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2012年9月30日 (日)

 ~どうしても必要な事~  <ルカの福音書 10章38節-42節>  亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ルカの福音書 10章38節-42節>

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎え

     した。

10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が

     私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、  

     妹におっしゃってください。」

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだの  

     です。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

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昨年の10月に牧師の任命を受けてからもうすぐ一年が経とうとしています。時々この講壇に立たせていただいていますが、実は今年から自分の中では、メッセージに関して自分なりのテーマを課しています。

それは、イエス様がどのような御方で、私たちをどのように愛してくださっているかという事をみことばから伝えると言う事です。ですから、必然的に新約聖書から語ることが多くなるのですが、今までエペソ2章から神様との和解をさせてくださったイエス様、やもめの献金の箇所からイエス様の慈しみのまなざし、イエス様が弟子たちの足を洗われる箇所から、イエス様がしもべとなって仕えてくださるお姿について語りました

今日は、イエス様が如何にどんな人でも相手の立場や存在を認めて尊重してくださっているかについてお伝えしたいと思います。

1. ベタニヤの兄弟姉妹を愛したイエス様

このマルタとマリヤのお話は、この直前に書かれている良きサマリヤ人のお話と合わせてルカの福音書にしか出てこないお話しです。ルカという人はパウロの伝道旅行に同行した人で、そこではギリシャ人で医者だと紹介されています。伝承では、画家だったとも、歴史家だったとも言われていますが、ルカは、このルカの福音書と使徒の働きの筆者として知られています。

ルカの文章全般の特徴のひとつとして挙げられるのは、ルカは男性と女性との記述を公平に扱ってセットにしている事が多いということです。例えば、イエス様が生まれた時のルカの福音書2章の記述では、神殿で生まれたばかりのイエス様を老人シメオンが褒め称えたすぐ後に、年老いた女預言者アンナを登場させています。7章では百人隊長のしもべが病気で死にかけているのをおことばひとつでイエス様が癒された記述のすぐ後に、ナインのやもめの一人息子をイエス様が生き返らせる記述があります。8章には12弟子と大勢の群衆と共にいた女性たちの名前を多数挙げて、他にも大勢の女性たちが仕えていたことが書かれています。そして、このマルタとマリヤのお話も、良きサマリヤ人が男性で、その後女性のマルタとマリヤを登場させています。

このように文章を描いているルカの意図は何なのでしょうか。少なくとも、このマルタとマリヤの話は女性同士の確執の話だから、男性の俺には関係なーい、勝手にやってくれ!・・・という訳ではないはずです。

ルカがこの箇所から全世界に向かって語ろうとしている事とは何でしょうか。聖書から答えをいただきましょう。

さて、マルタ、マリヤ、ラザロはエルサレムの南東約3Kmのベタニヤという所に住んでいました。(地図参照)

ルカの福音書には、「ある村」と書かれていますが、ヨハネの福音書の記述によると、この3兄弟姉妹が住んでいたのはベタニヤのようです。イエス様はこの地方に来られた時は、よくこのマルタたちの家に滞在されたようです。

イエス様はこのベタニヤの兄弟姉妹をとても愛しておられました。他の福音書の記述から見てもそのことは良く解ります。兄弟ラザロは、死んで4日後にイエス様によって蘇ったあのラザロです。マリヤはイエス様が十字架に架かられる前に、イエス様の埋葬の準備のために高価な香油をイエス様の頭に注いだあの女性です。

そしてマルタという名前は「女主人」という意味だそうです。その名の通り、マルタはこの家の女主人だったようです。10章38節で、「マルタという女が喜んで家にお迎えした」と書かれてある通りです。

マルタはいつものように喜んでイエス様を出迎えました。彼女は他の箇所にもイエス様たちを喜んで迎え入れて、給仕をしていたと書かれています。ですからマルタには、お客様のお世話やおもてなしをする賜物があったようです。パウロも書簡で言っていますが、この時代、旅人をもてなすのはとても大切な事でした。現代のように、どこにでも、宿屋やホテルやレストランがあるわけではありませんので、宿と、食事を提供してもてなすという事は、思いやりのある人ならば、当然誰でもすべきこととされていました。また、マルタたちはイエス様一行を喜んで何度もお迎えしましたので、彼らはイエス様の教えに賛同して従う信徒だったと言う事になります。

ところがそこで、ある出来事が起こりました。

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10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が

     私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、  

     妹におっしゃってください。」

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妹のマリヤは、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました。この「主の足もとにすわる」というのは、ユダヤ教で言えば、「弟子入りをする」とか「先生について習う」という表現です。ですから、マリヤは主の足もとで主のみことばに聞き入っていた女弟子という事になります。

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10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。

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このマルタは、もしかしたら最初はマリヤと一緒に主の足もとに座って、みことばに聞き入っていたのかもしれません。そのうち、あれこれともてなしの事を考え始めて気が落ち着かなくなって、席を立ってしまったのかもしれません。あるいは逆に、マリヤは最初マルタと共にもてなしの準備をしていたけれど、マルタに何も告げずにフェイドアウトしてしまって、いつの間にか主の足もとに座っていたのかもしれません。そこら辺ははっきり解りませんが、この聖書箇所の記述から見ると、マルタはイエス様のみことばを中断させてまで、妹に対する不満をイエス様ご自身に訴えたことは確かです。しかもイエス様に対して「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。」と非難し、「私の手伝いをするように妹におっしゃってください。」と指図までしました。 

マルタは、せっかくのもてなしの賜物が台無しになってしまうような発言をしてしまったのです。それは、自分の方がマリヤより正しいと思って自信があったという事と、イエス様なら自分の訴えを受け入れてくださる方だと信頼していたからではないでしょうか。このようなマルタに対してイエス様はこのようにお答えになりました。

2. 「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださったイエス様

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<ルカ10:41 >

10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

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とイエス様はマルタに「マルタ、マルタ」呼びかけられました。イエス様は相手に特別な感情で個人的に語られる時に、親しみを込めて名前を2度呼ばれたようです。

新約聖書で、この箇所の他に、イエス様がこのように人の名を呼んだのは、たった2か所しかありません。

その2か所はどちらも壮絶なシーンで、一か所は最後の晩餐の時にイエス様がペテロに「シモン、シモン」と呼びかけたところで、もう一か所はキリスト者を迫害するパウロに対して「サウロ、サウロ」と呼びかけたところです。

では、この2か所を見てみましょう。

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<ルカ22:31-34>

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられ

     した。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち

     直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたし

     を知らないと言います。」

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ご存知のように、ペテロはこの後、イエス様の言われた通り、「私はあの人を知りません」と3度言いました。ペテロは、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と勇ましく豪語しておきながら、結局イエス様を裏切ってしまったことを悔いて激しく泣きました。イエス様はそうなる事をすべて解っておられたので、「シモン、シモン」と特別に呼びかけられたのです。ペテロというのは、イエス様がつけた名前で、岩という意味ですが、ペテロの本来の名前はシモンです。この名前はシメオンの短縮系でユダヤでは一般的な男性の名前です。イエス様は個人的に語られる時には、ペテロではなく、シモンと呼ばれました。

次にパウロの記述です。

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<使徒9:4-6>

9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。

9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエス

   である。

9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

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ここも有名なパウロの回心の箇所なので、皆さんご存じだと思いますが、パウロは生粋のユダヤ人でしたが、ローマ市民権を持ち、1世紀最大のラビと言われるガマリエル1世のもとで学んだパリサイ派のエリートでした。そして、青年パウロは先頭に立ってキリスト者を迫害した激しい性格の人でこの時もダマスコに向かってキリスト者を捕えてエルサレムまで引いていくつもりで勇ましく道を進んでいたところ、突然天からの光が彼を巡り照らしました。この時のイエス様の語りかけが「サウロ、サウロ」でした。

イエス様が、十字架に向かわれる時にペテロを励まされた時と、また、パウロがキリスト者を迫害する者から異邦人の使徒として立たされた時という、この超有名な壮絶な箇所と並んでイエス様は「マルタ、マルタ」と呼んでくださったのです。イエス様は後にペテロやパウロに語った時と同じ心を持ってマルタに語られたのです。イエス様を喜んで迎えて、美味しい食事でもてなそうとしたものの、うまく事が進まず気が落ち着かず、あろうことかイエス様に不満を訴えた女性に対してです。

お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、聖書のこのマルタの箇所、ペテロの箇所はルカの福音書、パウロの箇所は使徒の働きの記述ですので、全部ルカが記したということになります。ですから、イエス様はもしかしたら他の人にも名前を2度呼ぶ「呼びかけ」をされたけれども、ルカが記さなかっただけのかも知れません。

冒頭に、「ルカがこの箇所から全世界に向かって語ろうとしている事とは何でしょうか。」と、みなさんに問いかけましたが、ルカが女性と子どもと奴隷は人の数に入れてもらえなかったイエス様の時代に、敢えて女性たちを生き生きと描いているのは、イエス様がそうされたから、イエス様が女性たちの生き生きとした活躍をご覧になって、喜ばれるような御方だったからに他ならないのではないでしょうか

ルカの福音書の冒頭にはこう書かれています。

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<ルカ1:1-3>

1:1 私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに

    試みておりますので、

1:2 初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、

1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げる

    のがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。

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ルカは「すべての事を綿密に調べて」書いたと言っています。

イエス様は、身分や性別など関係なく、常に相手の立場や存在を認めて尊重してくださったのです。ルカはそのことを伝えたかっただけなのです。私たちの目には、マルタの働きはペテロやパウロとは格段に違って見えますが、イエス様は同じように尊く思ってくださったのです。マルタには、このイエス様の心が理解できたでしょうか。

3. どうしても必要な事、良い方を選び取りましょう

私はこのマルタとマリヤの個所を読むたびに、マルタの方に同情していました。

なぜかと言うと、実は私もイエス様を深く知るまでは、マルタそのものだったからです。

私は長男の嫁ですし、義理の母は結婚直後に召されていますので、親戚が集まる時は、このマルタのようにもてなしをしていました。お正月にはおせち料理を黒豆から伊達巻から栗きんとんまで料理の本とにらめっこしてワンセット3日ぐらいほとんど寝ないで凝りに凝って作りました。みんなが集まってワイワイやってても一人でキッチンと食卓の往復をしていました。しかも、マルタと同じく心は喜んでいませんでした。みんなが帰ってから、やっと私のお正月が始まるといった感じでした。

しかしクリスチャンになって、このマルタとマリヤの記述を読んで、本当に必要な事は、久しぶりに会うみんなとの再会を喜んで、楽しくお話をすることだと気付きました。それまでわざと聞き流していましたが、息子の清志は「僕、おせち料理はあんまり好きじゃない。」と言っていたことを思い出しました。次の年のお正月、黒豆とか伊達巻とかを作らないで買ってみました。そして、チキンの唐揚げをつくって、スパゲッティバジルソースを試験的に出してみました。みんなガツガツ美味しそうに食べていました。ちょっとムカつきましたが、考えてみれば誰もおせち料理を全部手作りしろなんて言ってないし、忙しそうな私より、どっかり座って馬鹿なことを言って笑っている私の方が好きみたいです。

マルタはイエス様のために一生懸命仕えました。ただ、喜んで主に仕えるという本質から外れてしまっただけです。イエス様はマルタに、

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10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだの  

     です。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

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と言われましたが、「ここに来てあなたも私の話を聞きなさい」とも、「あなたはあなたの仕事を喜んで続けなさい」とも言われませんでした。それはマルタが決めることだからです。マルタはこの後、どうしたでしょうか。

みなさんはマルタがこの後どうしたと思いますか?マルタには「マルタ、マルタ」と呼びかけてくださったイエス様の心が解ったでしょうか。私がマルタなら、その場に座ってイエス様の話を聞きます。お肉が焦げても、煮物がクタクタになってもパンがカピカピになっても良いのです。

まあ、マルタがどうしたか、本当のところは解りませんが・・・。

イエス様は、私たちにも常に良い方を選び取る選択を与えておられます。

毎日の生活を振り返ってみると、私たちは本当に大きな事から小さな事まで多くの選択をし続けています。特に、みなさんが今一番時間や手間暇をかけていることは何でしょうか。そしてその時間をかけてしていることは、イエス様の言われるところの良い方ですか?喜んで主に仕えるという本質から外れてはいませんか?

このマルタとマリヤのお話から、イエス様がどんな人でも相手の立場や存在を認めて尊重してくださっているということが解りましたが、イエス様は今も生きておられ、私たちひとりひとりの事も、立場や存在を認めて尊重してくださっています。そのイエス様が「どうしても必要なことは一つだけです。」と言われました。

荒野でサタンの誘惑を受けたイエス様がマタイ4:4 で「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言われたように、みことばは私たちにとって最も大切な霊の糧です。マリヤのようにみことばに耳を傾けることこそ、どうしても必要なことなのです。そうすることにより、神様の御心が解り、私たちは日々の選択を誤らないで主と共に喜んで生きることが出来るのです。

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2012年9月23日 (日)

にせ教師への警告  Ⅱペテロ2:10-17

私は「世の終わりには、地震など天変地異が起こる」ということで、ペテロの手紙を選びました。しかし、それは最後のほんの少しの部分しかありません。先週からⅡペテロ2章からメッセージしていますが、にせ預言者とかにせ教師の話しばっかりです。私も準備のため、読んでいても、あまり恵まれません。しかし、「これが世の終わりの特徴なんだなー」と改めて思うようになりました。世の終わりに、にせ教師たちは「善も悪もない。天国も地獄もない。絶対的な神なんか存在しないんだ」と教えます。多くの人々は、「ああ、そうだ。そうだ」とその教えに巻き込まれるでしょう。そのように人々が神から離れたとき、世の終わりのさばきが突然のように襲うのです。私たちは、まさしく世の終わりの時代に生きています。

1.にせ教師のそしり

 10節から12節まで「そしる」ということばが3回出てきます。10節には「栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません」と書いてあります。11節は「御使いたちは、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません」と書いてあります。また、12節には「理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです」とあります。そしるとは、悪口を言う、中傷する、ののしる、あるいは神を冒瀆するという意味です。なぜ、にせ教師がそしるのでしょうか?それは、相手をそしることによって、こっちが正しいということを強調するためです。日本ではあまりやりませんが、アメリカでは競争相手の会社をけちょんけちょんにするCMが許されているようです。たとえば、コーラの会社がもう1つのコーラを悪く言います。車の会社が、日本車を潰すようなCMを流したりします。大統領選でも、相手のスキャンダルを互いに暴露したりします。日本では公にはやりません。しかし、学校では友だちの悪口を言ったり、メールで中傷するイジメがたくさんあるようです。先月、尖閣諸島に香港の活動家が上陸しました。海上保安庁に捕らえられましたが、そのとき、活動家たちがものすごい剣幕で何かを訴えていました。今では、中国全土で、デモ隊が叫んでいます。おそらく、いろんな悪口を言っているのでしょう。テレビで国会中継を見るときがたまにありますが、野次を飛ばしているシーンをよく見かけます。世の中では、そしる、悪口を言う、中傷する、ののしるなど、当たり前のように行われています。相手から罵倒されたり、そしられたとき、だまっている方が悪いように思われます。ことばで相手をそしることにより、こっちが正しいと思わせる。それは1つの方法かもしれません。

 聖書に出てくるにせ教師も、まさしくそのようにしていたのでしょう。日本語の聖書は、10節に「栄誉ある人たちをそしって」と書いてありますが、いろんな訳があります。相手は人ではありません。「目に見えない世界の栄光の者たちをそしる」「御使いたちをそしる」という訳があります。それに対して、御使いたちはどうでしょうか?11節「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。」とあります。御使いたちはしないのに、にせ教師たちは、主の御前に彼らをそしって訴えるということです。現代のにせ教師は、自分が信じていない他の神さまをそしっています。ユーチューブで、幸福の科学の大川隆法と田原総一郎の対談を見たことがあります。もう、20年前のものです。大川隆法は自分のことを釈迦の生まれ代わりだと言っていました。そして、対談の中でキリスト教だけではなく、他の宗教のことも批判していました。彼は「宗教はある年数が経つといのちがなくなる」と言っていました。そして、「『幸福の科学』こそが終わりの時代にあって、人々を救う宗教なんだ」と言っていました。そういう対談の中で、まさしく、霊的な存在そして、まことの神さまさえも、否定するようなことを発言しています。にせ教師たちは、どうしても自分の教えが唯一まことであることを主張するために、まことの神さまをそしることがあります。つまり、にせ教師は、本来、超えてはならない領域に足を踏み込んでいるということです。私も講壇の上からいろんなことを言っています。しかし、聖書の教えからは超えないように気をつけています。大川隆法は「私は人間ではない」と言っているようですが、私はそういうことは言いません。にせ教師は、神の名前を借りて何かを語ったり、あるいは権威を示そうとします。しかし、それは超えてはならない領域に足を踏み込んでいるということです。あの御使いたちですら、そういうことはしないのです。なぜでしょう?神を恐れているからです。

 にせ教師のように、神の領域を侵した人はどうなるのでしょう?12節「ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。」英語の聖書では、動物は野獣となっています。おそらく、人に危害を加えるライオンやクマのことを言っているのでしょう。ライオンやクマが街中を歩いていたら、捕らえられ殺されるでしょう。なぜなら、危険だからです。にせ教師がこれ以上、間違った教えを流し続けるならどうなるでしょう。人々が汚され、まことの神さまから離れてしまいます。おそらく、神さまはだまっていないでしょう。ペテロは「それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです」とはっきりと断言しています。旧約聖書のⅡ列王記18章にこのような記事があります。ヒゼキヤがユダの王様だったとき、アッシリアが攻めてきました。そのため、大量の銀と金を渡して許してもらいました。しかし、再び、アッシリアが攻めてきました。この時は、「降参して、町全体を明け渡せ」と命じてきました。アッシリアの将軍、ラブシャケが、「国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでも言うのか」となじりました。それで、ヒゼキヤは衣を裂き、「きょうは苦難と侮辱の日です」と宮で祈りました。すると神さまは1つの霊を送りました。ラブシャケは内乱のうわさを聞いて、国に引き上げました。彼はそこで剣に倒れました。三度目は、セナケリブ王が手紙をよこしました。イスラエルの神、主をなじるような手紙でした。そうすると、ヒゼキヤは主の前で「主よ、生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください」と祈りました。そうするとどうなったでしょうか?なんと、その夜、主の使いが出て行って、アッシリアの陣営で、185000人を打ち殺しました。それだけではありません。アッシリアの王、セナケリブはニネベに帰りましたが、神殿で祈っているときに暗殺されました。彼らは主の名を借りて勝手なことを言いました。そして、イスラエルの神、主をそしったのです。だから、彼らは滅ぼされてしまったのです。

 旧約聖書は私たちに対する教訓です。世の終わりにも、にせ教師が出てきます。そして、まことの神をそしるでしょう。しかし、そのために理性のない動物のように滅ぼされるのです。私たちはこのところから何を学ぶべきでしょうか?神さまだけではなく、人をそしる、悪口を言うということは大きな罪であるということです。マタイ5章には、「兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と書いてあります。なぜ、相手を悪く言ってはいけないのでしょう?その人の背後にはその人を創られた神様がおられるからです。神さまがその人にいのちを与え、その人を生かしておられるのです。さらには、イエス様がその人を贖うために、血潮を流したとなるならどうなるでしょう?その人がクリスチャンであるかないかは関係ありません。イエス様はすべての人のために代価を払ってくださいました。もしも、創造と贖いの2枚のレンズで人々を見るならばどうでしょうか?簡単に、その人をさばいたり、悪く言うということは、背後におられる神さまを冒瀆することになります。確かに日常、いろんな人と出会います。行いが変だったり、無礼なふるまいをする人がいます。私も買い物に行くと、べらべら独り事を言っている人をみかけます。「あまり近寄りたくないなー」と思います。また、テレビを見ていても、いろんな人が出てきます。女子アナやタレントを見て、さばくこともあります。また、家族に対しては、油断していますので、ひどいことばをぶつけることがあります。ということは、そしったり悪口を言うということは、なにもにせ教師たちだけではないということです。日本の教育は進化論を教えこまれていますので、能力のない人を簡単にさばきます。また日本は人と同じでないとダメであるという価値観が染み込んでいます。私たちはこういう文化の中で育ってきました。だから、聖書的な価値観に置き換える必要があります。進化論ではありません。神さまがその人を創られ、命を与えておられるのです。また、キリストがその人のために、十字架で代価を支払ったのです。だから、人をそしったり、悪口を言ってはいけないということを心に深く留めたいと思います。パウロはエペソ4章でこのように命じています。エペソ429「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」アーメン。

2.にせ教師の報い

 Ⅱペテロ213-14「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」このところには、にせ教師たちの乱れた生活ぶりが記されています。ひとことで言うなら「不義」であります。不義というのは、ギリシャ語でアディキアと言います。これは「不正」「不法」という意味があります。神が定めた律法に反しているということです。神さまはこの世界を創られたとき物理的な法則だけではなく、道徳的な法則も作られました。私たちはこの地上で、万有引力の法則に支配されています。もし、この二階から飛び降りたら怪我をするでしょう。同じように、神さまが定められた律法に反するなら、それだけの報いを受けるということです。だから、ペテロは「彼らは不義の報いとして損害を受ける」とはっきり述べています。では、にせ教師たちはどのような不義、不正をしているのでしょうか?まず、第一に昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。第二は宴席に連なるとき自分たちのだましごとを楽しんでいます。第三は淫行に満ちており、罪に対して飽くことを知らないと書いてあります。リビングバイブルはこのように訳しています。これはJBフィリップス訳と同じ内容です。「その罪に濁った視線は、どんな女性をも逃しません。しかも、彼らのみだらな行為は底なし沼で、うわついた女を誘惑するゲームに熱中しています。」この3つをまとめると、彼らは肉そのもので生きているということです。多くの若者たちは、神の道徳的な法則を全く無視して生活しています。1ヶ月前、大阪の女子高生を取材した番組がありました。気分が悪いので、4,5分しか見ませんでした。しかし、驚くべき内容でした。彼女らは携帯で売春の相手を探しています。AV女優の働き場もあります。そういうことをして、大金持ちになった友だちもいるということです。この世には、女子高生を餌にしている、悪い人たちがたくさんいます。もし、そういう人に捕まったら、「何をしても自由だ」なんて言っていられません。

 ところで、「にせ教師」ということですから、宗教的なことをしている人です。ある人は「私はキリスト教です」と言っています。だから、ペテロは「彼らは、しみや傷のようなものだ」と言っているのです。現代訳は「彼らは、不名誉な、面汚し」と訳しています。つまり、キリスト教会に汚名を与えているということです。にせ教師と言って良いのかどうか分かりませんが、アメリカでも日本でも、そういうニュースが結構あります。昔はアメリカのテレビ伝道者でしたが、日本でも最近、あちこちで聞きます。お寺とか新興宗教では「ああ、またか」ということで、あまり話題にはなりません。しかし、いざ、キリスト教会となると大スキャンダルになります。世の人に「キリスト教会は清く正しいものだ」という認識があるからでしょう。でも、実際には、にせ教師ではなくて、牧師や宣教師の場合もあります。「いや、あいつは、にせ教師だったんだ」と後から言われるかもしれません。イエス様の時代は、パリサイ人、律法学者、サドカイ人たちに、そういう人たちが多くいました。上座を好んで座ったり、やもめたちからお金をまきあげる、いわゆる偽善者でした。なぜ、そういう不義、不正をしてしまうのでしょうか?まず、人々の前に立つ人は、まことの教師であろうとにせ教師であろうと尊敬されます。有名になって、権威や権力を持ったらどうなるでしょう?信者たちを思いのままあやつることができるでしょう。また、そういう教祖と一緒になって甘い汁を吸う、幹部もいます。幹部連中は「教祖はインチキだ」と知っていても、恩恵を受けているうちは着いて行くでしょう。組織ぐるみになると、世に与える悪影響が大きくなります。悪魔もそこに加担して、マインドコントロールや霊的な束縛も与えるでしょう。この世には、そのようにして大きくなった宗教団体がたくさんあるのではないでしょうか?牧師でもクリスチャンのことを「信者」とか「信者さん」と言ったりします。なんだか、新興宗教の収入源のように聞こえます。私は決して、そういう呼び方をしません。私たちは神さまから召された、神の共同体です。パウロは3つのたとえをもって教会とはどういうものかを説明しています。第一は神の家族です。神の家族には子ども、若者、そして父や母がいます。私たちは兄弟姉妹です。第二はキリストのからだです。かしらはイエス・キリストです。そして、からだにはたくさんの器官があります。互いに結び合わされてキリストのみわざを行います。第三は神の宮です。神さまはご自分が住まう場所をさがしておられます。私たち一人ひとりは生ける石です。生ける石が設計図に従って組み合されるとき、神の神殿ができます。そこに、神さまが住んでくださいます。こういう聖書的な教会観を持っているならば、にせ教師の存在を排除することができます。また、こういう教会が、指導者がにせ教師になるのを防いでくれるでしょう。亀有教会の理念の中に「かしらはキリストである」と明言しているのは、このためです。

 不義の報酬、神のさばきは必ずあります。ペテロは旧約聖書の預言者バラムを例にあげています。Ⅱペテロ2:15-16「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。」モアブの王バラクと司たちは、預言者バラムに「どうかイスラエルを呪ってくれ」とお願いしました。なぜなら、イスラエルが神様の祝福を得て、どんどん増え広がっていたからです。バラムは「わかりました。主が私に告げられるとおりのことをあなたがたに答えましょう」と言いました。神様はバラムに「その民を呪ってならない。その民は祝福されているから」とはっきりと告げました。朝になって、バラムは「やっぱり無理」と告げました。しかし、バラクと司たちは「何でも与えるので、なんとかイスラエルを呪ってくれ」と頼みました。バラムは、再び、神様に聞きました。返事は変わりませんでした。次の朝、モアブのつかさたちが迎えに来たので出かけました。途中の道で、ろばがぴったりと止まってしまいました。そして、道からそれて畑の中に入りました。バラムは「コラ!道に戻れ」と、ろばを打ちました。ろばは狭い道を進みましたが、今度は石垣にぴたっと寄りました。バラムは足が押し付けられたので、「何をやっているんだ」と、またろばを打ちました。もう少し進むと、ろばはバラムを乗せたまま、うずくまってしまいました。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打ちました。すると、主がろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言いました。「私があなたに何をしたと言うのですか。私を三度も打つとは」。そのとき、主がバラムの目を開きました。なんと、主の使いが抜き身の剣を手に持っていた道をふさいでいるのを見ました。ろばは剣を持った御使いを避けたのです。しかし、バラムは全く見えていませんでした。バラムはそこでひざまずいて、「私は引き返します」と悔い改めました。バラムは主が告げられたとおりに、イスラエルを祝福しました。しかし、その物語には続きがありました。彼は「私は金の満ちた家をくれても、主のことばにそむくことはできません。主が告げることなら、それを告げなければなりません」と言いました。しかし、他の聖書箇所を見ると、バラムはあとで堕落したことがわかります。彼はミデヤン人の娘たちをそそのかして、イスラエルを誘惑し、偶像を拝むようにさせました。だから、黙示録214「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた」と書いてあります。バラムは不義の報酬を愛した二心の預言者です。

 こういう箇所を見ると、身が縮むような思いがします。預言者とか祭司は神様に仕える特別な人たちです。新約聖書では、牧師だけではなくクリスチャンも同じような使命を負っていることがわかります。終わりの時代には、にせ教師がはびこり、人々を惑わすと預言されています。しかし、私たちもにせ教師の片棒を担いでしまうような可能性があるということです。富や権力はとても、魅力があります。私も「いつかブレイクしたい。有名になりたい」という誘惑がないわけではありません。イエス様はそういう誘惑に勝利して、メシヤとしての使命を全うされました。「キリストには変えられません」という聖歌があります。「キリストにはかえられません。世の宝もまた富も」「キリストにはかえられません。有名な人になることも」「キリストにはかえられません。いかに美しいものも」。「世の楽しみを去れ、世の誉れよ行け、キリストにはかえられません。世の何ものも」。考えてみれば、すごい内容です。「ちょっとぐらい、富があっても良いだろう。必要経費だから。ちょっとぐらい、有名になって良いだろう。働きが広くなるから」と言うかもしれません。ということは、どこかに誘惑される要因を持っているということです。にせ教師は、どこかの教祖だけではありません。自分にも同じような欲望を抱えていることを否定できません。だから、こそ私たちは常に神を恐れ、キリストにとどまる必要があります。Ⅰヨハネ317「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」

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2012年9月16日 (日)

にせ教師の特徴   Ⅱペテロ2:1-9 

イエス様はマタイ24章で「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わす」と預言されました。それでなくても、世の終わりには神さまを信じる人が少なくなるのに、どういうことでしょうか?それはサタンが自分の滅びが近いのを知り、できるだけ多くの人を巻き添えにしたいからです。世の終わりには、信仰を持つことさえも困難なのに、妨げも多いとは、どういうことでしょう。映画でも物語でもクライマックスというのがあります。どんな場合も、ラストシーンというものは、荒れるものです。ある者は死に、ある者は生き残るという壮絶な戦いがあります。ペテロは終わりの時代に住む私たちに、「目を覚まして、備えるように」とこの手紙を書き残したのだと思います。

1.にせ教師の特徴

 ここに、にせ教師の特徴がいくつか書かれています。Ⅰペテロ21「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」第一に、にせ教師は「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込む」とあります。異端とは、単に間違った教えという意味ではありません。それを信じても、決して救われないという教えです。私たちは真理か嘘か両極に分けようとします。片方が真理で、もう片方が嘘であるというふうに考えてしまいます。しかし、それは本当ではありません。真理というものは真中にあるのです。真理には、ある程度の幅がゆるされています。なぜなら、人間は真理の一部しか知らないからです。そして、真理の右と左に、極端というのがあります。極端とはどういう意味でしょうか?みなさんは農道を車で走ったことがあるでしょうか?道幅が3メートルもありません。車一台がやっと通れるような幅です。その道の両脇は水路か田んぼです。ハンドルを切り損ねると、がばっとはまってしまいます。はまったら、だれも助けにきてくれません。真理というものは、この道路と同じように真中にあるのです。私たちは信仰生活を送るとき、両脇の極端にはまってはいけません。

大体、にせ教師の教えというものは極端です。文鮮明が唱えた統一原理があります。その教えは、エバがサタンと姦淫したので人類に罪が入ってしまった。罪をきよめるためには血わけが必要だ。そこで、集団結婚式をして、教祖から正しい種をもらうのです。明らかに変な教えですが、聖書を使うので、多くの日本人が捕らえられています。どういう人が捕らえられるのでしょう?家庭に問題のある人です。家族の愛に飢えている人たちが、文鮮明という父親を求めるのです。そして、彼らは集団生活をして、きびしい奉仕に明け暮れています。「これは間違いである」と気付いても、集団生活がすばらしいので抜けようと思わないそうです。もちろん、そこにはマインドコンロールも入っています。他にもキリスト教の異端として、エホバの証人が有名です。統一教会ほど、反社会的ではありませんが、家庭が壊れます。彼らの教えは世の終わりとそのさばきを強調します。この世はまもなく終るので、エホバの神を信じて、千年王国に住まわなければならないと主張します。しかし、救われるためには信仰だけではなく、行いも必要です。だから、彼らは財と時間をささげて、組織に献身します。エホバではなく、ニューヨークの組織が彼らの神さまなのです。一軒、一軒、家庭を訪問して伝道活動をしています。彼らは人々の救いのためではなく、自分が救われるためにあのような布教活動をしているのです。動機は、愛ではなく恐れです。律法とノルマに縛られ、ハツカネズミが車輪を漕ぐような生活を強いられています。最近、韓国では新天地イエス教という異端がすごい勢いで増えています。新天地イエス教は、聖書のことばを文脈に関係なく、比喩(たとえ)で解釈するという特徴があります。最初は普通のクリスチャンとして教会に入り込み、やがて献身します。教会で一定の地位を持ってから、人々を間違った教えに導くのです。今も大きな教会に、工作員として入り込み、機会を狙っています。他に全世界に広がっているのは、ニューエイジの考えです。「宗教は1つだ。キリスト教会も1つになるべきだ」と主張します。ニューエイジの特徴は、霊媒、オカルト、超常現象です。癒し系の音楽、自己啓発セミナー、マンガ、映画、ゲームにかなり入り込んでいます。

 他にもたくさんありますが、彼らに共通する道徳的な特徴があります。Ⅱペテロ22-3「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」道徳的な特徴の第一は、好色であります。性的問題が必ず付きまとうということです。なぜでしょう?宗教的に高い立場に着くと、何でも思いどおりになります。だから教祖は、好き勝手をして、重婚問題にひっかかったり、性的な罪で訴えられます。しかし、マインドコンロールされている人たちは、それは罪ではなく、喜ばしいことであると思っているようです。本人が被害者として訴えないのですから、罪に定めるのが難しくなるのは当然です。オカルト的でスピリチャルなカウンセリングもいくつかあります。受ける人は、心のすべてを打ち明けるのですから、そこに誘惑が入り込む隙が生じるでしょう。ペテロは「そのために真理の道がそしりを受けるのです」と言っています。真理の道とは信仰であり、キリスト教会がそしりを受けるということです。「ここしか救いがない」と思ってきたのに、そうではなかった。非常に残念なことです。

第二の道徳的特長は、貪欲です。ペテロは「作り事のことばをもってあなたがたを食い物にする」と言っていますがどういう意味でしょう?この人は、知識や知恵があり、頭が良いのです。迷っている人に「神さまはこう言われます」と断言するでしょう。にせ教師の教えの特徴は、人々に選択の余地を与えません。「神はこう言われます。正しい教えはこれです。」と断言します。その教師に逆らうということは、神さまに逆らうことになります。しかし、その教師は人々をたくみにコントロールしているのです。目的は何でしょうか?貪欲です。その人が持っているものを奪い取るためです。「あなたがたを食い物にする」とはそのことです。新興宗教に共通していることは、お金や財産が目当てです。「どうして、取られるのかな?」と不思議に思いますが、作り事のことばをたくみに用いるからでしょう。「ああいえば」「こういう」。相手は頭が良いのですから、かなわないかもしれません。では、どうやって見抜くのでしょうか?貪欲です。本当のキリスト教は、奪うのではなく、与えるものです。パウロがこのように言っています。使徒の働き2035「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」キリスト教の精神は自己犠牲です。人を食い物にするというのは、とんでもないことです。しかし、牧師も人間ですから、霊的なものを蒔いたら、肉のものを期待するかもしれません。ここいらへんは、戦いがあります。キリスト教会において、しるしと奇跡のわざを行なう伝道者がいます。テレビに出たり、方々に出かけて大きな集会をするでしょう。確かに、すばらしい奇跡が起こります。癌が癒され、死んだ人が生き返ったりもします。そうすると、いっぱい感謝する人も出てくるでしょう。やっぱり1つの誘惑だと思います。だから、これは人ごとではありません。私たちは、ただで受けたのですから、ただで与えなければなりません。

ペテロは彼らに対して何と警告しているでしょうか?1節には「自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」また、3節には「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」彼らの末路は滅びであり、きびしいさばきです。にせ預言者やにせ教師はサタンと同じ火の硫黄の中に投げ込まれます。なぜでしょう?サタンの手先になって、人々を惑わしたからです。ある人たちは純粋に神さまを求めて、自分たちのところに来たのでしょう。それなのに、異端の教えで、彼らを束縛し、天国への門を閉ざしたのです。だから、ペテロは「神さまはすみやかに、怠りなくさばきが下される」と言います。でも、どうでしょうか?異端をもたらしたにせ教師、あるいは教祖は、すぐには死にません。けっこう長生きする人もいます。ですから、「すみやか」というのは当っていないような気もします。私はそこには2つの力が働いているからだと思います。1つはサタンの力です。サタンがにせ教師たちに力を与えているからだと思います。もう1つの力は神さまのあわれみです。彼らの多くは、自分を買い取ってくださった主を信じていたのです。ところが、ユダのように主を否定してしまいました。イエス様もユダに対して、最後まで悔い改めるチャンスを与えておられました。もし、神さまがサタンもにせ教師も、すべての悪も滅ぼすとおっしゃったなら、立ち尽くせる人がいるでしょうか?クリスチャンといえども罪を犯すことがあるので、神さまのあわれみを受けている存在です。私たちは聖書からこういう構造を知って、極端な教えにはまらないで、真理の内を歩むべきです。そのためには、聖書を正しく信じている教会に属し、いつもへりくだって聖書から教えられることが重要だと思います。

2.にせ教師の末路

ペテロは3節で「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」と言いながら、その後、たくさんの例をあげています。4節から9節まで、3つの例をあげています。第一は罪を犯した御使いたちに対するさばきです。Ⅱペテロ24「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」これと同じようなみことばがユダ書にもあります。ユダ6「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」御使いがいつどこで罪を犯したかは聖書にはっきりとは書かれていません。しかし、イザヤ書やエゼキエル書から、あるいはヨハネの黙示録からある程度のことは想像できます。おそらく、この世界が創られる前に、サタンと3分の1の御使いたちが、神さまに反逆したのではないかと思います。彼らは天から落とされ、あるものは悪霊になり、またあるものは暗やみの穴の中に閉じ込められてしまったのでしょう。少し前に、『タイタンの逆襲』という映画を見たことがあります。タルタロスという地の深いところに、12人のタイタンが閉じ込められていました。ギリシャ神話ですから、聖書とちょっと違います。ある御使いたちは、今もなお、ずっと穴の中に閉じ込められているのです。気の毒といえば気の毒ですが、ここで言いたいことは、神様のさばきには容赦はないということです。

二番目の例はノアの時代の不敬虔な人たちに対するさばきです。Ⅱペテロ25「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」ノアの洪水です。キリスト教会の中にもノアの洪水を信じない人たちがいます。ある学者たちは、一部分だけに洪水が起きたのであろうと言います。しかし、不思議なことに洪水物語は世界中にあります。アメリカのインディアンの中にも、洪水物語があります。地層を調べると、ぶ厚い砂層があり、全世界を呑み込むような洪水があったのではないかと推測できるそうです。中国の漢字には洪水の物語が残っています。洪水の「洪」の象形文字があります。地上が水を覆っているかたちで、その上から二本の手が伸びて、助けを求めているように見えるということです。また、船という字も不思議です。左側の舟は象形文字です。右のつくりには、八と口があります。口は人を意味するそうです。これは箱舟に8人が乗っていたということを現しているのではないでしょうか?また、穴という字があります。穴はウ冠の下に八と書きます。洪水で助かったノアの8人はしばらくの間、洞穴に住んでいたのではないかと思います。また、空という字があります。空は穴の下に工という字があります。八人が青空のもとで働いた、つまり工です。そして、今まで住んでいた穴が空っぽになった。そういう連想のもとでこの字が形成されたのではということです。なんだか、しゃれみたいですね。ノアの洪水は創世記だけはなく、いろんな書物にもあるので、これは歴史的な事実だということです。神さまは罪深い人たちをさばいたということです。

三番目の例はソドムとゴモラに対するさばきです。Ⅱペテロ26-8「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。」ソドム、ゴモラは現在の死海の南にあったのではないかと言われています。ロトは「エデンの園のように潤っているので羊に適している」と思って、低地全体を選び取りました。しかし、低地の町々には、よこしまな人たちが住んでいました。ソドムの罪は、男色、同性愛ではなかったかと言われています。ペテロは「好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けた」と述べています。近年、ポンペイの遺跡が発掘されました。ポンペイはローマのリゾートタウンでにぎわっていました。ところが、79年ヴェスヴィオス火山が突然噴火しました。そこにいた人たちは、火砕流に飲み込まれました。一瞬のうちに生き埋めになって死んだのです。1740年頃、ポンペイの発掘がなされました。娼婦の館などが発掘され怪しげな壁画がたくさん残されていたそうです。考古学者たちは、火山灰の空洞に石膏を流し込みました。なんと、顔の表情までもはっきりと分かるものもありました。かなり前のことですが、伝道者の滝元明先生がポンペイを訪れたことがあるそうです。確かに、石膏で復元した遺体があったそうです。しかし、あるところに行くと、板塀で囲ったエリヤがあったそうです。そこを見てはいけないということでしょう。当時のローマがいかに堕落していたのか白日のもとにさらされたのです。

ペテロがさらに、言いたいことは何でしょうか?Ⅱペテロ29「これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」主は、ノアの洪水の時は8人を救い出されました。ソドムとゴモラの時も、義人ロトを救い出されました。終わりの時代、私たちはにせ教師による異端、あるいは不敬虔な人たちの中に生きています。義人ロトのように心を痛めて暮らしています。しかし、神さまは終わりの時代、どのように働いているのでしょうか?「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出す」と約束しておられます。かつての患難のときそうであったように、終わりの時代においても、神さまは救いの御手を伸べておられるということです。そして、不義な者に対してはどうでしょう?「不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」アーメン。このように聖書には、一方には救い、他方にはさばきがあるということをどう思うでしょうか?私は本当に嬉しく思います。先月の816日、木曜日、家内が岩手に帰っているので、ゆっくり説教準備をしていました。ゆっくりという意味は、疲れるとテレビでも見るということです。ちょうど高校野球がやっていました。また、あるチャンネルでは「あばれん坊将軍」もやっていました。つい、あばれん坊将軍を見てしまいました。北町奉行の息子が盗賊の一味に入り、死罪を言い渡されました。さばいたのは北町奉行の奉行であり、息子を切り捨て、自分も死のうと思っていました。なぜ、息子がそんなことになったのか?それは10数年前、奉行が今で言う水商売の女性と恋に陥り、息子が生まれました。しかし、周りの人たちが反対し、離婚させられました。息子は、父が自分を捨てたということで、すっかりグレてしまいました。息子は悪いと知りながらも、盗賊の一味に加担してしまったのです。父が息子に問いただすと、10年前に母が亡くなったということです。それで、奉行である父は不憫なことをしたと息子に謝ります。でも、息子の死罪は免れません。そこに登場したのが、新さんこと、あばれん坊将軍です。その盗賊の背後には旗本屋敷が糸を引いていることが分かりました。結果的に、罪が1つ軽くなって、島送りになりました。「待っていますから」と婚約者が言いました。私はそれを見て、感動しました。「法は曲げられません。でも、なんとか救いの道はないのか?」聖書の福音と似ているなーと思いました。

私たちは観客席から、「こっちが悪いから神のさばきを受けて当然だ」と言うかもしれません。もし、私たちがノアの8人ではなくて、不敬虔な人たちであったらどうなるでしょうか?洪水で滅ぼされるしかありません。あるいは、もし、私たちがソドムとゴモラの町の住人たったらどうするでしょうか?火と硫黄で滅ぼされるしかありません。私たちもかつては、不敬虔な者たちの中にいました。不義な者どもとして、さばきの日まで、懲罰のもとに置かれていたのです。でも、神様のあわれみによって救われたのです。だからと言って、にせ教師や不敬虔な者を大目に見ろということではありません。神さまの義と神さまの愛は、十字架に表わされています。イエス・キリストが私たちの罪を負ってさばかれました。本来、私たちがさばかれるところを、イエス様が身代わりになってくださったのです。しかし、これによって、神の義と神の愛が立ったのです。私たちは神さまの側に立って、「あっちが悪いが、こっちは良い」とやりがちです。しかし、善悪をさばかれるのは神さまだけです。私たちは元罪人、元犯罪人だったのですから、人をさばく権利はありません。一番の違いは、神さまのあわれみを受けているということです。私たちが身代わりになったイエス様と神さまのあわれみを忘れない限り、どんな誘惑にも勝利できると信じます。自分が信じたとか、自分に正しさがあったとか言っている人は非常に危険です。世の終わり、背教が起こり、人々の愛は冷えていきます。にせ預言者、にせ教師もさらに多く現れるでしょう。そのために私たちは、聖書のことばにしっかりと留まるべきです。そして、神の義と神の愛を表しているキリストの十字架のうちに留まるべきです。アーメン。

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2012年9月 9日 (日)

ご威光の目撃者  Ⅱペテロ1:15-14  

きょうは、私たちが信じるための根拠、あるいは信仰の土台は何かということを学びたいと思います。この世にはたくさんの宗教がありますが、大体、経典とかご本尊があります。日本の神道には、教義や経典はありません。日本書紀や古事記からある程度のことを知ることができますが、神話のようなもので、歴史性はありません。新興宗教なども、教祖が神秘的な体験のもとで経典を書いたりしますが、やはり歴史性がありません。一方、キリスト教の場合は歴史性があり、作り話ではありません。近年、キリスト教会の中で、神話や民話のように自然発生したような学説を唱えた神学者がいました。しかし、それは間違いです。私たちは神さまから啓示を受けた人たちが聖書を書いたと信じています。ペテロは私たちが信じるための根拠が2つあると言っています。第一は使徒たちの証言であり、第二は預言者たちの預言です。

1.使徒たちの証言

 ペテロの時代、聖書といえば私たちが持っている旧訳聖書でした。そして、使徒たちがイエス様の教えや教会に大切な教理を書きました。それがだんだん、まとまり新約聖書になりました。使徒たちの証言とは、今で言う新約聖書です。Ⅱペテロ115-16「また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」ペテロは自分がこの世を去った後も、これらのことを思い起こせるように文書を残しました。ペテロは「主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません」と言っています。ペテロは第一と第二の手紙で、「キリストの現われ」「キリストの来臨」について述べています。「現れ」とか「来臨」とは、世の終わり、再び来られる栄光のキリストのことであります。キリストが馬小屋で生まれたのを初臨、クリスマスと言います。そのとき、キリストは謙遜で、しもべの姿を取られました。しかし、世の終わり、キリストは力と栄光を帯びた「主の主」「王の王」として来られます。これを「来臨」「再臨」と呼んでいます。ペテロは「これはうまく考え出した作り話ではない」と言っています。当時、ギリシャの中に密議教というのがあって、技巧に富んだ作り話がありました。ペテロはそういう作り話ではなく、「私たちは確かに目撃したんだ」と言っています。一体、何を目撃したのでしょうか?

 Ⅱペテロ116-17「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」3つの福音書に変貌山の出来事が記されています。イエス様は、マタイ16章後半で、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです」と言われました。それから6日後、イエス様はペテロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られました。何故、3人を連れて行かれたのでしょう。律法によると、2人もしくは3人の証言が必要だからです。弟子たちは何を見たのでしょうか?彼らの目の前で、イエス様の御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなりました。これはどういう意味でしょう?イエス様は再び来られる、栄光の姿にしばしの間だけなったということです。それだけではありません、天に戻ったはずのモーセとエリヤが地上に呼び戻され、イエス様と何やら話し合っているではありませんか?ペテロは「先生、私たちがここにいることはすばらしいことです。もし、よろしければ、私が3つの幕屋を作ります」と提案しました。モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表です。こんなすばらしいことはありません。ペテロはお三方と、山の上にずっと留まりたいと思ったのです。すると、光り輝く雲がその人たちを包み、そして雲の中からお声がありました。神さまの声をペテロとヤコブとヨハネが聞いたのです。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」ペテロの手紙では「彼の言うことを聞きなさい」が省かれています。これは、父なる神さまが「イエスは彼らとは別格で、私の子どもである」とおっしゃったということです。そのとき、イエス様は弟子たちに、「自分が死人の中からよみがえるときまでは、だれにも話してはならない」と口止めされました。ペテロはずっと封印していましたが、自分が死ぬ前に目撃したことをここに書いたのです。

 ペテロは何故、自分が目撃した変貌山のことをこのところに書いたのでしょうか?それは、キリストの来臨が作り話ではないということを証明したかったからです。当時のクリスチャンはいろんな苦しみや迫害の中にありました。悪いことをしていないのに、ののしられたり、打ち叩かれたりしていました。人々は「このまま地上の生活が終ったなら本当に不公平だ」と思ったでしょう。今日、多くの教会は、再び来られるキリストのことを強調しません。「え?キリストが本当に来ると信じているの?」と馬鹿にされるかもしれません。だから、信仰がなまぬるいのです。再び、キリストが来られると信じたらどうなるでしょうか?この苦しみや迫害が完全に報いられるということです。なぜなら、キリストはこの世の悪や不正をさばく王として来られるからです。簡単に言うと、本当の宗教と偽物の宗教、白黒つけるためにやって来るのです。悪がさばかれ、正義が報いられるとしたらどうでしょう?ある人にとってはすばらしいことですが、ある人にとっては最悪の時ではないでしょうか。そのためには、王なるイエス様とできるだけ早く、和解しておく必要があります。ペテロは「それはうまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちはキリストの威光の目撃者なのです」と証言しています。ペテロはキリストの何を目撃したのでしょう?それは、再臨のキリストを垣間見たのです。福音書には「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなり」と書いています。ヨハネは再臨のキリストを見ました。ヨハネ黙示録1章に「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。…口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」と書いています。ヨハネは再臨のキリストを見て、その足元に倒れ、死者のようになりました。なぜなら、変貌山の時よりも、もっと栄光に輝いていたからです。

 ペテロもヨハネもそうですが、栄光のキリストを目撃しました。その当時は、まだ新約聖書がまとめられていませんでした。ペテロもヨハネも、口で伝えたり、手紙に書いたりしていたのです。しかし、イエス様の再臨が思っていたよりも遅れました。これは文書に残す必要があるということで、新約聖書ができあがったのです。何故、遅れたのでしょうか?それは異邦人である私たちが救われるためです。神様は私たち異邦人を救うために、「異邦人の時」を設けました。異邦人の時は、教会の時でもありますが、ほぼ2000年たちました。しかし、これももう終わりが近づいています。なぜなら、福音が全世界に宣べ伝えられたからです。私たちが信じているのは、使徒たちが目撃した証言であります。新約聖書は使徒たちの証言と教えが書かれている書物です。新約聖書の目的は何でしょう?それは、私たちがキリストを信じて救いを得るためです。そして、再び来られるキリストに備えるためです。私たちはこの地上でいろんな祈りをします。日々の問題が解決するように、病気が癒されるように、商売が祝福されるように祈ります。こういう祈りも悪いことではありません。しかし、もっと重要なのは、再び来られるイエス様とお会いできるように祈ることです。あなたは、「ハレルヤ!主よ、お待ちしておりました。」と待つでしょうか?あるいはアダムとエバのように御顔を避けて、どこかに隠れるでしょうか?キリストはアルファーであり、オメガなるお方です。この地上の歴史を終結させ、御国をもたらすために、来られるのです。

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2012年9月 2日 (日)

永遠の御国に入る恵み  Ⅱペテロ1:10-15

もし、私たちが「この地上の生活がすべてではない、死後に行くべきところがある」と確信できたら何と幸いでしょうか?法事などやる必要ないですね。救われて良い所にいるのですから、供養する必要が全くありません。「死ぬまで生きれば良いや」と思うでしょう。ある人は10年、またある人は80年、この地上で生活します。しかし、永遠と比べたなら、10年も80年もほとんど変わりありません。たとえ100歳まで生きたとしても、永遠がなければさびしいです。この地上で、死に別れしたとしても、向こうで再会できたら何とすばらしいでしょう?この地上ではいろんな不条理や不公平がありますが、向こうで報われたら何とすばらしいでしょう?もし、永遠の御国が事実であるなら、この地上の生活が変わってくるのではないでしょうか?

1.永遠の御国に入る恵み

 Ⅱペテロ111「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」きょうの箇所には、私たちが行くべき場所について記されています。「クリスチャンが死んだら、どこへ行くのか」ということが明確に記されています。私たちはどこへ行くのでしょうか?このところに「永遠の御国に入る」と書いてあります。御国とは英語で、kingdomであります。kingdomkingdomainが合わさったことばです。kingは王様です。そして、domainとは領地とか領土という意味です。王様の領地であります。一体、だれが御国の王様で、だれが御国を所有しているのでしょうか?11節「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国」とあります。主というのは、領主とか王様という意味です。御国の王様は、イエス・キリストであります。みなさん、他の国に入るためには何が必要ですか?たとえば、私がデンマークにしばらく住みたいと願っているとします。デンマークは王国で、マルグレーテ2世が治めています。ヨーロッパのほとんどの国は6ヶ月くらいだったら、ビザはいらないそうです。でも、1年間住みたいと思ったなら、ビザが必要でしょう。そこに永住したいとなると、永住権が必要になります。つまり、「住んでも良い」という向こうの国の許可が必要だということです。これは日本でも同じです。外国の人が日本に住みたいと願うなら、全く同じでしょう。ときどき、強制送還される人がいます。それは、ビザを持っていないからです。昔はビザを取るためにその国の大使館に行きました。私も30年くらい前に、韓国に行きましたが、その前に韓国の大使館に行きました。けっこう横柄でした。大使館とは何でしょう?別な国の中にありながらも、本国の領土と同じ扱いを受け、本国の全権大使が駐在しています。教会は御国の大使館みたいなところです。もし、だれかが御国に永住したいなら、永住権を取得する必要があります。神さまは教会にその権威を与えているのではないでしょうか?

 では、どうやったら御国に入る永住権を取得できるのでしょうか?ここに私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国」とあります。救い主であるイエス・キリストを信じで、王なるキリストのご支配を受けなければなりません。私たちはアダムの子孫なので、罪があるために御国に入ることができません。「私は法律に触れるような悪いことは1つもしていません」という人がいます。それでもダメです。神さまは100%の正しさ、神の義を求められるので、生まれつきの人間では全く不可能です。イエス様はマタイ520で「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」と言われました。当時、神の戒め(律法)をことごとく守る人たちがいました。それは、律法学者やパリサイ人でした。どんな几帳面な人でも彼らにはかないません。彼らの義よりもまさるものとは何でしょう?パウロは、ローマ3章で「神さまは別の義を用意された」と言いました。それは、キリストを信じる義であります。キリストは私たちの罪のために十字架で血を流し、なだめの供え物となられました。神さまは罪に対する怒りを取り下げ、キリストを信じる者を義と認めることにしました。ですから、神の国に入るためには、イエス・キリスト救い主として信じる必要があります。人が信じたら、OKという神の証印が押されます。ビザには必ずその国の証印が押されます。エペソ1章には「聖霊をもって証印を押された」と書いてあります。信じたら、洗礼を受けるべきですが、それ以上に聖霊の証印が必要です。洗礼イコール聖霊の証印ではありませんが、洗礼と深い関係があります。なぜなら、イエス様が洗礼を受けられたとき、聖霊が天から下りました。また、使徒238「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と約束されています。

 ですから、永遠の御国に入るためには、主であり救い主であるイエス・キリストを信じれば良いということです。難しい人たちもいます。なぜなら、地上での「しがらみ」があるからです。地方に行くと、信仰を持つということは、家族や地域の人たちと別れることだと思われています。お墓や仏壇の問題があるので、どうしても信仰をもてないという人たちがいます。特に、日本では260年間に及ぶ徳川幕府の政策がありました。キリスト教は邪宗門であり、信じたら、大変なことになると思われてきました。実際、イエス様は「父、母、妻、子を捨てよ。自分のいのちまで捨てよ」と言われました。日本では、イエス様を信じて御国に入るということは、そう易しいことではありません。どこかで必ず、「本当に永遠の御国に入りたい」という決断をしなければなりません。親しい家族や友人から「宗教にかぶれちゃって、馬鹿なことをやめなさい」と水を差されるでしょう。異教の日本においては、本当に戦いがあります。周りの人たちが反対するでしょう。でも、イエス様は何とおっしゃったでしょうか?マタイ713-14「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」多くの人は「神さまなんかいないんだ。天国も地獄もないんだ」と言うでしょう。多くの人が何と言うかは問題ではありません。神さまの真理の声に従う方が良いのです。永遠の御国は確かにあります。イエス・キリストは天から下ってこられ、十字架と復活によって、神さまへの道を設けてくださいました。一生に数回、「ああ、永遠の御国があるんじゃないかな」と御国の入口が見えるときがあります。テレビのSFではありませんが、時空のゆがみで向こうの世界がちらっと見えるときがあります。教会にくると、そういう時がありますが、そう何度もありません。御国の入口が見えたときが勝負です。「家族や他の人が何と言おうと、私は、今、信じます」と決断した人だけが、御国に入ることができるのです。

2.永遠の御国に余裕で入る

 第一のポイントはキリストを信じて、何とか御国に入るというビギナーズ・コースでした。スキーやゴルフでもビギナーズ・コースというのがあります。実はクリスチャンもそうであります。ギリギリ御国に入る人と余裕で入る人がいます。ギリギリ御国に入る人とはどういう人たちでしょうか?簡単に言うと救いの信仰しかない人です。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けたものの、自分勝手な生き方をしている人です。Ⅱペテロ15-7「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」ペテロは「あらゆる努力をして信仰には徳を、徳には知識を…」と、いくつかの品性を加えています。この人は基本的な信仰があります。それでも永遠の御国は入ることができます。でも、「あらゆる努力をして信仰の上に、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛を加えなさい」と命じられています。これらの品性は救われた人が身に付ける品性であり、霊的成長の証しでもあります。でも、キリストを信じて、洗礼を受けても、「そういうものは私はいりません」という人も中にはいます。李光先生は、「怨念晴らし」ということを良く言われます。イエス様を信じても、心の中で「あの人は絶対赦せない」という人がいるものです。それが親であったり、おじさんであったり、先生や友人かもしれません。そういう恨みを抱えていると、ときどき爆発して周囲を困らせます。いわゆる怨念晴らしであります。その人は、「私を傷つけた人を絶対に赦しません」と怒りを手放すことをしません。では、そういう人は天国に行けないでしょうか?行けます。なぜなら、救いは無条件だからです。李光先生は、「怨念晴らしをしながら、天国になだれ込む人もいる」とおっしゃいます。確かに、教会には怨念晴らしをしながら、信仰生活を送っている人たちがいます。それでも、天国に入ることはできます。

 でも、ペテロは信仰の上に、徳をはじめとする様々な品性を見に付けなさいと言っています。そして、何と言っているでしょう。Ⅱペテロ19-11「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」ペテロは「これらのことを行っていれば、この先、つまずくことは決してありません」と言っています。信仰が確立し、安定するということです。では、そういう人はその先どうなるのでしょうか?「イエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです」と言っています。原文には「恵み」ということばはありません。「入場が豊かに供給される」「入場が豊かに提供される」「入場が豊かに与えられる」という意味のことばです。別な言い方をすると、「余裕をもって御国に入ることができる」ということです。ギリギリなんとか御国に入れてもらえる人と、余裕をもって御国に入れる人では、どちらが良いでしょうか?数年前、大津の教会に行ったついでに京都に行きました。冬の1月、夜行バスで京都に行き、早朝からお昼まで京都見学をしました。龍安寺とか金閣寺が、雪が降ってとっても良かったです。それから1日半、JCMNの会議のため教会で過ごしました。予定では3時で終わりなのに、4時過ぎまでかかりました。私は「行くところがあるので早く終って欲しい」と言ったのですが、津倉さんが「どうせ、夜行でしょう」と言いました。私はそれから奈良の手前にある平等院鳳凰堂に向かいました。もう、日が暮れてきました。着いたら、5時半くらいで、門を閉める作業をしていました。「東京から来ました。なんとか入れてください」と頼みました。600円取られました。中は貸し切り状態です。薄暗い中に、鳳凰堂がライトアップされていました。宝物倉には入れませんでしたが、「来て、見た」という達成感はありました。

 門を閉める直前、無理して、ぎりぎり入れてもらったという経験をしました。それでも、入れたから良かったです。せっかく行ったのに、ダメと言われたら、泣くしかありません。ある人がルーブル美術館に行ったけど、門が閉まるところでした。「日本から来たんです」と言ったら、係り員が一緒に案内してくれたそうです。永遠の御国、天国はどうでしょうか?韓国のハレルヤおばさんと言われた、崔子実という婦人牧師がおられました。先生はこういうことを話されたことがあります。私たちが死んで、御国に入るときイエス様が門の中におられるそうです。イエス様を信じて、洗礼を受けたけれど、ほとんど教会に行ったこともない。奉仕も伝道もしなかった人がやってきました。イエスさまは「ああ、そうですか?」と一寸、挨拶しましたが、そっけない顔でした。もう一人、別な人が入ってきました。その人は、洗礼を受けた後、神さまに従い、信仰生活を全うした人でした。イエス様はその人をハグして、「どうぞ、こちらでお茶でも一杯」と言われました。そして、「あのときは大変だったねー」と、労をねぎらってくれたそうです。どっちが良いでしょうか?ま、天国に入れただけでもすばらしいと思います。救いは恵みですから、信じただけでも入れます。行いは必要ではありません。でも、余裕をもって御国に入ることができたら何と幸いでしょうか?つまり、信仰は救われたという点ではなく、救われて成長し続けるという線でとらえるべきであります。やがて、イエスさまの前に立つんだという期待と喜びをもって地上で生活すべきです。そうしたら、「イエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」

3.永遠の御国に入る準備

 ペテロは自分が永遠の御国に入ることが近いと言っています。Ⅱペテロ113-15「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。」ペテロは肉体の死を別の表現を用いています。「私は地上の幕屋にいる」と言っています。「私」とは自分の魂(霊と魂)であります。そして、「地上の幕屋」とは肉体のことです。つまり、私自身が肉体の中に住んでいるということです。使徒パウロもⅡコリント5章でもっと詳しく述べています。Ⅱコリント51-3「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。」幕屋とはイスラエルの民が荒野を旅したテントであります。動物の皮とか布でできていました。しかし、長い間、雨風にさらされると朽ちてしまいます。私たちの肉体も50年を越えるとどこかしこ壊れてきます。ある人は内臓が壊れたり、骨組みが壊れたりします。目や耳、歯も壊れてきます。しまいに脳までも壊れてきて、記憶力がなくなります。私たちの肉体では永遠の御国で住むことは不可能です。これは地上のからだであり、天上のからだがどうしても必要となります。使徒パウロは、幕屋のかわりに、「神の下さる建物」あるいは「永遠の家」と言っています。英語の聖書では、テントではなく、ビルディリングとなっています。これは朽ちない栄光のからだを意味しています。永遠の御国には栄光のからだが用意されているということは、なんと幸いでしょうか?

 ペテロもパウロも、死ぬということは、「幕屋を脱ぐことなんだ」と言っています。つまり、魂が肉体を脱ぐ、それが死であるということです。肉体を脱いだ魂は裸の状態です。私たちは死んだら裸の状態でパラダイス(天国)にしばらくの間います。しかし、裸の状態では、完全でありません。その後、神さまは永遠の御国に私たちを入らせてくださいます。永遠の御国では私たちの栄光のからだが用意されています。死なない栄光のからだに、死なない私たちの魂がすっぽりと入るのです。良いですね。楽しみです。かなり前にアバターという映画がありました。あの映画は、ニュー・エイジの思想があるので、ちょっと危ない映画です。肉体と霊魂が分離するという映画がたくさんあります。でも、アバターの主人公は事故で半身不随になりました。しかし、アバターのからだに魂が入ると、自由に動くことができました。最後に自分のもどるべき肉体がなくなり、死ぬしかありませでした。しかし、奇跡が起こってアバターは体で生きることができました。その映画は聖書の一部をまねて作ったのです。聖書の方がオリジナルです。ペテロは「私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです」と言いました。ペテロはイエス様から、「あなたはまもなく死にますよ」と言われていました。でも、ペテロは表現を換えて「私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている」と言いました。死だと、「そこで終わり」という断絶がどうしてもあります。しかし、「幕屋を脱ぎ捨てる」となると違ってきます。詳しく言うと、幕屋を脱ぎ捨て、裸になり、しばらく天国に留まる。その後、復活して天にある永遠の建物に住まうということです。一連の流れをご理解できたでしょうか?肉体の死は決して美しいものではありません。事故や病気、老衰、いろいろあるでしょう。魂が肉体を脱ぐ時はとても辛いそうです。三浦綾子先生は、「死という、最後にすべき仕事がある」と言われました。ジョンバニヤンの『天路歴程』という物語があります。クリスチャンが死の川を渡るとき、本当に辛い思いをしました。しかし、そのとき「希望」が傍らにいて彼を励ましてくれました。途中、やっとの思いで肉体を脱ぐと、今度は軽やかに向こう岸に着くことができました。そこは天のエルサレムでキラキラ輝いていました。

 私たちは聖書的な来世観を持つことがとても重要です。死は終わりではありません。キリストにあるなら復活があり、永遠の御国があるということです。私たちのゴールは永遠の御国に入って、主イエス・キリストとあいまみえるということです。この地上ではどうしたら良いのでしょうか?神の国、永遠の御国はすでにこの地上に来ています。目には見えませんが、私たちは霊的にはそちらで生きているのです。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われました。天の御国、永遠の御国は2千年前から、すでにこの地上に来ているのです。そして、間もなく目に見えるかたちとしてやってきます。だから、準備をしなければなりません。死の準備も大切ですが、死ぬ前に入国できる権利を得なければなりません。そして、この地上で神さまと親しく交わり、神のみこころを行って生きます。その人は地上でありながらも、半分は永遠の御国に住んでいるのです。ですから、永遠の御国が全く新しいところということではありません。地上でいくらか味わっているからです。クリスチャンは、霊的にはすでに永遠の御国に入っています。願わくば、もっともっと、地上でも永遠の御国を味わうことができますように。そして、来るべきときがきたら、何とかギリギリではなく、余裕をもって入りたいと思います。

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