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2013年7月28日 (日)

環境からの救い     マルコ4:36-41 

環境からの救い     マルコ4:36-41    2013.7.28

 環境問題ということが叫ばれて、何十年たつでしょうか?住まい、食べ物、教育施設など、目に見える環境を変えれば、人間は幸せになると考えました。しかし、次から次と問題が噴出し、やはり人間は環境に押しつぶされて、失望落胆している人が大勢います。私たちは環境を変える前に、心を変えなければなりません。神さまは今も生きておられますが、私たちが神さまにそっぽを向いているので、この世界を変えることができないのです。聖書にいくつかの嵐の物語が記されています。嵐とは私たちが経験する環境問題ではないでしょうか?きょうは、どのようにしたら、この世の嵐を乗り越えられるか、環境からの救いを得られるかについて学びます。


1.自然界と信仰

 福音書には、イエス様がガリラヤ湖の嵐を沈められたことが2度記されています。1つは伝道の初期のころ、向こう岸のゲラサの地に渡るときです。もう一つはイエス様が5000人の給食の奇跡を行った直後です。向かい風で弟子たちが漕ぎ悩んでいるところに、イエス様が湖の上を歩いて近づいてこられました。きょうの箇所は、前者のものです。ガリラヤ湖は海抜マイナス200メートルくらいに位置しておりました。すり鉢状の地形の下に湖があるので、陸からの突風が時々、起こることで知られていました。ペテロをはじめ、多くの弟子たちはガリラヤ湖の漁師だったので、こういうことには慣れていたと思われます。ところが、その嵐は、彼らの技能と経験値をはるかに超えていました。先ほど読んだ箇所に、いつくか不自然な会話があることに気付かれたでしょうか。マルコ4:37-40「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

まず、第一に弟子たちがイエス様に言った言葉です。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」不平不満にも聞こえますが、弟子たちはイエス様が何とかしてくれるのが当然のように思っています。もし、私がイエス様だったら、「嵐と私と何の関係があるのか?あんたら漁師だろう?私は大工仕事が専門だ」と答えたかもしれません。第二は、イエス様が弟子たちにおっしゃった「信仰がないのは、どうしたことです」ということばです。マタイによる福音書には「信仰の薄い者たち」と書かれています。また、ルカによる福音書には「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と書かれています。信仰と嵐と何の関係があるのでしょう?信仰があれば嵐を静められるのでしょうか?この後、イエス様は起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、大なぎになりました。マルコ4:41「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」弟子たちの恐れは神さまに出会ったときのものでした。震えながら、イエス様を拝んだのではないかと思います。このところで、弟子たちの世界観は完全にひっくりかえされました。「嵐を沈め、自然界を支配できるなんて、もしかしたら神ではないか」と恐れたのです。もちろん、イエス様は神さまですから、こういう奇跡ができるのは当たり前でしょう。でも、それで終わりではありません。イエス様は「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。これはどういう意味でしょう?「あなたがたも、信仰があったら同じことができるはずですよ。どうして、信仰を用いないのですか?」という意味なのです。つまり、イエス様は「弟子たちも信仰によって嵐を静めることができて当然だ」と思っておられたのです。なのに、それができませんでした。だから、イエス様は「信仰の薄い者たちだなー」と嘆かれたのです。

 この記事を読んで、みなさんはどう思われるでしょうか?ウィリアム・バークレーというイギリスの聖書学者が「祈り」についてこう述べています。「祈りは状況を変えず、われわれを変える。状況は前と変わらない。だが、私たちは新しい勇気と新しい力とそれに取り組む新しい能力をもって、その状況に対応できるのである。」この考え方は、半分当たって、半分当たっていないと思います。なぜなら、ここでは、弟子たちが状況を変えることができるようにみなされているからです。また、弟子たちはイエス様に叫び求めました。私たちの祈りと同じです。すると、イエス様は本心ではなかったかもしれませんが、嵐を静めてあげました。ウィリアム・バークレーは有名な聖書学者です。彼が書いた注解書は日本ではベストセラーであり、多くの牧師たちが説教のために参考にしています。しかし、彼は奇跡をそのまま信じていません。いわゆる霊的な解釈をほどこしています。それがすばらしいんだという人もいますが、奇跡は奇跡として捉えるべきです。実際に嵐が静められたので、弟子たちはイエス様を恐れたからです。ウィリアム・バークレーの時代の教会は、理神論や合理主義の影響を強く受けていました。当時の教会は、神さまはこの世界を創られたことは信じていました。しかし、「創造の後は神さまはこの世界に対してはノータッチであり、自然の法則によって世界が動いているんだ」と考えました。つまり、「奇跡は起こるかもしれない。しかし、それは稀であって、めったに起こらないことなんだ。その代わり、人間の知恵と力によって自然の法則を発見して、色々なことを克服していくんだ」という考えです。いい意味では自然科学ですが、悪い意味では無神論に近い考え方です。

 では、なぜ、イエス様は弟子たちに嵐を静めることができるようなことを言われたのでしょうか?それは創世記1章にさかのぼります。創世記1章で、神さまがアダムを作ったあとにこのように言われました。創世記1:28「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」そのところで、「地を従えよ」と命じられていたことが分かります。つまり、人間は神さまから、自然界を支配できる権威が与えられていたということです。でも、堕落したので、その権威を失ったばかりではなく、呪いが入り込んでしまいました。創世記3:18「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」とあります。土地が言うことをきかなくなりました。干ばつや洪水、あらゆる災害が及ぶようになったのではないかと思います。イエス様が自然界を支配することができたというのは、神だからではなく、人間の標準を示されたということでもあります。だから、「イエス様は弟子たちにできて当然だろう」みたいな思いがあったのです。でも、ここで問われているのは「信仰」です。信仰がなければ、それができない。信仰があればそのようなことが問題なくできるということです。では、それはどのような信仰なのでしょうか?マルコ11:22-23イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」アーメン。「神を信じなさい」はギリシャ語の原文では「神の信仰を持ちなさい」であります。このような信仰は生まれつきの私たちにはないものです。でも、神さまがその信仰をくださるなら、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言えば、そうなるのです。つまり、イエス様は、アダムの堕落によって失った力を回復させてくださいます。それは、信仰によってです。

 近代の神学者たちは、神さまと世界とは離れていると考えていました。つまり、世界は閉ざされたものであり、神さまの介入なしでひとりでに動いているということです。ということは、この世界は閉ざされているので、神さまの奇跡はめったには起こらないということになります。確かに人間が罪を犯してからそのように考えることも可能です。しかし、イエス様は「神の国は近づいた」とか、「神の国はあなたがたのただ中にあります」とおっしゃいました。神の国の本当の意味は、神の御支配という意味です。イエス様と一緒に、神の国がこの世に突入したということです。そして、私たちが信仰もって、イエスの御名によって「山よ、動け」と言ったならば、山は動くのです。なぜなら、その信仰は神さまがくださった賜物であり、奇跡を起こす管となるのです。ある先生が「奇跡が起こるときというのは、神さまにプラグを差し込むようなものです」と言われました。家では、コンセントがどこにでも見当たります。そこに、何らかの電化製品のプラグを差し込むとスイッチを入れただけで動き出します。でも、プラグを差し込こんでいなければ、電化製品がどんなにすばらしくても動きません。同じように、私たちが神からの信仰を用いるならば、神さまがこの世に奇跡をもたらしてくださるんだということです。ということは、聖書は、私たちが信仰を用いるならば、環境すらも変えられると教えているのです。ハレルヤ!2000年前、イエス様が神の国をこの地に持ってこられました。ですから、主の祈りにあるように、「この地に御国が来ますように、みこころがなりますように」と祈るべきなのです。そして、私たちこそが、この地に御国をもたらすように、働くべきなのです。ある人は祈ったら、雨が晴れたと言いました。私は「えー?」と疑いました。しかし、旧約聖書のエリヤは祈ったら、雨が3年と半年、一滴も降りませんでした。しかし、再び祈ったら、雨が降りました。エリヤも私たちと同じ人でした。ですから、私たちもできないことはないのです。アーメン。


2.環境からの救い

この世には、さまざまな問題があります。格差社会からくる貧困、原発の被害、就職難、がんなどの病気、離婚による家庭の崩壊、子供たちの非行、犯罪や詐欺事件、住宅難、老後の心配、人間関係のもつれ、大震災の恐れ…きりがないほどあります。新聞やテレビニュースは毎日のように、この世の不条理を洪水のように押し流しています。私たちはそれを聞いただけで、「ああ、私たちは無力な存在だ。神も仏もないなー」と恐れるでしょう。では、神さまがこの世に対して、たまにしか手を伸べてくれないのでしょうか?環境を変えると言っても、どのように信仰を用いたら良いのでしょうか?私は環境からの救いを得るためには3つの方法、あるいは3段階あると思います。もちろん、神さまは私たちのために、奇跡を起こしてくださいます。しかし、いくつかの段階(ステップ)を通るようにと教えておられると思います。そのことを使徒パウロが嵐を乗り越えて、ローマにどのように達したかという物語を例にして学びたいと思います。

第一は、一般恩寵を用いるということです。一般恩寵とは、神さまがこの地上に与えた、一般的な恵みです。パウロはユダヤ人の陰謀によって訴えられ、殺されるところでした。パウロはどのようにして難を逃れたでしょうか?神さまに「ユダヤ人の心を変えてください」と祈っても、叶わなかったでしょう。神さまは、頑ななユダヤ人が起源70年にローマ軍によって滅ぼされることを見定めていたからです。それで、パウロは自分が持っている、ローマ市民権を用いました。つまり、パウロはローマ市民なので、カイザルに上訴しました。するとどうなったでしょう?なんとローマの千人隊長がユダヤ人からパウロを守りました。使徒23:23-24「そしてふたりの百人隊長を呼び、『今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ』と言いつけた。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。」なんということでしょう。パウロのために、少なくとも470人以上のローマ兵が動いたということです。神さまは私たちに知恵を与えておられます。「この世のものは、神さまが作ったものですから、しもべとして用いなさい」ということなのです。ある人が、国会議事堂の前で原発反対のデモ行進に参加したそうです。すると、大勢の警察官が守ってくれたそうです。普通、警察官というといかつい感じがありますが、とても親切にしてくれたそうです。そうです。私たちは何か事件があったら、警察に電話をかけることができます。子供や結婚、家庭のことは、区役所とか家庭裁判所、その他、いろんなNPO団体があります。DVなどからかくまってくれる施設がたくさんあります。ちょっとお金がかかりますが、法律事務所もあります。世の中にはその手の専門家というのがいるものです。専門の病院なども、インターネットで調べることが可能です。ですから、神さまがくださった一般的な恵みを最大限に用いるということです。

 第二は、神からの啓示です。神さまは私たちに啓示を与えて、この世に働きかけたいと望んでおられます。神さまはだれにでも語るわけではありません。神さまと霊的につながっている人を用いられます。また、その人は神さまのお声をキャッチできる人でなければなりません。と言うことは、私たちが神さまのお声を正しくキャッチできるため、整えられる必要があるということです。私たちがはじめから「それはできない、無理だ」と思って、神さまに期待もしなかったらどうでしょうか?神さまは、恵み深いので、何度かお語りになるでしょう。しかし、その人が、断り続けるならば、他の人のところへ行きます。もっと、素直で、信仰のある人を探します。そして、その人に祈るように、あるいは何か行動するように語られます。使徒パウロが捕えられ、ローマに向かって船出しました。クレテ島で一休みしているときです。パウロは人々にこのように警告しました。使徒27:10-11「『皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます』と言った。しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。」パウロは自分の経験と神さまの示しによって警告しました。しかし、そのまま船出したために、ユーラクロンという暴風雨に巻き込まれました。同船していたルカは「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」(使徒27:20)と記しています。『奇跡の入り口』という本をビル・ジョンソンという人が書いています。その本の中で、啓示の重要さについて述べています。聖書は「私の民は奇跡がないために滅びる」とは言っていません。箴言29:18「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と言っています。この御言葉の完全で正しい訳はこうです。「預言的な啓示がなければ、民はほしいままに動き、堂々巡りをして、目標のない人生を送る」。聖書で言うビジョン(啓示)は、目標という意味ではありません。目標は確かに良いものですが、ここで言うビジョンは、見えない物の啓示を与える霊の幻のことです。啓示は私たちの生活に必要不可欠なので、それなしでは私たちは滅びるのです。神の視点から人生を見る能力を高める預言的啓示が明らかにされないなら、あなたは滅びることになるのです。

 第三は神の人を通しての介入です。使徒27:23-25「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」その船には、パウロを含めて276人いました。ローマの百人隊長、航海士、船長、船員、そして囚人たちが乗っていました。パウロも囚人の一人でしたが、現在は船のリーダーとなっています。なぜでしょう?御使いが現れて、「神さまが、パウロをカイザルの前に立たせる。パウロと同船している人々を与えた」と告げました。つまり、神さまがパウロをカイザルに立たせるために、その船を守るということです。そして、パウロとその船に一緒に乗っている人たち全員も守られるということです。パウロは全員の人々を励まし、最後の食事を取るように勧めています。神さまがこの世界に介入するとき、神さまは神の人を用います。神の人が、御自分が与えた運命を果たせるように、御手を動かすということです。旧約聖書ではモーセによって紅海を2つに分けました。また、ヨシュアが完全な勝利を収めることができるまで月と太陽を1日止めました。ダニエルのために、ライオンの牙をふさがれました。新約聖書ではイエス・キリストを通して、さまざまな奇跡を起こされました。すべての奇跡は、イエスさま御自身がなされたというよりも、イエスさまを通して、神さまがなされたというのが正しいのです。たとえば、死んで4日目もたったラザロを生き返られるときこう言われました。ヨハネ11:41イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」アーメン。今日も、神さまはだれかに祈ってもらいたいのです。今日も、だれかが自分の管となって、この世界に奇跡を起こしたいと願っておられるのです。神さまはこの世界に今も介入されます。しかし、御自分と同じ心をもった、神の人を通して、なさりたいのです。

 私たちは私たちをとりまく様々な環境に対して、あまりにも受け身的ではないでしょうか?たやすく、「これも神さまのみこころです」と言いがちではないでしょうか?もちろん、神さまのみこころというものが、窮極的にはなります。しかし、その反対に自分がメシアのようになって、社会を改革していくというのも問題です。教会は政治結社や社会運動の基地ではありません。しかし、2000年前、イエスさまとその弟子たちがなさったようにこの世界を変えることはできます。.その第一は福音宣教です。福音を信じるとき、人々と神さまとの間に和解が訪れます。そうすれば、神さまはその人たちの祈りと願いを聞いてくださいます。第二は神さまの啓示を受けるということです。聖書のみことばを読んで、主と交わるときに、「これをしなさい」「これが可能です」とおっしゃってくださいます。第三は、私たちが直接やるというよりも、私たちを通して神さまが現れてくださるように求めるのです。私たち教会は、神さまの器です。私たちと一緒に今もイエスさまは歩いておられます。私たちが手を差しだすとき、イエスさまが手を差し出してくださいます。私たちが語るとき、イエスさまが語ってくださいます。その結果、私たちをとりまく、環境が変えられていくのです。残念ながら、この地は滅びます。私たちは新しい天と新しい地が来ることを待ち望んでいます。でも、イエスさまは「あなたがたは地の塩であり、世の光である」とおっしゃいました。ですから、地の塩として、できるだけ地の腐敗をとどめなければなりません。また、世の光として、神さまの真理を暗い世の中に示していく必要があります。日本はクリスチャン人口が少ないから微力だと思うかもしれません。しかし、塩は少なくても、塩気があれば、十分に間に合います。また、光がたとえ小さくても、周りがあまりにも暗いので、輝いてみえるのです。私たちは遣わされた場所で、地の塩、世の光の役目を喜んで果たしたいと思います。

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2013年7月21日 (日)

~イエス様が教えた隣人愛~  亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ルカの福音書10章25節~37節>


10:25

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26

イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27

すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28

イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29

しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

10:30

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31

たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:33

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34

近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35

次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

10:36

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」


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この「善きサマリヤ人」のたとえは、ルカの福音書にしか記述されていません。ルカは他にもルカの福音書にしか書かれていないイエス様が語られた「たとえ話」を多く記しています。ルカはこれらの「たとえ話」を福音書の冒頭1:3に書いているように「すべてのことを初めから綿密に調べて、順序立てて」書いていきました。


その「たとえ」の解釈については、アウグスチヌスなど教父の時代から様々な解釈が行われてきていますが、この「善きサマリヤ人」の解釈については、伝統的には寓喩的、比喩的に解釈してきました。


例えば、強盗に襲われた旅人=アダム、エルサレム=天、エリコ=この世、強盗たち=悪魔とその手先たち、祭司=律法、レビ人=預言者、善きサマリヤ人=イエス・キリスト、家畜=堕落したアダムを背負うキリストのからだ、宿屋=教会、デナリ二つ=父なる神と御子、サマリヤ人が帰りに再び来ると言ったのはキリストの再臨を表していると考えていました。


16世紀の宗教改革をきっかけとして、プロテスタント教会ではここまで寓喩的には考えなくなりましたが、現在でも、強盗に襲われた旅人を自分自身と考え、善きサマリヤ人をイエス様だと解釈する人は多くいます。


しかし福音派では聖書を寓喩的ではなく字義通り解釈します。どういうことかというと、イエス様が語られた時の時代背景とか、その時の状況とを照らし合わせて、イエス様が語られた時に、直接聞いていた弟子たちや群衆が受け取ったであろうメッセージについて考えるということです。


ですから、この「善きサマリヤ人」のたとえ話は、イエス様がユダヤ人たちに「真の隣人愛」について教えるためのものだったと解釈します。当時のユダヤ人たちは、隣人愛についてどのように考えていたのでしょうか。また、それに対してイエス様はどのような隣人愛の教えをくださったのでしょうか。


●では、スライドを見ながら考えてみましょう。


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10:25

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26

イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27

すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28

イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29

しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

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◆イエス様が教えた隣人愛とは?


①誤った伝統的な思想を打ち砕く教え


10:27に書かれている二つの大切な戒め、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』と『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』について、イエス様はマタイ、マルコ、ルカの各福音書でもっとも大切な戒めであると語られています。


イエス様を試そうとした律法の専門家も、この二つの戒めを熟知していたのでスラスラと答えました。その心の内は「私は当然この二つの戒めを守っている!」と、さぞ自信満々だったことでしょう。


一つ目の戒め、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』というこの教えは、旧約聖書では、申命記の6:4,5をはじめ、申命記の随所に記されています。この旧約聖書に記されている「神」のことをイスラエルの民たちは「ヤーウェーの神(アドナイ)」と呼んでいました。申命記6:4では、「心を尽くし~」の前に、「聞きなさい。イスラエル。」という言葉から始まって書かれています。「聞きなさい。イスラエル。」という言葉はヘブル語聖書では「シェマー。イスラエル。」という言葉で書かれていることから、ユダヤ教徒の間では一つ目の戒めのことを「シェマー(聞きなさい)」と呼んでいます。ユダヤ教徒はこのシェマーを礼拝だけでなく、毎日一日に2度唱えます。子どもたちは物心がつくと、このシェマーを一番最初に覚えるそうです。また、そのシェマーのみことばを羊皮紙に書いたものを「ヒラクティリー」と呼ばれる小箱に入れ、ひもで額や左腕にその箱をつけている人もいます。今でもそうです。以前イスラエルに行った時、そういう人をたくさん見かけました。


そのくらい、この一つ目の戒めについては徹底して守り、ユダヤ人たちは全身全霊でヤーウェーの神を愛しています。イエス様に質問をした律法の専門家も自信があったことでしょう。では、二つ目の隣人愛についてはどうでしょうか。


●スライドの続きを見てみましょう。


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10:30

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31

たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

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当時、ユダヤ人たちにとっての「隣人」とは、「律法を遵守するユダヤ人の同胞」のことでした。この強盗に襲われた人は、おそらくユダヤ人だったのではないかと思われます。ではなぜ、祭司もレビ人も、隣人であるユダヤ人の同胞が倒れているのに、見て見ぬふりをしたのでしょうか。


この祭司とレビ人は、神殿に仕える人たちです。このたとえ話の状況だと、エルサレムで神殿業務を終えて、彼らの住まいがあったエリコまで25-30キロほどの距離を下っているところだったようです。高地であったエルサレムから下る山道では当時盗賊が多く出没したようです。


そこでなぜ、祭司やレビ人が瀕死の旅人を見て見ぬふりをして反対側を通ったかと言うと、2つの理由が考えられます。ひとつは「自分も盗賊に襲われるかもしれない」という保身から来る行動だったということ。もうひとつは、遠くから半殺しになって倒れている人を見れば、当然死んでいる可能性もあり、モーセの律法の民数記19:11の規定によれば、「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。」と書いてあるので避けたということです。律法を守ったという点では、この祭司とレビ人は正しいのですが、なんだか釈然としませんね。


●スライドの続きを見てみましょう。


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10:33

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34

近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35

次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

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このスライドでは、サマリヤ人と聞いただけで、群衆が嫌な顔をしていました。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は敵対していたからです。その対立の歴史をさっと振り返ってみましょう。


イエス様がお生まれになる千年ほど前、イスラエルはソロモン王の治世が終わり、サマリヤを首都とする北王国と、エルサレムを首都とする南王国に分裂しました。北王国の王は人々が南王国のエルサレムに巡礼に行くことを禁じ、エルサレム神殿に代わる神殿を北王国の中に造りました。そのうち北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、北王国の主要な人々は捕囚として連れ去られ、その代わりに異国の人々をサマリヤに移住させました。それと同時に外国の偶像がサマリヤに持ちこまれ、その上、サマリヤに残っていたイスラエルの人々と雑婚し、宗教的にも、民族的にも、純粋なイスラエル人とは呼べなくなってきました。南王国の人たちは、そういうサマリヤの人たちを軽蔑して、「サマリヤ人」と呼ぶようになりました。


しばらくして南王国もバビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚の民としてバビロンに連れ去られましたが、70年後ペルシャのクロス王によって解放され、再びエルサレムに戻って来ました。そのころから南王国の人々は「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。さっそく彼らはエルサレムの神殿再建にとりかかりました。その時サマリヤ人が協力を申し出ましたが、ユダヤ人はそれを拒絶しました。そこでサマリヤ人はこれに対抗してモーセが祝福をこの山に置くと言った「ゲリジム山」に自分たちの神殿を造り、独自のサマリヤ教団を形成しました。こうして、ユダヤ人とサマリヤ人の間には憎悪と敵対心が生まれていき、お互い交際もせず、口もきかなかったと言われています。


ですから、イエス様は敢えてここで、サマリヤ人を登場させたのだと考えられます。隣人である祭司やレビ人が同胞を助けず、忌み嫌われていたサマリヤ人がユダヤ人を助け、隣人となったのです。

10:36 でイエス様が「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と尋ねたときに、この律法の専門家は「その人にあわれみをかけてやった人です。」と言いました。彼は「サマリヤ人です」とは言いたくなかったようです。それほど、この時代のユダヤ人たちは、「自分たちは神に選ばれた特別な民族である」という「選民意識」を強く持っていたことが伺えます。


しかしイスラエルという国は、本来エジプトの支配や周辺国からの抑圧から逃れて自覚的に形成された、自由・平等な社会でした。その社会が外部からの影響によって破壊されることを防ぐために、「ヤーウェーの神以外のものを拝してはならない」という信仰が形成されたのです。そしてイスラエル民族の根源的な思想である、「選びの民」思想が生まれました。しかし次第にその思想は、民族や国家の自己絶対化と、他民族に対する差別を生むというものに変化していきました。


このようなユダヤ人たちの誤った「選民意識」は、神の御心を知る心を曇らせました。イエス様は、ユダヤ人たちの長年に渡る誤りについて気付かせ、正そうとされたのです。


このユダヤ人たちの誤りに似たような状況が、みなさんの身の回りにもあるかもしれません。私たちの日常で当然のように考えられていること、当然のように行われていることが、本当に神様の御心であるのか、神様の真理であるのかどうかを今一度見直し、見極めるということをするべきではないでしょうか。


◆イエス様が教えた隣人愛とは?


②人格的で個人的な関わりを重視する教え


では、ヤーウェーの神は、ユダヤ人以外の、在留異国人や、奴隷たち、また、女性や子どもを隣人とはお考えにならなかったのでしょうか。だとすれば、イエス様の教えと食い違っていることになります。当然そんなことはありません。なぜならヤーウェーの神は、御自身が創られた人間たちと、人格的に関わろうとしてくださる神だからです。



すべては人間側に問題があります。人間創造のとき、神様はアダムとエバに対して人格的に関わろうとされましたが、アダムとエバは背きました。その時、彼らは隣人に対する人格的な応答関係をも失ってしまったのです。それでも神様は、背いたアダムとエバに呼びかけ、ご自身に対する素直な応答を求められましたが、アダムとエバはお互いに責任転嫁をして神様を悲しませました。


神様は、応答の自由を人間にお与えになり、人間が隣人に人格的に応答することを期待されましたが、愚かな人間は、神様とも隣人とも人格的な応答をしませんでした。そして、人間は、隣人を愛さず、支配しようとしたのです。それでもヤーウェーの神は、モーセを通してイスラエルの民に律法をお与えになり、アブラハムとの契約を思い起こされ、イスラエルの民を選び、エジプトからお救いになりました。やはりイスラエルの民は確かに選ばれたのです。


それでは、ヤーウェーの神が「選びの民」に期待された事とは何なのでしょうか。それは、「モーセの第二の律法」、申命記10:15-20から読み取ることができます。申命記10:15には、『主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。』と、アブラハムをはじめとする、彼らの先祖たちとの契約の故に、神がイスラエルの民を選ばれたことについて記されています。


そして、申命記10:17-19には、『あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。』と、神がかたよって愛することがない神であり、みなしご、やもめ、在留異国人にも愛を注がれる御方であることが記されています。


神様が「選びの民」に期待された事は、イスラエルの民が主を恐れ、主に仕え、主にすがり、彼らから、神の愛が注ぎ出され、在留異国人に、全世界の人々に、その祝福が与えられるようにということなのです。


ヤーウェーの神と、イエス様の隣人愛の教えに違いなどはありません。主は旧約、新約を通して一貫して全世界に神の救いと祝福が与えられることを望まれています。創造主なる神様は私たちの存在そのものを無条件に愛してくださっています。そしてイエス様は今も生きておられ、ヨハネ4章でサマリヤの女に語られたように、私たちと個人的に関わってくださる神様であることを思い起こしましょう。


善きサマリヤ人は、旅人に近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。また次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』と言いました。デナリ二つとは、2日分の労働賃金に値する金額です。


私たちは、神様が無条件に私たちの存在そのものを愛してくださったように、隣人の存在そのものを愛していきましょう。また、イエス様が私たちに聖書を通して個人的に語りかけてくださるように、隣人と個人的な関わりを持つようにしましょう。


◆イエス様が教えた隣人愛とは?


③能動的に自ら進んで隣人となっていく教え


●スライドの続きを見てみましょう。

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10:36

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

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イエス様は、「 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と質問なさいました。サマリヤ人は、瀕死の旅人から「助けて」と言われた訳ではありません。また、誰かに「助けてあげてほしい」と頼まれたわけでもありません。


サマリヤ人は、相手が常日頃から敵対しあっているユダヤ人だということなど全く関係なく、彼は自ら進んで、半ば本能的に旅人を助けました。イエス様が教えた隣人愛とは、他者の幸せと最良の利益を願う心を持ち、能動的に自ら進んで隣人となっていく愛です。


それなのに私たちは、「私の本当の隣人は誰だろう」と周りを見回し、「あの人とは考え方が違うから隣人にはなれないな」とか、「あの人には別に相応しい隣人がいるだろう」などと考えて、隣人を限定してはいないでしょうか。ついつい消極的になってはいないでしょうか。

しかし、イエス様は自ら進んで隣人となることを教えられています。


アフリカ系アメリカ人の公民権運動で知られるマルチン・ルーサー・キング牧師は、この「善きサマリヤ人」のたとえでこのような説教をしています。

「祭司とレビ人は、この人を助けたら“自分”がどうなるかと考えた。しかしサマリヤ人は、この人を助けなかったら“この人”はどうなるのかと考えた。それが両者を分けたのだ。」


“自分”のことを忘れて、“相手”のことを考える。

・・・なかなか出来ることではありません。

でも、イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい。」と律法の専門家に言われました。

「あなたも行って同じようにしなさい。」・・・これは、イエス様が私たちにも語られている言葉です。


神様からの大切な二つの戒めは、私たち人間が罪の性質をもっているが故に、守ることが最も困難な戒めであると言えます。私たちキリスト者は、神の国とその義を第一としたいのですが、様々な誘惑に負けてしまいます。自尊心、嫉妬、傲慢な心から、隣人を愛することがなかなかできません。このような葛藤の中で喘ぎながら、日々歩んでいます。


しかし神様の律法は、本来私たちが幸せになるためのものなのです。神様の御前でへりくだり、主を全身全霊で愛し、しもべとなって主に仕え、イエス様を模範として、自ら進んで周囲の人々の隣人となっていけるような者となりたいものです。


◆イエス様が教えてくださった隣人愛とは?

①誤った伝統的な思想を打ち砕く教え

②人格的で個人的な関わりを重視する教え

③能動的に自ら進んで隣人となっていく教え


私たちの周りで当然のように考えられて行われていることが、本当に神様の御心であるのか、神様の真理であるのかどうかを見極めましょう。たとえ主義主張の違う人であっても、自分を愛してくれていない人であっても、自ら進んで隣人となり、その人の存在そのものを愛し、その人の幸せと最良の利益を願って生きようとするならば、そこに聖霊なる神様が働いてくださって、自然と愛が満ち溢れてくるのではないでしょうか。


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2013年7月14日 (日)

経済と物質の救い      ピリピ4:10-13 

私たちはどのくらいの収入があれば、経済的に豊かなのでしょうか?あるいは、どのくらいだと貧しいのでしょうか?「収入と支出」のバランスというのが、ありますが、個人の生活でもあるのではないかと思います。セレブのように、お金が有り余るような生活もあるでしょう?また、テレビの番組に出てくるような「ボンビー生活」もあるでしょう。でも、借金に追い回されているような生活は良くないと思います。私たちはどのくらい経済的に豊かであれば、良いのでしょう?客観的な数値を出すことはできませんが、聖書的にバランスのとれた考え方があるのではないかと思います。


1.経済と物質の救い

 エリザベツ朝のとき、ピューリタンが生まれました。イギリス国教会はカトリックの伝統を受け継ぎ、かなり形骸化していました。それで、教会を清めようという人たちが立ち上がりました。さらに、「すべての娯楽やぜいたくな暮らしを排除し、クリスチャンは清貧に甘んずるべきだ」という考えも生まれました。当時、栄えていたシェークスピアの演劇も封鎖する勢いでした。そのようなピューリタンの価値観が、日本の「きよめ派」と言われる教会に入ってきました。戦前・戦後は、「教会、特に牧師は清貧の模範になるべきだ」と言われたようです。それによって、牧師子弟が傷つき、「牧師になるのは乞食になるのと同然だ」と思って、だれも牧師になろうとしなかったようです。もちろん、牧師になることは神さまからの召命ですから、牧師になる人たちもいました。でも、そういう人たちは、「貧困の霊」によって縛られ、経済と物質を心から喜ぶことができません。逆に、「経済と物質をたくさん得て、見返してやろう」とする人たちもいないわけでもありません。福音書に出てくる、マタイという人物は、ユダヤ名はレビでした。レビは、神さまに仕える祭司の名前です。おそらく、マタイは今で言うクリスチャン・ホームの子どもだったかもしれません。しかし、マタイは両親の偽善的で貧しい生活に背を向けて、「お金がなければ生きていけないんだ」と取税人になったのではないかと思います。取税人はローマの代わりに税を徴収する下請けで、ピンハネもしていました。そのため、人々から「売国奴」と軽蔑されていました。マタイは人から何と言われようと、金儲けに奔走したのであります。でも、イエス様から「私に従ってきなさい」と、召命を受け、すべてを捨ててイエス様の弟子になりました。守銭奴の人生変更であります。聖書では、経済と物質をどのように教えているのでしょうか?

 聖書、特に旧約聖書では繁栄とか豊かさは、神さまの祝福のしるしであると、思われています。イスラエルの族長たち、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして、ヨブはとても富んでいました。申命記28章には、「神さまの命令に従うなら祝福され、従わないなら呪いを受ける」と書いてあります。そこに記されている祝福は霊的なものだけではなく、生活全体に及んでいます。生まれる子どもたち、地の産物、家畜の産むもの、かご、こねばち、穀物倉が祝福され、「かしらとなって、尾にはならない」と書いてあります。詩篇1:3には「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」と書いてあります。箴言15:6「正しい者の家には多くの富がある。悪者の収穫は煩いをもたらす。」とあります。聖書に、祝福イコール、繁栄ということが書いてあります。ですから、イエス様の時代のユダヤ人は「金持ちは神さまから祝福されている人である」と見られていました。あるとき、金持ちの青年役員が「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょう?」とイエス様に質問しました。そのとき、弟子たちは「この人には地位があり、富もあり、小さいときから律法も守っているので、真っ先に神の国に入るべき人だろう」と考えました。ところが、彼は豊かな富が災いして、神の国に入ることができませんでした。イエス様は何とおっしゃったでしょう。ルカ18:24-26「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」つまり、人々は「彼のような金持ちが救われないなら、一体だれが救われることができるのでしょう」と思ったのです。イエス様は「お金では神の国に入れない。むしろ神の国に入る妨げになる」と教えたのです。

 近年、教会に「繁栄の神学」というものが訪れました。今から、40年くらい前に、韓国のパウロ・チョーヨンギ牧師が、三拍子の祝福を唱えました。そのことが、Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。「すべての点でも幸いを得る」とは、「経済的、物質的にも」という意味です。チョー・ヨンギ牧師は、ガラテヤ書3章から、「キリストが十字架で呪われた者となってくださったので、私たちもアブラハムの祝福を得られる」と主張しました。他にアメリカの牧師たちやペンテコステ系の牧師が、「神さまの祝福は富むことである」と言いました。そういう考えが、日本に入ってきたために、日本の教会は2つに分かれました。一方は、「ああ、それはご利益宗教だ、功利主義だ」と批判するグループです。他方は「それこそが、聖書的な考えだ」と同調しました。ちょうどその頃、韓国の経済が教会を通して祝福されました。会社を経営していた長老たちは、牧師に新車や大きな住まい、高い給料を与えました。それを聞いた、日本の一部の牧師たちは、「日本の教会もそうでなければならない」と役員会に要求しました。実際に豊かな生活を得られた牧師もいますが、教会の予算が厳しいので、かえって打ちのめされた牧師もいました。つまり、「自分は貧しいので、標準に達していない」と恥ずかしく思ったのです。

 私たちは経済と祝福に対して、バランス感覚を持たなければなりません。イエス様は山上の説教でこのように教えられました。マタイ6:32-33「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神さまは、私たちにとって、衣食住が必要であることを良くご存じです。でも、第一に求めるべきものあります。第一のものを第一のものとして求めたなら、神さまが必要を満たしてくださるということです。


2.経済と物質の危険性

 ルカ16章には「不正な管理人のたとえ」が記されています。そのところに、「不正な富」という表現が出てきます。不正な富は、英語の聖書ではmammonとなっています。この言葉はギリシャ語からきていますが、富が、人が崇拝するものとして擬人化されています。富やお金は中立的な存在です。しかし、扱い用によっては、神さまになってしまうということです。イエス様は何と教えられたでしょう?ルカ16:13「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」ある人にとっては、富が主人になっています。そして、富に仕えています。でも、本来は神さまが主人であるべきです。イエス様がおっしゃるように、二人の主人に仕えることは不可能です。なぜなら、一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方を重んじ他方を軽んじるからです。ある人はお金を得るために、手段を選ばない人もいます。汚職、盗み、横領、詐欺は、みんなお金が絡んでいます。また、ある人は一生懸命、倹約をして、お金を蓄えています。蓄えるのは良いのですが、貯めることが目的になり、1億円も貯め込んだまま死ぬ人がいます。富やお金には力があります。いわゆるmammonとなって、神さまの座を奪ってしまうということです。富やお金から解放されるための3つの原則があります。

 第一は、忠実に管理するということです。イギリスに「お金は悪い主人であるが、良いしもべである」という古いことわざがあります。この意味は、「もし、あなたがお金を良く管理できればお金は、あなたに仕える小さなしもべです。ところが、あなたがお金に支配されるなら、お金はあなたを奴隷にするひどい主人になるでしょう」という意味です。現代はクレジットカードがとても便利です。現金を用いないので、買うのがとても簡単です。しかし、あとから、ショックを受けることがあります。福音書にはsigh and wonder「しるしと不思議」ということが、記されています。インドネシヤのエディ先生の奥様は買い物が大好きです。何でもカードでサインして買います。あとで、請求書を見たエディ先生はワンダー、驚くそうです。「これがsigh and wonderです」と、ジョークを言っていました。現代は、借金を返せないために、自己破産する人たちがたくさん出ています。これはまさしく、お金が悪い主人になり、自分が奴隷になっている姿です。私たちはお金を「小さなしもべ」にしなければなりません。そのためには、収入と支出のバランスを取る必要があります。私は貧しい家庭で育ったので、あればあるだけ使うところがあります。だから、家の大蔵省には向いていません。本当のお金持ちというのは、いわゆるケチな人たちで、無駄遣いをしない人たちです。無駄遣いをしないので、お金持ちになるのかもしれません。私たちは神さまから与えたれた資源をちゃんと管理する必要があります。時間、健康、持ち物、そして金銭もその1つであります。ルカ16:10 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

第二は、忠実に受けるということです。Ⅱテサロニケ3:10-12「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」日本に「働かざる者、食うべからず」という格言があります。しかし、中には病気や高齢で、働きたくても、働けない人がいます。ですから、この格言には限界があります。使徒パウロは、「働きたくない者は食べるな」と命じました。この人は、働く力があるのに、働かないということです。仕事をせずに、おせっかいばかりして、締りのない生活をしていました。そういう人に対して、パウロは「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と命じているのです。つまり、「ちゃんと労働して金銭を得よ」ということです。そのために神さまは私たちに、信仰と賜物と創造性の3つを与えてくださいました。神さまに祈り求めるなら、神からの能力とふさわしい働き場が与えられるということです。正当に働いて、金銭を得るということは神さまのみこころです。現代は、お金を右から左に動かすだけで、お金を得ている人たちがいます。株とか土地ころがし、マネーロンダリングなどがあります。本来は、社会的に何らかの貢献をして、その実を得るべきではないでしょうか?神さまが手のわざを必ず祝福してくださることを信じて、天から与えられた仕事をすべきであろうと思います。

 第三は、忠実に捧げるということです。聖書に「収入の十分の一を神さまに捧げる」ということが書いてあります。このことが言われている最も有名な箇所は、マラキ書です。マラキ書3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」昔は穀物などの産物を捧げました。しかし、だんだん貨幣経済になったので、それがお金になりました。教会がお金のことを言うと、なんだか汚いみたいに思う人もいるかもしれません。この教会の山崎長老さんは「命の次に大切なのがお金である」と言いました。お金は汚くありません。お金は尊い労働の代価です。命の次かどうか分かりませんが、信仰がなければ1円も捧げることはできません。「神さまがすべての資源を与え、私に労働力を与えてくださいました。そのことの感謝です」と捧げるのです。「十分の一は神さまのものだけど、十分の九は私のものなので、好き勝手に使って良い」という意味ではありません。「十分の十が神さまのものだけど、そこから、十分の九をいただいて、生活させていただく」という意味なのです。また、十分の一以外の献金があります。集会献金、会堂献金、宣教献金、感謝献金…これらは神の御国のための信仰的投資です。十分の一を捧げるなら、神さまが畑に垣根を巡らせてくださり、害虫や盗人から守ってくださいます。その畑に、十分の一以外の献金の種を蒔くのです。その種が30倍、60倍、100倍になって帰ってきます。献金は「これだけ捧げますから、見返りを与えてくださいよ」と、神さまと取引することではありません。見返りを求めず、ただ信仰と感謝を持って捧げるときに、神さまが報いてくださるのです。

3.経済と物質からの解放

 ピリピ4:13 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」アーメン。この1節でも私たちは励ましと信仰をいただくことができます。ある人たちは、この聖句をカードにして、困ったときに、告白する人がいます。確かに良いことです。しかし、聖書は1節からだけではなく、文脈から理解することも重要です。このみことばの前後に何が書かれているのでしょうか?使徒パウロはどんなことを学んだのでしょうか?ピリピ4:11-12「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」パウロはある時には、貧しい生活を余儀なくされたこともありました。食べ物もなくて飢えることもありました。おそらく、ない時はないなりの生活をしたのでしょう。しかし、パウロは「私は使徒だから、ちゃんとした待遇を得なければおかしいだろう」と教会に要求したことはありません。しかし、あるときは、豊かな時もあったことでしょう。使徒ということで厚遇を受けたこともあるでしょう。でも、パウロはいただいた献金で私服を肥やすということはしませんでした。ちゃんと宣教資金のために蓄えながら、用いたと思います。聞いた話ですが、スポーツカーやハーレーを乗り回している牧師がいるそうです。自分の給与で買うのは構いませんが、教会の予算からだと問題が出てくるかもしれません。

どうでしょう?お金がないというのも誘惑になります。盗みや不正を働いて、お金を得たくなります。いつも考えていることは「もし、お金があれば○○ができるのに」「もし、お金があれば○○が買えるのに」というのは誘惑に片足をつっこんでいる状態です。パウロはピリピ4章で「貧しさの中にいる道も知っている」と言っています。しかし、原文は「私は低くされることを知っている」、あるいは「謙遜になることを知っている」という意味です。つまり、食べるものがない、あるいは住まう所もないということは謙遜を学んでいるんだということです。食べものがないときは、「ああ、そういえば、エリヤもカラスとやもめに養われたことがあるなー」と思い出すことができます。ちゃんとした住まいがないときは、「ああ、そういえば、イエス様も『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子はまくらする所もない』とおっしゃったなー」(マタイ8:20)と思い出すことができます。そうすると貧しさの中にあることも益になります。しかし、これが反対にイスラエルの民のように「エジプトでは肉や魚、にら、たまねぎを食べていたのに」とつぶやいてはいけません。あるいは、「私はなんとみじめな生活をしているんだろう」と自己憐憫に陥ってもいけません。そうではなく、「これは謙遜を学ぶための勉強なんだ。ありがとうございます。」と感謝するのです。反対に、豊かなときはどうなのでしょうか?パウロは「豊かさの中にいる道を知っている」と言っています。他の訳は「有り余る中でいることを知っている」と訳されています。豊かさの中にいると、どうなるでしょうか?腹いっぱい食べて、太り過ぎたり、物を無駄にしてしまうでしょう。現代は外食産業の時代ですが、食べ残したもので、何億人もの貧しい人たちを養えると聞いたことがあります。物でも、まだ、使えるのに、新しい物に取り換えたりします。「アメニティ」とは、「快適な暮らし」という意味ですが、度を越すと、贅沢になります。学生たちがネパールやカンボジアに1週間くらい、短期宣教に出かけると、人生観が変わるそうです。ベン・ウォン師のお嬢さんが、学校を休んで、ネパールに短期宣教に出かけました。トイレも穴ボコしかありません。寝るところにサソリが這っていたそうです。それで懲りたかというとそうではなく、数年後もまた行ったそうです。なんと、自分は便利な生活に慣れていたのかということが分かったそうです。

パウロが言っている「満ち足りる秘訣」は、「経済と物質の解放」と関係があると思います。満ち足りる秘訣というのは、第一は、ないときに不平不満を言わないということです。私たちはどうしても、ないものに目をとめて、あるものを感謝しない傾向があります。弟子たちが、5つのパンと2匹の魚があることに目をとめたときに、奇跡を体験することができました。たとえば、もやしとキュウリとハムがあれば、立派なサラダができます。今、あるものを感謝するとき、神さまの御手が動きます。第二は、仕方がないからと諦めることでもありません。逆に、神さまに信頼するということです。私たちは環境によって、喜びや平安をなくてしまいます。お金がない時は、特にそうです。そういう時こそ、満ち足りることを選び取るのです。心をかき乱すような状況にあっても、神さまに信頼することを選び取るのです。そうすると、喜びと平安がやってきます。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と言う告白は、まさしく、信仰です。現実がまだ、そうなっていないのに、このように告白して、祈るのです。しかし、目を開けた瞬間、「現実は厳しいからなー」と言う人がいます。それは、今、祈ったことをキャンセルすることになります。そうではなく、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」という信仰に留まるのです。そうすれば、現実が後からついてきます。私たちは現実から物事を判断すべきではなりません。信仰から判断するのです。パウロは、「見るところによってではなく、信仰によって歩む」(Ⅱコリント5:7)と言いました。経済と物質は、ものすごい力を持っています。私たちは、しばしば打ち負かされるときがあるでしょう。でも、経済と物質は、もともと神さまが造ったものです。もともとは、神さまが目に見えない、ことばによって産み出したものです。どうぞ、現実から信仰を見ないようにしましょう。逆に、信仰によって現実を見ていきましょう。神さまの方が、現実よりも勝っています。経済と物質の所有者である神さまが、必要を与えてくださるのです。どんな境遇の中でも、父なる神さまを信頼して歩みましょう。

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2013年7月 7日 (日)

特別礼拝

本日は、柳瀬洋氏を迎えての特別礼拝になりますので、原稿を用意できませんでした。

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