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2012年12月30日 (日)

~人となられたイエス様~ <ヨハネの福音書1:14-18>   亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ヨハネの福音書1:14-18>
1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

<エペソ人への手紙1:5-7>
1:5
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6
それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

***************

先週はクリスマス礼拝でした。皆様それぞれ、イエス様のご降誕を祝われた事と思います。
現在のキリスト教界では、12月25日をイエス様が生まれた降誕日とし、1月6日の公現日(こうげんび)までの期間をクリスマスと考えています。
公現日は、救い主キリストの栄光が全世界、異邦人にも現れたことを祝う日とされていて、マタイの福音書に記されている、東方の博士たちがキリストを礼拝した日とされています。
ですから25日のクリスマスから数えると、東方の博士たちは、イエス様が生まれてちょうど12日目に、イエス様を礼拝したと考えられています。

このクリスマスは、神であるイエス様が人となってこの地上に降りて来られた日です。

ヨハネの福音書の冒頭には、

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

と書かれています。この“ことば”とはイエス様のことです。
イエス様は“ことばなる神”と呼ばれています。ギリシャ語で“ことば”は“ロゴス”と言いますので、イエス様は“ロゴスなる神”とも呼ばれています。そして・・・

****************
<ヨハネ1:14-16>
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
****************

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と、書かれています。
では、「なぜ、神であるイエス様はわざわざ人となってくださって、私たちの間に住まわれたのでしょうか?」
・・・とこのように聞かれたなら、みなさんはどう答えるでしょうか?
きっと“十字架にかかって人間の罪を贖うため”とか、“父なる神との和解のため”とお答えになると思います。

その通りなのですが、完全なる神であられたイエス様が、なぜ、完全なる人となられる必要があったのかという、重大な問いかけについて、クリスマスのこの時期、もう少し深く掘り下げて考えてみたいと思います。


◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」

①“父なる神の愛”を解き明かすため。

この“クール・デウス・ホモ”というのは、ラテン語で「神はなぜ人間となられたのか?」という意味になります。
これは、11世紀ごろに活躍した、イングランドのカンタベリーの大司教で“スコラ学の父”とも呼ばれるアンセルムス(1033-1109)の著作の題名です。

少し難い感じの話になってしまいますが、キリスト教を、古代、中世、近代に遡って見直してみると、いろいろな発見がありますので、今日は歴史から少しお分かちしたいと思います。

“スコラ学”というのは、11世紀-15世紀ごろに西方教会で発展した学問のスタイルです。
この頃は哲学が盛んで、神学と哲学との関係について問題になっていました。
アンセルムスたちは、キリスト教の福音をなんとか合理的なものとして提示しようとしていました。
“スコラ学”とは、簡単に言えば、“キリスト信仰を持っているがゆえに、あえて聖書のみことばを使わずに、理性によって神の存在を論理的に証明しようとした学問”です。

このアンセルムスの著作“クール・デウス・ホモ”は、アンセルムスと弟子との問答形式で書かれています。
そこにはイエス・キリストの受肉(肉体をもって人間となられたこと)について、また、贖罪(十字架に架かられて私たちの罪を贖ってくださったこと)について、そして救済について、アンセルムス独自の考えが記されています。
なぜアンセルムスがこの本を書いたのかというと、アンセルムスよりも前の時代、2世紀ごろから活躍した、教父たち(アウグスティヌスなどの初期にキリスト教を発展させた著述家)の十字架の贖いの解釈に疑問を感じたからでした。

それまでの教父たちの考えは、「サタンはこの世界の支配者であり、その権威は簡単に無視することができない。つまり、人間はサタンの奴隷にされている。イエス・キリストの十字架の贖いは神がサタンへ渡した身代金である。」と考えていたのです。この考え方を「賠償説」と言います。
みなさんはこの「賠償説」をどう思いますか?ちょっと考えればおかしいですよね。なぜ、この天地の全てを創られた創造主である神様が、被造物であるサタンに身代金を支払う必要があるのでしょうか。
でも当時の教父たちは、事実このような考えでした。
そこでアンセルムスは、著書“クール・デウス・ホモ”の中で、それまでの“イエス・キリストの十字架の贖罪は、サタンへの身代金である”という思想を打ち砕きました。イエス・キリストの贖罪は、神と、神から離れてしまった人間との和解のためであり、神と人間、そして仲保者であるイエス・キリストとの関係の中にサタンは介入できないのだとアンセルムスは証明しました。

しかし、このアンセルムスの著作の中で、少し残念な所があります。それは、この著作からは、「ひとり子をお与えになったほどに世を愛された神の愛」を感じることができないという問題点です。ここでは詳しくはお話しできませんが、そういった問題点を差し引いても、アンセルムスの贖罪論は、その後の神学の基礎となり、現代の思想にも深く影響を与えている偉大なものでした。

・・・ちょっと難い話になりましたが、クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」ということは、父なる神様の愛を抜きにしては説明できないということがポイントです!

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<エペソ1:5 >
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
****************

神様は、最愛の御子であるイエス様を犠牲にしてまでも、「神に背いた人間を救わずにはおられない」と決意されました。それは人間が無価値なものではなく、御子のいのちに代えても救いたいと思われるほど価値があり、神の目に尊い存在であるからです。このエペソ1:5に書かれているように、神様は私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

そして、イエス様は目でみることが出来ない神様を解き明かすために、人となってくださいました。

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<ヨハネ1:17-18>
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
****************

イエス様は、私たちのために、直接目で見て、触れて、声を聞くことができる肉体を持った人となってくださり、私たちにはっきりと解るように“父なる神の愛”を解き明かしてくださいました。
イエス様が人となられたのは、“父なる神の愛”を解き明かしてくださるためなのです。


◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」

②罪の赦しをくださるため。

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<エペソ1:7>
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
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人となられたイエス様は、神様ですから罪を犯されませんでしたが、私たち人間は罪の性質の中にいます。神様はそのような私たち人間の罪を赦そうとしてくださっています。

神様の罪の赦しとは、人間同士の罪の赦しとは全く違います。人間は、罪を赦すことはできても、忘れることはできません。神の赦しとは、忘れてくださることです。
忘れられない世界は赦しが無い世界です。恵みが無い世界です。

”Forgive, but not forget.” 「赦そう。しかし忘れまい。」


皆さんはイスラエル初代首相ベングリオンのこの有名な言葉をご存知でしょうか。

ベングリオンはホロコースト、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺についてこう語ったそうです。


・・・この言葉は、どこかのホロコースト関連の石碑にも刻まれているとも聞いたことがあります。

「罪を赦すことは出来るが、忘れることはできない。いや、忘れまい!忘れてはならない!」

・・・人間にできる罪の赦しは、これが精一杯なのかもしれません。本当に、すべて忘れてしまう事など人間にはできないのです。過去の辛い思い出は、すっかり忘れ去ってしまったつもりでも、何かの拍子で思い出されたりするものです。


しかし、”Forgive, but not forget.”「赦そう。しかし忘れまい。」という言葉は故意に忘れまいとしている言葉です。ホロコーストの当事者だった人たちは、思い出したくもない恐ろしい出来事に対して、はらわたが煮えくりかえるような激しい怒りを抑えてやっとの思いで”赦しの心”を持ったことでしょう。そして、二度とこのような事を繰り返さないために、「忘れまい」と言っているのだと思います。


しかし、当事者ではない子孫がこの言葉を聞いたり、石碑に刻まれたこの言葉を読んだ時に、この言葉に本来秘められた“深い深い赦しの心”ではなく、“深い深い恨みや憎しみの心”だけを受け取って、引き継いでしまう・・・ということになってしまわないでしょうか。


人間はそもそも罪深い存在です。ホロコーストの事だけではなく、歴史を顧みても、現代に残る戦争の傷跡は、国家と国家の間、国と個人との間、個人同士の間で、私利私欲も加わって、ねじ曲がって伝えられ、恨みや憎しみとなって増大しています。


しかし、神様の罪の赦しは全く違います。神様は私たちの罪を赦してくださるだけではなく、すっかりと記憶から消し去ってくださるのです。黙示録に書かれている最後の審判で神が「いのちの書」を開く時、私たちの罪は赦されて記録されていないのです。神様の赦しは、全てなかったことにしてくださる完全なる赦しです。


ではなぜ、神様は私たちの罪を完全に赦して、忘れてくださるのでしょうか。

それは、イエス様が人となってくださって完全な贖いを成し遂げてくださったからです。

イエス様と、私たち人間の決定的な違いは・・・

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<ヘブル4:15 >
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
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とヘブル書に書かれている通り、大祭司であるイエス様は”完全なる人”となられ、私たちと同じように”試みに会われ”ましたが、私たちとの違いは、イエス様は“罪は犯されなかった”という事です。
イエス様は人となってくださって、罪を犯されず、完全な「なだめの供え物」となって、十字架に架かってくださいました。

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<エペソ1:7>
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
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ですから、◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」
という問いに対して、それは、イエス様の血による贖いにより、②罪の赦しをくださるため。に人となられる必要があったからと答えることが出来ます。これは、まさに神の豊かな恵みによることです。


◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」

③癒しと回復を与えてくださるため

私たち人間は創世記1:26、27に書かれているように、神のかたちに似せて創られました。
しかし、アダムとエバが犯した罪によって、私たちは“回復が必要な神のかたち”になってしまったのです。
おもに福音派で使われる神学用語ですが、義化、聖化、栄化という言葉があります。

********************
1.義化
イエス・キリストを信じて人は義とされます。それを神学用語で義化と言います。
2.聖化
義化されたのち、キリストに似たものとされるために、継続的に聖くされて行くことを言います。
3.栄化
イエス・キリストの再臨に際して、信仰者がキリストの復活のからだに似た、栄光あるからだによみがえることにより、あるいは、変えられることにより、完成に至ることを言います。
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私たちは、今”聖化”されている段階にあります。私たちには“聖化”されて、キリストを表す使命があります。
しかし、先ほども申しましたが、私たちはまだまだ不完全で、”回復が必要な神のかたち”なのです。

私たち人間は、思い出したくない過去に蓋をします。忘れてしまおうと努力します。それはいつまでもそこに留まっていたくないからです。でも、本当に忘れているかというと、私たちは先ほどもお話ししたように、実は忘れていないのです。でも、そこから解放されたい、立ち直りたい、回復したいと、もがき苦しんでいます。

神様はそのような私たちに、驚くべき方法で癒しと回復を下さいます。

神様は、私たちが加害者として、過去に犯してしまった過ちや、逆に被害者として、過去に受けた傷などについて、まるでそれらを再現させるかのような出来事を通して癒しと回復をくださることがあります。
実際は思い出したくもないのに、思い出してしまうような出来事を通してです。

例えば、神様は、過去に大切な人を裏切ってしまった人に対して、今度はその人が大切な人から裏切られるという、かなり手痛い出来事をお与えになり、自分の犯した過ちに目を向けて、悔い改めて回復するチャンスを下さることがあります。
また、何か過去に起こった出来事によって、トラウマを抱えてしまった人・・・
例えば、親子関係で傷を負ってしまった人は、自分が新しく築いた親子関係や人間関係によって、愛と癒しをたくさんいただくことにより、回復させて下さることがあります。
また、過去に金銭面で苦労したことによって、どこかお金にこだわってしまうようになってしまった人に対して、神様は相変わらず繰り返し金銭面で苦労させてしまうことがあります。しかしそれは、神様がその人を同じところに戻して、お金よりも大切な価値を見出すためにそうなさっているのかもしれません。

そうやって神様は私たちが知らず知らず、過去に背負ってしまった傷を覚えていてくださり、必要に応じて、癒しと回復を与えてくださっているのです。

仏教で言う因果応報ではありません。
神様は私たちに、人生のやり直しをさせてくださっているのです。立ち直るチャンスをくださっているのです。

神様は、過去の罪や傷や恨みを忘れることが出来ない私たち人間を、その過去に連れ戻してくださり、その記憶を新たな神の恵みへと塗り変えてくださるのです。

愛なる神様は、私たちが過去の問題から目をそらして逃げても、何度でもやり直しのチャンスを下さいます。
私たちが神様の与えてくださった機会に気付き、神様と共にその問題に立ち向かい、目の前にある高い山を乗り越えるならば、神様は私たちを新しくしてくださり、癒しと回復を与えてくださるのです。

その究極の形がイエス・キリストの十字架の贖いです。
アダムとエバという”人間”が犯した罪だからこそ、イエス様は人間となる必要がありました。まことの神様であられるイエス様が、人となってくださって、人間が過去に犯した罪に戻ってくださって、罪を償ってくださり、私たちを新しくしてくださったのです。

・・・こんな神様が他におられるでしょうか!!

私たちは”回復が必要な不完全な神のかたち”です。
イエス様はこのような私たちの罪を赦し、忘れてくださり、回復を与えて下さるために、人となってくださり、父なる神様の愛を解き明かしてくださいました。
イエス様は、誰よりも憐れみ深く、誰よりもへりくだり、誰よりも私たちを愛して下さる御方です。

◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」
イエス様は、完全なる人となってくださり、私たちに・・・

①“父なる神の愛”を解き明かすため。
②罪の赦しをくださるため。
③癒しと回復を与えてくださるため

この地上に降りて来て下さいました。
この年の瀬に、この一年、いえ、今まで生きてきた自分の足跡を振り返り、父なる神様の愛、罪の赦しについて考えてみましょう。また、神様が与えてくださった癒しと回復について、これから神様が与えて下さろうとしている癒しと回復について考えてみましょう。その恵みを覚えて祈るなら、感謝することが見つかるはずですし、逆に、神様の働きかけに応えていない事も見つかるはずです。

私たちの思い出したくない過去をすっかりと新しく塗り変えてくださり、日々聖化させてくださっている偉大な救い主、癒し主、贖い主、全能の神であられるイエス様に感謝し、キリストのかおりを放つ者となりましょう。

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2012年12月23日 (日)

メシヤの苦しみ   イザヤ53:1-6

この世において、クリスマスとはどういうものでしょうか?光り輝くイルミネーション、素敵なプレゼント、豪華なパーティ、そしてサンタクロースでしょうか?しかし、それらはすべて商業目的で作られたクリスマスのイメージです。ロマンチックなムードにひたりためにカップルが年に一度、教会を訪れるでしょう。そういうことから、クリスマスを華やかに祝わない宣教師たちもいます。その代わり、家族で主のご降誕を静かに祝うのです。きょうは、福音書からではなく預言書から、クリスマスについてメッセージしたいと思います。イザヤ書53章は、メシヤがこの地上に何のために来られたのか、その使命と目的が記されています。私たちが救いを得るために、多大な犠牲と苦しみがあったことを忘れてはいけません。


1.メシヤの外見
 この世においては外見がすべてであります。テレビのCMやニュースキャスターは、男女共ども外見の良い人たちでしょう。女性は、お化粧や髪形に気を配ります。その次には、ボデイのシェイプアップです。「カーブス」という女性専用のフィットネスがあります。ちなみに、カーブスは曲線美という意味から来ています。いつか、そういう姿になりたいと汗をかくのです。その次には、何を着るか、何を身につけるかであります。流行を取り入れながらも、自分の個性をかもしだそうとするでしょう。そういうファッション雑誌がたくさんあります。男性はどうでしょうか?少しでも若く、見せたいですね。それから、何を持っているかであります。学歴や職業というスティタス、そして乗っている車です。アウディに乗ったら格好良いでしょうか。お家は一戸建ての注文住宅、野菜が作れる庭があったらもっと良いですね。休みの日は、クルージングで無人島に行くとか。今のは、みんな空想です。
 それに比べ、地上に来られたメシヤの外見はどうでしょうか?イザヤ書53:1-2「 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」「若枝」は、弱くてすぐにでも折れそうです。「砂漠の地から出る根」は、どうでしょうか?根自体が醜いし、その地が砂漠だったらヒョロヒョロしているでしょう。メシヤは外見から言うと全く話になりません。テレビのCMやニュースキャスターには出られません。イエス・キリストを象徴するものとして、旧約聖書には幕屋があります。神さまとお会いするための天幕、テントであります。幕屋の外側は何でできているのでしょうか?じゅごんの皮であります。じゅごんは、いるかやあざらしに似ている、海に住む哺乳類です。灰色で黒味がかっていてきれいではありません。その下は、赤くなめした雄羊の皮です。しかし、一番内側は、青色や紫糸、緋糸の撚り糸で作られたケルビムが刺繍されています。外側は見栄えのしないじゅごんの皮ですが、内側はとても豪華です。幕屋は、イエス・キリストの外見と人格を象徴しています。
 イエス様はどこで生まれたのでしょうか?ベツレヘムの馬小屋であります。しかも、寝かされたのは、飼い葉桶です。一般に、王様の子どもが生まれるところは、宮殿でしょう。東の博士たちが、宮殿を訪ねましたのも無理はありません。大事なお子さんですから、お医者さんや召使たちが看護するでしょう。それに比べ、馬小屋は不衛生で、何の設備もありません。一体だれが、出産を手伝ったのでしょうか?産湯はあったのでしょうか?しかも、メシヤが育ったところは、ナザレの田舎です。ナザレは昔、アッシリアに滅ぼされ、捕囚にあったところです。ナタナエルは当時の言い伝えを引用し、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と吐き捨てました。イエス様の仕事は肉体労働でした。メシヤだったら、エルサレムで律法を学び、宗教的な儀式を会得するのが本筋でしょう。しかし、イエス様は元大工であり、従えていた弟子たちはガリラヤの漁師たちでした。エルサレムにいた律法学者や祭司たちは、「何の権威があって教えるのか?」と反抗しました。サムエルがイスラエルの次の王様を任命するためにエッサイの家を訪れました。サムエルの前に7人の息子たちが集められました。サムエルは、長男のエリアブを見て、「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いました。しかし、主はサムエルに「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。私は彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべだけを見るが、主は心を見る」と、仰せられました。最後に、野原で羊の番をしていたダビデが呼ばれました。主は「さあ、この者に油を注げ。これがそれだ」と仰せられました。人を外見で判断してはいけないということです。来るべきメシヤも、人が見とれるような姿もなく、輝きもなく、人が慕うような見栄えもありませんでした。これは、1つの罠です。救いは、畑に隠された宝を見出すようなものです。

2.メシヤの扱われ方
 メシヤは人々からどのように扱われたのでしょうか?羨望の的になって、あがめられたのでしょうか?イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」これを読むと、何かの間違いではないかと思ってしまいます。だって、イエス様は神さまの独り子です。預言者たちのような、神さまの使いではありません。キリストは、神さまのあり方を捨てて、仕える姿をとり、人間と同じようになられました。低くなって来られたメシヤを、人々は見下げ、拒絶しました。イザヤ書に何と書いてあるでしょうか?「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。日本では学校や会社でいじめがあります。いじめは日本独特のものかと言うと、そうではないようです。2000前、イエス様がこの地上に来られたとき、いじめがありました。「さげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけるほどさげすまれ…」とあります。「自分はいじめられた、虐待された」と言う人がいますが、イエス様はそれ以上でした。だって、人間を造られた神様が、人間からひどい目に合わされたのです。しかも、イエス様は人類をなんとか救おうと天から降りて来てくださったのです。イエス様は、メシヤ、救世主です。本来なら、尊ばれて当然のお方ではないでしょうか?福音書を見ますと、イエス様も多くの人から慕われ、尊ばれている時もありました。一番の頂点は、5000人の給食の奇跡を行ったときです。ヨハネ6:14-15「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」その後、イエス様は「私は天から下ってきたパンです。このパンを食べる者は永遠に生きます」と言われました。するとどうなったでしょう?「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」と、弟子たちの多くの者が離れ去っていきました。さらに、当時の宗教家たちは「なんとかイエス様を捕らえて殺そう」と機会を狙いました。
 人々は経済的な問題を解決してくれるメシヤを期待していました。また、ローマを倒して、イスラエル王国を復興してくださる政治的なメシヤを期待していました。さらに、神の超自然的な力をもって支配してくださるカリスマ的なメシヤを期待していました。まるで、どこかの国の選挙みたいです。「経済が良くなれば、生活も良くなる」と言われますが、本当でしょうか?「生活が第一」というもの欺瞞があるように思います。大体、「民主主義」という構造自体が問題ではないでしょうか?本来、世界を治めるお方は、創造主なる神さまでなければなりません。私たち人間は、神さまと和解し、神さまが願う政治や暮らしを求めるべきであります。その当時も、今も、世界を救ってくださるメシヤ観はあまり変わっていないように思います。イエス様が、本当の解決について話したら、多くの人たちが去って行きました。そして、最後には、「除け、除け。十字架につけろ!」と叫んだのであります。イエス様は、人々から捨てられ、宗教的な指導者たちから拒絶され、ローマの兵士たちによって殺されました。でも、すぐ、十字架で殺されたのではありません。平手でたたかれ、頭をこずかれ、つばきをかけられ、ひげを抜かれ、さんざん嘲弄ろうされ、鞭打たれた後、こずきまわされた後に十字架につけられたのです。
 ある教会で「イエス・キリストのご生涯」の劇をやったそうです。青年会で最も目立っていた人がイエス様の役に抜擢されました。もう一人の青年がイエス様を十字架につけるローマ兵として選ばれました。しかし、その青年はイエス様役の兄弟を「生意気な奴だ」と普段から憎んでいました。いよいよ、十字架のシーンになりました。ローマ兵がイエス様を平手でたたきました。彼は「うっ」とこらえました。台本にあるので仕方がありません。でも、ちょっと強いような気がしました。そして、彼は十字架に付けられました。その後、ローマ兵がイエス様を罵倒し、顔につばきをかけました。ところが、イエス様役の青年は、「つばきをかけるとは何だ」と真っ赤になって怒りました。そして、ローマ兵役の青年に「ぺっ」とつばきを吐き返しました。ローマ兵も負けじ、とばかり、「ぺっ」とつばきをかけました。イエス様役の青年は、「くそっ」と、再びつばきをかけました。会衆は「イエス様がつばきをかけるなんて聖書にあったかな?」と唖然として見ていました。イエス様役の青年は、十字架に付けられているので手も足も出ません。彼は何と言ったでしょうか?「父よ。私は彼を絶対、赦すことはできません」と叫んだそうです。みなさん、これが現実です。「やられたら、悔しいのでやり返す」これが人間です。ましてや、神の子が、ご自分の民を救うために下って来られたのに、さげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけられるとは、なんという仕打ちでしょうか?悔しくはないのでしょうか?聖書のイエス様は、十字架の上から「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。ご自分を殺すローマ兵やユダヤ人だけではなく、私たち全人類のためにとしなしてくださったのです。

3.メシヤのなさったこと
 しかし、メシヤであるイエス・キリストには目的がありました。たとえ、さげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけられても、なすべきことがあったのです。それは何でしょうか?イザヤ53:4 -5「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」このところに、イエス様が、地上に来られたメシヤとして、私たちのためにしてくださったことが記されています。第一は、私たちの病を負い、私たちの痛みを担ったということです。ヘブル語の聖書には、「弱さと不幸」を負ったと書いています。何故、弱さと不幸が私たちにやって来たのでしょうか?仏教の人たちは、「先祖から来た因果だ」と言います。でも、もっともっと遡ると、その先祖とはだれなのでしょうか?そうです。アダムです。アダムが神さまに背いたために、弱さや病気がやってきたのです。本来、神さまは人間に豊かな命と幸いと喜びを与えたかったのですが、それがなくなってしまったのです。イエス様はそれらを私たちに取り返すために、来られたのです。人となられたイエス様は「深い悲しみと不幸と痛み」を体験されました。だから、今も、私たちを救ってくださいます。第二は、私たちの罪を負ってくださいました。私たちの罪を負われたので、罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのです。また、そむきの罪のために刺し通されたとも書いてあります。そむき罪とは何でしょう?それは、逸脱する、限度を越えること。あるいは、法を破るということです。私たちは神さまが定めた範囲内で生きていれば良いのに、それを越えてしまうことが良くあります。たとえば、車で50キロのところを、70キロで走ってしまうことがあります。また、道徳の問題でも、一線を越えるということがあります。「ハンプティ・ダンプティ」というたまごの物語があります。彼は塀の向こう側が見たくなって、塀によじ登りました。そして、塀から落ちて割れてしまいました。もうだれも彼を治すことができません。「覆水盆に返らず」です。しかし、福音的な物語では、高貴なお方が通りかかって、癒してあげました。イエス様は私たちの罪と背きの罪を赦すために、罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。イエス様は人からだけではなく、神さまからも捨てられたのです。
 さらにイエス様は私たちの咎のために砕かれました。「咎」とは何でしょう?咎とは、「何かを曲げる、何かをゆがめる」という意味があります。たとえば、私の先祖が怒って、親からもらえるはずの財産を放棄したとします。すると、その咎が私にも及んで、本来、受けられるべき財産を放棄してしまうということです。せっかく、もらえるはずの恩恵を、意地を張って「そんなの、いらないよ」と言ってしまう。あるいは自分が主張できる権利を放棄してしまう。そういうことはないでしょうか?フィジーという南国の島があります。いつしか、その島には魚も来なくなり、果実も実らなくなりました。水も苦くなり人々は病気がちになりました。「なぜだろう?何か呪いがあるのでは」と思いました。昔の歴史を調べると、フィジーにはいくつかの部族がいましたが、部族同士で争い、多くの人が死にました。流された血によって土地が呪われてしまったのです。部族の子孫がみんな集まり、悔い改め、キリストにあって一致しました。するとどうでしょう?たくさんの魚が集まり、果実も4倍もの大きさになりました。また、水も良くなり、人々は健康になりました。キリスト教ではそれを変革、トランスフォーメーションと言います。先祖たちの咎、曲げてしまった罪を悔い改めたときに、本来の祝福がやって来たということです。私たちにも家系を伝わる罪があります。離婚、破産、性的罪、癌、摂食障害、中毒や依存症…多くのものは、家系からくる咎が原因していると言われています。私たちはそういうものがあることに気付いたら、自らが代表として先祖のために悔い改めるべきです。そうすることによって、後ろのドアが閉められ、呪いがやってこなくなります。ガラテヤ書3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
 結果的に、メシヤは私たちに何をもたらしてくださったのでしょうか?「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」アーメン。ここに書かれている動詞はすべて過去形であります。メシヤが受けた懲らしめによって、私たちに平和がもたらされました。また、メシヤが受けた懲らしめによって、私たちに平和がもたらされました。私たちの罪の問題、病、咎、呪いがすべて解決されているということです。いつですか?2000年前、イエス・キリストがこの地に来られ、十字架ですべてのものを負ってくださったということです。キリストによって、罪の代価が支払われ、病が癒され、呪いから解放されました。では、私たちに何が足りないのでしょう?信仰によってそれらを受け取るということです。ある人たちは、知らなかったという無知のために、受け取ることができません。また、ある人たちは、頭では知っていたけど、実際に受け取らなかったかもしれません。また、ある人たちは、「私には受ける資格がありません」「私にはいりません」と拒否しているかもしれません。信仰とは見えない手です。神さまが「あなたに罪の赦しをあげますよ。病の癒しをあげますよ。あるいは呪いからの解放をあげますよ。」と言われたとします。そのとき、信仰の手を出して掴む必要があります。聖書を読んでいるとき、あるいは神さまと交わっているとき、あるいは道をあるいているとき、神さまがあなたに語られます。「あなたの病は癒されました」「呪いが砕かれ、平安がもたらされました」。「アーメン、そうですか。信じます。受け取ります。」それで良いのです。たまには思い込みだったりすることもあります。私もそういうことが、何べんもあります。でも、諦めないでください。あるときは、本当に神さまの約束のときがあるのです。私は13年苦しんでいた皮膚病が癒されました。1999年から2012年までの13年間です。何をやってもダメでした。もちろん、医者や薬の助けも借りました。でも、過剰な免疫がなくなり、体質が変わったのです。私に残されているのは、亀有教会が100名を越えて、350名礼拝になることです。「まだ、100名も越えたことがないのに、350名ですか?」同じ神さまの奇跡だったら、1万名でも良いのですが、かなり謙遜しています。みなさん、潮が満ちてきたらそうなります。

あるオフィスの部屋に一枚の絵が掲げられていました。ボートが砂浜の上にあり、オールが砂に突き刺さっている絵です。普通、ボートというものは、海に浮いているものです。ところが、そのボートは砂に埋もれたままです。見ている方が憂鬱になります。しかし、よくよくその絵を見ると、絵の一番下の部分に、何やら絵画のタイトルのような文章がありました。何と書かれていたのかと言うと「潮の流れは、必ず戻ってくる」でした。絵の持ち主の重役は、過去に大変な失望と挫折の中を通りました。そのとき、彼は小さな画廊でこの絵画に出会い、たった数ドルで手に入れました。彼はこの絵をのぞき込むたびに、自分に言い聞かせたのです。「潮の流れは、必ず戻ってくる!」と。メシヤであるイエス・キリストは2000年前、十字架と復活によってすべてを成し遂げてくださいました。あなたの人生に必ず潮が満ちてくる人生がやってきます。流れは良い方向に変わります。

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2012年12月16日 (日)

メシヤのミニストリー   イザヤ61:1-3 

クリスマス、つまりイエス様が、最初に来られた時の目的は何だったのでしょうか?イエス様は5つのミニストリー(働き)をするために地上に来られました。そのことが、メシヤの預言としてイザヤ61章に記されています。しかし、同じみことばがルカ4章にもあります。イエス様ご自身が、宣教を開始されたとき、このイザヤ書を引用して、「きょう実現した」と宣言されました。まず、イエス様は5つの働きを行なうことができるように、聖霊によって油注ぎを受ける必要がありました。メシヤ自体が、油注がれた者という意味です。メシヤはギリシャ語では、キリストです。イエス・キリストは、神さまの奉仕をするために、聖霊の油注ぎを受けたのです。それでは、イエス様のミニストリーを1つずつ学びたいと思います。

1.福音宣教

イザヤ書611「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え」とあります。イエス様のミニストリーの第一は福音を宣べ伝えることであります。でもここに「貧しい人に」と書いてあります。どうして、貧しい人なのでしょうか?マタイ53「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」とあります。他には、「悲しむ者、義に飢え渇いている者、迫害を受けている者たちが幸いである」と言われています。なぜでしょう?そういう人だけが、福音を受け入れるからです。反対に「富む者、笑っている者、みなの人がほめるときは哀れである」と言われています。既に他もので満たされていて、福音を受け入れる余地がないからです。イエス様は貧しい者に福音を伝えたのであります。その点、教会はどうでしょうか?「教育のある人、地位の高い人、金銭的に豊かな人が教会に来たら良い」と思うでしょう。「本当の罪人、精神的に病んでいる人、何かの中毒の人は来られたら困るなー」と思っているのではないでしょうか?イエス様は「私は正しい人を招くためにではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。これはとっても深いおことばです。クリスチャンを長年やっていますと、いつしか、「自分に価値があったから、救われたんだ」と思ってしまいます。もちろん、神さまから造られたのですから、価値があったでしょう。でも、罪の中に失われていて、自分ではどうすることもできませんでした。「いや、私はそんな罪は犯したことがありませんよ」いう人があるかもしれません。でも、心の中で人を妬んだり、憎んだり、見下げたりしなかったでしょうか?泥棒や殺人も罪ですが、醜い心も罪ではないかと思います。当時、最も正しいと思われていた律法学者やパリサイ人、祭司長たちが福音を受け入れませんでした。「自分は正しいので、救い主はいらない」とメシヤを拒絶しました。

 イエス様は弟子たちに「福音を宣べ伝えなさい」と命じました。教会は何のために存在しているのでしょうか?それは、イエス様の命令を行なうためです。当教会にはいろんなセル、小グループがあります。ゴスペル、フラワーアレンジメント、ゴスペルフラ、お菓子部というのもあります。賜物を用いて、何をやっても構いません。でも、「最終的なゴールは伝道ですから」とお願いしています。もし、教会が伝道を忘れてしまうと、次第に内向きになり、数も減り、やがては消滅してしまうでしょう。イギリスとかドイツの教会は余り伝道をしません。多くは国教会であり、人々は生まれた時から教会に属しています。宗教税があり、牧師や司教は公務員です。しかし、日本の場合はそうではありません。「信仰のある人が教会に行く」という、自由教会になっています。逆に、仏教や神道が国の宗教のようになって、キリスト教は外国の宗教と思われています。ですから、日本は当たり前でない、キリストの福音を伝えなければなりません。セールスで言うなら、「家は仏教ですから、結構です」と断られるところから始まります。腕の良いセールスマンは、「まず断られるところからセールスが始まる」と言います。その点、なんと私たちは打たれ弱いでしょうか?一度、断られると、深く傷ついて、もう伝えることをやめてしまいます。どうぞ、自分のときのことを思い出してください。一回で信じたでしょうか?何回も断って、悪態をついたりしてから、信じたのではないでしょうか?そして、「今のままじゃダメだなー」と貧しくなった時に信じたと思います。福音宣教は、イエス様がこの地上で、第一になさったことです。また、イエス様の私たちに対する最大の命令、ミニストリーでもあります。どうぞ、天に召される日まで、福音を宣べ伝えていきましょう。

2.心の癒し

 イザヤ611の半ばに、「心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」とあります。ルカ福音書4章は、「しいたげられている人々を自由にし」とあり、同じことを言っているのではないかと思います。心理学の父はユダヤ人のフロイトと言われています。しかし、彼はクリスチャンではありませんでした。彼はスーパー・エゴという、欲望に動かされる自我というものを強調しました。少し前までは、精神分析が主流でしたが、最近は認知行動療法になりました。また、アメリカでは脳の化学物質が問題で起こるという見地から、様々な薬が処方されるようになりました。昔は「それはノイローゼ(神経症)だよ」と言われましたが、そういう言葉はもうないそうです。その代わり、「○○性パーソナリティ障害」という病名が10種類くらい出てきました。境界性というのは「正常と精神病の間くらい」という意味だそうです。現代は、学校や職場に行けない人がたくさん出ています。勉強や仕事は嫌いではありません。むしろ、良くできる方です。しかし、人との関わりが苦手なのです。戦前、戦後は、生きるために必死でした。心が傷ついたとか、虐待されたなどと言っている暇がありませんでした。親も学校の先生も子どもをよく叩きました。では、精神的に病気の人や傷害の人がいなかったかというとそうではありません。ほったらかしにされるか、あるいは家で隔離されるかどちらかでした。私が小学生の頃ですが、朝礼でみんなが座っているのに、一人の男の子が、ポールを昇ったり降りたりしていました。今でいうADHDだったと思います。私は今なら、学習障害といわれるくらい、落ち着きがなかったようです。先生から一番、叱られました。でも、その原因は人から認められたかったからです。8人兄弟の7番目で、いつもミソにされていました。だから、「自分はここにいるぞ」と過剰にアピールしたのだと思います。

 これまでのキリスト教会は「心の癒し」をほとんどしてきませんでした。「罪があるからそうなるんだ。罪を悔い改めたら癒される」とやってきました。私もホーリネスの神学校に行きましたが、「自我に死んで、キリストに生きれば、新しくなる」と教えられました。キリスト教会は加害者の部分を扱いますが、被害者の部分はあまり扱いません。そのため、救われた後も、怒りが爆発して、人を傷つけしまうのです。なぜなら、被害者の部分が贖われていなかったからです。「この恨み晴らさずにおくべきか!」ということです。だから、似たような人、似たような状況に置かれたときに、「どっかん」と爆破するのです。では、聖書に「心の癒し」が言われていないのでしょうか?箴言423 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。箴言1430「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」聖書は、心と体が密接につながっていることを教えています。心が癒されるなら、体も、生活も変わってくるということです。では、イエス様はカウンセリングをしたことがあるのでしょうか?カウンセリングとは書いていませんが、イエス様は個人的に話されたことはよくあります。ヨハネ3章にありますが、ココデモが夜こっそりとイエス様を訪ねて来ました。イエス様は「あなたは新しく生まれる必要がある」と言われました。ヨハネ4章で、イエス様は水を汲みに来たサマリヤの女性と出会いました。5人と結婚し、現在は6人目と同棲している、したたかな女性でした。イエス様は「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言われました。彼女は「私のしたことを何もかも、言い当てた人がいます」(口語訳)とサマリヤに伝道に行きました。ヨハネ5章には、38年間も病に臥せっている人が記されています。泉が動くのをじっとまっているだけでした。イエス様は彼に「良くなりたいのか」と言われました。彼はブツブツ言い訳をしましたが、床を取り上げて歩きました。イエス様は個人的に出会って、問題を解決して下さいました。いわゆる心理学者と違いますが、人々の心を癒してあげました。

 心理学の手法や化学療法の手助けを得ても構いません。しかし、イエス・キリストご自身がその人の心を癒し、新しい心を与えてくださるのです。私たちはイエス様と当人が出会えるようにお手伝いすることができます。「私がその人の心を癒す」となると、負いきれない重荷を負って、こっちらが潰れるかもしれません。本人が「治りたい」「変わりたい」という気持ちがあるなら、手助けすることは可能です。選択・決断は、あくまでも本人だということを忘れてはいけません。今日もニーズがたくさんあります。私は、セルフイメージの傷、親子関係の傷、苦い根の期待、怒り、恐れ…心の傷の問屋みたいでした。ですから、心の傷の癒しには大変、重荷があります。私たち今も生きているイエス様と一緒に、いのちのみことばを用いながら、心の癒しのミニストリーをすべきであろうと思います。

3.悪霊からの解放

 さらに「捕らわれ人には解放を」とあります。何故、悪霊に縛られる人がいるのでしょうか?イエス様は、地上に来られたとき、人々から悪霊を追い出しました。日本では悪霊(あくりょう)と言いますが、正しくは悪霊(あくれい)です。東洋の国々は精霊崇拝をし、霊的な存在を信じています。日本人も山や大木を拝んだり、死んだ人や動物さえも拝んでいます。あっちの方角や良いとか、こっちの方角が悪いとか言っています。パワースポットみたいな所に好んで行きます。頭では科学を信じていますが、心はアニミズムです。それに比べ、西洋周りで来たキリスト教は霊的な存在を信じません。「キリストが十字架で勝利したので、悪魔は敗北してしまった。だから、もう意識しなくて良い」とか言っています。でも、使徒の働きを見ますと、パウロは悪霊と戦っています。また、エペソ6章では、こう命じています。「最後に言います。…悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」私たちの周りには、目に見えない霊的な敵がいるということです。ここで重要なことは、バランスです。何でも悪霊のせいにしてはいけません。悪霊とは関係なく病気になったり、事故に合うこともあります。多くの場合は、自分の不注意や不摂生が原因しています。しかし、故意に占い師や拝み屋に通うならば、悪霊に対して、ドアを開くことになります。それは、悪魔と契約を結ぶことになるので、注意しなければなりません。

 では、イエス様は悪霊にどのように立ち向かわれたでしょうか?あるとき、イエス様が口をきけなくする霊を追い出しておられました。悪霊が出て行くと、人々は「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と批判しました。イエス様は「どんな国でも、内輪もめしたなら荒れすたれる」と言われました。イエス様はこのところで、はっきりとサタンには国があると言っています。サタンもしくは悪魔は、その国の支配者です。しかし、神さまのように偏在できないので、ピラミッド型の組織によって、この世を支配しています。さらに、イエス様はこう言われました。ルカ112122「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」「強い人」とは、だれでしょう?サタンです。では、もっと強い者とはだれでしょう?イエス・キリストご自身です。イエス・キリストがサタンに打ち勝ち、彼の武具を奪い、分捕り品を分けるのです。分捕り品とは、サタンに捕らわれていた私たち人間です。イエス様が十字架で罪の代価を支払ったので、サタンは私たちを訴えることができません。武装が解除されてはいますが、悪霊が勝手に動いている状態です。ルカ1124-26「汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」ここで言われている家とは、私たち人間の体のことです。悪霊は肉体がないので住むべき家を探しています。たとえば、私たちが不動産に行って家を借りる場合、どのような家を借りるでしょう?おそらく自分の好みやライフ・スタイルに合った家を探すでしょう。汚れた霊も住むべき家を捜して、あちこち歩き回っています。「あ、この家が良い。私の好みにピッタリだ」と家を発見して、そこに入ります。どういう意味でしょう?汚れた霊は、汚れたことをしている人に入るのです。その人が悪霊に入られたので汚れたことをするのではありません。汚れたことをしていたので、汚れた霊が入って、ますますその人は汚れたことを行うのです。私たちは罪や誘惑から離れて、きよい生活をする必要があります。そして自分の家にイエス・キリストを主人としてお迎えし、住んでいただく必要があります。

4.病の癒しと奇跡

 イザヤ書には「囚人には釈放を告げ」とありますが、ルカ福音書は「盲人には目の開かれることを告げるために」と書いてあります。牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネが、イエス様のところに弟子を遣わしました。そして、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも他の人を待つべきでしょうか」と聞かせました。ちょうど、イエス様は多くの人々の病気を癒し、悪霊を追い出していました。そして、ヨハネの弟子にこう答えました。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(ルカ722-23これはどういう意味でしょう?バプテスマのヨハネは「メシヤというものはローマを倒し、イスラエル王国を建てる方だ。しかし、世の中の不正は改革されず、悪者どもがのさばっているではないか。どうして、神のさばきが来ないのか!」と半分、躓いていたのです。しかし、最初に地上に来られたときのメシヤは違います。さばきのためではなく、人々が神の国に入るために、平和の君としてやって来られたのです。「神の国には病気もなく、死もない。身体の不自由な人も完全に回復される」ということを証明しに来られたのです。だから、病の癒しと奇跡は、イエス様にとっては、ご自分がメシヤであることの証拠でした。本物のメシヤだったら、病気を癒し、奇跡を行うのが当然のことだったのです。問題は、「今日の教会でも病の癒しや奇跡を行うべきか」ということでしょう。そのことが、第五番目と関係があります。第五番目のミニストリーこそが、そのことを証明しているからです。

5.恵みの年の宣言

イザヤ61:2主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」「主の恵みの年」とはどういう意味でしょうか?「恵みの年」とは、旧約聖書で言う「ヨベルの年」であります。ヨベルの年とは何でしょう?イスラエルの律法では、7年ごとに土地を休ませる安息年が定められています。その安息年が7度巡った翌年の50年目の年がヨベルの年です。ヨベルとは「雄牛の角」という意味で、この年の710日に角笛を鳴り響かせるところからこの名がつけられたと思われます。ヨベルの年にはすばらしいことが起こります。売却されていた土地が無償で売主のもとに返されました。また、貧困のため身売りした者、つまり奴隷が解放されました。ヨベルの年とは、「回復と解放」ということです。イエス様はルカ4章でイザヤ61章を引用しながら「きょう、実現しました」と言われました。これは「罪に捕らわれていた罪人が、イエス・キリストによって回復と解放がやって来た」ということです。では、私たちが主の恵みの年、ヨベルの年を告げ知らせるとはどういう意味でしょう。これまで、4つのことが言われていました。福音宣教、心の癒し、悪霊からの解放、病の癒しと奇跡、これで十分なのではないでしょうか?5つ目の「恵みの年を告げ知らせる」とは何なのでしょうか?私が敬愛しています、インドネシアのエディレオ先生は、「神の国について語ることである」と言われました。アーメンです。

使徒パウロが最後まで行ったことは何でしょう?使徒2830-31「こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」では、福音宣教だけでは不十分なのでしょうか?不十分です。イエス様は神の国の福音を宣べ伝えました。神の国は私たちが行くべきところ、いわばゴールであります。私たちは罪赦され永遠の命が与えられ、肉体が癒されて、心が癒されたとしても、行くべき場所が必要です。ヨベルの年、恵みの年においては、完全に回復され、完全に解放されるということです。それはやはり、御国においてであります。御国に行ったならば救いが完成するのです。イエス様は主の祈りで「御国が来るように」祈れと命じられました。やがてこの世が終わり、御国が来ます。神の国、御国こそが、私たちのゴールです。しかし、これは将来だけではなく、「この地に、今の私の生活にも御国が来ますように」という意味です。ハレルヤ!私たちはどこにいて、どこに向かっているのでしょうか?御国、天のエルサレムです。イエス様が2000年まえ、何のために、この地上にやって来られたのでしょうか?私たちが罪赦され、神の子となり、永遠の御国を受け継ぐためであります。確かに、今は恵みの時、救いの日です。どうか、救い主イエス・キリストを受け入れ、御国を受け継ぐ者となりますように。

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2012年12月 9日 (日)

義とされる      ローマ3:10-26 

「救い」のことを言う場合、「義とされる」ということが最も重要な要素です。義とされるとは、法的に、神さまから義と認められるということです。私たちの実際の生活や中味には罪があるでしょう。しかし、神さまは、キリストを信じている人に、罪に定めないということです。簡単に言うと、義の衣を頭からすっぽりかぶっているので、罪が見えないということです。たとえば、野口さんは宇宙ステーションで長期滞在したことがあります。彼が船外で作業するときは、宇宙服で身を固めます。そうでないと、死んでしまいます。同じように、義とされるということは、宇宙服を着ているようなものであって、義なる神さまのさばきに耐えられるのです。クリスチャンになるとは、義とされるということですが、それはどういう意味なのでしょうか?

1.義人はいない

 ローマ310-12それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」続いて、ローマ323「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」。これらのみことばは、人類にとって悪いニュースです。私たちは良いニュース(福音)を聞くために、まず悪いニュースを聞かなければなりません。すべての人はアダムの子孫であり、アダムの罪を遺伝子のように受け継いでいます。そのため、私たちは生きているうち様々な罪を犯します。死後は、神の前に立ち、犯した罪のさばきを受ける運命にあります。かなり前の話ですが、教会が伝道のために婦人のためのランチョンを開きました。そのとき、日本語の未熟な宣教師がスピーチしました。さきほど読んだローマ3章からみことばを引用しました。「美人はいない。ひとりもいない。」と言ってしまったのです。人間をニンジンとまで言いました。主催者は青ざめてしまいました。どのようにフォローしたのかわかりません。でも、まんざら当っていないわけではありません。「美人はいない」とは、お顔のことではなく、心のことを言ったのかもしれません?エレミヤ179「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあるとおりです。多くの人たちは姿や顔かたちに神経を使い、心の問題は後回しにしています。姿や顔かたちは一時的ですが、心はもっと重要であり永遠です。その証拠に、結婚したならば、顔かたちはあまり気にならなくなります。もっと大事なのは心であることが分かります。

 「教会は罪人呼ばわりするけど、私はそんな大きな罪を犯していません」と反論する方がおられるでしょう。自分に罪があるかないかは、人と比べても分かりません。ニュースに出てくる人たちと比べたなら、「自分はましな方だな」と思うでしょう。聖書には、その人に罪があるかどうかわかるように、律法が記されています。律法の中心は十戒ですが、第一と第二で、ほとんどの人はひっかかってしまいます。第一戒は、「唯一まことの神を神として敬っているか」ということです。第二戒は、「自分のために偶像を作ってはならない」ということです。しかし、ローマ311「悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」とあります。ほとんどの人は、神を神としてあがめず、感謝もしません。その代わり、滅ぶべき人間や動物のかたちに神を似せて造りました。日本で偶像礼拝をしていない人が果たしているでしょうか?十戒の後半は「親を敬っているか、殺人するな、姦淫するな、盗むな、偽るな、むさぼるな」です。イエス様は「人を憎んだら、それは殺人をしたのと同じだ」と言われました。また、「情欲を抱いて異性を見るなら姦淫を犯しているのと同じだ」と言われました。私などは果たして何十回、何百回、殺人を犯し、姦淫を犯してきたか分かりません。それが、律法です。パウロが言うように、律法のもとではすべて罪人であります。律法を守り行って、神の義を得られる人など一人もいません。私たちは救いを得るためには、どうしても暗い部分を認めなければなりません。キリスト教の救いとは、罪からの救いであります。「罪からの救い」を言っている宗教は、キリスト教の他にありません。ある宗教は「先祖からの因果だ」と言うでしょう。心理学者たちは「罪ではなく弱さです。親や社会が悪いのです」と言うかもしれません。私たちが一番怖れなければならないのは癌ではなく罪です。罪が人々の人生を破壊し、永遠の死に至らせるからです。あなたには罪があるでしょうか?あなたは神の御前で正しい人でしょうか?イエス様は「私は義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」とおっしゃいました。これに納得しないと、次の段階に進むことができません。あなたには罪があるでしょうか?

2.神の義

 ローマ321-26まで、2種類の義が記されています。1つは神ご自身が義であるということです。神さまは100%正しいお方であり、1点の曇りもありません。神の義と人間の義を比べたなら、月とすっぽんであります。たとえば、一生に1回も罪を犯したことのない人がいたとします。その人は正しい、義であると言えるでしょう。たとえそうであっても、それは人間の義であり、神の義には到達できません。一休さんが「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」と言ったそうです。このことばを用いて、宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるということを説いています。でも、それは全くの誤りです。神さまに到達するためには、1つの罪があってはなりません。神さまから、義と認められない限りは不可能なのです。イエス様の時代、神の律法を守る正しい人たちがいました。パリサイ人や律法学者であります。イエス様は何とおっしゃられたでしょうか?マタイ520「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」当時、律法学者やパリサイ人の義にまさる義など他にありませんでした。なぜなら、彼らほど律法を正しく守っている人は他にいなかったからです。でも、イエス様は不可能なことを私たちに教えておられるのでしょうか?そうではありません。実は、もう1つの義があります。ローマ321,22「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」律法を守り行って得る義とは違います。イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義です。一方は行いによって得る報酬のようなものです。報酬であったら、給料のように、当然、いただけるものです。もう一方は信仰によっていただく恵みです。しかし、恵みであったらだれも誇ることができません。この世では、汗と努力で得るものが最も価値あると思われています。オリンピックの金メダルやノーベル賞は、並大抵の努力では得ることができません。それらは人間的に、最も価値あるものでしょう。一方、神の義はキリストを信じることによって与えられる恵みです。しかし、神の義はオリンピックの金メダルやノーベル賞以上のものです。なぜなら、どんなにがんばって、努力しても得られないからです。だから、聖書は、人が義とされるには、神さまの恵みしかないというのです。

 では、どうして神の義が恵みによって与えられるようになったのでしょうか?ローマ324,25「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。」このところに聖書で最も大切なことばが出てきます。なぜ、キリスト教会では、十字架をシンボルにしているのでしょうか?その意味がここにあります。キリスト・イエスによる贖いとあります。「贖い」とは、罪の代価を払うという意味です。その代価とは、キリスト・イエスの血です。イエス・キリストは十字架で、ご自分の命である血を流して、私たちの罪を贖ってくださったのです。父なる神さまはイエス様の血を見て、人類の罪に対する怒りがなだめられたのです。さきほど申しましたが、神さまは義であって、一片の罪をも赦すことができません。必ずさばかなければなりません。しかし、イエス・キリストが私たちの罪を負って、代わりにさばかれたのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」と叫ばれました。まさしく、その時、イエス様は私たち人類の罪を負ったゆえに、断罪され、神さまから捨てられたのです。しかし、そのことによって、神さまの罪に対する怒りがなだめられたのです。そして、神さまは1つの決断をなされました。「御子イエスが全人類の罪の代価を支払ってくれた。これからは、御子イエスを信じる者に、神の義を与えることにしよう。」父なる神さまは、人間が律法を守り行うことはできないということをご存知でした。もともと、律法は救いのために与えられたものではなく、行いでは無理であるということを示すためだったのです。だから、神さまは行いとは別の、恵みによる救いを設けてくださいました。それがイエス・キリストを信じる信仰であります。

 ですから、私たちが神の義をいただいて救われるためには、イエス・キリストを信じなければなりません。では、何を信じるのでしょうか?イエス・キリストが私の罪のために死んで、代価を払ってくださったことです。他のだれかのためではなく、私のためであると信じなければなりません。信じるということの中には、知的同意と、身をゆだねるという2つの意味があります。世の中にはいろんな薬があります。ここにイエス・キリストという薬があるとします。ラベルにその効能が書いてあります。「これを飲むと罪赦され、永遠の命が与えられる。」「ああ、効能がわかりました。同意します」。でも、飲まなければ効きません。もしかしたら、死ぬかもしれないし、気が狂って人格がなくなるかもしれません。「でも、どうしよう?妻がどう思うだろうか?夫がどう思うだろうか?結婚は、お墓の問題は、この世の楽しみはどうなるだろう?やっぱりやめよう」それでは、全く効果はありません。身をゆだねるとは、飲むことと同じであります。イエス・キリストを救い主として、人生の主として受け入れることです。イエス様は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。私は終わりの日にその人をよみがえらせます」と約束されました。みなさんはキリストを飲みましたか?そうするならば、神さまはその人に神の義という救いを恵みとして与えてくださいます。

3.義とされる

最後に義とされるというのはどういう意味なのかお話したいと思います。義とされるとは、キリストを信じた人に、神の義が与えられるということです。パウロはそのことを、義と認められると言っています。ローマ328「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」パウロは義と認められることが、どんなに幸いなことなのかローマ4章と5章に書いています。私たちは聖書から「ああ、キリストを信じるだけで、義と認められるんだ。ああ、そうなのか?」くらいしか思っていないかもしれません。しかし、このことがパウロの後、ずっと長い間、封印されてきたのです。なんと、マルチン・ルターが「信仰のみ」ということを再発見しました。私たちは1517年を宗教改革記念日と呼んでいます。ルターはキリスト教国で生まれ、22歳のとき修道僧になりました。彼は人は一生懸命、修行し、良い行いをしなければ救われないと思っていました。あるときは、血を流しながら膝で階段を上りました。しかし、24歳のとき、「義人は信仰によって生きる」ローマ117のみことばが開かれました。そのとき、やっと回心したのです。しかし、当時のローマ・カトリックでは、まだそのことが開かれていませんでした。ルターは宗教改革のとき、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」の3つを掲げました。そのことが、プロテスタント教会の土台となっています。イギリスのスポルジョンも、ジョンウェスレーも、キリスト教国で生まれました。子どものときから、聖書に触れ、教会にも通っていました。しかし、「信仰によって義とされる」ということが分かったのは、青年になってからです。ジョンウェスレーなどは、牧師をして数年後に、悟りました。ですから、「キリストを信じるだけで、義と認められる」というのは、聖書の奥義であり、最もすばらしい宝物であります。イエス様がマタイ13章で「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです」とおっしゃったとおりです。

 神様から、義とされているということはどんなに幸いなことでしょう?ローマ32428「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。…人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」私たちは行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされました。ある先生は、「私たちはキリストによってすべての罪が赦されました。1つも罪を犯したことのないように正しくされました」と言うかもしれません。みなさん、罪が赦されることと義とされることとは同じでしょうか?神学的に罪の赦しと義とされることは同じではありません。かつての私たちは神様から造られました。その人が罪を犯すとき、造られた位置よりも、低い位置に落ちてしまいます。いわば、マイナスの状態です。では、罪の赦しとはどういう状態でしょうか?もとの位置まで、回復されることです。これは、プラス・マイナス、ゼロの状態です。しかし、聖書が言う「義とされる」は、そうではありません。イエス様を信じて義とされるというのは、もっと高い位置に置かれているのです。神様の御目にかなう、義とされた存在であり、プラス・プラスの状態です。こういうことは現実にないかもしれませんが、1つのたとえです。私がスピード・オーバーして、白バイに捕まりました。「ああ、罰金取られるな」と思いました。すると、お巡りさんが、「あなたは鈴木牧師でしょう。私の家内が教会でお世話になっています。この間、祈ってもらったら病気が治りました。感謝します。」そして、こう言いました。「罰金はしょうがないけど、先生に2万円差し上げます」とポケットから出してくれました。罰金は12,000円でしたが、8,000円プラスになりました。現実にはないたとえでしたが、義とされるとは、こういうふうにプラス・プラスになるということです。

義という漢字はとても良くできています。羊の下に我という字を書きます。羊とは神の小羊であるイエス・キリストのことです。イエス様を信じている人は、頭の上に羊が乗っかっている状態です。頭の上に羊がないならば、我の罪が丸出しになります。でも、頭の上に羊が乗っているなら、神様から見たなら「ああ、あなた義ですね。正しい人ですね」という状態になります。私たちは義という衣を上から着ている状態です。内側はまだ罪がたくさんあり、きよくありません。でも、イエス様から義の衣をいただいているので、義に見えるのです。ある人たちは、「クリスチャンとは罪が赦された罪人であって、世の中の人と全く変わりありません」と言うでしょう。謙遜かもしれませんが、聖書的には正しくありません。もし、「私は罪赦された罪人です」と自分を認識したらどうなるでしょうか?また、罪を犯してしまうでしょう。なぜなら、「自分は罪赦されただけの罪人だから」と思っているからです。フィリピンはカトリックの国ですが、売春婦もマフィアも日曜日、教会に来て罪を懺悔します。「神様、ごめんなさい。また罪を犯してしまいました。どうかお赦しください」と祈ります。罪がきよめられて、すっきりしました。しかし、月曜日から土曜日まで、また同じ罪を犯します。そして、次の日曜日、「神様、ごめんなさい。また罪を犯してしまいました。どうかお赦しください」と祈ります。その繰り返しです。彼らは自分たちが義とされていることを知らないのです。韓国の話です。日本でもほとんど同じかもしれませんが、韓国にも銭湯があるそうです。人々は、お風呂へ入って出てきます。籠の中から衣服を取り出しますが、そのとき、バサバサして、上着の埃を落とすそうです。自分は綺麗になったという自覚があるからです。私たちも風呂に入ったあと、前に来ていた下着をそのまま着るでしょうか?洗濯した綺麗なものを着るでしょう?なぜですか?自分は綺麗になったという自覚があるからです。私たちもキリストにあって義とされた存在です。そういう自覚があるならば、進んで盗みもしないし、嘘もつかないでしょう。もし、罪を犯したなら「ああ、私にはふさわしくないなー」と思うでしょう。そして、義とされている者に、ふわさしい生活をするでしょう。

 義とされているとは、どういう意味でしょうか?ローマ81「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」つまり、私たちはもはやさばかれることがないということです。なぜなら、キリストが私たちの代わりに十字架でさばかれたからです。私たちが死んで御国に行ったとき、神様のさばきの座に立つことはありません。神様のさばきの座の前に立つ人は未信者です。そのとき、神様はその人が犯した1つ1つの罪を責めることはしません。聞くことはただ1つです。「あなたの罪の身代わりになった、御子イエスをどうして信じなかったのですか?」と、その不信仰を責められるのです。なぜなら、罪の問題はキリストによって解決されているからです。でも、クリスチャンは、キリストのさばきの座に立ちます。これは、その人が忠実に生きたかどうか問われるさばきです。これで、さばかれて地獄に行くということはありません。「忠実な人は御国において、10の町、あるいは5つの町を任せられる」という報いのためのさばきです。パウロはローマ8章で何と叫んでいるでしょうか?ローマ833-34「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ハレルヤ!残念ながら、神様が赦しても、自分の良心が赦していない。罪責感で苦しんでいる人がたまにいます。しかし、その良心は間違っています。神様があなたを赦して、義とみなしてくださったのです。だから、自分の心と悪魔に言ってください。「私の良心よ、キリストの血を受けよ。神が私を義として認めてくださった。私を訴える悪魔よ、立ち去れ。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえらされたからである。アーメン。」キリストにあって罪赦されただけではなく、義とみなされていることを感謝します。

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2012年12月 2日 (日)

罪の赦し         コロサイ1:14 

先週から、「救い」についてのメッセージを取り次いでいます。12月はクリスマスがあるために中断しますが、来年からまた再開したいと思います。キリスト教で「救い」というと、最初に取り上げるべきテーマは「罪の赦し」ではないかと思います。なぜなら、私たちの罪が赦されるために、イエス・キリストが十字架にかかられたからです。ですから、「罪の赦し」は「罪の贖い」と言い換えても良いでしょう。だから、コロサイ114ではこのように言われています。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」

1.赦しの代価

 一般的に使われる「許し」は許可するとか、賛成するという意味のことばです。たとえば、このように使います。「だれの許しを得て、この部屋に入ったのですか?」「いや、ドアが開いていたので、ちょっと入ったんです。どうか許してください」。これは、軽い意味の許しです。しかし、キリスト教会でよく言われるのは「赦し」のほうです。赦免と言うときの「赦」です。赦免は罪や過ちを許すことであります。そして、この「赦し」は許可という意味の「許し」よりも、もっと重たいものです。なぜなら、罪が赦されるためには、同等の代価や代償を支払う必要があるからです。たとえば、子どもが石を投げて、私の家の窓ガラスを割ったとします。その子どもがやって来て「ごめんなさい、ついうっかりして」と謝ったとします。私は「そうか、子どもがやったことだからな」と許したとします。けれども、窓ガラスをそのままにしておくなら、雨や風が入ってくるでしょう。そこで、私はガラス屋さんを呼んで修理してもらって、1万円くらい払うかもしれません。つまり、こういうことです。私が子どものしたことを許すといった場合、1万円を自分が弁償しなければなりません。「ああ、子どもの親に弁償させれば良かったなー」と後悔するかもしれません。罪というものもそれと同じで、だれかが代価を支払う必要があるということです。この世においても、「贖罪」ということをたまに聞くときがあります。今から25年くらい前、大韓空港機が爆破され、115人の死者を出しました。そのとき、金賢姫(キム・ヒョンヒ)が工作員の一人として捕らえられました。彼女は後で特別赦免を受け、自由の身になりました。そのとき、彼女が言った「贖罪」ということばが新聞に大きく載っていました。今でも彼女は「金賢姫元死刑囚」と呼ばれています。本来だったら、死刑になるはずの人が、特赦(特別赦免)を受けたのです。

 私たちもある意味では、特赦を受けた者です。なぜなら、アダム以来、罪を犯した人は神の前にさばかれて、地獄に行くことが決まっていたからです。しかし、キリストが十字架で罪の代価を支払ってくださったので、特赦を受けたのです。でも、キリストの十字架がなぜ、私と関係があるのか、知らない人がほとんどではないでしょうか?そのためには、私たちは旧約聖書を読まなければなりません。レビ記には罪を犯した人が、どのように赦されるか克明に記されています。旧約聖書で罪という場合、おもに3つあります。1つは罪過、つまり自分が犯した様々な罪です。2つ目は汚れです。これは道徳的な罪ではなく、儀式的なものです。3つ目は咎です。咎は罪と似ていますが、「外れている」「曲がっている」という意味があります。先祖から受け継いでいるものを咎と言ったりします。私たちはこういう罪があるために聖なる神さまに近づくことができません。レビ記にはこういう罪を赦していただくために、羊や山羊や牛を祭司のもとに連れてきます。その人は動物の上に手を置いて、自分の罪を告白します。次に祭司は動物をほふり、その血を祭壇の周りに注ぎかけます。さらには内臓や脂肪を焼いて煙にする場合もあります。しかし、もっとも重要なのは、動物が命である血を流すということです。本来なら、自分が死んでお詫びをしなければならないところを、動物が死ぬわけです。その様子を見た人は「ああ、罪はただでは赦されないんだ。もうやめよう」と思うでしょう。旧約聖書ではこれが数限りなく行われてきました。しかし、御子イエス様が「罪を取り除く神の小羊」としてこの地上に来られました。ヘブル91226「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。…しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」イエス様はご自分の血を流すことによって、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げてくださいました。ですから、もう動物のいけにえは不要になったのです。私たちはキリストの血によって罪赦され、神様に近づくことが許されるようになりました。これが新約、新しい契約です。

 しかし、1つ考えるべきことがあります。罪の代価をだれに払ったかであります。「贖う」はギリシャ語ではアゴラゾーと言います。当時、ローマやギリシャ時代は奴隷が市場で売られていました。アゴラゾーの正確なニュアンスは「奴隷市場の中で、奴隷の代価を払う」ということです。イエス様は、まだ奴隷市場の中で解放されていない人たちのためにも代価を払っているということです。一番妥当なのは、「ああ、そうですか。ありがとうございます」とそこから出てくることではないでしょうか?また、「贖い」は英語で、ransomということばも良く使われます。これは捕らわれ人を解放するための身代金という意味です。この世では、人質の解放のために身代金を払わされることがあります。では、「イエス様は十字架で罪の代価を支払いましたが、一体だれのためか」ということです。ある人は、身代金はサタンに支払われたと言いました。しかし、サタンは私たち以上に罪を犯しているので、その権限はないはずです。では、その代価は、神さまに支払われたのでしょうか?そうなると十字架は神さまの自作自演ということになります。確かに神さまなのですが、神さまの何なのでしょうか?この問題を解き明かすのが「なだめ」という言葉です。Ⅰヨハネ22「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」「なだめ」と聞くと、何だか異教的に聞こえます。神さまの御怒りをなだめるために、犠牲をささげるという感じがします。「なだめの供え物」というギリシャ語の意味は、贖罪所という意味で、契約箱の黄金の蓋のことです。そこに、年1回大祭司がいけにえの血を注ぎます。蓋の両側には、羽を広げた黄金ケルビムがおり、二人で見ている格好になっています。これはどういう意味でしょう?神さまは義なるお方ですから、一片の罪も赦すことができません。「良いよ、何でも赦すよ」と言ったら神さまではなくなります。義なる神さまは、罪であるなら必ずさばかなければなりません。しかし、同時に神さまは、愛なる神さまですから、罪を赦して救ってあげたいのです。この矛盾をどのように解決できるでしょうか?そのために、御子イエスが身代わりに死んで、ご自分の血を流したのです。神さまはその血を見て、満足され、その結果、罪に対する怒りがなだめられたのです。では、代価はだれに支払われたのでしょう?それは、神ご自身の義であり、神の律法に対してであります。神さまは御子イエスの死によって、罪に対する怒りがなだめられ、キリストにあってすべての人を赦すことをお決めになられました。もう、神さまは私たちの個々の罪には、怒ってはおられません。神さまが一番、関心があるのは、罪を贖われたキリストをどうするかです。罪を贖われたキリストを信じない罪こそが、もっとも大きな罪なのです。やがて人々が神さまの前に立つときがきます。神さまが一番先に問われるのは、「あなたはどうしてキリストを信じなかったのですか」ということです。キリストが十字架にかかってから、罪の概念が全く変わりました。キリストを信じない、不信仰の罪が最も大きな罪なのです。

 イエス様は十字架でいくつかの言葉を発せられ、これらが福音書に載っています。それぞれの記者たちが、これがもっとも大切だと思ったものではないかと思います。ヨハネはこのことばを書き記しました。ヨハネ192830「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。…イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」このところに、「完了した」と二度書かれています。一体何が完了したのでしょうか?「完了した」はギリシャ語でテテレスタイという言葉です。これは商業用語で「支払った」という意味です。動詞の時制から正確に言うなら「ある時に支払いが完了し、その結果が今も影響を与えている」ということです。まさしく、さきほどヘブル9章を引用したように、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げたということです。イエス様はどれくらいの代価を払ってくださったのでしょうか?全人類のためです。これから先に生まれ出てくる人の分もです。私たち個人で言うなら、過去の罪、現在の罪、そして将来犯すであろう罪のために代価を支払ってくださったのです。いわば前払いです。「あなたはクリスチャンになってからも、こう言う罪を犯すだろう。でも、その分も私は支払っておくよ」ということなのです。キリスト教を国教にしたのは、コンスタンティヌス帝です。しかし、彼は死の直前までは洗礼受けなかったそうです。その当時は、洗礼以前の罪は知らないで犯したのだから赦される。しかし、洗礼後に犯した罪は自分で償う必要があるいう教えがありました。それで、洗礼を受けなかったのでしょう。でも、そうではありません。イエス・キリストは私の罪、そしてあなたの罪のために十字架で死なれ、過去の罪、現在の罪、そして将来犯すであろう罪のために代価を支払ってくださったのです。ハレルヤ!一番の問題は、このお方をどうするかです。

2.赦しの中に生きる

 後半は、イエス・キリストの贖いを信じた人がどのように生きるべきか、ということです。私たちは毎週、日曜日、このように礼拝を捧げています。これは私たちの罪のために十字架につき、私たちが義とされるために三日目によみがえられたキリスト様をたたえるためです。私たちは神様に感謝と賛美をささげるためにここに集まっているのです。ある人たちは仕方なくて、日曜日、教会に来る人がいるかもしれません。「なぜなら、聖日礼拝厳守と言われ、礼拝を守らないと天国に行けないので、顔つなぎに来ています。」そういう人はおられるでしょうか?子どもの頃、夏休みにラジオ体操がありました。休むと先生から怒られるので、ハンコを押してもらうために行ったという記憶があります。でも、礼拝に来たらハンコを押してあげた方が出席率がアップするかもしれませんね。ローマ・カトリックは私たちの礼拝と少し異なります。礼拝ではなくミサと言います。ミサ自体は元来、「祭り」という意味ですから、問題ありません。でも、ミサの中には「キリストの犠牲が今も繰り返されている」という解釈です。つまり、今も、キリストは罪を赦すために、血を流しておられるということです。だから、ローマ・カトリックの教会には十字架に磔殺されたイエス様が飾られています。イエス様の御姿を見て、人々は罪を懺悔するのです。そして、「聖体」と言われるパンを食べて帰ります。それで、罪がきよめられて、また新しい一週間をはじめます。しかし、次の週、また罪を懺悔するために、教会堂に集まります。そして、磔殺されたイエス様から罪の赦しをいただきます。プロテスタントは犠牲の伴ったミサをあげることに反対しました。なぜなら、「キリストは一度で、すべての罪を贖った」という聖書のことばを信じているからです。罪を贖われたイエス様は、三日目に復活し、今は神さまの右の座に座られています。イエス様は今、何をなさっておられるのでしょうか?ローマ834「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」Ⅰヨハネ21後半「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」ハレルヤ!イエス様は今、父なる神さまの右におられ、「どうか私の贖いのゆえに彼、彼女の罪を赦してください」と弁護しておられるのです。ハレルヤ!

 神さまはどれくらい私たちの罪を赦しておられるのでしょうか?詩篇103:8,12「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。…東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」昔の人たちは、地球が大きな平面であると考えていました。その下には、地の基を支えている台座があります。上にはドームのような天蓋があります。星があり、また天の窓があります。彼らは地上が平面なので、東と西は永遠に交わることがないと考えていました。だから、神さまは私たちの罪を東から西へと遠くへ投げてくださったのです。だからもう、神さまは私たちの罪を二度と思い出すことをしないということです。ああ、それなのに、それなのに私たちの良心が、私たちを訴えるので罪責感にさいなまれることになります。でも、良心だからと言っていつでも正しいわけではありません。ヘブル人への手紙には「良心」ということばが何度も出てきます。ヘブル1022「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ここに「邪悪な良心」とありますが、どんな良心でしょうか?それは、「罪のために曲げられ、罪のゆえに絶えず告訴する良心」のことです。神さまがみことばをもって、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださっています。しかし、あなたの良心が、「いや、いや私の罪は大きすぎて、簡単には赦すことができない」と訴えることです。ものすごく傲慢ですね。神さまがおっしゃることと、自分の良心が言うこと、どちらを信じるべきなのでしょうか?仏教の教えでは、おそらく、「あなたは、その罪責を一生、負い続けなければならない」と言うでしょう。ある人たちは、自分が犯した罪のゆえに、幸せになってはいけない」と信じています。水子地蔵というのがありますが、お母さんたちは、自分が生きている限り、供養するのではないでしょうか?

 関西の有賀先生がこのようなお話をされました。あるところに一人の姉妹がいました。初孫が生まれて、自分がおばあちゃんになりました。赤ちゃんの白くて小さな足を見て、心の中に何か違和感を覚えました。それからと言うもの、毎晩、赤ちゃんの白くて小さな足が夢の中に出るようになりました。それも、4つです。なぜ、4つの足が毎晩出てくるのだろう?そのとき、はっと思い出しました。おばあちゃんは若い頃、2人の子どもを堕胎したことがありました。もう、何十年も昔のことなので、すっかり忘れていました。しかし、昔の罪を思い出したため、4つの足が毎晩出て、苦しむようになったのです。とうとう、困ってしまって有賀先生のところを訪ねました。「姉妹、イエス様の前に罪を告白しなさい。」と言われました。そして、姉妹はそのことを悔い改めました。続いて、先生は「イエス・キリストの血潮によって、あなたの罪は赦されています。姉妹を苦しめている悪魔よ、立ち去れ。キリストの血潮によって良心がきよめられるように。アーメン」と祈りました。昔のメッセージなので、正確には覚えていませんが、先生はそのようにお祈りしたそうです。翌日、おばあちゃんから電話がありました。「先生、出なくなりました。一週間ぶりにぐっすり眠れるようになりました」。邪悪な良心は悪魔にやられて、あなたを訴えるかもしれません。大体、罪を訴えるというのは、悪魔の仕業です。キリスト様がすべての罪を赦されたのだったら、だれがあなたを訴えることができるでしょうか?ですから、私たちは自分の良心にもはっきりと教えなければなりません。「私の良心よ、絶対者なる神さまが赦されたのだから、私を赦しなさい。アーメン。」そうすると、きれいさっぱり、きよめられます。大切なのはキリストの血潮です。キリストの血によって私たちの罪がきよめられたのです。また、同時に、キリストの血が私たちの邪悪な良心をきよめてくださるのです。ですから、私たちは良心の咎めが去って、心おきなく恵みの座に近づくことができるのです。

 あるご婦人が「私の罪は大きすぎて、神様も赦してくださらないでしょう」と言いました。牧師先生は彼女に「今から、目をつぶって想像してみてください。深い湖へ、ボートに乗ってでかけましょう」と言いました。「今からボートに乗りますが、その前に、大きな石と小さな石を1個ずつ持ってください。持ちましたか?…今、ボートを漕いで、湖の真中辺に来ました。さあ、最初に小さな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、ちゃぽんと音がして、小さな波紋が立ちました」。「小さな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。「次に、大きな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、ざぶんと音がして、大きな水しぶきが立ちました」。「大きな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。牧師先生が言いました。「小さな罪は小さな被害を、大きな罪は大きな被害を与えました。しかし、神さまはどちらの罪も赦してくださいます。神様の前では、大きな罪も小さな罪も関係ありません。」

 私たちは日々、キリストの赦しの中を歩む必要があります。では、どうしたら罪の赦しの中を歩むことができるのでしょうか?イエス様はご自分が十字架にかかり、罪の代価を支払ってくださいました。でも、私たちは罪に満ちた地上で生活していますと、罪を犯してしまいます。わざとではありませんが、弱さや過失ということがあります。Ⅰヨハネ19はクリスチャンに対するみことばです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。それでも、また罪を犯して、だれかがあなたを訴えたらどうするでしょうか?Ⅰヨハネ21「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」そうです。悪魔が私たちを訴えたとしても大丈夫です。なぜなら、私たちには御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。すでにイエス様はなだめの供え物となって、前もって代価を払っておられるからです。天国の銀行には、赦しのための多大な預金があるので、一生涯大丈夫です。もしも、昔の罪やトラウマが浮かんだときは、神さまを礼拝する時とすれば良いのです。私たちはイエス様の血によって、大胆に神さまのところに近づくことができます。「イエス様、あなたの血潮で心を聖めてください。主よ、あの罪も、この罪も赦してくださりありがとうございます。主よ、あなたを礼拝します。ハレルヤ!」どんなときでもイエス様を礼拝し、みことばとイエス様に留まり、罪の赦しの中を歩み続けましょう。

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