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2015年5月 8日 (金)

想像力を用いる ローマ1:20-28 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.5.10

 

 想像力は神さまが私たちに下さった素晴らしい能力です。しかし、私たちが何を想像するかによって、人生が良くもなり、悪くもなります。イエス様は「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」(マタイ622-23と言われました。この目とは何でしょう。目は想像(イメージ)と置き換えることも可能です。もしあなたの想像が健全なら、あなたの全身が明るいでしょう。しかし、あなたの想像が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。私たちは想像力を正しく用いなければなりません。 

 

1.偶像と想像

 

神さまは、私たちが他の神々を持つことを望んでおられません。まことの神さま以外のものを拝むことを偶像礼拝と言います。偶像礼拝がなぜそんなに悪いのでしょう。出エジプト203-5「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」3節をヘブル語聖書から訳すとこのようになります。You shall not be to you gods other ones before face of me.「私の顔の目の前に、他の神々があってはならない」と書いてあります。神さまは「あなたは私の目の前に、他の神々があってはならない」と言われました。なぜ、「私の後ろに他の神々があってはならない」と書いてないのでしょう。なぜ、「私の横に」とか書いていないのでしょう。なぜ、「私の前に」と書いてあるのでしょう。なぜなら、神の目の前には、あなたがいるからです。あなたと神との間に、何も存在してほしくないのです。あなたにとって、神さまは、唯一の神であって欲しいと願うからです。もし、他の神があなたの生活の中にあるならどうでしょう?あなたは神さまと親しくなることができません。たとえば、この縫いぐるみを偶像だと思ってください。私の前に神さまがおられます。もし、神と私の間に偶像があるなら、何が起こるでしょうか。私は神さまを見ることができません。このところには親密さはありません。これは非常に危険です。ですから、私たちは他の神を追い払う必要があるのです。

 

ところで、ローマ人への手紙1章には、「諸悪の根源は何か」ということが書いてあります。ローマ120「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」パウロは「だれでも、想像力を働かせるなら、神さまを見ることができる。クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、誰ひとり、神さまを否定することはできない」と言っています。人間は想像力を働かせるなら、神さまを見ることができるはずです。しかし、問題が起こりました。人間は、神さまを礼拝したくないので、神のイメージを変えてしまいました。ローマ121-23「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」人間は、神さまを礼拝したくないので、神さまのイメージを人間や動物のイメージに変えてしまいました。これが、偶像礼拝です。テキストには「人間の想像による偶像礼拝から、どのような結果が生じましたか?」という問があります。偶像礼拝の結果がローマ124以降に記されています。24節「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだを辱めるようになりました」と書いてあります。26-27節「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」とあります。これは同性愛のことですが、ある人たちは「当然の報いとはエイズである」と言っています。28節「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」三回、「引き渡された」と書かれています。これは「見捨てる、見放す」という神のさばきを意味しています。29節以降には、不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みなど、ざっと21個の罪が記されています。諸悪の根源は、まことの神さまをあがめず、神さま以外のものを想像し、礼拝したことです。

 

イエス様は「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」と言われました。つまり、「あなたの想像力が悪ければ、あなたの全身が暗くなる」ということです。ですから、私たちの想像(イメージ)を守る必要があります。人間がそうしなかったために、神様は欲望のままに支配されることをお許しになりました。これらの罪に打ち勝つために、私たちは間違った想像に打ち勝つ必要があります。テキストの解説の部分にはこのように記されています。「不品行と姦淫は、自分たちが礼拝している想像から始まります。彼らは神ご自身である神のみことばを想像しないで、官能的な女性や情欲的な情景を想像したり、考えています。彼らが抱く悪い欲望やむさぼりは、この世の喜びに関する想像と悪い行ないの始まりです。彼らの想像が積み重ねられたとき、人は罪へと陥ります。私たちはどのように偶像礼拝に打ち勝つことができるでしょうか?悔い改めて、神を礼拝するだけです。私たちの心(思い)が攻撃を受けたときは、いつでもただちに、主を礼拝することに転換しましょう。」アーメン。第一のポイントでは、私たちは何を見るか、何を想像するかとても大切だということがわかりました。昔、ジョン・レノンが「イマジン」という歌を歌いました。彼は「想像してごらん。天国なんて無いんだと。地面の下に地獄なんて無いんだと」と歌いました。何と非聖書的な歌でしょう。天国もあります。地獄もあります。私たちは架空のものではなく、真実である神のみことばを想像すべきであります。

 

2.礼拝と想像

 

 パウロは、「人間が想像力を働かせるなら、神を見ることができる」と言いました。しかし、パウロはこの考えをどこから得たのでしょうか?その根拠と考えられるみことばがエゼキエル8章にあります。主はエゼキエルの霊をエルサレムへ携えて行きました。そして、エルサレムの神殿の前にまで来ました。エゼキエル8:8-10 「この方は私に仰せられた。『人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。』私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。この方は私に仰せられた。『入って行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。』私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。」エゼキエルが神殿の1つの穴から入ると、壁一面に、はうものや忌むべき獣など、あらゆる偶像が彫られていました。エゼキエルは非常に驚きました。外側から見限り、神殿はすばらしいものでした。しかし、中に入ると神殿の壁一面に、いろんな像の絵に満ちていました。パウロはコリント人への手紙で、「あなたがたの体は神の神殿である(Ⅰコリント316619)」と言っています。私たち個人が神の神殿であり、また教会も神の神殿です。私たちの神殿、つまり私たちの生活の中に数々の偶像があったらどうなるでしょう。言い換えると、私たちの生活の中にたくさん絵があり、それを想像しているとしたなら、どんなことが起こるでしょうか?多くの人たちはパソコンやスマホでたくさんの画像を見ています。電車でちらっと見えることがありますが、若い女性は洋服やスィーツを見ています。若い男性は果たして何を見ているのでしょうか?テレビや映画、雑誌からも絵や画像を見ることができます。でも、ただ肉眼で見ているのではありません。私たちの頭で何かを想像しながら見ています。

 

人々は神殿の中で何をしていたのでしょうか。エゼキエル811-12また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた』と言っている。」この方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか』。彼らは、主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた」と言っている。なんと、神殿の内部では、70人の長老たちが香炉を持って忌むべき像を拝んでいました。それだけではありません。彼らは「主は私たちを見ておられない」と言っていました。すべての人間は自分だけの部屋を持っています。このプライベートな部屋とは何でしょう。私たちのプライベートな部屋とは、私たちの想像の世界です。他の人は私のプライベートな部屋を見ることが出来るでしょうか?あなたのプライベートな部屋をだれも見ることができません。だれもが、プライベートな部屋を持っています。そこで神様を礼拝しています。しかし、それと同時に、たくさんの偶像もそこに入っています。

 

私のことばで言うと問題が出る恐れがあるので、インドネシアのエディ・レオ師のメッセージを引用したいと思います。「だれもがそのようなプライベートな部屋を持っている。そのプライベートな部屋で、私たち男性は、色んなイメージを作る。私たちは自分の好きな女性たちをそこに作る。『私は黒人の女性が好きだ。でも、髪の毛はちょっとアジア系の女性が良い。』『私はこのモデルが好きだ。だれも知らない』。そして、毎日これを拝む。『あなたは何と美しい方だろう。あなたと会えることを嬉しい。なんと美しいのだろう』。『おお、なんと美しい』。私たちは様々な想像を作っている。そして、それを拝んでしまう。これが姦淫である。これによって、性的な罪が起こされる。女性の罪は何だろうか。女性は男性と違って、セックッスのことはあまり考えない。しかし、もっとロマンティックな出来事を描く。男性が現れすごく丁寧にしてくれる。すごく優しく語りかけてくれる。女性はまた、物を見るのが好きである。どんなことを想像するか。奇麗なドレス、ハンドバック・・・『ああ、ルイビトン』『エルメス』『クリスティアン・ディオール』。様々なイメージを礼拝していく。女性がこういう物質的なものを礼拝して行くと、どのように現れてくるだろうか。買い物である。買い物が悪いとは言っていない。しかし、ある女性たちは物質主義の考えに支配されている。」男性も女性も、プライベートな部屋である、自分の想像をコントロールする必要があるということです。

 

誘惑は罪ではありません。しかし、それを楽しむときに罪となります。イエス様は悪魔から誘惑を受けましたが、みことばによって勝利しました。私たちはどうすれば良いのでしょうか?ルターは「誘惑とは、頭の上を通り過ぎる鳥のようなものである。頭の上を鳥が通り過ぎることを妨げることはできない。しかし、鳥があなたの頭の上に巣を作ることは避けることができる」と言いました。エディ・レオ師は「男性は一日に240回、4分に一回性的な誘惑がやってくる」と言いました。先生は、何度も性的な誘惑が来たとき、頭から追い出そうとしました。「イエスの御名によって出て行け!」とニュェーと引き出す。しかし、4分たつとピューと入って来る。「イエスの御名によって出て行け!」とニュェーと引き出す。しかし、4分たつとピューと入って来る。先生はイライラしました。悪魔は「あなたは良い牧師ではない。牧師はそういうことを考えたりはしない」と告発しました。そのとき、エディ先生は悟りました。ただ、出て行けと言っただけでは、頭は空っぽになる。聖書に「家が空っぽのままだったら、悪霊がまたやってくる」と書かれている。それで、すばらしいことを発見しました。「人間は、礼拝する存在として創られた。だから、誘惑を追い出した直後、イエス様を礼拝しよう」と決意しました。4分間後にまた誘惑がやって来きました。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。また、4分間後やって来ました。「ハレルヤ!イエス様、あなたを礼拝します」。どういうことが起こるでしょう。1日に240回神を礼拝できます。なんと、男性であることを喜ぶことができます。女性よりも、もっと神様を礼拝する機会があるからです。誘惑が来るたびごとにイエス様を礼拝しましょう。

 

3.想像の刷新

 

イメージ・トレーニングがスポーツにおいて欠かせないということを聞いたことがあります。1988年ソウルオリンピックでフローレンス・ジョイナー選手が金メダルを取りました。彼女はクリスチャンですが、レース前には、神にお祈りをしてイメージしたということです。彼女は自分がそのレースに勝つ姿をイメージしました。彼女自身が言っています。「それも一緒に走る他のランナーたちが、私のはるか後方を走っているような、大差で勝つところを想像するのよ。すごく気持ちよく走っている自分の姿をね…」。彼女がゴールする寸前、ニコーと微笑んでいる姿を今も忘れません。でも、このイメージ・トレーニングは怪しげなカウンセリングにも用いられています。ある人たちは催眠術をしたり、前世を呼び出すような祈りをします。「潜在的な能力を開発する」と言いながら、闇の力を借りています。人間が持っている想像力はとても力があるので、悪魔も手ぐすね引いて待っています。しかし、想像力は神さまがくださった能力ですから、正しく用いるならばすばらしい効果をもたらすでしょう。

 

 モーセはカナンの地をさぐるために12人の偵察隊を派遣しました。40日たって、彼らは大きなざくろやぶどうを携えて戻ってきました。カナンの地には多数の先住民が住んでおり、頑丈な町の城壁も見ました。カレブは「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができる」(民数記1331と言いました。しかし、10人の偵察隊は「あの民は私たちよりも強い。彼らは背が高くて、自分がいなごに見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」と悪く言いました。イスラエルの会衆は、「ああ、荒野でこのまま死ぬか、それともエジプトに帰った方が良い」とつぶやきました。しかし、ヨシュアとカレブは「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。主が私たちを導いてくださる」と主張しました。結局、カナンの地に入れたのはヨシュアとカレブだけで、他の民たちは荒野で死にました。10人の偵察隊が失敗したのは、目に見えるものを見続けたからです。彼らはその地にいた巨人と敵たちを見ました。一方、ヨシュアとカレブは、共におられる主に目を注ぎました。二人は霊的な領域を見て、「彼らは私たちのえじきになる。彼らの守りは彼らから取り去られている」と言いました。あるクリスチャンは問題を前にして、「神さまにはできる」と祈ります。しかし、目を開けたとたん「現実はきびしいからな」と言います。せっかく、信仰を得たのに、即座にキャンセルしてしまうとは何事でしょう?

 

 もう1つテキストには、Ⅱ列王記6章の出来事が記されています。アラムの王様は、預言者エリシャのところに大軍を送りました。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲しました。預言者の召し使いが朝早く起きて外に出ました。なんと馬と戦車の軍隊がその町を包囲していました。彼はエリシャに「ああ、ご主人さま。どうしたら良いでしょう?」と言いました。エリシャは「恐れるな」と言って、召し使いの目が開かれるように祈りました。彼が見ると、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。どういうことでしょう?召し使いは肉眼で見える世界を見て恐れました。しかし、エリシャは、彼が目に見えない霊的領域が見えるように祈りました。すると、彼は自分たちと共にいる天使たちが、敵よりももっと多いことが分かったのです。私たちは環境を見て恐れます。しかし、私たちは目に見えない霊的領域が見えるように求めなければなりません。使徒パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないもにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリト418と言いました。ですから、私たちはこの肉眼ではなく、霊の目、信仰の目で想像する必要があるのです。

 

たとえ、医者が診断書を見せて、「あなたの余命は数か月ですよ」と言っても信じてはいけません。私たちは神さまの診断書を見なければなりません。かつて、ジョエル・オスティーンのお母さんドディは転移性の肝臓がんであると診断されました。夫のジョンが呼ばれて医者から「化学療法をしても数週間しか生きられません。牧師さん、数か月じゃないですよ、数週間ですよ」と言われました。ジョンは「私は家内を連れて帰ります。私たちは奇跡を信じています。」と答えました。二人の長男ポールはお医者さんでしたが、それを聞いて激しく泣きました。肝臓がんの人は死ぬことになり、生きながらえる望みがあまりないことを医学で知っていたからです。家に帰ったドディはどうしたでしょう?悲しみに打ちひしがれて、ベッドに寝たでしょうか?体重は40キロでしたが、いつもの時間に寝て、いつもの時間に起きて、顔を洗って病人のような行動はしませんでした。まず、ジョンと心を合わせて祈りました。マタイ18章の合意の祈りをしました。それからどうしたでしょう?ベッドのそばにウェディング・ドレスを着ている写真を置きました。そして、「ああ、主よ、私の結婚式のような気分になれたら良いと思います」と祈りました。休暇で農場に行ったときの写真も取り出しました。「ああ、神さま、私はもう一度、馬に乗ることができたら良いと思います」と祈って、その写真を冷蔵庫の扉に貼りました。体がとても具合が悪くなりましたが、無理やり自分を動かして、入院している人のために祈りに行きました。さらに彼女は癒しについて書いてある聖書のみことばを選び出しノートに書いて音読しました。その数は40にのぼりました。そのうち、彼女は神のことばを自分のことばとして話すようになりました。そのころから信じがたいことが起こりはじめました。ある日突然というわけではなく徐々に、でしたが、彼女の体調がよくなっていったのです。神さまが自らのことばを実行にうつされたのです。神さまは彼女を癒し、元気を取り戻させてくました。癌を告知されてから30年以上たった今も、彼女のがんは完治しています。

 

私たちには想像力が与えられています。しかし、何を想像するかによって運命が分かれます。聖霊は私たちの心と霊を新たにしてくださっています。どうぞ、自分の前から偶像を取り除き、まことの神さまだけを求めましょう。また、神のことばである聖書から約束をいただき、それがなったように想像しましょう。私たちにとって信仰と想像は矛盾しません。現実にそれを見る前に、まず霊の領域を見るのです。そうすれば、時が来たら、現実にも見えてくるでしょう。

 

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