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2015年4月24日 (金)

教会とは エペソ2:19-22 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.4.26

 「教会」あるいはchurchは、聖書的な呼び名ではありません。これは紀元後4世紀、コンタンティヌス帝がキリスト教をローマ国教としたことに由来しています。彼らにとって「教会」は、建物や制度、聖職者の組織をさしていました。しかし、新約聖書ではエクレーシアと言って、「キリスト者の集まり」という意味です。ウォッチマンニーはいみじくも「召会(召された会)」と呼んでいます。しかし、教会という呼び名が2000年間も定着していますので、これでいくしかありません。私たちは呼び名はともかく、「教会というのは聖書的にこういうものなんだ」という正しい理解が必要です。使徒パウロは、教会を家族、神殿、からだと3つに例えて説明しています。

1.神の家族

エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」家族という概念の中にどのようなものが含まれているでしょうか?一般的に家族というのは血縁で構成されており、そこには父と母、兄弟姉妹がいます。おじいちゃんやおばあちゃんもいるでしょう。また、家族というのはその家で生まれたという一点が重要であり、能力の有無とか、障害のあるないは関係ありません。無条件で愛され、養育され、保護されることが求められます。残念ながら、この地上には完全な家族はありません。生育史において色んな傷を受けます。そのため、「神の家族へようこそ!」と言われても、「大丈夫かな?怖いなー」と疑ってしまいます。私も洗礼を受けた直後から、「鈴木兄弟」と呼ばれ、熱烈な歓迎を受けました。しかし、何年間か教会生活を送って行くにつれ、自分と合わない人がいることを発見しました。表だって喧嘩はしませんが、その人を避けたり、口をきかないということがありました。私たちは生まれ育った家庭環境やこれまで会った人たちのデーターが刷り込まれています。そこには、家族も含めて人々から受けたいやな記憶があります。そのため、教会でそういう人と似た人に会った場合、どうしても先入観で見てしまいます。「この人はこういう人なんだ」と短期間で決めつけてしまうことはないでしょうか?でも、神さまは私たちの心の傷を癒すため、あるいは私たちを聖めるために、気の合わない人たちを神の家族に置いているということも事実です。

 そこで、私たちは「神の家族とはこういうものである」ということを聖書から学ぶ必要があります。昔、このようなコマーシャルがありました。「戸締り用心、火の用心」と歌ったあと、「人類はみな兄弟!」と言いました。もし、人類がみな兄弟だったなら、戸締り用心、火の用心は必要ありません。ちなみに、火災の50%以上は放火だそうです。肉体的に生まれたままの状態では罪がありますし、民族、身分、性格の壁などを乗り越えることができません。パウロは「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」と言っています。「こいういうわけで」の前を見ますと、いくつかの根拠が記されています。まず、私たちは罪の中に死んでいたのにキリストの恵みによって生かされたということです。また、私たちは良い行ないをするように、キリストにあって造られた存在です。その次に問題なのは、異邦人とイスラエルに代表される民族間の壁であります。また、お互いが持っている敵意というものがあります。民族間の壁とお互いが持っている敵意がキリストの十字架によって葬り去られました。エペソ218「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」ここに重要なポイントが記されています。私たちが人間同士お互いに近づく前になすべきことがあります。それは、キリストによって、御霊において、父のみもとに近づくということです。「キリストによって」とは、十字架の贖いです。また、「御霊において」とは御霊による新生です。それらのことによって、私たち父なる神様のところに近づくことができるのです。私たちは父なる神さまを持っていることにより、神の家族であり、1つになることができるのです。これはどういうことでしょうか?私たちは地上の父と母から肉体的に誕生しました。同時に私たちは罪の中で失われていた存在でした。しかし、愛なる神さまは御子イエスを与えて、私たちを買い戻してくださったのです。私たちはイエス様を信じたとき、霊的に生まれ変わり、御霊によって「アバ父よ」と呼ぶことができるようになりました。しかし、横を見ると自分と同じようにイエス様を信じて、霊的に生まれ変わった人たちがいます。その人たちが兄弟姉妹であり、神の家族なのです。私たちは永遠の滅びから救われ、永遠の御国で共に暮らす運命共同体ということができます。そのことが分かると、人種、国籍、性格、考え方、好みの違いというものが二次的なものになります。私たちは、かつては罪人でしたが、今は同じ神さまを父と仰ぐ、神の子どもであり神の家族なのです。

 神の家族として、最も重要な戒めとは何なのでしょうか?イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ1512と言われました。ヨハネもこのように言いました。Ⅰヨハネ4:7「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」ですから、神の家族である教会でもっとも大切な戒めは「互いに愛し合う」ということです。この愛は、アガペーの愛であり、人間の愛ではありません。人間の愛は好き嫌いのレベルです。しかし、アガペーの愛は無条件の愛であり、神さましか持っていない愛です。ですから、私たちはたえず神さまからアガペーの愛をいただいて、互いに愛し合うのです。私たちは罪の中にいたことがあるので、どうしても「この人のここがヘン」「この人のここが赦せない」とさばいてしまいます。それはアガペーの愛と反対のものです。私たちは天国に行くまで不完全であり、工事中です。工事現場にかかっている看板のように、「工事中、ご迷惑をおかけします」と、お互いに頭を下げている存在です。つまり、教会は自ら愛を学ぶところであって、人から愛を要求するところではありません。どうぞ、イエス様が私たちを愛されたように、互いに愛し合いましょう。

2.聖霊の宮

エペソ2:20-22「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」神の家族で最も大切なことは「互いに愛し合う」ということでした。教会はそれだけで良さそうなのですが、神の家族では表現できないものがあります。それはともに建てられ、神の御住まいになるということです。Ⅰペテロ15「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」とあるように、私たち一人ひとりは生ける石です。普通の石は人格がありませんが、生ける石は人格もあり感覚もあります。そういう石が組み合わされて、神の御住まい、神殿になるということです。旧約聖書では神殿は山から石を切り出して、加工して積み上げました。一方、新約の私たちは生ける石ですが、とがった石もあれば、ざらざらした石もあります。やたら大きな石もあれば、長細い石もあるでしょう。そのままでは、神殿の石として使用することができません。そのために、削って形を整える必要があります。その後、生ける石が互いに組み合わされて神殿となって、そこに聖霊なる神さまが住んでくださるのです。エペソ人への手紙を読むと分かりますが、神さまの永遠の計画は、私たちの中に住むということでした。旧約聖書では石でできた神殿でしたが、新約聖書において神さまは、生ける石が組み合わされて、その中にご自分が住むことを願っておられます。

 この建物は、どのような構造になっているでしょうか?パウロは、「礎石はキリスト・イエスご自身である」と言っています。Ⅰペテロ27「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のです。礎石の上には建物の土台が必要です。パウロは、「使徒と預言者という土台の上に建てられており」と言っています。使徒と預言者は、聖書のみことばと言い換えることができます。当教会は誤りない神のみことば聖書に土台する教会です。ところで、生ける石を取り扱う専門家がいます。エペソ411-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。生ける石を取り扱う専門家を五職と呼んでいます。まず、石を現地から調達する人は伝道者です。伝道者は自らも伝道し、聖徒たちにも伝道するように勧めます。次には石を形作る人が必要です。それは、教師の役目です。教師はみことばをノミにして出っ張ったところを削ります。カキーン、生ける石は「痛い!」と叫びます。教師は自らも教えますが、互いに教え合うように指導します。その次は、石を積み重ねる仕事があります。これは牧師の役目です。牧師は自らも牧会しますが、聖徒たちにも互いに牧会するように勧めます。さて、建物を建てるときは、監督がいるものです。監督とは建築者と品質管理者です。建築者は建物全体のことを良く知っています。建物が設計図通り建てられているか見るのは使徒の役目です。使徒は教会の永遠の目的を知って、自らも教会を建て、聖徒たちにも教会を建てさせます。最後は、品質管理の監督です。これは預言者の役目です。預言者は教会が罪から離れ、神のみこころに従っているかどうかチェックします。自らも預言しますが、聖徒たちにも預言することを勧めます。

十数年前から、セルチャーチ・ムーブメントが起こりました。その少し後、ハウスチャーチ・ムーブメントが起こりました。彼らが良く引用する聖句はマタイ1820です。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」彼らと言うと他人事になりますが、私も片足を突っ込んでいます。このみことばから、「二人三人が教会の最小単位であり、二人三人でも教会なんだ」という考えが生まれます。そのため、ハウスチャーチの人たちは、少人数でも教会なのだからと、洗礼や聖餐を行ないます。それを見て、伝統的な教会は「聖礼典は牧師がすべきでしょう!」と反対します。しかし、聖書には「牧師が聖礼典をすべきだ」とは書いていないのでどちらも間違いではありません。ただし、「二人三人の集まりが果たして教会と言えるだろうか?」ということです。別な言い方をすると、生ける石がたった十個集まって、神殿ができるかということです。部屋なら可能ですが、建物は無理です。建物はいろんなパーツが必要であり、一部屋しかない建物はさびしいです。玄関、リビング、台所、寝室、子ども部屋、物置…それらが集まって一個の建物になります。ですから、「セルが教会だ」とか、「ハウスチャーチが教会だ」と言う人もいますが、聖書的にはそれらを部屋と呼ぶべきではないかと思います。部屋と部屋が組み合わさって、完全な建物になるのです。しかし、彼らが教会を烏合の衆ではなく、命のつながりを強調したことはすばらしいことです。

 聖書を見て分かりますが、神さまは聖霊によって、私たち個人の中におられます。同時に、私たちの間、つまり共同体の中にもおられます。Ⅰコリント316「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」「あなたがた」と、複数形になっています。また、「宿っておられる」とは、英語の詳訳聖書は、permanent dwelling in you「永続的に住んでくださる」と訳しています。私たちの中に住むことが神さまの永遠の目的でした。でも、それは天国に行ってからではなく、この地上の教会で実現しているということは何とすばらしいことでしょう。私たちは教会を単なる集まりと考えてはいけません。私たちの間に神さまが住んでいてくださるからです。やがてこの集まりは、黙示録に記されている天のエルサレムに合流し、組み合わされるでしょう。世の中にはいろんな組織や団体があります。教会は、学校、企業、政治、サークル、市民運動、NPO、宗教団体などとは違います。どこが違うのでしょう?三位一体の神さまが私たちの中に住んでいてくださるということです。神さまが、クリスチャンの集まりをご自分の住まいとしてくださるとは何と言う特権でしょう。ハレルヤ!私たちは神の神殿なのです。

3.キリストのからだ

エペソ120-23「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」教会が神の家族であるとき、私たちは互いに愛し合うことを第一にするでしょう。また、教会が聖霊の宮であるとき、私たちが互いに建て上げ、整えられることを第一にするでしょう。でも、これらの2つだでは、教会が自分自身のためだけにしか存在していません。3つ目の概念は、教会はキリストのからだであるということです。もし、教会がキリストのからだであることを知るならば、教会が何のためにこの世に存在するか分かるでしょう。ただ今読んだ、エペソ人への手紙1章から少し考えてみたいと思います。テキストには「復活したキリストはどのような存在ですか?」という質問があります。みことばから、キリストは父なる神の座に着いておられ、すべての支配、権威、権力、主権の上にあります。また、キリストはいっさいのものの上に立つかしらであります。次の質問は「教会(私たち)のかしらはだれですか?」とあります。教会のかしらは、主イエス・キリストであります。教会の歴史の中で、教会のかしら、首長はだれかという論争がありました。教会のかしらは教皇でも、女王でもありません。また、聖職者や長老、教団でもありません。教会のかしらはイエス・キリストであります。教会はすぐこの世と同じような組織に逆戻りする傾向があります。なぜなら、肉は目に見えるかしらを求めてしまうからです。

 もし、キリストがかしらであるならば、私たち教会は何なのでしょうか?これはものすごく重要な質問です。キリストが教会のかしらであることは間違いありません。では、キリストのからだとは何なのでしょうか?そうです。私たち教会がキリストのからだなのです。イエス様は復活、昇天し、罪の贖いを果たしたはずです。でも、イエス様にはやり残した使命があります。それを教会というご自身のからだでなさりたいのです。Ⅰコリント12章には、私たち一人一人はからだの各器官であると書かれています。手、足、目、口、耳、頭などがあります。弱い器官もあれば、強い器官もあるでしょう。目立つ器官もあれば、あまり目立たない器官もあるでしょう。パウロはそういうからだの器官は、御霊が与えてくださった霊的賜物であると言っています。それは自分の意志ではなく、御霊の主権で一人一人に与えられています。その目的は全体の益になるためです。また、それはかつて2000年前、イエス様が地上でおられたときのみわざを教会が継続して行うためでもあります。私たちはイエス様が再び地上に戻って来られるまで、この世に向かって、イエス様のからだとしてなすべき使命があるのです。テキストにこのようにまとめられています。キリストは復活・昇天した後、すべてを治めるかしらになられました。では、キリストのからだはどこにあるのでしょうか?それは、イエス様を信じて生まれ変わった人たちこそが、キリストのからだなのです。かつてイエス様がこの地上でミニストリーをされた同じことを、からだである教会が継続して行うように求められていますいっさいのものをいっさいのものによって満たす」とは、この世のすべての分野にということです。神さまはご自分の良きものを、教会という器を通して、ビジネス、政治、芸術、医療、教育などすべての分野に満たしたいのです。だから、教会はこの世から孤立せず、むしろこの世に派遣されていく、御国の大臣、ミニスターなのです。アーメン。

キリストのからだの器官として大事なこととは何でしょう?エペソ415-16「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」もし、私たちの各器官が自分勝手に動いたらどうなるでしょうか?右手と左手が別々に動き、右足と左足が別々に動いたならどうなるでしょうか?もし、そういうロボットを作るならば、ポンコツ・ロボットです。意外にも、教会はポンコツなところがあります。なかなか協力しあって、活動するということが困難です。私たちはだれに聞くべきなのでしょうか?私たちのからだの各器官はだれの命令で動いているのでしょうか?そうです。脳であり、かしらです。教会のかしらはイエス・キリストであり、イエス・キリストがすべての司令官であることを知るべきです。だから、各器官はキリストに聞くべきです。「キリストに聞け!」これを教会は忘れてはいけません。役員会でも教会総会でも、「キリストに聞け!」であります。各器官にとって最も重要なことは、キリストに聞いて、組み合わされ、結び合わされることです。サタンはこのことが一番嫌いです。だから、教会に分裂を与え、一致しないように邪魔しています。そして、各器官が孤立して行うので、小さな働きしかできません。テキストには「私たちが建てられていくために、最も必要なものは何ですか?」とあります。それは、他の器官に対する互いの愛です。私たちの器官を見ても分かりますが、それぞれ形が違います。働きも違います。得意なところもありますが、不得意なところもあります。同じように、私たちが隣人を見たとき、形や働きや性格や好み、考え方も違います。でも、共通しているのは同じ御霊をいただき、同じ御霊によって生かされているということです。同じ神からのいのちをいただいているということです。ハレルヤ!「私はいやだ、勝手にやる」と、1つの器官がからだから離れるならどうなるでしょう?血液も神経も届かなくなり死んでしまいます。同じように、孤立して、信仰生活を続けることは不可能です。もちろん救いがあるのですから天国は生けるでしょう。でも、キリストの働きを、生き生きとこの地上で行うことは不可能です。私たちは、互いにコミュニケーションを取り合い、働きの違うものどうしが協力し合い、キリストにあって1つであるという認識が必要です。お互いに、違いがあること尊重しましょう。お互いに、組み合わされるべき存在であることを認めましょう。

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2015年4月17日 (金)

助け主、聖霊 ヨハネ14:16-17 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.4.19

日本の教会は、聖霊のことをほとんど言わない教会もあれば、聖霊を過度に強調するグループもあります。なぜ、ある教会は聖霊のことを言うのを避けるのでしょう?それは聖霊の賜物による混乱を恐れるからです。私は保守的な教団の神学校に2年通いましたが、母教会はカリスマ派でしたので両方の立場を知っているつもりです。聖霊の賜物も重要ですが、神であられる聖霊が与えられていることをもっと喜ぶべきです。聖霊の賜物については、次の『本当の弟子』というところで学びたいと思います。

1.聖霊とはだれですか?

ヨハネ1416「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」もう一箇所、お読みいたします。ヨハネ167「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」「養育を受ける」のテキストに従いながら質問したいと思います。 

第一、「元来、『助け主』とはだれのことなのでしょうか?」旧約聖書では「神の霊」として記されていますが、新約聖書では「聖霊」という名前で出ています。あるいは「御霊」と呼んでいる箇所もあります。聖霊を「助け主」という名前でイエス様が紹介しているのは、ヨハネによる福音書だけです。

第二、「このところで聖霊は何と呼ばれているでしょうか?」イエス様は「もうひとりの助け主」と言われました。弟子たちにとって「助け主」はイエス様でした。「もうひとりの」というギリシャ語は、「姿かたちが同じでありながら、別の人格の」という意味です。たとえば、ここに2枚のCDがあります(昔はビデオテープ)。見た感じ2枚とも同じでありますが、別々の存在であります。3枚持ってくると、三位一体を説明することができます。正面から見ると1枚ですが、真横から見ると3枚に見えます。また「助け主」はギリシャ語ではパラクレートスと言いますが、「援助者として呼ばれたる者」という意味です。聖霊はあなたを助けるために父が遣わされた、もう一人の(別の)助け主なのです。聖霊は単なる力ではなく、私たちと同じような人格を持っておられます。つまり、知性、感情、意思があり、悲しんだり、喜んだりするということです。

第三、「聖霊とイエス様とではどこが同じで、どこが違うのでしょうか?」能力が同じで、位格(人格)が違います。厳密にいうならば、地上におられた時のイエス様は肉体を持っておられました。そのため、いろんな限界がありました。しかし、聖霊がイエス様のうちに宿っておられたので、病の癒しや奇跡を行なうことができたのです。

第四、「だれが、どこから聖霊を遣わすのでしょうか?」イエス様が天にお帰りになって、父なる神のもとから遣わされました。そのことが使徒の働きに記されています。使徒233ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」簡単に言うとイエス様と聖霊がバトンタッチしたということです。私たちのところに来られた聖霊は、旧約聖書の聖霊とは幾分違います。どこが違うかというと、一時、イエス様の内側におられたことがあるという点です。ですから、聖霊のことを「キリストの御霊」と呼ぶこともあります。イエス様の内側におられたことのある聖霊が、私たちの内側に住むということはすばらしいことではないでしょうか?2000年前、弟子たちにとってイエス様が助け主であったように、聖霊が私たちにとって助け主だということです。ハレルヤ!私たちが「イエス様」と助けを求めているとき、実はキリストの御霊である聖霊が助けておられるのです。

2.聖霊降臨(ペンテコステ)


ルカ2449「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」使徒21-4五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

第一の質問です。「弟子たちには何が必要だったのでしょうか?」いと高き所から力を着せられることでした。「いと高き所」とは、神さまがいらっしゃる天からという意味です。旧約聖書にエリシャという預言者が出て来ます。彼は力を得たいがためにエリヤの後をどこまでも追いかけました。エリヤがたつ巻に乗って天に上って行ったとき、彼の外套が天から落ちて来ました。エリシャは自分の着物を裂き、その外套を拾い上げました。その後、エリシャはエリヤ以上の奇跡を行なうことができました。同じように2階座敷にいた弟子たちは、力としての聖霊を上から(upon)受けることができました。私は聖霊のバプテスマという用語は誤解を招くのであまり使いません。2階座敷にいた弟子たちは、上から(upon)と内に(in)が同時に起こったのではないかと思います。

第二、「約束の聖霊はいつ地上に注がれたのでしょうか?」ペンテコステの日です。イエス様が復活してから50日目です。「五旬節の祭り」とも呼ばれ、大麦の収穫が終わり、これから小麦の収穫が始まります。その日、霊的な初穂である教会の群れが誕生しました。旧約時代にも聖霊はおられました。サムソンやダビデも聖霊を受けていました。しかし、彼らは聖霊を上から(upon)受けていましたが、内(in)には受けていませんでした。だから聖霊は一時しかおられなかったのです。ペンテコステ以降は、聖霊がキリストを信じる人にもれなく、永遠に住んで下さることになりました。これはすばらしい恵みではないでしょうか?ルカ福音書には、私たちが求めるべき最も良いものは聖霊であると記されています。


第三、「聖霊はどのようなものにたとえられているでしょうか?」「激しい風」あるいは「炎」として例えられています。ヨハネ3章には「聖霊が風のように思いのまま吹く」と書かれています。つまり、聖霊は私たちの目で見ることができないし、私たちがコントロールできません。イエス様のときは、聖霊は鳩のように下って来られました。ところが、使徒の働きでは、激しい風と燃える炎のようにやって来ました。チャールズ・スウィンドルという人は、「弟子たちが聖霊の火を受けたとき、内側にあった醜い罪が焼き尽くされ、灰のようになった」と言いました。みなさん、灰には何の魅力もありません。しかし、灰は聖霊の風によって、自由に動かされます。私たちの自我や肉が聖霊の炎によって焼き尽くされるとき、はじめて神さまが用いることができるのではないでしょうか。

第四、「弟子たちはどのように変化したでしょうか?」「聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」と書いてあります。ペンテコステ派の人たちは、これは「異言だ」と言います。福音派の人たちは「外国のことばだ」と言います。この箇所を見ると、騒ぎで集まって来た人たちが、自国のことばで福音を聞くことができました。ということは、「地の果てにまでキリスト証人になる」という世界宣教のためのしるしだったと考えることができます。確かに聖霊は力として注がれました。しかし、その力とはキリストを証するための力でした。その後、もう一度、弟子たちは聖霊に満たされました。使徒4章を見ると、彼らは迫害をも恐れず、大胆に福音を語るように変えられたことがわかります。つまり、聖霊を受けるのは異言によって神さまと親しく交わるだけではなく、福音を大胆に語る者と変えられるということです。聖霊は自己満足のためではなく、宣教の霊であり、神さまの働きをするための霊だということです。


3.聖霊の内住


ローマ89「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。ローマ814-16「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」

第一の質問「だれの内に御霊(聖霊)が住んでおられるのでしょうか?」キリストを信じている人です。パウロは「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と言っています。つまり、キリストを信じている人はもれなく聖霊を内側にいただいているということです。以下のような問答がクリスチャンの間で良くあります。ペンテコステ派の人たちは「あなたは聖霊を受けていますか?」と質問します。福音派の人は「はい、受けていますよ?」と答えます。すると、「いつですか?」と聞きます。「はい、信じたときです」と答えます。すると、「まさか、そんなことはないでしょう?では、あなたは異言を語ることができますか?」と聞きます。「いえ、異言は出ません」と答えます。すると、「いや、あなたは聖霊を受けてはいません」と言われるでしょう?二人の会話はとてもちぐはぐです。ペンテコステ派の人たちが「聖霊を受けましたか」と聞くのは、「聖霊のバプテスマを受けましたか?聖霊を上から受けましたか?」と聞いているのです。それに対して、福音派の人は「はい、信じたとき聖霊を内側にいただきましたよ」という意味なのです。ですから、「聖霊を受ける」とか「聖霊のバプテスマ」は通じない場合が多いということです。両者に問題があります。聖霊はキリストを信じたときに内に(in)いただきます。さらに、聖霊を上から(upon)受ける必要があります。コルネリオのように信じた時に受ける人もおれば、エペソの人たちのように後から受ける人もいます。私も長い間、混乱がありました。しかし、ウィットネス・リーの『命の経験』という本を読んでやっと納得しました。私は「聖霊のバプテスマ」はペンテコステに成就した出来事であり、繰り返す必要がないと信じています。ただし、個人が聖霊を内だけではなく、上から受ける必要があるということは信じています。


第二は、「『アバ、父よ』と神さまを呼べるのは、だれの働きのゆえですか?」神の御霊の働きのゆえです。私たちがイエス様を信じたら、聖霊が「あなたは神の子どもになりました。だから、神さまをアバ、父よと呼んで良いのよ」と教えてくれます。エペソ1章には「約束の聖霊をもって証印を押された」と書いてあります。昔、王様が大事な手紙を書くとき、閉じた合わせ目に蝋を垂らし、そこに指輪で証印を押しました。その手紙が受取人の手元に届くまでだれも開封することができません。もし、途中で封を開けたらその人は死刑に処せられます。私たちも神さまのもとへ行くまで、封印されているので、どんな被造物も私たちから救いを奪い取ることができません。私たちクリスチャンは神さまのもの、神さまの子どもなのです。ハレルヤ!

第三、「あなたが救われている(神の子となっている)ことをあかしするのはだれでしょう?」 御霊ご自身と私たちの霊です。日本語の場合、内におられる聖霊を「御霊」というふうに書いています。しかし、ギリシャ語の聖書では私たちの霊なのか、神の霊なのか区別をつけることができません。多くの場合、文脈から「こっちは御霊で、こっちは霊かな」と分けているのです。たとえばガラテヤ5章に「御霊によって歩みなさい」あるいは「御霊に導かれて、歩もうではありませんか」とあります。実際のところ、神の霊なのか、私たちの新生した霊なのか分からないのです。ウィットネス・リーは「両者が混じり合っている」と言っています。


第四、「あなたの内に聖霊はおられますか?また、その理由は何ですか?」神さまを「アバ、父」と呼べること、神さまを「天のお父様」と呼べることです。神さまを「お父様」と呼べることを当たり前だと思ってはいけません。私たちがイエス様を信じたとき、聖霊によって新生し、私たちの霊の部分に臨在してくださいます。そして、私たちの霊に「あなたは神さまの子どもになったのだから、神さまをお父さんと呼んで良いんだよ。恥ずかしがらずに、大胆に呼びなさい」と勧めてくださるからできるのです。ハレルヤ!

 テキストのまとめの部分をお読みいたします。ペンテコステ以来、主イエスを信じてクリスチャンになったなら、もれなくその人の内側に聖霊がおられます。聖霊は私たちの霊に臨在し、私たちの魂に語りかけます。最初は自分の声なのか、御霊の声なのか分かりませんが、経験とともに分かるようになります。御霊はみことばを悟らせ、神さまがどう思われているのかまで示してくださいます。私たちの態度としては、聖霊がご人格を持った神であることを認め、このお方にすべてをゆだね、全面的に従うことを祈る必要があります。そうすれば、聖霊はいつでも、あなたに語りかけ、強い御腕をもって、あなたを導いてくださるでしょう。


4.聖霊の主な働き


ヨハネ1613-15「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」

第一の問いです。「聖霊は何と呼ばれていますか?」「真理の御霊」と呼ばれています。

第二、「聖霊は私たちにどんなことをしてくださいますか?」「すべての真理に導きいれる」と書いてあります。つまり、聖書のことばを理解させてくださるということです。でも、それだけではありません。イエス様から受けたものを知らせてくれます。また、やがて起ころうとしていることを示してくださいます。聖霊を私たちの頭で限定してはいけません。私たちにかくされていることも、将来のことも教えてくださるということです。


第三、「聖霊が最も現したいことは何でしょう?」「キリストの栄光を現わすこと」です。ある方々は聖霊を強調するあまり、自分たちは「聖霊派です」と言います。ある人は「聖霊様おはようございます」と言います。悪くはないと思います。でも、聖霊はとても謙遜で、自分ではなくキリストの栄光を現わしたいと願っておられます。私たちが「イエス様!」と呼んだならば、同時にそれはキリストの御霊である聖霊にも語りかけているということです。


第四の問いです。「聖霊があなたの傍らで、聖書のみことばを教えてくださることを信じますか?」ある人たちは、勝手に聖書を読むと間違えるので、牧師の教えのもとで、あるいは注解書を見ながら読むべきだと言います。もちろん、異端には注意すべきです。しかし、多くの場合聖書は読めばわかるようになっています。かえって理性中心の合理的な解釈を持ち込むと混乱します。聖書は聖霊が原著者ですから、聖霊に聞くのが一番です。聖霊は真理の御霊として、あなたの傍らにいて家庭教師のように親しく教えてくださいます。


私は1979年の6月に座間キリスト教会で洗礼を受けました。その年の2月に大川牧師が聖霊体験をされ、教会が喜びと活気に満ちていました。翌年、ホーリネス教団の神学校に入学しました。そこで、「座間キリスト教会はおかしい。異言を話したり、癒しをしている」と聞きました。その教会から通っていましたので、針のむしろみたいな経験をしました。卒業後、夕拝や早天礼拝で説教の奉仕をするようになりました。大川牧師が説教に対する評価が厳しいので、準備がとても大変でした。いろんな注解書を読みあさり、苦心してなんとか仕上げるという状態でした。数年間、そういうことを続けましたが、注解書を読めば読むほど、頭が痛くなりました。知識を得れば得るほど、恐れも増し加わりました。他の人の借り物で、全く力がありませんでした。ある時、準備したものを全部捨てて、床に平伏しました。目をつぶって、「このところから何を語ったら良いのか」神さまにお聞きました。それから私の説教スタイルが変わりました。それでも、聖書を人々に語るため、あるいは教えるために読んでいました。1990年、亀有教会に赴任して3年目、ディボーションに触れました。ディボーションというのは、聖書をありのまま観察し、そこから教えをいだだくシンプルなものでした。そこで、教えられたのが「真理の御霊」でした。真理の御霊が教えてくださることを信じて、恐れないで聖書をそのまま読むことにしました。そうすると本当に、聖書が面白くなり、文字が浮き出てくるような感じがしました。それから、説教の準備の仕方が全く変わりました。聖書を何度も読んで観察し、気づいたことを書き留めます。ギリシャ語や英語の聖書も読みますが、注解書や他の本は見ません。その後、目をつぶりみことばを瞑想します。そうすると、何を言うべきなのか、ポイントが見えてきます。目を開けて、忘れないうちにそれらを紙に書き留めます。その後、注解書や他の本、人々の例話を付け加えます。聖霊様が私にメッセージをくださったという確信があります。それから、私の説教スタイルが変わりました。


テキストのまとめの部分をお読みして終えたいと思います。聖霊は三位一体の神さまです。単なる力ではなく、ペルソナ(人格)がおありです。キリストの御霊として聖霊が自分自身の中に宿っておられることを認めましょう。クリスチャンになるとわかりますが、聖霊は様々な霊的な賜物を与えてくださいます。ですから、多くの場合、聖霊というと働きの方に目が行きがちです。でも、聖霊はキリストを証しし、キリストの栄光を現すお方として来られたことを忘れてはいけません。聖霊の働きを強調する教団や団体は、聖霊とキリストを分けて考えますが、そうではありません。御子イエスさまがいつでも御父を示したように、聖霊はいつでもキリストをお示しになられるのです。聖霊はみことばを悟らせてくださる真理の御霊として、あなたと共におられます。聖霊はみことばを通して語られますが、他のことについても語りかけてくださいます。聖霊の御声を聞いて、聖霊によって歩みましょう。

 

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2015年4月10日 (金)

神に祈る ヘブル4:14-16 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.4.12

 

 世界中の人たちが何らかの神さまに祈っていると思います。たとい、無神論の人であっても、肉親の死が迫っているときなどは祈るのではないでしょうか?問題は「だれに、だれのお名前によって祈るか」であります。もし、そこに祈りを聞いてくださる確かなる神さまがいなければ、空しい叫びに終わってしまうからです。日本人は「いわしの頭も信心から」と言いますが、信じる対象よりも、信じる心が大事だと思っています。しかし、私たちのことを心配してくださる、全知全能の神さまがおられたなら、からし種ほどの信仰でも大丈夫なのであります。きょうは、「神に祈る」と題して、祈りの基本について学びたいと思います。

 

1.神さまとの交わり

 

祈りは端的に言うと、神さまとの交わりであります。神さまに語り、神さまに聞くということを交互に行うことです。残念なのは神さまが肉眼で見えないことと、神さまの声が肉声で聞こえないことであります。だから、どうしてもそこには信仰が必要です。どういう信仰かと言うと、私たちの祈りを聞いてくださるお方が確かにいらっしゃるという信仰です。さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル414-16また、「養育」というテキストにあるいくつか質問をしながら進めたいと思います。

 

第一の質問、「神の子イエス様は、あなたに対してどのようなお方でしょうか?」ヘブル4章には「もろもろの天を通られた偉大な大祭司であり、私たちの弱さに同情してくださるお方」と書いてあります。「もろもろの天」とは何でしょう。聖書では3つの天のことが記されています。第一の天とは私たちが住んでいるこの地上です。目に見える物質があり、自然科学の法則が通用するところです。第二の天は、霊的な世界で悪霊や天使が動き回っている領域です。エペソ2章には「空中」と書いてあります。第三の天は、神さまがおられるところ、つまりは神の御座です。使徒パウロは第三の天にのぼり、直接、神さまからの啓示をうけたようであります。イエス様は大祭司になるために、第三の天から、第一の天に肉体を持ってこられました。死んで陰府に下って第二の天に行かれました。そして、復活昇天して、もとおられた第三の天の御座に座られました。現在、イエス様は大祭司として私たちをとりなし、王の王として支配しておられます。

 

第二、「私たちは神さまから何を受けることができるのでしょうか?」私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けることができます。あわれみと恵みは若干異なります。ウォッチマン・ニ―はこのように教えています。「あわれみは特に旧約の言葉で、恵みは特に新約の言葉である。あわれみは、あなたの現在の状態の哀れさについて語ります。そして、恵みは将来の状態、すなわち将来あなたが救われてもたらされるであろう輝かしい前途について語ります。」よく分かったでしょうか?つまり、あわれみは消極的で、恵みは積極的だということです。私は「罪を犯して申し訳ないなー」と思っているときに、主のあわれみを求めます。イエス様は十字架の上で「あわれみそのもの」となられました。だから、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。ハレルヤ!

 

 第三、「私たちが大胆に神さまの恵みの御座に近づくことができるのは何故でしょう?」ヘブル書には「すべての点で、私たちと同じように試みに会われた大祭司がおられるから」と書いてあります。イエス様は天からこの地上に来られ、肉体をもって生まれてくださいました。赤ん坊、子ども、青年、大人として成長されました。大家族の長男で、大工であったヨセフの仕事を継ぎました。イエス様は人間として疲れ、飢え、渇きを経験しました。もちろん、イエス様は私たちたちの同じように、泣いたり、嘆いたり、喜んだり、笑ったりしたのです。悪魔の試みや人々のあざけりや裏切りも経験しました。イエス様は神さまですから前から全部ご存じでしたが、私たちのことを同情できるために自ら体験されたのです。英語で「その人の身になって考える」ことを、「その人の靴に足を入れる」と言います。イエス様は今でも私たちの靴に足を入れれてくださいます。だから、飾らず、気落ちせず、恵みの座に転がり込むことができるのです。福音書に全身らい病の患者が出て来ます。現代では、らい病は差別用語で、聖書では「ツァラト」とヘブル語をそのまま使っています。当時は、らい病は恐ろしい病気で、だれもさわることができませんでした。彼は「お心でしたら、きよめていただけるのですが?」とイエス様の前に来てひれふしました。まさしく、彼はイエス様の前に転がりこんだのです。イエス様は手をのばして彼にさわり、「私の心だ。きよくなれ」と言われました。イエス様はことばだけではなく、彼にさわったのです。彼のような行動こそが、主の御座に近づくことなのです。

 

第四、「では、祈りは簡単に言うなら、何なのでしょうか?」りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことです。敬虔なクリスチャンなら、「そんなの困ったときの神頼みだ」と軽蔑するかもしれません。しかし、人間とはそういうものです。本当に困らないと、神さまの前に出て祈らないのです。もう、八方塞がりでどうにもならないときに、初めて祈るのです。でも、そういう祈りでも神さまは聞いてくださいます。そういうことを体験した人は、次からは、困る前にお祈りしようと思うのです。

 

 テキストはこのようにまとめています。祈りとは神さまとの会話、交わりです。神さまと私たちの間の障害となる罪を、大祭司であられるイエス様がご自身の血潮によって取り除いてくださいました。ですから、私たちは神さまの子どもとして、大胆に恵みの御座に出ることができます。イエス様の血潮によって、私たちの良心がきよめられ、大胆に神さまに近づき、何でも申し上げることができるとは何と幸いでしょう。祈りは宗教的な義務ではなく、すばらしい神の子としての特権です。また、祈りは礼拝や公の席だけでするものではなく、奥まった部屋から始まります(マタイ66)。そこでは、ダビデのように、主の前に何でも申し上げることができます。祈りは私たちの信仰を引き上げ、私たちの内側も主のように変えられていきます(Ⅱコリント317-18)。アーメン、主と親しく交わると、私たちも主の御姿へと変えられていくのです。

 

2.求める祈り

 

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ119-13

 

第一の質問、「最も端的な祈りとは何でしょう?」とあります。祈りは端的に言うと、神さまに求めることです。イエス様は子どもが父親に願うように、何でも求めて良いとおっしゃっています。そして、父なる神さまは最も良いものを与えて下さると約束しておられます。しかし、霊的に私たちが成長していくとどうなるでしょうか?特に必要がなくても、神さまと常に交わるようになります。また、他の人の必要のためにとりなすようになります。とりなすとは、他の人の必要のために代わりに祈るということです。そうなったら霊的な大人になった証拠です。

 

第二、「まるで、宇宙の法則のように堅く定まった法則とは何でしょう?」多くの人たちは、罪がきよめられたクリスチャンでなければ祈りが聞かれないと思っています。ここには、「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる」と書いてあります。「だれでも」であります。ある新興宗教の人たちは、朝から晩までタイコをたたいて祈っています。商売が繁盛するように、病気が治るように祈っています。では、彼らの祈りが全く聞かれないか、というとそうではありません。新興宗教になぜ多くの人たちが集まるのでしょうか?実際に、商売が繁盛し、病気が治るからです。その点、私たちクリスチャンは貪欲さが足りません。「御心ならばお願いします。ご迷惑になるでしょうから、もし御心でなければ結構です」と祈ります。私もたまに、「お手すきなときで結構ですから?」と頼まれたりします。「ああ、謙遜な人だなー」と思いますが、どこかに「ついでの時で良いんだな」と気を抜いてしまいます。でも、「先生、すぐ必要なんです」と言われたならどうするでしょうか?昨年のクリスマス「明日、アナのジェット機が必要なんです。先生、賜物があるんですから作ってください」と言われました。期待とプレッシャーを感じて「すぐ済ませようか」と思いました。神さまにプレッシャーをかけてはいけませんが、「求める」とギリシャ語には、credit(要求する)という意味もあります。イエス様はヨハネ1414で、「あなたがたが、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう」と言われました。ここに一度来られたことのあるメル・ボンド師は「もし、なかったなら、作って出してあげますという意味です」と教えてくれました。私たちの神さまは無から有を生み出す神さまです。ハレルヤ!私たちが大きいことを本気で願うならどうでしょうか?イエス様は「おお、私にそれができると思って願っているんだな」と、本気になって答えてくださるでしょう。

 

第三、地上の父と天の父の共通点は何でしょう?自分の子どもには良いものを与えるということです。イエス様は、「悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与える」とおっしゃっています。それは、泥棒を働いている父親でも、自分の子どもには良い物を与えるということです。ましてや、神さまは良き神さま、良き天の父です。なおさら、良いものを私たちに与えたいと願っておられるということです。私は子どもの時ひもじい思いをしました。着るものや持ち物も他の友達と比べると見劣りがしました。自分が親になって、「子どもには良い物を与えたいなー」と思います。昨年、ビル・ジョンソンと言う人がアメリカから来られ、このように教えてくれました。自分が立派な身なりをして、高級車に乗っている。しかし、子どもや妻がみすぼらしい生活しているなら、人々はどう思うだろうか?「ああ、わがままな父親であり、夫だなー」と思われるでしょう。つまり、子どもは親を反映しているということです。「私たちは神の子どもなのですから、それにふさわしい生活をしていいんです」と教えてくれました。

 

第四、天の父が私たちに最も与えたいものとは何でしょう?聖霊であります。リビングバイブルは「だとしたら天の父が、求める者に聖霊を下さらないなんてことはありえません。もってけ泥棒!」と訳しています。「もってけ泥棒」は私が付け加えたものです。聖霊が与えられるということは三位一体の神さまが私たちの内側に住んでくださるということです。このことは神さまの永遠の計画、永遠の目的でした。全宇宙を創られた神さまが、聖霊によって私たちの中におられることにまさる恵みはありません。なぜなら、神さまを持っているとは、全宇宙を持っていると同じだからです。

 

 テキストのまとめの部分をお読みします。「神様に求めるのは、他力本願的で良くない。一生懸命努力した上で、それでもだめったら祈るべきだ」という人がいます。また、ある人は「もう何もしてもダメだ。祈ることしかできない」と言います。では祈りは最後の1%にかけるような、最後の手段なのでしょうか。E.Mバウンズは、「『私に求めよ』とは、神がその働きを進歩させ、勝利をもたらせるための一条件である。キリストの王国での成功の秘訣は祈る能力である。祈りの力を用いる人はキリストの王国の強者であり、聖者である」と言いました。「求めよ、そうすれば与えられます」は宇宙の法則です。地上の父が、子どもに良いものを与えるように、天の父は良いものを与えたいと願っておられます。ルカによる福音書は、最も良いものとは聖霊であると教えています。なぜなら、聖霊は神さまご自身だからです。

 

3.主の名によって

 

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。(ヨハネ1623-24

 

①父とはだれの父ですか?

 

 キリストの父です。イエス様を信じると私たちの父にもなります。イエス様は神さまを「父と呼んでいい」とおっしゃいました。クリスチャンでも、神さまをお父様と呼べない人がいます。「神さま」「神さま」と呼んでいます。ある人は「ヤハウエ」とか「エホバ」と呼ぶ人たちもいます。もし、私の子どもが「鈴木靖尋さん」と読んだら、どういう気持ちがするでしょうか?「あれ、記憶喪失にもなったのかな?」と思うでしょう。「パパ」とか「おやじ」で良いのです。」パウロは「御霊によってアバ、父と呼ぶ」と言いました。「アバ」は「お父ちゃん」という意味です。

 

②だれの名によって求めるならば与えられるのですか?

 

 主イエス・キリストの名です。なぜ、イエス様の名で求めるのでしょう?イエス様は私たちの贖い主であり、仲介者です。父なる神様はイエス様の名で求められたなら、答えないではいられないのです。

 

③求めたらどうなるのですか?

 

 与えられます。

 

④その結果、どうなるのでしょう?

 

私たちの喜びが満ち満ちたものとなります。

 

 テキストの解説書にはこのように書かれています。日本中の人が祈っているでしょうが、イエス様の御名で祈っている人は少ないでしょう。イエス様の御名で祈るのは、的外れのような私たちの祈りでも、最善になるようにイエス様が神さまの前で執り成してくださるからです。この世では、悪しき力が支配しています。悪魔は空中の権威をもって、神に届かないように、私たちの祈りを迎撃しようとします。ですから、主イエス・キリストの御名を用いるときに、あたかもロケットが成層圏をやぶって宇宙に飛び出すように、神様のところに祈りが突き進んでいけるのです。10年くらい前に、新松戸教会の津村牧師が来られ、夜の集会を導いてくださいました。そのとき、アーメンの仕方を教えてくれました。「アー」でグルグルと錐もみをし、「メン」で槍のように突き抜けるということです。一緒にやってみましょう。「ア~~~」「メン!」。

 

4.感謝と賛美をもって

 

ピリピ46-7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」詩篇1004感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」

 

第一、「祈る前の状態はどのようなものだったでしょうか?」思い煩っていました。その人は、思い煩っていたので、「思い煩うな」と言われているのです。「クリスチャンになると悩みがない」と言う人がいますが、地上では悩んだり、思い煩うことがあります。特に、家庭を持つと自分ではなく、子どもたちのために思い煩ってしまいます。

 

第二、「願い事を神さまにどのように知らせるべきでしょう?」感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神に知っていただくということです。旧約聖書のレビ記には、油を添えたり、香をたくように書かれています。もし、私が人に何かを頼むときどうするでしょうか?いきなりは頼みません。「この間は、大変お世話になりました」と前のことを感謝するでしょう。神さまも同じで、いつも自分に要求ばかりしている人は敬遠したくなるでしょう。そうではなく、感謝をもってささげる祈りでありたいと思います。

 

第三、「そのように祈ったら、何が与えられるのでしょう?」人のすべての考えにまさる神の平安が与えられます。そして、心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。心というのは、感情です。恐れや不安やいらだちが消えて平安になります。また、思いというのはマインド、考え方つまり認知です。祈る前は、問題そのものに集中していました。しかし、祈った後は、問題の上におられる神さまに集中します。そうすると、「神さまにはできる」という信仰がやってきます。平安でおだやかな気持ちになると、「自分が今、何ができるか」分かってきます。小さな一歩を進むとき、神さまがさらに私たちを後押ししてくださいます。

 

マーリン・キャロザーズという牧師が『讃美の力』という本を書いています。ジムと言う人は長い間、アルコール中毒のお父さんのことで悩んでいました。なだめたり、脅したりいろんな手を使っても効果がありませんでした。あるとき、『讃美の力』を読みました。ジムは「お父さんのアルコール中毒のことを神さまに感謝しよう。いまの状態がお父さんの人生に対する神さまのすばらしい計画のうちにあるのだから、神さまに賛美しようじゃないか」と言いました。それから、すべてのことを一つ一つ神に感謝し、讃美を続けました。それからジムの父は自分の酒ぐせが問題だということをはっきりと認め、キリストに助けを求め、完全に癒されてしまったのです。どうぞ祈りの中に、感謝と賛美を混ぜ合わせてください。まだ、現実ではそうなっていないのに。さものようになったかのように感謝して祈ってください。そうすると、天の窓が開かれ、神さまの方から手が差し伸べられてきます。解決策は三次元の目に見える世界ではなく、目に見えない、神さまから与えられます。祈りは「神さまから解決を引き出す秘訣」と言って良いでしょう。

 

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2015年4月 3日 (金)

キリストの復活 ローマ4:24-25 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.4.5

 

 私は「イエス様の十字架は私の罪のためである」と信じて救われると思っていました。しかし、キリストの復活が私の救いとどのような関係があるかは分かりませんでした。極端に言うならば、「キリストの十字架の贖いを信じて救われるのに、さらにまたキリストの復活を信じる必要があるのか?」ということです。もちろん、私はキリストの復活は信じています。だけど、「救われるためにキリストの十字架だけで良いはずなのに、どうしてキリストの復活まで信じなければならないのか?」ということが良く分かりませんでした。きょうは、私たちが信じるべきことはキリストの十字架ではなく、キリストの復活であるということを申し上げたいと思います。初めにお断りしますが、この度、ウォッチマン・ニーが書かれた『神の福音』第一巻からかなり引用しています。そのため、普段よりも理屈っぽくなっていることを許していただきたいと思います。

 

1.死に渡されたイエス

 

 ローマ425前半「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」と書いてあります。クリスチャンなら、このみことばに対して異議を唱える人はいないでしょう。注意して読むと「私たちの罪のために」と一人称複数で書いてあります。「あなたがたのために」とか「全人類のために」とか「彼らのために」とは書いてありません。きょうこのところに、クリスチャンでない人もおられるでしょう。その方が「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され」た、と言えるでしょうか?おそらく、イエス様を信じていない人は、「きっと、だれかの罪のためでしょう?私のためではありませんよ」と答えるでしょう。注意深く聖書を読みますと「イエス様はすべての人のために死なれました」と書いてありますが、「すべての人の罪のために死なれた」とは書かれていません。もし、イエス様がすべての人の罪のために死なれたのだったら、信じる必要はありません。全世界の人が即座に救われることになるからです。

 

もう一か所、みことばを引用したいと思います。Ⅰヨハネ22「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」前半には「私たちの罪のため」とはっきり書いてあります。後半は「世全体のためのなだめの供え物」と書いてあります。これはどういう意味でしょう?キリストはすべての人のために死なれました。つまり、キリストの贖いは世の中のすべての人を包括しています。このような贖いには、救われていない者でさえみな含まれています。そもそも贖いというのは、人とは関係がありません。贖いのみわざは、神さまと罪の間のことです。神さまは愛なるお方なので、罪ある人類を救いたいと思われました。だからと言って、そのまま救うとご自身の義と反することになります。なぜなら、罪に対しては刑罰が必要だからです。そのため父なる神さまは、人類の罪を御子イエスに負わせ、御子を裁きました。御子イエスが十字架で罪を負って裁かれたので、神さまの義が満たされたのです。神さまは、主イエスを信じる人に、神の義と救いを与えることにしました。つまり「キリストの十字架は私の罪の身代わりだった」と言える人に限定されます。贖いは神さまの御前のものです。一方、「身代わり」は私たち信じて救われている人たちに言えることです。人が主イエス様を受け入れる時、その人の罪の問題は解決されます。これが身代わりです。言い換えると、贖いは成就されましたが、救いは成就されていないのです。

 

 教会ではクリスチャンでない人を「未信者」と言いますが、「未だ信じていない人」と書きます。表だっては言いませんが、頭の中では分けています。「求道者」と呼ぶ場合もあります。「道を求める者」と書きます。表だっては言いませんが、頭の中では分けています。でも、大歓迎です。私たちクリスチャンもかつてはみな、「未信者」、「求道者」だったからです。もう一度、本題に戻りますが、贖いは神の御前のものです。身代わりは私たちのためです。贖いは神の要求を満たし、身代わりは私たちに益をもたらしてくれます。イエス様が成されたのは贖いです。私たちが受けたのは身代わりです。つまり、身代わりに関するすべての教えはすべて、クリスチャンに対するものであって、未信者のためではありません。私たちは未信者に対しては、「イエス様はあなたがたのために死んで、贖いを成就されました」と言います。そして、クリスチャンに対しては、「主イエス様が私たちの身代わりとして罪を担われました」と言います。

 

さきほど「贖いは成就されましたが、救いは成就されていない」と申し上げました。贖いは2000年前に起こりました。贖いはキリストによって成就されました。でも、救いは現在のことであり、私たちにおいて実現されます。キリストの贖いは、神さまの義が満たされるためでした。贖いのみわざは、神ご自身を満足させました。しかし、私たちが来て、神さまのなさったことを見て、それを信じ受け入れる時、私たちはこの身代わりを受け入れます。たとえば、新聞広告に電化製品など、「先着5名様に○○の値段で売ります」と書いてあります。私はあのようなチラシは好きではありません。せっかく行っても、買えない場合もあるからです。そうではなく、ダイレクトメールで「これを提示すると半額で買えます」と書いてあるなら行くかもしれません。しかし、これら2つの例は救いを完全に例えていません。なぜなら、救いは無料だからです。罪の問題はキリストの十字架によって、すべて贖われました。良い行ないも、償いも全く必要ではありません。唯一必要なのは信じることだけです。キリストを信じることによって、罪の赦しを得ることができるのです。その人は、「ああ、キリストの死は私の身代わりだった」と言えます。なぜなら、本来、自分が神の前で裁かれるはずだったのに、キリストが私の罪の罰を受けて死なれたからです。私たちはこのことを知ると、負い目なく、神さまのところに近づくことができます。なぜなら、神さまはキリストを信じる人の罪を赦し、義とされることが分かっているからです。神さまは義なる方なので、キリストを信じる人を救わないわけにはいかないのです。

 

2.よみがえられたイエス

 

ローマ425「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と書いてあります。私はこれまでこのように解釈していました。「キリストが十字架で死なれたのは私たちの罪の赦しのためであった。そして、キリストが復活したのは、私たちが義と認められるためであった」と理解していました。つまり、キリストが私のために死なれたのは罪の赦しを与えるためで、キリストが復活したのは私たちが義と認められるためであると信じていました。つまり、十字架の死だけだと半分で、復活まで信じて完全な信仰だと思っていました。そういえば、ローマ・カトリックでは礼拝堂に入りますと、十字架につけられたキリストの像が表面に飾られています。おそらく、「キリストはあなたの罪のため死なれたんですよ」とアピールするためなのでしょう。しかし、礼拝に来るたびごとに「キリストが死んだ」「キリストが死んだ」と言われるなら、礼拝はお葬式になります。ローマ・カトリックのミサには、罪の贖いが現在も続いているという考えがあるようです。そうなると、「私が犯した罪のために申し訳ないことをした。もう罪は犯しませんのでどうか赦してください」と罪を懺悔するかもしれません。神父の前で罪を告解すると、「あなたはこういう償いが必要ですよ」と言われることがあるそうです。一方、プロテスタントの教会の場合は、十字架にキリスト様がついていません。これは、キリストが復活して今も生きておられるということを表わすためのようです。ですから、プロテスタント教会の礼拝は、お葬式ではなく、よみがえられたキリストをお祝いするという意味があると言うことです。もし、これが正しいとするならば、私たちはキリストが私のために死なれたということと、キリストが私のためによみがえられたという両方を信じなければならないということになります。キリストが私の罪のために死なれたということを信じるだけで救われないとしたら、これまでのメッセージは間違っていたということになります。

 

混ぜ返すようですが、聖書には「キリストの十字架を信じなさい」という言葉は一か所もありません。ただ、主を信じるということについて語っているだけです。反対に「神がイエスを死人の中から復活されたことを信じなさい」とは書いてあります。いくつかみことばを引用したいと思います。ローマ109「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」Ⅰコリント1517「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」Ⅱテモテ28「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロは、「私たちの信仰の根拠は、神がイエスを死人の中から復活させたことである」と言っています。本当に、聖書は「主イエスの十字架を信じなさい」と言わないで、「神がイエスを死人の中から復活させたことを信じなさい」と言っているのでしょうか?聖書を見ると、イエス様が十字架につけられたという事実を述べているだけです。Ⅰペテロ224「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」と事実として書いてあり、「信じなさい」とは書かれていません。ウォッチマン・ニーの本には「聖書は、主イエスの十字架や死が私たちの信仰の対象であるとは言いません。むしろ、復活が私たちの信仰の対象であると言います」と書いてありました。こんなことを言うと、「鈴木牧師は、キリストの十字架を否定する異端である」とネットが炎上する可能性があります。

 

パウロは、復活がなければ、私たちの信仰はむなしいと言いました。だから、復活は信じるべきものです。では、キリストによる十字架の贖いはどうなのでしょうか?ウォッチマン・ニーは本の中でこう述べています。「贖いは神と主イエスの間のことであり、それは人に対する神の要求ではありません。贖いは、主が人の心を満足させるために行われたものではありません。それは、神の聖、義、栄光の要求を、主イエスが満足させたことです。主の死と、主が成就された贖いのみわざは、神と主イエスとの間で行われたことです。それは、私たちの信仰の対象として述べられているのではありません。私たちの信仰の根拠は、神がイエスを死人の中から復活させたことです。…私たちは、イエスが十字架の上で死なれ、贖いのみわざを成就された、と言うことができます。しかし、神がそのようなみわざに満足しておられることをどのようにして知るのでしょうか?私たちは、主の贖いのみわざが私たちにとって最も利にかなっていることを知っています。しかし、それが神にとっても同じであることを、どのようにして知るのでしょうか?もし、十字架しかないなら、もし主の死だけしかないなら、もし主の墓が空っぽでないなら、主の死のみわざが私たちのために成就したことが何であるか、私たちは分からないでしょう。ですから、主の贖いのみわざに関しては、十字架の面だけではなく、復活の面もあるのです。」

 

3.復活の意味

 

 イエス様は十字架の上で「完了した」と言われました。これはギリシャ語の商業用語で、「一回ですべてを完済した」という意味です。つまり、イエス様がご自身の命によって、代価を払ったということです。私たちはこのイエス様を信じることによって、義とされ、救いを得られたはずです。つまり、復活を待つ前に、贖いのわざは完了したということです。なのに、どうして復活を信じなければならないのでしょうか?さきほどの、ローマ425を英語の抄訳聖書はこのように訳しています。And raised to secure our justification 、「私たちの義認の保証のためによみがえらされた」という意味です。J.B.フィリップ訳もraised again to secure our justificationと同じように書かれています。つまり、復活は私たちが義と認められたことの証拠であるということです。ウォッチマン・ニーはこのようなたとえ話をよってこのことを説明しています。私がかなりのお金を借りていて、それがあまりにも多額で、借金を返済する方法がないとします。私は一人の兄弟のところへ行って、「あなたは、私がお金を借りているあの人のことを良く知っていますね。あなたがた二人は良い友人です。どうか私のためにお願いしてください。たとえ全部質屋に持っていっても、私は借金を返せません。私は今日、生活していくことさえ難しいのです。ぜひともお願いします」と頼んだとします。兄弟は蘇州にいる貸し主のところに行ってくれました。そして、事情を話したら、「私はそれを忘れましょう」と、借金の証文を返してくれました。ところが、貸し主は「友よ。せっかく来たんだからと、二、三日、ここに泊まって行きませんか」と言いました。一方、私は上海でやきもちしています。彼は何か問題があったために、戻ってこれなったのかもしれません。彼が戻って来ない限り、平安はありません。彼が上海に戻って証文を見せてくれて、はじめてその問題が解決されことを知るのです。

 

 今のは、あまり良いたとえではありませんが、イエス様の復活も同じです。イエス様が十字架で死なれるやいなや、罪の事実は解決されました。イエス様は私のために代価を払ってくださったのです。ところが、もしイエス様が死人の中から復活されなかったなら、イエス様が戻ってこなかったなら、私たちの心は不安なままです。イエス様が私たちの罪を負ったために、神の怒りを受けて罰せられました。イエス様は私たちのために死んで、贖いを完了してくださったのです。でも、どうしてそのみわざが成し遂げられているのを知ることができるでしょう。父なる神は、主イエス様が私たちの罪を完全に解決されたことを証明するために、彼をよみがえらされたのです。パウロは「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」と言いました。これを読むと、「復活は人が義とされる目的のためである」と解釈しがちです。つまり、主が復活され、それから私たちが義とされると考えてしまいます。ところが、本当はその逆なのです。私たちが義とされたので、主が復活させられたのです。これは、主イエスの復活が、私たちの義認の証拠であることを意味します。主が神の義の要求を満たされたので、神さまは彼を復活させられたのです。さきほどの借金の話と兼ね合わせて考えたいと思います。イエス様が十字架で「すべてを完済した」と言われました。そして、「私はイエス様の十字架を信じます、十字架を信頼します」と言ったとします。しかし、私は証文を見ていません。もしかしたら、天国に行ったとき、神さまから「イエスの十字架では不十分でしたよ」と言われたら、どうするでしょうか?では、どうして主の十字架で十分であると分かるのでしょうか?それは、復活です。私たちは十字架ではなく、主の復活を見るべきなのです。もし主の十字架のみわざが正しくなかったとしたら、神さまはイエス様を復活させられなかったでしょう。イエス様が復活されたのは、私たちが義とされたからです。私たちがイエス様の血潮を信頼して義とされているので、主イエスは復活させられたのです。ハレルヤ!復活は主がなだめの供え物を成し遂げたことの証拠です。神さまが満足されたので、主イエス様は復活されたのです。

 

 私はクリスチャンになって36年にもなりますが、復活の意味がよく分かりませんでした。「とにかくキリストの十字架と復活の両方を信じるべきだ」と考えていました。つまり、「イエス様の十字架が私のためであると信じれば救われる」と信じ、復活は二の次に考えていました。つまり、「イエス様が死者の中から初穂として復活したので、いずれ私たちも復活できる」と信じていました。キリストの十字架を信じれば、自分にも、きっと復活が与えられると信じて来ました。ということは、キリストの十字架を信じれば、結果的に、キリストの復活に預かれると信じていたのです。興味深いことに、使徒たちは十字架を宣べ伝えたのではなく、キリストの復活を宣べ伝えました。使徒たちはキリストの十字架の死ではなく、キリストの復活を宣べ伝えたので迫害されたのです。福音は英語でgood news「良い知らせ」です。ギリシャ語でエウワンゲリオンと言います。このことばは、もともとは戦地から届けられた、「先勝報告」のことを指したそうです。あるときギリシャとペルシャが戦争しました。当時は、戦争に勝てば領土と戦利品を獲ることができました。逆に、負けたなら奴隷にされるので、一刻も早く町から逃げなければなりません。町の市民は、戦地からの知らせを一日千秋の思いで待っていました。やがて、戦地から一人の男性が息を切らして走ってきました。「喜べ、勝った」と告げて絶命しました。これがマラソンの紀元だと言われています。戦争に勝ったという「良い知らせ」が、エウワンゲリオンです。イエス様が復活したという知らせほど、人類にとって最良の知らせはありません。イエス・キリストが十字架で人類のすべての罪を贖いました。この方を信じる者は救われ義とされます。神さまからキリストをよみがえらせたのは、私たちが義とされることの証拠です。復活がないと、本当に罪赦され、義とされるのか分かりません。事実、キリストがよみがえられたので、私たちの信仰は確かなものとなり、もはや自分の罪の中にはいないのです。ハレルヤ!アーメン。

 

 きょうはウォッチマン・ニーの受け売りが多くて、かえって混乱を与えてしまったかもしれません。きょうのメッセージをまとめて終わりたいと思います。イエス様が死に渡されたのは、私たちの罪のためであります。私たちは「イエス様が代価を払った」と言います。でも、だれにその代価を払ったのでしょうか?サタンではありません。サタンも罪を犯したので、代価を受け取る資格はありません。父なる神さまが人の罪をさばかないで救うためには、ご自身の義が満たされなければなりません。もし、罪に対して刑罰を与えずに赦すならば、ご自身の義がすたれます。でも神さまは私たちを愛して、救いたいのです。そのため、ご自分の分身ともいえる御子イエスに罪を負わせて罰したのです。つまりは、神ご自身の義に対する代価であります。イエス様は神さまだったので、人にならなければ、死ぬことができませんでした。また、人になったからこそ私たちの身代わりになることができたのです。イエス様はゲッセマネの園で悩まれました。罪を負うことによって、父から裁かれ引き離されるからです。でも、イエス様は自ら進んで十字架にかけられ死なれました。イエス様の死によって罪の贖いが全うされ、恵みによって人類を救う道が開かれました。今度、父なる神様は、贖いの死を全うした御子イエスをよみがえらせたのです。罪があるから死があるのです。しかし、御子イエスが罪を全部支払ったので、死と墓が彼にふさわしいものでなくなりました。私たちから見ると、キリストがよみがえらされたので、私たちも義と認められることが分かったのです。つまり、キリストの復活は、私たちが義と認められることの保証です。私たちはイエス様の復活を信じるときに、これから先、何があっても裁かれることはないと平安で過ごすことができるのです。パウロはこのように言っています。ローマ834「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 

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