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2012年11月18日 (日)

~八福の教え~    亀有教会教育牧師 毛利佐保

<マタイの福音書 5312節>

5:3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、

   あなたがたは幸いです。

5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

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本日は鈴木先生が湘南教会の方にご奉仕に行かれているので、僭越ながら私が御言葉を取り次がせていた

だきます。

マタイの福音書にはイエス様の教えが5章~7章にかけてまとめて記されています。ここは「山上の説教」、または「山上の垂訓」と呼ばれています。その「山上の説教」では、イエス様は「天の御国」についての倫理について語られています。例えば、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」とか、「天の御国に入る人とはこういう人です。」とか、「天の御国はからし種のようなものです。」と、イエス様は、様々なたとえを用いて天の御国の奥義について語ってくださいました。このように、イエス様の教えは外面的な法律とか、道徳の類ではなく、人間の行為の原理、あるべき姿、心の内側や動機に関するものです。

また、この「山上の説教」の教えはルカの福音書には随所にちりばめられて記されています。マタイ52節の「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた」の「教えて」はギリシャ語では evdi,dasken (エディダスケン)と書かれていて、この言葉は、繰り返して行われる習慣的な行為を表しています。そのことから、この「山上の説教」はただ一回だけ語られたのではなく、繰り返して、様々な場所で語られたということになります。

マタイはそのイエス様が語られた数々の説教を「山上の説教」として、5章-7章にまとめたようです。

先ほど読んでいただいた聖書個所は、その冒頭の部分になります。ここでは「幸いです」という言葉が9回繰り返されています。9回目の「幸いです」は、8回目の幸いの説明になるので数には入れず、この箇所は八つの幸いについての教え、「八福の教え」と呼ばれて広く親しまれています。この「八福の教え」は、イエス様の時代から現代に至るまで、私たちに対して、慰め、憐み、励ましを与えてくださる御言葉です。

時間が許されるなら、ひとつひとつの教えについてお話したいところですが、そうなると、神学校の講義みたいになってしまいそうですので、今日は八福の中から抜粋して、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「あわれみ深い者」の4つについてみなさんと見て行きたいと思います。

①「幸い」とは神に祝福されること。

みなさんにとって「幸せだなぁー」と感じる時とは、どのような時ですか?

これからの季節だと、寒さに震えて家に帰ってきて、温かい食事をいただいた時に「あ~幸せだなぁ」と思ったり、温かいお風呂に入ってほっとした時に幸せを感じたりするのではないでしょうか。

また、仕事や学校でいい事があったり、趣味に没頭している時とか、それぞれ幸せを感じる時はあると思います。

また霊的な部分では、祈っている時、聖書を読んでいる時、イエス様を近くに感じられる時が幸せだと思うことでしょう。

ではイエス様がここで言われる幸せとはどのようなものでしょうか。

この八福の教えで「幸いです」と訳されている<ギ> maka,rioj (マカリオス)は「神に祝福されている、恵まれている」という意味です。原文では 「ああ、なんと祝福されていることよ」 とイエス様は「ああ」と感嘆の声をあげておられます。それは、はかないこの世の幸福のことを言っているのではなく、この世の何ものによっても取り去られることのない神様の祝福の素晴らしさに感嘆の声をあげておられるということです。

それでは、「5:3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」を見てみましょう。

この「心の貧しい者は幸いです」というみことばを読んで、「なんで心が貧しいと、幸いなのかな?」・・・っと実は

長年ずっと疑問に思っていたけれど、今さら聞けなかった!・・・という方が、もしかしたらこの中にいらっしゃるかも知れませんが、聖書のことばには理解しにくい個所がたくさんありますので、遠慮なく牧師とか聖書に詳しい人に聞いてください。

この「心の貧しい人」というのは、心の狭い人とか、不親切な人という意味ではなく、神様の前では自分は無一文で貧しい者であるということを知っている人、また物質的な富は無意味であるという事を知っている、敬虔な人という意味です。しかしイエス様は、贅沢をするなとか、清く貧しくありなさいとか言われているわけではありません。

むしろ単に物質的に貧しいだけでは「天の御国は」遠いのです。

“心の”貧しい人とイエス様は言われました。大切なのは“心”の状態です。

ここでは、自分の心の高ぶりや貧しさに気付いている人の事を幸いだとイエス様は言われました。

また、「5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」というみことばを読んで「なんで悲しむと幸いなのかな?」・・・っと実は長年ずっと疑問に思っていたけれど、今さら聞けなかった!・・・という方が、もしかしたらこの中にいらっしゃるかも知れませんが、聖書のことばには理解しにくい個所がたくさんありますので、遠慮なく牧師とか聖書に詳しい人に聞いてください。(笑)

の「悲しむ者」について、ある人は「それは“死に対しての悲しみ”のように大きな声で泣き悲しむことである。」と言いました。私たちの人生には多くの喜びと共に、悲しみもあります。中でも、大切な人の“死”というものは、本当に悲しいものです。

創世記に書かれているように、アダムとエバがサタンの誘惑に負けて神に逆らい、堕落してしまった時から人には“死”が訪れるようになりました。人間誰でもいつかは、死にます。しかしその死も、十分に生きてこの世の使命を果たしたというのではなく、若くして亡くなったり、突然事故で亡くなったり、自殺で亡くなったりという死であったなら、ショックから立ち直るまでにはたくさんの慰めと、時間が必要です。イエス様もこの“死”に対してヨハネの11章のラザロの死の個所で“憤り”を覚えられ、涙を流されました。

旧約聖書のイザヤ書には、この「心の貧しい者」それに続いて「悲しむ者」について預言されています。

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イザヤ書 61:1-3

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」(新改訳)

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ある神学者はこのイザヤ書の「悲しむ者」について、このように言いました。

「ここで語られていることは、ただの人間の悲しみではありません。救いを受け、さいわいである、と言われている人の悲しみであります。信仰生活をしている人の悲しみであります。」

と、この悲しみは、キリスト者のものであると言っています。みなさんはどう思われますか?

たしかに、キリスト者の立場からすると、自分の大切な人が亡くなるのは悲しいですが、イエス様の救いを受けずに亡くなったとなると、更に悲しみは深いものとなります。また、聖書の教えとは違った考えで、この世が罪に満ちた世界になってしまっていることについても深い悲しみを覚えます。

イエス様はそのような人に対して、幸いだと言われました。なぜなら「その人は慰められるから」です。

「慰められる」というのは受け身の言葉です。それなら慰める人がいるはずです。だれから慰められるのでしょう。

それはいうまでもなく神様です。天の父なる神様が、神の御子であるイエス様が、慰め主である聖霊なる神様が、私たちを慰めてくださるのです。私たちは人間の慰めには限界があることを知っています。だからこそ、主に寄り頼みます。ですから、悲しむ者は幸いなのです。

②イエス様の慰めと憐み

「悲しむ者」ではイエス様の慰めについてお話しましたが、次にすこし飛んで第五の幸いであるマタイ5:7 「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」からイエス様の憐みについて見てみましょう。

「あわれみ」という言葉は、日本語だと何となく「ほどこし」といったイメージがありませんか?現に広辞苑をひくと、「憐み」は「ふびんに思う。同情する。」また、「慈悲の心をかける。めぐむ。」と書かれていました。ですから、「あわれみ深い者」というと、一生懸命慈善事業に力を入れている人を指すように感じますし、どうも上から下に向かってめぐんでいる感じがします。

英語ですと、この憐みは“Merciful”(情け深い、安堵を与える) とか、“sympathetic”( 同情に満ちた、思いやり、慰め、共感、好意)と書かれていて、英語の意味は日本語よりも幾分お互いが同等の立場での意味になっています。日本語ではそういうこともあって、新改訳聖書や、口語訳聖書は「あわれみ」をひらがなで表記しているのかもしれません。ちなみに共同訳は漢字の「憐み」です。

では、原語のギリシャ語ではどうでしょうか。

このマタイ57の、「あわれみ深い者は幸いです」の聖句には<ギ>evleh,mwnエレーモン)という言葉が使われています。この言葉は、他にはへブル2:17にしか使われていません。へブル書の方は主イエスご自身について「あわれみ深い」と言い表しています。

つまりこの「あわれみ(憐れみ)」とは神のご性質を表し、神様、イエス様ご自身のことなのです。罪深い私たちは神の憐れみをもってでしか、人を赦したり憐れんだりすることはできません。

ですから、「憐み深い者」となるには、神様にまず憐れんでいただく必要があります。

詩篇37:21には「悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。」と書かれています。ここでの“正しい者”とは、神を信じ、慕い愛する者のことです。神を信じる者は神から憐みを受け、情け深く、人に施すことができるのです。ですから、あわれみ深い者は幸いなのです。

③イエス様と同じ思いを持ちましょう

今までお話ししてきた「心の貧しい者」「悲しむ者」「あわれみ深い者」の幸いというのを見て行くと、この「幸い」は、は、“すべての人”に与えられているのではなく、“イエス・キリストを信じた人たち”だけに与えられている特権のような感じがしますが、はたしてそうなのでしょうか。

少し戻り、第三の幸い、マタイ5:5 「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」を見てみましょう。

「柔和」という言葉はギリシャ語では<ギ>prauj (ホプラユス)という言葉で書かれています。

英語では gentle ですが、決して“自発的にへりくだる者”というだけではなく、むしろ影響力や権力に関して無力、無欲な者という意味があります。マタイの福音書ではさらに2回この言葉が用いられていて、他の福音書には出てこない言葉で、イエス様に適用される形容詞として使用されています。

この言葉は、以下の2か所に使われています。

<マタイ11:2829

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(口語訳)

<マタイ21:5

「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に

乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(新改訳)

後半の聖句はエルサレム入城の時のイエスさまの事です。私たちの王となられる方は、「柔和」な御方で、荷物を運ぶろばの子の背に乗ってくるような方です。この世の権力や影響力に対して無力、無欲な方、その方が「地を相続するだろう」と記されています。

人間の感覚では「地を相続する」というと、世的な成功や権力を手にするようなイメージで考えてしまいますが、

ここでいう“地”とは「神の相続地」という意味です。

私たちも「柔和な者」であるならば、「神の相続地」を与えられるという幸いがあるということです。

ここで、先ほどの、この「幸い」は、は、“すべての人”に与えられているのではなく、“イエス・キリストを信じた人たち”だけに与えられている特権のようですが、はたしてそうなのでしょうか。という問いかけに戻りたいと思います。

イエス様は、誰に向かってこの説教を語られたのかという事を考えてみましょう。

メッセージの冒頭にも言いましたが、イエス様は、未信者や異邦人を含む群衆に向かって evdi,dasken (エディダスケン)、繰り返し教えられました。

それはすべての人々にこの幸いを受けてもらいたいと願っておられたからです。 

この教えを聞いていた群衆というのは、「信仰者」だけではありません。ただ、イエス・キリストの有難い説教を聞いてみたくてやって来た人々。あるいは奇跡のうわさを聞いて身体を癒してもらいたくてやって来た人々もいたでしょう。ただ物珍しくて興味本位で集まっただけの人々もいたでしょう。中には異邦人もいたかもしれません。

当時のキリスト者は“ユダヤ教ナザレ派”というユダヤ教の中の一派に過ぎませんでした。イエス様の教えを聞く群衆たちはイエス様のことを、「ちょっと変わった教えを説いては、奇跡を起こすユダヤ教のラビ(指導者)」だと思っていたはずです。キリスト教がユダヤ教とは別のものとして認知されていくのは、もう少し後の時代で、この時は十字架よりも前の話です。

このようにイエス様は、天の御国の奥義が理解されない時代であっても、繰り返し、様々な場所で群衆たちに天の御国の幸いについて語られ、すべての人が幸いを受けられるように働きかけてくださいました。

また、イエス様はキリスト者に対しても望まれておられることがあります。それは、主と同じ憐みの心を持つことです。イエス様は、イエス様がなさったように、繰り返し周りの大切な人たちに福音を伝えることを望まれておられます。イエス様の憐みを受けたキリスト者が、憐みの心を持って、大切な人々にも<ギ> maka,rioj (マカリオス)幸いを受けていただくために働くのです。

いよいよ来月はイエス様の降誕を祝うクリスマスです。イエス様はこの地に平和の子として、貧しい姿で生まれてくださり、私たちに柔和なお姿を見せてくださいました。イエス様は私たちを祝福し、八福をくださろうとしています。ですから、私たちもイエス様と同じ思いを持って、すべての人々が幸いを受けることが出来るように、イエス様に全信頼をおいて神の栄光をあらわして行きましょう。

今日の午後1時から亀有ゴスペルクワイヤーは、アリオ亀有でライブをして福音の種まきをして来ます。

このチラシを配って誇りをもってイエス様の恵みを伝えたいと思っています。実は、このチラシを作る時、ある攻撃がありました。このチラシは毎年、カラミちゃんというKGCに所属していたイラストレーターの方がデザインしてくれています。現在は大坂在住なので、メールでやり取りして作成してもらっています。そして、毎年、ポスターにして亀有駅に張り出すのですが、その駅ポスターの審査で引っかかってしまいました。

この駅ポスターに関しては、毎年鈴木先生が駅ポスターの会社とやり取りをしてくださっているのですが、なんとこのスカイツリーが知的財産権を侵すといって、「許可を得ていなければこのデザインではお受けできません」と、駅ポスターの担当者から言われたらしいのです。

私はびっくりして、カラミちゃんに相談しましたら、このようなスカイツリーなしのなんとも味気ないデザインに変えてくれました。しかし、近隣に配るこのチラシは2500枚発注してしまったあとでしたので、修正できません。そもそも入場無料の小さなコンサートなのに、こんなに厳しいのはおかしくないか?と疑問に思いつつも、東京スカイツリーライセンス事務局のHPに行くとこう書かれていました。

「東京スカイツリーに関する知的財産(名称・ロゴマーク・シルエットデザイン・完成予想CG)は、東武タワースカイツリー株式会社等の著作権・商標権により保護されております。使用に関しては、東京スカイツリーのイメージ維持のため、東京スカイツリーライセンス事務局で管理しております。これら知的財産は事務局の許諾なしに使用する事はできません。商品化や広告・販促での活用など、東京スカイツリー知的財産のご使用に関するお問合せは、下記事務局までお願いいたします。」

スカイツリーって結構厳しいんですね・・・。私は悩みました。問い合わせてみて、もし駄目だと言われたら、2500枚のチラシのスカイツリーの部分をオレンジのマジックかなんかで塗りつぶさなければならないのだろうか。せっかくのデザインが台無しになるのも嫌だし、以前誤植で何千枚もマジックで修正したことがあるのでその大変さを思い起こしながら、それだけは避けたいと思いました。

それで一旦は問い合わせるのを辞めて、アリオでは知らんぷりをして配ってしまおうと思ったんですが、現実派の息子清志に、「クレームが来て賠償しろとか言われたらどうすんの?」と言われ、考え直しました。

でも私が考え直したのは、賠償うんぬんというよりも、「イエス様の福音を、びくびくしながらではなく、堂々と誇りをもって伝えたい」という思いがむくむくと起き上ってきたからです。どういう結果が出ても、堂々としていたいと決心して、チラシを添付して、事務局に問い合わせましたら返答はこうでした。

「毛利さま お世話になっております。本件、権利元とも確認致しまして背景の部に入れて頂いているのみですので問題ございません。ご連絡頂きまして、ありがとうございました。どうぞ宜しくお願い致します。」

おお~~~!!ハレルヤ!!堂々と配れる!!

なんか勝利した気分でした!!

みなさま、イエス様と同じ思いを持って、ぜひこのチラシをいろんな所に配ってください。多くの人が神様の幸いを得ることが出来るように共に働きましょう!!

イエス様は「八福の教え」の最後、マタイ5:11-12でこのように私たちを励ましてくださっています。

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」

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