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2013年11月24日 (日)

あなたの神は私の神       ルツ記1:15-22

 昔、本田路津子という歌手がいました。また、ルース・ベネデクトという女性が『菊と刀』という日本文化についての本を書きました。私が存じ上げている福澤満雄先生や田原米子さんのお嬢さんも「ルツさん」です。アメリカでもとても多い名前だと聞いています。なぜ、ルツという名前が好まれるのでしょう?きょうは、ルツ記から共に学びたいと思います。この書の背景は「さばきつかさが治めていたころ」と冒頭にあります。数回、士師記から学びましたが、イスラエルがまだ安定しなかった暗い時代です。そのような暗い時代に、美しい物語がありました。


1.ルツの信仰

 ユダのベツレヘムに、エリメレクの一家が住んでいました。クリスマスでも良く歌われる、「ダビデの町」であり、またキリストが生まれた町でもあります。図で書くととてもわかりやすいのですが、エリメレクの妻はナオミであり、マフロンとキルヨンの二人の息子がいました。その地方にききんがあったので、エリメレクの家族は、モアブに移り住み、そこで10年間暮らしました。その間に、エリメレクが死にました。また、二人の息子はモアブの女性を妻に迎えました。しかし、二人の息子が死んで、ルツとオルパの嫁が残りました。ユダの地からききんが去ったことを知り、ナオミは二人の嫁を連れて、モアブから帰ろうとしました。しかし、道の途中で、ナオミは「私と一緒に来るよりは、モアブで平和に暮らすように」と言いました。二人とも「いいえ。私たちは一緒に帰ります」と言いましたが、ナオミが強く勧めるので、オルパは泣きながら戻りました。しかし、ルツは諦めませんでした。先ほど読んだ、ルツ1:16-17はルツのすばらしい信仰告白です。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」

 何がルツをそのようにさせたのでしょうか?おそらく、ルツは夫や姑のナオミと一緒に暮らして、イスラエルの神が、まことの神さまであることを知ったのではないかと思います。しかし、この世の御利益しか考えない人だったら、どう思うでしょうか?義父が死んで、夫もその弟も立て続けに死んでしまいました。姑のナオミは「全能者が私を辛い目に会わせた」とまで言っています。ルツは、何人もの死者を出した家族を見て、どうして「あなたの神は私の神です」と言えたのでしょうか?モアブの神は、ケモシュと言って、軍神としてあがめられました。神々への犠牲は最上の雄羊や雄牛がささげられましたが、人身犠牲も行われました。ユダの人たちは、「忌むべきケモシュ」と言いました。ルツはそういう偶像崇拝の家で育ちました。もし、彼女の信仰が、利益信仰であったならば、決して、ヤーウェの神を信じなかったでしょう。では、聖書の神さまはどのような神さまなのでしょうか?ルツ記全体に流れている思想は、「神の摂理」であります。摂理というのは、万物の創造主なる神が、主権的にすべてのものを支配しているという意味です。自然界も、動物も、国々も、そして人間も、神さまは支配しています。しかし、聖書の神さまは非人格的で、恐ろしい運命や宿命でもって、容赦なく人々を押し流すようなお方ではありません。慈愛に満ち、すべてのことを働かせて益にしてくださる全能の神です。この世においては、確かに理解できないような不幸な出来事に見舞われることがあります。しかし、主なる神はご自身を愛する者たちに、すばらしい計画をもって、報いてくださいます。ルツは断片的だったかもしれませんが、目の前の不幸を乗り越える、神の大いなる力を信じていたのだと思います。

 ナオミとルツが大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着きました。ルツは自分の不幸をなめて、暮らす人ではありませんでした。ルツはナオミに「どうぞ、畑に行かせてください。落穂を拾い集めたいのです」と言いました。当時は、モーセの律法のとおり、みなしごや在留異国人のために、落ちた穂をそのままにしておきました。ルツ2:3「ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。」ここに、「はからずも」とあります。この「はからずも」こそが、神の摂理をあらわしている言葉です。はからずもは、「思いがけなくも」「予想もしなかったのに」という意味です。つまり、ルツは意図していなかったのに、ボアズの畑に入って、落穂を拾ったということです。なぜ、ボアズの畑で良かったのか?あとから出てきますが、ボアズは義父エリメレクの一族に属する人で、買戻しの権利を持っている親戚のひとりでした。また、ボアズは髪の毛が薄かったかどうかはわかりませんが、独身で年をとっていたようです。それに、ボアズは清廉潔白で、憐れみに満ちた人でした。もし、ルツが他の畑に行ったならば、異邦人の女として、いじめられていたでしょう。しかし、「はからずも」ボアズの畑に入ったのは、偶然ではなく、神さまの摂理、神さまの導きでありました。私たちの人生にも、「はからずも」ということがあるのではないでしょうか?ある人は「この亀有教会の鈴木先生でなければ、私は救われませんでした」と嬉しいことをおっしゃします。しかし、私は牧師らしくないので、ある人は躓いて、二度とこない人もいるでしょう。私のような人が牧師だから、「教会に来ても安心だ」という人がいるということは神さまの憐れみであります。

 このところには、「はからずも」という神さまの摂理があります。つまり、自分の生まれや意志に関係なく、神さまの主権的な選びがあるということです。しかし、神さまの摂理が全うされるために、人間の側には3つの条件があります。ルツは3つの条件を全うしました。第一は信仰です。ルツはモアブで生まれ育ちましたが、ヤーウェの神に出会って信じました。つまり、まことの神さまと和解して、つながったということです。つながったということは、神さまの御手が共にあるということです。第二は忠実さです。忠実さとは自分ができることを精一杯行うとうことです。ルツは自分の不幸を嘆いて、「主よ、あわれんでください」と座り込むこともできました。しかし、落穂を拾うために畑に出かけ、刈る者たちの間に入って、朝から晩まで拾い集めました。なんとか、姑のナオミに食べさせてあげたいと思い、できる限りのことをしたのです。第三は従順さです。これは、自分の願いや考えを一旦、わきに置いて、主のみこころに従うということです。まず、ルツは姑のナオミに従順でした。普通、嫁と姑というのは、確執があって、仲良く暮らすことができません。ナオミがルツに「晴れ着をまとって、打ち場に行きなさい。ボアズの足のところをまくって、そこに寝なさい」と言いました。ルツは「そんな破廉恥なことはできません」と断りませんでした。ルツ3:5「ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたします。』こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした。」アーメン。また、ルツは畑の主人ボアズに対しても従順でした。ルツ2:8「ボアズはルツに言った。『娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。』」と言いました。普通の女性だったら、「私をコントロールしないで」と拒否するかもしれません。しかし、彼女はどのように応答したでしょうか? ルツ2:10「彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。『私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。』」ルツは、何と謙遜でしょうか?ボアズの心から好意と憐れみが湧き上がってきました。ボアズは若者たちに命じました。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。それだけではなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女を叱ってはいけない」と言いました。ルツが夕方まで集めると、大麦が1エパ(23リットル)ほどありました。ボアズの姿と慈愛に満ちた神さまが、二重写しで見えます。神さまは、私たちの行く先々に、たくさんの恵みを用意しておられます。私たちはそれを次から次へと拾えば良いようになっているのです。ルツは、「あ、ここにもあった。あ、ここにもあった。こんなにたくさん、集められた」と喜んだでしょう。なぜでしょう?ボアズが、そうさせていたからです。私たちの神さまも、私たちにそのような恵みを先々に与えておられるのです。

 ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。このことばは、ヨセフのときにも引用しました。しかし、ルツの人生においても、このことばがあてはまります。ということは、あなたにもあてはまるということです。なぜなら、ここに来られているあなたも、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」だからです。このみことばは世の中の人、全部にあてはまることばではありません。なぜなら、不幸のまま、人生を終えてしまう人もいるからです。しかし、神さまが、ヨセフやルツに対してしたように、あなたにも、「すべてのことを働かせて益としたい」と願っておられます。そのためには、私たちを豊かに導いて下さる、神さまに期待し、信頼すべきであります。


2.ルツの買い戻し

 ルツ記の3章と4章には「買い戻しの権利のある親類」あるいは「買い戻す」ということばが、12回ほど出てきます。「買い戻しの権利のある親類」はヘブル語で「ゴエール」であります。また、「ゴエール」は、「ガーアル」という「買い戻す」「贖う」ことばから来ています。ですから、ヘブル語の聖書を読むと、「ゴエール」「ガーアル」「ゴエール」「ガーアル」「ゴエール」「ガーアル」と、まるで、ウシガエルの泣き声のように聞こえることでしょう。では、簡単に「買い戻し」とは何なのでしょうか?旧約聖書のレビ記にそのことが書いてあります。たとえば、兄弟の一人が貧しくなって、土地を売ったとします。おそらく、ナオミの夫、エリメレクは土地を売って、モアブの地に移ったと思われます。10年後、妻のナオミが帰ってきましたが、後継ぎの息子たちも亡くなっていたので、「買い戻しの権利のある親戚」が来なければ、失った土地を買い戻すことができませんでした。ルツは「はからずも」エリメレクの一族に属するボアズの畑に入って、落穂を拾いました。なんと、ボアズは「買い戻しの権利のある親類」の一人でした。ナオミはそのことを知って、驚いてこう言いました。ルツ2:20「ナオミは嫁に言った。『生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない【主】が、その方を祝福されますように。』それから、ナオミは彼女に言った。『その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。』」かつて、ナオミは「全能者が私をひどい苦しみに合せた。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰らされました」と言いました。しかし、ナオミは「死んだ者にも、恵みを惜しまれない主である」と言いました。

 ボアズは確かに「買い戻しの権利のある親類」の一人でした。しかし、順番があって、最も近い親類の人が他に一人いて、ボアズは二番目でした。ルツ記4章に記されていますが、だれがナオミの畑を買い戻すかを協議しました。当時は、町の門に集まり、民の長老たちの前で、行われました。一番、近い親類の人は「私が買い戻しましょう」と言いました。ボアズはその人にこう言いました。ルツ4:5「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」と。つまり、死んだ者の名をその相続地に残すためには、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければならないということです。最も近い親類の人は、「私自身の相続地を損なうことになるといけませんから、あなたが代わって買い戻してください。私は買い戻すことはできませんから」と言いました。つまり、こういうことです。異邦人のモアブ人と結婚しなければならない。それに買った土地も自分のものにならない。彼は、「私はできないので、あなたに譲ります」と辞退したのです。イスラエルでは、買い戻しの権利を譲渡する場合、一方がはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣がありました。彼は「あなたがお買いなさい」と言って、自分のはきものを脱ぎました。日本では、「下駄を預ける」と言いますが、少し似ているかもしれません。その後、ボアズは長老たちの前で、「私は、死んだ者の名をその相続地に起こすために、マフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、妻としました」と宣言しました。長老たちは「私たちは証人です。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい」と祝福しました。

 それで、結局、ナオミとルツはどうなったのでしょうか?ヘブル13:7「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」とあります。ナオミとルツの最初の人生はどうだったでしょう?人々から「神さまを信じたって、ちっとも良いことがないじゃないか」と言われるかもしれません。しかし、聖書の神さまは摂理の神さまであり、慈愛に満ち、すべてのことを働かせて益にしてくださる全能の神です。では、彼女らの結末はどうなったのでしょうか?ルツ4:13「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、【主】は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。」そして、人々は「その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから」と祝福しました。ルツ4:16「以降近所の女たちは、『ナオミに男の子が生まれた』と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン(遊女タマルの夫)、サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。」ルツは異邦の女性でしたが、ボアズによってその土地とともに買い戻されました。そればかりか、ルツとボアズからオベデが生まれました。オベデからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれました。さらには、救い主キリストが生まれました。ルツは救い主キリストの先祖となる家系に連なる祝福を許されたのです。すばらしい神さまの計画、すばらしい結末ではないでしょうか。ハレルヤ!

また、ルツ記には「買い戻し」ということが記されていました。失った土地を取り戻すためには、「買い戻しの権利のある親類」でなければなりませんでした。ヘブル人への手紙には、イエス・キリストが私たちの「買い戻しの権利のある親類」になったことが記されています。ヘブル2:11「それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。」、さらにヘブル2:17「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」とあります。イエス様が私たちの罪を贖うために、つまり買い戻すために、私たちの親類になる必要がありました。主は、兄弟と呼ぶことを恥としないで、すべての点で兄弟たちと同じようになりました。それは民の罪をあがなうためでした。私が子どものころ、村に罪を犯して刑に服した人がいました。村では「あの家は前科者を出した家だ」とひそかに言っていました。その人には、弟も妹もいました。弟や妹はまったく悪くありません。しかし、村の人は「前科者の弟だ、前科者の妹だ」と口には出さないけど、思っていたでしょう。だから、その人の弟や妹も、さぞ恥ずかしい思いをしたことでしょう。イエス様は人間と同じになられただけではありません。罪は犯しませんでしたが、罪人として数えられました。洗礼、バプテスマは罪人が受けるものです。また、人々はイエス様を「食いしん坊の大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(ルカ7:34)と馬鹿にしました。最後に十字架にかかるときは、両脇に犯罪人が共につけられました。イエス様が真ん中だったので、一番、悪い人に思われたのではないでしょうか?イザヤ53:12「そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」と書いてあります。

ルツ記の場合は、失った土地の買い戻しでした。しかし、新約のイエス・キリストは罪からの買し戻し、つまり、罪の贖いを成し遂げてくださいました。ルツは異邦人でありましたが、ボアズによってイスラエルの民に加えられ、メシヤの系図に加えられました。私たちも信仰によって、神の子どもとされ、その系図の中に加えられます。ヨハネ1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」アーメン。まったく縁もゆかりもなかった人が、キリストの名を信じるだけで、神の子どもとされるのです。私が子どもの頃、古い家の壁に二人の女性が腰をかがめて何かしている絵がかかっていました。私は「何か農作業をしているのかな?それにしても、さえない絵だなー」と思いました。しかし、学校の図工でミレーが書いた「落穂拾い」であることが分かりました。「ミレーという画家は、牧歌的な絵を描く人なんだなー」と思いました。しかし、それだけです。やがて、大人になりクリスチャンなってから、「ああ、あれはルツ記のことなんだー」と初めて分かりました。私の家族にはクリスチャンはいません。おそらく、有名なので、その絵の模写を飾っていたのだと思います。そんな、キリスト教と全く縁のないような者が、「ルツ記のテーマは神の摂理です」とか「買い戻しです」と良く言えたもんだなーと思います。やっぱり、神の摂理があったからこそ、こんな私でも救われたのではないでしょうか?「人生は出会いで決まる」とユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーが言いました。ルツは信仰者ナオミと出会いました。夫が死んでからもナオミから離れず、故郷を捨ててユダに来ました。ナオミのために落穂を拾いに行ったら、「はからずも」ボアズの畑でした。ルツはボアズと出会って、土地を買い戻してもらいました。なんと、そのことにより、ダビデの先祖になり、メシヤの系図にまで入れられました。これって、すごいんじゃないでしょうか?偶然ではありません。すばらしい神さまの御手があります。みなさんにも、それぞれ固有なストーリーがあるのではないでしょうか。どうぞ、そこに神さまの御手があったことを覚えて、主の御名をあがめましょう。そして、まだ、聖書の神さまとイエス様を知らない人に「これが私の証です。This is my story」と証をしようではありませんか。



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2013年11月17日 (日)

怪力サムソン      士師16:18-22

 イスラエルが王国になる前は、とても乱れていましたが、士師と呼ばれる指導者たちが活躍した時代でもあります。士師の中には女性もいましたし、ヤクザみたいな人もいました。きょうはその中の一人、サムソンについて学びたいと思います。サムソンは怪力で有名なので、スーツケースに、「サムソナイト」というメーカーがあります。「とても頑丈で壊れない」という意味でネーミングされたのだと思います。昔、「サムソンとデリラ」という映画がありましたが、聖書の物語だとは知りませんでした。サムソンについては、士師記13章から16章まで、4章にわたって記されています。これをたった30分間で語りたいと思います。


1.怪力サムソン

イスラエルが主の目の前に悪を行っていたので、主は40年間、彼らをペリシテ人の手に渡されました。ある時、主の使いが不妊の女性に現れ、こう言いました。「あなたはみごもり、男の子を産む。今、気を付けなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテの手から救い始める」。ナジル人というのは、「神に聖別された者」という意味でした。ナジル人は、ぶどう酒や強い酒を飲まず、頭にかみそりを当てることもしませんでした。人々は、長髪の人を見るとき、神から選ばれた特別な人であることを確認することができました。サムソンの他に、サムエルもナジル人でした。新約聖書では、バプテスマのヨハネ、そしてイエス・キリストもそうでありました。古代の人たちは、髪は力といのちの源であると考えたのかもしれません。アメリカの話です。息子がお父さんに、「友達と旅行に行きたいので新車を貸してくれ」とお願いしました。お父さんは「3つの条件を満たしたら、車を貸してあげるよ」と言いました。「第一は学校の成績がアップすること。第二は日曜礼拝に毎週、出ること。第三はその長い髪の毛を切ること」と言いました。1か月後、息子がお父さんに「学校の成績もアップしたよ。毎週、日曜日の礼拝にも出ているから、車を貸してよ」と言いました。お父さんは「その長い髪はどうしたんだ。短くしなけりゃ貸してやらないよ」と言いました。息子は「お父さん。聖書を見ると、モーセも髪の毛が長かったよ。サムソンやイエス様だって、髪の毛が長かった。だから、切らなくて良いでしょう。車、貸してよ」と言いました。お父さんは「わかった。でも、彼らは、車に乗らないで、歩いていたよ」と答えました。

サムソンの特別な能力は怪力でした。あるとき、若いライオンがほえたけりながら、彼に向かってきました。そのとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼はまるで子やぎを引き裂くように、ライオンを引き裂きました。素手で、ライオンを倒すほどの怪力でした。また、サムソンは、女性から騙されて、綱でしばられたことがありました。ペリシテ人が大声を上げて、彼に襲い掛かりました。すると、主の霊が激しく彼の上に下り、しばっていた綱は火のついた亜麻糸のように、手から溶け落ちました。度々、「主の霊が激しく彼の上に下る」という表現が出てきます。つまり、サムソンの怪力は、主の霊によるものでした。サムソンはペリシテ人を倒すように、神さまから立てられた士師でした。サムソンのやり方は、ペリシテ人に言いがかりをつけて、悶着を起こして、倒すというものでした。しかし、聖書に何と書いてあるでしょう。士師記14:4「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである」とあります。神さまが、そうなるように導いていたということです。良く見ると、サムソンの戦術はとても単純で、子供じみていました。ある時は、ジャッカルを300匹捕え、尾と尾をつなぎ合わせ。その間にたいまつを取りつけました。彼はそのたいまつに火をつけ、そのジャッカルをペリシテ人の麦畑の中に放しました。そして、たばねて積んである麦から、立穂、オリーブ畑に至るまで燃やしました。また、ある時は、ろばのあごの骨で、ペリシテ人と戦いました。相手は鉄の剣ですが、こっちの武器はなま新しいろばのあご骨です。サムソンは、それを手に取って、1000人を打ち殺しました。

30年くらい前から、「どのようにしたら教会が成長するだろうか」という教会成長学が強調されました。「日本教会成長研修所」というのも開設され、多くの牧師たちが学びました。しかし、「教会成長」という名前が良くないということで、今は、JCGIと英語で読んでいます。私はある理由で、学びそこねた者なので、イヤミにならないようにしたいと思います。結論的に申しますと、いろんな戦略を立てても、思ったとおり成長しないということです。神さまはいろんな方法を用います。海外で成功した牧師たちが、「私と同じようにやれば成長します」と言いました。私もいくつか真似ましたが、うまくいきませんでした。牧師の賜物、教会の体質、その国のカルチャーというものがみな違います。だから、「これをやればうまくいく」というものはありません。もちろん、最大公約数的な原則というものはあるでしょう。しかし、「戦略とか方法論は、どうでも良い」とは申しませんが、「いろいろあって良い」ということです。前回はギデオンの戦い方を学びました。ギデオンは空の壺にたいまつを入れて、ラッパを吹き鳴らすという戦術でした。サムソンの場合は、たいまつを結んだジャッカルを野に放つというものでした。ろばのあごの骨を振り回すというのも、とても原始的です。ですから、チャーチ・コンサルタントが勧める方策は、あてにならないということです。それよりも、自分の賜物を発見し、地域教会に合わせていくべきだと思います。サムソンの場合は、「主の霊が激しく彼の上に下って」と何度も書いてあります。ですから、一番必要なことは「聖霊に満たされること」であります。聖霊が導き、聖霊が知恵を与え、聖霊が人を救うということではないでしょうか。ローマ12:11「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」というみことばがあります。ナジル人は、ぶどう酒や強い酒を飲まないということですが、それは勤勉さを象徴しています。バプテスマのヨハネもそうでしたが、世の人たちから、変わり者と呼ばれても構わないということです。しかし、内側に神の聖さと不思議な力に満ちています。そうであれば、人々は何か困ったときに、「祈ってください」と求めてくるのではないでしょうか?「あの人には、神さまが共におられる」という、何かかもし出すような、霊的力を持っていたいと思います。


2.女性に弱いサムソン

 サムソンは女性にとても弱い人でした。男性はみなそういうところがありますが、サムソンは典型的な人物でした。サムソンは、ペリシテ人の娘に一目惚れしました。両親は「異教の娘を妻に迎えてはいけない」と反対しました。しかし、サムソンは「あの女をもらってください。あの女が私の気に入ったのですから」(士師14:3)と主張しました。非常に直情的であり、何も考えていません。結局、彼女とはうまくいきませんでした。士師記16章には、「ガザへ行ったとき、ひとりの遊女を見つけて、彼女のところに入った」と書いてあります。その後、サムソンは「デリラ」という女性を愛しました。ペリシテ人の領主たちが彼女のところへやってきてこう言いました。士師16:5-7「サムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、彼を縛り上げて苦しめることができるかを見つけなさい。私たちはひとりひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。そこで、デリラはサムソンに言った。「あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう。どうか私に教えてください。」サムソンは彼女に言った。「もし彼らが、まだ干されていない七本の新しい弓の弦で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」こういうくだりを読んでいると、「サムソンは自分を売るような女と、どうして、一緒にいるんだろう」とイヤになります。私は「火曜サスペンス」とか、「○○事件簿」などと言うのはほとんど見ません。私の家内は良く見ますが…。物語の中に、人を騙したり、陥れたりする人が必ず出てきます。私は胸がドキドキして見ることができません。「必殺仕置き人」みたいに、白黒はっきりついているのは、安心して見ることができます。しかし、サスペンスものは、だれが犯人なのか良く分かりません。「なんで、この人はだまされるんだろう」「なんでそんなところへ一人で行くんだろう!」とイライラしてくるからです。

 サムソンもそうです。デリラはそれが失敗に終わると、「まあ、あなたは私をだまして、うそをつきました。さあ、今度は、どうしたらあなたを縛れるか、教えてください」と言いました。サムソンは、「新しい綱で私を縛れ」とか、「機(はた)の立糸と一緒に髪の毛七ふさを織り込みなさい」と答えます。そのたびに、敵が来たとき、しばっている綱を簡単に断ち切りました。デリラは「あなたの強い力はどこにあるのか教えてください」と、毎日、同じことを言って、しきりに責め立てました。ついにサムソンは、「自分はナジル人だから、髪の毛がそり落されたら、力がなくなり、普通の人のようになる」と告げてしまいました。本当に馬鹿です。デリラは、ペリシテ人の領主たちに「今度は上ってきてください」と呼んで、報酬としての銀を受け取りました。そして、サムソンを眠らせて、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせました。士師16:20彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は【主】が自分から去られたことを知らなかった。そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。「だから、いわんこっちゃないでしょう」言いたくなります。ここで悲劇なのは、髪の毛を切られたサムソンが「主が自分から去られたことを知らなかった」ということです。サムソンは「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言いました。しかし、力が全く出ませんでした。なぜなら、主が彼から去っていたからです。

 「慢心」ということばがあります。サムソンは自分に怪力があることを良いことに、誘惑の中に身を置いていました。彼は、危険な道を歩いているのに気付いていませんでした。「いざとなれば、これがある!」と自分の力を過信していたのです。しかし、それはサムソン自身が持っているものではありませんでした。主の霊が下ってきて、初めて、できたことであります。頭の良い人、能力のある人ほど、慢心になる恐れがあります。榎本保郎先生が『旧約聖書一日一章』というディボーションの本を書いています。その本に、このようなことが書かれています。「キリスト者とはキリストの教えを守る者ではない。主イエスのような崇高な愛に生きようと努める者でもない。キリスト者とはキリストの生命に生かされる者である。キリストの内にあって生きる者である。その意味において、サムソンは神の力によって生き、大力を持っていた。ところが、サムソンはその力に対して、慎重でなかったように、私たちも自分の力について慎重を欠くことがある。なんだかそれが自分の中にあるかのごとくに思いあがることがある。そして、どこまでもへりくだってそれを求める熱心さを失いやすい。主が彼を去られたとき、彼は全くのただ人である。教会のあらゆることをわきまえ知っている牧師であるとか、役員であるといったことが私たちを強くしているのではない。ただ日ごとに新しく力を注がれ、聖霊によって満たされることによってはじめて私たちはキリスト者として生きることができるのである。」アーメンであります。

 詩篇1:1-2「 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」慢心の罪に陥らずに、日々、みことばと、聖霊に満たされることを求めていきたいと思います。


3.悔い改めたサムソン

 サムソンは捕えられた後、どうなったのでしょうか?士師記16:21「そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。」映画のシーンを思い出します。サムソンは、両目をえぐり取られ、青銅の足かせをかけられました。そして、数頭の牛たちと一緒に地下牢で臼をひいていました。サムソンは、臼をひきながら、自分の行ないを悔いたことだろうと思います。それでは、全く希望がないのでしょうか?士師記16:22「しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。」何と言う励ましでしょうか?悔い改めることによって、神さまから受け入れられている様を想像することができます。神さまはサムソンに、もう一度、チャンスを与えようとしておられます。どのように物語は進展していくのでしょうか?士師記16:23-24さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」ペリシテ人が拝んでいる神さまは、ダゴンでした。彼らは、「ダゴンの神さまが、敵サムソンを手に渡してくださった」と感謝して、盛大ないけにえをささげました。それからどうしたでしょう?士師記16:25-27「彼らは、心が陽気になったとき、『サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう』と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。」祭りもクライマックスになり、みんなの見世物にしようと、サムソンを地下牢から引っ張ってきました。サムソンにとっては何という屈辱でしょうか?おそらく、その建物は石でできた神殿であり、アリーナ席だけではなく、屋上の席にも人々がごったがえししていました。酒に酔った人々は、「サムソン何か面白い演技をしろ!」とわめいていました。

 サムソンは目が見えなかったので、若い牢番に、「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ」と願いました。神殿の中央に、建物全体を支えている、二本の大きな柱がありました。サムソンはその間に立ちました。人々は「何か面白いことをするんだろうなー」。士師記16:28 「サムソンは主に呼ばわって言った。『神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。』そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。そしてサムソンは、『ペリシテ人といっしょに死のう』と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。」

 サムソンが主に呼ばわると、神の霊に満たされ、怪力が戻ってきました。二本の中柱の一本は右手で押し、一本は左手で抱えて寄りかかりました。サムソンはペリシテ人もろとも死のうと、柱を引いて、倒しました。すると、神殿が屋上の席と一緒に崩れ、アリーナ席に全部、落ちました。なんと、サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かったということです。人間的には悲しい最期ですが、サムソンは復讐を果たし、イスラエルの敵、ペリシテ人を倒すことができました。神さまは、ナジル人サムソンのことを覚えておられました。普通でしたら、盲人のまま地下牢で死ぬか、人々の見世物になって死ぬかの人生でした。しかし、自分の命とひきかえに、何千人ものペリシテ人を倒すことができました。サムソンにとっては本望だと思います。使徒パウロは、ローマ11:29「神の賜物と召命とは変わることがありません」と言いました。確かに私たちの不従順や罪によって、力をなくすことがあるでしょう。しかし、神さまが選んだ人を神さまは、簡単には見捨てません。サムソンはナジル人、神さまに聖別された人でした。確かに彼は肉的誘惑に弱い人物でした。聖書を読んだ人は、「あんな人を、神さまが用いるのか?」と不満に思うかもしれません。では、どれだけ私たちの人格がきよめられたら、神さまに用いられる、ふさわしい器になるのでしょうか?一生、努力しても、無理でしょう。なぜなら、私たちには救われて、聖霊に満たされたとしても、肉が宿っています。肉、イコール罪という訳ではありませんが、罪を犯す可能性があるということです。ですから、究極的には、神さまの選びであり、神さまのあわれみです。だから、使徒パウロは、「神の賜物と召命とは変わることがない」と言ったのです。と言うことは、私たちの正しさとか信仰ではなく、神さまの真実、神さまの信仰であります。ですから、私たちは自分の弱さや罪を悔い改めることも重要ですが、自分を選んでくださった神さまを仰ぐべきなのです。偉大な神さまを仰ぐとき、自分の弱さや罪をしのぐ、すばらしい聖霊の力に満たされるのです。

 もう1つ、サムソンの人生からわかることは、神さまはセカンドチャンスをくださるということです。いや、生きている限り、何度もチャンスをくださいます。私たちは、「もうこれで私の人生はおしまい、二度と日の目を見ることはないだろう」と思うかもしれません。確かに、野球とかサッカーなどのスポーツの世界ではそういうことがあるかもしれません。有名な選手が「肉体の限界です」と引退します。しかし、信仰生活に引退はありません。天国に行くまでは現役です。生かされている限りは、何らかの使命があると信じます。当教会に山崎政彦長老がおられました。彼は会社をゼロから立ち上げ、引退後は、会長になりました。会社が暇なので、もっぱら教会の伝道に励みました。献金も出すし、口も出しました。また、「新会堂を建てて、自分が最初にお葬式をするんだ」と言いました。私が赴任した時は資金が450万円でしたが、6年後に新会堂が建ちあがりました。備品も入れて、全部で1億4000万円かかりました。山崎長老は「借金なしで建てるんだ!」と主張していましたが、その通りになりました。それから7年後位に天に召されました。最後に、新会堂という、大事業を終えました。もう、20年たったので、新会堂とは言えないかもしれません。でも、私はこの会堂を見るたびに、山崎長老さんの信仰を思い出します。私たちもサムソンのように弱さがあるかもしれません。しかし、神の霊が下るときに、偉大なことができると信じます。「神の賜物と召命とは変わることがありません」。




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2013年11月10日 (日)

勇者ギデオン      士師記6:11-16 

 イスラエルの民は、カナンを占領した後、12の部族に領土を分けました。しかし、ヨシュアの死後、各部族は妥協し始めました。本来なら先住民を、全部、追い出すべきなのに、そうしませんでした。やがて、彼らがイスラエルの中に住み、結婚する人もいました。イスラエルは彼らの神々を拝み、主の目の前に悪を行いました。すると、主が敵対する民族を立ち上がらせ、領土を侵略させました。イスラエルは「私たちは罪を犯しました」と主に叫び求めます。すると、主は一人の解放者、つまり士師を起こして、イスラエルを救います。でも、また平和になると、イスラエルの民は罪を犯します。すると、敵が領土を侵略します。主に叫び求めます。士師を起こして救われます。こういうことが繰り返し起こるのが士師記です。きょうは、その中でも最も有名な士師の一人、ギデオンについて学びます。


1.勇士よ

イスラエル人たちが、主の前に悪を行ったので、主は7年の間、彼らをミデヤン人の手に渡しました。イスラエル人は、ミデヤン人を恐れ、山々にある洞窟や、ほら穴、要害に隠れました。収穫の時になると、ミデヤン人とアマレク人が地の産物を何もかも奪い去って行き、家畜の餌さえも残さないほどでした。民が自分たちの罪を悔い改め、主に叫び求めました。すると、主は一人の解放者をお立てになられました。あるとき、主の使いがギデオンの前に現れました。しかし、彼はミデヤン人からのがれて、酒船の中で小麦を打っていました。音を立てずに、こっそりと食糧を確保していました。主の使いが彼の前に現れ、「勇士よ。主があなたと一緒におられる」と言いました。ギデオンは「まさか、私のことではないでしょう」と思いました。主の使いは「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人かの手から救え。私があなたを遣わす」と言いました。ギデオンは何と言い訳したでしょう?「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」主がギデオンに「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう」と言われました。すると、ギデオンは「どうかしるしを、私に見せてください」と願いました。最初は、「羊の毛の上だけに露が降りて、土全体がかわいたなら受け入れます」と言いました。主はその願いに答えられました。次は、「羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください」と願いました。すると、主はそのようにしてくださいました。

ギデオンは臆病者で、とても疑い深い人でした。神さまがこういう人を勇者として用いるなら、だれでも用いられるとは思いませんでしょうか?神さまは、まず、ギデオンのセルフ・イメージを変える必要がありました。ギデオンは自分ことをどう思っていたでしょうか?彼は「ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです」と言いました。「ご存知のように」とは、自分だけではなく、他の人たちも十分に認めているということです。イスラエルの12部族の中にマナセがいました。これは、ヨセフから生まれた部族です。彼の分団、つまり氏族は最も弱いということです。そして、ギデオンは父の家で一番下の子どもでした。おそらく、ギデオンの氏族は「俺たちはマナセうちで最も弱い」と言っていたのでしょう。だから、ギデオンもそう思っていました。さらに、父や兄たちは「ギデオンは小さくて、一人前じゃない」と言っていたのでしょう。だから、ギデオンもそう思っていました。主の御使いは、彼に何と言ったでしょうか?「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」と言いました。神さまは人を見る目がないのでしょうか?臆病でセルフ・イメージの低いギデオンを「勇士よ」と言われました。口語訳の聖書は「大勇士よ」となっています。ある英語の聖書は、O valiant warrior「勇敢な戦士よ」という意味です。世の中の多くの若者は、ゲームにはまっています。「モンスター・ハンター」という怪獣を剣1本で倒す勇敢な戦士がいます。しかし、彼らは仮想の世界では勇士かもしれませんが、自分のことを本当に勇士だとは思っていないでしょう。私たちは人からではなく、神さまご自身が私を何と見ているか、何と評価しておられるかということを知らなければなりません。

ギデオンはこのままだと、「最も弱い氏族の、最も年若い」臆病者で終わります。しかし、突然、主の御使いがギデオンの前に現れ「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」と言いました。ここで、「いやいや、私はそんな者ではありません。私がイスラエルをミデヤン人から救いことなどできません。人違いです」と言い続けたならどうでしょう?主は他の人をお立てになられるでしょう?でも、ギデオンはしるしを求めながらも、主のおことばを信じました。ギデオンの信仰よりも、神さまの信仰の方が大きかったのです。神さまが「ギデオンは臆病者ではなく、本当は勇士なんだ。私はギデオンと共にいてイスラエルを救おう」とお決めになったのです。しかし、ギデオン自身も「自分は臆病者ではなく、勇士なんだ」と思う必要がありました。この後、主は「あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシェラ像を切り倒せ」と命じました。ギデオンは一人ではできないので、しもべの中から10人集めました。また、昼間はできないので、夜それを行いました。翌朝、町の人たちは、「だれがこんなことをしたのだ」と怒りました。彼らは、ギデオンの父のところに行って「あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい」と言いました。父は彼らに「バアルが神であるなら、自分で争えば良いのだ」と言いました。ギデオンは町の人たちから「エルバアル」と呼ばれました。エルバアルとは「バアルと争う者」という意味です。日本で言うなら、家の大きな仏壇を壊すか、あるいは町の祠を壊すということです。ギデオンは父から「親不孝者」と呼ばれることも、町の人々から「厄介者」と呼ばれることも恐れませんでした。ギデオンは「私は、本当は勇士なんだ」という、信仰が目覚めてきました。

私たちは親からどのように言われて育ったでしょうか?兄弟たちから、どのように言われて育ってきたでしょうか?学校に入ってから、先生からどのように言われたでしょうか?友人と呼べない人たちからどのように言われたでしょうか?会社に入って上司からどのように言われたでしょうか?また、自分がこれまで失敗したこと、挫折した経験によって、自分はどのような人であると思っているでしょうか?おそらく、10人中9人は、「自分は弱くて小さな者である」と思っているのではないでしょうか?「私は三流で、とても一流にはなれない」と思っているのではないでしょうか?私も高校生のとき、ボクシングの試合で敗れてからひどい挫折感に襲われました。たった1回の試合が私に大きなダメージを与えました。インドネシアの解放のキャンプに行ったとき、驚きました。その集会は「チャンピオン・ギャザリング」という名前でした。チャンピオンたちが集まる集会です。「ああ、ほど遠いなー」と思いました。また、最近はジョエル・オースチンのビデオを見ていますが、その始まりで「チャンピオンのための説教です」と歌っています。「ええ、まさか」と思いました。私はどこかで「自分は負け犬であり、どう頑張ってもチャンピオンになんかなれない」と思っていました。しかし、そうではありません。私たちは聖書から、神さまが私たちをどう評価しておられるのか聞かなければなりません。ヨエル3:10「弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ」とあります。私は弱い、人々も私を弱いと思っているだろう。しかし、神さまは弱い者に「『私は勇士だ』と言わせよ」と命じておられます。これは、自分が自分をどう思っているかということではありません。また、「どうか私を強くしてください」と、祈りなさいということでもありません。「もう、あなたは勇士なんだから、『私は勇士だ』と言え」ということです。「あなたはチャンピオンなのだから、『私はチャンピオンだ』と言いなさい」ということです。「あなたは一流でエクセレントなのだから、『私は一流でエクセレントだ』と言いなさい」ということです。思うだけではありません。祈るのでもありません。主がおっしゃるとおり宣言せよということです。主のことばどおり宣言するなら、思いが変えられ、感情や、行動が変えられるのです。

箴言18:21「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」とあります。親が言うように、先生が言うように、人々が言うように「私は弱い、みじめな存在である」と言うならどうなるでしょう?本当に弱くてみじめな存在になります。多くの人は、サタンが人々を通して言ったことばをそのまま信じて、口に出しています。だから、その人の人生がそうなります。まさしく、「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」のです。では、どうしたら良いでしょう?詩篇27:1「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」アーメン。ヘブル13:6「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」アーメン。弱い人は「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と言うべきです。また病の人は「キリストの打ち傷のゆえに、癒されました」と言うべきです。必要を覚えている人は「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と言うべきです。主は「あなたの言ったとおりになるように」とおっしゃいます。


2.攻め下れ

いよいよミデヤン人と戦うことになりました。敵のミデヤン人には13万5000人の兵士がいました。一方、イスラエルには3万2000人しかいません。主はギデオンに「あなたと一緒にいる民は多すぎるから、私はミデヤン人を渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に誇るといけないから」と言いました。ギデオンは主から言われたように、「恐れ、おののく者はみな帰りなさい」と言いました。すると、民のうちから2万2000人が帰って行き、1万人が残りました。すると、主はギデオンに「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。私はそこで、あなたのために彼らをためそう」と言われました。そこで、ギデオンは民を連れて、水のところに下って行きました。民たちは、言われたとおり、水辺で水を飲みました。ある者は、犬がなめるように、舌で水をなめました。つまり、口に手をあてて水をなめました。また、ある者は、ひざをついて水を飲みました。主は「手で水をなめた300人で、私はあなたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ」と言われました。どういう意味でしょうか?ひざをついて水を飲むとは、顔を下に向けて水を飲むということです。一方、口に手をあてて水をなめるとは、前方を向いているということです。つまり、敵がいつ責めてきても良いように臨戦態勢を取っているということです。そうやって、水を犬のようになめた人はたったの300人でした。なんと、9700人の人たちは、家に帰らされました。うあー、たった300人だけが残されました。これが、「ギデオンの300人」と言われる勇士たちです。

その夜、主はギデオンに「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから」と仰せられました。そこで、ギデオンともう一人が、陣営に偵察に行きました。そこには、ミデヤン人や、アマレク人、東の人々がみな、いなごのように大勢、谷に伏していました。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれないほどでした。ギデオンがそこに行ってみると、一人の者が仲間に夢の話をしていました。「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが1つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった」。すると仲間は「それはギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全体を渡されたのだ」と言いました。ギデオンがその夢と夢の解き明かしを聞いて、確信を持ちました。ギデオンは300人を三隊に分け、全員に角笛とからの壺とを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れされました。まことに、変な戦い方であります。彼らは、からの壺にたいまつを灯して、こっそりと陣営の端と端を取り囲みました。ちょうど、夜中の番兵が交代したばかりでした。三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕きました。それから、左手でたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫びました。陣営の者たちは、みな走りだし、大声を上げて逃げました。300人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされました。なんと、彼らは暗闇の中、パニックになり、同士打ちをしました。そして、恐れて逃げました。ギデオンはイスラエルの部族に使者を送り、ミデヤン人を追撃させました。中には協力しない人たちもいました。しかし、ギデオンと彼に従う300人は追撃の手をゆるめませんでした。ギデオンたちはミデヤン人の王たちを捕えました。そして、ギデオンたちのおかげで、イスラエルが勝利しました。

戦い方は非常に幼稚なように思えます。しかし、どんな方法でも良いのです。一番重要なことは、「主が敵をギデオンに渡された」ということです。ギデオンと300人も戦いましたが、一番、戦ったのは主ご自身であります。主が彼らに恐れを与え、彼らが同志打ちするようにされました。数で言うなら、敵の方が圧倒的にまさっています。13万5000人というのが本当であるならば、2万2000人ではかないません。主は「それでも多い。恐れおののく者は家に帰らせよ」と言われました。なんと1万2000人が帰り、1万人だけが残りました。もし、私がギデオンだったならば、「えー?」と頭を抱えていたでしょう。しかし、主はそれでも多いということで、水辺で試験させ、たったの300人だけが残りました。13万5000人対300人です。神さまにはお考えがありました。イスラエルの民が「自分の手で自分を救った」と言って、神さまに誇るといけないからということです。もし、300人で勝利したのであれば、完全に人間の力ではできません。ということは、「神さまご自身が戦う、神さまが救ったのだ」ということを知らしめるためであったということです。私たちはどうでしょうか?日本のクリスチャン人口は1%に達しません。30年くらい前にこういう戦略が言われました。ファックスでも自分ひとりでは、ダメで、相手がいなければならない。5%、いや10%普及したなら、どんどん増えると言いました。「同じように、クリスチャン人口が10%に達したら、なだれ減少が起こり、日本人はみなクリスチャンになります。だから、1000万人の救霊を目指すべきです」とある人が言いました。なぜなら、日本人の多くは、横の人たちを見て決めるからです。「あれ、あなたまだ、クリスチャンでないの、流行におくれるよ」と言われたら、「ああ、そうですか。私もクリスチャンになります」。確かにお隣の韓国は25%、中国も台湾も10%前後でしょう。しかし、日本だけが取り残されてしまいました。

キリスト教会の多くは、「2000年まではリバイバルが来る」と本当に信じていました。しかし、今年は2013年です。日本のキリスト教会全体に失望落胆の空気がたちこめています。「何をやってもダメだった」という気持ちです。今は神学校に行く人たちが本当に減っています。牧師になる人がいません。また、地方では牧師の高齢化が進み、3つか4つの教会が合併せざるを得ません。私自身も弟子訓練をしても、セルチャーチをしても、うまくいかなかったので、次の手が出ないというところです。しかし、今では、神さまのリバイバルは突然、やってくると信じています。詩篇126篇にこのようなみことばがあります。詩篇126:4 「主よ。ネゲブの流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」砂漠を流れる川は、ワジと言って、ふだんは水が流れていません。しかし、雨が降ると、突然、激流のように流れます。この夏、日本でも各地で豪雨が降り、川が氾濫したことが何度もありました。全く、望みのないようなところに、突然、主のみわざが起こるということです。きょうは、数ではないということを学びました。まず、神さまは一人の男性、ギデオンを選びました。彼は元来、臆病者であり、自分でも「最も若くて、小さい者だ」と思っていました。ところが、主の使いが

ギデオンに現れ「勇士よ。主があなたと一緒におられる」と言いました。主は、あえて、弱そうなギデオンを選ばれたのです。さらに13万5000人もいるミデヤンに対して、どのくらいの数で戦わせたでしょうか?1万人でも少ないのに、たったの300人です。パーセンテージで言うと、なんと0.22%です。日本の人口にたとえたなら、280万人くらいのクリスチャンで良いということです。いくら少なくても、それくらいはいると思います。イエス様は世界を変えるために、たった12人の弟子を選ばれました。ペンテコステの火、聖霊を受けた人たちは120人でした。彼らは迫害を恐れずに福音を宣べ伝えました。やがて、アンテオケ教会から異邦人に向けて宣教師が派遣されました。使徒パウロたちによって、ヨーロッパまで福音が伝えられました。本当に、最初はからし種のような存在でしたが、やがてヨーロッパをひっくり返しました。

では、重要なことは何なのでしょうか?クリスチャンがちゃんとしたキリストの弟子になるということです。ギデオンの300人とは、新約聖書的に言うなら、キリストに命をささげたキリストの弟子たちのことであります。今は「弟子」ということばは、あまり使われません。弟子とは十字架を負ってキリストに従う者であります。何をするにしても、どこへ行くにしても、「キリスト」「キリスト」と言っている人です。現代の私たちは、命を懸けるものがほとんどありません。「命がけ」ということばも、あまり使われません。そういうことばを使わなくても、良いと思いますが、キリストを中心として生きる人が、キリストの弟子だと思います。数も重要ですが、まず、私たちがギデオンの300人になる必要があると思います。イエス様は「あなたがたは世の塩である」と言われました。塩はそんなに多くなくても良いのです。ただ、塩気のない塩は困ります。昔は岩塩と言って、石ころのような塩を紐でつるしておきました。それを鍋の中に、ちょぼ、ちょぼ浸しました。すると、岩塩が溶けて、塩味がつくのです。しかし、しばらくすると塩気のしない単なる石ころになります。そうすると、主婦は道端にそれをポイと捨てます。人々はそれを他の石と一緒に踏みつけるのです。おお、自分が塩気のあるクリスチャンかどうか、吟味する必要があります。福音を自分の中にだけしまっておいたならば、塩気のないクリスチャンです。私たちはギデオンのように、勇士であり、主が共におられる存在です。ですから、自分でも、「私は勇士であり、キリストの弟子である」と告白する必要があります。ハレルヤ!主は小さない者を用いて、大きなことをなされます。主は少ない人数を用いて、大勢を救われます。一人ももれることなく、ギデオンの300人、キリストの弟子になりましょう。


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