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2013年9月29日 (日)

奪い取る信仰       創世記32:22-30 

 アブラハムから奇跡的にイサクが生まれました。その後の世継ぎは、だれになるのでしょうか?イサクの妻リベカの胎内でふたごが争っていました。リベカは神さまから「二つの国があなたの胎内にあり、兄が弟に仕える」という預言をいただきました。出産の時が満ち、最初に出てきた子はエサウでした。エサウは「赤い」という意味です。その後、弟が出てきましたが、その手はエサウのかかとをつかんでいました。それでその子はヤコブと名付けられました。ヤコブとは「かかと」という意味です。しかし、「だます」という意味もあります。きょうは、ヤコブがどのように長子の権利を得たのか聖書から学びたいと思います。


1.奪い取る信仰

ヤコブはタッチの差で次男になりました。しかし、「なんとか長子の権利を自分のものにできないものだろうか?」と機会を狙っていました。あるとき、兄エサウが猟から帰って来ました。ちょうど、その時、ヤコブは煮物を作っていました。エサウは「どうか、その赤いのを食べさせてくれ。私は飢え、疲れているのだから」と言いました。するとイサクは「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言いました。エサウは「私は死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と、長子の権利を売りました。そして、エサウはパンとレンズ豆の煮物を食べました。創世記25:34「こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである」と書いています。旧約時代、長子は他の兄弟の2倍のものを相続することができました。しかし、エサウは長子の権利などには、興味がありませんでした。ヤコブは、兄が飢えて死にそうなのを利用して、長子の権利を奪い取るなんて、なんと狡猾なのでしょう。新約聖書へブル12章に、エサウのことが書かれています。「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい」。俗悪とは、原文では「世俗的な、宗教的でない、不敬虔な」という意味です。つまり、目に見えるものがすべてであって、霊的なものには興味がないということです。私たちのまわりに「神さま、神さまって言っているけど、神さまが飯食わせてくれるのか?」と言う人はいないでしょうか?主なる神さまは、二人の兄弟のどちらを愛されたのでしょうか?マラキ1章には「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあります。なんと、神さまは長子の権利をだまし取ったヤコブを愛されたのです。

しかし、物語はそれで終わってはいません。ヤコブはお父さんから長子の祝福をだまし取りました。イサクは年を取り、視力が衰えてきました。イサクはエサウを呼んでこう言いました。「野に行って、私のために獲物をしとめて来てくれないか?そして私の好きな料理を作って、私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に祝福したいのだ」と言いました。それを母リベカが陰で聞きていました。リベカはヤコブの方を愛していました。それで、ヤコブにこう言いました。「私が子やぎで料理を作るので、父上に持っていきなさい。そうすれば、あなたを祝福してくれるでしょう」。ヤコブは「でも、兄さんのエサウは毛深いので、すぐにバレますよ」と言いました。リベカはヤコブに、エサウの晴れ着を着せ、子ヤギの毛皮を手と首にかぶせてあげました。ヤコブはお母さんが作った料理を持っていきました。目が見えないイサクは「わが子よ、お前はだれだね」と尋ねました。ヤコブは「私は長男のエサウです。さあ、起きて座って、私の獲物を召しあがってください。ご自分で私を祝福してくださるために」と答えました。イサクは「近くに寄ってくれ。声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。本当にお前は、わが子エサウだね」。「え、さうです」とか言って、だまし通しました。食事をした後、父イサクは「国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏しおがむように」と祝福しました。その後、エサウが猟から帰ってきて、おいしい料理をこしらえて父のところに持ってきました。父イサクは「お前はだれだ」と聞くと、「私はあなたの子、長男のエサウです」と答えました。イサクは激しく身震いし「では、一体、あれはだれだったのか?私は彼を祝福してしまった」と言いました。エサウは「お父さん、私を祝福してください。祝福は1つしかないのですか?」と大声で泣き叫びました。イサクは「お前の弟が来て、だましたのだ。そして、お前の祝福を横取りしてしまったのだ」と言いました。母リベカはヤコブを呼び寄せて「兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。すぐ立って、私の兄ラバンのところへ逃げなさい」と言いました。

そして、創世記28章には、ヤコブが荒野で石をまくらにして寝たという有名な記事があります。創世記28:12-15「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」ヤコブは家から逃げて来ました。なぜなら、エサウと父イサクをだまして、長子の権利と祝福を奪い取ったからです。ヤコブは「こんなひどい男と神さまが共におられるはずがない」と思っていました。ところがどうでしょう?アブラハムの神、イサクの神が、今、横たわっている地を与えると約束されました。そして、「どこへ行っても、あなたを守り、あなたを祝福される。あなたに約束したこと成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」とおっしゃるのです。神さまはヤコブが弟であるにも関わらず、国民となる祝福を継承させると約束して下さいました。ヤコブは眠りからさめて、「この場所は、なんとおそれ多いことだろう。こここそ、神の家に他ならない。ここは天の門だ」と言いました。そのところに、石の柱を立て、その上に油を注ぎ、その場所をベテル(神の家)と呼びました。これがヤコブのベテルの経験です。

霊的に、ベテルの経験とは何でしょう?それは私たちの救いを指します。「自分は神の前には救われる価値のない人間である」と思っていました。ところが、神さまは自分を愛し、共にいてくださるという経験です。しかし、私たちの側には、必要なものがあります。それはヤコブのような信仰であります。イエス様は、どのような人が神の国に入るのか、教えておられます。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」イエス様が、ガリラヤに現れて御国の福音を宣べ伝えました。最初に御国に入った人たちは、宗教的な人たちではありませんでした。「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」とはどういう意味でしょうか?これはデパートのバーゲンセールと似ています。たとえば、銀座三越のデパートで半年に一度のバーゲンセールが開催されたとします。多くの人たちが開店前から並んで待っています。開店と同時に、売り場に殺到する人たちと似ています。では、「激しく攻める者たち」とはだれのことなのでしょうか?イエス様は祭司長や律法学者にこのように言われました。マタイ21:31-32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」そうです。取税人や遊女たちが、神の国を激しく攻め、救いを奪い取ったのです。

神さまはどのような人たちがお好きなのでしょう?罪を犯さず人格的に整えられた人たちでしょうか?あるいは罪は犯しても信仰のある人たちでしょうか?神さまは人格的なものよりも、信仰のある人をお好きなようです。へブル11:6 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」とあります。日本には幼稚園から大学まで570くらいのミッションスクールがあるそうです。ほとんどの学校は聖書を土台とした人格教育を目的としていると思います。確かに人格および教育的にはすばらしいと思います。しかし、キリストを信じて御国に入ることを教えているか、というとそうでもないようです。「信仰はないけど、人格的にすばらしい」となるとどうなるでしょうか?逆に、御国から遠ざかってしまうのではないでしょうか?なぜなら、自分は人格的にすばらしいので、キリストなしでも御国に入れると思ってしまうからです。当時の取税人や遊女たちは、人から言われなくても、「自分には罪がある、このままでは御国に入れない」と思っていました。だから、福音を聞いたときに、罪を悔い改めて、救いを求めたのです。罪を犯すことを勧めるわけではありませんが、なまじっか正しいと、救いを得られなくなるということです。その点、ヤコブは兄をだまして長子の権利を奪い、父をだまして長子の祝福を奪いました。まことに、調子が良いというか狡猾で悪い人です。しかし、神さまはヤコブの奪い取る信仰を喜ばれたのです。「あなたと共におり、あなたを捨てない」とおっしゃいました。問題は、私たちがどのくらい正しいかどうかではありません。そうではなく、「自分には罪がありこのままでは御国に入れません。悔い改めて福音を信じます。どうしても、御国に入りたいのです。私を救ってください」と求める者が、神さまから愛され、生まれ変わることができるのです。


2.砕かれ再生される信仰

 ヤコブはお母さんの兄、ラバンのもとに身を寄せました。ラバンにはレアとラケルの二人の娘がいました。ヤコブは美しい妹のラケルと結婚したいと思いました。ヤコブはラケルのために7年間仕えました。そして、ラバンに「私の妻をください。期間も満了したのですから」と言いました。祝宴をして、朝、目覚めたらどうでしょう?隣にいたのはラケルではなく、姉のレアでした。ヤコブは「あなたに仕えたのではラケルのためではなかったのですか?なぜ、私をだましたのですか?」と言いました。ラバンは「われわれのところでは、長女より先に下の娘ととつがせるようなことはしないのです」と言いました。ヤコブはラバンの言うことをきいて、あと7年間仕えました。創世記29章と30章には、ヤコブの愛をめぐって二人の妻の壮絶な戦いが記されています。世の男性は「妻が複数いたなら幸せだろう」と思うかもしれませんが、とんでもありません。ヤコブの子どもは12人生まれ、それがやがてイスラエル部族になります。しかし、聖書を見ると、二人の妻の愛憎物語から、12人の子どもたちが生まれたことが分かります。最初、レアから生まれたのが、ルベンです。その次に、シメオン、その次にレビ、その次にユダが生まれました。レアは自分がヤコブから嫌われているので、「今こそ夫は私を愛するだろう」と4人の子どもを立て続けに産みました。ラケルは不妊の女であり、姉を嫉妬し、ヤコブに言いました。「私に子どもをください。でなければ、私は死んでしまいます」。ヤコブは「私が神に代わることができようか」と言いました。それで、ラケルはビルハという女奴隷をヤコブの妻として与えました。ビルハから、ダンが生まれ、その次にナフタリが産まれました。これで、合計6人です。レアは自分が子を産まなくなったので、ジルパという女奴隷をヤコブの妻として与えました。ジルパからガドが産まれ、その次にアシェルが産まれました。今度はレアからイッサカルが産まれ、ゼブルンが産まれました。そのとき、レアは「今度こそ、夫は私を喜ぶだろう」と言いました。これで、合計10人です。神さまはラケルを覚えておられ、その胎を開かれました。11番目のヨセフが産まれました。ラケルは「神は私の汚名を取り去ってくださった」と言いました。大体、子供の名前には、お母さんが言ったことばが付けられています。どうでしょう。ヤコブのイスラエル部族は、女同志の醜い争いから生まれたのであります。ヤコブは女性たちの間で、身も細るような気持ちだったでしょう。このように、ヤコブは結婚生活において、砕かれました。

 しかし、それだけではありません。ヤコブは結婚するために、ラバンのもとで14年間仕えました。その後も、ラバンのもとでただ働きをすることになりました。ヤコブがいくら働いても、財産はすべてラバンのものです。ヤコブはラバンに「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください」と言いました。ラバンは「望む報酬を申し出てくれ、私はそれを払おう」と言いました。ヤコブは「何も下さるには及びません。ただ、羊の中からぶち毛とまだら毛のものが生まれたなら、私の報酬としてください」と提案しました。ヤコブは不思議な方法を用いて、ぶち毛のもの、まだら毛のものが産まれるようにしました。やがて弱いものはラバンのものになり、強いものはヤコブのものとなりました。そのため、ヤコブの群がだんだん大きくなりました。するとヤコブに対するラバンの態度が変わりました。ラバンは、ヤコブを欺き、報酬を何度も変えました。最後は、「ヤコブは私の財産を奪い取った」とまで言ったのです。ヤコブは帰るとき、ラバンにこのように言いました。創世記31:40-41「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。」そうです。ヤコブは20年間、溶鉱炉の中を通らされました。どのように金を精錬するかご存じでしょうか?金の鉱石を高熱で熱すると、かな粕が浮いてきます。職人はかな粕をすくって捨てます。そして、何度も何度もそのことを繰り返します。最後には顔が映るくらいになります。純度99.99%の金です。ヤコブは人をだますことには関脇でした。しかし、おじのラバンは人をだますことには横綱級でした。ヤコブはおじのラバンのもとで20年間苦しめられて、すっかり砕かれたのです。神さまはあえて、ヤコブを整えるために、ラバンのもとに送ったのです。私たちは、罪あるままで恵みによって救われます。しかし、救われた後は、神さまはご自身の似姿になるように、試練の中を通らされます。それは、私たちの古い自己中心的な自我が砕かれるためです。

 ヤコブは生まれ故郷に向かいました。エサウにメッセージを伝えると、400人の者を引き連れて来るということでした。驚いたヤコブは策略を立てました。先頭に、兄への贈り物の家畜を進ませる。第二の列にも兄への家畜、第三の列にも兄への贈り物の家畜を進ませる。そして、最後に二人の妻と二人の女奴隷と11人の子どもたちを行かせる。エサウが群を打ったとき、逃げられるためであります。ヤボクの渡しから、すべての家畜と家族を渡らせました。創世記32章にはヤコブと天使の格闘シーンが記されています。ヤコブはエサウを恐れていました。そのためにヤコブは神さまに必死に祈り求めました。そのうち、天使が現れ、ヤコブは彼と格闘したのではあります。ヤコブの奪い取る信仰の持ち主でした。兄と父を騙して長子の権利と祝福を得ました。家を離れてから、おじのラバンのもとで20年間仕えました。複数の妻たちの争奪戦と狡猾なラバンによってすっかり砕かれました。いよいよ故郷に帰ることになりましたが、問題は兄のエサウです。エサウによって自分は殺されるかもしれません。ですから、自分を祝福してくださるよう天使に求めたのです。負けそうになった天使は「私を去らせよ。世が明けるから」と言いました。しかし、ヤコブは「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と必死に食い下がりました。ドラクロアという画家が、「天使とヤコブの戦い」という絵を描いています。筋骨隆々のヤコブが天使を押し倒そうとしています。そして、天使はヤコブの左のももを「ぐい」と引いている絵です。天使はヤコブに勝てないので、ヤコブのもものつがいを打ちました。そして、「あなたの名は何と言うのか?」と聞きました。「ヤコブです」「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ」と言いました。イスラは「戦う」という意味であり、「エル」は神さまです。もものつがいは、自分の知恵や力に頼ることを象徴しています。ところが、天使がヤコブのもものつがいを打った時、自我が完全に砕かれたのです。その後、真剣に「私を祝福してくださらなければ、私はあなたを離れません」と必死に祈りました。ヤコブは、そのところを「ペヌエル」、神の御顔と名付けました。ペヌエルは第二の経験です。自我が砕かれ神さま中心になるということです。言い換えると、自分が主ではなく、イエス様が主になるということです。その後、ヤコブは兄エサウと和解することができました。

奪い取る信仰は悪くはありません。しかし、どこまでも「自分が、自分が」というところがあります。私も救われた頃は、韓国のチョーヨンギ師の信仰にあこがれました。祈って求めれば大きな教会になると思いました。ところがなかなかそうはなりませんでした。神さまはいろんなところを通して私を砕かれました。求めることは良いことです。では、何が間違っていたのでしょう?神さまのみこころよりも自分の願いが上だということです。ヤコブもまさしくそういう人物でした。しかし、神さまはヤコブの自我を取扱いました。結婚を通して、自分よりも狡猾なラバンを通してです。ヤコブの自我はとても強く、天使と戦っても勝つほどでした。もものつがいが打たれたというのは、自我が完全に砕かれたということです。ヤコブは自分の知恵や力に頼ることを断念しました。それでどうなったのでしょう?神さまはヤコブを再生しました。もう、人を押しのけるヤコブではなく、イスラエルになりました。イスラエルには「神の皇太子」という意味があります。つまり、神さまと共に世界を治める者になったということです。これまでは、「奪い取らなければ自分のものにはならないんだ!」という信仰でした。人を押しのけ、奪い取ると言うのは乞食の信仰です。しかしペヌエルの経験、神さまと顔と顔を合わせてから、変わりました。「すべては神さまの御手にあり、私のためにすでに備えておられる」という信仰になりました。なぜなら、ヤコブが生まれる前、「二つの国があなたの胎内にあり、兄が弟に仕える」という預言が母リベカにありました。神さまはすでに、ヤコブに長子の権利を与えることを予定しておられたのです。ヤコブは奪い取ったように思いましたが、本当は、神さまがヤコブに与えたのです。私たちの神さまはどんな神さまでしょうか?マタイ6: 8「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」神さまは必要なものは必ず与えてくださる。私たちは神さまがすでに備えておられるものを求めるのです。私たちは神さまから奪い取るのではありません。神の息子、神の娘として、信仰によって受けるのです。どうぞ、奪い取るヤコブの信仰から、イスラエルの信仰になりましょう。私たちは必要が与えられないと気をもむときがあります。しかし、神さまはすでに備えておられます。すべては主の御手にあるのです。最も重要なことは、主を信頼するということです。


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2013年9月22日 (日)

~友なるイエス様にとどまる~  亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ヨハネの福音書15章1節~5節、12節-17節>


15:1

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

15:3

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

15:4

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。


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15:12

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

15:14

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

15:15

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

15:16

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

15:17

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


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本日は、「友なるイエス様にとどまる」と題して、「主はまことのぶどうの木」の有名な聖書箇所からお話しをしたいと思います。


クリスチャングッズなどを売っているお店では「ぶどう」がモチーフにされたアクセサリーや壁掛けなどをよく見かけますが、それはここの聖書箇所からイメージされたものです。

このヨハネの15章は、イエス様が十字架にかかられる前の、最期の晩餐の席でイエス様が話された、たとえ話です。少し前の13章でイエス様は弟子たちの足を洗ってくださり、仕えるリーダーとしての模範を示してくださり、互いに愛し合うことを教えてくださいました。

先ほど読んだぶどうの木の箇所は、15章1節~17節まで話が続いています。


実はその中の、1節-8節までと、9節-17節は並行記事になっていて、同じようなことを繰り返しイエス様は語られています。1-8節は弟子たちに対して、「まことのぶどうの木であるイエス様にとどまりなさい」という、「信仰」についての要求がなされています。また、9節-17節は、「イエス様の愛のうちにとどまりなさい」という、「愛」の命令がなされています。


そういう訳で、ここでは前半は「信仰」、後半は「愛」という二つのテーマが対をなし、一体となっています。

しかし、ここで大切なのは、まことのぶどうの木であるイエス様にとどまり、イエス様の愛のうちにとどまる事だけではなく、8節や16節に書かれている、「行って実を結ぶ」ことであり、「実が残る」ことです。


では、私たちが豊かな実を結ぶためには、どのような人生を歩んでいけばよいのでしょうか。

共に聖書を見て行きましょう。


では前半の15:1-5節です。


◆私たちが豊かな実を結ぶために・・・


①イエス様にとどまり、父なる神様の刈り込みを受けましょう。


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15:1

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

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ここでは、天の父なる神様は「農夫」、イエス様は「ぶどうの木」、私たちは「枝」としてたとえられています。

イエス様にとどまっていない枝を、父なる神様は取り除かれます。そして、イエス様にとどまっている枝であっても、もっと多くの実を結ぶために刈り込みをなさいます。


この「刈り込み」とは、どういう意味でしょうか。この「刈り込み」という言葉は、新約聖書の原語であるギリシャ語では、<ギ>カイサローと書かれています。この「カイサロー」は「きよくする」という意味があります。


ですから、15:2の「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」というイエス様の言葉を現代の私たちに置きかえるなら、「イエス様にとどまっていない者は父なる神様が取り除き、イエス様にとどまっている者は、もっと多く実を結ぶために、神様が刈り込み=きよくしてくださる」ということになります。


ですが、その神様の刈り込みは痛みを伴うものかもしれません。


例えば、自分が本当に立派に育った枝だったとして、見るからに麗しく、人から褒め称えられていたとします。自分自身でもその枝っぷりは、そん所そこらのものとは比べ物にならないくらい立派だと自覚していて、誇りに思っていたとします。でも、その枝は、実を結ぶための養分まで全部吸い取ってしまうものなのです。

豊かな実を結ぶには邪魔な枝なのです。


私たち人間には、もともと罪の性質があります。人を羨んだり、妬んだり、傲慢な心や、くだらないプライドにとらわれます。そんな私たちを神様は、戒め、訓練されて、きよいものとしてくださいます。

自分では気がつかないからこそ、その枝がよいものかどうかの判断ができないからこそ、私たちには神様の「刈り込み」が必要なのです。


「農夫」である父なる神様の「刈り込み」を喜んで受けましょう。


イエス様は15:3 で「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」と言われました。イエス様の話してくださったことばに聞き従いましょう。


また次の15:4 でイエス様はこのように語られました。


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15:4

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

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「とどまりなさい」ということばがたくさん出てきますが、15:4、9 の「とどまりなさい」は新約聖書の原語であるギリシャ語では命令形です。「とどまる」の原形 me,nw (メノウ)ということばを、命令形 mei,nate (メイネーテ)「とどまりなさい」に変えて使われていますので、「~しなければならない」という意味になります。

ですから「とどまりなさい」は優しく言われているように感じますが、イエス様は、mei,nate evn evmoi,, (メイネーテエンエモイ)」「わたしにとどまりなさい!」と強く“命令”されておられるのです。


なぜなら、ぶどうの木であるイエスさまに枝である私たちが繋がり、とどまることにより、私たちが豊かな実を結ぶことができるからです。枝だけでは実を結ぶことはできません。


聖書には、ぶどうやぶどうの木、ぶどう園などを戒めの比喩として良く使っています。旧約聖書では、なかなか実を結ばないイスラエルの民たちの比喩として、よく使われています。それは民たちが神様の律法にとどまらず、神様から離れてしまっていたからです。


「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とイエス様が言われたように、私たちは、まことのぶどうの木であるイエス様に、枝としてしっかりとどまっていなければ、豊かな実を結ぶことはできません。


しかし、イエス様はとどまるように命令はされていますが、私たちはイエス様が命令されたから、仕方なく従うのではありません。


昔、アウグスティヌスという偉大な教父がいましたが、イエス様に対するキリスト者の服従ということをこのような譬で表現していました。


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『イエスに服従すると言うのは、犬が鎖に繋がれて、飼い主のあとにしぶしぶついて行くようなものではなく、鎖から離された犬が、喜んで飼い主のあとについて行くようなものだ』

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その通りですね。イエス様も父なる神様に従われました。ですから私たちも、鎖から離された犬のように、解放された自由な気持ちで喜んでイエス様について行って従いましょう。そして、父なる神様の刈り込みを受けてきよめられ、豊かな実を結んでいきましょう。


では、後半の12-17節を見て行きましょう。もう一度聖書をお読みします。

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15:12

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

15:14

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

15:15

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

15:16

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

15:17

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

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◆私たちが豊かな実を結ぶために・・・


②まことの友となってくださったイエス様の心を心としましょう。


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15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

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この聖句は、大変有名です。「まことの友となってくださったイエス様」については、賛美でもよく歌われます。代表的な賛美は、讃美歌312番「いつくしみ深き」ではないでしょうか。「いつくしみ深き」は、♪いつくしみ深き友なるイエスは~♪という歌詞ではじまります。


しかしここでイエス様が語られた「友」というのは、単なる仲良しの「お友達関係」ではなく、「友のためにいのちを捨てる」という究極の「友」でした。


弟子たちはこの時、この言葉の持つ本当の意味が解っていませんでした。

それは、まだこの時はイエス様が十字架にかかられていなかったからです。

弟子たちは「友情」の概念的、理想論的には解っていたかもしれません。


それは、「友のためにいのちを捨てる」という友情論は紀元前400年~300年の古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスたちが、すでに語っていた事柄だったからです。

アリストテレスは、友情についての解答のひとつとして、このように語っています。


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『素晴らしい人間は、友人たちのために働き、国家のために働く。そして必要とあらば、それらのために死を辞さない。』

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ヨーロッパでは、この「友のためにいのちを捨てる」という友情論を理想として語られていました。

旧約聖書にも、Ⅰサムエル20章に「ダビデとヨナタンの友情物語」などが記されています。

イスラエルの最初の王だったサウル王は、民衆に人気があり、神の油注ぎをいただいているダビデに嫉妬して、ダビデの命を奪おうとしました。しかしサウル王の息子ヨナタンとダビデは固い友情で結ばれていました。ヨナタンは、ダビデを殺そうとしていた父サウル王の手から、命をかけてダビデを逃がしたというシーンが描かれています。


ですから弟子たちは、イエスさまの「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」ということばについて、古代ギリシャ哲学とか旧約聖書から概念的には、「その通りだ」と思っていたかもしれません。


特にイエス様の一番弟子と言われたペテロは、ヨハネの福音書13:37で「主よ。あなたのためにはいのちも捨てます。」とまで言いました。このことは他の福音書にも記されています。しかし、ペテロはイエス様が捕らえられた時に、自分も捕らえられる事を恐れて、「そんな人は知らない」といって逃げてしまいました。


ペテロをはじめとする弟子たちはイエス様がこの時語られた「まことの友」について、理想論的に軽く考えていたのでしょう。しかしイエス様は理想論ではなく、本当にその言葉を実行なさったのです。


ですから、「これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とイエス様は言われたのです。


そして、15:14 で

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わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

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と言われました。そのイエス様が命じたこととは、15:17の

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あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

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ということでした。

この繰り返し語られる「互いに愛し合う」ということは、先ほどの友情論を考えるとそんなに簡単なことではありません。イエス様の友情は理想論だけの安っぽい友情ではなかったのです。


弟子たちは、イエス様が十字架に架かられたあと、このイエス様の言葉を思い出し、目が覚めたと思います。「主は本当に私たちのためにいのちを捨てられた・・・。」

その時弟子たちは、すっかり自信を失くしてしまったのではないでしょうか。

「私には、主がなさったようには友を愛せない。そんなことはとてもできない。」


私たちもこの時の弟子たちと同じです。私たちはイエス様のように、友のためにいのちを捨てることができるでしょうか。またイエス様のように敵を愛することができるでしょうか。


私たちの愛とは、本当に小さなものです。職場でも、学校でも、ちょっと気に食わない人がいたら、愛せませんし、友とは呼べませんし、いのちを捨てるなんてとんでもないと思ってしまいます。

でも、心を落ち着けて、愛せない!敵だ!と思った人をよく見てみるならば、「イエス様はこの人にも等しく愛を注いでくださっている」ということがわかります。


だからこそ余計に葛藤を覚えます。クリスチャンは、どんなに許せない相手にも忍耐して愛さなければならないのかと苦悩します。イエス様はこんな弱い私たちだからこそ、15:16で励ましを与えてくださっています。


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15:16

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

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私たちはイエス様から選ばれて、イエス様から任命されているのです。

こんな小さな私にも目を留めてくださり、選んで、任命してくださる。これほど嬉しいことはありません。

イエス様のご愛に応えたい。・・・そう思いませんか?


そして、「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」と言ってくださいました。私たちは取るに足りない小さな人間ですが、イエス様の御名によって天の父なる神様に求めるならば、何でも天の神様が与えてくださると約束してくださっています。


私たちの欲しいもの、父に求めるものとは何でしょうか。「何でも求めなさい。何でもお与えになる。」と書かれています。ただし条件があります。


今日はお読みしていませんが、5:16節の並行記事にあたる、5:7にはこう書かれています。


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あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

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「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、」と書かれています。

つまり私たちが、「イエス様にとどまり、イエス様のことばが私たちにとどまるなら・・・

何でも求めなさい。何でもお与えになる。」と言われているのです。


私たちがイエス様の愛にとどまるなら、自ずと私たちが神様に求めるものも決まってくるのではないでしょうか。それは、私利私欲から来る求めではなく、15:8 に書かれているように「天の父が栄光をお受けになる」ための求めとなるのではないでしょうか。


イエス様の戒め「互いに愛し合う」ことは、私たちの一生の課題です。

ぶどうの木であるイエス様の愛の中にとどまり、まことの友となってくださったイエス様の心を心とし、イエス様が愛されたように、私たちも互いに愛し合っていきましょう。

そうするならば、私たち自身の人生に、思いがけない方法で豊かな実が結ばれて残っていくことでしょう。



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2013年9月15日 (日)

柔和な人イサク         創世記26:12-25

 アブラハムが100歳のとき、約束の子どもイサクが与えられました。アブラハムが信仰者の第一号だとすると、イサクは第二号です。イサクは、いわばクリスチャン・ホームの子どもです。クリスチャン・ホームの子どもは、信仰の火が親よりも激しく燃えていないかもしれません。しかし、親よりも信仰が安定しています。なぜなら、親から霊的な遺産を受けているからです。イサクは父アブラハムの良きものを受け継いでいました。そんなに努力しなくても、祝福を受け継ぐことができました。きょうは、「柔和な人イサク」と題して、学びたいと思います。


1.柔和な人イサク

創世記26章の始めを見ると、その地をききんが襲っていましたことが分かります。ところが、イサクはききんの中でも、種を蒔きました。すると、その年に100倍の収穫を見ました。なぜなら、主が彼を祝福してくださったからです。イサクは、さらに栄えて、羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになりました。すると、ペリシテ人は彼をねたんでひどいことをしました。父アブラハムの時代に堀ったすべての井戸を土で満たして、ふさいでしまいました。イサクはどうしたでしょうか?18節「イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った」と書いてあります。また、イサクのしもべたちが谷間で、湧き水の出る井戸を見つけました。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と主張しました。それで、しもべたちは、もう1つの井戸を掘りました。それについても、「われわれのものだ」と主張してきました。イサクは所有権をめぐって争ったでしょうか?そうはしませんでした。22節「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。『今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。』」。私たちはこのところから教訓として、何を学ぶべきでしょうか?イサクは「これは私が掘った井戸だ、私が見つけた井戸だから、他のところへ行きなさい」と主張することができました。しかし、イサクは他の人たちと争っていません。なぜでしょう?そこには2つの理由があります。

第一は、イサクは神さまを信頼していました。どのような神さまを信頼していたのでしょう?それは、どんなときでも、自分を祝福してくださる神さまです。ききんの中にあっても、種を蒔いたら、100倍の収穫にあずかることができました。主が祝福してくださるので、多くの家畜や多くのしもべたちを持つことができました。井戸に関しても同じことです。その時代、井戸は命の次に大事な存在でした。せっかく掘った井戸を埋めるとは、ひどいことをするものです。これまでの苦労が水の泡です。また、湧き出る井戸も貴重な存在です。なぜなら、新鮮でおいしい水だからです。イサクたちが先に見つけたのに、「いや、いや、これは我々のものだ」と横取りされました。普通だったら、命をかけてでも守るはずです。でも、どうしてイサクは争わなかったのでしょう?それは、神さまが新しい井戸を与えてくださると信じていたからです。このように、神さまの祝福を体験している人は、人と争いません。たとえ、奪い取られるようなことがあっても、神さまが新たに与えてくださることを信じているからです。私たちも神さまを信頼しているなら、他の人と争う必要はありません。この世では、遺産をめぐって兄弟の争いが絶えません。特許や発明もだれかに奪い取られたりすることもあるでしょう。せっかく見つけた顧客や市場を、横取りされることもあるでしょう。そのような時、相手と争ったり、腐らないようにしましょう。神さまが共におられ、新しいアイディアと新しい市場を与えてくださるからです。なぜなら、私たちの神さまがすべてを所有し、神の子らに特別に与えてくださるからです。

第二は、イサクはすでに砕かれていたからです。創世記22章には、アブラハムがイサクをモリヤの山で全焼のいけにえとしてささげる記事が記されています。死んだら、これまでの約束が反故になるし、人間をいけにえにすることも倫理に反します。アブラハムは神さまを信頼して、モリヤの山に向かいました。たきぎを背負わされていたのは息子のイサクです。そのとき、イサクは30歳の青年、アブラハムは130歳の老人でした。アブラハムはイサクを縛って、たきぎの上に乗せました。普通だったら、「おやじ、何をするんだ。気でも狂ったのか?やめろ!」と130歳の老人をはねのけることもできたでしょう。しかし、30歳のイサクはだまって、縛られ、いけにえになりました。父アブラハムが刀を振り下ろそうとしたとき天からストップがかかりました。主の使いが「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」と言いました。アブラハムは、角をやぶにひっかけていた一頭の雄羊をイサクの代わりに、いけにえとしてささげました。この物語は、神さまを第一にしたアブラハムの信仰について語られるところです。しかし、イサクの立場から考えるとどうなるでしょう?イサクも神さまを信頼しました。イサクはこのとき、一度死んだのです。

新約聖書的に言うなら、古い自我が死んで、新しい存在になったのです。これを私たちは「自我が砕かれた」と言います。イサクが、なぜ自分の権利を奪おうとする者たちと争わなかったのでしょう?それは、自我が砕かれて、神さまに完全に信頼していたからです。クリスチャンでも、肉的な人と御霊の人と2種類います。どんなとき分かるでしょう?それは思わぬことが起きたときです。不当な扱いを受けたり、侮辱を受けたり、試練にあったときです。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」イサクは自我が砕かれていたので、権利をめぐって人と争わなくても良かったのです。私たちは日常生活において、いろんな争いに巻き込まれます。自分の権利を主張するあまり、問題がさらにこじれることがあります。そのためには、恵みによってイサクのように自我が砕かれ、柔和な人になる必要があります。主がさばいてくださり、主が権利を回復してくださることを信じましょう。

山上の説教でイエス様はこのように教えられました。マタイ5:5「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」柔和とは、まさしくイサクのような人物をさします。争いを好まず、平和の道を求める人です。私たちは、「この世で柔和でいたなら、人に利用され、全部、取られてしまう」と思うかもしれません。それよりも、「トラやライオンのように人を押しのけてでも、良いものを得なければならない」と言うでしょう。たしかに、トラとかライオンは勇ましいし、憧れるところもあるでしょう。でも、街中にトラやライオンが歩いていたならどうするでしょうか?怖くて外に出ることができません。だから、人間は彼らを捕えて檻の中に入れます。では、羊や牛はどうでしょうか?羊や牛は人に危害を加えません。だから、彼らの方がトラとかライオンよりもずっと数が多いのではないでしょうか?まさしく、柔和な者が、地を受け継いでいます。この世には、力で訴えるマフィア、暴力団、テロ組織がいます。私たちは彼らを恐れます。では、彼らが地を受け継ぐでしょうか?一時的にはそういうこともあるかもしれませんが、長い目で見たならば、そうではありません。最後には柔和な者たちが地を受け継ぐようになっているのです。なぜでしょう?神さまが私たちの上にいるからです。この世の支配の上には、神さまの御支配があります。神さまがバベルの塔を混乱させたように、自らの力を誇る高慢な人たちを倒します。高慢こそが、神さまが最も忌み嫌うものです。反対に、神さまは柔和な人たちが好きなのです。神さまは、柔和な人たちに愛の御手を伸べられます。

どうぞ、イサクのように柔和な者になりたいと思います。神さまを信頼していたなら、人と争う必要はありません。この世は訴訟に満ちています。自分の権利を主張することが悪いと言っているのではありません。あるときは権利を主張しなければならないときがあります。でも、いつでも自分の権利が通るわけではありません。どうそ、そのとき神さまがさばいてくださり、神さまが報いてくださることを信じましょう。Aが取り上げられたら、神さまは代わりにBを与えてくださいます。もし、Bが取り上げられたら、こんどはCを与えてくださるでしょう。そのとき、私たちは発見するでしょう。「ああ、神さまが私と共におられ、私を祝福してくださっている。何も恐れることはない」と。どうぞ、私たちは神さまの子どもとして、すべてを供給してくださる父なる神さまを信頼しましょう。


2.祝福を受け継いだイサク

創世記26:24 【主】はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」イサクが祝福されたのは、父アブラハムのゆえでした。では、イサクは父の祝福を受け継ぐために、どのようなことが必要だったのでしょうか?祝福を受け継ぐために、最低限すべきことがあったはずです。その第一は、結婚です。なぜなら、イサクから子孫が増し加えられ、国民が生まれるからです。そのためには、イサクは結婚して、子どもを儲ける必要があります。「イサクの嫁取り物語」として知られているのが、創世記24章です。父アブラハムは、自分の全財産を管理している、年長のしもべに「イサクの妻を見つけて来るように」お願いしました。彼に「私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」と誓わせました。これは、新約聖書的に言うなら、「同じ信仰を持つ人を伴侶にしなさい」ということです。なぜなら、未信者と結婚すると、信仰が継承されにくいからです。これは使徒パウロの教えです。Ⅱコリント6:14-15「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」保守的な教会では、相手が信仰者でなければ結婚式を挙げないところがあります。ほとんどの教会では、「理想的にはそうであるべきだけど、好きになったら仕方がない。結婚後、信仰を持てば良いでしょう」という立場です。残念ながら、未信者と結婚すると、教会に来なくなってしまうケースが良くあります。信仰をなくしたわけではないと思いますが、活動的なクリスチャンになれないということです。

年長のしもべは、アブラハムの生まれ故郷に向かいました。彼は、旅先でこのような祈りをささげました。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(創世記24:14)するとどうでしょう?アブラハムの親戚にあたる一人の美しい女性が近づいてきました。しもべが「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください」と言いました。するとその女性は、しもべだけではなく、らくだにも水を飲ませてあげました。井戸につるべを落として、それを引き上げ、水瓶に入れます。そして、水瓶をらくだがいるところまで運んでいきます。ある人は、「全部のらくだに水を飲ませるためには、100回位汲まなければならない」と言いました。ものすごい体力が必要です。これは単なる親切心ではできません。やはり、神さまが先んじて、この女性と出会わせてくださったのです。彼女の名前はリベカでした。しもべが、リベカのお父さんの家に行って事情を話しました。父と兄は、「きっと、それは主から出たことです」と快く承諾してくれました。父と兄は「もう10日ほど、私たちと一緒に滞在してください」と提案しました。しかし、しもべは「主が私の旅を成功させてくださったので、遅れてはいけない」と断りました。二人は娘の意見を聞くことにしました。リベカは「はい。まいります」と答えました。まだ、一度も顔を見たことのない人と結婚することにしました。なぜでしょう?リベカには信仰があったからです。

では、イサクの方はどうでしょうか?創世記24:63 「イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。『野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。』」このところを読むと、イサクは「ぼーっ」として、何もしていないように見えます。イサクは、何もしないで待っていたのでしょうか?日本語の聖書には「野に散歩に出かけた」と書いてあります。しかし、原文は「イサクは瞑想するために、夕方、野に出かけた」となっています。つまり、イサクもふさわしい人が与えられるように祈っていたということです。当時の人たちは、歩きながら祈る習慣がありました。ある夕方、向こうかららくだに乗ったリベカ、こちらでイサクが立っていました。二人の目と目が合いました。映画になるようなシーンです。京都には有名な祇園祭りがあります。鉾というのかもしれませんが、手前に大きな絵がかけられています。テレビで見ましたが、リベカがしもべに水を汲んで与えている絵がかけられていました。「その絵は何ですか」とリポーターが聞いたら「これはイサクの嫁選びです」と宮司が答えていました。まさしく、京都はシルクロードの最終地点です。京都にはイスラエルに関したものがたくさんあります。歴史的には聖徳太子のころ、19万人の人たちが大陸から渡ってきました。その中に、イスラエル部族の一部がいたようです。そのときに、イスラエルの文化が入ったのかもしれません。

でも、父アブラハムと母サラと同じような問題が起こりました。それは、リベカが不妊の女であったということです。父と母は、同じ問題で長い間、葛藤しました。イサクはどうだったでしょうか?創世記25:21「イサクは自分の妻のために【主】に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。【主】は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」祈ったら、すぐにかなえられました。父アブラハムのように長年待つ必要はありませんでした。これも、二代目の特権です。祝福を受け継いでいますから、そんなに苦労する必要はありません。なぜでしょう?心の中に、葛藤や疑いがほとんどないからです。私は一代目のクリスチャンです。多くの罪汚れとたくさんの傷の中から救われました。ですから、洗礼を受けても罪汚れが落ちません。傷があまりにも深かったので癒されるのが30年もかかりました。洗濯をするとわかりますが、シミになった汚れは簡単には取れません。一代目のクリスチャンは、この世と決別したので、どうしても反骨精神があります。葛藤や疑いをはねのけながらの信仰生活です。本当にきよめられるまでには40年くらいかかるかもしれません。しかし、二代目のクリスチャンはそういう葛藤や疑いがありません。素直に祈れるので、神さまは聞いてくださいます。だから、イサクの祈りも直ちに答えられました。私たちは信仰の遺産を馬鹿にしてはいけません。これが、三代、四代、五代、六代になったら、本当におだやかな信仰者になります。私もそういう人たちに会ったことがありますが、内側から自然に信仰が湧いているような感じがします。私のように無理して、頑張っている様子は全くありません。

やがて、イサクからエサウとヤコブが生まれました。そして、ヤコブから12部族が生まれました。ききんがやってきて、ヤコブの家族70人がエジプトに逃れました。エジプトに430年間いましたが、その数が100万人に増えました。やがてエジプトを脱出して、カナンの地を占領しました。紀元前1000年ダビデによってイスラエル王国が建国されました。本当に、アブラハムの子孫から国が誕生したということです。イサクがしたことは何でしょうか?それは、アブラハムからヤコブへと信仰を継承したことです。イサクはあまり目立ちません。しかし、イサクがいなければ、ヤコブ、さらには12部族、イスラエル王国へとは行かなかったのです。私もそうですが、自分の代でなんとか花を咲かせたいと思います。それも重要ですが、わが子へと信仰を継承していくことも重要です。私たちには4人の子どもがいますが、少し耳がいたいところです。4人とも洗礼は受けましたが、すべてが活動的なクリスチャンになることを祈っています。「教会の柱は、クリスチャン・ホームである」とよく聞きます。まず、ご夫婦がクリスチャンであるならば、互いに祈りあうことができます。子供たちが日曜学校に通い、信仰を継承していきます。そして、ある者たちは直接的な献身者になります。もちろん、社会に出てもすべての人が献身者です。しかし、牧師や伝道者になる直接的な献身者も必要です。先月、大和カルバリーの日曜学校の講師として招かれました。そこで奉仕していた人たちが、私の子どもと同級生です。つまり、親たちは同じ青年会同志でした。そして、一緒に日曜学校に出席した子どもたちが、20代になっています。もと青年会の久保田兄弟は日曜学校の校長先生になっていました。そして、その子供は伝道師になり、キャンプをリードしていました。「本当にうらやましいなー」と思いました。そのことを長男に話したら「俺もがんばっているよ」と言われました。

もしろん、神さまの計画は一人ひとり違います。みんなが牧師や伝道者になるわけではありません。しかし、もっと重要なことは信仰を継承させることです。イサクは恵みによって、それができました。リベカと結婚し、エサウとヤコブを儲けることができました。中には、独身であったり、子供を産めないカップルもあるかもしれません。しかし、霊的な子供、霊的な子孫を残すことは可能です。あるアメリカの名もない婦人が6人の青年を弟子訓練しました。すべての力を6人の青年に向けました。外から見たならば、あまり成功しているとは思えません。しかし、その6人がキリスト教会を変える人たちになりました。ナビゲーターの創設者ドーソン・ドルトマン、キャンパス・クルセード創設者のビル・ブライトがいました。そして、世界的伝道者のビリー・グラハムがいました。どうぞ、一代目のクリスチャンは、イサクを産みましょう。イサクの人はヤコブを産みましょう。どうか、信仰が自分の代でストップしないように。ネズミ算というのがあります。最初は小さいですが、やがて莫大な数になります。1が2になって、2が4になり、4が8になり、8が16になり、16が32になり、32が64になり、64が128になり、128が256になります。聖書はそのような倍加の法則を約束しています。私たちもイサクのように、信仰を継承するものになりたいと思います。



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2013年9月 8日 (日)

信仰の父アブラハム   創世記17:1-6   へブル11:11-12

 新約聖書では、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。しかし、創世記を読むと、「本当にそうなのかな?」と思えるようなところがいくつもあります。おそらく私たちも天国に行ったら、「罪がありません。義人です。」と呼ばれるでしょう。でも、心の中では「本当にそうなのかな?」と思うかもしれません。私たちはキリストにあって、悪い事柄が縮小され、良い事柄が拡大されていると信じます。きょうは、アブラハムが信仰の父と呼ばれるための、神さまの代表的な恵みを3つ取り上げたいと思います。言い換えるなら、神様はアブラハムの信仰を全うさせるために、3つのことを行ったということです。


1.契約の更新

神さまはアブラハムと契約を交わしていますが、1回ではありません。創世記12章、15章、そして17章、合計3回あります。なぜ3回も契約を交わす必要があるのでしょうか?それは、人間は不誠実で、忍耐して待つことができないからです。信仰の父と呼ばれたアブラハムもまさしくそうでした。最初の契約は創世記12章にあります。創世記12:1-2「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」アブラハムは主の召しに答え、生まれ故郷を出て、カナンの地にやって来ました。神さまは、「アブラハムから大いなる国民が生まれる」と約束しました。そのためには、まず、子どもがうまれなければなりません。しかし、妻のサライは「うまずめ」で、子どもを宿すことができませんでした。そのため、どうしたでしょう?アブラハムは神さまに、提案しました。創世記15:2-3「私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げました。主は、「そうではない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と仰せられました。そして、主は「あなたの子孫は、星の数のようになる」とアブラハムと2度目の契約を結ばれました。

それでも、まだ子どもが生まれません。今度は、サライが提案を出しました。創世記16:2「サライはアブラムに言った。『ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。』アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」その当時、「子どもが生まれない場合は、そばめによって子どもを儲けて良い」という習慣がありました。それで、アブラハムは女奴隷のハガルに入って、イシュマエルを儲けました。あきらかに、妥協であり、人間的な解決です。生まれた後、家族の関係がおかしくなり、ハガルとイシュマエルを追い出すことになりました。それでも、神さまはアブラハムから生まれたイシュマエルの子孫を祝福しました。なんと、そのイシュマエルからアラブ民族が生まれ、イスラム教徒になりました。今もイスラム教徒はキリスト教徒を迫害しています。この件で、アブラハムは大きな間違いを犯してしまいました。

イシュマエルが誕生したのは、アブラハムが86歳でした。それから13年間の沈黙がありました。3回目の契約が17章にしるされています。創世記17:1「アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラハムの年齢は99歳です。サライともども高齢に達し、子どもを産めるような年ではありませんでした。神さまはそこまで、アブラハムを追い込みました。もう、人間の力、人間の努力では不可能です。そのときに、再び、神さまのことばが臨んだのです。99歳の老人に「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」とは酷なような気がします。しかし、その意味は「神さまに完全に信頼せよ」という意味です。私たちはアブラハムのことを批判することはできません。神からの約束がなかなか成就しないとどうなるでしょうか?「あれは、気のせいだった。ひとりよがりだった」と疑いが入るでしょう。そして、「こうすれば、なんとかなる」と自分の知恵や考えでやるでしょう。しかし、それがかえって仇になり、神さまの約束が成就される妨げになります。一生懸命やったつもりですが、不信仰から出たことなので、祝福を受けることができません。しかし、神さまはご自身が立てた契約を忘れませんでした。恵みに満ちた神様は再び、声をかけてくださいます。「私はあのことを私は忘れていない。あなたの夢はどうなったんだ」と迫ってきます。イエス・キリストが死からよみがえらされたように、神様はあなたの夢をもう一度よみがえらせてくださいます。

みなさんの中にも、神さまから「あなたはこれをしなさい」というビジョンが与えられていたのではないでしょうか?それが、神さまからの契約だったのかもしれません。しかし、いろんな妨げが起こり、あなたはそれを諦めてしまいました。もう、土の中に埋めてしまいました。でも、神さまはあなたが祈った祈りを忘れてはいません。「あなたの願いを忘れてはいないよ。あの夢はどうなったのか?」と聞かれます。自分の願いと全く同じでないかもしれません。神さまは、ご自分のみこころに合致するように改訂版を提供します。神さまは、自己中心的なものを取り除き、ご自身のご栄光が現されるようにきよめてくださいます。私は高校生のとき、ボクシングに敗れ、挫折を経験しました。しかし、今は、ボクサーではなく、牧師になりました。トランペットにあこがれましたが、途中で挫折しました。しかし、今は、ヨベルの角笛、福音のラッパを吹く説教者になりました。夢を見たのが未信者の時であったとしても、神さまはあなたのことをちゃんと覚えておられます。神さまは、あのとき、あなたが願ったことを覚えておられます。全く、同じかたちではないかもしれせんが、主は答えようとされています。なぜなら、その夢はあなた自身のものではなく、神さまから出た計画だったからです。どうぞ、神さまの前に夢を差し出して、きよめていただき、そして再生してもらいましょう。


2.実物教育

 イエス様は新約聖書で「空の鳥を見なさい。野の花のことを考えて見なさい」といわれました。いわば、実物教育と言えます。実際あるものを見せることによって、信仰が与えられるからです。神様はアブラハムにもそのようにされました。創世記15:15「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」東京では、夜空を見ても、数えられるくらいの星しか見えません。しかし、田舎に行くと、夜空いっぱいに星がまばたいています。だいたい、正常な目では、6000個くらいの星が見えるそうです。アブラハムが神さまから外に連れ出されて、夜空を仰ぎました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と言われて、1、2、3、4と数え始めました。300くらい数えたら、もう数えられなくなりました。なぜなら、「私の子孫がこの星の数になるのか!」と思って、涙がにじんできたからです。。それから、夜の星が見えるたびごと、アブラハムはあの日、言われた約束を思い出すことができました。また、神さまは「海辺の砂のように数多く増し加えよう(創世記22:17)とも約束されました。日中は、星が見えません。でも、昼間は海辺の砂は見ることができます。アブラハムは自分から出た、子孫が数えきれない数になることを想像することができたでしょう。アブラハムは、夜は星を見るとき、昼は海辺の砂浜を見るとき、信仰を回復することができました。これは、いわばビジョンであります。神さまがビジョンを与えることによって、アブラハムの信仰を増し加えたということであります。

 私たちは何を見るかということは、とても重要です。信仰はみことばを聞くことからも入りますが、見るということもとても重要です。エレミヤは神さまからこのように何度も言われました。エレミヤ1:11-15「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると【主】は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」再び、私に次のような【主】のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」すると【主】は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。エレミヤは若くして神さまから預言者として召されました。預言者は神さまのことばを預かって、それを民に告げるという使命がありました。そのとき、ことばだけではなく、このような幻を見させられることが良くありました。幻は肉眼ではなく、霊の目で見るものです。特に預言者はこういう霊的な目がないと、神からの務めを果たすことができません。

牧師もまさしくそうでありまして、説教も重要ですが、神からの幻、ビジョンを解き放つことも重要です。幻やビジョンは、会議などで議論して出てくるものではありません。どちらかと言うと、会議は幻やビジョンに水をかけるようなところがあります。クリスチャンでも、目で見てからでないと信じない人が大勢います。そういう人に限って「現実は」とか「実際に」という言い方をよくします。しかし、目に見えてからでは、信仰はいりません。この肉眼ではなく、霊の目によって、見る必要があるのです。つまり、肉眼で見える前に、私たちは霊の目で見えている必要があるということです。この世の中における、偉大な発明や発見も、一人の幻から始りました。多くの凡人たちは「そんなの不可能だ!できっこない」と叫びます。しかし、幻をもった一握りの人たちによって、偉大な発明や発見がなされるのです。キリストの教会においても、同じことが言えます。箴言で「幻のない民は滅びる」と言われているのは、そのためです。私たちは現実を超えた世界を見る、霊的な目が必要です。神様は終わりの日に、リバイバルを与えると約束しています。神さまは日本を忘れていらっしゃるようですが、そうではありません。必ず、この日本にもリバイバルが来ると信じています。その時が来たら、週報で掲げている「350人の礼拝」はとても謙遜な人数です。ある人たちは「ああ、やっぱりならなかったか!」と言うかもしれません。でも、私は希望の奴隷となって、希望をもって死にたいです。

サマリヤの町がアラムに包囲されました。そのため、サマリヤにはひどいききんがあり、ろばの頭や鳩の糞までも高く売られていました。さらには、女たちは子どもを煮て食べる始末でした。Ⅱ列王記7:1-2エリシャは言った。「【主】のことばを聞きなさい。【主】はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが一シェケルで売られるようになる。』」しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」ちょうどその頃、4人のらい病人が「私たちはどうせ死ぬのだから、アラムの陣営に入ろう」と決意しました。主はアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられました。彼らは「大軍が押し寄せて来た!」と、すべてを置き去りにして、命からがら逃げ去りました。らい病に犯された人たちは、天幕に入って、食べたり飲んだりしました。銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しました。彼らは「この良い知らせを自分たちのものだけにしていたら罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう」と言いました。王の家来が来て見ると、アラムの陣営には人っ子一人いませんでした。それで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪いました。それで、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られました。王様は、例の侍従、王の腕によりかかっていた侍従が門の管理に当たらせました。ところが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死にました。彼は、預言のとおり、確かに自分の目でそれを見たが、それを食べることができませんでした。どうか、この侍従のようになりませんように。私たちはリバイバルをこの目で見て、それを体験する者となりたいと思います。


3.名前を変える

創世記17:5「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」神さまは、「名前を変えろ」とおっしゃいました。アブラハムという名前の意味は「多くの国民の父」という意味です。また、妻サライにも「名前を変えろ」とおっしゃいました。創世記17:15「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。」サラという名前の意味は「王女」ですが、「多くの国民の母」という意味でもあります。最初、神さまから、そのように言われたとき、「そんな馬鹿な」と、二人とも笑いました。創世記17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」神さまを礼拝しながら、「そんな馬鹿な」と笑ったのです。サラの方はどうでしょうか?創世記18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」主は「こんなに年をとっているのに、と言って笑うのか?」とサラを咎めました。サラはあわてて「私は笑いませんでした」と打ち消しました。しかし、主は「いや、確かにあなたは笑った」と言われました。

二人の信仰が完全ではありませんでした。しかし、改名させたれた名前を互いに呼んでいるうちに完全な信仰になったのです。一日の仕事が終わり、夕暮れ時になりました。アブラハムは「サラー(多くの国民の母)、もう帰ろうか!」と言いました。サラも「ええ、アブラハム(多くの国民の父)、帰りましょう!」と言いました。しもべたちがそれを聞いてどう思ったでしょう?「サラ」とは、「多くの国民の母」という意味じゃないか?また、「アブラハム」は「多くの国民の父」という意味だろう?二人のとも、年とって頭がおかしくなったんじゃないか?「こどもが生まれないので、おかしくなったんだ。ああ、かわいそうに」。それも、1日だけではありません。それから、毎日、毎晩、サラ(多くの国民の母)、アブラハム(多くの国民の父)と呼び合っていました。そう告白しているうちに、二人は若返ったように見えました。いや、実際、若返ったのです。使徒パウロはこのように教えています。ローマ4:17-18「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。」アブラハムとサラは、年老いて、死んだような体でした。二人はまさしく、「無いものを有るもののように呼んだのです。まだ、子どもが生まれてもしないのに、「多くの国民の母」「多くの国民の父」と呼んだのです。そうすると、信仰が増し加わり、肉体も若返り、子どもを宿すことができるようになったということです。

「無いものを有るもののようにお呼びになる方」は新共同訳では「存在していないものを呼び出して存在させる神」と訳しています。このようなことから、私たちが創造的なことばを発するということがとても重要だということがわかります。最初に神さまが「アブラハム(多くの国民の父)になる」「サラ(多くの国民の母)になる」と言いました。その次に、二人がアブラハム(多くの国民の父)とサラ(多くの国民の母)と互いに呼び合うようになったのです。これは信仰がなければできません。私たちが神からの奇跡を体験するためには、ことばを変える必要があります。なぜなら、神さまは無いものを有るもののようにお呼びになる方だからです。あるいは、存在していないものを呼び出して存在させる神だからです。私たちも神さまにならって、無いものを有るように言うべきです。たとえば、結婚したいならば「いつか、結婚させてください」では良くありません。「結婚できることを感謝します」と言わなければなりません。「いつか、子供を与えてください」では良くありません。「子供が与えられることを感謝します。私たちはパパとママになります。」と言うべきです。「いつか病気を癒してください」ではありません。「病気が癒され、健康になることを感謝します。」と言うべきです。目に見えてから、言うのは信仰ではありません。まだ、目に見えていない事柄を見えるもののように言うことが信仰なのです。私たちは料理を作るとき、心の中には完成図が見えている必要があります。絵をかく場合も、心の中には完成図が見えている必要があります。家を建てる場合にも、完成図が見えている必要があります。車や電車でどこかへ行くにしても、心の中には行った場所が見えている必要があります。それをさらに口で宣言していくとき、信仰が固められます。その後、行動や気持ちがついていくのです。どうぞ、私たちの口から破壊的なことば話さないようにしましょう。「不景気だからうまくいかない。希望がない。最悪だ」と言うなら、そのようになります。神さまは「存在していないものを、呼び出して存在させる神さま」です。どうぞ、目にみえるものに逆らって、創造的なことばを発しましょう。彼らは、「アブラハム(多くの国民の父)」、「サラ(多くの国民の母)」と呼び合いました。まだ、一人も子供が生まれていないのに、多くの国民になるとは、すごい信仰です。でも、神さまが無から有を与え、そのようにしてくださいました。しかし、アブラハムがそれができるようになったのは、99歳になったときでした。まさしく、死んだような体になり、無いもののようになった時です。人間的に全く不可能だと思えるような時こそ、神さまの出番なのです。みなさんの中にも、人間的には不可能だと思えることがいくるかあるでしょう。どうぞ、その場所に神さまが来られますように。神さまは「存在していないものを呼び出して存在させる神」です。そして、あなたは信仰によって、それが存在したかのように宣言するのです。あなたは何を見ているでしょうか?神さまはあなたにどのようなことをお見せしているでしょうか?どうか、霊的な目によってそれをキャッチして、信仰のことばを発していきましょう。そうするなら、次から次へと神さまのみわざを経験することができるでしょう。


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2013年9月 1日 (日)

天路歴程    創世記12:8-18 

 イギリスのジョン・バニヤンが『天路歴程』という本を書きました。基督者という人があるとき、夢を見ました。自分の町がまもなく亡びるという恐ろしい夢でした。彼は救いを得るために、故郷も家族も捨てて、天の都を目指しました。ある時は失望落胆の沼に落ち、またある時はアポリュオンという悪魔と戦う、波乱に満ちた旅の物語です。続編は、彼の妻と子供たちが、天の都を目指すというストーリーになっています。クリスチャンも天の都を目指す旅人であります。きょうは、故郷を捨てて、約束の地を目指したアブラハムの信仰を共に学びたいと思います。


1.故郷を出発したアブラハム

主なる神さまはアブラムに「あなたを大いなる国民とする」と約束しました。やがて、彼の名前は「アブラハム」と改名させられます。新約聖書では「アブラハム」と呼んでいますので、便宜上アブラハムと呼ばせていただきます。アブラハムは神さまから「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出なさい」と命じられました。では、アブラハムの生まれ故郷とはどこなのでしょうか?1章手前の創世記11章を見たいと思います。アブラハムは父テラが70歳のときに生まれました。アブラハムの生まれ故郷はカルデヤ人のウルでした。ウルはシュメールでも有名ですが、古代メソポタミアの都市です。そこで、アブラハムはサライと結婚しました。父のテラは、息子夫妻と孫のロトを伴って、カナンの地に出発しました。もしかしたら、テラは神さまから、「カルデヤ人のウルから出て、カナンの地に行くように」と命じられたのかもしれません。しかし、どうでしょう?ハランに来て、そこに住みついてしまいました。アブラハムが召命を受けたのは、父テラが死んだ直後だったと思われます。創世記12:1-4「【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。当時は、今よりも二倍くらい生きしたようですが、75歳というと、ある程度の年に達しています。その年になって、何もかも捨てて出発するというのは冒険であったと思われます。

 へブル人への手紙11章には、このように書かれています。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(へブル11:8)。みなさんの中に、行先が分からないのに、電車に乗る人がいるでしょうか?あるいは、行先が分からないのに、車を発車させる人がいるでしょうか?たまに、山手線でぐるぐる回っている人がいますが、普通はそういう人はいないと思います。アブラハムは父がカナンの地に行こうとしていたことだけは知っていました。だから、西へ向かって進んで行ったと思われます。実際に、創世記12:5「アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。」とあります。神さまは、アブラハムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられました。しかし、まだその当時は、カナン人が住んでいたので、そこに定住することは不可能でした。そこで、アブラハムはベテルの東にある山の方に移動し、天幕を張りました。それから、なおも進んで、ネゲブの方へと旅をつづけました。しかし、その地方にはききんがあったので、今度はエジプトに下りました。こうところを見ますと、カナンが最終的な目的地ではなかったようです。このように行先は明かされていません。しかし、アブラハムが国民の父となるために、絶対すべきことがありました。それは何でしょう?生まれ故郷、つまり、父の家を出て、神さまが示す地へ行くということです。なぜ、生まれ故郷を出なければならなかったのでしょうか?生まれ故郷には何があったのでしょうか?カルデヤのウルにはいろんな宗教がありました。古代メソポタミアでは、ナンナルという月の神さまを拝んでいました。父テラはハランに移りましたが、ハランもやはり、偶像礼拝の地でした。いわば、父テラは妥協したのでありましょう。だから、神さまはアブラハムに「あなたの父の家を出よ」とまで言ったのでしょう。

 日本は、仏教や神道、先祖崇拝の国です。日本で、イエス・キリストを信じるとなると、戦いが伴うでしょう。羽鳥明先生が16歳のとき、夜の集会でイエス様を信じました。宣教師から、お父さんにクリスチャンになったことを告げなさいと言われました。勇気を振り絞って、お父さんにそのことを告げました。すると、「ご先祖に謝れ」と怒鳴られ、畳の上に、大外狩りで投げつけられたそうです。現代はそこまでいかないかもしれませんが、長男の場合は仏壇を守るために、信仰を持つのが難しいかもしれません。イエス様がヤコブとヨハネを召したとき、舟も父も残してイエス様に従いました(マタイ4:22)。弟子となるためには、決別みたいなものがありました。私が家内と婚約したのち、家内の実家に挨拶に行きました。お家に入ると、天皇陛下の写真が飾られており、神棚も仏壇もありました。どうわけか、マリヤ様の白い像が居間の棚に立ててありました。家内の弟が家を継ぐので、問題はなかったかもしれませんが、義父の心は穏やかでなかったと思います。義母も看護学校を出してやったのに、教会に献身するなんて夢にも思っていなかったでしょう。家内はまさしく、生まれ故郷と父の家を出たのです。しかし、そのわりには、お盆の他に数回は実家に帰っています。ま、親孝行のためであると理解しています。私たちクリスチャンにとっては、偶像礼拝を捨てて、まことの神に立ち返るということがどうしても必要です。なぜなら、ほとんどの日本人は、お寺の檀家であり、神社の氏子になっているからです。自分で気が付いていなくても、霊的には、この世の神に捕えられているということです。ですから、イエス様を信じるためには、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出る」ということが必要なのです。


2.天幕生活をしたアブラハム

 その当時、カナンにはカナン人とペリジ人が住んでいました。その地に、アブラハムとロトの2つの集団が入り込むことになりました。両者の家畜が増えてきたとき、牧者との間に、争いが起こりました。なぜなら、家畜のための牧草地が狭かったからです。そのとき、アブラハムはどのように、問題を解決したでしょうか?創世記13:8-11「そこで、アブラムはロトに言った。『どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。』ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。」神さまはアブラハムを召しましたが、ロトはそうではありませんでした。ロトはおじのアブラハムに着いて来ただけです。そして、アブラハムのゆえに祝福を受けていたのです。アブラハムは年長者であったので、自分が最初に行くべき土地を選ぶことができました。しかし、アブラハムは年少者のロトに選択権を譲りました。そこで、ロトは目を上げて、ヨルダンの低地を選びました。なぜなら、草が生い茂っているので、家畜を飼うには最適だと思ったからです。ところが、後からわかりますが、そこはソドムの人たちが住んでいました。創世記13:13「ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった」と記されています。ソドムという言葉は、「男色」とか「同性愛」と関係があるようです。ロトは肉眼で見渡して、「ヨルダンの低地が良い」と選び取りました。

 一方、アブラハムはどうでしょうか?アブラハムは信仰の目をあげて見ました。すると、神さまが示してくれる地を見渡すことができました。ロトは肉眼で見ましたが、アブラハムはもっと高い、霊的な目で見ることができたのです。するとどうでしょう?やがて、神さまが子孫に与えてくれるであろう、全部の地を見ることができました。神さまは「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」と約束してくださいました。ロトはこの世での相続地を得るために求めました。一方、アブラハムは神さまご自身を求めたのです。つまり、神さまご自身がアブラハムにとっての相続財産だったのです。詩篇16:5「【主】は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。」とあります。ダビデは「主ご自身が、ゆずりの地所であり、私の受ける分を、堅く保っていてくださる」と歌いました。狭い日本に住んでいますと、「一生かけても、猫の額みたいな土地しか持てないだろう」と考えます。しかし、霊的な目を上げて見るならどうでしょう?「神さまが全地の所有者だから、住むべきところはちゃんと確保してくださる」という信仰がわいてきます。よく考えると、私たちは土地を永久に所有することはできません。なぜなら、いつかはこの地上を去らなければならないからです。「つかの間だけ、住まわせてもらう」というのが真実であります。だから、この地上にあまり執着することは無用です。使徒の働き7章に、ステパノがアブラハムに関して語ったことが記されています。使徒7:5「ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。」ある英語の聖書には「1フィート四方の土地も与えられなかった」と書かれています。1フィート四方というのは、30センチ四方のタイルの大きさです。一坪よりもはるかに小さいです。神さまはアブラハムに相続地を与えると約束しました。しかし、それはアブラハムではなく、アブラハムの子孫だったのです。

では、アブラハムはどのような生活をしていたのでしょうか?アブラハムは神さまご自身を相続財産として受け取っていました。そして、この地上では天幕生活をしました。つまり、神さまが「行きなさい」という地に移り、そこに天幕を張って、しばらくの間、住んだということです。でも、神さまが「他の箇所へ行きなさい」とおっしゃれば、天幕をたたんで、他の地に移り住みました。きょう最初に開いた創世記12章を読みますとこのようなことが分かります。アブラハムはシェケム地に来ました。そこに祭壇を築きました。さらにアブラハムはベテルの東に移動して天幕を張りました。そこに祭壇を築きました。ロトとの紛争を解決してから、アブラハムは天幕を移してヘブロンに住みました。そして、主のために祭壇を築きました。アブラハムの一生は、天幕生活でした。しかし、ただ、あちらこちら移動して生活していたのではありません。必ずと言って良いほど、そこに主のために祭壇を築きました。祭壇を築くとはどういう意味でしょう?それは、神さまを礼拝し、神さまと共に生活するということです。すると、神さまはその場所に隣在してくださり、祝福の場所と変えてくださるのです。だから、アブラハムはどこに移り住んでも、神さまと共に生活することができたのです。まさしく、アブラハムにとって、神さまご自身が「ゆずりの地所であり、私の受ける分」だったのです。朝のNHKで「じぇじぇ」というのをやっています。この間、ちょっと見たら、主役のお母さんがこのようなことを言っていました。「大切なのは、住む場所ではなく、一緒に住んでいる人たちである」と。確かに、良い人間関係があれば、そこは良い場所になります。環境の最も重要な要素は、人間と言えるでしょう。でも、聖書は、人間もさることながら、主が共に住んでいてくださるかどうかであると言っています。そこに、祭壇を築いて神さまを礼拝する。そうすれば、その場所は祝福の地に変えられるということです。「祭壇を築く」それは、家庭での礼拝、職場での礼拝、このような地域での礼拝と言うことができます。昔、アメリカでは学校で礼拝を持っていました。しかし、今はそのようなことができません。クラスルームなど、公のところで祈ることは禁じられています。だから、学校での銃乱射事件のようなことがよくあるのではないでしょうか。私たちが祭壇を築くならば、どこに行っても、その場所に神さまが隣在してくださり、祝福の場になるのです。


3.天の故郷にあこがれたアブラハム 

アブラハムはこの地上で、天幕生活をしていました。この世的に言うならば、借家住まいです。いや、テント生活ですから、もっと大変かもしれません。しかし、へブル人への手紙の記者はこのように述べています。へブル11:9-10「 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」少し飛んで、へブル11:14-16「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」アブラハムの天幕生活は、「信仰による」ものでした。アブラハムは地上では旅人であり寄留者でした。約束のものを手に入れることはありませんでした。つまり、この地上では、相続地を得ることができなかったのです。では、どこを相続地としたのでしょう?それは天の都です。天の都こそが、本当の到達地であり、相続地だったのです。アブラハムは生まれ故郷から出てきました。普通だったら、自分の生まれ故郷をあこがれるはずです。また、生まれ故郷に帰ることもできたでしょう。でも、アブラハムはさらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれました。それは、自分が本当に行くべきところは、生まれ故郷ではなく、天の故郷、天の都であることを信じていたからです。アブラハムは「あっちが本当の故郷だ。あっちが将来、住むべきところなんだ」と確信していました。だから、地上で天幕生活をし、「自分は旅人であり寄留者である」ということに甘んずることができたのです。

寄留者は英語の聖書では、exileです。Exileって言われると「かっこいいなー」と思うかもしれません。でも、「旅人」とか、「寄留者」と呼ばれたらどうでしょうか?任侠伝とか演歌の世界であったら良いかもしれません。しかし、住所不定で住まいがないとなるとどうなるでしょう?上野の近くを車で通ると、台車にいろんなものを積んだ人が歩いているのを見かけます。隅田川の岸辺を見てみると、ブルーシートの家があります。「私はあのようにはなりたくない」と思っても、本当は、あまり変わらないということです。なぜなら、私たちは旅人であり寄留者だからです。昔、はしだのりひことシューベルツというグループが『風』という歌を歌いました。「ひとはただ一人、旅に出て、人はだれも故郷をふりかえる。ちょっぴりさみしくて振り返っても、そこにはただ風がふいているだけ。…ふりかえらず、ただ一人、一歩ずつ。振り返らず泣かないで歩くんだ。」実は、はしだのりひこさんは、高校生の頃、榎本保郎先生のところに出入りしていたそうです。クリスチャンになったかどうかはわかりません。「人生が旅である」ということを歌っているので、聖書的な考えが、どこかに入っていたかもしれません。本当に人生は旅であります。しかし、私たちは行くあてのない、放浪者ではありません。ちゃんと行くべきところがあるからです。それは天の都であり、天の故郷です。私も10年前までは、『故郷』の歌を耳にすると、涙が出たものです。「うさぎ追いしかの山」と聞くと、「うさぎはおいしくないぞ」と冗談を言っていました。兄が事故で亡くなってから帰っていませんでした。しかし、伝道のために、17年ぶりに帰ってみました。その後も数回、続けて帰りましたが、「ああ、ここは私の故郷ではないんだなー」と納得しました。第一は山川があまりにも昔と変わり都会になりました。第二は、知っている人がほとんどいない浦島太郎です。第三は、私の家は兄嫁が住んでおり、もう私の家ではありません。とても寂しい思いがしました。最終的に、「秋田は私の故郷ではない。天の都、エルサレムだ」ということが分かりました。そのときから、『故郷』の歌を聞いても、涙が出なくなりました。先月、高校の同窓会に出席しました。高校は、私の暗黒時代でしたので、思い出すのもイヤでした。でも、誘われたので、思い切って出席しました。みんな還暦になり、卒業して42年ぶりの再会です。出席してみて、「ああ、私は心が癒されたんだなー」と自覚しました。土木科を卒業して、牧師になり、どんでん返しの人生でした。私が、一番の幸せ者ではないかと思いました。なぜなら、短い人生で、キリスト様と出会い、永遠のいのちを手に入れたからです。

「人生は出会いで決まる」とユダヤ人哲学者、マルチン・ブーバーが言いました。私たちが出会うというよりも、向こうの方から出会ってくださるというのが本当ではないでしょうか。そして、私たちの責任というのは、神さまのお声に応答するということです。アブラハムも父がなくなって、これからどうしようと思ったかもしれません。しかし、そのときお声がありました。アブラハムの従い方は十分でなかったかもしれません。なぜなら、「おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した」(創世記12:5)からです。でも、神さまからいろんな取扱いを受けて、身軽になりました。最後には、自分は天の都を目指す旅人だということが分かったのです。私たちも生きている限り、この地上にいろんな未練があります。この世の宗教、家とか土地、地位や名声、人とのつながりがあるでしょう。一つずつ主にゆだね、身軽になっていくのです。天の都を目指す私たちへの神さまのみこころはどういうものでしょうか?へブル11:16 「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」「旅人」とか「寄留者」と呼ばれたら恥ずかしいかもしれません。しかし、天の都を目指している人を神さまは恥としません。むしろ、誇りと思われるでしょう。


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