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2014年5月25日 (日)

愛の預言者ホセア   ホセア1:1-7

 ホセアは冒頭にありますように、南ユダでは4代の王、北イスラエルではヤロブアム二世の頃ですから、おそらく50年間くらい、預言者として活躍したと思われます。名前がホセアですが、決して細いわけではありません。同時代、北イスラエルにおいて、アモスとホセアの二人が預言しました。アモスは神の義を強調しましたが、ホセアは神の愛を強調しました。ホセア書の特徴は、イスラエルの状態が、彼の結婚生活に比較されているということです。つまり、ホセアと妻との関係が、主なる神さまとイスラエルの関係になぞらえているということです。


1.イスラエルの現状

イスラエルというのは、北イスラエルのことであり、その頃は、ヤロブアム二世が治めていました。アモスのときも言いましたが、宿敵、アッシリヤが他国との戦争のために弱くなっていました。それで、肥沃な領土を勝ち取り、農業や牧畜も祝されました。また、北と南を結ぶ地域だったので通行税を得ることができました。人間は物質的に豊かになると、いろんな面で堕落していきます。イスラエルは金の子牛を勝手に作り、拝んでいました。さらにはカナンの豊穣神、バアルに仕えていました。彼らは主なる神様から離れ、快楽を求めて生きていました。そこへ、ホセアが預言者として遣わされました。ホセアは他の預言者と違って、自分の生活を通して預言した人です。ホセア1:2-3「主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。」このところに、ゴメルという女性が登場します。彼女は「姦淫の女」と言われていますが、「いつからそうなったのか?」という疑問が残ります。ホセアは神殿娼婦であった女性と結婚したのか、あるいは、結婚後、他の男性のところへ行ったのか、諸説あります。ホセヤはゴメルと結婚し、三人の子どもを得ました。しかし、下の二人は自分の子どもであるか、疑わしかったようです。なぜなら、ロ・ルハマ(愛さない者)とロ・アミ(わが民でない者)と名付けているからです。つまり、ゴメルは結婚後、夫と一人の息子を捨てて、一介の遊女となり、浮世の快楽を追って家を去ったと思われます。預言者の妻が、このようであるならば、ホセアの立場はどうなるでしょう?しかし、このことは主から出たことでした。

主はホセアとゴメルの関係を、ご自分とイスラエルにたとえておられます。かつて、イスラエルの民は430年間、エジプトにいました。後半はパロの奴隷となり、苦役にあえいでいました。ホセア12:13「主はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、ひとりの預言者によって、これを守られた。」とあります。「ひとりの預言者」とは、モーセです。彼らはエジプト脱出後、カナンの地に移り住むことができました。しかし、その地の神、バアルを拝むようになりました。ホセア書は、イスラエルと言わないで「エフライム」と至るところで呼んでいます。なぜなら、エフライムのベテルには金の子牛を祀っている神殿があったからです。そこでは偶像崇拝と神殿娼婦の忌むべき行為がなされていました。酒と性的な陶酔によって、宗教的な法悦を味わっていました。それをホセアは「姦通」とか「姦淫」と呼んでいます。つまり、夫である主なる神を捨てて、バアルのもとに行ったからであります。ホセア書には「姦淫の霊」と言うことばが度々出てきます。おそらく、エジプトを脱出したイスラエルも、また結婚前のゴメルも、最初は問題がなかったと思われます。しかし、彼らの内側には「姦淫の霊」が初めから宿っていたのです。それが、カナンに来てから、あるいは結婚してから、現れてきたのでしょう。ホセア5:3-4「わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。しかし、エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった。彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。」とあります。みなさんは、「姦淫」などと聞くと、びっくりするかもしれません。イエス様は不信仰な人たちに向かって、こう言われました。マタイ12:39「しかし、イエスは答えて言われた。『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』」つまり、聖書は、霊的な姦淫のことを言っています。これは、まことの神さまではなく、他の神々を慕い求めている状態を指しているのです。それは、自分の子どもが、見知らぬおじさんのところへ行って「お父さん」と言うようなものです。

それでは、ホセアはその後、どうしたのでしょうか?ホセア3:1-3「【主】は私に仰せられた。『再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を【主】が愛しておられるように。』そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。私は彼女に言った。『これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。』」ホセアは、神さまに命じられ、ゴメルを買戻しに行きました。おそらく、ゴメルは遊女か神殿娼婦になり下がっていたのでしょう。出エジプト記によると、イスラエルの人たちが支払う人頭税は、半シェケルとされていました。15シェケルは、30人分の人頭税に当たります。ホセアは元妻を救い出すために、多くの出費をしたことになります。ホセアはこの結婚生活を通して、神さまのイスラエルに対する愛と苦しみを体験させられることになります。ところで、新約聖書では、イエス・キリストが、私たちを滅びから買い取ってくださいました。イエス様はご自身の肉を裂き、血を流して、代価を払ってくださいました。イエス様が十字架で「完了した」と言われました。ギリシャ語では「完済した。すべてを支払った」という意味です。キリスト教は「信じるだけで救われる」恵みの宗教だと言われています。しかし、その背後には、大きな犠牲があったことを忘れてはいけません。私たちは宝石など、大金を払ったものを大切にします。もし、自分は「キリストの命によって、買い取られた」と分かったならどうでしょう?与えられた命を大事にしたい、日々の人生を無駄にしたくないと思うでしょう。


2.イスラエルに対するさばき

 ホセアが最も強く戒めた民の罪は、偶像礼拝でした。なぜなら、本来、主なる神さまに捧げるべき信頼と愛を、他のものに与えたからです。それは、霊的姦淫であり、主の愛に対する裏切りです。主はそういうイスラエルの罪をさばかずにはおれませんでした。ホセア9:1-3「イスラエルよ。国々の民のように喜び楽しむな。あなたは自分の神にそむいて姦淫をし、すべての麦打ち場で受ける姦淫の報酬を愛したからだ。麦打ち場も酒ぶねも彼らを養わない。新しいぶどう酒も欺く。彼らは主の地にとどまらず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリヤで汚れた物を食べよう。」「エジプトに帰り」とは、エジプトのような隷属と苦難を異国で味わうことになるという比喩です。また、アッシリヤという名前が出てきましたが、これからあと50年もたたないうちに、捕囚になるということです。歴史的には紀元前722年にアッシリヤがイスラエルの首都サマリヤを滅ぼし、人々を国外に連れて行きました。そういう比喩的な表現がそこかしこにあります。ホセア9:13「今や、エフライムはその子らを、ほふり場に連れて行かなければならない。」、ホセア10:6-7「その子牛はアッシリヤに持ち去られ、大王への贈り物となる。エフライムは恥を受け取り、イスラエルは自分のはかりごとで恥を見る」。ホセア11:5「彼はエジプトの地には帰らない。アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。」これだけ、はきりと国名まで記されている預言もありません。当時の王さまや高官たちは、ホセアの預言を聞いてどう思ったのでしょうか?ホセア7:8-10「エフライムは国々の民の中に入り混じり、エフライムは生焼けのパン菓子となる。他国人が彼の力を食い尽くすが、彼はそれに気づかない。しらがが生えても、彼はそれに気づかない。イスラエルの高慢はその顔に現れ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。」「生焼けのパン菓子」とは、裏返しにして焼かない菓子です。小麦粉で作った煎餅のようなものですが、半焼けでは当然、食べられません。片面だけに火が通り、他の片面に火が通っていません。これは、片方は宗教的で片方は世俗的だということです。神さまを信じながらも、世を慕う、肉的な生活を表しています。彼らはアッシリヤが来襲するそのときまで、主に立ち返らず、主を尋ね求めませんでした。

 しかし、主は何とか、イスラエルが自分のところに帰ってくるように呼び求めています。それは、ホセアがゴメルを探し求めた愛と同じです。ホセア書には「立ち返れ」ということばが何度も出てきます。ヘブル語で「立ち返れ」は「シューブ」ですが、これは「悔い改め」のもとの意味です。ホセア6章のはじめは、歌にもなっています。ホセア6:1-3「さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」今から、30年くらい前、このみことばの歌が教会ではやりました。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求め、主は暁の光のように、確かに現わる。大雨のように、私たちのところに来て、後の雨のように地を潤される。」私が当教会に赴任して、まもなく、1989年頃だったと思います。私の上の、上の兄が仕事で屋根から落ちて、脳挫傷で危篤状態になりました。金曜日、秋田に向かいました。新幹線に乗っていたとき、このホセア書6章の賛美が浮かんできました。そこには、「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる」と書いてありました。私は、このみことばは、兄に対して語られている約束だと一方的に信じました。だから、病院にいる兄の奥さんや子どもたちの前で「兄は絶対助かる!」と宣言しました。しかし、土曜日の午前2時過ぎ、帰らぬ人となりました。私はみんなに嘘をついたことになります。私は病院の通路に座り、「あのみことばは何だったんだろう?」と疑いました。今でも、このみことばを読むとき、心が痛みます。「若気の至り」と言えばそれまでですが、神さまが与えてくれたレーマ(生けることば)だと確信していました。私はICUで一生懸命伝道しましたが、兄の返事を聞くことができませんでした。看護師さんたちから、「やめてください」と言われました。そのときの信仰に関する疑問は、今だに解決されていません。

今、分かることは、聖書は文脈から解釈しなければならないということです。1つの聖句だけ取り上げて、「これは神さまの約束です」というのは、早合点かもしれません。この聖句を改めて、学ぶということに痛みがあります。でも、このところで言わんとしていることは何でしょう?まず、ホセアが言っている神さまは、さばきの神さまではなく、愛なる神さまです。しかし、愛なる神さまがどうして、死や苦しみを与えるのでしょうか?旧約聖書の愛「ヘセド」は、契約に基づいた愛です。ホセアがゴメルに対して、結婚の契約を交わしました。同じように、夫である主は、おとめイスラエルと契約を交わしたのです。ホセア2:19「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは【主】を知ろう。」旧約聖書の愛「ヘセド」は、契約に基づいた愛です。一方、可哀そうだという愛「ラハム」は、「弱者や子どもに対するいとしい心、慈悲、愛」を表わすことばです。つまり、愛を言う場合、神さまとの契約関係にあるかが、問題になります。亡くなった兄のことを考えるとき、「本当に神さまが約束してくださったか?」ということです。もしかしたら、私が一方的に求めたことなのかもしれません。日本人というか、私がそうですが、「可哀そうだ」という慈悲の愛を求めがちです。そういう愛よりも、契約に基づいた愛「ヘセド」を求めるべきではないかと思います。

 主なる神さまは罪を犯したイスラエルを裁くつもりでした。しかし、なんとか彼らが「立ち返る」ように願っていました。なぜなら、主なる神さまが、イスラエルを選んだからです。つまり、夫と妻のような契約を交わしていたのです。新約聖書のイエス様は、どうでしょうか?イエス様は十字架で死なれ、三日目によみがえられました。そして、「私を信じる者は滅びないで永遠の命を得る。私は世の終わりまで共にいる」と約束されました。


3.イスラエルの回復

 ホセアはイスラエルの民が、世の終わりに回復されることを預言しています。どこにそのようなことばがあるのでしょうか?ホセア14:4-7「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。」歴史的に、イスラエルはアッシリヤに連れ去られ、5つの異民族が代わりに入れられました。これこそ、アッシリヤが民族を根絶やしにする、最も残酷なやり方です。新約聖書の時代、北イスラエルはサマリヤと呼ばれるようになりました。ヨハネ4章には、イエス様がサマリヤの井戸の傍らで、一人の女性と出会ったことが記されています。当時、ユダヤ人はサマリヤ人を非常に嫌っていました。なぜなら、彼らは純粋なイスラエルではなく、5つの異民族と雑婚していた民の子孫だったからです。不思議なことに、サマリヤの女性の素性は、このことと一致しています。彼女には夫がありませんでした。イエス様は「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではありません」と言われました。このことは、まさしく北イスラエルの霊的姦淫のことを象徴しています。彼女は「私たちの先祖たちはこの山で礼拝しました」と言いました。「この山」とは、金の子牛を拝んでいた先祖たちのことです。

 もちろん、イエス様はサマリヤの女性を救いに導きました。しかし、イエス様は呪われたサマリヤの人たちを救いたいと願っていました。実際、サマリヤにリバイバルが来るのは、使徒8章のピリポの伝道のときです。しかし、イエス様はその前に、彼らを救いたいと願っておられたのです。ヨハネ4:35「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」「刈り入れ時」とは、ペンテコステ直後のピリポの宣教です。しかし、イエス様はその日が来る前に、一人でも救いたいと願っていたのです。イエス様はこの女性を得るために、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。他にも10名のらい病人が癒され、一人のサマリヤ人が感謝しにイエス様のところに戻って来たという話があります。また、良きサマリヤ人のたとえでは、ユダヤ人ではなく、サマリヤ人が強盗に襲われた旅人を助けました。このように、イエス様はあえてサマリヤ人のことを言及しました。それはなぜでしょう?ホセア書にあった預言を成就するためです。もちろん、ホセア書の預言は、世の終わりの出来事です。しかし、イエス様はその前に、この預言のいくらかでも成就すべく、サマリヤを訪れました。私はイエス様の愛は、旧約聖書の契約に基づいた愛(ヘセド)と、「可哀そうだ」という慈悲の愛(ラハム)の両方があると信じます。なぜなら、マタイ9:36「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とあるからです。「かわいそうに」は、もともと「いけにえの内臓を食べる」という意味がありました。ユダヤ人は、かわいそうという思いは、心臓や肝臓、腎臓などで感じると考えていたようです。それが英語の訳になると、compassion 「共に苦しむ」という意味になります。

 神さまはさばきで終わらない、「いつしか回復が訪れる」とは何という慰めでしょうか。このように、旧約聖書から学び、そして新約聖書を見るとどうなるでしょうか?回復は自分の代で成就する場合もありますが、時間をかけて、長いスパンでそれがなされるということが多いようです。神さまは永遠の視野から物事をご覧になっています。ところが、私たちの人生は本当に短いので、神さまのみこころ全部を理解することはできません。ホセアはその後、どうなったでしょう?姦淫の霊を持っている女性と結婚しました。案の定、一人目を産んだ後、罪の世界に戻りました。しかし、主の命を受けて、ゴメルを買い戻しました。まさしく、そのことは霊的姦淫を犯しているイスラエルに対する神の愛でした。預言者としてのホセアは自分の結婚生活で、かなりの支障を受けたはずです。「お前は、どういう結婚をしているのだ」と証にならなかったでしょう。しかし、ホセヤの悲しみと痛みは、回復しました。「主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。」と言うことばは、そのことから来ているのかもしれません。ホセアは結婚の契約が有効であることを、身を持って知りました。だから、神さまが「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。…わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ」ということを理解できたのです。ホセアは自らの結婚によって、神様の断腸の思いと、神さまの契約による愛を体験しました。そして、今度は、イスラエルの民の前に、自信をもって出ていくことができたのです。彼が50年間も神の愛を伝える預言者として活躍できたのは、そのことからかもしれません。イエス様は新約聖書において、一度捨てられた、イスラエルの民、サマリヤ人を見出しました。何という永大な計画、何という愛でしょう。私たちの人生は短くて、神さまの計画のほんの一部しか知り得ません。ヨハネは何と言っているでしょうか?ヨハネ17:3「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあります。私たちの地上のいのちは限りがあり、ほんの一瞬です。しかし、短い人生においてイエス様を信じるなら、永遠のいのちを得ることができます。イエス様は永遠の世界から、地上の私たちを救うために来られました。イエス様こそ、永遠のいのちと関わることができる接点なのです。イエス様は契約の愛と慈愛の愛を両方持ち合わせておられます。短い人生において、イエス様と出会い、永遠のいのちをいただくことができたなら本当に幸いです。



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2014年5月18日 (日)

テコアの牧者アモス    アモス7:10-15

 アモスは紀元前760年くらいに活躍した預言者です。でも、本来は預言者ではなく、テコアで羊を飼い、いちじく桑を栽培していました。ところが、神さまから「北イスラエルに行って預言せよ」と言われました。しかし、北イスラエルのアマツヤという祭司から「ユダの地へ逃げて行け!」と言われました。アモス書は北イスラエルのさばきを預言している書物です。歴史的には、40年後にアッシリヤによって滅ぼされました。私たちには関係のない、異国の物語のように思われますが、終末の時代に住む私たちにも少しばかり関係があります。


1.アモスの時代

 アモスはどのような時代の人なのでしょうか?アモス1:1「テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。」テコアというところは、死海の西北に面した荒野です。主がかつて、ソドムとゴモラを滅ぼした場所のすぐ近くにあり、そこはすさまじい荒地でした。彼はそこで、羊を飼い、いちじく桑を栽培していました。彼は農夫ですが、ただの農夫ではありません。なぜなら、当時の世界情勢を知り、またこういう文章を残すことができたからです。南ユダでは、ウジヤが王様でした。北イスラエルでは、ヨアシュの子、ヤロブアムが王様でした。彼はヤロブアム二世とも呼ばれています。大きな地震があったようですが、考古学者によると、紀元前760年頃と言われています。この頃は、アッシリヤの勢力が弱っていました。その分、北イスラエルはヤロブアム二世のもとで、領土を拡張し経済的に発展していました。2章後半から、北イスラエルがどれくらい贅沢な生活をしていたかが記されています。富が増し加わると、神を忘れてしまって、どうしても罪がはびこります。アモスは南ユダの人でしたが、神さまから呼び出され、北イスラエルに預言者として遣わされました。今風で言うなら、アモスは農村から、都会へと単身赴任したわけであります。

アモスはいきなり、北イスラエルの罪を告発しませんでした。遠い、周辺国から預言しはじめました。1章3節、「主はこう仰せられる。ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」最初は北方のダマスコです。ダマスコはシリアの首都で、アラムが住んでいました。現在、シリアはものすごい内乱状態です。イエス様が終わりの時代「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」と預言されたとおりです。その次は、ガザです。ガザはペリシテが住んでいました。同じように、「ガザの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」と書かれています。その次は、ツロです。ツロは海洋貿易で栄えた町です。同じように、「ツロの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」と書かれています。その次は、エドムです。「エドムの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしは刑罰を取り消さない。」と書かれています。さらにその次は、アモン人です。「三つ、四つの罪」とあります。その次は、モアブです。「三つ、四つの罪」とあります。その次は、ユダです。ユダは南ユダ王国です。「三つ、四つの罪」とあります。そして、最後、2章6節「主はこう仰せられる。イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」。これまでものをまとめますと、ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アモン、モアブ、ユダ、そしてイスラエルとなっています。全部で8箇所ありました。また、「三つ、四つの罪」と繰り返し出てきました。これは、「三つの罪までは赦されるが、四つ目の罪は極悪なもので赦されず、必ず罰せられる」という意味です。原文には「その刑罰」ということばはなく、「それを撤回しない」となっています。イスラエルの人たちは、ダマスコ、ガザ、ツロの裁きを聞いて、「そうだ」「そうだ」と聞いていたでしょう。しかし、最後に「イスラエルの犯した罪」と聞いたとき、ぐさっと胸を刺されたように感じました。

榎本保郎先生が書かれた『旧約聖書一日一章』にこのように書いてありました。「私たちはしばしば『あの人もやっているじゃないか』と言う。そしてこの思いは自分の罪に対する恐れを忘れさせる。ここに現代人の罪に対する無関心さが生まれてきているのだと思う。みんながやっているということは、決して私もやったことの弁明にはならない。おそらく、イスラエルの人々は外国のありさまを見て、自分たちの罪に対する恐れがいつの間にか薄らぎ、なくなっていたのであろう。そういう彼らに罪意識をもたらすために、主は他国人の罪も1つとしてそのさばきから免れることのないことを示しつつ、彼らの罪とがをあげつらねたのである。」私が聖書学院で学んでいた頃、風紀を乱すようなことをしました。よく覚えていませんが、何人かが掲示板に落書きをしました。上級生から私が叱られました。そのとき、「私も悪かったです」と謝りました。上級生から「私も」ではなく、「私が悪かったでしょうと言うべきでしょう」と注意されました。確かに、私一人ではなく、他の人たちが落書きをしたのです。でも、そのとき「上級生の言っていることは正しいなー」と思いました。それ以来、「私も悪かったです」と言わないようにしています。私も牧師になってから、「それは違うでしょう」と度々言われました。とくに、役員会や総会は私にとって鬼門であります。私は、人から注意されたり、罪をさばかれたりするとものすごくダメージを受けるタイプです。なぜなら、子どものときから、家でも学校でも、ずっとずっと叱られてきたからです。おかげさまで、今はだいぶ癒され、注意や警告も感謝して受け止められるようになりました。しかし、今は一歩、進んで、「注意したり、警告をする人も大変だろうなー、イヤだろうなー」と思えるようになりました。だって、その人から嫌われるかもしれないし、逆ギレされるかもしれないからです。

イスラエルに対する警告は後半、学びますが、それを預言したアモスはどう思われたのでしょうか?そのことが、アモス7章10節以降に記されています。北イスラエルにはアマツヤという祭司がいました。アマツヤは王によって任命された祭司でした。アマツヤは、ヤロブアム二世に、「アモスは謀反を起こしています。彼のすべてのことばを受け入れることはできません」と告げました。そして、アモスに会ってこう言いました。「先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから。」アマツヤは「余計なお世話だ。とっとと自分の国に帰れ!」と言ったのであります。彼のことばの中には、威嚇と嘲笑がこめられています。イスラエルの王さまも、宗教的な指導者も、アモスの預言に対して全く耳を傾けませんでした。なぜでしょう?国が栄え、天下泰平だったからです。ところが、イスラエルは40年後、アッシリヤに滅ぼされてしまいます。アモス4:2「その日、彼らはあなたがたを釣り針にかけ、あなたがたを最後のひとりまで、もりにかけて引いて行く」と、書かれています。これは捕え移される、捕囚になるということです。しかし、なぜ、こんな嫌な預言をしなければならないのでしょうか?アモスは南ユダで羊を飼い、いちじく桑を栽培していました。ところが、主はアモスに「行って、私の民イスラエルに預言せよ」と命じました。なのに、アマツヤは「イスラエルに向かって預言するな」と言いました。そういうアマツヤと家族に対して、神からのさばきが告げられています。

エレミヤもそうですが、預言者は主が語られるなら、預言せずにはおられません。アモス3:7-8「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」アモスはテコアで羊を飼っていました。旧約時代、ヨルダン渓谷や山地には、多くの野獣がいたようです。ライオンがほえるのは、獲物を捕らえたしるしです。もし、それが自分の群れの羊でなければ、羊飼いは安心します。しかし、近くにライオンがいるなら、恐れなければなりません。主も罪に怒って民を裁こうとします。しかし、主は、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないで何事もなさりません。本当は、警告を与えることによって、民たちが悔い改めることを願っているのです。アモスはテコアで平和に暮らしていました。「イスラエルに行って、預言せよ」と呼び出されました。本当は「嫌です」と断わりたいところでしょう。しかし、預言者は主から召され、信頼され、全権を託されました存在です。ライオンの声を聞く人が震えるように、主のことばを受けた預言者は語らずにはおられません。預言者は見張り台に立つ、見張り人のような存在です。敵が来ているのに、知らせないなら、自分も民も滅ぼされてしまいます。アモスも主からの警告を聞いたからには、民に告げる責任がありました。現在は、会社から命令されたならば、どこへでも単身赴任先に行かなければなりません。不景気なので、断ったら死活問題になるからです。しかし、会社よりも偉大な神さまから命じられたならば、どうするでしょうか?アモスは一介の牧者であり農夫でした。しかし、「イスラエルに行って、預言せよ」という使命を与えられました。現代は「使命」ということばはほとんど使われないかもしれません。人々は、自分の生活をエンジョイすれば良いと思っています。アモスは、自分の生活よりも、神さまの使命を優先させました。あなたはどうでしょう。自分の生活よりも、神さまの使命を優先させているでしょうか?


2.アモスの預言

 後半は、イスラエルに対するアモスの預言の内容について学びたいと思います。アモス書の主題をひとことで語るなら「神の公義」です。アモス5:24「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」「公義」とは、社会的な正義という意味です。当時、イスラエルはヤロブアム二世が治めていました。アッシリヤの勢力が弱かったので、北はダマスコまで領土を拡大していました。また、穀物地帯であるバシャンとハウランを征服したので、牧畜や農耕が祝されました。また、フェニキヤとの交易、イスラエルとアラビヤを横切る隊商に課した通行税などで、王国の繁栄は頂点を極めていました。彼らがどれくらい富んでいたか、アモス6章に記されています。アモス6:4-6「象牙の寝台に横たわり、長いすに身を伸ばしている者は、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている。彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す。彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことで悩まない。」当時の人々は土間に座して食事をしていました。一方、上流階級の人たちは、象牙の飾りのあるベンチに身を横たえて宴会をしていました。食卓には、小羊や子牛の肉が並べられ、音楽がにぎやかに演奏されていました。彼らは鉢のような大きな器から酒を飲み、最上の香油を身に塗っていました。上流階級の人々は、日夜このような宴会を行って浪費しており、イスラエルに近づいている滅亡など気にも留めないでいました。

 「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪」とありますが、どのような罪だったのでしょうか?第一は、負債を返済できない者を奴隷に売っていました。アモス2:6「彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。」法的には正しいのに、わずか一足の靴のために売られるのです。取るに足らぬ負債のために貧しい者が売られるという社会は、イスラエルの兄弟愛に反しています。第二は、貧しい者を抑圧する罪です。アモス2:7「彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ」とあります。「弱い者」とは、イザヤ書では「寄るべのない者」と訳されています。アモスの時代、裁判官は金次第で法を曲げていました。だから、貧しい者は不正な裁判の犠牲になっていました。第三は、若い娘に対する不当な扱いの罪です。アモス2:7後半「父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。」「女」と訳されている語は、若い娘のことです。これを父と息子が共有するという乱れたことが行われていました。これはレビ記で、性的な罪として禁じられていました。第四は、負債の搾取の罪です。アモス2:8「彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。」律法では、上着を質に取っても、日没までには返すように命じられています。なぜなら、夜は寒いので、上着が必要だからです。ところが、彼らは質に取った上着に横たわり、ぶどう酒を飲んでいました。しかも、そのようなことが神の宮でも行われていたということです。

アモス3章から6章まで、今、取り上げた4つの罪が詳細に記されています。しかし、それらの中に、どのようなさばきが来るのか、少しずつ書かれています。アッシリヤという国名は記されていませんが、町が滅ぼされ、捕われ人として引かれて行くと預言されています。ところで、アモスの主題は「神の公義」であると述べました。社会的な正義が全くなされていなかったということです。しかし、イスラエルの国にも宗教がありました。彼らも神さまを賛美し、いけにえをささげていました。神さまは、いわゆる宗教に対してどのように思われているのでしょうか?アモス5:21-24「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」イスラエルは、公義と正義を踏みにじっていました。それなのに、いろんな祭りやきよめの集会を持っていました。また、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえなど、基本的な祭りを全部やっていました。しかし、神さまは義の伴わない、祭りやいけにえは受け入れられない。「かぎたくない」「喜ばない」「目もくれない」「聞きたくない」と言っています。イスラエルにとってこれほど悲しいことはありません。では、神さまは何を望んでいらっしゃるのでしょうか?供え物や歌よりも、公義と正義を行うことでした。

月1回、常磐牧師セルがあり私もそのメンバーです。そこでは、牧師ならではの話題がたくさん出てきます。先日、ある牧師が「総会の時、教会員全員に誓約書に署名してもらう」と言っていました。誓約書は、このような内容でした。毎週の聖日礼拝や祈祷会を守ること。什一献金をささげ教会を支えること。毎日聖書を読み、神さまを第一とした生活を送ること。はっきりとは覚えていませんが、聞いているうちに腹が立ってきました。実は、私も20年位前に、「洗礼を受けたらこういう生活をしなさい」と掲げました。そこには、「聖日礼拝を守り、献金を捧げ、聖書読んでいれば良いクリスチャンなんだ」というイメージがあります。私も前はそれで良いと思っていました。しかし、日曜日は良いクリスチャンでも、月曜日から土曜日まではどうなんでしょうか?つまり、家庭や会社や学校、地域社会でどういう生活をすべきかが問われていません。牧師はこの世の中でどうあるかということよりも、教会の中でどうあるかを求めがちであります。しかし、アモス書は供え物や歌よりも、公義と正義を行うことを求めました。もっと言うと、公義と正義を行っていない人の、礼拝は受けたくないとおっしゃっているのです。家で喧嘩していて教会で「神さま、あなたを愛します」と言えます。会社や学校で、悪いことをして教会で「神さま、あなたに従います」と言えます。それだと、イスラエルの人たちと同じです。パウロは、ローマ12:1「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と言いました。この礼拝というのは、「ひざをかがめる」という言葉ではなく、「働く」「仕える」という意味のことばです。つまり、「私たちのからだを生きた供え物としてささげて、仕えることが礼拝なのだ」ということです。日曜日の聖日礼拝では、「ひざをかがめる」ような礼拝です。しかし、「月曜日から土曜日までは、日々の生活の中で神さまをあがめる生き方をせよ」ということです。職場や家庭で仕え、正しいことを行うことも神への礼拝であるということです。

最後に、アモス書は世の終わりの時代の私たちにも預言しています。アモス書で有名な聖句はこのことばです。アモス8:11「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。」現代は食べ物で困っている人はあまりいません。グルメを求めて歩いています。また、テレビやインターネット、スマートフォンによる情報化の時代です。しかし、主のみことばを聞いている人は、どのくらいいるでしょうか?人との会話や買い物やレジャーなどの情報が占めていると思います。アモス書のように、私たちが住んでいる時代は、「パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききん」です。人を本当に生かすのは、主のことば以外にありません。食べ物で肉体が、情報で思いが満たされるでしょう。しかし、霊と魂の部分は忘れ去られています。私たちの深いところで、飢え渇いています。私たちは造り主である神さまと交わる必要があります。なぜなら、神は霊であり、私たちも霊的な存在だからです。イエス様はマタイ4:4「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」と言われました。この世の食べ物や物質では、満たされないのです。私たちクリスチャンはイエス様を信じて、永遠のいのちが与えられています。「だから聖書を読まなくて良いか」というとそうではありません。旧約の人たちが日々、天からのマナを求めたように、私たちも神のことばである聖書を霊の糧としていただかなければなりません。ご飯は毎日食べます。3日間も食べないと「死ぬ」と言いだすでしょう。しかし、霊的な食物は、「1週間食べなくても平気です」というのはおかしいです。日本は特に、霊的な食物ききんの国です。ギデオン協会がたくさん配っているので、読もうと思えば聖書はあります。しかし、聖書が近くにあっても読もうとしません。ヨエル8:13「その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。」まさしく、現代はお年を召した方よりも、若者が衰え果てている時代です。年配者は元気でも、若い人たちの方が衰え果てています。人々は、表面上は「問題ありません。満たされています」と言うかもしれません。しかし、聖書のみことばを読んでいないなら、まちがいなく霊的に衰え果てているのです。どうぞ、私たちクリスチャンが率先して、聖書のみことばを読んで、霊的な命を満たしていきましょう。同時に、ききんであえいでいる人たちに、霊の糧を配っていきましょう。


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2014年5月11日 (日)

駄々っ子ヨナ      ヨナ1:1-5  

 ヨナが大魚に飲み込まれた話は日曜学校では、ダビデとゴリアテとの戦いと同じくらい有名です。昔、ジョーズという映画がありました。おそらくサメやクジラではなくて、大きな魚だったと思います。ところで、私たちは旧約聖書の人物から学んでいますが、果たしてヨナから学ぶことがあるのでしょうか?ヨナは「鳩」という意味ですが、名前とは真逆な感じがします。「預言者として、また性格的にも、どうなんだろう」という疑問も出てきます。しかし、神さまはご自分の使命を全うするためには、ヨナのような人物をも用いるということです。前半は、ヨナという人物に焦点を当て、後半はそのヨナを用いた神さまに焦点を当てたいと思います。


1.駄々っ子ヨナ

 ヨナがアッシリヤのニネベに行きたくなかった理由がいくつかあります。Ⅱ列王記14章にも、ヨナの名前が登場します。当時、北イスラエルの王は、ヤロブアム二世でした。彼は主の目の前に悪を行っていたにも関わらず、国が栄えました。Ⅱ列王記14:25「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して仰せられたことばのとおりであった。」つまり、ヨナが預言したとおり、イスラエルの領土が回復し、国が栄えたのです。ということは、ヨナは自国の人たちから歓迎され、また優遇されていたと思われます。人々からちやほやされ、地位も安定し、これからは左うちわで暮らせます。ところが、神さまから「アッシリヤのニネベに行け」と言われました。大戦中だと、シベリヤに行けと言われているようなものです。また、アッシリヤはイスラエルにとっては敵国です。「なぜ、敵国にみことばを伝えに行かなければならないのでしょう?あんな国は1日も早く滅びて欲しい」というのが、ヨナの本心だったでしょう。だから、口では「はい」と言ったものの、足は全く別方向に向かいました。渡りに船と申しましょうか、タルシシュ(今のスペイン)に行く商船に乗り込みました。「主の御顔を避けて」ということばが、2度出てきます。北のアッシリヤではなく、地中海の向こうに行けば、だれも追ってこないと思いました。「これで安心だ」と思って、ヨナは船底に降りて、横になり、ぐっすり寝込みました。

 しかし、主はヨナがどこにいるかちゃんと分かっていました。詩篇139:8-10 「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」アーメン。現代は宇宙に衛星が張り巡らされ、2メートル四方まで良く見えるそうです。また、町のいたるところに監視カメラがあります。人間もそれくらいできます。しかし、神さまは霊でありますから、どこにでも偏在できるので、隠れることは不可能です。「ああ、ヨナがあの船の荷物に隠れて、タヌキ寝入りしているな」とはっきり分かりました。だから、大嵐を起こして、船をガンガン揺らしました。船長は、「災いがふりかかったのは、だれかが罪を犯したせいだ」とくじを引かせました。船底に寝ていたヨナが起こされ、くじを引いたらヨナに当たりました。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を恐れています。これこれ、こういう訳で、この船に乗りました」と言いました。未信者の船長から「何でそんなことをしたのか?」と叱られました。ヨナは「自分を海に投げ込め」と言いました。自分で飛び込めば良いのに、人の手を借りようとしました。嵐が一向におさまらないので、船長たちは、「ごめんよ。うらまないでよ」と、ヨナを荒れた海に投げ込みました。そうすると、嵐はおさまりました。ヨナは「これで一巻の言わりだ」と観念しましたが、大魚に飲み込まれていました。中が真っ暗なので、陰府の底にいると思いました。そして、ヨナは祈りました。ヨナ2:6「私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、【主】よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」さすが、預言者です。まだ救われていないのに、そうなったという完了形で祈っています。

 そして、大魚はヨナを陸地に吐き出しました。しょうがないとばかり、ヨナはニネベに行って、主のことばを伝えました。でも、私たちが伝えるような福音ではありません。福音はgood news「良い知らせ」です。しかし、ヨナの知らせは悪い知らせであり、神さまの愛に1つも触れていません。ヨナは、何と伝えたのでしょうか?「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫んで回りました。ただ、主のさばきを伝えただけです。すると、予想だにしないことが起こりました。身分の高い者から低い者まで、荒布を着て、悔改めました。なんと、王様から家畜まで、断食してひたすら神さまにお願いしました。するとどうでしょう?ヨナ3:10「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」ヨナは喜ぶところか、がっかりしました。「やっぱり、思い直されたのですか?だから、私はあの時、断ったのです」言いました。そして、神さまに「私は生きているより死んだほうがましです。命を取ってください」と願いました。それでも、諦めきれず、高台に仮小屋を作って、町が滅びるかどうか見ていました。案の定、町は平穏無事のままです。ヨナは再び、「私は生きているより死んだほうがましだ」と願いました。私たちは、「ヨナは何とひどい人間なんだろう」と思うかもしれません。しかし、ヨナは熱狂的な愛国者でした。だから、「自国の敵であるアッシリヤなんか滅びてしまえば良いんだ」と思っていたのです。

 第一のポイントから私たちは何を学ぶべきでしょうか?ヨナは愛国者でしたが、偏狭な愛国者でした。自分の国さえよければ良いと考えていたからです。でも、神さまはニネベの12万以上の人たちと家畜のことを気にかけていました。彼らを悔い改めさせるために、ヨナを遣わしたのです。でも、ヨナのメッセージは福音というよりも、さばきでした。「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と言っただけです。心の底では、「信じないで滅びてしまえば良い」と思っていたでしょう。だから、彼らが悔い改めて、神さまが下すと言っておられた災いを思い直したことが気に入らなかったのです。現代の教会は、とてもスマートに伝道しようと心がけています。コンサート、ランチョン、バザー、特別集会などで、何とか福音を伝えようとします。メッセージも愛と希望しか語りません。「信じない者は、さばかれるぞ」などと、絶対に言いません。戦後、日本に宣教師が入ってきて伝道しました。そのとき、いろんなトラクトも作りました。ちなみにトラクトというのは、キリスト教の小冊子やパンフレットです。農機具のトラクターのように人々をひっぱって来るという意味があるようです。私もいくつかトラクトを見たことがあります。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と書いてあります。怖いと言うか、恵みがありません。しかし、みことばのすぐ後には「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました」と福音が書いてあります。また、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と書いてあります。人はみな罪人だということです。しかし、みことばのすぐ後には「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」と福音が書いてあります。それらのトラクトには前半のさばきしか書かれていません。後半にはちゃんと、福音が書いてあるのです。恵みの部分をはぶいています。しかし、戦後の日本、そういうさばきのメッセージでも多くの人たちが救われ、教会がいっぱいになりました。

 ヨナは、さばきのメッセージをストレートに伝えました。ヨナの心には愛などなく、「人々が信じなければ、信じない方が良いんだ」という気持ちで伝えました。なのに、王様をはじめ、身分の高い者から低い者まで、荒布を着て、悔い改めました。私たちはどうでしょうか?神のさばきは言わないで、耳ざわりが良いように伝えようとしています。そうではなく、たとえストレートに伝えても、信じる人は信じるということです。もっと言うと、良いことばかりではなく、良くないことも同時に伝えて良いということです。たとえば、大宣教命令はどうでしょうか?マルコ16:15-16「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」信じてバプテスマを受ける者は救われます。アーメンです。信じない者はどうなのでしょう?躓きになるので、言わなくて良いのでしょうか?そうではありません。「しかし、信じない者は罪に定められます」ということも言うべきです。そうでないと、本当の福音ではありません。私たちはジャムパンのジャムだけを食べさせようとしてきました。ジャムの甘いところだけを取って、福音と言ってきました。そうではなく、私たちはジャム付きのパンを提供すべきです。つまり、信じなければどうなるか、というさばきの面も伝えるべきなのです。ヨナはさばきの面だけを伝えたにも関わらず、ニネベの人たちはみんな悔い改めて、信じました。良い面も伝えたなら、もっと効果があるはずです。これは、私たちが大好きなみことばです。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。でも、その後のみことばがあります。ヨハネ3:18 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」私たちはジャムだけではなく、ジャム付きのパンを提供すべきです。伝えるのは私たちです。救うのは神さまです。私たちもヨナかr学んで、率直に福音を伝えたいと思います。


2.主の備え

 主は偏狭な愛国心の持ち主であるヨナをニネベに遣わしました。しかし、ヨナは従おうとしませんでした。そして、タルシシュ行きの船で逃れようとしました。大魚から救い出された後、主のことばを伝えました。しかし、心の中では、ニネベが滅びてしまえば良いんだと思っていました。彼らが悔い改めたので、主が思い直しました。ヨナは怒って、「死んだほうがましだ」とさえ言いました。主は、このような駄々っ子ヨナが使命を果たせるように、多くのものを備えました。まず、タルシシュ行きの船を止めるために、主は何をなされたのでしょうか?ヨナ1:4「さて、主は大風を海に吹きつけられた。それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった」。だれが、嵐を起こしたのでしょうか?主なる神さまです。ヨナは、自分のせいで、激しい暴風が襲ったことを知っていました。ヨナが嵐の海に投げ込まれました。ヨナはどうなったでしょうか?ヨナ1:17「【主】は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」何というタイミングでしょうか?「せーの」と船員たちが、ヨナをかかえて海に投げ込みました。すると、ちょうどその真下に、大きな魚が口を開けて待っていました。魚は餌だと思って、飲み込んだのかもしれません。普通、飲み込むと胃液が出て、消化されてしまいます。どういう訳か、胃液に溶かされないで、3日間、魚の中にいました。しかし、それだけではありません。主は魚を動かして、ニネベに一番近い、海岸までヨナを運ばせました。人間が潜水艦を発明する前に、神さまは大魚的潜水艦を作りました。「ピノッキオの冒険」というのがありますが、大きな魚に飲み込まれます。これは、ヨナ書をモチーフにしたと言われています。福音書を見ますと、ヨナが三日三晩、魚の中にいたという奇跡をイエス様が引用しています。ですから、これは作り話ではなく、実際にあったということです。ニネベの人たちが、比較的、簡単に罪を悔い改めました。それは、ヨナが「本当は、ここに来たくなくて逃げたんだ。しかし、主なる神が大きな魚に私を飲み込ませ、三日三晩、魚の腹の中にいたんだ」と言ったでしょう。そのとき、ニネベの人たちは、「ああ、これは本当に違いない」と、神さまを恐れ、耳を傾けたのだと思います。

 第二番目の「備え」はとうごまという植物です。4:6「神である【主】は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。」なぜ、主はとうごまを備えたのでしょうか?そヨナは高台からニネベの町がどうなるか見ていました。しかし、主が悔い改めたニネベの人たちを、滅ぼすような気配がありませんでした。「生きているより死んだ方がましです」と駄々をこねているヨナの不機嫌を直そうと、とうごまをはえさせ、日蔭を作ってやったのです。とうごまは植物ですが、種から「ひましゆ」という油が取られるそうです。中近東ではいたるところにとうごまが生えており、灌木のようにたちまち大きくなるそうです。ヨナは「わぁー、涼しくなった」と、そのとうごまを非常に喜びました。ところが、どうでしょう。第三番目の「備え」が出てきます。ヨナ4:7「しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。」とうごまは、たった1日で枯れてしまいました。とうごまは元来が草であるため、虫がつくとたちまち枯れるそうです。「なんてこった!」であります。第四目の「備え」が出てきます。ヨナ4:8「太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。『私は生きているより死んだほうがましだ。』」神さまは、太陽が上ったとき、焼けつくような東風を備えられました。ヨナにとっては、熱風とかんかん照りの、ダブルパンチであります。ヨナの怒りが爆発しました。「私は生きているより死んだほうがましだ。」と叫びました。主は、とうごま、虫、東風を備えて、ヨナに何かを教えたかったのです。

 そのことがヨナ4:9以降に記されています。ヨナ4:9すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」【主】は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」ヨナは一夜で滅びたとうごまを惜しみました。ヨナが、とうごまを植えたり育てわけではありません。それなのに、「なんで、とうごまを枯らしたんだ」と嘆きました。ヨナは12万人以上の人たちは滅びて良いと思っていました。そして、1本のとうごまが滅びたことを嘆きました。神さまは、「それは間違っているだろう?」とヨナを諭したかったのです。ヨナは極端な愛国主義を持っていました。「イスラエルの敵は滅びて当然だ」と思っていたのです。しかし、ここに神さまのみこころがはっきりと示されています。「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」彼らは、神さまを全く信じていませんでした。しかし、ヨナの宣教で、罪を悔い改めました。神さまは彼らが悔い改めたので、滅ぼさないと決めたのではありません。神さまは彼らがそのまま滅びることがないように、ヨナを遣わしたのです。私たちはこのことを知らなければなりません。多くの人たちは、神さまのことを誤解しています。血も涙もない、裁判官のように、「罪を悔い改めないヤツは滅ぼす」というお方ではありません。ヨナは神さまのことを、こう言っています。「私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」アーメン。神さまはさばきの神さまではなく、情け深くあわれみ深い神さまです。怒るのに遅く、恵み豊かであり、わざわいを思い直されるお方です。

 私たちは「旧約聖書の神さまは厳しくて、1つでも罪があったら罰して、滅ぼす」みたいに考えてはいないでしょうか?神さまは私たちが滅びることを「ざまぁ、見ろ」と喜ぶようなお方ではありません。そうではなく、「なんとか滅びないで、救われる道はないだろうか?」といろいろなものを備えてくださるお方です。ニネベの人たちにとっては、ヨナが備えでした。また、ヨナにとっては、大魚、とうごま、虫、東風がそうでした。神さまはニネベの人たちも救いたいと願っていましたが、駄々っ子ヨナも救いたいと願っていました。なぜなら、ヨナは「生きているより死んだ方がましだ」と告白していたからです。おそらく、嵐の海に投げ込まれたとき、ニネベに行くよりは、おぼれ死んだ方が良いと思っていたのではないでしょうか?自殺だと問題があるので、船員たちに自分を投げ込ませたのではないでしょうか?そういう死を願う、ヨナをも、神さまは救おうとされたのです。今、世の中に、「生きているより死んだ方がましだ」と言っている人がどのくらいいるでしょうか?日本で自殺者の数は年間、38,000人くらいだそうです。しかし、それは成し遂げた人の数です。でも、「生きているより死んだ方がましだ」と願っている人は、その何十倍もいるのではないでしょうか?そういう人たちも含め、神さまが人類に備えてくださった最大のものは何でしょうか?アブラハムがイサクをささげた時「主の山に備えあり」と言いました。イサクの代わりに、雄羊が備えられていたのです。終わりの時代は、父なる神さまが、ゴルゴタの丘に、御子イエスをささげられました。私たちの罪を御子に負わせることによって、人類を救うという計画です。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。父なる神さまがニネベの人たち以上に、私たちがひとりとして滅びることのないように、御子イエス様を与えてくださったのです。御子イエス様は死んで、罪の贖いをなしとげてから、3日目によみがえられました。ヨナが三日三大魚の腹の中にいました。同様に、イエス様も三日三晩、地の中にいました。イエス様こそ、ヨナよりもまさったお方です。ニネベの人たちは、ヨナの説教で悔い改めました。しかし、私たちには、ヨナよりもまさったお方がいるのです。イエス様は死んで三日後に復活し、全人類に対する、救いの道を開かれたからです。父なる神さまは御子イエスにあって、私たちを救いたいと願っておられます。ニネベの時と同じように、滅ぼしたいとは願っておられません。まだ、イエス様を信じておられない方は、神さまの恵みをいただきましょう。また、すでにイエス様を信じておられる方は、ヨナのように狭い考えではなく、私たちの周りの人たち、日本全国の人たちが救われるように願い求めましょう。ヨナのような宣教でも人々が信じたのですから、恵みの福音であれば、もっと信じると確信します。


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2014年5月 4日 (日)

苦難を受けたヨブ     ヨブ42:1-6 

 ヨブ記は長くて、難しいので読む(ヨブ)気がしないかもしれません。なぜなら、散文的に書かれているからです。族長時代に書かれたと思いますが、おそらく文学的には最高の書物であろうと思います。また、古来、「ヨブ記のテーマは何か?」ということが問われてきました。「義人がなぜ苦しみに会わなければならないのか?」というのが中心的なテーマでしょう。ヨブ自身もその答えを求めていますが、結局は分からずじまいでした。でも、ヨブは悩みと苦しみの中で神さまの取り扱いを受けました。


1.義人ヨブ

 あとで友人たちが、「ヨブには罪があったから、あのような苦しみにあったのだ」と言いましたがそれはあたっていません。1節には「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と書かれています。また、ヨブは息子たちが「もしかしたら罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思って代わりにいけにえをささげました。サタンが神さまの前に出たとき、神さまは「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりもいない」と言われました。神さまご自身がヨブは潔白で正しいと太鼓判を押しています。悲しいことにヨブはサタンによって、すべてのものを奪われました。7人の息子と3人の娘が殺されるか災害によって死にました。家畜などすべての財産が奪われました。そのとき、ヨブは何と言ったでしょう。1:21-22「『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」ヨブは神さまを呪いませんでした。2章にはいりますと、今度は、サタンが「彼の肉体を打てば、あなたをのろいますよ」と主に言いました。そうすると、サタンは、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打ちました。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、灰の中にすわりました。ヨブの妻は「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか?神をのろって死になさい」と言いました。ふんだり蹴ったりであります。ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしませんでした。つまり、ヨブが何か悪いことをしたので、罪があったので、子どもが死んだり、災いにあったり、病気になったということではありません。「義人がなぜ苦しみに会うのか?」という答えがまだ出てきていません。

 ある人は、「ヨブが恐れたので、あのような災いが降りかかったのだ」という人もいます。ヨブ記3:25「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」とあります。確かに、そのように考えられる根拠があります。しかし、「ヨブが恐れによって失敗したのだ。恐れがテーマなんだ」と言うなら、42章にも渡るヨブ記は無駄になります。また、ある人は「サタンが悪いんだ。サタンがヨブを苦しめたんだ。私たちはサタンと戦うべきだ」と言う人がいます。確かにサタンは主の前に出てこう言いました。1:9-10「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。」確かに、主は世ヨブの持ち物とその周りに、垣をめぐらしていました。私たちは生垣やフェンスを良く見ますが、あのような境界線です。垣は人や動物が勝手にはいらないように防御します。神さまが私たちの持ち物や健康に対して、垣を巡らせているということは幸いなことです。しかし、神さまは深い考えをもって、ヨブの垣の一部を取り外しました。すると、そこからサタンが入り込み、ヨブの持ち物や子どもたちを打ち滅ぼしました。最後には、ヨブの健康も奪われてしまいました。では、主はサタンによって誘惑されたのでしょうか?そうではありません。ヤコブ1:13「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。主はヨブに対して、ある計画をもっていました。それはヨブ自身のためであり、またヨブのように理由も分からないで苦しむ人たちの解決のためであります。神さまは善なるお方であり、私たちをわざと災いに会わせられるようなお方ではありません。しかし、神さまは私たちを整えるために、サタンの活動を許されるようです。しかし、それは全部ではなく、「このくらいにしなさい」という制限付きであります。その証拠に、神さまはサタンに「では、彼をお前の手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな」(ヨブ2:6)と言いました。

 第一のポイントで学ぶことは、「ヨブのような義人でも苦しみや災難に遭うことがあるんだ」ということです。私たちは浅薄に、「ああ、あの人は何か悪いことをしたから、罪を犯したから、あのような災いを受けたんだ」と言ってはならないということです。たとえ、私たちの恐れやサタンがそうさせたとしても、神さまが設けた限界内なんだということです。Ⅰコリント10:13「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」アーメン。試練の中でも、「神さまは真実な方である」ということを忘れない人は幸いです。神さまはその人に、耐える力と脱出の道を備えてくださるでしょう。


2.按排を受けたヨブ

 塩梅の意味は塩と梅酢でほどよく味をつけるということです。この按排は「程よく並べること、適当な具合に処分すること」という意味です。ヨブは、財産、子どもたちすべてを奪われた直後、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と信仰ではそう告白しました。しかし、その後、ものすごい悩みと苦しみがやってきました。それは頭では理解できない、内部からこみ上げてくる怒りと悲しみとも言えるでしょう。ヨブ記3:1「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」とあります。「ああ、自分は生まれてこなければよかった」と言いました。身内の者を亡くした時、葬儀の際は気丈にふるまっても、後から深い悲しみが襲ってくるようです。テレビで見ましたが、東北の震災と津波から3年以上たちますが、被災者たちが重い精神疾患に悩まされています。ヨブのもとに、3人の友が慰めに来ました。しかし、ヨブを見ていて、だんだんイライラしてきたようです。エリファズは「さあ思い出せ。だれが罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか」と言いました。つまり、ヨブに「何らかの罪があるから、あのようなことが起きたんだ」と遠回しに言いました。他の二人も、「神さまの前に正しい人はだれもいない」とヨブを責めした。これまでは、じっと耐えていたヨブですが、内側から「いや、そうじゃない」という思いが湧き上って来ました。器の底に沈んでいた泥が、かきまぜられると上がってくるように、いろんな考えが噴出してきました。3章からヨブと3人のやり取りがずっと続きます。最後までヨブが「自分は正しい」と言い張るので3人は諦めました。そして、4人目のエリフが満を持して登場しました。彼はみんなよりも年が若かったので、ずっと待っていました。しかし、エリフは他の3人と違って、神さまに結び付ける働きをしました。

 ウィットネス・リーが書いた『命の経験』という本に、ヨブのことが書いてありました。聖書全体で最も多く語った人はヨブです。神は彼を環境によって苦しめ、また4人の友人を按排することによって彼の内にあるすべての言葉を引き出されました。彼には彼の環境や主張があって、他の人の見解には従おうしません。彼は「自分は何も間違ったことをしていない、罪やこの世や、あるいは良心を対処する必要などない」と感じていました。ですから、彼は自分の胸をたたいて義なる方と論じたいと願ったのです。確かにヨブの問題は、罪や、この世や、良心ではありませんでした。真の彼の問題は彼自身です。彼の砕かれていない己れが、神を知ることを妨げている、それが彼の問題です。ちなみに「己れ」は「自我」と置き換えても良いかもしれません。教会の中でも多くの人がヨブのようです。ヨブのようなタイプの人たちは、罪に染まった様子もないし、この世を愛してもいません。彼らは、いつも自分が正しいと思っています。そればかりか、教会に関して、また神のことに関して、多くの意見や考えを持っています。ですから一日じゅう彼らは、あれこれと語り、知らないことまでも語ります。このような人たちは、助けられたり導かれたりするものが最も難しいのです。己れで満ちている人はいつも教会に多くの困難をもたらします。今日、キリスト教の中でこんなに多く分裂している分裂の原因は、人の罪やこの世的なことだけではありません。それ以上に、人の己れによります。多くの人たちが兄弟姉妹を助けることによって主に奉仕しています。しかし、本当のことを言えば、彼らは自分の考えや意見や見解や方法に、他の人が従って来ることを願っているのです。ルターは「私の内には、ローマ法王より偉大な法王がいる。それは私の己れだ」と言いました。教会の中で、己れが砕かれていないなら、一人びとりが法王となり、一人びとりが1つの宗派となるでしょう。

 新約聖書では、ペテロも己れに満ちている人でした。そして、多くの機会に自分の意見を述べています。最後の晩餐の時、イエス様が「あなたがたは、今夜、私のゆえにつまずきます。『私が羊かいを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです」と言われました。これを聞いたとき、ペテロの己れがすぐ引き出され、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまづきません」と言いました。その結果、ペテロは主を三度も否み、大きな失敗をしました。新約聖書ではマルタも己れを代表する人物です。ラザロが死んだとき「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。イエス様が「石を取りのけなさい」と命じたとき、マルタは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」と言いました。このところからも分かりますように、マルタはとても多くの意見を持っていました。それは彼女の己れが非常に強いことを示しています。神さまは、私たちの肉だけではなく、己れを取扱いたいと願っておられます。己れとは、考えや意見に現わされた魂の命です。また、サタンが人の思いの中に働くとき、それは意見となり己れとなります。イエス様が「エルサレムで苦しみを受け、三日目によみがえらなければならない」と言われました。ペテロがすかさず「そんなことが、あなたに起こるはずがはずはありません」と言いました。するとイエス様は「下がれ。サタン。あなたは私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」とペテロを叱りました。これは、サタンが人の思いの中に働くという典型的な例です。

 神さまはヨブの罪や肉ではなく、己れを取り扱うために妻や友人たちを遣わしたのです。友人たちも自分の考えや意見をヨブにぶつけました。サタンが友人たちの思いに働いたのでしょう。すると、ヨブの中にあった己れがむくむくと顔を出して、自分の考えや意見によって対決せざるを得なくなりました。これこそが聖霊の按排、聖霊の管理です。箴言27:17「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」アーメン。私たちが直面するすべての環境は、聖霊の単なる一時的な偶然な按排ではなく、神の永遠の計画の中にあります。神さまは両親、夫や妻、子どもたち、教会や同労者を按排しておられます。事故や病気は一時的な聖霊の管理かもしれません。しかし、妻は夫にとっての生涯の管理となり、また同様に夫は妻にとっての生涯の管理となります。子どもも、教会の兄弟姉妹もそして同労者も聖霊の管理の中にあります。そのようにして、私たちの己れが取り扱われるのです。ヨブと友人たちの絶え間ない議論が続いたあとに、主ご自身が語られました。ヨブ38:1-2「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」神さまがいろんな質問をしますが、ヨブは答えられませんでした。最後にヨブは何と言ったでしょう?ヨブ42:3-6「知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。…私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」ヨブは、自分の考えや意見こそが、主の摂理を覆い隠していることを知りました。ヨブは自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いました。それは、ヨブ自身がヨブの己れ(自我)を嫌ったということです。新約聖書で言うなら、己れ(自我)を十字架に付けるということです。私たちは自分の考えや意見に支配されます。だから、日々、十字架を負って主に従う必要があるのです。


3.二倍の祝福を受けたヨブ

 ヨブ記のほとんどが人々の考えと意見です。つまり、ヨブと4人の友の考えと意見が入り乱れています。彼らのことばの中に、神さまの真理があるのか疑わしい限りです。しかし、全部間違いであるとは言えません。真理のかけらが、あちこちに散らばっていることは確かです。なぜなら、ヨブ記全体も神の霊感によって、書かれているからです。ひとくちに「聖書は神のことばである」と言っても、サタンが発したことば、人々が発したことばが記されています。しかし、ヨブ記38章になってはじめて、主ご自身が語られました。ヨブ38:1-3「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。」主はヨブが発した質問については1つも答えていません。また、義人がなぜ苦しまなければならなのか、ということも答えていません。主はヨブに対して「宇宙の成り立ちや自然界の営みについて知っているか?」と1つ1つ尋ねています。38:22「あなたは雪の倉に入ったことがあるか?雹の倉を見たことがあるか?」。39:1「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。」41:1「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押さえつけることができるか。」ヨブにとっては、ちんぷんかんぷんのことばかりでした。ヨブは主の前で圧倒されました。それで何と答えたでしょうか?42:1-2ヨブは【主】に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」42:5-6「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」

果たしてヨブは何を悟ったのでしょうか?「自分は何も知らない。神さまの計画と摂理に関しては全くそうだ。私は愚かだった。」ということでしょう。そして、自分は知らなくても神さまが全部ご存知であるということが分かったのではないでしょうか?私たちはヨブほどではなくても、苦難や災難に遭います。そして、「なぜ、こんなことが私に起きたのですか?」と、神さまに聞くでしょう。神さまが答えてくださる場合もありますが、多くの場合は答えてくれません。ですから、私たちは「なぜ、あんなことが起きたのか?」の代わりに、「何のためだったのでしょう?」と聞くべきです。おそらく、しばらくたってから「ああ、あのことのためだったのか?」と悟るときが来るでしょう。イエス様はペテロに「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」(ヨハネ13:7)と言われたとおりです。でも、天国に行ってからでないと分からないこともあるかもしれません。しかし、それでも良いのではないでしょうか?「神さまが全部ご存知であり、神さまには神さまの摂理があるんだ」と神さまに委ねることであります。キリスト教会では「委ねる」と良く言いますが、英語ではyieldです。Yieldの元の意味は、当然の力や権利に対して、「明け渡す。譲渡する。譲る」という意味です。私たちには己れ、つまり、私たちの考えや意見があります。「神さまこうしていただかないと困りますよ。絶対にこうしたいです」と要求することがあります。しかし、神さまは私たちの将来と計画、つまり摂理を持っていらっしゃいます。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」(エレミヤ29:11)です。10メートル先も見えない漆黒の海の上を航海している一艘の船がありました。向こうから一筋の明かりが見えました。その船の艦長は「10度右に進路を変えるように」と、無線で伝えました。すると向こうから「あなたの船こそ、10度右に進路を変えて下さい」と無線で返ってきました。艦長は「私は大佐だ。お前の身分は?」と聞きました。「私は二等兵ですが、それが何か?」という返事でした。艦長は怒って、「この船は軍艦だぞ。早く、10度右に進路を変えなさい」と言いました。すると「私は灯台です。あとは勝手にどうぞ!」と返事が返ってきました。みなさん、神さまと戦って勝てるでしょうか?どんな計画も成し遂げられる神さまに明け渡すのが一番ではないでしょうか?

ヨブの結末はどのようになったでしょうか?42:10 「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。」42:12-17 「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ「六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。」苦難を受けたヨブは、最後に二倍の祝福にあずかることができました。ヨブはどうして自分が苦しまなければならないのか最後まで知らされませんでした。霊的には、ヨブの己れ(自我)が砕かれ、神さまをその目で見ることができたことです。しかし、神さまのそれだけではありません。二倍の物質的な祝福と長寿を得ることができました。なぜ、二倍なのでしょうか?二倍には、弁償するという意味があります。イザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」ハレルヤ!神さまはヨブを通して、私たちの人生にはたとえ罪がなくても、苦しむことがあることを教えました。しかし、もし、神を愛し、神に愛される者が、そのような目に遭うならば、神さまは放ってはおきません。ちゃんと二倍のものを与えて、弁償してくださいます。神さまはあなたの苦しみを、あなたの恥を償って下さる神さまです。このお方を信頼して従っていきましょう。


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