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2014年4月27日 (日)

ヤベツの祈り       Ⅰ歴代誌4:9-10  

 ヤベツという人物はこのところにしか出て来ません。しかも、カタカナの系図の中に突然、ポツンと出てきます。分かることころはここだけですので、想像しなければならないところも出てきます。歴代誌はユダ部族こそが神さまが選ばれた民と考え、南王国ユダの歴史を書いています。ヤベツはダビデの直系ではなく、その他のユダの子孫です。しかし、歴代誌の記者はどうしてもヤベツのことを書き残したかったようです。きょうは、ヤベツ自身とヤベツの祈りについて学びたいと思います。


1.ヤベツという人

 Ⅰ歴代誌4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。「名は体を表す」と言いますが、なぜ、こんな名前を付けられたのでしょう?新改訳聖書は「悲しみ」と訳していますが、ヘブル語からは、「苦しみ」「痛み」が近いかもしれません。産んだ時、ひどい陣痛だったかもしれません。昔は難産のため、母親が死ぬときがありました。ラケルがベニヤミンを産んだときがそうでした。また、普通は父親が名前を付けるものですが、母親が名前を付けています。ということは、父親が戦死したか、病死したのかもしれません。母親がそのような心痛のさなかに生んだことも想像できます。生まれた時から、「この子をちゃんと育てられるだろうか?」「ちゃんと育つだろうか?」と悩んだかもしれません。だから、その子に「ヤベツ(苦しみ・痛み」という名をつけましたのでしょう。しかし、親や人々から「苦しみちゃん」「痛みちゃん」と呼ばれたらたまったものじゃないですね。彼が大きくなったらどうなったのでしょう?「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた」と書いてあります。いのちのことば社の注解書には「『重んじられた』とは栄誉を受けたとも訳せる。富や勢力において抜きん出ていたと思われる彼は、敬虔の面でも優れていた。叫ぶように祈っている姿の中に、それがうかがえる」と書いてありました。また、平野耕一先生は『ヤベツの祈り』という本の中で、「『重んじられた』とは、部族の長になったという意味です。つまり彼はリーダーになったのです」と解説しています。ヤベツは生まれた環境や状況、自分の名前に逆らって、偉大な人になったということはすばらしいことではないでしょうか?

 Ⅰ歴代誌4:10「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。』英語の聖書には、ヤベツの祈りの中に、「私を」「私の」という言葉が、5回も出てきます。しかも、最初から「私を大いに祝福してください」と祈っています。ヤベツは「利己的な祈りをしているので、問題ではないか?」「こういう祈りを真似て良いのか?」と良く言われます。もちろん、ヤベツの祈りはヤベツのための祈りで、魔法のように唱えれば良いというものではありません。それに比べて「主の祈り」は、イエス様が教えてくれた、私たちのための祈りです。だから、「主の祈り」はだれしもが祈るべき祈りであります。しかし、ヤベツの祈りは本当に自己中心的な祈りであって、私たちが学ぶべき要素は全くないのでしょうか?私は祈る必要があると思います。なぜなら、歴代誌の記者がそうしたからです。歴代誌を読みますと、1章1節がアダム、セツ、エノシュではじまります。アブラハムやイサクが出てきます。2章1節からイスラエルの子らの名前が出てきます。3章1節はダビデの子たちの名前が出てきます。4章1節はユダの子孫の名前が出てきます。そのような系図が5章、6章、7章、8章、9章まで続きます。しかし、歴代誌の記者は「待てよ。ヤベツのことを書くべきだろう。彼はユダの子孫の直系ではないけど、やっぱり書き残さなくてはいけない」と思ったのです。だから、今日の私たちもこのところから、学ぶ価値があるということです。


2.地境を広げてください

 ヤベツの祈りの中心的なものはどれでしょうか?一度読みます。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」私は「私の地境を広げてくださいますように」がこの祈りの中心ではないかと思います。このことが大いに祝福されることです。そして、地境が広げられるとき、「御手が共にある」ことや「わざわいから遠ざけていただく」ことが必要になるのではないかと思います。では、「地境」とは何でしょうか?ヘブル語のギブールには「末端、国境、縁、境界線、領土」というような意味があります。そのため新共同訳は「私の領土を広げ」と訳しています。なぜ、ヤベツなこのような祈り方をしたのでしょうか?『ヤベツの祈り』を書いて一躍有名になったブルース・ウィルキンソン師はこう解説しています。「ヤベツが生きていた当時のイスラエルは、ヨシュアがカナンを征服し、約束の地がそれぞれの部族に分割されたばかりでした。ヤベツが神に向かって『私の地境を広げてください』と叫んだとき、彼は自分の現状を見て、『私はもっと広い地を受けるにふさわしいはずだ!』という思いを持っていました。」時代は違いますが、アメリカの西部開拓のような光景を想像することができます。その時代は、「自分の土地はこの範囲だ」と杭を打ったら、自分のものになったからです。

 私たちにとって「地境を広げてください」は、どういう意味になるでしょうか?ビジネスマンだったら、「お得意さんが増えて売上が伸びますように。そして、給与も増して昇給しますように」でしょうか?ピアノ教室を開いている人でしたら、「生徒さんが増えて、何ケ所でも教えられるように」でしょうか?教会でしたら、「救われる人がどんどん与えられて、枝教会ができるように」というふうになります。常磐牧師セルというが毎月、開かれ、私もそのメンバーです。牛久の大喜多先生は、「隣の450坪の農地が売りに出ていて、坪単価2万円にならないかと交渉しています」と言っていました。また、松戸の岡野先生が牧会している教会では隣の250坪を4000万円で既に購入しました。「その土地に芝生を植えて、学校から帰っても遊び場のない子どもたちのために使いたい」と言っていました。「みんな景気が良いなー」と思いました。実は今から60年くらい前、「この教会の南の土地を買おうか?」という話が上ったそうです。この隣はその時、150坪位のねぎ畑だったそうです。あるとき、役員さん数名が賀川豊彦先生にお願いに行きました。賀川豊彦と言えば、「神の国運動」を全国的に展開した有名な伝道者です。いろんな社会事業をしながら、教会をいくつも建てた人です。役員さんが先生に「隣地を購入したいので、ご寄付をお願いできませんでしょうか」と頼みました。すると、「1割は出すけど、9割はあなたがたが出しなさい」と言われたそうです。そのことばを聞いて、がっかりし、隣地購入の話はおじゃんになりました。やがて、現在の持ち主がその土地を購入し、今に至っています。「なぜ、あのとき、信仰をもって買わなかったんだろう」と思います。しかし、どの時代であっても、隣地を買うというのはたやすいことではありません。

 ヤベツは「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」と祈りました。ヤベツにとって大いなる祝福は、自分の地境が広げられることから始まりました。ですから、この祈りは、ヤベツに倣って、私たちがチャレンジとして受け止めるべき祈りではないでしょうか?多くの人たちは「現状維持」とか「冒険的なことはせず無難に」「食べて行ければ良い」と思っています。しかし、それが祝福と言えるでしょうか?「私を大いに祝福し、私の地境が今よりも小さくなりませんように」という祈りは矛盾しています。ヤベツのすごいところは、「イスラエルの神さまだったらできる」という信仰があったことです。当時、カナンというところは、周りは敵ばかりでした。なぜなら、イスラエルの民がヨルダン川を渡って、カナン人が住んでいるところに割り込んで来たからです。主はヨシュアに「私は彼らを既にあなたの手に渡しているから、彼らを追い出して占領しなさい」と命じられました。「約束の地カナンは乳と蜜の流れるところ」と言えば、聞こえは良いです。しかし、原住民をその地から追い出して、領土を広げるということはたやすいことではありません。だからこそ、ヤベツは「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」と祈る必要があったのです。皆さん、私たちたちも毎週、似たような祈りをしています。主の祈りで「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈ります。この祈りも全く同じです。主の祈りの前提は「この地が神さまのものではなく、神さまのみこころもなされていない」ということです。つまり、「私の地境を広げてください」と「御国が来ますように。みこころがこの地でも行われますように」と共通しているところがあるということです。

 みなさんにとって、「地境を広げてください」とは何でしょうか?あるとき、ブルース・ウィルキンソン師が「地境を広げてください」と祈るように大学生たちにチャレンジしました。あるチームがトニニダード島に飛んで、夏の間、宣教活動をしようと言い出しました。結果的に126人の学生と教員が参加し、ジェット機を借り上げることになりました。演劇や建設、夏季聖書学校、音楽や家庭訪問などで奉仕をする各チームが「ヤベツ作戦」に加わりました。一夏で、その島の数千人の人生にインパクトを与えることができたそうです。ブルース・ウィルキンソン師自身が、「地境を広げてください」と祈ったら、悩みを持った人たちが近づいて来て、彼らに聖書から解決を与えることができたそうです。平野耕一牧師は「地境を広げてください」と30年以上祈って来たそうです。そのため、アメリカ留学にでき、20年間アメリカで用いられました。帰国後は教会を開拓し、何冊も本を出版することができたそうです。しかし、平野先生は「地境を広げてくださと祈るのは、ストレッチ運動と同じで、痛みが伴います」とおっしゃっています。つまり、ふだん使っていない筋肉を伸ばすように、今まで使っていない能力を引き伸ばすからです。ストレッチ運動には痛みが伴いますが、それは心地良さを伴う痛みです。今までの地境の内にとどまっている方が安心です。しかし、地境の一歩外はもう危険地帯です。惨めに失敗する確率がぐーんと増えてきます。しかし、地境が広がっていくことが与える充実感と達成感は、努力や痛みを補ってあまりある喜びを提供するでしょう。また、「地境を広げてください」と祈っていると、チャンスが到来したとき、それをつかむタイミングがわかります。どうぞ、「地境を広げてください」と信仰のストレッチをしようではありませんか。


3.御手が私とともにあるように

 「地境を広げてください」と祈るとどうなるでしょうか?テリトリーが広くなるのは良いのですが、問題も起こってきます。仕事や奉仕でも同じです。手を広げると、いろんな人と出会うし、いろんなことが起こります。これまでの地境の中だったら、慣れた仕事で、気の合った人たちばかりでした。でも、「地境を広げてください」と祈ったら、神さまが地境を広げてくださいました。しかし、同時にやることが増え、問題も起こりました。果たして、どっちが良いのでしょうか?これまでのような、無難な生き方が良いでしょうか?現代は「等身大の自分で良い」と言う人たちがたくさんいます。それは裏を返せば、「ビジョンがない」「希望がない」「信仰がない」ということです。いや、神さまがそれで良いと言えば、それで良いでしょう。しかし、神さまが願っていること以下の人生だったらどうでしょうか?神さまが「もっと私に求めなさい」とおっしゃっているのに、「これが身の丈です」と言っているなら、天国に行ったとき後悔するでしょう。ある人が天国に行きました。ペテロさんが天国を案内してくれました。ある所に行くと大きな倉庫がありました。その人はペテロさんに、「ぜひ、倉庫の中を覗かせてください」とお願いしました。ペテロさんは「やめた方が良いですよ」と暗い顔をしました。「いや、どうしても見たいです」と言ったら、ペテロさんは倉庫の扉をあけてくれました。するとそこに、大きな箱がたくさん積み上げられていました。「これらの箱は何ですか?」と聞いたら、「これは神さまが与えようとしたものですが、返品されたものです」とペテロが答えました。その人は、自分の名前が書いた箱がたくさん積み重ねてあるところに来ました。1つの大きな箱を開けたら、「ああ、あの時、求めていたものだった」と分かりました。そんなことのないようにしたいものです。

 つまり、地境を広げてくださいと祈ったなら、神さまが答えて下さり地境が広げられます。しかし、広くなったら、自分の知恵や力では治めることができません。だからこそ、「御手が私と共にあるように」祈らなければなりません。なぜなら、そこは危険地帯だからです。先住民を追い出し、領土を広げる必要があるからです。そのためにはどうしても戦わなければなりません。当亀有教会で、このヤベツの祈りを学んだ頃があります。平野先生もこの教会を会場にして、「ヤベツの祈り」セミナーを開いてくださいました。また、新松戸教会の津村先生も「ヤベツの祈り」のメッセージをしてくださいました。その頃は聖霊刷新に属していましたので、月1回、日曜日の夜に祈祷会がありました。あの時は、「ヤベツの祈りの歌」とその振付までありました。このところで、みんなで賛美し踊りました。最後のアーメンは、空中に風穴を開ける動作だったと思います。あの頃は、ゴスペルからたくさん救われる人たちが出て、まさしく神さまが地境を広げてくださいました。でも、同時に、いろんな問題も起こった時でもありました。3年ぐらいやったのでしょうか?その後、聖霊刷新の祈祷会を閉じました。教会は落ち着きましたが、救われる人も少なくなりました。やはり、あの時、「御手が私と共にあるように」という祈りをしていれば、もっと突き進むことができたのかもしれません。

 過去を振り返っても仕方がありません。問題はこれからです。「地境を広げてください」という祈りは危険だということが分かりました。もし、安定した生活を送りたかったなら、下手に祈らない方が良いかもしれません。しかし、神さまが「そうじゃない。あなたが取るべき領地はまだある」とおっしゃたらどうでしょうか?ヨシュア記13:1「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。』」と言われました。ヨシュアはこれまで戦ってきました。領土も広がりました。もう年です。老人になりました。でも、主は「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている」とチャレンジしました。と言うことは、天国に行くまで、「これで良い、十分だ」ということはないということです。カレブという人は、85歳になったのに「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。」と巨人が住んでいる、城壁の町々をあえて求めました。不可能を可能にさせるのは、主の御手が共になければできません。この間の1月、常磐牧師セルで万座温泉に行きました。2日目、私一人だけがスキーをすべりました。中学生の息子に教えるために、ちょっとでも慣れておこうと思ったからです。しかし、41年ぶりにすべりましたが、全く、ダメでした。10回以上、ひどい転び方をしました。なぜでしょう?スピードについて行けなくて、ひっぴり腰になっていたからです。「こわい!」と思って、重心を後ろにかけると、後は転ぶしかありません。「地境を広げてください」と祈るとスピードが増します。そのとき、「だめだ」と恐れると倒れるしかありません。でも、「御手が共にありますように」と祈ると、前に重心が行きます。ですから、新しい地境では、主の御手が共にあることが重要なのです。地境が広げられると、これまでの地境では経験できなかったことを経験できます。主の御手が共にあることがどんなにワクワクすることなのか経験できます。あなたの信仰生活、ワクワクするようなことを経験していますか?もし、ないならば、安全地帯に留まっている証拠です。


4.わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないように

 地境が広げられて、新しい領地に踏み込んでいくとき、だれの縄張りに侵入しているのでしょう?また、地境が広げられて、すばらしい成功をおさめたとします。どんなことが一番、危険なのでしょうか?そうです。その人は、悪魔が一番、いやなことをしているのです。また、その人は「うまくいった」「成功した」と有頂天になっているかもしれません。多くの人たちが、このところで、誘惑に負けてしまいやすいのです。ブルース・ウィルキンソン師が「ヤベツの祈り」の本にこう書いてありました。「成功は失敗のもとであると言っても、まず間違いありません。罪にはまり、ミニストリーから脱落してしまったクリスチャンの指導者たちが良い例です。その結果どれだけ多くの人が衝撃を受け、失望し、傷ついてしまったことでしょうか。祝福をいただいている状態は『神により頼んでいるという鋭い感覚が鈍り、図々しくなりやすい』ので一番危険であると、言った人がいましたが、その通りです。」と書いていました。人が「うまくいった」「成功した」という地点に行くと、自分と家族は、それまで以上に攻撃を受けることになります。邪魔、反対、抑圧にはじまり、招かれざる敵の棘にしょっちゅう遭遇することになります。「いやー、実際、そこまで行っていません。そういうものを全く経験していません」というのは、低迷したままということです。それもまた、問題であります。でも、ダビデが一番良く行っているときに、失敗したように、私たちも気をつけなければなりません。成功に大小は関係ありません。「悪魔は私のような者を相手にはしていないだろう」とたかをくくってはいけません。なぜなら、主の祈りの中で、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るように命じられているからです。

 最後に「ヤベツの神さまはどういうお方なのか」ということを話して終えたいと思います。もう一度、聖書をお読みいたします。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。ヤベツが祈ったら、「そこで神は彼の願ったことをかなえられた」とあります。私たちは、最初「ヤベツの祈りが自己中心的すぎるのではないか」と悩みました。「私を大いに祝福してくれとは問題ではないだろうか?」と思いました。しかし、そういうヤベツの祈りを神さまはかなえて下さいました。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」とあります。ヤコブ4:2「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」とあります。神さまはどういうお方でしょう?「ヤベツの祈り」から学べる共通点があります。神さまは「求めたらかなえてくださる神さまだ」ということです。ヤベツのように神さまに呼ばわり、「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださるように」求めていきましょう。


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2014年4月20日 (日)

見て、信じた       ヨハネ20:19-31  

 復活の朝、ペテロとヨハネが墓にかけつけました。墓の中を覗くと、イエス様のからだがありません。ただ、からだを巻いていた亜麻布が置いてありました。そして、イエス様の頭に巻かれていた布切れは、離れた所に巻かれたままになっていました。そのとき、ペテロとヨハネは「見て、信じた」とあります。何を見て信じたのでしょうか?普通、頭に巻かれた布切れをほどいたなら、布きれが広がります。しかし、巻かれたままになっていたとは、まるで、指の包帯がすっぽり抜けたような状態だったのです。指だったら可能ですが、首から頭に巻いた場合はあごが邪魔になりますので、抜けません。だから、二人は、イエス様がよみがえられたことを「見て、信じた」のです。しかし、20:9「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」とあります。きょうは、イエス様が日曜日の夕方、なぜ、弟子たちの前に現れたのか、その理由をお話ししたいと思います。


1.平安を与えるため

 ヨハネ20:19-20その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエス様は早朝、姉妹たちに姿を現しました。姉妹たちは、弟子たちにそのことを話しました。しかし、「そんなの嘘だろう。ありえない」と信じませんでした。マルコ福音書に、本日の箇所が短くまとめられています。マルコ16:14「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」11人とありますので、長い話を1つにするためにトマスを加えています。弟子たちは、「捕えられたら、きっと殺される」と恐れて、部屋の戸を内側からかぎをかけていました。そこへ、イエス様が来られたのです?どうやって?「すっーと」壁をすり抜けて入ってこられたのです。よみがえられたイエス様には肉体はありましたが、物質に左右されない、栄光のからだでした。イエス様は彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われました。弟子たちにの恐れと疑いと不信仰が一瞬にして消えました。そして、喜びがあふれてきました。「私たちの主は本当によみがえられたのだ」と分かったからです。

 イエス様は、このように言われたことがありました。ヨハネ14:47「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」弟子たちは、イエス様が与えた平安を失っていました。なぜなら、イエス様が死んで、墓の中に葬られたからです。弟子たちは、「私たちはこのお方にかけていたのに、もう、おしまいだ。父のみもとに行ける唯一の道だと思っていたのに」と思っていたでしょう。多くの人たちは、ここのように考えています。「人間、だれしも、死には打ち勝てない。死んだら終わり。すべてを諦めるしかない。」と。そして、ある人たちは宗教にすがり、生まれ変わりや、極楽浄土を信じています。しかし、それらが本当にあるかどうか、実のところ分からないのです。「キリスト教も宗教じゃないか」とおっしゃるかもしれません。「宗教」には、弱い人たちが、「神さまがいたら何と良いだろう」と思って考え出した信仰であるというニュアンスがあります。つまり、「それが真実だとか作り話だとかと究明するのではなく、心の中で思っていれば良い」というものです。ですから、宗教とは主観的なものであり、人それぞれ信じる対象が異なっても良いということになります。しかし、イエス・キリストが他のと違うのは、死からよみがえられたことです。キリスト教は「あったら良いなー」とか「信じたら幸せだ」という、精神的なものではありません。「キリスト教」という言い方もイヤなのですが、他にないので仕方がありません。とにかく、私たちの信仰は、イエス様が死んで、三日目に、よみがえられたという事実に立っているということです。イエス様は、死なない栄光のからだになりました。私たちもやがてイエス様と同じからだが与えられます。そうすれば、永遠の御国に住まうことができます。イエスさまの復活は、信仰の証明と同時に、私たちの保証になったのです。

 使徒パウロも同じことを言っています。Ⅰコリント15:13-14「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」私たちの信仰は、キリストの復活の上に立っていると言っても過言ではありません。J.B.フィリップスが『あなたの神は小さ過ぎる』という本の中でこのように言っています。「普通、復活として知られていることの歴史における重要性は、もちろん、いくら声を大にしても過ぎることはありません。キリストは生前、いろんなことを主張し、約束なさいましたが、もし、彼が亡くなってから、単なる香り高い思い出として生き残ったに過ぎないとすると、キリストは、徹底して善人だがひどく誤解された人として尊敬されるにとどまったでしょう。『私は神である』『私こそ、他ならない生命の原理である』というキリストの主要は、単なる自己欺瞞となってしまったでしょう。神・人間・生命についてのイエスの権威ある宣言は、すぐに怪しまれたでしょう。ですから、クリスチャンも、キリスト教に反対する人びとも、復活が本当にあったかどうかという問題を、キリスト教の根本的問題と見なしています。人間だれもが味わわねばならない死に、キリストが打ち勝つことができるか否かという問題に対する、完全な、満足のいく解答を、やはり、身をもってお示しになりました。」アーメン。

つまり、キリストが与える平安が世の与える平安と異なるのは、この点であります。キリストが与える平安は、人間だれもが味わわねばならない死に打ち勝つ平安だからです。弟子たちは一時、そのことを忘れ、部屋の戸を閉じて隠れていました。しかし、よみがえられえた主ご自身が、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。教えによる証明もすばらしいですが、事実にまさる証明はありません。多くの人たちは、このように問うでしょう。また、弟子たちも同じような疑問を持っていました。「キリストが本当に神なのか?」「キリストが教えたことは真実なのか?」「死んだ後に希望はあるのか?」その答えは、キリストがよみがえられて、弟子たちの前に立ったことです。弟子たちの疑問は一瞬にして消え去りました。残念ながら、私たちはその場にいませんでした。だから、弟子たちの証言を信じるしかありません。弟子ヨハネは目撃者の一人として、聖書を書きました。彼がこのように述べています。ヨハネ20:30-31「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」アーメン。イエス様は、ご自身が神の子キリストであることを、多くのしるしを持って、証明されました。すべてのしるしをヨハネ福音書に書ききれませんでした。しかし、ヨハネの願いはこれです。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」アーメン。私たちはその場にいたわけではありません。しかし、そのことを目撃したヨハネが、「しるしは他にもたくさんあります。でも、最後は、あなたが信じるしかありません。あなたが信じたなら、いのちを得ることができます」と言っているのです。

私がイエス様を信じたのは、1979年4月15日のイースターでした。日曜日、イースターのメッセージを聞いたはずなのですが、どんな内容だったか全く覚えていません。礼拝の中では、信じていませんでした。礼拝後、職場のクリスチャンの先輩が私のアパートに押しかけてきました。お昼の12時半から、夜の9時半まで、9時間、話し合いが続きました。いわゆる、個人伝道を受けたのです。私が建設会社を辞めた後に厚木の貿易会社に入れたのも、その先輩のおかげでした。それまで、11か月間もいろんな話を聞かされてきました。「神さまがいるなら見せてくれ。見たら信じる」とまで言いました。そういう考え方だったので、いくら言われても、「そうは言うけど」と反抗していました。しかし、あまりにも話し合いが長く続きました。彼はヨハネ黙示録の3:20のたとえ話をしてくれました。イエス様が心のドアをノックしているよ。「鈴木君、あけておくれ」。外側にはノブがないので、内側から開けるしかないんだ。イエス様は紳士なので、ドアを蹴破って入って来ないよ。信じても失うものがないんじゃないか。あとから、『嘘だった』と言っても良い。どうだろう。心のドアを開けて、イエス様を迎えてみないかい?」私は根負けして、「じゃあ、信じるよ」と言いました。先輩は「え?本当?今から大川牧師のところへ行こう」と言いました。私は「夜も遅いし、もう信じたから良いよ」と、先輩をお家に返しました。しかし、次の朝、起きたら全く変わっていました。すべてが輝いて見えました。神さまからの喜びと平安が心の中からあふれてきました。聖書の証言を体験することができたのです。私はイエス様の復活を実際は見ませんでしたが、聖書のみことばから信じることができました。


2.聖霊を与えるため

ヨハネ20:22-23そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」イエス様は彼らに息を吹きかけました。このところから何を連想することができるでしょうか?そうです。神さまがアダムを造られた時とそっくりです。創世記2:7「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」アーメン。息はヘブル語で「ルアッフ」であり、霊と同じ言葉です。ですから、神さまが人間に霊を鼻から吹き入れたという意味になります。人間と動物が違うのは、人間には霊が宿っているということです。動物は肉体や魂はありますが、私たちのような霊はありません。しかし、どうでしょう?アダムが罪を犯してから、私たちの霊が活動停止状態になり、その代わり魂が肥大化しました。人は霊によってではなく、自分の魂で善悪を判断して生きるようになりました。イエス様が弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われたのは深い意味がありそうです。でも、このようなことが書かれているのは、ヨハネ福音書だけです。「弟子たちが聖霊を受けたのは、ペンテコステの日だ」と言うのが定説です。ペンテコステの日は、復活の後、50日目です。なのに、このところで、イエス様が彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのは何故でしょう?神学的にもいろんな説があります。神学校では、「弟子たちがペンテコステの日まで、聖霊を待ち望むことができるように、少しだけ与えられたものだ」と教えられました。でも、それまで、力が与えられるように「ちょっとだけ、あげますよ」というもの。スーパーの試食コーナーみたいな感じがします。私は、これまでこのところを、あまり重要視してきませんでした。イエス様が「聖霊を受けなさい」と言われたのは、ペンテコステの日のことを指しているのだと思ってきました。なぜなら、ルカによる福音書とその続編の使徒の働きには、「弟子たちが前もって聖霊を受けた」という記録がないからです。

今年、ウィットネス・リーが書いた『命の経験』の後編を読みました。ウィットネス・リーはウォッチマン・ニーの弟子です。この本に、本日の出来事を説明していました。「旧約時代は、神の霊は外側から人の上にしばらく臨むだけで、人の内に入り込むことがなかったと書いてあります。また、旧約時代は神の霊は人にとって偉大な動力になりましたが、人の性質を変えつつ、内側に住むということはありませんでした。聖霊を内側に宿した最初の人は、イエス・キリストでした。ナザレのイエスは聖霊の内住を最初に経験されたのです。彼が30歳になって、神のために働こうとされたとき、ヨルダン川で、聖霊がはとのように下り、聖霊に満たされました。彼のこのような経験は、旧約の人たちの聖霊の経験と全く同じです。主イエスの次に、使徒たちが聖霊の経験をした最初のグループです。ヨハネよる福音書14章などで、主は弟子たちに約束して父に別の助け主、真理の霊を彼らの内に住まわせるために送って下さるように願うと言われました。復活の夜、弟子たちが集まっていたとき、主は彼らの間に入って来られ、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と仰せになりました。このようにして主は早くから約束していた約束を、彼らの内に聖霊を宿らせ、彼らの命とさせることによって成就しました。主が息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われたとき、弟子たちは救われ、神の永遠の命を得ました。イエス様を信じるとき、聖霊が内に宿りますが、これを聖霊の内住と言います。しかし、ペンテコステの日、弟子たちは聖霊の働きの別の面を経験しました。使徒2章には「炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」と書いてあります。彼らが経験したのは、力として自分たちの上にある外側の聖霊です。この時から、弟子たちは偉大な力によって福音を宣べ伝え、何千何万という人たちに救いをもたらしています。」このように書いてありました。

前にも申し上げましたが、イエス様を信じるときは、聖霊が内(in)に宿ります。そして、神さまは力を与えるために、聖霊を外側からも与えます。聖霊が上から(upon)臨むわけです。ペンテコステの日には、120人の弟子たちが集まっていました。復活の夜、集まっていた弟子たちは、内側の聖霊を経験をしていました。しかし、ほとんどの弟子たちは、内側の聖霊の経験と、外側の聖霊の経験を同時にしたのです。ペンテコステ以来、内側と外側の経験を同時にできるようになりました。そのことは、コルネリオの家で見られました。ペテロがコルネリオの家で福音を宣べ伝えている間に、聞いていた人たちに聖霊が下りました。彼らはただ、命としての聖霊の内住だけではなく、外側から彼らに下った力としての聖霊を受けたのです。ですから、ペンテコステの日以来、聖霊の働きを内側と外側で同時に経験することが可能になりました。しかし、各時代を通して多くの人たちは救われたときに、内側の命としての聖霊を経験するだけです。そして、しばらくたってから外側の力としての聖霊を経験しています。そればかりか、力としての外側の経験を全くしない人たちもいます。そこには順番があります。イエス様を信じて、聖霊を内に宿す、内側の命の経験をしなければ、外側の力としての聖霊を経験することはできません。こいう話をしていると、イースター(復活)ではなく、ペンテコステ(聖霊降臨)の話をしているのではないかと思われます。とにかく、イエス様は部屋に隠れている弟子たちに、息を吹きかけながら、聖霊の命を内側に与えたのです。今日の私たちも十字架に死なれ、三日目によみがえられたイエス様を救い主として受け入れるなら、神の永遠のいのちをいただくことができます。言い換えるなら、聖霊を内側に宿すことができるのです。

さて、本日のイースターのメッセージから、2つの適用をあげることができます。イエス様は死からよみがえられ、弟子たちの前に現れました。第一に「平安があなたがたにあるように」と言われました。弟子たちは自分たちも捕えられて殺されるのではないかと恐れていました。しかし、死に打ち勝たれたイエス様が目の前に現れてくださいました。弟子たちは、「たとえ死ぬようなことがあったとしても、イエス様のようによみがえることができるんだ」と分かったでしょう。そうしたら、それまでの恐れと不安がいっぺんで吹き飛びました。イエス様はかつて、弟子たちに「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。」(マタイ10:28)と言われました。私たちにとって、死より恐ろしいものはありません。一番いやなのは、死にたくないのに、無理やり殺されることです。世の人たちは力で殺し、言葉で殺し、環境で殺してくるかもしれません。しかし、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。」(マタイ10:28)。彼らが最大限にできることは肉体の殺すことだけです。私たちのたましいを殺すことはできません。たとえ、肉体が殺されたとしても、父なる神さまがイエス様をよみがえらせたように、私たちをもよみがえらせてくださいます。だれでも、よみがえりのイエス様と出会うなら、死の恐れは消え去ります。その代わり、神の平安が私たちの心を支配するでしょう。イエス様のくださる平安はこの世のものとは違います。単なる平安ではなく、死に打ち勝つことのできる平安だからです。第二は「聖霊を受けよ」と言うことです。アダムが罪を犯してから、私たちの霊は休業停止状態でした。使徒パウロは「霊的に死んでいた」と言っています。私たちが肉体よりも先によみがえるべきものは、内なる霊でありました。よみがえられたイエス様は、弟子たちに神のいのちを与える必要がありました。内側に聖霊を受けるなら、霊が生き返り、次には外側から力をも得ることができます。だれでも、よみがえりのイエス様を信じるならば、心の中に聖霊が宿ってくださいます。この聖霊はイエスの御霊とも言われ、イエス様ご自身があなたの中にずっと住まうということです。あなたに神の命を与え、あなたに神の性質を与えてくださいます。イエス様は聖霊によって、あなたと世の終わりまでも、共にいてくださいます。ですから、私たちは死からよみがえられたイエス様を信じる必要があります。そうすれば、霊が生きて、永遠の命が与えられます。

ある人たちは、十字架につけられたままのイエス様を信じています。私たちのために、罪を贖われたイエス様を強調しても強調しすぎることがありません。でも、それは得られても、罪の赦しまでです。しかし、イエス様は死んで三日目によみがえられました。よみがえられたイエス様を信じるとどうなるのでしょう?あなたは新しい生まれ変わりを体験することができます。イエス様と同じ復活の命があなたの中に入るからです。あなたの霊が生まれ変わり、神の前に義と認められます。ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」アーメン。十字架の死によって私たちの罪が赦されました。それは、プラスマイナス・ゼロです。さらにイエス様はよみがえられました。何のためでしょう?それは、私たちが神さまの前に義と認められるためです。言い換えるなら、プラス・プラスです。私たちはよみがえられたイエス様によって、プラス・プラスの中に生かされていることを感謝しましょう。私たちは罪赦されているだけではなく、義とされているのです。新しい命をいただいて、義とされている者らしく生きましょう。


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2014年4月13日 (日)

十字架上のイエス      ヨハネ19:1-7

 今週は「受難週」と言いまして、イエス様が十字架にかかられたことを覚える週です。金曜日は、受難日、イエス様が十字架にかかられた日です。アメリカでは、受難日をGood Friday、聖金曜日と呼ぶようです。そして、来週の日曜日が「イースター、復活祭」です。一般的に、十字架のことを語るとき、「私たちにどんなにすばらしいものか」とメリットについて語ります。しかし、きょうは、イエス様と父なる神さまから見た十字架について、共に考えたいと思います。


1.拒絶されたイエス

 ヨハネ福音書自体が、受難週の一週間の出来事に集中しています。ヨハネ18章では、イエス様が捕えられ、真夜中に裁判を受けたことが記されています。ヨハネ19章では、イエス様がローマに渡され、死刑を受ける場面になっています。当時、ユダヤはローマに支配されており、勝手に、死刑にすることができませんでした。ローマ総督ピラトはイエス様を何とか救いたいと思いました。しかし、人々はイエス様ではなく、バラバを釈放するように要求しました。ヨハネ19:1「そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。」とあります。ユダヤではその人が死なないように、39回でやめていました。しかし、ローマの場合は限界がありませんでした。ムチの先端が3つに分かれ、動物の骨や金属が編み込まれていました。屈強なローマ兵士が交代、交代で、背中や腹に力いっぱいムチを振り下ろしました。刑を受ける者が簡単に死ねるようにという勝手な温情です。その後、イエス様はローマ兵によって辱めを受けました。当時、「王様ごっこ」というローマ兵の楽しみがあったようです。願い出た人は一日だけ王様になれて、その日は何でもかなえられます。しかし、その日の終わり、殺されるという残酷なゲームです。ローマ兵たちは、ユダヤ人を普段から憎んでいました。なぜなら、どの地方よりも、難しい人たちが住んでいたからです。ユダヤ人の王さまなら、なおさら、いじめがいがあります。だれかが、いばらを摘んできて、それを王冠にしました。笏の代わりに葦の棒、マントの代わりに兵隊のマントを用意しました。おそらく、古いマントは、裏側が紫色に変色してちょうど良かったからでしょう。みんなでイエス様を取り囲み「ユダヤ人の王さま。ばんざい」とからかいました。しまいには、葦の棒を取り上げて、額の上のいばらの冠を突っつきました。つばをかける人、平手でたたく人、さんざんなありさまでした。ゲームに飽きてから、ピラトに渡しました。

 ヨハネ19章4節から16節まで、ピラトとユダヤ人たちとの問答が記されています。ピラトは「私はこの人には罪を認めない」と言いました。しかし、ユダヤ人、特に、祭司長や長老たちは気が狂ったように「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。正気の沙汰とは思えません。しまいには、「カイザルの他には、私たちには王はありません」とまで、言いました。普段は、「主なる神こそが王であり、カイザルなどには仕えるものか」とローマを憎んでいました。ところが、イエス様を十字架で殺せるなら、真実や信仰までもドブに捨てて良いと考えていたのです。教会では日曜日、「使徒信条」を唱えるところがあります。使徒信条には、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と書いてあります。これだと、ポンテオ・ピラトが気の毒です。ユダヤ人たちが十字架につけたのです。むしろ、ポンテオ・ピラトは、罪のないイエス様をなんとか救いたいと願っていました。イエス様はイスラエルの民を救うために、来られたのに、逆に殺されてしまいました。ヨハネ1:11 「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」イエス様は選民イスラエルから、捨てられてしまったのです。しかし、イエス様は、これまで何度もたとえ話で、そのことを彼らに教えました。ぶどう園のたとえでは、「しもべたちを袋だたきにし、最後にあと取りの息子を殺した」と言われました。そして、「家を建てる者たちが、見捨てた石が、礎の石になった」(マタイ21:42)と教えました。つまり、神の国がユダヤ人から取り上げられ、異邦人に与えられるということです。

 イエス様は、こういう状態を、どう思われたでしょうか?イエス様はある時から、ご自分のことを預言しておられました。マタイ16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」まさしく、エルサレムでユダヤ人たちから多くの苦しみを受け、殺されようとしていました。私だったら、エルサレムではなく、自分を受け入れてくれる他の国に行きたいです。実は、そういう誘惑がイエス様にも来たことがあります。ヨハネ12章に書いてありますが、幾人かのギリシャ人が「先生に、お目にかかりたい」とピリポとアンデレにお願いしました。きっと、ギリシャにお出でくださるよう、お願いに来たのかもしれません。しかし、イエス様は「人の子が栄光を受けるその時が来ました。一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結びます」とおっしゃいました。つまり、イエス様はユダヤ人たちに捨てられ、エルサレムで死ぬことが分かっていたのです。父なる神さまの計画であり、それ以外の選択肢はないと分かっていたのです。しかし、イエス様は私たちと同じような肉体と心を持っていました。ムチで打たれれば痛いでしょう。また、人々から馬鹿にされたら悔しいでしょう。ましてや、ご自分の民から拒絶されたならばどうでしょうか?悲しみだけではなく、怒りや憤りがあったのではないでしょうか?みなさんの中にも、親から拒絶されたり、友人から裏切られたという経験はないでしょうか?福音書には淡々と書いてありますが、イエス様の肉体とイエス様の魂は、無感覚だったとは思えません。

 イザヤ書53章は「苦難のしもべ」として、イエス様のことを預言している書物として有名です。イザヤ書53:3-4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」イエス様は生身の人間として、辱めや拒絶、ムチの痛みを体験されました。イエス様は私たちの代わりに精神的にも肉体的にも苦しまれました。私たちの救いの背後に、イエス様の痛みと苦しみがあったことを忘れてはいけないと思います。


2.十字架上のイエス

 ヨハネ19章を見ますと、「十字架」ということばが、16回書かれています。私は「そんなに多いのか」とびっくりしました。「十字架」という名詞よりも、「十字架につける」という動詞の方が多く出てきます。ギリシャ語や英語も「十字」を現すことばはありません。むしろ、「木にはりつけにする」「磔刑に処する」という意味があります。ところで、聖書には十字架がどんなに残酷なのかという説明は一切ありません。それは何故でしょう?当時の人たちは「十字架」と聞くだけで、それが何なのか分かっていたからです。キケロという政治家は、「ローマ市民には十字架を触れさせるな!」と言ったそうです。それほど、十字架は醜悪なものでした。死刑の道具なら、他にもあるでしょう。ギロチンとか、絞首刑もあります。しかし、なぜ、十字架なのでしょうか?十字架は苦しみながら、じわじわと死ぬように発明されました。イエス様は二本の釘が両手に打たれ、1本の釘が重ねた足首に打たれました。それだと、3本の釘に全体重がかかり、横隔膜が上に引っ張られます。だから、呼吸するためには、からだを持ち上げなければなりません。そのとき、釘の部分にものすごい痛みが走ります。普通、十字架は腰のところに木片があり、体を支えられるようになっています。ある人は苦しみながら、3日間くらい生きています。カラスがやってきて、目や頭を突っつくでしょう。最後は発狂して死んで行く者もいたそうです。当然、裸にされ、さらし者にされるのですから、人間の尊厳のかけらもありません。しかし、イエス様がこのような目に遭われたのは、何故だったのでしょうか?もっと、楽な死に方もあったはずです。イエス様は、最も残酷で醜悪であった十字架に付けられたのは理由があります。

イエス様は、もともと人間ではなく、神さまであり、神の子でした。神の御座を捨てて、人間になることも大変なことです。パウロはイエス様の十字架のことをこのように記しています。ピリピ2:6-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」この箇所を見ますと、イエス様は受け身的になっていません。「ご自分を無にして、自分を卑しくして、十字架の死にまで従われた」とあるからです。つまり、イエス様は無理やり、嫌々、十字架につけられたのではなく、ご自分から十字架にかかられたという方が妥当であります。このところから、イエス様が死ぬことの価値、あるいは対価の大きさというものを考えることができます。イエス様の死は殉教の死ではありません。歴史上、イエス様よりも残酷で、ひどい死に方をした人がいるでしょう。しかし、「神の子が地上に降りてきて、人間となって、最もひどい死に方をした」となるとどうなるでしょうか?それは、他の人たちの死とは全く違います。もちろん、死の上下とか、死の価値ということを言っているのではありません。別な言い方をすると、「人類を救うためには、神の子が地上に降りてきて、人間となって、最もひどい死に方をしなければならなかった」ということです。最も残酷で醜悪であった十字架がイエス様の死の価値を決めたのです。

この時、父なる神さまはどう思われていたのでしょうか?御子が、ローマ兵によって、ムチを打たれて血だらけになりました。その後、ローマ兵から王様のかっこうをさせられ、馬鹿にされました。ユダヤ人たちが、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫びました。ピラトはイエス様に「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのですか?」と言いました。それに対してイエス様は「もし、それが上から与えられているのでなかったなら、あなたには私に対して何の権威もありません」と答えました。「上から」とは、まさしく父なる神さまからであります。ピラトよりも、父なる神さまが上であり、父なる神さまが、人々が十字架に渡したことを許可されたということです。その後、イエス様は十字架につけられました。最も残酷で醜悪な十字架です。マタイ27:45「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」「全地が暗くなった」というところから、父なる神さまが、目をそむけているような感じがします。また、イエス様が「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、父なる神さまは、耳をふさいで、実際に見捨てたのだと思います。なぜなら、イエス様が全人類の罪を負ったために、御子を裁くしかなかったからです。本当に、御子イエスは、「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。そのとき、神さまの義が満たされたのではないかと思います。御子が罪の罰を受けることによって、人類を救うことができる道が開かれたのです。それにしても、支払われた代価は大きいものでした。ユダヤの祭司長や長老たちが「十字架につけろ」と叫びました。これが、ご自分が選んだ、アブラハムの子孫です。ローマ兵たちがイエス様に数限りないムチを浴びせました。さらには、いばらの冠をかぶせて愚弄しました。十字架を負わされた後、「どくろの地」という場所で、十字架につけられました。父なる神さまは、1つ1つのシーンを上からご覧になられて、胸が引き裂かれる思いだったでしょう。しかし、それらが、イエス様の死の価値を高めたのではないでしょうか?御子イエスが人類の代表になって、そこまで従われた。残酷で醜悪な十字架を忍ばれて、御子が支払った代価はどれほど大きなものだったでしょうか。最後に、全人類の罪を背負い、杯をお飲みになりました。父なる神さまは、「この御子に免じて、全人類の罪に対する怒りを引っ込めよう。これで人類の罪を赦そう」と決意されたのだと思います。


3.完了したイエス

 ヨハネ19:28-30「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」ここに、「完了した」という言葉が、2回書いてあることに驚きました。2つの「完了」は、どういう意味でしょうか?第一番目の「すべてのことが完了したのを知って」というのは、ご自分が地上で成し遂げたかったことが完了したという意味です。英語の聖書はall things were accomplished、「すべてのことが成し遂げられた」と受け身になっています。他の訳ではall things have been finishedと、「すべてのことが終えられた」と、やはり受け身になっています。自分で成し遂げたというよりも、だれかによって成し遂げられたという意味がこめられています。なぜ、受け身なのでしょうか?イエス様がご自分で成し遂げたのではないでしょうか?第二番目の、イエス様の十字架で叫ばれた「完了した」はどうでしょうか?これも、it has been finished「終えられた」という受身形です。ご自分が終えたというよりは、「終えられた」ということです。実は、私はここまで研究したことがありません。しかし、新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、こちらから考える方が妥当です。ギリシャ語ではどちらも、テテレスタイとなっています。やはり、このことばも「完成される」「完全なものにされる」という意味です。しかし、当時、テテレスタイという言葉は、商業用語で「完済した」という意味で使われていました。やはり、これも受身形なので、「完済された、支払われた」というふうになります。

 なぜ、イエス様は受け身で言われたのでしょうか?実は、このようなことを調べたことを少々後悔しました。「なぜ、解けない謎を自分で出したのだろう。そっと、触らないでおいた方が良かったなー」と思いました。しかし、こういうことではないかと思います。確かに、罪の代価を支払ったのはイエス様です。イエス様が命である血を流したことによって、神さまの義が満足されたからです。神さまは私たちが犯した罪については、もう裁きません。なぜなら、御子イエスが十字架で贖ったからです。この一連のことを言うとき、「完了した」「完済した」よりも、受け身で言う方がより、効果的ではないかと思います。なぜなら、聖書は人々に向けて語られ、イエス様も人々に向けて語っておられるからです。つまり、イエス様は十字架の上から私たちに「あなたの罪は完済された。支払われたよ」とおっしゃっているのです。だれによって?もちろん、イエス様によってです。受け身にする方が、よりリアルに聞こえるのではないでしょうか?昔、私が貿易会社に勤めていたころ、クリスチャンの先輩がこのようなたとえ話をしてくれました。鈴木君、僕が君に百科事典をプレゼントすることしたとします。僕が1週間前に、本屋さんに行って代金を支払っておきました。あとは、鈴木君が、その本屋さんに行って、「私が鈴木です。品物を受け取りに来ました」と言えば、百科事典は鈴木君のものになります。でも、「先輩がそんなに気前が良いわけがないだろう。嘘に決まっている」と思って、本屋さんに行かなければどうなるでしょう?鈴木君のものにはならないでしょう。もし、本屋さんに行って中を覗いたらどうでしょうか?あるコーナーに百科事典があり、そこに札が貼ってあります。「売約済、鈴木様」と。正確に言うならば、「完済されたもの、支払われたもの」という受け身になるのではないでしょうか?誰が、支払ったかというと先輩が私のために支払ったのです。そういう時、「支払われている」と受け身で言うでしょう。同じように、イエス様は私たちに対して、「罪の代価は支払われている」とおっしゃっているのではないでしょうか?

 人間の側から見たなら、イエス様はユダヤ人によってローマに引き渡され、十字架にかけられて死んだことになります。ピラトは「ああ、罪のない人が、ユダヤ人から妬みをかって殺されたんだな」と思ったでしょう。多くのユダヤ人も「神を冒瀆したから死刑になったんだ」と思ったでしょう。しかし、神さまの側から見たならばどうでしょう?それは、昔から聖書に預言されていたことであります。アダムの罪によって、罪と死の中に投げ落とされた人類をどうやったら救い出すことができるだろうか?神さまはアブラハムを選び、イスラエルを祭司の国にして、世界を救おうとされました。預言者たちを何人も送りましたが、うまくいきませんでした。最後に御子イエスを送りましたが、逆に殺されてしまいました。しかし、神さまは御子イエスの死を贖いの死に替えてくださったのです。御子は殺されたのではなく、人類の罪を贖うために、十字架の死に渡されたのです。イエス様もそのことをご承知で、地上に人間として来られたのです。イエス様は罪のない生活を送り、神の小羊としてご自身をいけにえとしてささげました。ヘブル書が言うようにご自身の血で、一回で永遠の贖いを成し遂げられました。父なる神さまは、御子イエスの血をご覧になって、満足したのです。「これで、罪ある人間を赦すことができる。御子を信じる者に永遠のいのちを与え、私の御国に住まわせよう」とお決めになったのです。ハレルヤ!もし、イエス様の十字架の死を社会科で習うなら、「ローマに謀反を起こして殺された、ナザレのイエス」です。教会では「私たちの罪のために十字架にかかられ、身代わりに死なれたイエスさま。ありがとうございます」と言うでしょう。しかし、イエス様の立場から、そして神さまの立場から十字架について考えたことがあるでしょうか?イエス様はご自分の民を救いに来たのに、拒絶され、十字架に渡されました。ユダヤ人もローマ兵もさんざん馬鹿にしました。肉体を持ったイエス様はいばらの冠の棘とローマ兵のムチ打ちは、全身に激痛が走ったでしょう。なぜ、人類を救いに来たのに、最も残酷で醜悪であった十字架に付けられなければならないのか?「もう、天国に帰りたい」と思ったかもしれません。父なる神さま、御子がさんざんな目に遭い、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ時、気が狂わんばかりだったでしょう。でも、そのことによって、父なる神さまは人類の罪をもう責めないと誓ったのです。なぜなら、御子イエスが全人類の罪を負い、代わりに裁きを受けてくれたからです。イエス様ご自身も、十字架の上で「これで成し遂げられた。罪の代価が支払われた」と叫ばれました。ハレルヤ!私たちは今、恵みの時代に生かされています。なぜなら、すべての罪が支払われたことを「ありがとうございます」と受け取れば良いからです。どうぞ、イエス様と父なる神さまが成し遂げられた、救いを受け取ってください。


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