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2012年8月26日 (日)

神のご性質にあずかる    Ⅱペテロ5:1-9

ある人たちはイエス様を信じて天国へ行くのが救いだと思っています。もちろん、天国に行けることはすばらしいことです。私たちは生きているうちに、その救いを絶対に得なければなりません。しかし、聖書は信じた後に、成長すべきことも教えています。成長のゴールは、神のご性質にあずかる者となるということです。他の表現ではキリストに似た者となるということです。もちろん、この地上では完全にそうなることは不可能です。でも、神のご性質にあずかる者となるために努力していくなら、神さまの役に立つものとなり、実を結ぶ者となります。教会では恵みが強調されますが、努力とか行いはあまり強調されません。この世の人たちは、神の恵み抜きで、自分の努力やがんばりで生きています。でも、聖書には、正しい意味での努力はあります。

1.神のご性質にあずかる源

 1節から4節までは、私たちが神のご性質にあずかることのできる力の源について書かれています。1節はペテロの挨拶ですが、手紙を受け取った人々はどんな人たちでしょうか?1節「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。」手紙を受け取った人たちは、信仰のある人たち、クリスチャンでした。2-3節「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」ペテロは信仰を受けた人たちに3つのものが豊かにされるように願っています。

その第一は、恵みです。恵みは救われるためだけにあるのではありません。救われた後も恵みが必要なのです。普通、教会では洗礼を受ける前に洗礼準備会を持ちます。ある教会に行ったら、このような説明を受けるかもしれません。「救いは行いではなく恵みです。でも、救われたあとはいくつかすべきことがあります。これからは教会員として、聖日礼拝厳守、十分の一献金、毎日聖書を読み、そして祈ること、賜物にあった奉仕をすること、罪から離れきよい生活をすること、牧師や指導者の指導に従うこと。承諾したら、ここに署名をしてください」と言われます。さらには、牧師と役員の前で入信の証をして、審査を受けなければなりません。結構、最初からハードル高いように思いますが、これは何を言っているのでしょうか?「救いは恵みですが、救われた後は行いが必要ですよ」と言っているようなものです。どこかに「恵み」ということばが書いてあるかもしれませんが、努力や行いが全面的に出ています。ある人は「救いは恵みだけど、信仰生活では行いが必要ですと言うのは、立派な詐欺だ」と言いました。私はこういう決まりごとが嫌いなので、洗礼準備会も簡単にやってきたところがあります。でも、あるときにわかりました。「救いも恵みだけれど、救われた後の信仰生活も恵みなんだ」ということです。もし、これらを律法で捉えるならば信仰生活が行き詰るでしょう。「礼拝を守らなければならない」「献金をしなければならない」「聖書を読んで祈らなければならない」「奉仕をしなければならない」。このように肉によってやらなくても良いのです。肉によってやっても神さまは喜びません。神さまは私たちが礼拝しなければ淋しいのでしょうか?神さまは私たちの献金が必要なほど貧しいのでしょうか?私たちが奉仕をしなければ何もできないのでしょうか?神さまは全能の神さまですから、私たちの助けなしで何でもできます。でも、神さまは私たちを通して働きたいのです。主役はあくまでも神さまです。神さまの恵みによって礼拝をさせていただき、神さまの恵みによって献金をさせていただき、神さまの恵みによって奉仕をさせていただくのです。信仰生活、つまり天国に行くまでは、ずっと恵みが必要です。ハレルヤ!

 第二は平安です。ヘブライ語ではシャロームですが、平和、泰平、和睦、他に「秩序ある状態」という意味もあります。これは、神の国における、神さまと私たちとの関係であります。神の国の王さまは神さまです。もし、王なる神さまと敵対関係にあったら平安も平和もありません。それだけではなく、市民権が剥奪され、神の国から追い出されるでしょう。私たちは生まれた時から日本人なので、市民権の有難さがあまり分かりません。世界中には、数え切れないほどの難民がいます。住居も食べ物もなく、医療も受けられません。もし、ちゃんとした国の市民権があればどうでしょう。人権が守られ、さまざまな保護も受けられるでしょう。私たちは、以前は神の民ではありませんでした。神さまと敵対関係にあり、滅びに向かって生きていました。ところが、いろんな導きによって福音を聞き、イエス様を信じました。そのことによって、神さまと和解が成立し、神の国の市民になったのです。ローマ51「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」アーメン。私たちが神の国の市民であるならば、どのような特権が受けられるでしょう?罪のさばきや呪いを受ける必要はありません。神の子として、神さまから守りと助けをいただくことができます。世の中にはいろんな平和運動があります。しかし、一番、必要なのは神との平和です。仮に、この地上ですべてのものを無くしたとしても、神との平和があるならば、神の国の市民として保護を受けることができるのです。

 第三は主イエスの神としての御力です。3節後半に「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」とあります。私たちが神さまのご性質にあずかるためには、主イエスの神としての御力が必要だということです。では、私たちの努力は全く必要ないのでしょうか?Ⅱペテロ15「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして○○を加えなさい」と書いてあります。聖書は人間の努力を否定していません。しかし、神さまがなさる分と人間がやるべき分があります。改革派の信仰を持った人は、神の主権を強調するあまり、人間の意志や熱心な行いを軽んじます。だから、なんでも「神さまがなさった」「神さまがゆるされた」と言います。人が死んだときも「神さまが死ぬことをゆるされた」と言います。究極的にはそうかもしれませんが、その人の不摂生とか不注意が原因したということもあるでしょう。何でも、かんでも神さまを持ち出しては神さまに失礼だと思います。創世記1章と2章には神さまによる天地創造が記されています。神さまによって造られた人間にはなすべき仕事がありました。それは他の被造物を正しく管理するということでした。アダムは土地を耕したり、動物の名前をつけました。柵を作って、他の動物から、家畜を守ったことでしょう。もし、堕落しないでそこにいたなら、金の他に様々な鉱石を掘り起こし、加工して産業を興すこともできたでしょう。神さまは豊かな地球を与えました。知恵を用いて正しく管理していれば、食糧難も資源の枯渇もなかったでしょう。同じように、私たちの信仰生活においても、私たちがなすべき分と神さまがなさる分があるはずです。何でも、神さま任せというのは違うと思います。では、人間の努力や勤勉さをどう位置づければ良いのでしょうか?神さまは私たちに知恵や力、さまざまな能力をくださいました。しかし、それらを神さま抜きで使ってはいけません。神様の助けと導きを得ながら、用いるのです。私たち自身に、知恵や力や能力の限界がくるときがしばしばあります。そういう時は、へりくだって神さまに求めることが必要です。神さまが聖霊によって私たちの内側に努力や勤勉さを持続させてくださるのです。ハイブリッド車というのがあります。その車は、あるときはガソリンで、あるときは電気で走ります。その切り替えが自動的に行われているようです。私たちも自分の力でやっているときもあれば、聖霊の力でやっているときもあります。自分モードと聖霊モードが自然に行なわれたら良いと思います。私も自分モードで説教をがんばって語ると、午後、ぐったりするときがあります。ああ、「肉で頑張ったのかなー」と反省します。まとめですが、私たちが神のご性質にあずかるものとなるため、源となるものが3つありました。第一は恵み、第二は平和、第三はキリストの力です。恵み、平和、キリストの力が私たちの中にあるので、キリストに似たものとして変えられるのです。

2.神のご性質にあずかる

私たちっクリスチャンは、心の霊において新しくされました。そして、以前の古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るのです。裸のままではいけません。私たちには肉があるので、ありのままでは生きていけません。造り主のかたちに似た新しい人を着なければなりません。新しい人とはどんなものかが、5節に以降にあります。Ⅰペテロ15-8「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」一番最初に信仰があります。この信仰は1節にある「救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた」という信仰です。この信仰はクリスチャンであるならば、だれでもが持っています。信仰があれば、もちろん天国に行くことはできます。しかし、ペテロはその上に7つのものを加えなさいと命じています。そうするなら、「役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません」と言っています。これらを1つ1つ説明したいと思いますが、今回は、JBフィリップスの訳がとても良いと思いましたので、この訳をベースに学びたいと思います。

 第一は「あなたの信仰が、善なる生活と共に働くように」と言うことです。信仰が独立してあるのではなく、善なる生活がくっついているということです。善とはgoodnessです。キリストを信じるということは、この世のものと敵対するようなイメージがあります。酒も飲まない。タバコも吸わない。テレビも見ない。ギャンブルや娯楽もしない。何だか禁欲的で「しない宗教」のような感じがします。そうではなく、「信仰とは、生活の中で善なることを積極的に行うことなんだ」ということです。信仰は、本来ダイナミックで、世の中を変える影響力があります。私はジョエル・オースチンの本を読んでいますが、「人に良くしてあげることは、その人の感情口座に預金をしていることなんだ」と書いてありました。逆に、その人に冷たいことを言ったり、失礼なことをすると感情口座から引き出していることになります。預金の残高がある場合なら大丈夫ですが、ない場合はお互いの関係が壊れてしまいます。だから、普段から親切なことばをかけたり、良い行いをして口座に預金をしておくべきだということです。

 第二は「あなたの善なる生活に知識が伴うように」ということです。単なるお人良しではなく、知識が必要なんだということです。知識とは善と悪を見分ける力です。アダムとエバは神から独立してその知識を得ようと堕落しました。それ以来、人間は自分の魂で善と悪を判断して生きています。しかし、本来の善悪の基準は神さまとの交わりの中で与えられるものです。クリスチャンには聖書があります。聖書のみことばは絶対です。もし、聖書のみことばをもって人をさばくならばどうなるでしょう?だれ一人、対抗できません。神さま抜きで、みことばを用いると律法主義になります。みことばは両刃の剣です。その剣で相手をさばいたら、自分にもその剣が跳ね返ってきます。ですから、私たちの知識はいつでも神さまとの交わりが基盤であるべきです。善なる生活にその知識が伴う必要があります。

 第三は「あなたの知識に自制が伴うように」ということです。自制とはself-controlです。パウロは「知識は人を誇らせる」と言いました。知識自体は良いものです。しかし、人間はこの知識を持つことにより、高慢になります。なんでも教えたがります。私もテレビを見て知ったかぶりをして、恥をかくことがあります。この世の識者や科学者もそういうミスを犯します。今は情報化時代です。情報は確かにすばらしいものです。しかし、情報にもコンロールが必要です。どれが必要な情報で、どれが不必要な情報かをより分ける力がなければなりません。同じように、私たちの知識にも制御するもの、つまり自制が必要です。

 第四は「自制に耐え忍ぶ能力が伴うように」ということです。JBフィリップスの訳のendureは我慢とか辛抱という意味があります。ということは一時的な自制ではなく、ずっと長い間、耐え忍ぶ自制です。私たちも時々、自制が切れるときがあります。今の時代の人たちは、多くのストレスにさらされています。自制がふっと切れるときがあるかもしれません。そういうとき、罪を犯すのではないでしょうか?ゴムもピーンと張ったままだと、何かの衝撃で切れてしまうでしょう。クリスチャンは神さまの懐に安らぎながら耐え忍ぶべきではないでしょうか?詩篇46に「静まれ」とあります。神さまの中でリラックスしながら、耐え忍ぶことができるのではないでしょうか?

 第五は「耐え忍ぶ能力に神さまへの献身が多く伴うように」ということです。日本語の聖書は敬虔と訳されていますが、JBフィリップスはdevotionということばを使っています。devotionは献身のほかに、専心とか傾倒、「…に向ける」という意味もあります。私たちはだれに心やエネルギーを向けているのでしょうか?イエス様であり、神さまであるべきです。イエス様に集中していると、耐えられるからです。ただ我慢するというのは大変です。イエス様を見上げながら、我慢する。スポーツの世界では監督やコーチは絶対です。試合のときも、どうしたら良いか支持を仰ぎます。これまでずっと練習をささえてきた監督やコーチです。だから、試合のとき歯を食いしばってでも頑張るのではないでしょうか?だれが私たちを応援しているのでしょうか?イエス様が人生のコーチです。イエス様が私たちを支え、私たちを応援してくださるのです。

 第六は「今度は、兄弟愛という品質を持つように」となっています。神さまだけの献身では不足だということです。そこに兄弟愛が含まれる必要があります。昔は「横を見るから躓くので、神さまだけを見上げるように」と言われました。「牧師を見ないように。兄弟姉妹とも交わらないように。神さまだけを見上げなさい」と言われていたようです。私は1996年からセルチャーチにしようと思い、すべての家庭集会をやめました。牧師が導くのではなく、信徒リーダーが導くようにさせました。しかし、今、残っているセルは半分以下です。私は形から入ったので、失敗しました。やはり、教会は兄弟姉妹の愛の交わりが必要です。これからどのような組織にしていくか、わかりませんが、礼拝だけではなく、もっと別な交わりの場が必要であろうと思います。それも、単なる交わりではなく、お互いを建て上げる共同体が必要です。

 第七は「兄弟愛はクリスチャンの愛で導かれるように」となっています。兄弟愛とクリスチャンの愛とは違うのでしょうか?クリスチャンの愛は原文ではアガペーとなっていますので、神さまからの愛です。神さまからの愛が、兄弟愛の源だということです。もともと、私たちにはそのような愛はありません。しかし、イエス様を信じてから神の愛が与えられました。今も聖霊によって神の愛が注がれています。だから、クリスチャンが「私には愛がありません」と言ってはいけないのです。すでに神の愛が与えられていますので、その愛を差し出せば良いのです。なくなると、神さまから新たに愛が与えられるようになっているのです。ハレルヤ!

 信仰に対して、7つの品性が付け加えられました。つまり、クリスチャンは神さまを信じる信仰のほかに、こういう7つの品性も必要だということです。パウロはガラテヤ書5章で、御霊の実として現しています。ペテロもパウロと同じようなことをここに書いているのではないかと思います。つまり、イエス様を信じた信仰で終ってはいけないということです。恵みと平安とキリストの力によって、神さまの性質にあずかる者となるのです。しかし、そこには私たちの努力も必要になります。

 イエス様は「空の鳥を見なさい…天の父がこれを養っていてくださる」と言われました。確かに空の鳥は種蒔きもせず、刈り入れもしません。だけど、空の鳥は自分がすべき最低限のことはしています。すずめは毎日、餌をついばんでいます。つばめは朝早くから虫を捕まえています。ムクドリは、刈り取った草の上を何か探しています。川鵜も潜っては魚を捕まえています。彼らは神さまが与えた能力を用いて、神さまが与えた自然から食べ物を取っています。じっと、口をあけているわけではありません。またイエス様は「野の花を見なさい」とも言われました。確かに野の花は働きもせず、紡ぎもしません。でも、野の花は一生懸命自分ができることをしています。太陽が昇ったらそちらの方に葉っぱを向けます。根を地中に張って、水分や養分を吸い取るでしょう。もちろん、神さまは太陽光線や雨を降らせてくださいます。でも、何も動かないような植物でさえも、自分なりの努力しています。同じように、神さまのなさる分と私たちがすべき分がちゃんとあるのではないかと思います。きょうのテーマは「神さまのご性質にあずかる」ということでした。ということは、私たちが神さまのご性質にあずかるためには、神さまの力もさることながら、私たちの努力も必要だということです。つまりこれはどういうことかと言うと、「選択、決断、実行」ということです。神さまは私たちの代わりに「選択、決断、実行」をしてくれません。私たちが、神さまが願われる信仰者として成長するために、「選択、決断、実行」が必要なのです。親は子どもの成長を喜びます。同じように、父なる神さまは私たちが霊的に成長することを喜んでくださいます。神さまは一遍で、奇跡的に、ご自分の性質にあずかる者に作りかえることもおできになるでしょう。天国に行ったらそうなります。でも、この地上で、あえて時間のかかることをしているのには訳があります。やはり、神さまは私たちと交わりを持ちながら、成長していくのを喜びたいのです。結果も重要ですが、成長するまでのプロセスが大事なのです。成長のプロセスを喜びましょう。Ⅱペテロ52-3「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」

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2012年8月19日 (日)

目をさましていなさい   Ⅰペテロ5:8-14 

 悪魔は今も生きて働いている霊的な存在です。悪魔に対しての両極端があります。1つは、悪魔を無視して、全く気をつけない人です。残念ながら、悪魔の存在を認めない教会もあります。それでは、戦う前から負けている状態です。悪魔は神の敵であり、私たちの敵でもあります。もう1つは、悪魔を神さまよりも力ある者として恐れることです。病気や事故、何でも悪魔のせいにする人がいます。確かに背後で働いていますが、私たちの不注意や人間の罪が原因で起こることもあります。あまり、悪魔や悪霊に過敏になるというのも問題です。何事もバランスが必要です。この世において、悪魔は働いていますが、信仰をもって立ち向かえば勝利できるのです。

1.悪魔の策略

 「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」と孫子が言いました。悪魔の策略、悪魔の常套手段を知るということはとても重要です。最初の人間、アダムとエバはどうして悪魔の誘惑に負けたのでしょうか?神のようになりたいという高ぶりが原因でした。また、悪魔は神のことばに疑いをかけました。「神は本当に言われたのですか?」と言いました。そして、私たちには、元来、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りという弱点があります。悪魔はここを付いてくるということも確かです。でも、だれが悪魔に完全に勝利したのでしょうか?そうです。イエスキリスト様です。イエス様は公生涯に入る前、40日間断食して、悪魔の試みに会われました。神のことばによって、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りに勝利しました。また、イエス様は神の御子であられたにも関わらず、いつも父なる神さまに謙遜に従われました。イエス様は最後に十字架と復活により、悪魔の仕業を砕いてくださいました。悪魔の仕業、武器とは何でしょう?黙示録1210には「兄弟たちの告発者、日夜彼らを神の御前で訴えている者」と書いてあります。そうです。私たちの罪を

責め立てるのが悪魔であります。しかし、イエス様が十字架で血を流されたことにより、私たちのすべての罪が赦されました。もう、悪魔は私たちを訴えることはできないのです。それでも、悪魔は「お前の罪はもう赦されない。神もお前を見捨てているぞ」と嘘を言ってきます。これで、洗礼を受けた数多くのクリスチャンが教会から離れてしまいます。本当に残念です。

 ヨハネは「悪魔は3つのことをするので気をつけよ」と教えています。ヨハネ1010「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」盗人とは悪魔のことであります。盗み、殺し、滅ぼすことが悪魔の主な目的です。悪魔は私たちの何を盗むのでしょうか?悪魔は私たちの永遠のいのち、救いを奪うことはできません。なぜなら、私たちのいのちは神さまのふところにあるからです。イエス様はヨハネ1028「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」と言われたからです。では、何を盗まれるのでしょうか?それは「豊かないのち」です。豊かないのちとは、永遠のいのちという意味だけではありません。これは地上でも、豊かに生きることができる神の祝福という意味です。私たちは貧しく、ひもじい思いをして、はいつくばって天国に行くのではありません。イエス様を信じたということは、この地上でいながら神の国、天国に入ったということです。ということは、この地上でも天国の豊かさを味わうことができるということです。しかし、悪魔はそれらを私たちから盗むのです。「あなたは良きものを盗まれていませんか?」家族や夫婦の幸せがどうして盗まれているのでしょう?互いに欠点を上げつらい、争っているからではないでしょうか?悪魔が「もっとやれ!」とけしかけています。どうして経済的に貧しいのでしょうか?神さまを第一にしないで、この世のものにお金を使っているからではないでしょうか?「殺し」とは何でしょう?羊がどうして殺されるのでしょう?神の群から離れ、孤立してしまうのはとても危険です。誘惑に負けて罪を犯してしまうとどうなるでしょう?悪魔が肉体的ないのちを奪うでしょう。病気もあるもの、悪魔が持ち込むものもあります。もちろん、すべての病気が悪魔から来るものではありません。アダムとエバが罪を犯したことが最大の原因です。でも、人を赦さない罪、中毒性の罪、偶像崇拝は悪魔に対してドアを開けてしまいます。ですから、罪を悔い改めて後ろのドアを閉めましょう。「滅ぼし」とは何でしょう?悪魔は何をもって私たちを滅ぼすのでしょうか?罪です。私たちが罪を犯すことにより、自ら滅ぼされるということです。悪魔は私たちに罪を犯すように誘惑するということです。神さまはこの世界を造ったときに、道徳的な法則も造られました。高いところから落ちると怪我をするように、罪を犯すとそれなりの罰を受けるということです。それは神さまが愛であるとかないとかは関係ありません。たとえば、ある人が怒りや憎しみを持っているとします。悪魔はそれを用いて、放火や殺人へと駆り立てます。またある人がむさぼりを持っているとします。悪魔はそれを用いて、盗みや姦淫へと駆り立てます。悪魔は「今が良ければいいじゃないか」と言いますが、身を滅ぼすような破壊的なことがその先に待ち受けています。

 この世の人たちは、神さまを信じないばかりか、悪魔の存在も信じていません。だから、悪魔は「盗み、殺し、滅ぼし」やりたい放題です。私たちクリスチャンは敵がいることを忘れてはいけません。悪魔は別名サタンとも呼ばれていますが、それは「敵」という意味があります。悪魔は神さまと戦うと負けるので、その代わり、神の子どもをやっつけるのです。もし、神の子どもが惨めな生活をして、敗北するならば、悪魔は大喜びするでしょう。私たち人間が神から離れ、滅びへ向かっていくことが悪魔の願いです。悪魔は将来、火の池で滅ぼされることが決まっています。しかし、一人で行くのではなく、神に造られた人間を道連れにしたいのです。「そうすれば、神は思いを変えて、自分をも赦してくれるかもしれない」と考えているからです。私たちは悪魔の同じところに行ってはいけません。イエス・キリストはそのために十字架にかかり血を流してくださったからです。イエス・キリストを信じる者は、サタンの支配から神の支配に移されるのです。そして、この地上でも豊かないのちを持ち、幸いに暮らすことができるのです。

2.悪魔との戦い

 Ⅰペテロ58-9「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」ペテロは「クリスチャンであるならば、だれも悪魔との戦いは避けることができない。みんな、同じような苦しみを通って来たんだ。」と言っています。悪魔との戦いで最初に言われていることは何でしょう?「身を慎み、目をさましていなさい」ということです。「身を慎み」は、原文では「酔っていない、しらふである」という意味です。また「目をさます」とは、「油断せず注意をしている」という意味です。第一のポイントで悪魔の策略についてお話ししました。悪魔はどこに隠れているのでしょうか?罪の背後に隠れているのです。しかし、悪魔はかしこいので、罪に美しいラッピングをほどこしています。だから、外から見るとそれは罪とは全くわかりません。もし、私が酔って新宿歌舞伎町を歩いていたらどうなるでしょうか?目の前から絶世の美女が近づいてきます。「わぁ、こんな美しい人が世の中にいるのだろうか?」とても良い香りがしてきます。白魚のような手が私の手に触れます。「あなたのような素敵な方を待っていました」。「えー?そうですか?」とフラフラと着いていきます。箴言7章「ついには、矢が肝を射通し、・・・よみへの道、死の部屋に下って行く」のです。悪魔は醜いかっこうをしていません。むしろ、美しくて魅力的で、かっこよいのです。初めから醜かったら、だれもやられません。悪魔は私たちが欲しているのを良く知っています。悪魔は私たちが満たされたいものを良く知っています。だから、身を慎み、目をさましているべきなのです。かえるは変温動物なので、水の温度があまり分からないそうです。バケツに水を入れ、そこにかえるを入れます。バケツをコンロの上に置いて、下からあっためます。ぬるま湯になっているのにかえるは「気持ち良い」とか言って逃げません。かえるは、そのままゆであがるそうです。悪魔もいきなりではなく、じわじわと攻撃してきます。私たちの良心が麻痺して、気付いた頃はもう手遅れです。ですから、共同体である教会から離れず、身を慎み、目をさましているべきです。指導者や親しい人の助言を無視してはいけません。

 悪魔は罪の誘惑を与えるのが第一の手段ですが、二番目は何でしょう?8節の半ばに「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」と書いてあります。新約聖書的には獅子であるライオンは、鎖につながれていると思います。私はある範囲しか動けないと信じます。しかし、悪魔のテリトリーに入るならば、一発でやられてしまうでしょう。鎖につながれていても、できることがあります。それは、吼えるということです。「がおー」と吼えられたら、だれでも萎縮してしまうでしょう。それで、持っているものを落としたり、恐れて何もしなくなるでしょう。つまり、悪魔が私たちに与えるものは「恐れ」です。もし、私たちが恐れにつかまるならどうでしょうか?神さまを信頼しないで、そこに立ち止まるか、あるいは後退してしまうでしょう。神の指導者の前に立ちはだかるのは、恐れです。これまでも何回も失敗した。新しいことをやってもまた失敗するだろう。失敗への恐れです。恐れと失望落胆は双子の姉妹です。イスラエルがミデヤンにやられているとき、神さまはギデオンを選びました。しかし、ギデオンは隠れて、酒ぶねの中で小麦を打っていました。主の使いが現れ、こう言いました。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」。しかし、ギデオンは私の分団は最も弱く、私は一番若いのです」。ギデオンはいろんな言い訳をします。最後に、主の使いは「安心しなさい。恐れるな」と言いました。何故、恐れてはいけないのでしょうか?神さまは恐れる者と共にいることができないからです。何度も話したことがありますが、子どもの自転車乗りを教えたときがあります。4人も教えたのでベテランです。「パパが後ろから押さえるから、ペダルをこんでごらん」と言います。子どもがハンドルを握ってさえいれば、自転車はどこへでも行けます。こっちが荷台をしっかりささえているからです。でも、子どもが「恐い」とか言って、ハンドルを離したらどうなるでしょう。ハンドルは「くにゃ」と曲がって、それ以上、前に進めません。ハンドルを握るとは信仰に立つということです。私たちが信仰に立つなら、神様は私たちをささえて、進ませることができるのです。悪魔は私たちが信仰に立たないように、吼えて、恐れさせるのです。恐れてはいけません。主が共にいて、勝利させてくださるからです。

 パウロはエペソ6章で「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と言いました。神様はどこにでも遍在できるお方です。しかし、悪魔は神ではないので、どこにでも遍在できません。そのため、子分をたくさん持って、組織しています。主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊とは、悪魔の階級的な組織を指すと言われています。詳しくはわかりませんが、国の上を支配する力ある悪霊がいます。ダニエル書に「ペルシャの君、ギリシャの君」というふうに出てきます。おそらく州や地方を治めているのでしょう。宗教や思想、文化や芸術を支配している悪霊もいるかもしれません。固定した考えが、要塞のようになって、神さまの真理を受け入れることができません。あとは、個人や家系を攻撃して悪さをする悪霊がいます。悪霊は住むべき家をさがしています。肉体がないので、自分と似たような家をさがしています。汚れたことをしている人には汚れた霊が入り、もっと悪くなります。しかし、重要なのは「私たちの格闘は血肉に対するものではない」ということです。これは、人間との戦いではないということです。自分の夫や妻を悪魔と言ってはいけません。職場や教会のだれかを悪魔と言ってもいけません。悪さをしているのはその人の背後にいる悪魔なのです。その人は悪魔の手先として、用いられているだけなのです。私が座間キリスト教会にいたとき、会堂を増築しようという計画がありました。発注していた建設会社が倒産し、手付金が戻らなくなりました。そのことで、ある兄弟が牧師先生を訴え、あることないことを全国の教会にばらまきました。かなりの兄弟姉妹も影響を受け、教会を離れました。なんと最高裁まで争われ、10年かかったそうです。訴えた兄弟のその家族はどうなったのでしょうか?可愛そうです。サタンに用いられてしまったのです。サタンは「兄弟たちを訴える者」ですから、その片棒をかついでしまったのです。不正に目をつぶりなさいということではありません。悪魔はそういうことを用いて、教会に分裂を起こそうと狙っているということです。教会に分裂があるのは、悪魔が背後にいることを知らないで、人間同士が戦っているからです。教会は議論するよりも、祈ることの方がずっと重要です。だから、パウロはエペソ6章でこのように命じているのです。エペソ618「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

3.神さまの計画

 それでは、なぜ神さまは悪魔の活動を許しておられるのでしょうか?私たちを滅ぼそうとする悪魔をどうして放っておかれるのでしょうか?Ⅰペテロ55:10-11 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」このところに、神さまのご計画、神さまのみこころが記されています。神さまは、悪魔の活動から来る、さまざまな苦しみをどうして許しておられるのでしょうか?この箇所を見ると、神様は第一に、私たちを永遠の栄光の中に招きいれてくださいました。私たちがキリストを受け入れたことにより、神の御国に招きいれてくださったということです。では、そのまま天国の神さまのみもとに召してくだされば良いと思います。しかし、神さまは私たちを地上に残して、しばらくの苦しみをあえて通されるようです。神様、「なぜ、悪魔がいる地上に私たちを残されるのですか?」と言いたくなります。これが正しいかどうか分かりませんが、こういうたとえがあります。生きた魚を水槽に入れたまま運ぶ車があります。長時間も運ぶと、お店についた頃、魚はぐったりしてしまいます。そこで、水槽に蛸をわざと入れるそうです。蛸は魚に悪さをします。魚は適度に緊張するため弱らないということです。元気なままで天国に行くために、蛸ならぬ、悪魔いるのでしょうか?ペテロは何と言っているでしょうか?「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」とあります。ここには苦しみや試練を通過すると、私たちに4つのことが結果として起こると書いてあります。

 第一は完全になるということです。「完全」とは、元来「整頓する、調整する」という意味から来ています。いろんな苦しみや試練で私たちが整頓され、調整されるのでしょうか?山から切り出された岩は形も不揃いでザラザラしています。それが苦しみや試練のノミで削られます。ガチン、ガチン、ガチン。神の宮を築く石になるためには、整えられる必要があります。ガチン、ガチン、ガチン。痛いです。でも、最後に完成された石になります。第二は「堅く立たせ」とあります。原文は建物を建てるときの基礎の堅さと関係しています。最初、信じた頃はとても不安定です。ちょっとしたことで恐れたり、疑ったりします。でも、いろんな苦しみや試練を通るとどうでしょうか?神さまに対する信仰が堅くなり、ちょっとやそっとのことでは躓きません。私たちの信仰はここまで来る必要があります。第三は「強くし」とあります。これは、「積極的な活動のために備える」という意味があります。鍛えると筋肉が強くなります。同じように奉仕のための力が増すということです。第四は「不動の者」としてくださるということです。これは「土台が置かれる」とか「堅固になる」という意味があります。とにかく、神さまが私たちに悪魔からくることの試練や苦しみを許すのには意味があるということです。ひとくちに言えば、神様に対する信仰が確立するということです。しかし、これはとても逆説的であります。悪魔からくることの試練や苦しみが来たら、信仰を捨てて、神さまから離れることもあるでしょう。しかし、神さまは信仰に堅く立ち、ご自身としっかり結びつくことを願っておられるのです。神さまがなぜ、悪魔の存在を許しておられるのかはっきりとは分かりません。なぜ、信仰を持ったとしても、なぜ試練や苦しみがあるのでしょう?わからないことだらけです。

 私たちには、この地上でいろんな試練や苦しみに会います。あるものは誰かのせいで、またあるものは自分の過失で、またあるものは悪魔的な力によって、またあるものは自然災害によってもたらされます。そういう時、「ああ、どうしてこんなことが起きたんだろう」と後悔したり、悔しがったりします。「神さま、イエス様を信じているのにどうしてこんなことが起きたんですか?」と文句を言います。大切なものを失ったり、病気や怪我もあるでしょう。失敗や不運としか思えないこともあります。どうしてそんなことが起きたのか、さっぱり分かりません。多くの場合、神さまはその理由を教えてくれません。「なぜ、どうしてですか?」と聞いても無駄です。それよりも、「何のためですか?」と聞くべきです。少なくとも1つのことだけは確実に分かります。それは、「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる」ためです。ひとことで言うなら、私たちの信仰が堅固なものとなるためです。私たちは「ああ、このことは私の過失なので、神さまの御手の外にある」と思うかもしれません。「ああ、このことは、悪魔が引き起こしたことなので、神さまの御手の外にある」と思うかもしれません。そんなことはありません。どんなことでも、神さまがそれを許されたのですから、神さまの御手の中にあります。そして、神さまが一番になさりたいことは、私たちの信仰が堅固なものとなることです。最終的には、私たちが神さまをあがめるようになるためです。「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」

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2012年8月12日 (日)

神にゆだねなさい    Ⅰペテロ5:6-7

みなさんは学校のとき、国語の成績はどうだったでしょうか?私はあまり良い方ではありませんでした。本もほとんど読みませんでした。一番上の兄が、下の弟や妹に、筑摩書房の日本文学大系全50巻を買ってくれました。しかし、その中の数巻しか読みませんでした。そのほとんどが、実家の秋田にあります。牧師になってから、本を読んでいます。ところで、聖書には節とか段落というものがあります。原文のギリシャ語にはありませんが、便宜上、そういうふうになっています。前回の礼拝では1節から5節まで学びました。なぜなら、段落がつけられており、1つの塊になっているからです。でも、ある英語の聖書は1節から4節までが1つの塊で、5節から7節までが1つの塊になっていました。きょうは、6節からですが、前の5節も関係しているということを最初に申し上げます。

1.へりくだりなさい

Ⅰペテロ56「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」ここに「へりくだる」とありますが、どういう状況でへりくだるのでしょうか? 6節のはじめに「ですから」と書いてありますので、前の節と繋がっています。では、5節を読んでみます。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」若い人たちに対し、長老たち(教会の指導者)に従いなさいと命じられています。戦争に負けてから、「権威に従う」ということがあまり言われなくなりました。家庭でも父親の権威は失墜し、学校でも先生の権威が失墜しています。そのために、家庭も学校も混乱しています。では、教会はどうでしょうか?牧師の権威を強調するとカルトみたいにとられます。当教会は、1995年からセルチャーチを導入しました。そのとき「フラット」「フラットになる」ということばがはやりました。牧師と信徒とのフラットな関係です。セルチャーチで共同体になるのは良いのですが、弊害も出ました。それは聖書的な権威がなくなり、みんなタメ口になります。みんなモデルのローラのようになります。確かに神さまの前では牧師も信徒もフラットかもしれません。しかし、牧師には身分ではなく機能としての権威が与えられています。その人自身を守るため、あるいは群全体を守るために、「ノー」と言わなければならない時もあります。だから、ペテロは「若い人たちよ。長老たちに従いなさい」と命じているのです。長老たちとはだれかと言うと、1節から4節まで書いてある、神の羊を養う指導者のことであります。指導者に従うということは、結局、その人自身が守られるということなのです。

でも、その後に何と書いてあるでしょう?「みな互いに謙遜を身に着けなさい」とあります。「若い人たちだけではなく、指導者たちもそうですよ」ということです。なぜなら、指導者たちこそ、高ぶる恐れがあるからです。聖書では、謙遜というのが衣服のようにたとえられています。みなさんは、家の中では普段着かもしれませんが、一歩、外へ出るとある程度の服を着るでしょう。いくら暑くても裸で外を歩く人はいません。同じように、教会という神の家族の中でも、衣服が必要です。それは、「謙遜」という衣服です。春ごろですが、近くにアリオ1階のヨーカドーに買い物に行きました。レジをすませた後、はおっていたジャンパーが裏表であることに気付きました。家から買い物をしている間、ずっと裏表だったんですね。今どきの流行で、裏表もアリかもしれません。しかし、いいおじさんが、そういうファッションはしないでしょう。いやー、顔から火が出るような思いをしました。みなさん、「謙遜」という衣服を着ていますか?それを来ていないと、高ぶりが丸出しになります。私たちは努力しなくても、自然に高ぶることができます。謙遜には努力が必要ですが、高ぶりには努力はいりません。うまくいくと、「俺がやった」「私がやった」とつい誇りたくなります。特に能力のある人、人の前に立つ人は、要注意であります。私はJCMN、セルチャーチ・ネットワークに属しています。私はこれでも関東のコーディネーターであります。香港のベン・ウォン師が6年位前にやって来て「できる、できる、教会開拓はできる」と言いました。練馬グレースもそれに踊らされて「10年で40の教会を生み出す」と宣言しました。あれから3年たっても1つも生み出していません。今年の春、私は怒って「本質だけじゃ分からない。日本人は方策や戦略も教えてもらわないとダメなんだ」と言いました。他の先生も「そうだ、そうだ」とか言って、今年から新しい取り組みを始めました。先月もすばらしいセミナーを持つことができました。私は「次回の10月はこういうテーマで学びましょう」と提案しました。家に帰ってから、どうなったでしょう?高ぶりがありました。家内に「私がこうした」「私がこう言った」と言いました。寝る前に、「自分は高ぶっているなー」とすぐ分かりました。確かに、神さまは私に知恵を下さったかもしれません。しかし、もっとすばらしいことは小笠原先生をはじめ、他の先生方が「そうだ、そうしよう」とへりくだって下さったからです。私が、このまま高ぶるなら、やがてそっぽを向かれるでしょう。本当に恐ろしい思いがしました。高ぶるのには努力はいりません。へりくだるのに努力が必要なのです。

6節後半の、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」とはどういう意味でしょう?「神の力強い御手」とは何なのでしょうか?そのヒントはやはり、前の5節にあります。神さまはどのような力を持っておられるのでしょうか?前の5節後半には「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えるからです」と書いてあります。神さまは高ぶる者に対して敵対します。反対に、へりくだる者には恵みを与えてくださるお方です。旧訳聖書を読むとわかりますが、神さまを捨てて高ぶった王様はすぐ退けられています。しかし、へりくだって神さまと共に歩んだ王様は長く用いられました。確かに、神さまは生きて働いておられます。ハドソン・テーラと言えば、中国の奥地伝道で有名な宣教師です。彼は一人で中国に乗り込み、とても大きな働きをしました。数年後、本国から宣教師が送り込まれ、宣教団体ができました。ハドソン・テーラは助けになると思いましたが、そうではありませんでした。他の宣教師たちは「何故、お前だけが勝手にやるんだ」と彼をねたみました。ハドソン・テーラは神さまに「私がこんなに一生懸命やっているのに、なぜ、他の人たちは邪魔をするのですか」と文句を言いました。神さまは、彼に1つの幻を見せてくれました。流れの早い川の真中に自分が立っていました。流れが強い上に、石ころまでゴロゴロ流れてきます。彼は神さまに「これでは立っていられませんよ。石も痛いですよ」と、文句を言っています。そのとき、神さまが「あなたは立っているから抵抗に合うのです。川底に潜りなさい」と言いました。ハドソン・テーラは川底に潜りました。そうすると、川の水も、石ころさえも自分の上を流れていきました。自分は全く害を受けませんでした。彼は「川底に潜るとは、へりくだることなんだ」ということが分かりました。私たちも、へりくだるなら、人のねたみや妨げも問題にはならないということです。

神さまはどんなお方でしょうか?「ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださる」とあります。創世記にヨセフという人物が出てきます。彼はラケルの子どもで末っ子でした。それで父ヤコブからとてもかわいがられした。あるとき、ヨセフは「夢を見たよ。父も兄弟たちも自分を拝んだよ」と自慢しました。そのため、兄たちからねたみを買い、エジプトの奴隷に売られました。ヨセフはポテファルの家で仕えました。良いところまで行きましたが、誤解されて、牢獄にぶちこまれました。あるとき、牢に入れられた高官の夢を解き明かしました。「ここを出られたら、私のことを王様に話してください。無実の罪で入れられているのです」とお願いしました。しかし、その高官はコロッと忘れてしまいました。それから2年後、パロ王が夢を見ました。王さまは、その意味がまったく分からなくて、イライラしていました。「だれも、私の夢を解き明かせる知者はいないのか?」すると、あのときの高官が「ああ、一人います」と思い出しました。一番、良いときにヨセフは牢獄から呼び出され、王様の夢を解き明かしました。そして、彼は奴隷からエジプトの総理大臣になりました。なんと、ヨセフは17歳から30歳まで、13年間奴隷だったのです。そのとき、ヨセフはすっかり謙遜になっていました。「夢を解き明かすのは私ではなく神さまです」と言いました。さらには、自分を奴隷に売った兄弟たちを赦し、エジプトに非難させました。そのように、神さまはちょうど良いときに高くしてくださいます。下積み生活で苦しんでいる人もいるかもしれません。「ぜんぜん、報いられない」とぼやいているでしょうか?でも、神さまは今も生きておられます。6節をもう一度、お読みいたしましょう。5:6 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」アーメン。

2.神にゆだねなさい

Ⅰペテロ57「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」「思い煩い」は、心配事、問題や悩み事とも言い換えることができます。だれしも、心配や悩み事があるのではないでしょうか?しかし、心配や悩み事が全くない人たちがいます?それは墓石の下で眠っている人たちです。生きているからこそ、心配や悩み事があるのではないでしょうか?では、クリスチャンになったら、心配や悩み事がなくなるでしょうか?なくなりません。この手紙は、クリスチャンに充てられたものです。彼らも思い煩っていたのです。だから、ペテロは「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」と言ったのです。生きているから、思い煩い、心配や悩み事があるのです。ハレルヤ!でも、私たちがこの世の人たちと違うところはどこでしょう?それらをゆだねられる神さまがおられるということです。英国の聖書はこう書いています。Cast all your cares on hem, for you are his charge.直訳するならば、「あなたの心配事すべてを彼に放り投げなさい。なぜなら、あなたは彼の責任だからです。」「彼」とはもちろん神さまのことです。Castというのは、釣りのキャスティングと同じ意味です。私たちは「放り投げるなんて、そんなに乱暴で良いのでしょうか?」と心配になります。でも、神さまがあなたの担当だったら、良いのではないでしょうか?これは昔あった紡績工場の話です。工場の中では、大きな紡織機が立ち並び、女工さんたちが忙しく働いていました。相手は機械ですから、糸が絡むことがたまにあります。あるとき、糸が絡んだため、担当の女工さんが一生懸命、直そうとしました。しかし、こんがらがって、余計おかしくなりました。それで、女工さんが「技師を呼びました。」彼女は「一生懸命、直そうとしましたが、うまくいきませんでした」と告げました。技師が彼女に言いました。「あなたがすべきことは、機械を直すことではありません。私を呼ぶことでした」。世の中にはいろんな専門家がいます。心配や悩み事を受ける専門家は私たちの神さまだということです。ハレルヤ!

では、教会で仕えている牧師の役目とは何なのでしょうか?一時代前の牧師の理想像は、教会員のお世話をすることでした。小笠原先生も本当によくお世話をします。人の話を何時間も聞いても平気です。私たちもJCMNで多くの牧師先生方のコーチングをしています。一番難しい人を小笠原先生が担当します。私などは「その人は牧師の賜物がないんだから、無理だよ」とはっきり言います。しかし、先生はそうではありません。向こうが「もう結構です」というところまで、とことん付き合います。私はバウンダリー(境界線)ということを学んで、「本当に良かったなー」と思っています。日本人の多くは共依存です。共依存は、「本来、その人がやるべきことを、代わりに負う」ことから来る問題です。つまり、他の人の責任を自分が負うということです。子どもの責任、妻の責任、夫の責任、だれかの責任です。その人の代わりに、親が負ったり、夫が負ったり、妻が負ったり、子どもが負ったり、だれかが負ったりします。そうすると、負われた人はどうなるでしょう?その人の身勝手さ、弱さ、中毒がずっと治らないということです。なぜなら、親切な人が自分の問題を取り除いてくれるからです。負っている親切な人はイヤイヤながらやっているので、心の中は怒りと憎しみがいっぱいです。なぜ、イライラして、悩み事が多いのでしょう?身勝手な人の問題まで背負っているからではないでしょうか?どうすれば良いのでしょう?余計な世話をしなければ良いのです。洗濯物がたまっても、部屋がちらかっても、宿題を忘れても、借金が重なっても、中毒で死にそうでも、放っておけば良いのです。「冷たいじゃないですか?いつ助けるのですか?」と言うでしょう。私たちが助けられるのは、その人が本当に困ったときです。いくら水泳が上手な人でも、水に落ちたばかりの人を助けないそうです。もし、飛び込んだら、しがみつかれて一緒におぼれてしまうそうです。その人がおぼれて、本当に弱ったときに、飛び込むのです。私たちはそういう人たちの消耗品になってはいけません。牧師が本来すべきことは、神さまにゆだねることを教えることだと思います。最初、少しくらいは持ってあげるかもしれません。しかし、その人が自分の重荷を持つことができるように訓練することがより重要です。中には、人の世話をするのが好きな牧師がいます。多くの人が自分を頼ってくるのを生きがいにしている牧師もいるかもしれません。それこそ、共依存の牧師だと思います。聖書にははっきり、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書いてあります。面倒を見てくださる神さまのところに連れて行くことが最も重要なことです。

17世紀、イギリスにおいて理神論なる考えが生まれました。そして、18世紀のフランス革命以降、ヨーロッパ中に広がりました。理神論者は、神さまが世界を創造したことは信じています。しかし、神さまがこの世界に一定の法則を与えて創造した後、手放したという考えです。つまり、神様の手を離れた世界、自然界が意思をもって動いているということです。人々は「神様はこの世界には関知していない」「神さまはいらない」「神さまは死んだ」と言い始めました。神さまはどこかに存在していたとしても、この世界にはめったに干渉しないんだということです。ダーウィンが「自然に生物が誕生し、自然に進化した」と言いました。世の人々は「私たちはやっと神さまから自由になれたんだ。神さまなしで生きてゆけるんだ。この地上にユートピアを築くんだ」と言いました。ところが、第一次、第二次世界大戦が起こり、不安と恐れ、虚無が人々の心を支配しました。神さまがいないんだったら、自分たちで心配しなければなりません。人口増加、食糧危機、温暖化、自然災害もそうです。科学が進歩し、物質的に豊かになりました。しかし、今、多くの人たちの精神が病んでいます。なぜなら、不安と恐れと虚無を取り去ることができないからです。神さまは世界を造ったけれど、後は放っておいているのでしょうか?聖書は「世界を造られた神様は、今も世界を保っている」と言っています。神さまは私たちの心配や不安に無関心なお方ではありません。聖書には「神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書いてあります。問題なのは、神さまではなく、神さまに背を向けている人間の方なのです。神さまは解決を持っています。人口増加、食糧危機、温暖化、自然災害、資源不足、家庭崩壊、失業問題…すべてに対する解決を持っています。

ある人が「神さまは失業問題に関心を持っているんですか?」と牧師に質問をしました。その牧師はオーストラリアの牧師でしたが、このように答えました。「マタイ福音書の20章を開いてください。そこにはぶどう園で働く労務者を雇う記事が書かれています。主人は早朝、午前9時、お昼、午後3時に、雇用するためにでかけました。しかし、それだけではありません。午後5時にも出かけ、仕事にあぶれている人たちを見つけて、彼らを雇いました。たった1時間しか働かなかったのに、一日分の賃金を与えました。なぜ、そのようなたとえ話が書いてあるのでしょう?神さまは失業問題にも関心があるからです。」そのように答えました。あなたはご自分が持っている悩みごと、心配事を独り占めして、神さまにゆだねていないのではないでしょうか?「この問題は、私が一番良く知っています。神さま、どうか私を見守ってください」と、そのように祈ってはいないでしょうか?私は「神様、私を見守ってください」という祈りが大嫌いです。なんという傲慢な祈りでしょうか?「私がやりますので、遠くから見守ってください」。そうではないと思います。私はむしろこのように祈るべきです。「神さま、一緒にやりましょう」と言うべきです。今、神さまは聖霊によって一人ひとりのところにいらっしゃっています。実際に、私たちと行動して、私たちを助けてくださるのは聖霊様です。韓国のチョー・ヨンギ牧師は、一番、多いときで70万人の教会を牧会していました。どうやって、それが可能なのでしょうか?ヨイド純福音教会の成長の秘訣は2つあります。1つはすべての信徒が区域に属し、区域長が彼らの世話をしました。区域長が10の家族を面倒みたのです。そして、もう1つは聖霊様の働きです。チョー・ヨンギ牧師がいつも言っていたことはこれです。「愛する兄弟姉妹。ここにいらっしゃっておられる聖霊様を歓迎しましょう。聖霊様を認めましょう。聖霊様に従いましょう」。聖霊様を歓迎し、認め、従うということです。なぜなら、聖霊様が私たちの助け主だからです。

きょうは2つのことを学びました。第一は高ぶらないで、へりくだるということです。神さまの力強い御手の下にへりくだるなら、どうなるのでしょうか?神さまはちょうど良いとき、私たちを高くしてくださいます。第二は思いわずらいを、いっさい神さまにゆだねるということです。ゆだねたらどうなるのでしょうか?神さまが私たちのことを心配してくださいます。神さまは今も生きて働いておられます。だから、神さまは、私たちを高くしてくださり、私たちのことを心配してくださるのです。本当に神さまが生きておられるのかどうして分かるのでしょうか?それはこのみことばの通りに実行すると分かります。どうぞ、今、この瞬間、祈ってみましょう。祈りの中でへりくだり、祈りの中で思いわずらいをゆだねましょう。そうするなら、私たちの共におられる神さま、聖霊様が奇跡を起こしてくださいます。それでは、共にお祈りしましょう。そして、今週、そのような奇跡が起こるかどうか期待しましょう。

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2012年8月 5日 (日)

神の羊の群を牧しなさい    Ⅰペテロ5:1-5

先月「亀有教会の理念」が発行されました。その中に、教役者(牧師)の役割というものが記されていました。「かしらなるキリストに仕える」「ビジョンを示す」「権威を委譲する」「聖礼典を執り行う」など、すべきことが4つありました。きょうの箇所は、その心構えであります。やっていることは見えますが、その心構えは見えません。でも、心構えはところどころに現れてきます。「イヤイヤやっているなー」とか「ちょっと横柄に見えるなー」とか、あるかもしれません。それらはみんな、心構えから来るものです。しかし、きょうのメッセージはだれのためのメッセージでしょうか?もし、「これが、牧師が持つべき心構えです」と言ったならば、自分の首を絞めることになります。でも、私たちは聖書から、順番に学んでいますから、きょうの内容も全員に必要であろうと思います。ここに「長老たち」と出てきますが、当時はみことばを教える長老と監督指導する長老がいました。一人で両方を行うか、あるいは別の人を立てて奉仕を分担していました。ここでは、文脈上、長老イコール牧師といっても構いません。ペテロは本来、使徒でありましたが、長老の一人としてへりくだって勧めています。おそらく、ポント、ガラテヤ、カパドキア、ビテニアにそれぞれ長老が立てられていたと思います。ペテロは「指導者として、以下の3つの心構えを持つように」と勧めています。

1.強制されてではなく、自分から進んで

Ⅰペテロ32「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし」とあります。強制されて羊を牧することがあるのでしょうか?ちなみに、牧師という言葉は、羊飼いが羊を牧するというたとえから来ています。カトリックでは神父と言って、神さまの代理人のイメージがあります。しかし、プロテスタント教会では、そうではありません。イエス様が大牧者であり、羊の所有者です。そして、牧師はイエス様から託された羊をお世話します。では、「強制されてどこかの群の牧師になるということがあるのでしょうか?」あります。教会が教団に属している場合、「その教会に行きなさい」と牧師が派遣された場合です。教会よりも教団の方が強くて、牧師を遣わすという場合があります。その牧師は自らの意思ではなく、教団の命令だから逆らえないのです。あとは父親が牧師で、息子が後継ぎになる場合です。あとは、後継者がだれもいないので、会衆から「お前がやれ」と強制されるかもしれません。少し極端ですが、以上のような教会もないわけではありません。

しかし、「一体だれが牧師になれ!」と任命するのでしょうか?大牧者なるイエス様ではないでしょうか?日本はキリスト教国でないので、牧師になってもあまり尊敬されません。給料が低くて生活が苦しいのが相場です。教会員からいじめられ、追い出されるときもあります。そういう姿を見た牧師の子どもは自分が牧師になりたいと思うでしょうか?「牧師には絶対にならない」という若いクリスチャンもいるでしょう。では、どうして牧師になるのでしょうか?「イエス様がなれ」と命じたからであります。これを召命と言います。神からの召命がなければ、決してできる仕事ではありません。そこで、ペテロは何と言っているでしょうか?「神に従って、自分から進んでそれをなし」と言っています。原文は「神さまに応じて、自発的に」という意味です。第一に神さまの召命(命令)があります。それに対して、自分が「分かりました」と従うわけです。あるときマタイが収税所で仕事をしていました。イエス様が収税所にいるマタイを見て、ひとこと「わたしについて来なさい」と言われました。マタイは立ち上がって、イエス様に従いました。マタイはイエス様に「給料がどのくらいもらえるか、社会保険があるのか、家と車が備えられているのか」全く、聞いていません。マタイは直ちに従って行きました。これが「神さまに応じて、自発的に」という意味です。だから、教団とか牧師である親、あるいは教会員から強制されてなるのではありません。神さまからの召命こそが、最も大事なのであります。

韓国の昔の話です。貧しくて、小学校も出ていなかった男性が神学校に入りました。成績が卒業のレベルに達していないため、教授たちの中に立たされました。教授たちは彼に留年を伝えるつもりでした。その男性はひとこと祈らせてくださいと祈りました。「父なる神さまこの神学校を卒業して牧師になりたいです。どうかお願いします。イエス様のお名前によってお祈りします」と祈りました。その後、みんなが「アーメン」と言いました。男性は「それでは卒業させてもらえるんですね」と言いました。教授たちは「ダメだよ。君の成績では卒業できない」と言いました。しかし、男性は、「今、先生方は『アーメン』と言ったじゃありませか。だから、卒業させていただきます」と答えました。この男性のメッセージはとても単純でした。「イエス天国、信じないなら地獄」でした。彼は飲まず食わず伝道をしながら、村々にたくさんの教会を建てたそうです。馬に乗った日本の憲兵に「イエス天国、信じないなら地獄」と叫びました。憲兵は驚いて馬から落ちたそうです。ですから、人から強制されてではなく、「神に従って、自分から進んでそれをなす」ことが重要なのです。

2.卑しい利得を求める心からではなく、心をこめて

イエス様の時代、宗教家たちは卑しい利得を求めていました。中世においても、教皇や司教は卑しい利得を求めていました。自分たちに献金すれば、煉獄から天国に行けると言いました。煉獄は辛い修行の場所です。もし、地上のだれかが献金したら、その人の罪が軽くなり、天国に行けるのです。これは嘘です。また、教会が国教会になるといろんな利権が生まれるでしょう。宗教が国家権力と結びつくと堕落するものです。イギリスやドイツでもそういうことがありました。卑しい利得とは、「汚いお金、不正な利得」という意味です。お金はいつの時代も誘惑であります。特に牧師は貧しいので、「あったら良いなー」と思うでしょう。どんな俳句や川柳にもくっつく下の句があるそうです。「五月雨を集めて早し最上川」、「それにつけても金のほしさよ」。「朝顔につるべ取られてもらい水」、「それにつけても金のほしさよ」。教会では「お金」は汚いものだと思われています。だから、お金のことはあまり言いません。昔の教会では、清貧に甘んじることが美徳とされていました。牧師は霞を食べて生きていると思われたようです。そのため、裏で悪いことをしたり、偽善的な生き方をする人もいました。卑しい利得を求めるのは、よくありませんが正しい報酬は求めても良いのです。Ⅰテモテ517-18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない』、また『働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。』」こういうみことばは、講壇から話されることはほとんどありません。特に「きよめ」を強調する教会はそうです。でも、報酬について正しく語られなければ、この先、牧師になる人がいないでしょう。

しかし、ここで言われていることは、「心をこめてしなさい」ということです。これは、「喜んで」「快く」あるいは「熱心に」という意味があります。この世では、いっぱいお金をもらえるなら、「喜んで、熱心に」やるかもしれません。しかし、いくらもらえるかに関係なく「喜んで、熱心に」奉仕するということです。これはある有名な伝道者の証です。まだ、駆け出しの頃、ミッションスクールでの奉仕に新幹線で出かけたそうです。学生たちの前で、全力で話しました。帰りに封筒をあけたら「ゼロ」の数が思っていたよりも1つ少なかったそうです。そのとき、「これじゃ、新幹線代にもならない」と思ったそうです。しかし、すぐに神さまに悔い改めました。その先生は、人数が多かろうと少なかろうと、報酬が多かろうと少なかろうと「心をこめて」全力でやり続けました。だから、今でも用いられています。その先生が、当亀有教会に来てくさったことがあります。まだ、古い会堂で、子どもたちも小さかったです。特別集会が終ってから先生に謝礼を差し上げました。すると、先生は目の前で封筒を破り、「子どもたちにうまいものでも」とその中から2万円くださいました。いや、1万円だったかもしれません。とにかく、驚きました。私も職業柄、結婚式やお葬式の奉仕があります。謝礼ですから、決まった額はありません。「おいくら差し上げたら良いでしょうか?」と聞かれても答えません。多い時もありますし、少ない時もあります。神さまは生きておられますので、ちゃんと帳尻を合わせて下さいます。「卑しい利得を求める心からではなく、心をこめてする」ということが大事だと思っています。

3.支配するのではなく、むしろ群れの模範となる

「支配」とは、「圧制する」「独裁的になる」という意味です。お金もそうですが、「支配」も魅力があります。中世の時代は、教皇と王様、どちらが権力があるか争いました。あるときは王様、またあるときは教皇に権力がありました。プロテスタントになってからはどうでしょうか?イギリスではエリザベス女王が国教会の首長になりました。しかし、それでは良くないと、長老派や会衆派が出てきました。ですから、今でも牧師の権威は教会によってまちまちです。聖公会やペンテコステ教会は牧師の権威が高いです。しかし、バプテスト教会になると信徒と同じ立場で、機能だけが違います。私も人間ですから、「教会を自分の思うとおりに動かせたら良い」と思います。単立教会で、カリスマ的で能力のある牧師は結構良いところまで行きます。しかし、ワンマンになりすぎて、軌道をはずれる場合もあります。何でも思い通りにやると、カルト的な教会になってしまいます。牧師が偉くなりすぎて、だれもとめられない場合があります。たとえば、エンジンが大きくて馬力のある車に乗りたいでしょうか?加速もあり、ものすごいスピードが出ます。でも、車にはブレーキも必要です。いくらスピードが出ても、ブレーキのない車に乗る人はいません。一方、ブレーキだけでは車は走りません。「これもダメ、あれもダメ」と言っては、教会は進みません。だから、牧師は聖霊から来るビジョンと熱心さを持つことが必要です。それと同時に、「常識的にどうなのか、予算的にどうなのか」と水をさす人も必要なのです。

ペテロは何と言っているでしょうか?「支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と勧めています。「支配する」とは、人に「これをしなさい」「そこへ行きなさい」と命令することです。でも、「模範になる」とはどういう意味でしょうか?言うだけではなく、自分でやって見せるということです。そして、「あなたも私のようにできますよ」と励ますことです。これって結構、難しいです。口でしゃべるのは優しいけれど、実際に行うのは難しいです。たとえば、牧師は教会員に「伝道しなさい」「祈りなさい」「家庭を開いてセルをしなさい」「世の人々に仕えなさい」と聖書から勧めます。では、「自分ができているだろうか?」「良い模範を示しているだろうか?」と言われたら疑問です。伝道1つでもそうです。牧師は講壇から話しますが、外で伝道する機会はほとんどありません。知らない人と友だち関係になってから、伝道するというのは大変です。たまたま、教会に尋ねてきた人には伝道できます。でも、どうやったらこの世の人たちに伝道できるでしょうか?郵便局で24ヶ月アルバイトをしたことがありますが、そのときは結構、伝道しました。でも、教会に結びついていません。郷里伝道もしましたが、洗礼を受けるまでは行きません。韓国のキム・ソンゴン牧師は、年間、教会で洗礼を受ける人の1割を自分が導きたいと願っています。先生はとても忙しくて、世の人たちのところへ出かけることができません。それでどうしたでしょうか?パートを頼んだそうです。「1時間、私の礼拝に出席すると、これこれ支払う」と言いました。昨年の話ですが、30数名くらい、それで救われて洗礼を受けたそうです。「いや、それもちょっとなー」と思います。当教会におられた山崎長老さんは、いろんな手を使いました。「お昼ごはんご馳走するから集会に来なさい」とか、「その品物買うから集会に来なさい」と誘ってきました。ちょっとこの世的かもしれませんが、「伝道しよう」と思えば、アイディアが浮かびます。今の人は、口で「やれ」と言っても動きません。教会も同じで、牧師がお手本を見せるということが重要です。自分がそう言ったのですから、そうしたいと思います。「模範を示して、教える」「教えて、模範を示す」です。アーメン。

4.神さまの報い

きょうの主題は牧師にとって、自分の首を絞めるようなものです。こんなにしてまで、牧師になりたい人がいるでしょうか?世の中の仕事の方がよっぽど楽しくて、報いがあると思うでしょう。牧師に召されるとは貧乏くじをひくことなのでしょうか?でも、ペテロは何と言っているでしょうか?Ⅰペテロ54「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」アーメン。はっきり言えることは、羊の所有者は神さまです。そして、イエス様が大牧者です。大牧者とは、「牧師のかしら」という意味です。昔のことばで言えば、「ドン」「総元締め」であります。牧師は大牧者なるイエス様のもとで仕えているのです。信徒に仕えているというよりも、大牧者なるイエス様に仕えているのです。信徒から給料をもらっているのではなく、大牧者なるイエス様からもらっているのです。信徒に報いてもらうというよりも、大牧者なるイエス様から報いてもらえるのです。ちょっとこれはオーバーな表現かもしれません。でも、究極的には当っています。多くの牧師が燃え尽きたり、失望落胆するのは、この順番が分からないからです。牧師は信徒から雇われているのではなく、イエス様から雇われているのです。ハレルヤ!これが重要なのです。牧師はどの職業よりも、傷つきやすい職業です。ある信徒は「私たちの献金で牧師家族を養っているんだ!」と言います。しかし、それは間違いです。みなさんは神さまに献金しているのです。その次に、神さまがご自分の群のために働いている牧師に「いくらいくら」与えるのです。しかし、神さまがこういう制度を許しているのは、牧師が謙遜になるためでもあります。ある牧師は会社で働いて、一銭も献金からいただきません。そうすると牧師はどういうふうになるでしょうか?「私はあなたがたから世話になっていません」と、どうしても傲慢になります。だから、ペテロは何と言っているでしょうか?Ⅰペテロ55「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」「みな」とは、長老も若い人も、牧師も教会員もということです。みな、お互いに謙遜という着物を身につけるべきです。大切なことは、高ぶらないで謙遜になるということです。へりくだり、謙遜になるならば、神さまが恵みを与えてくださるからです。私たちは自然と高ぶってしまいます。高慢になるのには努力はいりません。でも、謙遜になるためには努力が必要です。私たちは外に出るとき必ず衣服を身に付けます。もし、裸で外を歩いたら捕まってしまうでしょう。でも、すべてのクリスチャンが身につけるべき衣服があります。それは謙遜という衣服です。何を着ても構いませんが、謙遜を1枚はおりましょう。

最後に、もう一度、神さまの報いということをお話したいと思います。「牧師になって何の得があるんだ」と思っている人もおられるかもしれません。Ⅰペテロ54「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」この世で尊敬され、高収入を得られる仕事とは何でしょう?医者とか弁護士でしょうか?それに比べ、牧師はマイナーな職業かもしれません。特に日本ではそうです。アメリカやヨーロッパはそうでないかもしれません。でも、人に尊敬されるかとか、お金の問題ではありません。ここには、「しぼむことのない栄光の冠を受ける」と書いてあります。今、ロンドン・オリンピックたけなわです。サッカーとかどうなんでしょうか、ちょっと気になります。当時、ギリシャでオリンピックがありました。優勝者、勝利者には月桂樹の冠がかぶせられました。すばらしい光栄です。でも、ペテロは私たちが受けるのは「しぼむことのない栄光の冠」であると書かれています。月桂樹の冠はいつかは、しぼんでしまいます。たとえ、金メダルと取ったとしても、この世限りのものであり、永遠ではありません。大牧者なるイエス様がくださる栄冠は、しぼむことのない栄光の冠です。これは永遠のものであり、御国で受ける神さまの報いです。それではこれは牧師だけが受けるのでしょうか?そうではありません。牧師と同じように、人々のお世話をし、人々を建て上げた人にも与えられると信じます。なぜなら、聖書には「互いに励まし、互いに助け、互いに建て上げなさい」と言われているからです。マルチンルターも万人祭司説を唱えました。エディ・レオ師が今年の4月石巻に来られこのように教えてくださいました。「牧師が自ら牧会の働きをすることは牧師の働きのわずか20%です。しかし、80%の大事な働きがあります。第一は群を見渡しながら、「あなたは他の人の世話をし、他の人を建て上げていますか」と監督することです。第二は、もしそれができていなければ、牧会できるように訓練することであると言いました。群を牧会するのは牧師一人ではありません。すべての信徒が、「互いに励まし、互いに助け、互いに建て上げなさい」と言われているからです。つまり、牧会的な働きを忠実に行うなら、だれでも「しぼむことのない栄光の冠」を主からいただくことができるのです。オリンピックで栄冠のメダルを取れる人はまれでしょう。だれでも取れるものではありません。しかし、大牧者なるイエス様が用意されている、「しぼむことのない栄光の冠」はそうではありません。あなたもいただくことができるのです。あなたもすばらしい栄冠の冠をいただくことができるのです。

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