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2013年5月26日 (日)

セルフ・イメージの回復     イザヤ43:1-4 

 セフル・イメージとは何でしょう。直訳すると、自分に対するイメージ、自己像です。言い換えると、「自分で自分をどう評価しているか。価値ある存在と思っているか」ということです。箴言23:7「彼は、心のうちでは勘定ずくだから」という聖句があります。キング・ジェームス訳ですと“For as he thinks in his heart”「彼は心の中で考えているような人である」となります。つまり、自分自身について考えていることがらを合計したものが、自分そのものであるということです。その証拠に、人というものは自分自身の評価にふさわしく行動します。もし、自分を「価値がない存在だ」と思っていると、大きなことにチャレンジせず、目立たないようにして生きるでしょう。逆に「自分には価値があるんだ」と思っているなら、自分の能力を最大限に発揮できるようにチャレンジしていくでしょう。


1.傷ついたセルフ・イメージ

 セルフ・イメージが傷ついている人のライフ・スタイルは、以下のような特徴があります。これは李光雨師のセミナーから学んだものです。第一は自分存在の否定感を持っています。口に出すかは別として、「私はだめだ」という責める思いが常にあります。新しい人間関係とか、新しい仕事とか、そういうことを始めるときに、ものすごくエネルギーがいります。なぜなら、「私はだめだ」というマイナス3か4からスタートするからです。何かをし始めるのがしんどいので、原稿や宿題の提出を引き延ばしてしまいます。その人が「肯定的(積極的)な思考を持つと人生が変わるよ」というセミナーに出ても、付け焼刃であまり長持ちしません。そのときだけです。第二は他人の評価にとても固執します。セルフ・イメージの低い人ほど、他人の評価で生きていこうとします。人の評判を過度に気にして、常に良い評判を得ようと努力します。これが高じてくると「視線恐怖」「対人恐怖」「ひきこもり」へと発展していきます。

第三、他者の評価を気にする人は、間違いなく、攻撃的、批判的になります。何故かと言うと、他者の評価というのは、基本的には否定的なものだからです。「攻撃は最大の防御である」と言いますが、セルフ・イメージに傷があれば、拒絶的、批判的、攻撃的になります。相手が自分を評価してくれているなら関係がとてもスムーズにいきます。でも、一度、相手が批判的なことを言うと、関係をバシッと切ってしまいます。この時は、愛による注意とか忠告はうまくいきません。第四、他者からの評価に固執するライフ・スタイルの行き先は理想の自分像という偶像を作ります。理想の自分像を作って、人から受け入れられるようにします。「向上心がある。もっと上を目指している。栄光から栄光へと御姿を求めている」と言うかもしれません。それで、人々からも称賛されるでしょう。でも、理想の自分像が神さま以上になっているという意味で偶像です。第五は、理想の自分像を作ってかんばっているので、「到達できない」という未達成感、挫折感が常にあります。これは天国への終わりのない階段を上り続けている状態です。やがて、頑張ることに疲れ、抑うつ状態になり、何もできなくなります。「赤い靴」というアンデルセンの物語があります。少女は、赤い靴を履きながらずーっと踊りつづけます。最終的には、靴を脱ぐために足を切らなければなりません。それは、自己崩壊です。第六は、パーソナリティ(人格)障害に陥ります。これは、傷ついたセルフ・イメージを回復しようとして形成された「束縛されたライフ・スタイル」と考えることができます。この人には、自分の情動をコントロールできないという、不安定さが常にあります。六つだけ取り上げましたが、あてはまるものがあったでしょうか?

 では、どういう理由でセルフ・イメージが傷つくのでしょうか?最大の原因は、生育史の中で、自分が受容されたという経験がほとんどないということです。心理学者は「6歳までに、その人の性格の骨格が決まる」言います。コンクリートでいえば、まだ軟らかい時に傷つき、それが固まったならばどうなるでしょう。なかなかその形は変えられないでしょう。同じように、土台ができる6歳の時まで、自己に大きなダメージが与えられると、修復するのが困難になります。そうすると、心の病になる確率も高くなってしまいます。しかも、このセルフ・イメージの形成で最も重要な時というのは、0歳から2歳までです。この時、幼子が得なければならない課題は「絶対的(基本的)信頼感」です。心理学者のエリック・エリクソンは、「子供は生後2年間の環境次第で、この世を信頼できるものと考えるか、できないものと考えるか決定される」と言いました。なぜなら、赤子は自分では自分のことを何一つできず、結局自分の置かれた環境にすべてをゆだねるしかないからです。ですから、置かれた環境から自分の必要を満たされれば、「自分の世界は信頼できるところだ」と学ぶし、満たされなければ、「信頼的でないところだ」と学ぶのです。置かれた環境の主なものは、父親であり母親です。もし、子どもの側から見て、親から拒絶されたように感じるならどうなるでしょう?セルフ・イメージが傷つき、大人になってからも、精神的に非常に不安定になります。その人には、劣等感、自信喪失、不確かさ、不安定感がいつもつきまといます。現代は「20人に1人、30人に1人は、境界性パーソナリティ障害である」と聞きます。どういう人かと言うと、情動が不安定で、怒りや悲しみをコントロールできないということです。拒食症、リストカット、自殺願望に悩まされ、救急車で運ばれる人たちです。親自身が鬱で、子育てができない場合があります。また、共稼ぎのために保育園に預けっぱなし。幼児はかまってもらえないので泣くと、親から無視されるか虐待されます。そうすると、赤ちゃんは、怒りと悲しみで、泣きやまなくなります。親の方は、怒りが増し、「可愛くないねー、憎たらしいねー」となって悪循環になります。幼児はさらに、泣きわめき、情動のコントロールがきかない子供となります。

 私たちは、親や学校の友達、先生から否定的なことばをたくさん浴びせられて育ちました。他の兄弟と比べられて、ちっともほめてもらえない場合があります。私は8人兄弟の7番目で育ちました。小学校のときは、通知表に5が2つぐらいありました。図工と理科が常に5でした。これを両親に見せると、ぜんぜん喜んでくれません。神棚の下の引出しから、長女と長男の黄ばんだ通知表を出してきて、「これを見ろ」と言われます。秀とか優がいっぱい並んでいました。「姉や兄はクラスの1番だった」とか言って、ちっとも褒めてくれませんでした。親は姉や兄のことばかり自慢して、下の4人は「できそこない」みたいに思われていました。また、学校では、できたところよりも、できないところを強調します。「○○、バツ!○○バツ!」とバツを大きく言います。私たちは否定的な評価によってダメージを受けます。たとえば、周りの人たちが「かわいいね」を子供に10回言ったとします。そして、「馬鹿だね」と一回、子供に言ったとします。10-1=9、「かわいいね」と言ったことになるかと言うと、そうはならないのです。否定的なことばの方が強く子供の心の中に入っていきます。「馬鹿だね」という一回が、10回言った「かわいいね」を帳消しにしてしまうのです。たとえば、10人のうち9人から「あなたの洋服、とても似合っているわ」と言われたとします。しかし、最後の1人が「あなたの洋服、ぜんぜん似合っていないわ」と言ったら、どうなるでしょう?洋服をすぐ脱いで、タンスの奥底にしまって、二度と着ないんじゃないでしょうか?なぜなら、「9人のは御世辞で、1人は本音だ」と思ってしまうのです。それほど、否定的なことばには力があります。また、私たちにはアダム以来の罪があるので、何でも否定的に捉えやすいのです。

 多くの場合、私のように親からの拒絶や放任や低い評価によって、セフル・イメージが傷つきます。でも、意外と知られていないのが、「優等生の子供も危ない」ということです。親からレールを敷かれて、有名な大学を出ても、劣等感を持っている人がたくさんいます。ある本によると、極めて折り目正しく、学歴や教養も高く、善良な親によって不認証環境を生んでしまうということです。不認証環境とは、非共感的で、独断的で、本人の自信や尊厳を奪ってしまう環境です。親が子供を支配して、子供の気持ちを全くくみ取ってあげない場合があります。いわゆる、過干渉で、親が子供の代わりに何でも決めたりします。その子は、親の言いつけを聞く、「良い子」でなければなりません。もし、親の価値観から外れたら、全く評価されず、「失敗者」の烙印を押されてしまいます。そういう良い子で育てられた人は、入試の失敗、失業など、人生の壁にぶつかったときは大打撃をこうむることになります。つまり、ありのままの自分の存在そのものではなく、親の価値観で固められて人生だったからです。一般的に、「愛の反対は憎しみである」と言われます。しかし、エリヤハウスでは「愛の反対はコントロールである」と習いました。結論になりますが、セルフ・イメージが壊れている人はどんなメッセージが心の中にあるでしょう。「自分はありのままでは愛されない存在なんだ。だから愛されるために一生懸命に頑張るしかない。」「自分は人よりも劣っているので、人よりも頑張らなければならない。やがては、人よりも優れた人になるんだ」というものです。日本の精神風土には、こういう価値感があるのではないでしょうか?常に人の目を気にして、人の評価を得ようと努力しています。しかし、人というのは元来、いい加減なもので、自分のことしか考えていません。そういういい加減な評価をしている人に合わせると、こっちはいつも不安定になります。そうではなく、私たちは私たちの存在そのものを愛してくれて、存在そのものに価値があると言われる、絶対的な神と出会う必要があります。


2.セルフ・イメージの回復

 健全なセルフ・イメージを持っている人の自己表現というものはどのようなものでしょうか?第一に自信があるということです。これはいわゆる「自信家になる」ということではありません。本当の自信があるときには、人はありのままの自分を素直に表現できます。また、物事を積極的に考え、実行に移し、能力や技術を効果的に用いることができます。さらに、人生の中には必ずある困難な状況に陥ったときにも、不安や否定的な思いを取り除き、ついにはその状況を乗り越えることができます。第二は幸福であるということです。これは気分や感情のことではありません。ここで言う幸福とは、自分で決断する幸福のことです。聖書に「いつも喜んでいなさい」と書いてあります。これは命令です。ですから、こちらは「私は喜びます」と決断しなければなりません。こちらが、決断して喜ぶという態度をとると、幸福が身についてきます。第三は自己を生かすことができるということです。聖書には「あなたは神に愛されている。あなたは義であり神の子である」と書かれています。このように、健全な目で自分を見ることができるようになると、次にどうなるでしょうか?「私はみんなと同じでなくてならない」という考えから解放されます。「私はユニークな存在なので、自分らしく生きたい」と願うようになります。第四は他者を生かすことができるということです。健全なセルフ・イメージを持っている人は、劣等感からも優越感からも解放されていますので、他の人のことを省みることができます。セルフ・イメージの低い人というのは、自分よりも弱い人しか付き合うことができません。「彼らを支配して、自分に価値があるんだ」と認めているのです。それは他の人のことを省みているのではなく、自己中心や虚栄心でやっているのです。セルフ・イメージが健全だと、自分と同じように、他の人も大切にし、キリストを通して他の人を見るということを学ぶようになります。

 それでは、セルフ・イメージはどのように回復されるのでしょうか?その前に、私たちがどうしても知らなければならないこと、前提条件のようなものがあります。イザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」このみことばは、セルフ・イメージについて語るときに必ずと言って良いほど引用される有名なみことばです。私たちは神の愛を説明するときに、神の愛とは「高価で尊いと認めて、そのように扱うことである」と言います。まさしく、神さまが人間を愛するというのは、「高価で尊いと認め、そのように取り扱ってくれる」ことです。でも、ここで質問があります。私たちクリスチャンが神様から「あなたは高価で尊い」と言われたのは、イエス様を信じたからでしょうか?私たちは元来、価値のない存在であって、十字架によって救われたことによって価値が出来たのでしょうか?言い換えると、私たちが罪の中で死んでいた時は、まったく価値のない存在だったのでしょうか?使徒パウロは自分のことを「私は罪びとのかしらである」と言いました。パウロがかしらだったら、私たちは「罪びとの帝王」かもしれません。私たちはキリストと出会う前、罪びとであり、無きに等しい存在でした。確かに私たちはそのことを認めます。しかし、私たちは元来、神のかたちに似せて作られた尊い存在でした。そして、罪を犯して、罪の中に死んでいた存在です。では、私たちは救いようのない無価値な存在であったかというとそうではありません。ローマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」私たちは正しい人でも、情け深い人でもありませんでした。罪人でした。でも、そんな私たちのためにイエス様が十字架で死なれたのは、私たちが救われるだけの価値があったからです。イエス様はご自分の命を払って、私たちを罪の中から買い戻してくださいました。イエス様は私たちのために、代価を払ったということです。普通、デパートの最上階には宝石売り場があります。ダイヤモンドなど貴金属が並べられています。近くに寄って、一十百千万、十万、百万…と、桁を数えてみます。とても手が出せませんが、中には札束を出して、買う人がいます。なぜでしょう?その宝石は、大枚を払うだけの価値があるからです。ということは、イエス様がご自身の命を投げ出したのは、私たちがイエス様の命と同じくらい価値があるからでしょう。つまり、私たちは救われる前から価値があったのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」というみことばは、神様から離れ、罪を犯し続けていたイスラエルの民へのみことばです。これを新約的に解釈するなら、まさしく、罪の中に失われていた私たちへのことばではないでしょうか?だから、私たちは人の目からではなく、神さまの御目で、自分を見る必要があるのです。

それでは、傷ついたセルフ・イメージはどのようにして癒されるのでしょうか?それは、神さまの絶対的な愛、無条件の愛を得るということです。残念ながら、親であっても、子供に絶対的な信頼感を与えることはできません。ある人は、「私は親から大変、愛されて育ったので、絶対的信頼感を得ています」とおっしゃるかもしれません。確かに、そういう幸福な家庭環境だった人がいるでしょう。それはとても良いことです。しかし、それは錯覚であり、人間には絶対的信頼感を与えることはできません。いくら親の愛を受けても、最後には、神様の愛を得なければ、私たちの存在不安はなくなりません。いきなり、存在不安ということばを出しました。これは、李光雨師がよく使う表現です。アダム以来、神様から離れた人類は、だれであっても、存在不安を抱えながら生きています。アダムとエバがいちじくの葉っぱで、それを覆い隠そうとしました。いちじくの葉っぱにあたるものが、親の愛であり、経済的な豊かさであり、高学歴や立派な職業でしょう。結婚であったり、子供であったり、美貌や持ち物であったりします。でも、それは偽りのバリヤーであって、いずれは役に立たなくなります。突然、何かの出来事で、覆いがなくなって、中から存在不安がばっと出てくるときがきます。人々が急に、鬱になったり、パニック発作、あるいは境界性パーソナリティ障害になるのではありません。幼い時に、既にバリヤーの喪失体験をしていたのです。親から見捨てられたと感じた時、拒絶されたときが絶対あったはずです。そのときは、良い子になって、必至にしがみついたかもしれません。「あなたは生まれてこなければ良かった」とあからさまに言われた人もいるようです。しかし、口ではそう言われなくても、「子育ては、めんどうだった」と大多数の親は思っています。楽なわけがありません。少しでも、親にそういう気持ちがあれば、子供は敏感に悟ります。「ああ、私には生きる価値がないんだなー」と心の奥底で思ったはずです。結論を言いますと、多かれ少なかれ、私たちのセルフ・イメージが傷ついて育ったのです。でも、それをごまかして、「一生懸命、勉強すれば良い」とか、「役に立つ人になれば良い」と頑張ってきたのです。心の奥底では「ありのままでは愛されない。まだ標準に達していない」というマイナスのイメージがあったはずです。ある人はそれをバネにして「なにくそ!」と頑張りますが、それは一種の怨念晴らしです。動機が汚れているので、決して良い実を結ぶことはできません。箴言21:2「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」とあります。

あなたはどういう場所で、神様とお付き合いをしているでしょうか。思った通り、事が順調に運んでいるときでしょうか?それとも、何もかもうまくいかず、八方塞がりで、うなだれている時でしょうか?つまり、どん底で、神様と出会っているかということです。ルカ15章の放蕩息子の話はだれも知っています。1つ質問があります。親のもとを離れ、放蕩ざんまいして、落ちぶれていた弟息子は、その父の息子だったでしょうか?罪の中で、失われてはいましたが、息子でした。では、そのお父さんは息子が働いて身分を回復してから、家に迎えたでしょうか?そうではありません。息子が帰って来ただけで良かったのです。お父さんは汚いままの息子を抱き締め口付けし、一番良い着物を着せてあげました。ここに示されているのは、神様の無条件の愛、絶対的な愛です。私たちもこの愛と出会う必要があります。実際、産みの親から捨てられた人もいるでしょう?むちゃくちゃ虐待された人もいるでしょう?でも、聖書の神様はどんなお方でしょう?イザヤ49:15-16「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」アーメン。イエス様は「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われました。それは、「あなたに、決してさよならを言わない」ということです。こういう神様、こういうイエス様と出会う必要があります。それも、幼いときの自分です。拒絶されて泣いていた幼子です。一人ぼっちで淋しくて震えていた幼子です。親から捨てられて、どうしようもない孤独を感じていた幼子です。自分の価値を認められず、悔しい思いをした幼子です。父なる神様、イエス様は絶対的な愛で、あなたを受け入れ、こうおっしゃってくださいます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。世界のだれにもまさって、あなたを一番愛している」と。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とお命じになられました。と言うことは、私たちは隣人を愛する前に、自分を正しく愛する必要があるということです。神様の無条件の愛を豊かにいただきましょう。


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2013年5月19日 (日)

ペンテコステの炎        使徒2:1-8 

 古来、イスラエルには3つの大きな祭りがありました。第一は過ぎ超しの祭りです。小羊の血によって、エジプトから脱出できたことを記念する祭りです。第二は仮庵の祭りです。かつて、イスラエルの民は荒野で40年間過ごしました。藁や草で作った庵に1週間、住んで、先祖たちの苦労を思い起こす祭りです。第三は五旬節の祭りです。大麦の収穫が終わり、いよいよ小麦の収穫が始まります。その祭りは最初の収穫を祝うものでした。五旬節の祭りは、過ぎ超しの祭りから、50日目にあたるので、ここからペンテコステという名称が生まれました。過ぎ超しの祭りの日、イエス・キリストが十字架にかかりました。3日目にキリストは復活しました。その日から、50日目に弟子たちがいたエルサレムに聖霊が下りました。最初の収穫として、3000人が救われました。きょうは、ギリシャ語の前置詞、エピ、エン、パラの3つのポイントでメッセージします。


1.エピ(上から)

 ペンテコステの日、聖霊が「上から」弟子たちに臨まれました。使徒1:8でイエス様がこのように預言しておられました。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と書いてあります。「上に」というのはギリシャ語でエピ、英語ではuponであります。これは、天(神のみもと)から、聖霊が弟子たちの上に下ったということです。使徒2:3「また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった」と書いてあります。弟子たちひとり一人の頭の上に、聖霊の炎がとどまっているのが、肉眼で見えたということです。上から受けた聖霊は何を意味するのでしょうか?それは、聖霊が溢れ出るということを意味します。このことを、ヨハネがこのように書いています。ヨハネ7:38-39「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」まさしく、ペンテコステの日に、弟子たちは聖霊を受け、聖霊に満たされたのであります。弟子たちはこの機を境に、キリストを大胆に証する者に変えられました。かつては、イエス様が捕らえられたとき、弟子たちは恐れて部屋の中に隠れていました。しかし、ペンテコステの日、上から聖霊を受けると、迫害を恐れずに、世界中に宣教に出かけました。今日も、聖霊はイエス様を証する力と勇気を与えてくれます。

 みなさんは、このような聖霊が自分の中から溢れ出るという体験をなさったことがおありでしょうか?ある人たちは、そのためには隠している罪をすべて悔い改めなければならないと言います。また、ある人たちは弟子たちが、二階座敷で祈ったように、聖霊を待ち望まなければならないと言います。また、ある人たちは油注がれた神の器によって、按手を受けなければならないと言います。どれも、間違ってはいません。ただ、言えることは私たちが思っている以上に、神様は私たちを聖霊で満たし、聖霊で溢れさせたいと願っているということです。ルカ11:13「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」マタイによる福音書は「良いもの」としか書かれていません。しかし、ルカによる福音書は「良いものとは、聖霊である。天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と言っています。重要なのは、信仰であり、求めるなら必ず与えられるのです。たとえば、聖霊が上から臨んでから、ペテロはどのように変化したのでしょうか?ペテロは使徒2章でキリストの十字架と復活の意味を人々の前で大胆に語りました。ペテロは明らかに、預言の賜物を用いています。また、使徒3章ではペテロは生まれつき足萎えの男性を立たせました。これは、奇跡あるいは信仰の賜物です。使徒5章では、ペテロは知識の賜物でアナニヤとサッピラの罪をあばきました。それから病人を癒し、汚れた霊を追い出しました。使徒9章では、ドルカスという死んだ婦人を生き返らせました。これらは、すべて聖霊が与えてくださる力であり、賜物です。イエス様はヨハネ14章で弟子たちにこのように言われました。ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」アーメン。これはどういう意味でしょう?かつてのイエス様はご自身の神としての力ではなく、聖霊によっていろいろな奇跡を行いました。イエス様は復活後、父のみもとに戻られました。そのあと、弟子たちにイエス様のうちにおられた聖霊を送られたのです。だから、イエス様は「私のわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行う」と約束されたのです。

 現代の教会は西洋の合理主義の影響を受けて、聖霊の賜物を軽んじる傾向があります。だから、教会が聖霊の力を発揮することができないのです。私たちも初代教会のように、ペンテコステの聖霊の炎を上からいただく必要があります。そうしたら、キリストを証する力、そして神様の働きを行う力が与えられるのです。私はセルチャーチ・ネットワークに属していますが、今年で7期、つまり7年目になります。先月の4月、清瀬教会でコーチングセミナーが開かれました。その時、私は「聖霊の油注ぎ」について語りました。なぜ、そういう主題で語ったかというと訳があります。セルのネットワークでは、この6年間、「教会の本質」について学んできました。ベン・ウォン師が「みなさんが教会の本質をつかむなら、教会は前に進む」と断言しました。しかし、6年間やったけれど、ぱっとしません。「それはなぜだろう?」と今年の1月、みんなで考えました。香港、台湾、インドネシア、シンガポール、ブラジルではセルチャーチがどんどん成長し、増え広がっています。「どこが、日本と違うのだろう?そうだ。あちらは、聖霊の力があるのがあたりまえで、わざわざ本質に加える必要がないんだ。しかし、日本はいくら本質を学んでも、それらを動かす聖霊の力がない」ということに気がつきました。いくら新しいプログラムを導入しても、まもなく、消えてしまいます。セルチャーチもその1つになる可能性があります。そうではない、初代教会がなぜ共同体がすばらしかったか?それはペンテコステの火を受けたからであるということが分かりました。私たちも、ペンテコステの火、聖霊の油注ぎを上から受けたなら変わるはずです。力を受けて、身近なところから、世の果てまで、キリストの証人になることができるのです。今日、教会に最も必要なのは、ペンテコステの火、聖霊の油注ぎであると信じます。


2. エン(内に)

 エンとは内にという意味であり、英語ではinになっています。弟子たちは上から聖霊を受けました。その後、聖霊は彼らの内に留まり続けました。何が変わったのでしょうか?弟子たちの性質が変わりました。聖霊の火によって、内側の肉的なものが焼き尽くされたのです。聖霊の火が、きよめの火と言われるのはこのためです。ペテロは大胆な人でしたが、信仰が安定していませんでした。人の顔を恐れ、イエス様を三度も知らないとまで言ってしまいました。ヨハネとヤコブは内側に怒りの問題を抱えていました。トマスはとても疑い深い人で、イエス様の復活を信じられませんでした。ピリポは信仰よりも、理性で生きているような人でした。弟子たち全員が、イエス様が捕らえられる直前まで、「自分たちの中でだれが一番偉いか」競い合っていました。どの弟子たちの中にも党派心と嫉妬心が宿っていました。よりにもよって、イエス様が、どうしてこのような人たちを選んだのか不思議でたまりません。でも、イエス様は彼らが聖霊を受けたならば、変わることを知っていたのです。初代教会の姿が、使徒の働き2章後半に記されています。使徒2:41-47「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」使徒たちは、イエス様から教えられたことを教えました。しかし、単なる知的な聖書の教えではありません。「互いに愛するとはこういうことなんですよ」と模範を示したのです。かつての弟子たちは、3年半もイエス様から直に薫陶を受けましたが、内側が変わっていませんでした。しかし、聖霊を受けてから愛の人に変えられたのです。それが、3000人の人たちに影響を与えたのです。

 私たちも聖霊を内にいただくと、人格的な変化が訪れます。まず、死んでいた私たちの霊が生まれ変わります。それまでは、霊的に無感覚で、神様のことも知らないで、自己中心で生きてきました。ところが、イエス様を信じると、霊が内側から活動し始めます。神様に祈り、聖書を読み、兄弟姉妹と交わるということが可能になります。聖霊に留まると、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実がみのってきます。なぜ、このような変化が起こるのでしょう?Ⅰコリント6:19 「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」これは、神さまが聖霊によって私たちのうちに住まわれるという約束です。これは、旧約聖書の時代になかったことです。神様は最初、エデンの園におられました。しかし、アダムが罪を犯してからエデンの園はもうありません。その次はモーセが作った天幕におられました。至聖所と言われるところに、臨在されました。その後、ソロモンが神殿を作りました。神様は神殿の至聖所に臨在されました。しかし、バビロンによって神殿が壊されました。その後、どうなったのでしょうか?そうです。神の御子であられる、イエス様の内に留まっておられました。しかし、イエス様は十字架で死なれ、三日後によみがえり、天にお帰りになられました。でも、イエス様は「もう一人の助け主を送るよ」と約束されました。もう一人の助け主とは聖霊様です。ペンテコステの日から、神の霊である聖霊が、私たちの中に住んでくださるのです。私たちのからだは自分のものであって、自分のものではありません。自分のからだを汚すということは、内におられる聖霊を汚すことになるからです。私たちのからだが、聖霊の宮なのですから、私たちの体を聖く、保つのが普通ではないでしょうか?

 聖霊は個人の内に住むだけではなく、私たちの中にも住んでくださいます。西洋は個人主義で、「自分の中に聖霊がいればそれで良い」とやってきました。しかし、聖霊は「私たちの中」、共同体の中に住まわれるということです。パウロは私たちの内に聖霊がおられることは奥義であると言いました。コロサイ1:27「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」「あなたがたの中におられるキリスト」とは、聖霊のことであります。しかし、ここで言われているのは、個人の中に聖霊がいらっしゃるということではありません。「あなたがたの中」とは、「AさんとBさんの間に」という意味です。聖霊様は個人の中におられることもさることながら、共同体の中にもおられるということです。イエス様がルカ福音書で「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と言われたとおりです。ここから、わかることは、信仰生活は一人ではできないということです。聖霊が私という個人の中にいらっしゃることはすばらしいことです。同時に、また聖霊が私たちという共同体の中にいらっしゃるということはさらにすばらしいことです。しかし、一人でいるときがゆっくりできるという人もいます。人々の中に入ると、気の合わない人がいるので軋轢が生じるでしょう。でも、一人で孤立してしまうと淋しいです。神様は一人で生きるように人間を造りませんでした。でも、また人々の中に入ると、楽しい時もあるけれど、傷つくこともあります。どうしたら良いのでしょうか?解決は聖霊です。聖霊なる神が罪と肉の欲求に打ち勝つ力を与えてくれます。私たちはありのままでは、互いに愛し合うことは不可能です。まず自分が聖霊なる神を内側にいただきます。次に、聖霊なる神を、互いの間に歓迎する必要があります。聖霊は、共同体の軋轢を通して、私たちに愛のないことを教え、また愛を求めることを教えてくださいます。つまりは、共同体なくして、人格的な成長もありえないということです。

3.パラ(共に)

 パラとは「共に」とか「側に」という意味です。英語ではwithです。イエス様は、復活後、天に帰られてもう地上ではおられないはずです。しかし、弟子たちに何とおっしゃったでしょうか?マタイによる福音書28章では、「私は世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます」と言われました。イエス様が弟子たちとどのように共にいることができるのでしょうか?ヨハネ14:16「 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」このところに、パラ「ともに」という言葉があります。イエス様が弟子たちとともにいる方法は、「助け主」である聖霊によってであります。「もう一人の助け主」はギリシャ語で、アロス・パラクレートスです。アロスは、姿かたちは全く同じで、別のという意味です。パラクレートスはパラカレオー、「側に呼びよせる」という動詞からきています。イエス様は助け主でした。しかし、イエス様と同等の助け主である、聖霊を側に送るということなのです。聖霊が「キリストの御霊」と呼ばれているのはそのためです。地上に遣わされた聖霊は、イエス様とほとんど変わらないお方であったということです。これが三位一体の秘儀であります。かつて、肉体をもっておられたイエス様はガリラヤにいるときには、エルサレムにいることはできませんでした。しかし、御霊によって来られたイエス様は、ガリラヤにもエルサレムにも同時にいることができるということです。なぜなら、御霊なる神は偏在することが可能だからです。ですから、Aさんと共にいることができるし、Bさんとも共にいることができるのです。

 では、聖霊が共におられることは私たちにとってどのような恵みがあるのでしょうか?かつての弟子たちはイエス様と共に歩んでいました。何か問題があると、イエス様に助けを求めました。また、何か分からないことがあると、イエス様にお聞きしました。彼らは常に、イエス様が行くところへどこにでも従って行きました。今は、目には見えませんが、イエス様は聖霊によってこちらにおいでになられて、私たちに教え、私たちを守り、私たちを導いてくださいます。初代教会もこういうことがありました。使徒13章には、アンテオケ教会から二人の使徒が宣教に遣わされた記事が記されています。だれが、二人の使徒を派遣したのでしょうか?教会でしょうか?それとも教団でしょうか?使徒13:2「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。」なんと、聖霊ご自身が教会に「二人の使徒が宣教に行くように」命じました。まさしく、二人は聖霊によって遣わされたのであります。今日の教団や教会が、聖霊のお声に耳を傾けているでしょうか?少しは祈りますが、会議によって「ここしよう、ああしよう」と決めるところがあるかもしれません。聖霊様は今も生きておられ、私たちがへりくだって耳を傾けるなら、はっきりと語ってくださいます。厳密に言うならば、肉声ではなく、心の内側に語ってくださいます。最初はよく、わかりませんが、次第に「ああ、これは聖霊様の声だな」と分かります。あの少年サムエルも、主から名前を呼ばれたとき、一度目と二度目は分かりませんでした。しかし、三度目にお声があったとき、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げました(Ⅰサムエル3:10)。

 聖霊様は様々な呼び方で言われています。聖霊はギリシャ語では、パラクレートスです。これは、「援助者として呼ばれたる者」という意味です。この言葉は本来、法律用語で、「弁護人」「調停者」という意味があります。英語ではcomforter「慰め主」とも呼ばれています。こういうお方が、共におられるということは何と心強いことでしょう。しかし、私はこの説教を準備しているとき、自問自答しました。「私は聖霊の声を聞いて、御声に従っているだろうか?」「私は聖霊の導きを得て、その導きに従っているだろうか?」いろんな心理学的なアプローチについて学んでいるし、それをこの礼拝で分かち合っています。心の問題も大切ですが、もっと重要なことは、聖霊なる神に聞いて従うことではないかと気づかされました。私には「あれをやってもダメだった。これから新たに始めてもダメかな?」という失望観があります。もちろん、積極的な考えで、それらを吹き飛ばし、新しいことにチャレンジすることを心がけています。でも、自分の心が健全になることもさることながら、聖霊様のことをもっと意識することも重要ではないかと思います。聖霊が初代教会で豊かに働いたように、今日も、「こうしなさい。私が共にいるから」と導いてくださると信じます。あやふやな心で、「またダメかな?」と恐れているのは、聖霊様の声をよく聞いていないからだと思います。もし、聖霊様がはっきりと語られたならば、恐れや不安が去り、ただ、従うことしか残されていません。やはり、聖霊からくるビジョン、聖霊からくる確信がいのちです。「自分のこころが、聖霊様に聞き従う」これが、もっとも健全なこころではないかと思います。きょうはペンテコステ礼拝にちなんでエピ、パラ、エンと3つのポイントで学びました。聖霊が上から臨み、聖霊が内に留まり、そして聖霊が共に歩んで下さいます。ある人が、「聖霊を受けるためには罪を悔い改めなければならない。なぜなら、泥が入ったコップの中にきよい水は入れないから」と言いました。普通はコップをきれいにしてからきよい水を入れます。でも、初代教会のように聖霊が圧倒的に上から臨むならどうなるでしょう?私たちは経験上、知っています。勢いよく流れる水道の蛇口の下に泥が入ったコップを置くならどうなるでしょう。勢いよく流れる水が泥を攪拌し、溢れ出る水と一緒に外に出すでしょう。しばらくすると、泥がなくなり、澄んだ水になるのではないでしょうか?それと同じです。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」という約束を信じて、聖霊を溢れるばかりにいただきましょう。聖霊はあなたの上から臨み、あなたの内に留まり、あなたと共に世の終わりまで導いてくださいます。


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2013年5月12日 (日)

恥からの解放      ヨエル2:25-28

 ルース・ベネディクトという人が『菊と刀』という本を書きました。彼女は、欧米は「罪の文化」であることに比べ、日本は「恥の文化」であると言いました。その本を読んでいないので何ともいえませんが、わかるような気がします。西洋は絶対者なる神様との関係を意識して暮らしています。だから、罪という概念が良くわかるのでしょう。一方、日本人は「人がどう見ているか」によって判断します。そして、子供のときから、「恥ずかしくないように」とか「人に笑われないように」と育てられます。そのために、恥意識が強められるのかもしれません。きょうのメッセージは聖書的でない恥意識を払しょくし、「神の子供らしく、胸を張って生きられるように」というのがゴールになっています。


1.恥意識を持つ原因

 私たちの心になぜ、恥意識が生まれたのでしょうか?最初に遡るとアダムとエバが罪を犯したことが原因しています。彼らが食べてはならない木から取って食べたらどうなったのでしょうか?創世記3:7「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」とあります。神様から「あなたはどこにいるのか」と聞かれたとき、アダムは「私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。ここに最初の恥が記されています。これは、「私はありのままではいけない。私は恥ずかしい存在である」という意味がこめられています。赤ちゃんは生まれたときは、素っ裸です。私たちは死ぬときも、地位も持ち物も全部はぎとられ、裸になるでしょう。2つに共通しているのは「自意識がない」ということです。赤ちゃんも死んだ人も、意識がありません。しかし、意識を持っている人は、どうしても恥という思いや感情から自由になることができません。考えてみると良い恥もあります。私たちは神様の道を外れたことをしているとき恥意識が生じます。今は同性愛者が堂々とテレビに出る時代です。しかし、「おねえ」とか「ゲイ」だとか、いくら呼び方を替えても、彼らの深いところには恥意識があるでしょう。盗みをしていたり、何か不正をしている人は、心の中に恥意識があります。でも、それは「正しい道に帰るように」という神様が与えた良心からくる恥です。そういう意味では、できるだけ、恥ずかしくない公明正大ない生き方をすべきでしょう。

 でも、きょう、私が取り上げたい恥は、私たちが持ってはいけない恥です。私たちが恥を受け、苦しむとどうなるでしょう?そこに悪霊がやってきて、住み着くので、さらにみじめな生活を送ることになります。私たちは生きていく上でいろんな傷を受けます。拒絶、裏切り、非難、虐待、性的暴力、喪失、敗北、悪いことばを受けます。その時、私たちの心の中には、怒りや憎しみ、悲しみが起こります。でも、すべての心の傷には、恥が伴います。恥はどの傷にもくっついてしまう厄介な存在です。拒絶されても恥を受けるし、裏切られても恥を受けるし、非難されても恥を受けるし、性的暴力を受けても恥を受けます。なぜ、恥がくっつくのでしょう?それは、「自分がそのようにされるのは自分に非があったからだ。自分が弱いから、自分が醜いから、自分に価値がないからだ」と自分のせいにしてしまいます。だから、恥が生まれるのです。なんと、胎児であっても恥を受けるということです。受精して2週間くらいすると心臓がちゃんと動き出します。2か月くらい経つと外部で何が起きているかもキャッチできるようになるそうです。たとえば、結婚外に与えられた赤ちゃんだと母親はどう思うでしょうか?「生むべきだろうか?堕胎すべきだろうか?」という不安と恐れを持ちます。母親の感情をキャッチした赤ちゃんは「私は生まれてはいけない存在なんだ」という思いから恥が生まれます。また、自分が子供のときに、両親が何かの理由で離婚したとします。すると子供は「両親が離婚したのは、私が悪かったからだ。私のせいなんだ」と思います。そして、恥意識を持つそうです。たとえば、両親が離婚しないで普通の家庭で育ったとします。でも、子供が育つときは、いろいろなことが起こります。他のきょうだいと比べられて、「歩くのが遅いとか、しゃべるのが遅いとか、排泄を一人でできない、頭が悪い」とかいろいろ言われます。親は叱咤激励のつもりで言っているかもしれませんが、子供は「自分は劣っているんだ」という恥を受けます。しかし、最も大変なのは幼稚園、小学校、中学校に行ったときです。そのとき、身体的な違いが、からかいのネタになります。耳が大きい、鼻が上を向いている、目が大きい、口が大きい、背が高い、背が低い、白い、黒い、痩せている、太っているなど、人と違っているだけで、馬鹿にされます。その時、付けられるあだ名は、身体的なものからくるものです。それも、良い意味ではなく、自尊心を傷つけるようなあだ名です。私は子供のときによく、鼻をたらしました。親からも「鼻たらし」とか言われました。少し毛が薄いとハゲと言われたり、歯が少し出ているだけで、「出っ歯」とか、「サンマ」なんて言われるでしょう。これがもし、身体的あるいは精神的に欠陥がある場合は、差別用語が使われるでしょう。昔は「びっこ」「かたわ」「めくら」「やっこ(乞食)」「気違い」などと言いましたが、今では禁じられています。小学校のとき、親が後妻をめとり、その連れ子がクラスに入ってきました。私たちはみんなで彼をいじめて、恥を加えました。

 また、思春期も恥の嵐が吹き荒れます。若い人に自殺が多いのはこのためです。男の子も女の子も第二次成長期を迎えるといろんなところに変化がやってきます。人と比べて遅い人もいれば、早い人もいます。早ければ早いで馬鹿にされます。自分が男であることが恥ずかしかったり、あるいは自分が女であることが恥ずかしかったりします。また、精神面で、とても不安定です。「自分はだれなのか?」というアイディンテティに悩みます。尊敬できない親である場合は、特に不安定になります。もう、自分がこの世にいるだけで恥ずかしいというふうになります。その次は学校とか職場です。どの学校に入るかで、自分の価値がきまります。自分は何をしたいかではなく、どのレベルの学校に入れるかで、決るような気がします。もし、あるレベルの学校を落ちた場合は、大きな恥を受けます。会社に入るのもそうです。特に男性の場合は自分の職業がスティタスです。自分が二流の三流の会社であるならば、名刺を出すのも恥ずかしいでしょう。また、女性の場合は、どういう人と結婚できるかで自分の価値が決まるようです。身分も経済もちゃんとしている男性だったら良いですが、そうでない場合は恥ずかしい思いをするでしょう。勝ち組とか負け組があり、どこかで、「セレブになれたらなあ」と願っています。また、自分が持っている車や家でも、ある人たちは恥と戦っています。借家だと、何か一人前でないような気がするかもしれません。なぜ、人々はがんばって勉強して良い学校に入るのでしょう。なぜ、人々はがんばって働いて良い会社の地位に就こうとするのでしょう?なぜ、人々はがんばって家やマンションを持ちたがるのでしょう?それはアダムとエバから始まった恥を隠すためです。私たちが覆っている多くの物は、いちじくの葉っぱに等しいものです。それは弱くて一時的です。もし、病気にでもなったら、会社の地位もふっとんでしまいます。何かスキャンダルにでも巻き込まれたなら、これまでの名誉や名声はふっとんでしまうでしょう。

 エリヤハウスの講師、ロバートのお父さんはアルコール中毒で、お母さんは精神的な病を患っていました。ですから、彼は友人を家に連れてくることができませんでした。もしも、友人たちを連れて来た時、家で何が起こるか分からないからです。そのため、彼は「私の家庭は異常だ」ということを、いつも「隠そう、隠そう」としていました。彼の心は悲しみ、痛んでいましたが、いつもそれを隠して、明るく振舞っていました。罪悪感は、「私は間違ったことをした」と考えさせます。それに対し、恥意識は「自分の存在自体が間違いである」と考えさせます。さらに、恥意識は隠れようという思いを生じさせます。そのため、恥は心に壁を築くことになり、神さまからも、他の人からも、自分をシャットアウトさせます。時に私たちは、自分はうまく隠れていると思うことがあります。でも、神さまから隠れることはできません。私たちは多くの場合、他の人たちをうまくごまかしていると思っています。しかし、自分が気付いている以上に、他の人たちは私たちに気付いています。神さまはどんなお方でしょうか?ヘブル4:13以降「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。・・・私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」私たちは、本当は神さまから隠れることはできません。そして、私たちは神さまに弁明をしなければなりません。でも、神様は、私たちが大胆さをもって御前に近づくことができるようになることを願っておられます。「大胆な心をもって」です。しかし、恥という重荷を持っていては、そのことはできません。後半は、どのようにして恥意識を払しょくし、恥から解放されるかについて学びたいと思います。


2.恥からの解放

 まず、考えたいことは、「恥からくる実というものは何か」ということです。つまり、「その人に恥意識があるとどんなまずいことが起こるか」ということです。恥意識があると、完全な癒しを受けることができません。なぜなら、重要な問題を隠しているからです。また、人との信頼関係が持ちづらくて、どうしても表面的になります。「また、捨てられるんじゃないだろうか?また裏切られるんじゃないだろうか」という恐れがあるからです。さらに、神様や人からもらえるのに、「私はふさわしくないので、受けられません」と遠慮してしまいます。神様の祝福、昇進の機会、すばらしい人との結婚、奉仕の場さえも拒んでしまいます。なぜ、こんなことが起こるのでしょう?実は恥は、力強い要塞の1つです。要塞は英語でstrongholdと言います。Strongholdというのは軍隊用語で「砦」「根拠地」「城」という意味があり、敵を攻撃したり、あるいは敵から身を守るための基地でもあります。要塞を作るときは、城壁をはりめぐらし、その周りに水路を掘ります。水路の上には橋があり、城壁の門には大きなかんぬきがあって簡単には入れません。要塞の中には水、食料、石投げ機などの武器、石、油がたくわえられています。いったん、その人に恥という要塞が作られると、どうなるでしょう?その人の中に簡単に入ることができません。また、その人自身も、外に出てくることができません。恥という要塞を破るためにはどうしたら良いでしょうか?まず、数えきれない愛の火矢を城の中に放ちます。大きなこじ開け棒を持ってきて、城壁を開けるでしょう。さらに聖霊の油によって要塞の中を燃やします。やがて水も食糧も付き、白旗を上げるでしょう。それからやっとカウンセリングが始まります。 

恥の背後にはサタン、悪魔がいます。悪魔は日本の文化の中に働いています。また、悪魔は家系を通して、1つの世代から次の世代へと恥の意識を流していきます。そして、悪魔は人々を通して、あなたを欺いてきました。第一のポイントでも言いましたが、両親、きょうだい、友人、身近な人が言ったことば、あるいは虐待から来たものです。それが、頭や体、そして心にまで、トラウマになって染み込んでいます。「お前は間違って生まれてしまった」「お前は醜いし、汚れている」「お前には愛される価値がない」「お前はみじめな存在だ、一生日陰で暮らせ」「お前は幸せなんかなれない」「お前はどうしようもない欠陥人間だ、失敗品だ。」「お前は赦しを受ける価値がない」「お前はどうしようもない人間なので、そういう生活が似合っているんだ」。「馬鹿、死ね、カス」…どうしてこんな間違った恥意識が植え付けられたのでしょうか?悪魔は、人々が語ったことばをメガホンで拡大し、事実を捻じ曲げ、あなたを欺いてきました。あなたの恥の背後には、解放されることを妨げている悪魔がいるのです。あなたはずっと、要塞の中にひとりぼっちでいたいでしょうか?それとも、神様の愛を信じて、恥から解放されたいでしょうか?イエス様はあなたを恥から解放するために、この地上にやって来られました。イエス様が誕生したとき、恥が伴っていました。ヨセフはマリヤが妊娠したことを聞いたとき、密かに彼女を去らせようとしました。その当時の文化であれば、マリヤは石打ちにあって殺されなければなりませんでした。しかし、天使が現れ、ヨセフのところに来て「この子どもは神さまが授けた子どもです。彼女を去らせてはなりません」と告げました。ヨセフとマリヤが人口登録のため、ベツレヘムに上りました。その当時は親戚同士がゆずりあって宿屋に泊るものでした。ところが、二人のためにだれも部屋を開けてくれませんでした。彼らは仕方なく、馬小屋に泊るしかありませんでした。イエス様が大きくなったとき、人々から「マリヤの子だ」と言われました。イエス様ご自身は、恥を持っていなかったと思います。しかし、私生児として生まれたという事実をいつも背負って生きていなければならなかったことは事実です。イエス様の預言として有名なイザヤ53章は何と預言しているでしょうか?イザヤ53:3-4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」ここに恥とは書かれていませんが、イエス様が恥をしのばれ、恥を背負ってくださったことは確かです。なぜなら、イエス様は素っ裸で十字架につけられたからです。聖画などでは、腰布を付けていますが、本当はそうではありません。なぜなら、十字架刑は人をさらしものにし、苦しみと恥辱を与えて殺すための道具だったからです。そのイエス様が私たちの恥を理解できないとは思えません。ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」アーメン。

解放のための5つのステップがあります。第一は認識です。最初にしなければならないことは、「私のうちには恥という問題があリます」と認めることです。たとえば、「父から、お前は何もできない。馬鹿だなーと言われたとき、本当に傷つきました」と認めることです。ある人は母から「あなたは生まれてこなければよかった。間違って生まれたのよ」と言われた人もいるかもしれません。こういう親から受ける恥はとても深刻です。ある人は友達が言った言葉で、とっても傷つき、それがずっと残っているという場合があります。私の家はお金がなかったので、村に水道が来たとき、自分のところに入れられませんでした。井戸があるので普段は大丈夫ですが、夏になると水が濁ってしまいます。お茶を飲むために、私はたびたび、隣に水をもらいに行かせられました。やかんをもって「水こけれー」ともらいに行きます。隣には私と同級生の友達がおり、喧嘩をしたとき、「水こけれー」と口調を真似されました。本当に、恥ずかしい思いをしました。学校でもみんなの前で叱られて、立たせられると恥を受けます。女性は性的な恥を男性よりも多く受けるでしょう。そのため、結婚してからも支障をきたしている人がたくさいます。私たちは大人になるまで、一体どれくらいの恥の衣を重ねて着ているのでしょうか。ボロで、汚い衣です。着物と本体は違うはずなのですが、本体まで汚れているように錯覚しています。神様は恥を恥で終わらせない、恵み深いお方です。イザヤ書61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」私たちは豊かな報いをくださる神様に心を開く必要があります。第一に心を開かなければ何も起こりません。心を開けば、開いた分だけ光が差し込みます。光が差し込めば、闇は追い出されます。

第二は告白をすることです。詩篇を見ると、ダビデは自分の気持ちを素直に告白しています。悲しかった、苦しかった、さびしかった。「敵を呪ってください」とまで言っています。そして、自分の罪と恥をぬぐい去ってくださいと願うのです。詩篇51:1-2「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」自分が恥を受けたのは、過失だったからかもしれません。あるいは先祖から下ってきた咎がそうさせたのかもしれません。とにかく、いろんな状況が悪く働いて、恥と痛みを受けました。そのことを神様に告白し、その傷と恥をきよめてくださいと祈るのです。すると、聖霊様がきよい水をもって、恥を受けたところを洗い流してくださいます。聖霊様はあなたを再生し、聖くしてくださる神様です。身も心も、そして魂もきよめてくださいます。神様が一旦、聖めたならば、だれもきよくないなどとは言えません。

第三は赦すべき人を赦すということです。自分を馬鹿呼ばわりした父親、生まれてこなければよかったんだと言った母親、あるいは自分を傷つけた友人、先生、そういう加害者たちです。恥の影にはどうしても、恨み、憎しみ、怒りが隠されています。「決して赦さない」と憎しみを持っているその場所に、悪魔が要塞を作るのです。エペソ4章に「悪魔に機会(場所)を与えてはならない」と書いてあるのはそのためです。怒りと復讐心を神様にゆだね、赦すことを選びとるのです。そうするなら、神様の解放が後の雨のようにあなたに訪れるでしょう。

第四は十字架につけます。イエス様が私たちの恥を背負って、代わりに十字架にかかってくださいました。私たちがしなければならないことは、今まで恥意識を負って来た古い人を十字架につけるということです。イエス様を招いて、私たちの中で築き上げられた恥の構造を十字架に付けていただくということです。

第五はそこに新しい命をいただくということです。神様は恥の衣にかえて、賛美の外套を着せてくださいます。あなたは神さまにとって、瞳のような大切な存在です。それだけではありません。神様はあなたが、これまでそこなったものを豊かに償ってくださるお方です。ヨエル2:25-26「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」神様ご自身があなたに価値を与え、生きる希望を与えて下さいます。これから先、あなたを害するものは一人もいません。神様ご自身があなたの城壁となるので、あなたは永遠に恥を見ることはないのです。


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2013年5月 5日 (日)

中毒からの解放      ピリピ2:12-16 

 日本語では依存症が軽症で、中毒は重症と分けて使っているかもしれません。中毒と言われると、ものすごいインパクトがあります。依存症と言われると、「ああ、ちょっと病的な感じかな」と捉えるかもしれません。しかし、英語のaddictは、麻薬などの常用者、中毒者という意味があります。また、addictionは依存症と言うときに使われます。ということは、外国では依存症も中毒もほとんど同じ意味で使われているということです。今回はエリヤハウスから、かなり引用していますが、「中毒」という言い方で統一したいと思います。でも、「中毒」というと、「私には関係ないなー」と思う方がいらっしゃるでしょうから、後半のメッセージは「悪習慣からの解放」にさせていただきました。


1.中毒からの解放

 私たちの人生に楽しみをもたらしてくれるものがたくさんあります。コーヒーやチョコレートが大好きな人もいます。お酒やたばこをたしなんでいる方もいるでしょう。パチンコやギャンブルが好きだという人もいます。プレミアム・アウトレットでのショッピングが好きな人がいるでしょう。仕事に没頭して妻や子供のことを忘れてしまう男性もいるでしょうか。ゲームやパソコン、スマホーに熱中している若者がいます。DVDやインターネットを夜遅くまで見ている人もいます。どれもこれも、人の自由であり、罪ではないでしょう。しかし、パウロは何と言っているでしょうか?Ⅰコリント10:23「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」私たちは何をしても良いのです。が、すべてが益になるわけでありません。でも、人生に楽しみをもたらすものというのは、中毒性があるということを忘れてはいけません。アメリカでは寝る前にアイスクリームのバケツサイズを食べないといけない人がいるようです。たばこは今一箱410円くらいするのでしょうか?1か月吸うと1万円以上になり、肺がんになる確率もぐっと増します。カードで買うのはとても楽ですが、支払いが大変になります。ゲームもちょっとだけなら良いのですが、朝までやったらどうなるでしょう?多くの人は「いや、いつでもやめられますよ」と言います。ところが、そう簡単ではありません。一度、依存症に陥ると専門機関の助けが必要になります。私たちは中毒や依存症と言うと、「麻薬やお酒だろう」と言うかもしれませんが、それだけではありません。もし、そういうもので、頭がいっぱいになり、自分の生活が支配されているなら、立派な中毒や依存症であることを認めなければなりません。

 では、人はなぜ中毒になるのでしょうか?ある人は、ほどほどで済ますことができるかもしれません。しかし、ある人はそれにはまって抜け出せない人がいます。エリヤハウスではこのように教えています。中毒も、束縛をもたらすとりで(要塞)の1つです。中毒という要塞に囚われてしまった人は、もうそれ以外の生き方を考えられません。正常な生き方、つまり中毒がない生き方というのを考えられない状態にある人です。また、中毒は痛みを和らげる手段になります。神様は癒しを与えてくださいますが、中毒は痛みを麻痺させるだけです。もし、心の深い部分に痛みがあるならば、それに向き合って、神様のところへ持っていくべきです。しかし、中毒にはまると、その苦しみの部分だけをごまかしてしまいます。酒やたばこの以外にも、気分転換のために習慣的に用いるものがたくさんあります。ある一人の女性は、買い物をするということに中毒になっていました。彼女は浪費することに中毒であり、必要じゃないものを買ってしまいます。どうして買ってしまうか分からない状態です。それは、面白いとかおかしいという範囲を越えていました。なぜなら、家族に様々な問題をもたらしたからです。その根っこにあるものは、大抵の場合、貧しさです。「足りないんじゃないか」「お腹をすかせて死んでしまうんじゃないか」という貧困の体験が、それへの恐れとして、浪費やショッピングに走るのです。また、テレビやDVD中毒もあります。現実に向き合いたくないので、しばらくの間、そういう夢の世界に逃げるのです。テレビやDVDで一体、何を見ているのでしょうか。暴力的なものを好んで見ているなら、心の中に深い怒りがあって、それを映像の中で処理しているのです。よく運動する人がいますが、長距離を走っているとある程度行くと、しんどい所を乗り越えて、ハイになります。自分の力を使い果たしたときに、ある物質が脳の中に出て、ハイの状態になるのです。すると運動が目的ではなくて、ハイになるために、そこまで無理やり運動をするということになります。

 中毒や依存症は、「別に何も問題はありませんよ」という「否認」があります。ある女性は、あまりにも太りすぎていて、自分の足で自分の体重を支えることができないくらいでした。彼女は心に深い怒りを抱えていました。しかし、カウンセラーが「食べ物」ということについて質問し出すと、彼女は「別に、私は食生活のパターンに問題はありません」と答えました。食べ物に対して自分が中毒になっているということに盲目だったのです。そしてそれが自分の人生にどういう影響をもたらしているか分かっていませんでした。その根本には、深い痛みと罪が隠されていました。否認はどのようにして、できて行くのでしょうか。それは、中毒がどのようにして出来ていくのかというのと同じことです。

中毒はどのようにしてできていくのでしょう?エリヤハウスでは原因を5つあげています。第一は両親によって養育としつけがあまりなされなかった場合です。両親が不在、あるいいは、体はそこにいても、心がそこにない状態でした。子供の基本的な必要は、愛とふれあいと、認めてもらうことです。しかし、だれも子供に声をかけてくれませんでした。さらに、子供の心に痛みを注ぎ込む場合です。痛みがたまってくると、子供の人生に影響を及ぼすようになります。

第二は家庭が敵意に満ちた場所である場合、守りを感じない場所である場合にも、中毒や否認が形成されます。虐待や性的虐待がある場合もその一つです。やがて、その子は愛を求めるために、不健全なものにはまっていくでしょう。

第三は人とうまく付き合う方法が欠如しているときに中毒ができていきます。あなたのお父さん、お母さんはストレス下にあるとき、どのような行動をとったでしょうか。お父さん、お母さんは自分の感情をどのように表現したでしょうか。何らかの他の罪深い形でストレスを処理していたら、子供も似たような行動を取ります。私は結婚したての頃、何度か喧嘩したことがあります。家内は無口になり、私は自分の部屋に籠って本を読みました。今は牧師室がありますが、心休まる場所でもあります。牧師室に寝泊まりして、礼拝に出てくる牧師がいると聞いたこともあります。そういう家庭で育った人は、気をつけないといけませんね。

第四は心理的、社会的、霊的に満たされないときに中毒ができていきます。私たちはみな愛されたい、受け入れられたいという願いがあります。私たちは人々とのきずなの中で、一体感の中で生きていく存在として造られているので、人とのつながり(親密感)を求めます。現代はスマホーや携帯を離すことができない人がたくさんいます。メールやチャットでだれかとつながっていないと不安なのです。これは人間依存といえるでしょう。

 第五は家系を通して受け継がれる罪があります。恥意識が処理されない場合、人々はそれを他の人に伝えて、周りの人に流していきます。その家系や家庭、あるいは文化が、「あなたは完全でなければ、受け入れられない」というメッセージを伝える場合があります。また、何かがある度に、暴力や怒りという行動に出るということが家系代々続いてきた場合があります。自分の家系において、人々がどのように困難に直面してきたかを見ると、私たちも自然に同様の弱さを受け継いでいます。アルコール中毒の場合も、その1つですが、家系代々続く場合が多いようです

こういうことを話すと何の希望もないように感じてきます。もし、中毒や依存症を一言でいうならこうなると思います。心の深い必要や傷を神様からではなく、この世のものから求めるということです。十戒では偶像礼拝を禁じていますが、神様以外のものを頼り、それを第一にするのは立派な偶像礼拝です。「いや、私はそういうものにとらわれていません」と否定するかもしれません。チェックする方法があります。朝、一番、最初に何を考えるかです。最初に、考えるものがあなたの神様です。ちょっと言いすぎでしょうか?それなら、あなたが最も時間とエネルギーとお金をかけているものが、あなたの神様です。ある人は仕事かもしれません。仕事中毒というのがあります。だれか人にしばられている人は、共依存の可能性があります。中毒からどのように癒され、解放されるのでしょうか?エリヤハウスでは、5つの段階で解決します。第一は認めることです。否認している限りは、癒しは起こりません。自分の問題を認めなければなりません。第二は根をさぐるということです。たとえば性的依存症の場合、男性が母親に対する敬わない思いが原因していることが多いようです。つまり、母親が操作的、支配的で、父親が弱い場合です。女性は性的虐待や父親との絆がないと依存症に走ります。その女性はボーイフレンドを失う恐れに満ちています。第三は告白と悔い改めと赦しです。心の空虚さを埋めるために、別のものに向かっていました。そして、それによって捕らえられていたのです。解放のためには神様の助けも必要ですが、自分の意思も必要です。「それを断わり、捨てます」と告白します。「○○したいです」ではなく、「○○します」と信仰によって告白します。そうすれば、神様は「あなたの信仰のようになるように」と私たちを変えてくださいます。第五は悪い構造を取り扱います。中毒の構造を取り払い、新しい構造を与えます。アルコール中毒者のためにAAというものがあります。AAとは、「無名のアルコール依存者たち」という意味だそうですが、私たちが言うセルグループです。中毒や依存症の場合は、説明責任を持ち合える小グループが特に必要です。「先週大丈夫だった?」と聞いてくれる友が必要です。また、誘惑に陥りそうな時に、助けてくれる友が必要です。中毒や依存症はいわば闇の世界です。しかし、光なる神様のところへ持っていくならば解放されます。エペソ5:11-13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」神様の前に、正直になることが解放の一歩です。


2.悪習慣からの解放

中毒とか依存症と言うと、「精神科やプロのカウンセラーでなければ扱うことができないでしょう」とおっしゃるかもしれません。確かに、そのような分野もあるでしょう。しかし、悪習慣がひどくなったものが中毒とか依存症ではないでしょうか?逆に、そのような病名をつけてしまうので、「私は依存症なので治るのは難しい」という信仰が生まれるのです。そうではなく、悪習慣のABCがあれば、Cかもしれないと捉えるべきであろうと思います。つまり、だれでも悪習慣からCの段階に行くことがあるということです。また、たとえCの段階であっても、悪習慣から解放される術を学び、解放のステップを歩めば良いということです。もちろん、神様は奇跡を起こしてくださいます。でも、私たちがなすべき分もあるということを知らなければなりません。アメリカのあるインディアン部族に伝わる昔話です。おじいさんが孫たちにあることを教えました。「お前たちの心の中で、二匹の狼が戦っておるじゃろう。一匹は悪い狼で、怒りっぽく、妬み深く、人を赦さず、高慢で、怠け者の狼じゃ。もう一匹は良い狼で、愛があり、親切で、謙遜で、自制できる狼じゃ。心の中で二匹の狼が常に戦っておるんじゃ。子供たちは「おじいちゃん、どっちの狼が勝つの?」と聞きました。おじいちゃんはニッコリほほ笑みながら「お前が餌をやる方じゃよ」と答えました。私たちはどうして人を赦せないのでしょう?すぐ怒ったり、セルフイメージが低いのはなぜでしょう?それは、悪い狼に餌をやっているからです。答えは簡単です。悪い狼に餌を与えず、餓死させれば良いのです。悪い狼とは私たちの悪習慣です。良い狼は良い習慣と言えるでしょう。

学者によりますと、私たちの毎日の生活の90%は習慣に基づいているそうです。朝起きてから、夜寝るまで大体パターン化しています。では、お金の使い方はどうでしょう?何を見て、何に関心を払うでしょうか?ある人はしょっちゅうおやつを食べています。また、ある人はコーヒーを何倍も飲んでいます。また、ある人は毎晩、お酒を飲んで酔っ払っています。また、ある人は愚痴や不平が絶えません。また、ある人はしょっちゅう怒りを人や物にぶつけています。また、ある人はくよくよ心配し、気持ちが落ち込んでいます。また、ある人は寝る前に甘いものを食べないと眠れません。またある人はゲームやパソコンをやめられず寝るのが12時過ぎになります。また、ある人は時間にルーズで、いつも遅刻してしまいます。また、ある人はクレジットで買い物をしすぎて、支払いのために頭を抱えています。どうでしょう?何か思い当たる節はあるでしょうか?「私は中毒とか依存症ではありませんよ」と言うかもしれません。でも、やめたくてもやめられない悪習慣はないでしょうか?使徒パウロはローマ7章で「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています」(ローマ7:19)と嘆いています。あのパウロをしてそうなのなら、一般の私たちはどうでしょうか?ジョエル・オースチンは「もっと向上したいと本気で望むなら、自分の習慣の棚卸をしてみたらどうでしょうか?」と薦めています。私もちょっと思い当たるふしがありました。私は思っていることをすぐ口に出す癖があります。そのことを家内によく注意されてきましたが、悪習慣だとは思っていませんでした。また、ジョエル・オースチンの英語版の本に、「worryという悪習慣がある」と書いてありました。worryというのは、「心配する、くよくよする」という意味です。私の家は機能不全で争いに満ちていました。安心して過ごせないところで育ちました。家でも学校でも責められて育ちました。ですから、「だれかから、何か責められるんじゃないか」と心配する習慣がついています。「ああ、これは悪習慣だなー」と分かりました。どうぞ、みなさんも無意識でやっていること、あるいは「これは悪習慣じゃない」と否認していることはありませんか?どうぞ、この際、悪習慣の棚卸をしてみましょう。

専門家によりますと、一度身に付いた習慣を崩すためには6週間かかるそうです。日数で言うと、42日間です。酒もたばこも42日間やらないと解放されます。私はパソコンの中にあるスパイダー・ソリティアに何度かはまりました。そのゲームをやると20分から30分を無駄に過ごしてしまいます。「これは中毒になるぞ」と思って、すべてのパソコンからそのゲームのソフトを外しました。しかし、あとからインターネットでもやれることを知りました。3日間やりましたが、やめました。でも、しばらくの間、やりたくてうずうずしていました。今は、もう大丈夫です。悪習慣あるいは中毒的なものをやめるとき、最初、ものすごい労力と苦しみが伴います。でも、どうでしょうか?どんな悪習慣も中毒もそうですが、良いのはその時だけです。しかし、あとからものすごい苦しみのしかかってきます。やがては精神も体もぼろぼろになり、生活がなりたたなるでしょう。やめるときの苦しみが良いでしょうか、それとも中毒にはまった苦しみが良いのでしょうか?宇宙に飛び出すロケットのことを少し考えてみたいと思います。ロケットが地球の重力に逆らって、宇宙に飛び出すとき、ほとんどの燃料を使い果たすそうです。しかし、ロケットが宇宙空間に達すると、あとはわずかな燃料で飛ぶことができます。悪習慣や中毒も、地球の重力と同じです。その重力によって私たちはひっぱられて生きています。最初、悪習慣や中毒を絶つときのエネルギーと苦痛は想像を絶するほど大きなものです。禁断症状が起こり、頭痛やめまい、体中が変になるでしょう。でも、4週間耐え忍び、6週間たつと自分でも信じられないくらい自由になります。

ある女性は、何十年もたばこを吸い続けてきたヘビースモーカーでした。あるとき、彼女は「今が、やめる時だ」と決心しました。数週間は吸わないで過ごすことができました。しかし、あるときご主人と言い争いました。彼女は腹を立てて、家を飛び出しました。そして、お店でたばこを買いました。そして、「夫に一箱吸っているところを見せてやろう」と思いました。最初の一本に火を付けようとしたときです。内側で何か声がしました。「あなたがこれまでしたことが全部無駄になります。もし、たばこを吸うなら、全部一からやり直すことになります。なぜなら、あなたは感情をコントロールできなのですから」。その瞬間、それをやめるための苦労が脳裏を横切りました。ここまで来るために努力してきたことが、次から次へと浮かんできたのです。彼女は手に持っていたたばこを置いて、再び吸わないという決意をしました。私たちはいろんな言い訳をして、いろんな理屈をつけて、変わることを拒んできました。「だって、ストレス解消のためには仕方がないんです」「クレジット・カードを使わずに過ごすなんて無理ですよ」「心に浮かんだ思いをぶちまけないで終わらせるなんてできません」「うちの親や兄弟も皆そうなんです。これは家系ですよ」「この習慣だけは変えられません」と、そう言っている限りは、解放されることはありません。神様は全能のお方ですが、あなたの決断を代わりになさろうとは思われません。決断するのはあなた自身です。そして、「神様、私がそのようになれるように助けてください」と真剣に願うなら、神様がその力を与えてくださいます。実は、悪習慣を取り除くだけでは十分ではありません。悪習慣の代わりに良い習慣を育みましょう。時間を守ること、倹約的なお金の使い方、健康管理、積極的で生産的なことば、神様との交わり、どんなときでも喜ぶこと、愛と親切にあふれた関係。最初は大変で、ものすごい労力がいるでしょう。でも、習慣になると宇宙のロケットのようになります。ピリピ2:12-13「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」私たちは天国に行ったら完全にきよめられます。でも、神様はこの地上で、私たちが神の似姿に変えられて成長することを願っておられます。それが、「恐れおののいて自分の救いの達成に努める」ということです。悪い狼に餌をやっていると、滅びを刈り取ることになります。私たちが悪いもので縛られて暮らしているなら神のこどもとしてふさわしくありません。良い狼に餌をやりましょう。神様はもっと上の段階の、豊かな人生を私たちに備えておられます。


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