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2014年10月26日 (日)

聖徒の交わり       エペソ2:11-22

聖徒の交わり       エペソ2:11-22     2014.10.26

 使徒信条というのがありまして、毎週、唱えている教会もあります。その中に「聖徒の交わり」というのがあります。聖徒とはイエス様を信じて救われた人たちです。「交わり」というのは、ギリシャ語でコイノーニアと言います。もともとは、「共有している」「分け前に与かる」という動詞から来ています。私たちは何かを共有し、何かの分け前に与っているので、互いに交わることができるのです。この世では、利害関係、恋愛関係、家族関係、会社での上下関係などの関係が良く知られています。では、聖徒と呼ばれるクリスチャンの関係はどういうものなのでしょうか?


1.交わりの基盤

 家族関係の基盤は、血縁によって成り立っています。父と母から生まれた「きょうだい」がいます。祖父や祖母がいるでしょう。おじさんやおばさん、いとこ、はとこもいます。現在ではDNA鑑定が良く知られていますが、どこか似たようなパターンがそこにはあるでしょう。「血は水よりも濃い」ということばがありますが、血の繋がった身内の絆の濃さを表しています。実は、クリスチャンも神の家族と呼ばれています。エペソ2:19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」私たちの父は、天の父であり、天地を造られた神さまです。日曜学校の子どもは「天の母はいるのですか」と質問します。ローマ・カトリックでは「聖母マリヤ」と呼んで、信仰的な母性を補っています。しかし、天の神さまの中に、母性が含まれているので問題はありません。私たちはイエス・キリストによって贖われた存在です。以前は、神さまから離れて、孤児のようにさまよっていました。自分の本当の身分を知らないで、失われた存在でした。しかし、キリストが十字架の血潮によって、罪の中から買い戻してくださいました。私たちはイエス様を信じたゆえに、神の子どもとなり、神さまを天のお父様と呼べるようになったのです。本来は、イエス様だけが神さまの子どもです。しかし、私たちは養子として迎えられ、御国の相続者になったのです。ですから、私たちの交わりの土台は、キリストの贖いです。十字架の血潮で贖われたゆえに、神の家族の一員となれたのです。ハレルヤ!

しかし、昨日まで「赤の他人」であった者同士が、兄弟姉妹になることができるのでしょうか?私が初めて教会に来たとき、大変おどろきました。週報に○○兄、○○姉と書いてありました。また牧師先生も、○○兄弟、○○姉妹と呼んでいました。「ああ、この教会は親族でなりたっているんだなー」と思いました。しかし、洗礼を受けた後、「鈴木兄弟」とよばれて、奇妙に感じました。男性から呼ばれると、「あなたと私とそんなに親しい関係なのか?気安く呼ぶなよ!」と思いました。しかし、女性から「鈴木兄弟」と呼ばれると、悪い気はしませんでした。私は教会に来る前は、土木現場で働いていたので、女性とあまり口をきいたことがありませんでした。大体、女性と話す機会などなかったので、「教会っていい所だなー」と思いました。しかし、長く教会生活をしていて「神の家族における兄弟姉妹の関係は意外にもろいものだなー」と思いました。洗礼を受けて、兄弟姉妹の仲だったのに、何らかの理由で教会に来なくなりました。他の教会に転会したのなら分かりますが、音信不通になるケースがよくあります。何らかの問題で躓いたとか、迫害にあって来られないとか、いろんな理由があるかもしれません。一般の家庭では、家族の一員がいなくなったら大変なことになります。連絡が取れない場合は、警察に捜索願を出すかもしれません。しかし、神の家族では、「最近、来なくなったねー。何かあったのかしら?」でおしまいです。「こんな薄っぺらい兄弟姉妹っているのかな?」とこちらが躓いてしまいます。本来なら、滅びから永遠の御国に入れられた運命共同体のはずです。聖徒の交わりは、この地上だけではなく、永遠の御国に至るまでの交わりのはずです。なぜ、私たちの交わりは神の家族と言いながら、壊れやすく、薄っぺらいものなのでしょうか?

 1つは、真の交わりをしていないということです。本当の家族なら、欠点や弱さをさらけ出すので、衝突したり喧嘩もするでしょう。しかし、教会では「聖徒」という仮面をかぶって、素を出さないようにしています。また、あんまり近づくと衝突する恐れがあるので距離を取り、さしさわりのないような、付き合い方をしています。これまで、人間関係ではさんざんイヤな思いをしてきたので、深入りしたくない気持ちもわかります。そのため、礼拝で説教を聞いたら、他の人と話さないで帰る人もいます。伝統的な教会は、「礼拝を守ったら、無駄話しをしないで、さっさと帰るように」と言われるようです。なぜなら、兄弟姉妹が一緒にお茶を飲むと、噂話をしたり、だれかの悪口を言うので良くないからです。教会で飲んだり食べたりすると、「教会はサロンではない」と言います。確かに、ローマ14:17「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」と書いてあります。そこには、説教者と会衆の関係はあるかもしれませんが、お互いの関係は二次的なものになります。それでは、私たちは「神の家族であり、互いに兄弟姉妹である」という真理は絵に書いた餅なのでしょうか?ヨハネは第一の手紙で兄弟姉妹の交わりについてこのように教えています。Ⅰヨハネ1:3「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」このみことばには、2つの意味があります。第一は、私たちの交わりは、御父および御子イエス・キリストとの交わりが基盤になっているということです。お互いを見る前に、父なる神さまと、イエス様の関係があります。私たちは父なる神さまから造られ、イエス・キリストによって罪から贖われた存在です。私たちは同じ神さまを礼拝し、神さまの命をいただいています。第二は、私たちの交わりは、私たちの交わりが、御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に加えられているということです。これはえらいことです。御父と御子イエス・キリスト様がどんなに親しく交わっているのでしょうか。その交わりの中に、私たちも加えられているということです。私たちの霊と神さまの霊が交流しているので、私たち同志の霊も魂も交流することが可能になります。なぜなら、神の霊である聖霊が、神さまと私たちの交わり、私たち同志の交わりを取り持っていてくださるからです。


2.交わりの発展

 私たちが霊的に生まれ変わり、神の家族に加えられたからと言って、自動的に兄弟姉妹の交わりができるわけではありません。私たちは肉体的に生まれたとき、どうだったでしょうか?お母さんから1から十まで世話をしていただいたと思います。そのうちだんだん、ことばを話して、お母さんやお父さんと話すことができました。肉にある兄弟姉妹がいたかもしれません。泣いたり、喧嘩しながら、「ああ、人間関係はこういうふうに築き上げるんだ」と理屈なしで覚えたと思います。霊にある兄弟姉妹も、洗礼を受けたから、「互いに愛し合いましょう」と言われても無理です。多くの場合は、生育史においていろんな心の傷を受けています。母親から基本的信頼感を受けたでしょうか?父親が社会的な関係のすばらしさを教えてくれたでしょうか?家庭できょうだいが助け合い、愛し合ったでしょうか?理想の家庭が100点だったなら、何点ぐらいだったでしょうか?50点いかないのではないでしょうか?何をもって点数つけるかというのも、主観的であり、何とも言えません。結構、恵まれた家庭に育ちながら、私は愛されなかったと受け取る場合もあるからです。大体、教会は神の家族と言われるので、家庭の延長上にあると言っても間違いありません。ある人は父母から得られなかった愛を教会のだれかから得ようとします。また、自分の兄弟の恨みを教会のだれかに晴らす場合もないとは言えません。世の中の関係をそのまま、教会の中に持ち込む場合だってあります。若い人が多い教会は、異性問題が起こることが良くあります。いわゆる怨念晴らしを教会という場所で行うと、教会は荒野のようになります。クリスチャンは律法があるので、相手をさばくことが簡単にできます。世の中の人はこれくらいじゃさばなかいので、教会の外の方が気楽になります。ですから、私たちは神さまのもとで、互いに愛し合うということを体得しなければなりません。時には傷つけ合い、時には失敗しながら、主にある兄弟姉妹の関係が築き上げられていくのです。

 ヨハネは第一の手紙でこのように言っています。Ⅰヨハネ2:7-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」では、古い命令(戒め)とは何でしょうか?イエス様は律法の中で一番重要なものはこれとこれですと教えられたことがあります。第一は、心を尽くして力を尽くして主なる神さまを愛することです。第二は、隣人を自分のように愛することです。これは旧約聖書の数ある律法をたった2つにまとめたものです。でも、ヨハネはここで、「私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります」と言っています。では、どのようにして、古い命令が新しい命令になったのでしょうか?エペソ2:16「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」アーメン。私たちは、以前は遠く離れていた存在でした。しかし、キリストの血によって近い者とされました。そして、お互いが持っている敵意が壊され、新しい一人のからだの中に加えられたのです。私たちは肉のままでは、なかなか兄弟姉妹と親しく交わることができません。しかし、キリストを間に置いて、交わるときにお互いが持っている敵意が取り除かれ、兄弟姉妹として交わることができるのです。いわば、キリスト様は私たちのクッション、緩衝役のようなお方であります。お互いがキリスト様を通して、見るのです。そうすると、欠点やイヤなところも、愛すべき存在として見えてきます。

 教会はいわば愛を学ぶところであります。柏に『人生やり直し道場』という教会があります。教会も「愛を学ぶ道場」であります。天国に行くまでは、みんな工事中です。完全な人はいません。工事中の標識を見たことがあるでしょうか?ヘルメットをかぶったおじさんが、「ただ今工事中です。何かとご迷惑をおかけします」とペコリしているではないでしょうか?私たちは工事中のマークを胸に貼っておくべきです。「私の近くに穴ぼこがありますよ。躓かないでくださいね。」天に召された三浦綾子先生が天国と地獄の夢と見たそうです。地獄に行くと、テーブルには山海の珍味、ごちそうが山のように盛りつけられていました。全く、地獄とは思えません。テーブルについている人たちは体を椅子にゆわえられていました。また、左手には長いフォーク、右手には長いナイフが結わえられていました。柄が長いので、料理を取っても自分の口に運ぶことができません。みんなイライラして、最後には長いフォークやナイフでチャンバラを始めました。あたりいっぱいに料理がちらかっていました。こんどは二階の天国に行きました。テーブルには山海の珍味、ごちそうが山のように盛りつけられていました。同じように、テーブルについている人たちは体を椅子にゆわえられていました。また、左手には長いフォーク、右手には長いナイフが結わえられていました。ここまでは地獄と同じです。しかし、彼らは「何が食べたいの」と聞きながら、長いフォークを向かいの人の口に運んでいました。向かいの人も「何が食べたいの」と聞いて、それを取ってあげていました。備えられているものが同じなのに、これだけ違うのかなと思いました。福音書にはゴールデン・ルールがあります。マタイ7:12「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

 ヨハネは教会には3種類の人がいると言っています。まず、小さい者たちと子どもたちです。彼らは罪が赦されていることと、父なる神さまを知らなければなりません。ある人たちは、罪責感から解放されないままで、教会から去っていきます。次が若者たちです。彼らは悪い者に打ち勝つ必要があります。悪い者とは私たちの肉に戦いを挑む悪魔です。もし、悪い者に打ち勝たないならどうなるでしょう。羊なのに頭に角が生えてきて、教会に問題をもたらす人になります。そして、父たちがいます。これらの人は成熟したクリスチャンです。彼らは父なる神さまの計画を知っています。その計画とは、私たちはやがて神さまの御住まいになるということです。そして、父たちは小さい者たちと子どもを養育し、若い者たちの模範になります。このようにして、教会は互いに責任を負い合いながら、キリストの満ち満ちた身丈にまで達していくのです。


3.交わりの目的

 交わりというのは、ただ仲良くしていれば良いというものではありません。そこには目的があります。エペソ2:21-22「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」使徒パウロは、教会を3つのものにたとえています。第一は神の家族、第二はキリストのからだ、第三は神の宮です。私たちはキリストという礎石にたてられた建物と言うことができます。昔は、1つ1つ石を積み重ねて神殿を作りました。私たち一人一人は生ける石(Ⅰペテロ2:5)であります。生ける石ですから、口があり、目があり、心があります。でも、山から取り出された石はどうでしょうか?角が出っ張っていたり、ざらざらしていたり、大きすぎたりして神殿の石として用いることはできません。同じように、救われた時の私たちは個性が強くて、人と協力することができません。心の傷があって、すぐにすねたりするでしょう。御霊ではなく、肉でやっているかもしれません。みんなと組むよりは、自分一人でやっている方が気楽かもしれません。では、どうしたら神殿の石として、用いられるのでしょうか?やっぱり、形を整えなければなりません。ある時はノミで削られたりするでしょう。「いたーい。やめてくれ!」と叫ぶかもしれません。あなたを整える専門家がいます。エペソ4:11-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。「聖徒たちを整える」とありますが、まさしく、神殿の石になるように整えられるということです。

 エペソ人への手紙の2章、3章、4章によく出てくることばがあります。それは、「建てられる」あるいは「建て上げる」ということばです。ギリシャ語では、オイコドメオーですが、「建物を建てる」の他にも意味があります。「人を向上させる」「信仰を強める」「その品性を高める」などです。日本語の聖書には「徳を高める」と訳されています。「徳を高める」と言われても、何なのか分かりにくいところがあります。英語ではedify, build upであり、「向上させる」とか、「建て上げる」という意味があります。端的に言いますと、私たちの交わりの目的は、建て上げるためにあるということです。私たちが神の神殿となるために、互いに建て上げ合うということです。もし、私たちが神の神殿として建て上げられたらどうなるでしょうか?神さまがその真中にお住みになります。エペソ2:21-22「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」ハレルヤ!これこそが、神さまが願っていることなのです。神さまは天にお住まいになっておられますが、同時に、私たちのところにも住まいたいのです。やがて、この地上の教会は花嫁として、天に引き上げられます。その後はどうなるのでしょうか?黙示録21章には完成された神殿があります。正確には神殿という建物はなくて、聖所だけです。黙示録21:16「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。」黙示録21:22「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」アーメン、そこには私たちが目指すゴールがあります。神さまは私たちと永遠にお住になる、天の新しいエルサレムを用意しておられます。そこに、私たちの教会だけではなく、世界中の教会も組み入れられることでしょう。

 では、地上の教会とは何なのでしょうか?それは、天の新しいエルサレムの準備段階です。地上にあっても、神さまが願われるような神殿を建てるならば、三位一体の神様がそこに住んでくださいます。神さまが住んでくださるなら、神さまの祝福が自然にあふれることでしょう。すべてを持っておられる神さまがおられるのですから、すべてのことに満ち足りることができます。では、私たちの交わりで最も重要なことは何なのでしょうか?それは互いに建て上げあうということです。建て上げあうことの中にどのような事柄が含まれているでしょうか?励ますこと、愛すること、教えること、勧めること、祈ること、助けること、戒めることも入るでしょう。そうやって私たちは形が整えられ、他の生ける石とも組み合わされます。生ける石、一個だけでは、神さまは住むことはできません。また、生ける石が、組み合わされないで山積みになっている教会もあるかもしれません。わーすごい数だ、でも、組み合わされていなければ、建物にはなりません。神さまはその場に臨在するかもしれません。しかし、そこに住むことはできません。なぜなら、神殿になっていないからです。ある人たちは2-3人で集まって、「セルです。家の教会です」と主張するかもしれません。セルやハウスチャーチは「1つの部屋、1つのパーツも大事だよ」ということを再発見させてくれました。でも、それは1つの部屋であって、建物とは言えません。建物には玄関の他にいろんなパーツが必要です。つまり、1つの部屋しかない家はありません。複数の部屋が結合して、家になります。神の神殿もそれと同じで、そう単純ではありません。アメリカとかアフリカに行くとものすごいクリスチャンの数です。中国も1億人以上はいるでしょう。10年くらい前にインドネシアのアバラブ教会主催の集会に行ったことがあります。1万5000人くらい集まっていたと思います。1つのセクションが300人くらいだったかもしれません。私は遠くからそれを見て、ああ、亀有教会も1つのセクションくらいは欲しいなと思いました。大きさはともかく、当亀有教会も大きな神の神殿の一部になっていることを忘れてはいけません。

 エペソ2:19以降もう一度お読みいたします。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。…この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

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2014年10月12日 (日)

赦しによる健康法       ヘブル12:14-17

 私たちは農薬や合成保存料を食べ物と一緒に体に入れています。肌につける化粧品なども、体の中にしみこんで毒になるものもあります。車の排気ガスや中国から飛んでくるPM2.5も体に良くないです。世の中ではデトックス(解毒)という健康法があります。たとえば岩盤浴などで、汗をかくと、内側から老廃物が出てくるそうです。また、食べ物でも毒を中和して体の外へ出してくれるものあるようです。私たちは肉体の健康に気を使っていますが、心はどうでしょうか?多くの人たちが、うつ病や神経症に悩まされています。病院に行っても、これと言う治療法がありません。しかし、聖書のみことばは癒しを与える薬があります。それは旧約(旧薬)と新約(新薬)です。きょうは、心の健康を保つために重要なことをお話ししたいと思います。


1.赦さないことによる毒

 ヘブル12:15「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」と言われています。「苦い」は英語で、bitternessです。ギリシャ語ではピクリアと言いますが「苦々しい感情、憤慨、立腹」という意味です。私たちの心を土地にたとえるなら、悪感情によって苦い根が生えてしまうということです。悪いものが根から枝を伝わって、やがて、それが実となります。その実とは、やはり苦い実です。怒り、憤り、うつ、さばき、自己憐憫の実です。周りの人が、その実によって汚されるということです。私たちのまわりにそういう人はいないでしょうか?その人と会った後、なんだか気持ちが重たくなるということがないでしょうか?私たちは日々、不当な扱いを受けたり、だれかのせいで損害を受けたり、失敗したりします。また、日々の会話の中で、傷つけられるようなことばを受けるかもしれません。私たちはそのとき、怒りや憤りを覚えるでしょう。「もう、赦さない」と心に誓うかもしれません。もし、そのままにするならどういうことになるでしょう。怒りや憤りが心の深いところ、つまり潜在意識の中に沈みこみます。それらが結合して、やがて毒素の塊になります。表面から分かりませんが、時々その毒が浮いてきます。そうすると、自分自身を悩まし、さらには他の人を汚してしまうようになります。アメリカで化学工場から出た廃棄物をドラム缶につめこんで、地下何十メートル下に埋設しました。後からそこにたくさんの住宅が建ちました。20年くらいたって、住んでいる人たちが原因不明の病気にかかりました。いろんな調査がなされましたが、後から、地下の廃棄物から有毒な化学物質が漏れているのが分かりました。一度埋めたものを取り除くために、莫大なお金がかかったそうです。

 では、この話は本当に聖書的なのでしょうか?不当な扱いを受けても、怒ってはいけないのでしょうか?エペソ4:26-27 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」使徒パウロは、怒りは必ずしも罪ではないと言っています。イエス様も宮が汚されているのを見て、怒ったことがあります。聖なるものが汚されたり、不正がなされるのと見ると、義憤というものが起こります。正義を行うためには、正しい怒りがあるでしょう。しかし、この怒りは、自分が被害を受けたり、傷つけられたことから来たものです。怒りは感情であり、自動的な反応です。しかし、この怒りを正しく扱わないで持ち越すと罪を犯すことになるということです。パウロは「日が暮れるまで憤ったままではいけません」と言いました。これは怒りや憤りを、次の日まで持ち越してしまうと心の深いところに根を張るということです。これが「苦い根」であり、「毒性の廃棄物」です。そのままにしておくと大変なことになります。パウロは「悪魔に機会を与えることになるから」と注意しています。そうです。また同じようなことが起こると、その怒りが倍増して、大爆発を引き起こしてしまうということです。たまりにたまっていた負のエネルギーが「どかーん」と大爆発するのです。そういう人は普段から我慢している人が多いです。また、外に向かって出さない人は、自分の中にしまいこんでしまいます。自分の中で爆発するので、それがうつになります。うつのすべての原因がそうではありませんが、かなりの割合で隠された怒りが原因しているとあるカウンセラーが言っておりました。あなたは怒りを外に向かって、つまり他の人に出す方でしょうか?それとも内に秘めて、自分を攻撃し、うつになるタイプでしょうか?どちらも、不健康です。「苦い根」あるいは「毒性の廃棄物」からいろんな病気を引き起こします。肉体的には心臓病、関節炎、癌などがあります。心においては、いろんな情緒的問題を引き起こします。

私は秋田の出身ですが、自殺率がとても高いところです。あるサイトには、19年連続で全国最高の状態が続いていると書いてありました。また、がんの発生率、脳卒中もトップです。専門家は高齢化とか経済問題と言うかもしれません。しかし、私が育った経験から申しますと、裏日本は天候が悪いです。いつもどんより曇っています。また、秋田の人はとても忍耐強く、我慢する人たちが多いです。怒りや悲しみをあまり外に出しません。表向きは平静をよそっています。多くの場合、お酒を飲んで、うさを晴らしています。だから、飲酒の量が多いのです。自分の怒りや悲しみを出さないで、心の奥底に秘めているために、いろんな問題が起こるのではないかと思います。秋田だけではなく、日本人は感情を外に出さない国民として知られています。昔、ディズニーのテレビ番組でやっていました。日本人は家族団らんでテレビを見ています。ほとんど笑いません。しかし、アメリカや他の国は、「わぁー」とか、ものすごいリアクションです。おそらく、中国や韓国なども感情をあらわにする国民だと思います。私がテレビを見ていると、「わぁー」「ぎゃー」とか反応するので、家内から「あっちへ行って」と言われます。私は、心はアメリカ人なのかもしれません。とにかく、私たちは怒りや憤り、憂いを貯めてしまうなら、あとでとんでもないことが起こるということを忘れてはいけません。苦い根を張って自分も人々も汚してしまいます。また、「毒性の廃棄物」が心の底から表面に染み込んで大変なことになります。私たちはこれらに蓋をするのではなく、ちゃんと向き合い、取り除く必要があります。


2.赦さないことによる束縛

 赦すということは、復讐する権利を放棄するということです。私たちは傷を受け、何等かの損害を受けました。それなのに、相手はのうのうと暮らしています。「赦してください」の一言もありません。お詫びも償いもありません。それなのに、簡単に赦して良いのでしょうか?大体、傷つけた人と傷つけられた人の痛みの度合いが全く違います。たとえば、満員電車の中でハイヒールで踏まれたとします。踏まれた方は「痛ーい!」と叫ぶでしょう。しかし、踏んだ方は「あーら、ごめんなさい」と謝るかもしれません。でも、踏んだ方はほとんど痛みはありません。つまり、被害者というのは、痛みがあり、それがいつまでも継続するということです。傷や虐待が大きい場合はトラウマになります。何度も、それが浮かび上がってきては、本人を苦しめます。ある夫婦が一人息子を悲惨な事故で失いました。お二人は悲しいだけではなく、神さまに対して怒っています。友人たちがお悔みに来ました。しかし、「あなたがたは私たちの痛みと苦しみを分かってくれないだろう」と言いました。友人たちが何度も訪問したのですが、「あなたがたには決して分からない」と慰めを拒絶しました。そのご夫婦は、加害者だけではなく、神さまさえも恨んでいます。「なんで、あんなことになってしまったんだ。息子がかわいそうだ!」とテープレコーダーを回すように思い出しては泣いていました。それで、だんだん訪問する友人も少なくなりました。そのご夫婦は悲しみの中から立ち上がることをしませんでした。彼らは「自分たちは被害者だ」という意識から立ち直ることができませんでした。こういう意味で、一度、起きてしまった悲しい出来事を忘れるということは困難です。今も、天災や事故で身内を失った人たちが、座り込んだまま、立ち直れない人がたくさんいると思います。心の奥底に沈んでしまった怒りや悲しみが根を張って、引き抜くことが不可能なようです。

 箴言17:22「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」心の問題が、いろんな病をもたらすということは事実です。一人のご婦人がチョー・ヨンギ牧師のところに癒しを求めてきました。彼女は身なりも立派で、学校の校長先生でした。しかし、重い間接痛で悩んでいました。体中がいたくて、立つのも座るのも容易でありません。どの医者に行っても、どんな薬を飲んでも癒されませんでした。チョー先生はあらん限りの声を上げて、病が癒されるように祈りました。しかし、全く癒されませんでした。そのとき、ある思いがチョー先生の中に浮かびました。「あなたは前の夫と離婚していませんね」と言いました。「いいえ、私は10年前、夫と離婚しました」。「いいえ、あなたは前の夫を呪って、恨んでいます。心の中ではあなたはご主人と暮らしています。あなたが抱いているご主人に対する炎のような憎しみが、あなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです」と言いました。彼女は感情をあらわにして言いました。「そうです。でも、あの人は本当にひどい仕打ちをしたのです。私がせっかく得たお金を湯水にように使いました。その後には、私をあっさり捨てて、別の女のところへ行ったのよ。何で、赦すことができるの!」と言いました。チョー先生は「ああ、そうですか。それではあなたの関節痛もなおりませんね。あなたの赦さない罪が病気を引き起こしているのです。前の夫を赦しなさい。愛して、祝福しなさい」と言いました。激しい葛藤の中で「そんなことはとてもできることではありません」と言いました。もう一度、勧めると、彼女は目をつぶりました。突然、しぼり出すような声をあげて「神さまどうぞ、主人を祝福してくださーい。」と祈りました。それから3か月後、彼女の関節痛が完全に癒されたそうです。私たちも、憎しみを自分の中から追放しないと、神の力が私たちの中から流れ出すことはないということです。

 イエス様は、マタイ6:15 で「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」と言われました。また、ルカ6:37「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」と書いてあります。では、赦しは自分が赦されるための条件なのでしょうか?厳密にはそうではありません。神さまは無条件な愛の持ち主ですから、どんな罪をも悔い改めるならば、赦してくださいます。しかし、これらのことばは矛盾しているようです。「人を赦さないなら、神さまも自分の罪を赦してくださらない」と言っているからです。しかし、私はこれが本当の意味だと思います。私たちは心の深いところに良心をもっています。ある学者は「良心は霊の一部である」と言っています。この良心が私たちを訴えるのです。もし、私が「Aさんの罪は決して赦すことができない」と、心の金庫にしまいこんで鍵をかけているとします。では、もし、私がAさんと同じような罪を他のだれかにしたらどうなるでしょうか?私はその人には「ごめんなさい」と謝れるかもしれません。しかし、天の父に「どうか、私の罪を赦してください」と祈れるでしょうか?私は祈る前に「ああ、私はAさんの罪を赦していないよなー」と思い出します。そうすると、良心が「人の罪を赦さないでおいて、自分の罪は赦してくださいと祈るのは虫が良すぎるのでは?」と咎めます。すると、「ああ、そうだよな」と途中で祈るのをやめます。「金庫から出して赦すくらいなら、このままでいいや」と思うのです。ある人たちは、地下の廃棄物から有毒な化学物質が漏れているに気付いていません。

 アフリカのある村の人たちが川の水を飲んで病気になりました。その川は山から流れる清い水で知られていました。調査団が川の上流へと向かいました。きれいな水が、泉からこんこんと湧いていました。上から見たら、何も問題がないように思えました。「底に何かあるのでは」と何人かの潜水夫が潜りました。そうすると、川が流れる水門の底に、豚の親子の死体がひっかかっていました。おそらく、水を飲みに来た豚の親子がおぼれ死んで、川底に沈んでしまったのでしょう。死体が腐って、それが毒素となって下流に流れていたのです。原因を取り除いたら、また水が飲めるようになったそうです。イエス様を信じると私たちの中に聖霊による清いいのちの泉が与えられます。やがてそれが川となってあふれ出ると聖書に書いてあります。しかし、私たちが怒りや憤り、恨みや悲しみでとどめておいたならどうなるでしょう。清い水がとどめられるばかりか、死の毒が心と体に回ってしまうでしょう。ぜひとも、私たちは赦さないという罪を捨てて、神さまからあふれるばかりの恵みをいただく者となりたいと思います。


3.赦しとは何か

 ある人たちは赦す感情が起きたら赦そうと思っています。しかし、赦しは感情ではなく、「赦します」という決断であり、意志の問題です。また、ある人たちは赦すことと忘れることを一緒にしています。赦すことは必ずしも忘れることではありません。私たちには記憶がありますので、忘れたくても忘れられません。これは傷痕と同じで、赦すことによって解放されると、記憶があっても痛みがないのです。また、ある人たちは相手が「赦してください。悔い改めます」と言ったら赦すという人もいます。もちろん、相手が謝罪してくれたらありがたいのですが、それを待っていたらいつになるか分かりません。相手の罪に対するさばきは主にゆだねるのです。そして、自分は自分の責任を果たすということです。では、簡単に赦しとは何なのでしょうか?赦しというのは、復讐したい権利を神さまにゆだねて、放棄するということです。ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」神さまにゆだねると、怒りから解放されます。だけど、「神さま、あいつに復讐してやってください。ぎゃふんと言わせてください」と祈るのは問題かもしれません。確かにダビデは「復讐してください」と祈りました。でも、私たちはイエス様の恵みを受けて、もう一歩進むべきです。イエス様はマタイ5章で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。そして、イエス様ご自身が十字架で自らを殺す者たちに対して「父よ、彼らを赦してください」と祈られました。ですから、赦して、敵対する者のために祈るということは、奇跡であります。生身の私たちができることではありません。はっきりいって、キリスト教は道徳ではなく、奇跡の宗教です。

 また、赦しというのは、神さまに従うことであります。なぜなら、神さまが赦してあげなさいと命じておられるからです。イエス様はルカ17章で「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と言われました。これに対して、使徒たちは「私たちの信仰を増してください。」と願いました。彼らは信仰がなければ、人の罪を赦せないと考えたからでしょう。ルカ17:6しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。イエス様は「桑の木に『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる」とおっしゃられました。桑の木と言うのは、根が地中に張って、なかなか抜けない木だということです。まるでそれは、私たちの心の中に赦せないという「苦い根」が張っている状態と似ています。「赦すなんて無理です。できっこありません」と答えるでしょう。でも、イエス様は「苦い根に『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる」とからし種ほどの信仰があればそれができるとおっしゃられました。しかし、その直後にこのように話されました。ルカ17:7-10「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」赦しとは何でしょう?どうしたら人の罪を赦せるのでしょうか?使徒たちは「信仰を増してください」と願いました。これに対してイエス様は信仰ではなく、従順であることを教えました。このしもべがそうであります。主人がその人の罪を赦しなさいと命じたなら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言えばよいのです。私たちは神さまが赦してやりなさいと言われるから、赦すのです。これが神さまに従う、クリスチャンの生き方です。

 私は25歳のときイエス様を信じて、洗礼を受けました。あんまりうれしくて、彼女や友人にも神さまのすばらしさを語りました。会うたびごとに、神さまのことを語り、「教会に行こう」と無理やり誘いました。洗礼を受けた1か月後、付き合っていた彼女から「別れてほしい」と一方的に言われました。青天の霹靂とはこのことです。後から、彼女が友人のアパートに行っているということが分かりました。私は夜も眠れず、布団の上をごろごろ転がっていました。そして、台所から包丁をもって二人を殺してやろうと思いました。私たちはテレビでそういう事件をよく見ますが、本当に他人事ではありませんでした。私を導いてくれた先輩が、ローマ12章「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」というみことばで私を思いとどまらせてくれました。私は毎週の礼拝でおいおい泣いてました。あんまり泣いていたので、大川牧師が心配してくださいました。それから、私は献身し、その後、今の家内と結婚し、可愛い子供たちが与えられました。神さまには他のすばらしい計画があったのです。エディ・レオ師がこのように言っていました。「イエス様は目の中の丸太とちりの話をしたことがあります。ちりとは木を切ったときの、木くず(チップ)です。私たちはあることが原因で、怒りと憎しみを爆発させるかもしれません。それは、心の深いところからチップが出てきたのと同じです。すぐ、そのチップを捕まえて、神さまのところに持っていきなさい。必要な場合は悔い改めて、それを放棄しなさい。48時間過ぎてしまうと、心の深い所に沈み込んで、処理できなくなります」と。人を赦さないのは罪であります。なぜなら、神さまが赦しなさいと命じておられるのに、自分が赦さないからです。もし、心の深いところに許さない罪をため込んでいるなら、心も体もその毒によってやられてしまいます。自分を傷つけた加害者のためではなく、自分のために、その人の罪を赦しましょう。そして、神さまを仰いで、晴れ晴れとした信仰生活を歩みましょう。


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つまずきに打ち勝つ     マルコ4:16-17

教会では「つまずく」ということがしばしばあります。ある出来事でつまずいた、あるいは人につまずいたということで教会を去る人たちがいます。牧師につまずいたというケースもあるでしょう。しかし、当時の人たちはイエス様につまずきました。つまずく人が悪いのでしょうか?つまずかせる人が悪いのでしょうか?イエス様は「つまずきが起こるのは避けられない」(ルカ17:1)と言われました。この世においては、つまずきがありえるということです。「つまずき」はギリシャ語で「スカンダロン」と言います。私たちがよく聞く「スキャンダル」の語源でもあります。本来は「罠の餌をつける棒」という意味で、鳥を捕まえるときに用いたと思われます。70人訳では「罠」またはその「餌」と訳しています。私たちの敵であるサタンが巧妙な罠をしかけます。人がその餌に食らいつくとき、つまずいてしまうのです。その結果、人間関係が壊れたり、教会を去って、信仰さえもなくしてしまうのです。より良い信仰生活を送るために「つまずきに打ち勝つ」と題して聖書から共に学びたいと思います。


1.根を張る

 イエス様は4つの土地に蒔かれた種のたとえ話を語られました。第二番目の種はどこに落ちたのでしょうか?マルコ4:16-17「同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」このことばは、イエス様のたとえの解釈の部分です。土地が問題なのでしょうか?あるいは種が問題なのでしょうか?もし、土地に問題があるなら、運命論的になり、種には責任がないことになります。しかし、イエス様は「岩地に蒔かれる人」とおっしゃっているので、岩地と種の両方がその人の特徴になっています。また、このところに、「つまずく」という言葉が出ています。この人はなぜ、つまずいてしまったのでしょう?しっかり根を張らなかったためです。植物や樹木が根を張らないと、風で倒れたり、日照りで枯れてしまうでしょう。私たちクリスチャンは地域教会に植えられた存在です。なぜなら、私たちは自分の意志で地域教会を選んだというよりは、神さまに導かれたからです。神さまは私たちをある地域教会に植えて、そこで実を結ぶように計画しておられます。洗礼を受けるまでは、歓迎されて教会生活が楽しいかもしれません。しかし、1、2年たつと救われた喜びも冷めて来るし、兄弟姉妹や牧師の欠点が見えてきます。サタンは「今がチャンスだ」とばかり、巧妙な罠をしかけます。ちょうど何か起こって、腹を立ててしまいました。怒りとさばく気持ちが抑えきれず教会に行かなくなりました。これが、教会につまずくということです。つまずいた人は、サタンに騙されているので、自分だけが正しいと思い込んでいます。「自分は不当な扱いを受けた被害者なんだ」と、自分ばかりに目が行きます。

『人につまずくとき』の著者ジョン・ビビアはその本の中でこう語っています。「今日、指導者たちの間に誤りを見つけると、あまりにも簡単に人々が教会を去っているように思います。牧師の献金を募るやり方が気に入らないとか、あるいは、お金の使われ方に反対するといったことによるかもしれません。また、牧師のメッセージが気に入らないと教会を離れてしまいます。牧師が手の届かない存在であってもいやだし、またあまり親しすぎても批判の対象になります。このようにあげていくときりがありません。そういう人たちは、希望を持ち続けながら困難に直面するのではなく、何も問題もない場所に逃げ込むのです。問題から逃げないようにしましょう。イエスだけが完全な牧者なのです。難しい問題を解決せず、どうしてそこから逃げて行くのでしょうか。もし問題に直面しないままなら、私たちの心はつまずいたままでいます。」ジョン・ビビアは「まるでカフェテリアのように教会を移動している」と述べていました。さきほど申しましたが、神さまがあなたをその場所に植えたのです。しかし、サタンがあなたをそこから引き出そうと人間関係でつまずくようにしているのです。もし、「神さまがその教会を出なさい」と言われ、イザヤ55:12「安らかに導かれて出て行く」のなら別です。それ以外は、多少問題があろうとそこにとどまるべきです。もし、植物や実のなる木が「この場所はいやだ。移し替えてくれ」と言っていたならどうなるでしょう。農夫が「わかった」と言って、抜いたり、植えたりしていると根も木もダメになって、実を結ぶことはできません。いったん神さまが置かれた場所を去ると、根が縮み始めます。次に同じような場所に遭遇したとき、いとも簡単に逃げることができるのです。その人自身が根が深く張らないようにしているからです。そしてついに、迫害や困難に耐える力がほとんどないか、もしくは全くない状態になってしまいます。

もし、前の教会をさばいたり、問題を批判的に暴露して教会を出たならどうなるでしょう?その人が新しい牧師と教会の指導者たちに、前の教会でしたのと同じように反応しはじめるのは時間の問題です。なぜなら、人に対する怒りを心に持ち続けるなら、すべてのものをそのフィルターを通して見てしまうからです。この状況にぴったりの古いことわざがあります。開拓時代に人々が西へ移動している時のことです。ある賢人が、西部の新しい町の頂に立っていました。東部から来た人たちがその町に入る時、まずその賢人に出会うのでした。人々はその賢人に、この町の人たちはどんな人かと熱心に聞きました。その賢人は質問に答える代りに、逆にこのような質問をしました。「あなたが以前住んでいた町の人たちは、どんな人でしたか?」ある人はこう答えました。「私たちの住んでいた町は、とても悪い所だった。町の人々は、無礼でいつも陰口をたたき、罪もない人たちを利用していた。泥棒と嘘つきに満ちた町だったのさ。」そこで、賢人はこう答えました。「この町も、あなたがいたその町と全く同じです。」人々は、自分たちがまたも同じ問題に引き込まれなくてよかったと言って、その賢人に感謝しながら、さらに西部へと進んで行きました。それから別のグループがやって来ました。前の人たちと同じことを聞きました。「この町は、どんな町ですか。」賢人はまたも尋ねました。「あなたがいた町は、どんな町でしたか?」この人たちはこう答えました。「やあ、そこはとてもすばらしい町でした!すばらしい友達もいたし、みんなが他人のために何かをしていました。みんなでお互いを助け合っていたので、何にも不自由しませんでした。もし誰かが、何か大きな仕事をかかえていたら、町全体で助け合ったものです。だから、私たちにとっては、その町を離れる決心をするのはとても難しいことでした。でも、子孫のためには、どうしても開拓者として西部に行って、道を切り開かなければならないという結論に至ったのです。」その年老いた賢人は、前のグループに行ったのと全く同じ言葉を、彼らにも言いました。「この町は、あなたが住んでいた町と全く同じです。」その人たちは、それを聞いて喜び、「よし、それではここに移り住もう!」と言ったのでした。これは、前の教会とそこでの人間関係からどのように去ったかが、これから入ろうとする新しい教会とそこでの人間関係を決めてしまうということです。もし、心に恨みと苦々しい思いを持ったまま、教会もしくは人間関係から去るなら、次の教会に行っても、または新しい人間関係を結んでも、同じ心の態度が出てしまうのです。

本来はつまずきを乗り越えて信仰的に成長すべきであります。しかし、つまずきから立ち直れない一番の要素は何でしょうか?その人は、「私は不当な扱いを受けて傷つけられたんだ」という被害者意識を持っています。そういうプライドが自分の本当の姿を見えなくさせているのです。サタンの策略とは、その人のプライドを使って、つまずいた状態に閉じ込めておくことです。Ⅱテモテ2:25-26「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」その人は悪魔から騙されているのです。人につまずいてしまった人たちを大きく二つに分けることができます。人から実際不当な扱いを受けた人たちと、人から不当な扱いを受けたと信じている人たちです。後者の人たちは、自分たちの判断がどこか歪曲されています。でも、一旦騙されてしまえば、たとえ自分が間違っていても、自分は正しいと思いこんでしまうものです。パウロは「悪魔に捕らえられている人でも、悔い改めることによって、目ざめてそのわなを逃れることもある」と言っています。悔い改めとは、自分のプライドを捨てて心の変化を期待するということです。神さまの前に出て、「私は決して赦さないという権利を握っていました。しかし、赦さない権利をあなたの前に手放します。どうか、私の目を開いて、自分の本当の姿を見ることができるように助けてください」と祈ります。そうすることは、私たちの根を神さまにぐっと伸ばしていることになります。神さまに告白すると、私たちの中にある苦々しさや赦せない気持ちや怒りから解放されます。そして、「私にも自分の義を押し通すところがあったな-」と悔い改めます。そうすると神さまは私たちに新しい心を与えてくださり、同時に悪魔の罠から解放してくださいます。イエス様は「つまずきが起こるのは避けられない」と言われました。でも、この人がつまずき打ち勝ち、根を深く降ろすならどうなるでしょう。神さまからますます力と恵みをいただき成長し、豊かな実を結ぶことができるでしょう。


2.岩に土台する

 私たちは岩に土台することによって、つまずきに打ち勝つことができます。マタイ7章後半には2種類の家のたとえ話が記されています。1つ目は砂の上に建てられた家です。2つ目は岩の上に建てられた家です。砂の上に建てられた家は、嵐が来る前まではちゃんと建っていました。しかし、雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けると倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。岩の上に建てられた家はそれでも倒れませんでした。なぜなら、岩の上に建てられていたからです。雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けるということは、イエス様が言われた「つまずきが起こるのは避けられない」ということです。だれの人生にでも、雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けるような試練があるからです。では、岩とは何でしょう?また、岩の上に建てられるとはどういう意味でしょうか?もし、このことを理解するなら、つまずきに打ち勝ち、主の御栄えを現わすことができます。マタイ福音書で「岩」ということばが出てくるのはマタイ16章です。イエス様が「私をだれと言いますか」と弟子たちに聞かれました。そのとき、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。イエス様は非常に感激し、「このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいます私の父です」と言われました。つまり、これは人間の知恵や知識ではなく、神さまからの啓示であるということです。さらにイエス様は「あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。ペテロはギリシャ語では「小さな岩」あるいは「石ころ」という意味です。「この岩」はとは、イエス様ご自身であると考えられます。なぜなら、イエス様が神の宮の礎石だからです。ペテロは「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」(Ⅰペテロ2:5)と言いました。ということは、石ころが大きな岩の一部となれば、強くて安定するということです。私たちが嵐のように襲ってくるつまずきに勝利するためには2つのことが必要だということです。それは、神から啓示されたことばと、岩なるキリストに土台するということです。

 第一は神から啓示されたことばです。ペテロは父なる神さまから啓示されて、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白することができました。聖書の勉強をしたり、聖句を暗唱することはとても良いことです。パウロは「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」(Ⅰコリント8:1)と言いました。なぜなら、雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けるようなつまずきの嵐には知識があっても役に立たないからです。あのたとえは、マタイ7章は山の上の説教の結論になっています。両者とも主のみことばを聞いて学んでいました。しかし、砂の上に建てた人は、ことばを聞いても行わなかった人です。ですから、大切なのは多くの聖書知識よりも、みことばを実際の生活で適用することなのです。当時の律法学者やパリサイ人は聖書のことばを人々に教えるくらい良く知っていました。でも、彼らは実行しませんでした。やがて、彼らはイエス・キリストにつまずいてしまいました。イエス様のご生涯で最も人気があったときは、5つのパンと2匹の魚で5000人もの人たちを養ったことです。その時、人々は「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言って、イエス様を王様にしようとしました。しかし、その後、イエス様は人々に不可解なことをおっしゃられました。ヨハネ6:53-54「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」弟子たちの多くの者が、これを聞いて「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておれようか」と言いました。「そして、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って、もはやイエスとともに歩かなかった」と書いてあります。イエス様は12弟子に向かって、「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」と言われました。このときペテロは「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは永遠の命を持っておられます」と答えました。イエス様の人気はガタ落ちで、多くの弟子たちでさえもつまずいて去って行きました。なぜ、ペテロはつまずかなかったのでしょう?イエスさまがおっしゃったことばが、神からの啓示として分かったからです。他の人はイエス様のことばは聞きましたが、霊によって理解することができませんでした。イエス様は「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」と言われました。肉とは私たちの良い行いや私たちの知識や理解力です。御霊が与えるいのちは、神からの啓示されたことばによって与えられるものです。私たちは聖書を読むとき、あるいはこのようにメッセージを聞くとき、霊によって理解し、神さまからの啓示をいただかなければなりません。頭だけで理解すると知識が増して高慢になります。そうすると、彼らのように頭で理解できない時につまずきます。私たちは、人生において決断しなければならない岐路に立たされることがあります。教会で洗礼を受けるとき、学校や職業を選ぶとき、だれかと結婚するとき、家を建てたりするとき、お仕事でもあるかもしれません。そのとき、神から啓示された聖書のことばに立つべきです。自分の頭や人の意見に立ってはいけません。あとで、「あの人がこういったから」と後悔します。そうではなく、「主が確かにこのみことばを与えて下さったんだ。アーメン」と神からの啓示のことばに立つべきです。そうすると、不景気の嵐、離婚の嵐、裏切りの嵐がやってきても、つまずくことはありません。

 第二は岩なるキリストご自身に土台するということです。ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えたとき、イエス様からほめられました。しかし、イエス様が十字架の死を話した直後、「そんなことがあなたに起こるはずはありません」と答えました。それで、「下がれ、サタン、あなたは私の邪魔をするものだ」としこたま叱られました。その後、ヨハネ6章で「肉を食べ、血を飲む」という主のことばもつまずかないで、理解できました。実はペテロを含めて12弟子はイエス様のことを正しく理解していなかったのです。また、彼らの動機も不純でした。彼らは「イエスさまが王様になったら、だれが右に座り、だれが左に座れるか」議論していました。イエス様はヨハネ6章で「そのうちのひとりは悪魔です」とおっしゃいました。なぜなら、12弟子のひとりであった、イスカリオテ・ユダがイエス様を売ろうとしていたからです。では、ペテロは大丈夫だったのでしょうか?イエス様は十字架にかかられる前の夜、このように言われました。マタイ26:31-33「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」「あっぱれ」としか言えないような立派な答えです。ルカ福音書で、イエス様は「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言われました。イエス様はペテロが激しいふるいから逃れるようにとは祈りませんでした。しかし、イエス様はペテロの信仰がなくならないようにと祈りました。でも、ペテロは十字架の前に恐れをなして、つまずきました。他の弟子たちもつまずきました。復活の朝、女性たちがお墓に行きました。そのとき、御使いは彼女らに、お弟子たちとペテロに、「イエスはあなたがより先にガリラヤに行かれます」と言いなさいと命じました。あえて、「ペテロに」と特別に名指ししたのは意味があります。

 建物に雨が降り洪水が押し寄せて、風が打ち付けるとどうなるのでしょうか?その建物が何に土台しているか露わにされます。ペテロは何度か嵐に持ちこたえました。しかし、最後につまずきの嵐にまみえたとき、自分が生けるキリストに頼っていないということが分かったのです。ペテロが頼っていたのは、自分の意志、自分の熱心さ、自分の信念でした。外側から見たなら、立派なキリストの弟子でした。しかし、サタンからの激しいふるいにかけられたとき、すべてが暴露されました。「ああ、私は本当にささげきっていない。自分はイエス様を利用していただけなんだ」と分かったのです。それは、イスカリオテ・ユダも同じでした。イスカリオテ・ユダもイエス様につまずいたので、銀貨30枚で売ったのです。彼は後から「私は罪のない人の血を打った」と告白しました。しかし、シモン・ペテロのように善なる主を信じて、主のところには行きませんでした。ペテロはもはや、自分は偉大であると誇れなくなりました。ペテロは自らに対する自信を失った代わりに、主イエス・キリストに全面的に頼るようになりました。ペテロがペンテコステの朝、説教すると、3000人の人が救われました。試練を乗り越えたペテロは初代教会のリーダーとして用いられました。つまずきの試練を受けると心の中にあるものが露わにされます。神さまは、つまずきに打ち勝ち、信仰的にさらにアップすることを願っておられます。Ⅰペテロ1:7「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」この世においては、つまずきが起こるのは避けられないでしょう。しかし、私たちはキリストに深く根を降ろし、キリストに深く土台して、つまずきを乗り越えます、そして、主の恵みによって成長に、御栄えを現わす者となりたいと思います。


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2014年10月 5日 (日)

最後の預言者    マラキ1:1-8

最後の預言者        マラキ1:1-8       2014.10.5

 旧約聖書の人物から学んできましたが、本日が50回目で最後になりました。前回はネヘミヤについて学びました。ネヘミヤは52日間で城壁を完成しました。さらに12年間かけて霊的なエルサレムの城壁を再建しました。その後どうなったのでしょう?ネヘミヤ記13章に書いてありますが、ネヘミヤはしばらくたってから再び、王様からいとまを請い、エルサレムに帰ってきました。そこには祭司たちの堕落ぶりが記されています。ネヘミヤはささげ物、安息日、結婚のことでユダ人たちを詰問しています。おそらく、マラキはネヘミヤが不在のときに、活躍した預言者ではないかと思われます。ユダヤ人たちは3つのことに対して無感覚でした。


1.神の愛に対する無感覚

 ユダヤ人たちは神の愛に対して無感覚でした。沢村五郎師の『聖書人物伝』にはこのように書かれています。「ユダヤ人の罪は、終わりに近づくにしたがっていよいよその度を加え、ついに癒しがたい絶望的状態となった。凍死するものは初めは寒さや痛さを感じているが、最後には無感覚となって死の眠りに陥るというが、ユダヤ人の終局状態もまた無感覚であった」。マラキ1:12前半「わたしはあなたがたを愛している」と【主】は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。これまで、私たちはイスラエルの歴史を学んできました。イスラエルのもとの名前はヤコブです。本来はお兄さんのエサウが家督を継ぐべき存在でした。しかし、エサウは一杯の食物と引き換えに、長子の権利を売ってしまいました。さらにヤコブは目が見えなくなった父イサクから祝福までもだまし取りました。人間的にヤコブはひどい人物でした。しかし、主の見方は違っていました。「わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とする」(マラキ1:12-13)と言われました。ヤコブは神さまのfavor愛顧をいただき、イスラエルという名前を与えられ、地境を広げさせてくださいました。やがて、イスラエルから12部族が誕生しました。彼らはこれまで特別に愛されてきたのです。しかし、「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と文句を言いました。

ヤコブは押しのける者、欺く者でありました。彼に値打ちがあったのではなく、神さまの愛によって一方的に選ばれたのです。そういう点では、私たちも同じです。Ⅰヨハネ4:10 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」私たちは以前、神さまの愛に対しては全く無感覚でした。この世を愛し、楽しみを愛し、自分を愛していました。「愛」という本当の意味すらも、分かりませんでした。私は23歳のとき現場監督から貿易事務に転職しました。その時の職場の先輩はクリスチャンでした。「神さまがいるなら、見せてください」と悪態をついていました。しかし、仕事においては全く素人だったので、1から10までお世話になりました。私が失敗した時は、「たかが仕事じゃないか。仕事よりももっと大切なものがあるよ」と言われました。「ああ、この人は他の人と違うなー」と思いました。ある時、先輩のデスクを見たとき、透明なカバーの下に、英語でタイプした紙がはさんでありました。「これなんですか?」と聞くと、「聖書のことばだよ」と言いました。そこには、Love isなんとかと書いてありました。あとから、それがⅠコリント13章「愛は寛容であり、情け深い」ということばでした。私はLoveということばで聖書に対して心が開かれました。その前に、クリスチャンの先輩が、私を愛してくれていたんです。でも、十字架の愛に気付いたのは洗礼を受けてから半年後でした。その教会では、水曜日の祈祷会を一般の信徒が司会することになっていました。そして、司会の特権として一曲リクエストすることができました。ある時、私が司会をしたとき、聖歌402「丘にたてる荒削りの」を選びました。後で、オルガンを弾いてくれた姉妹に感謝するために行きました。その姉妹は「涙がうるんできてよく弾けませんでした」と言いました。私は「ここにも十字架で感動している人がいるんだ」と教会の集まりが好きになりました。私は牧師になって、30年近くなりますが、十字架の愛をいつでも新鮮に受け止める者でありたいと思っています。

 イスラエルの罪は神さまの愛と恵みに慣れっこになり、当たり前のように思っていました。彼らはエジプトから奇跡的に救われました。荒野ではマナが降り、岩から水がわき出ました。カナンにおいても勝利から勝利を収めることができました。ところが、カナンに定住したとたん、異教徒と妥協し、彼らの神を拝むようになりました。やがて、自分たちにも他の国のように王をくださいと願いました。本来は神さまが王であるのに、人間の王を求めました。それから堕落の一途をたどって、最後にはアッシリヤやバビロンに滅ぼされました。しかし、神のあわれみによって70年後、戻ってくることができました。神殿が再建され、城壁も修復されました。でも、彼らは再び、律法から離れ、異教徒の娘をめとりました。そのとき、預言者マラキが立ち上がりました。「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられると告げました。しかし、彼らは「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか?」と答えたのです。これまでの主の愛と恵みを忘れていました。いや、当たり前のように思っていたのです。私たちは偶然に救われたのではありません。教会につながり信仰を持ち続けているのは、自分の真面目さや意志ではありません。主の恵みとあわれみです。なぜなら、多くの人たちが洗礼を受けても、教会を離れてしまうからです。もちろん、みなが信仰を失ったわけではないでしょう。黙示録2章にはエペソの教会に対することばが記されています。これは、世の終わりに住む私たちへの警告でもあります。黙示録2:4-5「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」アーメン。初めの愛とは、イエス様の十字架の愛です。もし、神への愛に対して無感覚になっているなら、十字架の愛に立ち返りましょう。


2.神の権威に対する無感覚

 マラキ1:6「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる──わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。」イスラエルは神を知っていました。神に選ばれた民であることを誇りに思っていました。しかし、彼らの行動と生活は、これを否定していました。神を神としてあがめず、父として仕えず、主として敬っていませんでした。彼らは「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」と文句を言いました。まったく、神様の権威に対して、無感覚でした。これに対して、マラキは主のみことばを伝えました。マラキ1:7-8「あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。──万軍の【主】は仰せられる──」神へのささげ物は傷のない羊、あるいは傷のない牛でなければなりませんでした。しかし、彼らは健全な家畜が惜しくなり、長生きしそうもない障害のあるものや病気の家畜を犠牲のために携えてくるようになりました。その頃、ペルシヤの総督がエルサレムに来ていました。「その総督に、こんな障害のあるものや病気の家畜を贈り物として差し出してみよ。総督は快く受け入れるだろうか」と主は言われました。『聖書人物伝』で沢村五郎師は、「地上の代官にさえなしえない無礼な行為を、王の王、主の主なる万軍の主に対してなすとは、何と恐ろしい不敬罪であろう。それをさえ自覚しない彼らの堕落腐敗はもはや絶望的であった」と言っています。 

 大川牧師が子供のときのことです。昭和の初期、牧師家族は清貧に甘んずる模範を示す必要がありました。当時は卵が高級品でした。ある晩、めずらしく卵を食べることができました。お母さんは次の朝、卵の殻を新聞紙にくるんで捨てたそうです。また、あるとき、教会員が「これ使ってください」と欠けた茶碗や使い古した物を持ってきました。大川牧師は中学生のとき「教会は偽善者の集まりだ。教会に火をつけてやろう」と思ったそうです。教会と神さまが同じだとは思いません。しかし、「自分たちの献金が牧師給になり、教会の活動を維持しているんだ」と考えるのは行き過ぎです。もし、献金を天国の税金のように考えるならどうなるでしょう?税金を納めるときは「高かったなー」とがっかりします。しかし、献金は神さまにささげるささげ物です。なぜなら、空気や光、地下資源、この命すらも神さまからいただているからです。ましてはクリスチャンは永遠の滅びから、永遠の御国へと運命が変えられた存在です。感謝しても感謝しきれません。でも、私たちもイスラエルのように神さまに対して無感覚になる恐れがあります。時間と精力と持ち物の一番良いものは自分のために使って、神のためには残りものをささげているかもしれません。「若い力と感激に燃えよ、若人胸を張れ」という歌があります。スポーツも良いでしょうが、どうして若い力を神さまにささげないのでしょうか。「金貨と銅貨がけんかした」という童話があります。あるとき、金貨が銅貨を侮って、「お前の顔は何と輝きのないおそまつなものだろう。お前が何枚集まっても、おれ一枚の値打ちもないからな」と言いました。銅貨も負けていません。「お前さんは色こそきれいで、値打ちがあろうが、使われるところはお茶屋の支払いか、酒屋の支払い、せいぜいデパートのご用ぐらいが関の山だろう。一度でも、神棚や、さい銭箱にささげられて、神務めをした覚えがあるか?そこへ至っては、手前こそいつも尊い神への奉仕をうけ持っている」と言ったそうです。何という皮肉でしょうか。聖歌338「いとも良きものを君にささげよ。あつきなが心、若き力を」という献身の歌があります。

 さらに、万軍の主は仰せられました。マラキ3:8-9「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」イスラエルの人たちは収穫物、つまり穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一を神さまにささげることが定められていました。さらに、誓願のささげ物や牛や羊の初子、初なりのものをささげました。神に仕えるレビ人がこれらのささげ物によって生活していました。主は「あなたがたは神のものを盗んでいる」と言いました。何という厳しいことばでしょう。本来、聖書に一ケ所だけ、神さまを試して良いという箇所があります。マラキ3:10-11「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の【主】は仰せられる──」十分の一を主の前にささげるなら2つのことが起こります。第一は主が天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福を注いでくださいます。第二は主が畑のまわりに柵を設けて下さり、害虫が食べないようにしてくださいます。しかし、実際に、これはささげてみないと分からないことです。だから、主は「試してみよ」と主のことばを伝えているのです。ある人たちは、「これらは旧約聖書であり、新約の私たちには関係ないのではないか?」と言います。私も質問されるときは、「律法ではなく、信仰によってささげれば良いのですよ」と答えます。でも、新約聖書の方がもっと厳しいかもしれません。Ⅰコリント6:20「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」新約の私たちは、十分の一はもちろんそうですが、十分の九に対しても責任があります。献金の元になるものはだれがくださったのでしょうか?神さまがくださったものを、私たちがささげているのです。でも、神さまはささげる人には、蒔く種のように、何倍、何十倍にも帰してくださることも事実です。


3.家庭の罪に対する無感覚

 城壁を捕囚したネヘミヤは一度ペルシヤに戻り、数年後、再び戻ってきました。するとどんなことが起きていたでしょうか?マラキ2:14-16「ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行われている。まことにユダは、主の愛された【主】の聖所を汚し、a外国の神の娘をめとった。」異教徒との結婚は、やがて不信仰の罪に至ります。これに対し、ネヘミヤもエズラもきびしく指導しました。しかし、マラキは「あなたがたはもう1つのことをしている。あながたは、涙と悲鳴と嘆きで、主の祭壇を覆っている」と言いました。マラキ2:14-16「『なぜなのか』とあなたがたは言う。それは【主】が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。『わたしは、離婚を憎む』とイスラエルの神、【主】は仰せられる。」神さまは「私は離婚を憎む」とおっしゃっているのに「なぜなのか?」という無感覚さです。このところに、離婚すると霊的にどのようなことが起こるのか記されています。結婚して二人が交わると、肉体だけではなく、霊も交わります。その後、別れたならどうなるでしょう?二枚のベニヤ板をドンドで付けたとします。渇いた後、この二枚をはがすとどうなるでしょうか?ベリベリという音がして、「片方の木片がこっちに、片方の木片があっちに」と言うことが起こります。これが霊の世界でも起こるということです。だから、主は「あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない」と二度もおっしゃっているのです。

現代の離婚率は3分の1以上だと言われています。世界で一番離婚率の高いところはロシアです。インドネシアのエディレオがウラジオストックにセミナーに出かけることがあります。賛美も女性、ギターも女性、司会者も女性だそうです。そして、先生が父の愛について語ると女性たちは床に倒れて、激しく泣くそうです。ロシアでは寒いので夫がウォッカを飲んで酔っ払い、妻を打ちたたくそうです。そのため離婚し、妻や子供たちも傷ついています。しかし、ロシアだけではありません。フランスやイタリヤ、イギリス、かつてキリスト教国だった国の結婚が壊れています。結婚をせずに子供を産んだり、同性婚すらも認められるようになったからです。私生児というのは元来、恥ずかしいことだったのに、現代では1つの選択肢になっています。結婚は社会が決めた制度ではなく、「二人が一体となるように」と神さまが定めた契約です。アメリカでは未信者の離婚率とクリスチャンの離婚率が同じだそうです。信仰が全く、歯止めになっていません。これは1つの社会現象ではありません。サタンが背後にいて、家庭を破壊しているのです。創世記3章においてサタンはアダムとサタンの間を引き裂きました。その後、カインが弟アベルを殺しました。戦争と離婚はサタンのリバイバルと言っても過言ではありません。私たちは夫婦の関係を与えられた家庭を当たり前と思わないで、大事にしていきたいと思います。

ジョエル・オスティーンのディボーションから引用します。私たちは常に奇跡に囲まれています。あなたがある人と出会って恋に落ちたこともその1つです。私たちはきょうの日が、ユニークでかけがえのないことを悟らなければなりません。すべての人たち、特に若い人たちへの良い模範だった一人組の老夫婦を紹介します。二人は何十年もの結婚生活で、正直で互いに尊敬しあっていました。ところが、80歳の半ばで夫人が主のみもとに召されました。葬儀のとき、彼女の夫がこのようなことを語りました。「15年くらい前、私は心臓発作で倒れました。妻が病院に駆けつけ、私にこう言いました。『あなた、今回のことで人生がどんなにはかないものか分かりました。これから毎晩、ベッドで眠る前に私はあなたに7回キスをしたいです。そして、お互いの生活が当たり前でないことを忘れないようにしましょう。』それから妻は15年間、寝る前、一度も忘れることなく、私に7回キスをしてくれました。妻は火曜日、主のみもとに行きました。しかし、月曜日の夜、私に7回キスをしてくれました。」なんと、すばらしい証でしょうか。

最後のマラキ書4章には主の来臨について記されています。世の終わりに、主がこの地上にやってこられるという預言です。旧約聖書の最後のページです。マラキ4:2-3「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。」義の太陽とは再臨のイエス様です。その時、死んだ肉体が復活するでしょう。まるで、牛舎から外に出る子牛のようにはね回ることでしょう。そして、悪者どもはさばかれ、灰のようになります。でも、主は、その前にチャンスを与えたいと願っておられます。マラキ4:5-6「見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」預言者エリヤについては既に学びました。彼は竜巻によって天に上げられました。そのエリヤが世の終わりに再び来るという預言です。実際はバプテスマのヨハネのことであります。彼はイエス様が公生涯を始める前に、荒野で叫んで、道を整えました。不思議なことに「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」と書いてあります。世の終わりには家庭が崩壊し、父が子供から離れ、子供も父から離れる。しかし、エリヤが来て、父と子の間を回復するということです。父は家庭において、父なる神を代表しています。家庭に父がいないと、子供は神さまを信じることが困難になります。現代は父親不在の時代です。しかし、教会は父親の存在目的を回復し、一人でも多くの子供たちが、父なる神さまを信じるように手助けしたいと思います。きょうは3つのことを学びました。神の愛と神の権威と家庭の罪とに対する無感覚さです。私たちはこのような無感覚に陥ることのないように、神の霊によって燃やされ、刷新されていきたいと願います。


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