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2013年4月29日 (月)

~見えないものにこそ目を留める~  亀有教会教育牧師 毛利佐保

<Ⅱコリント人への手紙 4:13-18>

4:13

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14

それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15

すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


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コリント人への手紙は、異邦人伝道を行ったパウロがコリントの信徒へ送った手紙です。

コリントはギリシャの港町で、パウロはそこに1年半ほど滞在し、そこで出会ったアクラとプリスキラという夫婦とともに伝道をした場所です。


コリントでは、パウロはユダヤ人からかなりの迫害を受けていました。また、キリスト者の中にも、パウロがイエス様の12弟子、12使徒のひとりではなかったことから、パウロの使徒性を疑う人がいました。その上、誤った教えを説く偽教師が現れて、コリントの信徒を惑わしたりしたので、パウロは心を痛めていました。


そのような偽りに惑わされている信徒に対して、パウロは苦難に立ち向かえる信仰が持てるようにと励まし、永遠のいのち、永遠の栄光について力強く語っています。

そして、「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めるように」と教えています。


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<Ⅱコリント 4:18 >

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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さて、ここでいう”見えるもの”と”見えないもの”とは何でしょうか。


“見えるもの”は、16節に書かれている“外なる人”と関連があり、私たちの死ぬべき肉体。外見的な優秀性、生まれながらの性格や欲望などを含めて、外なる人に属する一切のものを指します。


今日のこの第二コリントの箇所は、何週か前に鈴木牧師がメッセージされた、“土の器”の箇所の後に書かれています。“土の器”というもろい肉体を持った私たちの外なる人は一時的でいつかは衰えて滅びます。


そして、“見えないもの”は、同じく16節に書かれている“内なる人”と関連があり、外見によっては分からない、神様によって日々新しくされる部分です。イエス様の十字架によって、やがて到達する永遠の栄光を含めて、内なる人の喜ぶ一切のものを指します。この内なる人はいつまでも続きます。


クリスチャンは、この外なる人と、内なる人を併せ持っているという現実があります。

ですから、たびたび内なる人が外なる人に支配されて葛藤を覚えることがあります。


では、見えないもの(内なる人)に目を留めるには、どのようにすれば良いのでしょうか。


◆見えないものに目を留めるには・・・


①聖書のみことばを人生の基準とする。


私たちが住んでいるこの世界にはいろんな基準や教えがありますが、聖書はその中でも、特別な書物として扱われています。旧約聖書、特にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、おもに律法について書かれています。この律法のことを、ヘブライ語で“トーラー”と言い、“教え”という意味があります。旧約聖書は、キリスト教だけではなく、ユダヤ教、イスラム教でも、教えの土台となっています。


キリスト教は、この旧約聖書を土台として、新約聖書を使います。

新約聖書には、旧約聖書の預言が、新約聖書においてひとつひとつ成就されて行った様子が記されています。


私たちキリスト者にとって、聖書は、神様からの啓示や、私たちが人として生きて行く上で、最も大切な戒めから、生活に必要な知恵や知識、また、愛や励ましまで、たくさん詰まっている神様からのラブレターです。


66巻の聖書の記事を「正典(あるいは聖典)」といいます。「正典」のことを古典ギリシャ語では「カノン」と言います。「カノン」とは「葦」という意味です。葦の節は、ものさしのように同じ幅で刻まれていることから、正典=カノン=葦=ものさし=基準という意味になります。


私たちが使っているこの66巻の正典は、諸説ありますが、4世紀ごろ、たくさんのユダヤ教、キリスト教について書かれた書物から、正典に選ばれたものです。正典に選ばれなかったものでも、外典として使われている書物もあります。カトリックは、ソロモンの知恵やベン・シラの知恵の書とか、マカバイ記などの外典を正典にしています。


いずれにしても、聖書が神の霊感を受けて書かれたものであって、絶対の権威があることは一致しています。


ですから、見えないものに目を留めるには、まず、①聖書のみことばを人生の基準として、ぶれない信仰を保つことが大切です。


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<詩篇 119:105 >

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

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と書かれている通りです。


私が神学校に行っていたころ、ある先生から、説教者の心得としてこのようなアドバイスをいただきました。

それは、「感動的な、泣ける話を語って、聞く人にその例話が印象に残ったとしても、どんなに優れたパフォーマンスで語って“あの先生すごい!話にどんどん引き込まれた!”と褒められたとしても、説教を聞いた人に、聖書のみことばが残らなければ、その説教は失敗だ。」というアドバイスです。

逆に言えば、「例話だとか、誰が語ったとか、そんな事は全部忘れてもらってもいい。聖書のみことばが聞く人に残ればいい。」という事です。ですから、私はその言葉を肝に銘じて、メッセージが終わった後に、「あれ?今日の聖書のみことばは何だったっけ?」とならないように語ることを目標にしています。


みなさんも、ただ礼拝に来て、メッセージを聞くのではなく、今日、引用している聖書のみことばを1節でもいいので覚えて行っていただけたらと思います。


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<詩篇 119:105 >

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

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とか、本日の聖書個所から、


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<Ⅱコリント 4:18 >

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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とか、覚えて帰っていただけたらなぁーと願います・・・。


また、日頃、聖書を全く開かないという方もおられるかもしれませんが、聖書通読はとても大切です。

聖書は本棚の飾りでもなく、持ち歩けば良いというお守りでもありません。読みましょう!Read the Bible!!

書いている内容が解らなければ、鈴木先生や、私や、聖書に詳しい方に聞いてください。


◆見えないものに目を留めるには・・・


②イエス様を模範として見えるものを吟味する。


私たちは目に見えるもの、外見的なもの、この世の価値観に縛られています。


例えば、普段の会話ですが・・・

これは、アメリカの心理学者、アルバート・マレービアン博士による、人が他人から受け取る情報(感情や態度など)の割合についての実験結果です。


●マレービアンの実験の結果は・・・・

*顔の表情 55%

*声の質(高低)、大きさ、テンポ、 38%

*話す言葉の内容 7%


なんと私たちは、実際話す言葉の内容からは7%しか情報を受け取らず、残りの93%は顔の表情や声の質によって他人を判断しているというのです。その中でも人が目で見て判断する表情、動作などの割合の大きさは55パーセントと高い率。


ですから、今私がここで一生懸命話していても、みなさんには、私の表情とか、声の感じなど、どうでもいいことが93%届いていて、肝心の話の内容が実際は7%しか届いてないということになります。


これでは困ります・・・。みなさんは、この話をどこまで信じますか?

しかし考えてみれば、私たちがこの目で見ているものというのは、すべて自分の基準や、自分のものさしで見て判断しているのです。


人間の視覚の基準ほどいい加減なものはありません。もうひとつ、ある心理学の実験でこういった実験があります。


<ストラットンの視野逆転実験>


視覚と知覚の実験ですが、簡単に言うと・・・


物が上下逆さまにみえる眼鏡、“逆さま眼鏡”を被験者にかけてもらって、8日間過ごしたところ、最初は上下が逆さまに見えていたのに、そのうち逆さま眼鏡をかけていても上下が正常な位置に見えるようになったという実験です。


実験が終わって逆さま眼鏡をはずすと、今度は、眼鏡をかけていないと逆さまに見えるらしく、眼鏡をはずして何日かすると、また上下が正常な方向に戻ったそうです。


これは、人間が目で見ているものは、視覚だけではなく、聴覚、触覚、位置感覚、内部感覚が関係して判断しているということの証明です。つまり、何が逆さで何が正位かは、何が基準になっているかによって決まるのです。空は上にあって、地面は下だというのは、その位置づけが正しいと私たちが感覚的に思っているから、そのように見えるのです。


つまり、目に見えるものは、すべて自分の基準で判断しているのです。ですから、同じ人物を見ていても、ある人には、ものすごく素敵に見えても、ある人には全く逆に見えたりするということが起こるのです。


そこにもし、恋心などが加われば、素敵に見えていた人は更に素敵に見え、ぜんぜんイケてないと思っていた人が突然素敵に見えたりするという現象が起こります。


こんな話を聞くと、自分が見て、判断しているものは正しいのかなぁーと心配になってきます。


でも、大丈夫です!

私たちクリスチャンにはイエス様という私たちの人生の基準であられる御方、また、最高の模範を見せてくださった御方がおられます。イエス様が、私たちをどのように愛して、接して下さったか、そのイエス様の愛にどのように私たちが応えていけば良いのかを聖書が教えてくれています。


イエス様の価値観で目に見えることや出来事を考えてみると、「失敗した!」と思うような出来事があったとき、それは本当に失敗だったのかと考えてみると、案外そうでもないということがあります。後で振り返ってみると、結果的には良かったと思えることがあります。


また逆に「うまくいった!成功した!」と思う事があった時、それは本当に成功したと言えるのかと考えてみると、案外そうでもないことがあります。


しかし、目に見えるものすべてが悪いものだというのではありません。

私たちの目に麗しく、喜ばしい出来事も、神様は私たちに与えてくださいます。今の時期であれば、お子様が入学したり、進級したりして、元気に学校に行く姿などを見ると、思わず目を細めてしまいますが、そのような時は、素直に神様に感謝して喜べば良いのです。


ただ、<Ⅱコリント 4:18>に書かれているように、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」のです。目に見えるもの、外見的なもの、この世の価値観に縛られるのではなく、自分の基準や、自分のものさしで判断するのでもなく、イエス様の価値観で見えるものを吟味して行くことが大切です。


◆見えないものに目を留めるには・・・


③イエス様から目を離さないで歩みましょう。


今日は、目に見えるものと目に見えないものの事についてお話をしてきました。

もうひとつ、みなさんにお伝えしたい大切な事があります。

それは、“イエス様から目を離さないでいる”ということです。


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<ヘブル書 12:2>

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

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私たちは、このイエス様から目を離さないで、イエス様を見上げて歩んで行けばよいのです。

イエス様は、私たちが患難に遭ったとき、人生につまずいて倒れそうになった時、必ず助け、導いて下さる神様です。イエス様に信頼しましょう。


キリスト教が、他の宗教と決定的に違うことは、三位一体の唯一の神様は、私たち人間と人格的な交わりを持ってくださる神様だという事です。

父なる神様は、人間を創造されたときから、神の御姿に似せて造られ、私たちを特別に愛してくださり、人間に重要な任務をお与えになりました。聖霊なる神様は、私たちを助け、力を与え、きよめ、慰めてくださる神様です。また、特にイエス様は、神様でありながら、人間となってくださった御方です。

ヘブル書に書かれているように、イエス様は、ご自分の前に置かれた喜び、つまり私たちの救いのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架に架かってくださいました。そして、よみがえられ、天に昇り、父なる神様の右に着座されました。


・・・こんな神様は他にはおられません!!


イエス様のよみがえりの事実は、イエス様御自身が神の御子であることの証明です。また、よみがえられたことは、十字架による贖罪の完成のしるしでもあり、キリスト者の復活と栄化の保証でもあります。

このイエス様からけっして目を離さないで歩んで行きましょう!


もう一度、確認しましょう!

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<Ⅱコリント 4:18 >

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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◆見えないものに目を留めるには・・・


①聖書のみことばを人生の基準とする。

②イエス様を模範として見えるものを吟味する。

③イエス様から目を離さないで歩みましょう。


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2013年4月21日 (日)

トラウマからの解放    ヨハネ黙示録3:20-22 

「トラウマ」は、もともとはフロイトが精神分析のときに用いた言葉だったようです。トラウマは「心的外傷」とも言いますが、「心理的に大きな打撃を受けて、その影響が長く残るような体験」をさします。たとえば、私たちは事故にあったり、ひどいことをされた時に、「トラウマになった」と言います。そして、そのショックが心の中に傷として残り、次から「またそういうことが起こるんじゃないか」と恐れるようになります。私も自動車事故を起こした時などは。その時のことがしばらく忘れられません。トラウマになって、「またぶつかるんじゃないかな」と恐れます。ま、私の場合は、少し恐れた方が良いのかもしれません。これから、夏に向って暑くなるので、車を運転する方は要注意です。


1.いろいろなトラウマ

 解放の前に、「どのようなことで私たちはトラウマを受けるのか」ということを学びたいと思います。これは、エリヤハウスから学んだ内容をいくつか分かち合いたいと思います。第一は「恐れに基づいたトラウマ」です。事故の現場を見たとか、自分がその事故に巻き込まれたときにトラウマになります。また、虐待とかいじめなど、そのような犠牲者になったことによって体験することもあります。10年くらい前、地下鉄サリン事件がありました。あの事故に巻き込まれた人は、しばらく地下鉄に乗れない人がいたようです。しかし、全員がそうではありません。心のバリヤーが生まれつき薄い、あるいは弱い人がそのようになる傾向があるようです。また、間接的に、自分の兄弟が虐待されているのを見て、あるいはお父さんがお母さんを打ちたたいているところを見て、トラウマを受けることがあります。私は、そういう家庭で育ったので、ホームドラマを見るのが嫌いです。ドラマの中に無慈悲で意地悪な人が登場すると胸が圧迫されます。それよりも、水戸黄門とか東山の金さん、ランボーのような、勧善懲悪のものを好んで見ます。なぜなら、悪がきっちりさばかれるので、安心して見られるからです。

 第二は裏切りによっておこされるトラウマがあります。私たちが自然に信頼している人たちが、自分を虐待した場合です。その中には、両親とか近い親戚、先生や牧師がいます。もちろん虐待を受けたことによって、トラウマが起こります。が、それと同時に、自分を虐待から守ってくれる人たちが、自分を守ってくれなかったということで、トラウマの原因になることもあります。お父さんが子供に暴力をふるって、虐待をしているときに、止めるべき母親がそこにいたのに、止めてくれなかった場合です。また、配偶者が不倫をしたために起こるトラウマがあります。ある人が信頼を裏切って、自分のことを他の人に秘密をばらした。裏切るという偽りを信じてしまうと、トラウマを受けます。この世では、元カレとか元カノ、あるいはバツ1とかバツ2などと軽く言います。でも、それは受けたトラウマをはぐらかすような言い方です。人はそんなに強くはありません。人から裏切られると、深いトラウマになります。

第三は身体的なトラウマです。突然、怪我をしたり、傷害を受けた場合に起こります。また手術も私たちの脳の記憶に深い傷を負わせます。臓器移植とか、輸血などが体にトラウマとして残ります。もちろん、レイプも肉体的にトラウマとなります。また、心臓発作も身体的にトラウマを残します。私は骨折とか打ち傷のため祈るときがあります。表面がうっ血して、筋肉や骨がショックを受けています。ですから、細胞や組織からトラウマが取り除かれるように祈ります。心だけではなく、体自体がトラウマを受けているということを忘れてはいけません。「痛いの、痛いの、飛んで行け」と言ったりしますが、まんざら間違ってはいません。私たちが祈ることによって、神様が身体的なトラウマを取り去ってくださってくださいます。

 第四は喪失によるラウマです。あるものが突然なくなることによって起こります。仕事を突然失うとか、人間関係を失うとか、家が突然なくなるということです。2年前の東北大震災の津波で、家族も家も仕事もなくしたという人が大勢いらっしゃいました。亡くなった人も気の毒ですが、命だけが助かり避難所生活で暮らすの人も大変です。福島の原発事故で、ふるさとを失った人たちも大ぜいいます。喪失によるトラウマは、その悲しみが強く、また長期間続いてしまいます。テレビで見ることがありますが、子どもを事故や犯罪、自殺で失った親は、10年たっても抜け出せないということです。聖書で、ヨブはすべてを失ったときに、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と告白しました。すばらしい信仰です。でも、その後、ジワジワと痛みと疑いと悲しみがやってきたことも事実です。

 第五は性的なトラウマです。性的なトラウマというのは、性的ないたずらや不適切なタッチによって起こるものです。あるいはレイプされた、あるいは暴力的な行為をされた場合です。そして、このトラウマは肉体だけではなく、核の部分にまで達して影響を及ぼしてしまいます。アメリカの統計によると、女の子のうちの三人に一人、男の子は四人に一人が性的虐待や、性的ないたずらを受けているそうです。このタイプのトラウマは、私たちの魂だけではなくて、霊的にも傷を受けます。なぜかと言うと、このタイプのトラウマは、自分がだれであるかという、神様から与えられた栄光のかたちを傷つけ、それが恥であるとその人が思ってしまうからです。

第六は感情的なトラウマです。感情的に傷つけられたということによって起こるトラウマは、傷とか身体的な証拠がないために取り扱うのが難しいケースです。感情的に傷ついたトラウマというのは、魂だけではなく、やはり霊にも影響を及ぼすのでとても深刻です。また、ことばによっても、トラウマを受けます。ことばには力があります。「石は私たちの骨を傷つけることができるが、ことばは私たちを傷つけることはできない」ということわざがありますが、これは本当ではありません。ことばは私たちを傷つけます。『水からの伝言』という本があります。水にいろんなことばをかけたあと、水の結晶を顕微鏡で見ます。科学的に、祝福のことばと呪いの言葉ことばは、水の結晶に影響を及ぼすということが分かっています。子どもは、90%が水で出来ており、大人になると70%に減ります。私たちが語ることばには力があります。ことばは人を傷つけ、あるいは人を祝福します。

第七は放置によって起こるトラウマです。私たち人間には基本的な必要があります。愛情あふれる触れ合いとか、自分には価値があると認められることです。自分のことを知ってもらえる、わかってもらえるということが必要です。ですから、人間はどんな人であっても、自分が受け入れられて、愛されるという基本的な必要なのです。ですから、成長していく段階でこのような必要が満たされないと、そこで潰されて、歪んだかたちで成長していくことになります。

第八は家系からくるトラウマです。私たちは先祖から代々、命を受け継いでいます。だから、私たちの前の親やその前のDNAを受け継いでいます。ですから、前の先祖が体験した未解決のトラウマ、あるいは痛みや悲しみが私たちに影響を及ぼします。エリヤハウスの講師のテア先生の先祖はアイルランドの血をひいています。アイルランド人というのは、あまり感情を表さないそうです。感情に対してからかったり、あるいは飲んでまぎらわします。講師の家系の中では、泣くということがあまり受け入れられませんでした。誰かが泣くと、みんなかがからかいました。しかし、神様は「泣いていないあなたの家系の悲しみを、あなたが泣きなさい」と言われたそうです。講師は、泣くことによって不思議に力が与えられたと感じたそうです。日本人も感情をあまり外に出さない民族です。内側にためこむために、鬱になるか、あるときドカンと爆発するか2つに1つではないでしょうか?

 第九は霊的な虐待によるトラウマです。霊的な権威にある人たちが、自分のために、自分の名前や欲のために、権威をあやまって使うということによって起こるトラウマのことです。以前、私のところに何件か電話がありました。牧師から「あなたは二度と教会の敷居をまたぐな」と言われたそうです。「理由を教えてください」と言われても、「来たら、警察を呼ぶ」と言われたそうです。ある人は「あなたにはサタンが付いている」とか、「十分の一献金していない人は、泥棒だ」と言われて、トラウマを受けた人もいます。牧師の権威はわからない訳ではありませんが、霊的な虐待になる危険性がいつでもあります。

 9種類のトラウマをあげました。これだけたくさん言うと、「ああ、これがあるかな?」と思い当たるふしがあるのではないでしょうか?あるいは、「いいえ、私はトラウマなんかありませんよ」と言う人がいるかもしれません。でも、ときどき、何の前触れもなく、「イヤーなこと」を思い出すでしょう。思い出したときに同じような感情、つまり、失望、悲しみ、憤り、悔しさ、恐怖感が起こります。それがトラウマです。私たちはそれらと向き合って、神様から一度、癒していただく必要があります。そうすると、二度目からはそんなショックでなくなります。三度目、四度目とだんだん感じなくなります。


2.トラウマからの解放

 Dutch Sheets(ダッチ・シーツ)と言う人がTell Your Heart to Beat Again『心臓が再び動き出すように告げよ』という本を書きました。その本を引用しながら、エリヤハウスのテア先生がこのように説明してくださいました。トラウマに会うと心臓が止まってしまったような状態になります。そのときに、だれかが来て、そこにもう一度、命を吹き込んであげなければなりません。ダッチ・シーツの本の中にこのような話がありました。心臓を開ける手術のときに、私の兄弟のティムがそこに立ち会うことができました。患者の心臓は、鼓動をやめていました。もう一度、心臓を動かすために、医療スタッフがいろいろ手を尽しましたが、心臓を動かすことができませんでした。患者は意識のない状態でしたが、一人の外科医が、患者の耳の中に向けてこのようにささやきました。「あなたの助けが必要です。あなたの心臓を私たちは動かすことができません。自分の心臓にもう一度、動くように言ってください。」驚くようなことですが、そのとき、患者の心臓が動き始めました。トラウマの癒しというのは、心臓がもう一度、動き始めるようなものです。私たちの心臓をもう一度、動かしてもらわなければなりません。しかし、私たちは人を信頼することはとても難しい。また、希望を持つこともとても難しい。未解決なトラウマの部分に、イエス様をお招きするということはとても難しいことです。しかし、イエス様御自身をそのトラウマが起こった場所にお招きし、そのトラウマをイエス様が私たちの内側から取り除いてくださるようにお願いしなければなりません。黙示録3章で、「見よ、私は戸の外に立ってたたく」と言われています。イエス様は、私たちがイエス様をそこに招くことを願っておられます。神様は、私たちが心の扉を開けることによって、その痛みを取り除きたいと願っておられます。イエス様は、十字架でその痛みをすでに負ってくださいました。問題は、私たちが心の扉を開けて、イエス様がもう一度、私たちに息を吹き込んでくださることを許すかどうかということです。イエス様は鞭打たれて、十字架にかけられて、ひどい目にあったときに、弟子たちは希望を失いました。しかし、その後、イエス様は弟子たちに希望を取り戻してくださっただけではなく、新しい命令を与えてくださいました。そのように、イエス様は私たちにも、同じようにしなさいと言われます。つまり、トラウマの解放のカギは、イエス様を最も痛んだ心の中にお迎えすることです。イエスさまは「よくなりたいか」と問うておられます。私たちは、イエス様のお声を聞いて、自己憐憫という床を取り上げて立ち上がるべきです。

 ジョエル・オステーンの本に「心のチャンネルを替えよ」という文章がありました。リモコンで、テレビのチャンネルを替える方法はだれでも知っています。もし、それがつまらない番組であれば、すぐにチャンネルを替えるでしょう。同様に、過去の嫌な体験が予期せずに映し出されることがあります。でも、ある人たちは映画観賞でもするかのように、椅子を持ち出し、ポップコーンを片手に見てしまう人がいます。チャンネルを替えるどころか、自ら進んで過去の痛みを再現させます。そのため、失望といらだちと苦痛が起きてくるのは当然なことです。チャンネルを替えることを学びましょう。あなたの思いや心を絶望に浸らせてはいけません。その代わり、神様があなたの人生に与えてくれた良き出来事を考えるのです。あなたの周りに自己憐憫に浸っている人がいるかもしれません。彼らはそうすることによって、他人の関心を集めるのが楽しいのです。あまりにも長い間、そのように生きてきたので、彼らのアイディンテティの一部になっています。もちろん、トラウマになるような体験をした人は、元気を取り戻すまで、思いやりをもった扱いを受けるべきです。しかし、中には元気を取り戻したくない人もいます。彼らは注目されるのが好きなのです。15年前、フィルとジュディは一人息子を事故で亡くしました。それは慰めることばもないほどの悲惨な事故でした。家族や友人は何か月間も、この夫婦と痛みを共感し、励まし、なんとか元の生活に戻らせようとしました。彼らの心遣いにもかかわらず、フィルとジュディは悲しみを手放すことを拒否しました。息子の名前が出るたびに、二人は涙ぐみ、延々と嘆き悲しむのです。だんだんと、家族や友人たちの足が遠のき、電話をかけてくる人もなくなりました。それでも果敢に二人を元気付けようとする人が現れました。しかし、フィルは決まって「一人息子を失うのがどんなに辛いか、君にはわからないんだ」と答えるのです。

 ヨハネ福音書5章に、38年もの間、病気で伏せっている男性のことが記されています。彼はベテスダの池のそばで毎日過ごし、奇跡が起こるのを待っていました。イエス様はその人に近付き「良くなりたいか」と聞かれました。彼は「天使が来て、池の水をかき回したとき、真っ先に入った者がいやされます。でも、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです」と答えました。彼は「なおりたい」と言えず、ブツブツ言い訳をしました。ある人たちは、受けたトラウマによって長い間、伏せっています。過去の悲惨なことに捕らえられ、一歩も前に進むことができません。じっと横たわって、すべてを好転させる大事件が起こるのを待ち続けています。イエス様はこの男性に単純に、「良くなりたいか?」と聞いています。男性は、「私は一人ぼっちです。だれも助けてくれません。私にはチャンスがないんです」と答えました。イエスさまは「ああ、それは大変だったですね。同情しますよ」とは言いませんでした。「床を取り上げて歩きなさい」と言われました。今も、トラウマで座り込んでいる人に何と言われるでしょう。「あなたがそうなるのも無理はありません。なんとお気の毒な」とは言いません。そうではなく「良くなりたいか?人生を取り戻したいと真剣に思うなら、起きて床を取り上げ、そして歩きなさい」と言われるでしょう。

 多くの人たちは、「どうしてあんな病気になったのか?」と悩んでいます。「あんなことが起きなければ良かったのに」と訴えます。「どうして私ばかりがこんな目にあうんだ」と思っています。それらが、自己憐憫に溺れる言い訳になっています。しかし、そんな思いは捨てて、立ち上がって歩くのです。人生には、たくさんの「どうして」「なぜなの」という問が残されています。あるものは、原因がはっきりしています。しかし、理屈で割り切れないものがたくさんあります。一方的に被害を受けたり、ひどいことをされた場合は特にそうです。ジョエル・オステーンは「理解できない」ファイルを持つべきであると言っています。パソコンをやっている人はわかると思いますが、いろんなファイル(箱)があります。私たちの心にも、「理解できない」というカテゴリーのファイルを持つべきです。理屈では説明できない事態が起こったなら、無理やりそれを解明しようとせず、そのファイルに入れてしまえば良いのです。「どうして、あんなことになったのか?」と悩んで時間を無駄にするよりは、そこから何か自分のためになるものを探せば良いのです。イエス様は「今はわからないがあとでわかるようになります」(ヨハネ13:7)と言われました。「理解できない」ファイルに入れるとは、イエス様にゆだねるということです。他人に裏切られたり、ひどい扱いを受けたこともあるでしょう。祈りが聞かれなかったり、徒労に終わったこともあるでしょう。「どうしてあんなことを言われたのか?」「どうしてあんなことが起きたのだろうか?」今となっては、過去を変えることはできません。また、浮かんできた映像の前に、座って、ポップコーンを食べながら、辛い思い出に浸り続けるのでしょうか?それとも未来を信じて生きるべきでしょうか?イエス様は「良くなりたいか?」とあなたに告げています。

 もし、「私は、良くなりたいです」と答えた人は一番先に何をすべきでしょうか?それは自分を傷つけた人を赦すということです。私にひどいことを言ったり、ひどいことをした人を赦すことです。ある人は、「神様は一体何をしていたんだ」と神様を責めています。神様をも赦すべきです。もし、赦さないでおくならば毒が体中に回ります。恨み、憤り、憎しみは骨をも蝕みます。相手は、すっかり忘れて、なんとも思っていません。ただ、被害者であるあなたが、恨んで、毒を飲んでいるだけです。どうぞ、過去の恨みと傷を捨て去りましょう。床と取り上げて、歩きましょう。そうするなら、神様はあなたに新しい恵みを用意してくださいます。心の傷がいやされるだけではなく、新しい喜びが与えられます。これまでのマイナスが、大きなプラスになります。そして、いつの日か、「あのことがあって良かったんだ」と思えるようになります。「あのことがあって、今の私があるんだ」と喜べる日がきっとやってきます。それこそ、神様が用意しておられる逆転勝利の道です。被害者を英語でビクティムと言います。そして、勝利者をビクターと言います。両者はとても良く似ています。英語ではWe are not victim but victorという言い方があります。日本語では、「私たちは被害者ではなく、勝利者です」となります。語呂あわせ的にはうまくいきませんが、「私たちは被害者ではなく、勝利者です」は、とても良い表現です。「私たちは主にあって、被害者ではなく、勝利者です」ハレルヤ!アーメン。






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2013年4月14日 (日)

家系の癒し       申命記5:8-10

イスラエルでは、家系を重んじていたようですが、日本ではどうでしょうか?あるテレビ番組に、明治天皇や有名な政治家の子孫などが出ていましたが、みなさんはどのような家系の中におられるでしょうか?昔はお寺に過去帳というのがあったと思いますが、役所が戸籍を管理するようになってからは古くまで辿れないかもしれません。きょうは、「家系の癒し」と題して、メッセージしたいと思います。申命記のみことばには「父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」と書いてあります。そのように、旧約聖書には罪や問題が家族代々に及ぶことが語られています。私たちはどのようなものを両親や先祖から受け継いでいるのでしょうか?そこには良いものもあれば、悪いものもあるでしょう。


1.家系を通して流れる罪

 エリヤ・ハウスのジョン・サンフォード師は、家系を通して流れる罪は3つの道筋で私たちに影響を及ぼすと述べています。第一は遺伝的なものです。現在はDNAの研究が大変進んでいます。DNAには膨大な情報が含まれています。たとえば、遺伝によって糖尿病、血友病、心臓疾患、癌、色盲、精神病などを受け継いでしまうことがあるでしょう。もちろん、その中には良いものもあって、運動神経とか、芸術性、IQなども受け継ぐことでしょう。髪の毛の色や性質(ちぢれ毛)、皮膚、顔立ち、身長なども親から受け継ぎます。うちの子どもたちは、鈴木家と家内の遠藤家のどちらかを受け継いでいます。両者ともに目が悪いので、みんなメガネをしています。娘が美人なのは、鈴木家の血統だからかもしれません。息子たちが美男なのは遠藤家にしておきたいと思います。修徳の入学式のとき、教会の前をたくさんの親子が通ります。「ああ、この二人は親子だなー」とすぐ分かります。顔つきだけでなく、体型や歩き方までそっくりだからです。私たちは「遺伝」と聞くと、「ああ、遺伝だからしょうがない」と諦めてしまうかもしれません。でも、必ずしも悪い方に行くとは限りません。「神さま、私の細胞組織、DNAを祝福してください」と祈っても良いのではないでしょうか?

第二は模範です。子どもは親が口にすることばよりも、行動に従うものです。「子は親の背中を見て育つ」と日本でも良く言われます。ジョエル・オースティンのおじいちゃんは、毎朝、コーヒーをおいしそうに飲みました。一口すすった後に、「あー」と深い息をもらしました。すると、3人の孫たちも、ミルクやジュースを飲んだ後、「あー」と深い息をもらしました。昔の話ですが、テレビのチャンネルがまだ手動の頃です。お父さんがねそべりながら、足の指でチャンネルを回していたそうです。ある時、子どもがねそべりながら、テレビを見ていました。なんと、その子どもも足の指でチャンネルを回そうとしたそうです。本当に、こっけいです。どうでしょうか?みなさんはお父さん、あるいはお母さんの生活から何か模範として、受け継いでいるものがあるでしょうか?誠実さとか、きちょうめんなところとか受け継いだら良いですね。逆に、虐待とか、悪いことば、臆病なところを受け継ぐこともあるかもしれません。私などは、ゆっくり夕食を取ったこと、つまり、家族団欒という体験がありません。晩酌をしている父がいつ暴れるか分からないからです。だから、食べたらさっさと、食卓を離れる習慣がつきました。食後にお茶を飲むということが全くありませんでした。だから、今も、飲まないです。私は良くない模範を示しているかもしれません。その代わり、家内がゆっくり食卓に座って、子供たちと話をしています。

第三は神の法則、つまり「種まきと刈り取り」です。ガラテヤ6:7-8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」1カ月前、「苦い根の癒し」で既に話しました。私たちが刈り取るものは良いものもありますし、悪いものもあります。私たちはだれかが飛行機を発明したので、海外旅行にも短時間で行けるようになりました。また、だれかが自動車を発明したので、その恩恵を受けて車に乗っています。色んなお薬でもそうです。私たちは先祖が残した良いものを現在、受け取っています。同時に、残念ですが、悪いものも刈り取ります。たとえば、ダビデは罪を犯しましたが、後に悔い改めたのでダビデ自身は赦されました。しかし、それで終わりだったわけではありません。Ⅱサムエル12:10-11「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす…。』」という預言を受けました。結果的に、ダビデの家系には、殺人と性的な罪が絶えませんでした。

エリヤ・ハウスに一人の女性がカウンセリングを受けに来ました。彼女は重い鬱病の人でした。話しを聞くと、彼女には9人の兄弟と3人の姉妹がいるそうです。9人の兄弟は一人残らず、アルコール中毒で、ある者は死にかけていました。また、彼女を含め、3人の姉妹はすべて精神的な病にかかっていました。末っ子の弟は悪魔崇拝者であり、彼らの聖書を持っていました。ジョン・サンフォード師が、家族に流れる破滅のパターンのすべてが、イエス・キリストの十字架によって押し留められるように祈りました。そして、神からの天使が遣わされて、彼女の兄弟姉妹、すべての周りを取り囲み、暗やみから光へと導き出してくれるように祈りました。2年後、コロラド州でカンファレンスが開かれました。そのとき、非常に美しく、髪の毛も顔も輝いている女性が先生のもとに近づいてきました。彼女は「私のこと覚えていらっしゃいませんよね」と聞きました。先生は「覚えていません」と答えました。なぜなら、彼女があまりにも違っていたからです。あれから、ポップコーンがはじけるように、次々と兄弟姉妹がイエスさまを救い主として受け入れたそうです。神さまは種まきと刈り取りの法則を全宇宙が愛のうちにますます建て上げられていくことを望まれました。しかし、罪が入ったために、この同じ法則が、今日、私たちに悪い結果をもたらすものとなってしまったのです。私たちはこの「原因と結果」ということを忘れてはいけません。しかし、イエスさまは何のために来られたのでしょうか?イエスさまは「悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ3:8)とおっしゃいました。


2.家系を通して流れる咎

イザヤ59:12「それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。」この箇所には罪に対する3つの言葉が全部書かれています。そむきの罪と、罪と、咎です。3つ目の咎に注目したいと思います。咎というのはヘブル語でアーオーンと言います。罪と咎とは微妙に違います。咎というのは、「曲がる」あるいは「変える」という意味があります。たとえば、ある人が弓を持って、矢で射ようとします。もし、その矢が曲がっていたならどうでしょう?まっすぐ的を射たつもりでも、曲がってしまいます。これを家系の咎ということに適用したらどうなるでしょうか?先祖の咎が、下の代に何らかの影響を与えるということです。先祖のだれかが罪深い生き方、あるいは考えを抱いたとしたとします。それは、私たちの先祖が何かを曲げることになります。それを咎と言いますが、咎は子孫の私たちを直接、支配するというのではありません。厳密にいうと、影響を与えるということです。どのように、でしょうか?英語でvisit、訪ねて来るということです。友達が家に訪ねてきて、ドアをノックしているようなものです。近所の人が訪ねて来て、悩み事とか相談を持ちかけるようなものです。家系の咎というのは、そのように、私たちのところに訪ねてくるのです。どういった時でしょうか?それは、私たちが先祖と同じような状況に置かれたときです。

エリヤ・ハウスのロブという人の証です。ロブはよく息子と口論しました。最初はおだやかに話そうと思うのですが、いつも口論になります。ロブの心の中に、何か敵対心のようなものが起こってきます。あまりにもひどいので「この息子は、私の子どもじゃないよ。あなたの子どもだよ」と言ったこともあります。しかし、ある日、2000回目か分かりませんが、息子と口論になったときに、神さまが彼に語られました。「家系の中で、代々、受け継がれているお父さんと息子の間に、敵対心がある。あなたにも、妻の家系にもそういうものがある」と教えてくれました。息子は両方の家系から、それを受け継いでしまったのです。神さまに「一体、家系のどこで、息子とお父さんの間に、敵対心が生まれたのでしょうか。未解決のまま放っておかれたそういう口論があったのでしょうか?」と聞いてみました。数週間かかりましたが、ある日、なんとなくですが、お父さんと息子が立っている姿が見えました。ふたりとも腕組みをしながら、背中合わせに立っていました。その姿は口論が激しくなったので、もう、口を利きたくないという状態でした。そのとき、「もう、これ以上、このことに関わりたくない」と誓ったようでした。ロブは神さまに祈りました。「私の先祖のだれかが、お父さんと息子と苦々しい思いを持ちました。お互いに赦そうとしないで、そのまま無視して、それを忘れてしまいました。だから、私はそのことを告白して、あなたが来て、そのことを赦してくださるように」と祈りました。それからどうなったでしょう?息子と何かについて話し合おうとすると、また、口論が始まりました。そのとき、「ああ、馬鹿馬鹿しいな。こんなことで口論しなくて良いんだ」と笑うことができました。そうすると、息子にも「防御しなければ」という気持ちがなくなりました。すると、息子は「お父さん、ごめんなさい」と謝ってきました。何か、パターンが変わって、前のような口論にはならなくなりました。つまり、だれかがこの家系の問題を取り扱って祈るなら、自分ばかりか、周りの人も変えられるということです。咎が取り去られ、神さまの祝福が流れ込むようになるということです。

でも、こういうことが本当に聖書的なのでしょうか?旧約聖書には先祖が犯した罪、あるいは咎に対して、子孫が祈っているという箇所がいくつもあります。エレミヤ14:20-21「主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。」エレミヤはユダ王国が滅ぼされる直前の預言者です。イスラエル北王国は100年以上も前に、アッシリアに滅ぼされました。今度はユダ王国がバビロンによって滅ぼされてしまいます。本来、イスラエルとユダは1つの国でありました。神さまはアブラハムとの契約、またダビデとの契約を守ってきました。しかし、イスラエルの民はとてもかたくなな民で、罪を犯しても悔い改めることをしませんでした。神さまは裁きのために、彼らが外国に連れ去られることを許します。しかし、それは彼らを滅ぼすためでなく、罪を洗い流し、きよめるためでした。エレミヤは主のみこころを知りながらも、「なんとか、外国に連れ去られることだけは勘弁できませんでしょうか?」と願いました。しかし、主は「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ」(エレミヤ15:1)とおっしゃいました。では、エレミヤのとりなしが無駄だったのでしょうか?そうではありません。主は70年後、バビロンから彼らを必ず連れ戻すと約束しました。神さまも、「子孫のだれかが、先祖が犯した罪、あるいは咎のためにとりなしてくれる人はいないか」と探しておられます。

私たちは先祖の咎によって下ってきた呪いを自分のところでストップさせる必要があります。ジョエル・オースティンの本に書いてありました。ベッツィという美しい女性が拒食症と戦っていました。彼女は、自分の母親が拒食症だったことも私にも説明してくれました。聞けば、叔母にも同じ状態の方がいますし、叔母の妹さんたちも、従姉妹の中にも拒食症の方がいるというのです。この一つの病気のせいで、家族はズタズタにされていたのです。これは単なる偶然の一致ではありません。これは家族に受け継がれてきた、否定的で、破壊的な霊の力です。放っておけば、間違いなく今後も、家族をことごとく傷めつけていくことになるでしょう。ベッツィが呪われた流れの下に生きることをやめて、神様が下さる祝福の下に生きるのだと決意しない限りは、延々と続くことになるでしょう。ベッツィは拒食症との戦いは単に肉体上のものだけではないことを分かってくれました。それは霊的な戦いでもあったのです。彼女は、これらの呪いを断ち切る権威、つまりイエスの御名の権威を行使しました。そのとき、ベッツィが受け継いできた過去の呪縛を一切断ち切ることができました。彼女は自由な身となり拒食症からも抜け出ることができました。あなたにも、絶えず葛藤を覚えている分野がないか調べてみましょう。家族を見ていると、どうも同じところで足をすくわれているように見える分野です。離婚ということもあるでしょう。貧困もよくあります。依存症というのは最たるものですし、虐待も続きます。鬱病やときには病気でさえも、霊的な呪の中で起こっていることがあるのです。どうぞ、先祖が踏み外したためにやって来た咎を悔い改めましょう。また、先祖から下ってきた呪縛をイエス・キリストの御名によって打ち砕きましょう。


3.家系を通して流れる祝福

申命記5:9-10「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」神さまのご性質はどのようなものでしょうか?聖書が啓示している神さまは「呪いを与える神さま」でしょうか?あるいは「祝福を与えたい神さま」でしょうか?四代と千代では、250倍も違います。四代は約120年ですが、千代だと3000年になります。もちろん、数学的な意味ではないでしょうが、そんなに違います。神さまは私たちの家系を祝福したいと願っておられるのです。この世の神さまは私たちに災いとか罰を下す怖い神さまです。だから、そういうことのないようにお供えをしたり、祀ったりします。決して「神さまを愛し、その命令を守れ」とは言いません。私たちの神さまは私たちをとても愛しておられるので、「私を愛しなさい」とおっしゃるのです。聖書には一人の信仰によって、祝福が末代にまで及ぶという約束が記されています。その筆頭が、アブラハムです。創世記12:1-2主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。アブラハムが召命を受けたのは、75歳でした。アブラハムの生まれ故郷は、カルデアのウルでした。そこはバビロンの異教地でした。最初に召命を受けたのは、アブラハムの父、テラであったと思われます。テラはウルを出て、カナンの地を目指しました。ところが、テラは、途中のハランまで来ましたが、そこに住みついて、そこで死にました。アブラハムが召命を受けたのは、父が死んだ直後でした。「父の家」とは、ハランであり、妥協した場所です。主なる神さまは「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と約束されました。

この間、家内とこのようなことを話しました。家内の実家は岩手です。彼女のお父さんは昨年、亡くなり、一周忌で出かけました。お母さんは座間に何度か訪れました。そのとき、役員の青木姉の導きで、イエスさまを信じる祈りをしました。今もお母さんにはイエス様を信じる信仰があります。家内は、「私は岩手を離れて、都会に来たのでイエスさまを信じられた」と言いました。田舎は因習が強くて、よっぽどのことがない限り、キリスト教を信じるということはありません。私もそうですが、こっちに出て来たので、クリスチャンになれたのだと思います。しかし、一代目というのは、とても荒削りです。この世を捨てて来たので、この世に対しては挑戦的になります。私たちには子どもが4人いますが、私たちの必死さがありません。神さまの恵みの有難さを知りません。逆に、「両親が信じている神さまは本当なのか?」と疑ってかかっています。私たちは「すばらしい真理と、すばらしい神さまに出会えた」という喜びと感動がありました。しかし、子どもたちにはそれがありません。でも、一代目の私たちと違って、力みがありません。アメリカや韓国では、4代目、5代目のクリスチャンがたくさんいます。そういう人たちは、信仰という言葉を使わなくても、信仰がにじみ出ています。数年前、韓国のキム・ソンゴンのセミナーで学んだことがあります。キム師のお母さんは6代目のクリスチャンで、大阪で生まれました。やがて女性の伝道師になりました。ところが、戦争が始まり、韓国に帰りました。韓国語がほとんど分からないので、大変苦労したそうです。その後、4代目のクリスチャンのご主人と出会って結婚しました。ご主人はとても貧しい村で育ちました。その村にはクリスチャンがほとんどいませんでした。お母さんのお腹にソンゴン師が宿って妊娠8カ月の時、お母さんは祈祷山に登りました。そして、1週間断食して、お腹の子を神さまにささげる祈りをしました。やがて、息子のソンゴン師は信仰を持ちましたが、建築の設計士になりました。彼は会社の社長になることを夢見て一生懸命働きました。ところが、31歳に転機が訪れました。36歳で牧師になりましたが、お母さんは36年間祈っていたことを初めて話したそうです。やがて、生まれ育った村を訪れる機会がありました。既に、村ではリバイバルが起こっており、90%がクリスチャンになっていました。「ああ、あの息子がこんなに立派になって」と村人たちは大歓迎しました。現在、キム・ソンゴン師にはお孫さんがおり、とても自慢します。お孫さんは父方で行くと7代目のクリスチャンです。3歳のとき、聖書を持っておじいちゃんの真似をしたそうです。先生は「7代目は祝福のレベルが違う。私たちの祝福を全部背負っている」と言いました。

神さまは私たち自身だけではなく、家族を、そして家系を祝福したいと願っておられます。私たちは、異教の神さまを離れ、天地を造られたまことの神さまを信じました。とにもかくにも、私たちが神さまの系図に加えられたことを感謝します。神様の御心は、のろいではなく、先代に至る祝福を与えることです。信仰を持ったあなたが、千代に至る恵みの流れの一端を担っているのです。信仰をもったあなたが、呪いの扉を閉じ、今度は祝福の扉を開ける門番なのです。

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2013年4月 7日 (日)

ほふられた小羊に    ヨハネ黙示録5:6-14 

 先週はイースター、復活祭でした。カトリック教会に行くとイエスさまが十字架に磔になったままです。その御姿を見て、来た人々は罪を懺悔します。しかし、プロテスタント教会に来ると、十字架はありますが、イエスさまが付いていません。イエスさまはどこで、何をしていらっしゃるのでしょうか?聖書を見ると、イエスさまは復活したのち、40日間、弟子たちの前に現れました。その後、弟子たちの前で天に引き上げられました。そのとき、「また戻ってくる」と約束されました。ヨハネ黙示録はイエスさまが戻ってくるときの有様について書かれています。世の終わり、この地上では悲惨なことが起こりますが、天上ではそうではありません。今、天上ではどのようなことがなされているのか、ヨハネ黙示録から学びたいと思います。黙示録の初めに何と書いてあるでしょう。黙示録1:3「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」


1.ほふられた小羊に

 世の終わり、神のさばきが下されようとしているとき、封印された巻き物がありました。巻き物はギリシャ語ではビブロスであり、本のもとになったことばです。巻き物には七つの封印がしてあって、だれも開くことができませんでした。ひとりの強い御使いが大声で「巻き物を開くのにふさわしい者はだれか」と問いました。天にも、地にも、だれひとりその巻き物を開くことのできるものがいませんでした。ヨハネはふさわしい者がだれも見つからないので激しく泣いていました。黙示録5:5すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」長老が言っているダビデの根が勝利を得た方とはイエス・キリストのことです。イエスさまは死に勝利されたお方です。だから、その巻き物の封印を解くことができるのです。しかし、黙示録を見ると、イエス・キリストではなく、別の呼び方がなされています。6節には「ほふられたと見える小羊」と書かれています。しばらく読んでも、「小羊」という呼び名しか出て来ません。なぜ、このような意味ありげな呼び方をしているのでしょうか?ヨハネ黙示録は、迫害の中で書かれた書物だからです。ですから、敵にわからないように幻やたとえで書かれているのです。でも、私たちは「ほふられた小羊」と聞くとぴーんときます。私たちの罪のためにいけにえとなって死んでくださったイエスさまのことです。旧約聖書ではいけにえを殺すとき、「ほふる」と言いました。イエスさまは私たちの身代わりに十字架で死なれました。バプテスマのヨハネが「見よ。世の罪を取り除く、神の小羊」と預言したとおりです。

 私たちクリスチャンは、ほふられた小羊の下にある存在です。それはどういう意味でしょうか?世の中には二種類の人がいます。ほふられた小羊の下にいない人と、ほふられた小羊の下にいる人です。世の終わりは、神のさばきがどの時代よりも、はっきりと臨む時です。ほふられた小羊の下にいない人は、神のさばきをもろに受ける人たちです。小羊なるイエスさまが巻き物の封印を解くとどうなるのでしょうか?黙示録を見て分かりますが、封印を解く度に、いろんな災いがこの地に下されます。黙示録6章には見ると、第一の封印、第二、第三、第四、第五、第六と解かれていくことが分かります。その度に、厳しいさばきが起こり、多くの人たちが死にます。「では、クリスチャンは大丈夫なのだろうか?」という疑問が起こります。このところは神学的に議論が分かれるところです。クリスチャンは天上に引き上げられているという考えと、いや、みんなと同じような試練を受けるという考えです。ここにはクリスチャンという呼び方はありませんが、信仰者がいます。信仰者もいろんな迫害にあって、殺されるというふうに書かれています。では、何が違うのでしょうか?ほふられた小羊の下にいない人は、自分の命を守るために、簡単に獣や反キリストに頭を下げます。彼らはひどい目に合うと、まことの神さまを憎むようになります。一方、ほふられた小羊の下にある人はどうなのでしょうか?全く、災難や試練に合わないか、というとそうでもないようです。信仰者も天変地異の影響を受けます。守られることは確かですが、中には命を落とす人も出て来るでしょう?彼らには白い衣が与えられ、肉体の命はなくしても、永遠の命と御住まいは保障されています。つまり、世の終わりの裁きの中でも救いがあるということです。

 私たちは雨の日に外出するとき、どうするでしょうか?傘をさします。傘をさすと、雨がまともに当たりません。でも、雨が強い場合は、肩や足元が濡れます。しかし、傘を全くささないよりはましです。雨の中で、傘をさしていないならば、ずぶ濡れになるでしょう。中学生とか高校生が傘なしで、通学しているのを見るときがあります。「いやー、若いなー」と感心します。もし、世の終わりのさばきに対して、何の守りもないならばどうでしょう?これは、ひどい状況になることは間違いありません。ほふられた小羊の下にあるとは、神さまの守りがあるということです。なぜでしょう?イエス・キリストは十字架ですべての人の罪のために死なれました。つまり、罪のいけにえとしてほふられたということです。イエスさまは全人類のために、そうされたのです。では、クリスチャンとはどういう人たちでしょうか?イエスさまの贖いをいただいた人のことです。神さまから、イエスさまの贖いを受けた人はどう見えるでしょうか?「ああ、この人には罪がない。義とされている存在である。この人は裁きの対象ではない」と見えるでしょう。なぜなら、イエスさまの贖いという衣を頭からすっぽり着ているからです。あとで、天使の守りについてもお話ししますが、天使がその人たちを守ってくれます。ここ数カ月、救いということを学んでいますが、窮極的な救いとは何でしょうか?窮極的な救いとは、世の終わりが来ても、さばかれないということです。なぜなら、御子イエスが神にさばかれた、つまり、ほふられたので、私は罪赦されている存在だということです。聖歌476で、世の終わりについて歌っています。「見よ、わが罪は十字架に釘付けされたり、このやすき、この喜び、だれもそこないえじ。すべてやすし、み神ともにませば。よしあめつち崩れ去り、ラッパの音と共に、御子イエスあらわるるとも、などておそるべしや。すべてやすし、み神ともにませば。」


2.賛美と誉れと栄光が

 黙示録を読んでいくとわかりますが、地上にいろいろな災いが臨んでいきます。しかし、天上はそうではありません。ほふられた小羊と神さまを礼拝しています。地上は火や災いが臨んで阿鼻叫喚の様ですが、天上はいたって平安です。黙示録5:7以降、特記すべきことを3つだけ取り上げたいと思います。第一は、小羊が礼拝を受けているということです。8節を見ると、「四つの生き物と二十四人の長老たちが、小羊の前にひれ伏した」と書いてあります。12節には「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と賛美されています。13節では「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」とすべての被造物から賛美を受けています。とういことは、小羊であられるイエスさまは神さまだということです。なぜなら、十戒にあるように、神さま以外に、礼拝をささげてはいけないからです。キリスト教の異端であるエホバの証人は「イエスは神ではない」と言います。彼らはエホバなる神さましか礼拝しません。イエスさまも聖霊も神ではないと言います。しかし、黙示録には「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」と書かれています。つまり、神さまと小羊であるイエスさまが同等に扱われているということです。

私たちの団体が、キリスト教と言われているゆえんがここにあります。旧約聖書を学ぶことはとても重要です。そこにはキリスト教の基盤が書かれているからです。でも、私たちはイエス・キリストを通して旧約聖書を見なければなりません。なぜでしょう?私たちはイスラエルの民ではありません。イスラエルの人たちは、神さまに近づくために律法や儀式が必要でした。私たちは異邦人です。何が違うのでしょうか?律法や儀式ではなく、イエス・キリストの贖いを通して、神さまに近づくのです。律法や儀式はイエス・キリストの影であり、型です。本体が現れたならば影は退くしかありません。私たちは律法や儀式ではなく、キリストの血しおによって神さまに近づくのです。ことばを換えるなら、行いではなく恵みです。セブンスディという土曜日を安息日としているキリスト教の団体があります。彼らは旧約聖書のレビ記に記されている汚れた食物は食べません。いろんな自然食を独自に作っているようです。どういう訳か、コーヒーも飲まないようです。他にもいろんなところが、旧約聖書的で自由がありません。なぜでしょう?教えはあるかもしれませんが、キリストの恵みが強調されていないからです。使徒パウロが、Ⅱコリントでこのように教えています。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント3:15-17「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」私たちはキリストの恵みによって救われた、新しい契約に仕える者なのです。

 第二は、このところに、おびただしい数の天使がいるということです。黙示録5:11「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。」「万の幾万倍」を計算してみると、数億から数十億になります。英語のある聖書には、myriadsと訳しています。これは「無数の」という意味です。つまり、天使は、星の数ほど無数にいるということです。なぜ、天使が無数にいる必要があるのでしょうか?天使もいくつかの階級に分かれているようです。最も高いのは天使長、アーク・エンジェルです。ミカエル、ガブリエルなどが有名です。サタンも堕落前は天使長の一人だと言われています。それから、天の軍勢、ホストがいます。彼らは天と地上の間で戦っている天使たちです。さらに、クリスチャンに仕え、クリスチャンを守っている天使がいます。ヘブル1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」聖書の至るところに、天使が神の人を助けているシーンを見ることができます。ペテロが牢獄に捕えられ、明日には処刑されるところでした。なんと、ペテロはぐっすりと寝込んでいました。主の御使いが脇腹をたたいて彼を起こしました。彼は半分ねぼけていました。いつの間にか、手から鎖が落ち、第一、第二衛所を通り、最後に鉄の門もひとりでに空きました。朝方、マルコの母、マリヤの家に行くとどうでしょう?ロダという女中が、人々に「ペテロが門の外に立っている」と告げました。人々は「それは彼の御使いだろう」と信じようとしませんでした。このところに、主の御使いの助けがあります。また、初代教会の頃は、御使いが一人ひとりに付いていると思われていたということです。なぜ、無数の天使が存在しているのでしょうか?それは、何億もいるクリスチャン一人一人を守るためです。

現代も、天使に守られたという証をたくさん聞くことができます。真夜中、ある若い女性が駐車場にとめてある車のところに行こうと思いました。すると、男3人が10メートルくらい向こうの車の陰からぬっと、現れました。彼女は恐れによって体が硬直しました。しかし、その時、天を仰いで神さまに助けを求めて祈りました。どういう訳でしょう?3人の男はぎょっとした顔をして、その場に立ち止まりました。それから、数歩、後ずさりして、向きを換えて走って逃げました。後から、3人の男が別の事件で警察に捕まりました。彼らが警察にある夜、起きたことを告げたそうです。女性の間に、3メートルくらいの男が、両刃の剣を持って立っていたということです。天使を見て、3人は顔色を変えて逃げたのです。でも、天使に願わないようにしてください。父なる神さまに願うのです。そうすると、父なる神さまから私たちのもとに、天使が送られてくるからです。この世にはいろんな悲惨な事件があります。歩道を歩いていても、危ない時代です。父なる神さまは、天使を送って神の子たちを特別に守ってくださいます。

第三は、ここには礼拝の重要さが記されています。礼拝はこの地上のことだけではなく、天上でも行われている、永遠の出来事だということです。しかも、礼拝をささげる者は人間だけではないということです。黙示録5:13-14「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」アーメン。私たちは個人で礼拝をささげ、また日曜日は公で礼拝をささげます。なぜでしょう?先週の日曜日に、「金曜日で終わりではなく、復活の日曜日が来る」と申しあげました。イエスさまは金曜日、十字架につけられましたが、日曜日の朝、復活しました。だから、私たちも復活するということです。私たちがこのように、日曜日、公の礼拝を守っているのには訳があります。私たちは「イエスさまが日曜日に復活したんだ」ということを記念するために、ここに集まっているのです。しかし、記念というと言うならば、過去のことを覚えるという意味なので、十分ではありません。きょうは黙示録から学びましたが、なんとイエスさまは世の終わり、天上において礼拝を受けています。あらゆる生き物、4つの生き物、長老たち、数えきれない御使いたちが「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」と礼拝しています。と言うことは、礼拝が記念ではなく、将来の先取りであるということです。私たちは天国に行ったら、御座に座る方と小羊を礼拝することになっています。礼拝は義務ではなく、尊い宿命であります。とすれば、私たちがこの地上で、このように天に向かって礼拝をささげているとき、神さまは何と思われるでしょうか?「偉い!なんと信仰のある信仰者たちなんだろう」と感心するでしょう。まだ、神さまを見ていないのに、礼拝をささげているのですから、すごいのではないでしょうか。

ところで、礼拝を英語で、worshipと言います。Worshipは、worth価値から来たことばであると聞いたことがあります。つまり、神さまを礼拝するということは、神さまに価値があることを認めているということです。不思議なことに、私たちが神さまの価値を認めると、私たちにも価値が与えられるということです。人はその人が何を一番大事にしているかで、価値が量られます。子どものときは牛乳瓶のふたとか、瓶の王冠を集めていたかもしれません。大人になると「なんで、あんなものを集めていたんだろう」とおかしく思います。ある人はお金を大事にして、お金に頭を下げています。ある人は美貌を大事にして、美貌に頭を下げています。また、ある人は趣味を大事にして、趣味に頭を下げています。あなたは何に頭を下げているでしょう。あなたが一番、お金と時間とエネルギーを費やしているものが、あなたの神なのです。多くの人たちは偶像を拝んで、偶像に支配されています。あなたは本当の神さまを礼拝しているでしょうか?御座に座る方と小羊は、私たちにとこしえの命を与え、喜びを与え、自由を与えてくださるお方です。私たちが礼拝をすればするほど、私たちの本当の価値がわかってくるのです。そして、こう叫ばずにはおらなくなります。「賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。アーメン。」


3.聖日礼拝を中心とした生活

 前のポイントで礼拝の重要さについてお話しました。この日曜日に公の礼拝をささげるのは、復活の記念だけではなく、将来の先取りであるということです。今、天上でも礼拝がなされております。そして、私たちもいずれはそこに加えられるということです。ということは、神様を礼拝することは一時的なことではなく、永遠に続くことがらであります。今日は4月7日で、今年度、最初の聖日礼拝です。先週、総会資料を作っていましたが、そこに現住倍餐会員の名簿があります。一番下に「現住倍餐会員礼拝に出席し、月定献金をささげている教会員をさす」という説明書きがあります。現在、111名の兄弟姉妹が名を連ねています。しかし、「しばらく来ていないなー」という名前がけっこう並んでいます。「ああ、どうしたんだろう?」と思います。「何かあったんでしょうか?」と電話をしたり、訪問すれば良いのですが、私はほとんどしません。その人の自由意思に任せているからです。でも、考えてみると「兄弟姉妹とか、神の家族」と言いながらも、関係が薄いなーと思います。私の家内は「カーブス」という「健康体操教室」に通っています。「きょうは行く気がしない」と休むときがあります。また、体重測定の日は行きたくないらしいんです。しばらく行かないと「どうされたんですか?」と電話が来ます。それで、励まされてまた行きます。私は「会員制」は堅苦しいのであまり使ってきませんでした。「誰でも、礼拝に来て良いですよ」というスタイルでやってきました。でも、「いやだったら、いつでも去って良いですよ」という意味もなりたちます。入口も広いですが、出口も広いということです。

 この世では、「信仰する」とか「○○に入る」と言います。一度入ったら、抜けられない宗教団体がたくさんあります。それに比べてキリスト教会はとても淡泊です。「最近、見てないなー」で終わってしまいます。「聖日礼拝厳守」とか、律法的な表現はしたくありません。でも、聖日礼拝を守ることは信仰のバロメーターであることは確かです。心を尽くして神様を愛するということは、神様に礼拝をささげることでもあります。「いや、私はインターネットで礼拝を守っています」という人がいます。でも、聖書には「力を尽くして神様を愛しなさい」と書かれています。力とは身体を表すことばです。つまり、体をそこまで運んで、犠牲を払う必要があるということです。私は聖日、日曜日を1週間の頂点に生活することをお勧めいたします。日曜日、休めるように普段から準備し、努力しておくということです。デートも教会でしたら良いでしょう。1週間に1日休むという安息日の律法があります。新約聖書的にも、休むことが必要ですが、その体を別のことに積極的に使うということです。そうすると、かえって疲れが取れるということです。午前中まで寝て、横になってテレビを見るのも良いですが、礼拝に来て力いっぱい賛美をささげるとかえって疲れが取れるということです。礼拝に来られた人たちを、神さまは手ぶらで帰らせません。新しい力と信仰と祝福を与えてくださいます。どうぞ、神様中心の生活をして、平安と祝福の中を歩みたいと思います。


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