« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »

2015年3月29日 (日)

 「ゲツセマネの祈り」マタイの福音書26章36節-41節 亀有教会副牧師 毛利佐保 2015/3/29

<マタイの福音書2636-41節>

 

26:36

 

それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」

 

26:37

 

それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

 

26:38

 

そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

 

26:39

 

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 

26:40

 

それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。

 

26:41

 

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

 

 

 

*******************************************

 

 

 

本日はプロテスタントの教会暦では、「棕櫚(しゅろ)の主日」と言われている日です。イエス様が受難直前に、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたとき、群衆が「ホサナ、ホサナ」と叫びながらイエス様を大歓迎し、棕櫚の枝を道に敷いたり、振ったりしたことからこう呼ばれています。今日から一週間を「受難週」と言います。金曜日は「受難日」、イエス様が約2千年前に十字架に架かられた日です。私たちはこの受難週を、「イエス様の苦難の十字架と復活に想いを馳せて主に感謝する時」とし、次週のイースターを迎えたいと思います。

 

 

 

イエス様の受難と復活は、キリスト教にとって中心となる大切な教理です。

 

ですからどの福音書にも詳細に記されています。

 

各福音書によって記されているエピソードは多少異なりますが、日曜日のエルサレム入城から、木曜深夜のゲツセマネの祈りまで、どのような出来事があったか簡単に辿ってみましょう。

 

 

 

・エルサレム入城

 

・エルサレムを視察

 

・いちじくの木を呪う

 

・宮を清める

 

・ユダヤの指導者たちとの論争

 

・貧しいやもめの献金

 

・終末預言(エルサレム神殿崩壊の預言、他)

 

・十字架刑の予告

 

・ベタニヤのマリヤによる高価なナルド油による葬りの準備

 

・イスカリオテユダの策略

 

・最後の晩餐(洗足、聖餐式)

 

・賛美の歌を歌ってオリーブ山へ

 

・ゲツセマネの祈り(受難の始まり)

 

 

 

ゲツセマネの祈りは、最後の晩餐の直後の出来事です。

 

 

 

*********************************************

 

<マタイ26:36

 

それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」

 

*********************************************

 

 

 

ゲツセマネとは、「油絞り」という意味です。

 

イエス様が祈るために頻繁に出かけられた、オリーブ山のふもとにある園で、オリーブの油を絞る搾油所があった場所だと思われます。

 

このゲツセマネの祈りから、イエス様の本格的な受難が始まります。

 

2004年に公開されたメル・ギブソン監督の「パッション」という映画も、このゲツセマネの祈りのシーンから始まっていました。

 

 

 

イエス様は、ここに至るまでも、繰り返し弟子たちに十字架と復活の預言をされていました。

 

例えば、マタイの福音書20:18-19では、

 

 

 

**********************************************

 

<マタイ20:18-19

 

20:18

 

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。

 

20:19

 

そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 

*********************************************

 

 

 

・・・とこのように語られました。

 

弟子たちは、繰り返し聞かされたこの十字架と復活の預言を恐ろしく思い、理解しようとしませんでした。

 

 

 

弟子たちはイエス様からこの話を聞くたびに、このように考えたのではないでしょうか。

 

「なぜこの偉大な先生が、十字架などと、もっとも残忍な処刑の方法で殺されなければならないのか。そしてなぜ、三日目によみがえるなどとおっしゃられるのか」と。

 

 

 

父なる神様の御愛は、イエス様を通してあらわされました。私たち罪深い人間が、ひとりとして滅びることがないために、「なだめの供え物」として、ご自身のひとり子であるイエス様をこの世にお遣わしになることを決断されたのです。

 

 

 

ではなぜ、御自分の大切なひとり子を「なだめの供え物」となさったのでしょうか。

 

 

 

それは、

 

①「なだめの供え物」は、聖なる御方でなければならなかった。

 

ということです。

 

 

 

イエス様は、ご自身が神であられるのに、ご自分を無にして完全なる人となり(ピリピ2:6-8)、「なだめの供え物(ローマ3:25)」となってくださいました。しかし、私たちと同じ人間の肉体をお持ちにはなりましたが、罪は犯されませんでした(ヘブル4:15)。もしイエス様が私たちと同じようにアダムの罪の性質を持っておられたなら、「なだめの供え物」とはなれず、十字架の贖いは完成されませんでした。

 

 

 

イエス様が聖なる御方だからこそ、贖いを完成することができたのです。

 

 

 

ローマ3:25には、

 

 

 

*********************************************

 

<ローマ3:25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。

 

というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 

*********************************************

 

 

 

と書かれています。

 

 

 

父なる神様は、「ご自身の義を現わすため」に、イエス様を、「その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。なぜなら、人間はアダムの罪を持って生まれてきているからです。その罪を身代わりに背負って供え物となれるお方は、聖なる御方、イエス様の他にはおられませんでした。

 

 

 

本日の聖書箇所に戻りましょう。

 

*********************************************

 

<マタイ26:37-39

 

26:37

 

それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

 

26:38

 

そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

 

26:39

 

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 

**********************************************

 

 

 

イエス様は、この地にご自身が来られた使命をご存知でした。

 

先ほどもお話しましたが、イエス様ご自身が、何度も弟子たちに語られてこられたからです。

 

 

 

ではなぜ、その使命が達成されるのを目前にして、イエス様はこんなにも苦しまれたのでしょうか。

 

 

 

②イエス様が「ゲツセマネの祈り」で苦しまれたのはなぜでしょう。

 

 

 

ルカの福音書では、「ゲツセマネの祈り」の箇所にこう書かれています。

 

 

 

************************************************

 

<ルカ22:42-44

 

22:42

 

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」

 

22:43

 

すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。

 

22:44

 

イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

 

**********************************************

 

 

 

イエス様が、「汗が血のしずくのように地に落ちた」ほど、苦しまれたのは、なぜでしょうか。

 

イエス様を捕らえて殺そうとしている祭司長や律法学者たちが恐ろしかったからでしょうか。

 

嘲(あざけ)られ、罵(ののし)られ、鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、拷問を受け、十字架刑に処されることが恐ろしかったのでしょうか。

 

 

 

確かに、イエス様は完全な人となられたので、肉体は私たちと同じように弱く、当然痛みも感じます。

 

しかし、イエス様が苦しまれたのは、そういう恐れや肉体的な痛みなどではありません。イエス様がもっとも苦しまれたのは、「父なる神に見捨てられること」です。

 

 

 

<マタイ27:46>で、イエス様は十字架に架かられた時に、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。

 

 

 

つまり、「死ぬ」ということは、イエス様にとってそれまでずっと続いてきた、父と子の親しい交わりが絶たれるということになるのです。

 

 

 

死生観について、よくキリスト教の考えと引き合いに出されるのは、ソクラテスの思想です。

 

 

 

ソクラテスは、イエス様が生まれる400年以上も前の人で、古代ギリシャの哲学者です。ソクラテスは、70歳になったときに、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられ、死刑が確定しました。ソクラテスは、親しい友人や弟子たちと最後の問答を交わし、毒ニンジンの杯をあおって死にました。この時の様子が弟子プラトンの著作「ソクラテスの弁明」に記されていますが、ソクラテスは、「死」について、このように語っています。

 

 

 

「死を禍(わざわ)いだと考える者は間違っている。また、死は一種の幸福であるという希望には有力な理由がある。つまり死は次の二つの中のいずれかであるはずなのだ。すなわち死ぬとは『純然たる虚無への回帰を意味し、死者は何ものについても何の感覚も持たない』か、『それは一種の更生であり、この世からあの世への霊魂の移転』であるのか。」

 

 

 

・・・どちらにしても、「楽しき希望をもって、死と向き合うことが必要だ」とソクラテスは言ったそうです。

 

ソクラテスは二つのうちの後者の方、『それは一種の更生であり、この世からあの世への霊魂の移転』だと考えていたようで、「死ぬことは汚れた肉体から魂が離れ、自由になることだ」と言って死にました。

 

 

 

しかし、聖書の神様は、「生ける神」です。死ぬことはけっして自由などではありません。

 

死ぬことはサタンに引き渡されるということです。

 

 

 

イエス様は、父なる神の御子であり、聖霊なる神とともに、三位一体の唯一の神です。

 

まことの神であるイエス様が、まことの人となり、「死んで葬られて陰府にくだる」のです。

 

サタンの闇の支配に身を置かれるということです。

 

 

 

その支配から勝利し、三日目によみがえる事がわかっていても、一時であっても、父なる神との親しい交わりから引き裂かれ、切り捨てられ、断絶され、裁かれ、呪われることは、聖なる御方、イエス様にとって耐え難い苦しみでした。

 

ですからイエス様は、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と父なる神に祈られたのです。イエス様が苦しみもだえて、「取りのけてください」と願われた杯とは、イザヤ51:22や、エレミヤ25:15に書かれているように、「神の怒り、憤り」をあらわしています。

 

 

 

<ローマ5:12>に、 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった・・・」

 

 

 

と書かれているように、神様の怒り、憤りは、「死」「永遠の滅び」という形であらわされました。

 

 

 

私たち人間は、アダムの罪によって死がはいり、「死」つまり、闇の世界のサタンに引き渡されたのです。私たち人間は、父なる神様から遠く離れてしまい、「見捨てられる」というより、自分たちの方から「離れている」状態でした。イエス様の十字架と復活がなければ、イエス様が神様と人間との仲保者になってくださらなければ、闇に支配され、滅び行くだけの存在でした。

 

 

 

ソクラテスが、もしイエス様の十字架の贖いと復活を知っていたら、新約聖書の時代に生きていたら、なんと言ったでしょうか。私たちは、つくづく恵みの時代に生きていて幸いだったと思います。

 

 

 

イエス様は、こう言われました。

 

******************************************

 

<ヨハネ11:25

 

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

 

******************************************

 

 

 

イエス様は、「ゲツセマネの祈り」の中で、神の御心を知ることができました。

 

そして、神の御心に従われたのです。

 

これは誰のためでしょうか。私たち人間の罪のためです。

 

ご自分のひとり子をお与えになるほどに、神様は私たちを愛してくださいました。

 

 

 

*******************************************

 

<Ⅰヨハネ4:10

 

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 

*******************************************

 

 

 

しかし父なる神様はイエス様をお見捨てにはなりませんでした。

 

*******************************************

 

<ピリピ2:9-11

 

2:9

 

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 

2:10

 

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

 

2:11

 

すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

*******************************************

 

 

 

イエス様はよみがえられることで、死に打ち勝ち、勝利されました。

 

それゆえに、神様は、イエス様を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのです。

 

最後に、③「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と語ってくださるイエス様。

 

についてお話したいと思います。

 

 

 

*******************************************

 

<マタイ26:40-41

 

26:40

 

それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。

 

26:41

 

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

 

********************************************

 

 

 

本日は、読みませんでしたが、続く42-46節では、イエス様はその後また、祈りに戻られ、また弟子たちのところに来られましたが、また弟子たちは眠っていました。そうしたことを弟子たちは3度繰り返しました。

 

 

 

悲しみのあまり、死ぬほどだったイエス様は、愛する弟子たちに共に祈ってもらいたいと願われました。しかし弟子たちはその願いに応えられず眠ってしまいました。この時の弟子たちへのイエス様のことば、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」というお言葉ほど、慈愛に満ちたものはありませんでした。

 

 

 

イエス様は、まことの人となられたので、私たちと同じように、食事をされ、涙を流され、疲れを覚えられ、眠られました。人間の肉体の弱さをご存じだからこそ、このように語られたのです。そして、後に弟子たちが直面する様々な誘惑について心配され、そして励まされたのです。

 

 

 

ペテロ、ヤコブ、ヨハネ。この時にここにいた3人はその後どうなるのでしょうか。

 

 

 

ゲツセマネの祈りの直後、イエス様は捕らえられます。

 

そしてその時ペテロは、イエス様を3度も「知らない」と言います。

 

しかし彼は後に聖霊を受けて力強く働いて殉教しました。

 

雷の子と呼ばれ、後にイエス様の母マリヤのお世話をすることになるヨハネは、老年になるまで生きて、福音書や手紙を書き残しました。黙示録を書いたのがこのヨハネだとすれば、彼は晩年パトモス島に追放されました。

 

ヨハネの兄弟ヤコブは12弟子最初の殉教者です。彼は使徒の働きに出てくるステパノのように華々しく殉教したのではなく、使徒12章の初めにたった1行、「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」とヘロデ王に殺されたことが書かれているだけです。

 

 

 

イエス様は悲しみのあまり死ぬほどの思いの中で、弟子たちに、共にいてほしいと願われました。そのようなことは、イエス様の生涯を通じてただ一度のことだったと思います。しかし弟子たちは眠っていました。

 

 

 

神様から見捨てられ、もっとも信頼する弟子たちからも見捨てられながらも、イエス様は弟子たちの将来について、憂い、嘆き、彼らのために心からの愛情を込めて、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と語られました。

 

 

 

イエス様はその後、2度目に眠っていた弟子たちを起こすことはなさいませんでした。

 

彼らをいたわって休ませてくださったのです。

 

 

 

イエス様は、まさに孤独の苦しみに耐えながら十字架に向かわれたのです。

 

十字架刑の苦しみは、私たちの想像を絶するものだったと思います。

 

私たちのために、まさに私のために、十字架に架かって尊い血潮を流してくださった、救い主イエス・キリストに、大切なひとり子を与えてくださった父なる神様に、心からの賛美と感謝を捧げましょう。

 

|

2015年3月20日 (金)

神に聞く Ⅱペテロ1:20-21 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.3.22

 神さまはどのように私たちに語られるのでしょうか?私たちはどのように神さまの声を聞くことができるのでしょうか?神さまの声を聞く方法は、聖書を読むことから始まります。つまり、聖書を読むことは、神さまの声に耳を傾けていることなのです。では、聖書に書かれていない、個人的なことや日常的なことは語って下さらないのでしょうか?もちろん、聖霊が私たちの心に語ってくださいます。でも、物事には基本というものがあります。まず、私たちは神のことばである聖書を読んで、神さまの声に耳を傾けることを体得すべきです。その後、だんだんと神さまの声を聞きわけることができるようになります。

1.聖書はだれが書いたのですか?

Ⅱペテロ120-21「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」テキスト『養育を受ける』の質問通りに進めて行きたいと思います。

第一の質問、「預言は人間の考えや意志でもたらさられたものでしょうか?」このところには「聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」と書いてあります。ギリシャ語の「動かされて」は、「船が風に動かされて」という意味の航海用語であり、適確な場所へ送り込まれるという意味があります。聖霊は風にたとえられますので、そのように人をご自分の目的へと進ませるのです。

第二、「では、預言はどのようにもたらされたのでしょう?」人間が勝手に考え出したものではありません。聖霊が預言者、つまり聖書の記者に語るべき神のことばを与えたのです。

第三、「預言はどうして、文書(聖書)として書き留めらなければならなかったのでしょう?」語られたことばはすぐに消えてなくなります。また、口で言い伝えた場合、だんだんと変質していきます。そのため、文書として書き留めて、後代まで正しく残るようにしたのです。

 第四、「聖書として書き留められるとき、聖霊は人間のどのようなものを用いられたでしょうか?」神さまは人格を無視して、ロボットのように書かせたのではありません。また、「おふでさき」(自動書記)のように、神がかり的に勝手に筆が動いたわけではありません。神の霊がその人の語彙、人格(個性)、その人が集めた資料さえも用いて、神のみこころを表現したのです。聖書は1600年間もかけて、預言者、祭司、王様、学者、羊飼い、農夫、漁師、医者などが書きました。聖霊が、その人たちを用いて、神のことばを書かせました。だから、聖書の本当の著者は神さま(聖霊)ということができます。1冊の本ができあがるのに1600年もかかったということです。しかも、時代の違う人たちが打ち合わせをせずに各書物を書きました。普通でしたら、まとまりのないものになるでしょう。聖書は多様性がありますが、救いという共通のテーマで書かれています。聖書は特別で固有な書物であり、他にこのような書物はありません。

 歴史上、有名な人が聖書に関してこのように述べています。「聖書は古いものでもなければ新しいものでもない。聖書は永遠のものである(ルター)」。「いかなる世界歴史におけるよりも、聖書の中にはより確かな真理が存在する(ニュートン)」。「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選びます(ゲーテ)」。「聖書の存在は、人類がかつて経験したうちで最も大きい恵みである(カント)。」「聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている (リンカーン)」。「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は、聖書です(ガンジー)」。「聖書を教えない単なる教育は、無責任な人にピストルを渡すようなものです(ルーズベルト)」。18世紀には啓蒙主義が興り、人々は「聖書は誤りだらけだ」と言い出しました。フランスの詩人、ボード・レールは、「あと100年もすれば、聖書など紙屑かごに捨てられる」と言いました。しかし、皮肉なことに彼が死んだ後、彼の家が聖書の印刷工場になったということです。ナポレオンは「聖書は単なる書物ではなく、それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である」と言いましたが、そのとおりです。聖書は永遠のベストセラーと言われています。どうぞ、私たちは聖書のみことばに親しみ、聖書のみことばの権威を重んじ、聖書のみことばから信仰を得、聖書のみことばに従う者となりたいと思います。

2.聖書の目的は何ですか?

 
 ヨハネ2031「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」Ⅱテモテ315-17「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」

 第一の質問、「聖書の第一の目的は何でしょう?」ヨハネは「イエスが神の子キリストであることを、私たちが信じるため。私たちが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と言っています。ある人たちは聖書を文学書として読んでいます。他に聖書は、歴史、哲学、法律、科学を学ぶために読むことも可能です。聖書はいろんな専門分野にも耐えることができるでしょう。しかし、聖書は人間が救われるための必要かつ十分な情報を与えて下さる、いわば救いの専門書です。聖書を通して、イエス・キリストが私のために、どのようなことをして下さったのかわかります。そして、聖霊が私たちに救われるための、知恵を下さいます。


 第二、「聖書はなぜ特別な書物なのでしょうか?」パウロは「
聖書はすべて、神の霊感によるものだ」と
言っています。霊感と聞くと、ぱっとひらめきが与えられるインスピレーションを連想するかもしれません。「神の霊感」とは、「神の息吹き」という意味です。つまり、聖霊が神さまのご意志を誤りなく著せるように聖書全体に働いたということです。聖書はヨハネ黙示録で閉じられました。ですから、聖書記者たちに働いた霊感はもうないと私たちは考えています。現在は、聖霊は聖書がどういう意味なのか分かるように、私たちに働いておられます。

第三、「聖書は救われた人にどのような有益な効果をもたらすのでしょうか?」パウロは「教えと戒めと矯正と義の訓練とのため。神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためである」と書いています。私たちは道に迷ったり、道を踏み外す時があるでしょう。そのとき、聖書が正しい道を教え、立ち返らせてくださいます。さらに、聖書は救われた人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者とするために、教えと戒めと矯正を与えてくれます。

第四、「神の人として整えられたかったなら、どういう覚悟が必要でしょうか?」それは、聖書を権威ある神のことばとして認め、心から従うということです。19世紀、自由主義神学の人たちは、「聖書は人間が書いた書物であり、誤りがたくさんある」と言い出しました。人間の理性によって「ここは正しい、ここは正しくない」と読むようになったのです。聖書は聖霊によって書かれた神のことばです。私たちは聖書の権威を認め、聖書のことばに心がから従うべきであります。そのようにした時に、はじめてみことばによって、私たちが整えられるのです。

3.魂の食物である聖書

マタイ44「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」Ⅰペテロ22「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

第一の質問、「私たちは肉の糧だけではなく、何が必要なのでしょうか?」神の口から出る一つ一つのことばが必要です。私たちは魂の糧が必要だということです。私たちは1日ごはんを食べないと「腹へって死にそうだ」と言うでしょう。しかし、魂の糧を1か月も食べていないのに、空腹を感じないとはどういうことでしょうか?それは、霊的に餓死している状態です。

第二、「神の口から出る一つ一つのことば」は、どのようにするとき与えられるのでしょうか?聖書を読んで、黙想し、実行する必要があります。それは、ごはん(パン)良く噛んで、消化させ、自分のからだの一部とすることと同じことです。クリスチャンで聖書的な知識に富んではいますが、全く実行しない人がいます。そうすると頭ばかり大きくなり、体がヒョロヒョロになり、火星人のようになるでしょう。昔、イギリスの作家がタコみたいな火星人を書きました。頭ばかり発達して、手足が退化しているようなクリスチャンは良くありません。

第三、「生まれたばかりのクリスチャンは、何が必要なのでしょう?」ペテロは「純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」と言いました。救わればばかりの人というのは、霊的な赤ん坊と同じです。ですから、「救いの確信」を与えるような神のことばが必要です。成長していくと義の教えのような堅い食物が必要になってきます。

 救われたばかりの人は、混ぜ物のない、霊の乳を飲まなければなりません。ある人たちは、聖書は難しいので、とりあえず名のある神学者が書いた解説書を読もうとします。しかし、本によっては、聖書の霊感を否定し、奇跡を合理的に解釈して、味もそっけもないものにしているものがあります。聖書は神の霊で書かれたものですから、人間の理性を越えています。ですから、聖書の権威をそこねさせるような解説書は読むべきではありません。私たちは、お魚を食べるときどのように食べるでしょうか?頭から骨ごと食べる人がいるでしょうか。骨をお皿の脇にどけながら、まず柔らかい部分を最初に食べます。同じように聖書も難解なところは脇に寄せて、分かるところを読んで行けば良いのです。難解なところは、信仰生活を続けているうちに分かって来るようになります。

私は25歳のとき、座間キリスト教会で洗礼を受けました。その時はまだ日本ホーリネス教団に属していました。私は毎週語られる大川牧師の熱い説教に捕えられました。そして、テープを購入し、ノートに書き取りました。職場の先輩がGood Newsという分かりやすい英語の聖書をプレゼントしてくれたので、英語で読みました。その時は「罪」「信仰」と書いてある日本語の聖書がピンとこなかったからです。その後、副牧師が「ナビゲーターの小冊子を一緒に勉強しましょう」と時間を取ってくれました。ナビゲーターは自分で聖書を調べ、空欄にみことばを書き込むようになっていました。半年後、東京聖書学院で聖書を学ぶことができて感謝でした。その学校は聖書に対してとても保守的で良かったと思っています。基礎科で卒業して、教会で奉仕をしました。しばらくは、勉強会で教えるため、あるいは説教のために聖書を読んでいました。自分の魂の糧のために、聖書を読むようになったのは、ディボーションをしてからです。それから聖書を読むのが楽しくなりました。なんと洗礼を受けてから19年も経っていました。聖書はスルメイカのように、噛めば噛むほど味が出て来ます。神さまは聖書のみことばを通して語られ、信仰を与え、そして奇跡を起こしてくださいます。聖書のみことばは神さまの約束です。私たちは神さまの約束であり、聖書のみことばを握って、神さまに求めるべきであります。

4.みことばを求める

詩篇1199-12「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。主よ。あなたは、ほむべき方。あなたのおきてを私に教えてください。」

第一の質問、「若い人が自分の道をきよく保つ方法とは何でしょう?」詩篇の記者は「神さまのことばに従ってそれを守ることです」と言っています。世の中にはコンプライアンスというのがあります。常識的に悪いのは知っていても、個人情報の売買や横領が後を絶ちません。特に若い人は、いろんな誘惑があります。神のみことばが「それはしてはいけない」と命じていれば素直に従うのです。そうすれば守られます。ダニエルと3人の若者はバビロンに連れていかれました。1から10まで偶像に関することでした。でも、彼らはみことばのとおりに生活したので、守られ、祝福されました。

第二、詩篇の記者は、罪を犯さないために、どのようにしているでしょうか?神さまのことばを心にたくわえると言っています。心にたくわえるとは、暗唱するということです。暗唱していると、何かあった場合、ぱっと出て来ます。

第三、詩篇の記者は、どのような態度で、みことばを求めているでしょうか?「私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています」と言っています。これは、みことばに対する真摯な態度です。神さまが何とおっしゃっているか、それは聖書に何と書いてあるかということと同じです。聖書には神さまのみこころが記されているからです。でも、聖書を占いの書物のように「神さまどうしたら良いでしょうか?示してください」と目をつぶって、適当な箇所を開けてはいけません。最初あけたページに「そして、外へ出て行って、首をつった」(マタイ275)と書いてありました。次にあけたら「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ1037)と書いてありました。そのように実行したら大変なことになります。聖書は毎日、通読して読むべきです。当教会では聖務表にディボーションの箇所があります。でも、ヨブ記をずっと読むと恵まれないかもしれません。どこを読んでも自由ですが、ちゃんと「しおり」をはさんで、順番に読むべきです。そうすると、その日にあったみことばは与えられるものです。

第四「あなたは、聖書をどのように具体的に読むべきだと思いますか?」という質問があります。これは自分で決めなければなりません。そして、習慣化すべきです。聖書を読んでいない日があれば、「何かおかしい。大切なことを忘れた」と思わなければなりません。ジョージ・ミューラーは信仰の人として有名です。彼はこのように証しています。「私が一番気を使うべきことは、私が神さまのために何をするか、何をすべきかということにあるのではなく、どういうふうにして私の魂が幸福の状態に至り、どういうふうにしたら私の内なる人が強く育てられ、成長するかということにあります。そうしなければ、すべての努力と務めは中身のない、空っぽのものに過ぎません。ですから朝起きると聖書を読み、そして黙想し始めます。毎日、聖句からどういう祝福があるかを捜します。いろいろな働きのためでもなく、メッセージを準備するためでもない、ただ私の魂の糧を捜し、その祝福を求めます。その結果はいつも同じです。何分も過ぎないうちに私の魂は告白と感謝、とりなしと願いをささげるようになり、そしてそれは深い深い祈りに導かれます。」彼は生涯において5万回もの祈りがきかれたそうです。なぜ、そんなに多くの祈りが答えられたのでしょうか?それは、みことばをよく読んで、みことばの約束に土台して求めたからです。

聖書には「恐れるな!」という言葉が365回もあります。とうことは、毎日、神さまは「恐れるな、私が共にいるから」と語っておられるということです。もし、聖書を閉じているなら恐れに支配されてしまいます。しかし、聖書をひとたび開くなら、「恐れるな!」と語ってくださいます。テレビや新聞のニュースは、親切にも、私たちにいろんな恐れや心配を与えてくれます。もし、朝からそういうのを聞いて一日をスタートしたなら、気が重いです。また、寝る前にサスペンスのドラマを見たり、ニュース・スティーションを見たならどうなるでしょう?私たちの潜在意識に「この世は不条理だらけで、希望がない」というメッセージが送り込まれるでしょう。心の中にグッドニュースを入れるべきなのに、愚かにも、この世の悪いニュースを入れています。箴言423「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。アーメン。

また、聖書には約3万個の約束が満ちていると言われています。もし、聖書を閉じて読まないなら、神様があなたに与えようとしておられる約束を無駄にしていることになります。また、聖書は聖書のみことばは、問題を打ち砕くハンマーのようです(エレミヤ2329)。みことばは、時には剣の役目をし、あなたを縛っているロープを断ち切って下さいます。また、みことばは、時には大盾の役目をし、疑いの火矢を払いのけてくれます。また、聖書のみことばは人生の節目、岐路に立つとき確かな導きを与えてくださいます。私は今から28年前、1987年に当亀有教会から招聘を受けました。私の家内は来たくなかったのです。なぜなら、神学校で「日本基督教団は聖書をちゃんと信じていないし、信仰もない」と聞かされてきたからです。親しくしていた兄弟姉妹が私のために祈ってくれました。そのとき、上から聖霊がはとのように下ってくるのが見えました。同時に、イザヤ書の61章のみことばが浮かんできました。イザヤ611「神である主の霊が、わたしの上にある。はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ…」とあります。これは、イエス様が公生涯の始まりの時、会堂で引用したみことばです。「いや、そんな馬鹿な、畏れ多い。そんなはずはない」と退けました。しかし、このみことばが心から離れませんでした。最後に、このみことばで決断しました。イザヤ611は福音宣教と癒しと解放について記されています。今、振り返ると亀有教会に来てやっていることは、「福音宣教と癒しと解放だなー」と思いました。イザヤ612「恵みの年を告げ知らせる」はヨベルのラッパを吹くということです。私はトランペットを挫折しましたが、福音のラッパを吹くように導かれていると確信します。この教会に来て、弟子訓練やセルチャーチなど、いろいろやってきましたが、どれもイマイチでした。でも、福音のラッパを吹いて、恵みの年を告げ知らせることは継続しています。このように聖書のことばは生きていて、救いを与え、確かな人生を導いてくださいます。どうぞ、みことばに聞きましょう。みことばに耳を傾けましょう。

|

2015年3月14日 (土)

新しい身分 イザヤ43:1-4 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.3.15

 

 身分という表現は現代ではあまり使われないかもしれません。前回、「自分はだれか」というアィデンティティについてお話ししました。その続きであります。ちょっと極端ですが、「徳川の将軍と大名、どっちらが偉いでしょうか?」大名がどんなに能力があり、力があったとしても、将軍にはかないません。将軍がたとえ「バカ殿」であったとしても偉いのです。なぜでしょう?身分の中に権威や権力が保証されているからです。私たちは神さまが私たちをどのように見て、どのように扱っておられるかということを知ることはとても重要です。なぜなら、神さまからいただいている身分を知るならば、その身分にふさわしく生きるからです。

 

1.高価で尊い

 

イザヤ431,4「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」この箇所はイスラエルに語られたことばです。しかし、イエス・キリストを通して、私たちにも語られていることばです。いくつかの質問をさせていただきます。まず、元来、だれが私たちを造ったのでしょうか?ここには「主」と書いてあります。主というのは、天と地を造られた神さまです。日本では、どの神さまなのか分からないので「創造主」と呼ぶこともあります。創世記1章と2章には、創造主なる神さまが、天と地、そして私たちをも造られたと書いてあります。私たちは神さまから造られたのですが、アダム以来、神さまから離れ、失われた存在でした。では、失われていた私たちを、だれが、どのように見出したのでしょうか?ここには「私があなたを贖ったのだ。私はあなたの名を呼んだ」と書いてあります。「贖う」の元来の意味は、「失われたものを買い戻す」という意味です。新約聖書にはイエス・キリストが十字架で代価を払って、罪の中から私たちを買い戻したと書いてあります。クリスチャンというのは、神さまの呼びかけを聞いて、キリストによってなされた贖いを受け入れた人たちのことです。

 

あなたはどのような存在でしょう?神さまは私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃっています。「高価」は英語ではpreciousで「宝石や金属が高価な」という意味です。また、「尊い」は英語ではhonorで「名誉、誉れ」という意味です。私はテレビの『何でも鑑定団』が大好きです。もし、ここに千利休が使った数億円の茶碗があるとします。私はそれでお茶を飲み、流しにポイと置くでしょうか?箱の中に大事に保管し、たまに、それを出してニッコリ眺めるのではないでしょうか?神さまもあなたを高価で尊いと認め、そのように扱ってくださるということです。でも、多くの場合、私たちは神さまの目ではなく、両親やきょうだい、先生、友人、周りの人たちの目で、自分を評価してきたのではないでしょうか?さっきの茶碗でいうと、かたちがいびつだとか、色が黒いとか、古いとか、使い物にならないとか言われるでしょう。私たちもそういう嘘をたくさん聞いてきました。そして「ああ、自分には価値がないんだ。安物なんだ、偽物なんだ」と自分を見るようになります。そして、世の中の片隅で、忘れられ、捨てられたような生き方をするかもしれません。しかし、本当は千利休が使った数億円の茶碗なのです。神さまはあなたの本当の価値を見出して、私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」とおっしゃってくださいます。では、神さまの評価を額面どおり受け入れることよって、あなたの人生はどう変わるでしょうか?そうです。自分には価値があると分かり、セルフイメージが変わります。セルフイメージとは、自分に対するイメージ、自己価値であります。箴言237KJV)「なぜなら、彼は、心の中で考える通りの人間であるからだ」。これは、人はみな自分に対して抱いているイメージで生きているという意味です。すべきことが人間の存在価値を決定するのではなく、どのような存在であるのかが、なすべき事柄を決定するのです。日本は進化論に立ち、何ができるかで人の価値を決めます。しかし、人間は神のかたち(イメージ)に造られた特別な存在です。もし、自分がキリストの贖いによって買い取られるほどの価値があるのだと知るなら、それに合った生き方をするでしょう。あなたはこれまでは、親や友人、先生など、人の目で自分を評価していたかもしれません。そうではなく、神さまの御目で自分が何者かを知るべきです。自分の存在を正しく認識することによって、それにふさわしい生き方ができるのです。

 

2.神の子

 

ヨハネ112「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」イエス様を信じた私たちはどうなるのでしょうか?「神のこどもとされる特権が与えられた」と書いてあります。私は特権と言う言葉が大好きです。これは「みんなに、だれでも平等に」という意味ではありません。イエス様を受け入れた人、信じた人だけに与えられるものです。世界に何十億にいるかわかりませんが、たった二種類に分けることができます。この世には、神の子どもたちと、そうでない人たちがいるということです。ルカ16章には、「光の子ら」と「この世の子ら」とに分けられています。聖書では、神さまは偉大な王であると記されています。神さまが王であるなら、私たちはどういう立場になるのでしょう?そうです。王子であり、王女です。男性ならPrinceです。プリンスメロンではありません。女性ならPrincesです。なんとすばらしいことでしょう?私たちはディズニーのおとぎ話の世界に生きるのではありません。これが神の国の現実なのです。毎日、数万の人たちがディズニーワールドに行っているでしょう?そこにも、王子や王女がいます。でも、彼らはファンタジーであり、夢の世界です。しかし、聖書はキリストにあって、あなたは王子であり、王女なんだと言っています。どうか「自分はダメなんだ」とうなだれることのないように、そうすると頭から冠が落ちてしまいます。王子であり、王女であるなら、胸を張って堂々と生きるべきです。

 

 Ⅰヨハネ32-3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」私たちの後の状態は、どのようになるのでしょう?「私たちはキリストに似た者となる」と書いてあります。これはどういう意味でしょう?私たちは立場的には、神の子どもです。また、王子であり、王女です。でも、キリストが再び現われるまで、中味が完全ではないということを示唆しています。そうなんです。私たちは新しい身分が与えられてはいますが、肉の性質が残っています。罪の世界に住んでいた古い人の記憶や好みや弱さが残っているのです。だから、時たま、王子らしくない、王女らしくない振る舞いや言葉使いをしてしまうのです。でも、大丈夫です。やがてキリストが来られたなら、キリストに似た者となるのです。品性においても、命においてもです。では、この地上では、罪にまみれ弱さの中で生きるのでしょうか?ヨハネの手紙から、キリストが清くあられるように、私たちが自分を清くするのは何故でしょうか?そうなんです。キリストにあって自分が清い存在なので、それにふさわしい生き方をするようになるからです。これはどういう意味でしょう?私は田舎で育ちましたので、子どもの時、汚いドブに落ちたことがありました。ズボンが黒光りし、ひどい匂いを発しています。私は井戸の傍らに行き、汚れたズボンや服を全部脱ぎ捨てます。それから、石鹸で体を洗うでしょう?その後、きれいな服を着ます。次からはドブに嵌らないように気を付けます。わざとドブをまたぐようなことはしません。なぜでしょう?自分はドブのように汚い存在じゃないと分かっているからです。私たちは罪ある世界に生きてはいますが、罪そのものではありません。神の子であり、光の子なのです。だから、それにふさわしい生き方をするのです。

 

3.聖徒

 

Ⅰコリント11-2「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」コリント教会の人たちはどのような人たちだったでしょう?Ⅰコリント5章を読むと、教会の中にこの世と同じような不品行がありました。また、霊的な賜物のゆえに高ぶっていました。ねたみや争いもありました。使徒パウロを悩ませた地上最悪の教会でした。でも、この手紙の冒頭で、彼らは何と呼ばれているでしょうか?「聖徒」「聖なるもの」と呼ばれています。聖徒とは英語で、saintです。ローマ・カトリックでは簡単にsaintになることはできません。それなりの功績が必要であり、教会によって認められた人たちだけです。ローマ・カトリックがコリント教会を見たなら、そのような人を発見することはできなかったでしょう。でも、聖書的には、キリストを信じた人ならだれでも、「聖徒」「聖なるもの」なのです。でも、どうして、そのように呼ばれるのでしょうか?それは、キリストを信じたゆえに、神さまのものになったからです。「聖」というもとの意味は、「神さまに選び別たれる」「聖別される」という意味です。旧約聖書で神殿に用いられる器は聖別されました。質も形も台所用品と全く同じです。「しかし、これは神さまの御用のためにだけ用いられる器です」と聖別されました。弟子たちも、この世からイエス様によって聖め別たれた存在でした。この世にあって、この世のものではありません。神さまのものだからです。私たちもイエス様を信じたときから、そのようになったのです。私たちは「聖徒」「聖なるもの」なのです。私たちの生活や状態によらず、神さまがそのように呼んで下さるのです。

 

三浦綾子先生の本を読みますと、「クリスチャンとは赦された罪人に過ぎない」と書いてあります。一面ではそれも当っているかもしれません。でも、赦された罪人であるだけなら、また罪を犯しても良いということになります。好んで罪を犯す人はいないかもしれませんが、罪を犯しても仕方がないというふうになります。なぜなら、その人は「私は赦された罪人に過ぎない」と思っているからです。でも、聖書はそのようには述べていません。テキストには質問があります。「あなたは罪を犯すことがあるかもしれないが、本当は何なのですか?もし、そのことが分かったなら、あなたはどのように生きることができるでしょうか?」とあります。本当は、私たちは「聖徒」「聖なるもの」なのです。そうすると、自分に対するイメージが変わり、聖徒にふさわしく生きるようになるでしょう。たとえば、皆さんがお風呂に入ったとします。お風呂に入ったあと、同じ下着を着るでしょうか?着ないですね。なぜなら、自分はきれいになったと思っているからです。だから、洗った清潔なものを着るのです。ニール・アンダーソン著の『いやし・解放・勝利』にこのように書いてありました。ほとんどのクリスチャンは、自分自身を恵みによって救われた罪人であると言います。しかし、本当に罪人なのでしょうか?それが聖書的なアイデンティティなのでしょうか?そうではありません。神さまは私たちクリスチャンを罪人とは呼ばれず、「聖徒」「聖なる人」と呼んでくださったのです。もし、自分のことを罪人だと考えるなら、どのように生きるのか考えてみてください。おそらく罪人として生活し、罪を犯すでしょう。私たちは自分の本当の存在を認識すべきです。それは罪を犯すことがあるかもしれませんが、「聖徒」なのです。

 

4.義とみなされている

 

ローマ324-26「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」私たちが義と認められるのは、だれがどのようなことをなされたからですか?キリスト・イエスによる罪の贖いのゆえにです。義と言う意味は、道徳的に正しいという意味ではありません。この世に道徳的に正しい人がたくさんいるかもしれません。しかし、神の義は人間の義とは全くレベルが違います。行ないにおいて、思いにおいて、性質において100%正しく、神の標準に達しているという意味です。それを測るために、律法という尺度があります。十戒をはじめとして、宗教的な律法、社会的な律法が何百とあります。いくらイエス様が神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛すると2つにまとめたとしてもです。人に腹を立てたり、ばか者と呼んでも罪になります。異性を情欲いだいて見ても罪です。偽りの誓いやむさぼりも罪ですから、もう数えきれないほどの罪を犯していることになるでしょう。でも、神さまは行ないとは別の義を与えるとおっしゃいました。それは、キリストを信じる人に与えられる神の義であります。学校では裏口入学は禁じられており、試験を受けることが必要です。しかし、律法の試験を受けなくても、神の国に入る方法があるのです。イエス様を救い主と信じるなら、すべての罪が免除され、義とされるのです。なぜなら、イエス様が私たちのすべての罪を贖ってくださったからです。さらに質問を続けます。「神さまは罪に対してお怒りになりますが、キリストにあってどう変わられたのでしょう?」はい、キリストの血によって怒りがなだめられたので、もう怒っておられません。「その血による、また信仰による、なだめの供え物になられた」とはどういう意味でしょうか?「なだめ」とは、異教的な響きがありますが、そうではありません。高木慶太師は『信じるだけで救われるか』と言う本でこう述べています。「なだめ」とは、キリストが人類の罪の代価を支払うために、ご自分の命を捨ててくださったことにより、神の義の要求と律法の要求が満足させられ、罪に対する神の怒りがなだめられたことを意味する。アーメン。

 

もう一度お聞きします。神さまはどのような人にご自分の義を与え、義と認めてくださるのでしょうか?イエスを信じる者を義とお認めになる」とあります。これは法的な意味であり、実質的にそうだという意味でありません。たとえば、エジプトを脱出する前の夜、こういうことが命じられました。羊を殺して、その血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がその血をご覧になれば、さばきが通り過ぎるということでした。家の中にいる者は、善人、悪人関係がありません。血が塗られている、家の中にいさえすれば、神の怒りが通り過ぎるのです。同じように、その人がキリストが流された血を受けているなら、神の怒りが通り過ぎ、さらには義と認められるのです。人々や裁判官が何といおうと、宇宙で最も権威がある神さまが「あなたは義だ。あなたは正しい」と言われるのです。悪魔があなたを訴えるなら、「私はキリストの血によって義とされている。文句があるなら神さまのところへ行きなさい」と言えば良いのです。最後にもう1つ質問します。「罪の赦しと義と認められることの違いは何でしょう?」これは、クリスチャンでも誤解している内容です。罪の赦しと義と認めれていることとは厳密には違います。罪の赦しとは罪を犯さない元の状態に戻ることです。罪を犯した状態がマイナスであります。マイナスがとても大きな人もおれば、さほどでない人もいるでしょう。でも、罪を犯した罪人であることには違いがありません。その人が赦されると、プラスマイナスゼロの地点まで行きます。「罪赦されて良かった!」これだけでも、すばらしいことです。では、義と認められるとはどういう意味でしょうか?それは、神さまに受け入れられる状態まで高められることです。プラスマイナスゼロの地点よりも、ずっと高いところです。アダムの罪が赦されたならプラスマイナスゼロです。しかし、イエス様によって与えられる神の義は、もっともっと高いところです。義というのは、いわばプラスプラスの位置と言えます。

 

 私たちクリスチャンはプラスプラスの位置からスタートするべきです。多くの人たちは、マイナスからスタートしてなんとか頑張って、プラスマイナスゼロへ行けたら良いと思っています。しかし、クリスチャンの身分はどうでしょうか?4つありました。高価で尊い存在です。神の子です。聖徒です。義とみなされている存在です。努力する前に、神さまからそのように見られているとは何という幸いでしょう。人となられたイエス様もそうでした。イエス様が30歳になられたとき、ヨルダン川でバプテスマを受けました。神の御霊が鳩のようにイエス様の上にくだられました。それは、メシヤの就任式ともいえるものであり、その時から公生涯がスタートします。その時、天からこのような声がありました。「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(マタイ317)。イエス様はまだ何もしていないのに、父なる神さまから是認されていました。イエス様は神さまから認められるために頑張ったという記事はどこにもありません。イエス様は朝早く起きて、父なる神様と交わったことでしょう。その時、「お父様、今日は、カペナウムに行って病人を癒しますよ。人々に福音を伝え、死んだ人がいたらよみがえらせてあげますよ。ぜひ、私の働きを見ていて下さい。」そんな風には祈らなかったと思います。なぜなら、父なる神さまはイエス様に満足しておられたからです。イエス様は父なる神様から認められるために頑張る必要はありませんでした。なぜなら、ご自分は神の子であり、父なる神さまから愛されているという基盤があったからです。私たちの家事や仕事はどうでしょうか?私たちの奉仕はどうでしょうか?神さまから、あるいは人々から認められるためにやっているとしたら寂しい感じがします。私たちはマイナスの地点から始めなくて良いのです。私たちがキリスト様を信じただけで、父なる神さまは喜び、満足してくださいました。私たちはプラスプラス、つまり恵みの地点からスタートすべきです。この世では、人から認められない時、評価されない時があるかもしれません。しかし、聖書は何と言っているでしょうか?「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」「あなたは王子であり、王女だ」「あなたは聖徒であり、義と認められている」ハレルヤ!天と地を造られたお方、最も権威あるお方が、あなたを認めておられるのです。どうぞ、自分を誇りに思ってください。プラスプラス、つまり恵みの地点にいることをお忘れなく。

 

|

2015年3月 6日 (金)

罪の結果からの救い ローマ5:12-21 亀有教会 鈴木靖尋 2015.3.8

 

 罪というのは、おそらくキリスト教の独特な概念かもしれません。そもそも聖書が言う「罪」とは、犯罪とか道徳的な罪ではありません。神さまご自身に背くとか、神さまの律法に違反しているという意味です。つまり、源である神さまとの関係が壊れてしまったので、様々な罪が発生したと考えるべきです。現代の私たちは様ざまな罪の結果で苦しんでいます。もし、私たちが根本的な解決を求めるならば、罪の初めに遡る必要があります。つまり、罪のはじまりを解決したならば、後の私たちも罪の結果から救われるのではないかということです。

 

1.罪のはじまり

 

ローマ512「そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」ローマ519「すなわち、ちょうどひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるのです。」1つ質問させていただきます。一体、だれのどのような行為によって人類に罪が入ったのでしょうか?「ひとりの人」と書いてあります。パウロは、「ひとりの人」というのは、アダムと言っています。アダムはどんな罪を犯したのでしょう?神さまから「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言われていました。それは神さまの命令に対する不従順であります。つまり、ひとりの人、アダムの不従順によって罪が世界に入ったということです。二つ目の質問をさせていただきます。罪と一緒に何が人類に入ったのでしょうか?「死が入った」と書いてあります。創世記2章を見ますと、神さまはアダムに「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました。では、アダムがその木の実を食べたとき即座に死んだでしょうか?即座に死んだのは霊であります。霊が死んだ代わりに魂が異常に発達しました。しかし、その後どうなるのでしょうか?神さまは「あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから」と言われました。これは肉体的に死ぬということです。アダムは930歳で死にました。「え、そんな馬鹿な?」と言われるでしょう。しかし、神さまはアダムが永遠に生きるように造られました。でも、罪を犯したので死んだのです。930年は永遠と比べたら短いのではないでしょうか?それだけではありません。最後は霊魂が裁かれる永遠の死がやってきます。神さまは人間の霊魂を永遠に生きるように造られたので、永遠の火によって滅ぼすしかないのです。こういうわけで、アダムが犯した罪のゆえに、霊的死、肉体の死、そして永遠の死が人類に入ってしまいました。

 

あなたは「それは不公平だ」と思われるでしょうか?それとも、「アダムが一番悪いんだ!」とアダムを責めるでしょうか?テキストに「あなたはアダムによって連帯責任を負わされていることを認めますか?」と書いてあります。「連帯責任」ということばは、良い響きがしません。学校ではクラス全員が連帯責任を負わされるということがあります。高校野球でも部員が悪いことをすると、甲子園に行くことができません。私は会社に入る前、2週間くらい、自衛隊の訓練学校で研修を受けました。富士山の南側にあるのですが、新入社員を自衛隊式にたたきなおすようなところです。朝600に起床し、布団を決められたとおりたたみ、グラウンドに集合して、国旗掲揚をします。遅刻すると、その班全員が腕立て伏せ50回やらされました。それだけではなく、何かあると「連帯責任」を取らされました。「人に迷惑をかけてはいけない」「人の足をひっぱってはいけない」という価値観を入れられた感じがいます。私は小学校のときから、そういうのが大嫌いでした。遠足のバス時間に遅れたり、体育のクラスに遅れたり、提出物を忘れることがよくありました。みんなに合わせるということがとても苦手で、何よりも苦痛でした。聖書でも、アダムが犯した罪によって、私たちに死が入り、連帯責任を負わせられるというのはとても我慢できません。でも、逆も考えられるのではないでしょうか?人類の希望はどこからやってくるのでしょうか?パウロはちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」と言いました。ひとりの従順とは、キリストの従順であります。キリストの従順によって、多くの人が義人とされるのです。これもある意味ですばらしいことではないでしょうか?ただ問題は「多くの人」と書いてあるところです。パウロは「すべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」とも書いています。これは、すべての人が救われるチャンスが与えられるけれど、受け取らなければならないという限定付きではないでしょうか?アダムは神との契約を違反して堕落しました。この解決は、キリストによってもたらされた新しい契約を結ぶ必要があるということです。死はアダムの罪によってすべての人にやってきましたが、キリストが命をもたらす特効薬であるということです。

 

2.罪の結果

 

創世記316-19女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」この箇所はキリスト教会で度々引用されます。この世は、なぜ理不尽に満ちているのかを知る手がかりになります。また、質問をさせていただきます。アダムとエバが罪を犯した結果、自然界にどのような呪いが入ったのでしょうか?「土地が呪われてしまった」と書いてあります。それまでは、土地がひとりでに実を結ばせました。ところが、アダム以来、人は一生、苦しんで食を得なければならなくなりました。さらに悪いことに、土地はいばらとあざみを生えさせるようになりました。これまで人間のために良くしていた自然界の生態系が狂ってしまいました。人間に害を及ぼすような害虫や病原菌、ウィルスも発生したのではないかと思います。それまでは、アダムは自然界を支配する力が与えられていました。しかし、罪を犯してからその力がなくなりました。なんと、サタンがその力を横取りしたのです。サタンが「この世の神」と言われているのはそのためです。ルカ4章で、悪魔はイエス様に「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と言いました。もし、それが嘘であったなら、イエス様は「馬鹿こけ!これは神さまのものだ」と一蹴できたはずです。しかしイエス様は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」とみことばを引用して誘惑を退けました。さまざまな天災、戦争や悪、不条理がはびこっているのは、サタンが背後にいるからです。神さまのせいではありません。アダムが罪を犯したために、被造物が虚無に服してしまったのです(ローマ820)。

 

では、男性にどのような呪いが入ったでしょうか?「顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」と書いてあります。英語のlaborは、労働という意味ですが、「骨折り、努力、憂き世の務め」という意味もあります。また、laborは分娩、お産、陣痛という意味もあります。日本人は「頑張る」という言葉が好きです。家でも学校でも「頑張れ!頑張れ!」と言います。でも、「頑張り」はあまり聖書的ではないと思います。創造主である神さまを除外して、自分の力だけで生きるイメージがあります。「顔に汗を流して」という表現は、必ずしも良い表現ではありません。そこには労働に対する呪いがあるように思います。それまでは、土地自身が食べる果実を生産してくれました。ところが、土地が呪われてからは、人間が必死になって働かなければ、食べていけなくなったのです。つまり、頑張らなければ生きてゆけなくなったのです。では、「なまけたら良いのか」と言っているのではありません。日本では勤勉や勤労が美徳とされていますが、必ずしも良きものを生み出すわけではないということです。そのため家庭が崩壊したり、健康を損ねたり、我欲やむさぼりによって罪を犯すことがあるからです。では、女性にはどのような呪いが入ったでしょうか?苦しんで子を産まなければならない」とあります。産みの苦しみです。さらにもう1つ、「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる」とあります。これは、両者の間に軋轢が起こるようになったということです。最後に、人間はどうなるのでしょう?土に帰る。ちりだから、ちりに帰らなければならないということです。ヘブル927人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」これが、生まれつき人間の定めです。だれも、この呪いと死から免れられることはできません。

 

3.罪の解決

 

神さまはアダムとエバが堕落した直後に救いの道を備えておられました。それは原始福音と言われるもので、新約聖書の福音の型(予表)であります。それは2か所記されています。第一は、創世記315「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」第二は、創世記321「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」第二の方は、グッドニュースの時にお話ししましたので、省略させていただきます。では、「おまえの頭を踏み砕く」という預言はどのように成就しましたでしょうか?これは主がサタンに語っていることばです。まず、「お前と女との間に」「お前の子孫と女の子孫」と言われているのが面白いですね。最初、誘惑にまけて罪を犯したのは女であるエバであります。しかし、アダムはかしらとしての責任を果たしませんでした。神さまは汚名挽回をさせるかのように女性を通して救いを成し遂げたいと思っていらっしゃいます。女の子孫とはだれでしょうか?イエス様は、おとめマリヤから生まれました。それでは、サタンの頭を踏み砕くという預言はいつ成就したのでしょうか?それは、イエス・キリストが十字架にかかって、贖いを成し遂げたときです。イエス様は十字架で「完了した」(ヨハネ1930と叫ばれました。多くの人たちは「イエス様が勝利したのは復活した時でしょう?」と言います。そうではありません。イエス様は十字架の上で既に勝利していたのです。イザヤ書53章は十字架を預言している書物ですが、最後に何と書いてあるでしょう?イザヤ5311-12「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。… それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」とあります。サタンは人々がイエス様を十字架に付けて、彼が死ぬように仕向けました。それは、まさしく「彼のかかとにかみつく」という預言の成就であります。確かにイエス様はかかとをかみつかれました。でも、十字架の死と復活によってサタンのかしらを踏み砕いたのです。かかとよりも、かしらの方が致命傷であります。

 

 サタン、あるいは悪魔には最大の武器があります。それは人々の罪を訴えるということです。神さまは義なるお方ですから、人の罪をさばかなければなりません。サタンは親切にも「あの人がこういう罪を犯しているのですよ?」とわざわざ神さまのところに訴えます。なぜなら、人類と一緒に自分ももらえるだろうという魂胆があるからです。でも、キリストの十字架はサタンの口を封じ、義人であるイエス様を殺したかどで完全にさばかれました。彼は最終的にはこのようになります。黙示録1210-11「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。…私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」イエス・キリストはサタンの武器を奪いました。どうやってでしょうか?それは、自らが十字架にかかり全人類の罪をあがなわれたからです。これでもう、父なる神の人類に対する怒りがなだめられたのです。言い換えるなら、父なる神が持っておられる義が満足したということです。そのため、サタンがあの人、この人の罪を神さまに告発することができなくなったということです。それに、サタン自身も天から落とされているのですから、神さまのところへ上っていくことはできません。さらに、サタンが持っていたものを私たちがキリストの御名によって奪い取る時代がやってきたのです。健康も、豊かさも、家族関係も、権威も、力も、愛、平和、そして永遠のいのちです。

 

4.罪からの解放

 

私たちがアダムの子孫である限り、アダムの罪とのろいから免れることはできません。アダムから来ている悪いものを一度断ち切る必要があります。英語の聖書ではsinssinに使い分けられています。sinsというのは罪の結果であり、私たちが犯す様ざまな罪です。sinと言うのは、アダムから受け継いでいる原罪というものです。神さまはそのためにどのようなことをしてくださったのでしょうか?ローマ64-7私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」ここに「古い人」ということばが出て来ました。古い人とはアダムに属するすべてものです。アダムから来た罪の性質、アダムから来た死の力、アダムから来た呪いです。「臭いものは元から絶たなければダメ」という格言みたいのものがあります。アダムから来ている悪い流れを断ち切って、良い流れへと移される必要があります。では、どうすれば私たちの古い人であるアダムから解放されるのでしょうか?「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた」あるいは「古い人がキリストとともに十字架につけられた」と書いてあります。これは、私たちがキリストを信じてバプテスマを受けたとき、一緒に死んだということです。バプテスマのもとの意味は浸すとか沈めるという意味です。もちろん、洗礼のことを指します。でも、パウロは「バプテスマとはキリストの死にあずかること、一体となることなんだ」と言っています。

 

私たちは「どうして、2000年前のことが私に成就するのですか?私はまだ生まれていませんでしたよ?」とおっしゃるでしょう。私たちクリスチャンはキリストにつくバプテスマを受けた者です。バプテスマを受けたとは、キリストの中に入ったということです。たとえば、この聖書がキリストだとします。そして、この名刺があなたです。バスプテスマつまりキリストの中に入りました。もう、あなたはキリストの中に一体となっています。さて、このキリストは2000年前十字架につけられて死にました。はい、あなたはどこにいるでしょうか?あなたも、キリストと共に十字架につけられて死んだのです。その後、キリストは葬られました。あなたもキリストとともに葬られたのです。三日の後、キリストは父なる神によって死者の中からよみがえらされました。あなたも一緒によみがえらされたのです。なぜなら、あなたはキリストの中にいたからです。その時、私たちにどのようなことが起きたのでしょうか?私たちがキリストと共に死んで、キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえりました。そのことによって、私たちの古い人が死んだのです。アダムから継続してきた死と呪いと罪の性質が一度遮断されたということです。そして、今あなたはキリストと共によみがえって、新しいいのちを持って生きているということです。牛乳の殺菌法を知っているでしょうか?牛乳を120度以上の高熱の中を2秒間通らせるのです。すると細菌は全部死にますが、栄養成分は全く変わらないそうです。牛乳には人格がありませんが、「うっ」と2秒間死ぬのです。自覚症状はありませんが殺菌されて、前の牛乳とは違います。ハレルヤ!あなたは自分で古い人を死なせる必要はありません。キリストにあって一時、死んだのです。あなたが必要なのは、その事実を「アーメン」と認めることなのです。認める、つまり信じるなら、古い人が死んで、新しいいのちがあなたのものになるのです。

 

そのことをあらわした有名なみことばがあります。Ⅱコリント517「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「うちにある」とは、ギリシャ語の「エン」であり、パウロがよく用いている表現です。つまりそれは、キリストにバプテスマされ、キリストと一体になるということです。また、「うちにある」ということばを、英語の詳訳聖書では「engraft接ぎ木のように合体させる」というふうに訳しています。私たちはアダムの木から一旦切り離されました。古い人に死んだということです。その次に、台木であるキリストに接ぎ木されたのです。キリストが台木で、私たちはアダムの木から取られた挿し穂であります。今までは古い人として、アダムから命をいただいていました。キリストに接ぎ木されてからは、キリストから命をいただくようになったのです。アダムにある古い人は過ぎ去ったのです。そして、私たちは新しい人になりました。霊は一瞬にして新しく生まれました。しかし、魂と肉体はアダムから絶たれましたが、まだ、その中に残留物である肉があります。残念ながら罪の性質が宿っています。しかし、これはキリストにつながりながら聖められていきます。このことは、次の『本当の弟子』というところで学びたいと思います。しかし、だれでもキリストにあるなら、古いものである古い人は過ぎ去ったのです。ハレルヤ!神さまはあなたを新しい被造物にしてくださるのです。私たちの頭の中、からだの中には、古い人の記憶やトラウマがあるかもしれません。しかし、キリストと共に葬りさられたのです。もう、古い人がもたらす縛りから解放されたのです。こんどは、キリストに結ばれ、新しい被造物になりました。人生はやり直しがきくのです。「いや、私はやり直しなくても大丈夫」という人がいるかもしれません。しかし、瓦は磨いても瓦です。決して玉にはなりません。まず、質がダイヤモンドの原石に変えられる必要があります。ダイヤモンドの原石になったら、磨いたら玉になるでしょう。それが、古い人に死んで、新しい被造物になるということです。

 

 

 

|

« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »