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2013年8月25日 (日)

箱舟を造ったノア   創世記6:8-18  へブル11:7 

 アダムから生まれた子孫が地に増え広がりました。しかし、地上には悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことに傾いていました。それで、主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。主は「私が創造した人を、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで、地の表から消し去ろう」と決意されました。しかし、ノアだけが、主のこころにかなっていました。神さまはノアを選んで、地を洪水で滅ぼす前に箱舟を造らせました。きょうは、ノアの信仰について共に学びたいと思います。


1.箱舟を造ったノア

 主はノアに「このように、箱舟を造りなさい」と、詳細な設計図を示されました。長さと幅と高さの比率が、30:5:3です。造船界では、タンカーなどの大型船を造船する際に最も高い安定性と強度を持つことから「黄金比」などと呼ばれています。知恵ある神さまは最も安定する舟を造らせたのです。ハレルヤ!1キュッビットは約44.5センチですから、箱舟の大きさは、現在の長さでいうと、長さが133メートルです。サッカー場よりも20メートルくらい長いです。幅は22.2メートルです。そして、高さが13.3メートルですから、4,5階建てのビルデングであります。ノアはその舟をどこで造ったのでしょう?普通、舟は港で造るものです。しかし、山の上でした。山の上だったら、木がふんだんにあり、運ばなくても良いからです。あとで洪水が来たとき、その舟は自然に浮きました。人間だけではなく、動物も載せるので、3階建ての超大きな舟です。鍛冶屋はいたと思われますが、すべてが手作業です。だから、箱舟を造るのに、丸100年かかりました。3人の息子たちが手伝ったと思われますが、気の遠くなるような作業です。水が外から入らないように、内と外とに木のヤニで塗りました。「塗る」はヘブル語では、カーファルですが、「罪を赦す」とか「贖う」という言葉と同じです。まさしく、箱舟の内側には命がありましたが、箱舟の外は死でした。

 へブル人への手紙の記者は、ノアは信仰によって舟を造ったと言っています。へブル11:7「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」まだ見ていない事柄とは何でしょう?やがて大雨が降り、大洪水が押し寄せて、地上のすべてのものが死に絶えるということです。神さまはノアとその家族を救うために、契約を結ばれました。そのために、箱舟を造り終えたら、ノアとノアの家族は造った舟に入ること。すべての生き物の二匹ずつを箱舟に入れること。家族と動物の食物にするために、食糧を取って集めるという条件でした。ノアはどうしたでしょうか?創世記6:22「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」これと同じことばが、創世記7:5にも出てきます。ノアがなぜ、「正しい人」と言われたのでしょうか?それは、道徳的な面だけではありません。神さまの命令に従う人が正しい人なのです。ノアは信仰によって、神さまが造りなさいという箱舟を造り、やがて来る大洪水に備えました。「与作は木を切るヘイヘイホー、ヘイヘイホー」という歌があります。しかし、ノアの方が先輩です。「ノアは木を切るヘイヘイホー、ヘイヘイホー」。山で木を切る音が、100年間も続きました。

 では、ノアは他の人々に、「洪水が来るから備えるように」と言わなかったのでしょうか?Ⅱペテロ2:5「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し…」とあります。「義を宣べ伝えた」というのは、神のさばきである洪水が来るということを伝えたということです。でも、人々は「洪水なんて来るわけがないだろう!」と聞こうとしなかったのです。イエス様がこのようにおっしゃられています。マタイ24:37-39「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりすることは悪いことではありません。しかし、彼らは洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、同じことを繰り返していました。地上のことに心を奪われていたので、その日が来ることに気付かなったのです。ノアとその家族は仕事の合間に、町に出かけて、「自分たちは箱舟を造っているけど、まもなく洪水が来るから入らないか」と言ったのではないかと思います。しかし、町の人たちは「ノアは頭がおかしくなった」とまともに耳を傾けませんでした。ノアの警告を100年間も無視したのです。教会はノアの箱舟にたとえられています。今でも、世の人たちは「毎週、日曜日、教会に出かけるなんて、よっぽど暇なんですね。」と嘲笑するかもしれません。どうぞ、私たちはノアのように、神からの警告に備えながら、他の人たちに福音を宣べ伝えたいと思います。ノアは成功した伝道者だったでしょうか?ノアとその家族、合計8人しか救われませんでした。数的には少ないかもしれませんが、ノアを含め、8人の家族が救われたということはすばらしいことではないでしょうか。私たちも「少なくとも自分の家族が救いに入れられたら」と願います。


2.箱舟に入ったノア

 100年たって、いよいよ箱舟が完成しました。ノアは神さまに命じられたとおり、動物たちを1つがいずつ集めてきました。きよい動物だけがなぜ、7つがいなのかというと、あとで犠牲として神さまにささげるためです。羊とかヤギ、牛などがきよい動物とみなされていました。一体どれくらいの数なのかわかりません。ノアの物語の絵をみますと、ライオン、トラ、キリン、カバ、象、サル、らくだ、鶏、馬、ガゼール…。しかし、いくら舟が大きくても、すべての動物を1つがいずつ集めるのは不可能だろうと思うかもしれません。それに、野生の動物が、おとなしく箱舟に乗るでしょうか?私も、科学的に説明できないところがあります。しかし、神の霊が動物たちを集めたのではないかと思います。創世記7:7-10「ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。」ノアとその家族が箱舟に入りました。そして、動物たちが、雄と雌二匹ずつが箱舟に入って来ました。おして、いよいよ雨が降ってきました。創世記7:11-12「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。」雨の降り方が現在のと、全く違います。なぜなら、「天の水門が開かれた」とあるからです。

 このところに不思議な表現があります。創世記7:16「…それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」大雨が降ってきて、人々は「ああ、本当に洪水がやって来た」と驚いたでしょう。そして、ある人たちは、箱舟にたどりついて、そのドアを叩いたかもしれません。「ドアを開けてくれ!」と言ったかもしれません。もし、ノアが「ああ、そうか」と言ってうしろの戸を開けたらどうなるでしょう。洪水が入り込み、箱舟もろとも沈んでしまうかもしれません。「主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」このところには、峻厳なる神のご意志があります。戸が閉ざされたなら、出ることも入ることもできません。ケネス・ヘーゲン牧師の証です。私が17歳で、まだ寝たっきりだったころ、いとこのリジーおばさんが、彼女の娘と一緒に私たちのところを訪れていました。リジーおばさんがいるところでは、神のことを決して口にすることができませんでした。もしそうでもするなら、彼女は怒鳴り散らして、こう言い始めるのです。「神なんかいないわ!天国も地獄もないわ。説教者なんかみんな殺されるべきよ、どの教会も焼かれるべきよ。ああいう説教者たちは人々をだましているだけなんだから。彼らは人々のお金を取ろうとしているだけだよ」。私が病をいやされて約10年後にリジーおばさんと会ったときは、彼女はもう老けていました。あるとき、リジーおばさんの暮らしていた町で集会を開いていました。リジーおばさんの娘のロレンナが、彼女のお見舞いに来てほしいと言いました。ロレンナは私の両手を取って泣き出しました。「ああ、ケネス。母は昏睡状態で、お医者さんから二度と回復しないと言われているわ。でも、彼女の意識が戻ったら、あなたから彼女に話してくださるかしら?」。寝室に入ると、リジーおばさんは昏睡状態で横たわっていました。彼女の両目は大きく開いていましたが、目は大理石にようで、一度もまばたきしませんでした。ロレンナは「ママ!ママ!」と大声を上げて彼女を少揺さぶりました。ロレンナは「おばさんの息子のケネスを覚えてる?長い間、寝たっきりだったけど、後で説教者になっている人よ」。ロレンナが「説教者」と言ったとき、リジーおばさんがベッドの上で身を起こしました。「ケネス!ケネス!お前は説教者だね。『地獄はない』と私に言っておくれ。私は『神はいない』って言ったわ。私は『天国はない』って言ったわ。」リジーおばさんは半狂乱になって、さらに叫びました。「私に言っておくれ、『地獄はない』って。私はとても怖いわ。とても暗いし、私は怖いわ。ああ!ああ!」そして、リジーおばさんは後ろの枕の上に倒れました。私はイエス・キリストのことを話し始めました。しかし、リジーおばさんは持っていた体力を全部使い果たし、枕の上に倒れた時、無意識状態に陥り、二度とそこから戻ってきませんでした。箱舟に入るということは、キリストがくださる救いを受けるということです。私たちの人生においてその決断がいつでもできるわけではありません。人生のドアが閉じられるときがあるからです。


3.箱舟を出たノア 

創世記8:1-4「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。」かなり前、ある調査団隊が、アララテ山に登って、ノアの箱舟の残骸を写真に撮ったようです。また、宇宙船から取った写真をテレビで見たことがあります。しかし、現在はトルコ政府がアララテ山に登ることを禁じています。アララテ山のふもとに住む人たちは、ノアの洪水物語を何千年も語り継いでいます。神さまは、科学的な証明ではなく、信仰によって信じるように導かれているようです。それでは、科学は不要かというとそうではありません。ノアは水がどのように減っていったか、時間の経過とともに克明に記しています。雨が降り始めたのがノアの生涯の600年目の第二の月の17日でした。そして、第七の月の17日に、アララテ山の上に止まった。5か月で150日目です。第十の月の1日に、山々の頂が現れました。40日たって、箱舟の窓を開いて、烏を放ちました。地がかわききるまで、出たり、戻ったりしていました。それから鳩を放ちましたが、足を休める場所が見当たらなかったので、箱舟に戻ってきました。

創世記8:10-11「それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。」ピースというたばこがあります。昭和27年、日本の専売公社がアメリカのデザイナーに当時150万円の高額なデザイン料を支払いました。このデザイン変更で爆発的に売り上げが伸びたそうです。ノアが箱舟の窓から放った鳩がオリーブの葉をくわえて戻ってきたことで、大洪水が収まり、安らぎの大地が近いことを知った、という、鳩が平和の象徴となった逸話にちなんでいます。ノアは7日後、また鳩を放ちましたが、もう戻ってきませんでした。では、すぐに箱舟を出たかというとそうではありません。創世記8章13節以降にも、水がどうなり陸地がどうなったか書かれています。そして、第二の次の27日、地はかわききりました。なんと、箱舟に乗ってちょうど1年後です。1年間も、狭い舟に乗っていたら、気が狂うでしょう。陸地が見えたら、すぐにでも降りたいところです。でも、ノアは1日、1日、日付を付けていました。雨がどのくらい降ったか。大洪水が何日あったか。水がどのくらいまし、どのくらいで引いたか。からすを放ち、はとを放ちました。それでも、出ませんでした。ノアは、なんと科学的で、なんと緻密な人のでしょう?気が狂わなかったのは、第二の月、第三の月、第四の月、第五の月、第六の月、第七の月、第八の月と日を数えていたからです。

いつ出たのでしょう?創世記8:15-16そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。」そうです。主のおことばがあって初めて、ノアは舟を出たのです。ノアは、科学的なデーターを握っていました。しかし、主のおことばがあるまで待ったのです。もし、陸地が見えたとき、降りたならば、伝染病にかかったかもしれません。自然が完全に回復するまで待たされたのです。箱舟を降りたのは、ノアとその家族、合計8人でした。船という漢字があります。右側の作りに、八口と書かれているのには意味があります。口は人のことを言います。ですから、八口は八人という意味になります。まさしく、船はノアの箱舟の物語から来ています。ノアが舟から出て、一番最初にしたことは何でしょうか?それは礼拝です。創世記8:20「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」きよい動物の数がなぜ、他より多かったか?それは、全焼のいけにえとしてささげるためでした。普通だったら、「ああ、助かった」と食べて飲んで、祝杯をあげるでしょう?しかし、まず、ノアは主のために祭壇を築き、礼拝をささげました。ノアは家を建てる前に、神さまに礼拝をささげました。穴という漢字があります。箱舟から出た八人は住む家もなく、しばらくの間、洞穴に住んだかもしれません。空(から)という漢字があります。8人が青空の下で働(工)いたので、穴が空っぽになったということを連想させます。

神さまは新たに契約を交わしました。だれと交わしたのでしょう?神さまはノアとだけ契約を結ばれたのではありません。創世記9:9-11「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」神さまは、「もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と約束しました。しかし、それは人間とだけではありません。すべての生き物、鳥、家畜、野の獣たちを含んでいました。神さまは人間以外の生物のことも考えておられます。ここからわかることは救いというのは、人間だけのことではなく、世界全体のこと指しています。聖書で最も有名な聖句と言えば、ヨハネ3:16です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」です。神さまは、だれを愛されたのでしょうか?世、世界であります。人間だけではなく、動植物すべてを愛しておられます。だから、救いというとき、自然界も含まれているということです。そして、神さまは契約のしるしとして空に虹をかけました。創世記9:13-15「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。」洪水の前に、空に虹がなかったのでしょうか?保守な聖書学者は、「ノア以前の地球は厚い水蒸気で覆われていたのはないか」と言います。ノアの洪水以降の人たちの寿命が120歳であると書かれています。その理由は、水蒸気の天蓋が取り除かれて、有害な宇宙線(放射能)が地上に降り注がれるようになったからなのかもしれません。厚い水蒸気の層がなくなり、青空が見えるようになりました。だから、雲の中に虹が現れるようになったと考えられます。虹は鳩と並んで、平和の象徴になっているのはこの話からです。神さまは虹を見たら、ご自身の契約を思い出すとおっしゃいました。つまり、二度と大洪水ですべての肉なるものを滅ぼさないということです。歴史上、洪水は何度もありましたが、ノアのような地球規模の洪水は起こったことがありませんでした。

でも、神さまは世の終わり日には、洪水ではなく、火によって滅ぼすと警告しています。Ⅱペテロ3:6-9 「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」ノアのときは、大洪水でこの世界がさばかれて、滅ぼされました。しかし、世の終わりは大洪水ではありません。「火によって、不敬虔な者どもをさばく」と言われています。まさしく、私たちは世の終わりに住んでいます。かつて、ノアの洪水が起こったように、火によるさばきも必ず起こると信じるべきではないでしょうか?それでも、世の人たちはノアの時代の人たちのように、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしています。まず、私たち自身が目をさまして備えなければなりません。また、一人でも多くの人たちがノアの箱舟である、キリストの教会に身をよせるように働きかけたいと思います。正確には教会に来さえすれば良いということではありません。罪を悔い改め、つまり方向転換し、イエス・キリストを救い主として信じなければなりません。イエス・キリストことが、主であり救い主だからです。



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2013年8月18日 (日)

神と共に歩む   創世記5:21-23 へブル11:5-6

 エノクは、死なないで、天に引き上げられた人物です。預言者エリヤもつむじ風に乗って、天に引き上げられました。あとは、世の終わり、イエス様が来られたとき、私たちが生きているなら、死なないで天に引き上げられるでしょう。死というものが、アダムとエバが罪を犯してから、全人類を支配してしまいました。しかし、エノクやエリヤのように例外もあるということです。私たちはエノクのように死なないで天に引き上げられるかは、分かりません。エノクは天に引き上げられるほど、神さまから喜ばれていました。どのような信仰生活が神さまに喜ばれるのでしょうか?そのことを聖書からともに学びたいと思います。


1.神と共に歩む信仰

 創世記4章にはカインの子孫が記されています。カインの子孫は「だれそれが何をした」ということが記されています。ところが、創世記5章を見るとどうでしょう?ここにはアダムから生まれたセツの子孫が記されています。「だれそれが何をしたか」ということは全く書かれていません。その代わりに、「だれそれが○年生きて、だれそれを生み、何年生きて、死んだ」と多くの人たちが並べられています。「生きて、生んで、死んだ」「生きて、生んで、死んだ」と書いてあります。カインの子孫とセツの子孫の決定的な違いは何なのでしょうか?カインは自分の業績を上げることに力を向けたグループの人たちです。一方、セツはどうでしょうか?創世記4:26「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」セツの子孫は、「何ができるかということよりも」神さまとの関係を重んじたグループの人たちです。創世記5章に「生きて、生んで、死んだ」と記されていますが、彼らは、神さまと関係を持っていた人たちです。そうしますと、神さまは、私たちが何ができたかということよりも、ご自身との関係を記憶に止めておかれるようです。当時の人たちは、現在よりもはるかに長生きしています。ある人たちは、「古代オリエントにならって、年齢を水増ししたのだ」と言います。私はそうは考えません。アダムは本来、永遠に生きる存在として創造されました。ところが罪を犯したために、人類に死が入り込みました。ですから、アダムがたとえ、930年生きたとしても、永遠と比べたなら、まだ短命なのです。

 セツの子孫に、エノクがおります。カインの子どももエノクでありましたが、別人だと思います。エノクの一生はどうであったでしょうか?創世記5:21-24「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」エノクの一生は、他の人たちと比べて半部以下の長さです。もし、私たちのまわりに、早死にした人がいるなら、「その人は祝福を受けていない」と思うのではないでしょうか?エノクはどうだったのでしょう?「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」「いなくなった?」って、果たしてどこに行ったのでしょう?へブル人への手紙で、このことを説明しています。へブル11:5「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」エノクは死を経験しないで、神さまのもとに召されました。理由は、エノクは神さまから喜ばれていたので、死なないで、天に引き上げられたということです。これってすごいことじゃないでしょうか?人生は単純に長さではないように思えます。神さまがエノクを愛して、とても喜んでいました。「ああ、私はエノクの死を見たくない。生きたまま、天に引き上げよう」ということになったのです。人類の歴史上、エリヤをのぞいて、エノクのような人物はいません。アブラハムもモーセもダビデも死にました。しかし、エノクだけはそうではありませんでした。では、どういう生き方がそれほど神さまを喜ばせるのでしょうか?創世記5章にはひとこと「エノクは神とともに歩んだ」と書いてあります。エノクのように神とともに歩む人生が、神さまに喜ばれるということであります。

 でも、神とともに歩むというのは、どういう意味でしょう?エノクという名前は「従う者」という意味です。アダムとエバは堕落する前は、神さまとともに歩んでいたと思います。神さまと親しく交わりながら、神さまに従って歩んでいたと思います。ところが、善悪を知る木の実から食べてからは、一変してしまいました。神さまに聞かないで、自分たちで何もかも判断するようになりました。本来なら、神さまに従うことが善であり、従わないことが悪でした。でも、神さまから独立した人類は、自分たちで善悪を決めるようになったのです。罪ある人間はどうでしょうか?神さまがともにいたなら、かえって緊張するのではないでしょうか?自分の好きなことができない。自由がない。いつさばかれるか分からない。だから、多くの人は「さわらぬ神にたたりなし」と、神さまを祀り上げてしまいます。どうでしょう?神さまがともにおられることが喜びでしょうか?あるいは窮屈で仕方がないでしょうか?エノクは違いました。エノクは、いつでも、神さまを意識して生活していたと思われます。私もイエス様を信じた頃は、そうでした。いつでも「神さま、神さま」と意識していました。なんでも「神さま」でしたので、友人たちから、キリスト教にかぶれているとさえ思われていました。それから、半年後、神学校に入ってからどうなったでしょう?神学校では神学を学びました。その学校では「みことば、みことば」と言っていました。知的な面が強調され、頭の信仰になりました。心の信仰から頭の信仰になったのです。「神さまはどういう存在か」などと、理屈っぽくなりました。アダムとエバは知識の木の実を食べるときは、とても素朴だったと思います。ところが、知識の木の実は魅力があります。エバはその木を見たとき「賢くするというその木はいかにも好ましかった」(創世記3:6)と言っています。 

 神を知る知識が増し加われば神さまと共に歩むことができるのでしょうか?パウロは、Ⅰコリント8:1で「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と言っています。知識を持つことは悪いことではありません。しかし、1つの弊害があります。知識は人を高ぶらせてしまいます。でも、愛は人の徳を高めます。私たちと神さまとの関係でいうならどうでしょうか?聖書は神さまについて書かれた書物です。いろんな本を読んで、神さまについて勉強することはすばらしいことだと思います。でも、神さまは人格を持っています。聖書という神さまの説明書を読むことも重要ですが、人格を持っていらっしゃる神さまと交わる方がもっと重要ではないでしょうか?聖書は神さまについて書いている書物です。聖書を学ぶならば、神さまについて知識を得られます。しかし、それだけで神さまが分かったとは言えません。ギリシャ語で「知る」とういうことばには2つあります。1つはギノスコーであり、知的に知るということです。「イエス・キリストは神の子であり、救い主である」ということを聖書から知ることができます。その知識は完全であり、上がったりも下がったりもしません。もう1つはオイダであり、体験的に知るということです。ヘブル語では「ヤーダー」と言って、「知る」とは、夫と妻の親しい関係を言います。つまり、イエス様が自分にとって、救い主であるということを体験することがもっと重要です。この知識は一ぺんでわかることではありません。いろんなことを体験していくうちに、「ああ、イエス様は本当に私の救い主なんだ」と分かるのです。イエス様は弟子たちをご自分のもとに集めました。マルコ3:14-15「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」イエス様は学校のようなクラスルームで弟子たちを訓練しませんでした。弟子たちと寝食を共にしながら、生活を通して教えたのです。知識もさることながら、その生き様を刷り込んでいたのです。「刷り込み」こそ、もっともすぐれた教え方であります。

 私も神学校を卒業したてのころは、神さまがどういうお方なのか定義することができました。「神さまは全知全能で、偏在なるお方、完全なる愛をもっておられる」と言うことができました。しかし、自分が経済的に最も苦しいときに、「神さまは全知全能です」と言えるかどうかです。やはり、それは、苦しいときに神さまから養ってもらった体験があるなら本当にそうなります。私はグーグルで日本の地図、世界の地図を見るのが好きです。今は、「アース」という機能が加わり、まるで飛行機から見たような感じで見えます。エベレスト山もマッターホルンにも行けます。また、チベットの梅里雪山という前人未到の山にも行けます。富士山にも簡単に行けます。しかし、実際に山に登るのは、考えられないくらい大変です。パソコンの上では、雪崩にあうこともありません。もちろん、遭難することもありません。そんなことでは、山に行ったことにならないのです。神さまとの関係も同じです。「神さまは全知全能である」と一言で言えます。しかし、それは頭の知識です。しかし、神さまと実生活で交わりながら、神さまが全知全能であるということがもっと重要です。パウロは経済的な苦しみを乗り越えてこのように告白しています。ピリピ4: 19 「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」私たちも神さまを「私の神は」と紹介できる者となりたいと思います。


2.神さまに喜ばれる信仰

へブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。神さまは霊ですから、肉眼では見えません。エノクもそうであったと思われます。ところがエノクは、神さまは目には見えなくても、近くにおられることを信じていました。それだけではありません。エノクは神さまに自分の方から近づいて、神さまと親しく交わったのではないかと思います。神さまが閻魔大王のように怖いと思ったなら、だれも近づきません。しかし、エノクは神さまが自分を愛してくださる、恵み深い神さまであることを信じていました。エノクがそういう態度で神さまに近づいたので、神さまも「そうか、エノク」と近づいたのです。ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」とあります。信仰とは、「信じて仰ぐ」と書きます。でも、もっと積極的な意味があります。信じて、こちらから神さまに近づくということです。

きょうもみなさんが、このように神さまに近づいています。私たちが賛美し、礼拝をささげているのは神さまに近づいている証拠です。では、このようなメッセージは何のためにあるのでしょうか?カトリック教会では、このようなメッセージは重要ではありません。それよりも、聖体と言われるパンを食べることです。自分の罪をざんげして、神さまに近づくことが重要とされます。それではなぜ、プロテスタントでは礼拝のとき、長々と教えを垂れるのでしょうか?そして、いつ礼拝しているのでしょうか?話を聞くのが礼拝なのでしょうか?では、なぜ、このようなメッセージをするのか?それは、私も含めてみなさんに、信仰を与えるためです。神さまは目に見えませんので、信仰が必要です。また、私たちは罪を犯していたり、あるいは標準に達していないと、「自分は神さまのところに行けない」と思います。あるときは神さまが近く感じられますが、あるときは神さまが遠くに感じられます。またあるときは、「神さまなんかいないのでは?」と疑いに満ちているときもあるでしょう?どうでしょうか?私たちの信仰いかんによって、神さまが大きくなったり、小さくなったり、あるいは消えてなくなるのでしょうか?そうではありません。私たちはイエス・キリストの贖いによって、完全に神さまに受け入れられているのです。儀式や犠牲も必要でありません。なぜなら、イエス様が血を流して、贖いを完成してくださったからです。イエス様は私たちが必要である律法をすべてまっとうされました。仲介者であるイエス様を通して、ありのままで神さまのところに行けるのです。私が聖書からこのようなことをメッセージするとどうでしょうか?みなさんは「ああ、そうだったのか?」とイエス様のところに行って、重荷をおろして、平安を得ることができます。だから、このメッセージは礼拝の中心ではありません。みなさんが神さまに近づけるように手助けをしているのです。礼拝の中心は、メッセージが終わってからの応答のときであります。自分をささげることが最も重要なのです。もちろん、献げものも重要です。なぜなら、献げものは自分の信仰の現れだからです。

 もう1つ神さまに喜ばれる信仰とは何でしょう?それは、神さまを求めるということです。そして、神さまを求める者には報いてくださいます。この箇所を読むと「神さまに品物を求める」と書いていません。多くの場合、私たちは経済的なもの、健康、問題の解決、いろんな必要を求めるでしょう?でも、ここには「神さまを求める」としか書かれていません。ということは、何かの品物や願い事ではなく、神さまご自身を求めるということです。あるとき、お父さんが長い出張から帰ってきました。いつも、お父さんは息子のために、おもちゃを買ってきてくれます。「お帰り」と子どもが玄関に来て迎えました。お父さんが「いやー、忙しくて。お土産をかう時間がなかった。ごめんよ」と言ったとします。もし、子どもが「なーんだ。せっかく楽しみにしていたのに、お土産がないのか?」とプーンとすねて部屋に入ったならどうでしょう?あるいは、子どもが「お土産なんかよりも、お父さんが無事に家に帰ってくることがすばらしんだ」と抱きついたらどうでしょう?お父さんは嬉しくて、「こんど高価なものを買ってくるぞ」と思うでしょう。私たちは多くの場合、神さまの手を求めて、神さまご自身を求めていない場合があるかもしれません。何が必要を覚えたときだけ祈る。「あれください。これください。」「ああしてください。こうしてください。」もし、そうだとしたなら神さまはさびしいのではないでしょうか?神さまに頼むものがなくても、神さまがともにおられることを感謝したならどうでしょうか?神さまはきっと、喜ぶのではないでしょうか?この世の人たちが拝んでいる偶像の神さまはそういう神さまです。困った時しか、近づきません。しかし、私たちの神さまは人格を持っておられ、関係を重んじてくださいます。用事がなくても、神さまと親しく交わる。神さまご自身を賛美して、感謝する。そのような神さまとの交わりこそが、エノクのように神さまを喜ばせるのではないでしょうか?

 さらには、このところに「報いてくださる」と書いてあります。もう一度、お読みます。「神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」確かに、「神を求める者には報いてくださり、それを信じなければならない」と書いてあります。ある人たちは「報い」というと何か意地汚いように思う人がいるかもしれません。「報い」ということばは、日本語ではあまり良い感じがしないのでしょうか?原文を見ますと、神さまは「報いる者」となっています。これは「賃金を払う者、報酬を与える者」という意味があります。イエス様は「タラントのたとえ」や「ミナのたとえ」を用いて、神さまが報いを与える者であると教えておられます。忠実であった者にはそれに応じた報いを与えておられます。逆に不忠実であった者には、持っているものを取り上げ、外の暗闇に追い出すように命じました。ここには、「神さまは、報いてくださる方であることを信じなければならない」と教えています。つまり、報いをどうでも良いと考えるのではなく、報いを期待すべきだということです。では、私たちがこのように、神さまご自身を求め礼拝をささげるとします。神さまはどんな報いを与えてくださるのでしょうか?私は神さまは、手ぶらでは返さないと思います。シェバの女王がソロモンに会いに来たときはどうでしょうか?シェバの女王はバルサム油と非常に多くの金および宝石を携えてきました。そして、帰るときはどうだったでしょう?Ⅰ列王記10:13「ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は、家来たちを連れて、自分の国へ戻って行った。」これは、神さまと私たちのことを暗示してはいないでしょうか?シェバの女王が求めたのは、ソロモンの栄華であり、ソロモンの知恵でした。しかし、帰るときはどうだったでしょう?持ってきたものに相応しいものを与えました。それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えました。シェバの女王は遠くから、危険を冒してソロモンに会いに来ました。一緒に、たくさんの貢物を携えてきました。そのようにやって来たシェバの女王をソロモンは手ぶらで帰しませんでした。求めた物は何でも望みのままに与えました。このところに、何かヒントがあるように思います。

 私たちの神さまも同じではないでしょうか?このように神さまを賛美し、感謝をささげます。みことばを聞いて、信仰をもって神さまに近づきます。自分を神さまにささげ、ささげ物もささげます。そして、牧師が祝祷をします。私はこのとき、神さまがご自分がもっておられるものをみなさんに与えてくださっていると信じます。ある人には健康を、ある人には経済的な祝福を、またある人には神さまからの慰めと平安と喜びを、またある人には隠された知恵を、またある人にはビジョンや信仰を与えるでしょう。私たちは神さまから油を塗られ、武具を与えられて、この世に遣わされていくのです。肉体的にも、精神的にも、霊的にもリニューアルされるでしょう。「新しい週も神さまと共に歩むんだ」という決意が与えられるでしょう。それだけではありません。私たちは私たちの遣わされた生活の現場で、神さまと共におられることを体験を通して学ぶのです。「ああ、このときも助けてくれた」「ああ、これも与えられた」「ああ、本当に慰めを受けた」「ああ、問題が解決された」。そういう報いが毎日、毎日、与えられると信じます。エノクのように天に引き上げられてはいません。しかし、天の方がこちらに降りてきて、まるで天国のような祝福の中を歩むことができるのではないでしょうか?私たちがエノクのように天に引き上げられるのもすばらしいことです。でも、残された家族はさびしがるでしょう。それよりも、天の方がこちらに降りてきて、みんなで祝福の中を歩む方がもっとすばらしいです。私たちが残されているのは、神さまの恵みを知らない人に、恵みを知らせるためであります。あなたのまわりの人たちに、神さまを知らせるために、まだ地上に残されているのです。へブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」





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2013年8月11日 (日)

良きものをささげる    創世記4:1-7 へブル11:4

 へブル人への手紙11章には信仰者の列伝が記されています。その筆頭に出てくるのがアベルです。「アベルは信仰者のモデルなのでしょうか?」と疑問に思うかもしれません。しかし、へブル書の記者は「アベルは義人であった」と賞賛しています。世の中には、アベルのように事件に巻き込まれて命を落とす人がいるでしょう。病気や不慮の事故で、若くして亡くなる方もいます。大志を抱いていたのに、思い半ばで召される人もいます。この世を見ると、「人生は無情である。神も仏もないのでは」と思えるかもしれません。仏教では、「浮かばれない」と言う表現があります。アベルの人生は、仏教的には、浮かばれない人生だったかもしれません。しかし、聖書を読むとき、神さまは、不幸に対して報いてくださる神であり、小さな者を覚えてくださる神であることがわかります。


1.アベルの信仰

 アダムとエバから二人の子どもが生まれました。長男はカインであり、弟はアベルです。カインという名前は不明ですが、エバが「私は得た」と言ったことと、関係があるかもしれません。一方、アベルは「息」とか「蒸気」という意味があります。はかない彼の人生と、関係があります。このように聖書には「名は体を表す」というものが多くあります。二人は神さまに、捧げものをたずさえてきました。このところからも、礼拝という行為において、捧げものが不可欠であったことが分かります。カインは土を耕す農夫だったので、地の作物、たとえば穀物や果物を持ってきたと思われます。一方、アベルはどうでしょう?「彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」と書いてあります。アベルが持ってきた羊には、2つの修飾語がついています。第一は、初子です。最初に生まれた羊という意味です。第二は、最上のものです。羊の最上の部分を持ってきたということです。それからどうなったでしょう?「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」と書いてあります。なぜ、神さまはアベルのささげものを受け入れ、カインのささげものを退けられたのでしょうか?カインはその後、「ひどく怒り、顔を地に伏せた」とありますが、無理もないような気がします。「神さまは公平なお方でしょう?一方を受け入れ、他方を拒絶するとは何事ですか?」と文句言いたくなります。どこに問題があったのでしょうか?

 このことを説明しているのが、新約聖書のへブル人への手紙です。へブル11:4「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。」新約聖書では、二人のささげものに違いがあったと解説しています。「アベルはすぐれたいけにえを神にささげ、それが義人であることの証明を得た」と書いてあります。さらには、「神さまは、アベルのささげ物は良いささげ物だとあかししてくださった」とも書いてあります。つまり、ささげものによって、ささげものを持ってきた人がどんな人物か分かるということです。カインは「地の作物から主へのささげ物を持って来た」とありますが、何も間違っているところがないように思います。しかし、英語で表現するならば、one of themであります。「それらの中の1つ」ということでしょう。一方、アベルのささげ物はどうでしょうか?「羊の初子」とありますので、最初に生まれた羊です。聖書では「初子は神さまのものである」と書いてあります。さらに、「最上のもの」とあります。原文は「脂肪、選り抜きの部分」というという意味になっています。おそらく、羊をほふって、一番良い部分をささげたということでしょう。英語で表現するならば、the best thingであります。つまり、神さまに一番良いものを選んで携えて来たということです。創世記4章には「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた」とあります。また「カインとそのささげ物には目を留められなかった」と書いてあります。ささげた人とささげ物とがくっついています。つまり、ささげ物は、ささげた人と関連している、いや、一体であるということです。カインの神さまに対する見方は、「one of themそれらの中の1つで良い」ということでしょう。そして、アベルの神さまに対する見方は「the best thing一番良い部分をささげるべきである」ということです。あきらかに、神さまに対する信仰の度合いが違います。

 では、どうなのでしょうか?神さまが喜ばれるのは、ささげ物のいかんによるのでしょうか?ささげ物が多ければ神さまに喜ばれるのでしょうか?あるいは、最も尊いものを捧げれば、最も神様を喜ばせることができるのでしょうか?異教の人たちは、そのように信じて、自分の子どもをささげました。モアブ人の間では、ケモシュ(モレク)という戦いの神さまが礼拝されていました。ある人たちは、ケモシュのために、自分の子どもを全焼のいけにえとしてささげました。彼らは、「自分にとって最も大切な子どもをささげますから、この祈りを聞いてください」と願い出ました。しかし、神さまが喜ばれるのは、ささげ物の大小ではありません。その人の動機であり、信仰であります。おそらく、アベルは神さまをとっても慕っていたので、「羊の初子の中から、それも最上のものを持ってくるのが神さまに相応しいのだ」と考えていたのでしょう。自分のささげ物を誇示して、見返りを求めるようなところは微塵も見られません。神さまを崇める純粋な信仰でたずさえてきたのです。

もう1つのヒントは、へブル11:4後半の「そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました」というみことばです。義人とは罪がないだけではなく、神さまから完全に正しいと見られているということです。でも、アベルは神さまに近づくときに、自分には罪があることを知っていました。そして、自分の両親のことをちゃんと覚えていました。両親であるアダムとエバは、いちじくの葉の代わりに、神さまから着せられたものを知っていました。「皮の衣」ということは、神さまが動物をほふって、血を流し、皮をはいだということです。アベルはどの程度理解していたか分かりませんが、「神さまのところに近づくためには、このままではいけない。羊をほふって、血を流し、最上の部分を持ってこなければならない」と考えたのです。そのことによって、アベルの罪がきよめられ、神さまはアベルを義人とみなしたのであります。アベルは信仰によって、どのささげものが一番、神さまにふさわしいのか知っていたのです。つまり、アベルには贖いの信仰があったということです。願わくば、私たちのささげものが、私たちの信仰の表れでありますように。もし、私たちが神さまの前に出るとき、「つまらないものですが」とか、「わずかなものですが」と言ってはならないと思います。日本人は人に何かをプレゼントするとき、「つまらないものですが」と謙遜します。本当につまらないものだったら、人に差し上げるべきではありません。気持ちはわかります。でも、私たちが神さまの前に出る時は、「せいいっぱい」とか「心からの」と言うべきです。


2.アベルへの報い

アベルはこの後、カインによって殺されてしまいました。本当に、無残な死に方であり、はかない人生であります。「神さま、どうしてアベルを守ってあげられなかったのですか?」と言いたくなります。この世にはそのような不条理がまかりとおっているのは何故でしょう?アダムとエバが罪を犯して、神さまから離れてしまいました。別な表現では、神のご支配から、罪と悪魔の支配に転落したということです。そのため、義なる神さまは、罪の中にいる人々を支配しようとはしません。ローマ1:28「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」この世に悪がはびこっているのは、そのためであります。では、神さまは悪を放任しておられるのでしょうか?そうではありません。ローマ2:6「神は、一人ひとりに、その人の行いによって報いをお与えになります」とも書いてあります。弟を殺害したカインは、さばかれ、その土地から追い出されることになりました。一方、アベルはどうでしょうか?神さまはアベルの叫びを聞かれました。アベルが流した血によって土地がのろわれました。それだけではありません。神さまはアベルの魂を救い、義と認め、義人の最初のリストに加えられたのであります。アベルの人生は、まさしく「息」あるいは「蒸気」のようなものでした。アベルの命は、またたく間に消えてなくなりました。しかし、神さまはアベルの魂を救ってくださり、義人の筆頭に加えてくださったのです。

 聖書の神さまは報いを与えてくださる神さまです。この世においては、事故や災害で死んだり、若くして病気で死んだり、あるいはアベルのように命を奪われる人もいます。しかし、その理由は、アダムとエバの堕落後、この世は罪と悪魔が支配しているからです。「神さまがいるなら、なぜこんなことが起きたんですか?神さまなんか本当はいなんだ!」と言っている人が大勢おられると思います。私たちは主の祈りの中で「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように(マタイ6:10)」と祈ります。この祈りは、「地においては神のみこころが行われていない」ということが前提になっています。だから、「みころがこの地でも行われますように」祈るように求められているのです。では、「神さまは、全くこの地上の出来事には関知しないか、罪と悪魔のなすがままにしておられるのか?」というとそうでもありません。なぜなら、神さまはアベルがささげたささげものを覚えておられ、報いてくださったことが、ここにしるされているからです。使徒の働き10章にこのような記事があります。カイザリヤというところに、コルネリオというローマの百人隊長がいました。使徒10:2「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」と書いてあります。彼はローマ人でありながら、まことの神さまを恐れかしこみ、多くの施しをなし、神に祈っていました。神さまは、異邦人であるコルネリオを覚えておられたのでしょうか?聖霊が、使徒ペテロに「カイザリヤにいるコルネリオという人に会いに行きなさい」と命じました。一方、カイザリヤのコルネリオには御使いが現れ「コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。ヨッパに人をやってペテロを招き入れなさい」と言いました。ペテロは異邦人の家に入ることを躊躇しましたが、主の幻とともに御声があったので、従いました。ペテロがカイザリヤに来て、コルネリオの親戚一同にイエス様のことを話している途中、聖霊が下りました。コルネリオのように、まことの神さまに向かって祈っている人を、神さまは覚えていてくださるということです。

 何十年も前のことです。一人の韓国の青年が肺結核のためベッドに臥せっていました。彼の片方の肺は全く機能していませんでした。彼は自宅のベッドに臥せって、ひどい苦しみの中で、死を待っていました。そのとき彼は、さまざまな神さまの名前を呼びました。「どうか私を助けてください」とひとりの神さまに向かって叫びました。しかし、何の応答もありませんでした。それで、こんどは別の神さまに「どうか私を助けてください」と叫びました。しかし、何の応答もありません。さらに別の神さまに同じことを祈りました。しかし、何の応答もありません。さらに別の神さまに祈りましたが、何の応答もありません。最後に、彼は自暴自棄に陥り、「もし、まだ、他のどこかに、神さまがいるのなら、私は病気を治してくださいとは求めません。ただ、私がどのように死んだら良いか教えてください」と叫びました。彼は死ぬことを恐れていました。数時間後です。若い女子大生が近所を歩いているときに、だれかから呼ばれているように感じました。なぜなら、「表現できないような愛」が青年の家から流れてきたからです。彼女は、自分で何をして良いか分からないまま、知らない家のドアをノックしました。すると、一人の婦人がドアをあけました。女子大学生は、「とても奇妙で、自分でもわからないのですが、あなたについて、何かお祈りをしたら良いでしょうか?」と言いました。その婦人は、青年のお母さんでした。彼女は泣きながら、「はい、私の息子が死にそうなんです」と答えました。女子大学生はお家に上がり、青年のために祈りました。その日に、青年はイエス様を受け入れました。しかし、青年は死にませんでした。神さまは奇跡的に彼を癒しました。その青年こそ、世界最大の教会の牧師、チョーヨンギ牧師です。神さまは一人の青年を見捨てませんでした。彼はどの神さまか分からずに、「他にもまだ神さまがいたら」と祈っただけです。神さまはちゃんと覚えてくださり、女子大学生を遣わし、病を癒し、神さまの偉大な働き場に引き上げてくださいました。神さまは、ご自身のものを見捨てるお方ではありません。神さまは私たちが呼び求める声を知っておられます。そして、必要な助けを与えてくださいます。たとえ、アベルのように肉体的な命を失うことがあっても、魂を救ってくださいます。私たちの神さまは悪に対してはさばき、善に対しては報いてくださるお方です。


3.アベルの血

へブル12:24「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」これはどういう意味でしょう?アベルの血はイエス・キリストの予表、あるいは予型であるということです。つまり、アベルの血は、キリストを表わしているということです。ちょっと考えてみたいと思います。アダムの長男はカインでした。「カインがこれからの子孫を何とかしてくれるだろう」という期待は完全にはずれました。カインは弟アベルに対する妬みと怒りを抑えることができませんでした。アベルを野原に呼び出して、襲いかかって殺しました。さらには、地面に埋めました。主はカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われました。カインは「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか?」と答えました。カインは神さまが、全部、ご覧になっていることを知りませんでした。そのとき、「申し訳ありません。私はかっとなって、弟を殺してしまいました。どうかお赦しください」と告白したならば赦されていたでしょう。しかし、救いの道を蹴って、「私は知りません。弟の番人でしょうか?」と言いました。そのことは、カインの何が証明されたのでしょうか?Ⅰヨハネ3:12「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」「悪い者から出た者」とは、どういう意味でしょう?「悪い者」とは聖書では、悪魔のことを指しています。カインの父はアダムであり、悪魔であったのです。カインの末裔は、まさしく、悪魔の子どもであり、罪を犯し続ける者たちです。つまり、アダムの長男は子孫を救う者ではなく、むしろ罪を助長する者になったのです。その証拠に、レメクはこう言いました。創世記4:24「カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」。まさしく、罪が拡大しています。

 では、カインのかわりに人類を贖う方はだれなのでしょうか?すぐ答えを出す前に、このところに「アベルの血」が、出ているのは、何故なのでしょうか?創世記4:10そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」私はこれまで、アベルは「神さま、兄カインが私を殺しました。どうか兄をさばいて下さい」と叫んでいると思っていました。しかし、そうではないようです。なぜなら、アベルはヘブル11章では、義人と認められています。義人はそういう祈りをするとは思えません。また、へブル12章には「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています」と書いていますこのところからわかることは、アベルとイエス様が似ているということです。アベルが仲介者であるならば、イエス様は新しい契約の仲介者です。アベルの血が語るならば、イエス様の血はアベルよりもすぐれたことを語ります。このところでは、アベルは仲介者イエス様の予表、あるいは予型であるとみなされています。アベルは血を流しながら、「神さま、カインを赦してください」と叫んだのではないかと思います。おそらく、へブル人への記者は、そのようにアベルが流した血を評価していたのではないかと思います。アダムが生んだ長男カインは殺人を犯し、人類を救うことができませんでした。義人アベルは殺されましたが、「カインを赦してください」と叫びました。では、人類を罪から救うお方はだれでしょうか?イエス様は神のこどもであり、長子です。イエス様は十字架で、「父を彼らをお赦しください」と祈りました。そして、ご自分の血を注いで、私たちの罪を取り去り、新しい契約の仲保者となってくださいました。このお方を信じる人は、悪魔の子ども、カインの子孫ではありません。罪赦され、神さまの子どもとなることができるのです。古い契約は律法を守り、さまざまな儀式を行うことでした。しかし、新しい契約はキリストを信じることで、救われます。

 では、「クリスチャンになったらアベルのようなはかない人生を送ることはないか」というとそうではありません。神さまのみこころは、Ⅱヨハネ2にあるように、「魂に幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である」ことです。でも、神さまはアベルのことを忘れてはいません。アベルは義人でありました。そして、アベルの流した血とその叫びは無駄ではありませんでした。アベルはイエス・キリストを示した立派な証人でした。私たちの知人や肉親の中に、長寿を全うしないで召された人がいるかもしれません。聖書にはアベルのほかに、エノクのことが記されています。新約聖書ではイエス様の弟子でありながら、剣で殺されたヤコブが出てきます。石で打ち殺されたステパノもいます。人間的に見たならば、「神さまどうして守ってくれなかったのですか?」と文句を言いたくなります。考えてみれば、イエス様も33歳で亡くなりました。地上で健康で長生きすることは、神さまの標準的なみこころであると信じます。しかし、人生は地上の長さではありません。どう生きたかであります。アベルは短い人生でありましたが、神さまに最上のものを捧げました。神さまはアベルとそのささげ物とに目を留めてくださいました。私たちの人生は永遠と比べたら30年も80年もほとんど変わりありません。でも、そういう小さな私たちに神さまが目を留めてくださり、覚えてくださり、報いてくださるお方だということが分かりました。十字架の片方の犯罪人が「イエス様、私を思い出してくださいJesus remember me」と願いました。イエス様は「まことに、あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」とおっしゃいました。イエス様はあなたのことを覚えていらっしゃいます。そして、豊かに報いてくださいます。


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2013年8月 4日 (日)

世の終わりの救い      Ⅰコリント15:50-58  

 これまで、救いに関してメッセージをしてきましたが今日が最後です。27回目の今日は、究極的な救いについてお話します。これがないと救いは完成しないし、他の救いがあったとしても空しいでしょう。なぜなら、パウロは「復活がなければ、信仰は空しい」と言っているからです。究極的な救いとは、世の終わり、キリストが来られたとき、私たちのこの肉体が新しいからだになるということです。そのとき、死んでいた者は、朽ちないものによみがえります。また、生きている者は、一瞬に変えられるのです。つまり、キリスト教は霊魂の救いだけを言っているのではありません。ギリシャの哲学者は霊魂の不滅を信じていました。他にもそういう宗教がたくさんあるでしょう。しかし、聖書は肉体が救われるときに、救いが完成することを教えています。


1.二つのからだ

 Ⅰコリント15:44「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」パウロは二種類のからだがあることを教えています。第一は血肉のからだです。「血肉のからだ」はギリシャ語では、「生来の、この世の、肉的な」という意味があります。英語の聖書にはnatural body「自然のからだ」というふうに訳されています。つまり、血肉のからだとは、血が通っている肉体のことです。「そのままじゃないか」と思うかもしれません。ほとんどの人は、このからだがすべてであり、このからだのことしか分かりません。このからだが生きているうちは生きていて、このからだが死んだらおしまいだと思っています。生物学では、「ヒトの肉体は無数の細胞からできており、細胞の死は、すなわち死である」と言うでしょう。病院でもまだ脈があるうちは、何とかするでしょう。しかし、脈がなくなったら「ご臨終です」と言われ、あとは霊柩車に乗せられ、数日後は灰になります。お医者さんに、「死後はどこに行くのでしょう?」と聞いたとします。おそらく、お医者さんは「私たちは生きている人に仕えています。死んだ人を扱うのは宗教です」と答えるでしょう。それでは、きょうのテーマは宗教的なことであって、現実とは全く関係のない、「あったら良いなー」という空想の世界なのでしょうか?そうではありません。パウロは「血肉のからだもあるけれど、御霊のからだもある」と言っています。

 第二の「御霊のからだ」とは何でしょう?原文は「霊のからだ」となっており、「御」という、丁寧さを現わすことばがありません。英語ではspiritual bodyとなっています。パウロは御霊のからだとは何かということを説明するために、種まきにたとえています。Ⅰコリント15:36-37「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。」たとえば、麦を地面の中に蒔いたとします。麦は土の中で死ぬことになります。でも、その死は一時的であり、やがて新しいからだによみがえります。麦が「血肉のからだ」であるならば、土から出てきたものは「御霊のからだ」ということになります。キリストはその初穂でした。キリストは肉体的に死んで墓の中に埋葬されました。ところが3日後、よみがえりました。歴史上、死者がよみがえったのは、キリストが最初です。キリストが初穂として、死者の中からよみがえったのです。私たちもキリストに属する麦であります。終わりの日、キリストのようによみがえるということです。Ⅰコリント15:42-44「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」血肉のからだの特徴はどのようなものでしょうか?朽ちるもの、卑しいもの、弱いものです。そのように、私たちの一般的なからだは、年を取れば老化します。だんだん、しわしわになり醜くなります。病気にもなるし、怪我や事故で、どこかが欠損することもあります。それに比べて、御霊のからだはどのようなものでしょうか?「朽ちないものによみがえらされ、栄光あるものによみがえらされ、強いものによみがえらされる」と書いてあります。血肉のからだと全く違います。御霊のからだは老化しません。栄光の輝きがあります。そして、強いです。強いとは、パワーがあるということです。

 イエス様がよみがえられたとき、弟子たちはだれか分かりませんでした。マグダラのマリヤもそうでした。エマオの途上に向かっている2人の弟子たちもそうでした。不信仰によって、目がふさがれていたからかもしれません。しかし、イエス様の顔や姿が変わっていたからではないかと思います。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸と閉じていました。他の訳では、「部屋に鍵がかけられていた」とあります。それなのに、イエス様は入ってくることができました。弟子たちは復活のイエス様を見たと証言していますが、時間的に矛盾があります。みんなが、ばらばらに答えているのは何故でしょうか?その答えが、同じⅠコリント15章に書いてあります。Ⅰコリント15:6 「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました」とあります。同時に現れたのだったら、時間的に矛盾が起きるのが当たり前です。ある人はガリラヤで見ました。また、ある人はエルサレムで見ました。また、ある人はエマオの途上で見ました。そういうことがありえます。御霊のからだは、物質や空間に支配されないのです。

Ⅰコリント15:45以降には、さらに血肉のからだと御霊のからだの違いが記されています。血肉とからだとはどういうものでしょう?最初の人アダムのものです。血肉のものであり、地上に属し、土でできています。一方、御霊のからだとはどういうものでしょう?最後のアダムのものです。御霊のものであり、天から出て、天から出た者であり、天のかたちを持っています。私たちは地上のものには詳しいですが、天上のことにはさっぱりです。しかし、最後のアダムとはイエス・キリストのことなので、復活されたイエス様のことを想像するしかありません。イエス様は弟子たちにご自分を見せたとき、このように言われました。ルカ24:39「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」驚くべきことに、御霊のからだには、別の種類の肉や骨があるようです。イエス様はその後、焼いた魚をみんなの前で食べて見せました。私たちが持っているからだは、いわば入れ物です。私たちは現在、血と肉でできたからだの中にいます。私たちの本体は何かと言うと、霊と魂であります。霊と魂がこの肉体に入っているのです。死んだときに、私たちが肉体から出ます。では、御霊のからだとは何でしょう?それは、別の物質でできています。天上のからだ、あるいは復活のからだと言っても良いでしょう。やがては、そちらの方に私たちが入るということです。血と肉でできているからだは、いわばこの地上で何十年間か生きるための入れ物です。だんだん老化するし、怪我や事故で欠損することもあります。もちろん、いずれは死んでしまいます。私たちが永遠に生きるためには、永遠のからだが必要です。それが御霊のからだです。Ⅰコリント15:50「 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」とあります。これは当たり前のことです。神の国は永遠に続く場所です。血肉のからだでは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できないのです。そのために、朽ちないからだである御霊のからだが必要なのです。御霊のからだは年を取らないだけではなく、栄光の輝きがあり、強いからだです。強いというのは、おそらく怪我や事故にも耐えられるということでしょう。では、全く弱らないかというとそうでもないようです。黙示録22章を見ると、都には川が流れており、その両脇にはいのちの木があります。私たちはその実を自由に食べることができます。さらに、その葉には諸国の民をいやすと書いてあります。おそらく、御霊のからだを健康に維持するために、いのちの木からの実とその葉が必要だということでしょう。

どうでしょう?ここまで解説すると、「復活のからだが与えられるというのは真実なんだなー」ということがお分かりになられたでしょうか?この肉体はこの地上で生きるためのものです。もって80年、最高でも120年くらいでしょう?しかし、この肉体では天国で住まうことはできません。朽ちない栄光のからだが必要です。神さまは天上のからだ、御霊のからだを私たちのために備えてくださいます。イエス様が初穂として、よみがえられたのはそのためです。


2.世の終わりの救い

御霊のからだは、いつ与えられるのでしょう?「今でしょう」と答えたいところですが、そうではありません。今かもしれないし、5年後かもしれないし、50年後かもしれません。でも、そんなに遠い出来事ではないと信じます。Ⅰコリント15:51-53「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」アーメン。パウロは「奥義を告げる」と言っていますが、どんな奥義なのでしょう?「私たちはみな、眠ることになるのではなく」とはどういう意味でしょう?眠るとは、肉体的に死ぬという意味です。キリスト教会でもいろんな考え方があります。人が死んだとき、「眠る」と言います。しかし、霊と魂は眠っていません。ちゃんと目覚めています。ルカ福音書に「貧乏人ラザロと金持ち」と物語があります。二人とも死にました。でも、貧乏人ラザロはアブラハムのふところでちゃんと目覚めていました。また、金持ちはハデスにいましたが、記憶もちゃんとありました。熱さの中でのどが渇いていました。私たちがもし死んだなら肉体は眠ります。しかし、霊と魂は一瞬にパラダイスに引き上げられ、主のもとに行くことになります。眠るのは肉体だけです。でも、眠るというのですから、目覚めるときが来るということを暗示しています。キリスト教会では、墓地に出かけて「永眠者記念礼拝」を持ちますが、それは正しくありません。クリスチャンは永遠に眠りません。やがて目覚める存在だからです。では、いつ死んだ肉体が目覚めるのでしょうか?また、パウロが言っている奥義とは何なのでしょう?

「私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあります。人々の中に、まだ眠っていない、死んでいない人がいるということです。終わりのラッパが鳴るときとは、いつでしょう?Ⅰテサロニケ4:16「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」と書いてあります。そうです。世の終わり、イエス様が再び来られるとき、復活が起こるということです。そのとき死者が朽ちないものによみがえるのです。でも、パウロが言っている奥義というのは死んだ人がよみがえるという意味ではありません。そこには別のグループもいます。つまり、イエス様が来られたとき、まだ生きている人たちがいます。そういう人はどうなるのでしょう?一瞬にして、栄光のからだに変えられるのです。つまり、死を通過しないで、栄光のからだに変えられ、天に引き上げられるということです。「そんな馬鹿な?」と思うでしょうか?しかし、聖書には死を通過しないで天に引き上げられた人たちがいます。一人はエノクであり、もう一人はエリヤです。へブル11:5 「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」アーメン。パウロを始め、当時のクリスチャンは、自分が生きているときに、イエス様が戻って来られると本気で信じていました。でも、自分たちが思っている以上に、イエス様の訪れが遅かったのです。それで、「どうしよう?」と思って、イエス様の物語、福音書を書いたのです。多くの人たちは、福音書が最初でこのようなパウロの手紙が後だと考えています。そうではありません。福音書を最初に書いたのは、ペテロの弟子マルコです。イエス様が昇天されてから30年くらいたってからです。イエス様が来ないので、次の世代に残すために福音書を書いたのです。でも、イエス様が昇天してから1980年近くたっています。あと20年で2000年目です。Ⅰペテロに、「主の前では、千年は一日のようです」と書いてあるので、もうすぐかもしれません。あと20年だったら、何とかなりそうな感じがします。一番、光栄なのは、死を通過しないで、天国に入れることです。キリスト教会の人たちは、みんなこれにあこがれて生きてきたのです。

今回、救いに関してメッセージしてきましたが、きょうが27回目です。序論でも申し上げましたが、究極的な救いは私たちの肉体が贖われることです。聖書は魂の救いだけを述べていません。私たちの肉体が贖われるときに、はじめて救いが完成するのです。ある人たちは救いとは天国に行けることだと信じています。天国は雲の上にあり、ふわふわした魂の姿で生きると信じています。しかし、そうではありません。天国は現実の世界です。現実というよりも、物質があるということです。厳密に言えば、住むべき場所があり、栄光のからだが与えられ、神さまをこの目で見ることができます。完成された御国は、この地球ではありません。いつかこの地上がなくなります。太陽も月もなくなるでしょう。私たちは、神さまが造られた「新しい天と新しい地」に移り住むのです。詳しくは、黙示録21章と22章にしるされています。そこにないものがあります。何がないのでしょう?黙示録21:4「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」とあります。そうです。私たちにとって、最大の敵は死であります。イエス様が世の終わり、再び来られるのは、死を滅ぼすためです。仏教は死というものがだれにも訪れるものであり、避けようのないものとして受け入れられています。しかし、聖書は、「死は人類の最大の敵である」とみなされています。世の終わり、イエス様が来られた時、死が滅ぼされます。Ⅰコリント15:54-55しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」アーメン。

 私たちは健全な来世観を持つ必要があります。私たちの人生は死で終わらないということです。死んでも生きる、いや、復活で完了するということです。たとえ、死んでもよみがえるということです。また、ある人たちは、死なないで栄光のからだに変えられる場合もあるということです。もし、死で終わらない人生観を持つならば、その人はどのような生き方ができるでしょう?Ⅰコリント15:58 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」そうです。労苦が無駄ではありません。なぜなら、主が報いてくださるからです。死んだら何もなくなるという人生観では力が出てきません。死んでもよみがえりがあるという人生観はどうでしょう?悔いのない人生を過ごすことができます。なぜなら、主が私たちの労苦を報いてくださるからです。


3.滅びからの救い

 これまでのメッセージはキリストを信じている人たちのメッセージでした。しかし、「世の終わり、キリストを信じない人たちはどうなるのか?」ということです。それは、ヨハネの黙示録を読むしかありません。ヨハネの黙示録は世の終わりのさばきの預言です。キリストを信じない人たちは、大患難を通らされます。反キリストの力がいよいよ増し加わり、信仰を持つのがとても困難になるでしょう。額か腕に数字を入れられ、番号が登録されていない人は売ることも、買うこともできません。すでに全世界は国民皆番号制に向かっています。あるとき、世界総督が立ち上がり、獣を拝まないもの、数字を拒む者は捕えられるでしょう。ものすごい迫害が起こり、信仰を持つのが命がけになります。多くの人たちは、妥協して獣を拝むようになります。そのうち、天から火が下り、海の水や川の水が飲めなくなります。いろんな病気が発生し、人々は死を求めますが、死の方が逃げ去るのです。反キリストはメギドの丘に集結し、キリストの軍隊と戦いを交えるでしょう。しかし、キリストが勝利して、獣を拝んだ人たちと偽預言者は火の中に投げ込まれます。悪魔は1000年間縛られた後、火の中に投げ込まれます。その後、第二の復活が起こります。海の中にいる死者、ハデスにいた死者がよみがえります。すべての人が、神さまの前に立つのです。それは「白い御座のさばき」と呼ばれ、書物にしるされているところに従って、さばかれます。クリスチャンはさばきの座に立つ必要はありません。なぜなら、キリストが彼らのためにさばかれ、代価を払ってくださっているからです。問題は、キリストがいないひとです。彼らは自分の正しさで神さまの前に立って弁明しなければなりません。果たして、義なる神さまの前に立ち尽くせる人がいるでしょうか?人々はおのおの行いによってさばかれ、火の池に投げ込まれます。これが第二の死です。クリスチャンは1回しか死ぬ必要がありません。第二の死とは永遠の滅びであり、地獄で永遠に過ごさなければなりません。

 みなさん。究極的な救いとは何でしょう?それは、滅びから救われるということではないでしょうか?ヨハネは福音書でこのように言っています。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。キリストを信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができます。しかし、この続きがあることをご存じでしょうか?ヨハネ3:18「 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」アーメン。キリストの御名を信じない人は、「すでにさばかれている」と書いてあります。さばきの中、滅びの中にいるのです。だったら、どうすべきでしょうか?生きているうちに、できるだけ早く、イエス様を信じて、救いの中に入る必要があります。一番の緊急問題は、経済でも、健康でも、教育でもありません。イエス様を信じて、救いの中に入ることです。その後、ゆっくりと経済、健康、教育のことを考えるべきです。永遠と比べて、地上の生涯は、わずか一瞬の出来事です。どうか、短い人生において、永遠のいのちを獲得し、復活のからだをいただくことができますように祝福いたします。



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