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2014年7月27日 (日)

エレミヤの哀歌    エレミヤ9:1-3

 エレミヤはエルサレムがバビロンによって滅ぼされるのを預言しただけではなく、実際に目撃した人です。そのことを嘆いて書いた書物が哀歌です。伝統的に、哀歌はエレミヤの作と言われています。私たちは旧約聖書の人物から学んでいますので、聖書の哀歌を参考にしながら、預言者エレミヤのことを学びたいと思います。前回のメッセージはエレミヤ書全体を網羅しましたが、本日は、哀しみの歌のところにポイントを当てたいと思います。


1.エレミヤ書の哀歌     

 エレミヤは女性的で涙の預言者と呼ばれています。しかし、もし自分がその時に召されたなら、同じようになるでしょう。前回も申し上げましたが、主はバビロンによって南ユダを滅ぼすことを決定していました。それまで預言者を遣わして何度も警告しましたが、偶像礼拝をはじめとする多くの罪を悔い改めませんでした。神様の怒りがなだめられるのは、彼らがだまってバビロンに降伏し、捕らえられて行くことでした。唯一の希望は、70年後、バビロンから戻ってくることができるということでした。エレミヤは神からの啓示と幻をストレートに伝えました。予想通り、王と民たちは主のことばに反逆し、エレミヤを監禁しました。エレミヤは、さばきがどれくらい悲惨なのか、前もって知ることができました。だから、このように嘆いています。エレミヤ9:1「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。」エレミヤは「ああ」と嘆いていますが、エレミヤが書いたと言われる哀歌も「ああ」ではじまっています。ですから、ヘブル語訳の哀歌は「ああ」(エーカー)という呼び名になっています。哀歌の内容は後から取り上げますが、エルサレムの破壊と人々の無残な姿に対する嘆きの歌です。

エレミヤ9章に「哀歌」ということばが2回出てきます。このところからも哀歌がエレミヤの作ではないかと考えられます。エレミヤ9:10「私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧草地のために哀歌を唱える。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、みな逃げ去っているからだ。」エレミヤ9:20-21「女たちよ。【主】のことばを聞き、あなたがたの耳は、主の言われることばを受けとめよ。あなたがたの娘に嘆きの歌を教え、隣の女にも哀歌を教えよ。死が、私たちの窓によじのぼり、私たちの高殿に入って来、道ばたで子どもを、広場で若い男を断ち滅ぼすからだ。」エレミヤは主から示された啓示と幻を民たちに告げました。しかし、聞いた人たちは、あざ笑い、その預言を退けました。その当時、ビデオは発明されていませでした。しかし、エレミヤはまだ起きていない出来事を映像で見ることができました。エルサレムの町が焼かれ、人々が切り殺される様子を見ました。だから、私の頭が水であったなら昼も夜も泣けると言っています。いや、自分一人では泣ききれないので、「泣き女を呼んで来させ、私たちのために嘆きの声をあげさせ、私たちの目に涙をしたたらせよ」(エレミヤ9:17-18)とも言っています。当時はお葬式のとき、哀しみを増し加えるために、泣き女を雇いました。エレミヤは「あなたがたの娘に嘆きの歌を教え、隣の女にも哀歌を教えよ」と命じました。ユダヤ人の会堂では、7月の中ごろ(アビブの月)に哀歌を朗読するそうです。彼らは紀元前586年のバビロン捕囚、そして紀元後70年のローマによるエルサレムの崩壊を忘れないためです。

日本人は泣いたり、嘆くということをあまりしません。しかし、お隣の韓国は、悲しみをあらわにする国民だと思います。去る4月韓国船フェリー、セオル号が沈没しました。200人以上の人たちが亡くなりました。日本中も「なぜあんなひどいことが起きたんだろう」と驚いたと思います。やがて10以上の事故原因が浮かび上がりました。しかし、高校生を亡くした親御さんたちの悲しみと嘆きは、いかばかりだったでしょう。私も無責任な人たちに対する怒りと苦々しい思いに満たされました。しかし、被害者たちの悲しみと怒りは、船長や船員たちが裁かれても収まらないでしょう。「なんで、あの事故を防げなかったんだろう」「うちの子供はどんなに苦しんで死んだのか」「この先、希望の人生があったのに」「どうして、あんな船に乗ったんだろう」。このような悲しみと怒りをぶちまけたのではないかと思います。エレミやの哀歌は、これと似ています。私たちは嘆き悲しむことが必要です。よく、事件や事故の後、「これから二度とこういうことが起きないように願います」と言います。しかし、そういう早急な解決は間違っています。「これから」ではなく、今十分に悲しまないと次のステップは見えてきません。イスラエルの人たちは、モーセが死んだとき、30日間、泣き悲しみました。嘆き悲しむ喪の期間が終わってから、出発しました。日本の仏教では、初七日、四九日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌とあります。その目的は、故人の冥福を祈り、その霊を慰めるためでしょう。しかし、遺族の悲しみが癒されるように、あえて、そういう期間が設けられているのかもしれません。人間の知恵がそこにあるような気がします。私たちクリスチャンは、「神様がすべてのことを益にして下さいますよ」と慰めがちです。当人がそのように悟る分には構いませんが、失ったものを泣いたり、嘆く期間が必要です。悲しみや嘆きがない方が良いに決まっています。しかし、この世においてはそういう悲惨な出来事は何度か起こります。しかし、悲しみや嘆きを神様の前に注ぎ出すとき、次のステップが開かれるのではないかと思います。マタイ5:4「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」です。


2.エレミヤの哀歌 

こんどは、エレミヤ書の次の書物、「哀歌」を少し取り上げたいと思います。昔の文語訳は「エレミヤ哀歌」と言いました。英国の聖書も、The Lamentations of Jeremiahとなっています。しかし、いずれも改訂してから、「哀歌」だけになりました。前のポイントでも申し上げましたが、伝統的にはエレミヤが書いたのではないかと言われています。ユダヤ人の70人訳の表題には「イスラエルが捕えられたのちにエレミヤが泣きながら歌い、エルサレムのために嘆いた書」と書いてあります。哀歌の特徴は、エルサレムを「シオンの娘」と女性にたとえていることです。哀歌2:1「ああ、主はシオンの娘を御怒りで曇らせ、イスラエルの栄えを天から地に投げ落とし、御怒りの日に、ご自分の足台を思い出されなかった。主は、ヤコブのすべての住まいを、容赦なく滅ぼし、ユダの娘の要塞を、憤って打ちこわし、王国とその首長たちを、地に打ちつけて汚された。」バビロンによって徹底的にエルサレムの城壁、町、神殿が破壊され、汚されました。年寄りも若者も剣で切り殺されました。では、幼子たちはどうなったのでしょう?哀歌2:19「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」この聖句は日曜学校の教師研修会で引用されることがあります。幼子たちが食べるものがなく、飢えのため弱り果てています。しかし、それだけではありません。哀歌2:20「【主】よ。ご覧ください。顧みてください。あなたはだれにこのようなしうちをされたでしょうか。女が、自分の産んだ子、養い育てた幼子を食べてよいでしょうか。主の聖所で、祭司や預言者が虐殺されてよいでしょうか。」読むに耐えないようなことも書かれています。

しかし、哀歌の中にも希望のみことばがあります。ある者たちは捕らえられバビロンに引かれていきました。しかし、それが主のみこころでした。彼らはだまって捕らえられたので、命を分捕り物として得ることができました。前回も言いましたが、エレミヤが言う「平和を与える計画」とは、だまってバビロンに捕らえられることです。そして、70年の満ちるとき、主の顧みによって帰ることできるということです。おそらく、この箇所がそのことと関連があると思います。哀歌3:22-33「私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。【主】こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。【主】はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。【主】の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」その当時の人たちは、バビロンに捕らえられることは敗北であり、恥であると思いました。そのために、必死に抵抗しましたが、剣で殺されることになりました。そうではなく、「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ」というのが正しいのです。その上で、主を待ち望むように命じられています。

 戦時中はそうだったかもしれませんが、私たちはエレミヤの時代ほど、苦しい状況にある人はいないと思います。しかし、自分が神様のあわれみによって、滅びうせなかったことは主の恵みであり、あわれみではないでしょうか?救われる前は、いろんな権利を主張したかもしれません。怒りや復讐心を生きるバネにしていかもしれません。しかし、キリストを信じて救われてからどう変わったでしょうか?「ああ、本来なら自分が犯した罪でさばかれて当然だった。しかし、主のあわれみによって生かされている。」と思ったのではないでしょうか?では、救われてから全く試練がないかというとそうでもありません。不当な扱いや不条理を経験したとき、「神様、なんで私が苦しまなければならないのですか?」と文句を言ってしまいます。救いを得て、新生したはずなのに、神様を呪うような気持ちがまだどこかにあったなんて信じられません。そうです。神様は金や銀を精錬するように、火の中を通します。ヘブル人への手紙12章には、「主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えるからである」と書いてあります。つまり、懲らしめを受けるのは、私たちが私生児ではなく、本当の子だからです。ユダの残りの民も、バビロンという溶鉱炉の中を通らされる運命にあったのです。70年たてば、彼らの罪咎が打ち消され、再び戻ってくることができます。哀歌には、「人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。」と書かれています。でも、「若い」って、どれくらいの年齢なのでしょうか?おそらく、40歳でも若いと思います。一番、自信がつく頃だからです。40歳で砕かれると、60歳まで大丈夫です。また、60歳で砕かれると今度は80歳まで大丈夫です。80歳で砕かれると100歳まで大丈夫かもしれません。「神様、なんでそのような苦しみを与えるのですか」と文句を言いたくなります。でも、それは次のステップに上がるために、必要な試練なのかもしれません。哀歌には、「たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」と書かれているからです。

 みなさんの中には長い間、病気で苦しんでおられる人もいるでしょう。聖書では「神様は病気を与えない」といっているのに、なぜ、こんなに長引くのでしょう。また、伴侶や子供たちのことで、悩みや問題を抱えている人もいるでしょう。いっそのこと、家庭を捨てて、一人で暮らした方が気楽だと思っているかもしれません。また、仕事や夢を追い求めてがんばっているのに、なかなかブレイクがやってこない。現状維持か、あるいは先細りの道を歩んでいる。信仰とかビジョンの話しなど、もう聞きたくないと思っているかもれません。でも、「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」「たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる」とあります。まさに、今が耐える時であり、主を待ち望む時です。主は必ず、私たちを顧みて、引き上げてくださいます。時が満ちると言いますが、器の水はいつ溢れるかご存知でしょうか?器の淵まであと1センチなんですが、外から見たら全く変わりません。5ミリでもダメです。プラスマイナスゼロでもダメです。表面張力の分を超えたら、ザーッと溢れ流れてきます。今が耐える時であり、主を待ち望む時です。もうすぐ、神様がみわざをなしてくださいます。神様のワンタッチで、すべてが変わります。私たちも待っていますが、神様ご自身も、そのときを待っておられます。


3.イエス様の哀歌

 福音書を見るとわかりますが、イエス・キリストはエレミヤの再来ではないかと思われています。マタイ16:13-14「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々は人の子をだれだと言っていますか。』彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。』」人々がそういうのは、イエス様がエレミヤとどこか似ているからでしょう?ある本に「エレミヤは苦難の預言者として、苦難のしもべイエスに最も似た人物であった」と解説していました。中間時代の人たちはメシヤが来臨する前に、エレミヤが戻ってきて、ネボ山の洞窟に隠されていた契約の箱と香をたく祭壇を取り出してくれると信じていたようです。それよりも、イエス様がエレミヤと似ている箇所があります。それは、エルサレムに入城する直前のことです。ルカ19:41-44エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」旧約のエレミヤはバビロンによってエルサレムが滅ぼされることを嘆きました。そして、新約のイエス様はローマによってエルサレムが滅ぼされることを嘆きました。残念なことに、エルサレムは同じことを繰り返してしまいました。

 イスラエルは神様によって選ばれた民でした。選ばれた民であったからこそ、責任もありました。ところが、イスラエルはその特権に甘んじて、罪を犯し続けました。神様は預言者たちを何人も遣わし、立ち返るように求めました。しかし、イスラエルは心を頑なにするばかりでした。最後に神様はご自分の御子を遣わしました。「わが子ならきっと敬ってくれるだろう」と思ったからです。ところが、彼らは御子イエスを捕まえて、殺そうと企みました。イエス様が丘の上からエルサレムが見えたとき、このように嘆きました。ルカ13:34「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」イエス様はエレミヤのよう涙を流して嘆きました。神様が一番悲しまれるのは、ご自分の愛が受け入れられない時です。私たちはイスラエルのように心頑なになって、主の愛を退ける者となりませんように。主は一人も滅びることなく、永遠のいのちを持つように願っておられます。

 私は先週から坐骨神経痛のために歩くことも、座ることも、寝ることもできませんでした。おしりの下からふくらはぎまで、鈍痛が走ります。家で「痛い!」と叫ぶと家内が「病院に行きもしないで」と叱ります。そのため、私は牧師室で「痛い!」「痛い!」と泣き叫んでいました。仕方がないので、横にねそべりながら本を読むことにしました。途中までの読みかけの本がたくさんありましたが、穐近裕(あきちかゆたか)師の『土方のおやじ』を読み終えました。先生は子供のとき、アメリカに移住し、そこで信仰を持ちました。日本とアメリカが戦争している時も、特別に許可されアメリカで伝道しました。戦後はマッカーサー元帥によって、アメリカから日本に宣教師として遣わされた特異な人です。先生は日本に来て、多くの人たちを導き、やがてそれがイエス福音教団になりました。私が一番感動したのは、日本に宣教師として来るとき、息子と娘をアメリカに置き去りにするしかなかったことです。そのとき日本は焦土と化していたので、子連れで日本に来ることが許されませんでした。出発するとき、肉の兄弟姉妹たちからは「お前が日本に行くなんて気違いだ」とののしられました。そのとき、聖書の約束を思い出しました。マルコ10:29-30「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」先生は、「そうだこの二人も捨てよう。いや、イエス様の御手にお献げしよう。お任せしよう」と決心しました。13歳の息子と別れるとき「父は日本に行って死ぬんだ。お前はおじいさんのところへ帰れ」と言いました。そのとき、ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」というみことばを思い出しました。「父なる神様は、自分のひとり子をこの世に送り出されたんだ。ヨハネ3章16節を単なる聖句として、口先だけで、神の愛を論じたってダメだ。イエス様のために命を懸けなければならない」と決意しました。このメッセージが先生の生涯をずっと貫きました。当時の日本人は、「すべてを捨てる」とか「命がけ」というメッセージに胸元をぐっと掴まれました。その結果、日本の土を踏んで35年間に、20の教会ができ、1000名以上の信者がイエス福音教団に加えられました。天に召された田中政雄牧師がミスター穐近のことをこう述べています。「ミスターは特別、聖人だとは思いません。凡人で、人間的な人だなあと思うんです。なぜなら、しょっ中泣いているんです。証を聞いては涙ぐみ、説教を聞いては涙を流している。私はミスターの涙を数えられないほど見てまいりました。」涙を流すということは恥ではありません。中には悔しい涙もありでしょう。しかし、エレミヤやイエス様、そして穐近牧師の涙は、神の愛からほとばしる涙です。涙を流して、言わなければわからない人がたくさんいます。これまでさんざん裏切られ、悲哀をなめてきたからでしょう。でも、神様の愛から来る真実な涙もあります。「父の涙」という歌がありますが、神様はひとり子を十字架につけてでも、私たちを救いたいと願っておられます。父の涙を無駄にしてはいけないと思います。また、父の涙に感動しつつ、命がけで福音を宣べ伝える者となりたいと思います。

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2014年7月20日 (日)

 ~正しい人たちの仕え方~  亀有教会副牧師 毛利佐 保

<マタイの福音書25章31節~40節>
25:31
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着
きます。
25:32
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるよう
に、彼らをより分け、
25:33
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の
初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、
わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが
牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見
て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げまし
たか。
25:39
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしました
か。』
25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これら
のわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
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本日の聖書箇所は、24章終わりから25章始めのたとえ話に続く「羊と山羊のたとえ」として知られ
ていますが、厳密に言えば、16:27 「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来
ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」というみこと
ばを受けた、最後の審判の描写です。この描写は、25章46節、25章の最後まで続きます。
37節の「正しい人たち」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語では di,kaioi(デュカイオ
イ)、辞書形では、di,kaioj(デュカイオス)と書かれており、意味は「正しい、義である」で
す。ですから、「正しい人たち」とは、神様によって「義である」と認められた人たちだというこ
                                  1とです。
そしてここでは、羊にたとえられ王の右に置かれた正しい人たちに対しては、25:34 『さあ、わた
しの父に祝福された人たち』と呼び掛け、『世の初めから、あなたがたのために備えられた御国
を継ぎなさい。』と言われました。反対に山羊にたとえられ王の左に置かれた人たちには、25:41
『のろわれた者ども。』と呼び掛け、『わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意され
た永遠の火にはいれ。』と言われました。
そして、祝福された人たちと、のろわれた者どもの、それぞれの行いについて具体的に述べられま
した。
そして、最後に25:46
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こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。
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と言われました。最後の審判では、それぞれの行いに応じてこのような振り分けをされるというの
です。
このマタイ25:31-46に書かれているみことばの解釈については、いくつかの考え方や疑問がありま
すので、ここでご紹介し、私たちなりに整理しておきたいと思います。
まず、イエス様が語られた25:40のみことば、
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25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これら
のわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
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という、この「わたしの兄弟たち」について、このような考え方があります。「兄弟たち」とは、
「ユダヤ人」のことを言っているのではないかというのです。だから、現代の私たちも来るべき終
末に備えて、エルサレムに目を向けて、ユダヤ人に親切にしようではありませんか!と呼び掛けて
いる人も実際にいます。
確かに、イエス様の時代では「兄弟」と言えば、ユダヤ人の同胞を指す言葉ではあったと思いま
す。しかし、現代はクリスチャン同士で「兄弟姉妹」と呼び合いますし、このみことばは終末の最
後の審判でのことばなので、「兄弟」とは私たちの周りにいる人すべてと考えて良いのではないで
しょうか。私はそう解釈します。
次に疑問ですが、ここを単純に読んでしまうと、「空腹な人に食べる物を与え、渇いている人に
飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見舞い、牢にいる人をたずねる」
・・・という愛の行いを実行したなら「永遠のいのち」が与えられ、実行しなければ、「永遠の刑
罰」が与えられると言われているように受けとれます。
ですから、「救いは行いによって振り分けられるのですか?自らの罪を悔い改め、イエス様を救い
主であると告白した者は、永遠のいのちをいただけるのではなかったのですか?」という疑問が湧
きあがってきます。
                                  2さらにここでは、羊と山羊のように振り分けられる人々は、「すでに信仰を持っている人々」なの
ではないかということが文脈から読み取れます。つまり、クリスチャンも、最後の審判で、まこと
のイエス様の弟子であるかどうかということが問われ、「永遠のいのち」と「永遠の刑罰」に振り
分けられるのではないかという話になってきます。どうなのでしょうか。本当にそういうことなの
でしょうか。
これについては、実は私ははっきりした答えを持っていません。聖書には人間の小さな頭では理解
できないみことばがたくさんあります。しかし、神様のみことばは完全で滅びることはありませ
ん。問題は受け取る側の人間にあるのです。ですから迷った時、私はこのように考えます。
「私の足りない知識で決めつけてしまうのではなく、霊とまことの信仰をもってみことばを受け止
めよう。そして、神様が示されておられる良い方を選択して良い実を結んでいこう!」ということ
です。
ですから、本日の聖書箇所の良い方、つまり前半部分25:31-40に焦点をあて、神様から「義であ
る」と認められた、正しい人になるためにはどう生きて行くべきか、ということについて考えてい
きたいと思います。
◆正しい人たちの仕え方は・・・
①いつでも無意識で差別や区別がありません
私たちは無意識に計算し、損得勘定で善行を行ってしまうことがあります。人間はもともと神様と
共通の属性(本質的性質、特質)をいただいている存在です。その属性は神様と全く同じものでは
ありませんが、神の霊性、知識、知恵、真実、善、 聖、正義、統治意志、統治力、などを持ってい
ます。ですからクリスチャンでなくとも、善行はできますし、愛の心を持つことはできます。
先日NHKの土曜ドラマを観て、大変感動しました。
このドラマは、村上龍さんの短編小説集「55歳からのハローライフ」(幻冬舎)をドラマ化したも
のです。全5話なのですが、どのお話も50代半ばから60代前半という、人生の折り返し点を過ぎた
中高年を主人公にして描かれています。
どの主人公たちも、将来への不安を抱えながらも新たな道を探っていくというお話ですが、特に感
動したのは、ドラマでは最終話となった第5話「空を飛ぶ夢をもう一度」でした。ドラマがとても
良かったので、思わず本を買ってしまいました。
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あらすじはこうです。イッセー尾形さんが演じる主人公、「因藤茂雄」は、もうすぐ還暦を迎える
年齢です。彼は6年前に勤務先の弱小出版社からリストラされてしまいました。働こうにも、文章
を書く仕事しかしたことがないので再就職は難しく、水道工事の誘導員などのアルバイトなどで生
計を立てるしかありません。
足腰を痛めてしまい、月の半分しか仕事ができません。妻もパートを解雇されてしまいました。結
婚が遅かったのでまだ息子は大学生で学費もかかります。預貯金がどんどん減って行く中、因藤は
「もしかしたら自分はホームレスになってしまうのではないか」という漠然とした不安を抱えるよ
うになっていました。そんな時はいつも、心を落ち着けるためにイタリア産のパラディーゾという
発泡性ミネラルウォーターを入れた水筒から水を飲むのです。因藤は子どものころからいつも美味
しい水を入れた水筒を肩からぶら下げていました。
                                  3ある時、川崎で誘導員のアルバイトをしていたら、ひとりのホームレスが「お前、因藤茂雄だ
ろ?」と声をかけてきました。火野正平さん演じる「福田貞夫」と50年ぶりの再会でした。福田は
借金に追われ、現実にホームレスに転落してしまって、山谷で暮らしていました。因藤の実家は九
州ですが、中学時代、東京から転校してきた福田に因藤は親切だったらしく、そのことを福田はと
ても良い想い出として覚えていました。誘導員をしている男性が因藤だと気付いたのは、子どもの
ときと同じく水筒を肩からぶら下げていたからでした。
福田は見るからに体調が悪そうで、ひどく咳込み、なにか重い病気にかかっているようでした。ひ
と月後、福田が宿泊しているという山谷の安宿から因藤に連絡がありました。福田は病気で動けな
い、生活保護の申請は嫌がる、宿泊費を2カ月滞納しているので、福田が因藤に連絡をとってくれ
と言ったという内容でした。
因藤は悩んだ末、死にかかっている福田に会いに山谷に行きました。そこで福田からは、ふたつの
頼みごとをされました。「実家の母親からもらった指輪を返してきてほしい」ということと、「歩
けないから、自分をホームレスのたまり場まで連れて行ってくれ」ということでした。福田はこれ
までも母親に指輪を返すために、母親の住む川崎に何度も足を運んでは、「ホームレスになってい
る息子になんて会いたくないだろうな」と考えてしまい、会う勇気が出せずにいたようです。
因藤は福田を連れてホームレスのたまり場に行きました。ひどい悪臭と、全く生気のない人々を見
て、ここに福田をひとりで置いていくわけにはいかないと思いました。福田は、「早く行ってく
れ。オフクロに指輪と手紙を渡してくれ」と言いましたが、因藤は「いやだよ!お前をオフクロさ
んの所に連れていく!」と言って自力で歩けない福田に肩を貸しながら、腰の痛みに喘ぎながら、
山谷から川崎までの旅を決意しました。
因藤の妻が持たせてくれたなけなしの現金で、タクシーに乗せると福田は嘔吐しました。高速バス
では失禁しました。バスの乗客も道行く人々も、福田の発する強烈な匂いに嫌悪感をあらわにしま
した。
傍目には最悪とも思える山谷から川崎までの旅は、彼らにとって中学時代一緒に遊んだ想い出と共
に、最高に楽しい旅となりました。福田は母親の家のすぐ近くで意識を失い、結局救急車で病院
に運ばれましたが、母親には会うことができました。母親は、「もっと早くに訪ねてくれていた
ら。」と涙を浮かべましたが、因藤には、母親の家の前まで何度も行ったけれど、会うことが出来
なかった福田の気持ちがよくわかりました。
福田は最後の時を、病院で母親と過ごすことができました。その後因藤は、福田が亡くなったとい
う知らせを書いた母親の手紙を受け取りました。そこには、福田が「俺は素晴らしい友人に恵まれ
た。それだけで生きた甲斐があった。」と喜んでいましたと書いてありました。
母親からの手紙を読んで因藤が言った言葉は、「福田、あの旅は、まるで夢のようだったな。救わ
れたのは俺の方だよ。」でした。因藤は福田の最期を助けることによって「こうしなければならな
い」という人生の縛りから解放されて、癒されたのです。
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私たちは、何か自分の力をもって、人を助けたり、育てたりしているように錯覚してしまいます
が、実は、私たちの方が助けられたり、慰められたり、教えられたりすることの方がはるかに多い
のです。職場や学校での人間関係や子育てなどもそうです。聖書の教えを知らない人でも、人間は
神様の属性をいただいているので、このように、人を助けることで励ましを受けることも、人に感
動を与えることもできるのです。
                                  4しかし聖書に記されている正しい人たちは、少し違っています。彼らは全く無意識に愛の行いを実
行していたのです。彼らは愛の行いをしているときに、自分が「努力したんだ」とか、「大変だ
ったんだ」とか、「人に何かをやってあげたんだ」とかという意識がなく、感謝されていることす
ら気付いていませんでした。そして、相手が誰であろうとも、全く同じように差別も区別もなく、
『最も小さい者たちのひとりに』行っていたのです。
私たちはどうでしょうか。
「神様の栄光のために、このしもべをお用いください!」などと言いつつ、仕事や奉仕などを通し
て、自分の存在や能力を世の人々に認めてもらいたい、自分のスキルアップに繋げたい、感謝され
たい、などという無意識な虚栄心があったりしませんか。
私にはあります。ですから、そのような心が湧きあがるたびに、見事に打ち砕かれては、私の思う
ところではない結果が与えられるのです。そして、何もかもご存知な神様を恐れてひれ伏し、情け
ない自分を悔い改めています。
上下関係、ヒエラルキーの構造であるこの世において、無意識に、差別も区別もなく、愛の行いを
するなどということは、そう簡単に出来ることではありません。大半の人は、先ほどの因藤のよう
に、自分の生活だけで精いっぱいです。何か秘けつでもあるのでしょうか。正しい人たちは、何を
考えているのでしょうか。
◆正しい人たちの仕え方は・・・
②ただ「イエス様への愛」という動機があるのみです
信仰を持った正しい人たちと、信仰を持たない人の善行の決定的な違いは、「イエス様への愛」と
いう動機です。正しい人たちは、イエス様が私たちのためにいのちを捧げてくださり、私たちを激
しく愛してくださったということを知っているのです。だからこそイエス様に対して熱烈な愛を示
し、最も小さい者たちに対しても愛の行いができたのです。
続く26章にはイエス様の葬りのために、高価な香油を注いだ女性が出て来ます。彼女はイエス様を
心から愛して、イエス様の葬りの準備のために、自分の財産である香油をイエス様に注ぎました。
現代であれば、マザー・テレサにその心を見ることが出来ます。
マザー・テレサが行って来た愛のわざは、みなさん言うまでもなくご存知だと思います。
マザーは、カトリックのシスターとして、インドのスラム街に赴き、そこに「死を待つ人の家」を
作り上げました。
病気にかかったり、飢えて路上で死んでいくような人々を、その家に受け入れてお世話をし、最期
を看取ります。その家に受け入れられた人々は、イエス様の愛の中で安らかに感謝をもって死んで
いくのです。
マザーは、
*******************************************
25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これら
のわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
*******************************************
のイエス様のみことばをいつも心にとどめておられたようです。
                                  5ところが、「死を待つ人の家」を取材していたあるジャーナリストは、このような愛のわざを実行
しているマザーたちに不満がありました。それは、そこで働いているシスターたちは、夕方にはみ
な引き上げてしまうからだそうです。人は夜中に死ぬ確率が高いというのに、シスターたちは最期
を看取らず、協力者に任せて帰ってしまう。
「彼女たちは一体帰って何をしているのだろう。誰か数人でも交代で残れば良いのに。」とジ
ャーナリストは思いました。シスターたちは、まず聖体拝領をします。聖体拝領はプロテスタント
で言えば聖餐ですね。そして、夕食をとって、夕べの祈り、それから眠るそうです。不満をいうジ
ャーナリストにマザーは言いました。
「私たちはソーシャルワーカー(社会事業家)ではありません。私たちはキリストのものです。私
たちは貧しい人たちの中におられるキリストに仕えているのです。」
マザーたちは、ただ「イエス様への愛」という動機のみで、人々に仕えています。マザーたちの愛
のわざは、イエス様の愛に対する応答です。貧しい人たちの中におられるイエス様を見上げて、す
べてを注ぎ出して主に仕えているのです。ですから、イエス様のことを差し置いて、まず貧しい人
たちに仕えるなどということはできません。聖体拝領をし、神様から預かった大切な身体のために
夕食をとり、祈り、眠るのです。
私たちは、弱い人間です。神様の支えがなければ、生きて行くことができない存在です。クリスチ
ャンとなっても尚、自らの足りなさと、罪を覚えながら生きています。イエス様はそんな私たち
に、尊いご自身のいのちを与えてくださいました。そして、私たちを支え、励まし、生きる意味を
与えてくださいました。今も生きておられ、ともに歩んでくださり、私たちに、日々の力を与え、
生きる希望と喜びをくださっています。
イエス様はどうしてこんなにも私たちを愛してくださるのでしょうか。そのイエス様の愛にどうや
って応えていけばよいのでしょうか。イエス様を心から愛しましょう。
また、神様の御前では、どの人も尊い、愛されるべき存在です。
私たちが周りの人々に愛のわざを行う時、そこに自分自身の姿を見ながら、その人にもイエス様の
ご愛が必要なのだということを覚えましょう。
そして、主イエスが愛してくださったように、その方にも接するということができるようになりた
いですね。
聖書に記されていることは、最後の審判の時にすべて明らかにされます。イエス様が聖書を通して
私たちに教えてくださっていることの、良い方を選びとるようにしましょう。そして、豊かな良い
実を結んでいきましょう。
                                  6

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2014年7月13日 (日)

涙の預言者    エレミヤ1:1-10 

 もし、神様に仕える時代を選ぶとしたらどのような時代が良いでしょうか?エレミヤの時代は、最も避けたい時代であります。なぜなら、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされるという末路をたどったからです。その時は、だれ一人、エレミヤの預言を聞こうとせず、迫害し、監禁しました。エレミヤが特殊なのは、彼は救いのメッセージではなく、滅びを預言したからです。一人も救われないような中で、ひたすら神からの預言を語りました。


1.エレミヤの召命

エレミヤは祭司でしたが、南ユダのヨシヤの治世13年に、預言者として召されました。さらに、エホヤキムやゼデキヤの時代を経て、エルサレム陥落後まで活動しました。ある聖書学者は「エレミヤ書はこれまで記された最も悲劇的な国家の記録である。エレミヤは列王記の中で最も悲劇的な最後の部分を生きた預言者である」と言っています。彼が預言者として召された時は、20歳にも満たなかったので、苦難にくじけやすい未熟な点もあったと思われます。エレミヤがきわめて涙もろい女性的な人であったと言われますが、バビロンに滅ぼされるまで、だれ一人、耳を傾けようとしなかったからでしょう。主はどのようにエレミヤを召したのでしょうか?エレミヤ1:5「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」使徒パウロも、「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった」(ガラテヤ1:15)と自分を紹介しています。エレミヤは何と答えたでしょうか?1:6-8そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、【主】は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】の御告げ──」若ければ、当然、人々からも舐められるでしょう。未熟なので、自分でもどう対処したら良い分からなくなるでしょう。しかし、主は「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ」と約束しています。もうすぐ後に、エゼキエルについて学びますが、彼は神様から「あなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。…彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな」(エゼキエル3:9)と言われました。それほど、預言者は風当たりが強いということです。

では、主がエレミヤに与えた預言者としての使命はどのようなものだったのでしょうか?エレミヤ1:9そのとき、【主】は御手を伸ばして、私の口に触れ、【主】は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」私たちが使っている聖書は預言者を、未来を予知する予言ではなく、「預金」の「預」を使っています。預言者とは、「神様のことばを預かる者なのだ」という意味を持たせているのです。このところでは、主がエレミヤの口に触れ、「今、わたしのことばをあなたの口に授けた」と言っています。エレミヤ自身の中には、語るべきことばも、内容もありません。しかし、語るべきことばを主が授けてくださいます。では、預言者の使命とは何でしょう?主が語られたことばを、民の前に出て、そのまま告げるということです。「神様、あなたが直接、語ったら良いではないでしょうか?なんで、面倒くさいことをやらせるのですか?」と文句を言いたくなります。たとえば、大会社の社長が現場で働いている一社員に「何をやっちょるのか、君は!」と注意したらどうなるでしょうか?その社員は即クビにさせられるかもしれません。社長にはそういう権威があります。同じように、宇宙と全世界を造られた聖なるお方が、ユダの国の罪を一喝したらどうなるでしょう?ユダの国は一瞬にして地上から消されてしまうかもしれません。もちろん主は、ご自分の力や感情をコントロールできるお方ですから、そうはしないでしょう。主は忍耐と慈愛に満ちたお方であり、「預言者を遣わして、何とか言い聞かせて、さばきを与えないようにしたい」と願っておられるのです。そのために、旧約の時代には、ご自分のしもべである預言者を何人も遣わしています。でも、残念ながらうまくいきませんでした。ほとんどの預言者は無視され、拒絶され、打ち叩かれ、殺されています。エレミヤも同じような運命を背負っていました。

しかし、エレミヤの預言者としての務めは、他の預言者と異なる点があります。それは何でしょうか?エレミヤ1:10-13見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」次のような【主】のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると【主】は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」再び、私に次のような【主】のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」預言者の語ることばが、天地の創造者のことばであるなら、それは必ず実現するはずです。ですから、相手が大国であろうと、「引き抜き」「引き倒し」「滅ぼし」「こわし」「建てる」「受ける」という力があります。語る人がどんなに若くても関係ありません。神のことば自体に力があるからです。また、エレミヤが他の預言者と違う点はこれです。エレミヤは救いではなく、滅亡のみを警告したからです。主はユダ王国を滅ぼすことを既に決定していました。エレミヤは煮え立っているかまが、北のほうからこちらに傾いているのが見えました。その意味は、北からバビロンがまもなく襲って来るということです。ユダ王国は病気の末期で回復する見込みが全くありません。エレミヤ13:23「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。」肌が黒いクシュ人、つまりエチオピア人の皮膚を白くすることはできません。また、ひょうの斑点をなくすことができません。それくらい不可能だということです。エレミヤ15:1【主】は私に仰せられた。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」もう、さばきは決まっており、だれがとりなしても無駄だということです。エレミヤは必ずやってくる主のさばきを、まっすぐ、そのまま語る預言者として召されたのです。新約の私たちは救いの福音を伝えられるということは、どんなにか光栄であり、幸いでしょうか。エレミヤと比べたら、決して「それは困難です」などとは言えません。

エレミヤはユダがまことの神を捨て、他の神々に行ったことを責めました。エレミヤ2:13「私の民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水のためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」。ユダは湧き水である生けるまことの神を捨てました。そして、水のためることのできない偶像礼拝を行いました。それは霊的姦淫であり背信です。2つ目は、神様から離れた結果、さまざまな悪を行いました。主は、「だれか公義を行い、真実を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう」と言いました。しかし、彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようとしませんでした。「うなじのこわいもの」という表現が何度も出てきます。もともと、牛や馬が御する人の言うことをきかないという意味でした。これが、だんだんと「強情」「頑固」「手に負えない」様子を表すようになりました。イスラエルの民は、エジプトの地を出た日から、最後までうなじのこわい民でした。エレミヤがはっきりと主のさばきを預言したので、二人の王、エホヤキムとゼデキヤはエレミヤを監禁しました。エレミヤは足かせにつながれたり、水のない井戸に落とされたりしました。エレミヤはこのように告白しています。エレミヤ20:7-9「私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。…私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」エレミヤは「もう主の名によって語るのをやめよう」と思いました。しかし、それをとどめることができませんでした。骨の中から燃えさかる火のようにあふれてくるからです。これこそ、預言者の宿命です。「やめろ」と言われても、語らざるを得ないのです。主のことばをしまっておくことなど苦しくてできません。

エレミヤは若くして預言者として召されました。しかも、最も困難な時代の中で、主のことばをまっすぐ語らなければなりません。人々は耳をふさいで、「もうやめろ!」と叫びました。そして、活動きできないように彼を監禁しました。エレミヤは「もう主の名によって語るのをやめよう」と思いました。しかし、それができないのです。主のことばが骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、しまっておくことができません。どうしても、語らざるをえません。使徒パウロは、「ローマにいるあなたがたも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。」(ローマ1:15-16)と言いました。私たちはエレミヤよりもすばらしい福音を知らされています。福音は「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」です。人から、「やめろ」と言われても、主の愛が私にせまっているので、どうしても伝えなければなりません。エレミヤやパウロのような「燃えさかる火」を、その情熱をいただきたいと思います。


2.エレミヤのメッセージ

エレミヤ書で最も有名な聖句はこれでしょう。よく、色紙や本の裏表紙に書かれたりするからです。エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」これを見たら、だれでも「ああ、神様の計画はわざわいではなく、平安なんだ。将来と希望を与えるものなんだ。」と喜ぶでしょう。しかし、エレミヤ書は52章もあります。他のところをぜんぜん読まないで、29章の11節を「わー、すばらしいみことばだ」と言ってはいけません。聖書は文脈から解釈しなければなりません。1節だけではなく、その前後も一緒に読んでみないと本当の意味がわかりません。では、エレミヤが言う神の計画とは何なのでしょうか?それは第一に人々から「わざわいだ」と思われていることです。エレミヤは「バビロンに捕らえられよ」と言いました。なぜなら、ユダ王国の罪は限界に達しており、さばきがなされなければ、主の怒りがおさまらないからです。バビロンを用いて罪のさばきを与えることが主のみこころでした。その後、「ユダの民を回復しよう。バビロンから連れ戻そう」というのが主の計画でした。しかし、それはユダの民には我慢できないことでした。「神さまから選ばれた民が、バビロンにやられるわけがない。主が守ってくださるに違いない」と考えていました。ちょうどその頃、偽預言者たちが王様のもとに群がっていました。彼らは主のさばきに言及せず、平安と希望だけを伝えました。エレミヤ6:13-14「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」これはまるで、癌になっている人に対して、軟膏を塗って「きっと、直りますよ」と言っているようなものです。その人は、癌細胞を体から取り除かなければなおりません。同じように、ユダ王国から罪を取り除かなければ、真の平和はやってこないのです。

このことはイエス・キリストが十字架に付けられて死んだことと同じです。この世の宗教には罪の贖いというものがありません。どの宗教も罪の問題を扱わないで、「信じれば救われます」みたいなことを言います。しかし、そこには救われる根拠がありません。イエス様はなぜ、十字架で死ぬ必要があったのでしょう。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言いました。神様はどのようにして人々から罪を取り除こうとされたのでしょうか?それは、御子イエスの上に全人類の罪を負わせ、御子をさばくということです。そして、この御子を信じた人はさばかれないで、永遠のいのちを持つというものでした。神様は聖なる方なので、1つの罪を赦すことができません。罪に対しては必ずさばきを下さなければなりません。もし、イエスキリストがその人の罪を負って、刑罰を受けて死なれたならどうでしょう?神様の怒りがなだめられ、罪をさばかないで赦すことができます。イエス・キリストは私たちの身代わりになって十字架で死なれました。だからこそ、私たちに平安と将来と希望が訪れるようになったのです。十字架抜きの救いはありえません。エレミヤのメッセージも同じです。なぜ、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものなのでしょう?それは、南ユダの罪をバビロンによって滅ぼし、彼らを捕囚として国外に連れ去るということです。そして、70年のときが満ちたら、神の怒りがなだめられ、彼らは元の国に帰ることができるのです。7は聖書で完全数ですが、70年は、その10倍です。ですから、神様のみこころは、だまってバビロンに降参して、捕囚となることなのです。それこそが、わざわいではなくて、平安を与える計画なのです。エレミヤ29:4「イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。』」神様はバビロンに引かれていく人々を守ってくださいます。逆に、エルサレムにとどまり、バビロンと戦いを交える民はどうなるのでしょうか?エレミヤ29:17-19「万軍の【主】はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らの中に、剣とききんと疫病を送り、彼らを悪くて食べられない割れたいちじくのようにする。わたしは剣とききんと疫病で彼らを追い、彼らを、地のすべての王国のおののきとし、わたしが彼らを追い散らしたすべての国の間で、のろいとし、恐怖とし、あざけりとし、そしりとする。彼らがわたしのことばを聞かなかったからだ。」

しかし、当時の王たちはエレミヤに与えられた神のことばを聞こうとしませんでした。エホヤキムはエレミヤが書いた巻物を、読まれた後から、小刀で裂いて、暖炉の火に投げ入れました。結局、暖炉の火で巻物全部を焼き尽くしました。彼のすべての家来たちは、恐れようとも、衣を裂こうともしませんでした。主はユダの王エホヤキムのしかばねが捨てられ、昼は暑さに、夜は寒さにさらされると言われました。最後の王、ゼデキヤはどうしたでしょう?エレミヤ37:2「彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた【主】のことばに聞き従わなかった。」やがて、バビロンの王、ネブカゼレザルが全軍勢を率いてエルサレムに責めてきました。町は包囲され、破られました。ゼデキヤ王とすべての戦士は、彼らを見て逃げ、夜の間に、城壁の間の門を通って、アラバへの道に出ました。しかり、カルデアの軍勢は彼らに追いつき捕らえて虐殺しました。ゼデキヤの目をつぶし、青銅の足かせにつないで、バビロンに連れていきました。そして、降伏した投降者たちと残されていた民をバビロンに捕らえ移しました。そのように、エレミヤのことばのとおり成就しました。エレミヤは最後どうなったのでしょう?残された少数の民は、バビロンが任命した総督を殺しました。そして、行ってはいけないといわれていたエジプトに下りました。その中にエレミヤもいました。まもなく、バビロンがエジプトを襲ったので、エジプトに下った人たちは殺されました。恐らく、エレミヤもエジプトで死んだものと思われます。

こうなると、「エレミヤの人生とはどういうものなのか?預言者とはそんなに辛くて、報いられないものなのか?」と思ってしまうでしょう。確かに、エレミヤは結婚をして家庭を持つことも許されず、天涯孤独でした。では、エレミヤの預言は、エレミヤと一緒に死んでしまったのでしょうか?そうではありません。エレミヤの希望のメッセージは捕囚の地で活躍した、エゼキエルとダニエルに受け継がれました。それだけではありません。主がエレミヤの預言を覚えておられました。Ⅱ歴代誌36:19-23「彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。これは、エレミヤにより告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」クロスは囚われていたユダの民を主の宮を建てるために解放しました。エレミヤが預言した70年が満ちたので、天の神、主がクロス王に働きかけたのです。

『聖書人物伝』を書いた、沢村五郎師はエレミヤのことをこう述べています。「エレミヤの受けるべき報いと栄えとは、この世で受けるにはあまりにも大きすぎた。主はその褒賞の一片をさえ、この世ではお与えにならず、ことごとく次の世にたくわえておいてくださった。彼の受けた苦しみが大きかっただけ、彼の栄光もまた大きいであろう。「キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにする」(ローマ8:17)。主と苦しみをともにする機会は、ただこの地上の生涯だけである。苦しみを味わわないことは大きな損失である。私たちもエレミヤにならい、主のお苦しみの分担者になりたいものである。」苦しみを避けないで、主の栄光のために、まっこうから受けるとはなんと大胆でしょうか。本当は、苦しみ災いの向こうに、将来や希望があるのではないでしょうか?私たちはとかく近道をして、そういうものを得ようとします。イエス様は十字架を忍ばれましたが、ただ、我慢したのではありません。ヘブル12:2「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。喜びのゆえに、十字架を忍ばれました。No cross no crown、十字架なくして冠なしということばがあります。苦しみや災いは、全部が全部悪いものではありません。なぜなら、それを通して、本当の将来や希望が見えてくるからです。


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2014年7月 6日 (日)

ハバククの信仰      ハバクク3:16-19

 きょうは創立記念礼拝です。今から65年前、昭和24年7月、山下米吉牧師が亀有で開拓伝道を始めました。私は三代目の牧師になります。徳川は三代将軍の時に栄えました。ただいま、バイオリニストの蜷川(にながわ)さんとピアニストの奥山さんから1曲だけ演奏していただきました。ぜひ、午後1時半開演のチャペルコンサートに出席してもらいたいと思います。昨年の8月から旧約聖書の人物伝を学んでいますが、きょうは「ハバクク」です。3章しかない小さな書物ですが、ある聖句は新約聖書に引用されています。


1.ハバククの祈り

 ハバククの生きた時代は、ヨシヤ王の死(前609年)の直後ではないかと思われます。ヨシヤは善い王様でしたが、エジプトのパロ「ネコ」に戦いを挑んで、あえなく命を落としました。その後、エジプトが政治に干渉して来て、勝手に王様を取り替えました。エホヤキムが王位に即いた頃、南ユダは暴力、闘争、背信が蔓延していました。ハバククは「主よ。私が助けを呼んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか?」と祈っています。これは、祈りというよりも訴えです。1:3-4「なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行われています。」ハバククは神様に対して、「暴力や不正をどうして許すのですか?」と訴えています。リビングバイブルでは「『助けてくれ、人殺しだ!』といくら叫んでも、だれも助けてくれません」と書いてあります。さばきが曲げられ、略奪や暴虐が行われて、まるで無政府状態のようです。テレビで色んな国の暴動や内乱を見ますが、ユダはそのような国になっていました。ハバククは、「いつまであなたは聞き入れてくださらないのですか?ただ、天から眺めておられるのですか?」と嘆いています。

バククの祈りに対して、主がただちに答えてくださいました。それは、カルデヤ人を起こしてユダをさばくということです。1:5-6「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。」カルデヤ人とはバビロンのことです。あと20年もたたないうちに、バビロンが攻めて来るという預言です。しかし、ユダの王様をはじめ高官たちは、「自分たちは神様によって選ばれた民なので大丈夫だ」と高をくくっていました。しかし、バビロンの軍隊がどれほど恐ろしいか、7節から11節まで記されています。1:7-10「これは、ひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行い、威厳を現す。その馬は、ひょうよりも速く、日暮れの狼よりも敏しょうだ。その軍馬は、はね回る。その騎兵は遠くからやって来て、鷲のように獲物を食おうと飛びかかる。彼らは来て、みな暴虐をふるう。彼らの顔を東風のように向け、彼らは砂のようにとりこを集める。彼らは王たちをあざけり、君主たちをあざ笑う。彼らはすべての要塞をあざ笑い、土を積み上げて、それを攻め取る。」ハバククはまるで見たかのように、彼らの敏捷性や力を描写しています。獲物を奪うように、ユダにとびかかり食らい、残りの者たちを捕らえていきます。既に、北イスラエルはアッシリヤによって国外に連れらされました。今度はバビロンによって南ユダが滅ぼされます。1:15「彼は、このすべての者を釣り針で釣り上げ、これを網で引きずり上げ、引き網で集める。こうして、彼は喜び楽しむ。」まるで、魚のようにつり針で釣り上げ、網で捕らえて行くということです。教会のロビーにスペインの教会の絵がかかっています。あの絵を描いたのは荒木忠三郎さんです。荒木さんは兵隊で中国にいたとき、日本が戦争で敗れました。そのときソ連の兵隊たちが日本兵をかたっぱしから捕まえて、シベリヤに連れていきました。極寒と重労働ため多くの日本兵が死にました。下が凍土で死体を埋められなかったそうです。「戦争が終わったのに、何の権利があって?」と抗議しても全く通じません。荒木さんは九死に一生を得て、日本に帰ることができました。ナホトカの港まで死んだ同胞の魂が追いかけてきたそうです。捕囚というのはそれほど辛いものです。ハバククが預言したとおり、紀元前586年、エルサレムは陥落しました。ある者たちは剣で殺され、ある者たちは捕囚となりました。

旧約聖書では、神様は隣国に侵略させて、イスラエルの罪をさばくという構図になっています。あるときは、ペリシテ人、あるときはモアブとかアモン人、あるときはシリアなどです。今回は、カルデヤ人(バビロン)です。では、どういうときに国が守られるのでしょうか?まことの神を敬い、律法を守り、正しい生活しているときです。神様ご自身が盾となり、敵の侵入を許さず、国を栄えさせてくださいます。イスラエルは本当に小さな国で、南はエジプト、北はアッシリヤ、バビロンなどの大国がありました。その後、行きがけの駄賃のようにギリシャやローマに滅ぼされました。だから、神様を頼らないと生活できない国なのです。それなのに、神様を忘れて、悪いことを行うと他国から侵略されます。同じ法則が日本にもあてはまります。日本も本当に小さな国です。首相はアメリカと一緒に戦えるように、集団的自衛権を推し進めようとしているのでしょう。でも、日本はその前に偶像崇拝をやめ、まことの神様を求める必要があります。経済力よりも聖書が教える生活を求めていくならば、神様が祝福してくださると信じます。日本は本当に資源の乏しい国です。でも、聖書の神様は100万人以上のイスラエル民を荒野で40年間も養われたことがあります。イエス様はこのように言われました。マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」


2.ハバククの信仰

 しかし、ハバククにとって、どうしても理解できないことがありました。それは、なぜバビロンのような悪い国が神に選ばれた民をさばくのかということです。ハバククは、1:13「悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか」と訴えています。バビロンはどのような国なのでしょうか?彼らの罪を訴える歌が5つあります。2:6「自分のものでないものを増し加える者」2:9「自分の家のために不正な利得をむさぼる者」、2:12「血で町を立て、不正で都を築き上げる者」、2:15「自分の友に飲ませ、毒を混ぜて酔わせ、裸を見ようとする者」、2:18「木(偶像)に向かって目をさませと言う者」とあります。これらは、カルデヤ人(バビロン)に対する預言です。ハバククにとって、このような悪い国が、選民ユダ王国を懲らしめる器となるのはどうしても納得できませんでした。考えてみると、神様はサタンや悪霊の存在を許しておられます。私たちが罪を犯し続けると、悪霊が心や体の一部を捕まえて苦しめることができます。たとえば、サウル王は罪を犯して、神様から捨てられました。それからどうなったでしょう?Ⅰサムエル16:14「主の霊はサウルを離れ、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」とあります。ねたみに駆られたサウルのところに悪霊がやってきて、ダビデを殺そうとしました。ヨブのときも同じです。主の許しのもとで、サタンがやってきました。サタンは、ヨブの持ち物と健康を奪いました。このように、神様がサタンや悪霊を用いて、私たちを苦しめて、罪を悔い改めるようにしておられるのかもしれません。ですから、悪霊を追い出す前に、罪を悔い改め、主に立ち返ることが重要です。しかし、なぜ、神様が神の子どもである私たちのために、悪霊を用いるのかということです。それは、バビロンと南ユダの関係と同じです。

 では、罪を犯しているバビロンはそのままで良いのでしょうか?ハバククはその後どうなるのか、見たいと願いました。ハバクク2:1-2「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。【主】は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。」ハバククは神様からの幻を板に書きとめようとしました。英語の聖書には、tabletとなっています。今よく使っているタブレットのもとのかたちかもしれません。すると主は答えて言われました。2:3-4「…もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。…見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」彼とはバビロンのことです。バビロンの心がうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きるべきだということです。その後、さきほど引用しましたが、バビロンの罪が5つ並べられています。それと同時に、彼らのさばきについても述べられています。たとえば、2:8「あなたが多くの国々を略奪したので、ほかのすべての国々の民が、あなたを略奪する。あなたが人の血を流し、国や町や、そのすべての住民に暴力をふるったためだ。」とあります。さらに、2:17「レバノンへの暴虐があなたをおおい、獣への残虐があなたを脅かす。あなたが人の血を流し、国や町や、そのすべての住民に暴力をふるったためだ。」歴史的には、バビロンは紀元前539年、ペルシヤによって滅ぼされます。エルサレムを陥落させてから、53年後、今度は自分たちがやられてしまいます。そのとき、ペルシヤのクロス王によって、ユダの民が捕囚から解放されました。

 でも、ハバククの時代は、そのことが行われていませんでした。現実的にはバビロンがまもなく攻めてくるというのに、南ユダには暴力、闘争、背信が蔓延していました。ハバククは歯がゆくて、いらいらしていたことでしょう?そういうハバククに対して、主はどのように生きるべきかはっきりと語られました。それが有名な2:4しかし、正しい人はその信仰によって生きる」であります。これは、世の中がどんなに悪くても、希望が全くなくても、正しい人はその信仰によって生きるんだということです。このみことばは、新約聖書に3箇所引用されています。パウロが2回、そしてヘブル書で1回引用されています。一番有名なのは、ローマ1:17「『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」のみことばです。使徒パウロは、ハバククのみことばを引用して、信仰義認ということを言いました。信仰義認とは、キリストを信じるだけで神様に義と認められる、つまり救われるということです。それから1500年後、マルチン・ルターが「義人は信仰によって生きる」とローマ書から引用しました。パウロの時代も、ルターの時代も形式的な宗教と律法主義が支配していました。霊的な暗黒時代に、ハバククのみことばが光を放ったのです。私たちも「世の中が悪い」とか、「教会には力がない」ということができます。しかし、まわりの世界やまわりの人たちがどうであれ、正しい人はその信仰によって生きるべきなのです。なぜでしょう?神様が世界の歴史を支配しているからです。最終的には、神様が悪をさばいてくださるからです。私たちは悪者のことで心を悩ませてはいけません。今は大丈夫そうに見えても、神様がきっちりとさばいてくださいます。私たちは私たちで、神様の御目のもとで、信仰によって生きるべきなのです。新約時代の私たちは、キリストの贖いによって、神の義が与えられている存在です。それは、自分の義ではなく、人間の義でもありません。キリストによって、私たちの状態にかかわらず、行いにかかわらず、神の義が与えられているのです。だから、神の義が与えられているにふさわしく、正しい生き方をするのです。これが、信仰によって生きるということです。


3.ハバククの賛美

 3章1節に「預言者ハバククの祈り。シグヨノテに合わせて」とありますが、内容は賛美であります。また、シグヨノテという意味が不明であり、聖書学者は、それは弦楽器ではないかと言います。なぜなら最後に、「指揮者のために。弦楽器に合わせて」と書いてあります。この「弦楽器」がヘブライ語で「ネギノテ」となっています。ですから、「シグヨノテに合わせて」というのは、「弦楽器に合わせて」という意味なのではないかと言われています。また、聖書学者は「ハバククは神殿聖歌隊の一人か、楽人であったのではないか」と言います。おりしも、きょうは弦楽器の賛美がありました。ちなみに、バイオリンはもちろんですが、ピアノも弦楽器であります。ハレルヤ!「弦楽器に合わせて」創立記念礼拝が持てることを感謝します。それでは、3章には何が書いてあるのでしょうか?ハバククはユダ王国が滅びることが定まっているという幻をはっきりいただきました。これはどうあがいても、決まっていることであり、変えようがありません。彼は自分が最も悪い時代にどうして預言しなければならいのか悩んだでしょう。希望と回復のメッセージなら、人々に受け入れてもらえます。しかし、ハバククは人々が受け入れてくれなくても、神のさばきがくることをストレートに預言しました。預言者の宿命とは、人々が信じようと信じまいと、神からの啓示と幻を語るだけです。あとは、そのことが成就することをだまって見届けるしかありません。ハバクク3:13-15「あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。あなたは、悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。セラ あなたは、戦士たちの頭に矢を刺し通されます。彼らは隠れている貧しい者を食い尽くす者のように、私をほしいままに追い散らそうと荒れ狂います。あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ、大水に、あわを立たせられます。」機械のスピーカーだったら、どんな音を出してもスピーカー自身は感じないでしょう。しかし、感情を持った人間が、啓示と幻を語って、全くダメージがないかというとそうでもありません。ハバクク3:16「私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう。」ハバククは感情を乗り越えて決断しました。もし全世界がさばかれることが神の栄光となるなら、「全世界よ、滅びよ」。もし、罪びとが滅ぼされることが神の栄光となるなら、「罪びとよ、滅びよ」。神の栄光はハバククにとって、最も高い目標でした。

ハバククはさばきが迫っている絶望的な状況の中から賛美しました。前途は暗く、道は険しい。しかし、暗雲を通して栄光が輝いているからです。ハバククは、まもなく。主がやって来られることを希望しました。人間的には開き直りと見えるかもしれません。しかし、ハバククは霊的に自分を奮い立たせて賛美しました。ハバクク3:18-19「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。」この「しかし」は、とても偉大ではないでしょうか?私たちはハバククのように、困難や病気の真ん中でも、賛美できます。破産して、明日どうなるか分からなくても、賛美できます。「しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」「高いところ」とは、さばきの及ばない安全な場所です。低いところでは、主のさばきによって大勢の人たちが倒れています。しかし、神様は雌鹿のような足を与え、さばきを逃れさせ、高いところを歩ませてくださいます。賛美は自然に出てくるのではありません。目の前の環境や状況を「しかし」と言って否定しなければなりません。「しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と決断して言わなければなりません。そうすると、ふりかかる火の粉や、災いを苦と思えなくなります。信仰とはある意味では、常識を超えた世界であります。

きょうは、亀有教会創立65周年記念礼拝です。教会には教勢というのがありまして、会員の数とか礼拝人数です。歴史をたどると、私が赴任したときは礼拝が28名でしたが、7年後64名になりました。そして、それから20年間、ずっと60名から70名台の間でした。良い見方では、現状を立派に維持している。悪い見方では、停滞している、伸び悩んでいるということです。たとえば、一年間に5人洗礼を受けたとしても、3年くらいたつといなくなり、1人残れば良いほうです。こういうのをずっとやっていると、牧師ってなんだろうと思います。私は他の教会はともかく、亀有教会だけでも伸びてほしいとやってきました。しかし、日本にある亀有教会であることを忘れてはいけないと思いました。停滞している、伸び悩んでいるというのは、一教会の問題ではなく、日本全体の問題だということが分かりました。海外からいろんなリバイバリストを招き、いろんな方策を試みましたが、これといったものがありませんでした。まさしく、「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる」です。『聖書人物伝』を書いている、沢村五郎師がこのように言っています。「今の時代に目を向けて私たちの立場に思い至るとき、いかに共通点が多いかに気づくであろう。現代は有史以来、霊的には最も暗黒な時代である。罪悪は地に満ち、神はだまっておられるかのようである。しかし時のしるしは主の到来を明示している。全世界は噴火山上にあって、すでに鳴動(めいどう)を始めている。さばきの日、大艱難の時は目前に迫っている。ところが、この世の人々だけでなく、教会もまた眠っている。」

ハバクク書はその当時の時代だけではなく、終末の時代をもかね合わせて預言しています。終末の時代も「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる」。私たちはこういうときこそ、ハバククの信仰と賛美を忘れてはいけません。こういう時代だからこそ、「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と告白すべきです。また、こういう時代だからこそ、「しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と賛美するのです。この先、天が崩れ去ることがあるかもしれません。いろんな艱難が起こるでしょう。しかし、そのとき主が来られ、最終的な救いをもたらしてくださいます。私たちはうなだれて主を待つのではなく、賛美して主の栄光がなされるのを待ちたいと思います。詩篇34:1「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」。


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