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2013年1月27日 (日)

病の癒し        マタイ8:14-17

 日本では医療費に年に37兆円も使っています。保険で使われている薬剤の価格は世界一高く、また医療材料の価格も外国と比べて大変高く設定されているそうです。また、病院の70%が赤字経営で、病棟・病院の閉鎖や統廃合が進んでいるそうです。いくら医学が発達しても病気はなくなりません。むしろ、難病が次々と発生しています。仏教では、「人間は生老病死という4つの苦しみからは免れない」と言います。聖書は、病気の原因と解決を教えています。この地上では、肉体的に限界がありますが、天に召される日まで健康でいられたらどんなに幸いでしょうか?「病の癒し」も救いの中に入ります。なぜなら、福音書では病気が癒されたときに、「救われた」と言っているからです。私は医者ではありませんが、聖書から病の癒しに関してメッセージしたいと思います。

1.病の原因

人類にはじめから病があったのではありません。また、神さまは私たちが病になるように計画されたのでもありません。では、どうして人間に病が訪れるようになったのでしょうか?創世記3章に書いてありますが、すべての原因は、アダムが神に背いて罪を犯したためです。アダムが罪を犯したため、土地が呪われ、あざみといばらを生じさせるようになりました。これはどういう意味でしょうか?自然に対する人間の支配力がなくなり、秩序が破壊されたということです。そのため、人間に敵対するような病原菌やウィルスが発生したと考えられます。さらに、人間はちりに帰る、つまり肉体的に死ぬことが定められました。病気というのは、死を弱くしたものと言えます。人はこの地上に生まれてから、死に向かっています。年をとれば、いろんなところが壊れてくるのはそのためです。また、人間が犯した罪や咎によって、呪いが入りました。遺伝性の病気や癌などはその典型であると言えるでしょう。また、不節制をしたり、怒ったり、人を赦さなかったりすると病気になります。思い煩いやストレスでも、心や体が病気になります。さらには、病気をもたらす悪霊がいます。すべての病気は悪霊からのものではありませんが、そういうものもあります。こう考えると、地上では病気にならないのが不思議だと言えるかもしれません。罪と呪いと死がある限り、病気はこの地上からなくならないのです。

 あまりにも大上段に「病の原因」を語ったので、反感を持たれている方もおられるかもしれません。特に医療に従事している方は「素人が何を言うんだ」と憤慨するでしょう。ちなみに、私の家内は看護師です。私は医者や薬に頼らない方なので、よく喧嘩をします。家内は子どもたちにすぐ薬を飲ませます。私はその度に、「そんなに薬に頼らなくても」と言います。気がつくと、食卓の脇には薬が山積みになっています。妻は、自然科学と医療を学んで、それに従事しています。私は聖書から学んで、癒しの奉仕をしています。結婚当初は子どもが病気になる度に喧嘩をしました。「もう、祈ったから良いじゃないか」と言いますが、家内は心配でたまりません。「やっぱり、病院に行こう」と言います。彼女は知識があるので、「ああなったら、こうなる」と先のことまで考えてしまいます。ある時、子どもの喘息がひどいので真夜中、病院に行きました。お医者さんは「この子の肺が三分の一しか働いていません。これじゃ、水の中でおぼれているのと同じですよ」と言いました。私は「ああ、可哀そうなことをしたな」と反省しました。今は、お互いに歩み寄って、喧嘩をしなくなりました。私は祈りによる癒し、つまり特別恩寵を信じます。また薬や医者による一般恩寵も受け容れるようになりました。私も13年間、皮膚病を患いました。乾癬という、とても治りにくい病気で苦しみました。皮膚が赤くただれて、大好きな温泉にも行けませんでした。自分で何度も祈りましたし、他の人からも祈ってもらいました。新松戸の津村先生は「背中に過去の女の怒りがある」とおっしゃいました。「いやー、まいったなー」と思いました。皮膚科の薬、一般の薬、漢方、食事療法、お湯にもいろんな物を入れました。でも、なおりませんでした。ところが、2012年9月頃からぐんと良くなりました。皮膚科の先生は、「1日2回、薬を塗ったからだ」と言いました。どうなのか、わかりません。あるいは、体質が変わったのかもしれません。なぜなら、この病気は免疫異常が原因で起こるからです。神さまは、私のように強い人に病気になることを許されました。本当にヨブのように皮膚病になり、苦しんだ後で癒されました。ですから、今では、医療などの一般恩寵も受け入れながら、メッセージするようになりました。
 病気になると、「何かの罪を犯したからだ」と言う人もいます。酒やかたばこ、食事、ストレス、遺伝、生活習慣病、年…いろいろあります。でも、根本的な原因は人類の先祖、アダムが罪を犯したためです。そのために、病が私たちの体や心に入りこんだのです。なぜ、病気になるのか、私たちの自然界に対する権威がなくなり、さらには自然界が壊れてしまっているからです。私たちの体も弱くて、抵抗力がないので、病気になってしまいます。死にたる肉体を持っているので、病気になるのです。これだけ言うと、「ああ、病気になるのは当たり前なんだ」と納得してしまうかもしれません。しかし、聖書には「病に打ち勝って、健康になることができる」と書いてあります。

2.病の意味
 マタイ9:35「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」イエスさまは地上でおもに3つの働きをなさいました。第一は教え、第二は福音宣教です。そして、第三は病の癒しです。イエスさまは公生涯の三分の一を病の癒しや悪霊追い出しに費やされたということです。ここにはっきりと「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された」とあります。病気とわずらいが違うんでしょうか?当時はマラリヤとかいろんな伝染病がありました。また、アダムの罪によって、弱さを負っているのでいろんな病気になります。気管支炎、胃腸炎、関節炎、頭痛、心臓病、悪性腫瘍、免疫不全などいろいろあります。また、悪霊からくる「てんかん」や「おし」もありました。それから、イエスさまは、生まれつきの盲人、足がなえた人、手のなえた人、耳の聞こえない人も癒されました。さらには死んだ人さえもよみがえらされました。福音書には少なくとも3人が死から生き返っています。生き返った時には、すべての病気がなくなっていたということです。イエスさまは病と出会う度毎に病を癒されました。また、イエスさまはお葬式をしたことがありません。死んだ人をよみがえらせてしまうからです。なぜでしょう?
 病気や死が本来的なものではないからです。イエスさまにとって、病気や死はむしろ敵でした。だから、出会う度毎に、ことごとく癒されたのです。イエスさまが持ってきたのは、神の国でした。神の国には病や死がありません。神さまはもともと、神の国で人々が暮らすことを願っておられました。しかし、アダムが罪を犯してから人々はこの世に住むようになったのです。この世では、悪魔が支配しています。そして、罪と死が人間に入り、当然、病も入り込むようになったのです。イエスさまは、この世に来られたとき、神の国を一緒に持ってこられました。人々は、病を癒されて、「ああ、神の国はこうなのか、私も神の国に入りたい」と願ったのです。イエスさまは主の祈りの中で、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」祈れ、とおっしゃいました。これは、「この地に御国が来るように願え」ということです。また、「神さまのみこころがこの地でも行われるように願え」ということです。神さまのみこころは、私たちが病気になって、死ぬことではありません。アダムが罪を犯してから、人類に病気と死が入りこんでしまいました。しかし、父なる神さまが望んでいたことではありません。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」ヨハネは、「健康であるように」と祈っていますが、これこそが神さまのみこころです。私は子どもが4人いますので分かります。父なる神さまは、私たちが病気になることを願っておられません。ある人たちは、「病気も神さまが与えた1つの試練である」と言います。それは違います。私たちが病気になるのは、アダムの罪が原因しているからです。そのため、私たちは弱さを負っています。その上さらに、病気になるような生活をしていたので、病気になったのです。でも、病気になったので反省して、規則正しい生活をしようと心がけるのは良いことです。
 ある人は、三浦綾子先生の考えに同意して、病気は神さまからのプレゼントだと言います。また、水野源三さんや星野富弘さんの例をあげて、癒されないのも神さまのみこころであると言います。さらには、「パウロにはとげがあって、三度祈っても癒されなかった。だから、神さまから来る病気もあるんだ」と言います。三浦綾子先生は肺結核、脊椎カリエス、帯状疱疹、直腸ガン、パーキンソン病など、病気の問屋でした。でも、主の恵みが彼女を支え、死にそうで死なないという奇跡がありました。病との闘いの中で、数々の深い文学作品を生み出しました。でも、病気自体が神さまの恵みではありません。それを乗り越える力が恵みなのです。水野源三さんや星野富弘さんも癒されたら良いと思うし、本人も癒しを求めたと思います。でも、それがかないませんでした。それだからこそ、弱さの中にいる人たちを励ますことができました。私は、彼らは例外中の例外だと思います。神さまが特別にご自分の器として用いているのです。使徒パウロも第三の天に昇り、特別な啓示を受けました。だから高慢にならないようにと、サタンの使いが肉体のとげを与えたのです。私たち凡人が「肉体のとげですから、甘んじて受けます」と簡単に言ってはいけません。なぜなら、パウロほど偉くないからです。イエス・キリストがあらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされたのは、病気が当たり前ではないということを示すためです。この地上では不完全かもしれませんが、神さまのみこころは、私たちが健康で生きることです。

3.病の解決
 イエス・キリストはこの地上で、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされました。身体に障害を持った人たちを完全にし、死人さえもよみがえらせました。でも、イエスさまはいつまでも地上にはおられません。やがて天に帰らねばなりませんでした。そのために、イエスさまは2つのことをされました。1つは自分が病を贖う、つまり背負うということです。2つ目はご自分の名前によって癒しを行わせるということです。この2つによって、神の国が完成するまで、この地上でも癒しが行われ続けるということです。マタイ8:16-17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」このところに、イエスさまの病に対する窮極的な解決が記されています。マタイが引用したのはイザヤ書からです。イザヤ53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」ここにすばらしい真理が記されています。多くの人たちは「イエスさまが私たちの罪を負ってくれた。だから私たちは贖われたんだ」と言います。間違いではありません。でも、みことばを素直に読むならばどうでしょう?メシヤであるキリストは、「私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」と書いてあります。病というのは、弱さともとれることばです。マタイ福音書は「患い」と訳しています。さらに、イザヤ書には「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と書いてあります。イエスさまが呪われたので、私たちがいやされたと考えるべきです。というふうに考えるとどうでしょうか?罪の贖いの中に、癒しが含まれているということではないでしょうか?なぜなら、イエスさまは十字架で罪だけではなく、弱さや病を背負われたからです。
 第一にイエスさまは病の源、根源を解決してくださいました。第二は、「ご自分の名前によって、病をいやしなさい」と命じておられます。マタイ10:5-8「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。…行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」イエスさまは最初は、ご自分一人で行っていましたが、そのあとで12人あるいは70人の弟子に「病をいやしなさい」と命じておられます。さらには、天国にお帰りになる前も、命じられました。マルコ16:17-18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」病の癒しは、信じる人ならだれでも、できる事柄であります。重要なのは私たちの力ではなく、イエスの御名であります。多くの教会は、だれかが病気のとき、「神さま○○さんを癒してください」と祈ります。これに対しては、だれも反対しません。でも、だれかが病人に手を置いて「イエスの御名によって、病よ、癒されよ」と祈るなら、「それは危ない」と反対します。それも、聖書をまるごと信じている福音派の教会が反対するのです。聖書をまるごと信じているならば、福音宣教も病の癒しも、弟子たちに与えられた命令であると受け止めるべきです。キリストの弟子であるならば、イエスさまの命令に従わなければなりません。ある先生との会話で、「私は病の癒しをします」と言いました。するとその先生は、「癒されない人がいたら、信仰がないと言われるので、病の癒しはすべきではありません」と反対しました。私は熱くなって反論しようと思いましたが、もう一人の先生に「まあ、まあ」と止められました。私たちが福音を伝えるときに、信じないで救われない人がいるから、伝えないでしょうか?伝えます。同じように、病の癒しをするとき、癒されない人がいるので、病の癒しをすべきではないでしょうか?すべての人が救われないのと同じように、すべての人が癒されるわけではありません。でも、信じて癒される可能性がある限り、癒しを行います。祈るのは私たちの役目であり、癒すのは神さまです。私たちは癒しの道具だと思えば良いのです。
 もし、自分が病気になったらどうすれば良いのでしょうか?すぐ医者にいくべきでしょうか?それとも癒しのたまもののある人のところへ行って祈ってもらうべきでしょうか?これまで、教会は、私たちは霊的な救いは提供しますが、「肉体の癒しは病院へ行ってください」と紹介してきました。最近は心の病も増えていますので「素人がやっては危険です。専門家に任せなさい」と言います。冒頭で言いましたように、私は一般恩寵である、医者や薬を否定しません。そういうものも神さまが与えたものとして、用いたら良いと思います。でも、何をするにも、それらを用いてもらうように、神さまに祈るべきです。ある人たちは、医者や薬が病気を治すと考えていますが、それは大きな誤解です。医者は病気の原因を取り除きますが、癒すのはその人が持っている自然治癒力です。医者は自然治癒力を最大限に出せるように手助けをしているのです。何でも、医学に頼るのは間違いです。まず、祈って、どうすべきか神さまに尋ねるべきです。でも、反対に、「医者や薬には頼らない。神さまの癒ししか信じない」という極端な人がいます。ある人が癌になりました。「神さまが癒してくださるので病院に全く行かい。たとえ死んでも生き返る」と言いました。それで癌がひどくなり、結局、亡くなりました。それも、信仰かもしれませんが、極端になるのは良くありません。ヤコブ書にすばらしいみことばがあります。ヤコブ5:14「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」アーメン。ここには、自分から行くのではなく、「教会の長老たちを招いて祈ってもらいなさい」と書かれています。つまり、「病気になったから、教会に行けない」というのではなく、お願いして来てもらいなさいということです。教会のある兄弟姉妹は、入院してもだまって知らせない人がいます。「心配させたくない」という気持ちがありますが、どうぞ、大胆に「祈ってください」と知らせてください。とりなしの祈りは本当に効き目があります。また、手を置いて祈るときにも、神さまが働いてくださいます。
 この地上では、病にならなのが不思議であると言いました。しかし、神さまは病に対する解決も与えておられます。それは、いのちの御霊の法則です。ローマ8:2「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」私たちの内におられる、いのちの御霊が罪と死の原理から解放してくださいます。つまり、死にそうで死なないということです。パウロはそのことをもっとはっきり説明しています。ローマ8:11「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」これは、天国に行ってからのことを語っているのではありません。この地上で弱さを帯びている私たちに言っているのです。私たちはアダムのゆえに、死ぬべきからだを持っています。しかし、私たちの内にはイエスさまを死者の中からよみがえらせた方の御霊が住んでいます。つまり、いのちの御霊が、死ぬべき私たちのからだを生かしてくださるのです。だから、この地上にあっても、死ぬまで、健康にいられるのです。私たちは病に倒れて天国に行くのではなく、この地上での使命が終わったから天国に行くのです。キリストにあって、病と死の呪いが打ち砕かれたからです。どうぞ、主にあって健康であることが当たり前であり、神からの恵みであると信じましょう。もし、病や弱さの中にあるならば、イザヤ書53章を思い出しましょう。イエスさまのお苦しみをいくらかでも味わうことによって、苦しみや痛みの中にあっても、主が共にいて、慰めてくださり、生かしてくださることを体験でるでしょう。

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