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2014年2月23日 (日)

アサ王の最初と最後     Ⅱ歴代誌14:1-6

 ソロモンの死後、イスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂しました。北イスラエルの王はむちゃくちゃ悪いので説教として語ることができません。しかし、南ユダにはダビデほどではありせんが、善良な王さまがいました。きょうは、南ユダ王国の三代目、アサ王から学びたいと思います。アサ王の前半はとても良かったのですが、最後は良くありませんでした。私たちはそのような人生を歩んではいけません。反面教師的ではありますが、きょうはアサ王から学びたいと思います。


1.アサ王の最初

 アサ王は41年間、南ユダ王国の王でした。彼の最初の人生はとても良いものでした。アサ王のことは1つ前の書物、Ⅰ列王記にも書いてあります。Ⅰ列王記15:11「アサは父ダビデのように、主の目にかなうことを行った」と書いてあります。南ユダにおいては、ダビデが正しい王さまとして模範でした。彼はどんな良いことをしたのでしょうか?第一にアサ王は偶像を壊して、神殿を清めました。Ⅱ歴代誌14:2-3「アサは、彼の神、【主】がよいと見られること、御目にかなうことを行い、異教の祭壇と高き所を取り除き、柱を砕き、アシェラ像を打ちこわした。ソロモン王は多数の外国の女性をめとりました。そして、彼女らが拝んでいた神々をイスラエルに導入しました。その後、イスラエルは、北と南に分裂しました。北は別の神殿を建てて、金の子牛を拝みました。南ユダにおいてもヤーウェの神の他に、異教の祭壇がいくつもありました。そこには、神殿男娼がいて、不道徳なことをしていたようです。アサ王は異教の祭壇を壊し、神殿男娼を国から追放しました。また、先祖たちが造った偶像をことごとく取り除きました。ここにアシェラ像とありますが、これは木の柱で、異教の神のシンボルでした。ある研究家は、日本語の「柱」はアシェラが語源ではないかと言っています。15:16「アサ王の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼は王母の位から彼女を退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、粉々に砕いて、キデロン川で焼いた」と書いてあります。このように、王母まで追放したのですから、アサ王の宗教改革は徹底したものでした。

 第二にアサ王は、律法と命令を行わせました。Ⅱ歴代誌14:4-5「それから、ユダに命じて、彼らの父祖の神、【主】を求めさせ、その律法と命令を行わせた。さらに、彼はユダのすべての町々から高き所と香の台を取り除いた。こうして、王国は彼の前に平安を保った。」アサ王は、律法と命令を書いた巻物を取り出して、それをちゃんと読ませ、実行させました。こういうことが、イスラエルの歴史において、何度か繰り返されました。イエス様も宮をきよめました。両替の箱を倒し、なわの鞭で鳩や牛を追い出しました。そして、言い伝えを取り除き、聖書を復活させました。16世紀、ルターによる宗教改革がありましたが。そのときもローマ・カトリックが行っていた儀式や異教的なものを排除しました。それまで、人々は、聖書をミサの時しか聞くことができませんでした。しかし、宗教改革者たちは、ラテン語の聖書を自国語に翻訳し、だれでも聖書が読めるようにしました。アサの宗教改革の結果、ユダ王国はしばらくの間、平和と繁栄を享受することができました。

 第三にアサ王は国の防備を固めました。Ⅱ歴代誌14:6-7「彼はユダに防備の町々を築いた。当時数年の間、その地は平安を保ち、【主】が彼に安息を与えられたので、彼に戦いをいどむ者はなかったからである。彼はユダに向かってこう言った。『さあ、これらの町々を建てようではないか。そして、その回りに城壁とやぐらと門とかんぬきを設けよう。この地はなおも私たちの前にある。私たちが私たちの神、【主】を求めたからである。私たちが求めたところ、神は、周囲の者から守って私たちに安息を下さった。』こうして、彼らは建設し、繁栄した。」アサ王は防備の町々を築きました。本当は、主ご自身が安息を与えたので、アサ王に戦いをいどむ者がなかったのです。アサ王は城壁とやぐらと門とかんぬきを設けました。しかし、彼らが主を求めたので、神さまが周囲の者から守って彼らに安息をくださったのです。つまり、防備の町や城壁の建設も大切ですが、主を求めることが大事だということです。神さまと民たちが正しい関係にあるならば、神さまご自身がその国を守ってくださるのです。これは日本においてもそうであります。敗戦後、アメリカと同盟を結んで、ここまできました。沖縄をはじめ、いろんな犠牲を強いられています。しかし、本当は、ユダ王国のように、まことの神さまを求め、正しい関係を持つならば、神さまご自身が守ってくださるのです。「防備がいらない」と言っているのではありません。神さまが周りの国に対して、侵略をしないように働いてくださるのです。アサ王は主を求めたので、ユダの国は、20年間にわたり、安息と繁栄を享受することができました。

 神さまはアサ王に対して、南ユダを治める王権を与えました。アサ王はそれを正しく用いて、国中の偶像を壊し、律法と命令を行わせ、そして、国の防備を固めました。周囲の国が南ユダを侵略しないように守ってくださいました。その結果、南ユダは平和と繁栄を享受することができました。ですから、一国の国王、大統領、あるいは総理大臣は、とても責任があるということです。一国の大統領や総理大臣が偶像を拝んだり、不道徳なことをして、「それは個人の問題です」とは言えません。彼らは民の代表として、神さまと向き合っているからです。少し前、フランスの大統領のスキャンダルが報道されていました。しかし、フランスやイタリヤでは権力者の私生活について追及しないという伝統があるのですが、どうなんでしょうか。聖書的に見るならば、それは堕落であります。国王や大統領は国民を代表しているので、彼らの罪が、国民にも影響を及ぼすのは必至でありましょう。神さまがその人に権威や権力を与えているのは、国を正しく納めるためであります。好き勝手を行って良いとか、政党の願望を成し遂げるためではありません。そのためには、まことの神を恐れ、その指針である神のみことば聖書に堅く立つ必要があると信じます。


2.アサ王の最後

 アサ王は、南ユダを41年間治めました。前半の20年間は比較的良好でした。彼はまさしく、「父ダビデのように、主の目にかなうことを行った」ので、神さまが祝福してくださいました。ところが、彼の後半の生涯はどうだったでしょうか?Ⅱ歴代誌16:1-3アサの治世の第三十六年に、イスラエルの王バシャはユダに上って来て、ユダの王アサのもとにだれも出入りできないようにするためにラマを築いた。アサは【主】の宮と王宮との宝物倉から銀と金を取り出し、ダマスコに住むアラムの王ベン・ハダデのもとに送り届けて言った。「私の父とあなたの父上の間にあったように、私とあなたの間に同盟を結びましょう。ご覧ください。私はあなたに銀と金を送りました。どうか、イスラエルの王バシャとの同盟を破棄し、彼が私のもとから離れ去るようにしてください。」アサ王の治世36年目に外交問題が起こりました。北イスラエルのバシャ王が南ユダに攻めてきました。しかも、北イスラエルのバシャ王はアラム王ベン・ハダデと同盟関係にありました。二対一ですから、勝ち目がないように思えます。アサ王はどうしたでしょう?アラム王ベン・ハダデを買収したのです。主の宮と王宮との宝物倉から銀と金を取り出して、それを差し上げました。そして、「イスラエルの王バシャとの同盟を破棄して、彼らがこちらに攻めてこないように軍を差し向けてください」とお願いしました。アラム王ベン・ハダデは「わかった」と言って、自分の配下の将校たちを北イスラエルの町々に差し向け、それを壊しました。北イスラエルは、「戦争どころではない」と要害を築くのをやめて、自分たちの町に帰りました。その後、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来てこう言いました。Ⅱ歴代誌16:7-9「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、【主】に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手からのがれ出たのです。…【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」アサ王はこの予見者に、怒りを発し、足かせをかけました。彼は自分の失敗を認めませんでした。

 また、アサ王はその治世の39年目に、両足とも病気にかかりました。Ⅱ歴代誌16:12-13「彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は【主】を求めることをしないで、逆に医者を求めた。アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。」アサ王の心は完全に頑なになっていました。医者に頼ることは悪いことではありません。しかし、病が重かったにもかかわらず、神さまに癒しを求めることをしませんでした。私たちは「ああ、神さまに祈ったら良いのになー」と思うでしょう。旧約時代における、預言者は王様に対して、神のみこころを示したり、矯正することができました。王様は国を治めますが、預言者は「神さまがどう思っておられるか」提示しました。どちらも等しい権力がありました。その当時、エリヤとかエリシャが北イスラエルで活躍していました。病気になると、預言者が神さまに「これはどういう病気なのか、癒されるのか」求めてくれます。ところが、アサ王は自分に神さまのみこころを示してくれた予見者(預言者)に怒りを燃やし、足かせをはめました。さらには「民のうちのある者を踏みにじりました」。つまり、アサ王は神さまに求めてくれる預言者や正しい人を退けていたのです。当時の医者は現在の医者と違って、まじないや占いで癒す人たちがほとんどでした。アサ王は意地を張って、主のもとにはいかず、そういう医者を求めたのです。重い病の病名はわかりませんが、アサ王は2年後に死んでしまいました。彼が悔い改めて、主を求めていたなら、癒されていたかもしれません。彼はどの王様よりも立派な葬式をしてもらいました。

 だれでも失敗はあるものです。そのとき、悔改めて正しい道を歩めば良いのです。あのダビデもそうでありました。「私は主に対して罪を犯しました」と告白しました。すると、主が直ちに彼の罪を赦してくださいました。アサ王のように、権威とか権力が与えられると、悔改められないかもしれません。アサ王はこれまで大変、良いことを行ってきました。国中の偶像を壊し、律法と命令を民に守らせ、町も建てました。20年以上うまくやってきたのです。慢心が原因で、主を頼らないで、アラムの王様を頼りました。それも、ユダ王国を守るためでした。「結果的に良いじゃないか!」と思うかもしれません。「これだけやってきたのに、どうして足の病になるのですか?」これがアサ王の気持ちだったかもしれません。「意地を張る」というと聞こえが良いかもしれません。でも、それは主の前に心を頑なにすることであり、罪であります。罪を悔い改められるのは幸いです。それができないくらい、心が頑なになってしまうなら悲しいことです。私たちは最後まで主の道を歩み、人生を全うしたいものです。


3.最後まで走りとおす

 使徒パウロは最後まで主の道を走りとおした人です。ピリピ3:13-14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」パウロは「うしろのものを忘れる」と言いました。うしろのものと言うのは、悪いものもありますし、良いものもあります。つまり、失敗や成功も忘れて、過去には生きないということです。アサ王はそれまで大変、良いことを行ってきました。国中の偶像を壊し、律法と命令を民に守らせ、町も建てました。20年以上うまくやってきました。しかし、そのことで慢心して、主を頼らないで、自分の知恵を頼りました。また、予見者ハナニが注意しても、心を頑なしして悔い改めませんでした。アサ王はハナニに足かせを付けて、牢獄に閉じ込めておきました。予見者ハナニは私たちの良心あるいは、御霊の声と言えるでしょう。人間、年をとればとるほど、「昔は良かった」と過去のことを懐かしみます。そればかりか、「今はダメだとか」言い出します。そうなると、将来に対する希望やビジョンがなくなり、過去に生きる人となります。たまには過去を見るときがあるでしょう。過去の失敗やトラウマがよぎる時もあります。また、過去の栄光を喜ぶことがあるでしょう。でも、思い出にひたっていると、前が見えなくなります。車を運転する人はわかりますが、車を走らせる時は、広い全面ガラスの風景を見ます。しかし、全面ガラスの上の方に、小さいバック・ミラーがあります。それは、後ろを見るものです。バックしたり、後続車を知るために小さいバック・ミラーが必要です。でも、運転中はほとんど、広い全面ガラスの風景を見ます。何故でしょう?小さいミラーに集中していたなら、事故に遭うからです。車の全面ガラスとバック・ミラーの比率はどれくらいでしょうか?私たちの人生もそれと同じであるべきです。悪いことも良いことも、後ろにおいて、私たちは前を見て走る必要があります。あるところに有名な建築ディザイナーがおりました。彼はたくさんの高層ビルやミュージアムをデザインしました。彼が晩年に達したとき、ジャーナリストたちがインタビューに来て、こう質問しました。「これまでの数ある作品の中で、最も良かったものはどれですか?」彼は目を大きく開けて、「次の作品を期待してください」と答えたそうです。

 第二にパウロは目標を目ざして一心に走りました。パウロは「ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている」と言っています。目標は神の栄冠であります。おそらく、パウロは当時のオリンピックをたとえているのではないかと思います。当時の花形は、陸上のマラソンだったと思います。目標はゴールであり、月桂樹でできた栄冠でした。私たちにはそれぞれ、走るべきレースがあります。人によってそれぞれ目標が違うでしょう。しかし、共通しているのは、自分のレースを走りつくして、神さまの栄冠をいただくことであります。そのためには、「神さまが自分に与えた人生の目標は何なのかな?」と知ることであります。ある人は、3年ごとに仕事を変えています。転職が悪いとは言いません。ただ、そこに一貫した目標があるかどうかです。クリスチャンになると、「神さまのみこころ」とか「神さまの導き」という言葉を使います。しかし、ある人たちは、そういう言葉を頻繁に使いながら、道が定まっていない場合があります。客観的に見て、それが神さまの目標だとは言えないように思います。なぜなら、神さまは一貫したお方だからです。神さまは永遠の視点から、私たちの人生を見ており、そして永遠の目標へと導いておられます。もし、行き当たりばったりの人生だとしたら、「神さまの導き」とは言えないのではないでしょうか?私は神さまがその人に与えた聖なる運命(天命)が必ずあると信じます。それを発見して、自分に与えられた人生を走るのです。ある人はお母さんの人生を走っている人がいます。またある人はお父さんの人生を走っている人がいます。お母さんやお父さんに認められることは悪いことではありません。それだからと言って、他人の人生を走って良いとは限りません。神さまが自分に与えた聖なる運命(天命)があるからです。

 パウロは死ぬ前にこのように言っています。Ⅱテモテ4:7-8「 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」パウロは「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」とはっきりと言うことができました。しかも、「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と断言しました。パウロは最後まで走りとおしたすばらしい人の見本であります。最後まで走りとおすことを英語では、finish wellと言います。まことに残念ですが、アサ王はfinish wellできなかった人の見本です。最初はとても良い人生でした。しかし、最後は心が頑なになり、神さまに癒しを求めませんでした。聖書の人物においても、また牧師や伝道者でも、finish wellできた人は、全体の3割だと言われています。私は子どもの頃、親や兄弟から「意地っ張り」と良く言われました。なぜ、意地を張ったのか?それは、誰も自分を分かってくれなかったからです。せっかくの好意も「もういらない」とか「もういい」とか言って、断りました。「意地」が私のエネルギーだったのかもしれません。では、その「意地」がどのように変えられたのでしょうか?会社に入って、人の親切を素直に受けてから、だんだんと変えられました。世の中には自分のことを分かってくれる人が何人かいるものです。そういう人たちは自分の宝物です。生涯において、友とか恩人を持っているというのは幸いです。でも、人間には限界があります。やはり、主イエス・キリストに出会って、父なる神さまとつながる必要があります。そうしないと、本当のエネルギーも本当の目標もないからです。使徒パウロが「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠」と言ったのはそのためです。キリストなしの目標は、自己満足に終わる可能性があるからです。自分のレースを走ると言いながらも、「神さまのものではなかった!」という場合もあります。

 クリスチャンであるならば、信仰の道を最後まで走りとおすという課題があります。パウロは「私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」と言っています。自分の人生の終わり、あるいは、世の終わりイエス様が来られるまで、信仰の道を走りとおすということです。黙示録2:10「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とあります。私の家内は、洗礼を受けたとき本をプレゼントされたそうです。表紙を開いたら、「死に至るまで忠実であれ。大川従道」と書いてあったそうです。おそらく、そのときに「ああ、信仰はそうあるべきなんだ」と受け止めたのでしょう。はっきりとしたデーターはありませんが、洗礼を受けても、半数以上の人たちが教会を去って行きます。彼らがみな信仰を捨てたということではないと思います。母教会でなくても、どこかの教会につながっていれば良いでしょう。でも、主イエス・キリストを否むならば、どんなすばらしい生き方をしても、走り終えたとは言えないでしょう。私たちは主の道をひたすら歩み、いのちの冠をいただくべきであります。人によって成し遂げることの大小は異なるでしょう。大成して名を上げる人もいるかもしれません。しかし、信仰の道を忠実に歩むことが、最も基本的で重要なことではないでしょうか?死に至るまで忠実でありたいと思います。


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2014年2月16日 (日)

~恐れてはいけません~  亀有教会副牧師 毛利佐保

<マタイの福音書10章24節~33節>


10:24

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

10:25

弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

10:26

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

10:27

わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

10:28

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

10:29

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

10:30

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

10:31

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

10:32

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

10:33

しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。


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「希望」という言葉は、旧約聖書の原語ヘブル語では<へ>hwqt(ティクバー)と言います。この言葉の語源は<ヘ>hwq(カバー)で、意味は「待つ」です。動詞の強意形では、「期待する」という意味もあります。

つまり聖書の語る「希望」とは「期待して待つ」ことです。

私たちにとって「希望」とは何でしょうか。

そして私たちはいったい何を期待して待つのでしょうか。


「果報は寝て待て 」ということわざがよく使われますが、広辞苑には「幸福の訪れは人間の力ではどうすることもできないから、焦らずに時機が来るのを待っていればよい。」と書いてあります。しかし、「果報」というのはもともと仏教用語で、「果」は良い結果、「報」は悪い結果という意味で幸福だけを現すのではありません。

つまりこの「果報は寝て待て」とうことばは、「できることをやったなら、あれこれ悩んだり、くよくよ考えたりせず結果がでるのを待ちなさい」という意味になります。

しかし、聖書のいう「希望」「期待して待つ」は、そういう意味ではありません。

「希望」とは、聖書に記されている私たちに対する神様からの約束がひとつひとつ成就していくことを言います。ですから、私たちは神様の約束が叶えられることを期待して待っているのです。それが「希望」です。


ではそれを待っている間、何をしていればよいのでしょうか。何もしないで待っていればよいのでしょうか。

イエス様が、弟子たちに語られたみことばから答えをいただきましょう。


先ほど読んでいただいた聖書の箇所は、イエス様が12弟子を任命したあとに、彼らに任務をお与えになった箇所です。イエス様は12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。(マタイ10:1)そして、イスラエルの家に福音を宣べ伝えるために弟子たちを派遣しました。


その時イエス様は「恐れてはいけません」と3度言われました。(26,28,31節)

その「恐れてはいけません」はここでは鍵言葉となっています。イエス様は私たちが「期待して待つ」あいだ、何をして、どういう心構えで待てば良いのかを教えてくださっています。


◆恐れてはいけません。あなたは何をして待ちますか?

①福音を明るみで言い広めましょう。


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10:24

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

10:25

弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

10:26

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

10:27

わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

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10:24 「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」ということばは、当時のことわざだったようですが、字義通りだと、「弟子やしもべはその師や主人より勝ることはない。」ということになりますが、イエス様はこのことばを使って逆に弟子たちに励ましを与えています。


つまり、「あなたがたは、私ほどは憎まれないし、私ほどは苦しまないでしょう。」と言ってくださっているのです。そのうえで、10:26「だから、彼らを恐れてはいけません。」と言われました。


「彼ら」というのは、イエス様に敵対する祭司、律法学者たちのことです。イエス様は、彼らの迫害を恐れて弟子たちが福音を語らなかったとしても、「おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」と言われました。


つまり隠そうとしても真理は明らかにされます。福音を隠しておくことはできません。ですから、恐れず言い広めなさいと言われたのです。


イエス様は今の私たちにも語っておられます。私たちが主のしもべとして主に従って生きて行こうとする時、

本当にいろんな形で迫害があります。聖書の時代のように石打ちに遭ったりするわけではありませんが、石打ちに近いような失望、落胆に襲われる時があります。

私も伝道活動をしている時に、心ない言葉を浴びせられることがあります。

また、長い間大切にしてきて、心を尽くしてイエス様の福音を伝えてきた神聖な場所を、未信者の人たちの不倫や出会い系の場所にされてしまったこともあります。


そんな時、「何のために、今まで歯を食いしばってやってきたんだろう。」「もう福音は語るまい、どうせ語っても解ってもらえないんだから。」と後ろ向きになってしまいます。


でも、イエス様が受けられた苦難に比べれば、たいしたことはないのです。

真理は必ず明らかにされますし、福音を伝えることは、神様からの良い知らせを伝えることです。

良い知らせを伝えているのですから、良いことをしているのですから、恐れなくていいのです。


「希望」・・・私たちが神様の約束が叶えられることを期待して待っている間、「恐れずに、福音を言い広めていくように」と、イエス様はここで命じておられます。


◆恐れてはいけません。あなたは何をして待ちますか?

②まことに恐れなければならないのは主なる神だということを再認識しましょう。


続けてイエス様はこう言われました。


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10:28

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

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ここでは、恐れ多い神様に私たちの心を向けるようにと、イエス様は語られています。

聖書を読んでいると、新約聖書からは、愛と平和の神様について教えられることが多いのですが、旧約聖書からは、神様の恐ろしさについて教えられることがたくさんあります。


例えば第Ⅱ列王記の2:23,24 には、預言者エリヤの後継者、預言者エリシャの話が書かれています。


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2:23

エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言ったので、

2:24

彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。

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ここを読むと、「え?上って来い、はげ頭と言っただけで殺されてしまうの?神様ひどくない?」とびっくりしてしまいますが、実はこれは、エリシャを任命した神様の権威に対する冒涜となるのです。

この「小さい子ども」というのは、字義通り幼い子どもと捉えるよりも、未熟者の少年、または青年と考えた方が良いようです。


ユダヤ教の理解によると、この箇所は、幼い子どもがただ思ったことを遠慮なく言ったのではなく、ある程度知識を備えた青年たちが、髪の毛が豊富だったと言われるエリヤと比較して、後継者エリシャをエリヤに比べて足りない者だと馬鹿にするための比喩として、「はげ頭」と言ったと考えられています。

ですから、神様から任命されたエリシャを冒涜する者に対して、神の怒りが発せられたのです。

箴言にこのようなみことばがあります。


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<箴言1:7>主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

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まさに、主を恐れない人は、愚か者なのです。


同じように、イエス様は地上に平和をもたらすために降りて来てくださった愛なる神様なのですが、やさしいばかりではなく、時にはとても厳しい言葉を発せられ、厳しい態度を取られました。


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10:28

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

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たましいもからだもゲヘナで滅ぼされるなんて、本当に恐ろしいことです。


また、伝道者の書 12:13,14にはこう書かれています。


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結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。

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黙示録には、このわざをさばかれる日、「さばきの日」には、いのちの書が開かれて、そのいのちの書に名がしるされていない者は火の池に投げ込まれると書かれています。(黙示録20:15)


余談ですが、私が通っている大学の旧約学者の先生は、この「いのちの書」についてこう語られていました。


「聖書の中には、『いのちの書に名まえが書き加えられた』という記述は実はひとつもないんですよ。反対に『いのちの書から名まえが消されないように』 と書かれている箇所は何箇所かあります。つまり、いのちの書には、世のはじめから名まえが記されていて、あとは消されていくばっかりなんですよ。だから、使徒の働きを読んで、ここでは3千人も救われた!ハレルヤ!とか言ってる人がいるけど、そんなの笑っちゃうね!!

はっはっは。」


・・・確かに、私も調べてみましたが、詩篇68:28, イザヤ4:3, ピリピ4:3, 黙示録3:5, 13:8, 17:8,などには、「いのちの書から名が消しさって」とか、「いのちの書に名がしるされている通り」とか書かれていて、「新たにいのちの書に名がしるされた」などと書いている箇所はありませんでした。


「いのちの書」のイメージとしては、イエス様を心に信じて告白したら、救われて、いのちの書に名が書き加えられるという感じがするのですが、どうもそうではないようですね。


「希望」・・・私たちが神様の約束が叶えられることを期待して待っている間、この世のものを恐れるのではなく、神様を恐れること、まことに恐れなければならないのは主なる神だということを再認識するようにと、イエス様は教えてくださっています。



◆恐れてはいけません。あなたは何をして待ちますか?

③神が私たちを覚えて守ってくださることを確信しましょう。


とはいえ、イエス様はやはり愛なる神様です。私たちを覚えて守ってくださいます。


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10:29

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

10:30

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

10:31

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

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ハイデルベルグ信仰問答は、1562年、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ3世が、領民の教育のために命じて書かせた信仰問答です。その冒頭の問い1と答えには、この信仰問答の核となることが書かれています。


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<ハイデルベルグ信仰問答>

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 



わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。

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ここに、「天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。」と書かれています。父なる神様はこれほどの権威を持っておられるのです。


そして、イエス様は、私を守ってくださり、実に万事が私の益となるように働いてくださいます。そうしてまた、御自身の聖霊によって私に永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。


ドイツ語で書かれているこの信仰問答ですが、「慰め」と訳されているところを、「拠り所」と訳している神学者もいます。


「生きるにも死ぬにも、私のただ一つの慰め、あるいは拠り所は、真実な救い主イエス・キリストにある」

と信仰問答は答えています。


私たちはイエス様に全信頼を置いて生きて行くのです。


イエス様が32,33節で語られているように、イエス様を人の前で認める者はみな、イエス様も、天におられる父なる神様の前でその人を認めてくださり、イエス様を知らないと言う人は、イエス様も天におられる父なる神様の前で、そんな者は知らないと言います。

さばきの日にイエス様から、「そんな者は知らない」と言われたら大変です!

そんなことがないようにイエス様の教えを忠実に守っていきましょう。


恐れずに、

①福音を明るみで言い広めましょう。

②まことに恐れなければならないのは主なる神だということを再認識しましょう。

③神が私たちを覚えて守ってくださることを確信しましょう。


私たちにとって「希望」とは、聖書に記されている神様からの約束の成就です。

ここでは、イエス様は私たちを守ってくださると約束してくださっています。


聖書には7千もの神様からの約束が記されていると言われています。

それらは私たちの未来を預言している壮大な約束から、日常の生活に関わる身近な約束まで多岐にわたっています。神様は真実な方なので、そのひとつひとつを必ず成就してくださいます。


「希望」とは、はかない夢のようなものではなく、現実に私たちに用意されている祝福なのです。


聖書をよく読み、聖書に書かれている主の約束について確認し、期待して待ち望みましょう。


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2014年2月 9日 (日)

南北の王       Ⅰ列王記12:1-7

 主はソロモンに対して「私が命じた契約とおきてを守らなかったので、王国を引き裂いて、家来に与える」と言われました。ソロモンの後、息子のレハブアムが王になりました。ところが、彼は長老たちの助言を退けたので北の部族が離れていきました。一方、家来であったヤロブアムがソロモンに反逆し、エジプトに逃れていました。ソロモンの死後、北の部族が彼を呼び戻し、イスラエルの王にしました。つまり、南ユダの王はレハブアム、北イスラエルの王はヤロブアムになりました。旧約聖書の歴史において重要なので、二人の人物を取り上げてみました。


1.レハブアム

 ソロモンの死後、ソロモンの子レハブアムが王になりました。イスラエル、つまり北部族がレハブアムに言いました。Ⅰ列王記12:4「あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」レハブアムは「3日間、待つように」と申し送りました。初めに、ソロモンに仕えていた長老たちに、どう返事をしたら良いか相談しました。彼らは「きょう、あなたが、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答え、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう」と助言しました。確かにソロモンは神殿と宮殿を建てるためにイスラエル人にも強制労働をさせました。また、国を維持するために重い税金を課してきました。ユダ部族だけが優遇され、北部族に不満がたまっていたことでしょう。次に、レハブアムは自分とともに育った若者たちに、どう返事をしたら良いか聞きました。彼らはこのように答えたら良いと言いました。「私の小指は父の腰よりも太い。私の父はおまえたちに重いくびきを負わせたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。私の父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう」。三日後、レハブアムと北部族が王のもとにやってきました。王は荒々しく民に答え、長老たちが与えた助言を退け、若者たちの助言どおり答えました。そのため北の10部族は「ダビデには、われわれへのどんな割り当て地があろう」と自分たちの天幕に帰って行きました。そして、ヤロブアムを北イスラエルの王にしました。レハブアムはユダの全家とベニヤミン部族をもって、戦おうとしましたが、預言者からストップがかかりました。なぜなら、主がそのようにさせたからです。

 私たちはレハブアムからどのようなことを教訓として学ぶべきでしょうか?ソロモンの治世の終わり、イスラエルは偶像礼拝と物質主義に陥りました。ソロモンは富国強兵策を進めるために民を奴隷のように扱っていました。レハブアムも父ソロモンの政治哲学を受け継ぎ「民は王のために存在する」という立場に立っていました。長老たちの「過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう」という提案は、実に理にかなうものでした。しかし、レハブアムは「王は民のために存在する」ということを悟ることができませんでした。彼は長老たちの助言を退け、自分に仕えている若者たちに相談して、その意見に従いました。「私の父はおまえたちのくびきを重くしたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう。」と言いました。このことが北部族を怒らせ、ついに南北王朝分裂へと突進していくのです。レハブアムは良き助言を無視した人です。昨年、猪瀬都知事が5000万円問題で、辞任に追い込まれました。多くの人たちが、「真相はどうなのか」と経過を見守っていたことでしょう。あるジャーナリストがこのように言っていました。「彼は虚像で生きた、裸の王様であった。彼は前都知事に仕えていたブレーンを全部辞めさせ、若い人たちと総入れ替えした。彼は傲慢になり、だれの言うこともきかなかった。本来なら、いろんな逃げ道があるのに、自らが弁明し墓穴を掘った。今回の辞任に至る騒動は、彼が『出世』をする中で作り出した自らの虚像によって力を過信し、傲慢となり、高揚感の中で、現実が見えなくなったことが一因としか思えない。誰もがたどりかねない過ちである。」講壇から政治のことを語るのは、あまり良くないことを知っています。しかし、「レハブアムと似ているところがあるなー」と思いました。正月番組で天才棋士、米長邦夫氏のことが語られていました。「今でしょう」の林先生が教えていました。3人の兄は東京大学に進みました。米長氏は「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と言いました。彼が7段の人から「私の指し方を学べ」と言われました。しかし、「癖がつくからイヤだ」と断わりました。なぜなら、「その人から学んでも7段止まりだろう」と思ったからです。彼は40歳前半で4冠を取り、「世界一将棋の強い男」と称されました。ところが、それから突然、全く勝てなくなりました。そして、4冠すべてをなくしてしまいました。彼はそれまで、「独学」をモットーとしていました。悩んだあげく、彼は「独学」を返上して、だれからも学ぶことにしました。自分より年が若い人であっても「先生」と呼んで、将棋を1から学びなおしました。そのことが効し、49歳11か月で悲願の名人位を獲得しました。50歳での在位(「50歳名人」)は、史上最年長記録であるということです。『聖書の人々』で中川健一先生は、「良き助言を受け入れる人は、賢い人です。リーダーになる資格は、他人の助言に耳を傾けられることです」と述べています。

 レハブアムは、最初の3年間は忠実に歩んだようです。しかし、王政が確立し、強くなるに従って主から離れていきました。Ⅱ歴代誌12:1「レハブアムの王位が確立し、彼が強くなるに及んで、彼は【主】の律法を捨て去った。そして、全イスラエルが彼にならった」とあります。石の柱、アシェラ像、神殿男娼などが国中にはびこり、異邦の忌みきらうべきならわしが民の間で行われました。レハブアムは、主要な町々の防備を固め、外敵に備えようとしました。しかし、神さまに見捨てられた国を武力で守ることはできません。ついに、エジプトの王、シシャクがエルサレムに攻め上ってきました。そして、主の宮の財宝、王宮の財宝を奪い取り、何もかも奪って、ソロモンが作った金の盾をも奪い取りました。Ⅱ歴代誌12:10-11「それで、レハブアム王は、その代わりに青銅の盾を作り、これを王宮の門を守る近衛兵の隊長の手に託した。王が【主】の宮に入るたびごとに、近衛兵が来て、これを運んで行き、また、これを近衛兵の控え室に運び帰った。」ソロモンが蓄えた財宝が一瞬にして消え去りました。何ということでしょう。レハブアムの失敗のゆえに、金の盾が青銅の盾に置き変わってしまいました。金の盾に比べたら、青銅の盾はレプリカみたいなものです。最初は金のように光っていますが、少し経つと緑色に錆びてしまいます。金の盾から青銅の盾に取り変えたことは、レハブアムの人生を物語っています。彼は父ソロモンからすばらしいものを受け継ぎました。しかり、彼の治世のときイスラエルが分裂し、周りの国々から領土を侵略されていきました。レハブアムは三年の間、ダビデとソロモンの道に歩みました。しかし、王位が確立し、彼が強くなるに及んで、主の律法を捨て去りました。そして、全イスラエルが彼にならいました。なぜ、エジプトの王シシャクが攻め上ってきたのでしょう?Ⅱ歴代誌12:2「彼らが主に対して不信の罪を犯したからである」と書いてあります。旧約聖書においては、律法こそは最も大事な戒めであり、命令でした。特に偶像礼拝は最も忌み嫌われる背信の行為でした。だから、神の守りがなくなり、外敵に攻め込まれ、王宮の財宝や金の盾が奪い去られたのです。

 新約の私たちはどのような教訓を彼から学ぶできでしょう?レハブアム、都知事、天才棋士に共通していることは、「慢心」であります。慢心とは、おごり高ぶること、自慢する気持ちであります。だれでも事業がうまくいき、軌道に乗ると慢心してしまいます。「ああ、私も大したもんだ」と自分を誇ってしまいます。新約的に偶像崇拝とは、神さま以外のものを頼るということです。築いた富や栄光が神さまになってしまいます。まさしく、ラオデキアの教会がそうでした。黙示録3:17「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」と書いてあります。ラオデキアは金融業、目薬、毛織物で有名でした。物質的繁栄に満足して、イエス様を外に締め出していました。イエス様が「私は戸の外に立って叩く」と言っているのはそのためです。あの呼びかけは、未信者ではなく、イエス様を締め出しているクリスチャンへのことばです。成功し繁栄することは悪いことではありません。しかし、主に栄光を帰することを忘れ、自分を誇るようになる危険性もあるということです。ですから、そうならないために、身近な人の忠告や助言をありがたく受け止めたいと思います。何よりもイエス様を締め出さず、主の御声に聞きしたがうことであります。耳にタコができると良く言います。タコは皮が厚くなり、柔軟性がなくなるということです。耳の鼓膜が固くなるなら、音が聞こえなくなります。神さまに対しても人々に対しても、柔らかい心を持っていたいと思います。


2.ヤロブアム

 ソロモンが主の契約とおきてを守らなかったので、主は「王国を引き裂いて、家来に渡す」と言われました。その家来というのが、ヤロブアムでした。ヤロブアムは手腕家だったので、ソロモンはヨセフの家のすべての役務の管理を任せました。あるとき、預言者アヒヤが彼と道で出会いました。アヒヤは着ていた外套をつかみ、それを12切れに引き裂き、ヤロブアムに言いました。Ⅰ列王記11:31「十切れを取りなさい。イスラエルの神、【主】は、こう仰せられます。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。しかし、彼には一つの部族だけが残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ町、エルサレムに免じてのことである。』というのは、彼がわたしを捨て、シドン人の神アシュタロテや、モアブの神ケモシュや、アモン人の神ミルコムを拝み、彼の父ダビデのようには、彼は、わたしの見る目にかなうことを行わず、わたしのおきてと定めを守らず、わたしの道を歩まなかったからである。」ですから、王国が分裂し、10の部族がヤロブアムにつくことは主のみこころだったのです。主はソロモンと同じようなことをヤロブアムにも言いました。Ⅰ列王記11:38「もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。」すばらしい約束ではないでしょうか?主は、北イスラエルをも祝福しようと願っておられたのです。レハブアムは長老たちの助言を退け、「くびきをもっと重くしよう」と言いました。すると預言のとおり、北の部族たちは怒り、ヤロブアムを自分たちの王様にしました。ヤロブアムは賜物が豊かで、ソロモンからのその働きを認められるほどでした。さらに主は、預言者を通して、北の10部族を与える約束されました。主は「私の命じるすべてのことに聞き従い、私の道に歩み、ダビデのような政治を行うなら、北王国をいつまでも祝福しよう」と仰せられました。

 しかし、どうでしょう?ヤロブアムは神さまの知恵よりも、自分の知恵に頼りました。Ⅰ列王記12:26-29「ヤロブアムは心に思った。『今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある【主】の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。』ヤロブアムは、人々がエルサレムの神殿に行かないように、自分たちのところに神殿を建てることにしました。しかも、目に見えない神さまではなく、金の子牛を2つ作りました。1つは南のベテルに、もう1つは北のダンに置きました。金の子牛は、アロンが民たちにせがまれて作った忌むべき偶像です。あのとき人々は「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言いました。あれから、1300年もたっていたのに、金の子牛のことを覚えていたとは、一体どういうことでしょう。これまで、数多くの主のみわざを見てきたのに、金の子牛を作るなんてありえないことです。さらに、ヤロブアムは自分で勝手に考え出した日を祭りの日と定め、レビ人ではない一般の市民から祭司を任命しました。神さまが、ソロモンの偶像礼拝の故に、王国を裁かれたというのに、再び、ヤロブアムは金の子牛の上に王国を建てようとしたのです。

 その結果どうなったでしょう?ヤロブアムの子アビヤ、後継者となる子どもが病気になりました。ヤロブアムは妻に変装して、シロにいる預言者アヒヤのところに行ってくれと願いました。アヒヤは、かつて「王国を割いて、自分に十部族を与える」と預言してくれた預言者です。子どもがどうなるか教えてもらうために、妻を変装させて送りました。アヒヤは年をとって目がこわばり、見ることができませんでした。しかし、主は、彼女が来る前、アヒヤに「これこれのことを彼女に告げなさい」と言われました。アヒヤは彼女の足跡を聞いて「お入りなさい。ヤロブアムの奥さん」と言って、主から言われたきびしいことばを伝えました。Ⅰ列王記14:7-11「帰って行ってヤロブアムに言いなさい。イスラエルの神、【主】は、こう仰せられます。『わたしは民の中からあなたを高くあげ、わたしの民イスラエルを治める君主とし、ダビデの家から王国を引き裂いてあなたに与えた。あなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデは、わたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの見る目にかなったことだけを行った。ところが、あなたはこれまでのだれよりも悪いことをし、行って、自分のためにほかの神々と、鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。だから、見よ、わたしはヤロブアムの家にわざわいをもたらす。ヤロブアムに属する小わっぱから奴隷や自由の者に至るまで、イスラエルにおいて断ち滅ぼし、糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家のあとを除き去る。』」ヤロブアムの妻が立ち去って、自分の家の敷居をまたいだときに、その子どもが死にました。まさしく、ヤロブアムは自分が蒔いた種の刈り取りをすることになりました。しかし、それだけではありません。彼以降、イスラエルには18人の王が立ちますが、だれ一人として、この偶像礼拝からまぬがれた者がいませんでした。ヤロブアムの罪の道が、それ以降のイスラエル史の路線を決定づけたのです。

 私たちは「ヤロブアムは、なんと愚かなんだろう!」と思います。また、一国の王が偶像礼拝を持ち込むとそれが何代も続くことになります。徳川家康は自分を神格化するために、東照宮を作りました。私は日光の東照宮しか知りませんが、全国に家康を祀っている神社があることに驚きました。ある資料によると、北海道から長崎まで550社もあります。徳川家康が鎖国と同時にキリスト教を邪宗門としました。キリシタンを根絶やしにするため、寺受制度によって、すべての人がお寺の檀家にしました。五人組、仏壇や位牌、さまざまな法事で人々を縛りました。260年に渡る徳川の支配が日本人の精神構造に深く影響を与えたことを否むことができません。「おかみには逆らえない。長いものにはまかれろ」という考えもそうです。しかし、宗教的には先祖崇拝を根強く残すことになりました。日本においては、「先祖崇拝」を抜きにしては、どんな宗教も存在することができません。しかし、キリスト教はすべての偶像礼拝を排除しますので、どうしても対立せざるをえません。そういう中にあって、福音宣教において戦いが起こるのは必然的であります。日本の偶像礼拝と戦うことも重要ですが、もう1つは、家長がしっかりとした信仰を持つということも重要です。十戒には「偶像を拝む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」とあります。父もしくは母が、しっかりとキリスト教信仰を掲げるならば、それが子ども、孫にまで及ぶということです。ヨシュアは民たちに向かって、「あなたがたは、どんな神々に仕えようとも私と私の家とは、主に仕える」と言いました。これは、信仰であります。私たちも、ヨシュアのように信仰をもって告白するならば、家全体もそうなるということです。私も牧師として、自分の子どもたち全員が聖日礼拝を喜んで守っていないことを知っています。私の願いは子どもたちは「神さまを信じているだけではなく、イエス様を愛する人になるということです。」私も、家長として「私と私の家とは、主に仕える」と信仰をもって告白します。必ず、神さまはこの祈りに答えてくださると信じます。日本は偶像礼拝に満ちている国です。ある伝道者は偶像礼拝だけでではなく、性的罪と高慢を付け加えました。日本がこのまま進むなら、神さまは日本をさばかれるでしょう。私たちは一握りのクリスチャンではありますが、地の塩、世の光として、日本のためにとりなしていきたいと思います。そして、このような日本の中にあっても、ヨシュアのように「私と私の家とは、主に仕える」と信仰をもって告白致しましょう。主は必ず、私たちの祈りに答えてくださると信じます。




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2014年2月 2日 (日)

ソロモンの人生観     伝道者の書2:4-11 

 伝道者の書は伝統的にはイスラエルの王、ソロモンが書いたと言われています。なぜなら、伝道者の書1:1「エルサレムでの王、ダビデの子」とあるからです。彼はあらゆることを実験しました。自然科学、哲学、快楽、事業、農業、富の所有、道徳的生涯等。ソロモンが行きついたところは、「空の空、すべては空」でありました。「空の空」はヘブル語の最上級を表す表現で「全く空しいこと」という意味です。多くの文学者や哲学者が、虚無思想、ニヒリズムを言うときに、この書を引用しました。この書から、今日の私たちに必要と思われる、3つのことを取り上げたいと思います。


1.人生の空しさを知れ

 「人生とは根本的に空しいものだ。そのことを知りなさい」とソロモンは言います。「空しい」ということばが、20回以上出てきます。「風を追うようなもの」ということばは10回くらい出てきます。「え?人生ってそんなに空しいの?」と言いたくなります。凡人が言うなら、説得力はありません。しかし、すべてのことを実験し、すべてのことを極めた人がそういうなら、間違いありません。彼は神さまからいただいた知恵や財力を用いて、さまざまな実験を試みました。しかし、「日の下には新しいものは1つもない」という結論に達しました。また、事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑や庭と園を作りました。多くの奴隷を持ち、だれよりも多くの羊や牛も持ちました。当時は羊や牛は貴重な財産でした。また、銀や金、諸州の宝、男女の歌うたい、快楽であるおおくのそばめを手にいれました。ソロモンは正妻が300人、そばめが700人いました。しかし、ソロモンは「すべてが空しいことよ。風を追うようなものだ」と言いました。どうでしょう?私たちは「ソロモンの百分の1で良いから、持ってみたなー」と思うでしょう。特に男性だったら、「事業を起こしたい、邸宅を建てたい」と思うでしょう。「自分の家にカラオケ・ルームを作るのが夢だ」という人がいます。しかし、ソロモンは多くの歌手や演奏者、ダンサーを持っていて、それを目の前で楽しむことができました。ある人は畑を買って、ガーデニングをしたいと願っているでしょう。ソロモンはあらゆる種類の果実を植えることのできる庭と園、そして木の茂った森を所有していました。女性でしたら、身を飾る宝石が欲しいと思うでしょう。ソロモンは金や銀、諸州の宝物が山ほどありました。ソロモンは、世界中から美女を集めました。毎月、ミス・ユニバースを開催できるほどでした。「ここでうらやましい」と言ってはいけません。ソロモンは私たちの代わりに、それらを追い求め実験してみました。その結論は、「すべてがむなしい。風を追うようなものだ」ということです。

ハワード・ヒューズは、20世紀を代表する億万長者として知られ、「資本主義の権化」「地球上の富の半分を持つ男」と評されました。 彼の父は掘削機の刃(ドリルビッド)の特許と共に会社を設立し、ヒューズ家に大金をもたらしました。父が急死したため、18歳の息子のヒューズが遺産と掘削機の刃の特許を受け継ぎました。彼は莫大な遺産を元に、かねてからの夢であった映画製作と飛行家業をはじめました。本物の戦闘機や爆撃機87機を購入し、実際に飛ばして、映画を作りました。彼は飛行機が好きで「ヒューズ・エアクラフト」という会社を作り、自らが操縦して、アメリカ大陸横断、世界一周飛行などで新記録を達成しました。第二次世界大戦中は、軍用機を作る国内最大の下請会社の一つになり、大戦後は国際進出のために、さまざまな航路を開設しました。彼は大統領など政府高官と親密な関係を持っていました。かなりのプレイボーイで、ハリウッドの女優やセレブと噂がありました。3度の結婚歴があり、もう一人と重婚していたことが死後わかりました。しかし、彼の晩年はとても孤独でした。墜落事故後飲んでいた鎮痛剤の中毒、それに深刻な強迫性障害に陥りました。ドアノブを除菌されたハンカチで覆わないと触れられないほど極度に細菌を恐れるようになり、手を洗い始めると擦り切れて血が出るまでその動作をやめられませんでした。最後は、空気清浄器を付けたホテルから一歩も出られませんでしたそれでも、ホテルやカジノにも手を広げ、ラスベガスの歓楽街を買収しました。70歳で亡くなりましたが、190センチあった長身は薬物乱用のため10センチ以上縮み、体重は42キロ。あまりにもやせ細っていたため、本人と判定できなかったそうです。彼の残した天文学的な財産を処理するためには莫大な労力とおよそ20年もの歳月が必要でした。映画『アビエイター』でヒューズを演じたレオナルド・デカプリオは「彼は億万長者でありながら、平和や幸せという感覚を見出せなかった。一方でこの世で考えられるあらゆる成功を手にしながら、一方で小さなバイ菌が彼を墜落させた」と言いました。

 日本人は勤勉な人たちが多いので、「世の中の成功、物質や快楽は追い求めません。私はそういうものではなく、誠実で真実な人生を求めます」と言うかもしれません。しかし、ソロモンは何と言っているでしょうか?伝道者の書3:16「さらに私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た」と書いてあります。また、9:2「すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。」と書いてあります。つまり、「正しい生き方をしても、必ずしも報われるわけではない」ということです。不条理や災いはだれにでも訪れ、「死はどんな偉業も忘れ去らせる」と書いてあります。そうなると、人生は自己満足以外の何ものでもなくなります。ソロモンは「道徳的生涯さえもむなしい」と言っています。日本人は勤勉な人たちですが、絶対者なる神を知りません。そのため、心を病んだり、人間の宗教やイデオロギーに救いを求めていきます。伝道者ソロモンは、自然科学、哲学、快楽、事業、農業、富の所有、道徳的生涯を追及しても、「空の空、すべては空」であると言っています。これがソロモンの人生観です。


2.生きているうちに楽しめ

 「生きているうちに楽しめ」などと、講壇から言ったら、「え?」と思われるかもしれません。しかし、伝道者の書には、何度も「楽しめ」と書いてあります。3:12-13「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。」楽しみや幸福は、神さまからの賜物だということです。さらに、5:18-20「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」ピューリタンの影響を受けた、聖め派の教会は禁欲的で清貧であることを強調します。ホーリネス系、救世軍、アッセンブリーなど、聖め派の教会が日本にはたくさんあります。酒やたばこはご法度、過度な化粧や贅沢はいけません。こういう教会の聖職者は模範を示さなければならないので、特に大変です。10年くらい前、ある教会に招かれて奉仕に行きました。牧師夫人さえも黒のスーツでした。黒が悪いとは言いませんが、「赤や花柄だって良いのでは?」と思いました。南部のアメリカではSunday clothingと言って、一番良いものを着て行きます。なぜなら、礼拝はイエス様の復活をお祝いする日だからです。表で禁欲的で、清貧であるならば、裏の生活にしわ寄せが来るのは必然的であります。牧師の子どもたちが、真面目に後を継ぐか、あるいは自由奔放に生きるか、2つに1つになるのはそのためです。

 飲んだり食べたり、楽しむことが罪なのでしょうか?おそらく、当教会の人たちは「罪じゃありません」と答えるでしょう。なぜなら、私がいるところで、ビールを何倍もおかわりしている人たちがいるからです。「良い教会に来ましたね」と言いたいところです。詩篇16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と書いてあります。新約聖書には、遊女や罪人、取税人が多数、出てきます。彼らはイエス様と一緒にいても緊張しませんでした。なぜなら、イエス様は「清い生活をしなさい」「酒やたばこをやめなさい」と言わなかったからです。イエス様はむしろ、外側だけを清くするパリサイ人や律法学者たちを責めました。彼らは、今でいうなら、酒やたばこをたしなまない代わりに、人をさばいたり、意地悪をしていました。イエス様に近づいたのは、イエス様を陥れるためでありました。イエス様は取税人や罪人の家に入り、食事を共にしました。死ぬ前も弟子たちと食事をしました。復活した直後も弟子たちと一緒に食事をした後、ペテロに「私を愛するか」と問われました。そして、世の終わりにおいても、「私は戸の外にあってたたく。だれでも、私の声を聞いて戸をあけるなら…ともに食事をしよう」と言っています。食事は喜びと楽しみを象徴しています。

 でも、伝道者の書が行っている「喜びと楽しみ」は条件付きであることがわかります。1つは、人間はいつまでも生きられないからです。「生きているうちに楽しめ」というのが、本当の意味です。人生は確かに空しいかもしれません。しかし、神さまは、私たちが喜び楽しめるように、色んなもの賜物として与えておられるということです。伝道者は、結婚生活も喜び楽しみなさいと言っています。伝道者9:9「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。」アーメン。若いうちに楽しめ、喜べとも言われています。伝道者11:8-9「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。…若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め」とあります。生かされていることを喜び、楽しんで良いのです。いろいろな趣味を持ったり、さまざまな活動をして良いのです。旅行、ショッピング、カラオケ、ゲームもして良いのです。しかし、忘れてはならないことがあります。伝道者11:9後半「しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」とあります。最後に死がくるだけではありません。「死後、神さまのさばきを受けることを忘れてはならない」ということです。「心のおもむくまま、どんな楽しいことをしても良いけど、神のさばきを受けることを知っておけ」とは、ドキンとするのではないでしょうか?

 伝道者ソロモンは、「明日のことは心配せず、今日、楽しめれば良い」と、刹那的な勧めをしているのではありません。「死んだら、おしまい。生きているうちに楽しめ」というのは、一種の快楽主義です。聖書は「生きているうちに楽しめ」と言いながらも、「いずれ、神さまの前に立つ時が来るよ」と教えています。たとえば、酒やたばこあるいは暴飲暴食で命を縮めたら、「あなたにこれだけの寿命を与えたのに、粗末に扱ったのですか?」とさばかれるでしょう。あるいは、ギャンブルや快楽を追及して破産したら、「あなたにこれこれの物を与えたのに、どうして粗末に扱ったのですか?」とさばかれるでしょう。仕事も、家庭も結婚も神さまが与えた賜物です。それらを正しく管理しながら、喜び楽しむのは良いでしょう。しかし、伴侶や子どもの命を粗末に扱ったりするなら、神さまからさばきを受けるでしょう。つまり、喜びや楽しみには条件があるということです。このことを忘れなければ、良いということです。伝道者の書8:12「罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。」神さまがくださる特別な楽しみや喜び、そして幸せがあるということです。


3.神を恐れ、その命令を守れ

 ソロモンは、たくさんのことを実験し、「すべては空しい」と言いました。そして、結論に達したことばがこれであります。伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」ある聖書学者は、このことばがなければ、この書は聖書の正典には加えられなかったと言います。つまり、12章13節が、この書の鍵であるということです。人生のあらゆる経験をした人の結論であります。英語の聖書では、The conclusionと書いてあります。Conclusionとは、結論、終わり、結び、断定という意味です。ソロモンはいろいろなことを試した上で、「人間にとってこれがすべてである」と結論を出しました。口語訳では「人間の本分である」と訳しています。伝道者の書が言う、人間の本分では何でしょうか?それは「神を恐れ、神の命令を守る」ということです。これはとても旧約聖書的ですが、新約の私たちにもあてはまることです。むしろ、新約の私たちが忘れてしまう事柄かもしれません。なぜなら、キリストにある神の恵みが強調されているからです。もちろん、神の恵みを強調しても、強調しすぎることはありません。どんな罪であっても、イエス様の十字架によって赦されるし、赦されています。でも、「クリスチャンは、何をしても赦されるんだ」とあぐらをかいているなら、問題であります。神さまをなめているクリスチャンもいないわけではありません。特に、キリスト教国ではそうであります。神さまは、何でも赦してくれるひげをはやした優しい老人のように思われています。

 聖書は旧約聖書と新約聖書が2つで1つであります。新約聖書は、神さまの愛とか神さまの恵みが強調されています。一方、旧約聖書は神さまの戒めとか神さまのさばきが強調されています。しかし、新約の私たちは、愛なる神さまがどうして、罪をさばかれるのか分からなくなります。伝道者の書は「神を恐れよ。神の命令を守れ」と命じています。これを別な言い方をするなら、神さまの命令とは神さまの律法であります。神さまの律法を犯すならば、この地上において、また死後さばきをうけることになります。そのことを知ることが、神を恐れるということではないでしょうか?つまり、神さまは愛でありますが、神さまの律法を犯すなら、当然の報いを受けるということです。私は車を運転して、交通事故を起こしたり、交通違反で何度つかまりました。修理代、罰金などでとても痛い思いをしました。その後、どうなったでしょう?安全運転を心がけるようになりました。車線変更、一時停止違反、スピードオーバーもあまりしなくなりました。なぜでしょう。痛みを通して学んだからであります。同じように、聖書にはたくさんの戒めや命令があります。でも、それを破ると痛みや損害を被るでしょう。詩篇119篇の記者は何と言っているでしょうか?詩篇119:71「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」アーメン。私たちは愚かなので、痛みや苦しみを通してでなければ、神のおきてを学べないことがあるのです。だから、痛みや苦しみにあったことは良いことなのです。なぜなら、神さまのおきてを学ぶことにより、次から改めることができるからです。

 しかし、ソロモンはそのことを忘れていまいました。ソロモンは初めの頃は、神を恐れ、神の命令を守っていました。ところが、富と権力、名声と栄誉を受けてから、だんだんおかしくなりました。外国の女性を愛しただけではなく、外国の神々に香をたき、いけにえをささげました。Ⅰ列王記11:9-10「【主】はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、【主】から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は【主】の命令を守らなかったからである。」主はソロモンに二度も現れたのに、命令を守りませんでした。そのため、敵が自分の国に侵入することになりました。また、王国が引き裂かれ、家来のものになりました。伝道者の書4:13に自分のことをこのように書いています。4:13「貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。」とあります。「もう忠言を受けつけない年取った愚かな王」とはソロモン自身のことであります。ですから、この書は彼の晩年の書ではないかと思います。伝道者の書という名前ではありますが、これはソロモンの遺作というか、遺言ではないでしょうか?「何をやっても空の空、すべては空」。しかし、人間の本文とはこれである。「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と結論を下したのであります。ソロモンが一生をかけて、さまざまなことを実験して出した結論を、私たちはここに持っています。ある人たちは、「本当にそうなのかな?」と、自分で試す場合もあるかもしれません。良いです。それは人の自由ですから。それよりも、もっと賢い生き方は、先人に学び、同じ轍(わだち)を踏まないということではないでしょうか?

 でも、「神を恐れる」とはどういう意味であり、どうすれば良いのでしょうか?それは、どんな時、どんな場所にも主を認めているということだと思います。「主の臨在」などと言うと、とても重く感じます。それよりも、イエス様がいつ、どんなときも共にいてくださることを意識するということです。私たちはついつい、これくらいのことはしても良いだろうと甘えから、神の命令や戒めをやぶるかもしれません。結果的に、痛みや苦しみを覚えるでしょう?そのとき、イエス様は「いつくしみ深き友なるイエスよー」のように、慰めてくださる方だけではありません。イエス様は「痛みから学びなさい。次からはあなたはどうしますか?」とコーチングしてくださいます。イエス様はただ私たちを慰めるだけではなく、私たちを整えたいと願っておられるのです。そういうことの積み重ねで、私たちは成長していきます。主は、私たちを空しい人生ではなく、希望と目的のある人生へと導きたいと願っておられます。そのためにできることは何でしょうか?主の命令であるみことばをじっくり学ぶということです。その次に、イエス様と一緒に実行していきます。そうすると祝福があとからついてきます。ある人は神さまの愛は条件付きで、神さまの祝福は無条件だと誤解しています。そうではありません。神さまの愛は無条件です。しかし、神さまの祝福は条件つきです。神さまを恐れ、その命令を守って行くときに、祝福が伴ってくるのです。祝福は、楽しみとか喜びと言い換えることができるのではないでしょうか。詩篇16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」


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