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2014年12月31日 (水)

私たちのゴール(元旦礼拝) エペソ3:5-13 亀有教会 鈴木靖尋 2015.1.1

 新年あけましておめでとうございます。恵みの年が始まって2015年目に入りました。きょうは、元旦礼拝にあたり、永遠にわたる救いの歴史を短時間で学びたいと思います。救いの始まりは聖書の最初、創世記に書いてあります、救いの完成は聖書の最後ヨハネの黙示録に書いてあります。私たちが長い小説を短時間で知りたければ、最初の数ページを読み、中をとばして最後の数ページを読めば良いでしょう。きょうは、最初と最後、そして真中にあたる部分だけを取り上げたいと思います。

 1.救済史の最初

  救いの歴史、救済史の最初はどこでしょうか?まずは、創世記1章から取り上げます。創世記127「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」「ご自身のかたち」つまり、「神のかたち」とは何でしょうか?神学的にはとても複雑でひとくちでは言えません。でも、端的に「神のかたち」を言うならば、それは三位一体という神の共同体です。永遠の昔から、父、子、聖霊という三位の神さまが親しく交わっていました。CS.ルイスは、「三位一体とは、父、子、聖霊なる神さまが、仲良くワルツを踊っているようなものである」と言いました。

 また、CS.ルイスは、「『神は愛である』というとき、神に2つ人格がなければ不可能である」と言いました。自分ひとりで愛することは不可能です。愛する対象が存在していなければなりません。だから、神さまには2つ以上の人格がなければなりません。イスラムの神はアッラーの神であり、唯一の神です。一人で存在しているので、愛は存在していません。だから、彼らの経典から「神は愛である」と言うことができないのです。神さまがご自身のかたちで人を創造したとはどういうことでしょう?それは、父、子、聖霊のような交わりを持つ共同体として人間を造ったということです。「男と女とに彼らを創造された」とありますが、まさしく互いに愛し合うように造られたのです。男と女という愛の関係が、三位一体の神に似ているということです。

 旧約聖書の雅歌書は、神とその民の愛の関係が記されています。新約聖書になるとイエス様が花婿で、教会が花嫁というふうに描かれています。でも、神さまはなぜ、人間をご自身のかたちに造られたのでしょうか?創世記2章を見ますと、神さまと人とは親しく交わっていたことがわかります。

 創世記3章には堕落の記事がありますが、神さまは「あなたはどこにいるのか?」と呼びかけました。しかし、それはさばくためではなく、ちゃんと出て来て事情を話してもらいたからです。でも、アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。アダムの方から、神さまとの交わりを絶ってしまったのです。堕落以後、神さまとの関係が壊れました。そして、人との関係も壊れてしまいました。

2.救済史の最後

  救済史の最後に当たる部分が、ヨハネ黙示録21章です。黙示録211-3「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて…」

 創世記1章の創造とは違う、「新しい天と新しい地」という創造がここに記されています。 このところは、また「聖なる都、新しいエルサレム」と呼ばれています。かつての都、エルサレムではありません。都の城壁は高価な宝石でできており、道路は透き通るような純金でできています。一番、特記すべきことは、そこには地上のような幕屋も神殿もありません。3節には、「神の幕屋が人とともにある」とあります。幕屋ではなく、神さまが民の中に住むということです。また、22節にはこのように書いてあります。「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」神殿は建物ではなく、神さまご自身です。さらには、都を照らすのは太陽や月ではなく、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりです。私たちの小さな頭では想像もつきません。でも、ここに私たちの究極的なゴールが記されています。それは、神の都、エルサレムで神さまと共に住むということです。

 このことを旧約の人たちもあこがれていました。ヘブル11章に「アブラハムは都を待ち望んでいた」とあり、「事実、神は彼らのために都を用意しておられました」と書いてあります。また、ダビデは詩篇23篇で「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と歌っています。同じダビデが書いたと言われる詩篇274「私は一つのことを【主】に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、【主】の家に住むことを。【主】の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」主の家とは、主の宮であります。ダビデも主と共に住まうことを待ち望んでいたのです。聖なる都、天のエルサレムで、主と共に住むことが私たちの窮極的なゴールなのであります。地上の生活は、天のエルサレムを目指す旅路です。まさしく、ジョン・バニヤンの『天路歴程』であります。

  3.救済史の真中

  ここでやっとエペソ3章のみことばを引用することができます。エペソ311「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。」このところに、「神の永遠のご計画」と書いてあります。「永遠の計画」は英語の聖書では「永遠の目的」と書いてあります。

 神さまの永遠の計画あるいは、永遠の目的とは何でしょうか?それは、エペソ36に書いてあります。エペソ36「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」このところに、同じことを意味することばが並んでいます。福音、キリスト・イエス、異邦人も相続者となる、ともに1つのからだに連なる、ともに約束にあずかるということです。神さまは私たち異邦人も神の民に加えらる、つまり教会の設立を考えておられたということです。

 救済史の真中の出来事は、私たち異邦人が救われて、神の民に加えられるようになるということです。どのようにしてそれが可能になったのでしょうか?第一はキリスト・イエスの贖いが成し遂げられたということです。言い換えれば、十字架と復活による救いです。第二は信じた人々に聖霊が内住するようになったということです。内住とは、私たちの中に聖霊が住んでくださるということです。このことは神さまが永遠の昔から、最も望んでいたことでした。三位一体の神さまが人と共に住むということが半分成就されたということです。完全に成就するのは、黙示録21章に記されている天のエルサレムです。

  もう一度、「救いの歴史」を見たいと思います。救いの歴史の真中にある事が起こりました。神さまは永遠の昔、ご自身とおなじかたちを持った人間を造ろうと計画されました。創世記にあるように、アダムとエバを創造しました。しかし、人間は堕落し、エデンの園から追い出されました。神さまはアブラハムの子孫であるイスラエルを選び、共に住もうと約束されました。しかし、それもうまくいきませんでした。やがて、神の御子イエスが天から下って十字架で贖いを成就されました。50日後、キリストの御霊、聖霊がくだりました。これによって、イエス様を信じる者に聖霊が宿るようになりました。つまり、三位一体の神さまが聖霊によって宿ることが可能になったのです。

  ウィットネスリーという人が『神の永遠のご計画』という本の中でこのように言っています。「神の計画(エコノミー)は、神ご自身を人の中に分け与えるという神ご自身のご計画にほかならない。神の計画(エコノミー)は、三一の神を1つの霊の中で、私たちの霊の中に分与することです。」彼はこうも言っています。「現代では、人は医学の分野で多くの薬を完成しました。薬によっては、非常に多くの要素が一服の中に調合されているものもあります。ただ一回の投与で、ある要素は病原菌を殺すことができ、もう1つの要素は神経を和らげることができ、他の要素は体に栄養を与え元気付けることができます。神の霊はすべてを含む薬です。私たちは聖霊が世界中で最良の薬であるということを認識したことがあるでしょうか?ただ一服の薬が、私たちのすべての必要を満たすのに十分なのです。」

  それはともかく、救済史の真中、中心的なでき事は、私たちの中に聖霊が住むようになったことです。これは神さまの永遠の計画の中で画期的な出来事でした。まず、個人が神の宮となりました。Ⅰコリント619あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり」と書いています。神さまは聖霊を私たちに与えることにより、一緒に住んでいてくださるのです。これは救済史において、最も画期的なことでした。私たちが神さまからいただける最もすばらしいものは聖霊です。イエス様は、ルカ1113「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言われました。私たちは、何がなくても、神さまを内側にいただいていることを感謝すべきであります。

  同時に、クリスチャンの共同体、教会が神の宮です。イエス様は死んで3日後に、神の神殿を建てると言われました。Ⅰコリント316あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」これは個人ではなく、複数形です。つまり、私たちの中に神さまがおられるということです。

  神のかたちとは三位一体であると申し上げました。なんと、教会の中に三位一体の神様がお住みくださるということです。教会とは建物ではなく、私たち共同体のことであります。これってすごいことじゃないでしょうか?

  西洋は個人主義であり、どちらかと言うと個人の救いを強調します。しかし、聖書は個人もそうですが、共同体の救いということも教えています。その両方を表わしているのがこのみことばです。コロサイ127神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」パウロは「あなたがたの中にキリストがおられることは奥義である」と言っています。英語の詳訳聖書は、Which is Christ within and among you.となっています。直訳するならば、「あなたの中、そしてあなたがたの間にいるキリストが栄光の望みだ」ということです。イエス様は個人の中にも住んでおられるし、また私たちという教会の中にも住んでおられるということです。 

 4.私たちのゴール(目標)

 私たちの最終的なゴールは、「聖なる都、天のエルサレムで主と共に住む」ということです。これは窮極的なゴールであり、アブラハムやダビデがあこがれていました。では、私たちがこの地上におけるゴールとは何なのでしょうか?

  きょうのメッセージのキーワードは「住む」ということばでした。神さまの永遠の目的は私たちと一緒の住むということであります。やがて、天のエルサレムで主が共に住むことができます。

  私たちの地上でのゴールの第一番目は、個人的に親しく住むということです。イエス様はヨハネ15章でこのように言われました。ヨハネ155「人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」「とどまる」は英語の聖書ではabideが用いられており、「住む」の古い言い方です。つまり、「私があなたの内に住むので、あなたも私の内に住みなさいよ」ということなのであります。これはどういう意味でしょう?イエス様が私たちの内に存在していると言うなら、物みたいな感じがします。「住む」というのは人格的な交わりがあるということです。私たちは内におられるキリストと親しく交わり、すべてのことをキリストに依存して生きるということです。私たちは人に依存してはいけませんが、キリストに依存して良いのです。

  ゴールの第二番目は、共同体として親しく住むということです。ヨハネ159「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」ヨハネ1517「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」これは、共同体である教会にイエス様を歓迎し、互いに愛し合うということです。「互いに愛し合う」は教会のマグナカルタ、大憲章であります。私たちは神さまからすべての罪を赦され、無条件に愛され、ありのままで受け入れられているのです。しかし、ぱっと横を向くと、そのことを忘れてしまいます。「この人のここが悪い、ここが変、ここが足りない」とか言ってさばいてしまいます。私たちは罪の中に生まれたので、裁きの霊がだれにでもあります。裁きのプロはだれでしょうか?悪魔です。黙示録1210「兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と書いてあります。私たちは愛のめがね、寛容のめがね、赦しのめがねをかけて兄弟姉妹を見るべきであります。もし、私たちが互いに愛し合うなら、三位一体の神さまが、住み心地が良くなり、たくさんの神さまのみわざが起こるでしょう。

  ゴールの第三番目は、神のかたちを増殖させることです。イエス様はヨハネ1516「行って実を結びなさい」と言われました。しかし、神さまはその前に、アダムとエバに命じておられました。これは人類への命令です。創世記128神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ」。このみことばの直前に「神のかたちとして彼を創造された」というみことばがあります。ということは、「神のかたちを増殖せよ」ということです。これは命令であり、イエス様が「行って実を結びなさい」と共通しています。イエス様は天にお帰りになる直前、弟子たちに福音宣教を命じられました。しかし、それは私たち教会に対する命令でもあります。なぜでしょう?三位一体の神さまが御自身のかたちに似せて造った人たちが滅びてほしくないからです。神さまはそのために御子イエス様を十字架にかけ、贖いを全うされました。そればかりか、信じる者に聖霊を与え、天のエルサレムで一緒に住もうと招いておられます。私たちも父なる神さまの子どもであるなら、同じ目標と心を持つべきであります。

  私たちは世の終わりの時代に住んでいます。救いの歴史の黙示録の一歩手前であります。もうすぐイエス様が天から迎えに来られます。イエス様は私たちに何と約束されたでしょうか?ヨハネ142-3「 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」私たちと一緒に住んでくだる住まいを備えておられるイエス様に感謝します。

 

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2014年12月27日 (土)

劣等感からの解放 ルカ19:1-10 鈴木靖尋 2014.12.28

 東大を卒業した人でも劣等感を持っているということが信じられるでしょうか?劣等意識は神さまとの関係ではなく、人との比較の中で生きているゆえに生じます。「人から認められたい」「人から重要な人物と思われたい」という願いがかなわず、かえって人々から見下げられ、馬鹿にされ、心の傷がうずいているのです。劣等感を持っている人は、同時に優越感をも持っていることは不思議ではありません。なぜなら、人との比較の中で「勝った、負けた」と生きているからです。あなたの心の深いところに「なに、くそ!」という劣等感コンプレックスはないでしょうか?

 

1.ザアカイ

 

ルカ191-4「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」当時のユダヤは、ローマによって支配されていました。ローマ帝国は、租税の集金や関税の査定を取税人に請け負わせていました。彼らはそれを良いことに、何倍もふっかけたり、税金を払えない人には高い利子で貸したりして私服を肥やしていました。取税人はユダヤ人たちから売国奴と呼ばれ、遊女や罪人と同じように人々から嫌われていました。ザアカイはその取税人のかしらで、金持ちでした。ある時、メシヤと噂されていたイエス様がエリコの町を通りました。ザアカイは、イエス様がどんな人か見ようと好奇心がわきました。ところが、ものすごい人だかりで近づくことができませんでした。それに、彼は背が低かったので、見ることができません。おそらく、町の人たちはザアカイを嫌っていたので、道をあけてくれなかったのでしょう。ザアカイは先回りして、いちじく桑の木に登りました。大の大人が木に登るというのは、少し滑稽かもしれません。しかし、彼は手段を選ばないかしこい人でした。どんなときでも、ザアカイは人の上前を撥ねるようなしたたかな生き方をしていました。 

 

ところで、このところに「ザアカイは背が低かった」と書いてあります。背が低いというのは自分の意志や努力ではどうにもなりません。生まれつきと言いましょうか?私たちの手の及ばないところであります。もし、自分が標準よりも、20センチ低かったならどういう思いをするでしょうか?私は小学校6年生のとき、クラスで一番背が低かったです。朝礼のときなどは、椅子を持って体育館に集まります。そのとき、一番前に座るというのは屈辱でした。小学校高学年は、ホルモンの代謝がものすごく変化するときです。ある子どもはぐーんと背が高くなります。私が片思いしていた子は私より10センチ以上も背が高かったのです。不思議なことに、小学校で背の高い人というのは、高校生のときにあまり伸びません。私は高校生後半のとき、ぐーんと背が伸びました。でも、背が低すぎるのも劣等感になりますが、背が高すぎるのも劣等感になります。バレーボールの大林素子という人は、小学生時代、あまりの高身長のため交通機関を利用するとき母子手帳を携帯していたそうです。みなさんは容姿の他に、能力や生まれ、気質のゆえに劣等感はないでしょうか?しかし、この劣等感というのは生きるバネにもなります。ザアカイは背が人よりも低いという劣等感を克服するために、金持ちになろうと思ったのかもしれません。より多くのお金を得るために、取税人という、人がいやがる仕事を選びました。彼はその業界で成功し、今では「取税人のかしら」になっていました。ザアカイに借金をしている人たちは、頭を下げ、懇願さえしていました。そしてザアカイの楽しみは寝る前に、お金を数えることでした。時々、「俺を見下したやつらを見返してやるぞ!」とつぶやいていました。しかし、心の中では何とも言えない寂しさがありました。近頃は「自分の孤独と空しさをわかってくれる神さまがいたらなー」とさえ思っていました。そんなとき、噂になっているイエスというお方がエリコの町を通るというニュースをキャッチしたのです。彼の中にはお金では埋められない空洞があったのかもしれません。

 

2.人間の生まれつきの状態

 

「背が低い」ということばに注目したいと思います。「低い」は、ギリシャ語でミクロスですが、「小さい」「取るに足らない」という馬鹿にした意味もあります。実は、ローマ3章にこれと似たようなことばはあります。ローマ323「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」は、英語の聖書では、for all have sinned and fall short of the glory of God. となっています。つまり、私たちは罪を犯したので、神さまの栄光には達しない「短い」という意味です。神さまの栄光がこのくらい高いとすれば、どんなに正しい人であっても、低いということです。多くの場合、劣等感というのは人との関係から生じるものです。他の人たちと比べ、優れているとか劣っているなどと言っています。この間、「今でしょう!」の林修先生の弟子たちがテレビに出ていました。三人とも東大生でしたが、一人の女性は偏差値が93.4とか言っていました。「どんな頭をしているんだろう?」と思いました。中には内村航平君のように運動能力抜群の人もいます。また、高収入で豪邸に住んでいる人もいます。しかし、しょせんそれはどんぐりの背比べです。私たちは人よりも、神さまと比べて「小さいなー」と気づかなければなりません。日本人には絶対者なる神概念がありません。だから、人との比較の中で「高い、低い」「多い、少ない」で生きているのです。旧約聖書にヨブという人物がいます。彼は東の国で最も裕福でした。行いにおいても潔白で正しく、悪から遠ざかっていました。彼自身、自分は大したものだと思っていたかもしれません。しかし、神さまと出会ったとき、自分は無に等しいと悟ったのです。

 

聖書は、生まれながらの人間をどのように言っているでしょう。罪があるので、「そのままでは神からの栄誉を受けることができない」と言っています。「罪」という日本語訳は誤解を招くことばかもしれません。神さまは完全無欠のお方です。聖書ではこれを100%の正しさ、「義」と呼んでいます。あなたは神さまのように完全無欠でしょうか?人間は、神の被造物であり、アダムから受けた罪を背負っています。また、個人で犯した罪や過失があるでしょう。たとえ人間の中に「非の打ちどころのない正しい人だ」という人もいるかもしれません。しかし、神さまの義と比べたなら、太陽の明るさと月の明るさみたいなものです。さきほど言いましたが、「栄誉を受けることができず」は「栄誉に達しない」と言うことです。つまり、私たちの正しさや行ないでは、救いを得ることができないということです。「救いの架け橋」という例証(イラストレーション)があります。片方に人間が立っています。そのままですと、死、さばき、滅びが待っています。そして、その向こう側には義なる神様がおられます。神さまのもとには永遠の命、天国があります。しかし、両者の間には、罪という深い淵があって渡ることができません。それでも人間は「救いを得よう、神さまのところに到達しよう」と様ざまな努力をしてきました。道徳、宗教、哲学という橋をかけようとしました。ところが、人間は不完全なので、義という100%の正しさには達することができません。さきほど、偏差値93.4の女性の話をしました。残念ながら93.4でも足りないのです。あと、6.6不足しています。毎回100点取れないように、私たちは行ないや動機においても100点は取れないのです。イエス様は兄弟に向かって「馬鹿者」と言ったら地獄に投げ込まれると言われました。憎むだけでも人殺しになるし、情欲をいだいて女性を見てもアウトです。だれ一人、神さまの基準に達する人はいません。

 

ここに良いニュースがあります。神さまの方から救いの手が差し伸べられたのです。ローマ324ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」キリスト・イエスによる贖いとはどういう意味でしょうか?「贖い」のもとの意味は「身代金を払う」「代価を払う」という意味です。罪のないイエス様が十字架で、私たちの罪を負って死んでくださいました。表現を変えると、イエス様が流された血が罪を帳消しにしたということです。イエス様は私たちの身代わりに死なれただけではなく、3日目によみがえられました。これは、私たちが神の前に義とされるためです。信じた者に神の義をプレゼントするという保証となられたということです。実力で100点とれなかったなら、不足分をもらえば良いのです。神さまの前では、30点の人も90点の人も全く同じです。価なしに義と認められるということはそういうことです。イエス様は、十字架の死と復活によって、罪のギャップに橋をかけてくださいました。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ146と言われました。橋がかかっているなら、どうすれば良いのでしょうか?難しく考える必要はありません。目の前の橋を渡れば良いのです。

 

信仰というのは、この橋を渡っていけば神さまのところに行けると考えることです。だから、イエス様の橋を渡って行きましょう。アーメン。これで、あなたは神さまのところへ行って、神の義と天国と永遠のいのちをいただくことができるのです。クリスチャンという人種は、イエス様という橋を渡って、神さまの側にいる人たちです。

 

3.失われた人を捜していたイエス様

 

ルカ195-7イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。さらに、ルカ1910「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」質問があります。どちらが先に会うことを決めていたのでしょう?ザアカイでしょうか、それともイエス様でしょうか?この記事を順番に読むと、ザアカイが先回りして、木の上からイエス様を待ち構えていました。しかし、イエス様はザアカイがどこにいるかを知っていました。イエス様はいちじく桑の木のところでぴったり止まりました。そして、上を見上げ「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われました。イエス様は「ザアカイ」という名前を知っていました。それだけではありません。イエス様はエリコに来る前から、ザアカイの家に泊まることにしていたのです。ということは、ザアカイよりもイエス様の方が先だったということです。ザアカイは「イエス様がどんな奴だろうか?」木の上から見下ろすような高慢さがあったのではないでしょうか?あるいは、木陰から、こっそり眺めて「どんな奴かな?」と評価するつもりだったのかもしれません。ところが、木の下から「ザアカイ!」と呼ばれました。よく、驚いて木の上から落ちなかったものです。

 

イエス様は、彼の居場所ばかりか、名前まで知っていました。それに、彼の家に泊まることにしているとは!ザアカイはイエス様の招きにどう応えたのでしょうか?ザアカイはスケジュール表を出して、「きょうは予定が詰まっています」とは、言いませんでした。あるいは、「急にお客を連れてくると家内が嫌な顔をするので、相談してから」とも言いませんでした。ザアカイの迎え方を私たちも学ばなければなりません。ザアカイは自分の都合を後まわしにして、イエス様を迎えました。もし、ザアカイが「きょうは都合が悪いので、今度の木曜日」と断っていたならどうなったでしょう?イエス様はエルサレムに向かっていますので、もう、エリコには戻って来ません。もし、このチャンスを逃したら、ザアカイは救いを得ることはなかったでしょう。ザアカイはスルスルと降りて、イエス様を自分の家に迎えました。それだけではありません。自分の部下や仕事仲間を招待しました。みんなで、イエス様を囲んで、食べて飲んで、親しく交わりました。それを見て、喜ばない人たちがいました。当時の宗教的指導たちです。ルカ197「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。」とあります。イエス様は彼らに対して、何と答えでしょうか?ルカ1910「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです」。アーメン。

 

 「失われた」とはどういう意味でしょうか?初めは自分のものであったのに、失くしてしまったという意味です。神さまのせいで人間は失われた者になったのでしょうか?そうではありません。最初の人間アダムが、「自分の考えと力で生きる」と神さまに反逆しました。その結果、はエデンの園から追い出され、サタンが支配するこの世で生きるようになりました。パウロは失われた人たちをこのように表現しています。エペソ21-2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」そうです。私たちは罪過と罪との中に死んでいました。霊的に死んでいるので自分から神さまに立ち返ることができません。そのため、神さまのもとから、御子イエス様がこの地上に遣わされたのです。罪の中に失われていた私たちを探して救うために来られたのです。クリスチャンになりたての頃は、自分の意志で教会にやって来たとか、自分の意志でイエス様を信じたと思っています。しかし、信仰生活を送っていくと、「ああ、イエス様は前から私の名を呼んでいたんだ。私が鈍かったんだ」と気づきます。「私が暗いところで一人ぼっちで泣いていたとき、イエス様がそばにいたんだ」と気づきます。イエス様はザアカイという名の人が、エリコの町に住み、今、木の陰に隠れているのを知っていました。そればかりか、ザアカイの家を訪問して一緒に食事をすることも予定していました。同じように、あなたも救いのリストに入っていたのです。イエス様は失われていたあなたを、私を救うためにこの地上に来られたのです。そして、今も聖霊によって、この地上に来られ、戸の外に立ち「一緒に食事をしよう」と心のドアをたたいておられます。

 

4.ザアカイの変化

 

ルカ198-9ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」イエス様が命じてもいないのに、どうして、財産の半分を貧しい人たちに施すとか、だまし取った物を四倍にして返すと言ったのでしょうか?ここには重要な福音の真理が隠されています。ザアカイは救われるために良いことをしたのではありません。イエス様を心に受け入れて、霊的に生まれ変わり、救いの喜びがあふれてきたのでそうしたくなったのです。この世には数えきれないほどの宗教があります。そのほとんどが、正しいことをしなければならないとか一生懸命拝まなければならないと要求してきます。人間の肉は、何か自分がやるべきことがあると安心するものです。ザアカイはお家にイエス様をお迎えしただけではなく、心の中にイエス様をお迎えしたのです。さきほどの、救いの架け橋で言いますと、イエス様という橋を渡って、神さまの側に行ったのです。神さまのところには、永遠のいのち、天国、そして豊かなる報いがあります。ザアカイは救いの喜びに満たされたので、良いことをしたくなったのです。彼は救われるために良いことをしたのではなく、救われた結果、良いことをしたくなったのです。これこそ、肉ではなく、御霊によって生きるということです。

 

イエス様はザアカイの変化を見て、何と言われたでしょうか?ルカ19:9イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」アーメン。イエス様は、はっきりとザアカイが救われたことを証言したのです。ここに「きょう」とあります。イエス様は「死んでから、ザアカイが天国に行って救われる」とはおっしゃっていません。ここに大切な真理があります。人は天国へ行ってから救われるのではく、この地上で救いを得なければならないといことです。少し前に、ニコデモの話をしました。イエス様は「新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われました。新しく生まれるのも、死んでからではありません。今、この地上でイエス様を信じたら新しく生まれ変わることができるのです。同じように、「きょう」イエス様を信じるとき、あなたは救われ、天国、すなわち神の国に入るのです。そうすると、ザアカイのように変わることができるのです。また、イエス様はザアカイを「アブラハムの子」と呼ばれました。アブラハムは信仰の父であり、アブラハムからイスラエル部族が生まれました。ですから、取税人のかしらであったザアカイも、立派なアブラハム子孫であるということです。

 

本日は「劣等感からの解放」という題で学びましたが、劣等感も救いを得る1つのきっかけになるということです。劣等感は正確には、「劣等感コンプレックス」と言うそうです。コンプレックスは、無意識の中に抑圧されて固まった観念です。人間にはいろんな種類のコンプレックスがありますが、劣等感はその1つです。心理学でも様ざまな治療法があるでしょう。しかし、私たちは絶対者なる神さまと出会い、救い主イエス・キリストを受け入れるときに癒しと解放が得られます。救いを受けるとどのようなことを悟ることができるのでしょうか。第一は神さまからありのままで受け入れられています。第二は神さまから完全に是認されています。もう、人から認められようと努力する必要はないということです。第三は神さまからユニークな存在として造られました。身長も顔かたちも、性格すらも神さまのわざです。第四は神さまから特別に愛されています。神さまはあなたがどうすれば愛されていることが分かるかご存知です。期待してください、あなたに愛が分かるようにしてくださいます。第五、神さまはマイナスもプラスに変えてくださいます。あなたの弱みは強さとなるのです。神さまは失敗も心の傷も益にしてくださいます。第六、あなたは神の子、アブラハムの子孫です。生まれや育ちで劣等感を持っている人がいます。そんなの関係ありません。自分が神さまから固有な存在として造られたことを認め、神さまの無条件の愛を腹いっぱいにいただきましょう。人の評価や評判ではなく、神さまの御目のもとで生きましょう。「愛する天のお父様、あなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたことを感謝します。私は造り主を忘れ、ザアカイのように失われた存在でした。しかし、イエス様、あなたが私を見出し、私の名前を呼んでくださり、ありがとうございます。私はここにおります。どうか、私を罪から救いだし、新しいいのちと新しい身分をお与えください。また、私をすべての劣等感から解放してください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

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2014年12月24日 (水)

ひれふして拝んだ イブ礼拝 マタイ2:7-15 鈴木靖尋  2014.12.24

 クリスマスおめでとうございます。イブ礼拝は独特な雰囲気です。亀有教会にはない厳かな感じがします。おそらく、カトリック教会ではミサを夜通しあげるのではないかと思います。私たちも、しばし静かな思いで、聖書のみことばに共に耳を傾けたいと思います。マタイ210-11「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」

 このところに「ひれ伏して拝んだ」とありますが、東からの博士たちは、幼子イエスを礼拝したということです。礼拝するは英語でworshipであります。英語学的には価値を意味するworthに、状態や身分を意味するshipがくっついたものです。直訳するとworshipは「その価値をたたえる」あるいは「その価値を拝む」ということになります。ある人が言いました。「人間だけが神さまを礼拝するのであり、動物は神さまを礼拝しない。文明国の人たちであろうと、未開発な人たちであろうと、何らかの神さまを拝んでいる」と言いました。確かにそうかもしれません。私も動物が神さまを拝んでいる姿を見たことがありません。アフリカにミーキャットという可愛い動物がいます。彼らは一列に並んで、太陽を拝んでいるように見えます。実際はそうではなく、朝、体を暖めるため日光浴をしているのです。例外なく、私たち人間は何かを礼拝して生きています。つまり、何かを自分の命以上のものとして拝んでいるということです。

ある人は「いや、私は無神論者です。どんな神さまも礼拝していませんよ!」とおっしゃるかもしれません。でも、その人にも自分の命以上ものとして拝んでいるものがあるのではないでしょうか?たとえば、最近のメンバーはよく分かりませんがAKB48というのがあります。AKBを応援している人たちは、彼女らを礼拝しているのではないでしょうか?なぜなら、すべての時間とお金と労力をそこに注ぎこんでいるからです。昨年末、Jリーグの決勝がありましたが、サポーターが熱心に応援していました。おそらく、彼らもサッカーを礼拝しているのではないでしょうか?なぜなら、すべての時間とお金と労力をそこに注ぎこんでいるからです。他にも自分のすべてを注ぎ込んでいる神さまのようなものがあるのではないでしょうか?私は「笑点」の次に、「何でも鑑定団」が好きです。そこに出て来る人たちは、骨董にすべての財産を注ぎ込んでいる人たちです。ある人は、戦国時代の火縄銃を何丁も持っていて命よりも大事にしていました。その人は火縄銃を礼拝しているのです。

 みなさん、この世のもの、つまり、まことの神さま以外のものを礼拝する(偶像礼拝する)と大変なことになります。どうなるでしょう?お金を時間と労力を偶像に吸い取られます。「これで十分」ということがありません。礼拝の対象となっている偶像は「まだ足りない。もっと貢ぎなさい。もっと仕えなさい」と言うでしょう。しまいに、縛られ、エネルギーを吸い取られ、それ以外の生き方ができなくなります。たとえば、ホストを神さまのように礼拝している女性がいます。すべての給料を貢いでいます。何とか自分ひとりのものにしようとさらに貢ぎます。でも、お金がなくなると「はい、さようなら」です。だから、捨てられないために一生懸命、貢ぎ続けます。使徒パウロはローマ6章でこのように述べています。ローマ616,17(リビングバイブル)「だれかに自分をささげれば、その相手があなたがたを受け入れて主人となり、あなたがたはその奴隷となるのです。…今やあなたがたは、罪という古い主人から解放されて、正しさという新しい主人の奴隷になっているのです。」パウロは「奴隷となっている」と言いますが、現代的に言うなら「中毒になっている」ということです。この世のものつまり、まことの神さま以外のものを礼拝すると、そのものの奴隷になり、中毒になるということです。ゲームをこよなく愛している人は、ゲームの奴隷であり中毒です。昔は「仕事中毒」「アルコール中毒」「買い物中毒」と言いました。英語では同じことばですが、今は、中毒よりも依存症と柔らかく言っているようです。性的依存症、ギャンブル依存症、携帯・スマホ依存症があります。一時も携帯・スマホを離せない。トイレやお風呂場にも持っていきます。また、人間依存症と言われる共依存があります。どんな表現を用いたとしても、そのものの奴隷であることには変わりありません。抜け出したくても抜け出せない状態です。お金も時間もエネルギーも全部吸い取られている状態です。そして、いつも不安と恐れがつきまといます。

  1つだけそういう中毒性のものから自由になり、真の価値ある生活ができる道があります。それは、偶像ではなくまことの神さまを礼拝するということです。まことの神さまとは、天と地を造り、私たちをも造られた創造主なる神さまです。この方は唯一で絶対的な神さまです。そして、イエス・キリストが神さまに至る唯一の道です。イエス・キリストを信じて、まことの神さまの子どもになるのです。そして、この方を最高の価値あるお方として礼拝するのです。このお方は命よりも勝るお方です。なぜなら、私たちを命をかけて愛しておられるからです。どうして分かるのでしょう?それは、ひとり子イエスを私たちを罪から救うために地上に送ってくださったからです。それがクリスマスです。イエス様は人間となり、私たちの罪を負って、十字架に身代わりに死なれました。全世界に、私たちのために死んでくださった神さまはいません。そして、三日目に死からよみがえり、天に昇り、王の王、主の主になられました。歴史上、死からみがえられた神さまはいません。

  東の博士たちは、人間になられたばかりの幼子イエスを礼拝しました。まだ、罪の贖いをしていないのに、何も世話になっていないのに、すばらしい信仰です。私たちは私たちのために贖いを成し遂げられた、王の王、主の主なるお方を礼拝します。私たちクリスチャンは、父なる神さまと、イエス・キリストを礼拝しています。つまり、まことの神さまを自分たちの第一の価値に据えています。するとどうなるでしょう?当然、他のものは第二番目になるしかありません。しかし、それが良いのです。第一のものを第一にすると、他のものが「すーっと」秩序立てられます。つまりこの世のものに対して、奴隷でなくなるということです。さまざまな中毒、依存症からも解放されていきます。私たちクリスチャンは妻や夫よりも、神さまを愛しています。自分の子どもたちよりも神さまを愛しています。もちろん、仕事や趣味、自分自身の命よりも神さまを愛しています。そうするとあらゆる執着から解放されます。私は昔、土木の現場監督をしていました。高速道路や浄水場、下水や宅地造成の仕事に携わりました。私が一番にすべきことは、設計図を見ながら測量をし、そこに「丁張り」を建てることです。どういうものかと言いますと、杭を打ち、そこに板を打ち付け、工事をする人が高さとか位置が分かるようになっています。材料を手配しておけば、自分たちでやるので、あとは昼寝していても良いのです。測量で一番大切なのは、センターを決めるということです。センターが決まれば、そこから左右に振り分けることができます。センターを間違えると道路も橋もヒューム管、すべての構造物がダメになります。私は人生のセンター(中心線)があると信じます。それは神さまを人生の第一番目とすることです。言い換えると、神さまに最大の価値を置き、他のものを礼拝しないということです。そうすると、それに付随するすべての生活が整えられて行きます。この世の中に、生活が定まらない人たちがたくさんいます。流行や人の意見に流されています。彼らには人生のセンター(中心線)がないからです。彼らは「私はどの神さまも信じない。何ものも礼拝しない。何ものにも縛られない」と言うかもしれません。しかし、彼らは間違いなく、この世のものに縛られ、奴隷になっています。ものでなくても、過去の失敗に縛られ、怒りに縛られ、運命に縛られているかもしれません。

 イエス様が来られた目的がイザヤ書61章に記されています。このみ言葉を持って終えたいと思います。イザヤ611-3神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、【主】の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す【主】の植木と呼ばれよう。」神さまを第一とすることにより、すべての必要と主にある自由をもたらしてくださるイエス様に感謝します。

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2014年12月19日 (金)

「東方の博士たち」  マタイ2:1-6 亀有教会 鈴木靖尋牧師  2014.12.21

 この1年は旧約聖書の人物伝から学びましたので、クリスマスはそれと関係のある内容にしました。ユダヤから「東方」というとどこまで言うのでしょうか。東方の最果てはアジア、そして日本です。東の果てにある日本がクリスマスをお祝いするというのは、向こうから見れば驚くべきことではないでしょうか?北イスラエルは紀元前723年にアッシリヤによって滅ぼされました。その10部族はアジアにも散らされ、日本にも来たようであります。もしかしたら、私たちの血にもイスラエルの血が流れているかもしれません。遠い昔の出来事が、単なるロマンではなく、今日の私たちにも影響していることを感謝します。 

 

 

 

1.探究者

 

 

 東方の博士たちはどこから来たのでしょうか?ユダヤの東方といえば、昔、バビロンやペルシャがあったところです。なぜ、彼らが異国のユダ人の王と会いたいと思ったのでしょうか?歴史をたどりますと、ユダの民がバビロンに連れて来られ70年間、捕えられていたことがありました。その時、バビロンのネブカデネザルは王族と貴族の若者を数人選び、宮廷で仕えさせました。その中にダニエルと3人の若者がいました。彼らは多くの迫害にもめげず、天地を造られたまことの神を証しました。とうとうバビロンやペルシャの王たちは、彼らの神がまことの神であると知りました。彼らは捕虜でしたが、異国の国で高い地位が与えられました。その後、ペルシャのクロス王が彼らにエルサレムに帰って神殿を築くことを命じました。数万人のユダヤ人が資金をいただいて、第二神殿を建てました。その後、ネヘミヤが王の助けを借りて城壁を建て直しました。エズラという学者は捕囚の地から、律法を携えてきて霊的な意味でユダを再興しました。また、エルサレムに帰らないユダヤ人の中に、エステルやモルデカイがいました。彼らも優遇され、ペルシャ王の次の位をいただきました。一連の出来事から、バビロンやペルシャにイスラエルの神、主の名が知れ渡っていたと思われます。また、それらの国には呪法師、呪文師、呪術者が大勢いました。彼らも魔術や不思議な力を持っていましたが、ダニエルの知恵にはかないませんでした。

 

 おそらく、バビロンやペルシャに占星術者たちもいたのではないかと思います。ここからは、サイトで調べたものを引用します。今日の占星術のもとは、紀元前2000年より前には、すでに星を神々の意志を知るためのオーメン(予兆)としてみなす、ごく初歩的な形の占いが行われていたようです。紀元前7世紀頃から、オーメンに関する文献と暦を作成するための天文学的データーと結びついて、占星術の母体となるものができました。バビロニアの天文学では、12星座のもとが作られ、やがてはそれがホロスコープになりました。紀元前3世紀からは、惑星の出現の状況によるオーメンを記した、いわば占星術の理論的なテキストとも言うべきものが見つかっています。そこでは、木星が現れるとき「金持ちになり、長生き」し、土星が現れるとき「病気となり、不自由」となるといったような現代の占星術の惑星の意味とほぼ重なるような解釈も見られます。ウェブからの引用は以上です。時代は、ペルシャ、ギリシャ、ローマになっても、占星術はすたれることがなかったようです。聖書では「博士」は、マゴイですから、あきらかに占星術師であります。でも、彼らはダニエル書や他の預言書から、イスラエルに救い主が誕生することを知っていたに違いありません。どのようにして、それが星の運行と関係したかは定かではありません。でも、彼らは星の運行からその地にメシヤが現われ、新しい時代がやってくることを突き止めたのではないかと思います。

 

 

 一番問題なのは、なぜ、マタイは東方の博士たちのことを冒頭に載せたかということです。当時、イエスラエルはユダヤという名前でローマの支配下にありました。ヘロデ王は本当の王様ではなく、ローマに雇われていた王様でした。ユダヤ人は偏屈で治めにくいため、総督の下に、王様を置いたのであります。ヘロデはユダの直系ではなく、イドマヤ人でエサウの子孫でした。彼は猜疑心がとても強く、妻や息子たちまでも殺しました。彼は博士たちに「場所がわかったなら教えてくれ、私も行って拝むから」と言いました。しかし、それは真っ赤なウソで、自分以外の王様の存在を許すことができませんでした。博士たちが戻ってこなかったので、ベツレヘム近辺の2歳以下の男の子たちをひとり残らず殺させました。また、当時の宗教指導者たちは救い主の誕生に対してどのように思っていたでしょうか?祭司長や学者たちはキリストがベツレヘムで生まれることを預言書から言い当てました。しかし、彼らが救い主に会いに行ったという記録はありません。彼らは救い主が来たら、自分たちの仕事がなくなるので恐れていたのです。現に、それから30年後、イエス様をねたんで殺そうとしました。また、エルサレム中の人も王と同様に救い主の誕生を恐れました。なぜなら、ヘロデがまた怒りだして、とばっちりを受けのがイヤだったからです。

 

 

 イスラエルの王様、宗教家たち、町の人たちは救い主の誕生に無関心であるか、あるいは悪い事が起こりはしないかと恐れていました。皮肉なことに、救い主の誕生を祝いに来たのは東方の博士たちだけでした。彼らは異邦人であり、占星術という聖書的には危ない人たちでした。そういう人たちが、遠路はるばる星を頼りにやってきたのです。もし、ペルシャのあたりだとすると千キロ以上ありました。教会で「3人の博士」と呼ばれているのは、黄金、没薬、乳香と3つの宝物が記されているからです。実際はキャラバン隊を組んで、宝物を小さなものに換えてやって来たと思われます。山賊や盗賊が出没する時代だったので、大勢の警護がついていたと思われます。それにしても、会えるかどうか分からないのに、なぜ、ユダヤ人の王の誕生に駆けつけなければならないのでしょうか?おそらく、神さまから霊的な飢え渇きがあたえられたのでしょう。マタイ福音書でだれでも知っているみことばがあります。マタイ77-8「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」東方の博士たちは、何百年前も前の預言が成就することを自分たちの目で確かめたいと思ったのです。その方の誕生が天体を巻き込むような、全世界的なことであることを知ってわくわくしました。東方の博士たちはまさしく探究者であり、求道者でした。星を調べて、救い主の誕生を知って、喜んで身支度したことでしょう。そして、すべての犠牲を払い、危険を恐れずに、はるばるやって来たのです。

 

 

 東方の博士は今のような聖書もなく、キリスト教会もありませんでした。昔からの言い伝えや、星の運行によって将来を知ることであり、博士というよりは占星術者でした。しかし、星が彼らを導いたのであります。天に輝く大きな星がありました。東の博士たちは、求めたのです。捜したのです。たたいたのです。彼らは、エルサレムの王宮にいるはずだと思いましたが、そうではありませんでした。すると、星が彼らを家まで先導しました。私はその星は天使であると思います。もし、宇宙のかなたにある星ならば、移動して家の上にとどまることは不可能です。つまり、彼らが必死に求めたので、神さまが天使を遣わして案内してくださったのです。私たちも救い主イエス様と出会うまで、紆余曲折というか、色んなことがあったのではないでしょうか?子どもの頃、日曜学校に行ったことがある。しかし、それから450年も行っていなかった人もいるでしょう。一度は異端にはまったけれど、やっと本当の教会に来ることができたという人もいるでしょう。中には、「もうやめた」と洗礼を受ける前に、教会を去ってしまった人たちも大勢いるでしょう。しかし、よくぞ躓かないで求め続け、捜し続け、たたき続けたと思います。私などは、キリスト教とは縁もゆかりもないところで育ちました。ところが、貿易会社に入って、その上司がクリスチャンでした。私の家内は看護学校に行っている時、上級生から家庭集会に誘われたそうです。力関係があって、ノーと言えなかったのかもしれません。きっかけはいろいろあるかもしれませんが、最後は自分で求めたのであります。

 

 救い主はあなたと出会ってくださいます。でも、あなたも幾分か求めなければなりません。東方の博士のように魔術的なものかもしれません。また、東方の博士のようにいろんな犠牲を払い、危険を冒す必要があったでしょう。神さまは夜空に輝く星を備えておられます。星はどういうときに一番見えるでしょうか?そうです。真っ暗な夜ほど、星が良く見えるのです。人生における夜において、神さまが送られた星が見えるのです。永遠の真理と命を求めて来た人に、イエス様はこのようにおっしゃってくださいます。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」アーメン。求道者と探究者の生活が終わり、神の子どもとしての生活がはじまります。あなたは帰るべき家に着いたのです。パウロはこのように言っています。エペソ219「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」アーメン。「お帰りなさい。よく帰って来たね。わが子よ」と父なる神さまはあなたを迎えてくださいます。

 

 

2.礼拝者

 

 

マタイ210-11「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」私たちは東方の博士たちから、礼拝者として必要な4つの資質を見ることができます。第一は喜びです。彼らは救い主と会えることをとても喜んでいました。なぜなら、犠牲を払って、遠くからはるばるやって来て、やっと見つけたからです。私は礼拝に遅刻をすることを表立って注意したことは一度もありません。私は小、中、高と先生から注意ばかり受けて来ました。良く叱られましたが、どういうわけか私だけが叱られたこともありました。ですから、私は人から注意を受けたり裁かれたりするのが大嫌いです。同じように、みなさんにも「聖日礼拝を守るように」とか「礼拝に遅刻しないように」とは言いません。と、言いながら、言ってしまいましたが…。東方の博士たちは救い主に出会えることを期待して、とても喜んでいました。もし、その人に日曜日の礼拝で神さまと出会える期待と喜びがあるなら、遅刻などするわけがありません。「いや、私は毎日、神さまと出会い、共に歩んでいますよ。なぜ、日曜礼拝が特別なのですか?」と答えるかもしれません。最もなことであります。私も礼拝は宗教的なお参りではないと思っています。ただし、旧約聖書や新約聖書では神の民が集まるとき、主が臨在し、特別なことが起こるということは事実です。モーセの幕屋、ソロモンの神殿、そしてイエス様がおられた家で神さまの栄光が現われました。神さまの栄光を拝することができるのは、こういう礼拝の場ではないかと思います。私は聖書からメッセージを取り次いでいますが、私自身が一番恵まれます。私は「会衆者に教えを垂れる」というような考えは全く持っていません。そうではなく、私も賛美をし、祈りをささげ、聖書からメッセージを受けたいのです。私も礼拝者の一人として主の前に出ているつもりです。私も神さまから祝福を受けたいからです。主は私たちが期待と喜びをもって礼拝をささげるときに、栄光を伴った出会い方をなされます。

 

 

第二は礼拝の姿(態度)です。彼らは幼子をひれ伏して拝みました。良く考えてみると東方の博士たちは幼子イエス様から何もいただいていません。でも、彼らは全身全霊をもって幼子をひれ伏して拝みました。なぜなら、その幼子は神の子キリストだったからです。「ひれ伏して拝む」は、ギリシャ語でプロスキュネオーと言います。これは、ペルシャ人が王の前に、ギリシャ人が神々の前に平伏して床や地、足または衣服の裾に接吻した事からきています。つまり、跪いて(平伏して)崇拝する、礼拝する、うやうやしく挨拶するという意味です。プロテスタント教会は、どこで礼拝しているのでしょうか?インドネシアのエディ・レオ師はこう言いました。「ちょっとだけ賛美して、ちょっとだけ立って、ちょっとだけ聖書を読み、ちょっとだけ寝て、ちょっとだけ献金し、ちょっとだけ祈る」と。私たちはどこでプロスキュネオーしているのでしょうか?中にはしかめっ面をして、腕組みをしている人もいるかもしれません。そこへ行くとイスラム教徒はすごいです。一日に3回以上、カーペットの上に平伏します。タクシーの運転手もその時間になると車を止めて平伏します。彼らが全部正しいとは言いませんが、神さまに栄光と賛美を捧げるという態度は大切だと思います。たとえ椅子に座っていても、心でひれ伏すことは可能だと思います。

 

 

第三はささげ物です。東方の博士たちはその当時の宝物をささげました。教会では1つ1つに意味があると言われています。強いて言うならば、黄金は王様、乳香は祭司あるいは神さまを表わしているようです。しかし、没薬は何でしょうか?これも、当時の宝物の1つでした。しかし、これは葬りの時に用いられたので、メシヤの贖いの死を予告しているのかもしれません。とにかく、彼らはその当時の宝物をささげました。どうして、王様や神さまを礼拝するとき、宝物をささげるのでしょうか?シバの女王もソロモン王のところへ来たとき、たくさんの宝物を携えてきました。旧約聖書のレビ記を見ると、人々は動物や穀物を携えてやってきました。一番古いのは、カインとアベルが主の前にささげ物を持ってきた記事です。なぜ、礼拝時に宝物を携えてやってくるのでしょうか?日本人は偉い人や世話になっている人のところへ来るとき、手土産や菓子折りを持っていきます。それと同じでしょうか?私はそれとはちょっと違うと思います。私たちが礼拝でささげるべきものは、私たち自身だと思います。私たちの命、私たちの体、私の魂を捧げるべきだと思います。つまり、「私のすべてものはあなたに属し、あなたからいただいているものです」という意味です。宝物はいわば、私たちの分身であります。新約の私たちの場合は、旧約と違います。御子イエス様が神の小羊として1回で永遠の贖いを成し遂げられました。イエス様が流された血潮によって神さまへの道が開かれました。ですから、私たちが神さまの前に携えて行くのは賛美であり感謝です。私たちが日曜日、このところで何となく賛美しているかもしれませんが、これは神さまへのささげ物なのであります。ですから、礼拝時の祈りはお願いであってはなりません。まず、神さまを礼拝できるという特権を感謝しなければなりません。また、キリストによって罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられていることを感謝すべきです。また、神さまから生かされ、この命も家庭も仕事も与えられていることを感謝すべきです。これらの感謝をささげると、日常の問題や悩みや体の病気など小さく見えてきます。偉大なるキリストの神さまが私を愛しておられることを知るからです。ささげものは、私たちの神さまの愛に対する応答であり、献身の現れであります。もし、それが余りものであるなら、神さまに対する信仰も余りものということになります。信仰がなければ1円でももったいないと思うでしょう。東方の博士たちは、その当時、最も価値があった黄金、乳香、没薬をささげたのです。ささげものに、彼らの信仰が反映されていると思って間違いありません。

 

 

第四は彼らの生き方です。彼らはイエス様に出会った後、生き方が新たにされました。マタイ212「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」イエス様を礼拝した後、別な道から自分の国に帰って行ったというのは暗示的であります。私たちも神さまと出会い、イエス様を礼拝した後、以前と同じであってはなりません。ある場合は考えや生き方を変える必要があるでしょう。「悔い改め」というと罪を悔い改めることだと思っておられるかもしれません。もちろんそれも大事ですが、元の意味は「考えを変える」ということです。ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ121は礼拝とは何かということが書かれており、この2節は「心の一新によって自分を変えなさい」と言われています。「心」というのは、英語ではmindであり、「思い」とか「考え」であります。クリスチャンは霊的には新しくされています。しかし、思いが新たになっていない人が大勢います。ある部分は変わっても、ある部分は全くの手つかずという部分があるのです。クリスチャンになる前の、この世の考えが支配しているかもしれません。ですから、礼拝説教で語られるみことばを心に受け入れる必要があります。そして、自分の生活に適用して初めて自分のものになるのです。多くの人たちは悪魔や悪霊につかれていないと思っているでしょう。もちろん、福音書のゲラサ人は、狂人的で最悪な状態でした。しかし、悪魔が最も私たちを攻撃するのは、私たちの思いなのであります。私たちの思いが悪魔によって欺かれているかもしれません。ずーっと偽りを信じ込まされている場合だってあります。だから、私たちは思いを一新する必要があるのです。聖書の価値観、神さまの考えと取り替える必要があるのです。これが、「別の道から自分の国へ帰る」ということなのです。

 

 

きょうは「東方の博士たち」と題してメッセージさせていただきました。冒頭でも語りましたが、東方はアジアも入ります。私たちが住んでいるこの日本は東の果てであります。極東の私たちのところまで福音が運ばれてきたのです。ある人たちは「キリスト教は外国の宗教だ。日本には日本の宗教がある」と言います。しかし、仏教もインドから中国、朝鮮半島を経て伝わってきたものです。もし、日本古来のものが良ければ、ちょんまげをして、はおり袴で、下駄をはくべきです。ところが男性は髪を短くし、ズボンをはき、靴を履いています。女性も洋服を着て、ハイヒールを履いているではありませんか。問題は西洋とか東洋とかではありません。それが良いものであれば身に着けるのです。キリストの福音は西アジアで産声を上げ、ヨーロッパ、アメリカを経由して日本に伝わってきました。キリストの福音が日本に来たときは西洋の衣を着ていました。理神論や合理主義の影響も受け、聖書本来の姿とは少し違っていたのです。現代はいろんな情報が飛び交い、啓示の光が星のように小さく見えます。しかし、世の中はますます暗くなり、混迷し、希望がありません。だから、東方の博士たちのように求めなければならないのです。マタイ77-8「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」それと同時に、星が求める人を先導して、救い主と出会わせてくださいます。私たちも救い主の誕生を、東方の博士たちのように、この上もなく喜びたいと思います。

 

 

 

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2014年12月12日 (金)

「キリストの系図」マタイ1:1-11 亀有教会 鈴木靖尋牧師 2014.12.14

 私たちは昨年、旧約聖書の人物伝を50回かけて学びました。最後はマラキ書でしたが、キリストを待ち望むところで終わっています。ところが、キリストはすぐには来ませんでした。何と、400年を経てから、新約聖書の時代になるのです。旧約と新約聖書の間は数ページしかありませんが、中間時代と言われる預言のない長い時があったのです。マルコ1章には「時が満ちて」とありますが、救い主を待望していたことが分かります。マタイによる福音書はユダヤ人のために書かれた福音書だと言われています。ユダヤ人は系図をとても大切にします。だから、マタイは一番最初に系図を書くことによって、旧約聖書と新約聖書をつなぎ合わせているのです。

 

 

1.キリストの系図

 

  旧約聖書には多くの箇所に系図が記されています。なぜ、系図が記されているのでしょう?これから新しいことを書き記すときに、過去のことを系図でまとめるという法則があります。たとえば、ノアの洪水が起こる前に、アダムからノアまでの系図が記されています。ご存じのように、人類が洪水によって滅び、ノアから再び人類が栄えるからです。また、神さまはアブラハムから大いなる国民を起こすと約束されました。ですから、その前にノアからアブラハムまでの系図が記されています。また、歴代誌には、長い系図が載せられています。これからバビロンから帰還したユダヤ人を中心とした第二神殿の時代が始まるからです。だから、その前にアダムからユダヤ人に至るまでの系図が記されているのです。ユダヤ人たちは、国を復興してくださるメシヤが来ると信じていました。しかし、ペルシャの後、ギリシャが支配しました。マカベアのとき一時的に独立しました。その後、新たに興ったローマによって支配されてしまいました。マラキの時から400年もたっていました。「もう、メシヤは来ないのではないか」と多くの人たちはあきらめていた頃でした。

  マタイはイエス・キリストによる新しい時代が来る前に、系図を書く必要を覚えました。過去のことを系図でまとめているのは、キリストの出現へとつなげるためであります。ユダヤ人にとって、尊敬すべき人が少なくとも二人いました。それはアブラハムとダビデであります。1節に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」とありますが、一目見ただけで興味をそそられるのであります。それに比べ、日本人が聖書を読む時とてもがっかりします。昔の聖書はアブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らを生み、ユダ、タマルによりてパレスとザラを生み、パレス、エスロンを生み、エスロン、アラムを生み……」と生み疲れてしまいます。もし、日本人向けに聖書を書くのでしたら、マタイによる福音書を最初にしないでしょう。全く知らないカタカナ名の羅列で躓いてしまうからです。でも、これも神さまの計画で、求める人には与えられ、求めない人には与えられないようになっているのかもしれません。カタカナ名を乗り越えると、甘い実が待っています。でも、まもなく処女降誕が記されているので、やっぱりまた躓くかもしれません。いっそのこと、躓いたままで聖書を読み続けるべきであります。つまり、自分の考えや経験をわきにおいて、虚心坦懐に読む必要があります。

  でも、この系図は福音であります。ユダヤ人は普通、女性の名前を載せませんでした。また良く見ると異邦人や罪を犯した人たちも含まれています。また、新約聖書の良いところは、こういう人たちが入っているのだから、自分の名前も載せてもらえるという希望があることです。ヨハネ112-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」「血」というのは、家系とか血統という意味です。中世のヨーロッパでは、家系や血統が大変重んじられていました。貴族で生まれたら貴族、平民で生まれたなら平民でした。イスラエルにおいても、祭司になるためにはちゃんとした系図が必要でした。私たちはいわば、他国人であり寄留者であり、救いから漏れていた人たちでした。しかし、キリストを信じるなら、神の子どもとされ、神の民の一員として系図に加えられることができるのです。神さまを「お父様」と呼んで良いのです。たとえば、私が道を歩いているとします。知らない子どもが近寄ってきて、「お父さん、アイスクリーム買って」と言われたならどうするでしょう?2つのことを言いたくなるでしょう。第一は、私はあなたの父親ではありません。第二は自分の子どもでもないのに、どうしてアイスクリームを買ってあげなければならないのでしょう、と言うでしょう。私たちもキリストの救いがなければ、神さまを「お父様」と呼ぶことができません。また、いくらお祈りをしても、向こうは聞く理由がありません。しかし、キリストを信じると、養子に迎えられ、実子であるイエス様と同じような扱いを受けるのです。

 私たちはこの系図を見る時、自分のルーツが神さまにあることを知ることができます。キリストを信じると霊的に新しく生まれ神のこどもになります。神の子どもには神さまの命、神さまのDNAが流れています。親と子どもが似ているように、父なる神さまの性質や能力も受け継ぐのです。たとえば、サラブレッドは勝利した馬同士を掛け合わせた競走馬です。生まれたてのサラブレッドは、足も細くて弱々しく見えるでしょう。しかし、馬主は全く不安ではありません。なぜなら、子馬の中に、勝利した父母のDNAが流れているからです。私たちも自然に生まれた家系を見るならば、たいしたことがないかもしれません。しかし、キリストを信じて新しく生まれ変わる時、新しい命と新しいDNAが与えられます。同時に、父なる神様が用意していたご計画(divine destiny)が動き出すのです。「ああ、私はこのために生まれてきたんだ。ああ、私はこのために救われたんだ」ということが分かります。それまでは、自分のルーツも分からないし、自分の行先も分からない人生でした。しかし、救われたなら、自分のルーツと自分の行先が分かってきます。そうしますと、ヒマをもてあますということがなくなります。あなたは、自分のルーツを知っておられるでしょうか?

自分のルーツが全宇宙を創られた神さまであることを知ったならどんなに幸いでしょうか。神さまの子どもであるなら、神さまが持っているすべてのものを相続できます。そうなると、自分の生まれや育った環境は問題でなくなります。卒業した学校も持っている資格も問題ではありません。全宇宙を造られた神さまの子どもであるなら、どれだけの相続遺産を受け継ぐことができるでしょうか?神さまは私たちが死んでからではなく、生きているうちに与えたいと願っておられます。今年の元旦、「神の倉」というお話をしました。神さまは愛する息子、娘のために良きものを備えておられます。「私のものです。天の窓を開いて私にお送りください」と求めたら良いのです。父なる神さまは私たちに願いを与えて、実現させて下さるお方です。ビルジョンソンという牧師がdesireの意味を語っていました。Desireは一般に、「欲望」と訳されます。しかし、sireは父、雄親という意味があります。Deは「から落ちる」という意味があります。二つ合わせると「父から落ちる」という意味です。パウロは、ピリピ213(口語訳)「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それはよしとされるところだからである」と言われました。そうすると、Desireとは、神さまが私たちに働きかけた神の願いであります。

イエス様はマルコ1124「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と言われました。父なる神様は「あなたはこれを求めなさい」という願いを私たちに与えてくださいます。そうすると、私たちの中にdesireが起こり、「神さま、これを求めます」となるのです。しかし、私たちの中に妨げるものがあります。それは「本当にみこころなのか?」という疑いです。真面目なクリスチャンほど、「やっぱり、みこころじゃないのでは」と諦めます。それは、宗教であり、父と子の関係ではありません。私たちはキリスト様によって、神さまの子どもなのです。大胆に求めて良いのです。自分の子どもが「お父さん、みこころならばゲーム買ってくれるでしょうか?」と願うでしょうか?言わないです。「パパ、ゲーム欲しいよ。ゲーム買ってくれよ!」と願うでしょう。するとお父さんは「一個あるじゃないか」と言います。子どもは「新しいのが出たんだよ」と言います。するとお父さんは「来月になったら買ってあげるよ。でも、勉強をちゃんとしろよ!」と言うでしょう。結婚相手でも、仕事でも、家でも、車でも、良い奉仕でも、霊的賜物でも…父なる神さまはあなたに、一番良いものをあげたいと願っています。むしろ、あなたがストレートに願わないので歯がゆいのです。神さまの子どもは乞うようなbeggingはしません。成熟した神さまの子どもは聖書から約束をつかまえて、「あなたが聖書でこういわれたでしょう」と求めます。全宇宙を創られた神さまは、ご自分の愛する子どもに良きものを与えたいと願っておられます。私たちは聖書を読みながら、父なる神様と親しく交わりましょう。もし、神さまからdesireが与えられたら大胆に求めましょう。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」

 

2.キリストの誕生

 

 16「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」とあります。系図の一番最後が、女性のマリヤであります。なぜ、キリストはマリヤから生まれなければならなかったのでしょうか?それは、創世記3章「女の子孫」とあるからです。女の子孫であるキリストが、蛇であるサタンの頭を踏み砕くのです。これはどうしても成就しなければならない預言でした。また、なぜキリストがマリヤとヨセフとの間に自然な関係で生まれなかったのでしょうか?また、マリヤは「聖霊によって身重になった」と書かれています。ヨセフは「彼女をさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」とあります。当時は、結婚前に、他のだれかによって子どもを宿したなら、姦淫罪として石で打ち殺されました。あとから、主の使いがヨセフに「その胎に宿っているものは聖霊によるのです」と告げました。「聖霊によって」「聖霊によって」と2度も書かれています。もし、ヨセフと自然な関係で生まれたなら、アダムの罪を受け継ぐことになります。でも、肉の系図ではアダムやアブラハム、ダビデの系図です。しかし、アダムから罪を受け継いだなら救い主になることはできません。それで、キリストはヨセフではなく、聖霊によって生まれる必要があったのです。多くの人たちは「処女降誕なんて信じない」と言うかもしれません。しかし、聖霊は神であり、無から有を生み出すことのできるお方です。創世記1:2-3を見ると分かりますが、聖霊は神さまがお声を発するのを待っていました。「光あれ」と言ったら光がありました。その光を造られたのは、聖霊であります。聖霊はヨセフの力を借りなくても、マリヤに子どもを宿すことのできるお方です。聖霊はアダムからの罪を受け継がせないで、肉体を持ったイエス様を誕生させたのです。

  イエス様がこの世に来られた一番の目的とは何でしょうか?マタイ1:21「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」キリスト教の中心は「罪からの救い」です。この概念は他の宗教にはありません。なぜ、罪からの救いなのでしょうか?罪こそが諸悪の根源だからです。アダムが罪を犯し、私たちの先祖が罪を犯し、また私たち自身も罪を犯しました。私たちは3つの罪の中であえいで生きています。経済の問題よりも、この罪をなんとかしなければなりません。この罪があるために、死、呪い、貧困、病気、障害、孤独、天災、戦争、差別、犯罪が訪れるようになったのです。罪とは何でしょう?それは造り主である神さまを離れ、勝手な生き方をしていることです。私たち人類はアダム以来、神さまに背を向け、何もかも自分で判断し、自分の力や考えで生きています。神さま抜きの生活、これが罪であります。罪はギリシャ語でハマルティアと言い、「的が外れている」という意味です。ですから、罪人と言うよりも「ずれ人」と言った方が良いのです。神さまの標準からずれているので、様々な罪や悪いことが起こるのです。イエス様は自分の民をその罪から救ってくださるためにこの地上にやって来られました。これこそ、本当のクリスマスです。

  しかし、この世のクリスマスは、完全に的が外れています。クリスマスは華やかなイルミネーションやデコレーションで飾り付けをし、おいしい御馳走とケーキを食べ、プレゼントを交換し、恋人たちが告白する日でしょうか?それらはみんな脇役です。あってもなくても良いものです。一番中心的なことは、私たちの罪から救い出すために、キリストが来られたということです。だから、嬉しいので賛美してお祝いをしたくなるのです。もし、一番中心的なことが分かれば、他のものがなくたって平気なのです。水野源三さんがこのような詩を書いています。彼は子どものとき赤痢にかかり、高熱のため脳性小児麻痺になりました。手足を自由に動かせず、口もきけず、まばたきのみでお母さんに伝えました。彼の詩です。「一度も高らかにクリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない。一度も声を出してクリスマスを祝うあいさつをしたことがない。一度もカードにメリークリスマスと書いたことがない。だけど、だけど、雪と風がたたく部屋で心の中で歌い、自分自身にあいさつをし、まぶたのうらに書き、救いの御子の降誕を御神に感謝し喜び祝う」。私は秋田の出身ですが、クリスマスになると新聞にサンタクロースの大きな塗り絵があり、応募できるようになっていました。小学生のとき何度か送りましたが全然ダメでした。我が家ではクリスマスは遠い外国のお祭りであり、ケーキがあれば良い方でした。すべてが、サンタクロースみたいに架空のものかと思っていました。ところが、私たちの罪から救うために天から、降りて来られたとは何と言う幸いでしょう?西暦がキリストの降誕から始まているのがその証拠です。

 

 3.インマヌエルのキリスト

 

日本では25日が終わると、さっさと年末年始のおかざりを出します。26日にクリスマスソングをかけているデパートはありません。しかし、外国は年末年始の休暇をクリスマス休暇にしています。でも、クリスマスは年に一遍訪れるお祭りなのでしょうか?確かにサンタクロースは年に一遍かもしれません。しかし、イエス様はずっとずっと、私たちの共におられるお方です。マタイ123見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマヌエルはヘブル語で、神が私たちと共におられるという意味です。しかし、旧約時代、神が人と共におられるということがありませんでした。もちろん、「主はヨセフと共におられた」などという表現はあります。旧約聖書は英語でいうとby、そばに共におられました。新約聖書では、イエス様は12弟子とby、そばに共におられました。みなさん、絶対離れないような共にいるためにはどうすれば良いのでしょう。in、内にです。インマヌエルとは私たちの内側にいて、共にいるということなのです。by、そばでもありがたいですが、in、内の方がもっと親密であります。ところで「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」とありますが、これは、イザヤ714の預言です。預言ですから、どこかで成就するはずです。では、一番最初に、「神が共におられる」というインマヌエルの預言が成就したのはだれでしょうか?イエス様です。イエス様はヨハネ14章で「私が父におり、父が私におられる」と言われました。父なる神様はイエス様の内に共におられたのです。ハレルヤ

 その後、イエス様は弟子たちにこう言われました。ヨハネ1417-18「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」あまり詳しくは述べられませんが、イエス様が弟子たちと世の終わりまで共にいる方法がここに記されています。それは、天に一度帰られた後、聖霊によって弟子たちの中に住むという方法です。聖霊がキリストの御霊と呼ばれているのはそのためです。イエス様が肉体を持っていたなら、by、そばに共にいることしかできません。しかし、御霊によって来るなら、in、内にいて共にいることができます。パウロはそのことは奥義であると言っています。コロサイ127「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」異邦人とは救いから漏れていた外国人と言う意味です。私たち日本人はキリストと縁もゆかりもない異邦人です。私たちもクリスマスを遠い外国のお祭りくらいにしか思っていませんでした。でも、歴史的にキリストは肉体を持ってこの地上に生まれたのです。しかし、それだけではないのです。キリストは十字架の贖いを成し遂げられてから、天に昇りました。でも、その後、聖霊によってこの地に再びやって来られたのです。そうです。イエス様を救い主として信じた瞬間、あなたの中に宿ってくださるのです。そして、世の終わりまであなたと共にいてくださるのです。世の終わりとは、実際、この世が終わる時であります。また、同時に、私たちのこの地上の命が終わる時であります。正確には、終わりの時を一緒に乗り越えて、御国まで共にいるということです。いくら親しい人でも、死の川浪を一緒に渡っていくことはできません。死は一人で死ぬのでしょうか?そうではありません、インマヌエルなるイエス様が一緒に死を乗り越え、御国まで連れて行ってくれるのです。

 ですから、クリスマスは決して年末の一時、祝うだけの年中行事ではありません。クリスマスのシーズンが終わっても、イエス様は私たちの内に一緒に住んで、一緒に生活してくださるのです。宗教とは神々を祀り上げることです。そして、困ったときだけ会いに行きます。その神さまがいつもいると困ります。なぜなら、神さまから見られて困ることもあるからです。キリスト教も宗教になりえます。日曜日だけ、綺麗な恰好をして礼拝に来ます。言葉使いも上品で、決して怒ったり、さわいだりしません。家に帰ると、「やれやれ、ああ疲れた」と本当の自分に帰ります。もしそうなら、それは宗教です。キリスト教は教えではなく、キリスト様と共に生活することです。どんな場所でも、どんな時でも、どんな状況でもです。なぜなら、イエス様は私たちの中に聖霊として共におられるからです。霊の中にいるので、もう、離れようがありません。しかし、悲しませたり、無視することはできます。そうではなく、私たちは聖霊によって内に住んでおられるイエス様を歓迎し、認め、そして従いましょう。そうするなら、たとえ死の谷を渡るようなことがあっても、大丈夫です。私はわざわいを恐れません。主が共におられますから。

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2014年12月 7日 (日)

「病の癒し」マルコ5:25-34 亀有教会 鈴木靖尋牧師  2014.12.7

 アダムとエバが神さまに逆らって罪を犯してから、人類の中に死が入りました。すべての病気は死を弱くしたものと言えるでしょう。また、土地が呪われたために、いばらとあざみが生えました。それは、人間に有害なものが動植物の中に生じたことを暗示させます。目に見えないバクテリアやウイルスも人間を攻撃します。エイズやエボラ熱がいま猛威を振るっています。癌は死亡率のトップになっています。医学がいくら発達しても病気はなくなりません。それは、病が罪と呪いから来たものだからです。病と呪いと死に打ち勝つ解決はあるのでしょうか?

 

 

1.長血をわずらった女

マルコ525-27「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。」この女性のことは、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されていますので、病の癒しに関する典型的な記事だと思われます。イエス様と弟子たちは、死に瀕しているヤイロの娘のところに向かっていました。一刻も争う状況の中で、この女性が癒しのために割り込んできました。会堂管理者ヤイロにとっては、迷惑な存在だったかもしれませんが、彼女は必死でした。彼女は、病気のゆえにどのような苦しみを負っていたのでしょう。「長血をわずらっている女」とありますので、婦人病の1つかと思われます。たえず、刺すような痛みが内側にありました。しかも、それが12年間続いています。もし、彼女が18歳に発病したのであれば、30歳ということになります。そのため、結婚もできなかったでしょう。また、「この女性は多くの医者からひどい目に会されて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」とあります。当時の医者は現代と違って呪術的なものが多かったかもしれません。ひどい目に会され、高い治療代を請求され、お金も持ち物も使い果たしてしまいました。もしかしたら、家族から「ごくつぶしめ」と言われていたかもしれません。しかし、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。現代でも、病気の治療は決して安くはありません。ある病気は薬も治療法もありません。そのため、苦しんでいる患者が多くいるのではないでしょうか?

それだけではありません、彼女は宗教的に汚れていると見なされました。レビ1525「もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。」彼女がさわったものが汚れるのであれば、どうなるでしょう?人の持ち物にもさわれません。また、人にも触れることができません。そのことは、彼女がうしろからイエス様の着物にさわったことと関係しているでしょう。前ではなく、後ろからということは、自分は汚れた存在だと思っていたのではないでしょうか?しかも、イエス様の手や体ではなく、着物です。ルカ福音書には「着物のふさ」と書いてあります。着物の一番、端っこということですが、もう1つ意味があります。たとえば、大祭司の服には、ざくろのかたちをしたふさが、いくつもついていました。そのふさは神さまの権威を象徴していました。かたちは違ったかもしれませんが、イエス様の着物にもふさがついていました。この女性は自分が汚れた存在であり、イエス様をも汚してしまうのではないかと恐れたことでしょう。だから、端のふさにでも触れることができればと思ったのでしょう。同時に、着物のふさは権威を象徴していました。そう考えると、彼女はイエス様の権威にすがりたいという思いがあったのではないでしょうか?なぜなら、あとから彼女の信仰がほめられているからです。旧約聖書では「らい病」も特別な病気として扱われています。その病気は神さまから呪われている存在と見られ、人々から離れて生活する必要がありました。現在、日本では、「らい病」は差別用語として使わないようにしています。ですから、新改訳聖書第三版では「ツアラト」とヘブル語読みを使っています。すべての病気がそうだということはありませんが、ある病気は、罪の呪い、罪の結果であると考えられたものもあります。ですから、そのような病気になった人は、肉体だけではなく、精神的、社会的、霊的な苦しみが伴ったことでしょう。現代は旧約聖書のような考え方をしないと思います。しかし、ある病気は隔離が必要だったりします。また、遺伝性があるものは家族に不安を与えます。今でも、重い病気は、人生に多大なダメージをもたらしてしまいます。

ある人たちは、「教会で病気のことを話すんですか?それは医者や病院がやることではないでしょうか?」と思うかもしれません。もちろん、私は医大で専門的に勉強したわけではありません。しかし、聖書は病気の根本的な原因が何かということを告げています。また、イエス・キリストが来られたとき、働きの三分の一が病気の癒しと悪霊の追い出しでした。しかし、18世紀啓蒙主義が発展してから、教会では病の癒しは触れないようになりました。そして、病の癒しは医者や病院が専門で、私たちが宗教的なもので良いと分けてしまいました。今もそう考える教会があります。でも、聖書は病の癒しは救いの一部であると教えています。残念ながら、いくら医学が発達しても、病気が根絶されないばかりか、増えています。保険や医療費が国家予算において、また家計においてどのくらい大きな比率を占めているでしょう。それに、私たち教会は、イエス様が病とその癒しに関心があったということを忘れてはいけません。

 

2.彼女の信仰

 

マルコ527-28「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。』」彼女は、ここに来る前にどのように考えていたのでしょう?「イエスさまのお着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていました。ギリシャ語の聖書は、「言っていた」と書いてあります。つまり、彼女は「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直る」とぶつぶつ言いながら、後ろから近づいたということです。つまり、彼女の思いが、言葉となってあふれ出ていたということです。もう1つ考えられるのは、彼女は肉体的にも非常に弱っていたと思います。群衆をかきわけて、なんとかイエス様に近づこうとしました。下手をすると、だれかから突き飛ばされたら、そのまま死ぬかもしれません。おそらく、腰をかがめ、はいつくばるような恰好で、必死に近づいたと思われます。そのとき、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直るんだ」と自分を奮い立たせたのではないでしょうか?でも、どうでしょう?着物にさわれば直るというのは、呪術的かもしれません。「イエス様が直すのであり、着物自体にそういう力はないでしょう?」と言いたくなります。でも、そのように口で言い続けたことも、また着物のふさにさわろうとしたことも立派な信仰であります。

なぜなら、彼女が着物にさわったとたん、このようなことが起きたからです。マルコ529-31すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」着物にさわった手を伝わって、イエス様の癒しの力が体の内部に臨んできました。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じました。イエス様も、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づきました。そして、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われました。弟子たちは、「群衆がこんなに押し迫っているのに、だれが触ったか分かる訳ないでしょう?」と答えました。つまりこういうことです。多くの人たちがイエス様に触ったと思われます。でも、信仰をもって触ったのは彼女一人だったのです。「ああ、そんなのは呪術的で迷信的だ」と馬鹿にするかもしれません。でも、彼女は「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と言う信仰があったのです。イエス様から彼女に力が流れたのは、物理的な問題ではなく、彼女の信仰が接点となったのです。彼女は信仰によってイエス様から癒しの力を引き出したと考えるべきでしょう。イエス様が「だれかが、癒しの力を私から盗んでいった」とおっしゃりたかったのです。

彼女は信仰の手を伸ばして、イエス様の着物のふさに触れました。接点は小さかったのですが、ビビビビと癒しの力が伝わってきたのです。まるで、電気が流れるように、彼女の中に癒しの力が臨んだのです。ケネス・へーゲンの本にこのようなことが書いてありました。「人間は自然界に電気があることを発見しました。やがて、電気を発電し、それを各家庭に送ることができるようになりました。しかし、その電気が自動的に家を照らしたり、調理したり、家を暖めたり冷やしたりするでしょうか?私たちは電気器具をプラグに差し込み、スイッチを入れなければなりません。私は自然界に電気があるように、霊の世界にも神の御力が存在していることを発見しました。私は10代の時、不治の血液の病気で16ケ月寝たっきりでした。私のベッドのそばには、電気のコンセントがありました。だれでもそこに電灯のプラグを差し込むことができました。そうすれば、それは部屋を照らしたはずです。それと同じ理由で、癒すための神の御力は毎晩、私の部屋に存在していたのです。なぜなら、神はどこにでも存在しておられ、彼の持っておられるどんな力も彼と共にあるからです。ところが、その現れは私にありませんでした。なぜでしょうか?私がそれにプラグを差し込まなかったからです。しかし、193488日、私はその方法を学びました。信仰によって、私は神の癒すための御力にプラグを差し込んだのです。そして、私はこのように言うことを始めたのです。「私は健康であると、今信じています」。私は体が麻痺していましたが、上半身いくらか使えるようになっていましたので、両足をベッドから離しました。足は二本の木のように床に落ちました。私の腰から下は死んでいたのです。私は「神の言葉の通りに、私は癒されています」と言ったとたん、私はプラグを差し込んだのです。私は、あの御力が私の頭のてっぺんを撃ちたたき、じわじわと全身に下っていくのを感じました。それが、私の腰と両足に達したときは、まるで一万本の針が両足を突き刺しているような感じでした。それが起こったとき、私はまっすぐに立っていました。私はあの御力にプラグを差し込んだのです。あなたは、あなた自身の信仰で神の御力にプラグを差し込むことができるのです!」

 

3.完全ないやし

マルコ532-34「イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様はどうして名乗り出てくるように言われたのでしょう?婦人病なのですから、そっと帰してあげた方が、恥を与えないですみます。彼女も肉体が癒されたのだから、お手間を取らせずに、さっさと引き揚げたかったもしれません。でも、どうしてイエス様は、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われたのでしょう。それは、イエス様は、肉体の癒し以上のものを与えたかったからです。ルカ847「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。」とあります。彼女が自分のことを告白することによって、彼女自身に何が訪れたのでしょう?イエス様は、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言われました。

イエス様のことばから、彼女は肉体の癒しだけではなく、他に4つのものを手に入れました。第一は、彼女はイエス様から「娘よ」と呼ばれました。英国の聖書は ‘My daughter’となっています。「私の娘よ」です。彼女は宗教的に汚れた存在ではありません。神さまが所有し、神さまから愛される存在、イエス様の娘だからです。ハレルヤ!心が癒され、自分のアイデンティティ、存在価値がわかりました。第二は、信仰自体がほめられました。イエス様は私が直したとはおっしゃっていません。「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。彼女は「いえ、いえ、イエスさまの力です。栄光が主にありますように」とは答えていません。確かに、癒しの力はイエス様のものです。彼女がすばらしかったことは、信仰によってイエスさまから癒しの力をいただいたことです。でも、彼女はこっそり盗むようにいただいたのです。本来なら、「電気泥棒!」としかられても良いのです。でも、イエス様は彼女の信仰をほめました。第三は、「安心して帰りなさい」と祝福をいただきました。ギリシャ語では「平安のうちに行きなさい」という意味です。旧約聖書で平安はシャロームですが、繁栄、健康、和解という意味も含まれていました。彼女は12年間苦しみ、おそらく結婚もできず、家族からも厄介者扱いされていたでしょう。しかし、これからは神のシャロームをいただきながら、すべてものを享受できるでしょう。第四は、「病気にかからず、すこやかでいなさい」と言われました。この病気は単なる病気ではなく、罰、たたりかか来る病気という意味があります。だから、英語の聖書はplague疫病、悪疫となっています。つまり、そうそのような恐ろしい病気にならないようにとイエス様は封印を押されたと言うことです。つまり、彼女は「二度と私こういう病気にはかからないんだ。再発しないんだ」と保障されたということです。

つまり、彼女は肉体の癒しだけではなく、心、社会生活、霊、すべての面で癒しを受けたということです。ですから、英語の聖書では「すこやかでいなさい」は、be wholeとなっています。Wholeということばは、「全体の、すべての、全部の」という意味です。ケーキの丸いのを、ホール・ケーキと言います。最近はholistic medicineという言葉があります。予防も兼ねて、その人を全人格的に診るということです。肉体、思い、感情、生活環境であります。たとえば、ある人が胃潰瘍だとします。これまでは痛んだ胃の部分だけ診てきました。しかし、胃潰瘍になった原因を調べ、これから胃潰瘍にならないような生活指導も必要です。これと同じように、イエス様は私たちに肉体の癒しだけではなく、思い、感情、生活環境が癒されるように願っておられます。特に、イエス様は「病気にかからず、すこやかでいなさい」と言われました。これは、長血をわずらった女性だけに言ったことばではありません。今日の私たちにも、「病気にかからず、すこやかでいなさい」とおっしゃっておられるのです。つまり、健康であることは神さまの願いであり、神さまのみこころだということです。ある人は「病気も神様からのプレゼントだ」と言います。しかし、親は自分の子どもが病気になることを願っていません。同じように父なる神さまも私たちが病気にかからず、すこやかであることを願っておられます。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」アーメン。

 

4.病の癒しは贖い(救い)の一部

 

イエスは彼女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。しかし、この「直した」は原文では、救ったという意味です。ここから、病の癒しも救いの一部だということを考えることができます。イエス様が多くの人たちの病気を癒されたとき、イザヤ書のことばを引用されました。マタイ816-17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」イザヤ書53章に「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」とあります。イエス様はこの地上に来られ、多くの人たちの病気を癒されたのは、意味があったということです。ここで「成就するため」とありますが、究極的に病を背負ったのは、十字架の上であります。つまり、イエス様は私たちの罪だけではなく、呪いや病すらも負われたということです。私たちがキリストの十字架の贖いを言うとき、「あなたの罪の問題は解決しています。信じるだけで救われますよ」と言います。同じように、「あなたの病の問題は解決しています。信じるだけで癒されますよ」とどうして言えないのでしょうか?

ペテロもイザヤ書を引用し、罪と同じように病の癒しを完了したものと言っています。Ⅰペテロ224「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」アーメン。私たちの究極的な救いは罪の赦しをいただいて、永遠の御国に住まうことです。しかし、健康ですべてのことに恵まれ、地上で神さまから与えられた人生を全うすることも大切です。イエス様が十字架の上で、「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」ならば、私たちが病気にいるままで良いのでしょうか?ある人たちは、病の癒しはご利益であると否定して、霊的な救いだけを求めます。聖書をそのまま信じる教会の中に、癒しを否定する人たちが多いということは非常に残念なことです。しかし、聖書をそのまま信じるならば、十字架の贖いの中に病の癒しも含まれています。だから、私たちは病を負う必要はありません。一病息災などという偽りも信じないでください。なぜなら、神さまは全人格的な癒しを願っておられるからです。もちろん、年を取ってくるといろんなところが壊れて、不具合が生じてくるでしょう。しかし、老いと病気は違います。申命記347「モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」とあります。これが神さまのみこころです。「愛するイエス様、あなたが私の弱さや病も十字架の上で負ってくださったことを感謝します。どうか、私のこの病も癒してください。私に御手を延べて癒してください。私もあなたに手を伸ばして触れさせていただきます。あなたが癒し主であることを信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」。

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