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2014年6月29日 (日)

千年王国の預言     イザヤ35:1-10

 イザヤはおもに4つの時代のことを預言しています。第一はイザヤが住んでいたその当時の時代です。第二はバビロン捕囚と帰還についてです。第三はメシヤ到来、つまりイエス・キリストに関する預言です。第四は千年王国、あるいは御国についてです。他の預言書も同じようなことを書いていますが、イザヤ書の場合は、その量が多く、その内容も詳しいということです。神様は永遠なるお方ですから、時代を超えて預言者に語ります。ですから、私たちは、「どの時代のことなんだろう?」と考えながら読む必要があります。


1.千年王国における回復

 イザヤ書35章には千年王国、つまり御国の様子が書かれています。天国と御国とは厳密には違います。天国は英語でheavenと言いますが、死んだ人たちが行くところです。しかし、御国には神の支配という意味があります。また、御国は復活後の千年王国、つまり新天新地が来るまでの1000年間の期間を指します。そのとき、すべてのものが回復します。イザヤ35:1-2「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは【主】の栄光、私たちの神の威光を見る。」御国においては、かつて荒地や砂漠であったところに花が咲き誇ります。荒野と砂漠に川が流れるので、喜び歌っています。現代は、地球温暖化によって雨が降らず、世界のいたるところで砂漠化が進んでいます。パレスチナでは、雨季のときだけ小雨がパラパラ降ります。すると、死んでいたような荒地から、一斉に花が咲くそうです。砂漠は土地が痩せているのではなく、水がないだけなのです。御国において、自然界はどうなるでしょう?イザヤ35:6-7「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。」とあります。荒地や砂漠に川が流れたなら、肥沃な大地になります。現在、動物は弱肉強食ですが、御国では違います。イザヤ65:25「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」とあります。進化論を信じている現在の生物学はまったく崩れるでしょう。アダムとエバが堕落する前の動物たちと同じようになるのです。

 ところが、御国が完成する直前に、地上に神の審判が下されます。世の終わりには、迫害がまし加わり、信仰者も弱り、よろめき、心騒ぐこともあるでしょう。イザヤ35:3-4弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」主が地上に戻って来られるとき、さばきと報いが同時に起こります。1つ手前のイザヤ34章には、「主が地上の軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶する。天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。多くの血が流され、主の復讐の日である」と書かれています。世の終わりに、主イエス・キリストが地上に戻って来られます。ある人たちにとっては恐ろしい日であり、またある人たちにとっては報いの日、救いの日であります。世の終わりに住んでいる人は、どちらかを体験することになります。もしかしたら、私たちが生きている間に起こるかもしれません。まさに、それは産みの苦しみの始まりです。なぜなら、世の終わった後、御国が訪れるからです。

 千年王国、つまり御国においては、自然だけではなく、私たちの肉体が回復します。この世では「障がい者」という方々がおられますが、千年王国においては、一人の障がい者もいません。イザヤ35:5-6「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」まず、目が見えない人の目が開かれます。生まれつき1度も見えたことのない人は、どんなに驚くでしょうか?また、耳の聞こえない人の耳があけられます。もう手話が必要でなくなります。素敵な音楽も聞くことができます。そして、足のなえた人はあんまりうれしいので、鹿のように飛び跳ねるでしょう。事故などで下半身不随の人がいたら完全に治ります。口のきけない人の舌は喜び歌うでしょう。イエス様は地上で、目の見えない人の目を開け、耳の聞こえない人の耳をあけ、足のなえた人を歩かせました。なぜ、そのようなことをしたのでしょう?それは、御国がどんなところかを少しばかり体験させたかったからです。御国には病気も障がいも死もないからです。イエス様は復活後、天にお帰りになられました。もう、病の癒しや奇跡もなくなったのでしょうか?あるクリスチャンたちは「聖書が完成した時代は目覚ましい奇跡は不要になった」と言います。日本は経済的にも富み、医学が発達しているので奇跡が起こりません。しかし、中国、南米、アフリカ、インド、インドネシア等では頻繁に起こります。なぜでしょう?お金もなく、医学も発達していないからです。その分、彼らは単純な信仰をもっています。「人にはできないことも、神にはできる」と信じています。今、イエス様は教会というからだをもってこちらにおいでになっておられます。私たち教会こそが、2000前のイエス様が行ったように3つのわざを行わなければなりません。3つのわざとは、福音宣教、教え、癒しと奇跡であります。

今から30年くらい前、栗栖ひろみ著の『命のパンのゆえに』という本を読んだことがあります。中世においては、ラテン語訳のヴルガータ聖書だけが権威がありました。他の国の言語で訳すだけでも処刑されました。ところが、16世紀ルターが宗教改革を起こし、ドイツ語で聖書を訳しました。ちょうど、グーテンベルグが活版印刷を発明し、聖書が印刷されました。イギリスにウィリアム・ティンダルという聖書学者が英語の聖書を発行しようとしました。そのため、神聖ローマ帝国の官憲に狙われ、ヨーロッパ大陸に亡命しました。どの印刷屋も危険なので英語の聖書を印刷してくれませんでした。ところが、ある小さな印刷屋さんが「よし、やってみよう」と引き受けてくれました。その家には、若いお嬢さんがいましたが盲人でした。印刷の合間、ティンダルが彼女に読んできかせたことばがイザヤ書35章でした。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」彼女が聖書から約束のことばを聞きたとき、喜びが顔中にあふれました。私はそのとき、とっても胸が熱くなり、この聖書の箇所を記憶しています。その印刷屋で新約聖書200部刷り上がりました。しかし、官憲がやってきて、印刷屋のご主人が捕えられ殺されました。ティンダルは何冊かの聖書を持って逃げましたが、ほとんどが没収されました。やがて、ティンダルは1536年イギリスで火刑に処せられました。彼の死後70年、キングジェームスによって、欽定訳聖書が作られました。新約聖書の8割が、ティンダル訳がそのまま使われたそうです。印刷会社のご主人もティンダルも報われたのではないでしょうか。しかし、印刷屋の盲目の若いお嬢さんはどうなったでしょう?彼女が御国で復活したとき、肉体の目が開くでしょう。ティンダルと手を取り合って、ダンスをする光景を想像できます。

 残念ですが、この地上においてすべての人が癒されるわけではありません。2か月前、マレーシアの伝道者が来られて、新宿のホテルで癒しの集会をしました。一番前に、聾唖の方が5人くらい座っていました。残念ですが、癒されませんでした。今も、奇跡や癒しは確かにあります。しかし、限界があります。なぜなら、死が克服されていないからです。だから、病気があるし、障がいも存在します。私も毎朝、散歩に行きますが、ヘッドギアーをつけた子どもがお母さんに連れられて登校する姿を見ます。昼間、生協に行くと、車椅子の方だけではなく、知的に障がいを持っている人もおられます。多くの人たちは、「不条理があるのが世の常なんだ」と諦めるでしょう。しかし、完全に回復し、悲しみが報われるところがあります。それが、千年王国であり、御国です。神様は新天新地が来るまでに、1000年間の御国を設けました。何故でしょう?それは地上の不条理が報われるときを与えたかったからです。また、神様はイスラエルを回復するために、御国を設けられました。イスラエルは不従順のゆえに神様から捨てられました。しかし、旧約聖書はイスラエルが必ず回復すると預言しています。さらには、この自然が回復しなければなりません。動植物が贖われることも神様のみこころです。イザヤ55:12「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」聖書の預言は、作り話とかおとぎ話ではありません。私たちの世界はあまりにも、フィクションや仮想現実に満ちています。なぜなら現実があまりにも厳しいので、ゲームなどありもしない世界に身を投じています。しかし、本当の希望があります。本当の報いがあります。それは、千年王国であり、御国です。やがてこの世は終わります。迫害や厳しいさばきもありますが、やがてイエス・キリストが戻ってこられます。そして、この世の歴史にピリオドを打たれ、御国が完成します。復活した私たちはそこで、永遠に住まうことができるのです。究極的な希望とは、千年王国であり、御国です。


2.千年王国への招き

イザヤ35:8-10「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。【主】に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」このところに、ヘブル語の聖書には「贖われた」ということばが2回出てきます。最初に出てくるのは、9節の「ガアール」贖うという言葉です。これは失った土地を買い戻すという意味のことばです。ルツ記に、何度もこのことばが出てきました。ボアズが土地代を払い、ルツと結婚したので、エリメレクの土地が買い戻されました。次に出てくる10節は「ピデーム」であり、英語の聖書ではransomと訳されています。身代金で捕虜を解放する、身請けするという意味のことばです。元来「贖う」ということばは、罪とは関係ありませんでした。土地を買い戻したり、身請けするという意味で使われていました。しかし、だんだんと罪の中に囚われている人を解放するという意味に変わってきました。このような意味の贖いが、頻繁に出てくるのがイザヤ書です。たとえば、イザヤ44:22「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」このところには、はっきりと罪から贖ったと書かれています。そして、イザヤ書53章には、罪から贖うための贖いしろ、つまり苦難のしもべについて書かれています。イザヤ53:5「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」とあります。イザヤ書が第五福音書と言われるのはそのためです。

千年王国、つまり御国に入れる人はだれでしょうか?それは、主に贖われた人だけです。罪を持ったままでは、御国に入ることはできません。イエス様はマタイ7章で「狭い門から入りなさい。…いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」と言われました。しかしここでは、「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる」と書いてあります。英語の聖書ではハイウェイですから、片道何車線もある広い道路を想像すべきです。なぜ、ここでは狭い道ではく、大路なのでしょうか?それは、終わりのとき、御国に入る者たちが非常に大勢いるからです。私は『復活』という絵を見たことがあります。手前にはよみがえられたイエス様が墓のそばに座っています。その向こうには、各時代の人たちが旗をもって立っています。古代、中世、近代、現代と着ている服でわかります。おびただしい数の人たちが雲のように群がっています。子どもいれば、少年、中年、老人もいます。その人たちが、御国に入るのですから、大路、ハイウェイでなければなりません。しかし、そこには条件があります。群衆に紛れて入ることはできません。「汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない」と書いてあります。こんなに大勢の人たちをどのように分けることができるのでしょうか?1つは、キリストの贖いを受けて、いのちの書に名前が記されている人たちです。もう1つは聖霊の証印が押されている人です。エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」ハレルヤ!「聖霊が御国を受け継ぐことの保証であり、神の民の贖いのためである」とはっきり書かれています。しかし、世の終わり、迫害が激しくなり「獣の刻印」を押されたものだけが売り買いできるという時代がやってきます。多くの人たちは、右手か額に、刻印を受けさせられるでしょう。だから、そのときは信仰は命がけであり、殉教を覚悟しなければなりません。キリストが来られるとき、獣の刻印を受けた人々は、にせ預言者と一緒に火の池に投げ込まれます。ヨハネ黙示録20:4「…獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」と書いてあります。この人たちは、世の終わりに救われて、千年王国に入った人たちです。

現代は終わりの時代に既に入っています。しかし、「獣の刻印」が押されるような迫害は受けていません。世の終わりを極端に強調する牧師たちがいます。「ちょっと危ないなー」という気がしますが、ある程度は、彼らからも学ぶ必要があります。たとえば、政府は国民全員に番号を割り振る法案を決定しています。アメリカでは、昨年、皮膚の下にICチップを埋め込む法案が可決されました。そうすれば、預金残高、職業、犯罪歴など国民一人ひとりを監視することができます。水面下では、ちゃくちゃくと準備ができているのかもしれません。信教の自由はいつまでも続かないということは確かです。しかし、平和な時代は信仰もなまぬるくなり、自分は救われているのか、救われていないのかも分かりません。私たちはまもなくやってくる、さばきと報いに対して、備える必要があります。聖書の預言はほとんど成就しました。成就していないのは、この世の終わりの一連の出来事だけです。これから起こることを知るために、ヨハネの黙示録などから学ぶ必要があります。ヨハネの黙示録は、世の終わりの7年間にスポットが当てられています。7年間とは、千年王国に至るまでの艱難時代です。今は時計が止まっている状態です。ダニエル書には、70週ということばがあります。ところが、69週目にメシヤが絶たれました。そこに、教会時代が割り込んでしまい時計が止まったような状態になりました。いわゆる、異邦人の時です。残りの1週、つまり7年間は延期されている状態です。でも、異邦人の時が終わったなら、時計が動き出します。まず、エルサレムに神殿が建てられます。世界的な政府が樹立され、いろんな統制が敷かれます。大きな迫害のもとで、イスラエルの民が救われるでしょう。ある人たちは、教会は天に引き上げられると言います。しかし、ある人たちは一緒に艱難を受けると言います。とにかく、殉教者する人はかなりの数にのぼるでしょう。イエス様は、「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです」と何度も言われました。ですから、終末の時代に住む私たちにとって一番重要なことは、主がいつ来られても良いような生活をしていることです。

Ⅰテサロニケ5章に、私たちがどのように備えるべきなのか詳しく書かれています。Ⅰテサロニケ5:2-6「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」眠るとは、霊的に眠っているということです。「世の終わりなんか来ない。そんなのうそっぱちだ」と罪の中に生きているなら、取り残されてしまうでしょう。私たちは暗闇の者ではなく、光の子ども、昼のこどもです。Ⅰテサロニケ5:8-9「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」ハレルヤ!昼の者が身に着けるものがあります。信仰と愛の胸当て、救いの望みのかぶとです。いわゆる「信仰、希望、愛」です。私たちは神の怒りを受けるものではありません。キリストにあって、救いを得るように定められています。今、キリストを信じているなら、この先、どんなことがあっても罪に定められることはありません。必ず、千年王国、御国に入ることができます。イザヤも「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる』」と言っています。キリストにある者には復讐の神ではありません。神の報いが来て、私たちが救われるのです。ですから、世の終わりは私たちとっては、破滅ではなく、御国が完成するときなのです。この世は終わらなければなりません。でも、その後に、自然界が回復される千年王国がやってきます。千年王国こそは、私たちへの報いです。すべての不条理が解決され、すべての損失が弁償されるときです。この地上では貧しい人や金持ちがおります。幸せな人もおれば、一生不幸せな人もいます。健康な人もおれば、病気がちで体の不自由な人もいます。しかし、千年王国ではそんなことはありません。特に、地上で貧乏くじをひかされたような人が、何倍も報われるのです。神様はちゃんと見ておられます。有名で地上ですでに報われている人は、御国ではあまり与えられません。地上で良いことをしたのに、ちっとも報われなかった人が、御国では報われるのです。人からの報いは期待してはいけません。しかし、千年王国における、神様からの報いは期待して良いのです。信仰と愛と望みを失わないで、御国の成る日を待ち望みたいと思います。


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2014年6月22日 (日)

ヒゼキヤの祈り    Ⅱ列王記19:15-20

 南ユダのヒゼキヤ王のことは、Ⅱ列王記の他に、Ⅱ歴代誌とイザヤ書にも記されています。北イスラエルは、ヒゼキヤ王のときアッシリヤによって滅ぼされました。彼らはその勢いで、南ユダにも攻めてきました。敵の攻撃を受けた原因は、南北イスラエルが主の戒めを破り、偶像礼拝をしていたからでした。ヒゼキヤは25歳で王になりました。彼はどのような王様であり、どのような祈りをしたのでしょうか、ともに学びたいと思います。


1.ヒゼキヤの信仰

 ヒゼキヤの父アハズは、北イスラエルの風習を取り入れ、バアルのために鋳物の像を作りました。また、ベン・ヒノムの谷で香をたき、自分の子どもたちに火の中をくぐらせました。さらに高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香をたきました(Ⅱ列王記16:3-4)。そのため、主はアラム王の手に渡し、アハズ王を打ちました。さらには、北イスラエルが攻めてきて、民20万人をサマリヤに連れて行きました。また、エドム人やペリシテ人も攻めて来てユダの村落を奪いました。主がアハズ王のためにユダを低くされたからです。それでは、息子のヒゼキヤはどうだったのでしょうか?Ⅱ列王記18:2-6「彼は25歳で王となり、…高き所を取り除き、石の柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。…彼はイスラエルの神、【主】に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は【主】に堅くすがって離れることなく、【主】がモーセに命じられた命令を守った。」つまり、ヒゼキヤは父アハズが作ったすべての偶像を取り壊しました。なぜなら、偶像礼拝が国を滅ぼすことを知っていたからです。また、主に堅くすがり、主がモーセに命じられた命令(律法)を守りました。ヒゼキヤは宮をきよめた後、アロンの子らに命じて、主の祭壇の上でいけにえをささげさせました。ヒゼキヤは北イスラエルの人たちに「イスラエルの神、主に過ぎ越しのいけにえをささげよう」と呼びかけました。でも、人々は使いの人たちを物笑いにし、あざけりました。主はヒゼキヤが行った宗教改革とまことの礼拝を喜ばれました。しかし、このような良い王様にも試練がやってきました。

ヒゼキヤ王の第6年、アッシリヤは北イスラエルを滅ぼしました。そして、大勢のイスラエル人をアッシリヤに捕え移しました。さらに、ヒゼキヤ王の第14年に、アッシリヤの王セナケリブがユダにある城壁の町々を攻め取りました。その後、将軍のラブシャケが大軍を引き連れて来て、エルサレムを包囲しまた。ヒゼキヤはその前に、地下水道を作っていましたので、水は確保できていました。ラブシャケは長引くといけないので、神経戦に持ち込みました。「いったい、だれに頼って私に反逆するんだ。エジプトに頼ってもダメだぞ。お前たちの主がこの国に攻め上ぼって、これを滅ぼせと言われたんだ。」確かに、北イスラエルは罪を悔い改めなかったので、主がアッシリヤをさばきの器として用いました。ラブシャケは城壁の向こうから大声で叫びました。「ヒゼキヤにごまかされるな。あれはお前たちを救い出すことはできない。私に降参したら、良い国に連れて行こう」と言いました。民は黙って、彼に一言も答えませんでした。ヒゼキヤ王が「彼に答えるな」と命令を降していたからです。ラブシャケは悪魔と似ています。「主を信頼するな。指導者を信頼するな。私に降参すれば、良い国に連れていくぞ!」と誘惑します。ヒゼキヤ王はどうしたのでしょうか?Ⅱ列王記19:1-3 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、【主】の宮に入った。彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに、荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。』」ヒゼキヤは主の宮、つまり神様のところに助けを求めました。その当時活躍していた預言者イザヤに、主の導きを求めてもらいました。イザヤは「主はこう仰せられる。アッシリヤの若い者たちが主を冒瀆したことばを恐れるな。彼はある噂を聞いて、自分の国に引き上げる。私はその国で彼を剣で倒す」と主のことばを伝えました。

その後も、ラブシャケは使者を遣わして、降伏を迫りました。ヒゼキヤは使者からの手紙を受け取り、主の宮に上って行って、それを主の前に広げました。ヒゼキヤの良いところは、主のもとに逃げ込むということです。Ⅱ列王記19:15-16 ヒゼキヤは【主】の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。」ヒゼキヤはイスラエルの神は、地のすべての王国の神であり、天と地を造られた神であると告白しています。さらに、聖書を読んでいくとヒゼキヤの信仰が分かってきます。Ⅱ列王記19:17-18「【主】よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。」アーメン。確かにアッシリヤの王たちが、国々を倒し、彼らの神々を火に投げ込みました。しかし、それらは神さまではなく、偶像でした。人の手で作った、木や石に過ぎなかったので、滅ぼすことができたのです。ヒゼキヤは天地を造られたまことの神、主に頼りました。北イスラエルは、主に背いて、偶像礼拝をやめなかったので滅ぼされました。父ハアズも北イスラエルの習慣にならって、偶像礼拝をしました。そのため、多数の敵によって侵入されました。何が重要かということをヒゼキヤは知って、すべての偶像を取り除き、宮をきよめまことの礼拝をさげました。また、主を信頼し、モーセに命じられた命令を守りました。このところに国を守り、国を繁栄させる原理が記されています。今の総理大臣は集団的自衛権奉仕を主張しています。日本にとって、中国やロシアが驚異かもしれません。だから、アメリカに頼り、自国でも防衛力を高めようということなのでしょう。しかし、総理大臣自身が偶像を礼拝をやめようとしません。聖書が主張する国の繁栄は、まことの神を恐れ、神さまの仰せを守ることです。

また、ヒゼキヤが取った行為は、私たち信仰者の模範です。ヒゼキヤは悪魔の象徴であるラブシャケと議論をしませんでした。エバは蛇と議論したばっかりに誘惑に負けました。蛇は「神は本当に言われたのですか」と神のことばに疑いを入れました。アダムはどうしていたのでしょう?アダムはエバが誘惑されるところを近くで見ていました。本当なら「やめろ!」と蛇を追い払うべきでした。しかし、アダムはかしらであることの責任を放棄しました。ヒゼキヤのすばらしいことは、主のもとに行ったことです。祭司たちに荒布をまとわせ、預言者イザヤの所に遣わしました。イザヤは主からのみことばを伝えました。そして、ヒゼキヤ自身は主の宮に上り、主の前に訴えました。「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください」と祈りました。新約の時代、預言者イザヤにあたるものは聖書です。私たちは聖書を開くとき、主のみ声に耳を傾けているのです。聖書を閉じたままで、主のみ声を聞くことは危険です。現代も預言者のような人がいますが、私たちはまず自分自身で聖書を開いて、神様に聞かなければなりません。第二は、主の前に出て祈るということです。今はエルサレムの神殿に行く必要はありません。キリストがよみがえられてから、私たちのからだが神殿になりました。カトリック教会のように司祭のところに行く必要はありません。私たちが一人ひとりが祭司なので、主の御名によって祈ることができます。ヒゼキヤは神様がどんなお方か目をとめました。私たちも問題がどのくらい大きいかを詳細に述べるのではなく、神さまがどんなに大きなお方か目をとめることです。神さまは私たちが問題を1つ1つ説明しなくてもご存じです。それよりも私たちが神様に目をとめ、信仰をもって求めることが重要なのです。全能の神様を通して問題を見るのです。そうすると問題から解放され、なすべきことが見えてきます。

偶像の神様は耳があっても聞くことはできません。偶像の神様は口があっても話すことができません。偶像の神様は手があっても伸ばすことができません。京都の三十三間堂に行った時、千手観音などたくさんの仏像がありましたが、あれは人間が考え出したものです。まことの神様に、私たちと同じような耳や口や手があるかどうか分りません。おそらくないでしょう。しかし、まことの神様は私たちが口に出す前からご存じです。そして、私たちのところに身をかがめて聞いてくださいます。そして、全能の御手を動かしてくださいます。ヒゼキヤ王に対してはどうだったのでしょうか?イザヤは「わたしに祈ったことを、わたしは聞いた」と主からのことばを伝えました。Ⅱ列王記19:35-37「その夜、【主】の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。」主ご自身が戦い、勝利をもたらしてくださいました。


2.ヒゼキヤの祈り

 これで話が終われば良いのですが、一難去ってまた一難です。Ⅱ列王記20:1-3そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「【主】はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、言った。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。なぜ、主はヒゼキヤに「あなたは死ぬ。なおらない」と言われたのでしょう。人の寿命は神様が握っておられます。イエス様はマタイ6章で「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」とおっしゃいました。私が散歩するコースに「延命寺」というお寺があります。おそらく、「同じような名前のお寺がたくさんあるんだろうなー」と思います。私たちの場合は、延命ではなく、永遠の命です。でも、欲を言うならば、地上でも長生きしたい、延命したいと思います。ヒゼキヤはイザヤから「あなたの地上のいのちはおしまいですよ」と言われました。話は飛びますが、ヒゼキヤは主のあわみを受けて、15年長生きできました。でも、彼は大きな失敗をしました。そのころ、無名だったバビロンの王様がお見舞いのため使者を遣わして来ました。Ⅱ列王記20:13「ヒゼキヤは、彼らのことを聞いて、すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。」その後、イザヤからなんと言われたでしょう。Ⅱ列王記20:16「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と【主】は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」おそらく、主はこうなることを知って、ヒゼキヤ王が召されることが最善だと思われたのでしょう。

でも、主はヒゼキヤの悲痛な祈りを聞かれました。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いて祈りました。主はどのくらい後に、彼の祈りを聞かれたのでしょうか?3日後でしょうか?1か月後でしょうか?私たちは「祈りというものは、そう短時間で聞かれないものだ。聞かれるまで、何回も祈らなければならない」と考えているかもしれません。しかし、いつもそうとは限りません。Ⅱ列王記20:4-6 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような【主】のことばが彼にあった。「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、【主】は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは【主】の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」このところに、「イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような【主】のことばが彼にあった」とあります。おそらく、ヒゼキヤは神殿の壁に顔を向けて祈っていたのでしょう。イザヤがまだ中庭を出ないうちに、主のことばがあったということは、30メートルくらい歩いてからでしょう。30メートルだったら2分はかかりません。2分もたたないうちに、主がヒゼキヤの祈りに答えてくださいました。主はヒゼキヤの本来の寿命に15年を加えると約束されました。ヒゼキヤは何か腫物で病んでいたようです。干しいちぢくをそのところに当てたら、彼はいやされました。いちぢくは何か薬効成分あるようですが、この場合は、主が直接いやされたということです。私たちは「祈りというものは、そう簡単に聞かれるものではない」とどこかに思ってはいないでしょうか?そのため何べんもくどくどと祈ったりしてはいないでしょうか?マタイ6:7-8「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。」とイエス様はおっしゃいました。結論的に、祈りは長ければ良いというものではありません。祈りは単純で短くても聞かれます。むしろ、その方が、神様が喜ばれます。私も人の長い話を聞くのは好きじゃありません。クリスチャンは年数が増せば増すほど、当時の律法学者のように人に聞かせるような祈りをする傾向があります。イエス様は「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません」と言われました。では、長い祈りは不要なのでしょうか?その代わり聖書は「絶えず祈りなさい」と言っています。祈りは求める祈りだけではありません。主と交わる、つまり会話をする祈りもあります。また、多くの人たちのためにとりなす祈りをするならば、どうしても時間がかかります。しかし、結論的には、祈りは長さではなく、信仰であるということです。私たちは信仰が来るまで祈る必要があります。信仰が来たなら、あとは感謝して待てばよいのです。

また、ここで注目すべきことは、神様がどれくらい偉大かということです。ヒゼキヤはしるしを求めました。Ⅱ列王記20:9-11「イザヤは言った。「これがあなたへの【主】からのしるしです。【主】は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」預言者イザヤが【主】に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。みなさん、日時計の影を10度あとに戻すという意味をご存じでしょうか?日時計というのは、太陽と地球の位置関係から来るものです。自分の家の時計の針を戻すのとは訳が違います。太陽というか、おそらく地球を動かしたのでしょう。あるいは地軸を動かしたのかもしれません。地軸は公転軌道に対して23.4度傾いています。そのために、季節の変化があるそうです。しかし、これがヒゼキヤの時のことなのかは分りません。ちなみに、ヨシュアがギブオンというところで戦っているとき、「日は動かず、月はとどまった」とあります。まる1日ほど、太陽が動かなかったということです。これは、地球が動かなかったということですが、時速1674キロで自転している地球が止まるとどうなるでしょう。どういう仕組みか分りませんが、それは奇跡です。神様が全宇宙を創造したのですから、日時計の影を10度あとに戻すことも、1日、天空に太陽をとどめておくことも可能です。全宇宙から見たら、銀河系の中の太陽系の惑星などゴミみたいなものでしょう。でも、なぜ主は「影が十度進むか、十度戻るか」というしるしを与えようとされたのでしょうか?人の寿命を変えるのは、そのくらい大きなことなのではないのでしょうか。イエス様はマタイによる福音書で、「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません…だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」と言われました。ということは、私たちの寿命は神様の御手の中にあるということです。私たちの寿命をどうこうするのは、日時計の影を動かすのと等しいということです。「私の命の長さと、天体の動向と等しいなんて、なんとすごい」と思わないでしょうか?

神様は私たちに計画をもっていらっしゃいます。英語ではdivine destiny 「天命」と言います。ヒゼキヤは15年寿命を延ばしていただきました。それ自体はすばらしいことです。しかし、彼は安心しきって、見舞いに来たバビロンの高官たちに宝物蔵を全部見せました。そのため、あとでバビロンに襲われたとき、全部持っていかれました。神様はヒゼキヤの将来を知っていたので、「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」と言ったのです。しかし、ヒゼキヤは「私はこれまで良いことを行ってきました」と、泣いて頼みました。すると、主は15年の命を加えてくださいました。ヒゼキヤ自身はそれで良かったかもしれません、しかし、ユダの国にとっては、不幸なことでした。ベストとベターというのがあります。ヒゼキヤはベターを願ったために、ベストを失ったのかもしれません。だから、早く死ねば良いというわけではありません。私たちが主からみこころを示されているにもかかわらず、執拗に求めるなら、主はみこころを変えてくださるかもしれません。しかし、それはベストではなくて、ベターである場合もあります。たとえば、子どもパソコンやバイクを願います。親は、最初はダメだめだと言いました。しかし、あまりにもせがむので、仕方なく買い与えました。そのため勉強をしなくなったり、事故にあったりするでしょう。今のは、消極的な例でありますが、神様のご性格は最善のものを与えたいと願っておられます。私たちが健康で長生きするように願っておられます。ヒゼキヤは国内から偶像を排除し、モーセの命令を守り、正しい礼拝をささげました。だから、ダビデに次ぐ、良い王様であると聖書の3つの書物に彼のことが書かれています。私たちも、自分の中から神さまよりも大切な偶像を取り除きましょう。また、聖書のみことばを守り、心から神様を礼拝したいと思います。父なる神様はloving-kindness慈しみ深い神様です。慈愛に満ちた神様です。私たちに悪いものを与えるお方ではなく、最善の計画と最善のものを与えようとしておられるお方です。信仰をむずかしく捉えてはいけません。信仰とはまことの神様を信頼して歩むということです。


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2014年6月15日 (日)

大預言者イザヤ    イザヤ1:1-6  

 旧約聖書で最も有名な預言者はイザヤです。エリヤは文章を残しませんでしたが、イザヤはエレミヤやダニエルと同じくらい長い文章を残しました。彼はウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの4代の王のもとで活躍しました。彼の後半に書かれたイザヤ書40章以降は全く内容が異なります。そのため学者たちは、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと分けたりします。しかし、イエス様や使徒パウロは第二イザヤとか、第三イザヤなどと引用していないので、私はイザヤ書を書いた人は、一人だと思います。しかし、イザヤ書は66章にわたる大預言書なので30分で語ることは不可能です。でも、今回はイザヤという人物にポイントをあてて、学びたいと思います。


1.聖なる預言者

 イザヤは貴族の家に育ち、社会的にも勢力を持つことのできる地位にあり、歴代の王と対面することができました。イザヤ書1章から12章までがおもに南ユダ王国のための預言が記されています。イザヤは火のようなメッセージを語りました。イザヤ1:2-4「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。』ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」イザヤは、歯に衣着せぬ物言いで、イスラエルの罪を糾弾しました。その相手が王様であろうと、政府高官であろうと構いません。イザヤがよく使う表現が「イスラエルの聖者です」。この意味は、聖なる方がイスラエルの中に住んでおられるのだから、「聖なる生活をせよ」ということです。主が彼らを選んで大事に育ててきました。それなのに牛よりも劣る有様で、「罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら」と言われています。どのくらい、汚れているかというと、足の裏から頭までです。イザヤ1:6「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」イスラエルの罪深さが「らい病患者」にたとえられています。イザヤは1章から5章まで、イスラエルの罪を無茶苦茶糾弾しています。ところが、イザヤ書6章になったらどうでしょうか?イザヤは預言者として活動した初期の頃、神体験をしたと考えられます。

 イザヤは神殿の中で主なる神を見てしまいました。主の前で天使セラフィムたちが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と礼拝していました。イザヤ6:5「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。』」イザヤはこれまで、イスラエルの民が汚れているとさんざん言ってきました。しかし、自分が主を見たとき、自分こそ汚れていると悟ったのです。旧約時代は、聖なる神様を見ると、死ぬと考えられていました。だから、イザヤは「ああ。私はもうだめだ」と言ったのです。「ヌミノーゼ」と言いますが、聖なるもの、絶対的なものに立ったときの畏れであります。人は、こういう体験がないと、神様をなめてかかります。イザヤが聖なる預言者と呼ばれるのは、自分が本当に罪深いことを知り、神さまから聖められる経験をしたからです。イザヤ6:6-7「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」幻なのか現実なのかわかりませんが、イザヤの口に燃えさかる炭火が当てられました。そのことにより、イザヤの不義が取り去られ、罪が贖われました。それまで、イスラエルの人たちは汚れていると裁いていたその唇が、聖められたということです。私も講壇から、主のみことばを語ります。賛美リーダーの方がたまに、「鈴木牧師の唇をどうか聖めてください」と祈ってくださいます。心の中では「余計なお世話だ」と思っていますが、ありがとうございます。イザヤは相対的には聖かったかもしれませんが、神様の目から見たら、罪のかたまりでした。そして、自分も罪汚れた民の一人だと分かったのです。そのとき、イザヤは罪を贖われ、そして聖められる体験をしました。その後、「私をお遣わしください」と願いました。主は「行って、民に言いなさい」とイザヤを派遣しました。何が変わったのでしょう?罪贖われた者、聖なる預言者として再び遣わされたということです。

 パウロはコリント教会の人たちに「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」と挨拶しています。しかし、彼らの実際の生活は罪に満ちていました。でも、彼らはキリストによって罪の贖いを受けていました。だから、神様の目から見たなら、聖徒であり、聖なるものなのです。Ⅱコリント5章には「キリストの使節(大使)なのです」と書かれています。私たちもイザヤのような経験が必要です。私たちは、世の中の人をさばくことがあるでしょう。でも、私たち自身にも罪があり、そして汚れた民の間に住んでいます。だから、このままでは、人々に「神様はこう言われます。こうしたら良いですよ。」とは言えません。なぜなら、程度の差はあれ、自分も同じような罪を犯しているからです。イザヤが得た3つの体験を私たちも必要です。第一は神を恐れるということです。ヌミノーゼ体験と言いましょうか、「自分は滅びる存在である」と気づくことです。「自分は人とくらべて意外と正しい」と思っている人は、イザヤのような深いメッセージを語ることはできません。第二は罪の贖いを体験するということです。まさしく、キリストの十字架が自分のためであったということです。何をし、何を語るにしてもキリストの贖いが土台でなければなりません。第三は聖められるという体験です。イザヤは幻の中で、燃えさかる炭火を口に当てられました。イザヤは不義が取り去れたたと言っています。新約聖書的には、罪の性質が聖められたということです。もちろん天国に行くまでは罪があります。でも、罪を生産する工場が壊される必要があります。これらの体験を通して、イザヤは罪と汚れが満ちているイスラエルの民の中に再び出て行ったのです。私たちも罪に満ちているこの世に遣わされている存在です。ですから、私たちもイザヤのような体験が必要なのです。


2.世界的な預言者

 イザヤが活躍し始めた頃、北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。アッシリヤは、今度は、南ユダ王国も滅ぼそうとやってきました。王様たちはエジプトに頼った方が良いのではないかと迷いました。そういう中で、「イザヤは主なる神様に頼れ」と預言しています。詳しくはヒゼキヤ王のときにお話ししたいと思います。イザヤは南ユダ王国だけではなく、諸外国に関しても預言をしました。そのことは、イザヤ13章から23章まで記されています。第一はバビロンに関するメッセージです。イザヤの頃は、バビロンはまだ興ったばかりで、アッシリヤの影に隠れていました。しかし、このバビロンがやがてアッシリヤを滅ぼします。さらには、南ユダ王国を滅ぼし、財宝を奪い、人々を国外に連れ出しました。これを、捕囚と言いますが、ダニエル書に現地のことがよく書かれています。主は南ユダが罪を悔い改めないので、さばきの器としてバビロンを用いたのです。イザヤは捕囚のこともさることながら、時が満ちたら戻ってくることができるとまで預言しています。実際、70年という数字をあげたのはエレミヤですが、すごいことではないでしょうか。しかし、それ以上にすごいのは、バビロンがやがて滅びることを預言しています。イザヤ13:17「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らは胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。」メディヤとはペルシヤのことです。そのとき、主がペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせました。それで、ユダの民はエルサレムに帰ることができました。

 第二はアッシリヤです。時間的にはバビロンより先に起こりました。第三はペリシテ、第四はモアブ、第五はダマスコ、第六はクシュ、今のエチオピアです。第七はエジプトです。なぜ、イザヤは諸国に対して預言したのでしょうか?それは、主なる神が世界を支配し、歴史を動かしているからです。聖書の歴史観はこの世の歴史観とは違い、救済史、救いの歴史です。単なる歴史ではなく、背後に神さまの支配があることを示しています。イザヤ40:15「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。」40:22-23「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。」神様は世界の創造者であり、支配者です。ところが、時代が進むと、神様はこの世界にはタッチしておられない。物質がすべてであるという唯物史観が出てきました。そうすると歴史は人間の欲望と自然における偶然の積み重ねになります。だから、学校では神なき歴史を学んでいます。「地球は46億年前に誕生し、それから生物が誕生し、約700万年前に人類が誕生しました。そして、5,000年前に文字ができ国家という形のものができ、人類の文明が始まりました。」と教えます。そこから先は、いろんな国が興っては倒れ、倒れては興るという繰り返しが続きます。歴史には目的もなければ、意味もありません。なんとなく始まり、なんとなく終わります。そうではありません。世界は創造主なる神様によって造られ、今も、保たれているのです。

 イザヤ41:1-4「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、【主】こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」イザヤは、「神様がひとりの者を起こして、国々を渡し、王たちを踏みにじらせる」と言っています。ひとりの者とは、まさしく王なるキリストです。この方が再び来られたとき、歴史にピリオドが打たれるのです。「島々よ」とありますので、この中には日本も入っていると信じます。ヨナがアッシリヤの首都ニネベに宣教に行きました。そのとき、主は、右も左もわきまえない12万人以上の人間と数多くの家畜を惜しまれました。日本には約1億3000万人住んでいます。定義にもよりますが、首都圏には3600万人住んでいます。私たちクリスチャンは自分の生活が守られるように祈ることも大切ですが、首都圏と日本の救いのために祈る必要があります。私たちが信じている神様は歴史を支配しておられる世界大、宇宙大の神様であることを知る必要があります。私はジョエル・オスティーンの説教をユーチューブで時々見ます。彼の後ろには大きな地球儀があり、それがゆっくりと回っています。お父さんが牧会しているときは、後ろに世界各国の国旗が立てられていました。お父さんはインドをはじめとするアジア諸国に宣教に行かれていたようです。息子のジョエル・オスティーンはテレビを通して世界に福音を発信しています。

 当亀有教会も世界まで行かなくても、首都圏と日本の救いのために重荷を持つ必要があると思います。大きく考え、大きく祈っていくと、目の前の問題が小さく見えてきます。私たちが日々、遭遇している問題が、首都圏と日本の救いと比べたらどの程度のものでしょうか?神様はどういうお方でしょう。「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。」と書いています。私たちも地上からではなく、神様のおられる天上から地上を見下ろしたいと思います。そうすれば、「ああ、小さなことで悩んでいるなー」と思うでしょう。そして、全世界を導いておられる神様は、私の人生も導いておられると信じることができます。イザヤ40:28-29「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」アーメン。私たちの人生は偶然の積み重ねではなく、永遠の神、地の果てまで創造された方が、共におられて、助けてくださるのです。


3.慰めの預言者

 イザヤ40:1-2「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。』」イザヤ書はこの40章から全く、内容が違ってきます。これまではさばき中心でしたが、後半は慰めと希望、そして神様の招きが記されています。使徒パウロもたくさんこのイザヤ書から引用しています。イザヤ書が第五福音書と言われるのはそのためです。では、イザヤ書40章から最後の66章まで具体的にどのようなことが記されているのでしょう?それは、バビロン捕囚からの帰還と神の招きです。イザヤが活躍しはじめた頃、南ユダは、まだ繁栄を誇っていました。しかし、ウジヤ王が死んでから、雲行きがおかしくなりました。ヨタムとアハズは北イスラエルに影響されて、様々な偶像を拝みました。そのあと、ヒゼキヤが王になり国を建てなおしました。そして、ヒゼキヤが王になってまもなく、北イスラエルのサマリヤが陥落しました。北からアッシリヤが攻めて来たからです。そして、北イスラエルの民は外国に連れて行かれました。今度は、南ユダにも侵略の危機が訪れました。彼らはエジプトにたよるべきかどうか迷っていました。しかし、イザヤはそんなものに頼らないで、万軍の主に頼れと言いました。イザヤはもっと先のことを預言しました。それは、南ユダが罪を悔い改めないなら、バビロンがあなたを捕え移すと預言しました。しかし、そのとき、バビロンはできたての新しい国でした。ヒゼキヤは自分が生きているうちにそれが、起こらなければ良いと考えていました。一般に、こういうなまぬるい時代に、預言しても無駄だと考えるでしょう。しかし、イザヤの偉いところは、人がたとえ信じなくても主のことばを語ったということです。なぜなら、主からこのように言われていたからです。イザヤ6:9-10「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」これは、信じようとしない者は心が頑なにされるという呪いです。

 イザヤは若い時には主のさばきをストレートに語りました。しかし、年を取り、円熟してからはメッセージの仕方が変わりました(まるで今の私のようです)。『聖書人物伝』を書いた沢村五郎師はこう述べています。「イザヤ書の前半には秋霜(しゅうそう)のような峻厳さがあり、後半には春風のような暖かさがある。そのため、第二イザヤ説を唱える者は、これを別人の作と見る。そして、イザヤ書を殺してしまう。しかし、そこに広大なイザヤの人格の内容があらわされているのである。イザヤは常に進歩した。彼のたましいは年とともにいよいよ円熟した。後半生は別人ではないかと思われるほどの変化があるところに彼の偉大さがうかがわれる。何年たっても一向に変わらず、否、時には若い時の方が元気があって役に立ったといわれるような伝道者はわざわいである。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるまで、常に進歩するものでありたい。」では、イザヤはどのような主の恵みを伝えているのでしょうか?イザヤ46:3-4「3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」バビロンはベルという神さまを信じていました。バビロンがペルシヤとの戦いで敗れた時、バビロン軍は大きくて重い偶像を動物に載せて逃げなければなりませんでした。捕えられて偶像が戦利品として待ち去られてしまうことのないためです。それに比べてイスラエルの神、主は、神の民を背負い、運んで救う神だということです。私たちがしらがになっても、主が背負ってくださるとはなんとありがたいことでしょうか。イザヤ49:15-16「『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。』」一般に、母親は自分が生んだ子どもを忘れないものでしょう。しかし、世の中には子どもを捨てる母親もいます。現代は、物理的に捨てなくても、ネグレクトという育児放棄があります。基本的信頼感を学ぶ、一番重要なときに母の愛が受けられない子どもは、大きなダメージを負うことになるでしょう。しかし、神の愛は母の愛とは比較にならないほど、永遠で、普遍で、無限です。私たちは主の絶対的な愛を受けるとき、母親から受けられなかった悲しみを放棄し、新しい人生を歩む希望が与えられます。

 最後にイザヤは主の熱い招きを語っています。イザヤ65:17-23「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。」これは、御国の預言です。私たちは毎週、「御国が来ますように」と賛美します。これが完成された御国です。主はここに住まうことができるように、私たちを招いておられるのです。御国には死がありません。喜びと楽しみと豊かさがあります。世の中にはいろんな楽しみがあるでしょう。しかし、私たちの楽しみは完成した御国に主と共に住まうことです。これが私たちのゴールです。人生のゴールがはっきりしている人の生き方は違います。途中どんなことがあっても、最後が良いことを知っているからです。私たちの人生は主を信じているなら、必ずハピーエンドで終わるのです。


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2014年6月 8日 (日)

ヨエルの叫び    ヨエル2:28-32

 きょうはペンテコステ礼拝です。ペンテコステとは、ギリシャ語の50から来ています。旧約聖書では過ぎ越しから50日目が小麦の収穫をお祝いする日でした。新約聖書では、イエス様が十字架で死なれてから、50日目に聖霊が降りました。その日、ペテロが説教すると、3000人の人たちが救われました。霊的な大収穫ということができます。教会では「リバイバル」と言う言葉をよく使いますが、「ペンテコステのような大収穫が再び来るように」という願いからです。使徒ペテロは、ペンテコステの朝、ヨエル書を引用して、説教しました。私たちは旧約聖書から続けて学んでいますので、まず、ヨエル書から学びたいと思います。


1.ヨエルの説教

ヨエルという名前は、「主は神なり」という意味です。しかし、どの時代に活躍した預言者なのか定かではありません。ヨエルが生きていた時代、いなごが度々、来襲し、山野や畑を荒廃させました。ヨエル書を見ますと、異なった種類のいなごが、4回に渡って来襲しているのが分かります。「かみつくいなご」「いなご」「ばった」「食い荒らすいなご」の来襲によって、地は荒廃させられました。徹底した被害によって、あらゆる層の人たちがどん底に落とされました。ぶどうの木がいなごにやられると、ぶどう酒ができません。だから「酔っ払いよ。目をさまして、泣け」(1:5)と言われています。また、小麦と大麦がやられると、パンも作れません。「農夫たちよ恥を見よ」(1:11)と言われています。草もなくなり、ささげる羊もいなくなります。だから、「祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ」(1:13)」と言われています。いなごは、まるで軍隊のように彼らに襲い掛かります。ヨエル2:4「その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。」一匹はとても小さいのですが、集団になるとまるで軍隊です。投げ槍を放っても、止まりません。城壁があってもよじ登って来ます。

 いなごの来襲は何を意味しているのでしょうか?だれが、何のためにいなごを遣わしたのか?ヨエル書にはたびたび「主の日」という言葉が出てきます。ヨエル1:15「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」主が民たちをさばくためいなごを遣わしているのです。南北のイスラエルは経済的には豊かでしたが、神さまのことを完全に忘れていました。無関心の罪です。神さまはいなごの大軍を4回に渡って、イスラエルの地に送りました。そのため、地は荒廃し、人々から喜びが消え失せてしまいました。「主の日」とはさばきであり、世の終わりにやってくる主のさばきを預言しています。ヨエルは「主の日が来るので、悔い改めろ」と叫んでいるのです。ヨエル2:1-3「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。」いなごやばったによって空が真っ暗になりました。そして、いなごやばったが過ぎ去った後は、火が焼き尽くされたように、荒れ果てた荒野になりました。しかし、「主の日」とは、世の終わりにくるさばきのことであります。今度は、本物の火によって、地球そのものが焼き尽くされるということです。ですから、ヨエルの叫びはその時代の民たちだけではありません。終わりの時代に住む人たちにも向けられたことばです。

しかし、同時に「主の日」は回復の時であります。ヨエル2:23-26「シオンの子らよ。あなたがたの神、【主】にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」これは、世の終わり、終末の預言です。そのとき、主がイスラエルを回復してくださいます。イスラエルでは雨が二度降ります。「初めの雨」というのは、秋の10月頃から降る雨です。この雨は、作物の種を蒔いたあと芽が出るのに大切な働きをします。その後、しばらく雨が降りません。パラパラぐらいの程度です。「後の雨」というのは、春先の2月、3月に降る雨です。この雨は植物が生長して花を咲かせ、実を実らすのに必要な雨です。「後の雨」の収穫によって、いなごやばったで食い尽くされたものを、償われるということです。だれが、そうなさるのでしょうか?主なる神さまです。旧約聖書の神さまは、さばきを与える恐ろしい神さまだと思われています。しかし、そうではありません。確かに罪に対してはさばかれますが、悔い改めるならば、必ず赦してくださいます。そして、そのとき、失ったものを償って下さるお方です。ヨエルは「あなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」と言いました。この預言はイスラエルに対する預言です。イスラエルの民が本当に回復するのは、世の終わりの時です。やがて、イスラエルの民が主に立ち返り、神、主の名をほめたたえるようになるのです。つまり、神さまは真実なお方であり、一度、選んだ民を捨てないということです。ハレルヤ!


2.ペテロの説教

 イエス様が天にお帰りになられてから、10日間、120人の弟子たちが祈り待ち望んでいました。五旬節の日、つまりペンテコステの日、約束の聖霊が弟子たちの上に降りました。このことを「聖霊降臨」と呼びます。現代は子どもたちのゲームでも「降臨」などという言葉を平気で使います。本来は、聖なることばなので、簡単に使ってはいけないと思います。聖霊が力として、外からやってきました。復活の夜は、イエス様が弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言われました。そのときは、聖霊が新しい命として、弟子たちの内に住んでくださいました。しかし、聖霊を上から受ける必要がありました。その日、聖霊は力を象徴するかのように、激しい風のように、炎のように下りました。すると弟子たちは、聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだしました。そのとき、世界中からユダヤ人が集まっていましたが、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話していました。それで、「ガリラヤの人たちが、めいめいの国の国語で話しているんだろう?」と驚き怪しみました。パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジア、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビア、ローマ、クレテとアラビヤなど、いろいろな国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞きました。ところが、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているんだ」とあざける者もいました。「甘い」とは「安い」という意味です。つまり、「悪酔いしているんだ」ということです。聖霊に満たされることと、酒に酔うことが似ているということがここでも分かります。酒に酔うと、多弁になったり、歌ったり、踊ったりします。120人がそのようにしたら、かなり賑やかです。

 そのときに、ペテロが11人とともに立って、声を張り上げ、人々に言ったのです。説教というよりも、ヨエルのような叫びかもしれません。「今は朝の9時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです」とペテロはヨエル書から語りました。使徒2:17-18「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」旧約のヨエル書とどこか違うところがあります。ヨエル書では「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言われました。しかし、ペテロは「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言いました。もちろん、ペテロはヨエル書から引用したのですが、あえて「終わりの日」と言いました。これはどういう意味でしょう?ペンテコステの日から、世の終わりの時代が始まったということです。いつ来るかというと、世の終わりの時代の、終わりです。しかし、きょう注目したいことは、世の終わりの初めに、聖霊が地上に注がれ、新しい時代が始まったということです。かつて、聖霊は特別な人にしか注がれませんでした。サムソン、ダビデ、エリヤ、エリシャ、エレミヤ、ダニエルなどです。しかも、彼らに一時的にしか聖霊は留まっていませんでした。しかし、世の終わりには「息子や娘は預言し、…しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」とあります。ペンテコステの日、聖霊が注がれた人たちは、ただの人たちでした。ですから、民の指導者や長老たちは「ペテロとヨハネが無学な、普通の人であるのを知って驚いたのです」(使徒4:13)。その日、以来、イエス・キリストを信じるなら、だれにでも聖霊が与えらるようになりました。

 そして、ペテロはヨエルのように叫びました。使徒2:38「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」そこに集まっていたユダヤ人は、「十字架につけろ」と叫んでいた人たちでした。彼らは胸を打って、罪を悔い改めました。しかし、祭りのためにエルサレムに出て来ていた人たちもいました。使徒2:40-42「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」3000人の人たちが、どんなふうにバプテスマを受けたか分かりません。とにかく、彼らはイエス様を信じ、同時に、聖霊を内にいただいたに違いありません。彼らこそ、最初の霊的な収穫、初穂です。ペンテコステは、最初に収穫した小麦をささげる日でした。そして、その日、目に見えるかたちで教会が誕生したのです。教会の原型(プロトタイプ)はイエス様のまわりにいた12の弟子たちでした。しかし、それは、まだ教会とは言えませんでした。ペンテコステの日、120人の弟子たちに聖霊が降り、ペテロの説教で、3000人が救われました。彼らが初代教会の人たちです。それから、毎日、主が救われる人々を仲間に加えてくださいました。そして、だんだん、異邦人にも福音が宣べ伝えられ、アンテオケ、エペソ、ピリピ、ローマにも教会ができました。ですから、ペンテコステから始まった初代教会の頃を「初めの雨」と呼ぶことができます。そのとき、霊的な大収穫がありました。

奥山実先生は「雨は二度降る」とメッセージしたことがあります。ペンテコステの日に降った恵みの雨は、「初めの雨」でした。そして、世の終わりに、「後の雨」が降るということです。世の終わりにも、霊的な大収穫が起こるということです。同時に、失われたものに対する回復が与えられます。ペンテコステの日、大きな収穫があり、教会が誕生しました。それから2000年間、雨はパラパラとしか降りませんでした。降っても、「お湿り」程度です。では、歴史的にパラパラ降ったのはいつごろだったのでしょうか?世界において、リバイバルと呼ばれているのがいくつかありました。日本語では「大覚醒」と訳されており、眠っていた人たちが目覚めるということです。まず、16世紀のルターやカルバンによる宗教改革でしょう。また、その後、18世紀、英国においては、ジョンウェスレーのリバイバルがありした。また、ウェールズでリバイバルがありました。同じ18世紀、アメリカのニューイングランドでは、ジョナサン・エドワーズのリバイバルがありました。ジョージ・ホイットフィールドという人も活躍しました。しかし、近代批評学が始まり、「聖書は本当に神のことばなのか?」と疑問を抱く人たちが大勢おこりました。そういう困難な中においても、19世紀、アメリカでムーディによるリバイバルがありました。二つの大戦を経てから、20世紀、ビリー・グラハムによるリバイバルがはじまりました。まだ、教会は「聖書は信じるに値する書物なのか?」迷っていました。そのとき、ビリー・グラハムは聖書を高々と上げて、But The Bible said (にも関わらず、聖書は言います)と説教しました。彼が招きをすると数えきれない人たちが講壇の前に押し寄せました。近年は、アルゼンチン、中国、韓国、アフリカの各地にリバイバルが起こっています。ある人たちは、「これらが後の雨ではないか」と言っています。しかし、私たちは「いや、終わりの時代はもっとすごい後の雨が降る」と信じています。なぜなら、ヨエル書には「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう」と言っているからです。なぜなら、まだ、ヨエル書が言うような、回復が訪れていないからです。


3.終わりの時代の説教

 説教には神のことばを宣言する(プロクラメーション)という意味が含まれています。ヨエルも神のことばを宣言しました。ペテロも神のことばを宣言しました。私たちは終わりの時代に生かされています。つまり、ペンテコステと主が再び来られる日の間に生かされています。これまで、世界各地にリバイバルの雨が降りました。しかし、日本にはそのようなリバイバルがまだ来ていません。日本の牧師たちの中は、リバイバル・シンドロームというものがあるように思います。どういうものかと言うと、「リバイバルが来なければ何もできない。奇跡も起こらないし、人々も救われない」という考え方です。もちろん、リバイバルは人間で起こせるものではなく、神さまから一方的に来るものです。たとえば、冬が過ぎ去り、春がやってきました。今は、もう初夏です。今から50年前、韓国にリバイバルが来たとき、金ジュゴン牧師は「リバイバルの季節がやって来た」と言いました。リバイバルはそういうものです。全く、神さまのみわざであり、私たち人間がどうすることもできません。それでは、リバイバルが来なければ、何もできないのでしょうか?私たちはイエス様の十字架と復活、そして、ペンテコステ以降に生かされています。今、あるものを数えるならば、すでにすばらしい恵みにあずかっています。イエス様の十字架と復活によって、だれでも救いを得られるようになりました。また、イエス様を信じると内側に聖霊が住み、神がともにいてくださいます。

 そればかりではありません。ペンテコステ以降、聖霊が内側にいるだけではなく、上からも注がれ、力に満たされます。つまり、だれでも、個人的なリバイバルを体験できるということです。私たちは大勢のリバイバルを望む前に、一人ひとりリバイバルを体験する必要があります。ヨハネ福音書には聖霊における体験が2種類あります。第一はヨハネ4章です。ヨハネ4:14 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」これは、救われた人が経験する「いのちの泉」の経験です。救いの喜びとも言えるでしょう。永遠のいのちが内側から泉のように湧き上ってきます。しかし、湧いてくる水の量には限りがあります。どのくらいの人たちに分かち与えることができるでしょうか?第二はヨハネ7章です。ヨハネ7:38「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これはイエス様がおっしゃられたことばです。原文は、川は単数ではなく、riversと複数形になっています。そのまま訳すと、「その人の心の奥底から、生ける水が川々となって流れ出る」となります。川は泉よりも、もっと多くの水が流れ出ます。では、これはいつから可能になったのでしょうか?ヨハネ7:39「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」このみことばは、イエス様のことばではなく、おそらくヨハネの解説でしょう。どうしたら、生ける水が川々となって流れ出るのでしょうか?ヨハネの解説によると、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のこと」とあります。そのまま読むと、「イエス様を信じる者が後になって受ける御霊があるのだ」ということです。しかも、イエスさまが栄光を受けた後に、御霊が注がれるということです。イエス様は復活後、昇天し、右の座に座られました。そして、父のみもとから聖霊を送られました。つまり、これは、ペンテコステのことです。ハレルヤ!私たちはペンテコステ以降に生きていますので、ヨハネ7章の生ける水が川々となって流れ出る経験を持てるということです。つまり、個人的なリバイバルを体験できるということです。アーメン。他の大勢の人たちのことは、ともかく、自分が聖霊を受けて、満たされ、あふれることができるということです。クリスチャンであれば、だれでも内側に聖霊がいらっしゃいます。次は、上から聖霊を受けて、満たされ、そして、あふれ流れるばかりだということです。

どうか、むずかしく考えないでください。聖書の標準は、泉の経験にとどまらず、川々の経験も与えられるということです。どうぞ、満たされましょう。あふれ流れましょう。そういう人たちが10人集まったらどうでしょうか?そういう人たちが100人集まったらどうでしょうか?結構な量になるのではないでしょうか?昨年、常磐牧師セルで利根の上流に行ってきました。いくついかのダムがありました。実際、利根川の源流に行ったわけではありませんが、その川の水量はわずかです。だんだん、支流から水が流れこんで、大川になっていきます。でも、はじまりはわずかな水量です。私たちも最初はわずかでも、集まれば大川になります。エゼキエル書47章にも同じような幻があります。神殿の敷居の下から水が湧き出ています。500メートル行くと足首まで、さらに500メートル行くと水はひざに達しました。さらに、500メートル行くと水は腰に達しました。さらに500メートル行くと、水かさは増し泳げるほどの水となり、渡ることのできない川になりました。この川が行く所では、すべてのものが生きるのです。ペンテコステより始まっている、リバイバルの川に身を浸しましょう。


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2014年6月 1日 (日)

改革者ミカ         ミカ6:6-8

 ミカは3つの時代を預言しています。このことはイザヤをはじめ、多くの預言者に共通していることです。3つの時代とは、預言者がいた頃の情勢、新約におけるメシヤ到来、世の終わりの出来事です。預言というのは、神のことばを預かると書きますので、必ずしも未来のことだけではありません。神さまは永遠なるお方なので、過去、現在、未来を同時に見ることができます。だから、預言者には時間的な感覚がなく、主から示されたことをその都度語ります。そのため、私たちは、一体どの時代のことを言っているのか、考えながら読む必要があります。


1.ミカの時代

 ミカ自身のことは聖書に書かれていません。ですから、聖書人物伝からすると例外です。ただし、どの時代の預言者なのかは分かります。ミカ1:1「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。」その時代、北イスラエルと南ユダは、経済的には豊かさの頂点にいました。その反面、霊的には最も退廃して危機的状況にありました。金持ちは我が物顔に振る舞い、貧しい者を踏み台にして富をほしいままにしていました。北南両国はカナンの宗教を取り入れ、偶像礼拝をしていました。ミカはミカヤフーの短縮形であり、「誰が主(ヤーウェ)のようであろうか」という意味です。出身地のモレシェは、エルサレムの南西30-40キロほどのところにある、小さな農村です。ミカは同時代のイザヤにまさるとも劣らない文才の持ち主であり、主の改革者です。少し後に活躍したエレミヤがミカの預言を引用しています。エレミヤ26:18,19「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダのすべての民に語って言ったことがある。『万軍の主はこう仰せられる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。』そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」エレミヤが引用したことばは、ミカ3:12と全く同じ内容です。ミカはエルサレムの滅亡を預言しましたが、時の王、ヒゼキヤは罪を悔い改めました。

 それでは、ミカ書の中心的なテーマは何でしょうか?ミカ6:6-8「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」当時の人々は宗教的にとても熱心でした。神殿に全焼のいけにえや、最も高価な一歳の子牛のいけにえをささげました。雄羊や上等なオリーブ油もささげました。しかし、彼らの生活は罪に満ちていました。そのことは、ミカ2章と3章に詳しく記されています。ミカは金持ちや指導者、偽預言者、先見者たちの罪、強欲、偽善について糾弾しています。土地は本来主のものであるのに、富める者は貧しい者から搾取していました。欲望のままに行動し、むさぼり、かすめていました。また、ミカは、偽預言者の説教の浅薄さを明らかにし、偽預言者のパトロンとなっている金持ちのあくどいやり方を暴き出しています。指導者たちは公義を曲げて忌み嫌い、悪を行なっていました。ミカは北イスラエルと南ユダと両者に対して預言しています。彼が活躍した時代が、南ユダのヨタムからヒゼキヤ王の時代でした。その間に、北イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。ミカ1章で「主がサマリヤを廃墟にする」と預言しましたが、そのことがAD722年に成就しました。続いて、ミカは南ユダのさばきも預言しています。ミカは「イスラエルの犯したそむきの罪が、あなたのうちにも見つけられたからだ」(ミカ1:13)と言っています。そのとき、ヒゼキヤ王が悔い改めたので、滅亡からまぬがれました。

 ミカ書のテーマは「真の宗教には正しい生活が伴うはずだ」ということです。裏返して言うなら、「正しい生活がなされていない宗教は偽物であり、神さまはどんな礼拝も喜ばない。たとえ、最愛の子どもをいけにえにささげても、無駄である」ということです。当時は、神さまの好意を得られるならば、最上の子牛だけではなく、子どもまでささげるほど宗教的に熱心でした。異教の人たちはそういうことをしました。しかし、主は何とおしゃっているのでしょうか?「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」主が求めるものは、高価な生贄ではなく、正しい生活であると言っています。出エジプト記などの、モーセの律法をみますと2つのことが書かれています。第一は十戒を中心とする、倫理的な生活です。第二は生贄をささげて神さまを礼拝することです。ミカの時代の北イスラエルと南ユダは、生贄をささげて神さまを熱心に礼拝していました。しかし、家に帰ると罪に満ちた生活をしていました。中世の教会がまさしくそうでした。彼らは日曜日、ミサを上げ、1週間犯した罪を懺悔します。しかし、月曜日から土曜日は罪に満ちた生活をします。そして、次の日曜日にミサを上げ、犯した罪を懺悔します。今の時代も、神さまはそんな礼拝を受け入れません。日曜日だけではなく、日々の生活において神さまを礼拝することが重要なのです。ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ここに記されている「礼拝」は、ひれ伏して礼拝をささげるという言葉ではありません。行いによって礼拝をささげるという意味のことばです。新約の時代は死んだからだではなく、生きた供え物としてささげるように求められています。生きた供え物とは、私たちの生活であります。宗教臭い生活をするのではなく、神さまのみこころを行うために、日々、キリストと共に歩むことなのです。キリスト教は宗教ではなく、今も生きておられるキリストと共に歩むことです。


2.新約の時代

 ミカ書は新約の時代、特にイエス・キリストのことを預言している有名な書物です。クリスマスの時、よく引用されます。ミカ5:2、4「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。…彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」このみことばは、マタイによる福音書2章に出てきます。それにしても、当時の宗教的指導者たちが、「メシヤがユダヤのベツレヘムに生まれる」とよく分かったものです。北イスラエルは紀元前722年にアッシリヤによって滅ぼされました。北イスラエル、つまり10部族はどこに行ったか分からなくなりました。また、南ユダは紀元前586年にバビロンによって滅ぼされました。しかし、70年後に捕囚から戻ってきて国を再建しました。しかし、紀元前63年からローマによって支配されました。それから60年後、イスラエルの支配者なる者が出る。つまり、「ベツレヘムでメシヤが生まれる」とミカは預言しています。ミカは700年も前から、キリストの誕生を預言していました。昨年のクリスマスでもお話ししましたが、紀元前4年くらいに、皇帝アウグストから「全世界の住民登録をせよ」と勅令が出ました。総督クレニオが「わかりました」とユダヤの人たちに、「それぞれ出身地に戻って登録せよ」と命令しました。ヨセフとマリヤはガリラヤの町ナザレに住んでいました。マリヤは月が満ちていましたが、自分の町まで行かなければなりませんでした。そして、ベツレヘムの馬小屋で子どもを産みました。天使が「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と羊飼いたちに伝えました。皇帝アウグストが、ローマの権力でキリストを動かしたように思えますが、そうではありません。神さまが、キリストがベツレヘムで生まれるように、皇帝アウグストを動かしたのです。それはミカの預言が成就するためです。

 こう考えますと、「救いの道が偶然に与えられたのではない」ということがわかります。ミカは「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」と預言しています。ということは、紀元前700年よりも、さらに昔であったということです。「永遠の昔」とはいつなのでしょうか?アダムが罪を犯した時でしょうか?そうかもしれませんが、わかりません。とにかく、神さまは、人間が堕落して神さまから離れた時から、救いの道を計画していたのでしょう。ミカは「彼は立って、主の力と、彼の神、主の御名の威光によって群れを飼い、彼らは安らかに住まう。今や、彼の威力が地の果てまで及ぶからだ。」このことは、おそらく新約時代をさしているのではないかと思います。では、新約時代とはいつなのか?私は「教会の時代」ではないかと思います。イエス様は「私は良い牧者です。私は羊のために命を捨てる」と言われました。最初はイスラエルの民が神さまの羊でした。しかし、イエス様は「私にはまた、この囲いに属さない他の羊があります。私はそれをも導かなければなりません」と言われました。「この囲いに属さない他の羊」とは、まさしく異邦人である私たちを指していると思われます。ゴールは「彼の威力が地の果てまで及ぶ」ことです。現在、地の果てまで及んでいるでしょうか?まだ、及んでいません。及びつつあります。もし、自分の人生が、神さまの救いの計画の一部であったと知るならば、なんと幸いなことでしょう。私たちは現在、ここで一緒に集っていますが、採れたところはみんな違います。「私は野菜や果物じゃありませんよ」と文句が出るかもしれません。でも、自分が生まれ育ったところに誇りをもっていらっしゃるでしょうか?おそらく、半分くらいは「そんな由緒ある家柄ではありませんでした」と答えるのではないでしょうか?先月、ディボーションでHope Bibleヨハネ1章を読んで大変恵まれました。ヨハネ1:12-13を直訳するとこう書いてありました。「しかし、彼は、彼を信じて受け入れた人すべてに、神の子どもとなる権利を与えた。彼らは再び生まれた。すなわち、人間のパッションや計画から起因する肉体的な誕生ではなく、神によってもたらされた誕生である」。ちょうどその前に、私はインターネットで、自分の生まれた村を検索していました。「秋田市上北手」を押すと、どんな画像が出て来るかプラプラ見ていました。小学校がありました。中学校は保育園になっていました。初恋の人の村の地図がありました。自分の部落があり、裏山がありました。昔、リヤカーに母をのせた道もありました。懐かしいというよりも、とても空しくなりました。もう、私が帰るべき故郷がないからです。その直後、Hope Bibleのディボーションをして、ヨハネ1章をじっくり読みました。そのとき、12-13節を見て、「ああ、私は確かにあそこで生まれたけど、私は再び生まれた存在なんだ。人間のパッションや計画から起因する肉体的な誕生ではなく、神によってもたらされた誕生なんだ」と分かったとき、感動しました。なぜ、感動したのでしょう?人間のパッションや計画ではなく、神さまのパッションと計画だったことが分かったからです。

 イエス様がユダヤのベツレヘムで、しかも馬小屋で生まれました。しかし、それは仕方なく、ベツレヘムで生まれたのではなく、昔から、永遠の昔からの定めでした。あなたも、仕方なく、あの町やあの村で生まれたのではありません。イエス様と同じように、昔から、永遠の昔からの定めだったのではないでしょうか?私が嘘を言っているのでしょうか?そうではありません。エペソ1:4-5「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」アーメン。使徒パウロは、世界が創造される前から、キリストにあって選んでおられたと言っています。神さまは、み旨とみこころのままに、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。ハレルヤ!ということは、私たちがキリストによって救われ、このところに集まっているのは偶然ではありません。私たちは大牧者なるキリストのもとに集められた、羊なのです。もっと言うと、キリストの血によって贖い取られた、神の教会の一員なのです。生まれや育ちは違いますが、行くところは一緒です。隣の人に、「行くところは一緒です」と言いましょう。


3.終わりの時代

 ミカ4:1-3「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」ヨエルは、世の終わりについても預言しました。預言書では「終わりの日」以外に、「その日」「主の日」「主の大いなる恐ろしい日」という呼び方で出てきます。ミカは「終わりの日」はどのようになるのか預言しています。1節に「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立つ」とあります。聖書で「山」は、権威や権力を象徴しています。世界の国々は、それぞれ権威や権力を持っています。日本はアメリカと協力してなんとか中国に対抗しようとしています。EUとロシアがウクライナのことでもめています。今も世界中のどこかで、戦争や紛争が起きています。世の終わりはどうなるのでしょうか?「主の家の山は、山々の頂に堅く立ち」とあります。やがて、主の御国の権威や権力がどの世界の国々よりも堅く立つようになるということです。主が世界を治めるようになり、恒久的な平和がやってくるということです。今は、世の終わりにますまず近づいています。とすると、教会はどうなるのでしょうか?日本においては、教会は少数派で全く影響力がないように思われています。世の終わり、私たちは生き残りをかけて頑張るしかないのでしょうか?しかし、そうではありません。

 ミカ4:2「多くの異邦の民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。」世の終わりになると、人々の生き方が両極端になります。悪い人たちはますます悪いことを行おうとします。一方、良い人たちはますます良い道を歩もうとします。ある人たちは、この世が与える物質や享楽的な生き方に興味をもたなくなります。聞く音楽や見るものさえも違ってきます。義に飢え渇いた人たちは、主の山、神の家に上ってきます。主のことばが自分たちを本当に生かすということを知るでしょう。しかし、ある人たちは大バビロンが与える物質や享楽的なものを求めます。このように、白黒、善悪がはっきりつくのが、世の終わりの特徴です。ある人たちは、主のことばが開かれる時、主にささげる賛美を聞くとき、「ここに本当のものがあった」と感動します。そして、自分をささげて行きます。ですから、世の終わりにおける教会は、人を無理やり連れてこなくても良いのです。ちょっとだけ、主のことばの味わいを与えるだけで、「おー」と飛びついてきます。なぜでしょう?この世には、自分の魂を満たしてくれるものがないからです。リモコンを持って、テレビのチャンネルを変えても見たい番組がありません。スマホーをペラペラめくっても、心が燃えるものがありません。いろんなゲームをやっても空しさがこみあげてきます。「多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」と主の教会にやってきます。

 サンデー・アデラジャというナイジェリア出身の牧師がいます。ヨーロッパ最大の福音的な教会を牧会しつつ、「オレンジ革命」という政治的な活動をしました。しかし、数年前、ひっくり返されて投獄されました。現在は解放されたかもしれません。ウクライナはミカの時代と全く同じでした。ウクライナの人々は貧困にあえぎながら、権力を握っていたごく少数の人たちの利益のために働いていました。国の社会問題はストリートチルドレン、麻薬中毒、アルコール中毒、犯罪、売春、エイズ等の重大な問題に至っていました。彼は『国家的変革の先頭に立つ』という本の中でこのように語っています。「教会は、皆に希望を与えるために神が国で立て上げたい神の選民です。どんな国でも、クリスチャンは国の希望です。…政府も大統領も国家と社会を変えてより良くすることはできません。神を知る人たちだけが、それをすることができます。ですから、教会の意識を変え、クリスチャン一人ひとりの意識を変える時が来ました。クリスチャンが社会で積極的な役割を果たすべき時が来ています。行動し、門をたたき、結果を見る時です。私たちの良い行いを通して、世の人々に神を現し、彼らが神に従い始める時なのです。…私たちは国の正義のために仲介者として立たなくてはなりません。人々に影響し、多くの政治家たちが知らない真理を知っているのですから、社会にこの真理を確立していかなくてはなりません。私たちの任務は、光となり、彼らの目を開いていくことです。神はこの世代に、国の未来を建て上げる任務を託されました。すべての世代は、不敬虔な過去から未来へと橋渡しをする特別な時代を生きているのです。」

ミカの時代、一部の人たちが経済的に富み、権力を振るっていました。宗教はありましたが、公義を行い、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩む人たちは小数でした。信仰を個人的なものとして、世の中に合わせて行く生き方もあります。しかし、神さまにとって、政府や大統領ではなく、教会(クリスチャン)こそが国の希望であるとは何とすばらしいことでしょう。ということは、「御国が来るように」と祈りつつ、世の光となって、人々の目を開いていく活動も必要です。個人の信仰生活だけではなく、この国がキリストの弟子になるように、祈り求めましょう。なぜなら、神さまの御目は、私たちの個人の信仰生活だけではなく、日本という国にも向けられているからです。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。


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