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2013年11月17日 (日)

怪力サムソン      士師16:18-22

 イスラエルが王国になる前は、とても乱れていましたが、士師と呼ばれる指導者たちが活躍した時代でもあります。士師の中には女性もいましたし、ヤクザみたいな人もいました。きょうはその中の一人、サムソンについて学びたいと思います。サムソンは怪力で有名なので、スーツケースに、「サムソナイト」というメーカーがあります。「とても頑丈で壊れない」という意味でネーミングされたのだと思います。昔、「サムソンとデリラ」という映画がありましたが、聖書の物語だとは知りませんでした。サムソンについては、士師記13章から16章まで、4章にわたって記されています。これをたった30分間で語りたいと思います。


1.怪力サムソン

イスラエルが主の目の前に悪を行っていたので、主は40年間、彼らをペリシテ人の手に渡されました。ある時、主の使いが不妊の女性に現れ、こう言いました。「あなたはみごもり、男の子を産む。今、気を付けなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテの手から救い始める」。ナジル人というのは、「神に聖別された者」という意味でした。ナジル人は、ぶどう酒や強い酒を飲まず、頭にかみそりを当てることもしませんでした。人々は、長髪の人を見るとき、神から選ばれた特別な人であることを確認することができました。サムソンの他に、サムエルもナジル人でした。新約聖書では、バプテスマのヨハネ、そしてイエス・キリストもそうでありました。古代の人たちは、髪は力といのちの源であると考えたのかもしれません。アメリカの話です。息子がお父さんに、「友達と旅行に行きたいので新車を貸してくれ」とお願いしました。お父さんは「3つの条件を満たしたら、車を貸してあげるよ」と言いました。「第一は学校の成績がアップすること。第二は日曜礼拝に毎週、出ること。第三はその長い髪の毛を切ること」と言いました。1か月後、息子がお父さんに「学校の成績もアップしたよ。毎週、日曜日の礼拝にも出ているから、車を貸してよ」と言いました。お父さんは「その長い髪はどうしたんだ。短くしなけりゃ貸してやらないよ」と言いました。息子は「お父さん。聖書を見ると、モーセも髪の毛が長かったよ。サムソンやイエス様だって、髪の毛が長かった。だから、切らなくて良いでしょう。車、貸してよ」と言いました。お父さんは「わかった。でも、彼らは、車に乗らないで、歩いていたよ」と答えました。

サムソンの特別な能力は怪力でした。あるとき、若いライオンがほえたけりながら、彼に向かってきました。そのとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼はまるで子やぎを引き裂くように、ライオンを引き裂きました。素手で、ライオンを倒すほどの怪力でした。また、サムソンは、女性から騙されて、綱でしばられたことがありました。ペリシテ人が大声を上げて、彼に襲い掛かりました。すると、主の霊が激しく彼の上に下り、しばっていた綱は火のついた亜麻糸のように、手から溶け落ちました。度々、「主の霊が激しく彼の上に下る」という表現が出てきます。つまり、サムソンの怪力は、主の霊によるものでした。サムソンはペリシテ人を倒すように、神さまから立てられた士師でした。サムソンのやり方は、ペリシテ人に言いがかりをつけて、悶着を起こして、倒すというものでした。しかし、聖書に何と書いてあるでしょう。士師記14:4「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである」とあります。神さまが、そうなるように導いていたということです。良く見ると、サムソンの戦術はとても単純で、子供じみていました。ある時は、ジャッカルを300匹捕え、尾と尾をつなぎ合わせ。その間にたいまつを取りつけました。彼はそのたいまつに火をつけ、そのジャッカルをペリシテ人の麦畑の中に放しました。そして、たばねて積んである麦から、立穂、オリーブ畑に至るまで燃やしました。また、ある時は、ろばのあごの骨で、ペリシテ人と戦いました。相手は鉄の剣ですが、こっちの武器はなま新しいろばのあご骨です。サムソンは、それを手に取って、1000人を打ち殺しました。

30年くらい前から、「どのようにしたら教会が成長するだろうか」という教会成長学が強調されました。「日本教会成長研修所」というのも開設され、多くの牧師たちが学びました。しかし、「教会成長」という名前が良くないということで、今は、JCGIと英語で読んでいます。私はある理由で、学びそこねた者なので、イヤミにならないようにしたいと思います。結論的に申しますと、いろんな戦略を立てても、思ったとおり成長しないということです。神さまはいろんな方法を用います。海外で成功した牧師たちが、「私と同じようにやれば成長します」と言いました。私もいくつか真似ましたが、うまくいきませんでした。牧師の賜物、教会の体質、その国のカルチャーというものがみな違います。だから、「これをやればうまくいく」というものはありません。もちろん、最大公約数的な原則というものはあるでしょう。しかし、「戦略とか方法論は、どうでも良い」とは申しませんが、「いろいろあって良い」ということです。前回はギデオンの戦い方を学びました。ギデオンは空の壺にたいまつを入れて、ラッパを吹き鳴らすという戦術でした。サムソンの場合は、たいまつを結んだジャッカルを野に放つというものでした。ろばのあごの骨を振り回すというのも、とても原始的です。ですから、チャーチ・コンサルタントが勧める方策は、あてにならないということです。それよりも、自分の賜物を発見し、地域教会に合わせていくべきだと思います。サムソンの場合は、「主の霊が激しく彼の上に下って」と何度も書いてあります。ですから、一番必要なことは「聖霊に満たされること」であります。聖霊が導き、聖霊が知恵を与え、聖霊が人を救うということではないでしょうか。ローマ12:11「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」というみことばがあります。ナジル人は、ぶどう酒や強い酒を飲まないということですが、それは勤勉さを象徴しています。バプテスマのヨハネもそうでしたが、世の人たちから、変わり者と呼ばれても構わないということです。しかし、内側に神の聖さと不思議な力に満ちています。そうであれば、人々は何か困ったときに、「祈ってください」と求めてくるのではないでしょうか?「あの人には、神さまが共におられる」という、何かかもし出すような、霊的力を持っていたいと思います。


2.女性に弱いサムソン

 サムソンは女性にとても弱い人でした。男性はみなそういうところがありますが、サムソンは典型的な人物でした。サムソンは、ペリシテ人の娘に一目惚れしました。両親は「異教の娘を妻に迎えてはいけない」と反対しました。しかし、サムソンは「あの女をもらってください。あの女が私の気に入ったのですから」(士師14:3)と主張しました。非常に直情的であり、何も考えていません。結局、彼女とはうまくいきませんでした。士師記16章には、「ガザへ行ったとき、ひとりの遊女を見つけて、彼女のところに入った」と書いてあります。その後、サムソンは「デリラ」という女性を愛しました。ペリシテ人の領主たちが彼女のところへやってきてこう言いました。士師16:5-7「サムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、彼を縛り上げて苦しめることができるかを見つけなさい。私たちはひとりひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。そこで、デリラはサムソンに言った。「あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう。どうか私に教えてください。」サムソンは彼女に言った。「もし彼らが、まだ干されていない七本の新しい弓の弦で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」こういうくだりを読んでいると、「サムソンは自分を売るような女と、どうして、一緒にいるんだろう」とイヤになります。私は「火曜サスペンス」とか、「○○事件簿」などと言うのはほとんど見ません。私の家内は良く見ますが…。物語の中に、人を騙したり、陥れたりする人が必ず出てきます。私は胸がドキドキして見ることができません。「必殺仕置き人」みたいに、白黒はっきりついているのは、安心して見ることができます。しかし、サスペンスものは、だれが犯人なのか良く分かりません。「なんで、この人はだまされるんだろう」「なんでそんなところへ一人で行くんだろう!」とイライラしてくるからです。

 サムソンもそうです。デリラはそれが失敗に終わると、「まあ、あなたは私をだまして、うそをつきました。さあ、今度は、どうしたらあなたを縛れるか、教えてください」と言いました。サムソンは、「新しい綱で私を縛れ」とか、「機(はた)の立糸と一緒に髪の毛七ふさを織り込みなさい」と答えます。そのたびに、敵が来たとき、しばっている綱を簡単に断ち切りました。デリラは「あなたの強い力はどこにあるのか教えてください」と、毎日、同じことを言って、しきりに責め立てました。ついにサムソンは、「自分はナジル人だから、髪の毛がそり落されたら、力がなくなり、普通の人のようになる」と告げてしまいました。本当に馬鹿です。デリラは、ペリシテ人の領主たちに「今度は上ってきてください」と呼んで、報酬としての銀を受け取りました。そして、サムソンを眠らせて、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせました。士師16:20彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は【主】が自分から去られたことを知らなかった。そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。「だから、いわんこっちゃないでしょう」言いたくなります。ここで悲劇なのは、髪の毛を切られたサムソンが「主が自分から去られたことを知らなかった」ということです。サムソンは「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言いました。しかし、力が全く出ませんでした。なぜなら、主が彼から去っていたからです。

 「慢心」ということばがあります。サムソンは自分に怪力があることを良いことに、誘惑の中に身を置いていました。彼は、危険な道を歩いているのに気付いていませんでした。「いざとなれば、これがある!」と自分の力を過信していたのです。しかし、それはサムソン自身が持っているものではありませんでした。主の霊が下ってきて、初めて、できたことであります。頭の良い人、能力のある人ほど、慢心になる恐れがあります。榎本保郎先生が『旧約聖書一日一章』というディボーションの本を書いています。その本に、このようなことが書かれています。「キリスト者とはキリストの教えを守る者ではない。主イエスのような崇高な愛に生きようと努める者でもない。キリスト者とはキリストの生命に生かされる者である。キリストの内にあって生きる者である。その意味において、サムソンは神の力によって生き、大力を持っていた。ところが、サムソンはその力に対して、慎重でなかったように、私たちも自分の力について慎重を欠くことがある。なんだかそれが自分の中にあるかのごとくに思いあがることがある。そして、どこまでもへりくだってそれを求める熱心さを失いやすい。主が彼を去られたとき、彼は全くのただ人である。教会のあらゆることをわきまえ知っている牧師であるとか、役員であるといったことが私たちを強くしているのではない。ただ日ごとに新しく力を注がれ、聖霊によって満たされることによってはじめて私たちはキリスト者として生きることができるのである。」アーメンであります。

 詩篇1:1-2「 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」慢心の罪に陥らずに、日々、みことばと、聖霊に満たされることを求めていきたいと思います。


3.悔い改めたサムソン

 サムソンは捕えられた後、どうなったのでしょうか?士師記16:21「そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。」映画のシーンを思い出します。サムソンは、両目をえぐり取られ、青銅の足かせをかけられました。そして、数頭の牛たちと一緒に地下牢で臼をひいていました。サムソンは、臼をひきながら、自分の行ないを悔いたことだろうと思います。それでは、全く希望がないのでしょうか?士師記16:22「しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。」何と言う励ましでしょうか?悔い改めることによって、神さまから受け入れられている様を想像することができます。神さまはサムソンに、もう一度、チャンスを与えようとしておられます。どのように物語は進展していくのでしょうか?士師記16:23-24さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」ペリシテ人が拝んでいる神さまは、ダゴンでした。彼らは、「ダゴンの神さまが、敵サムソンを手に渡してくださった」と感謝して、盛大ないけにえをささげました。それからどうしたでしょう?士師記16:25-27「彼らは、心が陽気になったとき、『サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう』と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。」祭りもクライマックスになり、みんなの見世物にしようと、サムソンを地下牢から引っ張ってきました。サムソンにとっては何という屈辱でしょうか?おそらく、その建物は石でできた神殿であり、アリーナ席だけではなく、屋上の席にも人々がごったがえししていました。酒に酔った人々は、「サムソン何か面白い演技をしろ!」とわめいていました。

 サムソンは目が見えなかったので、若い牢番に、「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ」と願いました。神殿の中央に、建物全体を支えている、二本の大きな柱がありました。サムソンはその間に立ちました。人々は「何か面白いことをするんだろうなー」。士師記16:28 「サムソンは主に呼ばわって言った。『神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。』そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。そしてサムソンは、『ペリシテ人といっしょに死のう』と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。」

 サムソンが主に呼ばわると、神の霊に満たされ、怪力が戻ってきました。二本の中柱の一本は右手で押し、一本は左手で抱えて寄りかかりました。サムソンはペリシテ人もろとも死のうと、柱を引いて、倒しました。すると、神殿が屋上の席と一緒に崩れ、アリーナ席に全部、落ちました。なんと、サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かったということです。人間的には悲しい最期ですが、サムソンは復讐を果たし、イスラエルの敵、ペリシテ人を倒すことができました。神さまは、ナジル人サムソンのことを覚えておられました。普通でしたら、盲人のまま地下牢で死ぬか、人々の見世物になって死ぬかの人生でした。しかし、自分の命とひきかえに、何千人ものペリシテ人を倒すことができました。サムソンにとっては本望だと思います。使徒パウロは、ローマ11:29「神の賜物と召命とは変わることがありません」と言いました。確かに私たちの不従順や罪によって、力をなくすことがあるでしょう。しかし、神さまが選んだ人を神さまは、簡単には見捨てません。サムソンはナジル人、神さまに聖別された人でした。確かに彼は肉的誘惑に弱い人物でした。聖書を読んだ人は、「あんな人を、神さまが用いるのか?」と不満に思うかもしれません。では、どれだけ私たちの人格がきよめられたら、神さまに用いられる、ふさわしい器になるのでしょうか?一生、努力しても、無理でしょう。なぜなら、私たちには救われて、聖霊に満たされたとしても、肉が宿っています。肉、イコール罪という訳ではありませんが、罪を犯す可能性があるということです。ですから、究極的には、神さまの選びであり、神さまのあわれみです。だから、使徒パウロは、「神の賜物と召命とは変わることがない」と言ったのです。と言うことは、私たちの正しさとか信仰ではなく、神さまの真実、神さまの信仰であります。ですから、私たちは自分の弱さや罪を悔い改めることも重要ですが、自分を選んでくださった神さまを仰ぐべきなのです。偉大な神さまを仰ぐとき、自分の弱さや罪をしのぐ、すばらしい聖霊の力に満たされるのです。

 もう1つ、サムソンの人生からわかることは、神さまはセカンドチャンスをくださるということです。いや、生きている限り、何度もチャンスをくださいます。私たちは、「もうこれで私の人生はおしまい、二度と日の目を見ることはないだろう」と思うかもしれません。確かに、野球とかサッカーなどのスポーツの世界ではそういうことがあるかもしれません。有名な選手が「肉体の限界です」と引退します。しかし、信仰生活に引退はありません。天国に行くまでは現役です。生かされている限りは、何らかの使命があると信じます。当教会に山崎政彦長老がおられました。彼は会社をゼロから立ち上げ、引退後は、会長になりました。会社が暇なので、もっぱら教会の伝道に励みました。献金も出すし、口も出しました。また、「新会堂を建てて、自分が最初にお葬式をするんだ」と言いました。私が赴任した時は資金が450万円でしたが、6年後に新会堂が建ちあがりました。備品も入れて、全部で1億4000万円かかりました。山崎長老は「借金なしで建てるんだ!」と主張していましたが、その通りになりました。それから7年後位に天に召されました。最後に、新会堂という、大事業を終えました。もう、20年たったので、新会堂とは言えないかもしれません。でも、私はこの会堂を見るたびに、山崎長老さんの信仰を思い出します。私たちもサムソンのように弱さがあるかもしれません。しかし、神の霊が下るときに、偉大なことができると信じます。「神の賜物と召命とは変わることがありません」。




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