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2014年11月30日 (日)

「幸いな人になりましょう」 詩篇127篇1-5節 2014.11.30 亀有教会副牧師 毛利佐保

<詩篇1271-5節>

 

 都上りの歌。ソロモンによる

127:1
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

127:2
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

127:3
見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。

127:4
若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。

127:5
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。

 

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教会では、年間を通していろんな記念の行事があります。クリスマス、イースター、ペンテコステなど、そのようなキリスト教の行事が行われるときには、その行事にちなんだ聖書の箇所が使われます。 

この詩篇127篇には、人生の祝福の極意が記されています。1節は教会などの献堂式や結婚式、また3節は子ども祝福式や献児式などでよく使われる聖句です。そして、この詩篇は次の128篇と合わせて家や家庭の祝福について書かれています。128篇は結婚式などで良く使われる箇所です。

この詩篇127篇前半は、特に、毎日のお仕事や生活で疲れきっている方々への神様からの厳しくもあたたかい真理のメッセージが込められています。 

本日は、「幸いな人になりましょう」と題して、教会や私たちクリスチャンが、「地の塩、世の光」となるためにはどうすればよいのかということについて、この127篇から考えていきたいと思います。

詩篇127篇は「知恵の詩篇」と言われています。おもに、格言、金言、ことわざ、比喩などの形式をとった、教訓的な内容の、知恵文学と言われている文学形態です。

知恵文学といわれているものには、詩篇の一部の他に、ヨブ記、箴言、伝道者の書などがあげられます。

日本人は格言などが好きなので、箴言や伝道者の書などは好んで読む人が多いようです。

そして「著者」、誰が書いたのかということですが、表題に「都上りの歌。ソロモンによる」とソロモン王の名が付けられていることから、「ソロモンが書いたに違いない」という人や、「いや、そうではない」という人もいて、著者については様々な見解があります。

カルヴァンという神学者などは、ソロモンが書いたと支持していますが、多くの神学者は、ソロモンが活躍していた時代のずっと後だと考えています。神学者たちは、詩篇に書かれた内容がソロモン的な教訓だったので、表題にソロモンの名前を入れたと考えているようです。

 さて、127篇の概要ですが、127篇は5節から成っており、前半の1,2節は、この世の政治、経済、また個人の生活は、人間の勤勉や熱心、また知恵によるのではなく、「ただ神の祝福によって保たれているのだ」ということを教えています。そして、後半の3-5節は子どもたちの繁栄は神の特別な賜物だと教えています。

 では、前半から詳しく見ていきましょう。

 

●ポイント① 幸いな人は神様を第一にします。

 

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127:1
「 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」

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この1節は何世紀にも渡って諺(ことわざ)としてラテン語の形で引用されてきたと言われています。

ヨーロッパの数ある教会堂の礎石に、この聖句が刻印されているそうです。

この聖句はスコットランドのエディンバラ市のモットーでもあるそうです。

 

ここに書かれている「家」 は、ヘブライ語で tyIb;(バイト) というのですが、この言葉には定冠詞がついていないので、特定された建物ではなく、家一般、どの家も、という広い意味になります。また住居だけではなく、一家、家族の意味もあります。そのことから、この詩篇は、よく結婚式の式文に用いられています。神様はこの聖句から現代の私たちにも語ってくださっていますが、まず、詩篇が書かれた旧約聖書の時代の背景を知ると、より深く神様の御心が理解できると思います。

 

旧約時代の tyIb;(バイト)「家」とは、神殿をも含めたエルサレムの町、あるいは神の家としてのイスラエル民族全体のことも含んでいます。先程も申しましたが、この詩篇が書かれたと考えられるのは、ソロモンの時代のずっと後です。BC538年にバビロンに捕えられたイスラエルの民たちが、70年後にエルサレムに帰還して、壊されていた神殿を建て直した辺りの時代です。

 

新しく建て直した神殿は、栄華を誇ったソロモンの神殿とは違っていたようですが、イスラエルの民にとっては、大切な神殿でした。毎年春になると、過越の祭りのために、成人男性はエルサレム神殿に巡礼にやってきます。過越の祭りとは、モーセがイスラエルの民をエジプトから脱出させる時に、神様がイスラエル人の長子を殺さずに過ぎ越してくださったことを記念したお祭です。

 

表題に「都上りの歌」と書かれていますので、地方に散ったイスラエルの民たちが、エルサレムに巡礼に来る時の旅路に、この詩篇の歌を歌ったということになります。

 

バビロン捕囚から帰還した民は、城壁や神殿再建工事という奉仕と、自分自身の生活を両立させなければなりませんでした。敵からの妨害や困難の中、民は次第に疲れ、自分の生活を守るだけで精一杯になっていました。

ですから、この歌を歌って神様を第一にする決意をもって都に登ったのです。

 

また、巡礼の旅で家を空けることも、多くの危険が伴いました。これを歌いつつ都を目指すこと自体、まさに主に家を建ててもらい、町を守ってもらうことそのものだったのです。

家を守り、家を建てるのは主です。

 

そしてこの1,2節でのキーワードはまさしくaw>v"Ü(シャウェ)空虚、空しいです。家を建築する者、夜警する者、いくら勤勉に働いて努力したとしても、神の守りと祝福がなければ空しいだけです。これはけっして怠慢の勧めではなく、勤勉をけなしているわけでもありません。この聖句は、神様抜きで、自分の力で事を成そうとする者の重大な欠落、思い上がりに対する神様からの厳しい戒めです。

 

私たちの生活はどうでしょうか。捕囚後の民たちのように生活一辺倒になっていないでしょうか。

自分の力で事を成そうとしていないでしょうか。

 

次に2節ですが、この聖句は、毎日働き過ぎで疲れきっているみなさんへの主からの励ましです。

 

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127:2
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

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ここでは、「早く起きておそく休む」という、要するに「1日中朝から晩まで働いて、辛い思いをしているのは、むなしいことである。」と教えてくださっています。

好きで辛い思いをして一生懸命働いているわけじゃないのに、「aw>v"Ü(シャウェ)、それは空しいことです!」と、ピシャっと言われたら、なんだか泣きたくなりますね。私は泣きたくなります。

ハガイという預言者はこう言っています。

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<ハガイ書1:6>

 

1:6 あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。

 

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 みなさんの中には、このハガイ書に書かれているように、

「働いても、働いても、お金が湯水のようにどこかに流れて行ってしまう。」とか、
「長年一生懸命やってきたことが実にならず、すべて無駄になってしまった。」とか、

「お金や生活の必要のすべてが満たされているはずなのに、なんだか空しい。」

 とか、思われている方がいらっしゃるかもしれません。

 しかし主は、私たちが無駄な骨折りをしてしまうことは望まれてはいません。働いても食べても飲んでも空しいのは、「主の恵みと憐れみの中で生かされている」という大切なことに気付いていないからです。

 聖句の後半で、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」と教えてくださっています。主はその愛する者に対して、眠っている間でも休まず働いてくださり、養ってくださいます。ですから、心を悩まさないで、身体を休めて、神に寄り頼み、「神に愛される者」となるようにと言っておられます。

 「神に愛される者」とは、イエス様の愛にとどまっている人のことを言います。

イエス様はこう言われました。

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<ヨハネ15:5

 

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 

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主は、私たちが無駄な骨折りをするのではなく、イエス様の枝となり、多くの実を結ぶことを望まれています。

クリスチャンが、順風満帆な人生を歩むとは限りません。しかし大変な時にこそ、神様との時間を持ち、身体を休め、与えられている恵みについて考えてみましょう。

なぜなら、家を建て、家を守るのは主であり、主が養ってくださるからです。主の恵みの中を歩むなら、主はあなたの労苦をけっして無駄にはなさいません。


●ポイント② 幸いな人は家族を大切にします。
 

 

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127:3

 

「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」

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3節以降は本来別の詩篇であったのが結合されたと考えられています。1-2節が「働く者のための知恵」だとすると、3-5節は「家庭をつくる者のための知恵」だと言えるでしょう。

 

子どもはアブラハム契約以来、神の祝福の賜物でした(創12:215:5)。このことから、3節を幼児洗礼や献児式、子ども祝福式などの時に式文として読みあげる教会も多いようです。

 

また、3節の冒頭にある、hNEÜhi(ヒネー)は、「見よ(Look)」や、「聞け(Listen)」、「考えろ(Think)」などの意味の強調語です。英語の聖書では「Behold(注視する)」や「Lo(見よ!)」と記されており、場面をきりかえて注視させるときなどに使われる重要な言葉です。

 

この3節でhNEÜhi(ヒネー)が使われたのは、自分たちの子どもが、どなたから与えられたのかを私たちに考えさせるためではないでしょうか。子どもは神からの一方的な恵みであるということを忘れないようにしましょう。

 

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127:4

 

「若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。」

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これは、「父親が若い時に生まれた子らは、両親が老いた時には成人して力を発揮し、両親に代って働き、両親を守るようになる。勇士の矢が城を守るようなものである。」という意味です。

 

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127:5

 

「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」

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冒頭の「幸いなことよ。」は詩篇1:1の冒頭にも使われています。

幸せな家族を創造することは人類に対する神様のご意志なのです。

 

次の「矢の満ちた矢筒」 は有能な子どもが多く生まれた人の形容です。

 

「門で敵と語る時・・・」この部分はちょっとわかりづらいのですが、旧約時代は、町の門の下で討論をしたようです。ですから、「多くの力強い子どもを持つ親は討論や裁判の場である町の門で有利に立つ」という意味でしょうか(6912、申2119)。あるいは神の家であるイスラエルに多くの子どもが与えられることによって、「戦いを有利に進めることが出来る。」という意味でしょうか。

 

いずれにしても、主からの、賜物としての子どもが祝福のしるしであるという意味です。

 

私は、ここでの子どもというのは、実の子どものことを指すだけではなく、神様から与えられているすべての子どもと家族が当てはまると思います。神の家族もそのひとつです。私たちは、イエス・キリストを信じる神の家族、共同体ですから大切な家族です。

 

このように、聖書は私たちに、子どもたちや家族の大切さを教えていますが、現代の日本の家族はいったいどうなっているでしょうか。

 

日本の家族は戦後、大家族から核家族へと移行しました。戦後の家族の形が、経済の急成長の時代と重なったために、バブルがはじけた後に家族や子どもの問題が噴出してきました。親子の愛情関係が薄れ、個人主義となり、家族の形態が崩れています。昔は大家族で暮らし、近所の人も含めて一緒に子育てをしましたが、現代は、血の繋がった親子でも家族と言えない関係が増えています。

 

また、格差社会は歯止めが利かず、多くの人が貧困に陥り苦しんでいます。「終身雇用」などという言葉は過去のものとなり、仕事がなければ誰だってホームレスに転落してしまう可能性があります。

 

飽食の時代と言われ、豊かなように見える日本ですが、実際は学校給食だけで栄養を摂っている子どもが7人に1人もいるというのです。

 

「虐待」「孤独死」「自死」といった社会問題に対して、教会は、キリスト者である私たちは、聖書の教えを実行するために何ができるでしょうか。

 

そうは言っても、いろんな問題が目の前にあって心配していても、なかなか手を差し伸べることができないのが、今の私たちの現状です。だからこそ、まず、今私たちがするべきことは、神様からの賜物である子ども、自分の家族、神の家族、周りの人たちとの関係を見直すことではないでしょうか。

 

回復が必要であれば回復を祈り求め、イエス様の枝となり、そこから真の幸せを見出して幸いな人となりましょう。

 

そのような、自分の身の回りの人々に対する小さな働きかけが、社会を動かす活動に発展していくかもしれません。神様は、私たちに無駄な労苦は望まれないお方です。

 

そして神様は、キリスト者ひとりひとりに、「地の塩、世の光」となるための使命を与えておられます。

 

私にも、主は小さな働きを与えてくださっています。

私は2012年の3月から、月に一度土浦に出向いて「土浦チャペル」という出張礼拝を行っています。29ヶ月、たくさんの兄弟姉妹のサポートを受けながら、毎月欠かさず礼拝が持てていることは、主からの恵みです。

 

最初は、土浦ゴスペルクワイヤーのメンバーの救いを期待して始めた礼拝ですが、主の導きによって、この4月から、「窓愛園」という土浦の児童養護施設に場所を移しました。

 

園に入所している子どもたちは、2歳児から高校生まで合わせて50人位いるそうですが、土浦チャペルには女の子たち10数人が来てくれています。

 

最初は恥ずかしがっていた子どもたちも、8ヶ月通ううちに、お互いに慣れてきて、いろんな顔を見せてくれるようになってきました。

 

様々な事情があって、血の繋がった親と一緒に暮らせない子どもたちは、愛情に飢え乾いています。心の奥底にいつも満たされない感情があります。とても孤独で寂しいだろうと思います。

施設は充実していて綺麗ですが、部屋を見せていただくと、プライベートがほとんどないという環境でした。

それでも健気にそこで暮らしています。学校でもきっと嫌なことがたくさんあるだろうと思います。

 

施設の子どもたちは、高校を卒業したら施設を出なければなりません。奨学金などで大学に行ける子は、ほんのわずかです。教育については、筑波大学の学生がボランティアで勉強を教えてくれたりしていますが、勉強の意欲が持てない子も多いそうです。施設の先生方は、思春期の男の子の反抗にも手を焼いているようでした。

 

話を聞くと、高校を卒業してせっかく就職をしても、すぐに辞めてしまって、フリーターになって、友だちと暮らしているといった子が多いそうです。

 

こういった話を聞くと、何も知らない子どもたちが、見えない社会の歪みに巻き込まれているようで、本当に考えさせられます。

 

施設の先生からは、「私たち職員がいくら愛情を注いでも、本当の親にはかなわないんですよ。でもその親の愛情を受けることはこの子たちはできないんです。だからどうか、子どもたちに、『あなたは神様から愛されているんだよ』ということを伝えてください。」と言われました。

 

やはり、彼らの満たされない心をうめてくださるのは、神様の愛しかないと思います。

彼らには父なる神様の深い愛と憐れみ、イエス様の恵みと、御言葉の土台が必要です。

 

私たちがイエス・キリストの弟子として、神の家族としてできることは、「神様の愛は、すべての人に分け隔てなく注がれている」ということを伝えることです。

 

この世の価値観ではなく、彼らが自分自身の人生を、聖書に基づく神の国の価値観で生きていけるようにと祈りながら、福音の種を蒔き続けることが、彼らがイエス様の枝となって「幸いな人」となるための第一歩となるのです。

 

すぐには実とならなくても、彼らが大人になった時に、ふと聖書の教えを思い出して、教会に足を運んでくれるなら、土浦での私たちの働きも報われます。

 

詩篇127篇は、「働く者のための知恵」と「家庭をつくる者のための知恵」を教えています。

空しく働くのではなく、神様を第一にして、主の恵みの中で喜んで働き、主の愛に満ち満ちた家庭を作り、家族を大切にすることを教えています。

 

さて、主はみなさんに、どのような働きを用意してくださっているでしょうか。

子どもや神の家族が増えるということは、この地においても神の御国が拡大し、繁栄しているというしるしです。「幸いな人」となって世に出ていき、「地の塩、世の光」となっていきましょう!!

 

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2014年11月23日 (日)

「心の渇きをいやす」 ヨハネ4:14-17  (2014.11.23)

 この世の人たちは自分の内側を満たすために、いろんなところを走り回っています。美味しいものを食べたり飲んだりして食欲を満たします。あるいは、宝石やブランド品を身につけて自分を飾ろうとします。男性だと、アウディみたいな高級車を乗り回したいと思うでしょう。他にも楽しいことがたくさんあります。ショッピング、旅行、レジャー、スポーツ、ゲーム、ギャンブルなどがあります。きょうの物語のように、結婚して心の内側を満たそうとする人もいるでしょう。しかし、日本の離婚率はアメリカや韓国を追いかけ、約40%に達しています。 

1.サマリヤの女

ヨハネ43-8「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時(正午)ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。」

地図を見るとわかりますがユダヤは南にあり、ガリラヤは北にあります。最短距離はサマリヤを通過する道です。しかし、ユダヤ人たちはサマリヤ人を嫌っていたので、遠回りして、東のヨルダン川沿いの道を通りました。私たちは旧約聖書の人物から一年間学びました。ソロモン王のあと、イスラエルは北と南に分裂しました。北イスラエルはサマリヤに金の子牛を作り、偶像礼拝に走りました。紀元前723年アッシリヤが攻めて来て、北イスラエルを滅ぼしました。そして、ほとんどの人たちを国外に連れ去りました。その代り、二度とその国が復興できないように、5つの異民族をサマリヤに連れきました。イエス様の時代はローマによってサマリヤとユダヤという名前で支配されていました。ユダヤ人は宗教的にも人種的にも混合しているサマリヤ人を心底嫌っていました。イエス様はエルサレムからガリラヤに行く途中、あえてサマリヤの真中を通られました。時はちょうどお昼頃、弟子たちは食物を買いに町に出かけていました。イエス様はお一人、疲れを覚えてヤコブの井戸の傍らに座っておられました。

 そのとき、水がめを肩にかけた一人の女性が、水を汲みにやってきました。普通、水をくむのは涼しい朝か夕方です。なぜ、この女性は日がのぼって暑い真昼に水を汲みに来たのでしょう?彼女は慣れた手つきで、つるべに手をかけて水を汲もうとしていました。すると、イエス様は「私に水を飲ませてください」と彼女に声をかけました。イエス様がラビのような服装をしていたのかもしれません。彼女は驚いて「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」と答えました。聖書には、「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」と説明文が加えられています。良く見たら、鼻筋がピンと通って、とても魅力的な女性でした。「もしかしてだけど、もしかしてだけど、それって私をさそっているんじゃないの?」聖書にはそんなふうには書かれていません。昼の暑いとき水を汲みに来たというのは、なぜでしょう?それは、人目をさけるためではないでしょうか?なぜなら、この女性はスキャンダラスなことをして、噂の的となっていたからです。だから、彼女は人がいそうもいない、時刻を選んで水汲みに来たのです。イエス様は超自然的にこの女性の素性を言い当てました。

ヨハネ4:18「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

 現代訳聖書はこのように訳しています。「あなたが正式に結婚した夫はないですね。でも、あなたは五人も夫を替えている。今、一緒にいる男も、確かに夫ではない」。なぜ、こんなプライバシーな話になったのでしょうか?興味深いことに、この女性の過去と、サマリヤの歴史が二重写しになっているということです。さきほど申し上げましたが、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされた後、5つの異民族が入れられました。その後、ローマがその地方を支配しました。5つの異民族は5つの宗教を持っていました。ローマもローマの神々を信じていました。このことは、サマリヤの女性と霊的に同じであります。

 あとでこの女性はどの場所で、どの神さまを礼拝したら良いかイエス様に質問をしています。

ヨハネ4:20-21「『私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。』」

彼女が言っている山とはゲリジム山のことです。バビロンから帰還したユダヤ人たちは神殿を建て直しました。その後、ユダヤ人たちは周りの人たちと雑婚しました。そのとき、エズラとネヘミヤは、民族の血を守るために、妻や子どもを追い出させました。サマリヤ人と完全に決別した状態になりました。それで、サマリヤ人たちはゲリジム山に神殿を建てました。紀元前4-5世紀の頃です。イエス様は

「父なる神を礼拝するのはこの山でもなく、エルサレムでもない時が来ます。真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」

と言われました。イエス様は霊的な姦淫や混合宗教を超越した時代が来るとおっしゃっています。それは救い主によって、民族の壁が取り壊され、霊とまことによって父を礼拝する時が来るということです。この女性は一見ふしだらな女性ですが、心の中ではまことの神を求め、そういう神さまがいたら礼拝したいと願っていました。日本も多神教の中にありますが、唯一まことの神を求める一握りの人たちがいるのです。

2.ヤコブの井戸

 イエス様は彼女に「水を飲ませてください」と言いながら、生ける水について話題を替えられました。彼女は驚いて、「その生ける水をどこから手にお入れになるのですか?あなたは、私たちの父ヤコブよりもえらいのでしょうか?」と質問しました。サマリヤの中央にあった、ヤコブの井戸は彼らの誇りでした。ヤコブからイスラエルの12部族がうまれたからです。ヤコブはおじのラバンのもとで20年間働きました。大変豊かになった後、12人の子どもたちを連れて、この地にやってきました。そして、このところで井戸を掘ったのです。ヤコブの井戸はサマリヤ人にとっては宝物でした。ところで、みなさんは「マイム・マイム」というフォークダンスをご存じでしょうか?この歌はイザヤ123のみことばから造られたと言われています。

イザヤ123「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」

マイムとはヘブル語で「水」であります。おそらく、開拓地で井戸を掘って水が出た時、喜んで歌ったのではないかと思います。でも、「救いの泉」ですから、ただの水ではないことを暗示しています。

 サマリヤの女性は「生ける水」に興味を持ち始めました。その前に、イエス様は「あなたは2つの事に対して無知です」と言われました。

ヨハネ4:10 「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」

1つは神の賜物であり、2つ目は水を飲ませてくれと言うものがだれかを知ることです。井戸というものは、深いところまでつるべを落として、ロープを引っ張り上げます。その後、水がめに入れます。そのことを何度かくりかえして、やっと水かめは満たされます。ですから、井戸水は人間の努力を象徴します。では、神の賜物とはどういう意味でしょうか?私たちの努力や行いではなく、神さまから一方的に与えられるものです。そんなのあるのですか?後からイエス様は

「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちがわき出ます」

と言われました。井戸水よりも、自然に湧き出る泉が良いのではないでしょうか?だから、この女性は「私がここまで汲みに来なくても良いように、その水を私に下さい」と求めています。もう1つは、「生ける水を与える方がだれか?」ということです。サマリヤの女性は、父ヤコブが偉い人だと思っていました。イスラエル部族の父ですから、確かに偉いかもしれません。でも、それは人間的な偉さです。しかし、彼女の目の前におられる方は、人となられた神さまです。まさしく、救いの泉を与えることのできるお方です。

この世の人たちも2つのことで無知です。神さまからの賜物を知らないので、一生懸命、自分の努力や行いによって生活しています。この間、テレビで「働かざる者、食うべからず」と言って、母親が子どもたちを家庭内で働かせていました。「マッサージ5分間で100円」とか、言っていました。とても倹約家で水道の水も無駄に使わないで生活していました。しかし、親が子どもたちに一番教えなければならないことは、すべてを造られ、私たちにすべてを供給してくださる神さまの存在ではないでしょうか?聖書には「働かざる者、食うべからず」とは書いていません。パウロは

「働きたくない者は食べるな」(Ⅱテサロニケ310

と命じました。つまり、働きたくても働けない人は除外しています。これは、何の仕事をせず、おせっかいばかりしている、締りのない歩み方をしている人に対してのことばです。一生懸命がんばって、自分の努力や行いで、あるところまでは行きます。しかし、失敗や病気や怪我で、そうできなくなったとき立ち上がることができません。私たちを養ってくださる創造者がおられることを知るべきです。私たちを愛しておられる父なる神様が必要なものを供給してくださるのです。良いものは神さまから与えられます。たとえば、日のひかり、水、空気、地下資源、私たちの命、自然の法則や真理、みんな神さまが無代価で私たちに与えてくださいました。また、良いものは、そういう一般恩寵だけではありません。父なる神さまは罪のゆるし、永遠のいのち、永遠の御国、聖霊の力など、この世にはないものまでも与えてくださるのです。私たちは神さまからの賜物に無知であってはなりません。神さまからの賜物に無知なゆえに、神さまに求めないで、自分で頑張ってかせごうとするのです。もう1つは救い主に対して無知であるということです。神の賜物をいただくためには、救い主が必要だということです。一般的な恩寵はだれにでも与えられます。でも、救い主の御名を通してでなければ与えられないものがあります。それが、罪のゆるし、永遠のいのち、永遠の御国、聖霊の力、神の知恵であります。これらはこの世に隠されている奥の手であります。水の出る井戸は探せばあるかもしれません。しかし、生ける水が湧きあがる泉は、救い主を通してでなければ与えられない神の賜物です。イエス・キリストはイスラエルの父であるヤコブよりも偉いお方です。なぜなら、私たちの努力や行いでは得られない、神からの救いを与えてくださるからです。

3.イエス様が与える水

イエス様が与える「生ける水」とはどのようなものなのでしょうか?

ヨハネ413-15「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」

この水(井戸の水)」とイエス様が与える水との違いは何でしょうか?この水はすぐなくなります。また、飲んでも渇きます。では、イエス様が与える水はどうでしょうか?イエス様が与える水は、決して渇くことがありません。さらに、イエス様が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。この水とは何をたとえているのでしょうか?それは、この世が与える喜びや楽しみです。世の人たちは自分の渇きをいやすために、いろんなものを求めています。おいしいグルメを食べ、おいしい酒を求めます。デズニーランド、ユニバーサルジャパンなど、楽しければ並んでも入ります。あとは良いものを持ちたい、身に付けたいという欲望があります。御殿場や軽井沢のアウトレットが有名です。私も時々、ジェーソンに行きます。そこには作っても売れなかったものが半額以下で売られています。私は「アウトレットってジェーソンを大きくしたものかな?」と思っています。今はインターネットで何でも買うことができます。私もアマゾンが大好きです。旅行や菜園などは健康的です。でも、ギャンブルやドラッグなど中毒性のものもあります。不思議なことに、そのようなこの世の水は飲んでも、また渇きます。サマリヤの女性は男性を5人も換え、今6人目と一緒に住んでいます。なぜでしょう?心の渇きを癒そうとしたのです。でも、だめだったのです。ますます渇くばかりで、決して心が満たされませんでした。

しかし、イエス様が与える水はどうでしょうか?イエス様が与える水は、その人の内側で泉となるので渇くことがないと言っています。そんな魔法のような水があるのでしょうか?昔話に養老乃瀧というのがあって、滝がお酒に変わったという話があります。また、打ち手の小づちみたいに、いくらでもお金がでてくるものがあります。この世には、そのような悪魔が作ったような作り話がたくさんあります。イエス様が与える水は魔法の水ではありません。なぜ、こんなことを言うかと言うと、英国やフランス、スペインなどの国はキリスト教を捨てて、オカルトや魔法に走っているからです。イエス様はリアルで真実なお方です。幻想やイリュージョンではありません。私たちは肉体と心だけではなく、霊でてきています。霊は私たちの最も奥深くにあります。この霊が渇いているのです。まことの神さまを求め、真理を求め、永遠を求めているのです。この霊が神さまと結ばれ、神さまのいのちが霊に与えられるならどうでしょう?この世の喜びはあってもなくても良いものになります。もちろん私たちは肉体と魂を持っていますので、いろんな欲望があります。物質欲、性欲、食欲、出世欲、達成欲…でも、それらに支配されることはありません。アウグスチヌスは私たちには神さましか埋めることのできない空洞があると言いました。アウグスチヌスの母は熱心なキリスト教徒で、父は異教徒でした。彼は家を出て、自堕落な生活をし、マニ教に走り、私生児を設けました。苦しみは増大し、肉の欲と真理との間で苦しみました。そして泣きながら「主よ、私はいつまでこんな苦しい状態にいなければならないのでしょうか?私をゆるし救ってくださるのは、いつですか?」と祈ったと言われています。あるとき「取りて読め、取りて読め」と子供たちが毬を付きながら歌っていました。そのとき、母からもらっていた聖書を取り出して読みました。するとそこには「宴楽と 泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みとを捨てよ。主イエス・キリストを見よ。肉欲をみたすことに 心を向けるな」とありました。アウグスチヌスは32歳で回心し、ピッポの監督、そして素晴らしい神学者になりました。イエス・キリストだけが内なる渇きを留め、生けるいのちの水を与えてくださるのです。

4.イエス様に願いましょう

この女性は、自分が渇いていたことを認めました。あなたは、この世のもので満たされているでしょうか?それとも、この女性のように心の奥底が渇いているでしょうか?ウィットネスリーという中国の伝道者はある本の中でこのように述べています。「彼女は先祖が与えた井戸を大事にしていました。しかしながら、神の賜物とキリストについては知りませんでした。この生ける水の泉は先祖伝来のものではなく、神さまが授けてくださるものです。中国人は孔子がキリストよりも偉い、ギリシャ人はソクラテスがキリストよりも偉いとみています。回教の人はマホメットがキリストよりも偉い、仏教の人は釈迦がキリストよりも偉いとみています。人は自分の聖人を誇り、先祖が伝えたものを尊んでいます。ところが、彼らが誇っている聖人たちとその残したものは、人の中のかわきを解決できず、人のかわきを永遠に止めることはできないのです。彼らが残した教え、道理、学説はこの女性の先祖が残した井戸と同じように、人生の空しさを解決できず、人に真実で永遠なる満足を与えることはできません。また地上の物ごととこの世の楽しみは、人の中のかわきを止めることができないばかりか、かえって人の中のかわきを増し加えます。そればかりでなく、この世の物ごとと楽しみとは、正当に扱わなければ皆、毒を持っていますから人を害します。この女性は『私にもください』と願いました。願うというのは了解ではなく、欲することです。頭で研究するとか理解するということではなくて、心で受け入れるのです。」

イエス様はこの女性に罪の生活から逃れるようにとは要求しませんでした。その代わり、「生ける水」である神のいのちを与えようとしました。彼女に神のいのちが入ったあと、どうなったでしょうか?彼女は自分の水がめを置いて町へ行き、人々に告げました。

「来て、見て下さい。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか?」。

本来なら、隠したい内容を、「全部を私に言った人がいます」と告げました。彼女は恥も外聞も関係なく、救われた喜びを伝えたかったのです。その直後、町の人たちはイエス様のところに来て、みことばを聞きました。そして、「この方は本当の救い主である」と信じました。なんということでしょう。本来なら、サマリヤの救いはペンテコステ後、ピリポによってもたらされるべきものでした(使徒8章)。しかし、イエス様は弟子たちに

「刈り入れ時までに、まだ4か月あると言っていませんか?目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりとなっています」

と言いました。イエス様も渇いていました。この女性を得たいために、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。そればかりか、ユダヤ人から嫌われていたサマリヤ人まで救われました。もう一度言います。イエス様はこの女性に罪の生活から逃れるようにとは要求しませんでした。その代わり、「生ける水」である神のいのちを与えようとしました。私たちもこの女性のように、渇いている自分を知り、生ける水をイエス様に願い求めましょう。そして、このように祈りましょう。「イエス様、私はこの世のものでは満たされません。イエス様、どうか私に生ける水を与えてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」神さまのさらなる願いは、あなたが泉にととまらず川になることです。心の泉は自分ひとりしか潤すことができませんが、川は多くの人に行き渡ることができます

ヨハネ737-38「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

でも、段階があります。まずは、救い主イエス様を信じて生ける水が湧き出る泉を求めましょう。その後、神さまは、生ける水が、心の奥底から川のように流れ出るようにしてくださいます。

 

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2014年11月16日 (日)

新しく生まれる  ヨハネ3:1-9

 日本に自殺者が多い一つの理由は、「死んで生まれ変わりたい」という輪廻の思想が根底にあるからかもしれません?それは悪魔の偽りであり、聖書は「あなたは固有な存在であり、人生は一度きりである」と教えています。真実は死んでから天国(神の国)に入るのではなく、生きているうちに生まれ変わり、生きているうちに天国(神の国)に入らなければならないのです。

1.夜の訪問者
ヨハネ3:1-2a「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。」

 ニコデモという人物はどんな人でしょうか?「パリサイ人」とありますので、律法(聖書の戒め)を厳格に守るユダヤ教徒でした。ほとんどのパリサイ人はイエス様に敵対していましたが、ニコデモは真理に対して飢渇きを持っていた真面目な人物です。聖書でこのような人物を発見することは難しいです。多くの人たちは、病の癒しや問題をかかえてイエスさまのところへやってきたからです。さらに、ニコデモはユダヤ人の指導者でした。彼はサンヒドリン議員の一人で、今でいうなら国会議員のような立場の人です。後で、彼はイエス様から「イスラエルの教師」と言われています。おそらく、人々を指導するラビのような人だったのでしょう。ヨハネ19章に書いてありますが、イエス様の葬りのとき、大量の没薬と香料を持ってきたので金持ちだったと思われます。ユダヤ人の間で、彼のような年配者は尊敬されていました。なぜなら、豊かな人生経験を持っていたからです。ですから、イスラエルにおいては、こういう人こそが、神の国に入る理想的な人物であると思われていました。天国に入ることのできる申し分のない人がなぜ、年若いイエスのもとを訪ねてきたのでしょう。夜やってきたのですから、人目をはばかって来たのでしょう。

 30年くらい前に、大川牧師が尾山令仁師の牧会していた、高田馬場聖書教会で伝集説教をしたことがあります。今はありませんが、神田川の脇に建っていた大教会です。昔、「神田川」という歌がありました。第一日目はこのヨハネ3章から『夜の訪問者』でした。二日目はヨハネ4章から『男を手玉に取った女』でした。夜の7時くらいから伝道集会が行われるわけですから、高田馬場近辺の人たちは、「一体なんだろう?」と興味をそそられて足を運んできたと思われます。大川牧師がこのように話していました。「赤ん坊が夜泣きをするのは何故か?ピーター・バーガーという心理学者は、赤ん坊はこれから遭遇する人生の様々な出来事を察知して泣いているんだと言いました。学校のいじめ、交通戦争、受験戦争、病と死との戦い。お母さんがいるから大丈夫?お父さんがいるから大丈夫?本当にそうでしょうか?人はだれでも罪と死の夜という人生の夜を持っています。この夜は、どんなに多くの白いペンキを塗っても明るくできない夜です。この夜は、どんなにネオンの明かりで照らしても明るくできない夜です。ニコデモは罪と死の夜をぶらさげて、イエス様のもとにやってきたのです。」このメッセージから「土の器」という歌が作られたようです。ニコデモは人がうらやむものを全部持っていました。道徳的な人格、地位、お金、教育も、豊かな人生経験。この人こそ、神の国に入ることのできる最もふさわしい人物です。では、イエス様にあって、ニコデモになかったものは何だったのでしょう?

2.外側の行いではなく、いのち
ヨハネ3:2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 ニコデモはイエス様を「先生」と呼んでいます。彼は人を教え導くためには、良い先生が必要であると思っています。特に教育者は、「人が良くなる道は、教えられて、よくよく修養することである」と考えます。では、人は教育を受けるなら、良い行いができるのでしょうか?学校では、多くの学問的知識の他に、やっていいことと。やってはいけないことを教えます。彼らは頭では「これは良くないことだ」と分かっています。私たちは立派な議員が汚職や詐欺まがいのことで逮捕されるのを新聞やニュースで知ります。学校の教師や警察官、医師も、ワイセツな罪を犯して職を失っています。スーパーや本屋さんでは、万引きのためにものすごい被害をこうむっています。そういう人たちは、外から見たなら良識もあり、まともな人物です。つまり、頭の知識と、行いとは別なんだということです。しかし、学校や教会さえでも「人は正しいことを教えれば、正しい生活をする」と考えています。そうではありません。心が変わらなければ、かしこい悪魔を作るだけです。どうしたらばれないだろうか?どうしたら法の網をくぐって悪いことができるだろうかとその知識を用いるのです。重要なのは知性の問題ではなく命の問題です。
ある家で綺麗な声でなくカナリヤを飼っていました。カナリヤは何と鳴くんでしょうか?「ぴぃ、ぴぃひょろろろろろ」(ファクスみたいですね)。家族のみんなも、「このカナリヤは家族の一人だ」と言ってとても愛していました。さて、夕食の時になりました。家族と言いながらも、人間たちは自分たちで食卓を囲んでいました。本当の家族なら、カナリヤも餌ではなくて、同じテーブルでいただくべきではないでしょうか?どうして、カナリヤと人間は本当の家族になれないのでしょうか?そうです。命が違うのです。片や鳥類であり、片や人間だからです。もう1つ問題を出します。ある人が、ひよこの群とあひる子の群を小川のそばに連れていきました。川辺についた時、あひるの子は水に入ってとても楽しそうでした。しかし、ひよこは水を恐れ、驚いて遠くへ去っていきました。ひよことあひるの子と何が違うのでしょうか?同じ鳥類であっても、命が違うのです。生物学的に「命」という言い方では、雑過ぎて文句が出るかもしれません。でも、こういうことです。イエス様にあって、ニコデモになかったもの?それは神のいのちです。ニコデモには人間の命、肉体的な命はありました。しかし、それだけでは神の国の住民になることはできません。神の国に入るためには、神の命が必要だからです。


3.新しく生まれる

 ヨハネ3:3-4「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』

イエス様は何をしなければ神の国を見ることができないと言われたのでしょうか?イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。英語の聖書では、born again、「再び生まれる」となっています。これに対して、ニコデモは「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と答えました。おそらく、ニコデモは老年になっていたのでしょう?たとい老年になっていなくても、若くても、もう一度、母の胎に入って生まれ直すことができるでしょうか?ニコデモは「ムーリー、ありえないでしょ?」と言いました。さらに、イエス様は続けて言われました。

ヨハネ3:5-7「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。』」

イエス様は私たちは二度生まれなければ、神の国に入ることはできないと言われたのです。それが、この「水と御霊によって生まれる」ということの意味です。これまで、キリスト教会では「水」とは水のバプテスマであると解釈してきました。しかし、ユダヤ人がこの箇所を見ると、「水」とは「羊水」のことを指すとすぐ分かるそうです。水から生まれるとは、お母さんのおなかから生まれるということです。私たちはまず、この世に肉体的に誕生する必要があります。ここにおられる方は、もれなく、お母さんから生まれたので、肉体をもってこの地上で生きています。ハレルヤ!しかし、この肉体の命だけでは、神の国に入ることができません。もう1回、生まれる必要があります。それは、御霊によって生まれるということです。人は御霊によって、生まれると霊的な命、すなわち神の命があたえられます。神の命が与えられるなら、神の国の住民になることができます。
 イエス様はそこのこと

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

と言われました。風は目には見えません。しかし、木の葉が揺れているとき、「ああ、風が吹いているなー」と分かります。同じように、その人に聖霊が臨んで、新しい誕生を与えたなら、何らかの変化があるということです。ギリシャ語の聖書では「風」は「霊」と訳せるプニューマが使われています。その霊が、思いのまま吹いて、人を新たに生まれ変わらせるのです。キリスト教会では、人がキリストを信じて生まれ変わることを「新生」と言います。しかし、それは人間のわざではありません。私はこれまで牧師として、個人伝道をして、「信じるように」説得したことがあります。ある場合は、「はい、信じます」と言う人がいます。でも、新生していな場合もあります。つまり、その人は心からイエス様を信じていないし、聖霊さまも働いていないということです。無理に伝道して何度失敗したことでしょう?人が信じて救われる出来事は、全く、聖霊さま次第であるということです。もちろん、私たちは福音を伝えます。「今、信じなければ、チャンスはきませんよ」と説得じみたことを言うかもしれません。でも、神を恐れなければなりません。福音を伝えるのは私たちですが、人を救うのは神さまであるということです。だから、風(聖霊)は思いのまま吹くということです。とにかく、ここで言われていることは、私たちはこのままでは神の国に入ることはできないということです。どんなに道徳的な人であっても、どんなに教育があっても、新しく生まれなければ神の国に入ることはできないのです。私はあえて「天国」とは言わないで、神の国と言っています。日本では天国が大安売りされています。テレビで芸能人が亡くなったとき「○○さんは天国に旅立った」と言います。私はテレビに向かって「嘘を言うな!」と叫ぶことがあります。日本では天国は死んだ人がいくところと考えられています。しかし、そうではありません。正確には天国とはイエス様を信じて死んだ人たちがいく、いわばパラダイスです。死んだ魂がパラダイスで、世の終わり神の国が完成するのを待っているのです。「神の国」の本当の意味は、「神の支配」です。「神の国」は2000年前キリストと共に「神の支配」という形でこの世に入り込んできました。今、イエス様を信じたなら、神の国に入ることができるのです。死んでから神の国に入るのではなく、生きているうちに入るのです。

4.どうしたら新しく生まれることができるのか?
ヨハネ3:13-15「『だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。』

イエス様は、人はどうしたら新しく生まれ、神の国に入るか教えられました。天から下ってきたお方は、イエス様だけです。イエス様は神さまでしたが、人となってこの地上に降りてこられました。では、イエス様は何のためにこの地上に来られたのでしょうか?イエス様は「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」と言われました。この話は、旧約聖書の民数記21章に記されています。イスラエルの民が荒野で「パンもない、水もない。私たちをここで死なせる気か」とモーセにつぶやきました。すると、主は民の中に燃える蛇を送られました。蛇は民にかみついたので多くのイスラエル人が死にました。「燃える蛇」というのは毒蛇の色が赤いのか、噛まれたら火のように体が熱くなって死ぬかどちらかの意味です。イエスラエルの民は「私たちは罪を犯しました」と悔い改めました。すると、主はモーセに「あなたは燃える蛇を作り、それを旗竿の上に付けよ。すべて噛まれた者は、それを見れば生きる」と言われました。モーセは青銅の蛇を作り、旗竿の上につけました。当時、イスラエルの民に中には、善人も悪人もいたかもしれません。でも、そこいら中、蛇が這い回り、善人も悪人も関係なく噛みました。善人だからと言って、そのままで救われるわけではありません。では、どうしたら毒から解放され癒されるのでしょう?旗竿の上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見たら癒されたのです。善人も悪人も関係ありません。青銅の蛇を仰ぎ見たら生きたのです。
イエス様は十字架につけられ呪われた存在になりました。

ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」

つまり、旗竿とは十字架であり、青銅の蛇はイエス様ということになります。十字架も蛇も聖書では呪われた存在です。これはどういう意味でしょう?イエス様は人類の罪を背負って罪そのものとなりました。そして、私たちの代わりに神のさばきを受けるために十字架に上げられました。イエス様は私たちの身代わりになって、神のさばきを受けて死なれました。そうすると、今、私たちの罪はどこにあるのでしょうか?そうです。十字架のイエス様の上にあります。それだけではありません。イエス様はあなたの罪を負って、代わりに、死んでくださいました。それでは、どうしたら、罪の赦しと永遠のいのちがあなたのものになるでしょうか?

ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

アーメン。ここに「御子を信じる者が、滅びないで永遠のいのちを持つ」と書いてあります。では、信じるとはどういう意味でしょうか?それはさきほどの、旗竿の青銅の蛇と同じです。現在、私たちは死の毒にやられています。このままでは、遅かれ早かれ肉体の死と永遠の滅びに行く運命です。善人だからと言って、死の毒に打ち勝つことはできません。ニコデモのような人でも無理です。善人、悪人は関係ありません、みんな死の毒にやられています。仰ぐということは、信じるということです。その点、日本語の「信仰」は良くできています。「信じて仰ぐ」と書きます。私のために十字架で死なれたキリストを救い主として信じるなら、滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。神の側から言うと、聖霊が私たちに神の命を与え、新しく生まれ変わらせてくださるのです。
 チャールズ・スポルジョンと言えば、有名な英国の説教家です。彼は毎週、1万人を数える聴衆に説教しました。彼が救いの確信を持っていない若い頃、日曜日の礼拝に向かいました。ところが、大吹雪でいつもの教会に行けませんでした。それでやむおえなく、メソジストの小さなチャペルに飛び込みました。そこには、14,15人の人しかいなく、信徒の一人が講壇に立っていました。その聖書の御言葉は、

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。(イザヤ45:22)」

でした。その人は無学な人で、単語の発音も正しくなく、単純なことばを何度も繰り返しているだけでした。彼は「見ることには大学へ行く必要はない。小さなこどもでも見ることができる。みことばは『私を見る』と言っている。これが聖書の言わんとするところです」と言いました。10分くらいたったとき、ついに話の種が尽きてしまいました。そのとき、会衆の席のスポルジョンを見て講壇の上から「お若いの。君は非常に辛そうに見える」と言いました。確かにその通りではありましが、スポルジョンは、かつて、講壇から自分の風貌について、そのように語りかけられたことはありませんでした。しかし、それは強烈な一撃でした。彼は続けました。「もし、君がこの御言葉に従わないなら、これからもずっと惨めであろう。そのいのちにおいても惨め、その死においても惨め。しかし、今、君が従うなら、その瞬間に君は救われるのだ」。そして、彼は初期メソジストだけができるやり方で叫びました。「若者よ。イエス・キリストを見よ!」スポルジョンは、まさにその時、見たのです。その時、そこで雲は晴れ、暗黒は消え去りました。その時、スポルジョンは太陽を見ました。その時、スポルジョンは立ち上がって、非常に熱狂的な人々と共に、キリストの素晴らしい血潮と、彼のみを見上げる単純な信仰を歌うことができました。あの無名の人物が、つい先ほど、スポルジョンに語った通りでした。「キリストを信ぜよ。さらば救われん。」現在でも、その小さな教会は、「スポルジョンが回心した教会」として残っているそうです。
信じるとは、私のために十字架にかかられたイエス・キリストを仰ぐということです。そうすれば、死の毒から解放され、新しく生まれ変わることができます。また、信じるとは、心の扉を開けて、イエス様を救い主として受け入れることです。この方を受け入れるなら、聖霊があなたの中にはいり、あなたに神の命を得させるのです。あなたは、神の命、永遠の命を得たいとは思いませんか?ご一緒に祈りましょう。「神さま、私は自分の力では自分を変えることができません。イエス様、あなたを救い主として、心にお迎えいたします。どうか私に神の命、永遠の命をお与えくだい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」霊的に新しく生まれた結果、少なくとも4つのことがやってきます。第一は、あなたは神の国に入りました。この世にいながらも、神の国に入っているのです。第二は、あなたに霊的に生まれたので、霊的なことがわかります。聖書もだんだん面白くなります。そして、目に見えない神さまに祈ることができます。第三は、神さまの甘い実を結ぶことができます。神さまは、幸い、健康、祝福、豊かな人生を与えてくださいます。そして、人格的に愛、平安、寛容、柔和、親切、自制などの御霊の実を結びます。第四は、あなたには神の命、永遠の命が与えられました。たとえ、この肉体が滅びても、やがては復活のからだが与えられ、永遠の御国で住まうことができます。

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2014年11月 9日 (日)

不安、恐れ、恥       創世記3:7-10

 きょうは“Good News”の最初のテーマ、「不安、恐れ、恥」を取り上げて、メッセージさせていただきます。現代は、多くの人たちが不安と恐れの中にいます。そのため、外出できない人や薬に頼っている人もいるでしょう。また、日本は罪よりも恥の文化だと言われています。神さまよりも、人の目を恐れています。「人から笑われないように」と育てられた人はいないでしょうか?私たちの心の奥深くに、不安、恐れ、恥というものはないでしょうか?


1.不安、恐れ、恥はどこから来たのか?

創世記3:7-10このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」神さまは、エデンの園に食べるのに良いすべての木を生えさせました。また、園の中央には、いのちの木と善悪の知識を生えさせました。園のどの木からも思いのまま食べても良かったのですが、1つだけ例外がありました。神さまはアダムに「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました。やがて、アダムからエバが造られ、二人はエデンの園で、何不自由なく永遠に幸せに暮らしました。となれば良かったのですが、蛇に化けたサタンが善悪を知る木のところでエバを誘惑しました。蛇は、「それを食べたら、目が開け、神のように善悪を知るようになりますよ」言いました。エバは、食べるのに良く、目に慕わしく、賢くしてくれそうな木の実を取って食べました。Ⅰヨハネには「世にあるものは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」であると書いています。私たちはこの世が与える3つの欲に弱いですね。エバはそばにいた、夫アダムにもその実を与えました。アダムがあわてて食べたので、実が喉につっかえました。これが、Adam’s appleと言われている、喉仏です。喉仏の話は聖書の中にはありません。

アダムとエバは食べてはいけない木から実を食べたために目が開かれました。ウォッチマン・ニーは、「目が開かれたとは、霊が死んで、代わりに魂が異常に発達した」と言いました。それまで二人は、神さまとの交わりの中で善悪を判断していました。しかし、善悪を知る木から食べるという行為は、自分は神さまから独立し、自分自身で善悪を決めるということです。これは自分が神になろうとする反逆行為、クーデターです。確かに二人の目が開かれて、善悪を知ることできるようになりました。その代わり何がやってきたのでしょう?「それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」とあります。そうです。ありのままでは生きてゆけないという恥がやってきました。そして、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作りました。それから何がやってきたのでしょう?「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」とあります。悪いことをしたという罪責のゆえに、恐れがやってきました。二人は神さまから罰せられるのを恐れて、木の間に身を隠しました。私たちも悪いことをすると、恐れがやってきます。ティモシー・ボイル著『漢字に秘められた聖書物語』があります。古代中国人はエデンの園の話を知っていたのかもしれません。たとえば、禁止の「禁」は、二本の木を示すと書きます。いのちの木と善悪を知る知識の木のようです。アダムとエバがそむいてから、いのちの木も食べることを禁じられました。また、「裸」という字があります。左側の衣辺はエデンの園にいた二人を表しています。左の人がアダムで、右がアダムのあばら骨から取られたエバみたいです。右側の「果」は園に植わっていたいちじくの木かもしれません。また、園と遠いという漢字も興味深いです。土から造られた、口のある二人がエデンの園という囲いの中に住んでいました。ところが罪を犯してから囲いである園がなくなり、二人は歩かされました。しんにょうは、歩くという意味があります。このように最初の人であるアダムとエバが神さまから離れたので、私たちにも不安と恐れと恥がやってきたのだと聖書は言います。


2.不安、恐れ、恥を覆い隠すバリヤー

アダムとエバはいちじくの葉をつづり合わせて自分たちの腰を覆いました。二人は神さまの御声を聞いたとき、木の間に身を隠しました。神さまはアダムに「あなたはどこにいるのか?」と聞かれたとき、「私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。二人はいちじくの葉で局部を隠し、なおかつ木陰に自分たちの身を隠しました。果たして、それで全知全能の神さまから隠れることができるのでしょうか?いちじくの葉は何を象徴しているでしょうか?李光雨師は「いちじくの葉とは自分の身を守る人工的なバリヤーである」と言います。それによって、自分の中にある不安や恐れ、恥を隠すということです。あなたにとって、自分の身を守るバリヤーとは何でしょうか?テキストには、「いちじくの葉のバリヤー」として、いくつか記されています。家系、名誉、学歴、容姿、持ち物、お金、体力、頭脳明晰、能力、子ども、地位、財産、信念、職業、結婚…などがあります。バリヤーの中には、不安、恐れ、恥があります。李光雨師はそれらを3つまとめると「存在不安である」と言います。存在不安とは、自分の存在が不安であるということです。クリスチャンでない人に「あなたには存在不安があるでしょう」と聞くと、「はい、あります」と答えるそうです。だれもが、持っている存在不安、あなたにもあるでしょうか?私たちが生まれたときに、両親から愛され、受け入れられるならバリヤーは厚くて破れにくいかもしれません。心理学では基本的信頼感、絶対的信頼感などと言います。しかし、このバリヤーが生まれつき薄い人もいます。

 たとえば、幼い時、ある出来事で、バリヤーが破れてしまったという経験があるかもしれません。そうなると、その人に「自分はこのことに弱い」と言うテーマができあがります。大きくなって、かつての経験と同じようなことが起こると、バーッと内側にある不安や恐れ、恥意識が出てきます。私たちは無意識で、いろんなバリヤーを作って、自分を守ろう、守ろうとします。良い学校に入って、一流の会社に入って、結婚しました。めでたし、めでたしで終われば良いのですが、何かのきっかけでこのバリヤーが破れます。私がこの教会に赴任したころ、統一教会に走った息子さんを救助したことがあります。その人の家に寝袋を持って行って、3日間くらい泊まりました。1か月くらいたって社会復帰できました。しかし、今度は、お母さんが大変になりました。買い物に行った先で、急にしゃがみこみ歩けなくなるということでした。電車に乗って、心療内科に行くときは、ものすごい形相で必死に吊り輪につかまっているそうです。私は何がそんなに怖いんだろう。息子さんも解決したのに良かったじゃないかと思いました。今、思えば、お母さんはパニック障害になっていたのです。ご主人さんの単身赴任、ご長男の統一教会問題で、バリヤーが破れたのかもしれません。10年近く苦しんでいたようですが、その後、治ったようです。そういう過剰反応が繰り返されると、それが恒常化して、社会生活ができなくなります。現代は、鬱、不安、パニック、摂食障害、人格障害で悩んでいる人がとても多い時代です。聖書的には、バリヤーが破れている状態であると言えるかもしれません。


3.キリストの贖い

創世記3:21「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」イザヤ53:2-4「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」神さまは、罪を犯してしまったアダムとエバに何を着せてくださったでしょうか?「皮の衣」と書いてあります。それでは、皮の衣を作るためには、どんなことが必要だったのでしょうか?神さまは動物を殺して、その皮をはいで、二人に着せました。と言うことは、初めてエデンの園で血が流されたということです。さきほど引用したティモシー・ボイル著『漢字に秘められた聖書物語』の中に、「被」という漢字の意味が記されていました。「いちじくの葉でできた服は、われわれ人間が自分の裸を被おうとすることを象徴します。アダムとエバのいちじくの葉でできた服はどのくらい長持ちしたでしょうか?少し動き回ったらすぐ破れてしまい、裸である恥がさらされたでしょう。この問題の解決への最初の手段を取ったのは神で、人間のあがないの第一歩として、象徴的に彼らの裸の恥を被うために皮の衣(衣+皮=被)を造られました。直接には書いてありませんが、皮の衣を作るのには、やはり動物を犠牲にしなければならなかったはずです。」

神さまが二人に着せてあげた皮の衣は何を意味しているでしょう?父なる神はアダムの罪の結果から私たちを救うために、御子イエスを与えてくださいました。イエス・キリストは私たちの罪を負ったゆえに、神さまから代わりに罰せられました。そのとき、イエス様は十字架で、私たちのためにどのようなものを負ってくださったのでしょうか?先ほど読んだ、イザヤ書53章はキリストの苦難の預言です。そこには、罪だけではなく、病、恥、痛み、呪いまでも負ってくださったことがわかります。イエス様は十字架の上で「わが神。わが神。どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれました。ということは、永遠から一緒だった御子イエス様が、父なる神さまから断罪され、拒絶されてしまったということです。これは、私たちが幼いときに味わった拒絶という最も恐ろしいことを、イエス様が経験なされたということです。みなさんの中には、親から物理的に拒絶されなくても、精神的に拒絶された人がおられるかもしれません。現代は、ネグレクト、幼児の虐待がものすごい大きな問題になっています。虐待された子どもが大人になると、今度は自分の子どもを虐待します。いわゆる世代間連鎖であります。イエス・キリストは私たちが受ける拒絶すらも引き受けてくださったのです。

マタイによる福音書に「王子の結婚の披露宴のたとえ話」が記されています。招いていた人たちが来なかったので、王様は「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」としもべたちに命じました。それで、宴会場は客でいっぱいになりました。王様が客を見ようと入ってみると、婚礼の服を着ていない者がひとりいました。王様は「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と怒って、彼を部屋から追い出させました。彼は道を歩いていたのに、宴会場に引っ張って来られたのだから、無茶苦茶な感じがします。しかし、当時は王様とお会いするとき失礼がないように、入口には礼服が用意されていたようです。彼はそれを拒んで、平服で参加したわけです。だから、つまみ出されたのです。その礼服にあたるものが、キリストを信じて与えられる「義の衣」であると考えられます。イエス様はすべての人の罪のために死なれました。しかし、それを感謝して受け入れる人と、「そういうものは不必要です」と受け取らない人がいます。やがて人々が神さまの前に立った時、「御子イエスが与えた義の衣をどうして着ていないのですか?」とさばかれるのです。義という漢字は、羊の下に我と書きます。我という漢字は、手で戈(ほこ)をもって殺すという意味があります。これは人間の自我を表すのに大変ふさわしく、人間の「罪」を象徴しています。我の上の羊は、自分のために十字架にかかり犠牲となった「神の小羊」です。イエス・キリストを信じることによって、義の衣を心の中で受け取るということです。


4.新しい人と新しい衣

神さまとの関係は、キリストの義を着ているので、ばっちりです。私たちはキリストの贖いを通して、いつでも神さまのところに行くことができます。ダビデのように、ありのままの気持ちを主のもとに持っていくことができます。神さまは私たちのことを全部お見通しなので、裸のままで結構です。イエス様は、私たちの悩みも憂いも、ある場合は怒りでさえも受け止めてくれます。しかし、人との関係は裸のままではいけません。夫と妻の関係は、アダムとエバの関係にかなり近づくことができるかもしれません。しかし、罪が入ってからは二人の間に軋轢が生じてしまいました。クリスチャンのカップルでさえも、ありのままでは傷つけ合うときがあります。では、兄弟姉妹、お互いの人間関係ではどうなのでしょうか?「裸の付き合い」という表現がありますが、ありのままでお付き合いできるでしょうか?コロサイ3:9-14を抜粋してお読みいたします。「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。…それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。…そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」クリスチャンとは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着た人です。使徒パウロは、ローマ人への手紙で「私たちの古い人はキリストとともに十字架につけられて死んだ」と言っています。そして、今度はキリストに継ぎ合わされて新しい存在になりました。では、アダムとエバが罪を犯した前の状態に戻れるのでしょうか?残念ながら、クリスチャンになったからと言って、裸で生きることはできません。昔、解放のキャンプというのがありました。そこに参加した若者たちが「ありのままでいいんだ」と解放されて帰ってきました。なんと、怪物(モンスター)のようになりました。遠慮会釈なく「好き」「嫌い」をはっきり言うようになったからです。確かにアダムとの古い関係は切れましたが、肉の性質がまだ残っています。私たちは人格的に裸ではなく、新しい人を着る必要があります。神さまは、古い人を捨て、新しい人を着ることを願っておられます。新しい人とはだれのかたちに似せているのでしょうか?私たちを造られた、神さまの性質にあずかることです。

それでは、具体的に造り主である神さまの性質とはどんなものなのでしょうか?パウロは裸の人格の上に着る着物のようにたとえています。コロサイ3章を見ますと、5つの衣と愛の帯が記されています。まるで十二単(ひとえ)のようです。一番内側から言うと、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。逆に言うと、一番外側からその人を見ると、寛容であるということです。その内側が柔和、謙遜、慈愛、深い同情心と続きます。深い同情心は着物の下、肌襦袢であります。どこまでもその人をさぐっていくと、深い同情心があります。では、五枚の衣をまとめているものは何でしょうか?「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」アーメン。愛の帯です。愛の帯が五枚の衣をまとめているのです。私たちはこれらの品性を私たちの人格の上に着るのです。そうすると、兄弟姉妹やお互いの人間関係がうまくいくということです。みなさんも家では普段着で過ごすでしょう。夫や妻、家族の関係はありのままに近い普段着で結構です。しかし、買い物に行くどうでしょうか?あるいは、会社や何かの集まりに出かけるときはどうでしょうか?ある程度のものを着て行くでしょう。私たちもありのままの人格の上に、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を着る必要があります。しかし、この衣は、一般の衣類と違って洗濯する必要はなく、私たちの人格にだんだんなじんできます。しまいには、私たちの品性の一部になっていきます。そんなに意識しなくても、柔和や寛容が出てきます。ハレルヤ!

 でも、本日のテーマの「不安、恐れ、恥」はどうなんでしょうか?やっぱり、キリストご自身の義の衣で良いのです。私たちはいちじくの葉っぱのバリヤーを捨てて、キリストの義の衣と交換する必要があります。頭では分かっていても、いちじくの葉っぱはずっと馴染んできたので捨てがたいですね。ある人は学歴がダメだったので、持ち物やお金にしようとする人がいます。また、ある人は、夫がだめなので、子供にしようとするかもしれません。いちじくの葉っぱのバリヤーを捨てるためには、神さまの愛と出会う必要があります。自分のバリヤーが壊れた最初のところに、神さまをお迎えして、癒していただく必要があります。完全な基本的信頼感、絶対的信頼感は親から受けられません。受けたとしても幻想です。神さまの愛と出会うしかありません。神さまの愛と出会ったなら、こんどはキリストの義の衣をしっかりと着るのです。もう、不安も恐れも、恥もありません。さらには、神さまがご自身はあなたの守りとなってくださいます。詩篇18:2-3「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」また、神さまが味方ならば、どんなものも、どんな人も恐れる必要はありません。詩篇118:6「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。悲しみや憂いに代表される古い衣を脱ぎ捨て、キリストがくださる救いの衣、楽しみ、喜び、正義を着ます。イザヤ61:10「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」

お祈りしましましょう。神さま、私はあなたを知らないで、不安、恐れ、恥の中で生きてきました。しかし、イエス・キリストが、私が担っていたすべての苦しみや痛み、悲しみを十字架で負ってくださり、ありがとうございます。また、キリストの救いの衣を着せてくださるというお約束を感謝します。私はこれまでの古い衣を脱ぎ捨て、主がくださる新しい衣、救いの衣を着たいと願います。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。




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2014年11月 2日 (日)

 私たちが毎週日曜日、教会で開いているこの礼拝の意義は何なのでしょうか?ほとんど取り上げないテーマだと思います。クリスチャンになったら、日曜日の礼拝に来るのが当たり前だと思っている人もいます。しかし、「行ってもあまり恵まれないので、行くのをやめた」という人もいないわけではありません。また、日本では「礼拝は信者たちのためであり、クリスチャンでない人には関係ない」と思っている方がほとんどではないでしょうか。神さまへの礼拝は個人でなされるディボーション、家庭や小グループ、そして、このように一同が介して持たれる聖日礼拝があります。きょうは、特に聖日礼拝について3つの角度から学びたいと思います。 


1.聖日礼拝の目的

 旧約聖書で、イスラエルの民は土曜日を安息日として定め、仕事を休み、神さまを礼拝していました。なぜ、土曜日だったのでしょうか?十戒の中にその理由が記されています。出エジ20:11「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」礼拝の起源は、天地創造にあります。「主が7日目に休まれたので、あなたがたも休めよ」と命じられています。正確には、「聖なる日とせよ」と言われているだけで、「神さまを礼拝せよ」とは言われていません。労働をせずに、神さまがなされた創造のみわざを感謝するということであります。詩篇95篇5-6「海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう」とあります。私たちが礼拝をささげる神は、全世界を造り、私たちを造られたお方です。動物や植物も同じで、クリスチャンであろうとなかろうと、創造主を礼拝すべきなのです。バビロンによってエルサレムの神殿が破壊されてから、ユダヤ人は会堂に集まって祈りをささげました。なぜなら、70年間も神殿がないところで生活したからです。トーラーと呼ばれる律法の書を読み、ラビたちがこれを解説しました。イエス様も会堂で教えられたことが何度もあります。そのとき、安息日なのに体の不自由な人や病人を治してあげました。律法学者たちは「どうして安息日を破るのか」と批判しました。イエス様は、安息日は人のためにあることを教え、安息のない人たちに本当の安息を与えました。

 では、なぜ、クリスチャンは日曜日、公同の礼拝をささげるようになったのでしょうか?それは、イエスさまが復活したのが日曜日の朝だったからです。ヨハネ20:19「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」最初の日曜日はトマスがいませんでした。八日後にイエス様は再び弟子たちの前に現れました。ユダヤ人の数え方では、次の日曜日のことです。その時、トマスは「私の主、私の神」と言いました。おそらく、そのときトマスは復活のイエス様を礼拝したのではないかと思います。初代教会にも日曜日に集まっている記事があります。使徒20:7「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」とあります。また、パウロがこのように言っています。Ⅰコリント16:2「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」おそらく、コリント教会の人たちは、日曜日に礼拝を持っていたと思われます。旧約聖書では、イスラエルの民がエジプトから贖われたということで、主を礼拝しました。新約聖書の私たちは、イエス・キリストによって罪から贖われたゆえに礼拝をささげるように求められています。かつてのイスラエルが土曜日を安息日として聖なる日として定めていました。新約の私たちは、主が復活された日曜日を聖なる日として、公同の礼拝をささげているのです。「日曜日に神さまを礼拝せよ」とは聖書に書かれていません。これは、イエス様が復活された日曜日から、2000年間、守ってきた、いわば習慣であります。「聖日礼拝厳守」を強調する教会があります。大川牧師も「はってでも来い」と言いました。私はそれを真に受けて、礼拝を休んだことはありません。ただし、26歳、町田に住んでいた頃、午前中パーマをかけにいきました。これが意外と時間がかかり、12時を過ぎてしまいました。副牧師の吉永先生が「それではビデオを用意します」と言って、14インチのテレビで礼拝を守りました。

 結論的に言いますと、聖日礼拝を守るということは律法ではありません。また、守るということばも消極的です。聖日礼拝は天国に行くための顔つなぎではありません。「忘れられないように、月に1回くらいは行こうか」という人がいます。聖日礼拝は特権であります。なぜなら、礼拝に行きたくても、行けない人がたくさんいるからです。教会が近くにないとか、健康上無理な場合もあります。聖日礼拝と関係のあるみことばは、これだと思います。マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」日曜日、仕事や家事で、礼拝に来られないという人がいらっしゃいます。もちろん、他の日に礼拝しても構いません。日曜日がお仕事の場合は、月曜日でも、火曜日でもある時間を聖別して礼拝を持てば良いと思います。ただし、「公同の礼拝を日曜日にささげたい」と祈り求めるならば不可能ではないと思います。京都に「ハレルヤ!バーバー」という床屋さんがありますが、日曜日は休みにしているそうです。組合からもいろいろ言われましたが、お客さんの数は減るどころか増えたそうです。若い人がデートする場合、「私は日曜日の午前中、教会に行きます」とはっきり言うべきです。相手がそれで去るなら、みこころではないのです。むしろ、「一緒に礼拝に行きましょう!」と誘うのです。「私と結婚したいなら、クリスチャンになれなければ無理!」と言って良いのです。ダニエルは禁止されても、日に3度、主を礼拝しました。迫害にあいましたが、やがて国の最も高い位につきました。私たちも、創造主であり、贖い主である神さまを礼拝しましょう。そうするなら、すべてのものは添えて与えられます。


2.聖日礼拝の方法

 教会の聖日礼拝の仕方は教団教派によって随分と異なります。多くの場合、順番が細かく決められています。当教会の場合は、賛美と祈りとメッセージとシンプルになっています。礼拝学というのがあって、礼典的な式次第の根拠になっているようです。初代教会がそのような礼拝を守っていたのかどうか定かではありません。コリントの教会の集まりを見ますと、ものすごく過激です。預言や異言がふんだんにありました。また、エペソの教会は私たちが歌うような賛美とは少し異なるようです。エペソ5:19「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」とあります。詩篇などのみことばに即興的に曲をつけた賛美がありました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」また、歌詞と曲が即興的な「霊の歌」があったと思われます。コリントの教会もそうですが、そういうことができるのは多くて20名くらいではないかと思われます。こういう礼拝堂では、前から準備されていた曲を賛美する方が秩序的に問題ないと思います。誰かが突然、立って「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」と歌ったなら、10名くらい帰るかもしれません。礼拝スタイルは文化とか伝統があるので、何とも言えません。こういう形式が良くて、こういうのが悪いとは言えません。私たちは一度、慣れてしまうと、「これが良い」と思うようになります。たとえば、私たちは祈るとき、自然に手を組みます。しかし、親指の上下を替えたなら、自分の手ではないように感じます。「宗教の霊」というのがあるかもしれませんが、私たちは一定の儀式を好むという性質があるようです。伝統や風習が神さまを礼拝するという本質よりも、重要視されると問題であります。ヨハネ4:24 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」とあるからです。

 神さまを礼拝することが目的ですから、礼拝の方法はさほど重要ではありません。それよりも、礼拝において最も意識しなければならない事柄があります。それは何でしょう?神さまを礼拝することについては、旧約聖書のレビ記に記されています。「レビ記が礼拝の手引き」であります。礼拝は神さまに近づき、神さまと交わる行為でした。しかし、私たちには罪がありますので、そのままでは神さまに近づくことができません。それで、旧約の人たちは、牛や羊、ヤギなどの動物を祭壇にささげました。祭司たちは、それをほふり、血を注ぎかけました。そして、脂肪や内臓の一部を火で焼いて煙にしました。ある場合は、焼いた肉を一緒に食べました。とにかく、罪ある人間が、手ぶらで神さまの前に出ることは不可能でした。必ず何らかの犠牲が必要ですが、最も重要なのは、きよい動物の血を祭壇に注ぐということでした。命である血を流さなければ、罪を取り除くことができないからです。大祭司も年に一度、イスラエルの代表として、きよい動物の血をたずさえて至聖所に入りました。レビ記にはいろいろな種類の犠牲や儀式が記されています。神さまに近づき、神さまを礼拝するためには、きよい動物を生贄としてささげる必要がありました。しかし、これに終止符を打ったのがイエス・キリストの十字架であります。ヘブル人への手紙は「旧約でささげられていた動物の生贄はもう不要である」と書いています。ヘブル9:11-12「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事柄の大祭司として来られ、…やぎと小牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」アーメン。動物の血では限界がありました。ところが、キリストご自身の血によって、ただ一度で、永遠の贖いが成し遂げられたのです。ヘブル人への手紙9、10章には、「ただ一度」あるいは「一つ」ということばが、7回記されています。もう、生贄は不要なのです。なぜなら、キリストが一回で永遠の贖いを成し遂げられたからです。ただし、私たちが神さまに近づくとき、つまり礼拝するとき必要な事柄があります。それは、キリストの血であります。キリストの血が私たちの良心をきよめ、罪責感を取り除いてくださるからです。神さまの方はいつでも、私たちを迎えてくださいます。問題は、私たちの良心です。私たちがキリストの血を仰ぐとき、良心がもう罪を意識しなくなるのです。私たちはキリストの血を通して、神さまに近づき、神さまを礼拝することができるのです。

 カトリックのミサは聖書的ではありません。なぜなら、キリストの犠牲が今も、繰り返されているからです。十字架にキリストがつけられ、今も血を流しておられます。人々はその前で罪を懺悔するかもしれません。一時的には、罪の意識がなくなるかもしれません。彼らは罪の赦しを得るために、償いとして良いことをしなければなりません。でも、どのくらい良いことをしたら、良心の呵責から解放されるのでしょうか?基準はありません。それは、まさしく死んだ行いです。ヘブル9:14-15「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」アーメン。私たちは古い契約ではなく、新しい契約の中にいるのです。イエス・キリストが古い契約の違反をご自分の命で贖ってくださいました。それだけではありません。イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。ヘブル10:19と22「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。…そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」キリストの血が私たちの良心をきよめてくださいます。また、私たちはキリストの血を通して、神さまに近づき、礼拝することができるのです。つまり、礼拝はすばらしい特権であり、しなければならない律法ではなりません。イエス・キリストが一度で、すべての罪を取り除き、神さまへの道を設けてくださいました。私たちはいつでも、大胆に恵みの座に近づくことができるのです。


3.聖日礼拝の結果

 皆さんは、何が目的で聖日礼拝に来られるのでしょうか?中には、神さまから祝福を得るために礼拝に来られる人がいます。また、ある人たちは講壇から語られる牧師のメッセージを聞きに来るかもしれません。また、ある人たちは賛美が好きで、教会に来ると心が洗われるからということで来るかもしれません。しかし、礼拝は何かを神さまからいただくために来るのではありません。神社とか何かの偶像礼拝は何か願い事をします。そして、何かのご利益を求めます。礼拝というよりも、願い事を聞いてもらうために頭を下げます。そして、いくらかのお賽銭をささげます。重大な願い事は、清水の舞台から飛び降りるつもりで、一万円札をささげるかもしれません。私たちの礼拝は神さまから何かをいただくために来るのではありません。礼拝を神さまにささげるために来るのです。もっと言うと、私たち自身を神さまにささげるのが礼拝です。ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」アフリカのある村で礼拝中、献金の籠が回されました。一人の女の子はささげるものがありませんでした。最後に籠が講壇の手前に置かれました。彼女は前に進み出て、自分が籠の上に乗ったそうです。死んだ生贄は旧約聖書のときのことです。イエス・キリストが贖いを成し遂げられたので、もう生贄は不要です。でも、今度は、私たちのからだを、聖い生きた供え物としてささげるのです。パウロはそれが理にかなう礼拝だと言っています。「霊的な礼拝」とは英語では、reasonable serviceと書かれているからです。ですから、礼拝はテレビとかインターネットではできません。体が家にあって、横になっている状態であるなら、神さまにささげることにはならないからです。ある人は「礼拝に行きたいという気持ち、心はあるのですが…」と言い訳します。心と体の両方が神さまにささげられるべきです。つまり、物理的な問題や経済的な犠牲を乗り越える必要があるということです。

 このように礼拝は創造主であり、贖い主である神さまに私たちの方から礼拝をささげる必要があります。聖書では初なりという最初に取れた物を主にささげなさいとあります。日曜日は一週間の始まりであり、この大切な時間を主にささげます。聖日礼拝は私たちが神さまを第一にしていることの証です。しかし、神さまは礼拝者に対して、必ず祝福をお与えになります。決して、手ぶらではお返しになりません。では、神さまを礼拝するとどんな良い結果が訪れるのでしょうか?まず、第一に、私たちの心が神さま向けられるので、神さまから信仰が与えられます。ふだんの私たちは問題や悩みに集中しています。「あれしなければならない」「これがうまくいかない」「あれはどうしよう?」そういう問題に心が引きずられています。でも、日常性を一旦、断ち切って、こういうところで主を賛美し、聖書からメッセージを聞いて祈りをささげます。するとどうなるのでしょうか?「ああ、神さまにはできる。神さまにゆだねながら行おう。必要なものは神さまがくださるんだ。なぜなら、神さまが私の世界を支配しておられるからだ。」このような信仰がやってきます。世の中の人は、こういう機会がないので、ずーっと問題と悩みの中に振り回され、埋没して生きています。お酒やレジャーで気を紛らわしても限界があります。私たちは上を見上げるときに、天が開け、「神さまが必要を与えて下さる」と信じることができます。第二は、私たちの霊と魂がリニュアルされます。「神は霊ですから」とありましたが、私たちも霊です。神さまの霊と私たちの霊が交わったらどうなるでしょうか?私たちの霊がきよめられ、元気づけられます。ダビデは詩篇23篇「主は私のたましいを生き返らせ、…私の頭に油をそそいでくださいます」と言いました。まさしく、そのようなことが起こるのです。私たちはだれかと一緒にいるとその人の影響を受けます。もし、主なる神さまと一緒に過ごすなら、モーセの顔のように栄光を帯びるのです。第三は聖書のみことばによって自分の思いが変えられます。私たちの中で私たちを動かしているのは「思い」あるいは「考え」です。感情がその後についてきます。感情を変えるまえに、「思い」や「考え」を変えなければなりません。聖書のみことばがその役割をはたしてくれます。ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」アーメン。世の中には私の話よりも、ためになる講演がたくさんあるでしょう。しかし、説教は単なる話ではなく、聖書からのメッセージです。今、神さまが私たちに語っておられる、生きた神さまのことばです。神さまはあえて、説教者を用いられるようです。唇が清められてなかったり、人格的な欠けがあったりします。でも、説教者が聖書のことばから何かを宣言します。そのとき、あなたを縛っているロープが切られ、サタンの欺きから解放されるのです。第四はさまざまな祝福が解き放たれます。私はさまざまな祝福がもたらされるように祈ったり、メッセージしたりします。心や体の癒し、手のわざが祝されるように、尾にはならないで頭になるように、神の知恵や能力が与えられるように、赦しが与えられるように、信仰が与えられるように、聖霊に満たされるように…そうすると、だれか必要な人にヒットするのです。

ある教会では「きよめ」しか語りません。すると「きよめ」が与えられても、他のものが与えられません。ある教会では「魂の救い」しか語りません。すると、「魂の救い」が与えられても、他のものが与えられません。ですから、できるだけ神さまが持っておられるすべてのもが解き放たれるように宣言するのです。私たちの神さまは全能であり、万能です。偶像の神様は、「商売繁盛は良いけど、子宝や安産は別の神さまへ」と言うかもしれません。しかし、私たちの神さまは全能であり、万能です。キリストの神さまは、私たちを愛しておられ、良いものを与えたいと願っておられます。それは子どもを心から愛しているお父さんと同じです。私たちが神さまをキリストを通して、礼拝するとき、神さまは喜んで、私たちに必要なものを与えてくださいます。ですから、私たちは神さまを第一に求め、神さまを礼拝することを大切にしましょう。このみことばは、神さまからの約束です。詩篇91:16「わたしは、彼(彼女)を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」


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