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2013年10月27日 (日)

新時代のリーダー    ヨシュア1:1-9 

 エジプトから解放された一世代の人たちは、約束の地に入ることはできませんでした。彼らは40年間荒野をさまよって死んでしまいました。約束の地に入れたのは、彼らの子どもたちと、ヨシュアとカレブだけでした。新時代のリーダーとして召されたのは、モーセに仕えていたヨシュアでした。かつて、ヨシュアはシナイ山のふもとで40日間、モーセを待っていました。また、ヨシュアはアマレクとの戦いで勝利をおさめました。今度は、イスラエルの民の先頭に立ち、約束の地を得なければなりません。ヨシュアは、主なる神さまから、約束と守るべき命令が与えられました。


1.信仰に立て

主はヨシュアに何と約束されたでしょうか?ヨシュア1:2-5「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」これはどういう意味でしょう?「主がすでに与えているから、信仰によってそれを得なさい」ということです。これは信仰とは何かということを最もよく説明しています。当時、約束の地カナンには、カナン人やペリシテ人などの先住民が住んでいました。神さまがその地をすでに与えていると言っても、彼らと戦い、彼らを追い出して、それらの土地を手に入れなければなりません。ある人たちは、「ヨルダンの向こうの地、カナンは天国を象徴している」と言いますが、それは当たっていません。天国には戦いはありません。しかし、約束の地カナンには戦いがあります。戦って、それらを勝ち取らなければなりません。私たちはエジプトならぬ罪の世から救われました。せっかく救われたのに、荒野でさまよっている人もいます。しかし、私たちはヨルダン川を越えて、神さまが用意されているものを得る必要があります。この世では戦いがあります。つまり、信仰生活は決して、バラ色の生活ではないということです。でも、神さまはこの世においても、御国の喜び、御国の健康、御国の豊かさを与えようとされています。しかし、それらを得るためには、信仰が必要だということです。

ヨシュアが信仰的に試された出来事は2つあります。第一はヨルダン川を渡るときです。主は「民の先頭に、祭司に契約の箱をかつがせて、川を渡らせろ」と命じました。ヨルダン川は、ヘルモンの雪溶けの水で、岸いっぱいまであふれていました。ヨシュアは、少し前、紅海が2つに分かれてできた海の底を渡った経験がありました。しかし、川は上流からどんどん流れてきますので、海とは違います。水が引いて、陸地ができたら渡ることができます。しかし、今回はそうではありません。契約の箱をかついだ祭司たちが、水が流れている川の中に入りました。足を踏み入れた瞬間、川がせきとめられました。そのため、上からの水がだんだんと、うずたかくなりました。民が渡り終えるまで、契約の箱をかついだ祭司たちは、民たちが渡り終えるまで川の真ん中に立っていました。あふれた水は、はるかかなたの町まで洪水をもたらしました。考古学者は「大きな地震があって、山が崩れ川がせき止められたんだ」と言います。彼らが何と言おうとも、それは神の奇跡です。そのニュースを知った先住民は、何と思ったでしょうか?ヨシュア5:1「ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、【主】がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。」彼らは「これは、えらいことになった」と戦意喪失しました。川の水が引いた後なら、だれでも渡ることができます。しかし、信仰とは、川の水が流れているところに足を踏み入れるということです。もしかしたら、激流に飲み込まれるかもしれません。大恥をかいて、イスラエルの民が戦意喪失に陥るかもしれません。しかし、ヨシュアは主のおことばに従ったのであります。新約聖書では、ペテロが嵐の海の上を歩きました。ペテロはイエス様のおことばを信じて、船から降りたのです。多くの人たちは、「ペテロはおぼれた。おぼれた」と言います。確かにおぼれましたが、その前に、3,4歩は水の上を歩いたのです。ヨシュアもペテロも、まだそうなっていないのに、信仰によって踏み出しました。ハレルヤ!

信仰的に試された2番目の出来事はエリコの城を攻めた時です。ヨルダン川を渡った後は、弱い敵から戦わせてくれたら励ましになります。しかし、主のお考えはそうではありませんでした。難攻不落のエリコの城を攻め落とすところから始まりました。かつて、モーセが12人の偵察隊を派遣したことがありました。そのとき、彼らは何と報告したでしょうか?「その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫、巨人を見ました」と言いました。一世代前の人たちは、恐れをなして断念しました。今度は、逃げられません。ヨシュアとしては責任重大です。しかし、主から示された戦略は、全く意外でした。ヨシュア6:2【主】はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」主は「エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」と言われました。でも、みんなで城壁を打ち破るのではなく、ただぐるぐる回るだけです。これも、ある意味では、信仰であります。武装した者たちが先頭を歩き、その後には角笛を持った7人の祭司、最後には契約の箱をかついだ祭司たちが行進します。一日目、武装した者たちは口からことばを出さず、角笛だけを吹き鳴らして、町を一周しました。二日目も、武装した者たちは口からことばを出さず、角笛だけを吹き鳴らして、町を一周しました。三日、四日、五日、六日と同じことを行いました。城壁の中にいるエリコの人たちは、「何だろうなー?」と頭をかしげたでしょう。そして、七日目だけは、同じしかたで、町を七度回りました。その直後、ヨシュアは「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ」と命じました。民がときの声をあげるいなや、城壁が崩れ落ちました。そこで、民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取りました。考古学者は、「その城壁は上から崩れたのではなく、下から一挙に崩れた」と言っています。

「主がすでに与えているので、信仰によって、勝ち取りなさい」。これが、ヨシュア記が教えている信仰のあり方です。別な表現をすると、「主が敵を打ち負かすので、あなたがたは勝利を自分のものにしなさい」ということです。しかし、このところで不思議なのは、第一日目から、六日目、いや、七日目のときの声をあげる直前まで、「口からことばを出してはいけない」という命令でした。祭司だけが角笛を吹きましたが、民たちは、6日間、だまって町を1周して帰ってきたのです。もし、民たちが口を開くことを許されたら、どんなことを言うでしょうか?「こんなに高い城壁、どうやって乗り越えるんだろう」「こんなに堅固な城壁、とっても歯が立たないよ」「なんで、俺たちはこんな馬鹿なことしているんだ?」ぞろぞろ、歩きながら否定的なことばを並べたでしょう。主があえて、「口からことばを出してはいけない」と命じたのは、そのためです。おそらく、民たちは心の中で「無理だよ、できないよ」と思ったでしょう。しかし、そのことを口に出してはならなかったのです。ここにすばらしい、信仰の法則があります。私たちの思いは、いわば戦場であります。思いの中に、いろんな否定的なものが浮かんできます。特にサタンは私たちの思いを攻撃して、破壊的な思いを投げ込んできます。そのとき、私たちの口が、否定的な思いを口に出して言うならどうなるでしょう?そのようになってしまいます。口に出した瞬間、神さまが与えてくれた約束が反故になるのです。だから、私たちは積極的な信仰告白をするなら良いのですが、間違っても、否定的で破壊的なことを口から出してはいけないのです。エリコの城壁は、7日間の信仰が積み重なって、ときの声とともに崩れ去ったのです。

イエス様が同じエリコで、盲人の物乞い、バルテマイに出会いました。彼は「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と叫びました。人々は彼をだまらせようとしました。しかし、ますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びたてました。イエス様は彼を呼んでくるように言いました。イエス様は彼に「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれました。「盲人は、先生。目が見えるようになることです」と言いました。イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。すると、すぐさま彼は見えるようになりました。私たちが神さまに対して、何を言うかがとても重要です。神さまはすでに、私たちに良きものを与えようと願っておられます。問題は私たちです。私たちが信仰によって「これをください」と手を差し出すなら、私たちのものになるのです。目に見えてから、手を差し出すのはだれでもできます。目に見えてない前に、一歩進み、手を差し出すのです。


2.守るべき命令

ヨシュアは新時代のリーダーとして召されました。これから、約束の地に攻め上り、主が与えた地を勝ち取らなければなりません。しかし、そのためにヨシュアが守るべき命令がありました。ヨシュア1:6-9「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」守るべきこととは、第一は恐れないこと、第二はモーセの律法を守るということでした。9節「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」とあります。おそらく、モーセが死ぬ前にも、このことばを主から聞いていたのではないかと思います。

ヨシュアは主なる神さまから「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」と言われました。その保障となるものは何でしょう?主がどこにおいても、共におられるからです。もし、ヨシュアがちぢこまって、戦うのをやめたらどうなるでしょう?主が戦えなくなってしまうからです。一般に子どもが自転車に乗れるようになるために、父親は手助けをするでしょう。私は4人の子どもに自転車乗りを教えました。子どもが自転車のハンドルを握ります。私が荷台を押さえながら、後ろから押します。子どもはふらふらしながらも、前に進んで行きます。ペダルを踏んでも踏まなくても、私が押しているので大丈夫です。しかし、子どもが「怖い!」と言って、ハンドルから手を放すとどうなるでしょう?ハンドルが「くにゃっ」と曲がり、前に進むことができません。いくら、私が力いっぱい押しても、前に進むことができません。つまり、子どもは恐れないで、ハンドルをただ握っていれば良いのです。あとは、私がなんとかやります。そのうち、バランスが身につき、自分で乗れるようになります。神さまも同じで、私たちが恐れないで立ち向かうなら、神さまが後ろから支えてくれます。神さまは恐れる者とは共にいることができません。ヨシュアがエリコを責める前に、ひとりの御使いと出会いました。彼は抜き身の剣を手にもって、ヨシュアの前に立ちはだかりました。ヨシュアは「あなたは、私たちの味方ですか、それとも私たちの敵なのですか?」と聞きました。御使いは「いや、私は主の軍の将として、今、来たのだ」と言いました。つまり、「主が共にいるけれど、ヨシュア、お前は主と共にいるのか?」ということです。ヨシュアが恐れないで主と共にいるならば、主ご自身が戦ってくださるということです。

もう1つヨシュアが守るべきことは、モーセの律法です。主は「わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」と言われました。モーセの律法の中心は十戒であります。特に、一戒と二戒が重要です。主なる神以外を神としないこと。また、他の神々にひれ伏さないことであります。なぜ、これが重要のでしょうか?これから攻め上るカナンの地は、偶像に満ちていたからです。ヨシュアは主が命じられたとおり、先住民を聖絶しました。ひとりも残さなかったということです。やがて、イスラエルの民たちは、部族に従って、割り当て地をいただきました。地図上では、自分たちのものです。しかし、まだ、先住民があちらこちらに住んでいます。ところが、どうでしょう?イスラエル部族は、戦うことは戦いましたが、その人たちを追い払いませんでした。その結果、カナン人が彼らの中に住むようになりました。そういう妥協が起こり、彼らと結婚し、やがては彼らの神を拝むようになったのです。これがイスラエルの堕落です。しかし、モーセは申命記において、「彼らを追い出しなさい。彼らと契約を結んではならない。彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない」と口が酸っぱくなるほど、警告していました。イスラエルがその戒めを破ってから、主は彼らから去り、共に戦ってくれなくなったのです。逆に、敵の方がイスラエルを侵略し始めるようになったのです。

私たちはモーセがヨシュアに与えた、律法を大事にしなければなりません。新約聖書的に律法を解釈すると、それは神のみことばであり、主の戒めであります。イエス様は数ある律法をたった2つにまとめられました。主を心から愛すること、そして隣人を自分のように愛することです。この2つこそが律法の中心です。同時に私たちは、周辺的な戒め、つまり神のことばを自分のものとする必要があります。ある人は、聖書を「これは神のことばだけれど、これは神のことばではないから守る必要はない」と言います。食べ物で言うと、子どもが人参やピーマンを皿から取りのけるようなものです。神のみことばの偏食はよくありません。旧約聖書も読み、そして新約聖書も読みます。柔らかい食物もいただきますが、堅い食物もいただきます。柔らかい食物とは、愛と恵みに満ちた神のみことばです。「あなたは、神さまからありのままで愛されていますよ」と言われると悪い気はしません。では、堅い食物とは何でしょう?それは義の教えです。神さまに従うこと、隣人の罪を赦すこと、神さまから与えられた使命を果たすことなのです。神さまは、あるとき、「あなたのこういう所を変えるべきです」と言われるでしょう?「え?ありのままで良いと言ったのに?」と言ったでしょう。「ありのままで良い」とは言っていません。「愛されている」と言ったのです。でも、本当の愛は、子どもが神さまの似姿に成長することです。そのために、試練や訓練を受けることがあります。後から振り返ると、辛い出来事も「あのことがあったから、今があるんだ」と喜ぶことができるでしょう。

モーセがヨシュアに与えた命令で、新約の私たちが守るべきことは何でしょう?第一に、それは、神のことばを守り行うこと、右にも左にもそれないということです。つまり、聖書の言葉、全部を「神のことばとして守り行います。ありがとうございます」と受け取ることです。これも信仰です。「聖書全部が自分が守り行うべき律法であり、神さまのことばなんだ。アーメン」と信じて受け入れると、聖書が慕わしくなります。神のみことばが、神のみことばとして響いてきます。第二は、それを守り行うために、口から離さず、昼も夜もそれを口ずさむということです。「口ずさむ」とは英語の聖書では、meditate瞑想する、深く思うという意味の言葉です。ある人たちは、このことをディボーションとか静思の時(Q.T)などと呼びます。呼び方はどうでも良いのですが、みことばをいつも読んで、その意味を考え、適用していくということです。あなたはどのくらいの時間を聖書を読むことに使っているでしょうか?朝一番に新聞を読むでしょうか?夕食を食べ終わった後、テレビの前に寝そべると2時間があっという間に過ぎます。きょうは一日疲れたので、そのまま寝て、朝、すぐ仕事にでかける。本当に聖書を読む時間をどこかに入れないと、日曜礼拝だけになってしまいます。今は、毎日読めるディボーションの本もあります。いろんな工夫をして、聖書のみことばと親しみましょう。そうすると、私たちの考えが変わり、感情が変わり、行動も変わっていきます。

その結果、どうなるのでしょうか?「それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」「そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」繁栄し、栄えることができると約束しています。これは、最初、モーセがヨシュアに語ったことです。その次に、主ご自身がヨシュアに語りました。そして、今は、聖書を通して、神さまが私たちに語ってくださっています。これは、必ずそうなるという神さまの約束です。ある人たちは、クリスチャンが繁栄するとか、栄えることを否定する人がいます。それは「ご利益信仰だ、繁栄の神学だ」と言います。実際、そう主張している教会ほど、貧しくて、病気の人が多いようです。繁栄し、栄えることは、神さまのことばを守り行ったことの結果です。目的は、神さまのことばを瞑想し、守り行うことです。しかし、神さまはそういう人に繁栄と栄えを恵みとして与えてくださるのです。この地はカナンの地のようです。この地は天国ではありません。神さまはヨシュアのように、私があなたに与えているから、信仰によって勝ち取りなさいと今もおっしゃっています。この地は本来は神さまのものでした。しかし、アダムが罪を犯してから、サタンが横取りしてしまったのです。だから、私たちは主の御名によって戦って、自分のものとすることができるのです。主の御名によって、繁栄と健康と幸いを自分のものとしましょう。

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2013年10月20日 (日)

神のしもべモーセ      出エジプト32:30-35 

 イスラエルの民は、エジプトから奇跡的に脱出することができました。その後、主なる神さまは彼らをシナイ山のふもとに導きました。ここで主なる神さまはイスラエルの民と契約を結びます。また、同時に、十戒をはじめとする律法を与えました。ここには、旧約といわれる中心的な思想があります。旧約の場合は、律法を守ってこそ、契約が成り立ちました。一方、新約の場合は、律法をイエス・キリストが全うしたので、信じるだけで救われるということです。新約ばかりを読んでいると、信仰がイチゴ・ジャムのように甘くなるでしょう。たまには、旧約から、「恵みがないならば本当に大変なんだなー」ということを知ることはとても重要です。きょうは「神のしもべ」と題して、モーセの後半の人生から学びたいと思います。


1.モーセと律法

イスラエルの民は無事、エジプトから脱出することができました。その後、主である神さまは、イスラエルと契約を交わしました。主はシナ山からモーセを呼んで、以下のことをイスラエルの人々に告げよと言われました。出エジプト19:4「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」これは、シナイ契約と言って、聖書の中でも超有名な箇所です。この契約の特色は、第一に、神さまから一方的に与えられたものです。第二は、「契約を守るならば」という条件付きでした。その条件とは十戒を中心とする律法を守ることであります。契約と律法がくっついています。売買契約でも生命保険でも、契約条項というものがあります。「甲か乙が、これを破ったら、契約は成り立ちませんよ」というものです。大体、小さな文字で書かれているので、契約を交わすときはあまり見ません。あとから、「こういうことが書いてあったのか!」と驚くことがよくあります。モーセが山から降りて、民の長老たちに、先ほどの内容を述べました。出エジプト19:8「すると民はみな口をそろえて答えた。『私たちは【主】が仰せられたことを、みな行います。』それでモーセは民のことばを【主】に持って帰った。」ちょっと軽い感じがしますが、「みな行います」と口をそろえて誓いました。

モーセは契約の条件である律法を受けるために、再びシナイ山に登りました。シナイ山は全山が煙っていました。なぜなら、主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからです。その煙は、かまどのように立ち上り、全山が激しく震えました。山の上に雷と稲妻と密雲があり、角笛の音が非常に高く響いていたので、イスラエルの民はみな震え上がりました。「主はモーセに告げて仰せられました」という語り出しで、律法が語られています。律法の主な内容は、十戒、民事法、刑事法、道徳法、宗教法、宗教暦などです。その中で一番、有名なのは十戒でしょう。出エジプト記20章に記されています。第一は「私の他に他の神々があってはならない」です。原文は「私の顔の前に他の神々があってはならない」となっています。たとえば、神さまと私の間に、他の神々があったらどうなるでしょうか?まことの神さまが見えなくなります。第二は「自分のために偶像を造ってはならない」です。「私を憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」となっています。このように偶像礼拝は大きな罪です。第三は「主の御名をみだりに唱えてはならない」です。主を「ヤーウェ」などと呼んだりしますが、ヘブライ語では子音ばかりなので、読めないようになっています。ユダヤ人は「神」と呼ぶ代わりに「天」と言い換えました。第四は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」です。これはイスラエルに交わされた契約であると考えられ、教会では日曜日を聖日としています。第五は「あなたの父と母を敬え」です。一戒から四戒までは神さまに関することです。第五から第十は人との関係です。父と母を敬うことが、人との関係で一番大事だということです。第六は「殺してはならない」です。殺人事件が毎日のように起こる現代社会に最も重要なことではないでしょうか?第七は「姦淫してはならない」です。イエス様は福音書で「今は悪い姦淫の時代である」と言われました。第八は「盗んではならない」です。第九は「隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」です。第十は「隣人の家を欲しがってはならない」です。いわゆるむさぼりの罪です。昔、赤羽教会におられた深谷先生が、十戒の数え歌を教えてくださいました。「一つ一人の神を拝せよ、二つ再び偶像を拝むな、三つみだりに御名を唱えるな、四つ喜び安息日守れ、五ついつも父母を敬え、六つむごい殺人を犯すな、七つ汝姦淫するなかれ、八つやましい盗みをするな、九つこんりんざい嘘を言うな、十に隣をむさぼるな」です。

主から、イスラエルの長老70人とアロンと二人の息子が、シナイ山に登るように言われました。そして、モーセは彼らのところに来て、主のことばと定めをことごとく民に告げました。すると、民はみな声を1つにして「主の仰せられたことは、みな行います」と答えました。その後、山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの12部族に従って、12の石の柱を建てました。それから全焼のいけにえと和解のいけにえを主にささげました。モーセは契約の書を取り、民に呼んできませました。すると、彼らは「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と誓いました。そこで、モーセはいけにえの血を取って、民に注ぎかけて言いました。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたと結ばれる契約の血である」と。そのとき、イスラエルの長老たちは、神さまを仰ぎ見ました。その後、主が「教えと命令の石の板を授ける」ということで、モーセは再び山に登りました。主の栄光が山の頂で燃えるように見えました。モーセは雲の中に入って行き、四十日四十夜、山にいました。山の上で律法の後半の部分を神さまからいただきました。そして、神さまご自身の指で、十戒を記した石の板二枚を授かりました。ところが、山の下ではどうでしょう?モーセの帰りがあまりにも遅いので、民たちはアロンに「私たちに先立つ神さまを造ってください」とお願いしました。アロンは彼らが持て来た大量の金の耳輪を受け取り、鋳物の子牛にしました。民たちは子牛の前に全焼のいけにえをささげ、飲み食いして、戯れました。主はモーセに、「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らを絶ち滅ぼし、モーセを大いなる国民にしよう」と言いました。モーセは「どうか怒りを納めてください、あなたの民へのわざわいを思い直してください」と懇願しました。

山から降りてみると、民たちは子牛のまわりで踊っていました。モーセは怒って、主から授かった十戒の板を投げ捨てて、粉々に砕いてしまいました。そして、アロンに、「あなたが彼らにこんな大きな罪を犯せたのか」と言いました。アロンは「民たちがどうしても神さまを作ってくれと言ったので、金を取って、火に投げ込んだら、この子牛が出てきたのです」と苦しい言い訳をしました。出エジプト記32:27「そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、【主】に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」レビ族が立ち上がり、偶像礼拝をした者たちを剣で殺しました。そのことによってレビ族は祝福されました。神さまはイスラエルの民に「私にとって祭司の国、聖なる国民となる」と契約を結ばれました。民たちは「主の仰せられたられたことを、みな行います」と答えました。ところが、たった40日後、偶像礼拝をして契約を破ってしまいました。本来なら、イスラエルの民、全員が滅ぼされるべきでしたが、直接、罪を犯した3000人だけが裁かれました。そのさばきのために、神さまの側についたのがレビ族でした。その後、レビ族はイスラエルの祭司として選ばれました。本来、イスラエルの民が、全世界に対して祭司の国となるべきでした。しかし、罪を犯したため、縮小され、レビ族がイスラエルの民の祭司になったのです。一種の堕落です。

その翌日、モーセは主のところに行って、民のためにとりなしました。そのことが、出エジプト記33:31以降に書かれています。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」その当時、すでに「いのちの書物」という概念があったというのは驚きです。モーセは神さまと取り引きをしました。民の罪を赦してもらうかわりに、自分の名前を消し去っても良いと言ったのです。つまり、自分がさばかれ、永遠の滅びを受けても構わないということです。これに対して、主は「罪を犯した者はさばく」と言っただけで、答えていません。この世では、自分の罪を秘書や部下になすりつけて、自分の身を守ろうとします。しかし、モーセのすばらしいところは、自分の身を犠牲にしてでも、民たちを守ろうとしたところです。モーセが神さまと民との間に入って、とりなした姿は、主イエス・キリストの型、予型であります。


2.モーセと荒野

イスラエルの民は主の山を出て、三日の道のりを進みました。しかし、民たちは荒野で「水がない」「食べ物がない」とつぶやきました。そのことが、民数記に記されています。民数記11:1-11。さて、民はひどく不平を鳴らして【主】につぶやいた。【主】はこれを聞いて怒りを燃やし、【主】の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが【主】に祈ると、その火は消えた。【主】の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」マナは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようであった。人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。【主】の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。モーセは【主】に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。主は荒野で天からマナを降られました。フワフワして、人々はそれを集めて、パン菓子のように加工して食べました。最初は、おいしいクリームのような味でした。しかし、同じものを何日も食べるとだれでも飽きてくるでしょう。それでイスラエルの民は、「エジプトにいたときは、肉も魚も食べていた。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも食べていた。しかし、今は何もなくて、このマナを見るだけだ」と不平をもらしました。エジプトの辛い奴隷時代のことを棚に上げて、「マナしかないのか!」とつぶやきました。このことに対して、主が怒り、モーセも腹立たしく思いました。そして、「なぜ、あなたはしもべを苦しめるのでしょう。このすべての民の重荷を私に負わせるのでしょう」と文句を言いました。

民たちは「私たちに肉を食べさせてくれ」とモーセに泣き叫びました。モーセは「どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか」と主に申し上げました。さらに、モーセは「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに合わせないで下さい」と言いました。モーセは「私にはもう面倒みきれません。どうか私を殺してください」と言ったのです。モーセはすばらしいリーダーでありましたが、民たちの不平不満には耐えられませんでした。ダビデもそうですが、モーセがありのままを神さまに申しあげているところは、私たちが学ぶ点であります。私たちは祈るとき、言葉を選んで、「この祈りを御前におささげします」みたいに祈ります。悪くはありません。しかし、ある場合は、悩みの真ん中で、「これは私には負いきれません。無理です。」と申し上げても良いということです。私たちは主イエス・キリストにあって、それくらい何でも言える者になったのです。そうやって、ありのままをさらけ出して祈ると、主は、あとから静かな声で語ってくださいます。主はモーセに何と仰せられたでしょうか?主は一日や二日や五日や十日ではなく、1か月も、鼻から出るくらいに肉を与えると言われました。モーセは「男性だけでも60万人いるのです。彼らのため羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか?」と言いました。主はモーセに「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と言われました。主は風を起こして、海の向こうからうずらを運んで、宿営の上に落としました。宿営のこちら側に約1日の道のり、あちら側にも約1日の道のり、地上に約90センチの高さになりました。民たちは出て行ってうずらを集めました。少ない人でも、230リットルくらい集めました。彼らは欲望に駆られて、食いまくりました。そのとき、主の怒りが民に向かって燃え上がりました。むさぼりがひどかったからです。

また、水がないときもつぶやきました。民はモーセに「私たちをこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか?なぜ、エジプトから上らせて、この悪いところに引き入れたのか」と言いました。さすがの柔和なモーセも怒りました。民数記20:10-12そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」主はモーセに「岩から水が出るように命じよ」とおっしゃっていました。それなのに、モーセは怒りに任せて、岩を二度打ちました。確かに水は出ましたが、それが主を怒らせました。その理由は、主を信じないばかりか、主をイスラエルの人々の前に聖なる者としなかったということです。私たちから見るならば、小さな罪のように思えます。新約聖書的に考えるなら、岩はイエス・キリストを現わしています。杖で岩を打つとは、イエス様を打つということになるのかもしれません。旧約時代はとても厳しいです。特に神さまに仕える者に対してはそうです。神のしもべモーセはこの罪のために、約束の地カナンに入ることができませんでした。120歳になったとき、ピスガの頂から、アブラハム、イサク、ヤコブに「あなたの子孫に与えよう」と言った約束の地を見ました。見るだけで、そこへ渡っていくことはできませんでした。

また、エジプトから解放されたイスラエルの民も約束の地に入ることができませんでした。このことは、民数記13、14章に記されています。ツインの荒野からカナンの地を探るために、12人の偵察隊を遣わしました。40日後、その地の産物をたずさえ「まことにそこは乳と蜜が流れています」と言いました。ところが、その中の10人は「その町々は城壁が高く、巨人が住んでいます。私たちは自分がいなごのように見えましたし、彼らにもそう見えただろう」と言いました。民たちは、否定的な偵察隊の言うことを聞いて、「ひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」と泣き叫びました。モーセは全会衆の前にひれ伏して、何も言えませんでした。ただ、ヨシュアとカレブだけが、「その地を恐れてはならない。攻め上ろう」と言いました。しかし、全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出しました。そのとき、主がモーセに仰せられました。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」すると、モーセは願いました。「あなたがこの民を滅ぼしたら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。『主はこの民を、彼らに誓った地に導きいれることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ』どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。主は怒るのにおそく、恵み豊かであると約束されたではありませんか。どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください」。主は「私はあなたのことばどおりに赦そう」と仰せられました。その結果、ヨシュアとカレブの二人、そして彼らの子孫が約束の地に入ることができました。

このように、モーセは何度、主の前に出て「どうかイスラエルの民を赦してください。あなたは、怒るに遅く恵み深い方でしょう」と進言したでしょうか。イスラエルの民は本当に不従順でした。いつも不平不満をもらし、モーセにつぶやきました。しかし、それはモーセにつぶやいたのではなく、主に対してつぶやいたことになるのです。私たちはこのところから2つの教訓を得ることができます。第一に、モーセはしもべとして神の家全体のために忠実でした。しかし、キリストは御子として、神の家を忠実に治められるのです。モーセはイエス・キリストを現わした神のしもべでした。第二は、モーセのとりなしの祈りです。モーセは身を呈して、何度も主の前に出て、民たちのたちの赦しを請い願いました。イエス・キリストは十字架の上で、自分を差し出して、こう祈られました。ルカ23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」イエス様は本当に、自分の命と交換に、人類の罪の赦しを求めました。これまで、私たちは何度つぶやいたでしょう?何度、不従順の罪を犯して来たことでしょう?旧約時代に生きていたなら、命がいくつあっても足りないでしょう。今、このように生かされ、救われているのは主の恵みです。私たちにはモーセよりもすばらしい、主イエス・キリストがおられます。イエス様は私たちを罪の世界から救い出し、約束の地、天のエルサレムに連れて行ってくださる救い主です。律法を全うし、契約の仲介者であるイエス・キリストに従ってまいりましょう。


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2013年10月13日 (日)

王子モーセ   出エジプト2:10-15 ヘブル11:23-27

 ヤコブ、つまりイスラエルの子どもたちは、ヨセフのいるエジプトに移り住むことになりました。なぜなら、カナンを含めて全世界にききんが及んだからです。イスラエルの子どもたちは、エジプトで暮らし、増え広がりました。ところが、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こりました。王さまは「イスラエルの民は、われわれよりも、多く、また強い。戦争が起こったとき、敵側について、この地から出ていくといけないから、かしこく取り扱おう」と言いました。それで、彼らに町の建設や畑のあらゆる労働など、過酷な労働を課しました。それでも、イスラエルの民が増えるので、王様は「男の子が生まれたら、ナイルに投げ込め」と命じました。


1.王子モーセ

レビの家系である一人の女性が、かわいい男の子を生みました。3か月間、お家に隠しておきましたが、隠しきれなくなりました。それで、防水を施したかごに、その赤ちゃんを入れて、ナイル川に流しました。ちょうどそこに、パロの娘が水浴びをするためにナイルに降りて来ていました。彼女は赤ちゃんの泣き声を聞いて、あわれに思い、自分の子として育てました。モーセの名前の由来は、「水の中から引き出した」ことから来ています。不思議なことに、モーセのうばは、実の母親でした。ですから、モーセはヘブル人として育てられながら、同時に、エジプトの王子として育てられたのです。その当時、エジプトは世界で最も栄えていました。モーセは王子して、帝王学など、最高の学問を教えられました。モーセが40歳になったころ、イスラエルの民が苦役を強いられているのを見て、同情心が湧いてきました。ある時、同胞の一人が、エジプト人に虐待されていました。モーセはそのエジプト人を打ち殺し、砂の中に隠しました。翌日、兄弟たちが争っているのを見て仲裁に入りました。ところが、隣人を傷つけていた者が、「だれが、あなたを私たちの支配者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か」と言いました。パロはこの事件を耳にして、モーセを殺そうと捜し求めました。モーセはそれを恐れて、ミデヤンの地に逃れました。モーセは良かれと思って、エジプト人を打って、同胞を救いました。しかし、理解してもらえませんでした。今度は、パロから命を狙われる身となりました。

ヘブル人への手紙は、この事に対して、どのような見方をしているでしょうか?ヘブル11:24-27「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」新約聖書はモーセのことをとても良く書いています。私たちも天国に行ったら、「命の書」から自分の生涯を読み上げられるでしょう。犯した罪や失敗は少しも語られず、良いことだけが並べられるかもしれません。なぜなら、イエス様が間に立って弁護してくださるからです。モーセは仕方なく、ミデヤンの荒野に逃れたのではありません。はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去ったのです。彼はそののち羊飼いになりました。エジプトの王子から、一転して、羊飼いです。それまでは政治や都市建設、交易に携わりました。しかし、今は朝から晩まで、羊の世話です。朝になると羊を柵から出し、草のあるところに導きます。水を飲ませたり、野獣から羊を守ります。夕方になると、羊を従えて家まで戻ります。それをモーセはどれくらいやったのでしょう。40年間です。かつては黒々とした髪の毛がありました。だが、今は額が後退し、残った髪の毛も真っ白になりました。もう、80歳です。エジプトでの暮らしを完全に忘れていまいました。人々からも忘れ去られ、自分がだれかもわからなくなりました。革命は若い者がすることです。しかし、今は、40歳のときの気力も体力もありません。モーセはリーダーとして失敗したという痛みを抱えていました。モーセは自分のことをこのように書いています。詩篇90:9-10「まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」モーセの人生観はまさしく「虚無」でありました。

しかし、私たちは聖書からモーセの生涯がこれで終わりではないことを知っています。モーセはイスラエルの民を脱出させた最も偉大な指導者です。では、モーセのこれまでの人生は無駄だったのでしょうか?そうではありません。『王家の者として生きる』という本にこのように書いてありました。「モーセはイスラエルの民を奴隷制度から解放するために生まれて来たのだ。モーセはパロの宮殿で育てられることによって、奴隷の考え方ではなく、王子としての生き方を学ぶ必要があったのだ。自分が奴隷の考え方であるリーダーに、実際に奴隷制度に捕われている民を解放する力はないのだ。モーセの人生の初めの40年間は、後の荒野で過ごす40年間と同様に重要だったのだ」。そうです。もし、私たちが、自分が取るに足りない者として育てられたらどうなるでしょう?彼は成長の過程で「私には価値がない。私の意見はだれからも尊重されないだろう?」と学ぶでしょう。もし、そういう人が指導者になったらどうなるでしょう?彼は自分の発言にも注意を払わないでしょう。彼が導くはずの人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうでしょう。私が全くその人でした。人々に辛口のジョークを言って、関係を壊してきました。人から「先生、先生」と言われても、「口先だけだろう」と思っていました。自分の生まれ育った環境はたしかにひどいものでした。8人兄弟の7番目、取るに足りない存在として育てられました。神の子クリスチャンになっても、心の奥底で、自分は粗末な存在であると思っていました。しかし、『王家の者として生きる』という本を読んだとき、原因が分かりました。また、ヨセフの生涯を学んだとき、ヨセフが自分のように思えました。今は、本当に自分が神さまから召された存在であることを確信しています。

では、モーセの荒野の40年間は重要だったのでしょうか?とても重要でした。彼は私がエジプトの民を救うんだという自負心がありました。悪いことばで言うと自信過剰です。「若気のいたり」というものはだれでもあります。若くてエネルギーにあふれている時代というのは、良いものです。しかし、車で事故を起こすのは、若い人たちです。なぜなら、無謀な運転をするからです。モーセは、仲間を助けましたが、その代わりエジプト人を打ち殺しました。同胞から「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか?」と言われたとき、返すことばがありませんでした。なぜなら、モーセは神さまの意志ではなく、自分の意志でやろうとしていたからです。そう言われたとき、急に恐れが出てきて、エジプトから逃げました。神さまは人を用いる前に、古い自我を砕かれます。これは神の人に共通しているレッスンです。これまで学びましたがアブラハムは75歳から100歳まで、25年間、子供が与えられませんでした。ヤコブはラバンの家で、20年間、ただ働きをさせられました。ヨセフは13年間、エジプトで奴隷として過ごしました。そして、神さまはモーセを用いるために40年間、荒野で過ごさせたのです。彼は80歳になり、すっかり砕かれました。神さまから「わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と言われたとき何と答えたでしょう?モーセは神さまに申し上げました。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」。もう、すっかり、砕かれていました。

神さまはモーセのように、あなたを用いたいと願っておられます。第一はあなたが生まれた良いもの、良い環境を用いられます。モーセはエジプトで王子として育てられ、40年間、最高の学問を学びました。みなさんの中には、親の力で良い学校をださせてもらった人もいるでしょう。小さいころからピアノやバイオリンを習わされた。両親から可愛がられ、大事に育てられた。すばらしいことです。私のように心の傷が少ないならば、本当に幸いです。また、努力して身に着けたもの、生まれつきの才能もたくさんあるでしょう。神さまは私たちがクリスチャンになる前からも、良いものをたくさん与えてくださったのです。第二は、神さまはあなたを取扱いたいと願っておられます。自分の能力や知恵ではなく、神さまに頼る者にしたいのです。そのため、辛い環境の中を通されるかもしれません。神さまはあなたを病気にしたり、苦しみを与えるお方ではありません。この世の悪魔が、ターミネーターのようにあなたが神さまに用いられる前に滅ぼそうとするのです。しかし、神さまはそれらを逆手にとって、あなたの悪いものを取り除き、純金のように精錬してくださるのです。あとから振り返ると、「ああ、あのことがあって今の私があるんだ」と感謝できるようになるのです。神さまがモーセを準備したように、あなたも準備したいと願っておられます。あなたは神さまのレッスンを合格したでしょうか?やがて、時が満ちるならば、神さまはモーセのように、あなたにお声をかけてくださるでしょう。そして、荒野の40年も無駄ではなくなるでしょう。


2.解放者モーセ

では、モーセを立ち上がらせたものは何でしょうか?「燃える柴の経験」として知られています。乾燥した荒野では柴や灌木が燃えることがよくありました。しかし、その柴は火で燃えていたのに、焼け尽きませんでした。いつまでも、柴は燃え続けていました。モーセは「なぜ、なんだろう」と近づきました。すると火の中から声がありました。出エジプト3:6「『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。【主】は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。』」モーセは「私はいったい何者でしょう?」と答えました。神さまは「わたしはあなたと共にいる」と一本の杖をモーセに与えました。モーセがその杖を地に投げつけると、ヘビになりました。ヘビの尾をつかむと、元の杖になりました。杖とは神さまの権威を現わしています。主なる神さまは「私が共にいるから、パロの前に立て」と言いました。しかし、モーセはいろいろ言い訳をしました。出エジプト4:10「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」「重い」と言っても、舌が10キロもあったわけではないでしょう。そうではなく、モーセは私は口下手なので、「だれか他の人を遣わしてください」と言いました。主は怒りつつ、「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。私は彼がよく話すことを知っている」と仰せられました。つまり、神さまがモーセに話すべきことを教え、モーセがアロンに語り、アロンが人々に語るということです。その後、モーセは手に神の杖を取り、エジプトの地に帰りました。

神の指導者として最も重要なことは、神からの召命であります。モーセが燃える柴の中で、主の御声を聞きました。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。…今、行け。私はあなたをパロのもとに遣わそう。私の民、イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」という命令を聞きました。モーセはいろいろ言い訳をし、躊躇しました。80歳になり、気力も体力も衰えていました。「私は口下手です。エジプトはあまりにも強大です。現役を去った私を誰も認めてくれないでしょう」と言いました。それに対して、神さまはいろいろ励まして、神の杖を持たせました。やっとのことで、モーセは立ち上がり、エジプトに向かいました。モーセは神からも人からも忘れ去られ、一生、羊飼いであると思っていました。しかし、神さまには計画がありました。モーセを通して、イスラエルの民をエジプトから解放させるということです。みなさん、一人ひとりにも、神さまの計画があります。あなたに成してもらいたい、天命、聖なる神の運命があります。それを知らないでいると、せっかく救われているにも関わらず、宙ぶらりんな生活をしてしまいます。この世の人たちと同じように、惰性で過ごしたり、暇をもてあますということになります。そのためには、アブラハム、ヤコブ、そしてモーセのように神さまに出会う必要があります。どういう出会いかと言うと、「私はこのためにあなたを召したよ」というお言葉をいただくことです。モーセは柴のように自分の人生がはかなく消え去ると思っていました。しかし、燃えても、燃えても、燃え尽きない柴を見たのです。モーセは、燃え尽きない柴を見たとき、神さまが与える燃え尽きない人生を見たのです。

モーセはパロの前に立ちました。案の定、相手にされませんでした。モーセは第一、第二、第三と神からのしるしを見せました。パロは、一時は、「わかった、去らせよう」と言います。しかし、災いが止むと、「だめだ」と言って、さらに苦役を増しくわえました。モーセはイスラエル人から「わらなしでどうして煉瓦が作れるんだ」と文句を言われました。さらに、モーセは第四、第五、第六、第七、第八、第九とパロとエジプトに対して、災いをもたらしました。パロはますまず強情になりました。聖書を見るとパウロの心を頑なにしているのは、主であることがわかります。もし、私がモーセの立場であったら、「なぜ、無駄なことをさせているのですか?」と文句を言うでしょう。でも、神さまの考えは、パロと家臣たちを徹底的に苦しめ、第十番目の災いに導くためでした。十番目の災いとは何でしょう?出エジプト12:12-13「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは【主】である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」家の門柱とかもいに羊の血を塗った家は、主の怒りが通り過ぎるということです。イスラエルの民たちは、それを守りました。しかし、パロの初子から家畜の初子まで打たれて死にました。パロは「私の民の中から出て行け。羊の群れも牛の群れも連れて出て行け」と追い出しました。

イスラエルの民は、おそらく100万人以上はいたと思われます。イスラエルは編隊を組み、エジプトの国から離れました。ところが、神さまは、あえて葦の海に沿う荒野の道に回らせました。彼らが海辺で宿営しているという知らせを聞いて、パロは考えを変えました。「われわれは何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは」。パロは戦車を整え、軍勢を引いてイスラエルを追跡しました。イスラエル人はパロの軍勢が近づいてきたとき、「私たちを連れ出して、この荒野で死なせるのか」と不平を言いました。そのとき、モーセは何と言ったでしょう。出エジプト14:13「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」モーセは、神さまから命じられたように、杖を上げ、手を海の上に伸ばしました。すると、海が右と左に分かれ、海底にかわいた地が見えました。100万人以上のイスラエルの民が渡るには、どうしても時間がかかります。イスラエルとパロの軍勢の間に、真っ黒な雲がたちこめました。また、神の使いが戦車の車輪をはずして、進むのを困難にさせました。パロの騎兵たちはあせりました。イスラエルの民が渡り終えた後、モーセが手を海の上に差し伸べました。するとどうでしょう?左右の水の壁がくずれ落ち、パロの戦車も軍勢も海の中にのみこまれました。これが、映画『十戒』の最も、有名なシーンです。この奇跡こそが、イスラエルの歴史に語り継がれた、偉大な神のみわざです。

出エジプトの出来事は、旧約聖書において最も偉大な救いの出来事です。モーセはその奇跡を体験することができました。おそらく、モーセの神概念は全く変わったのではないかと思います。「神さまがこんなことができるのか、主であられる神はなんと偉大なのだろう!」と思ったでしょう?それでどうなったでしょう?伝統的には創世記はモーセが書いたと言われています。しかし、天地創造の出来事を、見てもいないのに、どうして書くことができたでしょう。だから、自由主義神学の人たちは、「後代の人がバビロン捕囚をモチーフにして書いたんだ」と言います。しかし、私はモーセが書いたと信じます。おそらく、モーセは神さまから、天地創造の啓示を受けたでしょう。「光があれ」と言ったら光があった。「乾いたところが現れよ」と言ったら、そのようになった。「植物が地の上に芽生えよ」と言ったら、そのようになった。モーセは紅海が分かれるという奇跡を体験しました。だから、神さまから天地創造の啓示をうけたとき、「あの神さまだったらできる」と啓示を受け止めることができたのです。出エジプトの出来事とは、私たちにとっては救いの出来事です。かつて、私たちはエジプトならぬサタンの支配のもとで奴隷でした。何の目的も持たず、ただ生き延びている人生でした。たとえ夢や希望があったとしても、やがて来る死によって全部、飲み込まれました。私たちを罪と死から、解放させた力は何でしょう?それは、イエス・キリストの血です。過ぎ越しの羊の血を塗ることによって、怒りが通り過ぎました。私たちも十字架のイエス・キリストを信じるならば、神の怒りが過ぎ越し、神さまと和解できるのです。私たちはもはや奴隷ではなく、神の子どもであり、御国の世継ぎです。神さまが王様であるならば、私たちは王子であり、王女なのです。後を追いかけてきた、エジプト軍は海に飲み込まれました。同じように、サタンは私たちを訴えることはできないのです。ハレルヤ!旧約聖書で最も偉大な出来事は出エジプトです。そして、新約聖書で最も偉大な出来事は、キリストの十字架の死と復活です。私たちは新約の時代に生かされています。救いの招きは、すべての人に向けられています。まだ、イエス様を信じていない人は、救い主、人生の主として信じましょう。また、すでにクリスチャンになっている人は、自分が奴隷ではなく、神の息子、娘であることを腹の底から自覚しましょう。ただ生き延びるだけの奴隷根性を捨てて、神の王子、王女として生活しましょう。


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2013年10月 6日 (日)

逆転勝利の人生        創世記45:1-8 

 ヨセフの物語は創世記37章から50章まで記されています。映画にもできそうな大スペクタクルをたった30分で語るには、畏れ多いことであります。もし、ヨセフの物語を1ことで言うならば、それは「神の摂理」であります。神さまを信じない人たちは、すべては、偶然の積み重ねだと言うでしょう。しかし、そうではありません。使徒パウロはこのように言っています。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」神さまがすべてのことを働かせて益としてくださるのです。ヨセフはエジプトの奴隷から宰相(総理大臣)、どん底から天にまで引き上げられた人物です。


1.奴隷ヨセフ

ヨセフはヤコブの11番目の子どもであり、ラケルとの間で生まれた最愛の息子でした。このところでは、ヤコブはイスラエルと呼ばれています。創世記37:3-4「イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。」そでつきの長服を着るということは、働かなくても良いということです。また、ヨセフは兄弟たちの悪いうわさを父に告げていました。「父からえこひいきされているだけではなく、告げ口までするなんて!」他の兄弟たちはそういうヨセフをとても憎んでいました。しかし、それだけではありません。ある日、自分が見た夢を兄弟たちに自慢しました。創世記37:6「ヨセフは彼らに言った。『どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。』兄たちは彼に言った。『おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。』こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。」ヨセフは再び、夢をみましたが、それも兄たちに話しました。太陽と月と11の星がヨセフを伏し拝んでいるという夢でした。これには父イスラエルも「お前の見た夢は、いったい何なのか?私や母上、兄さんたちも、地に伏しておがむとでも言うのか」と、ヨセフを叱りました。この夢はやがて実現するのですが、それから長い年月を経てのことでした。

あるとき、兄たちが羊の群れを飼うために遠くにでかけていました。父はヨセフに、兄たちのことが心配なので、様子を見に行かせました。創世記37:18「彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。『見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。』」兄弟たちは、ヨセフを「夢見る者」と完全に馬鹿にしていました。ヨセフを殺して穴に投げ込もうとだれかが言いました。ところが、長男のルベンは「彼に手をくだしてはならない」と止めました。ちょうどそこに、エジプトに向かうイシュマエルの商人が通りかかりました。その商人にヨセフを銀20枚で売りました。兄弟たちは、ヨセフの長服を家畜の血を付け、父に「悪い獣に殺された」とウソをつきました。ヨセフは17歳のとき、エジプトの奴隷に売られてしまいました。それからどうなったでしょう?ヨセフはパロの侍従長ポティファルの家で働くことになりました。ここにすばらしいみことばがあります。創世記39:3-4「彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。」「愛される」ということばは、英語の聖書ではfavorとなっています。favorは日本語にすると、「愛顧」「寵愛」という意味です。ヨセフは主人からだけではなく、神さまからも、favorを受けていました。主はヨセフのゆえに、ポティファルの家と全財産を祝福しました。ポティファルは自分が食べるもの以外、全財産をヨセフにゆだねていました。

ヨセフは体格もよく美男子だったので、ポティファルの妻が誘惑しました。ヨセフは「どうして私が、ご主人にも、神さまにも罪を犯すことができましょうか」と払いのけました。ところが、彼女は「私と寝ておくれ」と毎日、ヨセフに言い寄りました。あるとき、ヨセフの他だれもいないときがありました。彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ」とせまってきました。しかし、ヨセフはその上着を彼女の手に残して、外に逃げました。「ところが」であります。彼女はポティファルが帰ってきたとき、その上着を手に取り、「へブル人の奴隷が私にいたずらをしようとしたのです」と嘘をつきました。主人は怒りに燃え、王の囚人が監禁されている監獄にヨセフを投げ込みました。当時の監獄は地下牢で、暗くてとても不衛生でした。そこでも、すばらしいことが起こります。創世記39:21-22「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。」このところに、「恵みを施し」とありますが、英語の聖書ではfavorとなっています。ヨセフは監獄の長からだけではなく、神さまからも、favorを受けていました。ヨセフは監獄の中にあって、囚人たちを管理する者となりました。監獄の長はヨセフを信頼して、彼に全部任せました。

この2つの記事で共通していることは何でしょう?ヨセフの環境は最悪でした。兄弟たちから妬まれ奴隷に売られました。主人の家では順調に言っていたのに、濡れ衣を着せられ、今度は監獄に投げ込まれました。普通だったら、「私は悪くないのに」と、神と人を呪うはずです。しかし、ヨセフはひとことも愚痴を言っていません。もう1つは「神さまがヨセフと共におられた」ということです。神さまが共におられるなら環境や立場は関係ありません。ヨセフはどこにおいても祝福されました。かつての主人は「何故なんだろう?ヨセフに任せるとうまく行く。売上も伸びた。ヨセフに任せよう」と思いました。また監獄の長は「囚人たちがおとなしい。ヨセフに任せよう」と思いました。ヨセフはどこででも、favor好意を得ました。私たちは「環境が悪ければどうしようもない。環境が人間を作る」と言います。ある人は自分が育った家、学んだ学校、職場、地域社会を呪うでしょう。もちろん、環境もあるでしょう。しかし、ヨセフの物語を見るとき、環境よりも主が共におられるかどうかであります。本来なら、人々、社会、運命を呪うはずです。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施してくださいました。その結果、主人から厚遇され、家や監獄全体が祝福されました。ヨセフがいたおかげで、まわりの人たちも祝福を得ました。ハレルヤ!私たちがクリスチャンとして、祝福を運ぶ管として、用いられたら何と幸いでしょう?そのためには、置かれている環境に愚痴を言わず、神さまの隣在を仰ぐことであろうと思います。

あるとき、ヨセフが監獄から出られるチャンスが訪れました。王様に仕える献酌官長と調理官長の二人が嫌疑をかけられて監獄に入ってきました。ある晩、二人とも夢を見ました。翌朝、二人の顔色が悪いのでヨセフは「どうかしたのですか?」と尋ねました。二人は「私たちは夢を見たが、解き明かす人がいない」と言いました。ヨセフは「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください」と言いました。束の夢と星の夢を見てから、10年もたっていましたので、すっかり砕かれていました。だから、「解き明かすことは、私ではなく、神さまがなさることだ」と言いました。ヨセフは献酌官長の夢を解き明かし、こう言いました。「三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。あなたが幸せになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」献酌官長はヨセフにとって、頼みの綱でした。ところがどうでしょう?創世記40:23 「ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。」なんと、それから2年間、放置されました。詩篇にヨセフのことが書かれています。詩篇105:18-19「彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中に入った。彼のことばがそのとおりになる時まで、【主】のことばは彼をためした。」本当に、ヨセフはためされたのです。彼のことばのとおりなるまでです。それは「あの夢が実現するまで」であります。私たちのいろんな夢を見ます。あるものは、神さまから与えられた夢があるでしょう。「絶対、この事は叶う」と信じたかもしれません。しかし、度重なる試練によって、その夢を捨てた人もいるでしょう。ヨセフも試されました。何年間でしょう?13年間です。ヨセフが30歳になったとき、チャンスが訪れました。今でいうブレイクです。いつ、ブレイクが来るか分かっていれば、試練を耐え忍ぶことができるでしょう。しかし、実際は、いつ、そういうときが来るか分かりません。奴隷のヨセフは、私たちの暗い人生を象徴しています。私たちの人生にも暗い部分があるはずです。しかし、ヨセフには神さまが共におられました。私たちもキリスト様を信じているなら、神さまが共におられます。


2.宰相ヨセフ

 物語は創世記41章から良い方向に展開します。創世記41:1「それから二年の後、パロは夢を見た」とあります。「それから」とは、ヨセフが献酌官長の夢を解き明かしてあげた二年後です。エジプトの王ファラオ、つまりパロが2つの夢を立て続けに見ました。ナイルから、つやつやした、肉づきの良い七頭の雌牛が上がって来て、葦の中で草をはんでいました。するとまた、そのあとを追ってほかの醜いやせ細った七頭の雌牛がナイルから上がって来て、その川岸にいる雌牛のそばに立ちました。そして醜いやせ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしました。そのとき、パロは目がさめました。それから、彼はまた眠って、再び夢を見ました。肥えた良い七つの穂が、一本の茎に出て来ました。すると、すぐそのあとから、東風に焼けた、しなびた七つの穂が出て来ました。そして、しなびた穂が、あの肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまいました。そのとき、パロは目がさめました。朝になって、パロは心が騒ぐので、人をやってエジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せました。パロは彼らに夢のことを話しましたが、それをパロに解き明かすことのできる者はいませんでした。そのときです。あのときの献酌官長が進み出て、「そういえば、地下牢にヘブル人の若者がいました。彼が私の夢を解き明かして下さいました」と告げました。さっそく、ヨセフは地下牢から連れ出され、着物を着替えてから、パロの前に出ました。ヨセフはその夢を解き明かしました。創世記41:29-33「今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの地の豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、この地の豊作は後に来るききんのため、跡もわからなくなります。そのききんは、非常にきびしいからです。…それゆえ、今、パロは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の七年間に、エジプトの地に、備えをなさいますように。」

 パロは家臣たちに「神の霊の宿っているこのような人を、他に見つけることができようか」と感心して言いました。そして、ヨセフに「あなたのように、さとくて知恵のある者は他にはいない。あなたは私の家を治めてくれ」と願いました。パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、自分の第二の車に彼を乗せました。ヨセフはエジプトの宰相、今で言う総理大臣になりました。ヨセフは13年間奴隷でしたが、30歳になって宰相になりました。しかし、物語はこれで終わりではありません。ヨセフは神から与えられた知恵で、エジプトを治めました。大豊作で得た穀物を蓄えさえ、ききんに備えさせました。7年後、ききんが全世界に及んだので、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来ました。ききんはヤコブが住んでいたカナンにも及びました。それで、ヤコブはエジプトに入って、穀物を買ってくるように命じました。一番下のベニヤミンを除いて、10人の兄弟がエジプトに下って行きました。兄弟たちは、目の前の人物がヨセフとは知らず、顔を地につけて伏し拝みました。このとろころで、夢が1つ成就しました。ヨセフは知らんぷりして、荒々しくふるまいました。ヨセフは「お前らはスパイだろう。この地のすきをうかがいに来たのだろう」と言いました。兄弟たちが監禁されている間、「我々は弟のことで罰を受けているのだ」と言いました。ルベンは「私があの子に罪を犯すなと言ったじゃないか」と言いました。ヨセフは彼らの会話を聞いていました。それから、ヨセフはシメオンを人質に取り、他の兄弟を返しました。ヨセフは「今度来るときは、一番下の弟を連れて来なければ、私の顔を見てはならない」と言いました。それを聞いたヤコブは「ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。もし、災いが降りかかれば、この白髪頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになる」と反対しました。そうこうしているうちに、食物が尽きてしまいました。ヤコブはベニヤミンを離したくありません。ルベンとユダは自分たちが彼の保障になりますから、行かせてくださいと懇願しました。それで、贈り物を携え、ベニヤミンを連れてエジプトにくだりました。兄弟たちは、地に伏してヨセフを拝みました。それから、ヨセフは兄弟たちを招いて食事をしました。兄弟たちは、年長者から年下の座にすわらせられたので、互いに驚き合いました。翌日、穀物を得て帰るのですが、ベニヤミンの袋の中に銀の皿が入っていました。ヨセフがしくんだことですが、「ベニヤミンを残して、お前たちは父のもとへ帰れ」と言いました。すると、兄弟たちは「彼がもどらなければ、父親は死ぬでしょう。自分たちが奴隷となりますから、彼を返してください」と懇願しました。

 ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、人払いをしてこう言いました。創世記45:3「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。「目の前のエジプトの支配者があのヨセフなんて!」兄弟たちは、驚きのあまり答えることができませんでした。これまで自分たちは何度もヨセフを伏し拝みました。「まさか、あの夢のとおりになるのは!」青天の霹靂、驚天動地、言い表すことが不可能なくらいの驚きです。ここでヨセフが発したことばに注目したいと思います。45:5「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」そして、45:8「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」ヨセフは兄弟たちを試しました。兄弟たちが完全に悔い改めていることを知りました。もう、ヨセフは彼らを恨んではいません。「神さまがあなたがたを救うために、私をエジプトに遣わしたんだ」と言いました。つまり、神さまが全世界をコントロールし、すべてのことを働かせて益としてくださったということです。

 ヨセフは奴隷から宰相、どん底からてんぺんを取った人です。しかし、ヨセフの物語は、豊臣秀吉のような出世物語ではありません。ヨセフの物語は、偶然の積み重ねではなく、神さまの御手が働いていたことを見ることができます。多くの人たちは自分の過去の人生を振り返り、後悔しています。なぜ、あの家に生まれ育ったんだろう。なぜ、あの人が私の父、あの人が私の母だったんだろう。なぜ、私の家は貧しかったんだろう。だから、あの学校にも行けなかった。ああ、あの部活で挫折した。私の夢も挫折してしまった。あの会社が、あいつが私を裏切ったんだ。なんであんな事故にまきこまれ、なんであんな病気になったんだろう。結婚した相手が間違っていた。私が一生懸命努力したことは何だったんだろう!ぜんぜん、日の目を見ないじゃないか。まさしく、奴隷生活、生き延びるための人生だったかもしれません。多くの人はそれでも、ラッキーブレイクを望んでいます。ほんの一握り、日の目を見る人がいるでしょう。でも、自分は別です。いつでも、貧乏くじを引いています。もし、イエス様を信じているのに、このような人生であったら、どこか間違っていると思います。ある人が、「どんなマイナスでも、かっこでくくりそこにマイナスをつけると、全部プラスになる」と言いました。マイナス、かっこ、マイナス○○。かっこを取ると、確かにプラス○○になります。

 ヨセフは17歳のとき兄弟たちから妬みを買い、エジプトに奴隷に売られました。でも、主が共におられたので、どの場所でも祝福を受けました。ヨセフはそこで、人や物の管理を学びました。人格的にも砕かれ、神さまを信頼することを学びました。そして、30歳になったとき、パロから呼び出され、パロの夢を解き明かしました。その後、エジプト全土の穀物を管理することを任されました。と言うことは、13年の奴隷と監獄生活は無駄ではなかったということです。そして、自分を売った、兄弟と全家族をエジプトに避難させることができました。一番大事な真理は、これです。ヨセフの人生を神さまがコントロールしていたということです。言い換えれば、すべては主の御手にあるということです。私たちの責任は何でしょうか?これまで自分を苦しめた人や環境を呪わないで、神さまの御手にゆだねるということです。私たちの神さまは逆転勝利を与える神さまです。私たちはこれまで傷つき、多くのものを失いました。取り返しのつかない罪や失敗も犯しました。しかし、私たちの神さまはそれらを全部ひっくり返して益にしてくださる方です。もちろん、同じものは手に入らないかもしれません。しかし、それ以上のものを神さまは用意してくださいます。これはだれにでもそうなるわけではありません。パウロは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために」と言いました。私たちの条件は救い主キリストを信じて、神さまを愛することです。そして、神さまの計画をもって私たちを召してくださっていることを信じることです。神さまに心を開きましょう。神さまに人生をゆだねましょう。神さまの計画を受け入れましょう。そうするなら、神がすべてのことを働かせて益としてくださいます。あなたもヨセフのように逆転勝利の生活を送ることができます。


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