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2013年2月24日 (日)

運命からの救い     ヨハネ9:1-7

 ある人は運命に流され、ある人は運命に立ち向かおうとするでしょう。どちらにしても、「人間は運命という大きな力によって翻弄されている存在である」という前提があります。私たちクリスチャンは運命ではなく、摂理という言葉を用います。運命は偶然の積み重ねですが、摂理はそうではありません。摂理とは、万事が益となるために、働いてくださる神のご計画です。神さまは善なるお方で、私たちを滅ぼそうとするようなお方ではありません。きょうは、「運命からの救い」と題して、聖書から共に学びたいと思います。


1.神のみわざ
 弟子たちは生まれつきの盲人を見て何と言ったでしょうか?ヨハネ9:2「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」当時のユダヤ人は、「先祖の咎が子に報いる」と考えていました。日本にも、過去の出来事が現在に及ぶという、因果応報の考えがあります。しかし、弟子たちは両親だけではなく、「その人自身が罪を犯したからですか?」と聞いています。生まれつきの盲人は、いつ罪を犯したのでしょうか?胎内にいたときから罪を犯したのでしょうか?詩篇51:5「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」このみことばは、赤ちゃんも罪の影響を受けており、赤ちゃん自身にも罪があることを示唆しています。しかし、元をたどれば、それは人類の先祖、アダムであります。すべての人類はアダムの子孫として生まれました。だから、本人や両親、祖父母ばかりが罪を犯したのではありません。アダムの罪のゆえに、人類に死が入り、様々な病気や障害が入ったのです。しかし、「だれが罪を犯したのか?」ということを探し当てたとしても、この人の目が見えるようになるのでしょうか?私たちも不慮の事故が起きたとき、「何故、こんなことが起きたんだ。だれのせいだ」と言わないでしょうか?重い病気になったときも、「何故、私だけがこんな病気になったんだ」と嘆くでしょう。「何故」「だれのせい」という問いは、あまり役にたちません。なぜなら、人生において、原因がわからないことの方がはるかに多いからです。運命も同じです。私たちは運命に翻弄されて、「何故、どうしてこんなことが起こったんだ」と嘆くのです。
 でも、運命とは別の見方があります。ヨハネ9:1「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」ある英語の聖書を訳すとこうなります。「イエスが通過されるとき、生まれた時から盲目である一人の男性を注目した」。もし、この男性がイエスさまに目をとめられなかったら一生このまま、盲目のままだったでしょう。彼は運命の流れのまま、盲人に生まれ、盲人で過ごし、盲人のまま死ぬしかありませんでした。でも、イエスさまが彼の人生に介入されたのです。イエスさまは、どのように答えられたでしょうか?ヨハネ9:2「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」イエスさまはだれかの罪のせいではなく、「神のわざがこの人に現れるためです」とおっしゃいました。このところで一番、注目すべきことばは「ため」という言い方です。先ほどのものは、「何故、どうしてこんなことが起きたのだろう」という質問でした。しかし、そうではありません。私たちは「何のためですか?」と質問を変えるべきです。私たちは、不慮の事故、病気、障害、さらにはいろんな災害に遭遇します。その度に、「何故、どうしてこんなことが起きたのだろう」と嘆いてきました。そうではなく、「何のために、こういうことが起きたのですか」と問うべきです。そうすると、イエスさまはどう答えるでしょうか?「神のわざが現れるためです」と答えるでしょう。なんと力強いことばでしょう。人生おいて、私たちがどうしても埋めることのできない欠けがあります。この人のような生まれつきの障害であったり、不慮の事故、取り返しのつかないような出来事があります。でも、イエスさまは「神のわざが現れるためです」とおっしゃいます。でも、これはどういう意味でしょうか?それは、イエスさまが私たちの欠けたるところを満たしてくださるということです。表現を変えるなら、運命に勝利させてくださるということです。

それでは、この男性に起こった、イエスさまの満たしとは何だったのでしょうか?この男性は生まれつき目が見えませんでした。一般の人と比べて、目が見えないというハンディを負っていました。ところが、イエスさまは彼に光を与えました。なぜ、イエスさまが生まれつきの盲人に目を止められたのでしょうか?イエスさまにはイエスさまの理由がありました。ヨハネ9:5「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスさまはこの地上にいるとき、世の光として働く使命を担っていました。簡単に言うと、「私は世の光である」ということを示すために、地上におられたということです。するとそこに、光を持っていない、生まれつきの盲人がいました。イエスさまは何と思われたでしょう?「ああ、私は世の光なので、この人に光を与えなければならない。なぜなら、それが私の使命だから」と思われたでしょう。もし、その人の目が見えていたならば、イエスさまは黙って通り過ぎていたでしょう。なぜなら、改めて、神のわざを現わす必要がないからです。でも、その人は生まれつき盲人で、光がありませんでした。だから、イエスさまにとって、自分が世の光であることを示す、良い機会だったのです。ヨハネによる福音書には「奇跡」ということばはありません。そのかわり、「しるし」と言い換えています。「しるし」とは、単なる奇跡ではなく、そこには意味があるということです。イエスさまはご自身が、世の光であることを示すために、奇跡を行われたのです。

「神のわざが現れるため」とは、運命を乗り越える、すばらしい回答ではないでしょうか?でも、自動的にすべてのことに神のわざが現れるのではありません。最も重要なことは、イエスさまがそこに来られ、介入するということです。イエスさまが御手を伸べてくださるとき、神のわざが現れるからです。今も、イエスさまは御霊によってこちらにお出でになっておられます。キリスト教用語では、「臨在」と言います。神さまが臨在されるとき、救いのみわざが起こるということです。今も、イエスさまが御霊によって、私たちの欠けたるところを満たそうと歩きまわっておられます。イエスさまはあなたの運命を変えてくださる、力あるお方です。


2.人間の参加
 イエスさまは神のみわざを行うために、生まれつきの盲人に出会ってくださいました。イエスさまはどのようなことをして、彼に光を与えたのでしょうか?ヨハネ9:6「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」イエスさまはことばだけでも、彼の目をあけることができました。しかし、このところでは、かなり面倒なことをしています。なんと、地面につばきをして、泥を作り、その泥を盲人の目に塗りました。さらには、「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じました。第一の質問はなぜ、泥を作って目に塗ったのかということです。創世記2章には、人間は土のちりで作られたと書いてあります。動物はみことばで造られましたが、人間は手造りでした。生まれつきの盲人ということは、目に欠陥があったということです。イエスさまは土を泥にして、目の部分を作りなおしたと考えても良いかもしれません。でも、それだけではないと思います。もっと重要なのは、彼にも運命からの救いに参加してもらいたかったからです。もし、彼が「馬鹿にするな」と言って、シロアムの池に行かなければ、どうでしょうか?目は開かれませんでした。彼には、すべきことがありました。イエスさまの言うことを聞いて、手探りでもシロアムの池まで行ったということです。その場所から、シロアムまでどの位の距離があったか分かりません。でも、彼はシロアムまで行き、その池の水で洗うという課題が残されていました。目が見える人なら楽ですが、盲人にとっては大変なことだったでしょう。そして、「どうしてそんなことをするのか?」不可解なことでもありました。しかし、どうでしょう?「そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」アーメン。ハレルヤです。イエスさまは私たちの運命を変えるとき、私たちのすべき分を少しだけ残しておられるようです。それは私たちが神さまのわざに参加するということです。表現を変えると、自分の分を果たすということです。自分の分を果たしたときに、神のわざが現れるのです。

昨年末、星野富広詩歌展がお茶の水で開かれていました。星野富広さんといえば、「詩歌集カレンダー」で有名です。彼は体育教師でしたが、跳び箱の実技をしているとき、頸椎を損傷してしまいました。その事故以来、首から下全部が麻痺してしまいました。その会場で、星野富広さんの証のCDが流れていました。事故があった後、病院に運ばれて、手術を受けました。何時間かたったのでしょう?ストレッチャーに乗せられて、手術室から出てきました。自分の病室に入るとき、トイレのそばを通ったのでしょう。おしっこの匂いがしました。星野さんは「ああ、おしっこの匂いがする。「自分は生きているんだ」。おしっこの匂いがなつかしく感じたそうです。しかし、それからが大変な人生でした。普通なら「なんでこんなことが起きたんだ」と自暴自棄になってもおかしくありません。しかし、病室に訪ねて来た牧師やクリスチャンによって、信仰に導かれました。星野さんにとって、神のわざが現れるとはどうことだったのでしょう?一番良いのは奇跡的に麻痺が治って、元通りになるということでしょう?神さまの計画は、そうではありませんでした。彼は筆を口にくわえ、絵を描くことを学びました。手でも描けないのに、口で描くとは何と大変なことでしょう?ある時、野良仕事で帰ってきたお母さんに見せました。「あっ」と、お母さんが驚いてくれました。それが何よりも嬉しかったそうです。星野さんは1カ月に大体2枚の絵を描きました。そして、とても深い数行の詩をそこに書き加えました。その詩がまた奥が深い。星野さんが癒されることもすばらしいことですが、彼が描いた絵と詩が、数えきれない人を励ましました。日本ばかりか、ニューヨークやサンフランシスコ、ワルシャワにも渡ったそうです。彼の体はいやされませんでしたが、神のわざは十分に現れたと信じます。では、星野さんが運命を変えるために、参加したことは何でしょう。それは、口に筆をくわえて絵や文章を書いたということです。彼は体が動く以上に、多くの人にキリスト教の感化を与えました。でも、彼は、体が回復することを願っていなかったかというとそうではありません。『ぺんぺん草』という題ですが、こう書いてあります。「神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら母の肩をたたかせてもらおう。風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたらそんな日が本当に来るような気がした。」天国に行ったら、そのことが実現すると確信します。一度ではなく、何遍もです。

 もちろん、体が奇跡的に癒されて運命が変えられた人もいます。ケネス・へーゲン牧師は、血液の病気で、他の子どもたちのように走ったり遊んだりすることができませんでした。なぜなら、彼の心臓は奇形で、不治の血液病も患っていたからです。世界でも有名な医者から「医学史上、君の病気を患った人で16歳まで生きた人は一人もいない」と言われました。16歳の誕生日を迎える4カ月前は、寝たっきりの状態でした。ある日、自分の内側に静かな声が聞こえました。「あなたは、この若い歳で死ぬ必要はありません。あなたは癒されることができます」。彼は「どうすれば、私はいやされることができるのでしょうか?」と聞きました。同じ内なる御声がこう言いました。「それはすべて、あの本の中にあります。」彼は「あの本とは聖書のことだな」とすぐ分かりました。それで彼は、昼も夜も聖書を熱心に学び始めました。彼がマルコ11:23,24を読んだ時、子牛に焼きごてで烙印が付けられるように、そのみことばが彼の霊に押されました。「あなたが祈って求めているどんなものでも、受け取っていると信じていなさい。そうすれば、あなたがたに成ります。」先生はその日から、65年間ずっと癒されているそうです。ケネス・へーゲン師がいやしの中でよく主張していることがあります。先生の本に「あなたがすべきことをしなければならない」という題でこう書いてありました。いやしは私たちのものです。しかし、ほとんどの人がミスをしてしまうのは、次のように考えるからです。「もし、いやしが私のものであるのなら、どうして私はそれを受けていないのだろう?」つまり、「熟したサクランボが木から落ちるように、神のその恵みを自動的に私の上に落ちて来るはずだ」と彼らは思っているのです。この恵みは、神の書かれたことばへの信仰によって自分のものとしなければならないのです。つまり、神がご自分のみことばの中で私たちのためにすでに備えてくださった数々の恵みを、私たちは信仰によって受け取らなければならないのです。
 生まれつき盲人の人は、イエスさまから「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じられました。もし、彼が「いやです」と行かなかったらどうでしょう?彼の目は一生、癒されませんでした。彼はイエスさまのことばに従ったのです。私たちも同じように、みことばに基づいて行動するときに、癒しの油が注がれるのです。イエスさまは、運命を変えるとき、あなたにも信仰を用いて、行動すべき余地があることを教えておられます。私たちが信仰によって一歩踏み出すときに、神のみわざが現れるのです。

3.神の報い
 因果応報ということばはあります。その意味は、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。もとは仏教語で、行為の善悪に応じて、その報いがあること」とありました。どうしても、因果応報はあきらめることにつながるようです。運命の一面をとらえていることばかもしれません。しかし、神さまは因果応報から、また運命から救ってくださるお方です。ところで、良い報いであっても、プラスマイナス・ゼロという感じがします。同じように、神さまの回復ということを言うとき、プラスマイナス・ゼロなのでしょうか?旧約聖書に償いという考えがあります。出エジプト22:1「牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。」さらに、22:4「もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければならない。」だれかが、償いをする場合、同じ量ではいけません。五倍、あるいは四倍、少なくとも二倍にして償わなければなりません。もし、神さまが私たちの運命を償うとしたならば、どうなるでしょうか?同じ量だけをお返しになるでしょうか?それとも、二倍、四倍、あるいは五倍に報いてくれるでしょうか?旧約聖書にヨブ記というとても長い書物があります。ヨブは一度にすべての財産と10人の子どもを失いました。さらには健康まで失い、友達から「何か罪を犯したからだろう」と責められました。ヨブは「なぜ、どうしてですか?」と神さまに問いましたが、答えてくれませんでした。ヨブ記の主題は「善人でも災いが及ぶのか」ということです。なんと、善人でも災いが及ぶことがあるのです。神さまはヨブの質問には答えませんでした。しかし、ヨブは霊的な目が開かれて、神さまがすべてのことを支配していることを知りました。ヨブ42:5「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」そして、ヨブの人生の後半はどうなったでしょうか?ヨブ42:12「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された」。神さまは新たに10人の子どもを与えました。財産もすべて二倍になりました。「この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た」とあります。はっきり分かることは、神さまは二倍以上の報いを与えたということです。
 では、このところに出て来る青年はどうなのでしょうか?彼は生まれた時から目が見えなかったので、物乞いをして暮らしていました。それが、彼の運命でした。ところが、イエスさまに出会ってどうなったのでしょう?シロアムの池で洗ったら、目が見えるようになりました。「どうして目が見えるようになったのか」と、当時の宗教家たちに呼びつけられました。彼らは「安息日をやぶって、目をいやすのは罪人だ」と言いました。しかし、彼は何と答えたでしょうか?ヨハネ9:25「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」これは、アメイジング・グレイスの歌詞の一部にもなっています。彼は立派な証をしましたが、「お前もあの弟子か」と言われ、会堂から追い出されました。当時、ユダヤ人の会堂から追い出されるということは、破門と同じで、救われないということでした。彼は再びイエスさまと出会いました。ヨハネ9:38「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」。これはどういう意味でしょう?彼は肉体の目ばかりか、霊の目が開かれたということです。肉体の目が開かれたのなら、プラスマイナス・ゼロです。目の癒しだけなら、他の人たちと同じになったということです。これもすばらしいことです。でも、さらにすばらしいことは、霊の目が開かれ、イエスさまを主と告白して救われたということです。当時の宗教家たちは肉体の目は確かに開かれていました。しかし、そのことが災いして、イエスさまのことが分からなかったのです。イエスさまが「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」と言われたとおりです。この若者の運命はどうなったのでしょうか?肉体の目が開かれただけではありません。霊の目が開かれ、永遠の命が与えられました。彼はこれまで物乞いとして生活していました。目が癒されたので、他の人と同じような生活をすることができたでしょう。しかし、それが回復ではありません。霊の目が開かれ、永遠の命と御国が与えられました。二倍、四倍、あるいは五倍に報いられたということです。
 イエスさまは今も、御霊によってこちらにお出でになっておられます。そして、私たちがどのような運命の中にあるのか、目をとめてくださいます。「あの人のせいだ。あのことが起こったからだ」と、自分の運命を呪って生きる道も1つの道です。しかし、イエスさまは「神のわざがあなたに現れるためです」と、あなたの運命を変えてくださいます。そうです、私たちの欠けたるところにこそ、神さまのわざが満たされるのです。信仰によって、神さまのみわざに参加しましょう。神さまにとって、取り返しのつかないことはありません。神さまは取り返してくださいます。少なくとも二倍、あるいは四倍、五倍に報いてくださいます。イザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」

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2013年2月17日 (日)

罪による病の癒し    ヨハネ5:1-14

 なぜ、私たちに病や障害があるのでしょうか?その根本的な理由はアダムが罪を犯したからです。アダムの罪によって全人類に死と呪いが入りました。もし、病が死を弱くした形だとするなら、すべての人がその影響を受けるはずです。年を取れば取るほど、あちこち壊れてくるのはそのためです。アダムの罪によって肉体的にダメージを受けているので、不節制とか不養生が加わるならば、病気になるのは当然です。さらには、個人が犯す様々な罪によって、精神的な病あるいは肉体的な病になるということもあり得ます。きょうは、罪が原因している病とはどのようなものなのか?さらには、それに対する癒しとはどのようなものなのか、共に学びたいと思います。

1.罪による病
 私たちが犯す罪によって、病気になることがあるのでしょうか?エルサレムのベテスダの池の周りには、さまざまな病人が伏せっていました。ヨハネ5:3-5「その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。」そこにいた全員が、罪による病であるということはないでしょう。しかし、38年もの間、病気にかかっている人は、原因がはっきりしていました。彼はイエスさまによって奇蹟的に癒されました。その後、イエスさまと再会したとき、こう言われました。ヨハネ5:14「その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。』」イエスさまの言葉から、この人の病気が何らかの罪を犯したことが原因であることが分かります。彼は自分が犯した罪のゆえに病気にかかり、それが38年間も及んだということです。病気の期間が長いので、「治りたい」という希望も失せていました。イエスさまが彼を見出し、一方的に癒して差し上げました。彼は「治りたい」と口で答えていません。でも、イエスさまが「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われたとき、そのことばに従いました。起き上がろうと決心したとき、体がたちまち癒されて、床を取り上げることができたのだと信じます。昔は、罪によってなる病気の代表は「梅毒」でした。この病気は胎内にいる子どもにまで移るので、大変、恐れられていました。旧約聖書では、罪のさばきのために、神さまから疫病が送り込まれることがありました。エジプト、イスラエル、アッシリヤの民が、ペストのような疫病で倒れています。

医者に行っても、「それはあなたが犯した罪のせいです」とは決して言われないでしょう。でも、申命記28章を見ると、そうでないことが分かります。申命記28章の前半には、「もし主の御声に従い、命令を守り行うなら、繁栄と祝福が与えられる」と書いてあります。しかし、「主の御声に聞き従わず、命令とおきてを守らないなら、呪われる」とも書いてあります。申命記28:22以降「主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。…主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。主はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。」現代的に、どういう病気なのか分からないものもありますが、肺結核、様々な熱病、皮膚病、腫瘍、精神的な病気や障害などが記されています。これらは呪いであり、神の律法を破ったゆえに来るものです。しかし、幸いなことに、イエス・キリストが律法の呪いを受けてくださいました。ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」さらに、Ⅰペテロ2:24「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」とあります。ですから、キリストの十字架によって、申命記28章の病が、そのまま全部、私たちに及ぶことがなくなったということです。

 では、「クリスチャンになったら、病気にならないのか」というと。そういう意味ではありません。はっきりと申しあげられることは、「クリスチャンになったら病気にかかりにくい」ということです。でも、病気になることがあります。第一はアダムの罪から来た肉体的な死からだれも免れることができないということです。私たちが死ぬということは、何らかの病気になる可能性があるということです。第二は、クリスチャンであっても神さまの法則を破るならば、病気になることがあり得るでしょう。この自然界には、万有引力や作用反作用など、様々な法則があります。クリスチャンであっても、2階から落ちたら怪我をしますし、死ぬこともあります。私たちがもし、神さまのおきてや命令を破るならば、その支配を受けるということです。たとえば、同性愛は聖書で禁じられています。すべてのエイズが、同性愛が原因であるとは言いません。でも、同性愛者がエイズにかかる確率が高いということは事実であるようです。また、アルコールの飲みすぎやたばこの吸い過ぎも、病気になるでしょう。人を赦さない罪、激しい怒りや憎しみ、思い煩いも病気を招くことがあります。そういう風に考えますと、クリスチャンであっても神の法則を破るならば、病気になることがあるということです。もちろん、すべての病気がそうだとは申しません。車でも人からもらう交通事故があるように、インフルエンザとか食中毒、遺伝的な病気もあります。私がこういうことを話し続けると「医学的な知識のない牧師が何を言っているんだ」と反発する方もおられるでしょう。でも、特に西洋の医学は、唯物的で目に見えるものしか考えません。「アダムの罪とか、その人が犯した罪が原因です」という医者は皆無でしょう。でも、それが問題なのです。神のことばである聖書に私たちは耳を傾けなければなりません。なぜなら、人間の医学は病気と死に対して、完全な答えがないからです。神さまが全世界と私たち人間を造りました。神さまは創造された直後に、「すべてが良かった」と言われました。しかし、この世においては、病気や死が人々を支配しています。国家が、どの位の額を保険金や医療費にかけているでしょう?どんなに医学が発達しても、病気を完全に治すことができません。私たちはへりくだって、神のことばに耳を傾けるべきではないでしょうか?

2.罪の告白による癒し

ダビデは大きな罪を犯したにもかかわらず、知らんぷりしていました。王さまということで、罪をもみ消していたのです。でも、彼の内側はどうだったでしょうか?詩篇32:3-4「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」このところに、病気とははっきり書かれていません。でも、骨や骨髄に死ぬほどの痛みがあったことは確かです。いろんな痛みがありますが、骨の痛みは尋常ではないと聞きます。骨膜というのがあるそうですが、骨膜は体の中でも最も強い痛みを感じる部分だそうです。ダビデのことばは、あるいは比ゆかもしれません。心の中の、ひどい苦しみをそのようにたとえたのかもしれません。とにかく、生きているここちがしないほどの苦しみがあったのでしょう。でも、彼が罪を告白したらどうなったでしょうか?詩篇32:5「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」詩篇32:1には「幸いである」と書いてあります。つまり、罪を隠していたときは苦しくてしょうがなかったけど、告白したら重荷が取り去られて楽になったということです。それは、精神的にも肉体的にも言えたのだと思います。罪を正しく処理していないために、病気になることもありえるのではないでしょうか?チョー・ヨンギ牧師のもとに、ひどい関節痛を患っている女性の校長先生がやってきました。チョー先生がいくら叫んでも癒されませんでした。チョー先生は「あなたはだれかを恨んでいませんか」と聞きました。彼女は、自分を捨てて他の女性のもとに行った元の夫を赦していませんでした。チョー先生は「憎しみと恨みが、関節痛を引き起こしているのです。元の夫を赦し、祝福しなさい」と言いました。彼女は目をつぶって、しばらくもがいていました。しかり、振り絞るような声で「赦します。祝福します」と信仰によって宣言しました。数日後に、彼女の関節痛は完全に治ったということです。

新約聖書マルコ2章には、中風の癒しの記事があります。4人は友人の病を癒してもらうためやって来たのに、イエスさまは何とおっしゃったでしょう?「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。このところはとても複雑ですが、罪と病気が関係していたと考えることも可能です。「彼の内側に罪責感があったのではないだろうか」と解釈する人もいます。もし、罪責感があるならば、「私は病気になって苦しむのが当たり前、癒しをいただくような権利がない」と考えるでしょう。罪責感が病の癒しを妨げているならば、罪の赦しの宣言を最初にすべきでしょう。理由ははっきりしませんが、イエスさまは罪を赦された後、彼の病を癒されました。また、ヤコブ5章に、人が病気になった場合どうすべきかについて記されています。ヤコブ5:14-16「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」このところに、「もし、病気であれば、長老たちを招いて、祈ってもらいなさい」と書かれています。この祈りは、病気の癒しのためであろうと思います。しかし、後半には、「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです」とあります。全体の文脈から考えると、ある病気は、罪を告白していないことが原因しているということです。だから、癒しのためには、互いのために祈ることがとても大切だということが分かります。初代教会の頃は、こういうことが頻繁に行われたようです。ところが、いつからかプロテスタント教会では神さまに罪を告白すれば良いと個人主義的になりました。私たちも「罪は神さまにだけ告白すれば、それで赦されるんだ」と、やってきました。でも、ある罪は一人で祈っても解放されません。そのため、ある病気がその人をずっと支配しているならば、大変不幸なことです。ですから、私たちは、原点に帰って、癒しを受けるために、互いに罪を言い表すことが必要だということを学ぶべきです。みなさんは、互いに罪を言い表せるような信仰の友をお持ちでしょうか?ぜひ、そういう人を見つけて、この原則を守りたいものです。イエスさまは弟子たちを二人ひと組で遣わしました。ひとつの理由は、互いに祈ることができるためであります。

10年以上前に、LTGというものが教会に導入されました。LTGとは、ライフ・トランスフォーメーション・グループという意味です。直訳すると、「人生が変わるグループ」です。イエスさまはマタイ18章でこのように約束されました。マタイ18:19-20「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」このみことばによると「どんなことでもかなえられる」ということです。しかも、一人で祈るよりも、ふたりでも三人でも祈る方がより効果的だということです。罪を言い表すだけではなく、祈りの課題を出し合ったり、みことばの恵みを分かち合うこともできます。現代は携帯をだれでも持っている時代です。「このために祈って」とメールで流すこともできるでしょう。イエスさまは一人の祈りも聞かれますが、ふたりもしくは三人が心を一つにして祈る大切さを教えておられます。インドネシアのエディ・レオがこのように、言ったことがあります。「現代の教会で最も実行されていない、聖書の命令は、ヤコブ5章の互いに罪を言い表して祈ることある。その代わり、心の病気を持った人に、カウンセリングをして、あなたは悪くないと言う。さらにカウンセリングを一年、二年続ける。しかし、昔は、現代よりも心の病気が少なかった。なぜなら、互いに罪を告白して祈って、癒しを得たからである」と言いました。私たちはヤコブ5章の命令を再発見すべきです。ふたり、三人が互いに心を合わせていのる。また、互いに罪を言い表し、互いに祈る。そのことを実行して、心も体も癒され、健康になるように神さまに求めるべきです。


3.心の状態と病の関係
 昔の人たちは「病は気から」とよく言ったようです。しかし、これはまんざら嘘でもないようです。なぜなら、心と体は密接に関係しているからです。心の状態がそのまま、肉体に現れるということがよくあります。現代は「認知行動療法」というのが良く行われています。これはカウンセリングの一種ですが、パニック障害やうつにとても効果があるようです。最初に、ゆがんだ考え方を変える。すると感情が変わります。そうすると、行動や体調も変わっていくという論理です。逆に、行動を変えると感情や考えにも影響を及ぼしていくということもあるようです。心と体が関係している、これは何千年も前から聖書が教えています。箴言14:30「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」、箴言17:22「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」どういう心の状態が病気を引き起こすのでしょうか?まず言われているのは「激しい思い」です。英語の詳訳聖書によると、「妬み、嫉妬、怒り」となっています。みなさんの中に妬みや嫉妬、怒りはないでしょうか?それから「陰気な心」も良くないですね。何でも否定的、悲観的に見る心です。それに対して、「穏やかな心」は、からだのいのちです。英語の詳訳聖書によると、「平静な、乱されない心」となっています。単なる穏やかさではありません。思いがけないことがあっても、「主にあって大丈夫、なんとかなる」という心です。以前の私は小さなことでも、動揺し、反応しました。正直、今でもテレビを見て1つ1つ反応するので、家内によく注意されます。自分では、あまり意識していないのですが、怒ったり、つぶやいたりしているようです。日本人は感情を押し殺しがちですが、アメリカ人は感情をストレートに出します。反応するのは、私の性格なので、しょうがないと思います。でも、以前ほど、動揺しなくなりました。思いがけないことが起きたとしても、「そういうこともあるよね」と軽く流せるようになりました。なぜなら、主が万事を益としてくださることを腹の底から信じられるようになったからです。

興味深いことに、箴言17:22は英語の聖書にはこのように書かれています。A happy heart is good medicine and a cheerful mind works healingとなっています。直訳すると「幸せな心は、良い薬である。そして、明るい思いは癒しのために働く」ということです。ジョエル・オスチンというアメリカの牧師が『今日のためのホープ・バイブル』という聖書を出版しました。箴言17:22をこのようにコメントしています。「神さまはあなたに、健康で長生きし、幸いな人生を送るための処方箋を与えておられます。そのためには、笑うこと、それもたくさん笑うことです。笑いの薬は、健康に生きるための鍵です。しかし、あなたは笑いに関して調べることから始める必要があるかもしれません。学者たちは笑いが免疫システムを上昇させることを明らかにしました。さらに、笑いがストレスを削減し、心臓発作のリスクを削減し、まるで自然の安定剤のように働くということです。それらは、すべての人に必要な、健康の要素です。だから、石の顔で生きる人の行く道は悲惨なのです。敵はクリスチャンであるためには、陰気で真剣さが必要なことを、多くの人たちに信じ込ませています。だが、そんな嘘は信じないように。クリスチャンはこの地球上でもっとも、幸せな人々でなければならないのです。笑いで満たされた生き方を始めなさい。神様はあなたが笑って、健康に生きてもらいたいのです。」アーメンです。日本人はそれでなくても、シリアスで、何でも深刻に考えるところがあります。クリスチャンになったら、さらにその度合いが増すかもしれません。しかし、神さまは陰気で深刻な顔をしているクリスチャンを望んでいないようです。健康のためにも、よく笑い、ハッピーで明るいクリスチャンであるべきです。

イエスさまは「世にあっては患難がある」(ヨハネ16:33)とおっしゃいました。病気も患難の1つであろうと思います。神さまが私たちに病気を与えているのではありません。自分の子どもが病気になるのを願っている親は一人もいないでしょう。そうではなく、私たちはこの世で肉体をもって生きているので、病になるときもあるということです。伝道者の書7:14「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」とあります。他の訳では「熟考せよ(深く考えよ)」となっています。そうです。私たちは病気になったとき、どうして病気になったんだろうと深く考えます。不節制だろうか?何か罪を犯したせいだろうか?それとも遺伝だろうか?「あのことが原因なのだろうか?このことが原因だったのだろうか?」と悩みます。理由が分かるときもあれば、わからないときもあります。しかし、もっと重要なことは、神さまのところに逃げ込み、深く交わるということではないでしょうか?普段、健康でうまくいっているときは、あまり祈りません。しかし、患難や、逆境、病気になったときはどうでしょう?私たちが、最も神さまの近くにいるときではないでしょうか?ある場合は罪を悔い改め、心からの癒しを求めます。ある場合は、お医者さんやお薬を用いてくださいと祈るでしょう。でも、病気になって、あるいは入院して、最も幸いなことは、神さまと深く交わることができるということです。時には嘆き、時には泣きながら、自分の思いを訴えます。最終的にはすべてを神さまにゆだねます。そうすると、神さまから深い慰めと平安がやって来ます。これは使徒パウロも経験しています。彼は3度も祈りましたが、癒されませんでした。しかし、主がパウロに言われました。Ⅱコリント12:9「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」。弱さや病気があったままでも、それらを乗り越える力が与えられるということです。私たちができることは何でしょう?健康のときも、病のときも、神さまを喜び、感謝するということです。なぜなら、すべては神さまの御手の中にあるからです。


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2013年2月10日 (日)

病の霊からの解放    ルカ13:10-17 

 「病の霊」と言うと西洋的な見地からすると、まったくナンセンスに聞こえるかもしれません。しかし、東洋では実際、厄払いをしたり、祈祷師から拝んでもらうということがあります。なぜでしょう?「その病気が、霊的なものから来ているかもしれない」という恐れがあるからです。たとえば、家族に同じ病気や障害をもっている人がいるとか、病院に行っても原因が分からないものがあるからです。でも、すべての病気が悪霊から来るというのは極端な考えです。マタイ8章に、「みことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた」とあります。イエスさまは、悪霊の追い出しと病気の癒しを別々に取り扱いました。ですから、すべての病気が悪霊から来るものではなく、ある種の病気や障害は悪霊から来るものがあるということです。

1.病の霊とは

ルカ13:10-11「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。」ひとりの女性が病の霊に取りつかれ、18年間も腰が曲がったままでした。そこは、会堂であって、神さまを礼拝している特別な場所でした。悪霊が会堂にいても、全く平気だったということは残念なことです。イエスさまがこの女性から悪霊を追い出し、癒してあげました。しかし、人々の反応はどうだったでしょうか?喜ぶどころか、「安息日に人を癒すのは何事か。他の日にできないのか」と憤りました。イエスさまは、「安息日でも牛やろばが水を飲むために解放されるように、安息日だからと言って束縛を解いてはいけないのか」と答えました。彼らにとって、人が癒されるよりも、安息日を守ることが大切だったのです。イエスさまは本当の安息を与えるために、18年間も悪霊に縛られていた女性を解放しました。明日まで待たないで、その日、解放してあげました。イエスさまが、あえて安息日にこだわったのか、あるいは一日でも早く解放して差し上げたいと思われたのか、どちらかでしょう。その両方かもしれません。今日の教会ではどうでしょうか?もし、私が他の教会に招かれて、説教のあとに、病の霊を追い出したら、どう思われるでしょうか?「ありがとうございました」と言われるでしょうか?あるいは、「今は病の霊など存在しません。混乱を与えるようなことはやめてください」と反対されるかもしれません。

10年くらい前になりますが、台湾に伝道旅行に行った際、新松戸の津村先生とある教会で奉仕をしました。説教が終わった後、津村先生がミニストリーをしました。すると青白い女性が、お母さんと一緒に祈りを求めて前に来ました。良く見ると、さっきまでオルガンを弾いていた若い女性です。津村先生がいきなり「病の霊よ、去れ!」と命じました。その女性はその場にパタリと仰向けに倒れました。近くにいた人たちが一斉に離れました。私は隣にいたのですが、その女性は紙おむつのようなものを履いていました。「ああ、この女性は何かの病気なんだなー」と思いました。台湾のその教会では、「病の癒しや悪霊の追い出しはやったことがない」と言っていました。病や障害をもたらす霊がいることは、聖書のいたるところに記されています。マルコ9章には、古い訳ですが「おしの霊」が出て来ます。その子は「てんかん」の症状と良く似ていました。なんと、その悪霊は何度も、その子を火の中や水の中に投げ込んで殺そうとしていたのです。また、マタイ12章には、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人がイエスさまのもとに連れてこられました。人々は、「ベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」とイエスさまを批判しました。しかし、イエスさまは「神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来ているのです」とおっしゃいました。また、スロ・フェニキアの女性の娘が、病名はわかりませんが、悪霊によって苦しんでいました。旧約聖書には、ヨブの記事があります。ヨブが重い皮膚病になったのは、神さまが許可されたからでした。しかし、直接、ヨブを皮膚病にしたのはサタンでした。

では、なぜ私たちは病の霊によって病気になることがあるのでしょうか?その原因が2つあります。第一はアダムが罪を犯してから、私たち人間に神の権威がなくなったということです。簡単に言うと、神の守りがなくなったということです。第二は私たちが神に背いて、罪や咎を犯すことがあります。また、過労やストレスで免疫力が下がるときがあります。たまたま通りかかった病の霊が、その人に入りこむことがあるということです。なぜなら、悪霊は自分が入るべき肉体を探し求めているからです。一度は出ても、部屋が空っぽであったなら、他の仲間を連れて入りこみ、前よりももっと悪くなります。つまり、悪霊は二次的なもので、直接の原因は私たち人間にあるということです。逆に言うなら、私たちが神さまに立ち返り、罪咎を悔い改めたならば、悪霊は容易に出て行くということです。マルコ2章に、4人の友人に運ばれてきた中風の人が書いてあります。イエスさまは最初に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。そのあとで、「起きて、床をたたんで歩け」と命じられました。ここには悪霊とは書かれていませんが、罪と病が関係していることが暗示されています。また、出エジプト記20章には、「偶像を拝む者には、父の咎を子に報い、三代、四代まで及ぼす」と書いてあります。つまり、だれか先祖が犯した咎により、病や障害が子孫に入りこむ可能性があるということです。そのドアを閉じないかぎりは、悪霊が呪いを持ち込むかもしれないということです。

 すべての病気を悪霊やサタンのせいにしてはいけません。自然治癒か医療の助けによって治る病気がほとんどだと思います。しかし、いろいろな治療を施しても、治らない場合は、悪霊の可能性もあるということです。そういう場合は、罪や咎を悔い改め、祈っていただく必要があります。ヤコブ5:14-15「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」

2.病の霊の解放
 第二は、こちらが病の霊を追い出す場合です。「自分もしくは、病の霊を持っている人を癒す祈りをどうするか」であります。病もそうですが、病の霊の場合は、正しくは「祈る」のではありません。「出て行け」と命じるのです。ルカ13:12-13「イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました』と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。」ここでは、イエスさまは命令していません。どちらかというと、宣言して、手を置かれました。もちろん、信仰が来たなら、そのように宣言しても良いと思います。しかし、多くの場合は、イエスの御名によって、命じると病の霊は去っていきます。なぜなら、私たちはイエスさまの御名の権威を用いることができるからです。イエスさまは弟子たちに「そのようにせよ」と命じましたし、私たちにも同じことを命じておられます。マルコ16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」これは、牧師だけに語られているのではありません。「信じる人々」、すべてであります。アダムが罪を犯したために、私たちから神の権威が取り去られました。しかし、イエス・キリストが十字架で罪を贖ってくださいました。その次には、神の権威を信仰によっていただくべきです。私たちが「イエスの御名」の権威を用いるならば、悪霊は言うことと聞かなければなりません。悪霊は私たちを恐れているのではなく、私たちの背後におられる、御子の権威を恐れているのです。私たちには、悪霊は見えません。しかし、悪霊の方が、「あいつにはイエスさまがついているなー」と恐れているのです。
 現代は肉体的な病気だけではなく、精神的な病気がたくさんあります。すべての病気が、悪霊ということはありませんが、悪霊から来るものもあります。たとえば、うつ病があります。脳の機能障害から来るうつ病もありますが、悪霊から来るうつ病もあります。チョーヨンギ牧師が、あるとき原因不明のうつになりました。何もやる気が起こりません。失望落胆が心を支配して、生きる気力さえ失せてしまいました。なぜだろうと思いました。何か罪を犯したからだろうかとも考えましたが、心当たりがありません。「これはひょっとしたら」と思って、牧師室でこのように祈りました。「私はイエス・キリストによって贖われた存在である。悪霊とは何の関係もない。失望落胆をもたらしている悪霊よ、イエスの御名によって出て行け。二度と入ってくるな!」と命じました。すると、耳元で「きゅー」という声がして、出て行ったそうです。そうすると、さきほどのうつが嘘のようになくなり、気分爽快になったそうです。私もそういうときがたまにあります。自分に対して、イエスの御名によって、病の霊が出て行くように命じるのです。すると、「あれ?何だったんだろう」ということがあります。ケネス・へーゲンの本にこのように書いてありました。「悪霊は人間を抑圧しようとして、ある程度の影響を及ぼすことがあります。たといクリスチャンであっても、悪霊に許してしまうなら、悪霊は人々の体やたましいの内側からでも外側からでも、だれでも抑圧することができます。気分が悪くなって、何が大きな黒い雲がおおかぶさるようなこともあります。それはサタンによる抑圧です。けれども、私たちがイエスの御名によってその抑圧を叱りつけ、それに対抗して立ち、それに抵抗すると、悪魔は私たちから逃げ去ります。クリスチャンは敵の抑圧の下で生活する必要はありません。また、人が抑圧から解放される時、自分の両肩から重荷が取さられたように感じることもあります。」
 私たちはお互いに祈り合う必要があります。自分で自分の病の癒しをしても、あまりききません。なぜでしょう?たとえば、私が後ろ手でつながれて、椅子に座らされているとします。束縛された状態です。なんとかふんばって、手からロープをはずそうとします。時間をかければできるかもしれません。でも、一番楽なのは、他のだれかからロープを切ってもらうことです。聖書に「互いに祈り合いなさい」と書かれています。ですから、自分が病の霊にやられているかもしれないと思ったなら、信仰のある人から祈ってもらうべきです。私の家内は看護師なので、医学的な知識があります。「こうなれば、こうなると」先のことを知っています。だから、彼女は「早く医者に行って診てもらいなさい」と言います。私は「祈ってくれ」と頼んでいるのに、「医者へ行けとは何だ」と言います。だから、病気に関しては、よく喧嘩して一致がないときがあります。神さまは本当に不思議だなーと思います。超自然的な働きを信じる人と、医学的な働きに従事している人をよくくっつけたものだと思います。時には、私も譲歩するときがあります。でも、一番良いのは、祈ってから医療を受けるということです。神は医療を用いて癒してくださるように願うべきです。霊的な分野と自然科学の分野を見分ける知恵とバランスも必要かと思われます。

3.病の霊の予防
 病の霊に対して、もっともしてはらないことは、「恐れ」です。この世ではニュースやいろんなテレビ番組が、「病気や事故、災いに陥る恐れがあるから注意するように」と警告します。『本当は怖い家庭の医学』という番組があります。あの女の人の声を聞くだけでも、恐ろしいですね。あの番組は、病気の恐れを振りまいています。そういう病気があることは、否定しません。しかし、その病気が発病する確率は一体どれくらいなのでしょうか?おそらく、数万人か数十万人に一人の割合ではないでしょうか?ある人は「今年はインフルエンザが流行するから」と予防接種を受けます。予防接種が悪いとは言いません。でも、「もしも、自分がインフルエンザにかかったならどうしよう」という恐れは禁物です。また、三人に一人は癌になると言われると、がん保険に入ろうかと心配します。どうして、自分が三人の二人の方に入るとは思わないのでしょうか?そういうことを言うと、「先生は医学の知識がないから」と言うかもしれません。確かに、医学の専門家はありません。でも、人があることを恐れて準備をするならば、病の霊に対してドアを開くことになります。つまり、病気になった場合の準備をするということです。外出時は必ずマスクをして、帰ったら良く手を洗っている人を見かけます。マスクや手洗い、うがいの習慣は良いと思います。でも、それ以上に重要なのは、たとえ口から菌が入っても「私は病気にはならない」という信仰です。私たちは病気の準備よりも、病気にならないために免疫力をアップする必要があります。どうしたら良いのでしょうか?大事なのは、普段からの睡眠と休養です。十分な睡眠は免疫力をアップします。また、正しい食事を取り、ストレスをためない生活です。いつも喜び、たえず祈り、すべてのことを感謝することです。そして、「神の守りがあるので、私は病気にならない」という信仰を持つべきです。その約束が聖書にあります。詩篇91:1-7「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。」アーメン。恐ろしい疫病が歩きまわっています。でも、主が私を守ってくださいます。多くの人たちは、「千人がそうなったら、自分もなる。万人がなったら、自分もそうなるかもしれない」と恐れています。しかし、千人が私のかたわらに、万人が私の右手に倒れても、私は大丈夫なんです。なぜなら、全能者なる神がわが避け所、わがとりで、わが大盾だからです。
 私たちは「病気にならないように」と願うのではなく、むしろ神の健康をいただくべきであります。ある人たちは「病気にならないように」「病気にならないように」と注意しているのに病気になります。医者の息子がいました。彼は何かある度ごとに薬を飲んでいました。でも、風邪をひきやすく、また神経症のため起き上がれないことがよくありました。手もまんべんなく洗います。過敏なくらい清潔好きです。でも、よく病気になります。なぜでしょう?医学的な知識が豊富で、「こうしたらこういう病気になる。だから、こういう薬を飲んで予防しよう」と恐れているからです。風邪薬も普段から飲んでいると、いざ風邪にかかったときにききません。抗生物質を飲みすぎると、自分の中にもともとあった免疫力もなくなるからです。不思議に「病気にならないように」と恐れると病気になります。そうではなく、私たちは神の健康をいただくべきであります。神の健康とは何でしょうか?さきほど引用したケネス・へーゲン師はある著書でこう述べています。「これまで私たちは、すでに病気にかかっている人々の癒しに関心を払ってきましたが。神の子どもであるあなたに対する神の最善は、本当は癒し以上のものです。神のみこころは、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である」(Ⅲヨハネ2)ことです神は私たちの体力を鷲のように一新してくださいます。神のみこころは、私たちが幾度も幾度も救われることではありません。同じように、神の最善は、神が幾度も幾度も私たちを癒すことではなく、私たちが健康な状態にとどまることです。もし、私たちが神の命令に従順で、神と交わって生活するなら、神の健康を受けることは確かな権利なのです。ですから、サタンが私たちの体に病気をもたらそうとするとき、私たちは病気に負けてしまうまでじっとしているべきではありません。サタンが最初の一撃を受けたとき、私たちは立ち上がって彼をしかりつけなければなりません。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」
 私たちはグッドニュースである、聖書のみことばにいつも浸っているべきです。テレビ番組のバッドニュースをまにうけてはいけません。ある場合は、医者の言うことも聞き流さなければなりません。彼らは責任を逃れるために、最悪のことを言うときが多々あるからです。最悪を信じてはいけません。私たちは神さまのみことばから最善を信じなければなりません。ある時、当教会にメル・ボンド師が来られたことがあります。一人の姉妹が亀有駅からタクシーで来ました。「ひざが痛いので、二階には上がれないので、下で祈ってもらいたい」と言いました。しかし、集会が既に始まっていました。私は上で先生のメッセージを聞いていました。ミニストリーの時間になり、気がついたら彼女が前に進み出ました。メル・ボンド師が「ただリラックスして、癒しを受けなさい」と祈りました。そのあと、先生は彼女に「この通路を走ってみなさい」と言われました。彼女は「いいえ、医者から走ってはいけないと止められています」と拒否しました。先生は「あなたは医者のことばと神さまのことばと、どちらを信じるのですか」と言いました。彼女は「お医者さんです」と答えました。そして、ゆっくり、ゆっくり歩きました。彼女は帰りもタクシーで帰りました。メル・ボンド師の癒しが完璧であるとは言いません。でも、みことばに賭けることが重要ではないかと思います。使徒3章でペテロは生まれつき足なえの人に命じました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と言いました。そのとき、「いいえ、私は歩けません。これまで歩いたことがないからです」と断わったでしょうか?ペテロが右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、完全に癒されました。私たちがみことばに答えるならば、神の力が臨み、奇跡が起こるのです。私たちに、信仰によって踏み出す分があるということです。
 イエス・キリストは十字架で私たちの病を背負われました。さらには、十字架で呪いとなってくださり、私たちの呪いも背負ってくださいました。ですから、私たちは健康になるのが当たり前なのです。神さまは私たちに永遠のいのちをくださいました。天国に行くまで病気でいなさいということではありません。神さまは、永遠のいのちが肉体にまで及ぶことを願っておられます。病の霊に負けないで、神の健康をいただきましょう。イザヤ40:29-31「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

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2013年2月 3日 (日)

盲人の癒し     マルコ10:46-52

 かつてヨシュアは、難攻不落のエリコを神の奇蹟的な力で滅ぼしました。そのとき、ヨシュアは、このように呪いました。ヨシュア6:26「この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」何世紀もの間、ヨシュアの呪いを恐れ、エリコの町の再建に着手しようする者がいませんでした。ところが、アハブ王の時代、ある者がエリコの町を再建しようとしました。そのとき、ヨシュアの呪いが成就して、彼は長子と末の子を失いました。新約時代、イエスさまはエリコのザアカイの家に、あえて泊まりました。また、「良きサマリヤ人のたとえ」の舞台にしました。その日、イエスさまはエルサレムに行くために、エリコの町を通過されました。町の門の近くに、バルテマイという盲人の物乞いがいました。イエスさまが彼の目を癒した時、「あなたの信仰があなたを救った」と褒めました。それはどのような信仰だったのでしょうか?

1.求める信仰

バルテマイは盲人ですから、自活することができません。毎日、人が出入りする町の門に出かけ、通路の端にゴザを敷き、器を置きました。「私をあわれんでください」と、人の施しを頼りに生活していました。その日の施しが多ければ、その分だけ、飲んで食べました。もし、その日の施しがなければ水しか飲むことができませんでした。人の施し次第で、その日、暮らしをしていました。彼はきょうもゴザと器を持って町の門に出かけました。しかし、その日は、ふだんとは違って、大ぜいの足音が聞こえました。「おお、きょうはたくさん身入りが入るぞ」と喜びました。耳をすまして聴くと、近頃、噂になっているメシヤがこの町を通るということでした。仲間の情報によると、「ダビデの子イエスは、どんな病気でも治すことができる。これまでも盲人や足なえを数多く治してきた」ということです。バルテマイの胸の音は高鳴りました。いよいよ、イエスさまが近くに来られたようです。群衆のざわめきで分かります。バルテマイは目が見えませんでしたので、自分からイエスさまのところに行くことができません。そこで、彼は大声を上げました。10:47-48「ところが、ナザレのイエスだと聞くと、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください』と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた。」目が見えない彼にできることは、大声をあげて、イエスさまの足を止めることでした。ところが、あんまり、彼の声が高いので、「うるさい、黙れ」と大ぜいの人がたしなめました。しかし、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てました。英語の聖書には、cry outとなっています。あらん限りの力を込めて叫んだのです。黙れと言われても黙らず、ますます泣き叫びました。

すると、どうなったでしょう?49節「すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている』と言った。」イエスさまは、バルテマイの呼びかけを無視しませんでした。本当は、エルサレムに苦難が待ち受けているので緊張していました。盲人の乞食のことなどかまっている暇はありません。全世界の救いがかかっているからです。でも、イエスさまは足を止められ、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。イエスさまが足を止めたのは、彼の信仰を見たからです。「人々が『うるさい、黙れ』と制止しても、さらに大きく叫び求めるとは、なんという信仰なのだろう」思ったのです。イエスさまは「真夜中にパンを求めに来る友人」のたとえ話をしたことがあります。なぜ、友人にパンをあげたのでしょう?友人だからではありません。「あくまで頼み続けるので、そのあつかましのゆえに」必要なものを与えたのです。イエスさまは、あつかましい人がお好きなようです。日本よりもお隣の韓国や中国の方がはるかに救われる人が多いのはなぜでしょうか?日本人より、あつかましいからかもしれません。彼らは「主よ、主よ」と、日夜叫びながら家族や友人が救われるように祈っています。日本は、「みこころならば御救いください」と上品で静かです。二人の人が川で溺れているとします。救命士はどちらの方を先に助けるでしょうか?「助けてくれ!もうだめだ。おぼれ死ぬー」と泣き叫んでいる方でしょうか?それとも「もし、お手すきならば助けてください」と言っている方でしょうか?おそらく、前者の方を先に助けるでしょう。

バルテマイは、知っていたかどうかわかりませんが、最後のチャンスを逃しませんでした。イエスさまがエルサレムに行ったら、エリコには戻ってきません。十字架にかかって死ぬつもりだからです。もし、この機会をなくしたなら、二度とイエスさまとお会いできなかったでしょう。だから、バルテマイはあらん限りの声をあげて、イエスさまの足をとめたのです。この箇所を表すような聖歌もあります。聖歌540「主よ、わがそばをすぎゆかず。なが目をば、われに向けたまえ。主よ、主よ、聞きたまえ。せつに呼びまつるわが声に。」イザヤ55:6「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」とあります。バルテマイは最後のチャンスを逃しませんでした。チャンスの神さまはキューピーちゃんに似ているそうです。体は裸でつるんつるんで、髪の毛は前にしかありません。「来たなー」を思ったら、前の髪の毛を捕まえなければなりません。お尻や背中だと、つるんとつかみそこねてしまいます。人生は決断の連続です。あまりあせってはいけませんが、「今がこの時だ」というチャンスを逃してはいけません。人生、救われるチャンスはいっぱいありそうですが、実はそんなにありません。私たちが求めていると、イエスさまが「良いよ」と、答えてくださる時があります。そのチャンスを逃してはいけません。イザヤ55:6「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」です。


2.行動する信仰

マルコ10:50「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」この短い聖句の中に、バルテマイの信仰が表れています。当時は現在のように、福祉制度がありませんでした。その代わり、「金持ちは、貧しい人に施すべきである。そのために神さまがその人を金持ちにしたのだ」という考えがありました。だけど、中には自分で生活できるのに、人の施しで生きるようとする怠け者がいました。そういうことがないように、政府では、特別な上着を支給しました。「この上着を身につけている者は、通りで物乞いをしても良い」という許可証みたいなものでした。彼は、いのちの次にこの上着が大切でした。なぜなら、これを身につけていないと、物乞いができないからです。ところがどうでしょう?イエスさまから呼ばれたとき、バルテマイは大事な上着を脱ぎ捨てました。暑いから捨てたのではありません。「もう、この上着には用はない。これからは人の施しには頼らない」という覚悟で脱ぎ捨てたのです。日本のことわざで、「退路を断つ」とか「後ろの橋を焼く」ということばがあります。もう、後戻りしはしないという覚悟です。バルテマイは「イエスさまは私の人生を変えてくださる。もう、物乞いはしなくても良い」ということを信じたということです。なんというすごい信仰でしょうか?

ある村で雨乞いの祈りをするために、人々が教会に集まりました。もう半年も雨が降らないために、農作物が枯れてしまいます。村人たちが教会に集まりましたが、一人の女の子だけは他の人と違っていました。その子だけが長靴をはき、傘を持ってきたからです。村人たちは、「こんなに天気が良いのに」と、その女の子をからかいました。それから村人たちは、「雨が降るように」と、一生懸命に祈りました。そのあと、みんなでお昼ご飯をいただきました。午後になり、帰ろうかと思ったら、大雨が降り出しました。でも、雨の中を帰ることができたのはたった一人だけでした。他の人たちは、「まさか、雨が降ることはないだろう」と疑っていたのです。神さまはだれの祈りを聞かれたのでしょうか?一人の女の子の祈りではないでしょうか?私たちはあることを神さまに求めたならば、それに相応しい行動をしなければなりません。バルテマイは、イエスさまに人生をかける決断をしました。バルテマイは目が見えること以上のことを願っていました。彼はイエスさまに従っていきたいと願っていたのです。52節の最後に何と書いてあるでしょう?「すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」と書いてあります。目が見えるようになったら、「自分の好き勝手なことをしたい」ではありません。彼は上着を脱ぎ捨て、イエスさまに従っていく人生を選んでいたのです。

ヤコブは「行いのない信仰は死んでいるのです」と言いました。逆に言うなら、本当に信仰があるなら、行動が伴うということです。たとえば、だれかを夕食に招くとします。その人が玄関に来てから、あわてて準備を始めるでしょうか?その日の夕食のために、一日がかりで準備をするのではないでしょうか?まず、部屋を掃除するでしょう。前日には食事の材料を買いに行くでしょう。その日には、テーブルに花を飾ったり、デザートも買っておくでしょう。準備万端を整えて、来られるのを期待して待つでしょう。同じようなことが人生にも言えます。神さまはみことばを通して、いろんな約束をくださいます。それを「もし、こうなったら良いのになー」と受け身的に待つのは正しくありません。あたかも実現しているように待つのです。そうすると、正しい準備、正しい行いが伴ってきます。バルテマイは目が良くなって、自分の足で生活することができるということを信じていたのです。だから、盲人の生活を保障していた上着を捨てたのです。さらには、「自分はこれからの人生をイエスさまに従っていくんだ」ということまで考えていたかもしれません。普通だったら、「ああ、これから好き勝手なことをいっぱいしようと」思うかもしれません。でも、バルテマイはイエスさまに従う人生を望んでいました。だから、目が見えるようになって、「すぐさま、イエスの行かれる所について行った」のです。


3.告白する信仰
 マルコ10:51-52「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」イエスさまは、神さまですから、バルテマイが何を求めて来たか分かるはずです。バルテマイの方も「イエスさまの意地悪!これですよ、これ」と、指さして教えることもできたでしょう。でも、イエスさまは「私に何をしてほしいのか」とあえて聞きました。なぜでしょう?バルテマイは「私をあわれんでください」、「私をあわれんでください」と叫び求めました。でも、この言葉は、これまで人から施しを乞う時に良く使っていました。イエスさまは「私をあわれんでください」では、良く分からないだけではなく、不服だったのかもしれません。私たちクリスチャンはイエスさまに「私をあわれんでください」と求めるべきでしょうか?これは罪人が神さまに求める祈りです。でも、イエスさまは私たちのために十字架にかかり、既に、十分なあわれみを与えてくださいました。もし、私たちがイエスさまに、「私をあわれんでください」と願ったなら、イエスさまはどう答えられるでしょうか?おそらく、イエスさまは「私は既にあなたをあわれみました。何を願いたいのですか?願いたいなら、私の名によって求めなさい」とおっしゃるでしょう。イエスさまは私たちを罪人や乞食として扱ってはおられません。贖われた神の子どもとして扱っておられるのです。ですから、イエスさまは、上着を脱いでやって来たバルテマイを乞食として扱っておられません。その代わり、「わたしに何をしてほしいのか」と対等に聞かれたのです。
 バルテマイは、「先生。目が見えるようになることです」ときっぱり告白しました。これは、とても大きな祈りではないでしょうか?ここに盲人が100人集まったとして、100人全員がイエスさまに「目が見えるようになることです」と求めるでしょうか?医者も「医学的に不可能なので、諦めなさい」と言ったでしょう。ある人は「奇跡なんか信じないで、現実を踏まえて生きなさい」と言ったかもしれません。また、ある人は「もし、答えられなかったら、それ以上に失望するから祈らない方が良い」と言いました。人は何を神さまに求めるかによって、その人の信仰が計られます。もし、神さまに大きなものを求めるなら、大きな信仰があるでしょう。もし、神さまに小さなものしか求めないなら、小さな信仰しかありません。なぜなら、神さまにはできないと思っているからです。イエスさまは、バルテマイがどんな信仰を持っているのか、その口から聞きたかったのです。バルテマイは、人にはできない、不可能なことを大胆に求めました。「先生。目が見えるようになることです。」イエスさまは、彼の信仰を見て喜ばれました。だから、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのです。ウィリアム・ケアリーはプロテスタント教会では、宣教の父と呼ばれています。彼は聖書を専門に勉強した人ではありませんでした。靴を修理する信徒伝道者でした。彼が言った有名なことばがあります。「神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」です。では、スムーズに宣教が進んだかというとそうではありません。インドに渡って、7年目に始めてインド人クリスチャンが生まれました。それから、迫害が続き、殉教者も出ました。経済的にも苦しみ、彼の息子が死にました。さらには、妻が12年間精神を病んだ末に亡くなりました。ウィリアム・ケアリーは73歳で亡くなりましたが、彼の精神が多くの人々に影響を与えました。「神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企画せよ」。小さな信仰には小さな障害が、大きな信仰には大きな障害が起こるでしょう。でも、神さまはどちらの信仰を喜ばれるでしょうか?ご自分に、不可能だと思えるような大きなことを求める人を喜ばれるでしょう。私たちはあまりにも常識的で、理性的かもしれません。人から変人だと思われないように、奇跡を求めることをしません。そういう人は、「目が見えるようになることです」とは、求めないでしょう。しかし、バルテマイは、自分の口で「先生。目が見えるようになることです」と告白しました。
 私たちは毎日、どのようなことを告白しているでしょうか?「ああ、またやっかいなことが起こった」「お金がないからできないよ」「誰も、私を雇ってくれない」「不景気だから、仕事がない」「もう、年なので無理はしたくない」「ああ、老後が心配だ」。否定的なことばが多いのではないでしょうか?「私は年だ」と口で言うと、体全体が老化するように準備するそうです。「私にはチャンスが巡って来ない」と口で言うなら、あなたの環境がどのように準備するそうです。箴言にすばらしいみことばがあります。箴言18:20-21「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」これは本当です。昔、私が高校生の頃「私ってダメな男」という欽ちゃんのことばがはやりました。一人の級友が何かある度に「私ってダメな男」を連発していました。私たちも彼を馬鹿にしました。そして、その級友は落第してしまいました。しかし、どうでしょう?一級落第した彼は、下のクラスでトップになりました。全く、別人になっていました。おそらく、あの流行語から卒業したからでしょう。どうぞ、世の人たちの否定的なことばを真似しないようにしましょう。クリスチャンは、神さまの子どもです。王子であり、王女です。ですから、ことばを信仰的なものに変えなければなりません。バルテマイは「幸せになりたい」とか漠然と求めたのではありません。「目が見えるようになることです」と具体的に求めました。ですから、私たちの祈りも、具体的でなければなりません。聞かれたか、聞かれないか、答えが分かるような祈りであるべきです。神さまはあなたの信仰に答えてくださるからです。
 イエスさまは「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。彼はどこに行ったのでしょうか?「すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」のです。イエスさまの救いとは、どういうものでしょうか?それは根本的な救いです。お金がいくらか与えられても、数日間だけ生活が楽になるだけです。でも、目が見えるようになったらどうでしょう?これからは人の施しに頼る必要はありません。自分で働いて生活することができるようになります。「ああ、これから好きなことができるぞ」と喜んだでしょうか?そうでもないようです。バルテマイはイエスさまが人生の主であることを認めました。なぜなら、肉体の目が開かれたと当時に、霊的な目も開かれたからです。だから、これからは自己中な生活を送るのではなく、イエスさまに従う人生に切り替えたのです。イエスさまを証ししながら、イエスさまと共に生きる人生を選んだのです。バルテマイの信仰とその人生を、私たちも倣うべきではないでしょうか?私たちはまなじっか、肉体の目が見えるので、イエスさまに従わなくても生きていけそうな気がします。この肉眼で、見えるものだけを見て、判断するところがあります。私はみことばを瞑想して祈るときは、目をつぶります。目をつぶると、見えない世界が見えてきます。目をつぶると、恐れが消えて、神さまにだけ信頼しようと思います。目をつぶると、自分の思いが消えて、神さまのみこころがさやかになります。イエスさまの救いは、一部ではなく、全人格的なものです。肉眼で見える世界も、肉眼で見えない世界も見えるようになりたいです。生活の物質的な豊かさも必要ですが、心の豊かさも得たいと思います。「愛は寛容である」というみことばがあります。もし、怒りぽくて、人をさばいて、いらいらしていたなら愛がないということになります。寛容さを持っているのは、愛があるというしるしです。そういう目に見えない、豊かさも必要です。生活全体の救いを得たいと思います。
 マタイ5:3「心の貧しい者は幸いです」とあります。マルチン・ルターは、この言葉から、「私たちは神さまなしでは生きてゆけない存在である。人類はみな乞食である」と言いました。ある人たちは「いやいや、私は神さまなしでも生きてゆける」と思っているでしょう。でも、本当にそうでしょうか?バルテマイは恥も外聞も捨てて、イエスさまに叫び求めました。私たちの本当の必要は何でしょうか?不信仰のゆえに、中途半端な生き方をしているのではないでしょうか?そうではなく、最善を最高のものを神さまに求めましょう。イエスさまはきょうも、「私に何をしてほしいのか」と聞いておられます。

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