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2012年10月28日 (日)

主の日の到来     Ⅱペテロ3:8-10

ある人たちは「聖書の神は、さばきの神さまで恐い」という人がいますが、そうでしょうか?もし、クリスチャンであるなら、「神さまは愛ですよ」と答えるでしょう。でも、ペテロ第二の手紙を学んで分かったことですが、両面あるように思えます。つまり、恐い神さまと愛なる神さまの両面があるということです。神さまに顔が二つあるわけではありません。しかし、恐さと愛というものが全く別なものではなく、神さまのご人格には、二つのものが共存しているように思います。つまり、神さまは恐いけれど、愛なるお方なのではないでしょうか?

1.主のみこころ

当時、「主が来るのがどうして遅いのか?」「来臨の約束はどうしたのか?」という人たちがいました。それに対して、ペテロはどう答えているでしょうか?Ⅱペテロ38「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」ペテロは「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と言っています。神さまは永遠なるお方であって、私たちと時間の概念が違うということでしょう。この計算で行くと、西暦2012年だったら、まだ2日しかたっていません。西暦3000年でも、たった3日です。詩篇904「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」神さまの御目から見たら、人間の寿命がいかにはかないでしょう。神さまにとって「千年は一日のようです」というのは分かりますが「一日は千年のようである」とはどう意味でしょうか?この分脈から考えると、神さまが、私たちが立ち返るのを待っているお気持ちではないでしょうか。たとえば、ほうとう息子のお父さんは、どのような気持ちで、毎日、息子が帰るのを待っていたでしょう?「一日千秋(いちじつせんしゅう)の思い」ということわざがあります。これは、ある物事や、人が早く来てほしいと願う情が非常に強いこと、一日が千年にも長く思われる意からきているということです。神さまは永遠の神さまですが、滅びに向かっている人間が、立ち返るのを一日千秋の思いで待っておられるのでしょう。神さまは私たちの人生が非常にはかないことをご存知です。だから、「きょう帰ってくるだろうか?」「明日帰ってくるだろうか?」と待っておられるのです。しかし、当の人間は自分が永遠に生きるつもりでのんびりしています。まさしく、神さまにとっては、一日は千年のようであるのではないでしょうか?

Ⅱペテロ39「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」榎本保郎先生の『新約聖書一日一章』にこのように書いてありました。「イエスが、神が御子を遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである(ヨハネ317)と言っておられるのも同じことである。神はいつでも来られるが、いま来たら、そのキリストを信じなくて裁かれて行く人間が多いから、一人も滅びないように忍耐しておられるのだ。あなたがたの救いのために遅くされているのであって、なにも約束が反故になってしまったのではない。」アーメンです。ノアの箱舟のときは、たった8人しか救われませんでした。しかし、神さまはご自分の御国に、大勢の人たちが入るように願っておられます。2000年たっても、世の終わりが来ないということは、かなりのキャパがあるということでしょう。神さまはひとりでも滅びることを望まず、忍耐して待っておられるということです。たとえば、私が海外旅行のツアーコンダクターだとします。「○○時○○分に搭乗口から乗るように」とみなさんに伝えてあります。しかし、まだ来ないお客さんがいます。もう、ジェット機のエンジンがかかっています。時間なのに来ません。私は、係りの人に、「すみません。もう23分待ってください」とお願いするでしょう。でも、定刻になったら、ジェット機は飛び立ちます。ツアーコンダクターの気持ちはいかばかりでしょうか?「まだ来ないのか、まだ来ないのか」と、いらいら待っているでしょう。もう、時間です。ツアーコンダクターは、ジェット機に乗るしかありません。お客さんの席が空いたままです。ジェット機が離陸のために走り出しました。Its too late.ま、旅行だったら、残念だったで済まされるかもしれません。しかし、永遠の御国に入り損ねたなら、どうなるでしょう。永遠に後悔しなければなりません。だから、神さまは、深く忍耐して、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

このところに、はっきりと神さまのみこころが示されています。神様は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。宗教改革者のジョン・カルバンは神の選びということを強調しました。これは、「救われる人は、はじめから予定されている。神の選びは絶対である」という考えです。これくらいだと反対はしません。しかし、「救われない人、つまり遺棄される人もはじめから選ばれている」とまで言います。そのような『二重予定説』を唱えるなら賛成できません。神さまのみこころは、「ひとりでも滅びないで、すべての人が救われるように」ということではないでしょうか?すべての人が、救われるチャンスがあるということです。重要なことは、悔い改めに進むということです。これは、「心を換える、方向転換する」という意味です。言い換えると信じるということです。では、何を信じるのでしょうか?イエス・キリストが十字架で全人類の罪のために死なれました。三日目によみがえり、信じる者が義とされる道を設けてくださいました。神さまはキリストを信じる者を、義と認め、ご自分の国に入れてくださいます。これが福音です。これまでは、「神なんかいない。キリストも信じない」と思っていました。しかし、間違っていましたと、方向転換し、キリストを信じることです。ある教団は、自分がこれまで犯した罪を全部、悔い改めなければならないと言います。しかし、それは無理です。自分でも、思い出せないものがたくさんあります。また、交通事故で死にそうなときには、そんな時間はありません。「救い主、キリストを信じる」この一点だけです。救いの手続きをそんなに難しくしてはいけません。人は、ただ信じるだけで救われるのです。

ところで、ここに集まっているほとんどの方は、すでに救われている人たちです。私たちは、世の終わりがいつ来ようとも、御国に入っているわけですから大丈夫です。問題は、この福音を信じないために救いからもれている人たちのことです。神さまのみこころははっきりしています。ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。私たちクリスチャンは、神の子どもであり、イエス様の弟子です。私たちは「みこころがなりますように、御国が来ますように」と祈っています。でも、それだけで良いのでしょうか?神さまのみこころと同じ、こころを持つ必要があります。神さまはひとりでも滅びることなく、救われるように願っておられます。当然、私たちも神さまの熱い思いをいただくべきであります。そして、福音を伝え、御国の証をすべきではないでしょうか?そして、一人でも多くの人たちが、救われるようにお手伝いする必要があります。教会の使命とは何でしょうか?それは、神さまの願いを実行することではないでしょうか?となると、世の終わりにおいて最も重要な課題は、伝道ということになります。私は「伝道」ということばがあまり好きではありません。「宣教」の方が良いかもしれません。この際、呼び方は問題ではありません。イエス・キリストが私たちのために何をなされたのか?どうやったら罪赦され、永遠のいのちをいただくことができるのか?私たちの隣人に伝える必要があります。もう、私は講壇から同じことを何辺も語っています。私が救いの話や、たとえ話をすると、「もう、何辺も聞いたよ。耳たこだよ」と思うでしょう。それだったら、耳たこの内容を、話せるはずです。たとえ話も覚えているはずです。どうぞ、自分の体験も交えて、福音を伝えてください。それが、世の終わりの時代に生かされている私たちの使命です。子育てや家事、仕事も忙しいかもしれません。しかし、伝道と証しは私たちの生活の真中で、できることであります。私が直接、福音を語ることのできる人は限られています。しかし、ここに集まっている70人の人たちが、3人に伝えたら、210人になります。葛飾区と足立区では、約100万人の人たちが住んでいます。松戸市は約48万人です。亀有教会が1000名の会衆になったとしても、全然、全く、追いつきません。世の終わりは迫っています。どうか、父なる神さまの愛と情熱に押し出されて、ひとりでも多くの人が救われるように、福音を宣べ伝えましょう。

2.主の日の到来

Ⅱペテロ310「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」主の日が、盗人のようにやって来るとはどういう意味でしょう?実は盗人は、「いつ何時にあなたのところに入りますよ」とは教えてくれません。もし、分かっていれば、警察を呼ぶか、棒を持って待っているでしょう。しかし、盗人はいつ来るか分かりません。同じように、主の日、世の終わりもいつ来るか分からないのです。では、どうしたら良いのでしょうか?その対策が、Ⅰテサロニケ5章に書いてあります。Ⅰテサロニケ52-6「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」この世の中には大きく分けて二種類います。暗やみの者で、暗やみの中に住んでいる人たちです。言い換えると、神さまから離れ、罪の中にいる人たちです。もう一種類は、光の子どもであり、昼の子どもです。言い換えると、神さまの救いをいただき、光の中を歩んでいる人たちです。しかし、問題が1つあります。一時、光の子どもになったのに、暗やみの中に住んでいる人たちです。そういうケースはありえるでしょうか?ありえると思います。ロトとその家族は、ソドムとゴモラに住んでいました。まさしく、そこは暗やみの世界です。しかし、アブラハムのとりなしによって、御使いが遣わされました。「滅びがやってくるから逃げよ」と言っても、すぐには信じませんでした。御使いが手をひっぱって、やっと町から脱出することができました。教会から離れ、霊的に麻痺しているということはありえます。永遠のいのちは持っているけど、この世の罪の中にどっぷり浸かっている。そういう人には、主の日が盗人のようにやってきます。パウロが言っています。Ⅰテサロニケ58-9「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」アーメン。

もう1つ、後半のメッセージでお伝えしたいことがあります。それは10節後半のことばです。「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」日本語の聖書は「天の万象は焼けてくずれ去り」となっています。でも、天の万象とはどういう意味でしょうか?ギリシャ語では「天体の基本的な要素」となっています。英語の聖書には、elementsとなっています。天体を構成している、成分とか要素という意味になります。つまり、神さまは新しい天を造る前に、古いものを消滅させるということです。だから、その日には、天は大きな響きをたてて消えうせるのです。もう1つ地はどうでしょうか?「地のいろいろなわざは焼き尽くされる」とあります。いろいろなわざとは、いろいろな働きです。日本語では「焼き尽くされる」となっていますが、原文は「あらわにされる、発見される」という意味のことばです。つまり、火によって焼かれることにより、その働きがどういうものであったのか、あらわにされるということです。ある働きは焼き尽くされ、またある働きはちゃんと残るということです。私はこのことを考えたとき、Ⅰコリント3章のみことばを思い出しました。Ⅰコリント3:12-15「もし、だれかがこの土台(キリスト)の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」

このみことばは、コリントの教会にあてられたものです。コリント教会には、「私はアポロにつく」、別の人は「私はパウロにつく」と、ねやみや争いがありました。いろんな賜物をもって、いろんな働きしていましたが、動機が不純でした。パウロが教会の土台を据えました。土台とはイエス・キリストです。その上に、教会の人たちが神の家を建てなければなりません。しかし、ここにいろんな材料が記されています。これらの材料を2つに分けることができると思います。一方は火で焼かれてなくなるもの、もう一方は火で焼かれたとしても残るものです。金、銀、宝石は、おそらく残るでしょう。私はこれら3つのものにほとんど差がないと思っていました。チョー・ヨンギ師が「365日のマナ」という本を書いていますが、このように解説していました。ここで言う、黄金とは、王権と父なる神を象徴しています。神を愛して黄金の家を建て、審判の日によくやったと称賛されるように。銀とは何でしょう?旧約聖書を見ると人々は罪の赦しを受けるときに銀を捧げて罪の赦しを受けたと書かれています。ですから「銀」は救いを意味していました。行いではなく、キリストを信じる信仰によって建てるなら、神のさばきの火を免れることができます。宝石とは何でしょう?宝石とは聖霊の9つの実と9つの賜物が宝石なのです。9つの実と9つの賜物の輝かしい宝石で整えられて、その人は神の審判の日に、大きな祝福と称賛を受けることになるのです。後半は、木、草、わらです。1つ1つ説明しませんが、これらは火でやかれると燃えてなくなります。おそらく、たやすいもので信仰生活を建てたのでしょう。

マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」アーメン。木、草、わらで家を建てるとは、二流品の材料で家を建てるということです。自分の生活、自分のお金、自分の時間、自分の願いが第一です。そして、そのあまったものを神さまにささげ、家を建てるということです。クリスチャン生活も、あまりものをささげることがあるかもしれません。また、表向きには信仰的に熱心であっても、裏ではそうでないという場合もあります。牧師やリーダー役員は本当に注意をしなければなりません。その働きが、神のさばきの火によって焼き尽くされるかもしれません。この世にはたくさんのボランティア活動、NPO団体があります。そういうところに時間や労力を捧げている兄弟姉妹がおられると思います。とても、良いことだと思います。しかし気をつけなければならないことがあります。この世の価値観は、ヒューマニズム、人本主義の考えです。簡単に言うと「人間を救うのは人間である」という考えです。彼らの中には世界を支えておられる神さまがいません。だから、自分たち、人間がやらなければならないと思っています。人種差別、貧困問題、エネルギー問題、失業問題、不登校やひきこもり…本当にやるべきことがたくさんあります。もちろん、教会もNPOを取ってやっているところもあります。私もそういうことをしながら、伝道すべきだと思います。アーメンです。でも、この世界を造り、保持しておられるのは神さまです。私たちはその中にほんの1部を手伝うことしかできません。もしも、一生懸命やったのに、さばきの火によって焼き尽くされたら悲しいですね。Ⅱペテロ310「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」私たちは、このみことばから、神を恐れるというか、畏敬の念をいだかずにはおられません。聖歌に『ゆうべ雲やくる』という賛美があります。これは、再臨信仰で有名な森山諭先生が作られた歌です。あるとき、空いっぱいの真っ赤な夕焼けを見たとき、「ああ、主がやって来るのではないか」と思ったそうです。「夕べ雲焼くる空を見れば、主の来たりたもう日のしのばる。ああ神の前にわれいそしまん。わざやむる時の間近きいま」。「神の前にいそしまん」とは、神の前で、神と共に生活するということです。そして「わざやむる時の間近きいま」とあります。森山諭先生にとって、わざとは、伝道のみわざでした。『夕べ雲焼くる』という先生の自叙伝があります。朝、5時から田んぼの仕事をし、日中は伝道活動をします。やがて、用いられてくると、先生は北に南にと、伝道し、ほとんど家にいませんでした。家は農家で、奥さんが田んぼを作っていました。お米を農協に出して得たお金も全部、伝道につぎ込んだそうです。家族は、田んぼと畑で生きて行くことは可能だったようです。今の牧師や伝道者はとても真似することはできません。でも、「世の終わりが間近い、だから一人でも多くの人に伝道しなければ」と思ってやったのです。考えてみれば、世の終わりは、伝道のチャンスです。ひところはそうでもなかったかもしれませんが、今、「世の終わりが来ますよ」と言っても、否定する人は少ないでしょう。大地震とか異常気象、資源の枯渇…「ああ、世の終わりが来たのかな?」と思っています。しかし、私たちは世の終わりに絶えられる救いを持っています。永遠のいのちと、永遠の御国を持っています。罪と死に打ち勝たれた、イエス・キリストを信じるなら救われるのです。世の終わりも近づいていますが、神の国も同時に近づいています。一刻も早く、世の終わりのさばきから逃れて、神の国に入る必要があります。そんなに複雑に説明する必要はありません。世の終わりのさばきから逃れたかったなら、救い主、イエス・キリストを信じれば良いのです。キリストこそ救い、キリストこそ永遠のいのちです。この方を信じていれば、いつ世の終わりが来ても、大丈夫です。

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2012年10月21日 (日)

大喜多正洋先生を迎えての特別礼拝

本日は、大喜多正洋先生を迎えての特別礼拝になりますので、原稿を用意できませんでした。

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2012年10月14日 (日)

この世の終わり    Ⅱペテロ3:1-7

昔、The end of the worldという歌がありました。失恋の歌でした。失恋が、世の終わりという気持ちも分からない訳ではありません。しかし、「世の終わり」は歌だけではなく、いろんな宗教、いろんな預言者が語っているテーマです。かなり前にはノストラダムスの大予言がありました。最近はマヤ暦人類滅亡説というのがあり、今年がその年に当るようです。聖書も世の終わりについて、述べていますが、それは単なる終わりではありません。主イエス・キリストが再び来られ、神の国が完成する時であります。つまり、一方では「この世の終わり」でありますが、他方では「御国の完成」であります。

1.世の終わりの言及 

Ⅱペテロ31-4「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」ここに、ペテロが何のためにこの手紙を書いたのか、その目的が示されています。ペテロは、彼らの「記憶を呼びさまさせて、純真な心を奮い立たせるため」に手紙を書きました。彼らは何かを忘れていたのです。3節には「終わりの日」と書いてあります。また、4節には「キリストの来臨」とも書いてあります。来臨と言ったり、再臨と言ったりします。ということは「世の終わり、キリストが再びやって来られる」ということを思い起こさせるために、この手紙を書いたのです。彼らは日常の生活に追われて、キリストの来臨についてすっかり忘れていました。これは、ペテロが生きていた時代だけではありません。今日の教会でも言えることです。日本のキリスト教会において、聖書が言うかたちで世の終わりが来ると信じている人たちはどれくらいいるでしょうか?おそらく半分くらいでしょう。他の半分くらいは象徴的に捉えているかもしれません。世の終わりとか、キリストの来臨について話すのは、タブーになっている教会もあります。昭和5年くらいに大勢の人が救われるというリバイバルが起こりました。そのとき、熱心な人たちが「世の終わりが来た、まもなくキリストは再臨される」と言いました。ある人たちは白い衣を着て、屋根に上って旗を振って待っていたということです。しかし、主は再臨されませんでした。そのため教団が分裂し、再臨についてあまり語らなくなりました。「あつものに懲りて、なますを吹く」ということわざのとおりです。

しかし、世の終わり、主が来臨されるということは、聖書全体に書かれている大事なテーマです。ペテロはまず、「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことば」と述べています。これは、旧約聖書の預言者たちのことです。多くの預言者は、世の終わりについて預言しています。特に有名なのは、イザヤ書です。あとは、ダニエルやエゼキエル書にも書いてあります。これらの書物には、世の終わりだけではなく、完成した御国がどのようなものであるかまで記されています。また、旧約聖書の最後に集められている小預言書には、「主の日が来る」というさばきの預言に満ちています。主の日は恐ろしいのです。なぜなら、悪が完全にさばかれるからです。旧約聖書の一番最後にあるマラキ書4章にこうあります。「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は仰せられる──」。これを読んだら、一日も早く、神様と和解しなければならないと思うでしょう。では、新約聖書ではどうなのでしょうか?ある神学者は「新約聖書の10分の1は再臨について書かれている」と言いました。ペテロは「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるため」と言っています。使徒たちとはだれでしょうか?イエス様と直接会った人たち、もしくは使徒たちの証言をまとめた人たちであります。たとえば、マタイ、マルコ、ルカはそれぞれの福音書にイエス様がおっしゃった教えを書き留めています。たとえば、マタイ25章には再臨の主をどのように待つべきか、いくつかのたとえ話があります。花婿を待つ10人のおとめのたとえ、タラントのたとえがあります。それから、羊飼いが羊と山羊をわけるたとえがあります。片方の人たちは御国を受け継ぐけれども、もう片方はそうではないということです。こう言う箇所を見てわかりますが、世の終わり、主が再臨されたとき、白黒はっきりさせられるということです。

ペテロは「記憶を呼びさまさせ」「心を奮い立たせ」「思い起こさせる」と言っています。「記憶を呼びさまさせ」は英語で、stir upになっています。これは、「かき回す」とか「奮起させる」という意味のことばです。なぜ、こんなことをしなければならないのでしょうか?なぜなら、「世の終わり」とか「主が再び来る」というのは、いつの日なのか分からないからです。「来る」、「来る」と言って、もう2000年もたっています。だから、「そんなのは嘘なんだ。脅かしなんだ」という人も当然、現れるでしょう。ペテロの時代ですら、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」とあざける人たちが起こっていました。今日、そういう人がいても不思議ではありません。弟子たちはイエス様に「いつ終わりの日が来るのですか?」と質問しました。イエス様は世の終わりの前兆についてはいくつか話されましたが、いついつですとは言われませんでした。なぜでしょう?もし、○○年○○月に、主が再臨されると分かったならどうでしょう。それまでは来ないということになります。そうすれば、「まだ来ないのなら」と自堕落な生活をするでしょう。ある人は悪知恵を働かせて、その日まで、借金をいっぱいしておくかもしれません。借金を踏み倒して、天国に行くという人も出てくるでしょう。だから、イエス様はいついつですとは言われませんでした。多くの人たちは、「自分が生きているうちには来ないだろう」と高をくくっています。そして、今、現在の生活に埋没してしまうのです。地にべったりと足をつけ、「生きているうちが花だ」みたいな自堕落な生活をするでしょう。つまり、再臨の信仰のない人たちは、どうしても生ぬるくなるということです。だから、時々、このようなメッセージをして、かき回す必要があるのです。ところで、日本は大地震が起こるという予報に満ちています。少し前は、南関東直下地震でした。その後は東海地震、その後は南海トラフ巨大地震まで発展しました。また、日本中に活断層が走っているということで、安全な場所がありません。世の終わりも心配ですが、日本は大地震でなくなるかもしれません。そういう意味で、私たちは恐れと共に、正しい緊張感を持つ必要があります。世の終わりもそうですが、大地震も、最後のリバイバルとなります。私たちクリスチャンは、この世の人たちと同じように恐れてはいけません。もちろん、地震や災害に備える必要があります。そうなったら、日本経済はパンクするかもしれません。その時、人々の心が動揺し、確かなものを求めるでしょう。そういう時こそ、私たち一人ひとりが、聖書の神さまを証しするチャンスとなるのです。自分が生き延びるということも重要ですが、一人でも多くの人が永遠の御国に入ることができるように助ける必要があります。イエス様はルカ福音書でこのように嘆いています。ルカ188「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」これは、世の終わり、人々の信仰が覚めているだろうか?あるいは無くなっているかもしれない、ということです。私たちは世の中がどのようになろうとも、人々がどう言おうとも、聖書のみことばに信仰を置くべきです。なぜなら、聖書のみことばは、たとい世の終わりが来ても、永遠に残るからです。

2.世の終わりのありさま

ペテロの時代、世の終わりなんか来ないという人は、どのようにあざけっていたのでしょうか?Ⅱペテロ3:4-7 次のように言うでしょう。「『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」ここには、世の終わりがどのようなものか、一部、言及されています。あざける人たちは「父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」と言っています。父祖たちとは、イスラエルの先祖たちのことです。旧約聖書にはノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、12部族、それから王様がたくさん出ました。ペテロの時代でも、ノアの時代から3000年くらいたっていたでしょう。それでは、創造の初めはどのくらい前なのでしょうか?中世の学者は人類の誕生が、紀元前6500年と言いましたが、定かではありません。進化論者は人類の歴史が20万年前と言いますが、そんなに古くはないと思います。では、地球ができたのはどのくらい前なのでしょうか?これも分かりません。ペテロは、「天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成った」と言っています。創世記1:9-10 「神は仰せられた。『天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。』そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。」創世記によりますと、地は神のことばによって、水と分けられてできました。その後、どれくらいたったか分かりませんが、ノアの時代、大洪水にみまわれました。だから「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました」と書いてあるのです。当時の世界とは、洪水前に生きていた人たちです。何千万人にいたか分かりません。また、かなり進んだ文明を持っていたでしょう。だけど、ノアの家族8人以外は、みな滅びました。この地上も、洪水前とでは、随分と変わった環境になったでしょう。しかし、大事なことがここに書かれています。それは、最初は地が洪水によっておおわれて滅ぼされたということです。創世記9章に神さまがノアと全被造物に結ばれた契約が記されています。そこでは神さまは「大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と約束しました。つまり、大洪水では滅びないということです。

しかし、世の終わりはそうではないと、ここに書かれています。Ⅱペテロ3:7 「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」これはどういう意味でしょう?ノアの時代、この地上は、水によって滅ぼされました。確かに神さまは、「水によっては滅ぼさない」と約束はしました。しかし、「今度は」、というか世の終わりはそうではありません。水ではなく、火によって滅ぼすと預言されています。水も恐いですが、火はもっと恐いですね。この火はさばきのためであり、同時に、この世を再生するためでもあります。さきほど、ご紹介した旧約聖書の預言書には「主の日が来る」と預言されています。そして、その時、火によってさばかれるとも書いてあります。イザヤ書6615-16「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。」これは、まさしく主が再び来られるときの預言です。イエス様が地上にいた頃のユダヤ人は、こういうメシヤを望んでいました。メシヤが来て、ローマ帝国を滅ぼし、イスラエル王国を再建させてくださると信じていました。だから、バプテスマのヨハネは「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。しかし、火のバプテスマが来ませんでした。そのため、牢獄に捕らえられていたヨハネは「来るべきお方はあなただったのですか?」と弟子たちを通して聞いたのです。メシヤであるはずのイエス様が、十字架で死んでしまいました。だから、弟子たちは失望し、みんなどこかに逃げ去ったのです。神さまの計画は、人間の考えと違っていたのです。神さまはこの地上を火で滅ぼす前に、なんとかご自分と和解してもらいたかったのです。そのため、御子イエスを和解の君として、地上に遣わしたのです。イエス様が来られてから、約2000年経ちます。どうして、世の終わりのさばきが来ないのでしょうか?その答えは、Ⅱペテロ39に書いてあります。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」ここに神さまのみこころがはっきりと示されています。神さまはさばきの神さまではありません。神さまは忍耐の神さまであり、『ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

ということは、予定されている神の国に入る人数にまだ達していないということです。神の国は私たちが考えている以上に、広いところかもしれません。この地上では人口問題、食糧問題、環境問題に頭を抱えています。人口が増えたら良いことはないと人々は考えています。だから、中国では一人っ子政策が続けられています。そのために、インドの人口が中国を抜くかもしれません。資源の枯渇、狭い国土にあふれる人口、魚も獲れない、旱魃のため穀物が取れない、「わぁどうしよう?」これが、人類が抱えている問題です。人類に未来はありません。しかし、神の国には、そういう問題が全くありません。神さまはちゃんと住むべきところを用意しておられます。イエス様が何とおっしゃったでしょうか?ヨハネ1412-13「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」イエス様は地上では大工でした。一般的に、大工の仕事は家を建てることです。おそらく、イエス様は神の国の住まいを建てるために、今も働いておられることでしょう。「しかし、イエス様、2000年もたっているんですよ?どうしたんですか?」と文句を言いたくなります。でも、神の子であるイエス様が2000年もかけて建てたお家は、どれほどすばらしいものでしょうか?やっぱり、神の国の総人口を考えたら、そのくらい時間がかかるかもしれません。今も、東北では仮設住宅で住んでいる方が大勢いらっしゃいます。また、洪水で家が流されて、仮設住宅に住んでいる方もおられるでしょう?天にある、御国の家は、仮設住宅ではありません。大邸宅、マンションです。テレビで大富豪の大邸宅を見たことがあります。信じられないくらい大きな応接間があり、ベッドルームが10個くらいあります。ガレージには外車が何台もあり、中庭にはプールまでありました。「ま、そこまで贅沢でなくても良いです。書斎と3LDKがあれば十分です」と言いたくなります。

ある人々にとっては、世の終わりは「人類の破局」です。しかし、イエス様を信じて救われている人にとっては「人類の希望」です。みなさんはどちらの方に立っておられるでしょうか?「人類の破局」ですか、それとも「人類の希望」でしょうか?この教会には、ご夫婦でありながら、お一人は「人類の破局」の方に立ち、またお一人は「人類の希望」に立っているかもしれません。それだったら、非常に淋しいのではないでしょうか?行くところが同じであるならば、どんなに素晴らしいでしょうか?私たちは2つの焦点を持っためがねを持つ必要があります。昔の遠近両用のめがねは、上の方が遠くを見る近眼用です。そして、下の方にレンズがかぶさっていて、近くを見る遠視用です。1つのめがねなのに、2つの焦点があります。私たちも遠くを見る目、近くを見る目の両方が必要です。遠くというのは、自分が生きているときは、世の終わりが来ないかもしれないということです。私たちには地の塩、世の光としての使命があります。主が来られる日まで、ビジネスや政治、教育、芸術の世界にクリスチャンを送りこんで、神の栄光をもたらす必要があります。もう1つは、近くを見る目です。私たちが生きているうちに世の終わりが来る、もしかしたら今晩かもしれないと備えることです。テサロニケの教会のある人たちは、まもなく世の終わりが来ると考え、今の生活を投げ出していました。パウロは何と言っているでしょう?Ⅱテサロニケ311-12「ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」これは、世の終わりを強調しすぎる極端な人たちです。「この世は終るんだから。仕事をしても仕方がない。楽しく暮らそう」。もう、地に足がついていません。フラフラ、宇宙遊泳している人です。パウロは「落ち着いた暮らしをして、主がいつ来られても良いように備えておきなさい」と命じています。これは私たちの人生においても同じです。世の終わりがいつくるか分かりませんが、同時に自分の人生もいつ終わりがくるか分かりません。だから、私たちは長期的な目標と同時に、明日、死んでも良いという悔いのない人生を送る必要があります。「身の回りを整理する」というと何か不吉な感じを与えます。でも、私たちはあんまりごちゃごちゃしていると後の人が大変です。たとえば、再臨で、あるクリスチャンが天に引き上げられたとします。地上に残された人が、その人の部屋に入ってびっくりすることのないようにしましょう。「こんな本を読んでいたの。変なDVDもいっぱいあるよ」と、言われないようにしましょう。では、どんな生活をすべきなのでしょうか?第一は、これまで生かされてきたことを感謝するということです。人々にも神さまにでもです。第二は、隠れたところで見ておられる神さまを意識して生きるということです。第三は、霊的に目をさまして、慎み深く生活しているということです。そうすれば、いつ来ても大丈夫です。この世の終わりが来ても、また、自分の人生の終わりが来ても大丈夫です。

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2012年10月 7日 (日)

背教への誘惑     Ⅱペテロ2:18-22

私が第一、第二ペテロを選んだのは、世の終わりについて書かれているからです。5年くらい前に、オーストラリアの牧師が「日本の何箇所かで大きな地震が起こる」と預言しました。今は、そういう預言を信じていない人でも、「大地震が起こる」と恐れています。地震に備えることはもちろん大切ですが、その後に、起こるリバイバルのために備えることも重要です。日本は、そういうことが起こらないと、まことの神さまを求めません。神さまは世の終わりが来る直前に、日本が救われるチャンスを与えてくださると信じます。

1.背教への誘惑 

ここ数回、「にせ教師」について学んでいます。こういうテーマが続くとイヤになるかもしれません。なぜ、こういうことが語られているかと言うと、世の終わりににせ教師が多く現れるからです。彼らは一体、何をするのでしょうか?Ⅱペテロ21「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことをする」と書いてあります。「自分たちを買い取ってくださった主」とありますので、クリスチャンになった人たちだと思います。彼らは、既に救いを得ています。しかし、その人が異端の教えを信じて、主を否定するならば滅びる可能性があるということです。先日、「新天地イエス教」という宗教団体から手紙が来ました。これは韓国の異端ですが、クリスチャンを捕らえ、やがては教会を乗っ取ろうという団体です。他の新興宗教もそうですが、なぜ、クリスチャンを自分のところに改宗させようとするのでしょう?「あるところでは、クリスチャンを改宗させると、3倍の功績になる」と聞いたことがあります。なぜかと言うと、クリスチャンがこちらに来たということは、「こっちの宗教が正しい」という証明になるからです。私たちで言うなら、良い証しになるということです。たとえば、他宗教の人が回心して、クリスチャンになったならば、良い証しになるでしょう。そのようなことを、新興宗教やキリスト教の異端が、熱心にやっているということです。エホバの証人では、「私はクリスチャンで教会に通っていますよ。だから結構です」と言っても、引き下がりません。「一緒に聖書を勉強しましょう」と家に上がりこんできます。なぜでしょう?クリスチャンを改宗させると、何倍もの功績になるからです。

 では、にせ教師たちは、どのように私たち信仰者を誘惑してくるのでしょうか?Ⅱペテロ218-19「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」まず、「むなしい大言壮語を吐いている」と書いてあります。「むなしい」とは、「空虚な、内容のない、無価値な」という意味です。「大言壮語」は、「大きすぎる、尊大な、思い上がった言葉」という意味です。大体、教祖には、そういうところがあります。ある教祖は、たくさんの本を出版しています。本には「自分に神さまから啓示が与えられ、この世に平和をもたらすために選ばれた」みたいに書いています。そこに有名人が加入すると、「本当なのかも」と思ってしまいます。さらに、多くの人たちがその団体に加入すると、それが真実のように見えてきます。彼らの話を聞くと、まさに「むなしい大言壮語」です。ところどころに、聖書のことばを引用しています。また、世界に知られている神さまの名前を並べています。共通しているのは、「自分が最高の啓示者であり、メシヤの生まれ変わりである」と大胆に明言することです。次に「誤った生き方をしている」と書いてあります。どのようにして誤った生き方が分かるのでしょうか?すぐ分かるのは金銭の用い方です。べらぼうに高い住宅に住んでいたり、高級品で身を飾っています。それから、結婚が不健全です。結婚していても、他の多くの女性と関係を持っています。ある場合は、相手が信者の奥さんであったりします。イスラムではそうではないようですが、重婚は罪であります。このように、「そういうことはおかしいだろう?」ということをやっているのです。ですから、私たちはその人の教えとその生活ぶりを、チェックする必要があります。そういう意味では、伝道者や牧師も危ないです。牧師夫妻が、仮面夫婦になっている。人前では仲良くやっていても、実はもう離婚状態ということもありえます。お寺だったら、「お墓さえ、守ってくれればそれで良い」となるかもしれません。しかし、キリスト教会は、倫理的にとても高いので、無理です。牧師は辛いですね。ぜひ、お祈りください。

 さらに、にせ教師たちはどのように誘惑するのでしょうか?「ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し」とあります。せっかく、イエス様を信じて、この世から御国に入りました。しかし、クリスチャンになっても、内側に肉があります。地上で生きている限り、完全になくなるということはありません。しかも、誘惑に負けやすい人というのは、ようやくそれをのがれようとしている人、つまり信仰的に弱い人です。もちろん、信仰のベテランでも、誘惑はあります。しかし、神様にすべてをささげて、従っていないクリスチャンは危ないです。多くのクリスチャンは、この世と神の国の間を行き来しています。日曜日、教会では「私はクリスチャンだ。ハレルヤ!アーメン」と告白するかもしれません。しかし、家に帰ると全く、別の人になります。そして、月曜日から土曜日まで、この世の価値観で生活します。聖書を一回も開かない。そして、次の日曜日、教会にやって来ます。なんとか、信仰生活を保っている状態です。そういう人に、にせ教師たちは「肉欲と好色によって誘惑する」のです。「誘惑」は、原文では「餌でおびき寄せる」という意味があります。肉欲や好色という餌で釣ろうとするのです。キリスト教会には「十戒」があります。また、山上の説教のような倫理的に高い教えがあります。しかし、「そういうものは律法主義で、古い教えだ」と言うかもしれません。「あなたは律法から解放されて自由な生き方ができます。これが本当の自由です」と言うでしょう。リビングバイブルはこのところをこう訳しています。「善人になったからって、救われるもんじゃないんだよ。それなら、いっそのこと、悪いことをした方が、ましじゃないか。やりたいことは、やればいい。それが自由というもんだ。」しかし、それは自由ではなくて、放縦であります。なぜなら、神さまが定めたきまりの中に、本当の自由があるからです。

 ペテロは「人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです」と言っています。現代訳聖書は「人はだれでも何らかの奴隷になっているものである」と訳しています。にせ教師たちは、自由を与えるようなことを言いながら、最後にはその人を支配します。大体、新興宗教の場合は、いろんな恐れや呪いによって、その人を支配します。「ここを離れたら、無限地獄に落ちるぞ」とか言います。そして、教団や教祖の言いなりになります。もう、そこから抜けられません。ここに記されている「ようやくそれをのがれようとしている人々」とはクリスチャンであります。なぜなら、20節には「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ」と書いてあるからです。確かに、その人たちはイエス様を信じてはいたと思います。しかし、それは「知る」というレベルではなかったかと思います。このところに使われている「知る」はギリシャ語で、エピギノスコーで「完全に知る」という意味です。すばらしいことばです。この人は知的に神さまを知っています。しかし、心は神さまにささげていません。つまり、他のものに仕え、神さまの奴隷にはなっていません。だから、誘惑に負けてしまうのです。がっちりイエス様に結ばれている人は、誘惑を跳ね返すことができます。しかし、イエス様を信じていながらも、自分の本当の価値をこの世のものに置いている人は危険です。その人は名誉や業績、持ち物、人々の評価を偶像にしています。「私は神さまに仕えています」と言いながらも、そういう副産物に仕えているならどうでしょう?私たちは頭、知性で神さまを知ることも重要ですが、心を神さまにささげることがもっと重要です。パウロは「私はキリストのしもべ、キリストの奴隷である」と言いました。いろんな名刺があります。牧師も名刺にいろんな肩書きをのせています。本当は自分一人しかいないのに「主任牧師」と書いたりします。○○団体の代表、○○博士、何行も肩書きを書きます。でも、「キリストのしもべ」にはかないません。私は「神さまの奴隷であり、神さまがしなさいと言ったこと以外はしません」。すばらしいですね。どうぞ、みなさんも、キリストのしもべ、神さまの奴隷になってください。そうしたならば、にせ教師の誘惑に簡単にはまることはありません。一番、危ないのは中途半端な信仰です。イエス様はヨハネ黙示録で「あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」とおっしゃっています。

2.背教者の行方

 「一度、救いを受けた者が滅びることがあるのか?」という神学的な問題があります。たとえば、永遠の命というのは、いわば、尽きることのない命です。イエス様を信じて、永遠の命をいただいたのだったら、これから永遠に生きられるということです。もし、何かの原因でその人が、信仰を棄てたとします。すると、その人に与えられた永遠の命がなくなるのでしょうか?永遠の命をいただいていたなら、失われることはありません。これは、改革派の神学から来た考えです。改革派は一度信じた者は、滅びることがないという神学を持っています。私も以前は、この立場に立っていました。しかし、聖書のあちこちを見ると、「いや、そうでもないなー」という考えに変わりました。その根拠になるところが、きょうの箇所です。Ⅱペテロ220-22「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」改革派の立場の人は、「イヤ、その人は始めっから救われていなかったんだ」と言うでしょう。しかし、それは無理があるように思えます。この人は、主であり救い主であるイエス・キリストを知り、世の汚れからのがれた人です。また、この人は、義の道を知って一度は神さまに従った人です。しかし、何らかの理由で、信仰を棄てた人です。こういう人を聖書では、背教者と言います。Ⅱテサロニケ23「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」と書いてあります。この箇所は、「世の終わりに、背教が起こるから気をつけよ」ということを教えています。せっかくイエス様を信じて救われたのに、その信仰を棄てるとはどういうことでしょうか?

 明治時代は開国とともに、西洋のいろんな文化が入りました。いわゆる文明開化です。そのとき、キリスト教も一緒に入りました。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治など、多くの文豪たちは聖書を読みました。彼らは頭ではキリストを知りましたが、心をキリストにささげるところまでは行きませんでした。しかし、有島武朗という文学者はキリストを信じて、洗礼も受けました。『カインの末裔』『生まれ出ずる悩み』『或る女』などを書きました。彼はあとで「私はキリスト教信仰を棄てます」とはっきり断言しました。普通は、ひっそりと教会を去るのですが、断言する人はめずらしいです。最後に彼は女性と一緒に自殺しました。彼の師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」と言明したそうです。彼のように、自らの意思で「私はキリスト教信仰を棄てます」と言うならば、その信仰が有効かどうか、ということです。イスラエルは背教の歴史です。イスラエルの民はせっかく、エジプトから救い出されたのに、神さまに従いませんでした。そのため、古い世代はみんな荒野で死にました。ヨシュアとカレブ、そして新しい世代が、約束の地カナンに入りました。しかし、カナンの地に入ってからも、神さまに従わず、偶像を礼拝しました。預言者たちは「背信の子らよ、帰れ」と言いました。やがては、メシヤであるイエス・キリストを十字架に付けたのです。神さまはどうしたでしょうか?「一度はユダヤ人を棄てたが、世の終わり、再び、チャンスを与える」と約束しています。聖書の歴史を見て分かりますが、「信仰を棄てますか、ああ、そうですか。あなたは地獄行きですね」と簡単には行かないということです。まさしく、イエス様が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というとりなしの祈りがあると信じます。イエス様はご自分を裏切ったユダを、最後まで愛し、最後までチャンスを与えておられます。神様の愛は変わらない愛、永遠の愛であることは確かです。

 もう一度、背教ということを考えてみたいと思います。一度、信じた者が滅びる可能性はあるのかということです。ヘブル6章に、この箇所と似たみことばがあります。ヘブル64-6「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」このみことばの解釈は2つあります。改革派の信仰を持つ人は、「まさか、そういうことがあるだろうか?」と逆説的に捉えています。逆説的に、「一度救われた人が滅びるわけがないだろう?」と解釈しています。しかし、この聖句を文字通り解釈するなら、「救われた人が堕落したならばもう無理だよ」と言っているのではないかと思います。Ⅱペテロ2章に戻ると、堕落した人は、さらに悪くなると言っています。そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」中川健一先生が、ハーベストタイムというTV番組でこのように語っていました。「世界で最も聖い人たちとはだれか?それはクリスチャンです。では、世界で最も醜くて汚れている人はだれか?それもクリスチャンです。」とおっしゃっていました。昔、川上宗薫というポルノ小説家がいました。なんと彼は牧師の子どもです。長崎の原爆で、母と二人の姉妹が死にました。それで、父は棄教したということです。そのために、彼も道をそれたのでしょう。ニーチェも牧師の子どもで洗礼を受けました。しかし、大学生のとき当時の哲学に傾倒し、信仰を棄てました。そして、「神は死んだ」と言って虚無主義を主張しました。ニーチェは、最後に発狂して死にました。なぜ、一度信じた人が堕落すると普通の人より悪くなるのでしょう?未信者は「バチが当る」とか言って、神を恐れています。しかし、一度、神さまを信じて堕落した人は、神さまを恐れません。なめてかかっています。だから、さらに悪くなるのです。

 22節「彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」豚は本来、綺麗なところが好きなようです。しかし、本能的にどろの中にころがるようです。問題は、汚れた罪の状態に戻るかどうかということです。本当に救いを得ている人はどうでしょうか?汚れたら、また洗うでしょう?同じように、罪を犯しても、「これは本来の私ではない」と悔い改め、主に立ち返るでしょう。これができる人と、これができない人がいます。倒れたら倒れっぱなしの人、あるいは倒れても立ち上がる人がいます。どうして、そんな風に分かれるのでしょう?私はその人の神観に関係があると思います。あわれみ深い神さまを信じているか、あるいは愛のない厳しい神さまを信じているかです。別な言い方をすると、泥んこの中で、神さまと出会っているか、ということです。私は田舎で育ちましたが、家の近くにはどぶ川がありました。そういうところに落ちると大変です。ズボンに黒光りした泥がつき、体から臭い匂いがとれません。たまに、子どもがどぶ川にはまることがあります。そうすると、お母さんは「どこ見て歩いているの?」と大声を上げて叱ります。それで、井戸の近くで服を脱がせ、ザバザバ洗ってくれます。これが母の愛です。子どもはただ「仕方がないなー」という顔をしています。私もこういう経験をしたことがあります。もう、どうしようもない。これは、汚れた罪の状態に陥ったのと同じです。でも、あわれみに富んだ神さまは、私たちの罪を洗い流してくださいます。イザヤ1:18 「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」こういう体験を何度か積むと、「申し訳ないから、もうやめよう」と思うようになります。神さまの愛は永遠の愛です。エレミヤ313「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」とあります。神学校の先生が、「永遠の愛とは、これっきりの愛ではない愛である」と定義しました。昔、「これっきりもう、これっきりーですか?」という歌がありました。私たちの愛は、2回、あるいは3回で限度です。「ああ、この人はこういう人なんだ」と関係を断ってしまうでしょう。しかし、神さまの愛は、永遠の愛です。何度でも赦すお方、無限に赦すお方です。

イエス様の弟子でペテロとユダがいます。ペテロはイエス様を3度も知らないと裏切りました。ユダは「あれがイエスです」と祭司長たちにイエス様を売りました。どちらも大きな罪です。ペテロは「どの面下げて」と思われても、イエス様のところに戻りました。しかし、ユダは「私は罪を犯した」と後悔して、自殺しました。二人とも大きな罪を犯しましたが、どこが違うのでしょう?ペテロは「イエス様はきっと赦してくださるだろう」と思って、立ち返りました。しかし、ユダは「イエス様はきっと赦してくださらないだろう」と思って、自分で罪を清算しました。ここの違いです。イエス様は「770倍赦しなさい」と弟子たちに教えられました。なぜでしょう?自らがそういうお方だからです。無限の愛と無限の赦しを本当に受け止める人は、堕落しません。たとえ、罪を犯して倒れても立ち上がることができます。そういう、あわれみに富む神さまと出会いましょう。

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