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2015年5月15日 (金)

神と対話する ヨハネ14:10-11 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.5.17

 私たちは言葉に出さなくても、内側で会話をしています。一番多いのが、自分との会話、セルフ・トークです。たまに、つぶやきのように口から出るときがあります。また、知らないで悪霊と会話をしている人もいます。新興宗教が唱える呪文は、自分を無にさせるとともに、闇の力に扉を開くことになります。私たちがすべきことは、まことの神さまと交わることです。朝のディボーションだけではなく、日中も神さまと会話をすることが可能です。電車に乗っているときも、仕事をしているときも、買い物をしているときも神さまと会話することができます。 

 1.神との会話

 イエス様は御父と常に会話をしておられました。ヨハネ1410-11「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」イエス様がおっしゃることば、あるいは行なうわざはどこから来たのでしょうか?イエス様はご自分の中に御父がいらっしゃると言われました。「わたしが父におり、父がわたしにおられる」とは、イエス様と御父が一体であるということです。そして、地上におられたイエス様はいつも御父に聞き、御父から知恵と力をいただきました。イエス様は、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」(ヨハネ519と言われました。イエス様も神さまですから、自分で考え、自分の力で何でもできたはずです。しかし、あえてそうせずに、御父に聞きつつ、御父から知恵と力をいただきました。なぜでしょう?それは、私たちの模範となるためです。イエス様は肉体を持っておられましたが、それは私たちと同じ状態になるためです。そして、私たちもイエス様のように御父に聞き従うなら、知恵と力が与えられるということです。あなたは日中、だれと交わり、だれと話をしているでしょうか?ある人は電話で友達と長い会話をしています。ある人はテレビの登場人物たちと会話をしています。また、ある人は自分がいかに惨めで不幸か、自分自身と会話をしています。

  テキストにはこのようにコメントされています。「もし、私たちが私たちの先生のようになりたかったなら、できるだけ多くの時間をかけて、先生から学ぶ必要があります。医者や技師、弁護士などの専門職になるためには、教師と顔と顔を合わせて勉強するために、たくさんの時間を費やすことが必要です。やがては、その人は教師のようになれるのです。そのことは私たちにも同じです。キリストと同じような霊的資質を持つために、私たちはイエス様と「顔と顔」を合わせて会う必要があります。ディボーションは大切ですが、その後の主との時間、私たちは主と継続的な会話を持つ必要があるのです。私たちは仕事をやめる必要もなく、続けて忙しく働き、勉強やビジネスや他のことができます。」アーメン。

  主と絶え間なく会話をした歴史上の人物がいます。彼の名前はブラザー・ローレンスです。彼は1611年生まれで、パリに住んでいました。ローレンスは神学者でも、牧師、あるいは偉大な説教家でもありません。彼は修道院の厨房で働く、一介の料理長でした。しかし、彼は主と絶え間なく会話することを実践し、それを「神の臨在を実践する。コランディオー」と言いました。コランディオーはラテン語で、「神の御顔の前で」という意味だと思います。ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を良くまとめて一人の牧師の文章を引用致します。「彼は、祈りの中ばかりでなく、日常的な仕事の中でも、事あるごとに神様に思いを向け、神様に語りかけ、神様の御声に耳を澄ますという、神様を思う訓練をしました。最初はうまくいかなかったようですが、何度も繰り返すうちにそのことが習慣となり、彼の喜びと力の源泉になっていったようです。修道会に入ったばかりのときに彼に与えられたのはコックとしての仕事でした。慣れない仕事の中でも、その仕事を神様からのものとして受け止め、ただ神様を愛することとしてその仕事を行いました。どんな小さなわざも、神様を愛することとして行う…そういう生き方を実際に生きた人があったということが衝撃的です。神様はご自身に近づくものに多くの恵みを与えて下さいますが、彼はそれらの恵みに目を留めるよりも、神ご自身に目を向け続けました。賜物や異常な経験を求めるのでなく、神ご自身を求めました。病や痛みなど、その他、地上での多くの苦しみも彼の心の喜びを奪いませんでした。それらのものも、神様からのものとして喜んで受け入れました。単に忍耐し、がまんしたというのでなく、喜んだ…このこともまた衝撃的でした。」

  私たちも朝のディボーションの時だけではなく、日中、どんな時でも神さまと話すことができます。いつでもそこに神さまがいらっしゃるという臨在を意識したなら、悪いことはできません。その代り、神さまが私たちを内側から励まし、力を与えてくださるのではないでしょうか?私は朝夕、散歩をしています。前は自分の昔の嫌なシーンがトラウマのようによみがえりました。しかし、今ではイエス様をそこに歓迎し、「ああいうことがあったから救われたんですよね」と感謝に換えています。スーパーに買い物に行くときも「きょう何にしたら良いでしょうかね」とイエス様に聞きます。まもなく、30%引きのものを見つけることがあります。メニューが浮かばないときもありますが、尋ねると「これにしよう」と頭に浮かびます。私は物忘れが多くなり、人の名前を間違えることが多々あります。でも、イエス様のことだけは忘れたくないです。神さまの臨在を意識して生活することは、最初は窮屈に感じるかもしれません。でも、助け主であるイエス様が共におられる、これ以上すばらしいことはないのではないでしょうか?伴侶もこれほど親しくはできません。「うるさい」とか「暑苦しい」と言われるのがおちでしょう。ある人が言いました。「神さまとの電話は話し中ということがありません。いつでも会話できるホット・ラインである」と。アーメン。

 2.親密になる3つのレベル

 エディ・レオ師はテキストの中で、「神と親密になる3つレベル」について教えています。第一のレベルは反応的親密さです。私たちは毎日の生活の中で、どんなとき神様と関係を築くことができるでしょうか。神様と出会う最も良い時とはいつでしょうか。それは、私たちが問題を持っているときです。言い換えると、誘惑に遭っているとき、困難に直面したとき、人生のチャレンジに直面したときです。たくさんの問題が起こっている時こそが、神を体験する最善の時です。私たちの証は、困難の状況において、神様を体験したときの証が多いと思います。もしも、病気、夫の失業、子どもの問題と3つ重なったらどうするでしょうか?そういう時こそ、奥の部屋に逃げ込むのです。イエス様はマタイ66で「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われました。「私の家は狭くて、奥まった部屋はありません」と言われるかもしれません。椅子かベッドに平伏して、目をつぶると奥まった部屋になります。普通の祈りは、自分の問題を神さまに詳細に述べます。悪いことではありません。でも、神さまは私たちの問題を全部ご存じなので、いちいち知らせる必要はありません。では、どうしたら良いのでしょうか?私たちは神さまの偉大さ、神さまの約束、神さまの恵みについて告げるべきなのです。たとえばこうです。「主よ、そういえば、『聖書に死の陰の谷を歩くことがあっても』と書いてありますね。あの意味は、死の陰の谷にテントをはって留まることではないですね。I walk through 通過するということですね。だったら死の陰の谷をあなたと通過できることを信じます。アーメン。」このように、神さまがみことばを通して、教えてくれることがあります。問題ではなく、神さまがどんなお方か注目するのです。

  大和カルバリーの大川牧師は、「祈りに導かれることはすべて良し」とおっしゃっています。つまり、日常起こる問題や悩みが、神さまに向かって祈ることをさせます。私たちは平穏無事なときはあまり祈りません。しかし、問題や悩みが起こると必死に祈ります。過去を振り返ると、「一番神さまが近いと感じたのは、そういう時だったなー」と分かります。聖歌490「われはおさなご」という賛美があります。「われはおさなご、われ主にすーがらん、小さくあれど、信仰をいだきて」3節目はこうです。「晴れたる朝も、われ主にすーがらん、嵐の夜はすーがり、祈りせん。たえず主イェスの手によりすがらん、静けき昼も、風吹く夜も」。私たちは、嵐の夜こそ主が近くにおられることが分かるのです。

  第二のレベルは、積極的な親密さです。問題があるときだけ、神様と関係を築くことはしないようにしたいと思います。次の段階は、積極的に関係を築くということです。エディ・レオ師がこのような実験をしてみました。まず、自分のポケットの中にメモ用紙を入れておきます。神様を思い出したときに、神様と語りかけたとき、神様の臨在を感じたとき、1つ印をつけます。また、何かをやっているとき神様を思い出した。そのとき、次の印をつけます。また、色んなことをやって、神様を思い出した。そのとき、印をつけます。神様を思い出した時に、印をつけるようにしました。1回につき1つだけ印をつけるのです。先生は1日それをやってみました。1日の終わり、夜眠る前に、神様をどれだけ思い出したか数えてみました。先生はとても、すごくショックを受けました。牧師であるのに、神様を思い出したのは1日に20回だけでした。しかし、自分の問題に気付いたのは100回でした。エディ牧師は悩みました。「若い人たちは、彼氏や彼女のことを1300回思い出すことができる。しかし、私が神様のことを思い出したのは20回だけだった。このようなことで、どのようにキリストに似た者となることができるだろうか。どのようにして神様と親しい交わりを持てるだろうか。」先生は、「次の日、もっと増やすぞ!」と、そのようにして習慣化していったそうです。私は先生のメッセージを聞いたとき、「私には無理だなー」と思いました。ところが、この間、テレビを見たとき驚きました。サウジアラビアにも日本製の100円ショップがあり、金持ちたちがよく訪れるそうです。実際は日本円にして200円位なのですが、大変繁盛しているそうです。何が一番売れるかベスト3というのがありました。ベスト2がカウンターでした。手でカチカチと押すカウンターです。なぜ、そんなものが売れるのでしょう。イスラム教徒は1日に5回礼拝します。その他に、ある祈りのことばを20回唱えるそうです。指を折って数えると、途中、何かあったとき、祈った数が分からなくなるそうです。しかし、このカウンターを使うと、間違えないで20回、ちゃんと祈ることができます。私はそれを見ていて、「自分はなんと生ぬるいんだろうなー」と反省しました。義務的になってはいませんが、意識的に神さまを思い、神さまを礼拝するということはとても重要です。

  使徒パウロはピリピ48すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」と言いました。私は今年からこのような決意をしています。朝起きてすぐテレビを見ない。短いディボーションの本を読むか、すぐ散歩に出かける。散歩しながら、主と交わる。その後、じっくりディボーションをする。朝食をとりながら、テレビのニュースを見る。テレビは寝る前に見ないで、信仰書を何冊か読む。テレビのニュースは悪いニュースがほとんどです。しかも、いろんな局で同じことを放映しています。ニュース・ステーションの古舘○○アナウンサーがおります。彼は世の中の不条理を常に扱っています。私は彼がいつか病気になるのではないかと余計な心配をしています。牧師の特権は、聖書や本を読んで主と交わる時間がとても多いということです。しかし、世の中で働いている人は誘惑が多くて大変です。満員電車から始まり、いろんな人と会うし、いろんなものを見る機会が多いと思います。ですからよっぽど工夫しないと霊性を保つことができないでしょう。イヤホーンでだれかのメッセージを聞いたり、ゴスペルを聞くのも良い方法です。鞄に聖書や信仰書を入れておいて、ちょっとした時間に開いて読むということも良いです。箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」アーメン。

 第三のレベルは、自動的親密さです。エディ・レオ師「はいつも、神様にささげて生きていると、ガラテヤ2:19,20のみことばがあなたの人生に成就する」と言いました。ガラテヤ2:19,20しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」いつも、祈りをささげるので自分の我と肉が死にます。「神様、あなたなしに私は何もすることができません。私には問題があります。神様、あなたなしでは生きてゆけません。神様、助けてください」。これは自分の我と肉を十字架につけるという意味です。自分の我と肉が死ぬとイエス様が生きます。何が起こるでしょうか。あなたはイエス様のようになれるのです。私たちは、この第三のレベルに行きたいです。しかし、いきなりこの第三の「自動的な親密さ」に行くことはできません。だから、第一のレベルから始めなければなりません。つまり、問題があったときに、すぐ神さまと交わるということです。また、誘惑を受けたり、トラウマや嫌なことを思い出すときがあります。そういうときに「ハレルヤ!主よ、あなたを礼拝します」と置き換えれば良いのです。そうしたら、常に神さまと交わることができます。

 3.関係のゴール

 継続的に神さまと交わって行くとどうなるでしょう?成熟さを増していき、ついには神さまとツーカーの関係になります。そんなことがあるのでしょうか?2つの例をあげて説明したいと思います。第一は「しもべから友へ」ということです。ヨハネ1514-15「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」神さまと親密な関係を建て上げていくと、イエス様は私たちをしもべではなく、友と呼んでくださいます。しもべは主人のすることを知りませんし、いや、知ろうともしないでしょう。しもべは、必要最小限のことしかしません。余計なことを知ると、やることも多くなるからです。友はどうでしょうか?イエス様が私たちを信頼しているので、ご自分の思いも打ち明けてくださるということです。アブラハムは神の友と呼ばれました。あるとき、主が御使いたちと一緒に、アブラハムを訪れました。ソドムとゴモラを滅ぼすために来たのですが、アブラハムにそのことを伝えました。アブラハムはそのことを聞いて、その町に50人の正しい人がいたら、滅ぼさないでくださいとお願いしました。いや45人いたら、40人、30人、20人、10人いたらと交渉しました。主はアブラハムにとりなしてもらいたかったのです。創世記1817「主はこう考えられた。わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか?」と書いてあります。私たちも、神さまから、「実はこうしようと考えているのだが、お前はどう思う?」みたいなことを言われたいですね。イエス様は「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。そこには、神さまへの従順さが求められます。イエス様にすべてをささげ、喜んでイエス様に従っていくなら友となることができます。しかし、そんな日が来るのでしょうか?私たちがイエス様を求めていくなら、イエス様の方から、「あなたは私の友だよ」と、手を差し伸べてくださると信じます。

 もう1つは、子どもから息子もしくは娘への成熟です。テキストにはこのように書かれています。ローマ815-16には、人が新生したら、ただちに神の子どもとなると説明されています。ギリシャ語の聖書では、子どもはテクノンであり、children であります。しかし、私たちが子どもになるだけではまだ十分ではありません。聖霊によって継続的に導かれる必要があります。聖霊がその人を継続的に導いていくなら、その人は神の子どもになります。ローマ814「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」とあります。このところの子どもは、ギリシャ語でフィオスです。フィオスは成熟した息子であり娘です。ですから、私たちは聖霊によって導かれることを学ばなければなりません。聖霊によって導かれるとは、すなわちイエス様によって導かれると同じであります。しかし、厳密に違うのは、私たちの霊の部分に宿っている聖霊は、御霊と呼ばれています。霊は私たちのもっと深いところにある、いわば至聖所みたいなところです。私たちには心の傷があるために情緒が不安定なところもあるかもしれません。あるいはマインドに問題があり、一貫性に欠けるかもしれません。でも、大丈夫です。私たちが意志して、キリストの御霊にお願いするなら、私たちを内側から支配してくださり、ちゃんと導いてくださいます。御霊によって歩むとはそういうことです。御霊によって導かれるならば、御霊の品性が私たちのうちに実として現れてくるでしょう。それが、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらはイエス様の品性でもあります。イエス様が私たちの中から現れてくるとしたら、何とすばらしいでしょうか。

  キリスト教は外側から「ああしなさい」「こうしなさい」と戒めを与えて導くものではありません。それは道徳であり、律法主義です。私たちの場合は、キリストの御霊が私たちのいのちそのものになってくださいます。私たちがこの方によりたのむならば、キリストご自身が現われてくださいます。言い換えるなら、聖霊が私たちの言動を導いてくださるのです。ですから、私たちのすべきことは「イエス様どうしたら良いでしょうか?」「こうしましょうか?」「こうしたいですね?」といつも会話をしながら、生活することなのです。イエス様は私たちの友です。そして、私たちは父なる神様の息子であり、娘です。私たちは奴隷ではありません。私たちの願いや希望をちゃんと聞いてくださいます。いろいろ、話し合いながら決めていくのです。そうしたくないときがもちろんあります。そういうときは、自分が降りて神さまのみこころを優先させるようにします。そのように勝利の体験を重ねていくと、ますます、神さまに従うことが最善であると分かって来ます。三位一体の神さまと親しく交わり、正しい道に導かれて、実りある人生を送りたいと思います。

 

 

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