。主を恐れる人は、だれか。」とあります。主を恐れる人とは、もし自分に罪があるならば悔い改める人だということです。「私にどんな罪があるのだろう?」としばし考える時を持ちます。「私はキリストにあってすべての罪が赦されています。私は神の子どもであり、永遠のいのちが与えられています。でも、罪は神さまとの交わりを遮断してしまいます。そのため、神さまが与えたいと願っておられる祝福もやってきません。さて、それは何だろうか」と神さまに聞きます。私自身のものを分かち合いたいと思います。テキストにこのように書きました。「人の徳を下げるような意地の悪いことばを発する。ことばを職業とする者として良くないことである。親切で塩味のきいたことば」と書きました。アーメンと言わないでください。私は唐辛子とか、黒胡椒の入ったことばを発する癖があります。

 

もう1つ勧めのことばがあります。「神様に従うために、あなた自身をささげる祈りをしましょう。また、罪深い思いに襲われたときには、神様を礼拝しましょう。」私は悪いことばが浮かんで、出そうになったとき「ハレルヤ!主よ、感謝します」と言うと書きました。同じような戒めが、4日目のテキストにも書いてありました。ダメ押しみたいでした。このように神さまは私たちに語ってくださいます。人から言われるとムカッときますが、神さまからみことばを通して言われると、アーメンとなります。不思議なことに、ちゃんとできていない場合は、何度も同じように語ってくださいます。みことばが示されたらすぐに従う者となりたいと思います。繰り返しになりますが、主を恐れる人には、たくさんの祝福があります。主はその人に選ぶべき道を教えられます。その人のたましいは、幸せの中に住みます。その子孫は地を受け継ぐことができます。主は主を恐れる者と親しくされます。主はその人にご自分の契約を教えられます。アーメン。

 

 

3.神との親密な関係

 神さまとの親密な関係を妨げるものは罪です。テキストにこのように書かれています。「罪の解決はたった1つ、それは悔い改めることです。悔い改めには2つの段階があります。第一は罪を認め告白することであり、第二は罪を捨てることです。」とあります。しかし、ディボーションする度ごとに罪を示され、罪を悔い改めなければならないとしたら嫌にならないでしょうか?みなさんはダメ出ししてくれる人と毎日会いたいでしょうか?それよりも、自分を励まし、力になってくれる人がいたなら毎日会いたいでしょう。私が長い間、ディボーションを続けられている理由は、神さまが後者の方だからです。私たちが、ディボーションを楽しんで継続するためには以下の3つのことを理解する必要があります。

 

 第一は罪の正しい意味を知る必要があります。「罪とは自分が何か悪いことをした」というふうに捉えているかもしれません。確かにそういう意味もありますが、それだけではありません。ヘブル語において、罪は3種類あります。1つ目は「ハーター」です。これは、「道を踏み外す」という意味です。英語ではtrespass「あやまち」とも訳されています。1週間過ごして、失敗したことのない人はいないでしょうか?2つ目は「アーオーン」「曲げる」です。英語ではpervert「曲解する」とも訳されています。私たちは神さまのみこころを曲解していることは多いのではないでしょうか?神さまは災いではなく、希望を与えたいと願っておられます。そして、3つ目は「ペシャ」です。これは「背き」です。英語ではtransgression「越える」とも訳されています。越えてはならない線を越えること、それは「そむきの罪」となります。これらのことを人生の小道pathを歩くことに例えたいと思います。道に穴ボコがあるのに気が付かず、ころんでしまいました。どうすれば良いでしょう?起き上がって泥を払えば良いでしょう。また、あるときは「こっちの道が平らで歩きやすい」と楽な道を選びました。しかし、それは滅びの道でした。どうしたら良いでしょう?引き返して正しい道に戻るべきでしょう。また、ある時、スマホを見ながら道を歩いていたら、路肩から落ちてしまいました。どうしたら良いでしょう?斜面を登って、道の中央に戻れば良いでしょう。聖書のみことばは、これら三つのことを教えてくれます。詩篇の記者は「わたしは、あなたの道を思うとき、足をかえして、あなたのあかしに向かいます。」(詩篇119:59口語訳)と言っています。足をかえしてとは、悔い改めるということです。

 第二は神さまのイメージを正しくする必要があります。ある人たちは、自分の親が厳しく躾けたので、神さまもそういう方ではないかと恐れています。この世には、虐待に近いことをしている親たちがたくさんいます。あなたも悪いことをして、手やお尻を「ぺしっ」と叩かれたことがあるでしょう。神さまも私たちが罪を犯すと、「こらっ!」と怒って、一撃されるお方なのでしょうか?私の父はひどかったので、神さまに対するイメージがゆがんでいました。旧約聖書に「神を恐れよ」と書いてありますが、「何か罰を受けたら怖い」と思っていました。しかし、ローマ8章には「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」と書いてあります。私は英語でstand by youということばが大好きです。これは、「あなたを援助する、支持するよ」という意味です。神さまはあなたを一方的にさばく方ではなく、あなたの偉大な味方なのです。それから、イエス様はどんなお方でしょう?ローマ834「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。イエス様が弁護士のように、間に入ってとりなしてくださるということです。旧約聖書の詩篇3524「あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ」というダビデの祈りがあります。英語の詳訳聖書にはJudge and vindicate meとなっています。Vindicateは「…に対する非難が不当であることを証明する(嫌疑を晴らす、弁明する、擁護する)」という意味です。私はこの訳が大好きです。「あまりにも、不当な扱いを受けて来た、弁明の余地も与えられなかった」という傷があるからです。つまり、私たちの神さまは義なる神さまであり、キリストにあって私たちを擁護してくださるということです。イエス・キリストの十字架によってすべての罪が赦されているのです。だから、私たちを何とか良い方向に導いてあげたいという良き神さまであり、愛なる神様なのです。これからも私たちの罪を赦すことをお決めになっておられるのです。だから、私たちは喜んで罪を悔い改め、もとの正しい道を歩みたくなるのです。

 

 第三はこちらから神さまを慕い求める必要があります。詩篇13923-24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139篇を読むと分かりますが、神さまは私たちのことを全部ご存じです。口で何かをしゃべる前から知っておられます。私たちが天に上っても、陰府に床を設けてもそこにおられます。主は、私たちの内蔵を造り、母の胎の中で組み立てられました。私たちが目覚めるとき、いつも共におられます。神さまに何か、隠し立てすることは不可能です。ですから、私たちは神さまを慕い求め、傷ついた道があるかないか見てもらい、とこしえの道に導いていただきましょう。私たちはお医者さんのお世話になるとき、全部を見せなければなりません。恥ずかしい場合もあるでしょう。でも、見せなければ治療を受けられません。神さまは紳士なので、私たちの同意なしに「見せろ、治してやる」とは言いません。私たちが父なる神さまを信頼して、自分をゆだねるときに、神さまは私たちを取り扱ってくださいます。どんなふうに取り扱ってくださるのでしょうか?私たちの罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。また、私たちに夢と希望と信仰を与えてくださいます。なぜなら、私たちを通してご自身の永遠の目的を果たしたいからです。

 

 

 

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