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2015年1月30日 (金)

霊的成長 コロサイ2:6-12 亀有教会 鈴木靖尋牧師 2015.2.1

 イエス様を信じるなら恵みによって救われます。言いかえるなら、永遠の命を持ち、神の子になることができます。しかし、霊的に生まれたならば、成長の過程を歩まなければなりません。赤ちゃんの誕生はこの上もない喜びです。しかし、喜んでばかりいられません。赤ちゃんが健康に成長するためには、食べ物や様ざまなケアーが必要です。クリスチャンも同じで、神さまにしっかりつながり、教会という共同体の中で養育される必要があります。きょうは、『チェンジングライフ』のテキストを参考にしながら3つのポイントで学びたいと思います。これらの3つは順番ではなく、同時進行と考えるべきです。

1.キリストに根ざす

 コロサイ26-7「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」私たちは「イエス様は私の救い主です」と信じ、受け入れました。おそらく、救い主であると同時に「人生の主として受け入れます」と祈ったと思います。でも、「主」とはどういう意味なのでしょうか?簡単に言うと、「主」は神さまとか、主人、支配者という意味です。英語ではLordとかmasterと呼びます。イエス様を信じる前は、自分の人生の支配者は自分自身だったのではないでしょうか?しかし、イエス様を信じたら、その支配権をイエス様に渡さなければなりません。なぜなら、イエス様はあなたのためにいのちを捨てるほど愛しておられるからです。また、イエス様は全能の神であり、悪魔よりも力あるお方です。もし、あなたが人生のかしらになるなら、昔のように悪魔の策略にはまり、みじめな生活を送ることになります。客船やタンカーなどの大型船が港に着岸するとき、タグボートの助けを借りなければなりません。大型船の船長はあなたです。それほど自我は大きな存在です。小さなタグボートの船長はイエス様です。タグボートの船長はtake over(引き継ぎますか)?と聞きます。大型船は「いやです。私がやります」と断るならどうでしょう?自分ではうまく接岸できないでしょう。イエス様は紳士ですから、私たちに「あなたの人生の支配権を私にゆだねますか?」と聞きます。「はい、主よ」と言えば、イエス様は「わかりました。あなたの人生を守り、導きましょう」と答えて下さいます。

 

 パウロは「主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」と命じています。まるで、イエス様に手を引いてもらっていくというイメージがあります。テキストには「あなたが罪から解放されるための唯一の方法は、あなた自身をキリストのしもべとし、キリストを人生の真の支配者になっていただくことです」と書いてあります。私は自分の信仰生活を振り返りますと、イエス様が人生の主となってもらう祈りをしたのは、洗礼を受けて半年後でした。それまでの友人とも関係が途絶え、会社も不正をしながら給料をもらいたくないと思うようになりました。このような賛美を聞いていた時です。「私は道で、まことでいのちと主は私に語りかけたー。主の道を歩く、愛と奇跡をこの身に受けながらー」。私はその場にひざまずき、「私はイエス様の弟子になりたいです。小さくても良いですから、あなたの弟子にしてください」とお祈りしました。その後、自我を取り返して失敗したこともありましたが、そのたびに主イエス様に従う決意をしました。ですから、イエス様は救い主だけではなく、「私の人生の主です」と改めて、告白する必要があります。そうしますと、悩みや問題に支配されることがなくなってきます。

パウロは霊的成長を植物や建物のようにたとえています。まず、「キリストの中に根ざし」とはどういう意味でしょう?植物でたとえるなら、キリストの中から水分や養分をいただくということです。具体的にはどうしたら良いのでしょうか?コロサイ316「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」とあります。つまり、聖書のことばを読んで、それを自分の中に取り入れるということです。聖書のみことばには、乳のように柔らかいものもあれば、肉のように堅いものもあります。クリスチャンになりたての頃は、堅い「義の教え」は無理です。愛とか恵みにあふれたものは消化できます。Ⅰヨハネ2章には、霊的な子どもたちに「罪が赦されていることと、御父について知りなさい」と書かれています。信じる前は罪に対して全く無感覚でした。ところが霊的に誕生すると、自分がいかに罪深いか分かってきます。その時に、父なる神の無条件の愛と赦しを体験的に知ることが必要なのです。

 

もう1つ、パウロは「また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし」と教えています。これは建物の基礎や柱や壁にたとえられています。もし、30歳でクリスチャンになったならば、物の考え方ができています。自分の好みやこの世の価値観でがっちり固められているでしょう。そこに、聖書的な考えや価値観が入って来たならどうなるでしょう?ある場合は従来のものを壊して、そこに新しいものを建てなければなりません。私の家内はテレビの「ビフォー・アフター」が大好きです。私は「全部壊して、新しいものを建てた方が安上がりだろう」と言います。でも、私たちの考えを全部壊して、新しくするのは不可能です。やっぱりリフォームになるのかもしれません。でも、大変な工事であることは間違いありません。「こんな不便な生活をよくしていましたね」と驚きのケースがよくあります。でも、すぐれた匠のわざによって、新築のような住まいになります。私たちもみことばよって考えや価値観を変える必要があります。また、神さまから、癒しと解放とリニューアルをいただく必要があります。ある場合は、人の手を借りなければなりません。自分の過去の傷をさらけ出すのは嫌かもしれません。床板をはがしたら、とんでもないものが出て来たということがあるでしょう。魂の匠であるイエス様に直してもらいましょう。日の当たらない、不便な生活を脱して、新築のような家にしていただきましょう。

 

2.交わりの中で成長する

コロサイ127「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」あなたがたとは、英語の詳訳聖書にはwithin and among youとなっています。イエス様は個人の中だけではなく、あなたがたの間にもいらっしゃるということです。つまり、信仰生活は神さまとの関係だけではなく、横の関係も必要だということです。特に生まれたてのクリスチャンは、交わりの中で成長する必要があります。赤ちゃんが一人で大きくなれないのと同じです。チェンジングライフの最初に「著者の言葉」があります。インドネシアのエディ・レオ師が書いたことばです。「あなたはイエス・キリストを個人的な救い主として、人生の主として受け入れたときに、霊的に新しく生まれました。生まれたばかりの赤ん坊が、両親から集中的な養育が必要なように、あなたもクリスチャンとしてしっかりとした土台を持つための養育を受けなければなりません」と書いてあります。さらに、「スポンサーから助けをいただきなさい」と書いてあります。スポンサーは広告のスポンサーという感じがします。しかし、キリスト教会においては「代父」「代母」という意味があるようです。最近は、コーチとかメンターという呼び名が一般的です。当教会でも、試みてきましたが全体的には行き渡っていません。でも、だれかが世話しないと、洗礼を受けた後、来なくなることが良くあります。特にクリスチャンになりたての頃は、小さな問題でも躓いてしまいます。赤ちゃんも歩き始めの頃、よく転びます。やがて簡単にはころばなくなります。それと同じで、信仰的に先輩のクリスチャンが傍らにいて、支えてあげる必要があります。

 

 私がクリスチャンになれたのは、増田さんという職場の先輩のおかげでした。彼がいろんなたとえ話を用いて福音を伝えてくれました。半年後、「英語をただで勉強できる」と言われて、アメリカ人が集まる東林間バプテスト教会のバイブルクラスに出席しました。年が明けて19792月、座間キリスト教会に誘われて、初めて礼拝というものに出席しました。年取った人のあと、若い人が出て来て早口でしゃべりました。人生論を語っているみたいで、引き込まれました。あることで、すぐ行かなくなりましたが、先輩が礼拝のテープを聞かせてくれました。2か月後再び行きました。祈祷会に出て証というものを聞きました。「恵まれました」「与えられました」「導かれました」と言うので、「ああ、自分の考えのない人たちなんだなー」と思いました。いつも、先輩にくっついて教会に行きました。610日、洗礼を受けた日に躓きました。お祝いの袋に、本と一緒に月定献金袋と会堂建築献金袋が入っていました。「ああ、教会もどこかの団体と同じで会費を取るんだなー」と思いました。翌日、会社で先輩が献金の意味を教えてくれました。しかし、受洗後に大きな試練がやってきました。その時も、先輩が助けてくれました。他の兄弟姉妹と交わり、なんとか独り立ちできるようになったのはしばらくたってからでした。副牧師がナビゲーターのテキストを使って信仰に関して教えてくれました。すぐ、CSの奉仕をやらされました。他に早天祈祷会、水曜祈祷会、聖歌隊、英語礼拝あらゆるものに出ました。気が付いたら、私も「恵まれました」「与えられました」「導かれました」と言っていました。

 

 がちょうやカモは、「刷り込み」という習性があります。刷り込みとは「動物の生活歴史のある時期に、特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する学習現象の一種」だということです。クリスチャンも最初、自分を導いてくれた人や牧師、あるいは教会の影響を受けるのではないでしょうか?大体、自分が救われた時と同じことを他の人にもする傾向があります。私はカウンセリング的な個人伝道で救われたので、そういうことが好きです。岡野先生が牧会している松戸教会では「生活伝道」がさかんです。困っている人の世話をして、親しくなったら聖書を一緒に勉強します。その人が教会に来なくなっても、友達関係はずっと続いています。そうやって導かれた人は、次の人に「生活伝道」をします。昔は大きな会場で特別伝道集会というものをやりました。講師は「今晩、イエス様を信じる人は前に出てください」と招きます。洗礼を受ける人もいますが、教会生活が続きません。なぜでしょう?教会に友達がいないので、クリスチャンになる前の友達のところに帰っていきます。人から色々言われて、「あの時はキリスト教にかぶれていたんだ」と自分でも思うようになるでしょう。やはり、神さまとの関係だけではなく、教会の兄弟姉妹との関係もなければ霊的な成長は望めません。「交わり」とか「関係」は、仕事人間から見ると、生産的に見えません。しかし、赤ちゃんが家族の中で成長するように、霊的な赤ちゃんには、神の家族が必要なのです。確かに、人間関係において傷つくことがありますが、癒しや「建て上げ」もあります。教会では「互いに愛し合う」ということが最も大きな戒めの1つです。愛は相手が必要であり、単独では愛することができません。ですから、霊的に生まれたばかりの人は、神さまとの交わりだけではなく、人との交わりが必要なのです。ですから、本人も積極的に交わりを求め、信仰の先輩たちも交わりに加えるように努力したいものです。

 

3.バプテスマを受ける

 

テキストにはこのように書かれています。「水による洗礼(バプテスマ)とは、一つの選択(受けても受けなくても良いもの)ではなく、神を信じる一人ひとりが行うべき神からの命令です。」バプテスマ(洗礼)は教会の歴史の中で、物議をかもしたテーマの1つです。16世紀宗教改革がありましたが、幼児洗礼をしている教会が数多くありました。そういう人たちが大人になって、信仰のない教会員もいました。「それは問題だ」ということで、幼児洗礼を無効にし、浸礼によって再び洗礼を授けるグループが現われました。彼らはカトリック教会からもプロテスタント教会からも迫害を受けました。悲しい歴史はありましたが、現代では「信じた人がバプテスマを受けるべきだ」というところに落ち着きました。また、幼児洗礼を受けた人は、「堅信礼」という信仰告白をするようにしています。形式的には、水をかける滴礼のところもあれば、水の中にどっぷりつかる浸礼もあります。おそらく、どっぷりつかる方が聖書的なのかもしれませんが、設備の点で、頭に水をつけて「頭まで浸かった」と滴礼を施している教会もあります。

 

 では、バプテスマの本当の意味は何なのでしょうか?コロサイ212「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」同じことが、ローマ6章にも記されています。旧約聖書には「洗う」という意味もありましたが、洗礼は水で罪を洗い流すという意味ではありません。新約聖書的にバプテスマとはどういう意味でしょう?バプテスマはギリシャ語で、「どっぷり浸る」という意味です。同時に「キリストの死へ神秘的に結合される」という意味があります。パウロは「バプテスマによってキリストとともに葬られ」と言っています。これは私たちの古い人がキリストとともに死んで葬られたということです。言い換えると、アダムから伝わってきた罪と死の力が断ち切られたということです。その後、イエス様は神さまによってよみがえらされました。その時、私たちもキリストとともによみがえらされたのです。なぜなら、信仰によってキリストの中に入っていたからです。キリストともによみがえらされたので、以前の私たちとは違います。今度は、キリストのいのちと恵みが支配するようになったのです。つまり、バプテスマとはキリストと一緒に死んで、キリストと一緒によみがえるということを体験するためにあるのです。これを単なる宗教的儀式ととらえてはいけません。信仰によって、「洗礼を受ける前の古い自分は過ぎ去り、洗礼後は新しい自分になったんだ」ということを受け取るということです。私たちには昔の記憶がありますので、理屈通りにいかないかもしれません。しかし、そこに神の手によって、これまでの流れが断ち切られたことを信じるのです。ともによみがえることによって、エネルギーの転換もなされました。以前の罪と死ではなく、キリストのいのちと恵みが自分を支配しているということです。

 

 また、バプテスマを受けるということは伝道の終わり、救いの完了と言うこともできます。もちろん、私たちは完全に救われていません。肉という罪の性質がきよめられなければなりません。また、この肉体が死んだならば、やがて復活して栄光のからだに変えられる必要があります。そこで初めて救いが完了したと言えるのです。でも、罪の赦し、新しく生まれ変わった、神の子どもになったという意味では、救いの完了ということができます。なぜバプテスマという救いの完了が必要なのでしょうか?それは、公に宣言することによって、この世と悪魔が「ああ、この人は神さまに属しているんだな」と知ることができます。世の中には「隠れキリシタン」がおります。イエス様を信じてはいるのですが、公に自分はクリスチャンだと宣言していない人です。もちろん、バプテスマも受けていませんし、教会にもつながっていません。そういう人は救われていないのでしょうか?私はイエス様を信じているなら救われていると思います。しかし、この世から、また環境からも救われていません。マルコ1616「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」とあります。これはどういう意味かと言うと、信じるならばバプテスマを受けるのが当然だということです。信じるとバプテスマがワンセットだということです。中には「神さまの命令に逆らって、信じるけどバプテスマは受けない」という人がいるでしょう。その人はどうなるかというと永遠のいのちはあっても、この世から、また環境から救われていないと考えられます。どういう意味でしょう?つまり、あなたは公に宣言していないので、この世と悪魔があなたに付け込んでくるということです。例えて言うなら、婚姻届を区役所に出してはいるけど、結婚式をあげてみんなに公表していないということです。もし、結婚指輪もしていないならば、誘惑の機会がぐっと増えるでしょう。私たちは信仰の旗印をこの世に向かって明確に上げなければなりません。「私はクリスチャンです」と言うなら、会社でも一目置かれ、変なところに誘われることもなくなるでしょう。その時、さびしいと思ってはいけません。この世に対して、線引きをすることが必要です。

 

 あなたがバプテスマを受けてクリスチャンになったということを聞いて、去っていく友人も出るでしょう。しかし、気にしないでください。神さまはあなたに、新しい友人を与えてくれます。それまでの友人は本当の友人ではなかったのかもしれません。さびしいので一緒にいただけの関係だったかもしれません。これからは本当の価値観を分かち合える神の国に属する本当の友人を求めましょう。私も洗礼を受けて親友と恋人をいっぺんに無くしました。毎週、礼拝で泣いていました。あいつらを殺してやりたいと思っていました。しかし、先輩は「復讐は主にゆだねなさい」と勧めてくれました。その後、私は献身し、現在の家内と結婚し、子どもたちも与えられました。結婚式や葬儀のとき「いつくしみ深き」を必ずと言って良いほど賛美します。その中に「世の友われらを棄て去るときも」という歌詞があります。その時、辛かったあの時を思い出します。でも、本当に信頼できる友はイエス様なんだということです。私たちにはクリスチャンになる前の記憶はあります。傷もあるし、トラウマもあるかもしれません。でも、バプテスマによって古い流れは断ち切られたのです。今はキリストと共によみがえり新しい流れの中で生きています。新しい流れとは、神さまの豊かないのちと恵みです。昔の記憶はあります。夢も見るかもしれません。私たちの潜在意識はとても鈍感です。霊的には新しく生まれ変わっているのに、心が全部生まれ変わっていません。だから、昔の夢を見たり、過去の出来事がたまにちらつくのです。しかし、惑わされないでください。あちらの方が幻影であり、聖書の言うことがリアルなのです。キリストに根差し、バプテスマを受け、教会の交わりに連なりましょう。そして、霊的な幼子から、霊的な大人へと成長の過程を歩みましょう。

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2015年1月24日 (土)

救いの保証 ヨハネ5:24,10:28-29 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.1.25

 きょうから4回にかけて『チェンジングライフ』のテキストからメッセージさせていただきます。チェンジングライフは直訳すると「人生を変える」という意味です。イエス様を信じてクリスチャンになったはずなのに、生活が変わらないということがあります。なぜでしょう?福音の種を蒔いたはずなのですが、地表の下に石ころがあったり、いばらが植わっているかもしれません。人生を変えるためには、心の中の石ころやいばらを取り除いて、良い地にする必要があります。良い地になるばら、成長して多くの実を結ぶことができるでしょう。 

 1.救いの架け橋

 「救いの架け橋」は個人伝道や洗礼準備会のときに用いられます。前半はこのことをみなさんに説明したいと思います。いきなり、「人間の罪」から始めると、心を閉ざしてしまうかもしれません。だから、最近は「神の愛」から始めることにしています。第一は「神の愛」です。まことの神は、唯一であり、天と地を創造された神さまです。また、私たち人間をご自身のかたちに似せて造られました。だから、神さまは私たちを愛しておられます。聖書には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたをしている」と書いてあります。

 

 第二は「人間の罪」です。しかし、人間は神さまから離れて堕落しました。聖書はこれを罪と呼んでいます。人間と神さまとの間には罪という深い淵があって渡っていくことができません。ローマ623「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。報酬というのは、給料みたいに働いて得るものです。罪を犯して生きた人の報酬は死です。しかし、この死にもいくつか段階があります。肉体の死があります。その次に、神さまの前でさばかれます。最後は永遠の滅び(地獄)が待っています。図を見て、左側の生まれつきの人はどのような運命のもとにあるでしょうか?そのままですと、死、さばき、滅びがあります。しかし、右側の神さまのところには、永遠のいのちがあります。永遠のいのちは賜物、プレゼントというふうに書かれています。

 

 第三は「人間の空しい努力」です。人間は救いを得ようと様ざまな努力をしています。道徳、宗教、哲学によって神さまのところに達しようと橋をかけています。しかし、神さまのところに達することができません。なぜでしょう?ローマ323,24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。神さまは義なるお方であり、100%正しいお方です。聖書には、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と書いてあります。「栄誉を受けることができず」は、栄誉を受けるに達しない、短いという意味です。私たちがテストで毎回100点を取れないように、完全無欠な人はいません。だから、人間の行ないでは、罪の淵を越えて、神さまのところには行けないのです。

 

 第四は「神の子イエス・キリスト」です。神さまは義なるお方ですが、同時に愛なるお方です。人類をさばかないで救うために御子イエスを地上に送られました。イエス・キリストは十字架で全人類の罪を負い、神からさばかれ、死なれました。Ⅰペテロ318「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」と書いてあります。つまり、私たちの罪の負債を全部支払ってくださったのです。神さまはキリストの贖いによって、ご自分の義が満たされました。そして、キリストを死人のうちからよみがえらせ、救い主として立ててくださいました。イエス様はヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。ということは、十字架と復活によって、罪の淵に橋が架けられたということです。

 

 第五「信じる」です。信じるには2つの意味があります。第一は、神からのプレゼントを受け取ることです。エペソ28「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」。恵みというのは、「私たちの正しさや行ないによらない。むしろ受けるに値しないものが受けるもの」という意味です。賜物は、報酬とは違い、一方的に与えられるものです。つまり、救いは行ないによってではなく、信じることによって与えられる神の賜物なのです。「信じる」の第二の意味は、イエス・キリストを救い主、また人生の主として心に受け入れることです。ヨハネ112「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。

 

最後にこの図を見ていただきたいと思います。左側に生まれつきの人がいます。そのままですと死、裁き、滅びがあります。一方、右側には神さまがいらっしゃいます。神さまのもとには永遠のいのちと天国があります。イエス・キリストが十字架と復活によって橋をかけてくださいました。あなたはどちらにいたいでしょうか?このみことばは、あなたが信じるなら神さまのところに行けると教えています。ヨハネ514「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」あなたは、これまで福音を聞きました。「聞いて」半分のところまで行けます。でも、渡り切っていません。その次に、「信じて」神さまのところに行くことができます。どうでしょう?あなたはイエス様を遣わされた神さまを信じますか?アーメン。では、一緒にお祈りしましょう。「父なる神様、あなたがイエス様を遣わしてくださりありがとうございます。イエス様、十字架で私の罪を負ってくださり、感謝します。イエス様、あなたを救い主、人生の主として心に受け入れます。アーメン」。信じた人には3つのことが同時に起こります。第一は「永遠の命を持ち」と書いてあります。これは英語の聖書では現在形であり、今、永遠の命を持っているということです。第二は「さばきにあうことがなく」とあります。これはshall notという未来形であり、将来、神さまのさばきを受けないということです。第三は「死から命に移っている」と書いてあります。これは現在完了形であり、死から命に移されて、現在は命の中にいるという意味です。コロサイ113「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」アーメン、あなたは暗やみから移され、神のご支配のもとにいるのです。

 私が亀有教会に赴任してまもなくのことですが、一人の兄弟が私にこのようなことを言いました。「世の中にはクリスチャンより正しい人がいっぱいいる。クリスチャンなのに、だらしがなくていい加減な人がたくさんいる。正しい人が救われないなんておかしい」と言いました。彼は非常にまじめで、多くの人たちからも尊敬されていました。お家を何度か訪問させていただきましたが、奥さんが金毘羅さんのお札をかざっていました。四国にわざわざ出かけたとのことでした。彼はクリスチャンにつまずいていたわけです。世の中にはクリスチャンよりも立派で正しい人がたくさんいることは事実だと思います。救いを受けるとき2つのことがとても重要です。1つは神の義と人間の義です。確かに非のうちどころのない仏様のような人がいるでしょう?でも、それは人の義であって、神の義には到達できません。太陽と月のように質が全く違います。人間の正しさや行ないでは救いは得られないということを知らなければなりません。もう1つは、恵みです。恵みとは働いて得るような報酬でありません。良い行ないで得るなら、それは報酬であって恵みではありません。恵みとは全く受けるに値しない人が、一方的に受けるものです。罪を犯して、失われている人間は神さまの恵みによってしか救われません。良い行ないやがんばりは、恵みを台無しにしてしまいます。神さまは私たちの良い行ないを必要とされません。だれも、神さまの前で誇ることがないためです。皮肉なことに、世の中で正しいと思われている人よりも、とんでもない罪を犯した人の方が、恵みによる救いがわかるのです。

 12日、菅原さんご夫妻が「教会で葬儀をお願いしたいのですが」と訪ねて来られました。ご主人が末期がんで余命がないと聞きましたが、「まだ存命中なのに?」と驚きました。先週19日、緩和ケア―病棟に入院され、その日の夜、訪問しました。前のときも、「どこへ行ったか分からない人の葬儀はやりにくいです。イエス様を信じてください」と伝えておりました。菅原さんにこの絵を見せながら福音を説明しました。救いは第一にプレゼントです、第二はイエス様を受け入れることです。菅原さんは信じますと答え、一緒にお祈りしました。その二日後、菅原さんは召されました。私は癌が治ってあと30年長生きするようにお祈りしましたが、その祈りはきかれませんでした。しかし、菅原さんは永遠の命が与えられました。救いを受け取って、神さまがいらしゃるところに行くことができたのです。ハレルヤ!

 2.救いの保証(その1

 

私たちが、より良く成長するためには、救いの確信を持っていなければなりません。聖書は救いの保証については何と教えているのでしょうか。テキストに「救いの保証について聖書の概念とは?」と書いてあります。第一は、救いは一瞬であるということです。「救いは人間の働きによるものではなく、恵み(贈り物)です。だから、あなたは、ただ受け取るだけで良いのです。また、救いは時間をかけて移動するプロセスではありません。私たちは、信じたときに一瞬にして、死から命に移ったのです。救いはプレゼントです。これはあなたへの「プ、レ、ゼ、ン、ト、で、す、よ、-」と5年ぐらいかけていただいたら嫌ですね。あるいは、「聖書を全部読んだらあげますよ」「教会に定期的に来たらあげますよ」「教会の規則を守ったらあげますよ」というのでもありません。ところが、パウロが伝道していたときそうは思わない人たちがいました。彼らは「モーセの律法を守らなければならない」とか「割礼を受けなければ救われない」と言いました。パウロはガラテヤ人の手紙の中で、ものすごく怒っています。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」(ガラテヤ221-31)。救いは私たちの行ないで勝ち取るのではなく、恵みとしていただくものです。たとえば、正月、お年玉を子どもにあげるとします。たとえば、子どもに5000円あげました。「パパ、ありがとう」と子どもは受け取りました。しかし、3日後、「宿題もしないし、親の言うことを聞かない」ということで子どもからお年玉を取り上げる人がいるでしょうか?いません。救いも賜物、プレゼントなのであります。行ないで得たものではありません。だから、その後の、行ないが悪くても失わないのです。恵みによって与えられる救いに足したり、何かを加えたりすることは不要です。これは教会が陥りやすい害毒です。救いは神さまからの一方的なプレゼントであり、一瞬にして与えられるものです。

 

第二は、神の子としての身分は永遠であるということです。「キリストを信じて生まれ変わった私たちの身分は神の子どもです。たとえ、罪を犯しても、神の子としての身分は永遠であり、失うことはありません。」テキストにはイラストが描いてあります。神さまと私たちを結ぶ線は実線になっています。点線や破線ではありません、太い実線です。これは、神の子の身分はどんなことがあっても失うことがないということを示しています。地上では、悪いことをすると親から「もう親でも、子でもない」と勘当されることがあるかもしれません。しかし、天のお父様は放蕩息子の父親のように無条件の愛で愛しておられます。

 

しかし、私たちが罪を犯すことによって失うものがあります。それは、神との交わりです。右側の神さまと私たちの線が遮断されています。どうしたら良いのでしょうか。私たちは悔い改めて罪を告白するとき、神との交わりが再び回復されます。「悔い改める」とは、「ああ、悪かったなーと思いを変える」ことです。そして、犯した罪を神さまの前で、そのまま告白するのです。Ⅰヨハネ1:9「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」ある人たちは、このみことばを「イエス様を信じるときの聖句」として用いています。「このみことばでイエス様を信じました」という人がたまにいます。悪くはありませんが、「信じるためには個々の罪を悔い改めなければならない」と誤解されてしまいます。でも、この第一ヨハネの手紙はクリスチャンに宛てられた手紙です。「神さまとの交わりがあると言っていながら、闇の中を歩んでいるなら、罪を悔い改めなさいよ」と言っています。つまり、神さまとの交わりがあった人、つまりクリスチャンのことです。でも、罪を犯して交わりが遮断されてしまいました。この手紙は、「罪を告白したなら、その罪がきよめられ神さまとの交わりが回復する」と約束しています。ある人は「そんなに簡単に罪が赦されたなら、味を占めて、何度も罪を犯してしまうんじゃないですか?」と言うかもしれません。しかし、それは「罪の赦し」を知らない人です。

クリスチャンは既に生まれ変わっているので、好んで罪を犯しません。Ⅰヨハネ38-9「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」アーメン。もし、人が悪魔の支配下にあるなら、罪を犯しても何とも思わないでしょう。しかし、神から生まれた者は、罪を犯しません。このみことばは「罪を犯し続けない」という継続的な意味があります。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。「神の種」とは何でしょう?今風でいうならDNAでしょうか?J.B.フィリップは「神の性質」と訳しています。リビングバイブルはとても分かりやすいです。「新しく生まれた人には、神さまのいのちが宿っているので、もはや罪を犯す習慣がありません」。アーメン。ある姉妹が、「私は何遍も罪を犯してしまいます。私は救われていないのではないでしょうか?」と牧師先生のところに来たそうです。牧師先生がその人に聞きました。「あなたはイエス様が必要ですか?それとも必要じゃありませんか?」その姉妹は泣きながら、「私にはイエス様が必要です。イエス様なしでは生きて行けません」。牧師先生は「それじゃ、あなたは救われていますよ」と答えたそうです。神の子には神の種が宿っているので、罪の中を歩み続けることはできないのです。

 

3.救いの保証(その2

 

テキストには「神があなたの救いを保証してくださる」と書いてあります。そこにいくつか、みことばが記されています。最初はヨハネによる福音書からです。ヨハネ1028-29「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」「だれも」と書いてありますが、ヨハネ10章には盗人である悪魔のことが記されています。悪魔は「盗み、殺し、滅ぼす」ことを専門にしています。あるいは、神に敵対する反キリストかもしれません。でも、イエス様は「だれも私の手から」「父の御手から彼らを奪い去ることはありません」と言われました。このコインが私のいのちだと過程します。もし、このコインを私がぎゅっと左手で握ったならどうでしょうか?だれかが私からコインを奪い取ろうするかもしれません。私は右手で必死に反撃するでしょう。もし、私ではなく、神さまの御手の中に私たちのいのちが握られているならどうでしょうか?悪魔が神さまを倒すことができるでしょうか?また、ヨハネ10章にあるように、イエス様は逃げたりせず、命をかけて私たちを守ってくださいます。それに、イエス様も父なる神さまも、悪魔よりはるかに強いお方です。ハレルヤ!使徒パウロはローマ8章で「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と断言しています。アーメン。

 

もう一か所、聖書を引用したいと思います。エペソ113-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」テキストには「聖霊はあなたが信じたときに、証印を押してくださいました。証印とは贖いの日までの保証を意味します」と書いてあります。昔、王様が大事な手紙を書くとき、閉じた合わせ目に蝋を垂らし、そこに指輪で証印を押しました。その手紙が宛名の人の手元に届くまでだれも開封することができません。もし、途中で封を開けたらその人は死刑に処せられます。なぜなら、王様の証印が押されているからです。私たちも神さまのもとへ行くまで、聖霊によって封印されています。だから、どんな被造物も私たちから救いを奪い取ることができないのです。私たちクリスチャンは神さまのもの、神さまの子どもなのです。ハレルヤ!私は疲れて休むとき、意識がもうろうとして眠りに落ちるときがあります。一心不乱と申しましょうか?「死ぬときはこうなのかな?」と思います。でも、大丈夫です。私のいのちは神さまの御手の中にあります。年取ってぼけて自分がだれか分からなくなったとしても、死の淵であえいで、だれにも自分の気持ちを伝えられなくても大丈夫です。イエス様を信じている人は滅びることがありません。イエス様が私を離さず、死の向こうまで一緒に行ってくれるからです。御子を送ってくださった父なる神の愛、十字架で罪を贖われたイエス様の恵み、私たちにいのちを与えてくださった聖霊の交わりに感謝します。

  

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2015年1月16日 (金)

罪の赦し ヨハネ8:1-6 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.1.18

 「赦し」は、「許し」と違います。前者は簡単には赦されないものであり、後者は条件がそろえば許されるという軽いものです。赦しの背後には、犠牲が伴います。神の小羊であるイエス・キリストが尊い血潮を流し、命を捨ててくださったので私たちは赦されるのです。ところが、世の中には、この赦しを知らないために、罪責感に囚われ、負い目の中で暮らしている人がいます。仏教は「罪の重荷を負いながら生きよ」と言うかもしれません。しかし、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ1128と言われます。


1.姦淫の場で捕らえられた女


 

イエス様は祈るためにオリーブ山に行かれたと思われます。翌朝早く、イエス様はもう一度、エルサレムの宮に入られました。民衆はみな、主のみもとに集まって来ました。イエス様はいつものように、座って彼らに教え始められました。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女性を連れて来てきました。人々の真ん中に彼女を置いてから、イエス様に言いました。ヨハネ84-6「『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」「朝早く」しかも、姦淫の現場でつかまえたのですから、生々しいというか残酷であります。おそらくはイエス様を訴えるために、普段から目をつけていたのかもしれません。本来なら男と女を捕えるべきですが、あえて、女性だけを捕えてひっぱってきました。イエス様を罠にはめるために、有効だったからでしょう。もし、イエス様が「彼女の罪を赦す」と言ったならどうなるでしょう?彼らはどう出てくるでしょう。おそらく、「モーセの律法を破るように教えて良いのですか?もし、そうなら神からの教師とは言えません」と訴えたでしょう。逆に、イエス様が「モーセの律法のとおり、石打ちにすべきだ」と答えたならどうなるでしょう?彼らは「あなたには愛がないですね」と言うでしょう。そうすると、愛を説いてきたイエス様の評判が落ちて、だれも言うことをきかなくなるでしょう。どちらを選んでも、不利な立場に立たされます。本当に彼らはうまく考えたものです。

 しかし、イエス様は身をかがめて、指で地面に何かを書き始めました。イエス様が書かれた文書があれば良いのですが、1つも残されていません。唯一、地面に何かを書かれたという記事がここにあるだけです。一体、イエス様は何を書いておられたのでしょう?ある人は十戒であると言います。あるいは、訴えている人たちの隠された罪を1つ1つあばかれたという説もあります。ある1枚の宗教画を見たことがあります。地面に書いた文字を一人の女性が、別の男性に「これあなたのことでしょう?」と言わんばかり、指をさしています。その男性も隠れて同じような罪を犯していたのです。そうなると、もう修羅場になってしまいます。宗教改革者ジョン・カルヴァンは、「身をかがめて字を書くことによって、あえて無視する態度をとられたのだ」と言っています。大和カルバリーの大川牧師は「それは視線の肩代わりであり、男たちのいやらしい目を、他の方に向けさせたのです」とメッセージしておられました。不思議なことに、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われた後も、再び、身をかがめて地面に何かを書かれていました。時間かせぎなのか、あるいは考える時間を人々に与えたのかもしれません。pauseポーズということばがあります。写真を撮るときのポーズではありません。このポーズは「小休止する」という意味のことばです。しかし、ポーズには他に「立ち止まる、思案する」という意味もあります。私は勢いで何かをしゃべったり、勢いで何かをやったりします。しかし、あとから「一呼吸おいて、少し考えてからやるべきだったなー」と後悔するときが良くあります。子どものときから「ヤス落ち着け」と言われてきました。仕事でもそうですが、根を詰めてやっていると行き詰まることがたまにあります。ちょっと、小休止して、一息つくと、良いアイディアが浮かぶときがあります。イエス様は彼らの勢いを止めて、「あなたも、ちょっと考えてみなさいよ!」と、時間を与えたのだと思います。

姦淫は夫あるいは妻以外の者を愛するということです。それでは、神によって造られた私たちは、神以外のものを恋慕ってはいないでしょうか?霊的な意味から言うと、この世の人はだれでも、神の前で姦淫の罪を犯しているということにはならないでしょうか?イエス様は福音書で「悪い、姦淫の時代だ」(マタイ1239164)と何度かおっしゃっています。時代というのは、ギリシャ語でゲネァーです。ゲネァーは「子孫、種族、世代」という意味で、時間とは関係ありません。生まれつきの私たちはアダムの子孫であり、罪の家系で育ちました。だから、十戒で言われているようなことを全部犯しています。イエス様は実際に行わなくても、「人を憎んだり、情欲を抱いただけでも罪である」と言われました。そうだとしたら、殺人や姦淫、盗みをだれもが行っているということではないでしょうか?つまり、「誰一人として正しい人はいない。みんな罪を犯している罪人だ」ということです。このことが分からないと、この記事を「ああ、汚れた女性もいるものだ!」と第三者的に見てしまいます。私たちがその場にいたら、彼らと同じように、石を取って、それを女性に投げつけるだろうということです。本当は、この女性は私たちの代表であり、いつの日か、私たちの罪も神の前で白日のもとにさらされるということです。だから、ちょっと小休止して、「このことは何なのだろう」と考える時間が必要だということです。

 2.罪のない者が石を投げよ

 

ヨハネ87-9「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」彼ら、つまり律法学者とパリサイ人たちは、自分たちのことをどう思っていたのでしょう?彼女のような罪は犯していない、自分たちは正しいと思っていたのです。ところが、イエス様が「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。そして、イエス様がもう一度身をかがめて、地面に何かを書かれました。ポーズ、小休止です。その間、神の霊が彼ら一人一人の心を行き巡りました。まるで、コンピューターのハードディスクに欠陥がないか調べるように、神の指が彼らの心をなぞったのです。神の霊にさぐられ、自分にも同じような罪があることに気がつきました。するとどうでしょう?石がボトン、ボトンと地面に落ちる音が聞こえました。そして、年長者から先に去って行きました。なぜでしょう?長い人生経験を踏まえ、自分は律法を守っていない罪人であることが分かったからです。同じ罪人が、他の人の罪をさばくことができないと悟りました。鈍い若い人たちも、まもなく石を捨てて、去っていきました。

 キリスト教会では「認罪」ということばがあります。このことばは広辞苑にはありません。ルターは「罪の自覚の深まるところには恵みもまた深まる」と言いました。しかし、「罪」という概念そのものが日本語にはありません。一般に私たちは「何か悪いことをした」ということで罪を意識します。極端に言うと、悪いことをしていなければ罪はないということになります。ある人たちは「人に迷惑をかけていないから良いんだ」と言います。あるいは、「社会的に悪いことをし、法律を犯したら罪なんだ」と言うかもしれません。これらはすべて、人間対人間、人間対社会であります。相対的に「私の方があなたより正しい。人と比べて自分はそんなに悪くはない」となります。しかし、認罪というのは聖なる神、絶対者なる神の前に立ったとき、覚えるものです。私がクリスチャンになる前、職場の先輩がこんなたとえ話をしてくれました。あるところに「私が洗ったシーツはどのお家よりも、真っ白だ」と自慢している主婦がいました。12月に入ったある日、いつものように縁側の物干し竿にシーツを干していました。お昼時、居間でうとうとして眠ってしまいました。ぶるぶるっと震えて、目をあけると、庭先に一面に初雪が積もっていました。物干し竿の方を見たら、何やら灰色の物体があるではありませんか。何だ、薄汚いと思ったら、自分が洗った自慢のシーツでした。何と言うことでしょう?今しがた降った初雪とくらべたために、シーツが灰色に見えたのです。これが認罪であります。

 神さまは私たちに罪があるということが分かるように、聖書のことば、律法を与えました。律法に照らされると「ああ、自分には罪がある」と分かります。それでも罪が分からない人がいます。そのために、神の霊である聖霊がその人の心に触れてくださいます。イザヤという人は、神殿で主を見たとき、「ああ、私はもうだめだ(もう滅びるばかりだ)」と言いました。潔白で正しいと言われたヨブも主を見たとき「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」と言いました。何か悪いことをしたということも罪ですが、自分の存在そのものが罪深いと分かったのです。確かに私たちは神さまの目から見たら高価で尊い存在です。しかし、同時に私たちは、神さまの恵みとあわれみがなければ、生きていけない存在なんだということも知らなければなりません。それでも、多くの人たちは「そんなのいらない。私は私のやり方で生きて行く」と言うでしょう。でも、私たちが救いを得るためには、自分には罪がある、このままでは神さまの前には立てない存在だという「認罪」が必要です。イエス様はパリサイ人や律法学者にこのように言われました。マタイ913「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」ということは、自分は正しいと思っている人には、キリストの救いは不要だということです。「私には罪がある、私は罪人です」と心から理解している人が、神さまから救いをいただくことができるのです。では、救いとは何でしょう?ここにおられた、山崎長老さんは「救いとは罪の赦しである」と言いました。私は若かったので、いや、「他にも意味があるよ」と思いました。でも、信仰生活を送るにつれて、「ああ、救いとは罪の赦しだなー」と心から思えるようになりました。使徒パウロは晩年、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。…私はその罪人のかしらです」と告白しました。ハレルヤ、「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」。

 3.あなたを罪に定めない


 ヨハネ810-11「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『主よ、だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」原文には「主よ」という言葉が入っていますので、入れて読みました。イエス様は彼女が犯した罪を見過ごしたのでしょうか?あるいは軽く扱ったのでしょうか?そうではありません。彼女が罪を犯したことは事実であり、少しも軽く扱っていません。だから、「今からは決して罪を犯してはなりません」と言ったのです。では、この女性はいつ罪を認め、いつ罪を悔い改めたのでしょうか?律法学者やパリサイ人はイエス様を「先生」と呼びました。「先生」とは、「ラビ」のことであり、律法の教師という意味です。でも、この女性は「主よ」と呼びました。明らかに、信仰から来たことばです。彼女は自分が犯した罪を知っていました。同時に、イエス様は自分の罪を赦してくださる主(救い主)であることを信じていたのではないかと思います。「いつ信じたのか?」と言われるとそれも困りますが、ポーズ、沈黙の間だと思います。回りの人たちは、自分を見下し、自分を刺すような視線を向けていました。でも、目の前のイエス様は自分を咎めて、見下すような目ではありませんでした。むしろ、彼らの視線を別のところに向けてくださいました。人は罪を責められ、咎められたからと言って悔い改めません。そうではなく、赦しが備えられているので、罪を悔い改められるのです。

イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されました。そのことばの根底には、どのようなものがあるのでしょうか?「わたしも」ですから、まず、他の人たちは彼女を責めることをせず、石を置いて、一人残らず去っていきました。イエス様だけが、そこにおられたのは、イエス様だけが、彼女の罪をさばくことができるということです。その最後のお方であるイエス様が「わたしもあなたを罪にさだめない」とおっしゃったのです。ということは、どんな人たちも、そして、神さまも彼女を罪にさだめないということです。しかし、ただでそんなことが可能なのでしょうか?人の罪をただで赦せるイエス・キリストとは何者なのでしょうか?イエス様は福音書において自分が何のために来られたのかおっしゃっています。マタイ2028「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」つまり、イエス様は「この女性の罪を贖うためにも、私は十字架で死ぬよ」ということを決意しておられたのではないでしょうか?この世では、「前払い」とか「前倒し」ということばを使います。イエス様が彼女をただで赦したのは、「私が彼女の分まで、代価を払いますよ」ということなのだと思います。


イエス様が彼女の罪を赦すことができたのはもう1つ理由があります。これはとても大事なことです。イエス・キリストはどのようなお方でしょうか?神の子イエスだけが、人の罪を赦す権威を持っておられるということです。「え?何様?」と言いたくなるかもしれません。あるとき、イエス様のところに中風で歩けない人をかついでやってきた4人の友達がいました。人々が戸口まであふれているので、彼らは友人をかかえて屋根の上に登りました。そして、人の家の屋根をはがして、彼を寝かせたままその床をつり降ろしました。その時、イエス様は何とおっしゃったでしょう?中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。彼は病気を治してもらうために来たのです。その場にいた律法学者たちは「神を汚しているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と心の中でつぶやきました。イエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに知らせるために」と言われて、中風の人に「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」言われました。そうすると、彼は起き上がり、すぐに床をたたんで、みんなの見ている前を出て行きました。目には見えませんでしたが、罪の赦しを宣言したとき、彼の罪は赦されていたのです。病の癒しは罪の赦しがあったことのしるしでした。このように、イエス様は人の罪を赦す権威をもっておられる神さまであるということです。ハレルヤ!神であられるイエス様が「あなたを罪に定めない」とおっしゃるなら、そうなるのです。神さまが赦されたのなら、もうだれも文句を言うことはできません。

 4.罪が赦される根拠

 

 ヘブル926-28「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」イエス・キリストは私たちの罪を取り除くために、どんなことをされたのでしょうか? ご自身をいけにえとして(多くの人の罪を負うために)、ご自身をささげられました。私たちの罪を負って、私たちの代わりに罰を受けて死なれたということです。キリストが多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、「多くの人」の中にあなたが含まれていることを信じるでしょうか?私たちは信仰によって、罪の赦しをいただく必要があります。十字架の贖いはもう完成された出来事です。もう、あなたの罪の代価は十字架で支払われているのです。唯一必要なのは、信仰の手を伸ばして、「私もあなたから罪の赦しをいただきたいです」と願うことです。

 最後に私たちは神さまが赦してくださったのですから、自分自身を赦す必要があります。詩篇1038-12「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」あわれみ深い主は、私たちの罪に対して、どのように扱われるのでしょうか?私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもありません。キリストの贖いのゆえに、私たちの罪に対して怒っておられません。では、主はどれくらい私たちの罪を遠く離してくださるのでしょうか?東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離されます。この意味は、神さまは二度と私たちの罪を思い出さない。完全に忘れてくださるということです。

 あるご婦人が「私の罪は大きすぎて、神様も赦してくださらないでしょう」と言いました。牧師先生は彼女に「今から、目をつぶって想像してみてください。深い湖へ、ボートに乗ってでかけましょう」と言いました。「今からボートに乗りますが、その前に、大きな石と小さな石を1個ずつ持ってください。持ちましたか?…今、ボートを漕いで、湖の真中辺に来ました。さあ、最初に小さな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、チャポンと音がして、小さな波紋が立ちました」。「小さな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。「次に、大きな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、ザブンと音がして、大きな水しぶきが立ちました」。「大きな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。牧師先生が言いました。「小さな罪は小さな被害を、大きな罪は大きな被害を与えました。しかし、神さまはどちらの罪も赦してくださいます。神様の前では、大きな罪も小さな罪も関係ありません。」

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2015年1月11日 (日)

死後どこへ行くのか ルカ16:19-26 亀有教会牧師 鈴木靖尋 2015.1.11

 どの民族、どの国においても宗教があります。それは、人々が死後の世界を求めているからではないでしょうか?ギリシャの哲人は霊魂の不滅を唱えました。釈迦は解脱を説きましたが、死後の世界については解明していません。唯物論者は「死とは無になることだ」と言って、虚無の中で生きています。「生きているうちが花」と言っても、死後のことが分からないなら、毎日を楽しむことはできないでしょう。聖書は死後の世界のことだけではなく、「永遠をどこで過ごすべきか」ということも、私たちに啓示しています。


1.
金持ちとラザロ


 ルカ1619-23
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」聖書をざっと見て行きたいと思います。ある金持ちの生活ぶりはどのようなものだったでしょう?高価な着物を着て、働かないで、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。そして、目の前に貧しい人がいてもまったく顧みなかったようです。では、ラザロという貧しい人は、どのような生活をしていたでしょう?金持ちの玄関先で寝ていました。栄養失調のためか、全身おできができていました。彼は金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていましたが、かないませんでした。ラザロは死んでどうなったでしょう?御使いたちによって、アブラハムのふところに連れていかれました。「御使いたち」とありますので、両脇を抱えられてアブラハムのふところに連れていかれたのでしょう。金持ちはどうなったでしょう。金持ちも死にました。きっと盛大な葬儀であったと思われます。しかし、たったひとこと「金持ちも死んで葬られた」としか書かれていません。なぜか、金持ちの名前が記されていません。


 この後、死んだのちのことが描かれています。これはイエス様が作ったおとぎ話なのでしょうか?それとも、実話なのでしょうか?おそらく、イエス様はいろんな世界を見てきたので、実名はともかく、本当にあったことなのではないかと思います。つまり、イエス様は生きている世界と死後の世界が密接に関係していることを教えておられるのです。なぜ、二人の行先が違ってしまったのでしょうか?アブラハムは「金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていた」と言っています。これだけだと、金持ちが悪いような感じがします。確かに、この地上でのことが死後、報われるという考えはわかります。でも、それだけではないと思います。問題は、「ラザロ」という名前が記され、金持ちの名前が記されていないことです。このところには金持ちが「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と書いてあります。毎日ですから、神さまと和解して、神さまを礼拝する時を持っていなかったのではないでしょうか?そして、神さまからいただいた富を貧しい人たちに施すべきだったのに、それもしませんでした。「これは私の富だから、私個人のために使って良い」と考えたのだと思います。彼は神さまを無視した生活を送っていました。その証拠に、金持ちは陰府の底から、「兄弟五人のところに、だれかを遣わして下さい。悔い改めるようにさせてください」とお願いしています。今の時代も、「私は神を信じない。いや神なんか弱い人間が勝手に作った妄想だ」と言っている人たちがいます。無神論者は「神を信じない」と言っているのですから、これも1つの信仰だと思います。一方、ラザロは貧しい身でありながら、神さまと和解し、神さまを礼拝していたのでしょう。だから、神さまから名前を覚えられていたのです。金持ちは生前、神さまを無視した生活をしていたので、神さまから覚えられていなかったのでしょう。そして、死後、神さまがいないところに行ったのであります。ある人が「地獄とは、神さまのいないところであり、神さまから見放されている所だ」と言いました。神さまを信じない人は、神さまが嫌いなのですから、そちらに行くのが合っているのかもしれせん。でも、死後の世界は、一方では豊かな報いがあり、他方では厳しいさばきがあることも教えています。


2.陰府の世界

ルカ1624-28彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」人は死んだら無になるのでしょうか?陰府にくだった金持ちの感覚、記憶はどのようなものでしょう?このところでいつくか分かることがあります。まず、肉体は死んでも、魂は生きているということです。また、熱いとか渇きなどの感覚もあります。そして、生前の記憶もあります。ということは、生物学者や無神論者が言うような、死後は存在がなくなるとか無になるという考えはあてはまらなくなります。確かに、聖書が言うように、死んだ肉体は土に帰ります。でも、人間は肉体だけでできているのではありません。他に霊と魂があります。「霊魂」とまとめて言う場合もあります。しかし、霊魂という言葉を使うと、エジプトやアンデス、東南アジアの島々の宗教と同じようになってしまいます。彼らは、肉体は死でも、霊魂はどこかで生きていると考えているからです。『千の風になって』という歌がありますが、死んだ魂がどこかであなたを見守っているよという歌詞です。死んだら無になるんだと本気で思っている人は、そんなに多くないのではないでしょうか。

 しかし、聖書はもっと死後の世界を詳しく教えています。人は死んだらどこへ行くのでしょうか?旧約聖書を見ると、アブラハムのことが記されています。創世記258「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた」と書いてあります。なんとなく、死んだ世界に自分たちの民がいるような感じがします。「陰府」ということばが最初に出て来るのが、創世記37章のヤコブのことばです。創世記3735「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。ヤコブはヨセフがいる陰府に、自分も下って行きたいと願っています。旧約聖書では、「良い者も悪い者も死後は陰府に行く」と書いてあります。しかし、聖書学者は「陰府は二階建てになっており、義人が行くところと、悪人が行くところに分かれている」と言います。たしかに、「陰府の淵」とか「陰府の穴」という陰府よりももっと深いところがあるように記されています。ルカ16章は、陰府の構造がかなり明確になっています。上の方には信仰の父アブラハムがいました。「アブラハムのふところ」とは、慰めと報いがあることを教えています。そして、はるか下には金持ちがいました。そこは、「ハデス」と書かれています。ハデスは陰府のギリシャ語で、死者の行くところです。しかし、ここは懲罰の場所でもあります。なぜなら、火炎が立ち上り、金持ちが「こんな苦しみの場所に来ないように」と願っているからです。よく誤解されますが、ハデスは地獄ではありません。地獄が来るのは、この世が終わって、人々が神の前に立って裁かれた後です。でも、ハデスはそこまで火が来ているので地獄の待合室であります。アブラハムがいるところと、金持ちがいるハデスの両者には大きな淵があり、そちらに渡ることも、そちらから越えて来ることもできませんでした。


 陰府にくだった金持ちの願いはどのようなものだったでしょうか?兄弟や親せきが自分と同じところに来ないことを願っています。また、だれかの助けによって救われてほしいと願っています。日本で伝道しますと、ある人たちはこう言います。「父も母もイエス様を信じないで死んだので陰府にいるのでしょうか?だったら、私だけ天国に行くのは申し訳ないので、父と母のところに行きます」と。現在、死んだ人がみんな陰府にいるとは限りませんが、この金持ちは、
彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と願っています。ということは、陰府にいる人は「子供たちや子孫が、救われてほしい」と願っているのではないでしょうか?一方、ラザロがいるアブラハムのふところとは、どういうところなのでしょうか?そこは、同じ陰府でも、義人たちがいる天国の待合室みたいなところです。イエス様は死んで陰府に下りました。エペソ48「高いところに上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ」と書いてあります。イエス様が復活したとき、陰府の二階にいた人たちを引き連れ、パラダイスを造られたのでないかという説があります。ですから、主にあって死んだ人は、陰府ではなく、パラダイスにいるのではないかということです。パラダイスというのは、私たちがよく聞く、天国のことであります。ですから、クリスチャンが死んだら、陰府ではなく、パラダイスに行っていると考えるべきです。パラダイスと聞くと、キャバクラの名前みたいですが、そうではありません。私は現実にあると信じています。よく臨死体験をなさる人、つまり一度、死の向こうに行って、戻って来た人たちの体験談があります。未信者の人は真っ暗なところに行ったと言います。しかし、クリスチャンの場合は、「光の世界に入って、ペテロや肉親にあった」と言います。パウロは「私は第三の天、パラダイスに引き上げられたことがある」とⅡコリント12章で証言しています。パラダイスとは、まさしく御国の待合室です。死後の世界のことを科学的に証明することはできません。自然科学は目に見えて、量れるもの、実験可能なものです。しかし、霊は目に見えないし、量ることもできません。また、陰府やパラダイスにテレビカメラを持ち込んで、レポートすることもできません。だから、私たちは聖書のみことばから信じるしかないのです。イエス様やパウロ、ヨハネが証言しているのですから、信じて良いのではないでしょうか!


3.
パラダイスに入った犯罪人

イエス様が「パラダイス」のことを証言している聖書箇所があります。同じルカ福音書の23章です。おそらく、この人はパラダイスに入った人の中で第一号ではないかと思います。言い換えれば、オープンしたばかりのパラダイスに入った最初の信仰者です。ルカ2339-43「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」片方の犯罪人はイエス様に悪口を言いましたが、もう片方の犯罪人は自分をどのように見ているでしょうか?彼は「自分が犯した罪の報いを受けることが当然だと思っています。つまり、罪を悔いていることが分かります。そればかりではありません。イエス様は悪いことは何もしなかったと言っています。どうして、そんなことが分かったのでしょうか?十字架にかかるような悪人は、罵詈雑言を吐き、神や人々を呪うでしょう。しかし、この人は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というイエス様の祈りを隣りで聞きました。その時から、この方は神の子、キリストに違いないと分かったのです。


 悔い改めた犯罪人は、イエス様に対してどのように願ったでしょうか?「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。彼は口はばったくて、「救ってください」とは言えませんでした。ただ、「私を思い出してください」と願っただけです。でも、彼はイエス様の復活と昇天、御国の王であるという信仰を持っていました。これまでさんざん悪いことをしてきたので、その時には「私を思い出してください」としか言えなかったのです。イエス様は彼に何と答えられたでしょうか?「今さら、何を言うのか?虫が良過ぎはしないか」とは言っておりません。「聖書読んで、教会に行って、良いことをして罪を償った後に来なさい」とも言っておりません。もうすぐ死ぬのですから、良い行ないなどできません。イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。「まことに」は、アーメンであります。イエス様は明日ではなく、「きょう、私とともにパラダイスにいます」と言われました。何と言う恵みでしょうか。ここに、福音のエッセンスがあります。人が救われるためには、良い行ないが必要なのでしょうか?人が救われるためには、これまで犯した罪を全部告白し、償わなければならないのでしょうか?答えはノーです。この人は十字架にかかって手足を動かすことができません。時間もなく、死を待つばかりの状態です。福音の力とはどういうものでしょう。救いを得るために良い行いは必要ではなく、イエス様を信じるだけで救われるということです。


4.
キリスト教来世観


 ある人たちは、「死んでから永遠のいのちをいただくのだ」と考えています。また、ある人たちは死んだら、魂になって、天国というところで永遠に暮らすのだと考えています。また、ある人たちは「もう天国行きが決まっているんだから、死ぬまで好きに暮らそうじゃないか?」と救いを生命保険みたいに考えています。そうではありません。私たちは、聖書から正しい来世観をもたなければなりません。Ⅰヨハネ511,12「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」質問をいたします。どのような人が永遠のいのちを持っているのでしょうか?そうです。「御子を持つ者が永遠のいのちを持っています。」日本語ではわかりませんが、この「いのち」はギリシャ語で「ゾーエ」であり、神のいのち、永遠のいのちを意味していることばです。御子を持つとは、イエス様を心の中にお迎えしている、信じているということです。では、どのような人が永遠のいのちを持っていないのでしょうか?御子を持たない者、つまりイエス様を信じていない人です。ここで両者が分かれます。キリスト教は万人救済、すべての人が救われて天国に行けるとは言っていません。現代は、天国が安売りされています。テレビで芸能人の葬儀が行われているのを見るときがあります。だれかが弔辞で「天国でも歌を歌ってね」とあいさつします。私はそのとき、「天国じゃなくて、陰府だよ」とテレビに向かって言うときがあります。だれでもみんな天国に行ったら、天国はこの地上と同じになり、何の魅力もありません。そうではありません。本日の聖書箇所にあるように、死んだ魂は、陰府かパラダイスに行くのです。


 でも、それだけではありません。ヘブル927「そして、人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」と書いてあります。その後、神さまの前に立たなければなりません。では、イエス様を信じた人も、神のさばきを受けるのでしょうか?私たちはキリストが代わりにさばかれたので、神さまの前に立つ必要はありません。しかし、Ⅱコリント510「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」イエス様を信じている人は地獄には行きませんが、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けるのです。パウロは「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」(ピリピ314)と言っています。神さまの前には、義の冠、命の冠、あるいは朽ちない冠が用意されているようです。つまり、この地上でどう生きたか、御国に行った先に、大いに関係があるということです。イエス様の隣りにいた犯罪人はパラダイスに入りましが、報いや冠は得ることはできなかったでしょう。それでも、すべりこみセームで、永遠のいのちを得たのですから感謝なことです。


 この教会に赴任したばかりの時、役員会で「あなたは救われていますか?天国に行けますか?」と聞いたときがあります。ある人は「私は分かりません」と正直に答えました。その人は、キリスト教だけではなくて、仏教も信じているとおっしゃっていました。家には仏壇があり、亡くなられたお父さんやお母さんの位牌がありました。「ああ、この人は確信がないんだなー」と思いました。4,5歳の子どもに「あなたは生きていますか?」と聞くとどう答えるでしょう?「うん、生きているよ!」と胸を張って答えるでしょう。理屈では説明できないけど、本人は生きていることがわかります。クリスチャンも同じです。「あなたに永遠のいのちがありますか?」と聞かれたら、「はい、あります」と答えることができます。もし、はっきりしないなら救われていないと思います。救われていたなら、あなたの霊と内におられる聖霊があなたに教えてくれるからです。もし、それでもはっきりしないなら、「イエス様を信じたら救われると聖書に書いてあるので、私は救われています。」と告白してください。そうすれば、確信がやってきます。救いを得ることは、そんなに難しいことではありません。救われるための手立てはイエス様が十字架上で全部やってくださいました。私たちがすべきことは、イエス様を救い主として信じることです。お祈りいたしましょう。
「イエス様、私は永遠のいのちをいただきたいです。ラザロのように、また十字架で悔い改めた犯罪人のように、イエス様、あなたを救い主として信じます。あなたが私をパラダイスに入れてくださることを信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

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2015年1月 2日 (金)

自分はだれか? 創世記1:26-28 亀有教会 鈴木靖尋 2015.1.4

 アイデンティティ(identity)は、ほとんど日本語になっていますが、日本語に訳しにくいことばです。自己認識、自己存在、自己同一性、どれもイマイチですが、「自分はだれか」ということです。「あなたはだれですか?」と聞かれると、多くの人は、職業を答えるでしょう。しかし、無職の人や定年退職した人は、どう答えたら良いのでしょう?年齢や、性別、職業に関係なく、「私は○○です」と答えられるアイデンティティとは何なのでしょうか?もし、何ものによっても、揺るがされることのないアイデンティティを持っているなら、平安で確かな道を歩めるのではないでしょうか? 

 

1.神のかたち

  そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記126-28

  神さまは人間をどのように創造されたでしょうか?創世記1章には、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と書いてあります。果たして、神さまはだれに言われたのでしょうか?天使に言ったのでしょうか?それともひとりごとでしょうか?「われわれ」とおっしゃっていますので、新約聖書的には、父なる神と子なる神と聖霊なる神さまと理解することができます。神学的には「われわれに似る」というのと「われわれのかたち」というのは、別物だという説もあります。「われわれに似る」とは、神さまの属性、神さまの性質に似せて、人を造るんだという解釈です。もう1つ「われわれのかたち」とは三位一体という関係だという説です。その根拠は、神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」というみことばです。神のかたちは、男と女の関係に現わされているということです。つまり、神さまは人間に三位一体のような愛の関係性を与えられたということです。普通、教会では「似姿」と「かたち」と2つには分けて考えません。神のかたちとは、神さまが持っておられる属性、つまり性質だというふうに理解しています。

  神さまはどんな性質をもっておられるでしょうか?神さまは聖、きよいお方です。私たちもきよさを求めます。毎日、洗濯したり、食べたお茶碗を洗ったりします。部屋もきたない所よりも、清潔な所が気持ち良いでしょう。しかし、聖書が言う「聖」とは、私たちが言う「きよさ」よりは、もっと深くて高い意味があるようです。また、神さまは義、正しいお方です。私たちは悪いことをすると後ろめたい気持ちがします。不正が行われているときは怒るでしょう。最近、学校では「道徳」が科目に入れるべきだという考えがあります。道徳は、相対的で人に迷惑をかけないことが基準かもしれません。しかし、「義」は神さまとの関係からでないと理解できません。また、神さまは永遠なるお方です。私たちは夜空の星を見る時どう思うでしょう?「ああ、人の命は何とはかないのだろう?永遠というのがあるのだろうか?」と思わないでしょうか?また、神さまは愛なるお方です。私たちは完全ではありませんが、愛する心を持っています。生物学者たちは、これらはみな本能であると言うかもしれません。もし、人間が猿から進化しただけの動物なら、万引きしたり、人を傷つけたくらいでどうして犯罪になるのでしょうか?日光の猿のことを考えると、そういうのは当たり前のことです。もし、そういう人がいたら、生物学的には「ちょっと進化が遅れているのかな?」と考えるべきでしょう。人間は動物とは違います。神のかたちに似せてつくられたので、正義を求められるのです。また、神さまは彼らを祝福し、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と仰せられました。これは、「人間が神さまの代わりに、自然界や動植物を管理せよ!」ということです。人間は自然の一部ではなく、自然を正しく支配するように造られたということです。また、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」とは、神のかたちを増殖せよということです。このように、人間には神さまからの祝福と権威が与えられました。

   さらに、人間は他の動物とは違うものが与えられています。それは何でしょう?創世記27その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」動物や植物は神のことばで造られました。しかし、人間だけは神さま自らが土地のちりを練って、人を形作りました。そして、ご自分のいのちの息を鼻から吹き込まれました。「息」ということばは、「霊」とも訳せることばです。ですから、人間には霊があり、神さまと交わることができる存在だということです。動物には魂(知性、感情、意志)がありますが、霊はありません。そういう意味からも、人間は他の動物とは違うんだということです。他にも、神さまと似せてつくられたところがたくさんあります。私たちは真理や自由、平和、善を求めます。もともとそれらは神さまが持っておられたものです。この世の中には、性善説と性悪説というのがあります。もし、それらのことばを使うなら、人間は神さまから造られたときは、良かったので「性善説」です。創世記131「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」とあるからです。人間は、神のかたちに似せて造られたので、神さまにとっては非常に良かった、つまり最高の傑作品だったということです。

 2.神のかたちの喪失

  創世記36-10それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

  エデンの園には見るからに好ましく食べるのに良い木が生えていました。ところが、1つだけ条件がありました。園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が植わっていました。主なる神さまは、アダムに言われました。「あなたは園のどんな木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記216-17と言われました。エデンの園には、たくさんの果実のなる木がありました。そして、園の中央に1本の善悪の知識の木が植わっていました。善悪の知識の木は神さまの主権を象徴しています。その木から取って食べるということは、私が神になって、善悪を判断するということです。これは恐ろしいクーデーターです。人間が造られる前に、サタンは堕落していました。サタンは神のかたちに似せて造られた人間に嫉妬を燃やしていました。なぜ、エバを誘惑したかと言うと、エバは神さまから直接聞いていなかったからです。アダムはエバに「それに触れてもいけない。あなたが食べて死ぬといけないから」と基準を1段下げて伝えていました。エバが食べ、そしてそばにいたアダムに与えました。アダムは「やめろ!」と注意できる距離にいたのに、「エバが勧めるのだから良いか」と食べました。聖書には、「ふたりの目が開かれた」とあります。これは、霊が死に、魂が巨大化したという意味です。堕落する前は、神さまと交わりながら善悪を判断しました。しかし、神さまから独立して、自分の魂で善悪を判断する者になったのです。今も人間は、神さまから独立して、「神さまなし」の生活をしています。

  では、自分の目が開かれたために、アダムが失ったものは何でしょう?それは、神さまと共にあることの平安、充足感、安心感、神のいのちです。では、目が開かれて、神さまから独立したために、二人にやって来たものは何でしょう?恐れ、恥、不安、死(霊、肉体、永遠の死)です。このあとすぐ、二人は自分たちが裸であることを知りました。昨年、大川牧師の礼拝説教CDを車で聞きました。その前に、彼らが裸であったのに、なぜ、そのときは恥ずかしくなかったのか?先生は「神の栄光が裸の上を覆っていたからだ。堕落したために、二人から栄光が去ったのだ」とおっしゃっていました。「なるほどなー」と思いました。彼らは裸の恥をいちじくの葉で覆いました。それは、「ありままでは受け入れられないというアイデンティティの喪失」と考えることができます。堕落前は、神のかたちに似せて造られたので、神さまの栄光を表わしていました。神さまが持っている聖、愛、善、義、真理、権威、創造性、永遠性、自由を見ることができました。しかし、そのかたちが木端微塵に砕かれてしまったのです。みなさんは、鏡が粉々に割れた状態を見たことがあるでしょうか?鏡は鏡なんですが、どのように映るか見たことがあるでしょうか?ちっちゃな鏡が散乱しています。どこかの風景を映しています。自分の顔の一部も映しているでしょう?でも、それは不完全であり、部分的です。真理の一部は見えますが、全体像が見えないので、本当の目的がわかりません。子供たちが「何のために学校で勉強するの?」とか、「どうして男と女がいるの?」と聞かれても答えることができません。親は、結婚、仕事、生きる意味すら教えることはできません。なぜなら、自分も分からないで生きているからです。「どうして、刃物で刺しちゃいけないの?」「どうして、危険ドラッグ吸っちゃいけないの?」と聞かれても、「警察に捕まるから」とか「人さまに迷惑かけちゃいけないから」としか答えられないでしょう。本当は、人間は神さまのかたちに似せて造られた尊い存在なのでそんなことはしないのです。

  

3.捜し求める神さま

   ルカ福音書15章には、失われた人を神さまがさがしているたとえ話が3つ記されています。その中の1つは、失われた銀貨のたとえです。ルカ158-10「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」おそらく、その銀貨は宝物で、10枚で1セットのようなものであったと思われます。この世には、セットでそろわないと価値のないものがあります。たとえば、記念切手、ゴルフクラブ、お皿、漫画全集などでしょうか?私は『何でも鑑定団』をよく見ますが、コインや記念切手、お皿や壺、湯呑、絵画、額、おもちゃ、色んなものが出て来ます。中には昔の火縄銃を何丁も集めている人がいます。彼らにとっては、みな価値ある宝物なのでしょう?この女性は、大事な銀貨の1枚をなくしてしまいました。「あと9枚あるからいいじゃないの?」とは思いませんでした。あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜しました。当時の家は、土間であり、藁とか穀物、畑の道具とか水瓶そういうものが散乱していたと思われます。ランプを灯して、ほうきで掃いて、片づけながら1枚の銀貨を捜したのではないでしょうか?「あった、見つかった!」と、立ち上がったときは、腰が痛かったと思います。彼女はその喜びを、近所の女性たちにも伝えました。「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うなんて、よっぽど大事だったのでしょう。

 ルカ15章には3つのたとえ話があります。いなくなった羊を捜す羊飼いは、イエス様のことです。そして、放蕩息子を待つ父は、父なる神さまのことです。そして、なくした銀貨を捜す女性は聖霊を象徴しています。この女性は、どのようになくした銀貨を捜したでしょうか?あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜しました。「なくした銀貨を絶対に見つけなければ」という、執念を感じます。神の霊であられる聖霊も、全世界を巡りながら、失われた人たちを捜しているのです。当時の銀貨は皇帝の肖像が刻まれていました。人間にはだれの肖像(イメージ)が刻まれているのでしょうか?それは、創造主なる神さまです。人間は神さまの作品であり、神さまが所有する大切な存在です。アンデルセンの「銀貨」というお話があります。ある英国紳士が海外旅行へ出かけした。その途中、彼の財布にあった1枚のシリング銀貨が、異国の地で財布からこぼれてしまいました。人々から「偽物だ、通用しない」と言われました。その銀貨は暗い所で人手に渡り、明るみで、またもや「偽物だ、通用しない」と言われました。銀貨は、「なんて僕は不幸せな銀貨なんだろう。僕のこの銀も、この値打ちも、この刻印も、どれも何の意味もないとしたら…」と憂鬱になりました。偽物を賃金としてもらった女性は、もう人をだますことのないように、銀貨に穴をあけました。辛い悲しい時代が過ぎました。ある日のこと、一人の旅行者が来ました。すぐだまされて、「通用しない!偽物だ」という声をかけました。やがて、その人は面々にほほえみを浮かべました。「おや、これはいったいどうしたことか?これは、私の国のお金じゃないか。穴をあけられ、偽物呼ばわりされているんだ。いや、これは愉快だ。しまっておいて国へ持って帰ろう」と言いました。銀貨のあらゆる苦労が終わり、喜びの人生が始まりました。罪人が悔い改める(方向転換して神さまのもとにもどる)なら、どのような喜びがあるでしょう?天の御使いたちに喜びがわき起こるとあります。見つけた神さまも喜ぶし、見つけられた人も喜ぶでしょう。

 

4.神の子ども

   ヨハネ112-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」もし、キリストを受け入れる(信じる)なら、どのような特権が与えられるのでしょう?また、それはこの世のどのようなものと関係がないのでしょうか?この方とは、イエス・キリストのことであります。イエス様を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられると書いてあります。「特権」という意味をご存じでしょうか?英語の詳訳聖書には、authority, privilege, power, rightなどという風に訳されています。これらを、どう説明できるでしょうか?旧約聖書にヨセフという人物のことが記されています。彼は、ヤコブの11番目の子どもでした。ヤコブはイスラエルですから、ヨセフも12部族の先祖になりえます。ところが、兄弟たちから妬みを買って、エジプトに奴隷して売られました。主人のため一生懸命働いていましたが、彼の妻に訴えられ、投獄されました。ある時、パロの献酌官の夢を解き明かしてあげました。「私は無実の罪で捕えられているのです。だから私のことをパロに進言して下さい」とお願いしました。ところが、献酌官はコロっとそのことを忘れました。2年後、パロが不思議な夢を見ましたが、だれも解き明かすことができませんでした。献酌官は「ああ、そういえば、夢を解き明かせるヘブル人が牢獄にいる」と思い出しだしました。早速、ヨセフはパロのもとに連れ出され、その夢を解き明かしてあげました。ヨセフのおかげで、エジプトは大ききんから救われることになりました。パロはどうしたでしょう?ヨセフにエジプト全土を支配させました。そのため、自分の指輪をはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の服を着せ、その首に金の飾りをかけました。そして、自分の第二の車に乗せ、人々に彼の前で「ひざまずく」ように命じました。この箇所を英語の詳訳聖書で読むと、authority, privilege, power, rightなど、全部入っています。ヨセフは奴隷から、王の息子となりました。王の代わりに国を治める権威と力が与えられました。これらが、神の子となる「特権」という意味であります。 

  使徒パウロも同じことを述べています。ローマ817「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」相続人とは、神さまのものを自分が受け継ぎ、神さまとともに治めるということです。かつて、人間は地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と命じられていました。堕落した人間は支配権を失い、サタンがそれを横取りしました。私たちは自然界の猛威、台風、地震、津波、火山噴火を恐れています。癌をはじめとする数えきれない病気があります。インフルエンザ、エイズ、エボラ、ウィルスも人間に逆らっています。世の中に、戦争、犯罪、事故、天災、難病、不条理があります。人間だけが悪いのではなく、背後にこの世を支配しているサタンの存在を否定することはできません。だから、私たちには神さまの権威を持つ神のこどもになる必要があります。今でもイエス様は全宇宙の王です。私たちは「御国(神の支配)が来ますように」と祈ります。しかし、王なるイエス様は、ご自分と一緒に治めてもらいたいのです。

 どのようにしたら、私たちは神の子どもになることができるのでしょうか?それは、救い主イエス様を受け入れること、信じることによってであります。生まれや努力や頑張りとは関係がありません。現代訳聖書には、「決して先祖や親の身分や地位によるのではなく、人間の願望や意志によるものでもない」と書いています。つまり、どんな境遇で生まれた人でも、神の子とされるチャンスがあるということです。私のように8人兄弟の7番目でも可能でした。私はいつも「おみそ」にされてきました。「おみそ」とは、一人前ではない、ついでという意味です。正月やお盆はいつもさびしい思いをしてきました。兄や姉の伴侶がきて、食卓を囲んでいました。私は恥ずかしくて家のどこかに隠れていました。食卓には私のポーション(食物の一人前、分け前)がなかったからです。私は自分が誰か、自分の価値が全く分からないで育ちました。ところが、イエス様を信じて、私は神の子という身分をいだたきました。みなさんは、神の子の特権がどれくらいすばらしいかご存じでしょうか?天地万物を造られた神さまのものを全部相続できるということです。あなたのアイデンティティはどのようなものになるでしょうか?神さまが王様なら、息子は王子、娘は王女という身分になります。あなたは、王子であり、王女なのです。「天のお父様、あなたから離れていたので自分がだれなのか分かりませんでした。聖霊様、あなたが私を見出してくださり感謝します。私はイエス・キリストを救い主、人生の主として受け入れます。そして、これからはあなたに属し、御国の価値観を土台にして生きたいと願います。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。」

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