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2014年10月26日 (日)

聖徒の交わり       エペソ2:11-22

聖徒の交わり       エペソ2:11-22     2014.10.26

 使徒信条というのがありまして、毎週、唱えている教会もあります。その中に「聖徒の交わり」というのがあります。聖徒とはイエス様を信じて救われた人たちです。「交わり」というのは、ギリシャ語でコイノーニアと言います。もともとは、「共有している」「分け前に与かる」という動詞から来ています。私たちは何かを共有し、何かの分け前に与っているので、互いに交わることができるのです。この世では、利害関係、恋愛関係、家族関係、会社での上下関係などの関係が良く知られています。では、聖徒と呼ばれるクリスチャンの関係はどういうものなのでしょうか?


1.交わりの基盤

 家族関係の基盤は、血縁によって成り立っています。父と母から生まれた「きょうだい」がいます。祖父や祖母がいるでしょう。おじさんやおばさん、いとこ、はとこもいます。現在ではDNA鑑定が良く知られていますが、どこか似たようなパターンがそこにはあるでしょう。「血は水よりも濃い」ということばがありますが、血の繋がった身内の絆の濃さを表しています。実は、クリスチャンも神の家族と呼ばれています。エペソ2:19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」私たちの父は、天の父であり、天地を造られた神さまです。日曜学校の子どもは「天の母はいるのですか」と質問します。ローマ・カトリックでは「聖母マリヤ」と呼んで、信仰的な母性を補っています。しかし、天の神さまの中に、母性が含まれているので問題はありません。私たちはイエス・キリストによって贖われた存在です。以前は、神さまから離れて、孤児のようにさまよっていました。自分の本当の身分を知らないで、失われた存在でした。しかし、キリストが十字架の血潮によって、罪の中から買い戻してくださいました。私たちはイエス様を信じたゆえに、神の子どもとなり、神さまを天のお父様と呼べるようになったのです。本来は、イエス様だけが神さまの子どもです。しかし、私たちは養子として迎えられ、御国の相続者になったのです。ですから、私たちの交わりの土台は、キリストの贖いです。十字架の血潮で贖われたゆえに、神の家族の一員となれたのです。ハレルヤ!

しかし、昨日まで「赤の他人」であった者同士が、兄弟姉妹になることができるのでしょうか?私が初めて教会に来たとき、大変おどろきました。週報に○○兄、○○姉と書いてありました。また牧師先生も、○○兄弟、○○姉妹と呼んでいました。「ああ、この教会は親族でなりたっているんだなー」と思いました。しかし、洗礼を受けた後、「鈴木兄弟」とよばれて、奇妙に感じました。男性から呼ばれると、「あなたと私とそんなに親しい関係なのか?気安く呼ぶなよ!」と思いました。しかし、女性から「鈴木兄弟」と呼ばれると、悪い気はしませんでした。私は教会に来る前は、土木現場で働いていたので、女性とあまり口をきいたことがありませんでした。大体、女性と話す機会などなかったので、「教会っていい所だなー」と思いました。しかし、長く教会生活をしていて「神の家族における兄弟姉妹の関係は意外にもろいものだなー」と思いました。洗礼を受けて、兄弟姉妹の仲だったのに、何らかの理由で教会に来なくなりました。他の教会に転会したのなら分かりますが、音信不通になるケースがよくあります。何らかの問題で躓いたとか、迫害にあって来られないとか、いろんな理由があるかもしれません。一般の家庭では、家族の一員がいなくなったら大変なことになります。連絡が取れない場合は、警察に捜索願を出すかもしれません。しかし、神の家族では、「最近、来なくなったねー。何かあったのかしら?」でおしまいです。「こんな薄っぺらい兄弟姉妹っているのかな?」とこちらが躓いてしまいます。本来なら、滅びから永遠の御国に入れられた運命共同体のはずです。聖徒の交わりは、この地上だけではなく、永遠の御国に至るまでの交わりのはずです。なぜ、私たちの交わりは神の家族と言いながら、壊れやすく、薄っぺらいものなのでしょうか?

 1つは、真の交わりをしていないということです。本当の家族なら、欠点や弱さをさらけ出すので、衝突したり喧嘩もするでしょう。しかし、教会では「聖徒」という仮面をかぶって、素を出さないようにしています。また、あんまり近づくと衝突する恐れがあるので距離を取り、さしさわりのないような、付き合い方をしています。これまで、人間関係ではさんざんイヤな思いをしてきたので、深入りしたくない気持ちもわかります。そのため、礼拝で説教を聞いたら、他の人と話さないで帰る人もいます。伝統的な教会は、「礼拝を守ったら、無駄話しをしないで、さっさと帰るように」と言われるようです。なぜなら、兄弟姉妹が一緒にお茶を飲むと、噂話をしたり、だれかの悪口を言うので良くないからです。教会で飲んだり食べたりすると、「教会はサロンではない」と言います。確かに、ローマ14:17「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」と書いてあります。そこには、説教者と会衆の関係はあるかもしれませんが、お互いの関係は二次的なものになります。それでは、私たちは「神の家族であり、互いに兄弟姉妹である」という真理は絵に書いた餅なのでしょうか?ヨハネは第一の手紙で兄弟姉妹の交わりについてこのように教えています。Ⅰヨハネ1:3「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」このみことばには、2つの意味があります。第一は、私たちの交わりは、御父および御子イエス・キリストとの交わりが基盤になっているということです。お互いを見る前に、父なる神さまと、イエス様の関係があります。私たちは父なる神さまから造られ、イエス・キリストによって罪から贖われた存在です。私たちは同じ神さまを礼拝し、神さまの命をいただいています。第二は、私たちの交わりは、私たちの交わりが、御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に加えられているということです。これはえらいことです。御父と御子イエス・キリスト様がどんなに親しく交わっているのでしょうか。その交わりの中に、私たちも加えられているということです。私たちの霊と神さまの霊が交流しているので、私たち同志の霊も魂も交流することが可能になります。なぜなら、神の霊である聖霊が、神さまと私たちの交わり、私たち同志の交わりを取り持っていてくださるからです。


2.交わりの発展

 私たちが霊的に生まれ変わり、神の家族に加えられたからと言って、自動的に兄弟姉妹の交わりができるわけではありません。私たちは肉体的に生まれたとき、どうだったでしょうか?お母さんから1から十まで世話をしていただいたと思います。そのうちだんだん、ことばを話して、お母さんやお父さんと話すことができました。肉にある兄弟姉妹がいたかもしれません。泣いたり、喧嘩しながら、「ああ、人間関係はこういうふうに築き上げるんだ」と理屈なしで覚えたと思います。霊にある兄弟姉妹も、洗礼を受けたから、「互いに愛し合いましょう」と言われても無理です。多くの場合は、生育史においていろんな心の傷を受けています。母親から基本的信頼感を受けたでしょうか?父親が社会的な関係のすばらしさを教えてくれたでしょうか?家庭できょうだいが助け合い、愛し合ったでしょうか?理想の家庭が100点だったなら、何点ぐらいだったでしょうか?50点いかないのではないでしょうか?何をもって点数つけるかというのも、主観的であり、何とも言えません。結構、恵まれた家庭に育ちながら、私は愛されなかったと受け取る場合もあるからです。大体、教会は神の家族と言われるので、家庭の延長上にあると言っても間違いありません。ある人は父母から得られなかった愛を教会のだれかから得ようとします。また、自分の兄弟の恨みを教会のだれかに晴らす場合もないとは言えません。世の中の関係をそのまま、教会の中に持ち込む場合だってあります。若い人が多い教会は、異性問題が起こることが良くあります。いわゆる怨念晴らしを教会という場所で行うと、教会は荒野のようになります。クリスチャンは律法があるので、相手をさばくことが簡単にできます。世の中の人はこれくらいじゃさばなかいので、教会の外の方が気楽になります。ですから、私たちは神さまのもとで、互いに愛し合うということを体得しなければなりません。時には傷つけ合い、時には失敗しながら、主にある兄弟姉妹の関係が築き上げられていくのです。

 ヨハネは第一の手紙でこのように言っています。Ⅰヨハネ2:7-8「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」では、古い命令(戒め)とは何でしょうか?イエス様は律法の中で一番重要なものはこれとこれですと教えられたことがあります。第一は、心を尽くして力を尽くして主なる神さまを愛することです。第二は、隣人を自分のように愛することです。これは旧約聖書の数ある律法をたった2つにまとめたものです。でも、ヨハネはここで、「私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります」と言っています。では、どのようにして、古い命令が新しい命令になったのでしょうか?エペソ2:16「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」アーメン。私たちは、以前は遠く離れていた存在でした。しかし、キリストの血によって近い者とされました。そして、お互いが持っている敵意が壊され、新しい一人のからだの中に加えられたのです。私たちは肉のままでは、なかなか兄弟姉妹と親しく交わることができません。しかし、キリストを間に置いて、交わるときにお互いが持っている敵意が取り除かれ、兄弟姉妹として交わることができるのです。いわば、キリスト様は私たちのクッション、緩衝役のようなお方であります。お互いがキリスト様を通して、見るのです。そうすると、欠点やイヤなところも、愛すべき存在として見えてきます。

 教会はいわば愛を学ぶところであります。柏に『人生やり直し道場』という教会があります。教会も「愛を学ぶ道場」であります。天国に行くまでは、みんな工事中です。完全な人はいません。工事中の標識を見たことがあるでしょうか?ヘルメットをかぶったおじさんが、「ただ今工事中です。何かとご迷惑をおかけします」とペコリしているではないでしょうか?私たちは工事中のマークを胸に貼っておくべきです。「私の近くに穴ぼこがありますよ。躓かないでくださいね。」天に召された三浦綾子先生が天国と地獄の夢と見たそうです。地獄に行くと、テーブルには山海の珍味、ごちそうが山のように盛りつけられていました。全く、地獄とは思えません。テーブルについている人たちは体を椅子にゆわえられていました。また、左手には長いフォーク、右手には長いナイフが結わえられていました。柄が長いので、料理を取っても自分の口に運ぶことができません。みんなイライラして、最後には長いフォークやナイフでチャンバラを始めました。あたりいっぱいに料理がちらかっていました。こんどは二階の天国に行きました。テーブルには山海の珍味、ごちそうが山のように盛りつけられていました。同じように、テーブルについている人たちは体を椅子にゆわえられていました。また、左手には長いフォーク、右手には長いナイフが結わえられていました。ここまでは地獄と同じです。しかし、彼らは「何が食べたいの」と聞きながら、長いフォークを向かいの人の口に運んでいました。向かいの人も「何が食べたいの」と聞いて、それを取ってあげていました。備えられているものが同じなのに、これだけ違うのかなと思いました。福音書にはゴールデン・ルールがあります。マタイ7:12「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

 ヨハネは教会には3種類の人がいると言っています。まず、小さい者たちと子どもたちです。彼らは罪が赦されていることと、父なる神さまを知らなければなりません。ある人たちは、罪責感から解放されないままで、教会から去っていきます。次が若者たちです。彼らは悪い者に打ち勝つ必要があります。悪い者とは私たちの肉に戦いを挑む悪魔です。もし、悪い者に打ち勝たないならどうなるでしょう。羊なのに頭に角が生えてきて、教会に問題をもたらす人になります。そして、父たちがいます。これらの人は成熟したクリスチャンです。彼らは父なる神さまの計画を知っています。その計画とは、私たちはやがて神さまの御住まいになるということです。そして、父たちは小さい者たちと子どもを養育し、若い者たちの模範になります。このようにして、教会は互いに責任を負い合いながら、キリストの満ち満ちた身丈にまで達していくのです。


3.交わりの目的

 交わりというのは、ただ仲良くしていれば良いというものではありません。そこには目的があります。エペソ2:21-22「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」使徒パウロは、教会を3つのものにたとえています。第一は神の家族、第二はキリストのからだ、第三は神の宮です。私たちはキリストという礎石にたてられた建物と言うことができます。昔は、1つ1つ石を積み重ねて神殿を作りました。私たち一人一人は生ける石(Ⅰペテロ2:5)であります。生ける石ですから、口があり、目があり、心があります。でも、山から取り出された石はどうでしょうか?角が出っ張っていたり、ざらざらしていたり、大きすぎたりして神殿の石として用いることはできません。同じように、救われた時の私たちは個性が強くて、人と協力することができません。心の傷があって、すぐにすねたりするでしょう。御霊ではなく、肉でやっているかもしれません。みんなと組むよりは、自分一人でやっている方が気楽かもしれません。では、どうしたら神殿の石として、用いられるのでしょうか?やっぱり、形を整えなければなりません。ある時はノミで削られたりするでしょう。「いたーい。やめてくれ!」と叫ぶかもしれません。あなたを整える専門家がいます。エペソ4:11-12「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」とあります。「聖徒たちを整える」とありますが、まさしく、神殿の石になるように整えられるということです。

 エペソ人への手紙の2章、3章、4章によく出てくることばがあります。それは、「建てられる」あるいは「建て上げる」ということばです。ギリシャ語では、オイコドメオーですが、「建物を建てる」の他にも意味があります。「人を向上させる」「信仰を強める」「その品性を高める」などです。日本語の聖書には「徳を高める」と訳されています。「徳を高める」と言われても、何なのか分かりにくいところがあります。英語ではedify, build upであり、「向上させる」とか、「建て上げる」という意味があります。端的に言いますと、私たちの交わりの目的は、建て上げるためにあるということです。私たちが神の神殿となるために、互いに建て上げ合うということです。もし、私たちが神の神殿として建て上げられたらどうなるでしょうか?神さまがその真中にお住みになります。エペソ2:21-22「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」ハレルヤ!これこそが、神さまが願っていることなのです。神さまは天にお住まいになっておられますが、同時に、私たちのところにも住まいたいのです。やがて、この地上の教会は花嫁として、天に引き上げられます。その後はどうなるのでしょうか?黙示録21章には完成された神殿があります。正確には神殿という建物はなくて、聖所だけです。黙示録21:16「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。」黙示録21:22「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」アーメン、そこには私たちが目指すゴールがあります。神さまは私たちと永遠にお住になる、天の新しいエルサレムを用意しておられます。そこに、私たちの教会だけではなく、世界中の教会も組み入れられることでしょう。

 では、地上の教会とは何なのでしょうか?それは、天の新しいエルサレムの準備段階です。地上にあっても、神さまが願われるような神殿を建てるならば、三位一体の神様がそこに住んでくださいます。神さまが住んでくださるなら、神さまの祝福が自然にあふれることでしょう。すべてを持っておられる神さまがおられるのですから、すべてのことに満ち足りることができます。では、私たちの交わりで最も重要なことは何なのでしょうか?それは互いに建て上げあうということです。建て上げあうことの中にどのような事柄が含まれているでしょうか?励ますこと、愛すること、教えること、勧めること、祈ること、助けること、戒めることも入るでしょう。そうやって私たちは形が整えられ、他の生ける石とも組み合わされます。生ける石、一個だけでは、神さまは住むことはできません。また、生ける石が、組み合わされないで山積みになっている教会もあるかもしれません。わーすごい数だ、でも、組み合わされていなければ、建物にはなりません。神さまはその場に臨在するかもしれません。しかし、そこに住むことはできません。なぜなら、神殿になっていないからです。ある人たちは2-3人で集まって、「セルです。家の教会です」と主張するかもしれません。セルやハウスチャーチは「1つの部屋、1つのパーツも大事だよ」ということを再発見させてくれました。でも、それは1つの部屋であって、建物とは言えません。建物には玄関の他にいろんなパーツが必要です。つまり、1つの部屋しかない家はありません。複数の部屋が結合して、家になります。神の神殿もそれと同じで、そう単純ではありません。アメリカとかアフリカに行くとものすごいクリスチャンの数です。中国も1億人以上はいるでしょう。10年くらい前にインドネシアのアバラブ教会主催の集会に行ったことがあります。1万5000人くらい集まっていたと思います。1つのセクションが300人くらいだったかもしれません。私は遠くからそれを見て、ああ、亀有教会も1つのセクションくらいは欲しいなと思いました。大きさはともかく、当亀有教会も大きな神の神殿の一部になっていることを忘れてはいけません。

 エペソ2:19以降もう一度お読みいたします。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。…この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

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