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2013年1月27日 (日)

病の癒し        マタイ8:14-17

 日本では医療費に年に37兆円も使っています。保険で使われている薬剤の価格は世界一高く、また医療材料の価格も外国と比べて大変高く設定されているそうです。また、病院の70%が赤字経営で、病棟・病院の閉鎖や統廃合が進んでいるそうです。いくら医学が発達しても病気はなくなりません。むしろ、難病が次々と発生しています。仏教では、「人間は生老病死という4つの苦しみからは免れない」と言います。聖書は、病気の原因と解決を教えています。この地上では、肉体的に限界がありますが、天に召される日まで健康でいられたらどんなに幸いでしょうか?「病の癒し」も救いの中に入ります。なぜなら、福音書では病気が癒されたときに、「救われた」と言っているからです。私は医者ではありませんが、聖書から病の癒しに関してメッセージしたいと思います。

1.病の原因

人類にはじめから病があったのではありません。また、神さまは私たちが病になるように計画されたのでもありません。では、どうして人間に病が訪れるようになったのでしょうか?創世記3章に書いてありますが、すべての原因は、アダムが神に背いて罪を犯したためです。アダムが罪を犯したため、土地が呪われ、あざみといばらを生じさせるようになりました。これはどういう意味でしょうか?自然に対する人間の支配力がなくなり、秩序が破壊されたということです。そのため、人間に敵対するような病原菌やウィルスが発生したと考えられます。さらに、人間はちりに帰る、つまり肉体的に死ぬことが定められました。病気というのは、死を弱くしたものと言えます。人はこの地上に生まれてから、死に向かっています。年をとれば、いろんなところが壊れてくるのはそのためです。また、人間が犯した罪や咎によって、呪いが入りました。遺伝性の病気や癌などはその典型であると言えるでしょう。また、不節制をしたり、怒ったり、人を赦さなかったりすると病気になります。思い煩いやストレスでも、心や体が病気になります。さらには、病気をもたらす悪霊がいます。すべての病気は悪霊からのものではありませんが、そういうものもあります。こう考えると、地上では病気にならないのが不思議だと言えるかもしれません。罪と呪いと死がある限り、病気はこの地上からなくならないのです。

 あまりにも大上段に「病の原因」を語ったので、反感を持たれている方もおられるかもしれません。特に医療に従事している方は「素人が何を言うんだ」と憤慨するでしょう。ちなみに、私の家内は看護師です。私は医者や薬に頼らない方なので、よく喧嘩をします。家内は子どもたちにすぐ薬を飲ませます。私はその度に、「そんなに薬に頼らなくても」と言います。気がつくと、食卓の脇には薬が山積みになっています。妻は、自然科学と医療を学んで、それに従事しています。私は聖書から学んで、癒しの奉仕をしています。結婚当初は子どもが病気になる度に喧嘩をしました。「もう、祈ったから良いじゃないか」と言いますが、家内は心配でたまりません。「やっぱり、病院に行こう」と言います。彼女は知識があるので、「ああなったら、こうなる」と先のことまで考えてしまいます。ある時、子どもの喘息がひどいので真夜中、病院に行きました。お医者さんは「この子の肺が三分の一しか働いていません。これじゃ、水の中でおぼれているのと同じですよ」と言いました。私は「ああ、可哀そうなことをしたな」と反省しました。今は、お互いに歩み寄って、喧嘩をしなくなりました。私は祈りによる癒し、つまり特別恩寵を信じます。また薬や医者による一般恩寵も受け容れるようになりました。私も13年間、皮膚病を患いました。乾癬という、とても治りにくい病気で苦しみました。皮膚が赤くただれて、大好きな温泉にも行けませんでした。自分で何度も祈りましたし、他の人からも祈ってもらいました。新松戸の津村先生は「背中に過去の女の怒りがある」とおっしゃいました。「いやー、まいったなー」と思いました。皮膚科の薬、一般の薬、漢方、食事療法、お湯にもいろんな物を入れました。でも、なおりませんでした。ところが、2012年9月頃からぐんと良くなりました。皮膚科の先生は、「1日2回、薬を塗ったからだ」と言いました。どうなのか、わかりません。あるいは、体質が変わったのかもしれません。なぜなら、この病気は免疫異常が原因で起こるからです。神さまは、私のように強い人に病気になることを許されました。本当にヨブのように皮膚病になり、苦しんだ後で癒されました。ですから、今では、医療などの一般恩寵も受け入れながら、メッセージするようになりました。
 病気になると、「何かの罪を犯したからだ」と言う人もいます。酒やかたばこ、食事、ストレス、遺伝、生活習慣病、年…いろいろあります。でも、根本的な原因は人類の先祖、アダムが罪を犯したためです。そのために、病が私たちの体や心に入りこんだのです。なぜ、病気になるのか、私たちの自然界に対する権威がなくなり、さらには自然界が壊れてしまっているからです。私たちの体も弱くて、抵抗力がないので、病気になってしまいます。死にたる肉体を持っているので、病気になるのです。これだけ言うと、「ああ、病気になるのは当たり前なんだ」と納得してしまうかもしれません。しかし、聖書には「病に打ち勝って、健康になることができる」と書いてあります。

2.病の意味
 マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」イエスさまは地上でおもに3つの働きをなさいました。第一は教え、第二は福音宣教です。そして、第三は病の癒しです。イエスさまは公生涯の三分の一を病の癒しや悪霊追い出しに費やされたということです。ここにはっきりと「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された」とあります。病気とわずらいが違うんでしょうか?当時はマラリヤとかいろんな伝染病がありました。また、アダムの罪によって、弱さを負っているのでいろんな病気になります。気管支炎、胃腸炎、関節炎、頭痛、心臓病、悪性腫瘍、免疫不全などいろいろあります。また、悪霊からくる「てんかん」や「おし」もありました。それから、イエスさまは、生まれつきの盲人、足がなえた人、手のなえた人、耳の聞こえない人も癒されました。さらには死んだ人さえもよみがえらされました。福音書には少なくとも3人が死から生き返っています。生き返った時には、すべての病気がなくなっていたということです。イエスさまは病と出会う度毎に病を癒されました。また、イエスさまはお葬式をしたことがありません。死んだ人をよみがえらせてしまうからです。なぜでしょう?
 病気や死が本来的なものではないからです。イエスさまにとって、病気や死はむしろ敵でした。だから、出会う度毎に、ことごとく癒されたのです。イエスさまが持ってきたのは、神の国でした。神の国には病や死がありません。神さまはもともと、神の国で人々が暮らすことを願っておられました。しかし、アダムが罪を犯してから人々はこの世に住むようになったのです。この世では、悪魔が支配しています。そして、罪と死が人間に入り、当然、病も入り込むようになったのです。イエスさまは、この世に来られたとき、神の国を一緒に持ってこられました。人々は、病を癒されて、「ああ、神の国はこうなのか、私も神の国に入りたい」と願ったのです。イエスさまは主の祈りの中で、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」祈れ、とおっしゃいました。これは、「この地に御国が来るように願え」ということです。また、「神さまのみこころがこの地でも行われるように願え」ということです。神さまのみこころは、私たちが病気になって、死ぬことではありません。アダムが罪を犯してから、人類に病気と死が入りこんでしまいました。しかし、父なる神さまが望んでいたことではありません。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」ヨハネは、「健康であるように」と祈っていますが、これこそが神さまのみこころです。私は子どもが4人いますので分かります。父なる神さまは、私たちが病気になることを願っておられません。ある人たちは、「病気も神さまが与えた1つの試練である」と言います。それは違います。私たちが病気になるのは、アダムの罪が原因しているからです。そのため、私たちは弱さを負っています。その上さらに、病気になるような生活をしていたので、病気になったのです。でも、病気になったので反省して、規則正しい生活をしようと心がけるのは良いことです。
 ある人は、三浦綾子先生の考えに同意して、病気は神さまからのプレゼントだと言います。また、水野源三さんや星野富弘さんの例をあげて、癒されないのも神さまのみこころであると言います。さらには、「パウロにはとげがあって、三度祈っても癒されなかった。だから、神さまから来る病気もあるんだ」と言います。三浦綾子先生は肺結核、脊椎カリエス、帯状疱疹、直腸ガン、パーキンソン病など、病気の問屋でした。でも、主の恵みが彼女を支え、死にそうで死なないという奇跡がありました。病との闘いの中で、数々の深い文学作品を生み出しました。でも、病気自体が神さまの恵みではありません。それを乗り越える力が恵みなのです。水野源三さんや星野富弘さんも癒されたら良いと思うし、本人も癒しを求めたと思います。でも、それがかないませんでした。それだからこそ、弱さの中にいる人たちを励ますことができました。私は、彼らは例外中の例外だと思います。神さまが特別にご自分の器として用いているのです。使徒パウロも第三の天に昇り、特別な啓示を受けました。だから高慢にならないようにと、サタンの使いが肉体のとげを与えたのです。私たち凡人が「肉体のとげですから、甘んじて受けます」と簡単に言ってはいけません。なぜなら、パウロほど偉くないからです。イエス・キリストがあらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされたのは、病気が当たり前ではないということを示すためです。この地上では不完全かもしれませんが、神さまのみこころは、私たちが健康で生きることです。

3.病の解決
 イエス・キリストはこの地上で、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされました。身体に障害を持った人たちを完全にし、死人さえもよみがえらせました。でも、イエスさまはいつまでも地上にはおられません。やがて天に帰らねばなりませんでした。そのために、イエスさまは2つのことをされました。1つは自分が病を贖う、つまり背負うということです。2つ目はご自分の名前によって癒しを行わせるということです。この2つによって、神の国が完成するまで、この地上でも癒しが行われ続けるということです。マタイ8:16-17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」このところに、イエスさまの病に対する窮極的な解決が記されています。マタイが引用したのはイザヤ書からです。イザヤ53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」ここにすばらしい真理が記されています。多くの人たちは「イエスさまが私たちの罪を負ってくれた。だから私たちは贖われたんだ」と言います。間違いではありません。でも、みことばを素直に読むならばどうでしょう?メシヤであるキリストは、「私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」と書いてあります。病というのは、弱さともとれることばです。マタイ福音書は「患い」と訳しています。さらに、イザヤ書には「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と書いてあります。イエスさまが呪われたので、私たちがいやされたと考えるべきです。というふうに考えるとどうでしょうか?罪の贖いの中に、癒しが含まれているということではないでしょうか?なぜなら、イエスさまは十字架で罪だけではなく、弱さや病を背負われたからです。
 第一にイエスさまは病の源、根源を解決してくださいました。第二は、「ご自分の名前によって、病をいやしなさい」と命じておられます。マタイ10:5-8「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。…行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」イエスさまは最初は、ご自分一人で行っていましたが、そのあとで12人あるいは70人の弟子に「病をいやしなさい」と命じておられます。さらには、天国にお帰りになる前も、命じられました。マルコ16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」病の癒しは、信じる人ならだれでも、できる事柄であります。重要なのは私たちの力ではなく、イエスの御名であります。多くの教会は、だれかが病気のとき、「神さま○○さんを癒してください」と祈ります。これに対しては、だれも反対しません。でも、だれかが病人に手を置いて「イエスの御名によって、病よ、癒されよ」と祈るなら、「それは危ない」と反対します。それも、聖書をまるごと信じている福音派の教会が反対するのです。聖書をまるごと信じているならば、福音宣教も病の癒しも、弟子たちに与えられた命令であると受け止めるべきです。キリストの弟子であるならば、イエスさまの命令に従わなければなりません。ある先生との会話で、「私は病の癒しをします」と言いました。するとその先生は、「癒されない人がいたら、信仰がないと言われるので、病の癒しはすべきではありません」と反対しました。私は熱くなって反論しようと思いましたが、もう一人の先生に「まあ、まあ」と止められました。私たちが福音を伝えるときに、信じないで救われない人がいるから、伝えないでしょうか?伝えます。同じように、病の癒しをするとき、癒されない人がいるので、病の癒しをすべきではないでしょうか?すべての人が救われないのと同じように、すべての人が癒されるわけではありません。でも、信じて癒される可能性がある限り、癒しを行います。祈るのは私たちの役目であり、癒すのは神さまです。私たちは癒しの道具だと思えば良いのです。
 もし、自分が病気になったらどうすれば良いのでしょうか?すぐ医者にいくべきでしょうか?それとも癒しのたまもののある人のところへ行って祈ってもらうべきでしょうか?これまで、教会は、私たちは霊的な救いは提供しますが、「肉体の癒しは病院へ行ってください」と紹介してきました。最近は心の病も増えていますので「素人がやっては危険です。専門家に任せなさい」と言います。冒頭で言いましたように、私は一般恩寵である、医者や薬を否定しません。そういうものも神さまが与えたものとして、用いたら良いと思います。でも、何をするにも、それらを用いてもらうように、神さまに祈るべきです。ある人たちは、医者や薬が病気を治すと考えていますが、それは大きな誤解です。医者は病気の原因を取り除きますが、癒すのはその人が持っている自然治癒力です。医者は自然治癒力を最大限に出せるように手助けをしているのです。何でも、医学に頼るのは間違いです。まず、祈って、どうすべきか神さまに尋ねるべきです。でも、反対に、「医者や薬には頼らない。神さまの癒ししか信じない」という極端な人がいます。ある人が癌になりました。「神さまが癒してくださるので病院に全く行かい。たとえ死んでも生き返る」と言いました。それで癌がひどくなり、結局、亡くなりました。それも、信仰かもしれませんが、極端になるのは良くありません。ヤコブ書にすばらしいみことばがあります。ヤコブ5:14「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」アーメン。ここには、自分から行くのではなく、「教会の長老たちを招いて祈ってもらいなさい」と書かれています。つまり、「病気になったから、教会に行けない」というのではなく、お願いして来てもらいなさいということです。教会のある兄弟姉妹は、入院してもだまって知らせない人がいます。「心配させたくない」という気持ちがありますが、どうぞ、大胆に「祈ってください」と知らせてください。とりなしの祈りは本当に効き目があります。また、手を置いて祈るときにも、神さまが働いてくださいます。
 この地上では、病にならなのが不思議であると言いました。しかし、神さまは病に対する解決も与えておられます。それは、いのちの御霊の法則です。ローマ8:2「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」私たちの内におられる、いのちの御霊が罪と死の原理から解放してくださいます。つまり、死にそうで死なないということです。パウロはそのことをもっとはっきり説明しています。ローマ8:11「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」これは、天国に行ってからのことを語っているのではありません。この地上で弱さを帯びている私たちに言っているのです。私たちはアダムのゆえに、死ぬべきからだを持っています。しかし、私たちの内にはイエスさまを死者の中からよみがえらせた方の御霊が住んでいます。つまり、いのちの御霊が、死ぬべき私たちのからだを生かしてくださるのです。だから、この地上にあっても、死ぬまで、健康にいられるのです。私たちは病に倒れて天国に行くのではなく、この地上での使命が終わったから天国に行くのです。キリストにあって、病と死の呪いが打ち砕かれたからです。どうぞ、主にあって健康であることが当たり前であり、神からの恵みであると信じましょう。もし、病や弱さの中にあるならば、イザヤ書53章を思い出しましょう。イエスさまのお苦しみをいくらかでも味わうことによって、苦しみや痛みの中にあっても、主が共にいて、慰めてくださり、生かしてくださることを体験でるでしょう。

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2013年1月20日 (日)

神の国に入る       コロサイ1:13 

 「救い」ということを語るとき、なぜ、「神の国に入る」ということが大切なのでしょうか?それは「以前はどこにいて、今は、どこに住んでいるのか」ということを理解するためです。ある人たちは、救いとは「死んだら天国に行けることだ」と考えています。ということは、今、救われていることは、何のメリットも力もないということになります。もし、救いを生命保険ぐらいにしか考えていないならば、クリスチャンになっても、自堕落な生活をしてしまうでしょう。そうではありません。以前の私たちはサタンの王国で罪と死の奴隷でした。しかし、キリストによって贖われ、今は神の王国に移り住んでいるのです。ということは、死んでから天国に入るのではなく、今、生きているうちに神の国に入る必要があるということです。そして、この地上でも、神の国の豊かないのちを享受できるということです。

1.神の国に入るとは
 使徒パウロは、私たちは以前、サタンの王国で奴隷となっていたことをはっきりと教えています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」これは、復活のイエスさまがパウロに語ったことばです。救われる以前の私たちはどのような存在だったのでしょうか?盲目で暗やみの中に住んでいました。なおかつ、サタンの支配のもとにありました。それでは、「救い」とはどういうことなのでしょうか?暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返ることです。それだけではありません。聖なるものとされ、御国を受け継ぐものとなるということです。御国とは神の国です。端的に言うと、救いとは、サタンの王国から、神の王国に移されることです。コロサイ人への手紙にも同じようなことが記されています。コロサイ1:13「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」アーメン。「救い出し」は英語の聖書では、deliveredとなっています。「配達する」とか、「引き渡す」という意味です。しかし、このことばの古い意味は「人を救い出す、救出する」であります。また、「移す」のギリシャ語の時制は、1回的な出来事が、今も影響を与えているということです。救われたということは、「サタンの支配から、神さまのもとへと救出されたことである」と理解することはとても重要です。なぜなら、今、自分がどこにいるかを知ることができるからです。あなたは、今、どこにいるのでしょうか?神さまのもと、キリストのご支配のもとにいるのです。
 「救出」ということを一番良く表しているのが、出エジプトの出来事です。旧約聖書で最も偉大な出来事とは、イスラエルの民がエジプトから脱出したことです。しかも、この出来事とイエスさまがなされた十字架の贖いが重なっているということです。かつて、イスラエルの民はどのような生活をしていたのでしょうか?パロ王のもとで奴隷でした。日干しレンガを造ったり、町を建てるための労働が課せられていました。三食、食べることはできたかもしれませんが、身分の保障とか自由意思がありませんでした。なぜなら、奴隷だからです。奴隷は物とか家畜と同じで、用がすんだら捨てられます。神さまから選ばれたイスラエルがそんな生活をしていて良いのでしょうか?そこで、主なる神はモーセを指導者として立てました。いくつかの災いによって懲らしめましたが、パロ王はせっかくの労働力を簡単には手放しません。しかし、10番目の災いが及んだ時、パロは「分かった、出て行ってくれ」と言いました。それは何でしょう?家の入口の鴨居と門柱に、羊の血を塗った家は、神の怒りが過ぎ越します。しかし、塗っていな家の初子は殺されます。ある晩、主が行き廻り、王さまから奴隷の初子(長子)まで、打たれて死にました。それで、パロは降参したのです。でも、後から心変わりして、軍隊を派遣しました。前は海、後ろからは軍隊が追いかけてきます。しかし、モーセが杖を上げた時、目の前の紅海が2つに分かれました。100万人以上の民が、海の底を渡りました。後から追いかけてきたエジプトの戦車と騎兵たちは、海にのみこまれてしまいました。モーセとイスラエルの民が主に向かって、歌いました。「主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神」と。「救い」の中にどのようなことが含まれているでしょうか?パロ王のもとから、脱出できたということです。そして、敵が打ち砕かれ、自分たちが勝利したということです。イスラエルの民は海を渡りました。もう、二度とエシプトには戻ってはいけないということです。エジプトとはこの世を象徴しており、パロ王はサタンです。私たちは、以前は、サタンの奴隷であったということです。
 イエス・キリストがこの地上に来られたのは何のためだったでしょうか?イエスさまが変貌の山で、天に帰った二人を呼び戻して何やら協議していました。律法の代表モーセと預言者の代表エリヤとのサミット会議です。ルカ福音書には「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について一緒に話していた」と記されています。「ご最期」とは、ギリシャ語の聖書にはエキサダスと書いてあります。これは、ユダヤ人の70人訳聖書では、出エジプト記の題名になっています。つまり、イエスさまは、人類の「出エジプト」について話しておられたということです。イエスさまは弟子たちと最後の食事、「過ぎ越しの食事」をなさいました。そこで、イエスさまは何とおっしゃったでしょうか?マタイ26:27-28「みな、この杯から飲みなさい。これは私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」まさしく、イエス・キリスト御自身がほふられる羊であり、流された血が人類を罪から解放するということです。予告どおりイエスさまは過ぎ越しの祭りのとき、十字架につけられて死なれました。ということは、旧約の出エジプトは、イエス・キリストの予表(型)であるということです。モーセはエジプトのパロ王からイスラエルの民を脱出させました。その時、決め手になったのは羊の血です。そして、イエス・キリストはサタンから人類を解放するために、十字架で血を流されました。ということは、サタンのかしらが打ち砕かれたということです。そして、キリストを信じる者が、罪と死から解放されるということです。紅海とはバプテスマの型であるとパウロが言っています。クリスチャンはこの世であるエジプトから脱出し、神の王国のもとに移された存在だということです。

2.神の国に入る条件
 教会は福音を宣べ伝えてきました。福音とはイエス・キリストの十字架によってなされた「良き訪れ」です。そして、「イエス・キリストを救い主をして信じるだけで救われる」と説いてきました。しかし、よく考えてみると、イエスさまが宣べ伝えたのは単なる福音ではありません。マタイ4:23「御国の福音を宣べ伝え」と書いてあります。ルカ16:16「神の国の福音が宣べ伝えられ」と書いています。イエスさまは「御国の福音」あるいは「神の国の福音」を宣べ伝えられました。もちろん、他の箇所には「福音」とだけ書いてありますが、イエスさまの教えの中心は「神の国」でした。では、神の国とはどういう意味なのでしょうか?英語ではKingdom of Godです。神の王国です。ギリシャ語では「神の王的な支配」という意味であります。では、神の王国の王さまは一体、だれでしょうか?イエス・キリストが王であり、主です。復活昇天後、父なる神さまは御子イエスに王権をゆだねました。私たちが王国に入るとしたらどういうことが必要でしょうか?その国の法律を守り、国王を王として敬い、従うことが求められるのではないでしょうか?まず、王国に入るためには、市民権が必要です。数日滞在するとか、旅行くらいなら不要かもしれません。でも、そこに永住するためには、市民権が必要になるでしょう。もし、勝手に住んだら、強制送還させられるでしょう。

では、イエス・キリストを救い主として信じただけで、神の王国に入ることができるのでしょうか?私はこの方法でしばらくやってきました。そして、イエス・キリストを主あるいは王として信じることは、自由選択にしてきました。ある人にとってキリストは主でないので、従わないこともありえます。自分勝手に生きてうまくいっている時は「結構です」と言い、困った時に、救い主にお願いする。しかし、聖書はそういうことは言っていません。イエス・キリストは救い主だけではなく、主であり王です。キリストを信じたら、キリストに従うべきなのです。信じることと、従うことはコインの裏表であり、分離できないということです。でも、キリストを救い主として信じているだけなら、「いやだから、従わないよ」ということを許してしまうことになります。それは、神の王国に入りながらも、自分が王さまとして生きるということです。私はこれまで、わがままなクリスチャンを生み出してきました。ここにジャムパンがあるとします。わがままな子どもは、ジャムは食べるけど、パンは捨てるかもしれません。それではいけないのです。ジャムとパンを両方食べなければなりません。同じように、信じるとことと従うこと、両方必要だということです。キリストを信じたら従うのです。なぜなら、キリストは人生の主であり王だからです。

ルカ福音書にザアカイの物語があります。ザアカイはいつ救われたのでしょうか?イエスさまが木の上にいるザアカイにこう言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」家に泊まることにしているとは、なんと、身勝手でしょう?そのときザアカイは手帳を出して、「きょうは予定があるので、あさってなら空いています」と言えたでしょう。または、「突然、客を連れていくと家内が嫌な顔をするので、相談してから」と言っても良かったはずです。でも、ザアカイはどうしたでしょうか?ルカ19:6「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」そうです。この時、ザアカイは救われたのです。つまり、イエスさまの呼びかけに従ったときに、救われたのです。神の国に入る条件は神への従順であります。なぜなら、神の国は、神さまが王として治めているからです。しかし、イエスさまの呼びかけに応じなかった人たちもいます。青年役人が、「何をしたら永遠の命をいただけますか?」とイエスさまのところにやってきました。この青年は行いで永遠の命が得られるものと勘違いしていました。だから、イエスさまは行いによって救われる道を示されました。彼は「小さい時からみな守っている」と言うので、イエスさまは「持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われました。しかし、彼は非常に悲しんで去って行きました。もし、私が弟子のひとりだったら、後を追いかけてこう言ったでしょう。「ちょっとお待ちください。全部でなくて、少しずつで良いですよ。信仰がきたらささげれば良いのですよ」と。しかし、イエスさまは彼の後を追いかけませんでした。なぜでしょう?彼は神さまよりも、お金を信頼していたからです。今、従わないなら、これからも永久に従わないことを知っていたのです。ルカ9章で、イエスさまはある人に、「私について来なさい」と言われました。すると、その人は「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」イエスさまは「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と言われました。

神の国に入る条件は従うということです。もちろん、キリストを信じることです。でも信じるということの中に従うということも含まれているということです。なぜなら、神の国は神さまが王として支配している国だからです。もし、私たちはキリストの主権を受け入れて、神の国に住まうならばどうでしょうか?どのような恩恵を受けるのでしょうか?これから、ずっと先まで、神さまがあなたの必要を満たし、あなたを外敵から守ってくださるということです。もし、神の王国にいながら、自分の王国で暮らすことは不可能です。なぜなら、王国には王さまが一人で十分だからです。「自分が王さまだ。だれの言うこともきかない」と言ったら、反逆罪で捕えられるでしょう。最初は、「救い主、私の友」としてだけ、信じて受け容れることもあるでしょう。同時に、イエスさまは王であり主であると受け容れる人は少ないかもしれません。でも、早かれ、遅かれ、王さまを交代しなければなりません。「自分が王ではなく、イエスさまが王なんだ」ということを認めなければなりません。でも、それが神の国において、平安で暮らせる秘訣なのです。あなたが救われているのに、いろんなことを恐れ、思い煩っているなら、自分が王さまであることの証拠です。王なるイエスさまにすべてをゆだねるなら、あなたに平安がやってきます。命も、財産も、将来も、イエスさまに何もかもゆだね、イエスさまがしなさいということをするのです。そうすれば、イエスさまはあなたの人生に責任を持ち、守りと必要を与えてくださるでしょう。

3.神の国に入った人の使命

もし、「救いとは死んだら天国に行けることだ」と定義するならどういうことになるでしょう?信じた人は、生命保険に入ったつもりで、死ぬまで好き勝手な生き方をするでしょう。死ぬ時に、「よろしくお願いします」と言うのです。そうではありません。「救いとは、神の国に入ることであり、王であるイエスに従うことである」と定義すべきです。そうなると、今、この地上に生きているときも、神の国の延長として大切になります。イエスさまは天に帰る前に弟子たちにこのようにおっしゃいました。ヨハネ17:15-18「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」簡単に言いますと、弟子たちはこの世に属しているのではなく、神の国に属している存在です。でも、この世から取去るのではなく、神さまのもとからこの世に派遣するということです。私たちも同じです。私たちはこの世に生きていますが、神さまのもとから派遣されている存在です。では、何のために派遣されているのでしょうか?主の祈りの中で、私たちは「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈ります。その祈りの中に「御国が来ますように」とあります。御国とは神の国ですが、どこに来るべきなのでしょうか?これは世の終わりに、御国が完成するようにという願いだけではありません。「今、この地上に御国が来て、神のみこころが行われますように」という意味です。私たちがこの地上に派遣されている目的は、神の国がこの地に広がるように働くということです。何をもって、そこで働くのでしょうか?

そのヒントになることばが、エペソ1章の後半にあります。エペソ1:2-23「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」このみことばの意味はこうです。神さまは、この地上のあらゆるものを、御自分が持っているもので満たしたいと願っているということです。かしらはキリストです。そして、キリストのからだとは私たち教会です。私たち教会が器となって、神さまが持っておられるものをこの世に運んで行くのです。水を運ぶために器が必要なように、神さまは器が必要なのです。これまで教会は霊的なことだけにエネルギーを注いできました。もちろん、この世に霊的な救いをもたらすために福音を運ぶことが重要です。しかし、それだけではありません。神さまはあらゆる分野を神さまの良きもので満たしたいと願っておられるのです。神さまは芸術の世界を御自身の良きもので満たしたいと願っておられます。神さまは政治の世界を御自身の良きもので満たしたいと願っておられます。また、神さまは教育や医療の世界を御自身の良きもので満たしたいと願っておられます。中世までは、すべては神さまの栄光のためにありました。しかし、17,18世紀になり啓蒙主義になって人間中心になりました。そのため、何のために生きるのか生きる目的を失いました。中世が良いというわけではありませんが、私たちは聖書から本来の目的を発見すべきであります。キリストが私たちをこの世から救い出してくださったのは、私たちが天国に行くためだけではありません。神さまは、この地上に神の国が来ることを願っておられます。

エクレーシアは教会というふうに訳されています。エクレーシアは「呼ばれたる者」という意味があります。でも、当時のギリシャ語の意味は少し違います。エクレーシアとは、「王さまが国を治めるために大臣を呼ぶ」という意味があるそうです。それは、大臣を任命する組閣と同じです。昨年末、自民党の大臣の組閣がありました。韓国でも大統領が選ばれたので、そのあと組閣がなされたと思います。当時の王さまは、自分と一緒にエクレーシアをつくるために、大臣を任命しました。ある大臣には国防を、ある大臣には貿易を、ある大臣には教育や医療を、ある大臣には都市計画を任せました。神さまはどんなお方でしょうか?神さまは、この地上のあらゆるものを、御自分が持っているもので満たしたいと願っておられます。王なるイエスさまはある人には、ビジネスの分野を任せておられます。また、ある人には教育の分野を任せておられます。また、ある人には医療や福祉を任せておられます。またある人には政治の分野を任せておられます。またある人には音楽や芸術の分野を任せておられます。「いやー、私はそんな大それたことはできません」と断わるかもしれません。でも、自分がそこに派遣されている御国の大臣だと思うならば、どうでしょうか?これまでは、安い給料をもらうために嫌々働いていたかもしれません。でも、あなたは保育園に遣わされている御国の大臣、会社に遣わされている御国の大臣、家庭に遣わされている御国の大臣なのです。王なるキリストはあなたをその分野を治めてもらいたいと願っておられるのです。神の国の祝福を運び、神の国の拡大のために、あなたを用いたいと願っておられるのです。そうすると、この地上での生き方が全く変わったものになるのではないでしょうか?天国に行くことだけが救いではありません。神さまはあなたに、御国の権威と御国の鍵を与えてくださいました。どうぞ、それらを豊かに用いて、この地に、御国が来るように働こうではありませんか。


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2013年1月13日 (日)

神の子とされる        ガラテヤ4:1-7 

 きょうは、「救い」ということを身分という面から考えたいと思います。イエス様を信じると、身分が変わり、神の子とされるということです。身分とは別の言い方では、アイディンテティということです。もし、「自分がだれか」ということを行いの上に置いていたならどうでしょうか?上手く行っているときは問題ありませんが、何かの理由で上手く行かないときは大きく崩れてしまうでしょう。そうではなく、「自分がだれか」ということを「神の子である」という存在に置いたならどうでしょう?たとえ上手くいかないことがあっても、神の子であるという身分は揺らぐことはありません。もし、本当に神の子であるということを心から自覚したならば、自然と行いが生まれてくるのではないでしょうか?「行い」で自分を決めるのではなく、「ある」という存在で決めたらどうでしょう?


1.奴隷とは

 キリストを信じる前の私たちは、奴隷と何ら変わりありませんでした。ガラテヤ4章には、奴隷と相続人のたとえが記されています。子どものときは、全財産を相続できるのに、後見人や管理人が代わりに持っていたということです。何も持っていないので、奴隷と何ら変わらないように見えます。しかし、その子が親から認められる年齢に達したとき、財産を相続することができます。これと同じように、私たちがキリストを信じる前は、奴隷と同じでした。この世の幼稚な教えの下に支配されていました。親や学校から、さまざまな知識や道徳、人生哲学を教えられて育ちました。多くの場合、聖書の価値感と異なる、この世の教えであります。この世では、いろんな知識や技術、資格を得ることによって人間の価値がきまるという考えがあります。奴隷は「何ができるか」で、値打ちが決まります。肉体的に頑丈で、いろんな技術を持っていると役に立ちます。知識があれば、子どもの家庭教師や仕事の管理ができるでしょう。また、この世では、親や学校の先生、上司、権威ある人に従うことを教え込まれます。奴隷は、罰せられるのが恐いので主人に従うのです。「いつ捨てられるか」と、ビクビクして主人の顔色を伺っています。また、この世では、明日のことが心配で、保険に入ったり、お金や物をできるだけ蓄えるでしょう。奴隷も同じで、お金や物をできるだけ蓄えておかないと心配です。人生の目的などいう高尚なものは捨てて、ただ生き延びるために生きています。いくつかあてはまることはないでしょうか?

 イエス様はマタイによる福音書6章で何と教えておられるでしょうか?「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。…野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」かつての私たちには、天の父がいませんでした。自分を養ってくれる天の父がいないなら、どうするでしょうか?学歴や資格を身につけ、必死に稼ぐしかありません。私はクリスチャンになっていたにもかかわらず、奴隷として生活していました。なぜでしょう?生まれ、育った環境が奴隷状態だったからです。父は国鉄を辞めてからあまり働かなくなりました。酒を飲んでは、暴れるので裸足で逃げたこともあります。母は、わずかな田んぼや畑を耕していましたが現金収入がありません。そのため、長女や長男がお家にお金を入れてくれました。母は彼らを「姉さん」「兄さん」と呼んで頼っていました。父はそれが気に食わなかったようです。小さな私に何ができるでしょう?井戸水を汲んだり、槙を割ったり、縄綯いの手伝いをしました。リヤカーを押して田んぼに行き、帰りは母を乗せてきました。春は笹の竹の子を取りに行ってそれを売りました。栗拾いとか、銀杏拾いなどをすると、燃えてきます。父や兄たちは「人は食うために生きるのか、生きるために食うのか」と議論していました。私は「人は何のために生きるのだろう」と悩んでいました。しかし、実際は、生き延びるために生きていました。

 奴隷が指導者になることはできません。箴言30:21-22「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。奴隷が王となることだ」とあります。どうして、奴隷が王になったら、ダメなのでしょうか?ある本にこのように書いてありました。「奴隷は、生まれた時から、取るに足りない者として扱われて来た。彼は成長しても自分には大した価値がないこと、また自分の意見は尊重されないことを成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大なものとなったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることが出来ないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずの人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ」。私が辛口のユーモアを言ってきたのは、生き延びるためでした。私のジョークは人々を陥れ、馬鹿にする内容でした。なぜなら、自分は末っ子のゆえにミソにされ、アイディンテティを攻撃されて育ったからです。自分のユーモアで人々ばかりか、自分自身を傷つけていたのです。モーセはどうして、イスラエルの人たちを奴隷から解放することができたのでしょうか?モーセはパロの宮殿で育てられることにより、奴隷の考えではなく、王子としての生き方を学ぶ必要がありました。奴隷の考えを持っているリーダーは、実際に奴隷として捕らわれている民を解放する力がないからです。モーセの人生の初めの40年間は、後の荒野で過ごす40年と同様に重要な年月だったのです。モーセだけが、奴隷ではなく、王子の息子として育てられました。ところがイスラエルの民は何百年も奴隷だったので、その生活しかないと思っていたのです。モーセは自分が偉大な者であるという認識があったからこそ、イスラエルの民を救い出すことができたのです。

 この世の教えは「何ができるか」で人の価値を判断します。しかし、もっと重要なことは、「自分はだれか」ということです。もし、「自分がだれか」ということを正しく認識するなら、それに伴った行いが生じてくるでしょう。つまり、doing行いよりも、being存在の方が重要なのです。もし、私たちが奴隷ではなく、神さまにあって王子、王女であることを認識するなら、どのような行い、どのような生き方が生じてくるのでしょうか?


2神の子とされる

ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」「血によって」とは、血統とか血筋という意味です。今はそうではありませんが、中世ヨーロッパでは、血統がすべてでした。貴族で生まれたら貴族、農奴で生まれたら農奴でした。日本だって、200年くらいまでそういう制度がありました。「肉の欲求や人の意欲」とは、努力や頑張りという意味です。この世では、人を押しのけてでも偉くなろうとする人がいます。力や権力があれば何でも得られるのでしょうか?遠慮がちで気が弱い人は、カスしか掴めないのでしょうか?神の子どもとされるために、そういう人間的なものは一切関係ありません。神さまがイエス様を信じた人に、神の子どもという特権を与えてくださるのです。イエス様はすべての人のために十字架にかかり代価を払ってくださいました。だから、すべての人が救いの候補者です。キリストにあって選ばれているのです。あなたが、神の子であるならば、神さまは私たちのお父さんです。神さまは王様です。すると神さまの息子はどういう立場でしょうか?そうです。王子、プリンスです。では、神さまの娘はどういう立場でしょうか?そうです。王女、プリンセスです。王子であるなら、冠をかぶっています。王女であるなら、ティアラをかぶっています。もし、私たちが失望落胆してうなだれたらどうなるでしょう?冠が「ぽろっと」落ちてしまうでしょう。私たちのお父さんは全能の神様です。神様が私たちの味方です。だったら、私たちはうなだれてはいけません。王家の王子として、王女として、堂々と胸を張って生きるべきです。

ローマ8:17「もし子どもであるなら、相続人でもあります。…私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」と書いてあります。神さまは宇宙全体を持っておられます。神さまが持っておられるすべてのものを私たちも受け継ぐことができるのです。かなり前にNHKの教育テレビで見たことがあります。星雲が核融合していくと、だんだん質量の高いものに変化していくそうです。「ある星雲は全部、金でできている」と言っていました。私はそれを見て、とても感激しました。星雲全部が金とは、果たしてどのくらいの量でしょうか?でも、黙示録の最後の記事を見ますと、「なるほどなー」と分かります。天のエルサレム、聖なる都の大通りは何でできているでしょうか?透き通るような純金でできています。さらに、都の城壁の土台は何でできているでしょうか?碧玉、サファイヤ、メノウ、エメラルド、トパーズ、アメジスト、あらゆる宝石で飾られています。皆さん、道路とか建物の土台というのは最も安価な材料が用いられます。アスファルトとか、砂利、コンクリートです。聖なる都では、道路に純金を敷き、土台に高価な宝石を用いるとは、神様は何と金持ちなのでしょう。私たちはこの神様の子ども、御国の世継なのです。私は思います。「天国に行ってからではなく、純金の一塊で良いから、地上に落としてくれないかなー」と。

 数年前、『パワー・フォーリビング』という青い小冊子が無料で配られたことがあります。お読みになった方はおられるでしょうか?その本の中にとても感動的な話が載っていました。ある町に、一人の少年がいました。お母さんは未婚で彼を生んだので、学校ではイヤなあだ名で呼ばれました。そのため、休み時間や昼食のときは、一人でどこかへ行っていました。土曜日の午後、町に行くと、「だれが彼の父親なのだろう」とじろじろ見ました。12歳頃、新しい牧師が近所の教会に来ました。少年はいつも遅れて礼拝に行き、早めに抜け出していました。あるとき、早めに抜け出そうと思ったのに、人々が扉をふさいでいました。そのとき、大きな手が肩の上に置かれました。見上げると、牧師先生が「坊や、君はだれだね。だれの子かね?」と質問しました。昔から、あの重い気持ちがのしかかって来ました。「牧師までもが私を見下しているんだ」と思いました。しかし、牧師は少年の顔をじっくり見て、ほほえんで言いました。「ちょっと待てよ。君がだれだか知っているよ。君に似ている家族を知っている。君は神様の子どもだ。」そう言うと、牧師は彼のお尻をぽんと叩いて、さらにこう言いました。「君はすごい遺産を受け継いでいるんだ。行って自分のものだと主張しなさい。」その少年はやがてどうなったでしょう?テネシーの人たちは、私生児を州知事に選出したのです。知事の名前は、ベン・フーバーです。私たちは、すばらしい遺産を受け継いでいます。私たちは神の栄光をあらわすために、その遺産を自分のものとすることができるのです。

 本当に私たちは神の子どもとされているのでしょうか?疑う人がいるかもしれません。救われていない人は、御霊も宿っていないので、神さまをお父さんと呼ぶことができません。私たちがイエス様を受け入れると、私たちの内に聖霊が宿られます。この聖霊はかつて、イエス様の中にもおられました。イエス様はこの地上で、聖霊によって力あるわざを行うことができました。また、肉体を持たれたイエス様は聖霊によって「アバ父よ」と親しく交わっておられました。もし、私たちの内に同じ聖霊が宿られたらどうなるでしょうか?私たちも神さまを「アバ、父よ」と呼び、イエス様と同じ行いができるのです。本来、神さまをお父さんと言えるお方は、御子イエス・キリストだけです。しかし、私たちは神の養子として迎えられ、子どもと同じ身分になるのです。神さまは、ご自分を「アバ父よ。(おとうちゃん)と呼んで良い」と許可してくださるのです。地上のお父さんは不完全であり、私たちは多かれ少なかれ、傷を受けて育ちました。でも、父なる神さまは完全なお父さんであり、無条件で私たちを愛してくださいます。ちょうど、放蕩息子のお父さんのようです。私たちは「天のお父様」と何でもお願いすることができます。神さまの子どもですから、すべての必要が与えられ、守りが与えられ、平安が与えられるのです。


3.神の子とされた目的

 でも、父なる神さまが私たちを神の子どもとしてくださったのは、私たちがただ自己充足的な生き方をするだけではありません。「王子、王女として永遠に暮らしました」。それもすばらしいことです。でも、神さまが何故、私たちを王子、王女にしてくださったのでしょうか?それは、神の御国を一緒に治めてもらいたいからです。残念ながら、神の国はまだ完成していません。私たちはすでに神の国に入っています。しかし、父なる神さまは、もっと多くの人をご自分の国にお入れしたいと願っておられます。多くのクリスチャンは自分が救われたら、教会に来て、神さまを賛美して喜んでいます。しかし、それだけでは、父なる神さまは喜ばれません。父なる神さまは、御子イエスをこの世に遣わし、救いを成し遂げられました。十字架と復活によって、サタンの国は壊され、多大なダメージを受けました。それなのに、人々はサタンの国に捕らえられたままです。そこを出て、御国に入ったら良いのに何故でしょう?サタンは「救いなんかないんだ。このままで良いじゃないか」と、人々を欺いているのです。かつての私たちは、自分たちが奴隷であることすら分かりませんでした。うす暗い中で、「多少不自由であっても、今が良ければいいんだ」と生きてきました。一生懸命、れんがを作って働いていたのです。でも、それは本来の生き方ではありません。神の子どもではなく、まさしく奴隷でした。なぜなら、生き延びるために生きていたからです。

 でも、神さまは私たちに御国をくださいました。これから下さるのではありません。すでに、くださっているのです。ルカ12:32「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」。私たちは御国の住人であり、王子、王女です。でも、イエス様は「主の祈り」の中で「御国を来たらせたまえと祈りなさい」とおっしゃいました。ということは、神さまはこの地に、御国が来ることを願っておられるということです。しかし、これはだれもができることではありません。救われていても、自分が奴隷であると思っている人にはできません。モーセのように自分は王様の子どもであると腹の底から思っている人でなければなりません。私も救われてクリスチャンになり、牧師になっても、まだ、奴隷でした。「私は神の子です」と口では言っていましたが、奴隷の考えが抜け切っていませんでした。業績思考で生きていたので、みんながライバルでした。だれよりもすぐれた牧師になって、大きな教会を建てようと思いました。神の子どもなのに、「ちくしょう、ちくしょう」と、怒りと憎しみが心の中に渦巻いていました。まさしく、奴隷が王となっていたようなものです。だから、多くの人たちを傷つけても、何とも思いませんでした。「躓いた奴が悪いんだ」と豪語していました。神さまを見上げると、「歯がゆいぞ!何をしているんだ」と怒っているように思えました。しかし、神さまは私たちがイエス様を信じただけで、もう満足しています。「もう、肉によって自分を喜ばせる必要はない」とまでおっしゃっています。でも、神さまは、私たちが王子、あるいは王女であることを自覚して、この世に御国をもたらせたいと願っておられるのです。

ヨハネ15:15「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」イエス様は弟子たちと同じように、私たちをしもべとは呼ばれません。友と呼ばれます。神さまの友となるとはどういう意味でしょうか?創世記18章に、アブラハムと主との会話が記されています。創世記18:17「主はこう考えられた。『わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。』」。そして、アブラハムにソドムとゴモラの罪がきわめて重いので滅ぼす旨を告げました。アブラハムは「いや、いや待ってください」と談判しました。最後に主は「その町に正しい人が10人いたら滅ぼさない」と約束しました。主は本当は、アブラハムにとりなしてもらいたかったのです。父なる神さまも、私たちに「こういうことをしたいのだが…」と相談されます。私たちは、断ることもできます。しかし、恐いからではなく、神さまを愛しているので、答えたいと思うでしょう。これまでは、神さまに認められたいためにがんばってきました。しかし、もう神さまの愛を獲得するためにすべきことは何もありません。ただ「自分自身」であることで既に、神さまの目には高価で尊いからです。私たちは恐いから神さまに従うのではありません。もう、すでに愛されているので、その愛に応えたいと思うのです。

うちの娘のことを言って申し訳ありませんが、私の子どものときとは全く違います。私は今でも、テーブルにおいしいものがあると食べられません。ごはんを作っても、メインのものは食べません。しかし、娘はだれも手をつけていないものを平気で食べます。私はそれができません。なぜなら、自分には相応しくないと、どこかでまだ思っているからです。あなたは高級レストランに行って食べると、何か後ろめたいと思うでしょうか?あなたは人に物をあげるのは好きだけど、人からされるのが恥ずかしいでしょうか?他人を喜ばせるために自分の意見を簡単に変えるでしょうか?自分のことを話しているとき、人が急がしているように感じるでしょうか?ある人たちは、宮殿の王子、王女なのに、宿無しのように生きているかもしれません。本来は、自分のものなのに、相応しくないと思って遠ざけているかもしれません。クリスチャンであるならば、王子であり、王女です。神による相続人です。生き延びるために生きるのではありません。今もこれからも、豊かに得ているのです。私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのです。私たちはこの世に違いをもたらすことができます。なぜなら、私たちは神さまの王子であり、王女だからです。


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2013年1月 6日 (日)

新生のみわざ     ヨハネ3:1-10 

前回学びました「義とされる」とは神さまとの法的な関係でした。今回は、生命的な面で救いということを考えたいと思います。ヨハネの福音書には「永遠の命」ということが度々記されています。「永遠の命」とは何でしょうか?1000年、2000年と永遠に死なない命でしょうか?もちろん、そういう意味もありますが、それだけではありません。「永遠の命」とは神さまの命、霊的な命であります。私たちは肉体の命を持っています。肉体の命はこの世限りのものですが、「永遠の命」は、永遠の御国に住まうことのできる命です。私たちは救いを得るためには、神の命である、「永遠の命」をいただく必要があります。


1.新しく生まれるとは

 ヨハネ3章に出てくるニコデモは人間的には最高の人物でした。1節に「パリサイ人」とありますので、神の律法を厳格に守る人でした。ですから、道徳的にも非の打ち所のない人だったでしょう。また、「ユダヤ人の指導者」とも書いてあります。当時、エルサレムにはサンヒドリン議会というのがあって、ニコデモはその議員の一人でした。今でいうなら、衆議院の議員のような立場の人です。また、4節に「老年」とありますので、人生の経験を積み、人々から尊敬される年齢に達していました。10節には「イスラエルの教師」と書いてありますので、学問を積み、人々に真理を教えていました。さらに、ニコデモはイエス様の埋葬のとき、王様を葬るような大量の没薬と香料を持ってきました。彼はかなりの金持ちあったと思われます。ニコデモは、地位と名誉があり、品行方正で、学問があり、人生経験が豊富な人で、金持ちでした。人々は「ニコデモだったら、間違いなく神の国に入れる人物だ」と推薦したでしょう。でも、イエス様は彼に何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ3:3「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と告げました。「新しく生まれる」とは、英語の聖書にはborn again「再び生まれる」と訳されています。それで、彼は何と答えたでしょうか?「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」彼は、「再び生まれる」と聞いたので、「もう一度、母の胎に入って生まれなおすのですか?どうして、どうやってそんなことが可能なのでしょうか?」と聞いたのです。イエス様は、このすぐ後で「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と言われました。彼は人間的には豊かな経験と学問がありましたが、霊的なことはさっぱりだったのです。

 さて、ここで言われている「新しく生まれる」とはどういう意味なのでしょう。「どんな人でも、新しく生まれないと神の国を見ることができないし、神の国に入ることもできない」と言われています。では、「新しく生まれる」ためには、どうしたら良いのでしょうか?ヨハネ3:5「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』」ここに、二種類の誕生が記されています。イエス様は「水と御霊によって生まれなければ…」と言われました。水とは何か、神学的に、色々議論されてきました。ある人は「水のバプテスマ、洗礼である」という人もいます。しかし、ユダヤ人がこのみことばを読むと「それは、お母さんのお腹の羊水」であると直ちに理解するそうです。第一に、お母さんのお腹から肉体的に誕生する必要があるということです。まず、この地上に生まれなければ事は始まりません。でも、イエス様は「肉によってうまれたものは肉です」と言われました。それはどういう意味でしょう?確かにその人には肉体的な命があります。でも、それでは、神の国に入ることができません。なぜなら、神の国は永遠の御国であり、100年ももたない肉体では不可能だということです。そこで、必要なのは第二の誕生です。それは、御霊によって生まれるということです。御霊とは何でしょう?8節には、風のように見えない神の霊であることがわかります。そして、神の霊は人を新たに生まれさせる力があるということです。神の霊がその人に吹くならば、その人が新たに生まれ、神の国に入ることができる永遠の命をいただくということです。神の霊がくださる命は永遠の命であり、神の命です。神の命ですから、当然、永遠なのです。

 それでは肉の命と神の命とはどう違うのでしょうか?ある家で綺麗な声でなくカナリヤを飼っていました。家族のみんなは、「このカナリヤは家族同然だ」と可愛がっていました。しかし、夕食時になったら、さっさと自分たちで食卓を囲みました。カナリヤは家族同然のはずなのに、何故、一緒にごはんを食べられないのでしょう?そうです。いくら可愛くても、カナリヤはカナリヤであり、人間とは命が違います。また、こういう話があります。ある人が、ひよこの群とあひる子の群を小川のそばに連れていきました。川辺についた時、あひるの子は水に入ってとても楽しそうでした。体を浮かせて、すいすい泳いでいました。一方、ひよこはどうでしょう?ひよこは水を恐れ、驚いて遠くへ去っていきました。ひよことあひるの子と何が違うのでしょうか?命が違うのです。イエス様は何とおっしゃられたでしょう?「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」ニコデモは、その時代、人間的には最もすぐれた人物だったかもしれません。でも、肉によって生まれた者は肉でした。そのままでは、神の国を見ることもできないし、神の国にも入ることもできません。そのためには、肉の命だけではなく、霊の命が必要です。昔、中国に一生懸命、瓦を磨いている人がいました。「何をやっているんですか?」と聞きました。その人は汗を拭きながら、「瓦を磨いて玉にしているんです」と答えました。しかし、いくら瓦を磨いたところで、それは瓦です。磨く前に、質が変わらなければなりません。もし、それがダイヤモンドの原石であるならば、磨いたら玉になるでしょう。生まれつきの人間も同じです。肉であるならば、どんなに修養しても無駄であるということです。もし、その人が霊的に生まれ変わったならば、主と同じかたちに変えられていくでしょう。キリスト教は修養ではなく、生まれ変わりの宗教だからです。

 なぜ、霊的に新しく生まれる必要があるのでしょう?別の面から話したいと思います。人間が創造されたときはどうだったでしょうか?創世記1章と2章には、自然界の創造と人間の創造について記されています。神さまは、植物や動物を誕生させるときには、ことばによって創造されました。しかし、人間はそうではありませんでした。「ご自分のかたち」、つまり神のかたちに似せて、人を創造しました。まず、神さまは土地のちりで人を形造りました。その後に、鼻から「いのちの息」を吹き込まれました。すると、人は生きものとなりました。「息」ということばは、ヘブライ語で霊と同じ意味のことばです。人が動物と違うのは、霊があるからです。外側の肉体は物質と交わるためにあります。見る、聞く、触るなどの五感は、物を知るためのものです。内側にある魂は人々と交わるためにあります。魂は心とも言いますが、知性、感情、意思をつかさどっています。しかし、最も深いところにある霊は、神さまと交わるためにあります。私たちは霊によって、目で見えず、手でも触れない神さまと交わるのです。なぜなら、神さまは霊だからです。しかし、創世記3章にありますが、アダムが食べてはいけない木から食べたとき、霊的に死にました。そして、神さまから独立し、自分の魂で生きるようになりました。また、その肉体も死んで土に帰る運命になったのです。霊的に死んだといっても、わずかですが「神のかたち」が残っています。だから、人間には真理や愛、神様や永遠を慕い求めるところがあるのです。でも、それらは不完全です。なぜなら、霊的に死んでいるからです。だから、イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」とか、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができない」とおっしゃったのです。私たちはすでに肉体的にこの世に誕生しています。もう1つ必要なのは、霊的に新しく生まれることであります。日本人の多くは「人は死んでから生まれ変わる」、あるいは「死んでから天国に行く」と、信じています。しかし、そうではありません。人は生きているうちに生まれ変わる必要があるのです。生きているうちに天国に入る必要があるのです。


2.新しく生まれるため

 では、私たちはどうしたら霊的に新しく生まれることができるのでしょうか?ヨハネ3:14-15「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」14,15節はイエス様のことばで、16節はヨハネ自身のことばです。イエス様はご自分のことを「人の子」と不思議な呼び方をされました。ダニエル書では、「人の子」とはメシヤを暗示している呼び名です。イエス様が旧約聖書の出来事を引用しながら、信じるとはどういうことなのかを教えておられます。結論的には、人が新しく生まれるためには、ひとり子であるイエス様を信じなければならないということです。でも、信じるとはどういうことなのでしょうか?「モーセが荒野で蛇を上げた」とは、どのような出来事だったのでしょうか?民数記21章にはこのような事件が記されています。イスラエルの民が荒野で「ここにはパンもなく、水もない」と不平をもらしました。すると、主は民の中に燃える蛇を送られました。これは毒蛇であり、噛まれたら体が火ように熱くなるということでしょう。蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死にました。民たちはモーセに、「私たちは罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください」とお願いしました。すると、主はモーセに「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。すべてかまれたものは、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。モーセは、1つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けました。イスラエルの民の中には、善人も悪人もいたでしょう。でも、そこいら中、蛇が這い回り、善人も悪人も関係なく噛んだのです。善人だからと言って、そのままで救われるわけではありません。では、どうしたら蛇の毒から解放され、癒されるのでしょうか?そうです。青銅の蛇を仰ぎ見るならば癒されたのです。イエス様は「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」と言われました。イエス様はどこに上げられたのでしょう?イエス様はゴルゴタの丘で、十字架の上に付けられました。アダムのゆえに、すべての人は死の毒にやられています。今は生きているかもしれませんが、確実に死に向かっています。死後は、神のさばきがあり、永遠の死が待っています。では、どうすれば肉体の死を乗り越える永遠の命が与えられるのでしょうか?民たちの中で、旗ざおの蛇を仰ぎ見た者だけが、生きることができました。私たちも十字架にかけられたイエス様を仰ぎ見れば、死の毒から癒されるのです。「仰ぎ見る」とは、信じるということです。日本語の「信仰」は、「信じて仰ぐ」と書くので、とても良くできています。善人も悪人も関係ありません。イエス様を信じたら、死の毒から解放され、永遠の命をいただくことができるのです。

 スポルジョンは英国が生んだ、最も偉大な説教家の一人です。しかし、スポルジョンも若い頃は、救いの確信がなく、悶々と暮らしていました。ある日曜日、スポルジョンは教会に向かいましたが、大吹雪でした。「これ以上進めない」と、路地を折り返すと、小さいメソジストの教会がありました。教会の中には14,5人の人々がいました。その朝は、多分、雪のために、牧師が来る事ができなかったのでしょう。見たところ、靴屋か仕立て屋といった風采の、一人の貧相な男が講壇にのぼって説教をしました。スポルジョンは「説教者とは十分な教育を受けた人であるべきなのに、この人は何と無学な人なんだろう」と思いました。聖書のみことばを、ただ何度も繰り返すだけです。しかも、単語すら正しく発音できません。しかし、スポルジョンはそれが問題でないことが気付きました。男が選んだ聖書のことばが、イザヤ書の45章22節「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」でした。男はこのように語り始めました。「愛する友よ。これは、本当に短い聖句です。『見よ』と書いてあります。それは、非常な努力の要ることではありません。足を上げることでも、指を上げることでもありません。ただ、見るのです。さて、人は、見ることを学ぶために、大学へ行く必要はありません。見るのに、千年も費やす必要はありません。誰でも見ることができます。小さな子供でも見ることができます。しかし、これがこの聖句の謂わんとするところです。そして、みことばは、『私を見よ』と言います。ああ、多くの人は、自分自身を見ております。自分自身を見ても無益なことです。あなたは、決してあなた自身のうちに平安を見出すことができません。イエス・キリストは『わたしを見よ』と言います。」男は、10分たって話が尽きてしまいました。人数が少なかったので、男は、スポルジョンが新来者であることが分かりました。そして、講壇からこう言ったのです。「お若いの。君は非常に辛そうに見える。若者よ。イエス・キリストを見よ!もし、君がこのみことばに従わないなら、これからもずっと惨めであろう。その命においても惨め、その死においても惨め。しかし、今、君が従うなら、その瞬間に君は救われるのだ。」さらに彼は、メソジストのやり方で叫びました。「若者よ。イエス・キリストを見よ!」。しかし、その時、スポルジョンは「見た」のです。その時、そこで、雲は晴れ、暗黒は消え去りました。その時、スポルジョンは太陽を見たのです。つまり、救いの確信が与えられたのです。

 イエス様は「それを仰ぎ見れば、生きる。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と言われました。続いて、ヨハネは、聖書で最も有名なことばを語っています。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アメリカの大伝道者、D.L.ムーディはこう言いました。「聖書のすべての書物が失われても、ヨハネ3章16節のみことばさえあれば、人は救われる」と。さらにこう言いました。「太平洋の水をインクにして、地球の森のすべての木を筆にして、あの大空に書いてすべての人に知らせたい。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」言うことが、大きいですね。でも、ここには私たちが信じて救われる偉大な根拠が記されています。私たちが、ただ仰ぎ見て救われる根拠が記されています。それは、父なる神が、御子イエスを地上に与えたということです。何のためでしょう?それは、御子イエスが全人類の罪を負って、代わりにさばかれるということです。本来なら、アダムの罪と個人が犯した罪のゆえに、すべての人がさばかれて地獄に行くしかありません。しかし、父なる神さまはたった1つの例外、逃げ道を設けられました。それは、御子を信じる者だけが、自らの罪で滅びないで、永遠の命を持つことができるということです。全人類、どんな人でも、滅びないで永遠のいのちを得る道は1つだけです。使徒ペテロがこう言っています。使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」人類は不老不死の薬を求めてきました。世界には病気を治すいろんな薬があります。アンチ・エィジングの薬もあるでしょう。しかし、人は病気で死ぬか、事故で死ぬか、自分で死ぬか、老衰で死にます。だれも、死には勝てません。では、なぜ死が全人類に入り、今も全人類を支配しているのでしょうか?それは、人類の先祖であるアダムの罪が原因しています。たとえて言うなら、上流でだれかが死の毒を入れました。下流に住む人がその水を飲んだら死ぬということです。でも、神さまはもう1つ別の川、恵みの川を与えました。ひとりの違反により、死が支配しました。しかし、今度はひとりの従順により、多くの人が義とされるのです。パウロはこう述べています。ローマ5:21「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」アーメン。

 あなたはどちらの川の中に生きているでしょうか?アダム以来の死の川でしょうか?多くの人は、恵みを知らないで、死の川の中にいます。でも、2000年前、イエス・キリストが来られ、死に勝利できる、命の川を与えました。信仰によって、命の川に飛び込むならどうでしょうか?罪が赦され、永遠の命が与えられます。父なる神さまは私たちが救われるために、御子イエス様をこの世に与えました。イエス様はこの世に降りて来て、私たちの罪を負って十字架に死なれました。しかし、3日に死に勝利してよみがえりました。私たちが救われるために、努力する必要は全くありません。なぜなら、神さまが救われるための手立てを全部、完成しておられるからです。イエス様を救い主として信じれば救われ、永遠の命が与えられるのです。残念ながら、人間の方がそれでは申し訳ないと言って、良い行いをしたり、罪を償ったり、難行苦行をするかもしれません。しかし、それは完成しているテーブルにカンナをかけるようなものです。この講壇は完成しています。だれかが、カンナをかけたら、かえって台無しになるでしょう。救いも同じで、もう完成されています。私たちはただ受け取るだけで良いのです。「イエス様、あなたを救い主として信じます」アーメン。するとどうなるでしょうか?聖霊が風のようにその人の魂に吹き付けます。だれにも見えませんが、何かが起こります。何が起こるのでしょうか?その人の霊が新しく生まれ変わるのです。霊が生まれ変わると、霊が心と体を支配するようになります。それまでは感情の起伏が激しかったり、優柔不断だったりした心が変わります。平安と喜びと秩序がやってきます。肉体も魂が天に召される日まで、健康で力強いものになります。ある人は長年の頭痛が癒されたり、病気や怪我が俄然と少なくなります。なぜなら、あなたの霊が聖霊によって新たにされたからです。神さまは私たちが地上でいながらも、天国の命を味わえるようにしてくださいます。なぜなら、その人は死から命に移されているからです。そうです。私たちは死んでからではなく、生きているうちにイエス・キリストを信じて、生まれ変わる必要があります。永遠の命は死後いただくものではなく、現在、あなたのものになるのです。

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2013年1月 1日 (火)

救いの完結   イザヤ66:18-24 

昨年度は、ペテロ第一と第二の手紙から、終りの時代について学びました。終わりの時代とは、主が再び来られて、御国を完成してくださるということです。このことは、旧約聖書のいたるところにも預言されています。きょうは、イザヤ書の一番最後から、「救いの完成」というテーマでご一緒に学びたいと思います。昨年末は、マヤ歴から「2012年でこの世は終わるかもしれない」という噂が飛び交いました。中国では宗教団体が騒動を巻き起こし、政府も鎮圧のために動いたということです。「世の終わり」ということを話すと、「ああ、またか」と人々は笑い飛ばすかもしれません。まるで、「オオカミ少年」のようであります。私たちは聖書から、世の終わりは単なる人類の滅亡ではなく、御国の完成、つまり救いの完結であると捉えるべきであります。イザヤ書によると、救いの完成に至るために、3つの出来事があることがわかります。


1.人々を集める

 イザヤ66:18-19「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」終わりの日、つまり御国が完成する時、主は「すべての国々と種族とを集めに来る」と言うことです。原文では、「すべての国民と舌」と書いてあります。舌は、いろいろな言語を話す種族であります。ウィクリフ聖書翻訳協会では、2,075の聖書翻訳を目指しています。タルシシュは地中海北部の国々であろうと思います。プロとルデは北アフリカの国々です。トバルとヤワンは小アジアの国々です。さらに、「遠い島々」とあります。遠い島々にかかる形容詞は、何となっているでしょう?「これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない」となっています。ですから、地中海沿岸の国々よりもはるかに遠い島々です。インドネシヤとかフィリピン、そして日本です。日本は古くからジパングと呼ばれてきました。マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、「ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国である。莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。人々は偶像崇拝者で外見がよく、礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある。」とあります。日本は、西洋から見たら、あこがれの国であったわけです。なぜ、人肉か分かりませんが、台湾の原住民であったらその可能性はあります。しかし、主のうわさを聞いたこともない遠い島々からも救われる人たちが集められるとは、すばらしいことです。でも、周りの国々と比べると、かなり少ないような感じがします。

 イエスさまはヨハネ14章で何と約束されたでしょうか?ヨハネ14:3「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」準備ができ次第、戻って来られるということです。しかし、「だれでも」というわけではありません。19節に「わたしは彼らの中にしるしを置く」と書いてあります。「しるし」とは何でしょう?イエスさまを信じて、救われている人に何かの「しるし」があるのでしょうか?エペソ1章にそのようなことが書いてあります。エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」アーメン。聖霊自体が証印なのか、それとも聖霊が「この人はキリストのものである」と何らかのしるしをつけるということでしょうか?このしるしは普通の人には見えません。かなり前に、稲毛浜海浜プールにCSの子どもたちを連れて行ったことがあります。普通はプールで泳ぐのですが、近くの砂浜にも行きたい人がいます。すると出入口のゲートに係り員が立って、手の甲にスタンプを押してくれます。一瞬、ひやっとしますが、何も見えません。もう一度、砂浜から帰って、プールに入る時、そのゲートを通過しなければなりません。係り員が大きな虫メガネみたいなものを手にかざします。すると、見えなかったはずの、「しるし」が浮き上がってきます。おそらく、蛍光塗料の一種なのかもしれません。通常では見えませんが、ある機材を通すと見えるのです。この世においては、クリスチャンなのかどうかは外見では分かりません。世の終わり、御使いがやってきて、聖霊によって証印を押されている人たちを見つけ出します。そのとき、麦と毒麦、羊と山羊を分けるように、分けられるのです。

 私たちは世の終わりの終わりに生きています。競馬で言うなら、第四コーナーを回って、直線コースを走っているところでしょう。先行馬もいるし、差す馬もいるし、落馬するものもいます。レースの終わりは、一番大変であり、また一番面白い場面です。きょうは初日の出を見に多くの人たちが、海や山に行っているでしょう。夜明けになると、東の空が、赤みがかってきます。そして、明けの明星が輝いています。そのようなみことばが聖書にあります。Ⅱペテロ2:19「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」私たちは一年、一年、御国の完成の時に近づいています。御使いたちが、人々を集めるために、いつ来るのかわかりません。しかし、確かに言えることは、また一年、その日に近づいたということです。さらに、ゴールに近づいたということです。だから、いつ来ても良いように、準備をしていたいと思います。罪の中に埋没していると、御使いが取り残してしまうかもしれません。聖霊によって押された証印を、消すことのないように保っていきたいと思います。


2.礼拝に来る

 イザヤ66:23「毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る、と主は仰せられる。」このみことばは、御国が完成した時の様子です。つまり、礼拝は新しい天と新しい地においても行われる、永遠のものであるということです。私たちはこの地上で、礼拝をしています。きょうは元旦礼拝です。この間、12月30日も礼拝をしました。たった2日前です。その前は、24日のイブ礼拝、23日のクリスマス礼拝をささげました。何が面白くて、クリスチャンは礼拝をささげるのでしょうか?元旦早々、教会に来るとは、なんてまじめなんでしょう?世の多くの人たちは、元旦には初詣に出かけます。ある人たちは夜明け前から、遠くの神社に出かけるかもしれません。でも、彼らは私たちのように、毎週は行かないでしょう。困った時や何か特別な行事がある時ぐらいでしょう。その点、クリスチャンはまじめです。もしろん、たまにしか来ない人もいますが…。でも、どうして礼拝をささげなければならないのでしょうか?「ささげなければならない」となると、義務的になりますが、そうではありません。礼拝をささげるというのは、特権であり、喜びなのです。なぜなら、私たちは神さまから造られ、そして神さまから贖われた存在だからです。神さまから、大きな借りがあるんです。「借り」というのも変ですが、多くのものを神さまから与えられています。この命も、家も財産も、家族も、さまざまな能力も、です。中には、「そのわりにはひどかった」という人もいないわけではありません。生まれた時から病気がちだったり、両親が離婚したり、いたのに虐待されたり、いろいろあったかもしれません。また、学校や職場では、どちらかと言うと「負け組」に入っていたかもしれません。でも、みなさん私たちが神さまから救われたということは、すべてのことが益になるのです。今まで、無目的で生きてきたのに、1つ1つに意味が与えられます。あのことがあったから、イエスさまに出会えたのかもしれません。幸せな家庭で生まれ、なんでもうまくいっていたなら、福音には目もくれなかったでしょう。人生がひどければひどいほど、救われた喜びが大きいのではないでしょうか?

 礼拝とは神さまから何かをもらう行為ではなく、ささげるものです。なぜなら、もう既に多くのものを受けているからです。目に見えないものから、目に見えるものまで、多くのものを得ています。だから、私たちは神さまに礼拝をささげるのです。聖書が書かれた時代の文脈からですが、人々がいろんなものを主の宮に携えてくることがわかります。イザヤ66:20「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。」当時は、今のように車や貨車がなかったので、馬や騾馬、らくだの上に乗せて運びました。ソロモンの時代は、金や銀、宝石、さまざまな特産物でした。しかし、この箇所を良く見ると、そういうことを書いているのではありません。なんと、「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである」と書かれています。つまり、「ささげ物」はたとえであり、本当のものは別だということです。では、本当の贈り物とは何なのでしょうか?「すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて」書いてあります。乗せるのは物ではなく、救われた人たちであるということです。すべての国々から人々が集められます。その人たちを今度は、聖なる山、エルサレムに運んでくるということです。つまり、主への贈り物とは、金や銀ではなく、救われた人々だということです。神さまはすべてのものを持っておられる豊かなる神さまです。でも、欲しいものがあります。それは魂です。死んだ動物ではなく、生きている人々です。

 パウロはローマ12章でこのように教えています。ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」このみことばからも分かるように、私たちこそが、もっとも価値ある贈り物なのです。私たちが救われたからだを、このように神さまのところに運んでくる、これが礼拝なのです。でも、神さまは何とおっしゃっているでしょう?「すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として」とあります。神さまはどこかの国だけではなく、すべての国々から来るように願っておられます。そして、「あなたがたの同胞をみな」とあります。ということは、ここに集まっている人たちだけではなく、私たちの同胞がみな、主の前に来ることを願っておられるということです。私にはまだ救われていない肉の兄弟がたくさんいます。私も今年で60年になりますが、兄や姉もけっこうな年になっています。私も何度かアプローチしてきましたが、興味を持ってくれません。牧師として恥ずかしい思いがします。でも、この新しい年、もう一度、奮起して肉の兄弟にもアプローチしていきたいと思います。どうぞ、私たちが住んでいる地域の人たちも、そのターゲットに当てたいと思います。コリントの町はとても汚れた町でした。でも、神さまは何とおっしゃったでしょう?使徒18:10「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。…この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われました。ですから、日本のこの町にも、神さまの救いを受けるべき民がたくさんいるということです。


3.さばきがある

 ここに、救いと滅びとの明暗があることが分かります。イザヤ66:24「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」イザヤ書の一番最後が、さばきで終わっています。一方は、御国において、永遠のいのちをいただいています。しかし、もう一方は地獄において、永遠のさばきを受けるのです。私が赴任して、まもない頃です。役員会の中で、地獄があるかないか、議論されました。議論というよりも、自分の信仰を分かち合うときがありました。2人の方が、「地獄はないと思う」とはっきりおっしゃいました。「どうしてですか?」と聞くと、「愛なる神さまが地獄を作るわけがない。最後にはみんな救われるんだ」と言われました。私は「どう答えようか」と少々熱くなりかけていました。そこに、役員ではありませんが、オブザーバーとして山崎長老さんが同席していました。山崎さんは「聖書に書いてあるから地獄はある」とはっきりおっしゃいました。私は「さすがだなー」と感心しました。このイザヤ書66章と同じことばをイエスさまが福音書で語っておられます。マルコ9章から少し長いですが引用させていただきます。マルコ9:43-48「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」イエスさまはこのところで、「片手や片足を切り捨ててでも、地獄を避けて、御国に入りなさい」と教えています。ゲヘナとは地獄のことです。ゲヘナの火は消えることがありません。不思議なことに、そこには肉体を食べるうじもいるということです。しかばねのままで、永遠に生きるということです。イエスさまは、地獄があることをはっきりおっしゃっています。だから、あるのです。

 昨年末から、「救い」に関して学んでいます。救いにはいろんな意味があることを学びます。でも、みなさん、窮極的な救いとはどういうものでしょうか?罪が赦される、肉体が癒される、心が解放される。それらもすばらしいことだと思います。でも、窮極的な救いとは、永遠の滅び、地獄からの救いではないでしょうか?本来は滅びて当然だったのに、救われて永遠の御国に入る。何とすばらしいことでしょう。そう考えると、地上で不公平を味わったとか、病気で早く死んだというのは関係ないですね。たとえ、この世で、若くして死んでも、向こうには永遠があります。ジョエル・オースチンの本に書いてありました。5歳の娘が不治の病にかかりました。ご両親はどうしようもできず、本当に心が痛みました。いよいよ、娘さんはこん睡状態に入りました。ご両親は、「ああ、もうダメだな」と愕然としました。すると、娘さんは目をぱっちり開けて、こう言いました。「『イエスさまがね、こっちへ来て良いよ』と言ってくれたよ」。その直後、息を引き取りました。その一言で、ご両親は、本当に励まされたそうです。永遠の滅びから永遠の命こそが究極の救いであります。私たちには死後、さばかれないで、住むべき永遠の御国があるのです。たとえ全世界を得たとしても、永遠をなくしたなら、何の儲けがあるのでしょう。

 元旦そうそう天国と地獄の話もないかもしれません。もっと、希望を与える爽やかなメッセージを期待して来られた方もおられるでしょう。私はあまりDVDは見ませんが、年末年始は、DVDをたんまり借りてきて、おうちで映画を見る方もおられるのではないでしょうか?大体、DVDの映画というのは、映画館かテレビで一度見たものです。007にしても、ミッション・インポッシブルにしても結末を知っています。この人は死なない、ハッピーエンドで終わるのが分かっています。それでも、また見ます。一番最初に見た時よりも、はらはらドキドキ感はないです。でも、楽しむことはできます。今日、学んだ箇所は、「救いの完結」という一番最後の部分です。「ああ、自分の人生は、最終的にはこっちなんだなー」と分かるとどうでしょうか?「この先、病気や事故、いのちの危険にさらされることがあっても、まぁ、いいか?」となるでしょう。だって、最後は永遠の御国、ハッピーエンドなんですから。正しい歴史観は、結末の部分から時間をまきもどすことです。何年か何百年かわかりません。DVDを戻すように、2013年まで戻すんです。おそらく今は、競馬で言うなら、第四コーナーを回って、直線コースを走っているところでしょう。先行馬もいるし、差す馬もいるし、落馬するものもいます。レースの終わりは、一番大変であり、また一番面白い場面です。私たちはそういう時代に生かされているのです。ということを知りながら、この新しい年も生きるのです。みなさんは何歳になるのか分かりませんが、この地上の命はそんなに長くありません。でも、短いからと言って、粗末にしてはいけません。永遠と比べたなら本当に一瞬です。まばたきの瞬間くらいです。本当に短いんです。だったらみなさん、不平不満を言っている暇はありません。自分の境遇や環境を呪う暇もありません。リストラされたとか、人間関係がうまくいかないとか、借金で首がまわらないとか、確かに大変です。この世では勝ち組と負け組があるようです。ひょっとしたら、自分はこの世では負け組に入っているかもしれません。でも、イエスさまを信じて、永遠の御国をいただいていたら、どんな人でも勝ち組の中に入ります。地獄ではなく、永遠の御国をいただいている人は、勝ち組に入っているのです。この世でどんなに成功して、どんなに幸福であっても、最後は滅びであったら、負け組です。クリスチャンはこの世でどんな生活であったとしても、主にあって勝ち組に入っているのです。人生をそこから始めましょう。マイナスから始めるのではなく、プラスから始めるのです。私たちは、何をしても、どんな小さなことでも、プラスになるのです。ある人が数学の話をしました。ここに、マイナスの人生を歩んでいる人がいたとします。すごいマイナスです。でも、この数字をかっこでくくり、その前にマイナスをつけるとどうなるでしょうか?マイナス、かっこ、マイナス○○です。なんと、マイナスがひっくり返ってプラスになります。私たちクリスチャンはこの地上でマイナスの時があても、神さまが常にプラスになるように働いてくださるのです。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」


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