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2013年6月30日 (日)

悪者からの救い       詩篇17:6-15

 この世には罪があり、その背後では悪魔が働いています。私たちはクリスチャンになったからと言って、自動的に守られるわけではありません。誘惑に負けたり、災いが降りかかってきたりもします。あんまり恐れ過ぎてもいけませんが、平和ぼけして、無防備な生活を送るのもよくありません。田舎に行くと鍵をかけていない家がたくさんあるようです。都会では、みんな悪い人に見えるので、いろんなセキュリティがあるようです。私たちは神の愛に満たされて、多くの人たちと、親しい関係を持つことも大切です。しかし、同時に、この世には、悪い人たちもいることも確かです。聖書を見ますと、いろんな戦いが記されています。正しい人が悪者によって苦しめられるという記事がたくさんあります。聖書は私たちに、そのための教訓と信仰を与えてくれるすばらしい書物です。


1.悪者に対する考え方

 ダビデは次期の王様になるための油注ぎを既に受けていました。ダビデはペリシテ人を倒して、国と王様のために尽くしました。しかし、サウル王はダビデを妬んで、槍で、幾度も刺し殺そうとしました。ダビデはサウルを恐れて、荒野に逃れました。サウルは家来と一緒に、何度も、ダビデの命を奪おうとして追いかけました。ダビデは洞窟や岩場の影に隠れながら、逃亡生活を余儀なくされました。詩篇には「ダビデ」の名前がついているものがたくさんあります。その中で、ダビデが敵に囲まれ、神さまに助けを求めて祈っているものが多数あります。この17篇もその1つです。詩篇17:8-9「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。」背景はよくわかりませんが、ダビデのまわりには、悪者や敵が大勢いたことは確かです。私たちの生活においてはどうでしょうか?「悪者」という表現はしないかもしれませんが、そのような人がいるでしょう。たとえば、女性が夜道を一人歩くのは危険です。男性は家を出ると7人の敵がいると言われています。家の中にいても、「戸締り用心、火の用心」のごとく、気を付ける必要があります。私たちのまわりには、悪者とは言えないまでも、敵対する人が必ずいるものです。政治では、「政敵」というのが存在します。主義主張が異なる「論敵」と言うのもいるでしょう。ビジネスではライバル会社と敵対するときがあります。自動車でも家電でも、あるいは携帯電話でも、シェアーを奪い合っています。家に入ると、嫁と姑の「確執」というものがあるでしょう。教会でも牧師と役員との間で意見が食い違うことがあります。

 私が言いたいことは、「この世においては、悪者や敵対する人が必ずいるものだ」ということです。ある人は「私はすべての人を愛します。私には敵対する人は一人もいません」と言うかもしれません。でも、イエス様はどうだったでしょうか?イエス様には罪がありませんでした。みことばを教え、福音を宣べ伝え、人々の病を癒し、良いことをたくさんしました。では、イエス様に敵対する者、いわゆる悪者がいなかったでしょうか?大勢いました。特に、宗教に携わっている人たち、パリサイ人、律法学者、長老、祭司長が、イエス様を捕えて殺そうとしました。なぜなら、自分たちの名誉や権利を失うことを恐れたからです。やがては、イエス様を捕えて十字架につけました。使徒パウロはどうでしょうか?パウロは異邦人に伝道するために、小アジア、ギリシャ、そしてローマに渡りました。しかし、どこの場所でも、ユダヤ人の妨害にあいました。彼らはパウロを捕えて、打ち叩き、投獄しました。パウロはⅡコリントで自分がどれだけ苦しんだか、書き記しています。Ⅱコリント11:25-26「むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い」とあります。この中には、自然災害もありますが、人的なものも含まれています。神さまが、なぜ、こんな目に合わせるのでしょうか?神さまのために働いているのに、ひどい感じがします。それでも、パウロには、主の守りがあることは確かです。イエス様も使徒パウロにも、悪い者、あるいは敵対する者たちがいました。ということは、私たちにもそういう人たちが常にいるということです。

 しかし、私がここで申し上げたいことは、「白か黒」というふうに極端なとらえ方をしてはいけないということです。東山の金さんや大岡越前、あるいは水戸黄門を見ると、善人と悪人がはっきり分けられています。ある人たちは、「この人は良い人だ」「この人は悪い人だ」と分けてしまいます。また、ある人たちは、「この人は味方だ」「この人は敵だ」と分けてしまいます。しかし、そういうふうに分けると、正しい人間関係を持つことが難しくなります。何か1つあると、「今までは味方だと思ったのに、裏切られた。この人は敵だ。悪い人だ」となってしまうからです。カインは城壁のある町を作りましたが、城壁だと、「敵か味方か」というふうになります。それよりも、境界線を設ける方が良いと思います。境界線とは、ドアのようなものであり、開け閉めが可能で、内側から鍵をかけることもできます。また、境界線は、時間や距離でもあります。お互いが緊張関係にある場合は、時間や距離を取ることが良いでしょう。アメリカなどでは警戒レベルを1、2、3、4、5と分けたりします。人畜無害な人をゼロとするならば、レベル1は「考えや好みが、ちょっと合わないかな?」という程度の人です。中間を省略して、最後のレベル5は「持ち物や人権が奪われる。危害が加えられ命の危険がある人です」。これと反対に、好意レベルを1、2、3、4、5に分けることも可能です。教会で、「そういう枠組みをして良いのか?みんな兄弟姉妹だろう」と、批判する方もおられるかもしれません。教会は神の家族ではありますが、一遍に親しくなることはできません。互いに境界線を持ちながら、信頼関係を深めていくと、好意レベルが1,2.3,4,5と上がっていくのではないでしょうか?

 使徒パウロは何と言っているでしょうか?ローマ12:17「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」パウロは、悪があることを前提にしながら、「すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と命じています。そして、悪いことをされて、復讐したくなるようなこともあるということです。だから、パウロは「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐は神さまがする、神さまが報いをするから」と言っているのです。躓くかもしれませんが、教会はパラダイスではありません。また、私たちはだれとでも平和に過ごし、だれとでも愛し合うことはできないのです。しかし、そのことをあらかじめ知っておくなら、「善人が悪人か」「敵か味方か」、という極端な分け方をしなくなります。こういう「白か黒か」という考えが、人間関係を狭くしていくのです。そうではなく、ある程度の境界線を持ちながら、信頼関係を築いていくことが重要なのではないかと思います。

聖書におけるイスラエルのぶどう園はどのようなものでしょうか。ぶどう園を荒らすのは、キツネです。向こうのぶどうは、日本のものよりも棚が低いからでしょう。また、ぶどうを盗む悪い輩もいたことでしょう。イエス様のたとえ話では、ぶどう園の小作人が収穫の一部を納めないばかりか、使いに来たしもべや息子を殺したというものもあります。ですから、ぶどう園の所有者は悪い者からぶどう園を守らなければなりません。また、ぶどう園の端っこには、いちじくの木を植えました。「ここが境目だよ」という目印です。ぶどう園にはぶどうが植えてあるのですが、外側にはすっぱいぶどうを植えておきます。だれかが、ぶどう園のぶどうを盗み食いするとします。その人は「ああ、このぶどう園のぶどうはすっぱいぞ」と盗むのを諦めます。しかし、ぶどう園の中側に入り込んでいくと、甘いぶどうがなっているそうです。同じように、良い人間関係は一夜にしてできるものではなく、外側から内側へと時間と努力が必要だということです。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」と言われました。もし、ぶどう園を教会に置き換えるならばどうなるでしょう?私たち一人ひとりは、ぶどうの木であるイエス様につがなる必要があります。イエス様につながらないでは、実を結ぶことができないからです。では、一体だれが、ぶどう園をさばくのでしょうか?父なる神さまです。ヨハネ15:2「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」ヨハネ15:6 「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」父なる神さまが善悪をさばくお方であるということです。父なる神さまが、枝を取り除いたり、刈り込みをなさいます。また、父なる神さまがイエス様にとどまっていない枝を集めて、火に投げ込ませるのです。私たちがなすべきことは何でしょうか?私たちは父なる神さまにさばきをゆだねつつ、ひたすらキリストにとどまるのです。そうすれば、豊かな実を結ぶことができるのです。アーメン。


2.悪者からの救い

 聖書には、いろいろな救いについて書かれています。「悪者からの救い」というテーマがあっても良いと思います。前半のポイントでも言いましたが、この世においては、悪者は必ずいるものです。テレビや新聞で、強盗や殺人、詐欺や恐喝というニュースが絶えません。北朝鮮に子どもが拉致されて長い間、苦しんでいる人たちもいます。クリスチャンは、できるだけ善を行い、だれとでも平和に過ごそうと努力しなければなりません。しかし、パウロはⅡテモテ3章で、「終わりの時代には困難な時代がやってくることを承知しておきなさい」と注意しています。「情け知らずの者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者が」出てくると警告しています。ご存じのように、犯罪率や残酷な事件は年々増しています。それは、終わりの時代に入っているからです。ですから、主の祈りで、「私たちを悪からお救いください」祈るように言われているのはそのためです。主の祈りの「悪」とは、まさしく「悪しき者」という意味です。悪とは、非人格的なものではありません。背後には悪しき者である、悪魔がいるということを示唆しています。悪魔が肉的な人を用いて、悪いことを助長させるのです。つまり、ある人が悪い思いを心に抱いているとします。そこへ悪魔がやって来て、その人をけしかけ、悪いことをさせるのです。クリスチャンはこの世に住んでいるので、悪い者たちから身を守っていかなればなりません。では、どのように私たちは悪い者たちから自分たちを守ることができるのでしょうか?3つのポイントでお話ししたいと思います。

 第一は、神さまと正しい関係を常に持っているということです。旧約聖書を見るとわかりますが、イスラエルは小国であり、大国に囲まれていました。南はエジプト、北にはアッシリアやババビロンが控えていました。また、隣国からの侵略が常にありました。ダビデの時代はペリシテ人がいました。その後のユダの時代は、アラム、モアブ、エドム、北イスラエルが度々侵略してきました。しかし、聖書を見ると、彼らが神さまを恐れ、正しいことを行っているときは、国が平安に保たれています。しかし、偶像礼拝をしたり、律法に反することをしていると、敵が侵入し、国土が荒らされます。それは、国レベルでもいえますが、個人の生活にもいえることです。ですから、私たちは悪者から守られることを求める前に、まず、神さまと正しい関係が持つことが必要です。ダビデは神さまをどのように呼んでいるでしょうか?ダビデは神さまを「あなた」と呼んでいます。「私とあなた」の関係です。ダビデは神を敬い、心から愛していました。神さまもダビデを愛していました。新約聖書において、私たちはどうでしょうか?ある人たちの祈りは、形式ばって、神さまがとても遠い存在のように思えます。私たちはイエス・キリストの贖いによって、神さまを「アバ、父よ」と呼べる存在になりました。ですから、本当に気兼ねなく、大胆に神さまのふところに飛び込むことができるのです。イエス様はヨハネ10章でこのように約束しておられます。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」イエス様が羊である私たちを悪しき者から守ってくださり、豊かな命を与えると約束してくださいます。

 第二は神さまに祈り求めるということです。ダビデは何と祈っているでしょうか?詩篇17:8-9 「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。」ダビデはとても強い武将でした。どんな敵と戦っても、勝利してきました。しかし、ここでは神さまに、ひたすら助けを求めています。本当に強い人というのは、自分の限界を知っている人です。ダビデは主が共にいてくれたので、これまで勝利することができたことを知っていました。いわゆる慢心になると、とても危ないです。イエス様が「『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』と祈りなさい」と、教えてくださいました。ということは、私たちは日々、神さまの守りをいただかないと生きてゆけないということです。なぜでしょう?Ⅰペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。教会では、悪魔は牧師を狙います。牧師が倒れたら、教会員も影響されて信仰を失うからです。悪魔はいろんな人を用いて、牧師が罪を犯すように誘惑することも確かです。また、いろんな訴訟問題を起こして、精神的なダメージを与えてきます。最後に、うつ病になったり、燃え尽きを起こして辞職せざるを得なくなります。牧師だけかと言うと、教会員もそうです。洗礼を受けてから半分くらいの人たちが、教会を去っていきます。その人たち全員が信仰を失ったということではないでしょう。でも、罪の誘惑や試練に負けて、勝利がないかもしれません。とにかく、悪魔は肉的な人を用いて、私たち信仰者を攻撃してくるということは確かです。本当に今は、歩道を歩いていても危ない時代です。「振り込め詐欺にかかる人は馬鹿なだー」と思うかもしれませんが、いつ被害にあうか分かりません。テレビのニュースではありませんが、何かの事件にまきこまれるかもしれません。だから、「身を慎み、目をさましていなさい」のごとく、日々、祈る必要があります。

 第三は悪者には近づかないということです。詩篇17:12-13「彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。」悪者が私たちを引き裂こうとねらっています。あるいは待ち伏せをしています。私たちが悪者の罠にかかって、やられることもありえるということです。前のポイントで警戒レベルを1、2、3、4、5と分けることをお勧めしました。「敵か味方か」という分け方はあまり役には立ちません。なぜなら、「羊の皮を着た狼」のごとく、本当の悪者ほど、始めから「悪い」という外見をしていないからです。それよりも、境界線という概念を持つことが役に立ちます。たとえば、「この人とはどのくらいの距離を置くべきだろうか?」と考えながら関わります。ある人は、「この人には大事なものは与えてはいけない」「この人とはあまり近づかない方が良い」と思えるかもしれません。イエス様は福音書で偽預言者かどうかわかる方法を教えてくださいました。マタイ7:16-17「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」実というのは、その人の生活ぶりとか、行っていることの結果です。いくら口でうまいことを言っていても、生活において悪い実を結んでいるなら、要注意です。良い実と悪い実は、私たちが持つべき境界線と関係してきます。警戒レベルの4,5、つまり、危険な人はどうしたら良いでしょうか?これは「怨念晴らし」を避ける方法と良く似ています。悪者というのは、何かの理由をつけて、自分の怒りをぶちまけてきます。小さな事故やトラブルが事件に発展することはよくあります。つまり、彼らは、私たちを彼らのステージに引き込もうとしているのです。「出てこいや!」とけしかけてきます。こちらの方も、「ここで引き下がったら男がすたる。なめられたらいけない」と相手役を引き受けます。そして、自分の怒りを相手にぶつけます。気が付いたら、修羅場になっていたということがよくあります。ですから、相手のステージに乗らないように注意しましょう。相手にしないで、その場を逃げ去るということも、恥にはならないということです。

 ダビデは悪者や多くの敵から囲まれ、恐れおののいて生きていたのでしょうか?詩篇23篇にはこのようなことが書かれています。詩篇23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」ダビデは敵が前にいても、ゆっくり食事をすることができました。頭に油を注ぐとは、身だしなみのことですが、女性でいうとお化粧をするということです。普通だったら神経がまいってしまうところですが、なんという余裕でしょうか?私たちもこの世においては災難やトラブルに巻き込まれる可能性があります。戦いがないわけではありません。でも、主が共にいるならば、どんな状況の中にあっても、ご飯を食べ、身なりを整えることができます。しかも、「私の杯はあふれています」とは、すごいです。これは、お酒ということかもしれませんが、受けるべき祝福とも取ることができます。ハレルヤ!環境や状況によるのではなく、主が共にいるなら、どんな時でも、祝福があふれるという約束です。どうか、悪者や敵よりも強い、主を見上げ、主の守りの中で、日々、過ごさせていただきたいと思います。最後に、詩篇17:15 をお読みいたします。「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」ハレルヤ!このように毎日、目覚めたいと思います。




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2013年6月23日 (日)

結婚の回復        エペソ5:22-33

 イギリスの古いことわざからです。「あなたが1日幸せに過ごしたかったら、床屋に行きなさい。あなたが1週間幸せに過ごしたかったら、車を買いなさい。あなたが1か月幸せに過ごしたかったなら、結婚しなさい。あなたが1年幸せに過ごしたかったなら家を建てなさい。あなたが一生幸せでいたかったら、正直者になりなさい。」このことわざによると、結婚の賞味期限は1か月なのでしょうか?きょうは「結婚の回復」と題して、聖書からともに学びたいと思います。


1.結婚の土台

 二人がめでたく結婚することを「ゴール」と言いますが、そうではありません。それから、長く続く地道な結婚生活の「スタート」です。多くの人たちは、ぶっつけ本番で結婚生活をしますので、「こんなはずじゃなかった!」と後悔したりします。私たちは「結婚というものは何なのか?どういう風に結婚生活を送るべきなのか」ということを学ばなければなりません。残念ながら、この世においてはそういうことを教えるところがありません。結婚は単なる社会制度ではなく、神さまが制定されたものです。そのために私たちは、神さまのみことばである「聖書」から学ばなければなりません。聖書は人生の取り扱い説明書、「取説」です。電化製品を買うと、必ず取り扱い説明書がついてきます。洗濯機、冷蔵庫、テレビ、エアコン、パソコンにも必ずついています。でも、ほとんど読まないで、「とにかく動かしてみよう」という人が多いのではないでしょうか?長いマニュアルを読みたくないですね。壊れたとき、「取説」をひっぱり出して、読むのではないでしょうか?結婚が壊れたとき、まだ壊れていなくても、私たちは人生の取り扱い説明書である「聖書」を読むべきです。その中に、「結婚」という項目もあります。きょうの「エペソ人への手紙5章」もその中の1つです。

 使徒パウロは結婚を「キリストと教会」にたとえて教えています。では、キリストとはだれのことをたとえているのでしょうか?そうです。キリストは「夫」を象徴しています。では、教会はだれのことをたとえているのでしょうか?そうです。教会は「妻」を象徴しています。つまり、キリストと教会の関係は、夫と妻の関係であるということです。最初に「妻たちよ」と命じられています。エペソ5:22-23「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」男性にとって、なんとすばらしいみことばでしょう!キリスト教書店に行くと、聖句を彫った額が売られています。「なぜ、『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい』のみことばの額が売られていないのかなー」と、残念に思います。このところに書かれているのは、身分の違いではなく、機能の違いです。「かしら」というのは、上にあった方が便利です。なぜなら、「かしら」には、目や耳、口、鼻がくっついているからです。もし、「かしら」がお尻についていたり、膝についていたら不便です。かしらは体の一番上についているべきです。

でも、「かしら」とはどういう意味でしょうか?Ⅰコリントはこのことを補充しています。Ⅰコリント11:3「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」このところには、「キリストのかしらは神である」と書かれています。キリスト様と父なる神さま、どちらが偉いのでしょうか?どちらも三位一体の神さまですから、上下関係はありません。でも、「キリストのかしらは神です」とはどういう意味でしょうか?新約聖書を見ると分かりますが、キリストは神さまでしたが、父なる神さまにいつも従順しておられました。なぜなら、父なる神さまが救いを計画されたからです。そして、キリストは、父なる神さまが立てた救いの計画を実現するためにこの地上にやってこられました。だから、たえず父なる神さまに聞きしながら、事を進めていきました。これを夫と妻との関係で言うならば、夫がかしらであるというのは、「リーダーシップを取れ」ということです。別な言い方をすると、「すべての責任を負いなさい」ということです。そして、妻はかしらである夫を敬いながら、従って行きなさいということです。これを雨傘でたとえるならば、このようになります。神さまは、夫が家庭のかしらとしての役割を果たすように定められました。そうすれば、下にいる妻や子どもが守られます。ところが、夫が家庭をちゃんと治めていない場合はどうなるでしょう?ギャンブルや酒で働かない。外で仕事ばかりして、家の中のことは関知しない。そうすると傘に穴が開いて、雨が漏ってきます。機能不全の家庭です。「それじゃだめだ」と言って、妻が夫を出し抜いて、かしらになるとどうなるでしょう?傘がひっくり返った状態です。これでは、傘の役目を果たさなくなります。これは、神さまの秩序に反しているので、うまくいきません。

 今は終わりの時代ですが、家庭が破壊されている時代でもあります。世界の離婚率を調べてみました。ある資料によりますと、ロシアの離婚率は69%です。先ごろ、プーチンも離婚しました。アメリカが47%、英国が45%、韓国が40%、日本は37%です。離婚率は、キリスト教国であるとか、ないとか関係がありません。信仰が歯止めになっていないということは全く残念です。なぜでしょう?結婚の原則に土台していないからです。離婚の原因は夫、男性が「良いかしらになっていない」からです。エディ・レオ師は時々、ロシアに奉仕に出かけます。ウラジオストックの教会に行ったとき、ギターも賛美も司会もみんな女性たちだったそうです。エディ・レオ師が「父の心」をメッセージしたとき、女性たちが声を上げて泣き崩れました。ロシアの男性たちは寒いので、ウォッカをたくさん飲むそうです。酒に酔った夫が、妻に暴力を振るいます。それで、妻は耐えられず離婚をするのです。だから、教会には女性しかいません。アメリカも日本もそうですが、離婚すると子供たちが犠牲になります。継父によって虐待されます。先日、フィリピンのミンダナオ島の孤児を支援している藤先生の講演にでかけました。フィリピンでは10代前半で結婚し、多くの子供を産みます。でも、経済的に厳しくて十分に育てられません。フィリピンはカトリックの国なので離婚が認められていません。それで、女性は家庭を捨てて、他の男性のところに行きます。そのような家庭で育った女の子は、お母さんと同じように若くして結婚し、子供を産んだ後、蒸発します。そういうことが世代間連鎖になっています。藤先生たちは、捨てられた孤児たちを支援しています。人間の尊厳あるいは、価値というものがとても低いように思われました。何度も言いますが、夫は妻のかしら、家庭のかしらです。経済的にも、精神的にも、霊的にもリーダーシップを取り、責任を負う必要があるということです。

 それでは、妻が夫に従うというのはどのような従い方なのでしょうか?奴隷のように、何でもかんでも夫に従うことなのでしょうか?エペソ5:22,24「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。…教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」「教会がキリストに従うように」とはどういう意味でしょう?教会の歴史を見るとわかりますが、教会がはなはだ堕落し、キリストに全く従わないときもありました。中世のカトリックだけでなく、プロテスタント教会もそうです。ということは、妻が夫に従う従い方には、ある程度の「ゆるさ」があるということです。簡単に言うと、「まあまあ」でも許されるということです。では、夫はどうなんでしょうか?エペソ5:25「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」キリスト様の教会に対する愛は、どういう愛だったでしょうか?キリストの愛は、一方的な愛、無条件の愛です。これはどういう意味でしょう?「夫は、妻が自分を愛してくれるのを待っていてはならない」ということです。「妻が愛してくれていなくても、愛する」ということです。つまり、夫がかしらであることの証明は、夫が愛においてイニシアチブを取るということです。この愛があってこそ、妻のかしらになれるということです。韓国で開かれた結婚セミナーでの一コマです。ある夫婦が、布団に入って寝ようとしていました。ところが、天井に電気がついていました。妻が「電気ついてるわね」と言いました。夫は「ああ、そうだな」と言いました。妻は「あなた消してよ」と言いました。夫は「お前が気付いたんだから、お前が消せよ」と言いました。妻は「あなたは男でしょう。あなたが消してよ」と言いました。夫は「こういうことは女がやるべきだ。お前が消せよ」と言いました。「いいえ、あなたが消すべきよ」「いや、お前が消せよ」。なんと、1つの電気をだれが消すかで、2時間やりあっていたそうです。

エペソ5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」「それはそうとして妻を愛せよ」とは、「無条件に愛せよ」ということです。なぜなら、教会がキリストに不従順であっても、キリスト様が無条件に教会を愛してくださっているからです。でも、最後に、ひとこと言わせてください。「妻もまた自分の夫を敬いなさい」とあるように、どうか妻たちよ、夫を敬ってやってください。夫は妻から敬われるとき、「ああ、妻を愛したい」という思いが湧いてくるからです。夫を見下したり、うとんじると、妻への愛もなくなります。どうか、夫を敬ってやってください。お願いします。


2.結婚の回復

エペソ5:31「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」とあります。「結ばれ」という原文「固くくっつく」という意味のことばです。英国の聖書は、cleave「主義などを固守する」あるいは「人に忠実である」という意味があります。カウンセリングの丸屋真也師はこう述べています。「『結ばれ』はコミットメントである。困難があってもそこから離れない。そのため、何かあったときに『解ける』という選択肢も持たない。ただ問題のあるのは、そういう確信を持っている中で、逆にこのコミットメントを悪用してしまうことである。相手にいろんなことを望み、自分の問題を改善しないために、いろんな悲劇が生まれる。そして、なお罪を犯し続ける。コミットメントとは機械的なものではなく、自発的なものである。繰り返すと切れてしまう。一旦、切れると修復できない。」「コミットメント」は日本語にするのが難しいことばです。強いて訳すなら、「専心」「献身」「打ち込み」という意味です。結婚に対するコミットメントを4つのレベルに分けることができます。一番高いレベル1ですが、「コミットメントがあり、愛もあるが問題もある」というレベルです。一番下のレベル4は「コミットメントも積極的な愛もなく、解決しようともしない」というレベルです。ハネムーンのときはお互いにコミットメントが高いでしょう。どんなことがあっても、お互いの気持ちが変わりません。なぜなら、「相手を良く見よう」「相手に良く見せよう」という原則が働いているからです。しかし、その後、何かが起こります。夫の借金が発覚したり、依存症が見えてきます。今までは「良く見せよう」としていたので、本当の姿が現れていなかったのです。妻は、夫に「改めて欲しい」と喧嘩をしますが、夫の問題行動が変わりません。妻のコミットメントは1であっても、夫のコミットメントはレベル2から3と下がっていきます。「夫は、クリスチャンは離婚はない」という確信があります。しかし、夫が全く変わらないので、妻の気持ちがどこかで落ちてきます。妻のコミットメントも2から3と下がっていきます。やがて、どうしようもない状態に定着します。妻は「この人はダメなんだ」と思います。そして、「クリスチャンは、離婚はしないけど」と言っても、別居します。

日本ではカウンセリングを受けるという習慣がほとんどありません。相談に行くところは、区役所か家庭裁判所であって、「どうやったら離婚できるか」ということを聞きにいきます。しかし、両者の間に介入することができたら、結婚が回復する可能性があります。丸屋先生は結婚と家族カウンセリングをよくなさっていますが、このようなことを聞きます。介入が始まると、今まで我慢していた分、妻が過激になります。「あなたとはやってゆけない!」と、これまでのことがバーッと出てきます。夫はそれで初めて、自分の状況を知ります。つまり、加害者が被害者から過激なことを聞くと、「底打ち」状態になります。つまり、それまでは「何をしても赦される」と高をくくって来ました。被害にあっている伴侶は、牧師に相談することさえ拒否します。なぜなら、「離婚してはならない」という神の明確なことばがあるからです。丸屋先生は「みことばに『離婚してはならない』と書いてあるのは、クリスチャンは離婚しないという前提ではない。罪が入るならば離婚もありうる」と言われました。そうなると、夫の方も真剣にならざるを得ません。しかし、コミットメントが下がった二人を引き上げるのは簡単ではありません。もし、夫が加害者であるならば、「ああ、底がついた。これはただことではない。本気で改めよう」と決意しなければなりません。そのため行動が変わってきます。でも、そのとき、夫は「俺はこんなに変わったのに、妻は変わっていない」と文句を言ってはいけません。妻の方はこれまで苦しみが長かったので、夫の「誠意への疑い」があります。「本当にそうなのかな?」と思って、コミットメントがなかなか上がりません。妻を責めるとますます上がらなくなります。なぜなら、人間には防衛本能があるからです。「妻に変わってほしいから、自分が変わる」というのは、本当の変化ではありません。夫は良い行いを継続していきます。しかし、妻は変わる様子がありません。妻の夫に対する「可能性への疑い」があります。それでも、夫は継続していきます。「どのくらい?」分かりません。もう、妻がどう判断するか関係なく、自分がすべきことをやっていきます。どのくらい続くのだろうか?妻の夫に対する「継続への疑い」があります。それを乗り越えるとやっと、妻の気持ちが上がり始めます。妻は3つの疑いの段階を乗り越えるとき、気持ちが回復します。そこで、初めて信頼関係ができます。

私たちは「結婚の回復」を考えるときに、「いつ家庭が壊れたのか?」ということを知らなければなりません。創世記3章にまで遡ります。ヘビに化けたサタンが、エバを誘惑しました。そして、エバは食べてはならない木の実を食べました。そばに、アダムがいたのに、止めませんでした。逆に、アダムはエバが差し出した、実を食べてしまいました。その後、神さまが、アダムに「あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか?」と聞きました。アダムは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と答えました。神さまが、エバに聞くと「ヘビが私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と答えました。このところから第一にわかることは、サタンの策略は、家庭を破壊するということです。サタンは妻と夫を分離することによって、家庭を攻撃するのです。第二はアダムがかしらとしての役割を果たしていないということです。エバが最初に食べましたが、神さまがアダムに尋ねたのは理由がありました。エバは直接、神さまから命令を聞いていません。アダムがエバにちゃんと教えていませんでした。そればかりか、エバが誘惑されるのをそばで見ていたのです。正しい夫であるならば、ヘビの頭を叩いて、去らせるべきでした。第三はだれも責任をとっていないということです。アダムはエバのせいにしました。エバはヘビのせいにしました。今日も、家庭が壊れているのに、だれも責任を取らないということです。だれも敗れ口に立とうとせず、「妻が悪い」「夫が悪い」と相手のせいにしています。神さまはご自分のかたちに似せて、男と女を創られました。二人が結婚して家庭を築き、ご自分おかたちを増殖させることは神さまのみこころでした。ところが、サタンが神さまの計画の邪魔したのです。サタンは、夫婦の間を壊すならば、家庭が壊れ、やがて社会全体が壊れることを知っていたのです。この時代、離婚率が上昇しているのは、サタンが大活躍しているからです。

しかし、イエス・キリストは結婚を回復し、家庭を回復するために、この世にやってこられました。イエス様はルカ11:17「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、うちわで争えばつぶれます」と言われました。内輪もめしたらサタンの国ですら、立ち行くことができません。家にしても、夫婦がうちわで争えばつぶれます。私たちはそれを知ってか、知らぬか、やっています。そして、夫婦が別れ、子どもたちも散らされます。しかし、それはサタンの思うつぼであります。イエス様はヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と言われました。つまり、盗人であるサタンによって、家庭が攻撃されているということです。サタンの目的は、盗み、殺し、滅ぼすことです。本来なら二人でサタンに立ち向かわなければならないのに、内輪もめしています。「妻が悪い」「夫が悪い」と相手のせいにしています。しかし、イエス様は何のために来られたのでしょう?「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」イエス様は豊かな人生を与えるために来られました。豊かな人生の中に、結婚の回復、家庭の回復も当然入っています。なぜなら、家庭こそが神さまが教会よりも、先に創られたからです。神さまの愛のかたちを現わしているのは、家庭の方が先だったのです。どのようにすれば回復されるのでしょうか?それは、贖い主であるイエス様を間に迎えるということです。イエス様は一度壊れた関係を結びなおしてくださいます。イエス様は一度死んだ関係を復活させてくださいます。なぜなら、ご自身が死んだ後、よみがえられたからです。しかし、私たちにやるべきことがあります。犯した罪を告白し主の赦しをいただきましょう。そして、訴えや、恨み事、過去の過ちを墓の中に埋めましょう。二人がイエス様の贖いの中に飛び込むとき、結婚が回復します。ある人たちは、「幸せになるために結婚します」と思っています。そうではありません。二人が神さまの命令を守って行くと、その後から幸せがくっついてくるのです。またある人たちは、「私を幸せにしてください。そうしたら、私もあなたを幸せにします」と伴侶に要求します。それも聖書的ではありません。愛は一方的で、無条件であるべきです。つまり、相手を幸せにするために仕えていくのです。見返りがすぐに、来るかどうか、わかりません。それでも、ひたすら相手を幸せにしようと仕えていきます。すると、やがて、相手が感謝のしるしに、「私もあなたを幸せにするように仕えます」となるのです。結論的には、結婚は幸せになるのが目的ではないということです。むしろ、結婚は神さまの御姿になるように建て上げられためにあるのです。箴言27:17「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」お互いが研ぎ合いながら、神さまの御姿になるのです。結婚は両者が建て上げられるために、すばらしい機会となるということです。


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2013年6月16日 (日)

 ある先生が「人間は関係の生き物である」と言いました。その証拠として、人間関係がうまく行っていると幸せだと感じます。また、人間関係がうまく行っていないと不幸だと感じます。「仕事は好きだ。でも、会社での人間関係が嫌だ」という人がいます。また、「付き合っていた時はとっても良かった。しかし、いざ、結婚して1つ屋根の下に住んだら互いに傷つけあるようになった」というカップルもいます。現代は、人と会うのが嫌で、ひきこもっている人たちも大勢います。彼らは、あまりにも多くのの傷を受けてきたので、心を開くことができません。人を避け、孤独な生き方も1つのエネルギーかもしれません。でも、本当は、仲の良い友達を作って楽しく暮らしたいのです。きょうは、人間関係の回復と題して、聖書から共に学びたいと思います。


1.人間関係の破壊

 人間関係が壊れた、もともとの原因はどこにあるのでしょうか?創世記4章にはカインとアベルの物語が記されています。兄カインが妬みのゆえに、弟アベルを殺しました。最初の殺人事件は家庭における兄弟殺しでした。主はカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と尋ねました。カインは「知りません。私は弟の番人なのでしょうか?」と答えました。「番人」と言うのは、少し、皮肉った言い方です。英語の聖書は、brother's  keeperとなっています。keeperというのは「守る人、管理人」という意味です。カインは「私は弟のお守りではありません」と言いました。「私には関係ないよ」ということです。「関係ない」と、私もよく使っていましたが、家内からよく注意されました。本来は、どうなんでしょうか?カインは兄として、弟の面倒を見るべきだったのではないでしょうか?弟の成功を喜び、祝うべきだったのではないでしょうか?ところが、カインは妬みと怒りに負けて、弟アベルを殺しました。ここには、はっきりと関係の遮断が記されています。私たちも時々、関係を遮断するのではないでしょうか?「もう、あの人とは一緒にいられない。もう、あの人には心を開くことができない」と関係を遮断します。しかし、これはカインから始まったことではありません。カインの父と母である、アダムとエバがそうだったのです。アダムとエバが罪を犯して、神様から離れてしまいました。何が訪れたでしょう?創世記3:16「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配するでしょう」とあります。これまでなかった、夫婦間の軋轢があることが分かります。アダムとエバの関係が壊れたので、それが子どもたちに伝わったのです。

 カインはエデンの園から追い出されました。主は、だれもカインを殺すことがないように、1つのしるしをあたえました。それでも、カインは主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住み付きました。ここから映画の『エデンの東』が作られました。それからどうなったでしょう?創世記4:17「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。」私たちの人間関係を壊してしまう、1つ目のものは何でしょうか?カインは町を建てました。町というのは、城壁のある町であります。城壁とは、敵が自分のところに入りこまないようにするためのものです。人はだれでも、心に城壁を設けています。高くて堅固な城壁もあれば、きゃしゃな柵程度のものもあるかもしれません。子供のころは、柵程度だったかもしれない。でも、生きていくうちに色んなことがあって、堅固な城壁を築かざるをえなかったのかもしれません。城壁を築くと、他の人が簡単に入り込むことができません。しかし、同時に自分も他の人のところに行くことができません。神様が造られたエデンの園には城壁がありませんでした。ありのままで、互いに生きることができました。何故でしょう?神様ご自身が彼らの城壁だったからです。その神さまから離れたので、人間はだれでも、自分を守るために城壁を作るしかありません。では、クリスチャンになったらどうでしょう?神様が城壁になるので、そういうものが全く不要になるでしょうか?やっぱり、生垣程度のものは必要でしょう。それは、後半のポイントでお話します。

 カインによってもたらされた人間関係を壊す2つ目のものは何でしょう?創世記4:17「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。」何のためでしょう。自分の名前が後代まで忘れ去られないようにするためです。「身を立て、名を上げる」というのは、日本でも美徳とされています。さらに、カインの子孫はどうなったでしょう?創世記4:20以降を見てわかりますが、ヤバルは牧畜の先祖、ユバルは芸術の先祖、トバル・カインは工業の先祖になりました。カインの子孫は身を立て、名を上げました。ところで、創世記4章の後半から5章まで、カインとは別の、セツの子孫が書かれています。セツの子どもエノシュのときから「人々は主の御名によって祈ることを始めた」(創世記4:26)とあります。そして、創世記5章には、セツの子孫の系図が記されています。不思議なことに、彼らは何をしたとか1つも書かれていません。「何年生きてだれを生み、何歳で死んだ」「生きて、生んで、死んだ」としか書かれていません。神様にとって、何をしたかということよりも、自分と関係を持っていたかどうかの方が大事なようです。しかし、この世では業績志向、成果主義が好まれています。業績指向というのはできるだけ無駄を省いて生産をあげるというものです。そこへ行くと、人間関係は話をしたり、聞いたり、共に時間を過ごすということが要求されます。仕事中は「無駄話しをしないで、手を動かせ」と良く言われます。すると、「人と話をすることは、時間を無駄にすることだ」と思われてしまいます。会社ではそれで良いかもしれませんが、これを家でやったらどうなるでしょう?夫婦や親子の会話は、事務的なものになってしまいます。人間を「仕事中心の人」と「関係中心の人」とに分けられます。みなさんは、どちらでしょうか?私はこれまで、業績指向で生きてきたので、仕事中心の一人です。しかし、それではダメだと、今、関係を重んじるようになりました。

 カインによってもたらされた人間関係を壊す3つ目のものは何でしょう?それは敵意です。創世記4:24「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」レメクはカインを1代目とすると、6代目の子孫です。復讐の度合いが7から、77倍になりました。これはどういう意味でしょう?お互いに対する敵意がカインのときよりも、10倍以上になったということです。実際にノアの時代になると、地は暴虐に満ち、神様が洪水で滅ぼさなければならない程でした。一度、カインの子孫は断ち切られますが、敵意というものが、私たちの中に受け継がれています。民族間の敵意があり、それが戦争にまで発展します。共産主義は、持っている者に対する、持っていない者の敵意から生まれました。会社間の敵意、男性と女性間の敵意もあるでしょう。新聞やテレビのニュースをにぎわしているのは、こういう敵意が爆発したものではないでしょうか?

 今から、6年くらい前、香港からベン・ウォン師を招いて、セルチャーチの学びをしました。そのとき、ベン・ウォン師は「関係の重要さ」について、教えてくださいました。「神様が愛とはどういう意味でしょう?それは、神様はお一人ではないということです。父、子、聖霊なる神さまが共に愛し合っているのです。そのかたちに似せて人間を創造されました。教会というところは愛の共同体です。だから、私たちも互いに愛し合うべきなのです。」と。そのとき、私が司会だったので最後に祈りました。「神様、私たちには愛がないです。どうか、私たちが愛することができるように助けてください」と祈りました。私が祈った後、ベン・ウォン師が立ち上がりました。「『私には愛がないので、愛することができるように助けてくれ』とはどう意味か?」といちゃもんをつけてきました。なんと、昼食後のセミナーでは、予定を変更して、そのテーマでずっと話されました。ベン・ウォン師はこのように言われました。「私たちがキリストを信じた時に、神様の愛がすでに注がれています。『あなたの隣人を愛しなさい』と命じられているのは、不可能な命令ではありません。意志を持って愛せないという人に対して、神さまにそれができるでしょうか?愛するとはあなたの意志の問題です。神様の愛は既にあるのです」と言われました。その時は、「アーメン」と言いました。でも、あれから6年以上もたっていますが、「意志だけでは人を愛せないなー」と思いました。セルチャーチは関係重視の教会ですが、そこにはいくつかの障害があることに気が付きました。つまり、障害となるものを取り除き、新しい価値観に置き換えなければなりません。


2.人間関係の回復

 私たちには神さまの愛が注がれています。私たちも神さまの命令に従って、互いに愛し合いたいと思います。それと同時に、解決されなければならない3つの問題があると思います。克服すべき第一の問題はカインが作った城壁です。アダムとエバが罪を犯さない前は、城壁が不要でした。二人はエデンの園で、ありのままで愛し合うことができました。しかし、罪が入ってからは、私たちは、ありのままでは愛せなくなりました。なぜなら、霊的に生まれ変わっても、互いの考え方や、好み、性格が違うからです。また、クリスチャンになる前に受けた心の傷も残っています。ですから、ある程度の距離を保ちながら、互いに愛し合うということが求められます。最近の心理学者は「境界線(バウンダリー)」という言葉を使います。クラウドとタウンゼント師の本に、「境界線の三要素」ということが書かれていました。境界線の三要素とは、自由と責任と愛です。自由とは何でしょう?神様は私たちが互いに自由に愛し合うように創造されました。相手から、コントロールされて仕方なく愛するということではありません。責任とは何でしょう?ある人は「私が怒っているのは、あの人のせいだ」と言います。しかし、人の言動がどうであれ、どう反応するかは自分次第であるということです。箴言25:28「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。」とあります。まさしく、境界線は城壁と同じです。愛とは何でしょう?クラウドとタウンゼント師はこう述べています。「愛は、自由と責任があって初めて存在できるものです。また、愛を成長させるためには『防護』という境界線が必要です。防護とは、鍵付きの玄関ドアのようなものです。悪は外に締め出し、善は中に取り込みます。どういう意味でしょう?『はい、そうしたいです』『それは好きです』というのは開く時です。『いいえ、それはしたくありません』『それは好きではありません』と言うのは閉じる時です。」日本人は境界線という概念がありません。「うちとよそ」と両極端です。べったりになるか、全く他人になるかどちらかです。「べったり」というのは共依存のことであり、コントロールする人に振り回されるということです。もう一方の、他人とは「全く口を利かない。顔を合わせない」ということです。ですから、両極端にならないように、城壁に代わる、境界線を持つべきであります。城壁の城門ではなく、開閉が容易にできる心のドアが必要です。

 克服すべき第二の問題は、カインの業績志向です。これは、業績の方が人間関係よりも勝るという考え方です。これまではIQ(知能)が高ければ有能である。あるいは、仕事ができる人間が、価値があると考えられてきました。「知能が高くて、仕事ができるならば、言うことなし」のように思われます。ところが、10数年前から、EQという「心の知能指数」も大切であることが言われ始めました。EQのEはemotion感情という意味です。つまり、対人関係や感情のコントロールに重点をおいた知能の考え方です。EQの高い人は対人関係が良好で、友人も多いということです。業種にもよりますが、人間関係が重要であることが求められるようになりました。しかし、「便宜上、人間関係も必要である」というのは不十分です。つまり、「人間関係は生きるためには、欠かすことのできないテーマなんだ」と、価値観の変革がなければ、互いに愛し合うことは不可能です。私は業績志向のかたまりで生きてきました。学校で教えらえた進化論を信じてきたので、「強い者、能力のある者が生き残る」と考えていました。しかし、私は人と比べてIQが高いわけでもなく、ずば抜けた能力があるわけでもありません。劣等感をバネにしながら、人の上前をはねるセコイ生き方をしてきました。しかし、25歳でクリスチャンになり、創造論を信じました。でも、業績志向は持ち続けていました。教会を大きくしなければならないと必死にがんばりました。1993年、「新会堂も立ち、いよいよ100名礼拝かな?」と思ったら、そうなりませんでした。1996年、「教会は愛の共同体であり、それをセルチャーチで行なうしかない」と進路変更を余儀なくされました。「恵みの歩み」に触れて、「行いではなく、存在そのものがすばらしい。神様はキリストにあって私たちを是認しておられる。何をしなくても愛してくださっている」と悟りました。でも、これまでのエネルギーが業績志向だったので、それに替わるエネルギーが見つかりませんでした。以前は、「教会は人数だ」とやってきたのに、「教会は人数ではない」と言うようになりました。でも、心を燃やすエネルギーがありませんでした。昨年、それが分かりました。「それぞれに与えられた神さまの計画(運命)を果たすために生きる」ということです。神様は、天にたくさんのものを蓄えておられます。神様はご自身の計画(運命)が成就するために、必要なものを与えてくださるのです。みこころを行わせようとする神様が、私たちのエネルギーなんだということです。そういうことが分かると、「この人にも神さまの計画(運命)があるんだ」と尊重できるようになります。そして、この人の神さまからの計画(運命)が叶うように助けてあげたいと思うようになりました。どうでしょう?業績や仕事も重要ですが、人間関係も同じくらい重要ではないでしょうか? もっと言うと、人間関係の上に、業績や仕事があるのかもしれません。今は、リストラとか、派遣社員という言葉が、一般的になりました。これこそ、人間関係を軽んじている考え方ではないかと思います。現代は、心が病む人がとても増えています。どこで、人間関係の癒しと修復がなされるのでしょうか?それは神の共同体、教会の役目ではないでしょうか?

 克服すべき、第三の問題はカインの子孫の敵意です。イエス様はお互いが持っている敵意を取り除くために十字架にかかってくださいました。エペソ2:13-15「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり…」このところは、文脈的には異邦人とユダヤ人のことが書かれています。しかし、これを「民族間の敵意」、「人と人との敵意」、「男性と女性の敵意」に適用することが可能です。また、この敵意というのは「怨念晴らし」と言い換えることができます。「私は決して赦さない。憎み続ける」。そういう怨念が、祖父母、父母、自分へと代々伝わってきています。NHKで大河ドラマ『八重の桜』というのが放映されています。私は見たことがありませんが、会津藩は新政府軍の敵です。新政府軍というのはほとんどが長州藩です。会津が長州に対して、怨念を抱くのは不思議ではありません。毎年、12月には『赤穂浪士四七士』が放映されます。あれも、怨念晴らしであります。日本人は、よっぽど怨念晴らしが好きなようです。

でも、だれかの話ではなく、私たちは多かれ少なかれ、だれかに恨みをもって生きています。「きっと仕返してやるぞ。見返してやるぞ」と、恨みをエネルギーにして、生きてきています。「父のあのことが赦せない」「母のあのことが赦せない」「兄弟のあのことが赦せない」「おじさんのあのことが赦せない」「先生のあのことが赦せない」「あいつのあのことが赦せない」。そういう恨みを心の中に温存しているとどうなるでしょう?教会に来たら、似ている人が必ずいるものです。なぜなら、教会は神の家だからです。本当の家で果たせなかったことを、神の家で果たそうとします。無意識に、似た人がいたら怒りをぶつけて、怒りを解消するのです。それが「怨念晴らし」の世界です。怨念晴らしを受けている人は、そのままやりこめられるか、あるいは自分が持っている怨念を「今ぞ」とばかり、ぶつけます。怨念と怨念がぶつかることを修羅場と言います。サタンはそのようにして、教会を破壊しようともくろんでいます。家庭でも、職場でも、学校でも行われています。私たちは怒りを人にではなく、神様に持っていくべきです。そして、訴えるべき証書をキリストの十字架のもとに置くのです。そのようにして、神様は私たちの敵意を取り去ってくださいます。イエス様は私たちが持っている敵意を廃棄された方です。私たちはイエス様を間に置くことによって、敵意が取り除かれ、互いに愛し合うことが可能になります。そういう意味では、主にある兄弟姉妹、教会こそが、その模範となるべきところです。でも、私たちは互いに愛するためには、訓練が必要です。天国に行くまでは不完全であり、互いに傷つけ合うこともあります。しかし、また、悔い改めて、互いに愛し合う勉強をするのです。工事現場に行くと「工事中、ご迷惑をおかけします」と、ヘルメットをかぶった人が、ぺこりと頭を下げている看板を目にします。私たちもまさしく、「工事中、ご迷惑をおかけします」という気持ちで臨まなければなりません。牧師も「工事中、ご迷惑をおかけします」。教会員同志も、「工事中、ご迷惑をおかけします」という心構えが大切です。どうぞ、聖書のみことばや律法を相手に突き付けないようにしましょう。誰一人、その要求を全うできる人はいません。それよりも聖書は「互いに赦し合い、互いに忍び合いなさい」と教えています。

私たちはどこから人間関係の回復を始めたら良いのでしょうか?アダムとエバによって罪が入ったために、最初に家庭が壊れました。ですから、私たちは社会が変える前に、まず、家庭の人間関係の回復から始めるべきであります。父や母との関係、きょうだいとの関係、妻と夫の関係、子どもとの関係です。その次に、それと同時に、教会内の兄弟姉妹との関係を建て上げていく必要があります。その後、学校や職場、地域社会へと広がっていくのです。ヨハネは自分の手紙の中でこのように勧めています。Ⅰヨハネ3:12「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」、Ⅰヨハネ3:23「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」神さまの命令は、決して不可能な命令ではありません。なぜなら、神さまが私たちに必要な愛をキリストにあって既に注いでおられるからです。


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2013年6月 9日 (日)

心の変革       ローマ12:1-2 

 パウロは、人間は3つのものでできていると言いました。内側から言うと、霊、魂、肉体です。きょうは魂の分野について言います。魂はギリシャ語でプシュケーと言いますが、そこからサイコロジー、心理学が生まれました。この世の心理学者は神様とか霊の存在を認めません。ただ、心の中だけに集中しています。彼らは潜在意識があることを発見しました。心をちょうど氷山のようにたとえています。水中にもぐっている90%が潜在意識です。そして、10%の顕在意識が表面にあるというのです。私たちは自分の意識で生きているつもりですが、ほとんど潜在意識で動かされて、決断しているということです。きょうは、潜在意識ということばは用いませんが、深いところに意識の塊があるということをあとで申し上げたいと思います。


1.心の一新

 ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ人への手紙は、1章から8章までは教理的なことが書かれています。罪からの救いと罪からの解放について書かれています。そして、後半の12章から16章までは、倫理的なことが書かれています。12章のはじめの部分に、「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。つまり、これがないと、「倫理的な生活は無理ですよ」ということです。では、「心の一新によって自分を変えなさい」とはどういう意味でしょうか?「心」はギリシャ語でヌースになっています。これは、英語ではmindと訳されており、思いとか考えという意味です。「変える」とは英語ではtransformで、映画のトランスフォーマー(乗り物が生き物に変形する)と同じ言葉です。また、ギリシャ語ではメタモルフォウ「姿を変える」であり、青虫がチョウに変わるような変化を意味しています。もっと別の角度で話しますと、1章から8章までは霊的な救いについて書かれています。そして、12章からは心理的な救いについて書かれています。心理学者の丸屋真也先生は「キリスト教会は長い間、霊的な生まれ変わりのことは語ってきたけれど、心理的な生まれ変わりには触れてこなかった」と言います。つまり、教会は霊的なことは一生懸命教えてきたけど、心の問題は取り扱って来なかったということです。そのため、神様を信じない心理学者が幅をきかせ、そちらの方に多くの人たちが行ってしまったということです。

 では、そのことが聖書的にはどういうことなのか、エペソ人への手紙4章から見ていきたいと思います。エペソ4:22-23「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ」とあります。ここからわかることは、私たちが救われるために、第一に、心の霊において新しくされる必要があるということです。霊は心の内側にありますが、まず、私たちの霊が新しく生まれ変わる必要があります。第二に、どうすべきなのでしょうか?「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てる」ということです。霊は生まれ変わったけれど、古い人を着ているということです。古い人とは何でしょう?エペソ4:31「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」とあります。そのような古い性質を脱ぐということです。第三に、どうしたら良いのでしょうか?エペソ4:24「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」新しく生まれ変わった霊の上に新しい人を着なさいということです。新しい人とはどんな人なのでしょう?それは神にかたどり造り出された心です。エペソ人への手紙の姉妹である、コロサイ人への手紙にはこのように書いてあります。コロサイ3:12,14「あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。…これらすべての上に、愛を着けなさい。」とあります。新しく生まれ変わった霊の外側に、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの新しい人を着るということです。最初に戻って、心の変革とは何でしょう?あるいは、「心の一新によって自分を変えなさい」とはどういう意味でしょう?簡単に言うと、心の古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るということです。ポイントは、改善するとか治すのではなく、取り換えるということです。ここに、ぼろぼろの雑巾があるとします。その雑巾を洗って、アイロンをかけてすばらしい生地になるでしょうか?ダメです。エレミヤ17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」生まれながらの心には何の希望もありません。私たちが新しい人生を歩むためには3つのことが必要です。第一は私たちの霊が生まれ変わるということです。第二は私たちの古い心を脱ぎ捨てるということです。第三は、造り主に似た新しい人を着るということです。


2.心の核(コア)

 古い心を脱ぎ捨て、新しい人を着るということを、心理学的な手法を借りてやったらどうなるでしょう。ローマ12章の「心」は、マインドであり、思いとか考えという意味です。私たちの思いとか考えは、中立でありそうですが、そうではありません。人それぞれ、もののとらえ方が違います。新聞でも各社によって記事の書き方が違うように、私たちもそれぞれものの見方が違います。その国の文化とか、その人の生まれ育った環境、教えられた価値感が影響を与えています。また、その人が幼い時に受けた傷によってものすごいダメージを受けています。なぜなら、人は6歳になるまで、人格の土台の骨組がほとんど完成するからです。その人のものの見方を心理学者は、認知とか世界観と呼んでいます。認知とか世界観というのは、心のメガネのようなものです。ある人のメガネは明るくて澄んでいます。だから、ものごとを肯定的に見ることができます。人から嫌なことを言われても、「そういうこともあるよね」と受け流すことができます。しかし、ある人のメガネは曇っていて、しかも歪んでいます。人から嫌なことを言われると、「あんたこそ何よ!」と恨みと憎しみが出てきます。周りの人たちがみな敵に見えて、信用できません。どうでしょうか?私はこういうつもりで言ったのに、曲げて解釈されてしまったということはないでしょうか?物事をいつでも、悲観的に、批判的に捉える人が周りにいないでしょうか?原因は、かけている心のメガネが問題なのです。つまりは、認知もしくは世界観がゆがんでいるということです。曇っていたり、ゆがんでいるメガネはどうしたら良いでしょうか?レンズをなおした方が良いでしょうか?それとも、新しい良いレンズと取り換えた方が良いでしょうか?古いレンズを捨てて、新しい良いレンズと取り換えた方が得策ではないでしょうか。

 そのためには、認知もしくは世界観の核となっているものは何かということを知る必要があります。丸屋先生は「コア信念」core beliefと呼んでいます。信念のコア、核と言う意味です。李光雨先生は「コア世界観」と呼んでいます。私たちの心には潜在意識があって小さい頃の記憶が全部詰め込まれています。6歳くらいまでに刻み込まれた信念が、その後の人生に影響を与えてしまいます。四街道の大塚先生は、ミニストリーを受けているとき、自分が幼稚園にいた時のことを思い出しました。その日、灰色の空から雪が降っていました。空をじっと見上げていて、「人生とは空しいものだ」と思ったそうです。幼稚園生です!船堀の若木先生は小さいとき艀(はしけ)に住んでいたそうです。艀(はしけ)は水の上に浮いているのでどうしても不安定です。そういう子どもは、不安定な世界観を持つのではないでしょうか?でも、大人になると子供のときに何を考えたかは全く覚えていません。ほとんどのことが、潜在意識の中に沈んでいます。私たちの心の奥底にある、「コア信念」から、いろんな考えが自動的に生まれてきます。また、心の奥底にある、「コア世界観」が、歪んだ考え方を生み出しているのです。いくら自分の意識で、「このようにしてはならない、こうしよう」と思っていても、できないのです。私たちは心のコア、核の部分が意識に影響を与えているからです。つまり、心の変革とは心のコア、核の部分を新しいものに取り換える作業なんだということです。心のコア、核が古いままでは、いくら新しい考えや聖書のみことばを詰め込んだとしても、はじき返されてしまうでしょう。心の深い部分で「私は標準に達していない」と確信しているならどうでしょう。何か、大きな課題が与えられると「ああ、自分にはできないなー」と否定するでしょう。心の深い部分で「この世界は何が起こるか分からない。恐ろしい世界だ」と思っていたらどうでしょう?何か、思いがけないことが起こると、不安と恐れに支配されるでしょう?では、どうしたら古い心のコアを捨てて、新しいコアに入れ替えることができるのでしょう?


3.自分のコア世界観

 まずそのためには自分の「コア信念」あるいは「コア世界観」を知るべきです。丸屋先生は適合、脅迫、支配と3つの種類があるといいます。李光雨師は傷ついたセルフイメージ、怒り、恐れの3つの種類があるといいます。たしかに、いくつかの代表的なカテゴリーに入れることは重要です。でも、人それぞれ、生まれ育った環境が違いますので、それぞれの「コア世界観」を持っています。もし、「コア世界観」というふうにとらえるならどうするでしょう?それは、「自分の世界観はこうである」と、短い文章でまとめ上げることが重要です。たとえば、私は父親が家庭を正しく治めていませんでした。酒を飲んでは母を殴り、子供たちを殴っていました。母も経済的に大変で、そのため長兄や長女を頼っていました。さらに、兄弟たちは互いに争って、下の私はいじめられ、味噌っかすにされていました。すると幼い私は世界をどのように見るでしょうか?つまり、どのような「コア世界観」を形成するでしょうか?おそらく「この世界はとても危険であって、小さな私にはとても太刀打ちできない」という世界観を持つでしょう。幼いときに、父親が亡くなったり、あるいは家を出て行った場合はどうなるでしょう?おそらく、その子は母親で育てられることになります。おそらく「私がしっかりして母を守るんだ。この世界が壊れないように私が頑張るしかない」と思うでしょう。ある子供はお母さんから無視されたり、不可能なことを強制された場合どうなるでしょう?おそらく「私は自分の心をだれにも委ねない。要塞を築いて自分を守るしかない」と思うでしょう。でも、これらは第三者がその人から生育史を聞いて、想像するものです。でも、本人が「私の世界はこうです」というのは、ものすごく困難です。なぜなら、「コア世界観」は潜在意識に潜り込んで、簡単には姿を現わさないからです。

その人の「コア世界観」を知るためにはどうしたら良いのでしょうか?それは、日常の生活において、過剰反応が起きたときに分かります。過剰反応とは常軌を逸した感情の爆発や行動です。いわゆる、だれか地雷を踏んだ場合です。地雷を踏まれると「どかーん」と爆発します。怒りの場合もあれば、ひどい落ち込み、恐れという過剰反応もあります。さらに体が反応すると、パニックが起きたり、眠れなくなったりします。つまり、過剰反応が起きた時、潜在意識にうずもれていた「コア世界観」が顔を出すということです。同時にその人は何かを叫びます。李光雨師は「心の叫び」と呼んでいます。「心の叫び」を聞くと「コア世界観」が分かります。私たちは極限の状態に置かれたとき、何事かを叫んでいます。たとえば、身勝手な親が責任を果たさなかったために、自分の世界が壊れた場合はどうでしょう?「ちゃんとやれ!」という怒りです。私も牧師として、そういう風に言われることがよくあります。私がちゃんとしていないからということもあるでしょう?でも、本当の原因は、その人の親が責任を果たさなかったので怒っているのです。1か月、自分の心の日記を書いたら良くわかります。そこには、3つのことを書きます。第一はその時の状況です。いつ、だれが、何をしたか?何が起こったのか、客観的に書きます。第二は感情です。怒った、でもどのくらい怒ったのでしょう?80%ぐらい怒った。鬱ぽくなった。でも、どのくらいでしょう?自殺が100%だとしたら、70%くらいかもしれません。他に恐れや無気力も感情に入ります。第三は考え(思考)です。そのとき何を考えたかです。これが一番難しいポイントです。自動的に考えていますので、捉えにくいのです。でも、これはコア世界観と結びついています。たとえば「私は馬鹿にされた、価値のないものだと思われた」とします。その人はセルフイメージに傷があります。あるいは「この人が私を訴えて、罪に定めようとしている」とします。その人は理不尽な扱いを受けたために、何らかの恐れがあります。このように、自分の世界観を知るということはとても重要です。

4.新しいコア世界観

 きょうは「心の古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着る」ということを学んでいます。これにはいろいろな方法がありますので、「これしかない」とは申しません。これからは、「古いコア世界観を新しいコア世界観に取り換える」ということでメッセージを進めさせていただきます。では、どのようにしたら、古いものを捨てて、新しいコア世界観に取り換えることができるのでしょうか?残念ながら、古いものには執着があって簡単には捨てられません。イエス様も「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みません。『古い物は良い』というのです」(ルカ5:39)とおっしゃいました。ある人たちは助けを求めてカウンセラーや牧師のもとを訪れます。ところが、彼らは「私は変わりたくありません。ただ、私のこの部分を助けてください」と言います。「あの人を赦して、怒りを手放しなさい」と言われても、「それだけはできません」と言います。「自己憐憫を捨てて、前に進みましょう」と言われても、「いやです、ここに留まりたい」と言います。彼らは怒りや自己憐憫をエネルギーにして生きているのです。「もし、それを手放したら、自分は生きてゆけない」とまで思っているのです。だから、変わるのを拒否します。ただ、困っている所だけを助けてほしいのです。残念ながら、そういう人にはこのような手法は役に立ちません。でも、本当に変わりたいと願うならば、お助けできます。でも、選択と決断はご本人です。

では、どうしたら良いのでしょうか?それは、幼い時、自分の世界が壊されたところに、イエス様をお迎えするということです。私も父から火箸で突かれましたが、その家に、間違いなくイエス様がおられました。機能不全の家庭でしたが、死ななかったのはイエス様が守ってくれたからです。たとえお母さんがあなたを捨てたとしても、神様はこのように言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ書49:15-16)。あなたがあの状況で死なないで、生き延びることができたのは、神様の助けがあったからです。イエス様はあなたの心の叫びをご存じです。なぜなら、イエス様は人となって、死の苦しみを味わってくれたからです。イエス様は「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」とあなたの代わりに叫ばれました。あなたが拒絶されたとしても、イエス様だけはあなたを捨てません。これまで握っていた訴状を十字架のもとに置きましょう。父もしくは母、あるいはきょうだいを、叔父や叔母を赦しましょう。イエス様があなたの心の叫びを全うしてくださいます。「もう十分ですね」とおっしゃってくださいます。「はい」と自分を苦しめた人を赦すのです。これは感情ではなくて、意志であり決断です。

 今までの古いコア世界観はどのようなものだったでしょうか?「理不尽さによって、潰される弱いコア世界観」だったでしょうか?あるいは「だれも守ってくれない、不安定で弱いコア世界観」だったでしょうか?あるいは「存在価値が乏しくて、恥に満ちた世界観」だったでしょうか?あるいは「すべてが滅びてなくなる、虚無的なコア世界観」だったでしょうか?その古いコア世界観から間違った考え、世界観が浮かんできたのです。ゆがんだ世界観で見るので、まわりの人が信用できず、敵対者に思うのです。ゆがんだ世界観で見るので、守りがなくて、不安になるのです。ですから、古い世界観を捨てて、新しい世界観に取り換えましょう。これは神様がくださる新しいコア世界観です。古いものがAであるなら、新しいものはBです。では、新しいコア世界観Bとはどのようなものなのでしょうか?「たとえ理不尽さによる、圧迫を受けても壊れないコア世界観」です。根雪の下の笹竹のように、一時的に押しつぶされても跳ね返すのです。あるいは、鷲のように逆境を乗り越えるコア世界観です。ときどき、サーファーを見ますが、彼らはあえて大きな波を待っています。波が来たら、それを捕まえて乗るのです。また、「神様が永遠の御腕で守ってくれるので、壊れないコア世界観」を持つのです。それはまるで、スーパーボールという高弾性ゴムボールのようです。また、「神様があなたは高価で尊いと言ってくれるので、エクセレントなコア世界観」を持つのです。excellentとは、「優れた、一流の、優秀な」という意味です。また、「いのちと喜びにあふれた、希望のコア世界観」を持つのです。

 一度、コア世界観Bに取り換えたならば、途中で、コア世界観Aにはなりません。逆に、世界観Aの人が、途中で、コア世界観Bになることもできません。どうでしょう、今までの古いコア世界観を捨てて、神様が下さる新しいコア世界観に取り換えましょう。そのあと、どうしたら良いでしょうか?いろんな考えを聖書のみことばに取り換えるのです。積極的で明るい考え方に取り換えるのです。これまでは、古いコア世界観で生きていたので、間違った考えが出てきました。そして、いろんな悪感情で苦しめられてきました。でも、これから一つひとつ、聖書のみことばに取り換えるのです。聖書の価値観をくっつけていくのです。「あの人は私の存在を否定しているのではない、ただコピーの取り方が悪いと言っているだけなのだ」となります。「あの人は私に食ってかかっているが、それは私に問題があるのではなく、あの人自身が怒りを持っているからだ」となります。「今、私の心は沈んでいるけど、神様の御手の中で休めば、また新しい力がでてくる」となります。いつものような感情を信じないで、正しい考えに置き換えるのです。すると、あとで正しい感情が追い付いてきます。私は生まれも育ちも悪くて、世界観が粉々に壊れていました。しかし、そのことのゆえにこういう心の問題に興味を持ちました。私も天国に行くまでは完全ではありません。でも、たとえ不完全であっても、神様が私を愛して、私に価値を与えてくださいます。この世は生きるに値しないと思っている方もおられるかもしれません。しかし、イエス様が御国の喜びをあなたの人生にも与えてくださいます。昔のテレビは白黒でした。まもなくカラーテレビが出ましたが、色がにじんでいました。しかし、今の液晶テレビはなんときれいでしょうか?あなたの人生もそのような色つきの人生になることを期待します。


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2013年6月 2日 (日)

不安と恐れに打ち勝つ     詩篇91:1-16 

 大川牧師が書かれた『あなたにも夜がある』という本があります。その中に、夜泣きをする赤ん坊のことが書かれています。ピーター・バーガーという学者が「なぜ、赤ん坊が夜泣きをするのか?それは、これから大きくなるにつれて、体験する様々な恐怖を本能的にキャッチして泣いているんだ」と言いました。赤ん坊が夜泣きをすると「お母さんがついているから大丈夫よ」と言ってあやします。しかし、最近は、お父さんの方が、「お父さんがついているから大丈夫だよ」とあやします。しかし、この子は、これからいろんな病気や事故と戦わなければなりません。学校へ入れば、いじめがあるし、受験戦争があります。病気や怪我、交通事故など、さまざまな危険があるでしょう。お母さんがついていても、お父さんがついていても、大丈夫でないことは彼らが一番知っています。きょう取り上げる不安と恐れは、誰にでもやってくる否定的な感情です。


1.不安と恐れの障害

 少し前までは、「不安症」とか「神経症」でひとくくりにしていました。しかし、現代の精神科医は、もっと細かく分類しています。彼らは「そういう病気が起こるのは、脳内の化学物質の分泌に異常があるからだ。これらは、薬品を投与することによって緩和できる」と言います。確かに、ある病気は薬によって軽減されます。ですから、カウンセリングする人は、専門医の助けを借りることはとても重要です。特に、自殺願望のある人はそういうところとタイアップしながら、家族全員で援助する必要があるでしょう。私たちはその人の症状を聞いて、「ああ、あなたは○○病ですね」とか「○○障害ですね」とは言ってはいけません。なぜなら、診断するのはお医者さんだからです。私も少しだけ勉強していますので、つい、そういう誘惑に駆られます。これから、いろんな不安や恐れの障害を申し上げますが、私にとって専門外のことなので、大目に見てください。でも、「ああ、こういう病気や障害があるんだなー」と覚えておきますと、自分や他の人がなったとき、落ち着いて対処できます。ですから、素人であっても、ある程度の枠組みを知るということは、とても重要なことであると思います。

昔は「○○神経症」と言いましたが、今は使われなくなりました。そのかわり、「○○障害」と、病気の一種に分類されるようになりました。不安や恐れが病的になったものを「不安障害」言いますが、これが従来の神経症を包括したものです。「不安障害」の中には、6つくらいの障害が含まれています。統計によりますと、日本人の10人から11人に一人は何らかの「不安障害」を経験しているそうです。また、男性よりも女性の方が、有病率が高いということです。「不安障害」でもっとも良く知られているのが、「パニック障害」です。従来は「不安神経症」の一部として扱われてきましたが、現在は独立した病気として扱われています。李光雨師によると「繰り返されるパニック発作によって、ライフ・スタイルが強く束縛されている状態。過呼吸はパニック障害の典型的な症状の1つである。パニック障害は、今、とっても多い。特に若い女性に多い(高校生の女の子)。ある統計によると男女合わせて、生涯有病率は3%。100人いたら3人パニック障害の人がいる。10代から30代ぐらいまでの女性の中で、20%ぐらいの人はパニック傷害とそれに付随する世界を持っている。パニック発作が起こったところが怖くなって、それを避けるために、生活がどんどん縮められていく」と言っていました。ですから、パニック発作が起こると、できないことが多くなります。電車に乗れない、車を運転できない、横断歩道を渡れない、トンネルに入れない、劇場の真中に座れないということもあります。今から20年くらい前、統一教会に入った若い男性の救出にあたったことがあります。そのため、お父さんは単身赴任先から戻って来ました。お母さんとおじいちゃん、おばあちゃん、おじさん全員で当たりました。私はその人の家に1週間くらい寝泊まりしました。そして、1か月くらいでやっとマインド・コントロールが解けました。しかし、そのお母さんの方にも問題がありました。買い物の途中で歩けなくなり、息苦しくなって座り込むということがありました。お医者さんにも通っていましたが、電車に乗って帰ってくるのが命がけだということでした。外見からは、そんなふうには見えませんでした。しかし、今思えば、パニック障害だったのかもしれません。丸屋師によると「パニック障害の多くは、日常生活にストレスを溜め込みやすい環境で暮らしている人がなりやすい」ということです。お母さんは、ご主人が単身赴任ということもあり、ストレスを貯めていたのかもしれません。

「不安障害」の中に「恐怖症」というのがあります。その中の、単純恐怖症は、1つのものや出来事に対する恐れです。たとえば、犬、蛇、蜘蛛、飛行機が怖い。高いところが怖い、狭いところが怖い、血液、注射が怖いなどです。エリヤハウスのキャッシーは、夜、窓を開けたままにしておくことをとても恐れていました。日が暮れてくると、家中を走り回って窓を閉め、ブラインドを閉めました。ある時、夫のロバートが遊び半分で、暗い部屋からバンと飛び出しました。彼女はものすごく怒って、ロバートは殺されるんじゃないかと思ったそうです。話を聞いたら、彼女が1歳の頃、ご両親とフィリピンに住んでいたことがありました。その家には窓ガラスがなく、雨戸みたいなもので閉めていました。50年も前だったので、フィリピンの人たちはアメリカ人に非常に好奇心を持っていました。彼らは時々、窓の隙間から部屋の中を覗いていました。私たちが留守のとき、部屋から色んなものを持ち去って行きました。その時から、窓が開いたままになっていることを怖がるようになったということが分かりました。また、「広場恐怖症」は、単独での交通機関の利用や車の運転、公共の場所への立ち入りができません。「突然、パニック発作が起こるのではないか」という恐れがあります。他に「社会恐怖症」があります。これは、いわゆる「あがり症」の強度なものです。人前に出て、強い不安を感じるあまり、震えや吐き気などの身体症状が出てきます。仲人さんなのに、結婚式のスピーチができなくなったりします。

 また、「強迫性障害」というものがあります。従来、強迫神経症と呼ばれていたものです。自分の意思に反して、無意味で非現実的な考えが、強迫観念として繰り返し浮かんできます。また、それを打ち消そうとして繰り返し反復するので、やがて強迫行動に囚われてしまいます。不潔恐怖や手洗い強迫、縁起恐怖、不完全恐怖、確認恐怖、収集癖などがあります。あるウェブに不潔恐怖に対するレベルチェックがありました。レベル10は家族共用のリモコンのボタンを押す。レベル20は自販機やエレベーターのボタンを押す。レベル80は床に落ちたボールペンをそのまま使う。レベル90は駅やコンビニのゴミ箱に触れる。レベル100は公衆トイレの便座を使う。ある人が、「手洗い強迫」のため、1時間以上洗っていたそうです。半年後、それがエスカレートして、入浴に数時間かけるようになったということです。「ゼーット」という声優の水木さんは、縁起恐怖があるようです。階段を上るとき、あるはお風呂に入るとき、右足から始めなければなりません。ある時、お風呂に入るとき、うっかり左足から入ってしまいました。お風呂から出て、気持ちを改めた後、右足から入ったということです。ある人たちは、不安と恐れに囚われてしまって、自由がなくなります。そのような束縛されたライフ・スタイルを何とかしなければなりません。


2.不安と恐れの原因

現代の精神医学は、「大脳における神経伝達の分泌などに何らかの障害が生じた結果である」と言います。彼らが用いる薬物療法は、一定の症状を緩和させることができます。もう1つは心理療法があります。薬物療法の助けを借りながらも、その人の間違ったところを正していくという方法です。かなり前に、「森田療法」というのがありました。一口で言うと「ありのままで良い」ということのようです。今は、認知行動療法や精神療法が効果的に用いられています。私は、李光雨師の「存在不安を覆うバリヤー」という捉え方が、最も良いと思っています。人間はだれしも存在不安を抱えて生きています。そして、存在不安をいろんなバリヤーで覆っています。男性だったら、会社かもしれません。女性だったら、結婚でしょうか?お母さんだったら、子どもが通っている学校かもしれません。牧師だったら、礼拝堂の大きさとか礼拝の出席人数ということがあります。多くの人たちは、自分の存在不安を美貌や健康、お金や物、地位や名誉をバリヤーにして生きています。でも、そういうバリヤーというのは決して丈夫で長持ちするものではありません。突然、会社をリストラされることもあるでしょう。突然、良い子が反抗的になるでしょう。1つのスキャンダルで地位も名誉も吹き飛びます。もし、ガンと宣告されたら、どん底に落ちるでしょう。そして、「不安障害」になる人というのは、バリヤーがもともと薄い人であったということです。両親との関係、家庭環境、社会的な環境、経済関係、いろんなところでバリヤーが薄くなっている。そのところに、何か危機な体験をします。そのとき、パニック発作が出てきて、それが恒常化していくというものです。

では、そもそも、人間の存在不安はどこから来たのでしょうか?これは、創世記3章まで遡ります。アダムとエバが食べてはいけない木から、取ったためにどのようなことが起きたでしょうか?創世記3:7-10「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」罪を犯して、神さまから離れたために、恥と不安と恐れがやってきました。ここで言う、存在不安であります。二人は、自分たちの存在不安を隠すためにどうしたでしょうか?いちじくの葉というバリヤーで覆いました。アダムとエバ以来、すべての人は自分の存在不安を覆うために、人工的なバリヤーで覆っています。バリヤーとは、お金、持ち物もの、地位、家庭、子供であります。しかし、いちじくの葉はやがて枯れてしまいます。昨日まで肩で風切っていた部長さんが、リストラされて、ペシャンコになります。期待していた、子どもが不登校になるとお母さんが鬱になります。でも、人間はバリヤーの修復作業に奔走します。新たに別の会社を探す。長男でだめだったら次男に期待する。ある人は、神様をバリヤーにします。「神様、会社クビになりましたので、もっと良い就職口を与えてください」と祈ります。でも、それらの人工的なものは、解決になりません。やがて、違ったところから、存在不安が噴出してきます。

では、不安と恐れの本当の解決はどこにあるのでしょう?創世記3章の後半を見ますと、神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せてあげました。エデンの園で初めて、血が流されました。皮の衣とは、主イエス・キリストの贖いを象徴しています。神様を利用するのではなく、自分の最も困ったところで、イエス様と出会う必要があります。従来のバリヤーが壊れたということは、実は良いことなのです。なぜなら、本当のバリヤーで覆うことができるからです。だから、マタイ5章でイエス様が「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです。」とおっしゃったのです。本当のバリヤーとは何でしょう?それは、私たちの罪を赦し、傷を癒してくださる神様の愛です。絶対的な神様の愛で、私たちが覆われたならば、安心と守りがやってきます。英語でsecureという言葉があります。これは「安全な、危険のない、安定した、心配のない」という意味です。反対の言葉がinsecureです。これは、危険だとか、危ないという意味ではありません。「不安な、不安定な」という意味です。みなさんの心の中は、どうでしょうか? Insecure、何とも言えない不安感を抱えてはいないでしょうか?


3.不安と恐れの癒しと解放

解決は、現在、困っている状況から、根をさぐるということです。生活の中での失敗体験や恐怖体験があります。1回、2回はそれを乗り越えられたかもしれないが、それが症状として、固定します。電車に乗れないとか、人混みが怖い。パニック発作が出る。あるいは、潔癖症が度を越している。いろいろあるでしょう?その破れ口をたどって、過去に遡ります。つまり、幼少の頃、何かのショックでバリヤーが壊れたことはないかということです。あるいは何かの出来事で、ダメージを受けて薄くなったことがあるはずです。ある人は、子供のときお母さんが入院して、おばさんの家に預けられました。そのとき、「お母さんがいなくなった」という強い恐怖感があったそうです。あるいは、子供のとき家族のだれかが死んだために、死の恐れが入ってしまうこともあります。あるいは喘息になって、生きが吸えないという死の恐怖を味わう場合もあります。高いところから落ちたとか、流血の現場を見たとか、大怪我をしたことがあるかもしれません。私の家はトタン屋さんでした。屋根とか煙突などのトタン板が立てかけてありました。夜、トイレに行く時、トタンの角で左足のお皿の下をザクっと切りました。その当時は、赤チンしかなく、あとで傷口が化膿しました。ですから、私は怪我をして血を見るとあせります。化膿しないように、早く手当てをしなければならないと思います。いろいろ、探っていくと恐怖体験をしたということがあるかもしれません。近所の犬にかまれたとか。何か食べ物であたって、それ以来、ある物が食べられないという人もいます。とにかく、子どものときに受けた恐怖感は、大きなダメージを受けます。そこが足場になって、悪魔がその人を束縛します。

その次に、神さまがどんなお方か、聖書からイメージする必要があります。詩篇91:1「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」とあります。私たちの神様は全能者です。詩篇91:4「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。」アーメン。主が大きな羽で私たちを覆ってくださいます。私たちは翼の下に隠れることができます。新約聖書のイエス様はどんなお方でしょう?イエス様は愛に満ちていただけではなく、悪霊を追い出すことができました。私たちはそういう神様を自分の過去にお迎えするのです。そして、バリヤーが壊れてしまったただ中に、来てもらいます。ある人は子どものとき、大きな木が倒れ、下敷きになったことがあるそうです。幻の中で、倒れた木を下から支えている神さまの御手が見えました。それで自分が死ななかったことが分かったそうです。イエス様は、子どもの私たちが分かるような方法で、secure「安全で心配がない」ことを教えてくれます。その後、自分で作ったいちじくの葉っぱではなく、神さまご自身をバリヤーにしていただくのです。詩篇91:2にあるように「主は、わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」です。神さまご自身が私を守ってくれるのですから、怖いものなどないのです。

私たちは、「○○障害」にならないように、聖書的なライフ・スタイルを身につける必要があります。そのためには、「日々、恐れと不安を捨てて、主を信頼することを選び取っていく」ということです。聖書には「恐れるな」と、365回書いてあります。神さまは、毎日、私たちに「恐れるな」とおっしゃっておられます。恐れと信仰は一緒に歩くことができません。恐れと信仰は、相反するものですが、共通点があります。両者は、まだ見えていないものを、信じるように要求するからです。恐れは「脇腹に痛みがありますか?それは癌かもしれない。お母さんも癌だったから」と言います。信仰は「その痛みは一時的なもので、すぐ直ります」と言います。恐れは「不景気だから、仕事がなくなる」と言います。信仰は「神様が良い仕事を与えてくださる」と言います。恐れは「たくさん努力してきたけど、幸せにはなれない」と言います。信仰は「最も良い日が、これから先に用意されている」と言います。あなたはどちらの考えを選択し、どちらの考えを心の中に入れるでしょうか?もし、あなたが恐れからくる否定的な考えを、心の中に、繰り返し、繰り返し入れたならどうなるでしょう?それらがあなたの現実となるでしょう?ヨブという人の上に悪いことが立て続けに起こりました。全財産と10人の子供をいっぺんになくしました。その後、ヨブは「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。(ヨブ3:25)」と言いました。もし、恐れによって、否定的な思いを抱くならばどうなるでしょう?恐れたものが現実となって、やってくるでしょう。イエス様はマタイ9:19「あなたがたの信仰のとおりになれ」とおっしゃいました。あなたは、どのような信仰を持っておられるでしょうか?

あるところに、一組の夫婦がいました。奥さんはある時から、「いつか、銃を持った人が自分の家に押し入ってくる」という、恐れに取り付かれました。ベッドに着いた後、週に一回以上は、「あなた、どろぼうが来たかもしれないから、下に行って調べてよ」とお願いしました。優しいご主人はそれを何年も、何年も続けました。ある夜、「あなた起きてよ。下で何か物音がしたわ。行って調べて来てよ」と言いました。優しいご主人は「はい、はい」と降りていきました。階段の下に、本当のどろぼうがいて、銃を顔に付きつけ「声を出すな。金目のものを出せ!」と言いました。ご主人は、言われとおりに、宝石と現金を彼に渡しました。どろぼうが立ち去ろうとした時、ご主人がこう言いました。「ちょっと待って下さい。あなたは二階に上がって私の妻と会うべきです。彼女はあなたが来ることを30年間も期待して待っていました」。私たちは恐れに目をとめるのではなく、信仰に目をとめる必要があります。なぜなら、どちらも目に見える形でいつかやってくるからです。決して口で、「この仕事はだめになる」「私たちの結婚はだめになる」「私はいつか病気になる」と言ってはなりません。そうすると、あなたが恐れたとおりになります。その代わりに「神様が経済を祝福してくださる」「神様が二人に愛を注いでくださる」「私は健康で長生きできる」と告白すべきです。そうすると、神様があなたに恵みを運んでくださいます。不思議なことに恐れは周りの人たちに伝染します。12人の偵察隊がカナンの地を探りに行って帰ってきました。その中の10人は「確かにあそこは乳と蜜の流れるところだ。しかし、巨人がいて自分ちはいなごに見えたし、彼らもそう見えたことだろう」と言いました。他の2人は「その地の人々を恐れてはならない」と言いました。しかし、恐れの方が勝って、全会衆は大声をあげて泣き叫びました。その結果、イスラエルの民は不信仰のゆえに約束の地に入ることができませんでした。私たちは恐れを選んではいけません。信仰を選び取るのです。人々の非難、テレビの悪いニュースを思いの中に入れないでください。私たちは神のことば、グッド・ニュースを思いの中に入れるのです。詩篇91:16「わたしは、彼(あなた)を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼(あなた)に見せよう。」


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