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2012年11月25日 (日)

十全的な救い    マルコ5:25-34

キリスト教会では、一般的に、救いというと「罪が赦されて天国に行けることだ」と言います。そして、「やがては、天国に行けるのだから、病気や貧しさ、多少の悩みも我慢しなさい」と言うでしょう。では、毎週、日曜礼拝に来るのは、天国まで持つために気付け薬をもらうためでしょうか?ギリシャ語で「救い」はソーテリアと言いますが、一般的には、死、危険等から救われるという意味です。病気が癒されること、無病息災、安寧幸福も救いです。奴隷状態や敵の手からの救いもあります。それが、やがて「救い主によって与えられる罪と滅亡からの救い、永遠の生命の祝福」という意味になりました。しかし、聖書では救いはもっと広い意味があります。これから24回に渡り、聖書が言う救いについて学んでいきたいと思います。きょうのメッセージはその全体を示す序章となっています。

1.この女性の苦しみ

 この女性は、12年間、長血をわずらっていました。婦人病であり、いつも痛みがあり、貧血気味でした。レビ記15章には「長い日数にわたって血の漏出のある場合、彼女は汚れた存在である」と書かれています。「彼女にさわる者はだれでも汚れる。さわった者は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる」とあります。つまり、彼女の病気は単なる病気ではなく、宗教的に汚れているということです。だから、彼女はイエス様ご自身ではなく、着物のふさにでも触りたいと願ったのです。さらに、26節に何と書いてあるでしょうか?「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」ここには医者と書いてありますが、当時は呪術といいましょうか、御祓いのように病気を治す者もいました。今でも沖縄にはそういう人がいるようです。それでどうなったんでしょうか?「多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった。」持っている財産をふんだくられたということです。家族にも迷惑をかけたことでしょう。が、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。何らかの治療を受けたかもしれませんが、それがかえって病気を悪化させたということです。「これは、昔のことでしょう。でも、現代の医学はそうじゃありません」と言うかもしれません。でも、そうでしょうか?大きな病院では、レントゲンのほかに、CTスキャン、MRIなどの医療機器を入れています。1台数億円するのではないでしょうか?だから、元を取るために、病院に行ったら、機械を使った検査を受けることになります。問診で良いのではと思ったものでも、いくつかの機械を回されます。昨年、ある朝、目がまわるので病院に行きました。すぐ、CTスキャン、MRIの検査を受けました。MRIは、まるで頭にバケツをかぶせられて、棒でガンガンたたかれているような音がしました。幸い何ともありませんでした。今でも、新薬を試したい大学病院がたくさんあるのではないでしょうか?

 このところに、彼女の苦しみがいくつあるでしょうか?表現を換えるなら、「彼女はどういう事柄に救いを得たいのか?」であります。第一には身体の痛みがありました。29節には「ひどい痛みが直った」と書かれています。ですから、キリキリ刺すような痛みがあったのではないでしょうか?第二は宗教的な汚れがありました。この病気は、英語の聖書にはplagueとなっています。これは疫病や伝染病のことです。ギリシャ語には「神の罰、たたり、かかる見地から見た肉体的苦痛、あるいは病気」という意味があります。つまり、人々から「あなたは神様から呪われている」と思われていたのです。第三は心理的な苦しみがあります。「多くの医者からひどい目に会わされて、持ち物をみな使い果たした」のですから、恨みや憎しみがあって当然です。「直るといったのに、直るどころかもっと悪くなった。なんとひどい藪医者だろう」と思ったでしょう。第四は経済的な苦しみがあります。「持ち物をみな使い果たした」とありますので、貯金も財産もゼロです。ひょっとしたら親からお金を借りているかもしれません。「このごくつぶしめ!」と言われているかもしれません。第五は生活全般における苦しみです。体が弱いので仕事も結婚もできません。彼女は、「娘よ」と呼ばれているので、おそらく30代前後でしょう。12年間の歳月ため、将来の希望が全くありませんでした。こういう人にこそ、救いがいるのではないでしょうか?いや、これらの問題をすべて解決することが救いではないでしょうか?日本語の聖書には28節に「きっと直る」と書いてあります。また、34節に「あなたの信仰があなたを直したのです」とあります。2つの「直る」は、ギリシャ語ではソーテリアであります。ですから、原書に忠実に訳すならば、「きっと救われる」「あなたの信仰があなたを救ったのです」と訳すべきであります。なぜなら、この女性は5つの苦しみから救われたからです。

2.この女性の救い

 それでは、この女性がどのようにして5つの苦しみから救われたのか、1つずつ学んでいきたいと思います。彼女は後ろから、こっそり、イエス様の着物にさわりました。ルカ福音書には「着物のふさ」と書かれています。「ふさ」というのは、祭司の服と同じで、権威を象徴しています。この女性は神であるイエス様の権威を信じていたのです。また、「考えていた」は原文では「口で言っていた」という意味です。「お着物にさわることでもできれば、きっと救われる。きっと救われる」と言い続けていたのです。あとで、彼女の信仰がイエス様からほめられます。なぜでしょう?ローマ10章には「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と書いてあります。彼女の信仰は心からあふれて、それが告白にまでなっていたのです。「きっと救われる、きっと救われる」とブツブツ言いながら、弱ったからだを引きずって、イエス様に近寄りました。29節「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」ここに、第一の肉体的な救いがあります。なぜなら、血の源がかれて身体の痛みが去ったからです。「直った」と思って、彼女は群衆に紛れ、立ち去ろうとしました。なぜなら、肉体的な救いを得たからです。

 でも、イエス様はそのまま彼女を帰しませんでした。30-32節、イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。イエス様は全知全能の神様ですから、どの女性が触ったか知っていました。しかし、あえて名乗り出るように言われたのです。「しかし、婦人病ならば、きっと恥ずかしいでしょう。そのまま帰らせて良いのでは?」と思うでしょう。いいえ、イエス様のみこころはそうではありませんでした。33節「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。」彼女は、ひれ伏しながらも、イエス様に真実を余すところなく打ち明けました。いつ頃から病気になったのか。多くの医者に通ったけど直らなかった。全財産を使い果たしても、ますます悪くなる一方だった。あなたの噂を聞いて、「着物のふさにでも触れば救われる」と思ってやってきました。そして、さきほど群衆に紛れて後ろからさわったら、あなた様から力が臨んできて、血の源がかれて、ひどい痛みが直りました。これまでの経緯と病気が直ったことをイエス様に告げました。このように、イエス様に真実を余すところなく打ち明けるとどのような効果があるでしょう?カタルシス(浄化)と言いますが、心のわだかまりや傷が癒されます。これは心理的な救いと言えるでしょう。「イエス様が私のことを聞いてくださった。そして、私のことを理解してくださった。アーメン」。これは肉体的な救いと別の救いではないでしょうか?女性は、自分のことを聞いてもらえるだけで、心が癒されるそうです。ハレルヤ!男性諸君、教えないで、ただ、耳を傾けましょう。

 それからどうなったでしょう?34節そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」彼女には、まだ、3つの目の問題が残っていました。宗教的な汚れです。これは、神様から見放されている、神様の怒りをかった病気であるとみなされていました。イエス様は「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。英国の聖書は、My daughter「私の娘」と訳しています。彼女は、イエス様から「私の娘よ」と呼ばれました。さらに、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。信仰とはどういうものでしょうか?英語の詳訳聖書はこのところの信仰をこのように解説しています。「私に対するあなたの信頼と確信、神から湧き上がる信仰があなたを救のです。」長くてよくわかりませんが、信仰というのは自分の確信と神様からくる信仰の2つが結びついたものです。つまり、彼女の信仰は自分が勝手に持ったというのではなく、神様から与えられたものです。ということは、神様は彼女を愛している。彼女はのろわれた存在ではなく、神様の娘であります。これは霊的な救いではないでしょうか?そうです。彼女は霊的な救いに預かったのです。

 まだ、他にあります。イエス様は「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と彼女を祝福しました。これです。イエス様がだまって彼女を去らせなかったのは、彼女を祝福したかったからです。もし、彼女があのとき、名乗らないで立ち去っていたならば、肉体の救いしか得られませんでした。でも、心の恥や霊的な呪いがあったでしょう。もし、また、病気が再発したならどうなるだろうという心配も残るでしょう。「安心して帰りなさい」とはどう言う意味でしょう?これは「平安があるように」という意味です。平安とは、穏やかという意味だけではなく、「すべてにおいて充足するように」という意味があります。また、「病気にかからず、すこやかでいなさい。」とありますので、これから二度と病気にならないように、病気を追い出し、封印するという意味です。将来も病気にならないというイエス様の保障です。だから、もう、病気を怖れることはありません。ずっと、健康でいられるということです。「すこやかでいなさい」は健康のことだけを言っているのではありません。英語の聖書はbe wholeとなっています。wholeは「全体の、完全な、無傷の、そっくりそのまま、十全的な」という意味があります。つまり、神様の肉体だけではなく、十全的な救いを与えたいと願っておられるのです。彼女にとっての救いは何でしょう?肉体が救われ、心が救われ、霊的に救われました。でも、これから経済的な救いも必要でしょう。また、結婚あるいは家庭の救いも必要でしょう。最後には、病気や災いを怖れないで、平安の中で生きられるという救いです。彼女は天国に行く前に、天国の喜び、天国の命を味わうことができたのです。この世にいながら、神の国が彼女にやって来たということです。これこそが、イエス様が私たちに与えたい救い、十全的な救いなのです。

3.十全的な救い

 十全的ということばを、ホリスティックと言います。最近は医療の間でも使われるようになりました。これまでは、肉体の病理しかみてきませんでした。しかし、そういう病気になる心の問題、ライフ・スタイル、あるいは霊的な原因があるということが分かり始めてきました。病気になるような生活をしていたなら、根本的には直りません。ストレスや心配事、怒りや憎しみをもっていたなら、必ず病気になります。聖書は、昔からそういうことを言っています。では、ホリスティック、十全的な救いにはどのようなものがあるのでしょうか?これは、これから20数回に渡って語る内容ですので、「お楽しみに」ということです。でも、私は今後、おもに4つの分野で語りたいと思います。第一は霊的な救い、第二は肉体的な救い、第三は心の救い、第四は生活すべてにわたる救いです。順番に説明させていただきます。第一の分野は霊的な救いです。これは、神様との関係から来るものです。イエス様を信じて罪の赦しを得る。義とされる。新しく生まれ変わる。神の子とされる。神の国に入ることなどは、霊的な救いです。霊的な救いについては、教会で良く話されます。あるテーマについては、もう何度も聞いた内容かもしれません。キリスト教では、日本でも、福音の番組がいくつかあります。よく話されるのは、十字架による罪の赦しです。「罪を悔い改め、イエス様を信じましょう。そうしたら、罪赦され、永遠の命を得ることができます」と言います。しかし、「神、罪、救い」は外国の宣教師が持って来た福音です。どうでしょう?「自分の罪深さが示されて、教会に来て救いをいただいた」という人がどれくらいいるでしょうか?10人にどれくらいいるのでしょうか?おそらく、23人だと思います。聖書に出てくる、ほとんどの人たちは、自分の必要を求めてイエス様に近づいたのではないでしょうか?多くの人たちは、「病気を治してくれ。問題を解決してくれ。腹がへったので何か食わせろ。目を開けてくれ」というふうに近づいたのではないでしょうか?ですから、教会が霊的な救いだけで、アプローチしていたならば、多くの人たちが救いにあずかることができないということです。もちろん、霊的な救いがなければ、本当の救いとは言えません。でも、順番が1,2,3,4でなくても良いということです。2番目、3番目、あるいは4番目が最初に来ても良いとうことです。長い間、キリスト教会は霊的な救いだけを説いてきました。そのため、どうなったでしょうか?新興宗教が病気の癒しをします。いろんな占いや祈祷師が心の救いを与えようとします。また、心療内科や精神科では、鬱などの人があふれています。また、神社が縁結び、安産、経済の祝福、交通事故から守られるようにとお守りやお札をくれるでしょう。日本人は頭では西洋の教育を受けています。自然科学を信じて、理性で生きています。しかし、心は東洋的なので、目に見えない力を信じています。だから、病院だけではなく、そういう神的なものに頼りたがるのです。日本に来た外国の宣教師は西洋の合理主義を受けているので、目に見えない力を軽んじる傾向があります。しかし、日本は東洋であり、アニミズムの世界観を持っています。だから、西洋的なものだけでは足りないのです。

 ホリスティック、第二の救いは肉体の救いです。病の癒しと言っても良いでしょう。しかし、目が見えない人、耳の聞こえない人、いろんな障害のある人は、癒しではありません。ないものが与えられる創造の癒し、奇跡が必要です。イエス様は公生涯において、3分の1は、病の癒し、奇跡、悪霊の追い出しをされました。イエス様は、神の国の福音を伝えると同時に、こういうことを行われました。何故でしょう?それは、「みことばに伴うしるし」であります。イエス様は病を癒したり、障害を直すことによって、神の国がどのようなものであるのか、証明されたのです。神の国には病も障害もありません。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われました。そのとき、イエス様は神の国はどういうものなのか、デモンストレーションしたのです。スーパーマケットで、ウィンナーとかビールを「どうぞ、一口」とか言って勧めています。イエス様は神の国を少し味わわせてから、霊的な救いを得るようにデモンストレーションしたのです。ですから、肉体の癒しは神の国に入る門と言えるでしょう。

 第三の救いは心の救いです。「内面の癒しと変革」と言っても良いかもしれません。30年ぐらい前から心の癒し、インナー・ヒーリングが注目されました。当教会でも、エリヤハウスや解放キャンプなどを紹介してきました。キリスト教は「自分は罪を犯した」という加害者の部分を主に扱ってきました。しかし、自分が受けて来た被害者の部分はどうでしょう?多くの場合、「あなたは神様からたくさん赦されたのだから、あなたに罪を犯した人を赦しなさい」と言います。1万タラントと100デナリのたとえもそういうことが書いてあります。でも、それができる人はどれくらいいるでしょうか?おそらく、3割くらいしかいないのではないでしょうか?あとの、「7割りはそれとこれとは別だ」と怨念晴らしをして生きているのではないでしょうか?丸屋先生は、「キリスト教会は霊の部分は取り扱ってきたけど、心の部分はなおざりにされてきた。人は霊的な救いと心理的な救いが必要である」とおっしゃいました。霊的には救われても、考え方が相変わらず古いままということがありえます。従来行われてきた、心の癒しばかりだと堂々巡りみたいなところがあります。今後は、考え方を新しくし、ライフ・スタイルを変えていくというものが有効なようです。

 第四は生活すべてにわたる救いです。その他の救いと言っても良いかもしれません。初めに言ったように、救いというのは一般的には、死、危険等から救われるという意味でした。病気が癒されること、無病息災、安寧幸福も救いです。奴隷状態や敵の手からの救いです。それでは、生活すべてにわたる救いにはどのようなものがあるでしょうか?私たちは詩篇から多くの励ましや信仰をいただきます。なぜでしょう?詩篇の多くはダビデが作ったか、あるいはダビデの生涯を背景にして書かれたと言われています。ダビデは、サウル王やアブシャロムから命を狙われました。多くの悪者や敵に囲まれても、奇跡的に守られました。ダビデに、あらゆる環境の中であっても、喜びと平安がありました。これは現代社会に生きている私たちと同じではないでしょうか?主が私たちの盾であり、岩であり、砦なのです。テレビのニュースを見ると、歩道を歩いているのに車にはねられたとか、ストーカー、詐欺事件がなどあります。本当に安全な場所などありません。みんな戦々恐々で暮らしています。ですから、生活すべてにわたる救いが必要です。人間関係、経済、結婚、物質、環境からの救いが必要です。

Ⅲヨハネ2には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。魂に幸いとは、霊と心の幸いです。健康は肉体の癒しです。そして、すべての点で幸いを得るというのは、仕事や家庭、物質や環境の幸いと言えると思います。もちろん、順番的にはたましいの幸いが必要です。でも、私たちはこの世に生きているので、すべての点でも幸いを得、また健康であることが必要です。これが神様のみこころです。つまり、全部の救いにあずかることが神様のみこころです。私たちがこのことに対して、無知であるならば、病気で貧しいまま、天国にはいつくばって行くことになります。キリストは十字架にかかり、私たちの罪だけではなく、病ものろいも取り去ってくださいました。だから、キリストにあって十全的な救いにあずかり、主の御名をあがめる人生を送りたいと思います。

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2012年11月18日 (日)

~八福の教え~    亀有教会教育牧師 毛利佐保

<マタイの福音書 5312節>

5:3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、

   あなたがたは幸いです。

5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

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本日は鈴木先生が湘南教会の方にご奉仕に行かれているので、僭越ながら私が御言葉を取り次がせていた

だきます。

マタイの福音書にはイエス様の教えが5章~7章にかけてまとめて記されています。ここは「山上の説教」、または「山上の垂訓」と呼ばれています。その「山上の説教」では、イエス様は「天の御国」についての倫理について語られています。例えば、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」とか、「天の御国に入る人とはこういう人です。」とか、「天の御国はからし種のようなものです。」と、イエス様は、様々なたとえを用いて天の御国の奥義について語ってくださいました。このように、イエス様の教えは外面的な法律とか、道徳の類ではなく、人間の行為の原理、あるべき姿、心の内側や動機に関するものです。

また、この「山上の説教」の教えはルカの福音書には随所にちりばめられて記されています。マタイ52節の「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた」の「教えて」はギリシャ語では evdi,dasken (エディダスケン)と書かれていて、この言葉は、繰り返して行われる習慣的な行為を表しています。そのことから、この「山上の説教」はただ一回だけ語られたのではなく、繰り返して、様々な場所で語られたということになります。

マタイはそのイエス様が語られた数々の説教を「山上の説教」として、5章-7章にまとめたようです。

先ほど読んでいただいた聖書個所は、その冒頭の部分になります。ここでは「幸いです」という言葉が9回繰り返されています。9回目の「幸いです」は、8回目の幸いの説明になるので数には入れず、この箇所は八つの幸いについての教え、「八福の教え」と呼ばれて広く親しまれています。この「八福の教え」は、イエス様の時代から現代に至るまで、私たちに対して、慰め、憐み、励ましを与えてくださる御言葉です。

時間が許されるなら、ひとつひとつの教えについてお話したいところですが、そうなると、神学校の講義みたいになってしまいそうですので、今日は八福の中から抜粋して、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「あわれみ深い者」の4つについてみなさんと見て行きたいと思います。

①「幸い」とは神に祝福されること。

みなさんにとって「幸せだなぁー」と感じる時とは、どのような時ですか?

これからの季節だと、寒さに震えて家に帰ってきて、温かい食事をいただいた時に「あ~幸せだなぁ」と思ったり、温かいお風呂に入ってほっとした時に幸せを感じたりするのではないでしょうか。

また、仕事や学校でいい事があったり、趣味に没頭している時とか、それぞれ幸せを感じる時はあると思います。

また霊的な部分では、祈っている時、聖書を読んでいる時、イエス様を近くに感じられる時が幸せだと思うことでしょう。

ではイエス様がここで言われる幸せとはどのようなものでしょうか。

この八福の教えで「幸いです」と訳されている<ギ> maka,rioj (マカリオス)は「神に祝福されている、恵まれている」という意味です。原文では 「ああ、なんと祝福されていることよ」 とイエス様は「ああ」と感嘆の声をあげておられます。それは、はかないこの世の幸福のことを言っているのではなく、この世の何ものによっても取り去られることのない神様の祝福の素晴らしさに感嘆の声をあげておられるということです。

それでは、「5:3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」を見てみましょう。

この「心の貧しい者は幸いです」というみことばを読んで、「なんで心が貧しいと、幸いなのかな?」・・・っと実は

長年ずっと疑問に思っていたけれど、今さら聞けなかった!・・・という方が、もしかしたらこの中にいらっしゃるかも知れませんが、聖書のことばには理解しにくい個所がたくさんありますので、遠慮なく牧師とか聖書に詳しい人に聞いてください。

この「心の貧しい人」というのは、心の狭い人とか、不親切な人という意味ではなく、神様の前では自分は無一文で貧しい者であるということを知っている人、また物質的な富は無意味であるという事を知っている、敬虔な人という意味です。しかしイエス様は、贅沢をするなとか、清く貧しくありなさいとか言われているわけではありません。

むしろ単に物質的に貧しいだけでは「天の御国は」遠いのです。

“心の”貧しい人とイエス様は言われました。大切なのは“心”の状態です。

ここでは、自分の心の高ぶりや貧しさに気付いている人の事を幸いだとイエス様は言われました。

また、「5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」というみことばを読んで「なんで悲しむと幸いなのかな?」・・・っと実は長年ずっと疑問に思っていたけれど、今さら聞けなかった!・・・という方が、もしかしたらこの中にいらっしゃるかも知れませんが、聖書のことばには理解しにくい個所がたくさんありますので、遠慮なく牧師とか聖書に詳しい人に聞いてください。(笑)

の「悲しむ者」について、ある人は「それは“死に対しての悲しみ”のように大きな声で泣き悲しむことである。」と言いました。私たちの人生には多くの喜びと共に、悲しみもあります。中でも、大切な人の“死”というものは、本当に悲しいものです。

創世記に書かれているように、アダムとエバがサタンの誘惑に負けて神に逆らい、堕落してしまった時から人には“死”が訪れるようになりました。人間誰でもいつかは、死にます。しかしその死も、十分に生きてこの世の使命を果たしたというのではなく、若くして亡くなったり、突然事故で亡くなったり、自殺で亡くなったりという死であったなら、ショックから立ち直るまでにはたくさんの慰めと、時間が必要です。イエス様もこの“死”に対してヨハネの11章のラザロの死の個所で“憤り”を覚えられ、涙を流されました。

旧約聖書のイザヤ書には、この「心の貧しい者」それに続いて「悲しむ者」について預言されています。

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イザヤ書 61:1-3

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」(新改訳)

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ある神学者はこのイザヤ書の「悲しむ者」について、このように言いました。

「ここで語られていることは、ただの人間の悲しみではありません。救いを受け、さいわいである、と言われている人の悲しみであります。信仰生活をしている人の悲しみであります。」

と、この悲しみは、キリスト者のものであると言っています。みなさんはどう思われますか?

たしかに、キリスト者の立場からすると、自分の大切な人が亡くなるのは悲しいですが、イエス様の救いを受けずに亡くなったとなると、更に悲しみは深いものとなります。また、聖書の教えとは違った考えで、この世が罪に満ちた世界になってしまっていることについても深い悲しみを覚えます。

イエス様はそのような人に対して、幸いだと言われました。なぜなら「その人は慰められるから」です。

「慰められる」というのは受け身の言葉です。それなら慰める人がいるはずです。だれから慰められるのでしょう。

それはいうまでもなく神様です。天の父なる神様が、神の御子であるイエス様が、慰め主である聖霊なる神様が、私たちを慰めてくださるのです。私たちは人間の慰めには限界があることを知っています。だからこそ、主に寄り頼みます。ですから、悲しむ者は幸いなのです。

②イエス様の慰めと憐み

「悲しむ者」ではイエス様の慰めについてお話しましたが、次にすこし飛んで第五の幸いであるマタイ5:7 「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」からイエス様の憐みについて見てみましょう。

「あわれみ」という言葉は、日本語だと何となく「ほどこし」といったイメージがありませんか?現に広辞苑をひくと、「憐み」は「ふびんに思う。同情する。」また、「慈悲の心をかける。めぐむ。」と書かれていました。ですから、「あわれみ深い者」というと、一生懸命慈善事業に力を入れている人を指すように感じますし、どうも上から下に向かってめぐんでいる感じがします。

英語ですと、この憐みは“Merciful”(情け深い、安堵を与える) とか、“sympathetic”( 同情に満ちた、思いやり、慰め、共感、好意)と書かれていて、英語の意味は日本語よりも幾分お互いが同等の立場での意味になっています。日本語ではそういうこともあって、新改訳聖書や、口語訳聖書は「あわれみ」をひらがなで表記しているのかもしれません。ちなみに共同訳は漢字の「憐み」です。

では、原語のギリシャ語ではどうでしょうか。

このマタイ57の、「あわれみ深い者は幸いです」の聖句には<ギ>evleh,mwnエレーモン)という言葉が使われています。この言葉は、他にはへブル2:17にしか使われていません。へブル書の方は主イエスご自身について「あわれみ深い」と言い表しています。

つまりこの「あわれみ(憐れみ)」とは神のご性質を表し、神様、イエス様ご自身のことなのです。罪深い私たちは神の憐れみをもってでしか、人を赦したり憐れんだりすることはできません。

ですから、「憐み深い者」となるには、神様にまず憐れんでいただく必要があります。

詩篇37:21には「悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。」と書かれています。ここでの“正しい者”とは、神を信じ、慕い愛する者のことです。神を信じる者は神から憐みを受け、情け深く、人に施すことができるのです。ですから、あわれみ深い者は幸いなのです。

③イエス様と同じ思いを持ちましょう

今までお話ししてきた「心の貧しい者」「悲しむ者」「あわれみ深い者」の幸いというのを見て行くと、この「幸い」は、は、“すべての人”に与えられているのではなく、“イエス・キリストを信じた人たち”だけに与えられている特権のような感じがしますが、はたしてそうなのでしょうか。

少し戻り、第三の幸い、マタイ5:5 「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」を見てみましょう。

「柔和」という言葉はギリシャ語では<ギ>prauj (ホプラユス)という言葉で書かれています。

英語では gentle ですが、決して“自発的にへりくだる者”というだけではなく、むしろ影響力や権力に関して無力、無欲な者という意味があります。マタイの福音書ではさらに2回この言葉が用いられていて、他の福音書には出てこない言葉で、イエス様に適用される形容詞として使用されています。

この言葉は、以下の2か所に使われています。

<マタイ11:2829

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(口語訳)

<マタイ21:5

「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に

乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(新改訳)

後半の聖句はエルサレム入城の時のイエスさまの事です。私たちの王となられる方は、「柔和」な御方で、荷物を運ぶろばの子の背に乗ってくるような方です。この世の権力や影響力に対して無力、無欲な方、その方が「地を相続するだろう」と記されています。

人間の感覚では「地を相続する」というと、世的な成功や権力を手にするようなイメージで考えてしまいますが、

ここでいう“地”とは「神の相続地」という意味です。

私たちも「柔和な者」であるならば、「神の相続地」を与えられるという幸いがあるということです。

ここで、先ほどの、この「幸い」は、は、“すべての人”に与えられているのではなく、“イエス・キリストを信じた人たち”だけに与えられている特権のようですが、はたしてそうなのでしょうか。という問いかけに戻りたいと思います。

イエス様は、誰に向かってこの説教を語られたのかという事を考えてみましょう。

メッセージの冒頭にも言いましたが、イエス様は、未信者や異邦人を含む群衆に向かって evdi,dasken (エディダスケン)、繰り返し教えられました。

それはすべての人々にこの幸いを受けてもらいたいと願っておられたからです。 

この教えを聞いていた群衆というのは、「信仰者」だけではありません。ただ、イエス・キリストの有難い説教を聞いてみたくてやって来た人々。あるいは奇跡のうわさを聞いて身体を癒してもらいたくてやって来た人々もいたでしょう。ただ物珍しくて興味本位で集まっただけの人々もいたでしょう。中には異邦人もいたかもしれません。

当時のキリスト者は“ユダヤ教ナザレ派”というユダヤ教の中の一派に過ぎませんでした。イエス様の教えを聞く群衆たちはイエス様のことを、「ちょっと変わった教えを説いては、奇跡を起こすユダヤ教のラビ(指導者)」だと思っていたはずです。キリスト教がユダヤ教とは別のものとして認知されていくのは、もう少し後の時代で、この時は十字架よりも前の話です。

このようにイエス様は、天の御国の奥義が理解されない時代であっても、繰り返し、様々な場所で群衆たちに天の御国の幸いについて語られ、すべての人が幸いを受けられるように働きかけてくださいました。

また、イエス様はキリスト者に対しても望まれておられることがあります。それは、主と同じ憐みの心を持つことです。イエス様は、イエス様がなさったように、繰り返し周りの大切な人たちに福音を伝えることを望まれておられます。イエス様の憐みを受けたキリスト者が、憐みの心を持って、大切な人々にも<ギ> maka,rioj (マカリオス)幸いを受けていただくために働くのです。

いよいよ来月はイエス様の降誕を祝うクリスマスです。イエス様はこの地に平和の子として、貧しい姿で生まれてくださり、私たちに柔和なお姿を見せてくださいました。イエス様は私たちを祝福し、八福をくださろうとしています。ですから、私たちもイエス様と同じ思いを持って、すべての人々が幸いを受けることが出来るように、イエス様に全信頼をおいて神の栄光をあらわして行きましょう。

今日の午後1時から亀有ゴスペルクワイヤーは、アリオ亀有でライブをして福音の種まきをして来ます。

このチラシを配って誇りをもってイエス様の恵みを伝えたいと思っています。実は、このチラシを作る時、ある攻撃がありました。このチラシは毎年、カラミちゃんというKGCに所属していたイラストレーターの方がデザインしてくれています。現在は大坂在住なので、メールでやり取りして作成してもらっています。そして、毎年、ポスターにして亀有駅に張り出すのですが、その駅ポスターの審査で引っかかってしまいました。

この駅ポスターに関しては、毎年鈴木先生が駅ポスターの会社とやり取りをしてくださっているのですが、なんとこのスカイツリーが知的財産権を侵すといって、「許可を得ていなければこのデザインではお受けできません」と、駅ポスターの担当者から言われたらしいのです。

私はびっくりして、カラミちゃんに相談しましたら、このようなスカイツリーなしのなんとも味気ないデザインに変えてくれました。しかし、近隣に配るこのチラシは2500枚発注してしまったあとでしたので、修正できません。そもそも入場無料の小さなコンサートなのに、こんなに厳しいのはおかしくないか?と疑問に思いつつも、東京スカイツリーライセンス事務局のHPに行くとこう書かれていました。

「東京スカイツリーに関する知的財産(名称・ロゴマーク・シルエットデザイン・完成予想CG)は、東武タワースカイツリー株式会社等の著作権・商標権により保護されております。使用に関しては、東京スカイツリーのイメージ維持のため、東京スカイツリーライセンス事務局で管理しております。これら知的財産は事務局の許諾なしに使用する事はできません。商品化や広告・販促での活用など、東京スカイツリー知的財産のご使用に関するお問合せは、下記事務局までお願いいたします。」

スカイツリーって結構厳しいんですね・・・。私は悩みました。問い合わせてみて、もし駄目だと言われたら、2500枚のチラシのスカイツリーの部分をオレンジのマジックかなんかで塗りつぶさなければならないのだろうか。せっかくのデザインが台無しになるのも嫌だし、以前誤植で何千枚もマジックで修正したことがあるのでその大変さを思い起こしながら、それだけは避けたいと思いました。

それで一旦は問い合わせるのを辞めて、アリオでは知らんぷりをして配ってしまおうと思ったんですが、現実派の息子清志に、「クレームが来て賠償しろとか言われたらどうすんの?」と言われ、考え直しました。

でも私が考え直したのは、賠償うんぬんというよりも、「イエス様の福音を、びくびくしながらではなく、堂々と誇りをもって伝えたい」という思いがむくむくと起き上ってきたからです。どういう結果が出ても、堂々としていたいと決心して、チラシを添付して、事務局に問い合わせましたら返答はこうでした。

「毛利さま お世話になっております。本件、権利元とも確認致しまして背景の部に入れて頂いているのみですので問題ございません。ご連絡頂きまして、ありがとうございました。どうぞ宜しくお願い致します。」

おお~~~!!ハレルヤ!!堂々と配れる!!

なんか勝利した気分でした!!

みなさま、イエス様と同じ思いを持って、ぜひこのチラシをいろんな所に配ってください。多くの人が神様の幸いを得ることが出来るように共に働きましょう!!

イエス様は「八福の教え」の最後、マタイ5:11-12でこのように私たちを励ましてくださっています。

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」

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2012年11月11日 (日)

主の忍耐は救いである   Ⅱペテロ3:14-18

きょうはⅡペテロの最後です。そして、きょうの箇所は、この手紙の結論とも言えるかもしれません。世の終わりに住む人たちの心構えと言っても良いでしょう。それにしても、難しくて、厳しい内容でした。やっと終わりなんですね。Ⅱペテロは終わりでも、世の終わりはこれからやってきます。ですから、学びが終っても、私たちは世の終わりが来ることを忘れてはいけません。世の終わりと重なるかもしれませんが、日本にはまもなく、大地震が起こると言われています。どうか、その時が、教会のリバイバルとなり、大勢の人たちが救われる時となることを願います。きょうは3つのポイントでメッセージさせていただきます。第一は「励む」第二は「気をつける」第三は「成長する」です。

1.励む

 世の終わりに住む私たちは、どのような心構えで生きるべきなのでしょうか?Ⅱペテロ314「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」「そういうわけで」とありますので、結論的な事柄であることが分かります。私たちは、世の終わりがどのように来るのか学びました。「世の終わり」はキリストを信じない人たちにとっては、人類の破局であります。一方、キリストを信じる人たちには、「新しい天と新しい地」に住まうことができるという希望です。私たちはいつか、神様の前に立つ日がやってきます。だから、ペテロは「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように励みなさい」と勧めています。「御前」とはもちろん神様の前ですが、正確にはちょっと違います。私たちと神様の間に、贖い主であるイエス・キリストがおられると信じます。Ⅰヨハネ21「もし、だれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がおられます。義なるイエス・キリストです」とあります。全く罪のない人はこの世に存在しません。私たちクリスチャンは、義であるイエス様がおられます。言い換えると、罪や汚れがイエス様の義によって覆い隠されているような状態です。宇宙飛行士が宇宙で着ている宇宙服のようなものです。すっぽり義の衣で覆われています。以前のキリスト教の教えは「あなたは今晩、死んでも、神様の前に立つことができますか?」というものでした。教会に来る度ごとに、ぶるぶる震えなければなりません。さばきが怖いので、聖い生活をするというものでした。私はそうではないと思います。私たちのことを弁護してくださるイエス様が世の終わりまでおられます。だから、単独で神様の前に立つということはないと信じます。

 ヨハネは「全き愛は恐れを締め出します」と言いました。恐れで聖い生活をするというのも1つの道です。もちろん、私たちは神様を恐れなければなりません。でも、もう一方は、私たちはキリストにあって完全に愛されているゆえに聖い生活をするのです。つまり、イエス様の恵みに対する応答であります。この世の人たちは、罰則が嫌なので法律を守ります。もし、罰則が伴わないなら、平気で法律を破るでしょう。この世は、罰則によって人を従わせる方法を取ります。それは、人間とは悪であるという前提に立っているからです。しかし、クリスチャンはどうでしょうか?イエス様を信じて義とされた存在です。神様から既に義と認められているので、それにふさわしい生き方をしようとするのです。だから、根底にある動機が違います。Ⅱペテロ314の前半を見ると、そのことが分かります。「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから」とあります。手紙を受け取っている人たちは、愛する人たちです。しかも、その人たちは、世の終わりにイエス様が来ることを待ち望んでいます。再び来られるイエス様を、怖がっていません。むしろ、待ち望んでいます。だから、「しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励む」のです。我が家では、家内が外で働いています。私は家の隣である教会にいます。もし、雨が降ったら、洗濯物や布団を入れなければなりません。洗濯物は家内が干したのだから、家内に責任があります。でも、急に雨が降ったらそんなことは言っていられません。私は家内に怒られないように、洗濯物を入れるのでしょうか?そうじゃないですね。家内をがっかりさせたくないためです。あるときは、流しのお皿やお茶碗を洗ったりします。子どもたちは洗いません。私が進んで洗います。気持ち良いですね。でも、家内が出がけに、「雨降ったら洗濯物入れてね。それから、お茶碗も洗っておいてね。ついでにご飯も炊いておいてね。どうせ暇なんでしょうから」と言ったらどうでしょうか?むかっと来て、「なんで俺が!」と思うでしょう。しかし、何にも言わないから、進んでやったとき、気持ちが良いんですね。「イエス様がまもなくこの地上に来られる」としたらどうでしょう?あるいは、地上の命が尽きて「イエス様の前に立つ」となったらどうでしょう?やっぱり、イエス様をがっかりさせたくないですね。しみと傷で汚れたままでは、申し訳が立ちません。完全にとは言えなくても、ある程度、聖い生活をしていたいと願います。

 でも、何があるか分かりません。ポンペイのように、かっこ悪いことをしているとき、世の終わりが来るかもしれません。昔、ある教会で、ある先生がこういうメッセージをしたそうです。「今晩、イエス様が来られたら、この会衆の中の何人が天に引き上げられるだろうか?おそらく、半分もいないだろう」と言ったそうです。シーンとなって、お互いの顔を見合ったそうです。そして、みんな頭の中で「だれとだれは大丈夫だけど、あの人は無理だろう」と考えたそうです。それは福音ではありません。律法です。人を恐れさせて従わせるものです。そうではありません。「私たちには、御父の前で弁護する方がおられます。義なるイエス・キリストです」。これが福音です。世の終わり、イエス様が再び来られるのは、良い知らせなのです。なぜなら、すべてのことを報いてくださるからです。だから、私たちは恵みの中で、期待して主を待つべきであります。ヨハネ316「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ここに、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」とあります。イエス様を信じる者に、例外はありません。もれなく、みんな救われるということです。「全き愛は恐れを締め出します」アーメン。

2.気をつける

 このことも何度もいわれてきました。なぜなら、世の終わりには、にせ教師がたくさん現れるからです。Ⅱペテロ315-17「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」ペテロは、同じ使徒である、パウロのことを語っています。「パウロの手紙の中には理解しにくいところもあります」と言っています。なんだか安心します。やっぱり、パウロの手紙は難解で、何回読んでも分からないのが普通なのです。でも、ペテロが言いたいのは、世の終わりについてです。当時のにせ教師たちは、「それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いている」ということです。キリスト教教理の中で、最も、意見の合わないテーマは終末論です。これを話すと教会が割れてしまいます。シュバイツアーは、医者で音楽家で、だれもが認める偉人です。しかし、彼が唱えた終末論は全くの見当違いであると言われています。キリスト教会史で、「世の終わりが来た」と急進的な異端が何度も起こりました。もう、世の中から孤立して、村まで作った人もいます。「主は○○年来る」と言って、異端になったグループもたくさんあります。そのため、「こと終末論に関しては触れない方が良いだろう」ということになりました。「羹に懲りて、なますを吹く」ということになったのです。

 でも、私たちは聖書が教えている全部のことを学ばなければなりません。だから、世の終わり、再臨についても語らなければならないのです。なぜなら、世の終わりが迫っているからです。でも、聖書を解釈するときに、忘れてはならない原則というものがあります。ペテロがいた頃、どのような人たちがいたのでしょう?「無知な、心の定まらない人たちは…それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いている」と書いてあります。「無知な」とは、「よく学んでいない」という意味です。「曲解」とは、「捻じ曲げる」という意味です。JB.フィリップスはunbalancedと訳しています。「バランスに欠いている、極端である」という意味です。Ⅱテサロニケ3章に書いてある人たちは、どうだったでしょう?まもなく、世の終わりが来ると思って、仕事もろくにせず、人のおせっかいばかりして、締りのない歩み方をしていました。昭和5年頃、ホーリネス教団にリバイバルが起こりました。大勢の人が救われ、台湾や中国にも宣教師を派遣しました。しかし、「イエス様はまもなくやってくる」と極端の方に走りました。ある人たちは白い衣を着て、屋根に上り旗を振って待っていました。学校も行かず、仕事もしないで、教会に集まってイエス様を待っていました。しかし、イエス様は来られませんでした。そのため、教団が分裂してしまいました。しかし、ペテロの時代の人たちは全く逆です。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか?父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか」(Ⅱペテロ34と言いました。つまり、「世の終わりなど来ない、このまま世界は続いて行く」と言ったのです。どちらかと言うと、この世の人たちはこのように考えているかもしれません。これまでのように東から太陽が昇り、西に沈んだように歴史が永遠に流れて行くと信じています。『日はまた昇る』という文学書のとおりです。しかし、聖書は「月も太陽もなくなる日が来る」と言っています。ある人たちは月や太陽、星々を拝んでいますが、それがなくなる日が来るのです。まさしく、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」。ですから、私たちは2つの焦点で時代を見なければなりません。遠近両用めがねというのがあります。1つは遠くを見る目であります。もしかしたら、世の終わりは私が生きている間、来ないかもしれない。あと、100年後かもしれない。だから、伝道をしながら、社会にも貢献するということです。極端な人たちは、「この世はどうせ終るので、クリスチャンは政治とか経済に深く関わるべきではない」と言いました。そうではありません。この国を変えるために、クリスチャンの政治家、クリスチャンのビジネスマン、クリスチャンの芸術家が必要です。私たちはあらゆる分野に、神の栄光が現れるように仕えるべきです。もう1つは近くを見る目です。本当にイエス様が間もなくやってくるかもしれない。いつでも、イエス様の前に立てるように聖い生活をするということです。そのためには、部屋や持ち物を整理し、身軽にしておく必要があります。あまりにも、この世にのめり込むなら、ロトの妻のように取り残されてしまうでしょう。つまり、信仰生活において、バランスが必要だということです。だからペテロは、「愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」と命じているのです。

3.成長する

 Ⅱペテロ318「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」これは、ペテロの祝祷、最後の祈りであります。礼拝の終わりでも、祝祷をしますが、このような祈りで終っても全く構わないと思います。祝祷は、キリスト教会の習慣だったのではないかと思います。手紙でも教えでも、最後は一番、言いたかったことをもう一度言うはずです。ペテロが言いたかったことは「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」ということです。驚くべきことに、イエス・キリストは救い主だけではないことが分かります。「私たちの主である」ということです。主というのは、王様とか支配者、神様という意味です。旧約聖書では、世界を創造された、イスラエルの神が「主」と呼ばれていました。しかし、イエス様が復活してから、イエス様が主になりました。新約聖書では、イエス様が主であります。ピリピ29-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」父なる神様が、御子イエスに「主」という名をお与えになったのです。私たちがひざをかがめて「イエス・キリストは主である」と告白するとは、イエス様を礼拝するということです。しかし、それで終わりではありません。なんと、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白することによって、父なる神がほめたたえられるのです。頭ではよく分かりませんが、手前には主イエス・キリスト様がおり、その向こうには父なる神様がおられるということでしょうか。第一ポイントで話しましたが、神様の間に、弁護者で、義なるイエス・キリスト様がおられるということです。私たちがイエス様を礼拝するとき、父なる神様が栄光をお受けになるということです。ハレルヤ!ここにキリスト教会のキリスト教会たる、ゆえんがあると言っても過言ではありません。

 そして、ペテロは「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めています。伝統的な教会は、恵みは強調しますが、知識はあまり強調してきませんでした。「あんまり勉強しても、頭でっかちになるだけだから」と言われてきました。私は恵みと知識が別ものなのではなく、セットなのだと思います。恵みだけでも良くありません。また、知識だけでも良くありません。恵みと知識において成長するということです。では、恵みとセットになった知識とはどういうものなのでしょうか?詩篇136篇を見ますと、そのことが良くわかります。詩篇1361-9「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで。英知をもって天を造られた方に。その恵みはとこしえまで。地を水の上に敷かれた方に。その恵みはとこしえまで。大いなる光を造られた方に。その恵みはとこしえまで。昼を治める太陽を造られた方に。その恵みはとこしえまで。夜を治める月と星を造られた方に。その恵みはとこしえまで。」前半は、神様がどんなお方であり、どんなことをなされたのかが記されています。そして、後半は、その恵みがとこしえまであることを賛美しています。私たちは神様がどんな方であり、どんなことをなされたのか、聖書から知る必要があります。でも、どうやって分かるのでしょうか?それは、聖書から学んで、神様に関する知識を得なければなりません。神様に関する知識を得たならば、「ああ、神様は恵み深い」と感謝することができます。仏教のことを例にして申し訳ありませんが、仏教には2つの極端があります。1つは密教です。曼荼羅というものに絵が書いてあります。細かな教えはなく、神秘的な体験が主体であります。教えよりも、神秘的な体験であります。だから、その人たちは滝に打たれたり、何ヶ月もどこかにこもって断食するのです。もう1つは仏教哲学です。インド古来の文字を調べ、その教えを体系的に組み立てます。一生懸命、勉強しなければ悟りが開かれないという道です。日本の神学校にも2つの極端があります。1つは、聖書は良く読みますが、神学的な学びは害になるのでしません。修養生と言われる人たちは、良く祈り、良く伝道し、良く捧げます。もう1つは聖書を解体し、理性によって再び組み立てます。そこでは、聖書のイエスと歴史上のイエスは異なります。ほとんど祈らないで、教義だけを学びます。神学者であり、哲学者です。私たちは恵みと知識の両方が必要です。

 イエス様はどのように弟子たちに教えたでしょうか?イエス様は学校のようなクラスルームに集めて勉強させませんでした。どちらかと言うと少人数で、一緒に生活しながら教えました。道を歩き、いろんな出来事に遭遇したときに、教えました。1つ教え、1つ実践させました。実践して失敗したら、何故、失敗したのか考えさせました。イエス様は権威を力を与え、やがては派遣しました。弟子たちにとって、イエス様ご自身が恵みであり、イエス様ご自身が知識だったのです。私たちの時代は聖書しかありません。強いて言えば、キリスト様が立てた使徒、預言者、伝道者、牧師、教師がいます。さらに、目には見えませんが聖霊様によってイエス様がこちらにいらっしゃっています。このお方は世の終わりまで、私たちと共におられるお方です。たとえ、世の終わりが来ても、私たちをちゃんと御国まで連れて行ってくれます。ペテロは、世の終わりが来るまで、「キリストの恵みと知識において成長しなさい」と言っています。もし、世の終わりが来たなら、私たちは一瞬にして栄光の姿に変えられるでしょう。こつこつ勉強しても、無駄なような気がします。そうではありません。神さまは一緒に成長する、プロセス(過程)を喜んでおられます。一瞬にして変える道よりも、子どもの成長のように少しずつ成長する方を願っておられます。成長することは喜びです。私たちは身体的にはもう大人かもしれません。しかし、霊的にあるいは、心や知性の分野で成長する余地がまだまだあります。世の終わりが来週の日曜日やって来たとしても、キリストの恵みと知識において月曜日から土曜日まで、成長していきたいと思います。

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2012年11月 4日 (日)

新しい天と新しい地    Ⅱペテロ3:10-13

きょうの箇所は、ペテロの手紙のクライマックスです。また、救済史、救いの歴史から見ても、最後の段階です。なぜなら「新しい天と新しい地」について書いてあるからです。私たちはこの世が終わりだということは、この地上が終わりなんだと思いがちです。しかし、聖書は「天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまう」と書いています。つまり、地球だけではなく、宇宙的な規模の終わりだということです。地上もだめ、宇宙もだめ、それだったら逃れる場所はありません。ある人にとっては全くの絶望、しかし、私たちにとっては最大の希望であります。

1.終わりの日

 終わりの日は神学的には「終末論」と呼ばれています。聖書には「主の日」とか「キリストの来臨」という名称で出てきます。万物の終わりのとき、キリストが再び現れるということです。第一のポイントでは、図式にして「終わりの日」について学びたいと思います。終わりの日というのは、正確には、いつ頃なのでしょうか?旧約聖書のダニエル書は、終わりの日について、正確に記しています。ダニエル924「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」あるときから70週たつと、永遠の御国がやってくるということです。ここで言われている1週は7年ですから、70週は490年です。490年後に、エルサレムが完全に回復され、やがては永遠の御国がやってくるという意味です。では、その70週はいつから始まったのでしょうか?ペルシャのアルタシャスタ王がネヘミヤに「エルサレムを再建せよ」と命令しました。その再建の命令が発布された年が、紀元前445年でした。いろんな説がありますが、紀元前445年ということにします。それから70週目にメシヤがエルサレムに入場します。ゼカリヤ書99-10「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」イエス様がエルサレムに入城したとき、人々は「ダビデの子にホサナ」と歓迎しました。人々はメシヤが来たら、ローマが倒され、イスラエル王国が回復すると思っていました。ところが、そういうことが起こりませんでした。ユダヤ人はイエス様を拒絶し、十字架につけて殺してしまいました。69週目に、救いの歴史が中断されてしてしまいました。

 それでどうなったのでしょうか?神様は、ユダヤ人が躓くことをあらかじめご存知でした。それで、異邦人である私たちを救おうとされたのです。マタイ21章と22章にいくつかのたとえ話があります。ぶどう園のたとえ、王子の婚宴のたとえなどは、御国が選民から取り上げられ、異

邦人に渡されるという教えです。使徒パウロはそのことをローマ911章に書いています。ローマ1111「かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」とあります。神さまの深い計画により、異邦人の時が楔形に

及んだのです。つまり、69週目の終わり、あるいは70週目の初めで時間が止まったのです。そして、そこに異邦人とき、つまり教会の時代がやってきたのです。パウロが言っているように「今は恵みの日、今は救いの日」なのです。でも、それはいつまでも続きません。異邦人の数が満ちたならば、70週目が再スタートします。ローマ1125-26「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」つまり、異邦人の時が終ったなら、イスラエルが救われる時がやってくるということです。でも、それは70週目であり、患難の時でもあります。マタイ24章には世の終わりに来る患難がどのようなものか預言され

ています。マタイ2421「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」患難の時、「144千人のイスラエルが立ち上がる」と黙示録で預言されています。彼らがイスラエルの人たちに伝道するのです。で

も、大きな迫害も伴います。人々は命がけで信仰を得なければなりません。患難の終わり頃、イエス・キリストが地上に戻って来られます。これを来臨、あるいは「主の日」と呼んでいます。旧約聖書のいろんな箇所に「主の日」ということばが出てきます。それは神に敵対する者たちが滅ぼさ

れる恐ろしい日です。ヨエル210-11「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星

もその光を失う。主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。」患難は前半の3年半は比較的穏やかです。しかし、後半の3年は大患難と呼ばれています。なぜなら、反キリストや獣が猛威を振るうからです。天から災いが降り注ぎますが人々は悔い改めようとしません。獣と地上の王たちは結束し、主とその軍勢に挑もうとします。いわゆる、ハルマゲドンの戦いであります。白い馬に乗った方が、神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれて勝利します。聖書にはクリスチャンが天に引き上げられる「携挙」が記されています。でもそれは、患難の前なのか、患難の後なのか、いろんな説があります。私としては、患難の前に願いたいのですが、ここでは、触れないことにします。

 主が来られ悪魔と悪者どもを一掃した後、審判と永遠がやってきます。マタイ2546「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」ここには2種類の人たちがいます。一方は神にさばかれて永遠の刑罰、つまり地獄に下る人たちです。そこで、永遠に苦しまなければなりません。また、一方は神の救いにあずかった正しい人たち、義人です。彼らは永遠の御国に住まうのです。でも、この図を見ると、永遠は単純ではありません。まず、主が再臨したとき、死んだ人の肉体が復活し天に引き上げられます。その後、千年期が訪れます。1000年の間、この地上が回復されるときを神様が与えてくださいます。イザヤ書やエゼキエル書にあるように、地上のあらゆる動植物が回復します。また、イスラエル民族の回復も同時にあるようです。実は、その後、神の審判があります。「白い御座のさばき」とも呼ばれていますが、未信者が復活して神様の前に立ちます。人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれます。果たして、自分の正しさで神さまの前に立てる人がいるでしょうか?黙示録2015「いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」と書いてあります。私たちの場合はどうなるのでしょうか?イエス様を信じている人たちは、神のさばきの前に立つ必要はありません。なぜなら、キリストが私たちの代わりに十字架でさばかれたからです。

キリストにある者は、新天新地に移り住むことが許されています。黙示録211-2「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」アーメン。新天新地こそが完成形です。私たちが見ている月や太陽がありません。この地球も全く新しいものです。別な天体があるのかもしれません。あるいは別の次元で住むのかもしれません。黙示録には「都には、太陽も月もなく、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかり」であると書いてあります。永遠は空想の世界ではありません。仏教が言う極楽でもありません。極楽ではありましょうが、リアルなものです。もともとの仏教には極楽という考えがありません。中国において景教というキリスト教の亜流が栄えた時代があります。空海などの僧侶が、その影響を受け、地獄とか極楽を考えるようになったと思われます。私たちは世の終わりの出来事と御国の完成を厳粛な気持ちで受け止めなければなりません。聖書の最後にヨハネの黙示録があります。イエス様は「見よ。私はすぐに来る。私はそれぞれの仕業に応じて報いるために、私の報いを携えて来る」とおっしゃっています。報いには2種類あります。1つは永遠の命と永遠の御国です。もう1つは永遠のさばきと永遠の地獄です。願わくは、いや、ぜがひでも、私たちは地獄を避け、永遠の命と永遠の御国を選び取るべきであります。

2.終わりの日の心構え

ノアの時代は洪水によって全地が滅ぼされました。しかし、終わりの時代は、火によって滅ぼされます。しかし、それは地上だけではありません。天の万象まで及ぶんだということです。テレビ番組で、「地球に彗星が落ちる日がやってくる」と見たことがあります。あるいは、「太陽が大きく膨れ上がり、地球が焼き尽くされる」というのもやっていました。しかし、私たちはそれを見ても、「何万年後だろうから、生きているうちには来ないよ」と冷ややかに見ています。同じように、聖書に記されている世の終わりの出来事を見ても、「ずっと先のことだろう」とまともに考えようとしません。それよりも心配なのは大地震かもしれません。関東直下型、南海トラフ、大津波、富士山の噴火…この日本はどうなるのでしょうか?最近、危険な場所の地価が下がったようです。ある人たちは、もっと安全な場所へと引越しをしているようです。でも、世の終わりは地球規模、宇宙規模ですから、本当に逃れる場所はありません。かなり前に、ノアの箱舟のように、大きな宇宙船を作って、選ばれた人たちが乗るという物語がありました。天から火山弾が降り注ぎ、山という山が噴火しました。やがて、巨大な津波が襲ってくるという物語でした。いわゆる天変地異であります。黙示録8章には、「火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた」あるいは「たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちてきた」と書いてあります。また、「太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれた」と書いてあります。そのため多くの人たちが死にます。もう、安全な場所などありません。「人々は死を願うが、死が彼から逃げて行くのである」とも書いてあります。

一体、私たちはどうすれば良いのでしょうか?Ⅱペテロ311「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」まず、第一は、「聖い生き方をする敬虔な人であれ」ということです。聖い生き方とは、罪からは離れ、正しい生活をしているということです。また、「敬虔な人」とは、神を恐れ敬う生活をしている人です。これは心構えです。ですから、「どれくらい聖い生活をして、どれくらい敬虔な人であるべきか」ということが言われていません。私は講壇から「お酒を飲むな」と言ったことがありません。ただし、我れを忘れるほどお酒を飲むというのは問題です。この間、ニュースで「川に落ちている車」を見ました。車はまだ浮いている状態でした。救助隊がドアを開けて、こっちに来るように促しても座ったままです。運転手は何をしたかと言うと、川の水で顔をなんべんも洗っていました。そのままでは車が沈んでしまうので、救助隊が無理やり運転手をひっぱり出しました。彼は、丘に上がっても、朦朧としています。酩酊状態で、車を運転し、ガードレールを突き破って、川に落ちたということです。そういう状態の人は、世の終わり、イエス様が来ても危ないですね。英国の聖書はこの箇所を「あなたが何に傾倒し、何に身を捧げているか、考えるべきである」と訳しています。その人は、お酒に傾倒し、お酒に身を捧げていました。お酒がすべてだったのです。私たちの周りには、神様よりも傾倒し、神様よりも身を捧げているものがあるでしょうか?昔、アウグスチヌスという人がいました。彼はマニ教に入り、自堕落な生活をしていました。今でいう同棲生活をし、私生児をもうけていました。あるとき、家の近くで子どもたちが鞠つきをしていました。「とりて読め、とりて読め」と歌っているように聞こえました。大急ぎで、聖書を取って開きました。その箇所が、ローマ131114でした。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」アウグスチヌスが回心した年は、386年です。既に、1626年もたっています。今や救いが私たちにもっと、もっと近づいています。

私たちはこの世のものに心を奪われているなら、それは霊的に眠った状態です。クリスチャンであっても、罪に陥り、霊的に眠った状態に陥っている人がいるかもしれません。その人はどうなるのでしょうか?新しい天と新しい地に入れないのでしょうか?ペテロの手紙は、世の終わりが来て、その後、新しい天と新しい地が来ると書いてあります。しかし、パウロの書簡や黙示録を見ると、世の終わりにはある程度の期間があるようです。神さまは69週目で、時間を止めました。本来なら70週目が来るはずでしたが、その間に異邦人の時、つまり教会の時を挿入されました。今、私たちが住んでいる時代は、異邦人が救われる時代です。神様はユダヤ人以外が救われるように、恵みの年を与えました。でも、異邦人のが終ると、最後の70週目がスタートします。1週は7年間です。この7年間の出来事がヨハネ黙示録に書いてある、患難の時代です。世の終わりというのは、実は7年間の出来事であります。前半の3年半はまあまあで、後半の3年半は大患難が起こります。ペテロが言う、天変地異が起こる厳しい時です。その時、クリスチャンはどうなるのかというのが問題です。私は、霊的に覚めているクリスチャンは天に引き上げられると信じます。しかし、クリスチャンであっても、罪に陥り、霊的に眠った人は取り残されると思います。おそらく大患難を通って、やっと救われるのではないかと思います。『レフト・ビハインド』という本があります。直訳すると、「取り残された」という意味です。私は読んでいませんが、黙示録に書いてあるような非常な苦しみを通る物語でしょう。救われて、クリスチャンになったけれども、世の終わりの出来事を信じない人がいます。救いを「困ったときの神だのみ」か「保険」みたいに思っている人もいます。そういう人は、火のような試練を通過しなければなりません。迫害も非常に大きくなり、命と引き換えにしてでも、信仰を得なければならないでしょう。あまりにも苦しいので、信仰を棄てる人もたくさん出てくるでしょう。できれば、そういうところを通過しないで、神様の救いを喜ぶような生活が良いのではないでしょうか?

ペテロは12節で「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。」と言っています。その日が来るのをどうして早める必要があるのでしょうか?だって、世の終わりが来るわけですから、遅い方が良いに決まっているでしょう。しかし、それはそういう意味ではありません。マタイ24章にこれと似たみことばがあります。マタイ2414「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」このところから、世の終わりと、福音宣教が関係していることが分かります。福音が全世界に宣べ伝えられたら、終わりの日が来ます。また、神様は「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」お方です。神様は世の終わりの時をすこしでも遅らせて、一人でも多くの人が救われるように願っておられます。だから、終わりの時代に住んでいる私たちの使命は、この福音を宣べ伝えることであります。神様の関心が人々の救いであるなら、私たちも同じような心を持つべきであります。さきほど、英国の聖書から「あなたが何に傾倒し、何に身を捧げているか、考えるべきである」と申し上げました。それは、私たちが罪から離れ、聖い生活をするということだけではありません。私たちが魂の救いのために傾倒し、魂の救いのために身を捧げることが、世の終わりの時代に住む人の生き方ではないでしょうか?かなり前に、ナチスドイツのユダヤ人を救った『シンドラのリスト』という映画を見ました。彼は自分の全財産を売り払って、ユダヤ人を工場に雇って、虐殺から免れさせました。彼は1100人のユダヤ人をホロコーストから救いました。しかし、映画の終わり、彼は何と言ったでしょう。「もっと助ける努力をしていれば、良かった。」自分の自動車をさして、「この車ならあと2人は救えたのに」と泣き崩れました。私たちは世の終わりがきて、自分たちが救い出されるでしょう。そのとき、できれば、後悔したくないです。「ああ、あの人に福音を伝えていなかった。あの人にも福音を伝えていなかった。私が福音を伝えていたら、もっと多くの人が救われていたかもしれない」。そういう、後悔をしないように、終わりの時代、私たちが何に傾倒し、何に身を捧げているか考えなければなりません。父なる神さまが今、ひとりでも多くの人が救われるように、終わりの時間を引き延ばしています。でも、そのタイムリミットが近づいています。私たちは本当に終わりの時代に生きていることを忘れたくないと思います。世の終わりにおける、神さまのみこころは何でしょうか?Ⅱペテロ3:9「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

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