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2015年2月27日 (金)

キリストはだれか ヨハネ1:1-3,14 亀有教会 鈴木靖尋

 

 「キリストはだれか」ということが、何故そんなに重要なのでしょうか?この世の中には宗教が数えきれないほど多くあり、それぞれの神さまがおられます。また、救いの方法もまちましです。たとえば、イスラム教徒は私たちとおなじ神さまを信じているはずです。しかし、マホメットもしくはコーランを通して神さまを見ています。そうすると、全く別の神さまになり、全く別な救いを求めるようになります。私たちはキリストを通して、本当の神さまがどんなお方かわかります。また、私たちはキリストを通して、本当の救いをいただくことができると信じます。きょうは「キリストがだれか」4つのポイントで学びたいと思います。

1.受肉者キリスト

この世では人が神になって、拝む対象にまで高められていきます。私たちが他の宗教と異なる点は、神が人となられたということです。多くの人は、クリスマスがキリストの誕生だということは知っているかもしれません。しかし、キリストが、この地上に来られる前、どこにおられたかは知らないのではないでしょうか。ヨハネ11-3「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」キリストは「ことば」(ギリシャ語ではロゴス)というお方として初めからおられました。神とともにおられ、すべてのものはこの方によって造られました。なんと、キリストが世界を創造されたということです。コロサイ116-17「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」このみことばによると、御子であるキリストは万物より先に存在しておられました。そして、見えるものも見えないものもすべて御子によって造られたと書いてあります。聖書全体から考えると、父なる神様は、キリストを通して世界を創造されました。つまり、キリストも世界の創造に参与されていたということです。

世界を造られたお方が、私たちと同じようになられたとは、屈辱的なことではないでしょうか?ヨハネ114「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。「人となって」とは、肉体を持たれて、私たちの間に住まわれたということです。当時のギリシャ世界では、肉体は悪と考えられていました。聖なる神が肉体を持つということはナンセンス、無意味でありました。しかし、肉体を持っている私たちを救うために、キリストは肉体を取られたのです。では、この地上に来られたキリストはどのように証言されているのでしょうか?ひとり子としての栄光があり、恵みとまことに満ちておられました。ある人たちは、恵みとまことは相対するものであり、共存できないと言います。なぜなら、恵みは「まあ、良いか」という甘い響きがあります。一方、まことは「真理以外は受け入れない」という厳しさがあります。しかし、イエス様には恵みとまことの両方があったということです。

少し、神学的になりますが、神の御子であるキリストが、人間を救うために、自ら人間イエスとなられたことを「受肉」と言います。受肉の目的は、人間と同化することによって、贖いをまっとうするためでした。もし、人間が蟻を救いたいなら、蟻になるしかありません。しかし、私たち人間がすすんで蟻になりたいでしょうか?正直、イヤですよね。キリストはそれ以上のことを覚悟して人間になられたのであります。イエス様は私たちと同じ肉体を持ちましたが、罪だけは別でした。神の御子は処女マリヤの胎内に聖霊によってみごもられることによって、人間となられました。自然の誕生であるなら、アダムの原罪を受け継ぎ、身代わりになることができません。そのために、御子は聖霊によって罪から守られ、アダムの子孫として誕生したのです。イエス・キリストは肉体を持った私たちを救うために、天から降りて、人間として来られたのです。

2啓示者キリスト

「神さまを見せてくれたら信じるよ」という人がたくさんいるのではないでしょうか?弟子たちも神さまを見せてほしいと願いました。ヨハネ148-10ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

父とは父なる神さまのことです。では、だれを見た者は、神さまを見たのでしょうか?そうです、キリストを見た者であります。イエス様は「私を見た者は、父を見たのです」と言われました。それでは、イエス・キリストはイコール神さまなのでしょうか?それとも、両者はうり二つなのでしょうか?イエス様は神さまがどこにおられると言われたでしょうか?「私が父におり、父が私におられる」と言われました。では、神さまとキリストはどういう関係なのでしょうか?これは、数学の問題になるかもしれません。第一は、キリストの中に神さまがいるということです。第二は神さまの中にキリストがいるということです。両者は一見矛盾しているように思えます。では、この二つを満たす答えは何なのでしょうか?ここにキリストの円があったとします。もう一方に神さまの円があったとします。この二つ円が全く同じ大きさであるならどうでしょう?両者が重なっているとき、キリストの中に神さまがおり、神さまの中にキリストがいるという式がなりたちます。では、父さまとキリストとはどういう関係なのでしょう?そうです。お互いの人格(位格)は違いますが、神という属性においては全く同じだということです。

では、どのようにすれば、父なる神をもっと知ることができるのでしょうか?ヨハネ14 11「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」イエス様は2つの道を教えられました。1つはイエス様のことばです。イエス様は「私は自分から話しているのではなく、内におられる父なる神です」と言われました。たとえば、マタイの山上の説教を聞いたとき、人々はどう思ったでしょうか?マタイ728-29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」イエス様のことばに権威があったのは、イエス様は父なる神さまによって語ったからではないでしょうか?もう1つはイエス様の行ない、わざであります。イエス様は数多くの奇跡を行ないました。しかし、イエス様は「私のうちにおられる父なる神が、ご自分のわざをおこなわれたのだ」と言われました。決定的な証言がヨハネ5章にも記されています。ヨハネ519「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」イエス様ご自身も神さまですから、自分で意志して、自分で奇跡を行なうことができました。でも、あえてそれらを封印して、父なる神さまが言われるように語り、父なる神の力によってわざを行ったのは何故でしょう?それは、イエス様はご自分を通して、父なる神さまを啓示するためでありました。ご自分が父なる神様の代わりとして地上に派遣されていることを表わしたかったのです。ですから、私たちはイエス・キリストのことばとわざを見るとき、「ああ、神さまはこういうお方なのか?」と知ることができるのです。

 ヘブル11-2「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」自然界を見て、ある程度神さまのことが分かります。預言者たちが書いた聖書を見るとさらに分かるでしょう。それらに比べ、御子イエスは最も完全な神の啓示です。ヨハネ14章では、御父と御子が完全に一体であることを述べられています。私たちは御子イエスを見ることによって、御父を見ることができるのです。なぜなら、御子イエスこそ、最高の神の啓示だからです。

3.贖罪者キリスト

 贖罪というのは、罪を贖うとか、罪を取り除くという意味です。これはバプテスマのヨハネのイエス様に対する証言です。ヨハネ129-30その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。

 もう1箇所、ヘブル人への手紙も引用します。ヘブル914「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」では、一緒に考えたいと思います。旧約時代はどのようにして、人間の罪を取り除いたでしょうか?まず、自分が引いて来た羊や牛の上に手を置いて、自分が犯した罪を告白します。その次に、祭司が代わりにそれらの動物を殺します。つまり血を流すことによって、その人の罪が取り除かれました。手を置くということは、「この動物は私の身代わりです」という意味です。本来なら自分が罪のために死ななければならないところを動物が代わり殺されました。なぜ、祭司は祭壇に動物の血を注いだのでしょうか?レビ1711「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。…いのちとして贖いをするのは血である。」と書いてあります。つまり、いのちである血でしか罪の贖いを成し遂げることできないからです。旧約時代は何百万、何千万の羊や牛が殺されました。それは、罪はただでは赦されない、代価が伴うということを教えています。罪を犯した人たちは、自分の代わりに動物が血を流して死んでいく様を見てどう思ったでしょうか?「ああ、もうあのような罪を犯すのはやめよう」と心に誓ったことでしょう。でも、動物の血では限界がありました。なぜなら、心が変わらなかったからです。エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあります。

では、キリストはどのようなお方として来られたのでしょうか?バプテスマのヨハネは「世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。なぜ、イエス様が神の小羊なのでしょうか?イスラエルの民はエジプトに奴隷として捕えられていました。モーセが何度もパロに交渉に行きましたがダメでした。脱出の決め手になったのは何でしょう?主は「1歳の羊を殺して、その血を家々の二本の門柱とかもいにつけなさい」と命じました。血が塗られている家は主の怒りが通り過ぎるということでした。もちろん、パロやエジプトの人たちはそれをしませんでした。だから、彼らの長子という長子が主の使いによって殺されてしまいました。それで、パロはイスラエルの民を手放したのです。エジプトはこの世、パロはサタンを象徴しています。そして、羊の血とは、十字架で流されたイエス様の血潮です。父なる神さまはイエス様が流された血をごらんになって、人類の罪を裁かないということをお決めになられたのです。赦しの条件はキリストによってなされた十字架の贖いを自分のものとして受け取るということです。クリスチャンとはキリストの血が塗られた人であります。その人からは、罪のさばきが通り過ぎるということです。

では、キリストの贖いを受けた人には、どのような変化が訪れるのでしょうか?ヘブル914「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」良心がきよめられ、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者となるということです。「良心が一体どこにあるのか?」これは永遠の謎かもしれません。ウィットネス・リーという人は、良心は霊の一部であると言っています。イエス様を信じると死んでいた霊が生き返ります。そのとき、良心も再生して正しく機能するようになるということです。この世の人たちは良心が麻痺している状態です。いくら道徳や厳しい罰則によって外側から正そうとしても無理です。ですから、まず第一に良心を目覚めさせる必要があります。良心が生まれかわり、罪責感が取り除かれるとどうなるでしょうか?ヘブル101922「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。…そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」キリストの血が私たちの良心をきよめてくださいます。そして、私たちはキリストの血を通して、大胆に神のみもとに近づくことができるのです。キリストは贖罪者です。

4.仲介者キリスト

 聖書には新約聖書と旧約聖書があります。英語で新約聖書は、New testament新しい契約という意味です。また、旧約聖書は、Old testament古い契約という意味です。キリスト教は契約の宗教と言っても間違いありません。日本人は農耕民族なので、あまり契約という概念がありません。なぜなら、人間的に親しく、明日も同じところに住んでいるからです。しかし、大陸の人たちは、契約ということがとても重要でした。なぜなら、彼らは今日会っても、明日は会えないかもしれないからです。人間関係よりも、契約の方が重んじられていました。では、初めの契約、アダムと神との契約はどうなりましたか?神さまは「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と言われました。ところが、アダムは善悪の知識の木から取って食べました。それは契約違反したことになります。そのため、アダムは死ぬことになり、エデンから追放され、地が呪われてしまいました。パウロは「ひとりの違反によってすべての人が罪に定められた」(ローマ518)と言っています。他にも旧約聖書にはたくさんの契約があります。ノアの契約もあります。主は「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水で断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはしない」(創世記911)と約束されました。その次はアブラハム契約があります。主はアブラハムに「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する」と言われました。さらにその次は、シナイ契約があります。主はイスラエルの民に「もし、あなたがたが、まことに私の声に聞き従い、私の契約を守るなら、祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジ195-6)と言われました。その後には、主はダビデやソロモンとも契約を結ばれました。

初めの契約と新しい契約の違いは何でしょうか?ヘブル915-18「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。」 初めの契約はすべて人間と神さまの間でなされたものです。しかし、新しい契約は仲介者なるキリストを通してなされました。人類が神さまと結んだ契約はすべて失敗に終わりました。旧約時代の人々で、神様に100%従った人は一人もいませんでした。しかし、新しい契約は神様と人間が直接かわしたものではありません。人となられたイエス様が、仲介者として来られ、父なる神と契約を結ばれました。人は失敗することがあるかもしれませんが、イエス様は失敗しません。イエス様はご自身の命を犠牲にして父なる神と契約を結ばれました。そして、三日目に復活しました。さて、イエス様が神さまと契約を結ばれたとき、あなたはどこにいたことになるでしょうか?そうです、あなたはイエス様を信じたとき、バプテスマを受けました。バプテスマとは時間を超えて、キリストと一体になることです。ですから、イエス様が父なる神さまと契約を結ばれたとき、あなたはイエス様のからだの中にいたのです。イエス様がかしらになり、イエス様を信じる者がイエス様のからだになりました。新しい契約は神さまと人間が直接交わしたのではなく、イエス様がなされたのです。私たちはそのとき、イエス様のからだの中にいたのです。では、キリストは新しい契約を成立させるために何をなされたでしょうか?ヘブル人への手紙によると「初めの契約のときの違反を贖うために死なれた」とあります。つまり、古い契約の違反をご自分の死によって償いました。もう、古い契約の時代は終わったのです。それだけではありません。イエス様はご自身が血を流して新しい契約を結ばれました。

では、新しい契約とは何でしょう?クリスチャンになっても、そのことが分からない人がいます。実は、契約という意味のtestamentは遺言という意味があります。ヘブル917「遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。」新約聖書はイエス様の遺言と言うこともできます。いつこの遺言が効力を発するのでしょうか?そうです。イエス様が死んだときに初めて有効になるのです。では、契約あるいは遺言の内容とは何でしょう?ヘブル人への手紙によると、その人は罪を取り除かれ、永遠の資産の約束を受けることができると書いてあります。ひとことで言うなら、「救い」を受けるということです。救いを受けた私たちはどこに向かっているのでしょうか?ヘブル1222-24「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。私たちはみことばとキリストにとどまり、契約の内を歩み続けたいと思います。神の都、天にあるエルサレムを目指して歩みましょう。

 

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2015年2月20日 (金)

神との和解 ローマ3:21-26 亀有教会 鈴木靖尋牧師 2015.2.22

 

 教会で「救い」と言うときに、いくつかの見方があります。まず、「永遠の命」などのような生命的な見方があります。ヨハネはそういう表現をよく用いました。もう1つは、法的な見方です。聖書は契約の書物であり、律法とか十戒とか刑罰とか、みな法律用語です。パウロはどちらかと言うと、救いを法的な見方で解き明かしています。ローマ人への手紙はその典型です。私たちは、以前は神さまと敵対関係でありました。犯した罪が裁かれて滅ぼされる運命にありました。しかし、キリストの十字架によって和解の道が備えられました。クリスチャンというのは、その和解をいただいた人たちであります。その結果、私たちは神との和解、神との平和を得ているのです。

 

1.生まれながらの人間の状態

 

 聖書は生まれながらの人間の状態をこのように述べています。ローマ310-12「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」義人という言葉は、一般には使われないかもしれません。義人はもともと「神の義にそむかずその掟を守る人、法律、習慣を遵守する人」という意味があります。つまり、人と比較した正しさではなく、神の義を全うしている人のことであります。そういう意味で、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない」と言っているのです。さらに暗いことに、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」と言っています。最初にこんな言葉を聞いたら、「もういいです。帰ります」と言いたくなるでしょう。『字のない絵本』という福音を伝える道具があります。4枚の色画用紙をめくりながら話すのですが、最初は黒い紙です。これは「義人はいない。だれにでも罪がある」という人間の状態です。2枚目は赤ですが、キリストが十字架で流された血潮です。3枚目は白です。これは罪の赦しを意味しています。そして、4枚目は金色で天国と栄光の姿を意味しています。最近は、黒で始まると希望がないので、金色から始める方法もあるようです。「あなたも天国に行きたいでしょう。栄光の姿に変えられたいでしょう?では、どうしたらそうなるのでしょうか?」と始めるのです。どちらが良いでしょうか?

 

 ローマ人への手紙はどちらかと言うと黒から始まる話し方です。ローマ323-24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」前半は厳しいですが、後半に良いことが書かれています。洗礼準備会でも話しますが「救いの架け橋」によって、信仰の決断をしてもらいます。このように行ないます。

 

a.この世に神の義(100%の正しさ)に達する人はいるでしょうか?

 

 「ひとりもいません。」そうですね。神さまの前に立てる完全無欠な人はいません。

 

 「いる」と答える人には、「あなたはいつもテストで100点取れますか?」と聞きます。

 

b.人間はどうして、神の栄誉(救い)を得ることができないのでしょう?

 

 「すべての人は、罪を犯したので」と書いてあります。

 

そうですね。アダムの罪と先祖が犯した罪と個人で犯した罪のゆえに、神の栄誉を受けることができません。ところで、「すべての人」の中にあなたも含まれていますか?

 

「いいえ」と答える人には、「聖書で嘘は罪ですと言われていますが、あなたはこれまで1回も嘘をついたことはありませんか?」と尋ねます。「ありません」と言う人は罪人のかしらです。

 

c.上の図からすると、罪ある人間はどのような運命のもとにありますか?

 

 「死、さばき、滅びです。」そうです。この滅びとは永遠の死であり、地獄のことです。

 

d.無償で、義と認められる、救われるために神様が用意されたものは何でしょう?

 

 「永遠の命、天国です。」そうです。神さまのところには、死とさばきと滅びはありません。

 

 第一のポイントをまとめるとこのようになります。使徒パウロはローマ人への手紙3章で、ユダヤ人と異邦人の区別をせず、人間はみな神の前では罪人であるということを入念に論証しています。罪とは何でしょう?消極的に見るならば、欠陥、間違い、失敗です。積極的に見るならば、違反、不法、正義の侵害と言えるでしょう。いずれにしても、人間には罪があるので、義なる神さまのもとに到達することはできません。もし、それを認めない人がいるなら、十戒という神が定めた規準を実行してみたら良いでしょう。神の前では実際に罪を行わなくても、人を心の中で憎んだり、情欲を抱いたり、むさぼることも罪です。罪ある人間の将来は、死後、神の前でさばきを受け、永遠の死(滅び)しかありません。世の中には数えきれないほどの宗教がありますが、罪の解決を与えてくださるのはイエス・キリストだけです。

 

2.イエス・キリストのみわざ

 

キリストのみわざを説明するために、2つのみことばを提示したいと思います。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ローマ325「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」アーメン。

 

a.神さまは、どれくらい、世(人類を代表する被造物)を愛されたのでしょう?

 

 「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。」

 

 そうです。「与える」とは、キリストを十字架の死に渡すほど人類を愛されたということです。                       

 

b.罪を犯した人間が、救いを得なかった場合、どうなるのでしょう?

 

 「滅びる」と書いてあります。

 

 そうです。滅びるとは神さまから引き離され、永遠の滅び(地獄)に投げ込まれます。

 

c.神さまの人間の罪に対する怒りはどのようになだめられたのでしょうか? 

 

 「キリストが流された血によってなだめられた」と書いてあります。

 

 そうです。キリストがご自身の命で代価を支払ったので、神さまは人類に対して怒ることを取り下げたということです。もう、神さまは私たちのことを怒ってはおられません。

 

d.主にあって、あなたがこれまで犯した罪はどうなったでしょうか?

 

 「すべての罪は十字架で既に赦されているということです。」

 

 そうです。キリストは将来、私たちが犯すであろう罪の分まで支払ってくださったのです。

 

 一番、最初に「救いの架け橋」の図をお示ししました。人間の行ない、つまり道徳や宗教、哲学では義なる神さまのところには到達できません。なぜなら、神さまは常に100%の正しさを求めるからです。ですから、神様の前に誰一人、自力で救いを得られる人はいません。ところが、救いの御手は神さまの方から伸べられました。なんと、ひとり子イエスをこの地上に遣わして、くださったのです。何のためでしょう?イエス様は人間となって、私たちが行えなかった義なる生活を行なわれました。罪のない生き方をされたのです。神さまは義なるお方なので、1つの罪でもさばかずにおれません。そのため、イエス様は私たちの罪の身代わりになって、神さまの刑罰を受けられたのです。その後、父なる神さまは、イエス様を死人の中からよみがえらせました。それは、イエス様がすべての罪の代価を支払ったという証拠です。それまで、人間と神さまの間に渡ることのできない深い淵がありました。ところが、イエス様の十字架と復活によって、両者の間に橋がかけられたということです。ハレルヤ!松戸の矢切に行きますと「矢切の渡し」という名所があります。昔は橋がなかったので、船頭さんに渡し賃を払って、千葉県に行かなければなりませんでした。千葉県側の人も、江戸に来るときはそうでした。しかし、現在は立派な橋がかかっています。料金はかかりません。なんと便利なことでしょう。新約時代の私たちは両者の間に橋がかかっている状態です。

 

 第二のポイントをまとめるとこのようになります。人間が救いを求める前から、神さまの方から先に救いの御手をのべてくださいました。福音とは人に何かを「せよ」と呼びかけるのではありません。神さまが人類のために、イエス・キリストにおいて何かをしてくださったということを告げる良い知らせなのです。神さまがひとり子をこの世に与えたのは、私たち人類を罪から贖うためです。神の義は、一点の罪をも見逃すことができません。イエス・キリストは私たち人類の罪を十字架上で負って、さばきを受け、神から捨てられました。その結果、人間の罪に対する神の怒りがなだめられたのです。もう、神さまは怒ってはおられません。和解の手は神さまから伸べられているのです。その手をあなたはつかむでしょうか?それとも「私は結構です」とその手を振り払うでしょうか?

 

3.信仰による救い

 

ローマ320-23「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…。」もう一度、くどいようですが、律法は何かということをお話ししなければなりません。なぜなら、律法による救いと信仰による救いは両極のものだからです。また、日本人は律法ということばがよく分かりません。一般的な法律用語の「立法」を思い出してしまうからです。律法とは神さまの私たちに対する要求です。どんな要求があるかと言うと、十戒をはじめとするさまざまな律法です。詩篇119篇は聖書の中で最も長い章です。その中に「律法」を他のことばで表現していますので、とても参考になると思います。「みおしえ」「さとし」「道」「戒め」「仰せ」「さばき」「おきて」「ことば」これらは、すべて律法を言い換えたものです。詩篇の記者はこれを愛し、慕い求めています。でも、その反面、律法は私たちに「あなたは完全ではありませんよ。あなたには罪がありますよ」とダメ出ししてくれます。みなさん、いつも自分にダメ出ししてくれる人と一緒にいたいでしょうか?「これ足りませんよ」「ここが良くないですよ」「むしろこうしなさい」。律法は決して「十分です」とは言ってくれません。

 

テキストにはいくつかの質問がありますので、前のポイントのようにお聞きしたいと思います。ローマ320-23を見ながら答えていただくようにお願いします。

 

a.あなたは神の律法(要求)を1つも落ち度なく、守ることができると思いますか?

 

「守ることができません」

 

だれでも、そうだと思います。ヤコブ210「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」と書いてあるからです。

 

b.人間が律法を行ったとしても、得られるものは何ですか?

 

 「かえって罪の意識が生じる」と書いてあります。

 

パウロはこのように言っています。ローマ710「それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました」。

 

c.律法の行いとは別に、神から義と認められる道はありますか?

 

 「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられる」と書いてあります。

 

 「そうです」。行いではなく、信仰による恵みの道です。

 

d.あなたは信仰による神の義(救い)をいただいていますか?このところに1枚の絵があります。

 

 ある人たちは「宗教はみんな同じだ。どの道から登っても良いんだ」と言います。人間の義(正しさ)で、山の頂上までぐらいは行くことができるでしょう。でも、神の義は空の月のようなものです。人間の正しさでは、とうてい神の義に達することはできません。でも、人間はロケットを発明しました。ロケットに乗れば、月に行くことができます。ロケットにあたるものが信仰による救いです。

 

第三のポイントをまとめるとこのようになります。律法を行うことによって神の義(救い)を得る道は不可能です。私たちにはこれまで犯した罪があり、これからの良い行いで帳消しすることはできません。仮に、この世の中に、全く罪を犯したことのない正しい人がいたとします。たとえ、そうであっても人間の義は神の義には到達できません。人間の義が山の頂上であるとしたら、神の義は空の月です。神さまは行いによる義とは別の道を備えられました。それは、あがないを成し遂げられた、イエス・キリストを信じることによって与えられる神の義です。信じるとは、キリストにあってなされた救いを、感謝していただくということです。つまり、救いは行いではなく、神からの一方的な恵みなのです。

 

4.信じた結果

 

ローマ51「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ローマ58-10「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」これらの聖句を見ながら、質問したいと思います。

 

a.信仰によって義と認められた私たちは、何を持っているのでしょうか?

 

 「神との平和を持っている」と書いてあります。

 

 そうです。キリストを信じたことによって、神さまとの和解を得ているということです。

 

b.神さまは、ご自身の愛をどのように明らかにされているのですか?

 

 「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」と書いてあります。

 

 それは、私たちが信じる前から、救われる道を用意しておいてくださったということです。

 

c.将来、私たちが神の前に立ったとき、神の怒り(さばき)を受けるのでしょうか?

 

 「キリストが代わりにさばかれたので、私たちは神のさばきを受けることはないのではないでしょうか?」

 

 「そうです。」クリスチャンは、おそらく神のさばきの前には立たないでしょう。ただし、地上でいかに忠実であったかと問われる「キリストのさばきの座」はあるようです。

 

d.神と和解させられたあなたは、今、何を受けているのでしょう? 

 

 彼のいのちによって救いにあずかると書いてあります。

 

 「そうです。」でも、おかしいですよね。キリストを信じたら救われるのに、もう一度、救いにはずかるのでしょうか?これは私たちの肉体が救われるということです。私たちの肉体がやがて復活されたイエス様のような栄光のからだになるということです。

 

第四のポイントをまとめるとこのようになります。「和解」のギリシャ語は「カタラッソー」であり、それは「変える」ことを意味します。神は決して変わることのないお方ですから、変えられるのは、神の前における人間の立場です。厳密に言えば、この「和解」という概念には2つの段階があります。このことは、高木慶太師が書かれた『信じるだけで救われるか』で詳しく述べられています。第1段階の和解は、キリストの十字架ですべての人のためになされました。つまり、神さまは、キリストの十字架の死によって、人間の立場に対する態度を変えられたのです。神さまはもう怒ってはおられないということです。「和解」の第2段階は、人がキリストを信じるときに経験する和解です。つまり、私たちが神の和解を受け入れることによって救われるということです。使徒パウロはⅡコリント5章でこのように勧めています。「神が私たちを通して、懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」「懇願」というは、相手の前にひざまずいて、「どうかお願いします」とへりくだって願うことです。パウロは「神さまが私たちを通して懇願しておられるようです」と言いました。あの神さまが私たちに対する怒りを引っ込めて、「どうかキリストによる和解を受け入れてはもらえないだろうか?」と懇願しておられるのです。昔、日本に来た外国の宣教師は「キリストを信じなさい。信じなければ地獄に行きますよ」と半分おどしのようなところがありました。しかし、聖書の神様はそうではありません。「どうかキリストを信じて、救われてください」と懇願しているのです。やがて、すべての人が神の前に立たされるでしょう。その時、神さまはその人が犯した罪をさばくのではありません。そうではなく、「罪をあがなわれたキリストをどうして信じなかったのですか?私の和解をどうして受け取らなかったのですか」とさばくのです。どうぞ、キリストを信じて、神との和解、神との平和をいただきましょう。

 

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2015年2月13日 (金)

霊的解放 エペソ4:26-32 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.2.15

 

 悪魔は、私たちの救い、つまり永遠のいのちを奪い取ることは決してできません。しかし、私たちの罪や傷が解決されていない場合、私たちのある一部が悪霊によって束縛されることは十分ありえます。エペソ427「悪魔に機会を与えないようにしなさい」と書いてあります。機会とは、ギリシャ語ではトポスと言います。トポスとは「場所」という意味ですが、ローマ時代、軍隊が敵地に乗り込むとき、作戦行動の拠点となるところをトポスと言いました霊的な意味では、悪魔が人々を支配するために設ける足場です。ただ今から3つの分野でお話したいと思います。

 

1.霊的な罪

 

『チェンジングライフ』のテキストにも書いてありますが、これは偶像礼拝と関係があります。クリスチャンになってから偶像礼拝する人はほとんどいないでしょう。親が偶像礼拝をしていたか、あるいは本人がクリスチャンになる前にしていたかどちらかです。日本は日常生活と偶像礼拝がくっついています。神道では、初詣、安産祈願、お宮参り、七五三、厄払いがあるでしょう。受験や病気、願いごとのために参拝します。仏教では、法事や葬儀でお焼香をします。熱心な人は座禅を組んだり、仏教系の新興宗教に入るかもしれません。他に占いやオカルト、チャネリング、呪文などがあります。昔はこっくりさん、キューピットさんというのがありました。ゲームの中にも呪文を唱えたり、超自然的な力を召喚したりします。漫画にも、ニューエイジ的なものがたくさんあり、知らず知らずのうちに悪霊と関係を結んでしまうこともあるでしょう。全部が危ないというわけではありません。問題はお願いをすると、契約を結ぶことになるということです。たとえば、お宮参りや七五三で、親が「この子をどうかお守りください」とお願いしたとします。もし、そこに悪霊がいたなら、「わかった、そうしよう」となります。親は子どもを悪霊にささげたことになります。向こうは、向こうで「私が両親からお願いされたんだ」という理由があるので、クリスチャンになった後でもその契約は生きています。そういう場合は、神社の名前をあげて、背後にいる悪霊との関係をイエスの御名によって断ち切る必要があります。

 

あんまり神経質になってもいけませんが、中には悪い影響を与えているものもあるということです。症状としては、金縛りにあう、恐ろしい夢を見る、精神的な混乱がある、白昼夢のような幻覚を見るというものです。中には頭の奥で声が聞こえて、「神さまを呪え」とか「だれかを殺せ」と言っている場合もあります。テレビで若い女性が人を殺す事件が何度かありました。大体が悪霊にやられていて、悪霊の声に従っているのではないかと思います。クリスチャンになっても祈れない、聖書を読んでもみことばが入って来ない、罪を犯したくて仕方がない、こういうものには霊的なものがあるでしょう。また、悪霊からくる病気もあります。福音書にてんかんでおしの子どもが出て来ます。また、18年間、病の霊につかれて腰が曲がっていた婦人もいました。マグダラのマリヤは7つの悪霊を宿していました。最悪なのは人格まで占領されて墓場で暮らしていたゲラサ人です。私の家内はずっと偏頭痛で悩んでいたそうですが、洗礼を受けた時から消えたそうです。自分は偶像崇拝をしたことがないのにいつ入ったんだということもあるでしょう。出エジプト記20章には偶像礼拝をした者には、「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」と書いてあります。中には、おばあちゃんが熱心な霊能者であったという人もいます。そういう場合は、家系を伝わって、子どもや孫にまで来るかもしれません。石原先生が、家系図の絵を書いて説明している本があります。外国ではサタン崇拝、魔術、フリーメーソンなどがありますが、背後にはとんでもない強力な悪霊がいます。まるで、エクソシストの世界です。しかし、悪魔や悪霊を過大評価してはいけません。霊的な世界を知り、ちゃんと対処すれば大丈夫です。私たちはエペソ2章にあるように、キリストと共によみがえり、天のところに座っている存在です。肉体と魂は地上にあって悪霊の攻撃を受けるかもしれません。しかし、霊的にはイエス様と共に神の御座にいて、上から攻撃できることを忘れてはいけません。

 

では、具体的にどのようにしたら良いのでしょう。イエス様はこの地上に来られたとき、悪霊を追い出して人々を解放しました。そして、天にお帰りになるときその権威を私たちに与えてくださいました。マルコ1617「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出す」とあります。また、マタイ2818-19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って」と書いてあります。私たちには福音宣教とミニストリーがゆだねられています。「自分は神の子どもなんだ、お前らよりも上なんだ!」と警察官のようにバッチを見せなければなりません。まず、どういうところから悪霊が入ったのか、調べる必要があります。第一のポイントは霊的な罪ですから、偶像礼拝とか占い、オカルト、最後は先祖や両親のことも調べる必要があります。そして、神さまの前で偶像礼拝の罪を悔い改めます。その時、できるだけ具体的な方が良いです。ある場合は言いたくても、口ごもって言えない場合があります。ロープで後ろ手につながれている場合、自分では解けません。だれか他の人がナイフで切ってくれたら簡単です。同じように、霊的な先輩や牧師、スポンサーから断ち切りの祈りをしてもらう必要があります。

 

「解放のリスト」にはもっと具体的なことが書いてあります。招き猫や七福神などの置物、偶像めいた民芸品、お守り、開運グッズも捨てましょうとありました。ただし、自分のものだけを処分しましょう。「家の物は勝手に捨てないように」と書いてありました。最後に祈りの例を紹介いたします。「私は○○の罪を告白します。赦してください。そして、○○の背後に働いた悪しき霊との関係をイエスの御名と血潮によって断ち切ります。アーメン」後からまた思い出すかもしれません、その都度祈ったら良いと思います。特に悪霊現象がある場合は、他の人から祈ってもらう必要があります。体重が10キロくらい軽くなった気がして、霊的にスカッとします。

 

2.魂の傷や罪

 

心の傷や罪に、悪霊がくっついている場合があります。肉体の傷もそうですが、そのままにしておくと黴菌が入って化膿するでしょう。最後には腐って大変なことになります。魂はハート、マインド、意思で構成されています。ハート、つまり情緒的な問題を与えるものは怒りと人を赦さない罪です。エペソ426-27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」これはどういう意味でしょうか?怒りは必ずしも罪ではありません。イエス様も神殿が汚されているのを見たとき、怒りました。しかし、人が怒ったままでいるならば、そこに悪魔が足場を設けることがあるということです。この世では、ある人たちは、怒りを治めることができず、殺人を犯してしまいます。罪を犯してから、「ああ、自分はなんてことをしたんだろう?」と反省するでしょう。でも、後の祭りです。悪魔は、最初は「さあ、殺っちまえ!」とけしかけます。しかし、罪を犯したあと、一変して、「ああ、お前はなんてことをしたんだ。神様もお前を赦さないぞ」と言います。ですから、怒りを持ち越さないで、ただちに悔い改め、仲直りする必要があります。

 

怒りと同じで人を赦さない罪も、悪魔に場所を与えます。マタイ25章に1万タラントの借金を主人から赦してもらったしもべのたとえがあります。ところが彼は100デナリ借金している友人が「もう少し待ってくれ」と言ったのに、赦しませんでした。そして借金を返すまで彼を牢に投げ入れました。その話を聞いた主人は、「私がお前をあわれんでやったように、お前も仲間をあわれんでやるべきではないか」と言いました。マタイ2534-35「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」神さまから赦されているのに、兄弟を赦さないなら、獄吏に引き渡されるということです。神さまが、その人から守りを解いて、悪霊に渡してしまうのではないかと思います。

 

次に、悪霊が私たちを支配する場所はマインド(思い)です。悪魔はいつも私たちのマインドに働きかけようとします。もし、悪魔によってマインドの中に足場(拠点)が設けられるとどうなるのでしょうか?それはコンピューターのプログラムのように働き、考えや行動パターンが自分の意思ではどうすることもできなくなります。1つの習慣みたいになります。私たちの思いがどうして、悪魔の足場となるのでしょうか?マインドの第一は「のろい」です。家族をはじめ、人生で出会う人たちから来るものです。たとえば、「そんなこともできないのか?」「お前は、何をやってもダメだなー」と親や先生から言われたとします。すると自分の中に劣等感ができてしまいます。その人は、人から認められるために一生懸命頑張ろうと、パフォーマンスに走るでしょう。あるいは「あんたは汚い」あるいは「あんたは醜い、可愛くない」と拒絶されたとします。すると自分の中に怒りと拒絶の悲しみが残り、人を心から愛せなくなります。マインドの第二は「内なる誓い」です。サタンは人の中に要塞を築くために、内なる誓いを用いようとします。たとえば子どもが何かのことで怒って、「私はお母さん(お父さん)のようにならない」と誓います。どういうわけか、子どもが大きくなるとそうなってしまいます。私の父は酒乱でした。おそらく私たち子どもは「父親のように酒を飲んで暴れない」と誓うでしょう。しかし、4人兄弟みな酒を飲み暴れる傾向がありました。4人の姉妹は共依存者を助けるようなタイプでした。男性は「決して泣かない」と誓うかもしれません。女性は「結婚しない」と誓うかもしれません。そういう誓いを悪魔が動かして、その人が神さまから祝福を得られないようにします。良い誓いでも同じであり、何らかのプレッシャーに悩まされることになります。先祖がたてた誓いは咎のように子孫に働きます。咎とは「曲げられる」という意味があります。呪いと同じように、悔い改め、主イエスの御名によって打ち砕く必要があります。

 

マインドの第三は「トラウマ」体験から来るものです。アルコール中毒の父親があばれて、恐くなって押入れに隠れました。その子が大人になっても、臆病さが消えません。学校のいじめも子どもにとっては大きなトラウマになります。子供はいかにいじめに会わないか、ということを考え、勉強どころではありません。両親の離婚もトラウマになりますが、一番ひどいのは虐待や性的虐待です。親は世界で最も信頼できる人なのに、その親から虐待を受ける。虐待を受けた子どもは「自分には愛される価値がないんだ」と石の心を持つでしょう。石の心を持った人を、どんなに愛しても、全部、外に流れてしまいます。その人が愛と信頼感を回復するためには、子供のときの何百倍もの愛を受けなければ、差引勘定が合わないのです。

 

魂は非常に複雑で、ハート、マインドの他に意志があります。意志とは自己決定するところです。みなさんはテストとか原稿に対して集中して取り組むことができるでしょうか?あるいはいろんな声とか雑念があって集中できないでしょうか?私は自分の中に自分を否定する自分がいました。混乱があってテスト、作文、絵、図工、製図など時間内にできませんでした。しかし、クリスチャンなって何年かたち、自分を受け入れ、自分を愛してから、自分が一つになりました。英語でいうとintegrate(統合)とか、fusion(融合)と言うのかもしれません。私は自分どうしが協力し、1つになっているので、集中力と能力がとても増し加わりました。チャールズ・クラフトはある本の中で「インナー・ファミリー」と呼んでいます。自己(セルフ)が、世話のかかる子どもから、おせっかいな年老いた者までいる一族を取り仕切っていると言っています。虐待とかレイプによって、悪霊が1つの人格を持って入ることもあるということです。

 

このように癒されていない魂の傷や罪に、悪霊が場所を設けて、その人のある部分を支配するということです。ハートの場合は、情緒的な問題がおこります。マインドの場合はパソコンのソフトのように自分の意志と関係なく動いてしまいます。意志に作用すると、支離滅裂な生き方をしてしまうのでしょう。でも、イエス様は私たちの過去にさかのぼり、私たちの心の叫びをきいてくださいます。魂の癒し主であるイエスさまにお願いしましょう。そうすれば、罪の汚れを洗いきよめ、傷口を癒してくださいます。あなたを健康で健全な神のこどもにしてくださいます。

 

3.身体的な罪

 

身体的な罪とは、悪習慣です。悪習慣とは、救われる前から持っていたものであり、救われた後のものではありません。例えば、クリスチャンになってからタバコの悪習慣を身につけるようになった人がいるでしょうか?また、クリスチャンになってから、麻薬を始めた人はいるでしょうか?そんな人はまずいません。そうです。いつでもクリスチャンの成長を妨げるのは、救われる以前からの罪であり、悪習慣です。悪霊は霊的な存在であり、住む家をさがしています。なぜなら、悪霊は肉体を持っていないからです。彼らが自分の性質を発揮するためには、住むべき家が必要なのです。だから、聖書には「彼らは地を歩き回って。だれかの体をさがす」(マタイ1243-44)と書いてあります。悪霊は絶えず同じ性質を持った住み良い家を探しています。あなたは家を買うときに、あなたの好みに合った家を探すでしょう。同じように、悪霊も自分に合った家を探しています。つまり、悪霊と同じ性格をもった人を探して、そこに住みたいと願っているのです。では、悪霊にそのような場所を与えてしまうのは、どういうプロセスによってでしょうか。悪霊が心の中に入って、その人がそういう性質になるというのではありません。実際は逆です。それは人が心の中に、悪霊にふさわしい性格を育ててしまうからです。たとえば、ある人が心に情欲を育てたとします。いつも「おお、おお」と、ポルノ雑誌やビデオを見ています。女の人を見たら、「おお、おお」となります。そのように長い時間をかけて、情欲の性質ができてしまいます。そのとき悪霊がやって来て、「おお、良い家を見つけたぜ!この家は私と同じ性質だ!」と喜んで入ります。すると、その人の情欲はもっとひどくなり、性的中毒、さらには性的犯罪にまでエスカレートするでしょう。

 

身体的な罪、つまり悪習慣には、他にどんなものがあるのでしょうか?いま上げた性的罪のほかに、ことばの罪があります。悪口、ゴシップ、嘘、不平不満です。私の口には悪口と不平不満があふれていました。家が貧しかったので、母には不平不満をいつも言っていました。父はとても批判的な人でした。兄や姉たちは自分たちのことを自慢し、私を見下げました。だから、私は学校で自己主張し、他の人の悪口を言いました。結婚してから分かりました。家内が私に「あなた、テレビに向かって、馬鹿、馬鹿と言っているわよ!」と。私は人から批判されると、その何倍も返して、戦ってきました。唇に悪霊がいたかどうか分かりませんが、性格の一部になっていたことは確かです。神様が唇の汚れた者を、贖い、ご自分の栄光のために用いるとはすばらしいことです。他に、盗み、ギャンブル、ストーカー、食べ物、薬物、ゲームがあります。最近は依存症と言いますが、昔は中毒と言いました。仕事も中毒になります。もちろん、アルコールも中毒になります。そういう悪習慣の背後に、悪霊がひっついているならどうなるでしょうか?やめたくてもやめられない。自分ではどうしようもなくなります。ますます、下降線をくだり、最後は死です。しかし、渦中にある人たちはどうでしょうか?助けを求めるなら希望があります。多くの場合、それらを否認して、「自分はたいしたことない。いつでもやめられる!」と言います。そういう罪は、光の中に出さなければ、決して解放されることはありません。

 

身体的な罪から解放されるためには3つのことが必要です。第一は自分の罪を言い表すということです。エペソ511-14 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」第二番目は、悪霊を追い出します。「この宮は、キリストによって贖い取られた聖なる宮である。イエスの御名によって出て行け!」と命じます。しかし、それだけだとまた悪霊がやってきます。7人の友達と一緒に「この家にもう一度、入ろう」とやって来ます。第三番目の悔い改め、つまり人格的な変化が必要です。悔い改めはギリシャ語で、メタノイアと言います。メタノイアとは方向を変えるということです。イエス様の時代に、ローマ兵士は行進をしました。「1・2、1・2、1・2、1・2、メタノイア」(方向を変える)。「1・2、1・2、1・2、1・2、メタノイア」(方向を変える)。「1・2、1・2、1・2、1・2、メタノイア」(方向を変える)。これがメタノイアです。メタノイアとは、反対に方向転換するということです。では、情欲の逆は何でしょう。きよい愛です。だから、情欲からきよい愛へと変えることです。盗みをしている人はどうすべきでしょうか?盗むのをやめるだけでは、まだメタノイアしてはいません。「困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働く」ことです。反対のことを行なうために方向転換をすることがメタノイアです。「盗み、盗み、盗み、メタノイア」(方向を変える)。「与える、与える、与える」です。悪口、ゴシップはどうしたら良いでしょう?「ゴシップ、ゴシップ、ゴシップ、メタノイア」(方向を変える)。「建て上げる、建て上げる、建て上げる」です。アルコール中毒の人はどうしたら良いでしょうか?アルコールをやめるだけではなく、こんどはみことばの中毒になることです。こういう依存症(中毒)の場合は、サポートグループに入って、互いに励まし合うことが必要です。

 

どうして悪霊がやってくるのでしょうか?それは生ゴミのたとえと同じです。生ゴミがあると、カラスやねずみがやってきます。多くの場合、カラスやねずみをおっぱらうだけです。でも、また戻ってくるでしょう。そうではなく、原因となる生ゴミを処分したら、もうカラスやねずみは来なくなります。私たちの中に解決されていない罪や傷があるので悪霊がやってくるのです。癒しと解放のために重要なことは、心を開いて愛なる神さまに打ち明けることです。ある場合は、解放を手伝ってくれるスポンサーに打ち明けましょう。心をオープンにしない限り、癒しと解放もありません。まるで、下水道のドブさらいみたいかもしれません。腐ったものや空き缶、ドロドロしたものが出てきます。主は今も生きておられ、霊と心と体が縛られている人たちを自由にしてくださいます。ヨベルの年のように悪魔の奴隷状態から、私たちを解放してくださいます。

 

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2015年2月 6日 (金)

心の癒し イザヤ53:2-5 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.2.8

 

 今から20年くらい前、「心の傷の癒し」ということが言われ始めました。チャールズ・クラフトというフラー神学校の教授が有名です。それからサンフォードのインナーヒーリングも日本に入って来て、それがエリヤハウスになっています。心の癒しは、キリスト教的なカウンセリングの世界を開きました。しかし、問題も出現したことも確かです。心の傷ばかりに目が行って、前向きな生き方ができなくなるということです。残念ながら、この地上において完全に癒されることはありません。たとい弱さが残っても、イエス様の恵みに満たされつつ歩むのが信仰だと思います。でも、救われたばかりの人には、ある程度の心の癒しも必要なことは確かです。

 

1.父なる神の愛を知る

 

 なぜ、父なる神の愛を知らなければならないのでしょう?Ⅰヨハネ2:14 「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」とあります。信仰を持ったばかりの人は、父なる神さまを知る必要があるということです。私たちはお祈りするとき、「天のお父様」とお祈りします。父という名前を聞くと、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い出します。日曜学校の先生が、子どもたちに「天の神さまは、あなたがたのお父さんのような方なのですよ」と教えました。そうしたら、次の週からある子どもが来なくなったそうです。その子は「そんな神さまだったら、いらない」と言ったそうです。地上の父が、愛があって優しいならば、父なる神さまを信じるのはそう難しくはないでしょう。ところが地上の父自身に、心の傷や葛藤があって、父らしく振舞えないのです。そのため、子どもたちが天の神さまに、悪いイメージを持ってしまうのです。

 

 サタンは、家庭を破壊して、人々が神さまのところに来ないようにしています。マラキ45-6「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」エリヤハウスはこのところから取られた癒しのミニストリーです。エリヤハウスについては、後で語らせていただきます。このところで言わんとしていることは、世の終わりは父と子との関係が悪くなり、両者に和解をもたらすエリヤの働きが必要だということです。だれが父と子の関係を悪くしているかと言うとサタンであり悪魔です。サタンは創世記3章で夫婦の関係を破壊し、さらに兄弟同士の関係も破壊するように仕向けました。罪の背後にはそれをけしかけているサタンがいます。世の終わりが近づくと、父親の権威がなくなり、良い模範も示すことができなくなります。多くの若者たちは本当の父を探し求めています。「私を本当に指導してくれる親みたいな人はいないか?」と探しています。残念ながら学校の先生にそういう人はほとんどいません。いるかもしれませんが、私は巡り逢いませんでした。カルト宗教に誘い込まれ、洗脳され、反社会的な生き方をする人もたくさん起こりました。世の終わりは、ルカ15章のように、放蕩している若者が大勢いる時代ではないでしょうか。

 

 テキストに「壊された父のイメージの例」としていくつかあげられています。第一は、厳格で独裁的な父です。第二は業績をあおり、ほめてくれない父です。第三はコミュニケーションを持たない無口な父です。第四は優柔不断でいい加減な父です。もし、地上の父親が厳格で独裁的であったなら、神さまも閻魔大王のように怖い目で睨んで、雷を落とすようなイメージを持つでしょう。インドネシアのある牧師はとても厳格で厳しい牧師でした。彼が家に帰ると、子どもたちは車の音を聞くだけで自分たちの部屋に入りました。その人がエディ・レオ師の集会に出たとき、自分の小さいときを思い出しました。彼はとてもやんちゃで、あるとき父親の豚を売って、その金で友達と遊びました。父親は烈火のごとく怒り、息子を木に縛り付け、木の棒で叩きました。息子は「お父さんやめて」と大声で泣きました。お父さんは「泣くな!」と言ってさらに叩き続けました。泣き止まないので、彼の片方の耳をナイフで切って「これを食え」と言いました。そんな父親を決して赦すことができませんでした。不思議なことに自分が大きくなったら、父親と同じようになっていたのです。彼は神さまの愛に触れて、自分の父を赦しました。不思議なことに3日後、父親がジャングルから息子が出ている集会にやってきました。そこで、二人が和解したということです。その時から彼は全く変わったそうです。

 

 もし、業績をあおり、ちっともほめてくれない父親だったらどうでしょう?神さまが天から「もっとできるはずじゃないか。なまけているんだろう」と言っているよう思えます。私も少し前まではそうでした。「使徒パウロはあんなに伝道したのに、お前は何だ。歯がゆいぞ!」と背中から水をかけられているような感じがしました。私は恵みを知るまでは、業績志向の塊でした。また、コミュニケーションを持たない無口な父だったらどうでしょうか?「お父さん、きょうテストで100点取ったよ」「うん」と言っただけで新聞を読んでいます。「お父さん、きょう運動会で1位だったよ」「うん」。もし、そのようなお父さんでしたら、お祈りするのが大変でしょう。2,3分祈っただけで、もう祈りが途絶えてしまいます。神さまは何も答えてくれない無口な方だと思っているからです。また、自分の父が優柔不断で、いい加減な父だったらどうでしょうか?お酒を飲み、ギャンブルにお金をつぎ込み、家庭をちゃんと治めることができない。子どもたちからもお金をせびるような父でした。その子どもがクリスチャンになったらどうでしょう?「ああ、神さまに頼っても仕方がないな。自分でやるしかない」と独立的な生き方をするでしょう。独立することは悪くはありません。その人は父を軽蔑したために、世の中の権威ある人さえも尊敬しなくなるでしょう。

 

 私の父は国鉄で働いていた時はとても子煩悩だったようです。集団解雇になってから、おかしくなり、毎晩酒を飲んでは暴れるようになりました。板金工をしていましたが、雨が降ると仕事がないのでよく魚釣りをしました。収入が少ないので、兄や姉のかせぐお金がたよりでした。父はお酒が入ると顔つきが変わり、母をよく殴りました。私たち子どももよく怒られ、火箸を振り回して追いかけられました。子どもたち同志もよく喧嘩し、父はそれを治めることができませんでした。父はプライドが高く、他の人たちのことを批判していました。私には「人を利用しても良いから偉くなれ」と言いました。私は家内から文句が多くて批判的だと言われるのは父の影響を受けているからかもしれません。家庭を経済的にも道徳的にも正しく治められない父でした。そういう家庭で育った私はいつも不安と恐れがあり、身を落ち着ける場所がありませんでした。学校は大嫌いでしたが、家よりはましだったので、不登校にはなりませんでした。25歳でクリスチャンになりましたが、「父なる神さまの愛」については、ぼんやりしていました。2000年インドネシアから来られたエディ・レオ師の集会に行きました。愛知県の蒲郡、そしてジャカルタにも行きました。亀有から8人くらい連れて、札幌にも行ったことがあります。ある時、エディ・レオ師が集会の最後にビデオを見せてくれました。このような内容です。

 

 ハワイにスポーツ・トレーナーのお父さんがいました。彼には息子がいましたが、生まれたときから、歩くこともしゃべることもできず横になっているだけでした。この子が大人になったある日、手話で「お父さん、ボクには夢があるんです。ボクはトライアスロンのレースに参加したいんです」と伝えました。お父さんは涙を流しました。そして、彼は祈りました。「神様、どうぞ、道を開いてください。私の息子がレースに参加できるように道を開いてください」。そして彼は何年もかけて準備をしました。ある日、ハワイでトライアスロンのレースがありました。そのトライアスロンは水泳3㎞、自転車130㎞、長距離走30㎞と3つの種目を合わせたとても過酷な競技です。委員会の人たちは「どうやってハンディを負っている人が、このレースに参加できるんだ」と反対しました。お父さんは説明しました。「私の息子は泳ぐことができません。でも、私は長い間かけて、彼のために小さなボートを用意しました。私がそのボートを引っ張りながら泳ぎます。私の息子は自転車に乗れません。この自転車の前に椅子を取り付けて、彼をそこに乗せます。私の息子は走れません。でも、私は彼を車椅子に乗せて、私が彼を押します」。委員会の人たちはそれを聞いて涙を流して許可を与えました。レースが始まり、水泳と、自転車と、マラソンをしました。日没前にみんなゴールをしました。人々は、このお父さんと息子さんがゴールするまでずっと待ち続けました。8時間たってお父さんが車椅子を押して来ました。最後のゴールでは、ほとんど死にかけていました。エディ・レオ師は、「これが父の愛です。これが父の心です。父の愛を体験していただきたい。」と言いました。私たちはこの息子さんのようにハンディを負った人のようです。自分のレースを走りぬくことができません。しかし、私たちの天の父が、私たちを最後まで運んでくださるのです。お祈りいたします。「天のお父様、あなたの愛を感謝します。あなたの無条件の愛を感謝します。私たちはあなたの愛を受けるに価しません。でもあなたは本当に私たちを愛してくださっています。お父さん、あなたの愛を感謝します。あなたの愛を感謝します。私たちに触れてください。私たちの人生を変えてください。」

 

2.イエスは私の癒し主

 

テキストにはこのように記されています。「主イエスは、あなたの心の傷を癒したいと願っておられます。これまでの生涯の中で起こった病や傷は癒されなければなりません。では、どのようにして、主からの癒しを得ることができるでしょうか。」キリスト教会では、人々に「罪を悔い改めなさい」と言います。しかし、被害者の面がほとんど扱われません。イザヤ書53章のみことばを読むと、とても驚かされます。なぜなら、加害者の罪だけではなく、被害者としての傷や恥、悲しみを扱っているからです。イザヤ532-5「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」これは、イエス様の十字架を預言したみことばです。イエス様は私たちの恥、悲しみ、病、痛みを担ったと記されています。もちろん、私たちの罪を負ったゆえに罰せられました。それだけではなく、恥、悲しみ、痛みという被害者の面も負ってくださいました。

 

 神さまは、私たちの加害者の面だけではなく、被害者の面も扱ってくださいます。これに対して、長い間、キリスト教会は盲目だったような気がします。それは、西洋回りの「神、罪、救い」の伝道法のためだったと思います。彼らは「あなたには罪があります。悔い改めなさい」と迫って来ます。もちろん、私たちには罪があり、悔い改めなければなりません。でも、半分は被害者であり、傷を受けて痛んでいます。また、日本は罪の文化ではなく、恥の文化です。神のあわれみによって恥が取り去られると、罪が分かってくるのです。では、なぜクリスチャンになっても愛の人になれないのでしょう?それは、被害者の部分が贖われていないからです。心の深いところで、「この恨みを晴らしたい。失ったものを取り返したい」と思っています。私はテレビの大岡越前とか、必殺仕置き人、東山の金さん、水戸黄門が大好きでした。なぜでしょう?悪人がちゃんとさばかれるからです。家内は単純すぎると笑います。でも、私は家内が好きなサスペンスとかホームドラマを見ることができません。必ずそこには人をいじめて、不当な扱いをする人が出て来るからです。私は心がドキドキして見ることができません。しかし、勧善懲悪ものだったら、最後の5分で片が付くので安心して見られます。

 

 私たちにはどのような心の傷があるのでしょうか?ふだんは社会的な体裁や理性によって覆い隠されています。男性の場合は「感情的になってはいけない」と教えこまれているので、感情を殺しながら生きています。本当は傷が膿んでいる状態です。それを表面から包帯で覆って、傷がないようなふりをしているのです。あるデーターによると、日本人の10人から15人に一人は鬱病を経験すると言われています。もちろん鬱にはいろんな原因があります。でも、その大きな原因は、怒りや悲しみを抑圧しているために起こると考えられています。つまり、感情に蓋をして生きているため、精神的な疾患にかかりやすいということでしょう。テキストには「心の癒しの自己診断」という表があります。自分でチェックできるようになっています。前半は「否定的な考え」です。このような項目があります。「自殺願望、すぐ諦める」「罪悪感、罪責感、自分をすぐ裁く」「劣等感、恥意識、孤独感」「拒絶されることへの恐れ」「苦々しい思い、恨みを抱く」「平安がない、疑いやすい」などがあります。また、後半には「過去におけるトラウマ」です。このような項目があります。「お母さんから堕胎されかけた」「拒絶された」「強姦、いたずら」「恐ろしい経験、災害」「孤立」「過去における失敗」などがあります。すぐ分かる人もいれば、あんまりわからないという人がいます。心の傷とずーっと付き合ってきたので、麻痺しているかもしれません。でも、分かる方法があります。それは「どんなとき過剰な反応を起こすか?」ということです。よく、「あの人の地雷を踏んだ」ということがあります。つまり、言ってはいけないこと、やってはいけないことをしたために、怒りが爆発したということです。あるいは、ひどく落ち込んで、部屋から出てこない場合があります。なぜかと言うと、癒されていない傷のところに触れたからです。私たちも怪我している部分を突かれると飛び跳ねるでしょう。でも、その時、初めて、「ああ、この部分が癒されていないんだなー」と自分の傷に向き合うことができるのです。ですから、自分や人の過剰反応は宝の山であると考えるべきです。

 

 心の傷の癒しには、いろいろな方法があるので「これしかない」と言ってはいけません。時間をかけたカウンセリング的なものもあれば、解放のキャンプのように荒療治的なものもあります。例えて言うと、漢方のようにじわじわ直す方法から、外科手術のように短時間で行うものまであります。しかし、大切なのは、その人との信頼関係がなければなりません。人の心に、いきなり踏み込んで「あなたの心の傷はこれです。これを直さなければなりません」と言う事があります。「そんなことあんたから言われなくても、百も承知だよ」と反発されるでしょう。心理学では「共感」が何よりも大事だということを学びます。でも、中途半端に心理学を学んだ人に話すと、「あきらかに共感しているなー」と分かります。しかし、私たちが理解できなくても、イエス様がその人のところまで降りて分かってくださいます。また、その人の声に耳を傾けながら、聖霊様が何とおっしゃっているのか聞くことも重要です。昔のカウンセリングは「はい、そうですか、そうですか」と95%ぐらい聞く作業でした。なぜなら、その人自身が答えを持っているという前提があったからです。最近の認知行動療法などは、その人と共同作業をしていくというやり方です。

 

私はかつて、蒲郡の解放のキャンプにも何度か参加しました。良いところもありますが、知恵がもっと必要ではないかという点もありました。最初に、心の蓋をあけて、心の叫びをぶちまけるというところがあります。自分の父や母、あるいは先生、友人、牧師に対する怒りをぶちまける。「こうして欲しかったんだ」と叫びます。確かにダビデは詩篇を見ると、心の悩みや怒りをぶちまけています。しかし、それは神さまの前です。解放のキャンプでは、スポンサーという世話人に告白します。もちろん、自分に負えないものはスポンサーに告白して祈ってもらったら良いでしょう。でも、せっかく半分くらい直っていたのに、古傷を開けて、「私は辛かったんだ!」と言わせるのも問題です。そして、キャンプを終えてから、父や母、友人、牧師に「あのことを赦します」と言います。こちらはそうは思っていなかったのに、「え?そうだったの?」と驚くことがあります。ごみを出す日でないのに、ごみを出されたようなものです。先輩のクリスチャンがそういう時にすべき大事なことは何でしょう?その人が神さまの前に出られるように、手助けするということです。心の傷を癒すのは人ではなく、イエス様であり、聖霊様だということです。

 

最後に心の傷の癒しにおいて、最も大事なことが記されています。それは加害者を赦すということです。私たちは過去において親もしくはだれから被害を受けました。自分には傷が残り、加害者に対するうらみがあります。加害者の首には私たちがかけた首輪がつけられています。自分の手首と加害者の間には「うらみ」という鎖がつながっています。こちらには被害を受けた痛みがあります。加害者には「悪いことをしたな」という罪責感があるでしょう。でも、どちらの痛みが大きいのでしょうか?案外、加害者というものは被害を加えた人の痛みなど覚えていないものです。自分だけが、「あの時、あんなことをした。私は決して赦さない」と恨んでいるかもしれません。その恨みと憎しみが自分に毒を飲ませているとしたらどうでしょう?「相手を簡単に赦したら、私が受けた痛みはどうなる?損するじゃないか?フェアーじゃない」と思うかもしれません。しかし、加害者を赦すのはその人のためではなく、実は自分のためなのです。イエス様の助けを借りてその人を赦しましょう。そして、その人の首から、首輪を取り除きましょう。これは感情ではありません。イエス様が「私のゆえに赦してあげない」と言っているから従うだけなのです。では、自分が失ったものはどうなるのでしょうか?加害者ではなく、イエス様がその分を弁償してくださいます。弁償とは失った分と同じではなく、少なくとも2倍です。ハレルヤ!

 

イエス様は私たちが人生で受けるすべての苦しみや痛みを負ってくださいました。十字架につけられる前にローマ兵や宗教的指導者からさんざん嘲弄されました。ひげを抜かれたり、つばきをかけられたり、平手で叩かれました。ローマ兵から鞭で打たれた後、十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘まで行きました。聖画では腰布が付けられていますが、本当は素っ裸で十字架につけられました。道行く人たちは「十字架から降りてみろ、そうしたら信じる」と馬鹿にしました。イエス様は人々からだけではなく、父なる神さまからも捨てられました。「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」と叫ばれました。私たちがもっとも傷つくのは親からの拒絶かもしれません。まさしく、イエス様は拒絶を経験し、地獄に叩き落されました。だから、イエス様は私たちのことを理解できるのです。イエス様は十字架で、私たちの恥も、悲しみも、病も負ってくださいました。だから、私たちの心の傷を癒してくださいます。あなたのすべての悲しみ、すべての悩み、すべての痛みをイエス様にゆだねましょう。

 

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