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2013年3月31日 (日)

復活を生きる       Ⅱコリント4:7-14

イースターおめでとうございます。復活祭のメッセージはどのようなものでしょうか?おもに2つの面から語られます。それは、2000前、キリストが墓を破ってよみがえったことです。キリストの復活こそが信仰の土台であるということです。もう1つは、私たちが将来、復活にあずかることができるという希望です。なぜなら、キリストが初穂としてよみがえられたのですから、私たちも死後よみがえることができるという保証です。一方は復活を過去の事実として語り、他方は復活を将来の希望として語ります。本日はそのどちらでもなく、復活を現在のこととして、お語りしたいと思います。なぜなら、復活の力を現在の私たちが体験できるからです。


1.宝の性質

 Ⅱコリント4:7「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」この宝とは何でしょうか?時間があったら、みんなで考えてもらうのも良いですね。礼拝ですので、私がいくつかあげてみますので、みなさんがお考えください。土の器とは、私たちの肉体です。イザヤ書には神さまが陶器師であり、私たちが陶器であると書かれています。陶器というのは、ご存じのとおり、欠けたり割れたりしやすい器です。「神さまはどうして、アルミとかステンレスのような金属の器にしなかったのかな?」と思います。しかし、それでは神さまの力が現れてこないからかもしれません。私たちの肉体は、土の器のように落ちれば割れる弱い存在です。でも、土の器の中に、宝があるということです。その宝には、測り知れない力があって、「ああ、それは自分のものではなくて、神さまから出たものである」と分かるということです。ということは、壊れそうでこわれない。死にそうで死なないということではないでしょうか?私たちは弱い土のような肉体を持っていますが、それだけではありません。計り知れない力が内側からあふれ出てくるということです。「なんだか、すごいなー。それは一体何だろう」と思います。でも、その前に、土の器に、宝を持っている人の特徴が4つありますので、1つ1つ取り上げてみたいと思います。宝を持っている人の特徴とはどういうものなのでしょうか?今回は、JB.フィリップス訳を参考にしながら学びたいと思います。

 第一は、Ⅱコリント4:8「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません」です。JB.フィリップス訳では、「あらゆる側面から圧迫されても、挫折しない」と書いてあります。挫折を意味するfrustrateは、「フラストレーションを起こさせない」ということでもあります。私たちは問題が起こり、思いどおり事が進まないとイライラします。でも、使徒パウロはどうして、イライラしなかったのでしょうか?それは、大いなる神さまの御手の中にあったからです。問題の向こうには神さまの御手があります。旧約聖書のヨセフは兄弟から妬みをかって、奴隷に売られました。しかし、主がヨセフと共におられたので、彼のすることをすべてを成功させました。しかし、主人の妻がヨセフを誘惑したので、ヨセフは上着を残して逃げました。ヨセフは嫌疑をかけられ、今度は監獄に入れられました。しかし、ヨセフは挫折しませんでした。監獄の中でも、主が彼と共におられたので、何をしても成功させてくれました。あるとき、パロの家来の夢を解き明かしてあげました。ヨセフは「あなたが幸せになったときには、私のことをパロに話してください」とお願いしました。しかし、家来はコロっと忘れてしまいました。それでも、ヨセフは挫折しませんでした。しかし、それから2年後、パロが夢を見ました。エジプトのすべて呪法師も知恵ある者もその夢を解き明かすことができませんでした。そのとき、家来がヨセフのことを思い出し、ヨセフは監獄から出され、その夢を解き明かしました。ヨセフはエジプトの総理大臣になり、大飢饉からエジプトを救いました。主が共におられるなら、四方八方から苦しめられても、窮することがないということです。

 第二は、「途方にくれていますが、行きづまることはありません」です。JB.フィリップス訳では、「困らされても、絶望しない」と書いてあります。困らされるは、puzzleということばです。パズルとは、困らせる人や物、難問、悩みという意味があります。これは、受け身形なので、だれかそういう人がいたり、そういう問題に出くわすということです。この世に生きている限り、敵対する人が必ずいるものです。また、めんどうなことや嫌なことが起こります。では、どうしたら行きづまることはないのでしょうか?私たちはどうしても、困らせる人物や事柄、あるいは嫌な問題に目が行きます。やがてそういうものが思いを支配して、それ以外、考えられなくなります。たとえば、歯が痛いと、歯のことしか考えられなくなります。同じように、嫌な人やめんどうなことに思いが集中してしまいます。どうしたら良いのでしょうか?鷲という鳥は、鶏やカラスとは違います。鶏は地面を見ながら、えさをついばみます。カラスは「カア、カア」と文句を言って、欠点を突っついてきます。カラスは小回りが利くので、鷲は突っつかれて、獲物を横取りされることがあるそうです。そのとき鷲はどうするでしょうか?天高く昇ります。向かい風が来れば来るほど、翼をかって高く昇ります。私たちクリスチャンは、力ある神さまの子どもですから、鶏やカラスとは違います。鷲のように、向かい風を捕えて、天高く昇るのです。どうぞ、日々起こる、問題に支配されないようにしましょう。主にあって、問題を踏みつけながら、成功と繁栄をいただきましょう。

第三は「迫害されていますが、見捨てられることはありません。」JB.フィリップス訳は、全く同じです。英語のdesertは、「家族、組織、職務から捨てられる」という意味があります。しかし、JB.フィリップスはbut we are never deserted「決して、見捨てられない」と訳しています。現代は終身雇用制というのがなくなってしまいました。「肩たたき」と言いましょうか、職場でも冷や飯を食わせられ、辞職に追い込まれることがあるようです。家庭内でも、子どもが育児放棄されることがあるでしょう。夫がどこかに行って、家に帰って来ません。それで、妻と子どもが淋しく暮らしている家庭もあります。本当にせちがらい世の中です。しかし、イエスさまは何とおっしゃったでしょうか?ヘブル13:5「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われました。特に日本では、キリスト教信仰を持っているだけで、目のかたきにされ、迫害に会う場合があります。黙っていたら、問題にならないでしょうが、福音を証すると必ず反対者が起こります。使徒パウロもユダヤ人から多くの迫害を受けました。でも、神さまはあらゆる迫害から、パウロを救い出しました。パウロは、Ⅱコリント1:10「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです」と言いました。迫害があればあるほど、神の救いを体験し、結果的に私たちの信仰が強くなるのです。台風のような嵐がヤシの木に当たったらどうするでしょうか?ヤシの木は、強風によって、ものすごくしなります。もし、ヤシの木に人格があったら、どう思うでしょうか?「この嵐は永久に続く」と思うでしょうか?それとも「この嵐は一時的である」思うでしょうか?もちろん「一時的」です。ヤシの木はしっかりと地面に根をおろして耐え忍びます。嵐が去ると、またピンと真っすぐ立ちます。嵐の中にあっても、イエスさまは私たちを見捨ててはいません。嵐を私たちの中に入れない限りは大丈夫です。

第四は「倒されますが、滅びません」です。このところは、JB.フィリップス訳がとっても有名です。「私たちはノックダウンされることもあるでしょう。しかし、決してノックアウトされません」と訳されています。ボクシングでは10カウントでノックアウトになります。でも、おきあがりこぼしのように、倒されても再び立ち上がるのです。これは自分の頑張りではありません。主が私たちを支えていてくださるからです。詩篇37:24「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」とあります。日本は「一度、倒れたらもうおしまい」という考えがあります。スキャンダルとか、何かの罪でさばかれると「あの人は倒れてしまった。もう終わりだ」とレッテルを貼ってしまいます。政治家も芸能人も牧師も、そう言われる時があります。ダビデは姦淫と殺人をいっぺんに犯しました。しかし、主が彼の罪を赦し、きよめてくださいました。ダビデは再び立ち上がり、すばらしい王として神さまから愛されました。倒れることは恥ではありません。倒れたままでいることが恥なのです。私たちクリスチャンは、世の中の人よりも厳しいところがあります。なぜなら、神のことばと律法を持っているからです。みことばの剣で人々を切り刻みます。そうではなく、私たちは神の恵み、神の善、神の愛、神のあわれみをもっと強調しなければなりません。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字は殺し、御霊は生かすからです。」私たちは古い契約ではなく、新しい契約に仕える者です。私たちは土の器ですが、内側から主が支えてくださっておられます。私たちは土の器ですが、主が共におられ、外側からも支えてくださっておられます。だから、土の器であっても、壊れそうで壊れないのです。なぜなら、この宝を、土の器の中に入れているからです。


2.復活のいのち

それでは、この宝とは何でしょうか?ある人は「それは福音である」、またある人は「キリスト御自身である」と言うでしょう。もちろん、そうだと思います。しかし、もっとはっきりとしたことが記されています。Ⅱコリント4:10-11「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」この宝とは何でしょうか?さきほど、土の器とは私たちの弱い肉体であると申しあげました。それは、間違いありません。でも、私たちは弱いままではありません。なぜでしょう?私たちの肉体に不思議な力が作用していることが分かります。使徒パウロは「いつでもイエスの死をこの身に帯びている」あるいは「イエスのために絶えず死に渡されている」と言いました。簡単に言うと、イエスさまの十字架の死に似たものとなったということです。パウロはいろんな迫害や苦しみを受け、イエスさまの死に似たものとなりました。普通、死というものは嫌なものであり、そこには何の希望も光も見えません。でも、イエスさまの死とはどういうものだったのでしょうか?イエスさまは十字架で死にました。それは、私たちの罪のために罰を受け、贖いとなるためでした。では、イエスさまはそのままずっと死んでいたのでしょうか?そうではありません。父なる神さまが、「もう使命を果たした」とばかり、イエスさまをよみがえらせてくださいました。つまり、イエスさまの死は、死で終わってはいないということです。どうなったのでしょうか?そうです。三日目によみがえったのです。だから、パウロは「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」あるいは、「イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」と言いました。

これはどういう意味でしょうか?イエスさまは、死んだけれども、復活しました。同じように、私たちも苦しみを受け、イエスさまの死と同じ状態にならば、どうなるでしょう?イエス様のいのちが明らかになるということです。なぜなら、父なる神さまが私たちをよみがえらせてくださるからです。ピリピ3:10-11「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」パウロは知っていました。キリストの死と同じ状態になると、復活の力が現れるということを知っていました。ここには神の逆説、パラドックスがあります。普通は死んだらおしまいです。私たちは、大けがをしたり、大病を患うと死にそうになります。普通は「ああ、もうおしまいだ」と思うでしょう。しかし、そのときにスイッチが入り、復活の命が作動するということです。この会堂の電気は、今は付いています。しかし、停電になったらどういうことが起こるでしょうか?実は天上には停電になったときにつく、電灯が4つ付いています。私たちはサイボーグではありませんが、あるところはサイボーグに似ています。この肉体が死に瀕するようなことがあると、なんと、自動的に復活の命が作動する仕掛けになっているのです。どうぞ、この世の人たちと同じように考えないでください。この世の人たちは、肉体の命がなくなったら、「もうおしまいだ」と諦めるでしょう。しかし、私たちはそうではありません。イエスさまの死を身に帯びているので、イエスさまのいのちが現れるときとなるのです。ジョエル・オスチーンのおばあちゃんが、お医者さんから「パーキンソン病の恐れがあります」と言われました。おばあちゃんは「私はそんな病気になるには年を取り過ぎています」と拒否しました。結局、パーキンソンにはなりませんでした。ジョエル・オスチーンのお母さんが、肝臓がんになりました。医者からもあと半年だと言われました。黄疸がひどくなりました。彼女は若い頃の写真を台所やトイレ、洗面台にはりました。そして、若い頃の自分をイメージしながら、癒しのみことばを唱えました。すると、癌がすっかり癒され、元通りになりました。これが、復活のいのちです。

Ⅱコリント4:14「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです」と書いてあります。これは、将来のことだけを言っているのではありません。現在もそうだということです。クリスチャンであるならばキリストの復活を信じていると思います。「キリストが復活しなければ私たちの信仰はむなしい」とパウロが言いました。キリストは2000年前、復活しました。これは事実ですが、過去の出来事です。また、キリストは眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられました。これは、私たちも将来、キリストのように死後、復活するということです。死んでも、やがて復活することができるというのはすばらしい希望です。でも、それは将来の出来事です。それでは、キリストの復活は現在、何の力も果たさないのでしょうか?キリストの復活は、大事な教理として、額縁に入れて飾っておけばよいのでしょうか?そうではありません。キリストの復活は、死ぬべき肉体を持っている私たちに働いているのです。死にそうで、死なない。それは、キリストの復活のいのちを帯びているからです。キリストの復活のいのちこそが、土の器の中にある宝ではないでしょうか。この宝を持った者はどうなるのでしょうか?「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」アーメン。

ヨハネ11章に、ラザロの物語があります。イエスさまがベタニヤに到着したとき、ラザロが死んで既に4日たっていました。マルタはイエスさまに「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。マルタは「もう遅すぎます」と言ったのです。残念ながら、これは過去の信仰です。イエスさまはマルタに「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。マルタは「私は、終りの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」と答えました。イエスさまは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われました。マルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると、信じております」と答えました。マルタはすばらしい告白をしました。しかし、残念ながら、それは未来の信仰です。なぜなら、イエスさまはラザロを終わりの日によみがえらせるのではなく、今、よみがえらせるとおっしゃったからです。イエスさまは「その石を取りのけなさい」と命じました。マルタは「主よ。もう、臭くなっておりましょう。四日になりますから」と言いました。これも、相変わらず過去の信仰です。イエスさまは彼女に「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と私は言ったではありませんか」と言われました。イエスさまは父に感謝した後、「ラザロよ。出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると、死んでいた人が、手足を長い布で巻かれたまま出て来ました。なんと、ラザロがよみがえったのです。イエスさまがここで示したかったことは、何でしょう?イエスさまのよみがえりは、過去でもなく、未来でもありません。いつですか?「今でしょう!」「今、私を信じる者は、死んでも生きるのです」と、現在の信仰を語られたのです。私たちはキリストの復活について語ります。もちろん、それはキリスト教信仰の土台です。でも、過去の出来事です。私たちは死後の復活について語ります。もちろん、それは私たちの究極の希望です。私たちは死後、復活するのです。でも、それは未来の出来事です。私たちが最も必要なのは、今どうなのかということです。キリストの復活が、現在の私たちにどう働いているかということです。私たちはキリストの復活という過去の信仰だけでは不十分です。また、私たちは死後の復活という将来の信仰だけでも不十分です。そうではなく、今、私たちに復活の力が働いているという現在の信仰が重要なのです。

私たちは地上で生活していると、打ちのめされるようなことがあります。たまに、「あー、へこまされた」とか「へこんだ」と言うときがあります。でも、よく考えてください。イエスさまは金曜日、十字架につけられて死にました。悪魔から見たら、完全にへこまされた状態です。土曜日になっても音沙汰なしです。悪魔は大喜びで悪霊たちと祝宴をあげました。「やった。イエスは死んでしまった。これからは俺たちの時代だ」と言いました。ところが、どうでしょう日曜日の朝、イエスさまは死を打ち破って復活しました。私たちの生活において、死に瀕するような金曜日があります。土曜日も何の音沙汰もありません。たとい、どん底に落ちても、日曜日が来ます。神さまがイエスさまを死人からよみがえらされたように、私たちをよみがえらせてくださいます。私たちは毎週、日曜日に集まり、「金曜日はいつまでも続かない。復活の日曜日が来る」ということを確認するのです。あなたの人生において、どんなに落ち込むようなことがあっても、復活の日曜日は必ずやってきます。

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2013年3月24日 (日)

十字架のことば     Ⅰコリント1:18-25

 今日から受難週が始まりますので十字架に関するメッセージをさせていただきます。18節に「十字架のことば」とありますが、これはどういう意味でしょう?英国の聖書は、「十字架の教義」と訳されています。JBフィリップスは「十字架の説教」と訳しています。他には「十字架のメッセージ」とも訳されているのもあります。パウロはかつて、コリントの人たちに「十字架のことば」を語りました。これは福音であり、この福音によってコリントの人たちが救われ、教会ができました。きょうもこの礼拝において、「十字架のことば」を語ります。結果的にどうなるでしょうか?ある人は福音を信じて救われ、また、ある人は救いの確信を持つことができるでしょう。


1.十字架のことば

 使徒パウロは、福音は「神の力」であると言っています。力はギリシャ語では、ディユナミスと言って、ダイナマイトの語源になっています。ご存じのように、ダイナマイトにはものすごい破壊力があります。では、「神のダイナマイト」とはどんな力なのでしょうか?パウロは「救いを受ける私たちには神の力です」と言っています。福音を心の中に受け入れると、「どかん」と爆発します。そして、不信仰や罪の塊が砕かれ、「あぁー、イエス様を信じます」と救われます。しかし、みんながみんなそうではありません。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かである」と書いてあります。「愚か」とはナンセンス、馬鹿馬鹿しいという意味です。つまり、ある人たちにとっては、十字架のことばが力にならないということです。十字架のことばが万能ではないとは、一体、どういうことなのでしょうか?よく、見るとこの世に2種類の人がいるようです。前者は救いを受ける取る人たちです。彼らには十字架のことばが神の力になっています。しかし、後者は滅びに至る人たちがいます。彼らには十字架のことばが力にならないのです。一体、どちらに責任があるのでしょうか?十字架のことばでしょうか?それとも、「愚かだなー」と思って排除している人の方でしょうか?

 パウロの時代、大きく分けて二種類の人たちがいました。1つはユダヤ人です。彼らは「自分たちは神から選ばれた者であり、既に救いを得ている」と自負していました。もう1つはギリシャ人です。23節には「異邦人」という名称で出ています。異邦人とは「神さまの選びから漏れている人たち」という意味です。これは、ユダヤ人が他の人たちを馬鹿にして言った表現です。ここでは、異邦人の代表としてギリシャ人のことが取り上げられています。当時のギリシャ人の特徴は何だったでしょうか?コリントはギリシャの影響を受けていました。ここに出て来る「知恵ある者」「知者」「学者」「この世の議論家」「この世の知恵」など、すべての表現は、ギリシャ人にあてはめられたものです。私たちも、歴史でギリシャ人がどのようなものかを知っています。ギリシャ人は哲学で有名です。ソクラテス、プラトン、アリストテレスという名前はだれでも知っているでしょう。パウロの頃は少し後だったので、エピクロス派とかストア派の哲学者たちが主流だったようです。とにかく、ギリシャ人が最も誇りにしていたのは知恵(ソフィア)でした。哲学、フィロソフィーは「知恵を愛する」から来ています。彼らが最も頼りにしているのは人間の理性です。彼らは「理性こそが、真理を見出し、神にも達することができるんだ」と信じていました。神と言っても人格的なものではなく、超越的な存在です。彼らは「自分たちが知者であり、最高の知恵を持っている」と誇っていました。しかし、パウロは、それは「この世の議論家」であり「この世の知者」であると定義しています。なぜなら、「この世が自分の知恵によって神を知ることができない」からです。生まれつきの人間には、十字架のことばが愚かに見えるでしょう。彼らの知恵や理性では、十字架のことばを救いにいたるものそして理解できないのです。

 一方、神の知恵とはどういうものなのでしょうか?世の中から見たら、神の知恵は愚かに思えるでしょう。なぜなら、人間の理性に反するからです。ギリシャ人にとって第一に理解できなかったのは、神が肉体をとって人間になるということでした。彼らは、「霊魂は善であり、肉体は悪である。善なる霊魂が肉体という牢獄の中に閉じ込められている」と考えました。霊魂の不滅は信じましたが、肉体の復活には興味がありませんでした。なぜなら、肉体は悪であり、不要なものとみなされていたからです。もう1つは、神が人間の身代わりに死ぬということでした。不滅の神が死ぬということ自体、解せません。彼らは、神は超越者であって、人間とは全く、関わりの持たないものだと考えていました。しかも、人間には自分で救われるための知恵があり、罪の贖いなど不要だと考えていたのです。ですから、「十字架のことば」は、全く愚かでナンセンスだと思ったのです。実は日本人もギリシャ人と似たところがある異邦人です。日本は、簡単に言うと、仏教とアニミズムが混じった国です。神観がとても曖昧で、「人は死んだらどこかに行く」位にしか思っていません。鎖国が解かれてから、日本に西洋文化が入ってきました。いわゆる文明開化です。西洋文化にはキリスト教が根底にありました。しかし、日本人はとても器用な民族で、底のものは捨てて、上澄みの良いところだけを受け取りました。学校教育も西洋の哲学、西洋の学問が主流です。産業革命も手伝って、産業に役立つ型どおりの知識を詰め込みます。そうすると、ギリシャ人そっくりになります。十字架のことばは、世の中を生きて行くのに役に立たないし、かえって邪魔になるので、日本人には愚かに思えるのです。

 ある有名な人がこう言いました。「『私はクリスチャンではありません』と言う人がいますが、日本人としては至極当然なことです。そこには説明はいりません。しかし、日本において、『私はクリスチャンです』と言う人は、『どうしてですか?』と特別な説明が求められるでしょう」と。本当です。日本は全くの異邦人であって、クリスチャンになりにくい人種なのです。だから、人口の1%にも満たないのです。でも、どうしてある人たちはクリスチャンになるのでしょうか?「あなたはどうしてクリスチャンになったのでしょうか?」みなさんの中に「だれか、論理立てて説明してくれたので、私はキリストを信じました?」という人はいるでしょうか?あるいは、「この人が言っているなら、間違いないのでは?」と人を見て信じたでしょうか?多くの場合、日本人は、「この人は本当に信頼できるだろうか?」としばらく眺めています。そして、「この人は良い人だ。私はこの人が好きだ。この人が信用できる」と思うようになります。その次に、「この人が言っているならば、真理じゃないだろうか。それじゃ、信じよう」となります。どうしても、日本人は人が間に入らなければなりません。でも、中国人や韓国、大陸の人たちは、人間は関係ありません。言っている人がどうであろうとも、真理であるならば信じるそうです。「それが、真理であるならば、信じる」。だから、クリスチャン人口が高いのかもしれません。しかし、どちらにしても、信じるために、克服しなければならないものがあります。それは人間の知恵であり、理性です。マインド・コントロールは半強制的に、そういうものを休ませて、信じさせます。脅したり、長時間眠らせないで、同じことばを繰り返します。理性が働かない状態して、あることを信じ込ませます。しかし、それは神さまの方法に反しています。神さまの方法とは何なのでしょうか?Ⅰコリント1:21「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」アーメン。つまり、人間の知恵や理性では、神さまを見出すことはできません。人間は神の被造物であり、被造物が「神はなんぞや」とは言えないのです。まるで「道端の蟻が人間とはこういうものだ」と言っているようなものです。この世の知恵では神を見出すことも、救いを得ることもできません。その代わり、十字架のことばを語るのです。「人間には罪があって、このままでは神さまのところに行けません。このままでは、滅びてしまう存在です。しかし、イエス・キリストがこの世に降りてきて、私たちの罪の身代わりに死なれました。キリストは三日目によみがえり、神さまのところへ道を設けてくださいました。私たちはこのキリストを通して、神さまのところへ行けるのです。」これが十字架のことばです。しかし、「なんで、キリストの2000年前の出来事が、私と関係があるの?私が十字架にかかってくれと頼んだ訳でもないのに、勝手に死んだのに。」これが人間の知性の限界です。しかし、ある時、「ああ、そうなんだ。キリストの十字架は私のためだったんだ。キリストは私の罪のために死なれたんだ」と分かる時があります。キリスト教が啓示の宗教と言われるのはこのためです。哲学は人間の理性で、真理を見出し、神さまのところに到達しようとします。しかし、キリストは何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。キリストは「私が道、私が真理、私がいのち」と言われました。つまり、キリストの啓示が上から臨むときに、哲学は終了します。私たちに残されているのは、十字架のことばを「受け入れるか、受け入れないか」「信じるか信じないか」の二つに一つになるのです。もし、あなたが信じて受け入れるならば、神のダイナマイトとして働いて、あなたに救いをもたらすでしょう。その結果、あなたは救いを受ける人たちの中に入るのです。


2.宣教のことば

 Ⅰコリント1:21-23「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」ここに「宣教のことば」と出て来ますが、さきほどの「十字架のことば」と違うのでしょうか?文脈から見ると、同じであろうと思います。しかし、パウロはあえて「宣教のことば」あるいは「キリストを宣べ伝える」と言い直しています。「宣教する」はギリシャ語では「ケーリュッソー」と言います。英語ではproclaimとかpreach と訳されています。つまり、「十字架のことば」を告知したり、説教するということです。今、私は講壇の上で、「十字架のことば」を説教しているところです。しかし、「宣教する」に対して「教える」があります。これはギリシャ語で「ディダスコー」と言います。宣教はキリストを信じていない人に、十字架のことばを語って、その人が信じるようにと働きかけるものです。そして、教えとは、どちらかと言うとその人が信じていることに確信を持たせるために働きかけるものです。信じた後、どのように生きるべきかについて教えます。イエスさまは両方行いました。マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」とあります。使徒パウロも、十字架のことばについて宣教し、また、教えました。どっちが難しいでしょうか?どっちも難しいですね。強いて言うなら、全く信じない人に対して、信じさせると言う方がより難しいでしょう。なぜなら、霊的に生まれ変わっていないので、霊的なことがさっぱり分かりません。その点、クリスチャンは霊の目が開かれているので、みことばを理解することができます。

 さて、パウロは信じていない人に対して、十字架のことばを宣教したのでしょうか、それとも教えたのでしょうか?宣教したのです。でも、どんな誘惑に駆られるでしょう?すぐれた知恵や知識、あるいは弁論術を用いたくなるでしょう?できる限り、彼らの理性に訴え、神さまとキリストを信じるように努力するでしょう。パウロはやろうと思えばできる人でした。なぜなら、ガマリエルの門下生で、エリート中のエリートでした。律法について熟知し、ヘブル語もギリシャ語も話すことができました。でも、パウロはどうしたのでしょうか?Ⅰコリント2:1-2「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」何ということでしょう。すぐれたことばや、すぐれた知恵を用いて宣べ伝えませんでした。そうではなく、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のことしか語らなかったのです。つまり、十字架の出来事を単純に宣べ伝えたということです。多くの場合、牧師になるために神学校に行って勉強をします。神学を勉強することは良いことです。でも、信じていない人に、宣教をする場合はあまり役に立ちません。知性に訴えるために、難しい用語を使いますので、かえって遠ざけてしまうでしょう。人を救いに導くための、神さまのみこころは何でしょう?Ⅰコリント1:21「それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」アーメン。愚かになることを覚悟して、十字架のことばを単純に語るしかないのです。

 太平洋伝道協会の羽鳥明牧師の弟さんに、羽鳥純二牧師がいらっしゃいました(昨年、天に召されました)。彼は若い頃、東京帝国大学の理学部に入りましたが、在学中に終戦を迎えました。卒業後、共産党に入り、地下にもぐって活動しました。羽鳥明牧師がアメリカの留学から帰ってきて、弟を教会に誘いました。「礼拝に来ないか」と言うと「行く」と言うのです。ちょうどその日は、復活祭でした。説教をしている牧師はずうずう弁で、「福音」のことを「ふぐいん」と言って、まるで土から掘られたような方でした。羽鳥明牧師は心の中で「弟は東大の化学を出たんだから、もっと難しい話しをしてほしい。死んだ人がよみがえったなんて果たして信じるだろうか」と疑ったそうです。説教の後、牧師先生が「きょう、イエスさまを信じる人は手をあげなさい」と招きをしました。羽鳥明先生は「えー?無理だろう?」と縮こまっていました。すると、弟の純二さんが「すーっ」と手を挙げたそうです。後で、「純二や、どうして信じられたんだ」と聞きました。純二さんが答えました。「僕はイデオロギーが人間を変えると信じて、共産党に入り、地下活動をしました。しかし、理想の国家を作ると言っていた人たちの、腐敗した姿を見て失望しました。ちょうどそのときに、お兄さんから誘われたのです。」と涙ながら答えたそうです。純二さんは、宣教の愚かさを通して救われたんです。

既に天に帰られましたが、羽鳥明牧師の友人で、本田弘慈という伝道者がおられました。本田先生のメッセージはとても単純でしたが、大ぜいの人が救われました。先生の伝道説教には、そんなにレパートリーはないんです。私は「さっちゃん」の話しが忘れられません。何度聞いても、涙を流しました。さっちゃんは小学校5年生です。さっちゃんのお母さんの顔には大きなやけどがありました。あるとき、さっちゃんの家で誕生パーティーを開くことになりました。みんな友達が集まりました。友達は「さっちゃんのお母さんを紹介してよ。あの人がお母さんなの?」と聞きました。「いいえ、あの人はお手伝いさんなの。お母さんは外国に出掛けているの」と嘘をつきました。ある時、授業参観がありました。さっちゃんは「お母さんはお化けみたいだから、学校に来なくて良いから」と断わりました。ある日、時間があったので、お母さんが顔のやけどについてさっちゃんに話しました。「さっちゃんが3歳位の頃だったわ。私が夕食の買い物をするためちょっと留守したの。帰ってくると、近所が火事だというので良く見たら、自分の家だったの。家がすごく燃えて、周りの人が止めたけど、家の中に飛び込んだの。そして、さっちゃんを抱きかかえて出るとき、大やけどをしちゃったの。消防員は『子どもがいろりの傍で、マッチ箱で遊んでいたからだろう』と言っていたわ。でも、良かったわ。さっちゃんが助かったんだから」と告げました。さっちゃんは「お母さん、お化けみたいだなんて言って、ごめんなさい。私を助けるためだったのね」と謝りました。それから、さっちゃんは、クラスのみんなに「さっちゃんのお母さんは、日本一のお母さんよ!」と自慢するようになったそうです。本田先生はこう続けます。「愛する兄弟姉妹。イエスさまは、私たちが自分の罪によって罰を受けなければならないところを、身代わりになって死んでくださいました。十字架で『父よ、彼らをお赦しください』と祈られました。だれのために祈られたのでしょう。そうです。あなたのためです。あなたの罪のためにイエスさまは十字架で死なれたのです。」そのように話してから、「きょう、イエスさまを信じる人は手をあげてくさい」と招きをします。すると、大ぜいの人が手をあげます。

人間の知性や理性を駆使して語っても、ある程度のところまでは行きます。しかし、「私の罪のために十字架にかかられたイエスさまを信じる」ところまでは行きません。こっち側とあっち側には、とても大きなギャップがあります。人間の知性や理性では、そのギャップを埋めることができません。最後は、その人がジャンプするしかありません。宣べ伝える方はできるだけ、そのギャップが狭くなるように手助けはできます。でも、理性では無理なんです。どうしてもそこに、聖霊が臨んでくれなければなりません。なぜなら聖霊が罪を認めさせ、十字架の救いを啓示してくださるからです。また、十字架のことばを宣べ伝える方にも責任があります。神さまはあえて生身の人間、それも元罪人を用いられます。天使はキリストの贖いを語ることができません。なぜなら、救われた経験がないからです。十字架のことばを語れる人は、本当に十字架体験がある人です。「私の罪のためにイエスさまが十字架で死なれた。十字架の贖いによって私は救われた」。そういう、確信がなければ、十字架のことばを語ることができません。たくさん聖書を勉強し、人に教えることができても、十字架のことばを語るのは別問題です。そこに命がかかっているかどうかは、聞いている人が分かります。いくら知的なことを語っても、十字架の体験がなければ嘘っぽく聞こえます。逆にしゃべるのが下手でも、トツトツとしても、贖いを体験している人は十字架のことばを語ることができます。聖歌402に「丘に立てる荒削りの」という歌があります。最初は「荒削りの」って何のことかと思いました。丘とはゴルゴタの丘です。「荒削りの」というのは、ちゃんと加工していない丸太のことです。一般的に十字架というと、輝いているシルバーのアクセサリーを思い浮かべます。そうではなく、イエスさまは荒削りの十字架にかかれたのです。聖歌は「十字架の悩みはわが罪のためなり」と歌います。悩みとは「神から捨てられた苦しみと痛み」のことです。しかも、それは私の罪のためだったのです。だれか他の人のためではありません。私の罪のためだったのです。ここの接点がある人こそが、十字架のことばに生かされている人なのです。十字架のことばに生かされている人は、十字架のことばを宣べ伝えずにはおられません。なぜなら、自分がそれで救われたからです。Ⅰコリント1:18「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」


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2013年3月17日 (日)

~人間の原罪と現罪~    亀有教会教育牧師 毛利佐保

<Ⅰヨハネの手紙1:5-10>

1:5
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
1:6
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
1:7
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
1:10
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

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来週は受難週です。イエス様が私たちにしてくださった、ひとつひとつの事について思い起こし、イエス様の十字架の苦しみに思いを馳せる時です。イエス様の十字架の苦しみは、私たちが犯した罪のためです。
では、その罪とは何でしょうか。

先ほど読んだ第Ⅰヨハネには・・・

<第Ⅰヨハネ1:8 >
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
<第Ⅰヨハネ1:10 >
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と書かれています。
イエス様が十字架に架かって私たちの罪を贖ってくださったにも関わらず、私たちは今も尚、罪を犯していると聖書は言っています。これは一体どういう事でしょうか。

今日は、聖書の創世記、神様が人間を創造されたところまで遡って、私たち人間の罪について考えてみたいと思います。

<第Ⅰヨハネ1:5>には 「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」と書かれています。

私たちが、神の光の中を歩み、真理を行うためにはどうすればよいかについて、共に考えてみましょう。
◆神の光の中を歩み、真理を行うためには・・・

①消えない人間の罪の性質を知る。

私たち人間は、信仰生活、家庭生活、社会生活において、度々、自分自身の無力さや不甲斐なさに、劣等感を感じることがあります。

私が通っている大学で声楽レッスンをしてくださっているI先生は、「私は劣等感を感じたことがないんです~。」と爽やかにおっしゃるのですが、まあ、そういう方も稀にいらっしゃるかも知れませんが、大抵の人は劣等感を感じた事があると思います。

でも、その劣等感を感じて、「私って何てダメなんだろう・・・」と葛藤した末に、それらを乗り越えた時にこそ、人は大きく成長するのではないでしょうか。

ですから、私たちが、人間として、またキリスト者として、成長していくためには、自分の持つ“負”の部分、つまり罪の性質について、自覚する必要があります。

人間には消えない罪の性質がふたつあります。

それは、ひとつ目は、アダムが犯した罪=原罪(original sin)
それとふたつ目は、今も尚、犯し続けている罪=現罪(actual sin)。このふたつです。

ひとつ目の、“アダムが犯した原罪”とは、創世記2:16,17に書かれている、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という、神様との最初の契約を破ったことです。
人間はその時から、神に逆らい、神から離れ、神の目から見て的外れな生き方をするようになりました。

その原罪によって犯した非行(原非行)は、私たちが罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて救い主だと告白することによって赦されて消え去ります。

しかし、原罪によって汚染された心(原汚染)は消えずに残っているために、私たちは今もなお、現罪(actual sin)を、犯し続けるのです。心が汚染されるというのは、恐ろしいことです。罪の行為は赦されても、心の汚染は身体中を支配して、悪い思いや、悪い言葉、悪い行いとなってあちこちで暴れるのです。

この汚染された心による罪には、初代教会の信者たちも悩んでいたようで、パウロもペテロもヨハネも苦悩しています。私自身も・・・
「私はクリスチャンなのに、そんなこと思っていいの?そんなこと言っていいの?そんなことしていいの?」
と、度々頭を抱えます。みなさんはどうですか?

カトリック教会では、“告解”という制度があります。“告解”とは、洗礼を受けたあとに犯した罪を、司祭を通して神に言い表して懺悔することです。カトリック教会には、告解をする部屋があって、その部屋に入ると、壁の向こう側に司祭がいるので、信者はそっと罪を告げます。そして父と御子と聖霊の名によって、罪の赦しを受けます。司祭の顔は見えませんし、もちろん秘密は厳守されます。

また同じくカトリック教会の考えでは、召されてもすぐに御国に行けるわけではなく、“煉獄”という所に行って、この世での罪を償ったなら、御国に行けるという煉獄思想があります。

それもこれも、やはり、人には“現罪”があるからという事になるでしょう。
私たちは、キリスト者だと言いながらも、心、言葉、行いにおいて、罪を犯してしまうのです。ですからそのことを自覚する必要があります。なぜなら、罪に気付かなければ、悔い改めることもできないからです。
◆神の光の中を歩み、真理を行うためには・・・
 
②本来の“神のかたち”とイエス様の十字架の意味を知る。

神様は人間をご自身のかたちに似せて創造される時、明確なご意思と目的をもって創造されました。
本来の“神のかたち”とは、どのようなものだったのでしょうか。

まず、創世記1:26-28を読んでみましょう。
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<創世記1:26-28>
1:26
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

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ここに書かれているように、神様は人間を“神のかたち=神の代理”としてこの地上にあるすべてのものを支配するために、特別な存在として造られました。

ですから、人は地に対して神の代理であり、神に対して地の代表でした。
更に、人間は、創造主である神に造られたのですから、本来、神なしでは生きられない、神に頼って生きる存在、つまり“他律”の存在です。しかし、人間は神との最初の契約を破って神から離れ、自らが神のようになろうとし、自分の栄光のために自分の力でどうにかして生きようとする“自律”の道へと進んでいきました。

“罪”という言葉はギリシャ語で“ハマルティア”・・・“的外れ”という意味があります。
聖書の教える“罪”とは、神様から離れて的外れな生き方をすることにあります。

ところで、皆さんは創世記のこの人間創造の記述をじっくり読んだことがありますでしょうか?
何となく読んでいたり、先入観で解釈してしまうと、アダムとエバについて勘違いしてしまいがちなことがいくつかあります。まず・・・

(1)アダムとエバは楽園で暮らしていたので、「あはは~っ!アダム~エバ~」と笑って暮らしていればよかった。

・・・っと、思っていた方はいらっしゃいませんか?
そんなことはありません!神様は人に仕事を与えました。

<創世記2:15> 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神様はアダムに、“土地を耕し、そこを守る”という仕事を与えました。
でも、それは食べるものを得るための仕事ではありません。人が食べるものは別に用意されていました。

<創世記2:9>神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
神様は園に見るからに好ましい、食べるのに良い木を生えさせたので、アダムとエバは食べるために土地を耕したのではなく、神様から与えられた、「神の仕事」をするために耕したのです。

これが、本来の人間の労働の姿です。
食べるために、またお金を得るために働くのではなく、神様から与えられた仕事をするために働くのです。
今、みなさんが携わっておられるお仕事が、神様の栄光を表す神の仕事であるならば、どんなに素晴らしいことでしょうか。

では、二つ目の勘違い・・・

(2)アダムとエバは死なないよ。永遠のいのちを持っていたからね。

・・・っと思っていた方はいらっしゃいませんか?
どうもそうではないようです。

先ほど読んだ聖書個所に「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。」
と書かれていましたが、この園の中央にある“いのちの木”の実を食べたなら、アダムとエバは“永遠のいのち”を得ることができたようですが、彼らは、「食べてはいけない」と神様から言われていた“善悪の知識の木”の実の方を先に食べてしまったようです。

それは、<創世記3:22>に書かれている記述から読み取れます。

************

<創世記3:22>
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
<創世記3:24>
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

*************
アダムはエデンの園から追い出されて、その後、創世記4章の始めに書かれている通り、その妻エバを知ったようです。そして、カインとアベルを生みました。

このように創世記を読むと、どうも、最初の人アダムとエバは、神様から創造されて間もなく・・・お互いを知る暇もなく・・・あっという間に・・・速攻で罪を犯したのではないか?と考えられます。

そう考えると、本当に、人間は愚かで傲慢なうえに、意志の弱い存在なんだと認めざるを得ません。

神様は、人間がこのように、いとも簡単に、あっという間に、神様の期待に反して罪を犯す事を、最初からご存知だったのでしょうか。「ああ、やっぱりな。」という感じだったのでしょうか。
だとしたら、どうせならもっと、強固な意思で神様に服従する心をもつ人間を創造していただきたかったです。

神様は神様との契約を破った人間を見て、どんなに落胆なさったことでしょうか。

このことを自分の人生に置き換えてみた場合、私は親や先生の忠告を聞かずに自我を通しては失敗し、何度も落胆させてしまったことを思い出します。

でも、自分が親になった時、気が付きました。忠告を聞かずに失敗した子どもに対して、「ああ、ほら・・・やっぱりそうなったでしょう」と、落胆はしますが、でも、どうにかして手を差し伸べて、助けてやりたいとも思うのです。

父なる神様も、きっと同じような思いで私たち人間を見て下さり、救い主イエス様を与えてくださったのではないでしょうか。イエス様の十字架は、罪深い私たち人間に対する、父なる神様からの大きな愛と憐れみなのです。


でも、その方法は、完全なる神であられるイエス様が、完全なる人となられてこの地上にお生まれになり、十字架という、もっとも残忍な方法で私たちの罪過のためのいけにえになってくださる・・・というものでした。


イエス様は私たちと同じ肉体を持たれたので、拷問や十字架刑による痛みと苦しみは、想像を絶するものだったことでしょう。それを思うと本当に心が痛みます。


では、私たちは、神様のこの愛に、イエス様の恵みに、どのように応えれば良いのでしょうか。


◆神の光の中を歩み、真理を行うためには・・・

③勝利者キリストの血による恵みと聖霊の助けによる罪からのきよめを得る。

神様が創造された時の、本来の人間の姿に戻ることが、私たちの目指すところです。

ところが、この世、特に日本では、進化論の考えが中心になっています。


先日、上野の国立科学博物館に行ってきました。

ここでは「生物の進化」について、進化論的考えを基に展示が構成されていました。

地球の始まりと人類の誕生について、世界中の科学者たちが長い年月をかけて、わずかに残された化石や出土品、文献などを手掛かりとして研究し、このような仮説を立てています。


「地球は46億年前に太陽系の他の惑星と共に誕生し、40億年前に海中で誕生した生命が、地球環境の変遷とともに進化し、ついには人類が誕生した。」


この地上の生物は、海中の微生物が陸に上がって両生類に、両生類から哺乳類に進化していったようです。そして人類に関しては、猿人が600万年前に、どこかから偶然発生して、原人が180万年前に現れ、旧人を経て、そして新人ホモ・サピエンスが20万年前に現れたようです。


この人類は、氷河期の過酷な時代などものともせず、進化して生き残っていったようです。

博物館では、その様子が、人物復元資料などと共にドラマティックに解説されていました。視覚的なインパクトがかなり大きいので、ほとんどの来場者が疑問を感じることなく事実として受け止めている様子でした。


科学者たちの理論の中には創造主である神の存在はなく、偶然の発生と、進化と、絶滅との繰り返しです。

進化論で考えられる人間は、人を“モノ”としてしか理解していません。“モノ”である人間は、目的を持たず、この地球で偶然に発生し、偶然に進化を重ねて“ヒト”となりました。そこには神は全く介入していませんし、進化論で考えられる人間は、いずれ絶滅するし、年を重ねるごとに衰えて、滅びてしまいます。


日本の教育は進化論しか教えませんので、その影響は、日本の社会や文化に現れています。


自己を神としたり、人を神にして偶像を作り上げ、偽の神を崇めます。その根底には、自分の力でどうにかしようとする“自律”の生き方があり、彼らがこの世で生きる目的は自己の栄光のためなのです。

そして、日本の社会では、歳をとると厄介者として扱われます。

私たちクリスチャンもついつい、そのような思想に押し流されてしまいそうになります。


しかし、神が創造された人間は、偶然発生したのではなく、目的を持って創造されました。

聖書で神様が語られているように、この地は滅びますが、人間は滅びてしまうのではありません。

罪を悔い改め、イエス様を救い主だと信じて告白した者には“永遠のいのち”が与えられるのです。


そして、キリスト者は、この地上での生活を全うするために、聖書のみことばを信仰と生活の最高規範とし、神に依存して生きる“他律”の生き方をします。


詩篇の一篇を読んでみましょう。

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<詩篇1:1>
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
<詩篇1:2>
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
<詩篇1:3>
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

*******************

神のみことばに従う人は、ここに記されているように、水路のそばに植わった(神に植えられた)木のようであり、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」のです。

人間は、年を取るごとにますます栄えるように造られています。たとえ、体力が衰えて身体が動かなくなっても、記憶が衰えてしまっても、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさみ、心が神様から離れなければ、その人は、何をしても栄えるのです。

この姿こそ本来神が創造された人間の姿なのです。

先ほども申しましたが・・・

神様が創造された時の、本来の人間の姿に戻ることが、私たちの目指すところです。

とはいえ、現実は、私たちキリスト者は、自分がその心と、言葉と、行いにおいて、なお罪を犯してしまう“現罪”に苦しんでいます。

しかし、神は光であって、私たちは神の光の中を歩む者です。罪に負ける敗北者としてではなく、将来完全に勝利する者として罪と闘わなければなりません。

“現罪”は、この地上では完全に無くなることはありませんが、キリスト者においては、勝利者キリストの血による恵みと、聖霊の助けによって聖化され、徐々にきよめられます。

そしてイエス・キリストの再臨後に栄化されて完全に無くなるのです。

来週は受難週です。イエス様の十字架の贖いに感謝し、自らの罪を言い表し、神から与えられた仕事を忠実に行って、神の光の中を歩み、真理を行い、父なる神様の大きな愛への応答をいたしましょう。

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2013年3月10日 (日)

苦い根の癒し      ヘブル12:15

 きょうからしばらく、「心の救い」に関して学びたいと思います。きょうは「苦い根の癒し」と題して、メッセージさせていただきます。これからの内容は、おもに「エリヤハウス・祈りのミニストリー」を参考にしたものです。30年くらい前から、心の癒し、内面の癒しが行われるようになりました。その中で最も知られているのが、「エリヤハウス」です。ヘブル12:15をもう一度、お読みいたします。「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」。

1.実を見て根をたどる
 神さまは自然界に樹木を与えました。樹木と、私たちの心の状態が似ているところがあります。樹木の中で、リンゴ、みかん、梨、柿など実がなるものがあります。果実は私たちが結ぶ、人格的な実と言えるでしょう。ガラテヤ人への手紙5章には、御霊の実が記されています。クリスチャンには、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と9つの実がみのると約束されています。御霊の実は神さまと人々と自分自身を喜ばせる人格的な実です。リンゴやみかんのように、愛、喜び、平安の御霊の実もおいしいです。しかし、私たちの生活の中に、良くない実がみのっているということはないでしょうか?怒りや恐れ、中毒や依存症という悪い実はないでしょうか?怒りや恐れは、だれしもが持っている感情です。中毒までにはいかないけど、何かにはまっているものが1つや2つはあるのではないでしょうか?しかし、怒りや恐れ、中毒や依存症がひどくなり、健全な生活ができないとしたらどうなるでしょう。怒りが「どかん」と爆発すると、家族や周りの人が損害をうけます。恐れがひどすぎると、当人は学校や会社にも行くことができません。お酒やゲーム、パチンコ、ギャンブル、ポルノなど、依存症や中毒は体ばかりか家庭を壊してしまいます。そういうもので、自分の生活が支配され、悲惨な生活を強いられるとしたら、神さまの栄光を現わすことができません。せっかく、罪と死の法則から解放されたのに、みじめな奴隷生活に逆戻りになってしまいます。
 悪い実を私たちはどう解決しようとするでしょう。一番、手っ取り早い方法は、悪い実をむしり取ることです。「怒ることは良くない」と、怒ることをやめて寛容になろうとします。「恐れは良くない」と、恐れることをやめて、平安な心を持とうとします。しばらくは、寛容で平和な時を過ごすことができるかもしれません。でも、どうでしょう?また、新たに悪い実がなります。取ったはずの、怒りや恐れの実が新たにみのるのです。「あれ?おかしいな?そんなはずじゃなかったのに?」と思います。それで、またその悪い実を取ります。しばらくは安心です。でも、また怒りや恐れ、中毒や依存症の実がみのって自分や周りの人々に害を及ぼします。何が良くないのでしょうか?私は子どものとき、おかずに対して良く文句を言いました。毎回、毎回、シャケの切り身でした。他に納豆と野菜いためがあれば良い方でした。「いつもこれか?」と言うと、母は「食わなくても良い。どうせ腹へっていないんだから」と言い返されました。結婚してからどうなったでしょう?家内は納豆や豆腐をよく出しました。「こんなんじゃ足りないよ」と私と長男が文句を言いました。そのため、こんどは、私が夕食を作るようになりました。うちには子どもが何人もいますが、何と言われたでしょう?「いつもこれか?」と言われました。そのとき私は「食わなくても良い。どうせ腹へっていないんだから」と言い返しました。「なんだか、同じことが繰り返されているなー」と思いました。私の父は酒を飲んでよく暴れて、母や子どもたちに暴力をふるいました。私たち子どもはそういう姿を見て、「おやじのようになるもんか」と心で誓いました。ところがどうでしょう?私の兄弟たちは、みなお酒を飲みます。私も未信者の頃、お酒を飲みました。結婚してから、怒ると家内や子供たちに、手をあげたくなる誘惑にかられました。私の兄弟もおそらく、同じような誘惑と戦っているのではないかと思います。
 本当の解決は何でしょうか?それは「実を見て根をたどる」ということです。今、見えている実を取るだけではダメです。本当の問題は根にあるからです。「実を見て、根をたどっていく」という作業が、エリヤハウスではよく言われます。しかし、これは簡単なことではありません。なぜでしょう?まず、第一は、それを、認めたくないということです。それを否認と言いますが、暗い過去のことを思い出したくないのです。そして、「そんなことはないよ」と否定します。カウンセリングが無力な人は、自分のことを隠して言わない人です。自分も相当困っているはずなのに、「そんなことはない」と言い張ります。特に男性にそういう人が多いです。子どもの頃から「男たるものは泣いてはいけない。人に弱さを見せてはいけない」と教えられてきたからです。ですから、心を簡単には開きません。「自分は大丈夫だ。問題ない」と思っている人にはこういうミニストリーは無理です。だから、どん底に落ちている人ほど、癒されるチャンスがあります。第二は、地面を掘っていくと色々出てきて、お互いにびっくりするということです。祈りのミニストリーで、その人の生い立ちや過去が知らされます。すると、「え?」と驚くようなことがよくあります。地面から腐ったものや、ガラクタが出て来ます。また、根っこも入り組んで、どれが本当の問題か分からないことがあります。相手もそうですが、こっちも泥だらけになります。ですから、根を掘り当てるという作業は、たやすい作業ではありません。愛と根気と主の助けがなければ不可能です。でも、いつまでも蓋をしていたのでは解決がありません。癒しのためには、今、結んでいる悪い実から、根をさぐらなければならないからです。

2.根の問題
 根と深く関係しているのが土壌です。根が土壌から良いものを吸い取っていると、樹木は健康に育ち、良い実がみのります。家庭に笑いがあり、愛と赦しにあふれているのは良い土壌です。そういう温かい家庭で育ったなら、人生においても良い実をたくさん結ぶことでしょう。クリスチャンでなくても、「育ちが良いなー」と思えるような人がたくさんいます。「きっと愛されて育ったんだろうなー」と、接している方も嬉しくなります。でも、世の中には、そういう家庭ばかりがあるわけではありません。励ましを受けるどころか、ことばや行いで虐待されることがよくあります。母親の感情が不安定なために、怒りや恐れをいだくこともあるでしょう。父親が自分を認めてくれないので、「くそっ」と怒ったかもしれません。では、人生の根の部分が形成されるのはいつ頃なのでしょうか?心理学者によると、ゼロ歳から6歳までが、最も重要な時期だと言われます。良い根も悪い根も、最初の6年間で形成されてしまうそうです。6年と言うと、小学校に入る前くらいです。成人になって、子どものときの記憶がほとんどありません。「そんな馬鹿な?」と思うかもしれません。しかし、人格形成の骨組みは、子どもの時だということは心理学者の間でも認められています。幼少のときにダメージを受けると、一生モンだということです。たとえば、松の木が、幼木の時に、傷つけられたらどうでしょう。枝を折ったり、ナイフで切ったとします。松の木が、大木に生長したときに、大きな傷跡として残るでしょう。教会員の中にも保育士の方が何人かいらっしゃいます。0歳児とかで預けられた子供は、愛情不足、間違いないそうです。「三つ子の魂、百までも」ということわざがあります。幼い時に得られなかったものを大人になってから取り返すのは大変なことです。お人形1個で良かったはずが、大人になったら50万円のハンド・バックを買っても満たされないでしょう。

「苦い根」と言っても色々あります。代表的な苦い根を3つだけ取り上げたいと思います。第一は、父と母を敬わなかったことから来るものです。エペソ6:2-3「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。」パウロがなぜ、「第一の戒め」と言っているのでしょう。それは、自分を含み、あらゆる人間関係のもとになるからです。私たちは「敬えるような親だったら、敬ってやる」と言うかもしれません。しかし、このみことばは「親であるという存在だけで、敬え」という神の戒めであり、条件は付いていません。残念ながら、完全な親はいません。不幸にも、家を守らない身勝手な父親がいるでしょう。感情だけで叱る母親がいないわけではありません。親が良かれと思って叱ったつもりでも、子どもの方が「ひどい」と怒るかもしれません。とにかく、幼い時に、父や母を怒ってさばいたりすることがあります。そうすると、種をまくことになります。その種が根をはり、芽を出し、花を咲かせ、実をみのらせます。「さばくとさばかれる」という法則があります。そのため、あなたが大人になったとき、困ったことがたくさん起こります。親を否定すると、自分のアイディンテティがそこなわれます。教師や上司など、権威ある者に対して逆らいたい気持ちがあります。結婚すると、伴侶とどうしてもうまくいきません。子どもが生まれても、愛情をもって育てられない。そういう人間関係の問題がおこります。それらは、親を敬わないで、さばいたという苦い根から来る実です。

第二は偽りや誓いです。親から「良い子にしていれば愛される」という偽りを教えられることがよくあります。悪いことをすると「あなたは家の子どもじゃない。どこかへ行って」と言われたらどうするでしょうか?親の言うことを聞かないと、無視され、ご飯をたべさせてもらえないとどうなるでしょう。子どもは生き延びるために、本音をかくし、仮面をかぶって生きることになります。あるいは、お母さんがお父さんの悪口をしょっちゅう言っているとします。子どもはどっちも好きなのに、困ってしまいます。男の子が「口やかましい女とは結婚しない」と誓ったとします。そうすると、口やかましい女性と結婚します。たとえ最初はそうでなくても、その女性は口やかましくなります。また、女の子が「家を空けて、帰ってこない男性とは結婚しない」と誓ったとします。やがて結婚すると、「この男性も家を空けて、帰ってこなくなる」と悪い期待を持ちます。そうすると、男性はその期待にこたえるようになります。

第三は傷ついた霊と家系の罪です。性的虐待、身体的虐待、心理的虐待があった場合などは、深く傷つきます。また、本来ならば親から受け取るべき愛情や育みを十分受けなかったことからも私たちは深く傷つきます。心の中に癒されていない部分があると、多様な問題を引き起こすことになります。エリヤハウスはどちらかと言うと因果応報的な考えが強いかもしれません。でも、「親と同じようなことはしない」「あの親のようにはならない」と誓っても、そうなってしまいます。親から虐待をうけた子どもが大きくなったら、自分の子どもを虐待するようになります。罪のパターンが繰り返されることがよくあるケースです。何故でしょう?それは無意識な世界と霊的な問題が関わっているからです。ひどいことがあったとき、意識は忘れていても、潜在意識の中でしっかり覚えているものです。同じような状況になったとき、むくっとその意識が戻ってきます。そして、親と同じわだちを踏んでしまいます。先祖や親がつけた「わだち」が存在しているということは否むことができません。このままで、終わると暗くなるので、最後は癒しについて語りたいと思います。


3.癒しの5つのステップ
 いろんな心の傷や中毒があっても、癒しのステップは同じです。エリヤハウスでは5つのステップを用います。この癒しは「祈りのミニストリー」と言って、聖霊さまに聞きながら行います。専門家は一対一で行うようです。しかし、エリヤハウスは、4,5人の小グループで行います。まず、だれか一人がミニストリーを受けます。リーダーが質問をしながら進めていきます。また、サブリーダーがいて、何か気付いたときだけ介入します。さらに、何も言わないで祈っている人がいます。何も言わないと言っても、聖霊様から示されたら言ってもかまいません。リーダーは一生懸命「次は何を話そうか」考えています。しかし、サブリーダーと祈っている人は、別の角度から落ち着いて見ることができます。「あれ?何か隠している」「話が別方向に行った」「本当の問題はこれじゃないのか」ということが分かります。リーダーが行き詰ったら、「あなた御自身で、幼いころ何が起こったのか、神さまに聞いてみたらどうでしょうか?」と提案します。その人が祈っていると、神さまが突然、隠れている問題を示してくれます。このようにやると、専門家でなくても、聖霊が助けてくれるので、結構、うまくいきます。それでは、癒しの5つのステップをお話したいと思います。

 第一は認識です。根っこの問題は何かということを気付くということです。ご存じのように、樹木の根というものは1本ではありません。太いのもあれば、細いのもあります。途中で枝別れしたり、からまったりしています。しかし、最も影響を与えている根は何かということを発見するということです。キャシーが小さいとき、お母さんは怒ると、部屋にひきこもりました。ドアに鍵をかけて3、4日も出て来ないでひきこもっていました。小さい頃、「お母さん」「お母さん」とドアをノックしました。そのとき、私の心の中に裁く気持ち、苦々しい気持ちを持ちました。そして、「絶対、私は家族に対してそういうことはしない!」と決意しました。しかし、自分が結婚してから、絶対にしないということをするようになりました。彼女は母が傷つけたようなやり方で、自分の家族を傷つけました。部屋にとじこもり、お母さんがした同じことをやっていたのです。過去の傷と恨みが残っていました。彼女がお母さんを裁いたため、彼女自身もさばかれることになったのです。彼女の原因は、小さいときに、お母さんをさばいたということです。そのため、自分も同じようになったということです。このように、今、結ばれている実を見て、子どものときに何があったか調べるべきです。

 第二は告白し、罪があったら悔い改めます。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」おそらく、そのとき怒ったり、さばいたりしたのでしょう。しかし、いきなり、罪を悔い改めるということができない場合があります。自分がどんなに辛い思いをしたのか、泣いて訴えても良いのです。そうすれば、超自然的な方法で神さまが出会ってくださいます。神さまの愛と慈しみの手が幼い自分に置かれます。そうすると、自然に罪を告白したくなります。「ああ、あのとき怒って、さばいてしまいました。」「ああ、あのとき、だれも信用しないと誓いました。」「ああ、あの時、お父さんが死んでしまえば良いと考えました。」そして、「どうか、赦してください」と祈ります。一般的なカウンセリングには罪の悔い改めはありません。「悪いのは親だ、周りの人だ、社会だ」と言います。しかし、それでは苦い根を断ち切ることはできません。たとえ親が悪くても、自分が罪深い反応をしたことは事実だからです。
 第三は、赦しです。自分を傷つけた人を赦すということです。これはなかなかできることではありません。十字架にかかられたイエスさまの声を聞きましょう。イエスさまは「私に免じて、どうか赦してやってくれ」と願われるでしょう。赦すということは、訴える証書を手放す、捨てるということです。感情ではなく、「赦します」と決断することです。多くの人は、赦さないために、多くの呪いを身にうけています。相手はとうの昔に忘れているのに、こちらだけが恨みを持って、毒を飲んでいることがあります。また、神さまを赦さない人がいます。「神さま、どうしてあんなことが起きたのですか?ひどいじゃないですか?」と。しかし、神さまは報いの神さまです。ひどいことに見舞われた人には、2倍の報いをもって弁償してくれます。イザヤ書61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」
 第四は、悪いものを十字架につけるということです。イエス様に来ていただいて、苦い根から出た習慣や行動をイエス様の十字架につけていただくように祈ります。さらに、私たちの苦い根がイエス様の十字架に付けられて、死んだものとされることを祈り、また認めます。苦い根というものは結構しぶといです。何べんもトラウマがやってきます。その度ごとに、苦い根を十字架につけ、十字架につけられたことを認めます。そうすると、だんだん弱くなって最後に傷跡しかのこりません。確かに傷跡はありますが、もう痛みがありません。
 第五は、新しい命を注ぐということです。苦い根が十字架につけられたら、その代わり、新しい命と取りかえる必要があります。みことばに基いて、イエス様のところに行って、新しい構造、新しい真理を私たちの心に注いでもらうように願います。エペソ人4:31「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」とあります。そのあと、どうでしょうか?エペソ4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」とあります。「悪いことをやめなさい」だけではなく、「このような良いものを身につけなさい」と命じられています。
 なぜ、エリヤハウスという心の癒しが求められるようになったのでしょう。それは、教会がセルチャーチになるために、「お互いに心を開いて交わりましょう」ということになりました。今まで、遠くから距離をおいていたときは問題ありませんでした。しかし、小グループで親しく交わるとどうでしょうか?まもなく、「え?この人、こういう人だったの?」とショックを覚えます。富士山も遠くから見ていると綺麗です。でも、近くに行くと黒い岩がゴツゴツしています。私たちも、勉強会で学んでいるうちはそうでないかもしれません。しかし、本当に変わるためには、自分の感情や傷を分かち合うことが必要です。でも、それはもろ刃の剣になります。今まで眠っていた、怒りやさばきの心がむくっと目覚めてきます。本音で語り出すと、衝突して、お互いを傷つけあってしまいます。そのために、内面の癒し、エリヤハウスが必要となるのです。私たちは家庭やいろんな人間関係で傷ついてきました。しかし、その傷を直すのも人間関係なのです。私たちは本当の神の家族となるためには、傷つけ合う危険を冒してでも、交わる必要があります。イエスさまはあえて、あなたと合わない人を近くにおいて、根の問題は何かを教えておられます。まだ、同時に、心が癒されて、良い実がさらに多く結ぶように教会の交わりを与えておられます。多くの場合、「苦い根なんか私にはない」と蓋をしてきました。しかし、そのため自分では気づかずに人々を汚してきたかもしれません。どうか、主に苦い根を取り扱っていただき、人格的に甘い実を結ばせていただきましょう。

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2013年3月 3日 (日)

悪霊からの解放     マルコ5:1-13 

 昔、「エクソシスト」という悪魔祓いの映画がありました。きょうのメッセージは、まさしくそのような箇所です。ある人たちは、「そんなの迷信だ」「精神的な病だ」と、信じないかもしれません。しかし、隠れたところで、悪魔は人々を惑わし、拘束し、最後には死に向かわせます。この世の神である悪魔は、組織的に働いて人間を苦しめています。大きなものは、戦争であって「戦争は悪魔のリバイバルだ」と言われています。中くらいなものは、宗教や思想によって人々を支配します。また、個人的には病気や犯罪、殺人、自殺など、悪魔が関係しているものもあります。悪魔は別名、サタンと呼ばれています。サタンとは「敵」という意味であり、神に敵対する霊的な存在です。神さまに対抗してもかなわないので、もっぱら神の被造物の冠である人間を攻撃します。サタンの策略とは、人間をできる限り、神から引き離し、栄光を現わせなくすることです。

1.ゲラサ人のケース
 ゲラサ人に入った悪霊は「汚れた霊」でした。しかし、その数はレギオン級でした。レギオンとはローマの1軍団であり、6000人で構成されていました。ここではそれが「大ぜい」という意味で用いられています。あとで、2000匹の豚が、狂って崖から駆け降り、死んでしまいました。それくらい、大きな破壊力があるということです。しかし、彼の場合はとても重症なケースで人格まで乗っ取られていました。イエスさまが彼の名前を尋ねましたが、彼自身ではなく、彼の中にいた悪霊が「私の名はレギオンです」と答えたからです。悪霊に取りつかれた場合、英語ではpossessedと言います。これは「所有された」という意味です。彼の場合は人格まで支配されていたのですから、よっぽどの重症であったのでしょう。しかし、このような人は稀で、多くの人は霊、魂、あるいは肉体の一部分を支配されます。私たちの心には意志という門番がいますので、神さまであっても、勝手に入ることができません。何かの理由で、一部分を支配されたということです。悪霊から、どこか一部を握られていると、そっちの方にひっぱられてしまいます。たとえば、耳たぶとか、小指であっても、ひっぱられるとそっちへ行ってしまうでしょう。この人は人々の中で暮らすことができず、墓場に住んでいました。彼は怪力の持ち主で、人々が鎖でつないでおいても、ダメでした。マルコ5:5「それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」とあります。人々ばかりか、自分自身をも破滅させてしまうのが、悪霊の目的です。
 イエスさまはこの人と出会ってくださいました。この人は自分の意志が支配されていますので、自分からは何もできません。彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。イエスさまは悪霊によって捕えられている、あわれな兄弟を救おうとされたのです。悪霊どもはイエスさまをとても恐れていました。マルコ5:6-7「大声で叫んで言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。』それは、イエスが、『汚れた霊よ。この人から出て行け』と言われたからである」。人間には分かりませんが、悪霊の世界では、イエスさまは有名でした。イエスさまが「いと高き神の子」であることが分かっていました。悪霊はイエスさまを拝みましたが、それは怖いからであり、滅ぼされたくないからです。「まだ、世の終わりの裁きは来ていないでしょう」と言いたかったのです。ある人たちは、このケースを誤解して解釈し、「悪霊の名前を聞いてから、追い出すべきである」と言います。イエスさまは名前を聞きましたが、それは悪霊に聞いたのではありません。その人の中にいた、悪霊たちが勝手に答えたのです。イエスさまは「汚れた霊よ。この人から出て行け」と命じられただけです。私たちも同じように、悪霊と会話をすべきではありません。悪魔の手下、悪霊もそうですが、とても嘘つきです。あちらの方が、私たちよりも何千年も長生きしているので、知識や知恵ではかないません。悪霊と会話しただけで、既に、敵の陣地に自分が入っているということを忘れてはいけません。多くの人たちが、悪霊を追い出すミニストリーをしています。しかし、ある人たちは完全に欺かれています。なぜなら、悪霊と会話したために、聖書的でない考えを受けてしまっています。ですから、悪霊とは会話をしてはいけません。取り引きもしてはいけません。ただ「イエスの御名によって出て行け!」と命じれば良いのです。
 悪霊を追い出してもらった後、この人はどうなったでしょう?マルコ5:15「そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。」これは、彼が完全に癒されたということを意味しています。彼は解放され、社会生活ができるようになりました。彼はイエスさまのお供をしたいと願いました。しかし、イエスさまは「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」と言われました。ある人はイエスさまに着いて行くことが求められ、ある人は家に帰って証をするように求められます。彼は家に帰って、証をする方がみこころだったです。マルコ5:20「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。」ここには、人々が信じたとは書いてありません。でも、かつて悪霊に支配されていたのに、正気になったということでとても驚いたことは確かです。彼は3つのことを伝えました。かつては、墓場で自分を傷つけて裸で暮らしていたこと。イエスさまが悪霊を追い出してくれたこと。今は、自分が正気になって暮らしていることです。私たちもケースや内容は同じでなくても、この3つのポイントで証をすることができます。

ある教会にこういう牧師がいました。「私は若いころ、精神病院を出たり入ったりしていました。しかし、イエスさまによって癒されて、こうなりました」と事あるごとに証をしていました。教会員は耳にタコができるくらい聞いたので、「先生が精神病院にいたことを何べんも聞くのは嫌ですから、もうやめてください」とお願いしました。先生はそれから、その証をしなくなりました。それから、説教に力が入りません。イザヤ51:1「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」とあります。先生は教会員にお願いしました。やっぱり、あのことを話さなければ、力が出ませんと言いました。再び、「私は若いころ、精神病院を出たり入ったりしていました。しかし、イエスさまによって癒されて、こうなりました」と証しました。すると、元どおり力強く説教できるようになったということです。私が「8人兄弟の7番目に生まれた」と言うのと同じです。私たちはイエスさまと出会う前、どんなに暗い生活をしていたか、忘れてはいけません。自分がどんなに罪深かったか、悪かったかということも話しても結構です。でも、もっと重要なことはイエスさまが自分にどんなに大きなことしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを証することです。恥は我がもの、栄は主のものです。デパートの宝石売り場に行くと、ダイヤモンドはどういう布の上に展示されているでしょうか?白い布ではありません。ビロードのような黒い艶消しの上です。かつての私たちが暗い生活をしていたなら、それに比例して、イエスさまの輝きが増すのです。イエスさまを最も愛した人はだれでしょう?また、イエスさまから最も愛された人はだれでしょう?それは、マグダラのマリヤです。彼女はかつて7つの悪霊を宿していた人です。7つとは完全数です。完全に悪霊に所有され、汚れた女性であったと思われます。しかし、イエスさまは悪霊を追い出し、「汚れ」とマリヤ自身とを分離してくださいました。今も同じように、イエスさまは私たちを悪霊から解放し、神の息子、娘にしてくださいます。


2.悪霊の対抗策
 ことわざに「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」とあります。悪霊は私たちの敵です。やはり、彼らの策略を知り、それに対抗することが恵まれた生活を送る秘訣ではないでしょうか。エペソ4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」このところに出て来る「機会」は、ギリシャ語ではトポスと言い「場所」という意味です。しかし、これが悪霊との関係で用いられるときは、「足場」とか「足がかり」という意味になります。もし、これがもっとひどくなると、「要塞」になります。怒ることは、必ずしも罪ではありません。しかし、怒ったままでいると、つまり怒りを次の日まで持ち越すとそれが悪霊の足場になるということです。聖書に「苦い根」という言葉が出て来ます。人を赦さない罪、怒り、憎しみが根を張るとどうなるでしょう。そこから、悪いものが出てきて人々を汚します。苦い根は、一度、生えるとなかなか抜くことができません。なぜなら、そこに悪霊が場所を設けることがあるからです。私たちはそういう意味でも、心と体を敵が侵入しないように守るべきではないでしょうか?
 悪霊が場所を設ける罪には3つの種類があります。悪霊は霊的な存在ですから、肉体を持っていません。私たちの肉体は悪霊にとってお家であり、悪霊は住むべきお家を探しています。では、どんな罪を犯している人に悪霊が入るのでしょうか?第一は霊的な罪です。これは、偶像礼拝、占い、オカルト、霊能者の祈りを通して入るものです。たとえば、ある人が仏壇を拝んでいるとします。仏壇は物ですから、それ自体が悪霊ではありません。しかし、悪霊は人から拝まれたいと望んでいます。たまたま、通った悪霊が「ああ、仏壇を拝んでいる人がいる。しかも、いろいろお願いしている。拝んでいる人のところに入ろう」と思うのです。その人に、悪霊が入ると、本当の神さまを信じることが困難になります。「ご先祖様のところに行くのが、当たり前。日本には日本の宗教がある」と思ってしまいます。悪霊も、「キリスト教は外国の宗教だ。だまされてはいけない」と言うでしょう。ある人は、お宮参りとか七五三のために、神社にお参りに行きます。多くは感謝の気持ちで行くのですが、ある人は「この子を末永く守ってください」と奉げるような祈りをするかもしれません。もし、神社の背後に悪霊がいたら、「わかった。そうしましょう」と言うでしょう。それは一種の契約であり、クリスチャンになった後であっても、効力があります。クリスチャンになってから偶像崇拝をする人はいません。影響を与えるのは、クリスチャンになる前のものです。自分あるいは、親による偶像崇拝によって、悪霊が足場を設けることがあります。多くの人たちは、神社の氏子になっています。知らないでお願いしたかもしれません。そういう場合は、悔い改めた後、イエスの御名によって契約を断ち切る祈りをすべきです。10数年前に、解放のキャンプというものがありました。クリスチャンになりたての頃、こういう偶像崇拝を悔い改め、悪霊から解放される必要があります。そうすると、霊的な成長がぐーんと早まります。
 第二番目は魂の罪です。ここで言う魂とは感情や思いのことです。怒りとか憎しみ、深い悲しみなどからも悪霊が入ります。だから、パウロは「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」と警告しているのです。夫婦が離婚にまで発展するのは、怒りや憤りをそのままにしておくからです。また、受けたトラウマや失望落胆から鬱になり、自殺をする人がいます。全部とは言いませんが、あるものはそうです。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです」とあります。盗人とは悪魔のことであり、私たちのことを盗み、殺し、滅ぼすため、日夜働いています。また、私たちの「思い」は霊的な戦場と言えるでしょう。ユダはどうしてイエスさまを裏切ったのでしょうか?ヨハネ13:2「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」と書いてあります。これは最後の晩餐の前であります。しかし、ルカ福音書には「イスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入った」(ルカ22:3)とあります。おそらく、思いの方が先であり、そのあとでサタンが入ったと思われます。私たちの思いには、4つの声が聞こえてきます。イエス様の声、自分の声、人々の声、そして悪魔の声です。私たちは聖書を読み、イエスさまと常に交わっている必要があります。「羊はその声を聞き分ける」(ヨハネ10:3)とあるからです。しかし、ほとんど祈らないで、人のことばや、テレビ、この世の情報に耳を傾けています。そうすると、いつの間にか否定的で破壊的な思いによって、支配されるでしょう。

解決法は何でしょうか?Ⅱコリント10:5「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」とあります。パソコンにウイルスが入ると、ウイルスソフトが起動して、「ばー」と取り囲みます。私たちも神の知識に逆らうものが入ったとき、それを虜にして、キリストに服従させなければなりません。どうぞ、感情と思いを守ってください。マインド・コントロールというのがありますが、カルト宗教だけから来るものではありません。親が子供に、怒って吐いたことばがマインド・コントロールになります。たとえば「お前は一生、出世しない。貧乏で暮らせ」と呪ったとします。その人の思いを支配して、手かせ足かせとなってしまいます。私たちは人々から、非難や中傷、呪いのことばを受けるときがあります。そのことばが、トラウマになって、毒蛇にかまれたような状態になるでしょう。悪霊がそこにやってくると、束縛され、自由がなくなります。パウロは遭難からせっかく助かったのに、一匹のまむしが手に噛みつきました。島の人々は、「この人は人殺しだ。まもなく死ぬぞ」と言いました。ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けませんでした。どうぞ、人々からの非難や中傷を振り落としましょう。いつも、感情と思いを守ってください。なぜなら、いのちの泉はそこから湧くからです。

 第三は肉体の罪です。悪い習慣からも、悪霊が入りこみます。汚れた霊が入るから、汚れたことをするのではありません。ある人が汚れたことをしょっちゅうしているとします。たまたま、汚れた霊がそばを通るとき、「ああ、この家は私の好みだ。住みたいと思って」入るのです。そうるとその人は、一層、汚れたことをするようになります。男性の場合は、ポルノのDVDとかウェブは要注意です。悪いことばもそうです。私は兄には力で負けるので、悪口や皮肉を言って対抗しました。今もなかなか、抜けないところがあります。ヤコブは「舌は少しもじっとしない悪であり、死の毒に満ちている」(ヤコブ3:8)と言いました。また、薬物や麻薬によって、悪霊が入ります。そのために、いろんな幻覚や幻聴が聞こえるようになります。薬物は体だけではなく、精神を狂わせ、悪霊に対してドアを開くことになります。テレビのニュースで強盗殺人を繰り返した人が出て来ます。なぜ、彼がそこまでエスカレートしてしまったのでしょうか?それは、いつも悪いことを考え、さらには悪いことを行っていたからです。そこに、悪霊が入って、その人自身に残酷なことをさせたのです。でも、責任はその人にあります。その人が、悪いことを継続的に行って、悪霊にドアを開いたからです。私たちは主の祈りでいつも祈ります。「我らを試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ」と。「悪」とは単なる悪いことではありません。誘惑を持ち込み、悪いことさせる悪魔のことであります。この世は悪魔が支配しています。だから、私たちは常に神のご支配を求め、悪魔から救い出してもらう必要があるのです。

3.私たちの立場
 最後に私たちがどういう者であるのか、ということを知ることがとても重要です。ある人たちは、霊的戦いをとても強調します。常に悪霊を意識して、人々の背後に、物影に悪霊が働いていると思っています。もちろん、パウロが言うように、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着ける」(エペソ6:11)必要があります。でも、それよりも重要なことがあります。それは、自分が主にあって何者であるか、ということです。エペソ2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。これはどういう意味でしょう?私たちの肉体はこの世、つまり地上にあります。私たちの上に霊的な存在がいます。天使や悪霊は目に見えませんが、私たちの上に働いています。特に悪霊は未信者を虜にして、いじめています。悪霊は私たちをも誘惑し、攻撃してきます。しかし、私たちには聖霊と天使の守りがあります。私たちが主の御名によって祈るとき、神のもとから天使が遣わされ、私たちを守ってくれます。これまでの教会は、このくらいまでしか話しませんでした。天国に行くまで、悪霊に負けるか勝つかの戦いに明け暮れるしかないのでしょうか?そうではありません。エペソ2章にあるように、私たちは「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。私たちは霊的には悪魔よりも高い、神の御座に座っているのです。私たちは地上から天に向かって「神さま私を助けてください」と叫ぶ必要はありません。目をつぶるならば、私たちのすぐ隣にはイエスさまがおり、その向こうには父なる神さまがおられます。なぜなら、私たちはイエスさまと共に天の所に座らされているからです。ハレルヤ!私たちには神の子としての、霊的権威が授けられているのですから、悪魔を踏みつけることができるのです。私たちのバックには、神さまの権威がついているのです。悪魔や悪霊は私たちを怖がっているのではありません。背後にいる、神さまの権威を怖がっているのです。
 私は毎朝、散歩しますが、青砥陸橋の下を通ります。たまに、白バイの運転手や婦人警官が橋の下に立っています。「ピピピー」と笛を吹くと、10トンのダンプトラックも言うことを聞きます。400馬力もあるようなダンプカーが、一人の小さな人間の言うことを聞くのは何故でしょうか?ダンプカーには確かに大きなパワーがあります。しかし、警察官には権威という力があります。ギリシャ語で権威はエクスーアです。私たちはパワーも必要ですが、エクスーア(権威)も必要です。イエスさまは天にお帰りになるとき、弟子たちに何と言われたでしょうか?マタイ28:18,19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と言われました。私たちがイエスさまを信じているなら神の子であり、いっさいの権威が与えられているのです。だから、私たちは悪魔に立ち向かうことができるのです。ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」アーメン。

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