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2014年8月31日 (日)

クロスとハガイ     ハガイ1:1-8

 エレミヤはかつて「ユダの国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に70年仕える」(エレミヤ25:11)と預言しました。見方を変えると、エルサレムの地は70年が満ちるまで安息を得たことになります。やがて、罪を犯していたバビロンさばかれ、ペルシヤが支配しました。ペルシヤの王クロスは、囚われていたユダの民を解放しました。そのとき、預言者ハガイが「主の宮を建てよう」と励ましました。


1.クロスによる解放

 ペルシヤの王クロスの名前が最初に出てくる箇所は、イザヤ書45章です。イザヤ45:1「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。』」イザヤはそのことが起こる130年も前に、ペルシヤのクロスが世界を支配すると預言しました。主はユダの民を解放するために、クロス王を用いるということです。そして、Ⅱ歴代誌の最後の章に、それはエレミヤによって預言されたことが成就するためであると書かれています。Ⅱ歴代誌36:22-23 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、【主】がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」クロス王は天の神が「ユダにあるエルサレムにご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた」と言っています。「異国の王が、何でまた?」と思われるでしょう?1つの理由は、バビロン時代を経て、クロス王のときまでダニエルが王宮で活躍していました。歴代の王たちはダニエルの神がまことの神であることを知らされていました。2つ目の理由は、主が直接、ペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたからです。だから、イザヤは「油そそがれた者クロス」と言いました。「油そそがれた者」とは、まさしくメシヤという意味です。彼は異教の礼拝者であったと思われますが、神様から特別に救世主として立てられたのです。これは、主の奇跡としか考えられません。

 ユダの民は異国に70年間も住んでいました。そして、エルサレムの神殿はバビロンによって破壊され、火で焼かれました。城壁もくずれ去り、キツネやジャッカルの住かとなっていました。そんな廃墟に、もう一度、神殿を建てるということは不可能なことです。労働力や材料をどこから持ってくるのでしょう。この続きがエズラ記1章から記されています。紀元前538年、クロス王が主の宮を建てよという勅令を出しました。クロス王はそのために、それまで捕えられていたユダの民を解放しました。みなさん、よく私たちは「ユダヤ人」と言いますが、バビロンから帰還した人たちをユダヤ人というのです。もちろん、彼らはイスラエル人ですが、厳密にいうなら、ユダとベニヤミンの2部族です。彼らがエルサレムに帰還しました。しかし、70年間も住んでいたので、ヘブル語ではなく、アラム語ということばを話していたようです。エズラ1:3-5「あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある【主】の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」このところに、「ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち」とあります。彼らも神によってその霊を奮い立たされた者たちでした。クロス王は、人々に「銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ」と命じました。彼らの回りの人たちは、一番良いものを喜んで与えました。また、クロス王はネブカデネザルがエルサレムから持ってきていた、主の宮の用具、金や銀の皿、香炉、鉢も携えていくように命じました。

 これこそが、エレミヤが預言していた、「わざわいではなくて、平安を与える計画」だったのです。かつてイスラエルはヤコブのとき、エジプトに避難し、そこで栄えました。しかし、後半はパロによって奴隷とされていました。イスラエルの民は430年間もエジプトにいました。主は彼らの叫びを聞かれて、モーセを立てて脱出させました。これが「出エジプト」であります。しかし、今度はユダ王国がバビロンに捕囚となりました。70年後、主はクロス王を立てて、ユダの民を解放しました。これは「第二の出エジプト」ということができます。イザヤはこのように預言していました。イザヤ48:18-19「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」ここで言う「先の事ども」とは、出エジプトのことであります。そして、「新しい事」とは、バビロン捕囚からの帰還のことです。かつて、イスラエルの民はかわいた地を通らされました。今度は、荒野に道を、荒地に川を設けるようなことが起こるということです。詩篇の記者たちは、「主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。…主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ」(詩篇126:3)と言いました。それほど、エルサレムに戻って、神の宮を再建できるということはすばらしい事だったのです。神様はご自分の計画を果たすために、王様を動かし、周りの人たちを動かして、私たちに必要を与えるお方です。たとえ、私たちの手もとに何もなくても、主が王様や周りの人たちのふところを揺り動かして、必要を与えてくれるのです。ハレルヤ!


2.ハガイの第一の預言

 最初に帰還した人たちは約4万2千人であり、その1割が祭司でした。彼らは自分たちの町々に住みつきました。そして、第七の月になると、エルサレムに集まり祭壇を築いて、全焼のいけにえをささげました。その後、石材や杉材を運び、建築士たちが主の神殿の礎を据えました。その時、祭服を着た祭司たちが、楽器をならしながら、「主はいつくしみ深い」と賛美しました。多くの人たちの喜びと叫びと泣き声が遠いところまで聞こえました。ところが、神殿の再建を喜ばない人たちがいました。北に住んでいたサマリ人です。アッシリヤが北イスラエルを滅ぼしたあと、5つの民族をその地に住まわせました。サマリヤ人たちは、ユダの民の気力を失わせ、彼ら脅しました。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ち壊そうとしました。ペルシヤにおいては、クロス王の後、息子たちの代になっていました。反対者たちは、アルタシャスタの時代、このような手紙を書き送りました。「ユダヤ人たちはエルサレムで、反抗的で危険な町を再建しています。このままでは王たちと諸州に損害を与えます。昔の記録文を調べてください」。ペルシヤの参事官や書記官が調べたところ、その町は昔から暴動と反逆が行われたことがわかりました。反対者たちは、王からの書状の写しを手に取り、武力をもって彼らの働きをやめさせました。そのため、エルサレムにある神の宮の工事は中止させられました。なんと、16年間も、工事が中断されました。

 その時に出てきたのが、預言者ハガイと預言者ゼカリヤです。ゼカリヤは次週取り上げますが、きょうはハガイについて語りたいと思います。ここからハガイ書を引用します。これまで話したことは、みな前置きでした。なんと、ハガユイことでしょう。ハガイ1:1-2「ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような【主】のことばがあった。「万軍の【主】はこう仰せられる。この民は、【主】の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」もうあれから16年経過し、ペルシヤではダリヨスが王になっていました。人々は「主の宮を建てる時はまだ来ていない」と、自分の生活を第一にしていました。主はハガイを通して語られました。ハガイ1:4「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。今、万軍の【主】はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。」帰還してきた人たちの言い分は「まず、自分たちの家を建てて、畑を耕し、生活の安定を建てなければならない」ということでした。彼らが「板張りの家に住んでいた」とありますが、当時、木材は石よりも高級でした。ペルシヤに住んでいた頃を思い出して、絨毯なんかも敷いていたのかもしれません。神様のことを忘れ去り、毎日の生活に追われていました。それでは、自分たちの生活が潤っていたかというとそうでもありません。ハガイは「あなたがたの現状をよく考えよ」と言っています。多くの種をまいたのに、虫に食われたり、干ばつにあったりします。どんなに美味しいものを食べても満足しません。いっぱい飲んだのに酔えません。着物を何枚も着たけど暖まらない。一生懸命かせいだはずなのに、財布があっという間にからっぽになります。

 なぜ、こんなことが起こるのでしょうか?それは、神様のことを忘れているからです。私もクリスチャンになる前は、給料を全部使い果たしても足りず、毎月2万円前借りしていました。給料をもらうとすぐ飲みに出かけ1週間でなくなります。月が明けるとお金がほとんどありません。現場でしたから、泊まるところと食事はあります。仕事を終わると、麻雀をするかテレビを見るかです。あの頃は、ファミレスというのがなく、レストランでした。けっこうおいしかったんですが、食べても何だか空しい感じがしました。心の奥が満たされていないので、食べても、飲んでもダメでした。あの頃は、JUNというのが流行っており、田舎に帰るたびに、着飾っていました。しかし、クリスチャンになってから、心が満たされたせいか、飲むこともなくなり、前借りがなくなりました。貯金するほどではありませんでしたが、ちゃんと献金できました。献金できるということが誇りに感じました。でも、まもなく直接献身をしたので、お金のない生活が長い間続きました。それでも、なんとかなりました。大川牧師は先生の車を洗うと5000円くれました。教会で働いても給与が低いので、家内が病院で働いたので、なんとかなりました。信仰歴25年になりますが、経済的な問題に関しては「なんとかなる」という信仰はあります。

 イエス様はマタイ6章で、「空の鳥を見なさい、野のゆりを見なさい」と言われた後、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と言われました。神様を第一にしていくと、経済的な問題に悩まされることがないということです。なぜ、ユダの人たちは、一生懸命働いているわりに貧しかったのでしょうか?彼らは家を建てたあと、畑を耕し、多くの種をまきました。家畜も世話をして、安定した暮らしを求めました。ところが、なぜ、貧しかったのでしょうか?ハガイ1:9-12「それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。」何ということでしょう。神様が邪魔をしていたのです。だから、労したわりには収穫が少なかったのです。チョーヨンギ牧師がおっしゃっていました。「世界で日本人ほど勤勉な国民はいない。しかし、ウサギ小屋に住んでいる。欧米の人たちはあまり働かないのに豊かだ。それは、日本人が働いたお金が外国に流れているからだ」と。そんなに単純ではないでしょうが、ある部分は当たっています。「あなたがたの現状を良く考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。主は仰せられる。」これは、神の国とその義とをまず第一に求めなさいというチャレンジです。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

3.ハガイの第二の預言

 私は旧約聖書の人物を語る前に、沢村五郎師の『聖書人物伝』を必ず読むことにしています。ハガイについてこのように書かれていました。「彼らは預言者のことばに励まされて神殿建設の工事に再び立ち上がった。しかし、引き揚げ者の悲しさ、資材は足らず、用具も乏しく、食糧もまた欠乏して、十分な働きができない。粉粒辛苦の末に建て上げた神殿の構造はきわめて小さく、また貧弱なものであった。彼らの中には、以前の広壮な神殿を見た老人たちもおり、それとこれを比較してあまりにもみずぼらしい建物を見て悲しんだ。若者たちも、大きな骨折りをし、犠牲を払ったのに、その結果の貧弱なことを知って心くじけた。ハガイの第二の預言はそのときになされたものであった。」その本に「引き揚げ者」と書いてあって、びっくりしました。これは戦争を経験していな者には語れない、重たい言葉だと思いました。この教会の故山崎長老さんは、北朝鮮から引き揚げてこられた人です。おじいちゃんは「めんたいこ」を発明して、子供の頃はとても裕福だったそうです。ところが、贅沢ざんまいして家が傾き、子供時代山崎さんは親戚をたらしまわしにされたそうです。19歳で朝鮮鉄道の助役になり、ものすごい早さで出世しました。ところが、その後、敗戦になり、雪をかき分け北から南に逃げました。途中に山賊がいて、身ぐるみ全部はがされて、一文なしになりました。なんとか長崎に着いたそうです。それから、貧しさとの戦いがはじまるわけです。申し訳なくて、戦争を体験でしていない人が「引き揚げ者」ということばを使うことができませんので、少し説明させていただきました。第一神殿はソロモン王が建てたそれは、それは荘厳なものだったでしょう。80歳くらいの老人は子供のときにそれを見たことがあります。しかし、それとくらべて、この神殿はなんとみすぼらしいものでしょう。

 それで、ハガイは2つ目の預言を人々に告げました。ハガイ2:3-4「あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。──【主】の御告げ──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。──【主】の御告げ──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】の御告げ──」これから先、何度か出てきますが、神殿を再建するために、預言者ハガイの他に2人の指導者がいました。一人は総督ゼルバベルです。彼は、帰還者4万2千人のリーダーであり、行政の指導者です。おそらく彼はダビデ直系の子孫だったのでしょう、マタイ1章の系図では「ゾロバベル」という名で出てきます。もう一人は大祭司ヨシュアです。こちらの方は宗教的指導者でした。彼は預言者ゼカリヤによって、「汚れた衣を脱いで、新しい衣を与えられる者」として描かれています。預言者、総督(王)、大祭司の三位一体が大事なのであります。キリスト教会において、牧師が3つのことを兼務することは大変です。預言者的な人は神の方向性を示したり、罪を提示する人です。総督、つまり行政的なリーダーは神様から与えられたプロジェクトを手分けして実行させる人です。大祭司はとりなしの祈りをしたり、信徒を世話する人です。現在、新約聖書においては神殿とは、キリストの教会です。一人一人が生ける石であり、一人一人が組み立てられて、神の神殿になるのです。エペソ2:21-22「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」アーメン。

 ハガイは、必要は神様から与えられることをみんなに告げました。ハガイ2:7-9「わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の【主】は仰せられる。銀はわたしのもの。金もわたしのもの。──万軍の【主】の御告げ──この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の【主】は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。──万軍の【主】の御告げ──」私がこの教会に赴任して3年後、1990年、新会堂の建築の熱が高まりました。当時の旧会堂は床がたわんで、戸もきっちり閉まっていませんでした。会堂と牧師館の間の継ぎ目からよく雨漏りもしていました。そのとき、故山崎長老がハガイ書1:4「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。」と口火を切りました。その頃は、会堂建築積立金が700万円でした。1991年4月の総会で会堂建築を決議した後、どんどん献金が集まりました。山崎長老さんは「教会は借金をしちゃいかん。備品を含めて予算は1億円だ」と言いました。それでは建坪80坪の建物しか建てられません。私が基本設計をしましたが、どうしても135坪の大きさになります。そうすると予算が1億3500円になります。私は予約献金を募ろうと決意しました。その時、与えられたみことばがハガイ2:7「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」でした。神様が国々を揺り動かして、必要を与えてくださるという信仰が与えられました。1992年12月には利息を含めて、1億3598万円になりました。ハレルヤ!次の年、1993年5月に新会堂が献堂されました。新会堂を建築しようとすると、教会内に分裂が起きたり、牧師が病気になるということを聞いていました。会堂建築は信仰の良い訓練になります。お金の問題が出てくると急に、肉的になる人が出てきます。今までだまっていた人が、経済的な才能があるためか、いろんな口出しをしてきます。いろんな知恵は歓迎しますが、最終的には信仰によって決めるしかありません。

 おそらく、帰還後、神殿を建てるときも、似たような問題があったと思われます。そのとき、預言者ハガイが立ち上がり、主からのチャレンジを与えました。総督ゼルバベル、大祭司ヨシュアも一緒に立ち上がりました。そして、必要は「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」と言われる主が与えてくださるという信仰にたどりつきました。そうなのです。すべての必要は主が与えてくださるのです。私たちは自分のふところを見るのではなく、天の神様のふところを頼るべきです。神様を第一に求めたなら、すべての必要が添えて与えられるのです。私たちの神さまは世界を創造されただけではなく、私たちのために、今も世界を動かしておられます。


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2014年8月24日 (日)

異国のダニエル     ダニエル6:1-9  

 紀元前605年、ネブカデネザルによってエルサレムが包囲された時、第一回目の捕囚がありました。そこに、ダニエルと3人の若者が含まれていました。ダニエルはネブカデネザルから、ペルシヤのクロス王の治世の第三年(前536年)まで活躍しました。単純に計算しますと、69年間バビロンとペルシヤの宮廷で仕えたことになります。もし、ダニエルが15歳のとき連れて来られたなら84歳になります。CSの生徒に「どうしてライオンはダニエルを食べなかたのでしょう?」聞きました。ひとりの子どもが「ダニエルは老人で骨が堅かったので食べなかった」と答えたそうです。きょうは、ダニエルが受けた苦難とダニエルが見た幻についてお話したいと思います。


1.ダニエルが受けた苦難

ダニエル書4章には、ネブカデネザルが高慢になったために、理性を失い7年間、野で暮らしたという出来事が記されています。ダニエルは、そのことを前もって王様に解き明かしました。ネブカデネザルは、理性が戻ったとき、天の王を賛美し、あがめました。そして、ダニエル書5章には、ネブカデネザルの子、ベルツャツァルのことが記されています。あるとき、ベルツャツァルはエルサレムの宮から奪ってきた金や銀の器でお酒を飲み、偶像の神々を賛美しました。突然、人間の手の指が現れ、宮殿の壁にある文字が書かれました。王は死人のように青くなり、「だれかこの文字を読める者はいないか」と国中の知者を探しました。家来が「あなたの父上に仕えていた人がいます」と言ったので、ダニエルが呼び出されました。王様は「それを解き明かすことができたら、紫の衣を着せ、首に鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう」と言いました。ダニエルはそれを丁重に断り、王様に解き明かしました。「いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになります。あなたは天の主に高ぶったので、あなたの国は分割され、メディヤとペルシヤに与えられます」。その夜、ベルツャツァルは暗殺され、メディヤ人ダリヨスがその国を受け継ぎました。ダニエルに紫の衣が着せられ、金の鎖が首にかけられ、彼は国の第三の権力者であると布告されました。ダニエルは捕囚の身でしたが、「神の霊が宿っている人だ」と敬われ、国のトップに立つことができました。バビロンの王たちは「ダニエルと3人が信じている天の神がまことの神である」とまで告白しました。

しかし、その後、ダニエルに大きな苦難がやってきました。このことは、ダニエル6章に記されています。ダリヨスは全国を治めるため、120人の太守を任命し、その上に3人の大臣を置きました。ダニエルは3人の大臣の一人でした。ダニエル6:3—4「ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。」ダリヨス王は、ダニエルを高く評価し、彼に全国を治めさせようと考えました。ところが、他の大臣や太守たちは、ダニエルをねたみました。そして、彼らは「今から30日間、王様以外に、いかなる神にも人にも、祈願するものはだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」という法令を考え出しました。彼らは、王様のところへ行き、それを取り消しのできない法律として署名させました。ダニエルはその禁令を知っていましたが、いつものように、日に三度、ひざまずいて、彼の神の前に祈り、感謝しました。屋上の窓がエルサレムに向かって開いていたので、ダニエルが祈る姿が外から見えたのでしょう。彼らはそれを目撃した後、王様に訴えました。ダニエル6:14-16「このことを聞いて、王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた。そのとき、あの者たちは申し合わせて王のもとに来て言った。『王よ。王が制定したどんな禁令も法令も、決して変更されることはない、ということが、メディヤやペルシヤの法律であることをご承知ください。』そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」彼らはダニエルをライオンの穴に投げ込むことができて喜びました。一方、王様は一晩中断食し、一睡もしないで、夜を明かしました。ダニエル6:19-22「王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。『生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。』すると、ダニエルは王に答えた。『王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。』」

王様はダニエルの無事な姿を見てとても喜びました。逆にダニエルを訴えた者たちをライオンの穴に投げ込みました。ライオンは彼らが穴の底に落ちないうちに骨ごとかみ砕いてしまいました。ダリヨス王は、全土に「私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震えおののけ」という文書を書いて送りました。ダリヨス王はダニエルの神こそが、まことの神様であることを認めました。こうして、ダニエルはダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えました。クロス王は捕えられていたユダの民が自分の国に帰って宮を建てるようにおふれを出しました。エレミヤが預言していた70年が満ち、神様がクロス王の霊を奮い立たせたからです。ダニエルは捕囚の身として敵国に住んでいました。普通なら身分も地位も与えられず、貧しくて不自由な生活を強いられるところでした。ところが、神様はダニエルと3人を高く引き揚げ、バビロンの長にしました。そして、バビロンの王たちをして、彼らの神がまことの神であると告白させました。なぜなら、彼らには他の人にはない、神の霊が宿り、知恵と知識に富んでいたからです。ベルツャツァル王は、「ダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力がわかりました」(ダニエル5:12)と言いました。同じように、エジプトのヨセフもパロの夢を解き明かしました。そのとき、パロは「神の霊の宿っているこのような人を、他に見つけることができようか」と家臣たちに言いました。そして、ヨセフに「あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう」(創世記41:39-41)と言いました。

申命記28章には「主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない」(28:13)と書いてあります。私たちは御国の国籍を持つ神さまの子どもですが、この世に住んでいます。この世には、この世の知恵と権力があります。クリスチャンよりも頭が良くて能力のある人たちがたくさんいます。ある人は「クリスチャンは正直過ぎて、金庫番ならできるが、他のことは無理だ」と言います。そうでしょうか?クリスチャンは献金を得るために仕方なく、世の中で働いているのでしょうか?そうではありません。私たちにはダニエルやヨセフに宿っていた同じ神の霊が宿っています。世の人々には見えないものが見えます。世の人にはない知恵や知識があります。謙遜して、へりくだることは良いことです。しかし、神の霊が宿っている人は、どこの場所にいても、頭角を現してきます。沢村五郎師は『聖書人物伝』の中でこのように言っています。「袋の中の針は隠れることができない。必ず姿を現わす。そのように、聖霊に満たされた者も必ず、すべてに打ち勝って卓越する。大王の夢を解き明かしたダニエルは、バビロン全州の総督となり、バビロンの知者たちを統轄する者となった。一介の捕虜である逆境のどん底から、一躍して最高の位につくのである。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます(コロサイ3:3-4)。地上で現れなければ、かの日に現れる。神の霊に満たされることは、真の意味において運命の開拓法である。」

アーメン。クリスチャンである私たちには神の霊が宿っています。そればかりではなく、私たちの背後には偉大な神の国が控えています。私は毎日散歩しますが、時々、リュックサックを背負って走っている人を見かけます。「何もかついでいなくても、大変なのになー」と思います。おそらく、そういう人たちは、何十キロも長距離を走るのではないかと思います。あるところで休憩し、水や食べ物を補給し、また走るのでしょう。また、ある人たちはスマホを見ながら歩いています。自転車に乗りながらのスマホは危ないですね。電車に乗ると、約7割から8割はスマホを見るかゲームをやっています。クリスチャンは何を背負い、何をいつも携帯しているのでしょうか?私たちはすばらしいことに聖霊を宿し、神の国を背負っているのです。神の国とは神の権威、力、豊かさです。三位一体の神が私たちに一番あげたいものは、聖霊です。神はすべての源であり、聖霊は神の霊です。キリストは「神の知恵、義ときよさ、贖い」であり、聖霊はキリストの御霊です。聖霊は神さまが持っているものを、キリストを通して与えようと今も働いておられます。私たちが持っているものは、リュックサックやスマホよりもはるかにまさるものです。教会がそしてクリスチャンが聖霊様を認めるなら、尾とはならず頭になることができるのです。


2.ダニエルが見た幻

ダニエル書7章から最後の12章まで、ダニエルが見た幻について記されています。ダニエルは敵国バビロンに住んでいました。ですから、その書き方はエゼキエルと同じように、黙示的に書かれています。黙示とは異象とか象徴であり、あえて分かりにくいように書かれています。ダニエルが見た幻は、将来のことを預言していますので、ダニエル書が預言書の中に入っているのはそのためです。解釈はいろいろあって、一口には言えませんが、福音派の保守的な立場から語らせていただきます。まず、ダニエル書7章には4つの獣が出てきます。第一の獣は獅子のようで、鷲の翼をつけていました。獅子はバビロンのことです。第二の獣は熊であり、3本の肋骨がありました。熊はメド・ペルシャのことです。3本の肋骨はバビロン、エジプト、リディアを指します。メド・ペルシャはこれら3つの国を征服しました。第三の獣はひょうであり、4つの翼と4つの頭がありました。ひょうはギリシャを指しています。4つの翼はアレクサンドロスの進撃の速さを象徴しています。4つの頭は、彼の四人の後継者、プトレマイオス、セレウコス、フィリポ、アンティゴノスを指すと考えられています。そして第四の獣は大きな鉄のきばと10本の角を持っていました。鉄のきばを持つ獣はローマ帝国を指しています。10の角は世の末にローマから生ずる十の国を表していると思われます。ダニエル書8章にはこの続きが記されています。現代は欧州連合(EU)がありますが、かつてのローマ帝国の大きさになると思います。ダニエル8:23-24「彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行い、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。」紀元前168年、アンテオカス・エピファネスが宮を汚しました。世の終わり、エルサレムの神殿が再建されたときも同じようなことが起こるという預言です。彼は反キリストであり、世界総督と言われる人物です。

そして、ダニエル書9章にはいくつかの数字が出てきます。ダニエル9:24「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」七十週目は、贖いが完成し、永遠の義がもたらされるときです。黙示録で言いますと、1000年王国、御国のなるときです。このことはイザヤ書の「千年王国の預言」で一度取り上げました。頭が少し痛くなるかもしれませんが、もう一度、世の終わりの様についてお話させていただきます。ダニエル書9章には、7週と62週ということばも出てきます。7週と62週をたすと、69週です。1週は7年であり、69週は483年になります。エルサレムが再建の命令が布告されたのが、紀元前445年です。69週目、483年後にメシヤが絶たれるという預言があります。ダニエル9:26「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」これはイエス・キリストが十字架で死ぬという預言です。やがて、「町と聖所が破壊される」とありますが、紀元70年、エルサレムがローマによって破壊されました。しかし、すぐに70週目に入りませんでした。69週目のところで時間が止まり、そこに異邦人の時が割り込んできたのです。この期間は「教会の時代」とも言われています。パウロはローマ11:11で「イスラエルの違反によって、救いが異邦人に及んだ」と言っています。さらに、「奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうしてイスラエルはみな救われる」(ローマ11:25)と言いました。神様は、私たち異邦人を救うために時間をとめてくださったのです。「確かに、今は恵みのとき、今は救いの日です」(Ⅰコリント6:2)。でも、異邦人の時、つまり教会の時代はいつまでも続きません。やがて、終わりの時がやってきます。

今から5年くらい前になりますが、滋賀県の大津バプテスト教会でセルチャーチの全国会議がありました。私は交通費を浮かせるため、夜行バスで京都まで行きました。早朝6時半について、午前中、京都見物をしました。高校生の修学旅行のいやな思い出を払拭するためです。1月だったので、あたりは雪化粧で本当にきれいでした。大津で1泊して、会議は3時ころ終わる予定でしたが4時までずれ込みました。私はどうしても平等院鳳凰堂を見たくて、奈良に向かいました。宇治に着くともう日が傾いていました。平等院鳳凰堂に着いたときは午後5時を過ぎていました。係員たちが、門の前に横木をかけていました。私は「東京から来たんです。ぜひ、見学させてください」と熱心に頼みました。600円を支払い平等院を独り占めしました。15分くらいしか見られませんでしたが、修学旅行時とは全く違って風情がありました。係員は閉館の準備をしていましたが、私はすべりこみセーフで入れました。平等院鳳凰堂ぐらいでしたら、機会があれば、また行けるでしょう。しかし、御国の門が閉ざされたらどうするでしょうか?「聖霊によるのでなければ、だれも、イエスは主ですということはできません」(Ⅰコリント12:3)とあります。今は恵みの時なので、聖霊がキリスト様を信じられるように助けて下さいます。しかし、世の終わり、異邦人の時が終わると、聖霊の恵みを受けられないでしょう。異邦人の時が終わったら、止まっていた69週目が70週目に向かってスタートします。1週は7年間ですが、イスラエルの救いのために設けられています。この7年間を聖書では、艱難時代と言います。前半の3年半は比較的穏やかですが、後半の3年半は反キリストが猛威を振るい、殉教者が続出するでしょう。天変地異に様々な災害が起こり、多くの人たちが死にます。先月、三鷹市で大量の雹が降りました。世の終わりには1タラント、つまり30キログラムの雹が降ると書いてあります。

ダニエル書には、いつ頃69週目が終わり、70週目がスタートするのか重要なヒントが記されています。ダニエル11:31,36「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。…この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。」世の終わり、自分を神のように高める人が現われ、エルサレムの聖所を汚します。新約聖書はどうでしょうか?Ⅱテサロニケ2:3-4「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」故高木慶太牧師が『近づいている世界の終焉』という本を書きました。「ヨーロッパ合衆国の指導者は、イスラエル政府に対して安全保障の条約を結ぶが、一応の決着がついたあと、条約を一方的に破棄する。この総督は、まず、世界共同体の本部をエルサレムへ移し、そこからパレスチナ、中東、および全世界を自分の支配下に置く。彼は、世界を政治的にも経済的にも宗教的にも完全に支配し、独裁体制を固めるため、思想、言論などの自由を全面的に規制する。また、このころには、全世界の人間一人ひとりに一定の番号と刻印が与えられ、それによって世界政府に登録されるようである。そして、全世界に厳しい経済統制がしかれ、世界の総督に従わず、彼を礼拝しないものには、食糧を買うことができないような措置が取られる。」(以上)。彼とはだれでしょう?聖書には「小さな角」「やがて来るべき君主」「滅びの子」「不法の人」「獣」などと呼ばれています。つまり、キリストが再び来る前に、悪あがきをする反キリストが現われるということです。彼は、にせ宗教、にせの教えをもって人々を惑わした後、世界を完全に支配します。

私たちは危ない時代に生きているということを自覚しなければなりません。もし、ここに時代の時計があるとしたら、69週目で止まっています。もし、その時計が動き出したら、あとは7年間しかありません。最後の7年間で全部のことが起こり、その後、千年王国(御国)がやってきます。その7年間のことがヨハネ黙示録4章から19章にしるされています。天上では、神と小羊とに賛美と礼拝がささげられています。しかし、地上では反キリストによる大迫害、天変地異による神のさばき、ハルマゲドンの戦いがあり、逃げ場は全くありません。黙示録9:6「その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。」とあります。「確かに、今は恵みのとき、今は救いの日です」(Ⅰコリント6:2)。でも、異邦人の時、つまり教会の時代はいつまでも続きません。やがて、終わりの時がやってきます。御国の門が閉じられたら、聖霊も働かなくなります。反キリストが力を増すので、殉教覚悟でないと信仰を持つことができないでしょう。私たちは2つのことを同時に覚えて生きなければなりません。第一は、この地上で日々感謝をしながら、神様から与えられた使命を全うすることです。第二は、世の終わりがいつ来ても良いように、準備をしておく必要があります。聖書の一番最後のみことばを読んで終えたいと思います。黙示録22:20「しかり、私はすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。


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2014年8月17日 (日)

~「声」として生きたバプテスマのヨハネ~  亀有教会副牧師 毛利佐保

<ヨハネの福音書1章14節~23節>

1:14

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

1:15

ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

1:16

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

1:17

というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

1:18

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

1:19

ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。

1:20

彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。

1:21

また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」

1:22

そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」

1:23

彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」


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「声」というと音の世界を連想しますが、音にはいろいろな音があり、人間に聞こえる音と聞こえない音などもあります。みなさんは若者だけに聞こえる「モスキート音」というのをご存知でしょうか?

モスキート(蚊)音とは17キロヘルツ前後の高周波音のことです。蚊の羽音のような不快な音なのでこう呼ばれているようです。人間は年を取るに従って高い周波数の音を聞き取りにくくなるため、20代前半までの若者にはよく聞こえますが、それ以上の年代の人には聞こえにくいと言われているのがこのモスキート音です。


このモスキート音、インターネットのサイトなどで聞こえるかどうか実験することができるのですが、個人差があるというので、私も試してみました。私は、ある程度音楽に携わって生きてきたので、耳は悪い方ではないんじゃないかな~と思っていたのですが・・・。


やはり・・・寄る年波には勝てず、私には全くもってモスキート音は聞こえませんでした。聞こえないので気付かずにずっとパソコンから鳴らしていたら、20代の息子に「お母さんうるさい!」と言われて二重にしょんぼりしてしまいました。


さて、「音」という漢字がつく言葉で連想するのは、「音楽、音色、雑音、騒音、・・・」などいろいろありますが、「福音」も音という漢字が使われています。ローマ書10:17に、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と書かれていますが、「聞く」ためには、みことばを語る人がいなければなりません。バプテスマのヨハネは、「主の道をまっすぐに整えるため」に、「声」となって語り、自らの生涯を捧げ、献身した預言者でした。


新キリスト教辞典によると、「献身」とは、「神の召命に応えて、神の御旨のままに生きるべく、自らの意志を明け渡して、その身を捧げること」です。狭義では、「ある人が、持っていた職業、立場、身分を捨ててそこを離れ、神の家、みことばへの奉仕にその生涯を捧げる」いわゆる聖職者のことを言いますが、広義では、「神の民はすべて、神の御心に生きるべく、その身を捧げる」ことが求められています。


つまり、すべてのキリスト者は献身者であるべきなのです。


聖書では、聖職者以外の信徒が大きな活躍をしている姿が記されています。旧約であれば、ペルシャ王妃となったエステルは、命懸けで仲間のユダヤ人たちのためにとりなしました。ダニエルの3人の仲間たちも命をかけて主に従いました。新約であれば、アクラとプリスキラの夫婦などは、聖職者ではありませんでしたが、パウロやアポロを助けながら、神の教会に仕えました。


本日は、バプテスマのヨハネの、己の果たすべき役割をわきまえ、主のために潔く生きたその姿を通して、私たち自身の献身について考えてみたいと思います。


◆バプテスマのヨハネの献身

①彼は預言者としての己の使命を熟知していました。


ヨハネは<ギ>VIwa,nnhj (ヨーアンネース)は「主は恵み深い」という意味があり、聖書にはよく出てくる名前です。「バプテスマのヨハネ」は、「洗礼者ヨハネ」、また「先駆者ヨハネ」とも呼ばれ、聖書に登場する他のヨハネと区別されています。


彼の誕生から宣教活動を終えるまでの聖書の記述を追ってみましょう。

バプテスマのヨハネは、ルカの福音書の1章に記されているように、年老いた祭司ザカリヤと妻エリサベツの間に生まれました。ヨハネは聖書の預言が成就されるためにこの地に遣わされた預言者でした。

御使いガブリエルは、祭司ザカリヤが主の神殿で香をたいているときに、彼の前に現れてこう言いました。

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<ルカの福音書1:13-17>

1:13

御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

1:14

その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

1:15

彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、

1:16

そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。

1:17

彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

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祭司ザカリヤと妻エリサベツは老年でしたが、御使いの言葉通り、エリサベツは身ごもりました。しばらく経って御使いガブリエルはマリヤに現れ、マリヤが聖霊によって身ごもることを告げました。マリヤとエリサベツは親類でした。その後身ごもったマリヤは、エリサベツが住むユダの町まで行ってエリサベツを訪問しました。

ですから、イエス様とバプテスマのヨハネは親類ということになります。


バプテスマのヨハネは、このように恵まれた祭司の家庭に生まれましたが、祭司職は継ぎませんでした。

もしかしたら、父親のザカリヤから自分の使命について幼い頃から聞かされていたのかもしれませんが、イスラエルの民の前に公に宣教活動を始めるまで、彼はユダの荒野で暮らしました。


ルカの1:80に「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」と書かれている通りです。


そして、紀元26年頃でしょうか、いよいよヨハネに主のことばが下り、宣教活動が始まりました。

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<ルカ3:2-3>

3:2

アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。

3:3

そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。

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バプテスマのヨハネが悔い改めを迫る説教を始めると、彼の説教を聞くために続々と群衆が押しかけました。そして、自分の罪を告白して悔い改め、ヨルダン川でヨハネから水によるバプテスマを受けました。

ヨハネはらくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べて暮らすという、禁欲生活を送りながら、旧約聖書の預言、(イザヤ書40:3-5)と(マラキ書4:5-6)が成就するために活動しました。

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<イザヤ書40:3-5>

40:3

荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

40:4

すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に険しい地は平野となる。

40:5

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」


<マラキ書4:5-6>

4:5

見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

4:6

彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

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そして、ヨハネは、マルコ1:7、8でイエス様についてこう語りました。

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1:7

「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。

1:8

私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

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ヨハネから洗礼を授かろうとなさったイエス様にヨハネは、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」と言って、固辞しようとしました。しかし、イエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と言われ、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。


そして、使命を果たしたヨハネは、まもなく、ガリラヤとペレヤの領主だったヘロデ・アンテパスの婚姻の罪を糾弾したために牢に入れられ、ヘロデ王の宴会の見世物のような形で処刑されてしまいました。


このように、バプテスマのヨハネは、預言者としての己の使命を熟知した上で献身し、与えられた使命に忠実に従った生涯を送ったのでした。


◆バプテスマのヨハネの献身

②彼は「荒野で叫んでいる者の声」として生きました。


彼は、エルサレムのユダヤ人たちから遣わされた祭司とレビ人から、「あなたはどなたですか。」と尋ねられました。ヨハネは、「私は『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」と答えました。

祭司やレビ人たちは、彼こそ、「メシヤ(キリスト・油注がれたもの)」ではないか、彼こそイスラエルの民を立ち帰らせる「エリヤ」に違いない、と思っていました。


それに対してヨハネは「私は声です。」と答えたのです。

なんと潔いことばでしょうか。彼は、私は何者でもない、ただ私の後から来られる、イエス・キリストという素晴らしい御方について伝える「声」に過ぎません。と答えたのです。


彼は当時、絶大な影響力を持っていました。先ほど出てきたヘロデ・アンテパスの、いわゆる不倫問題についてヨハネが糾弾した時も、ヘロデは腹を立ててヨハネを捕らえて牢に入れたものの、民衆たちの反発を恐れて、しばらくの間そのままにしておいたぐらいです。


ヨハネは後にイエス様から、マタイの11章や、ルカの7章で、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれたものは出ませんでした。」と言われ、「この人こそ来るべきエリヤなのです。」と言われたぐらい、特別な人でした。


ですから、少しぐらい自分をアピールしても良さそうなものですが、彼はひたすら、人々の目がイエス様に向くように、「見よ!神の小羊だ!」「イエス・キリストを見よ!」と言い続けたのです。


16世紀のドイツの画家に、「マティアス・グリューネヴァルト」という人がいますが、彼が描いたイーゼンハイムの修道院の施設の礼拝堂にあった「イーゼンハイム祭壇画 第1面 」にバプテスマのヨハネが描かれています。ヨハネが十字架のイエス様を指差しているのですが、彼の右手の人差し指はものすごく大きく描かれて強調されています。このヨハネは、「見よ!神の小羊だ!」と言っているようにも見えます。そして、この肥大化された指が彼自身の証と献身であり、彼の声であることを差しているようにも見えます。


ヨハネのこの力強い使命感、献身の根拠は、ヨハネのこの言葉から計り知ることができます。

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<ヨハネ3:27>

ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」

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神様が、ヨハネに必要な力をお与えになり、お立てになったのです。

バプテスマのヨハネは、「天から与えられた」使命として、「『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声」となり、何者をも恐れず使命を忠実に果たしました。


ヨハネのもとには、当時権力のあったパリサイ人やサドカイ人が、大勢ヨハネからバプテスマを受けるためにやってきました。しかしヨハネは、彼らの「我々はアブラハムの子孫で、選ばれた民だ」という選民意識を見抜き、権力を恐れず、「まむしのすえたち!」と叱りつけました。


人々は、ヨハネがメシヤではないか、エリヤではないかと言いましたが、彼はそれを否定して、3:30 で、「あの方(イエス様)は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言いました。そして、3:31では、「天から来る方は、すべてのものの上におられる。」と言って、人々の目をイエス様に向け、イエス様にすべての栄光が帰されるようにして、生きました。


私たちはこんな風に生きられるでしょうか。


私たち人間は、自分が生きていることについての意義や自分の価値を見出す「自己実現」のために生きていると言っても過言ではないと思います。

悲しいかな、結局は、自分のために生きて、自分のために死ぬのです。

私たちは、この世で誰かに必要とされることを望み、自分の居場所を探し求める旅人のようなものです。


しかし、バプテスマのヨハネの「自己実現」は、私たちのそれとは視点や身の置き所が違いました。


彼は、キリストのために生き、キリストのために死にました。

彼は、誰かに必要とされることを望んだわけではありませんが、たくさんの人から必要とされました。

彼は、旅人のように自らの居場所を探し求めるのではなく、自らの意志を明け渡し、一切を切り捨てて、「先駆者として主の道をまっすぐに整える」ことに献身しました。


私たちがこのバプテスマのヨハネの様に、明確な神様からの使命を持って生きていくことができたなら、どんなに素晴らしいでしょうか。私たちの「声」、つまり与えられた使命、献身とはなんでしょうか。


ここで注目していただきたいのは、ヨハネの献身の生涯は、けっして苦しいものではなかったということです。

ヨハネはこう言いました。

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<ヨハネ3:29>

花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

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ヨハネは「花婿」であるイエス様の声を聞いて大いに喜び、自らが花婿の道を整える「声」となることで、喜びに満たされていたのです。彼は神の栄光を表すという、人間が味わい知る「最大の喜び」を知ったのです。


本日の冒頭の聖句を思い出してください。

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1:14

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

1:15

ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

1:16

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

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私たちは、イエス様の十字架の贖いを知っているではないですか。

私たちは、「恵みの上にさらに恵みを受けた」のです。大いに喜びましょう!

私たちの献身は、自分が召された分野で、喜んでキリストの証人として生きることなのです。


その証の方法はそれぞれです。

17世紀、自らの使命をしっかりと理解して喜んで「声」となった人に、「音楽の父」と称される「バッハ」がいます。彼は、音楽という自分が召された分野で、神の栄光を現すことを生涯の目的とし、最大の喜びと考えました。バッハは敬虔なクリスチャンでした。


バッハの作品の中でも、マタイ受難曲は、バッハの最高傑作と言われ、西洋音楽史を代表する、感動的な大作です。この曲はバッハの死後に有名になった曲ですが、マタイの福音書の26章~27章にかけてのイエス様の十字架の苦難を歌っています。全曲聴くと3時間ほどかかります。


私もカール・リヒター指揮の1958年ミュンヘン録音のCDを持っていて、昔から愛聴していますが、このCDに添付されている解説文には、こんな解釈が書かれていました。

「バッハはこの曲の中に、ある暗号を置いている。」というのです。

この暗号は「14」という数字で、ご存知の方も多いかと思いますが、「14」はバッハの名前をアルファベット順に足していった数です。イエス様の埋葬の場面で、バッハは、「イエス様を埋葬させていただくのはこの私です!」と言わんばかりに、「自ら」という歌詞のところにフレーズの14番目の音を当てたり、「墓となりて」という歌詞を14小節目に当てていたりします。


バッハの時代、17世紀は、数字の比喩的な意味が重要視されていたようです。

それは、聖書には意味のある数字がたくさん出てくるからです。


「3」は父・御子・御霊の三位一体の神を示します。

「7」は聖書における神聖な数の中でも特別な完全数。完成、成就、完結、安息日を意味します。

「12」は聖なる数。神の選びの目的と関連があり、神の民にとっての特別な完全数。1年は12か月に分けられ、ヤコブは神の民イスラエルの12部族の祖となり、キリストは12人の使徒を選ばれました。


他にもたくさん、意味のある数字はありますが、これらの数の象徴は、ルターの宗教改革とともに、音楽を通して福音を比喩的に語る手段として大きな役割をもっていました。


いろいろ調べると面白いのですが、バッハの宗教曲では、聖書の詩篇のナンバーと曲の小節数や歌詞を一致させてみたり、音の数を三位一体の神の数にしたり、拍子や、調、調の頭文字、小節数など、ありとあらゆるところに神への愛と献身をちりばめています。


ここまでくると、もう、バッハは自分の曲にメッセージを織り込むことを、めちゃめちゃ楽しんでやっているように思えますね。バッハは最高の音楽を最上の神様に捧げました。自分の分野で「声」となってイエス様への献身を表しながら、喜びに満ち溢れていたのではないでしょうか。


私たちが、主に仕えるというのは、本来このように喜びが伴うものではないでしょうか。

献身とは、全てを捨てて従うという、とても重苦しく、人生を束縛されるもののように思えますが、本来は、自由に喜んで自らイエス様のために生き、イエス様の栄光を表すことなのです。

喜びましょう!喜んで献身してバプテスマのヨハネのように「声」になりましょう!

私たちは、イエス様の十字架の贖いによって、恵みの上にさらに恵みを受けているのですから!


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2014年8月10日 (日)

ダニエルと3人     ダニエル1:17-21

 紀元前605年、バビロンの王ネブカデレザルがエルサレムに攻めてきました。エルサレムが包囲され、神の宮の器具の一部が持ち出されました。その時、少数の王族や貴族がバビロンに連れて来られました。その中にダニエルと3人の10代の若者が含まれていました。先週学んだエゼキエルは、第二回目の捕囚のときに(紀元前597年)捕え移されました。エゼキエルは居留地の中で預言者として活躍しました。一方、ダニエルと3人は同じ捕囚民でありながら、バビロンの宮廷で官吏として仕えました。ダニエル書には異教の国バビロンにおける6つの苦難が記されています。きょうのメッセージでは前半の3つ、次週は後半の3つを取り上げたいと思います。


1.食べ物

 バビロンの王ネブカデネザルは占領した国々から、人々を捕えて来きました。そして、王の宮廷で仕えることのできるエリート的な若者を探しました。その候補者の中に、ユダ部族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいました。宦官の長は彼ら4人にバビロンの国にふさわしい名前を付けました。それぞれの名前には、バビロンの偶像の名が入っています。敬虔な信仰を持っていた彼らは、良い気持ちはしなかったであろうと思います。王はふさわしい者を選ぶために、王の食物を与えながら3年の養育期間をもうけました。ダニエル1:8-10ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。宦官の長はダニエルに言った。「私は、あなたがたの食べ物と飲み物とを定めた王さまを恐れている。もし王さまが、あなたがたの顔に、あなたがたと同年輩の少年より元気がないのを見たなら、王さまはきっと私を罰するだろう。」彼らに起きた第一の苦難は食べ物です。バビロンでは、一番良い肉やぶどう酒を偶像の神にささげました。その後、偶像から降ろされたものを人が食べます。ですから、普通の肉に偶像にささげられた肉も混じっていました。また、レビ記に記されていますが、イスラエル人にとってきよい食物ときよくない食物がありました。ですから、ダニエルたちは、身を汚さないため、宦官の長に野菜と水だけを求めました。彼が10日後、他の少年たちの顔色とを見比べると、ダニエルたちの血色の方が良かったのです。ダニエル1:16「そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。」

 偶像にささげた肉について、ローマ人への手紙14章とⅠコリント8章にも記されています。ある人たちは、そのような肉は汚れているので食べてはいけないと主張しました。使徒パウロは何でも食べて良いと信じていましたが、このように述べています。Ⅰコリント8:13「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」現代も、菜食主義者とか自然食を心がける人たちがいます。牛は良くても豚はダメだという人もいます。セブンスディの人たちは、コーヒーを飲まないようです。今でもユダヤ人は、旧約聖書のレビ記で禁じられている食物は食べないと思います。おそらく、日本人が好きなウナギとかレバ刺しは食べないでしょう。ともかく、ダニエルと3人は厳しい状況の中に追い込まれました。王様がせっかく与えたごちそうを、「身を汚すので食べません」と断ったならどうなるでしょう?だから、宦官の長は「私は王様を恐れている。もし、あなたがたが栄養不足で顔色が悪かったなら、王様は私を罰するだろう」と言ったのです。もし、自分たちは捕囚の身であり、ただ生き延びる存在だと思っていたなら何でも食べたでしょう。しかし、ダニエルたちは自分たちの体が神様から与えられたものであり、神様の栄光を現すためにあることを知っていました。神様が養ってくださることを信じて、「野菜と水だけで良いです」と言うことができました。その結果どうでしょう?彼らの顔色は、王の食べるごとそうを食べているどの少年たちよりも良く、からだも肥えていました。そこで世話役は、彼らのたべるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒を取りやめて、彼らに野菜を与えることにしました。

 彼らは食べ物の苦難に勝利することができました。その結果、神様は肉体だけではなく、知的にも霊的にも彼らを祝福しました。ダニエル1:17-20「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。彼らを召し入れるために王が命じておいた日数の終わりになって、宦官の長は彼らをネブカデネザルの前に連れて来た。王が彼らと話してみると、みなのうちでだれもダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに並ぶ者はなかった。そこで彼らは王に仕えることになった。王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。」王様はきっとおどろいたでしょう?「ユダから連れてきた若者が、どうしてこんなに優秀なのか?」彼らを官吏に任命し、バビロン州の事務を彼らにつかさどらせました。彼らは今のような大学を出ていないのに、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵がありました。ダニエルはすべての幻と夢を解くことができました。多くは学校の科目にはありませんが、そういう能力を一体だれが与えたのでしょうか?「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた」と書いてあります。そうです。神様がそれらの能力を与えてくださったのです。私たちは学校や自分で勉強することが必要ですが、忘れてならないことがあります。神様が知識や悟る力、知恵を下さるということです。たとえ教育に恵まれていなくても、神様の知恵があったら、世の人たちに引けを取ることはありません。ユダヤ人は大変、頭が良いことで知られています。彼らは律法を幼いころから学びます。また、主を恐れて、神様に知識や知恵を求めているからでしょう。知識は学校の授業や自分の努力で得ることができるかもしれません。しかし、知恵は神様から来るものです。知識がいくらあっても、知恵がなければ、それらを実際に用いることができません。私たちも神様から知恵を求めることができます。ヤコブ1:5「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」


2.無理難題

 第二番目の苦難はネブカデネザル王が無理難題を押し付けたことです。ダニエル2:1-2「ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。そこで王は、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人を呼び寄せて、王のためにその夢を解き明かすように命じた。」しかし、王様は自分が見た夢を告げないまま、夢を解き明かせと無理難題を押し付けました。ダニエル2:5 王は答えてカルデヤ人たちに言った。「私の言うことにまちがいはない。もし、あなたがたがその夢とその解き明かしとを私に知らせることができなければ、あなたがたの手足を切り離させ、あなたがたの家を滅ぼしてごみの山とさせる。しかし、もし夢と解き明かしとを知らせたら、贈り物と報酬と大きな光栄とを私から受けよう。だから、夢と解き明かしとを私に知らせよ。」カルデヤ人たちは、「王様、しもべたちに夢をお話しください。そうすれば、解き明かしてごらんにいれます」と言いました。すると、王様は「お前たちは、偽りと欺きのことばを私の前に述べようとしているんだろう」と信用しませんでした。彼らは「王のお尋ねになることは、難しいことです。神々以外には、それを王様の前に示すことのできる者はいません」と答えました。それでどうなったでしょう?ダニエル2:12「王は怒り、大いにたけり狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた。この命令が発せられたので、知者たちは殺されることになった。また人々はダニエルとその同僚をも捜して殺そうとした。」なんと短気な王様でしょう。そのため、ダニエルと3人の命も危なくなりました。 

 そのとき、ダニエルは王の侍従長から、ことの次第を聞きました。ダニエルは王のところに行き、王にその解き明かしをするため、しばらくの時を与えてくれるように願いました。ダニエルは自分の家に帰り、他の3人にこのことを知らせました。そして、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないように、天の神に請い求めました。すると、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されました。翌日、侍従長に「私を王の前に連れてって行ってください」と願いました。侍従長は「ユダからの捕囚の中に、王に解き明かしのできるひとりの男を見つけました」と言いました。ダニエル2:27-28「ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。」ダニエルのすばらしいところは、私ではなく「天に秘密をあらわすひとりの神がおられる」と告げたことです。ヨセフもパロの前で、夢を解き明かしたときこう言いました。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」(創世記41:16)と言いました。聖書にはいろんな神様からの賜物が記されています。いつでもその能力が引き出せるものもあります。私も手を置いて祈るとき、いくらかは癒されると信じています。しかし、奇跡的な癒しは聖霊様次第だと思っています。ダニエルには幻と夢を解く能力が与えられていました。これは預言や知識の賜物と同じで、神様が示してくれなければ、ダメなんであります。ダニエルは前の晩、神様に祈り求めました。そうしたら、夜の幻のうちにダニエルに啓示されました。なぜ、夜の幻のうちなのでしょう?私たちの意識があまりにも強い場合は、幻を見るにはふさわしくないからです。使徒の働き10章に、ペテロが見た幻の内容が記されています。ペテロがお昼の12時ころ、屋上で祈っていました。彼は食事が用意されている間に、うっとりと夢心地になりました。そのとき、大きな風呂敷が天から地上に降りてきた幻を見ました。ペテロはお祈りをしながら、「おいねり」、寝てしまったのでしょう。意識が飛んでいるときに、幻を見たのです。だからと言って、幻を求めてドラッグに走ったらダメです。大切なのは、天におられる神様が幻や夢、そして解き明かす力を与えてくださるということです。

 ダニエルは王が見た巨大な象の夢を伝え、その解き明かしもしました。ダニエル2:32-33「その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。」この夢は、これから起こる国を示していました。純金の頭はネブカデネザルその人で、新バビロニヤ帝国を表しています。また、銀でできた胸と両腕は、メド・ペルシャです。メド・ペルシャのクロス王がユダの民を解放してくれました。その次の青銅でできた腹とももはギリシャ帝国です。アレキサンダー大王が広大な領地を支配しました。アレキサンダーの死後、国は4つに分割されました。その後の「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」という国とはどこでしょう?ダニエル2:41-43まで詳しく記されていますが、それはローマ帝国です。鉄は確かに強そうですが、一部が粘土だったらどうでしょうか?鉄と粘土とは混じり合うことはできません。それはローマ帝国が団結できなくて、内乱で倒れてしまうという預言です。確かに、ローマ帝国は5世紀、ゲルマン民族によって自然消滅しました。しかし、ダニエルはその後の王国も預言しています。ダニエル2:44-45「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。」「永遠に立ち続ける一つの国」とは、キリストによる王国です。人ではなく、「一つの石」であるキリストによって永遠の御国がもたらされるということです。

 この夢の解き明かしによってダニエルはどうなったのでしょうか?王様は、「あなたがこの秘密をあらわすことができたからには、まことにあなたの神は、神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ」と言いました。そして、ダニエルを高い位につけ、彼に多くのすばらしい贈り物を与えて、彼にバビロン全州を治めさせ、また、バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官としました。他の3人は、ダニエルの願いによって、バビロン州の事務をつかさどらせました。このようにバビロンの王をして、彼らの神がまことの神であることを表明させたのです。


3.火の燃える炉

 第三番目の苦難はネブカデネザル王が3人を火の燃える炉に投げ込んだことです。あれから何年かたって、ネブカデネザル王は巨大な金の像を作りました。大きさでいうと、高さが約27メートルです。奈良の大仏の高さは15メートルです。座高なので、もし立ったなら、同じくらいになるかもしれません。金の像を造った後、王は諸州の高官を招集して、盛大な奉献式を催しました。そのとき伝令官にこう言わせました。ダニエル3:4-6「諸民、諸国、諸国語の者たちよ。あなたがたにこう命じられている。あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」その場にいた人たちは、みなひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝みました。その後、金の像の前にひれ伏さない人たちがいるという、タレこみがありました。ダニエル3:12「ここに、あなたが任命してバビロン州の事務をつかさどらせたユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおります。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」それを聞いたネブカデネザル王は怒りたけり、3人を呼びました。「こらっつ。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。お前らは、私の神々に仕えず、私が立てた金の像を拝みもしないというが、本当か?ひれ伏して拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、お前らはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が私の手からお前らを救い出せようぞ!」仁王のように、いきり立って言いました。彼ら3人は何と答えたでしょう?ダニエル3:16-18「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

 昔の口語訳は「たといそうでなくても」と訳されています。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、「たとい火の燃える炉から救い出されなくても、あなたが立てた金の像を拝むようなことはしません」と言ったのです。今から40年くらい前、「たといそうでなくても」という題の映画がありました。これは、韓国の女性伝道師が日本兵から迫害されるという実話をもとにした映画です。第二次世界大戦中、朝鮮では神社参拝をしないクリスチャンが捕えられました。その方は、若い女性で5年間獄中を生活し、拷問に耐えながら、敢然と戦い抜きました。同獄の仲間たちも、彼女の勇気で霊的によみがえらされというドキュメントです。彼女自身は、死ななかったので「失格した殉教者」と言っています。黙示録13章にありますが、反キリストは「獣の像」を作って、人々に拝ませようとします。そして、「獣の像を拝まない者をみな殺させた」と書いてあります。終わりの時代も、ダニエルの時のような迫害がやってくるでしょう。そのとき、何事が起ころうとも、「たといそうでなくても」、殉教覚悟で信仰を守っていきたいと思います。

 それで彼らはどうなったのでしょうか?ダニエル3:12「すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。」彼らは衣服を着たまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれました。そのとき、彼らを連れてきた者たちは、その火炎に焼き殺されてしまいました。王様は「果たして、どうなったか」と中をのぞいて言いました。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」ネブカデネザルは彼らを炉から出しました。彼らを見て驚きました。火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしませんでした。ダニエル3:28-30ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。

 なんと痛快な物語でしょう。処刑するつもりで炉の中に入れたのに、髪の毛も焦げないで出てきました。王をして「彼らが信じる神を侮るな、彼らの神は他にはいない」とまで言わせました。逆に彼らが信じている神があがめられるようになりました。ところで、ネブカデネザルは「第四の者の姿は神々の子のようだ」と言いました。王は「神の御使いを送った」と解釈していますが、果たしてだれなのでしょうか?伝統的には、「受肉前のキリストではなかろうか?」と考えられています。なぜなら、「神々の子のようだ」とあるからです。おそらく、受肉前のキリストが炉の中の3人を守ったのではないかと思います。なんとすばらしいことでしょう?髪の毛は体の中で、一番燃えやすいところです。たまにガスコンロの調節を間違えて、髪の毛を焦がすときがあります。きなくさいにおいがします。3人は火のにおいもしなかったと書いてあります。イザヤ43:2「火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」とあります。私たちも、火の燃える炉の中に投げ込まれるような試練に合うかもしれません。しかし、私たちの主は、その火の燃える炉の中に入って来られ、私たちを守ってくださいます。たといそうでなくても、私たちはこの信仰を守り通したいと思います。なんでもないときは、どんなことでも言えます。しかし、苦難のとき、試練のときは、気持ちだけでなく、信仰までおびやかされます。しかし、私たちの神は私たちの信仰以上の神様です。気が動転して、信仰をなくすようなことがあっても、私たちを捕えて離さないお方だからです。私たちの状態によらないものが救いだと思います。


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2014年8月 3日 (日)

エゼキエルの幻 エゼキエル1:1-11

紀元前605年、バビロンの王ネブカデレザルがエルサレムに攻めてきました。そのとき、宝物倉から宝の一部が持ち出され、ダニエルたちが連れていかれました。また、紀元前597年に第二回目の捕囚がありました。ネブカデレザルによってエホヤキン王とその家族、高官や祭司、書記など有力者1万人、それに職人や鍛冶屋がバビロンに捕らえ移されました。祭司エゼキエルがその中にいました。捕囚の民は幾つかの居留地に分けられましたが、エゼキエルたちが送られた居留地は、チグリス川とユーフラテス川にはさまれた平野の南部でした。捕囚民として連行されて来て5年目に、エゼキエルは預言者として召されました。


1.エゼキエルの召命

 エゼキエルは、困難な時代に預言者として召されたゆえに4つのことが必要でした。第一は、見ることです。霊的な世界を見る目です。エゼキエル1:1「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」エゼキエルが見た神々しい幻とは何でしょう?1:4「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。その中に何か四つの生きもののようなものが現れ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。」エゼキエルは主の栄光を見ました。そこには、人間が近づくことのできない、激しい風、大きな雲と閃きがありました。彼は、得体の知れない4つの顔を持った生き物を見ました。どのような姿なのか、文章だけではよくわかりません。ビジュアル的にしてもらえたらと思います。エゼキエル書10章にも出てきますが、その生き物とはケルビムであり、守護と賛美をつかさどっている天使です。エゼキエルはこの先、何度も幻を見させられます。神学的には異象(黙示)と言って、あえて分からないように象徴的に書かれています。エゼキエルはバビロンという敵地にいたので、そのように書く必要があったと思われます。このような意味で、エゼキエル書はヨハネの黙示録と良く似ています。

 第二には聞くことです。エゼキエル1:28「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは【主】の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」預言者は、まず自分が主の御声を聞かなければ、民たちに告げることはできません。エゼキエルは召命時に、何を聞かされたのでしょうか?エゼキエル2:1その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。」彼らは反逆の家であり、「神である主はこう仰せられる」と言っても、彼らは聞かないと言われました。私のように、礼拝でメッセージを語るのとは訳が違います。ここにいらっしゃっている方々は、主のことばを聞こうとしてやってきていますので、話す方はとても楽です。しかし、彼らは聞こうとしない「あつかましくて、かたくなな」人たちでした。それでも、エゼキエルは主から聞いて、そのまま、彼らに語りました。預言者は気が滅入るような戦いが常にあります。

 第三はみことばを食べることです。エゼキエル3:1-3「その方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。』そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。」『聖書人者伝』を書いている沢村五郎師はこう述べています。「預言者は神の声を聞くだけでなく、また神のことばを食べなければならなかった。万巻の書を読んでその頭脳を養い、学位をえることによっては、預言者はでき上がらない。神のことばを黙想玩味して消化し、腹を養うのでなければ、確信の人とはなれない。多年学窓に学んで十分な素養を身に着けながら、実践に立って力なく、生活難のようなそよ風にすら吹き飛ばされて伝道界を去るもみがらのような牧師、伝道師は、その腹が神のことばによって満たされておらず、そこに重みがないからであろう。預言者は巻物を食べて蜜のような味を味わい、さらに腹が苦くなるまで、玩味しなければならない。」なんという、辛口なコメントでしょうか。玩味とは、食物をよくかんで味わうことです。また、言葉や文章などの表している意味や内容などを、よく理解して味わうということです。「聖書研究」とか「聖書勉強」は悪くありませんが、聖書と自分の間に距離があります。しかし、みことばをよく噛んで、食べないと、体の一部にはなりません。聖書は欠くことのできない、霊的な食物です。聖書を読むのが大変でしょうか?口の中で蜜のように甘くなる経験をしたなら、また読みたくなるのではないでしょうか?

 第四は顔を堅くされることです。エゼキエル2:6人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」「反逆の家」ということばが、2章と3章に6回出てきます。反逆する人たちに、主のことばを語るならどうなるでしょう?怒って、はむかって来るでしょう。辱められ、命を取られるかもしれません。エゼキエル3:7-9「しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」イスラエルの家の人たちは鉄面皮、つまり鉄のような顔と額です。主は、エゼキエルの顔を「火打石よりも堅い金剛石のようにする」とおっしゃいました。少し前の口語訳は「あなたの顔を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした」と訳しています。英語のある聖書にも「ダイヤモンド」と書いてありました。ダイヤモンドにはどんな金属や鉱物も勝てません。預言者は、人から何と言われても、ひるまない、打たれ強い体質が必要です。

 エゼキエルは困難な時代の預言者として必要な4つのものを与えられました。幻を見ること、主の御声を聞くこと、巻物を食べること、顔が堅くされることです。これは現代の私たちにも必要なことです。私たちも幻(ビジョン)を見ることが必要です。しかし、現実がすべてだと思っている人は、幻を見ることができません。幻は消えてなくなるはかないものではありません。なぜなら、幻から信仰が生まれるからです。幻のない民は滅びます。日本もこの先、どうなるかわかりません。住むところがなくなり、捕囚のような生活を強いられるかもしれません。情報過多の時代に主の御声を聞くことが必要です。また、何よりもみことばを食べることが必要です。世の終わりは人々から笑われたり、迫害を受けるでしょう。だから、めげないために顔がダイヤモンドのように堅くされる必要があります。


2.エゼキエルのメッセージ

 エゼキエルの中心的なメッセージは2つあります。第一は、主の栄光がエルサレムの宮から離れるという主のさばきです。第二は、世の終わりに主の栄光が再び回復させられるという希望です。エレミヤは最後までエルサレムで預言していました。一方、エゼキエルは何百キロも離れた、居留地で預言していました。エゼキエルは、一万人の捕囚の民と一緒に暮らしていました。その人たちは「あれから5年もたったのに、エルサレムは破壊されずに存続しているじゃないか」と疑っていました。また、その頃、エルサレムではハナヌヤという預言者が「二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く」(エレミヤ28:11)、つまり捕囚から帰還することができると預言しました。そういう噂が何百キロも離れた居留地に届いていたのかもしれません。しかし、それは主から出たことばではありませんでした。エレミヤはバビロンに引かれて行った捕囚の民、長老たち、祭司たち、預言者たちに、エルサレムから手紙を送りました。「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために【主】に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。…あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:6-11)エレミヤの手紙を受け取ったのは、エゼキエルたちでした。エゼキエルの使命は、70年の時が満ちて、彼らがもとの所に帰るまで彼らの信仰を保つということですした。ですから、エゼキエルはエルサレムに残っている人たちと、バビロンに捕らえられている人たちに向けて語ったのだと思われます。

 エゼキエルは4章から24章まで、エルサレムのさばきを預言しています。ことばだけではなく、行動で預言しています。まず390日間、左脇を下にして横たわりました。その後、40日間、右わきを下にして横たわりました。また、人の糞で焼いた大麦のパンを食べました。また、髪の毛やひげを剃って、風に吹きさらせ、残りを火で焼きました。これらはみな、イスラエルとエルサレムに対するさばきの預言です。あるときエゼキエルは、エルサレムにいる長老たちを見ました。彼らは外から見たら、神殿を守っている敬虔な人たちでした。主はエゼキエルの霊をエルサレムに携えて行きました。神殿の壁に1つの穴があり、そこを通り抜けました。エゼキエル8:10-11「私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。」なんと、彼らは神殿の中で、他の神々を礼拝していました。そして、「主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた」と言っていました。さらに主は、彼の霊を宮の北の入口へ連れて行きました。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていました。さらに主は、彼を主の宮の内庭に連れていきました。25人ばかりの人が、主の宮の本堂に背を向け、顔を東の方の太陽を拝んでいました。なんというおぞましい光景でしょう。タンムズは豊作の女神であり、太陽はエジプト的なカナンの神様でした。彼らは主なる神があてにならないので、偶像の神々に頼っていたのです。

 エゼキエルは、壁に穴をあけて通り抜け、神殿の内部を見ることができました。新約聖書には私たちの体は聖霊の宮であると書かれています。壁に穴を開けて、内部を見るとはどういう意味でしょう?私たちの心は壁で覆われており、人々は、何を思っているか分かりません。しかし、主は霊によって、心の壁に穴をあけて、内部を覗くことができます。あなたの心の壁に何が彫られているでしょう?あなたはだれに香をたいているでしょう?あなたは密かに何を思っているでしょう?あなたはだれを慕って涙を流しているでしょう?医者はファイバースコープを使って、血管内を通り、臓器の内部を見ることができます。脳の中の手術も、がばっと開けないで、小さな穴をあけて、カティーテルで手術できるようです。神様が人間に与えたもっと大きな力は、何かを想像(イメージ)することです。何かをイメージしたら、今度はそれを実際の形を作ることが可能になります。しかし、イメージによって、こういう偶像を作ることも可能です。心の中で、偶像を拝んでいても、だれも分かりません。人にはわからないかもしれませんが、神の霊、聖霊があなたの中に入るとき、すべてがあらわにさせられます。あなたの心の部屋や倉庫を行き巡り、調べてくださいます。ダビデはこのように祈っています。詩篇139:23-24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 神様はイスラエルをご自分の民として選びました。彼らに律法を与え、導いてこられました。しかし、彼らは主を捨て、偶像崇拝に走りました。決定的に、わかったことがあります。生まれつきの人間には神様に従うことは無理だということです。エゼキエル書には新約聖書の預言が記されています。エゼキエル11:18-20「彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」70年の捕囚から帰ってきた人たちをユダヤ人と言いますが、彼らはそれ以降、偶像崇拝をしませんでした。しかし、心を頑なにして、メシヤを十字架につけて殺しました。「新しい霊を与える」とは、イエス様が天に戻られてから与えられる聖霊のことでした。ペンテコステ以降、新生という、霊的な誕生がなされるようになりました。それまでは、外側から律法を与えても守る力がありませんでした。石の心とは頑固で神様に逆らう心です。そして、肉の心とは神様に従順する柔らかい心です。石の心は、直すのではなく取り除くしかありません。そして、新しい肉の心に入れ替えていただく必要があります。私はいろんな人と会いますが、その人と数分、会話しただけで、「この人は石の心を持っているなー」「この人は柔らかい肉の心だなー」とすぐ分かります。さきほど、「壁に穴を開けて、内部を見る」ということを話しました。その人が何か話すとき、心の倉からことばと一緒に何かが出てきます。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」(マタイ12:34-35)と言われました。外面を整えるのも大切ですが、内面を整える方がもっと大切です。聖霊を内側に歓迎しましょう。聖霊は私たちを生まれ変わらせ、さらに栄光から栄光へと造り変えてくださるお方です。私たちを罪と律法から解放し、神様に従わせてくださる命の御霊です。


3.エゼキエルの幻

 エゼキエルはイスラエルの回復、そして人類の回復について預言しています。バビロンから帰って来たときのことではなく、はるか先の千年王国のことを預言しています。しかし、それは預言というよりも幻、異象ということができます。エゼキエルの幻で有名なのは3つあります。第一は、エゼキエル37章の枯れた骨です。第二は、47章の神殿の敷居から流れる水です。第三は、神殿と12部族の相続地です。このことは、40章から終わりの48章まで克明に記されています。多くの預言書には、千年王国について記されていますが、これだけ詳しく書いてあるのはエゼキエル書だけです。神学者の中には千年王国を否定する人たちがいます。しかし、神様のみこころは一度選んだイスラエルを回復することです。これらの預言を異邦人である私たちの視点から、解釈するのは不可能です。イスラエルの民の回復、神殿の回復は、預言者たちに共通しているからです。神殿の敷居から流れる水、「神の川」については、何回か話したことがあります。それで、最後にエゼキエル37章の枯れた骨についてお話したいと思います。エゼキエル37:1-2【主】の御手が私の上にあり、【主】の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。」エルサレムはバビロンによって徹底的に破壊されました。最後の王ゼデキヤも両眼をえぐり取られ、足かせにつながれてバビロンに引かれてきました。主だった者たちも殺されるか、捕囚として連行されてきました。強大なバビロニヤの軍隊、難攻不落なバビロンの城壁。その中でかろうじて生かされている捕囚の民が、故郷に帰りイスラエルを復興できるのでしょうか?捕囚の民の中に、無気力、敗北感がしだいに蔓延していました。ひどく干からびていた骨は、イスラエルの絶望的な姿を象徴しています。エゼキエル37:3-5主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。【主】のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

 エゼキエルが命じられたように預言するとどうでしょう?ガカガサと音がして、やがて、大きな轟になりました。見ていると、骨と骨が互いにつながりました。骨の上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおいました。主は「息に預言せよ」と仰せられました。エゼキエルは「息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」と預言しました。すると、息(霊)が彼らの中に入りました。すると、彼らは生き返り、自分の足で立ち上がりました。そして、非常に多くの集団になりました。主は「これがイスラエルの全家である。私が彼らを墓から引き上げ、イスラエルの地に連れて行く」と言われました。しかし、この預言はイスラエルのことだけではありません。新約時代、イエス・キリストが救い主、そして王として来られる時にも起こります。今から20年くらい前、韓国の河ヨンジョ牧師が、富士箱根ランドに来られ、この箇所からメッセージされました。「霊的な目で見るなら、日本こそが、枯れた骨である。しかし、聖霊が吹き込まれるとき、日本の民は生き返る。聖霊充満こそが、リバイバルの希望である」と力強くメッセージされました。私たちもエゼキエルのように、霊的な世界を見る視力が必要です。現実から神様のわざを期待することはできません。主は、私たちに幻と預言を与えてから、みわざをなさってくださいます。どうぞ、みことばと聖霊によって、エゼキエルのような幻と預言をいただきましょう。


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