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2012年7月29日 (日)

   ~しもべとなられたイエス様~ <ピリピ人への手紙 2章3節-8節>   亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ピリピ人への手紙 2章3節-8節>

2:3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

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先ほどみなさんとお読みした聖書個所は、ピリピの教会の人々に宛ててパウロが書いた手紙のことばです。

ピリピの2章6節―8節はイエス・キリストの謙卑、そしてこの後に続く2章9節-11節はイエス・キリストの高揚について力強く記されている有名なみことばです。その手前のピリピの2章3節-5節は、パウロがピリピ教会の人々にイエス・キリストに倣ってへりくだることを教えています。

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2:3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

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この個所を読むたびに、私はそのような者でありたいと切に願うのですが、実際はなかなか難しいものです。

特に「へりくだってしもべとなって仕える」ということは、私たちの心の奥底にあるプライド(自尊心)や、反対にコンプレックス(劣等感)が邪魔をしてしまって、思うようにできずに葛藤を覚えます。

しかし、イエス様は福音書のいたるところで、そのような葛藤を覚える弱い私たちに、「仕えるしもべ」としての模範を示してくださいました。先ほど読んだピリピの2章6節、7節に

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2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

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と書かれてある通りです。

イエス様は神であられるのに、しもべのように低くなられ、私たちに模範を示してくださいました。

一番印象的な聖書箇所は、やはりヨハネ13章の十字架に架かられる前日に、最後の晩餐をなさった後、12弟子たちの足をお洗いになったという「洗足」の箇所ではないでしょうか。

このイエス様が弟子たちの足を洗われたという箇所を見ながら、イエス様を模範とし、ピリピ書のみことばを実行していくにはどうすればよいかということを共に考えていきましょう。

①イエス様は「仕えるリーダー」となってくださいました。

弟子たちは真のしもべの意味がわかっていませんでした。ルカの福音書22章にも、最後の晩餐での出来事が記されていますが、22章24節にはこの最後の晩餐の時になっても弟子たちは「誰が一番偉いか」という事について論じあっていたことが記されています。

ヨハネの福音書には、最後の晩餐の日は「過ぎ越しの祭りの前」と書かれていますが、他の福音書には過ぎ越し祭りの日の当日だとも書かれています。

この「過ぎ越しの祭り」とは何のお祭りかご存知でしょうか?

この祭りは現在も行われているユダヤ教の3大祭りのひとつです。出エジプト記に書かれていますが、この祭りはモーセが神に命じられてイスラエルの民をエジプトから脱出させたことを記念したものです。この祭りでは神殿に傷のない雄の子羊や子牛や山羊を捧げます。

イエス様の十字架がこの過ぎ越しの祭りと同じ時期であったことは、イエス様が十字架の贖いにより、まさにこの捧げものの子羊(小羊)となられたという事です。それは、ヘブル人への手紙9章12節に「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と書かれている通りです。

弟子たちは、いつもイエス様のおそば近くにいましたが、イエス様がこれから十字架に向かわれるということが分かっていませんでした。イエス様の近くでいつもイエス様の説教を聞いていたベタニヤのマリヤは、イエス様が死に向かわれていることを察していました。彼女は高価な香油をイエス様の頭に注いで葬りの準備をしましたが、弟子たちはその時、「何のために香油をこんなにむだにしたのか」とマリヤに怒りました。

イエス様がこれから何をなさろうとされているのか弟子たちは全く気にも留めず、彼らはいつも「誰が一番偉いか、誰がリーダーなのか」を競い合っていました。そんな弟子たちにイエス様は仕えるリーダーとなることを教えられました。

この仕えるリーダーとは、どのようなリーダーなのでしょうか。

最近は、「仕えるリーダーシップ」「サーバントリーダーシップ」という考え方が、様々な企業で取り入れられています。このサーバントリーダーシップは、従来のピラミッド型の支配型リーダーシップとは逆の考え方になります。「上から命令する」「先頭にたって引っ張る」というパワーリーダー的なリーダーシップから、「部下を支えるためにリーダーは存在する」「部下の必要に応じて手助けして部下の能力を伸ばす」といったリーダーシップに代わってきているという事です。

このサーバントリーダーシップを語る時、クリスチャンではなくても、聖書に書かれているイエス様がなさった方法が模範とされることがあるようです。10年くらい前に、この亀有教会でも山積みになっていたこの本、「サーバント・リーダシップ」という本をお読みになった方はいらっしゃるでしょうか?

「サーバント・リーダシップ」は、アメリカのロバート・グリーンリーフという人が1960年代に提唱した考え方です。彼はもう亡くなっていますが、敬虔なクリスチャンだったそうです。この本もそのグリーンリーフの流れのものです。この本は物語になっています。あらすじを簡単に言いますと・・・

主人公のジョンは大手製造会社で働くやり手のゼネラルマネージャーで、世の中から見れば彼は成功者でした。しかし、家庭生活においては崩壊寸前で、妻との間は冷え切り、子どもも非行に走っていました。会社の人事マネージャーからは、リーダーシップのスタイルを見直すように言われて彼は激怒。何もかもうまくいかなくなってきた彼は、妻の勧めでカトリックの修道院で行われた7日間の勉強会に参加しました。その修道院には、元有名な実業家だった修道士がいて、彼からサーバントリーダーシップについて学び、主人公は謙遜とへりくだりの心を知って、別人のようになって修道院を出るという話です。この本はもう絶版になっていますが、当時はキリスト教書店だけではなく、一般の書店でも売られていたものでした。

この本を読んで私は本当に気が楽になったのを覚えています。

なぜかと言うと、私はその頃、「どんな人でも心から愛して仕えるなんて私にはできない!」と自分の事を情けなく思っていました。でもこの本には、「“アガペーの愛”つまり“神の愛”とは、感情で愛すという愛ではなく、行為、行動の愛である」と書かれていました。

どういうことかと言うと、“アガペーの愛”とは、例えば卑怯な人や、残虐な事件を起こした人に対して、また単にどうしても生理的に好きになれない人がいたとしても、忍耐して愛しなさいという愛ではないと言うのです。たとえ感情ではその人を愛せなかったとしても、その人に必要なものを与えたり手助けをしたりするという“アクション”を起こすことが“アガペーの愛”だというのです。そうなると、“アガペーの愛”とは、慈善とか奉仕の意味合いが強いイメージになってきますね。

ですから私は、「そうか。英語でいうLove、感情で愛するということが出来なくても、その人の話を聞いたり、その人の必要を満たしてあげたり、助けてあげるというアクションを起こせばいいんだな。」と納得して、何年も過ごして来ましたが・・・今は何となく違和感があります。

果たしてそのような考えで良かったのでしょうか?

以前の私はこう言った本を読んでは鵜呑みにしていましたが、私も年をとってきたからかもしれませんが・・・

まず疑ってかかるようになってきました。特に、マスメディアで流れてくる情報やこのような自己啓発の本、また大学で学んでいる神学も、本当にそうかなぁーと思ってしまいます。

疑ってどう解決するのかと言うと、聖書から答えをいただきます。聖書は本当はどう語っているのか、イエス様はどうなさったかということを思い起こすのです。私は、今はこう思います。やっぱり、慈善や奉仕をするにしても、感情で愛するという気持ちが伴わないと、無機質な感じがして違和感があります。

みなさんはどう思われますか?イエス様はどうなさったでしょうか?

イエス様は、弟子たちに仕えるリーダーについて教えられるとき、時にはたとえ話でわかりやすく、時にはユーモアを交え、また時には弟子たちをお叱りになって教えられましたが、そこには必ず愛がありました。そして必ず自らが模範となって仕えるリーダーの姿を見せてくださいました。弟子たちはイエス様の愛を受けてイエス様をお手本として、ただ信頼してついて行けば良かったのです。仕えるリーダーには愛が必要です。

②イエス様は「仕えるしもべ」となってくださいました。

イエス様は「仕えるリーダー」でもありましたが、さらにご自分を低くされ、「仕えるしもべ」となられました。

天の父なる神のしもべとなって従われ、また人々にも「仕えるしもべ」となられたのです。「しもべ」とは、言い換えれば「奴隷」「召使い」のことです。神であられる御方が奴隷のように低くなられて弟子たちに仕えてくださったのです。

イエス様は私たちに、仕えるリーダーを目指すとともに、仕えるしもべとなることを教えてくださいました。

考えてみれば、私たちにとってサーバントリーダーシップをとることは、難しいですができない事ではないと思います。言ってしまえば、サーバントリーダーシップをとることは、キリスト者でなくてもできます。でも、仕えるしもべとなるには、私たちの心の奥底のもっともっと深い部分での信仰と、そしてさらなる愛が試されます。

みなさんは、仕えるしもべですか?

もし、「そうではない」と思われるなら、仕えるしもべになろうとする心を邪魔するものは何でしょうか。

なぜしもべとなって、心から人を愛して仕えることができないのでしょうか。

パウロが言うように、へりくだることが出来ず、自己中心や虚栄の心で人と接しているということでしょうか。

みなさんにもそれぞれ思い当たることがあるのではないでしょうか

私はいつも、「しもべのようになって人に仕える事は本当に難しい。」と思っています。もし、「世界しもべになれないコンテスト」というものがあったなら、間違いなく7位ぐらいにはなっていると思います。

その原因のひとつは、私の中に二面性があるからだと思います。人間だれでも二面性はあると思いますが、私の場合は、育った環境によって屈折した二面性を身につけてしまいました。

鈴木先生は、よく8人兄弟の7番目に生まれた生い立ち、育った環境のお話をなさいますが、それを聞くたびに、育った環境がいかにその人の人間性に影響をもたらすかという事がよくわかります。

また、それがいかにイエス様によって回復されるかという事もよくわかります。

みなさんも人生いろいろあって、イエス様に回復していただいたお証があると思いますが、私は自分の生い立ちについてメッセージでお話したことがないので、今回は少しお分かちしたいと思います。

今日は第5週なので、分かち合いの時が後でありますので、みなさんもイエス様に回復していただいた事について、ぜひ分かち合ってみてください。

私は、4人兄弟の2番目で育ちました。兄、私、妹2人ですが、一番下の妹は腹違いです。

私は、小学2年生の時、実の母を癌で亡くしました。兄9歳、私7歳、妹4歳でした。

本当に悲しくて寂しかったのですが、残された父と兄と妹と一緒に私たちは笑って暮らしました。泣いて暮らすより、笑って暮らした方がいいからです。だから、参観日に誰も来てくれなくて寂しくても、私は笑っていました。親類や近所の人たちは私たち兄妹を見て「可哀そうな子どもたちだ」と言いましたが、私たちは祖母や父に愛されていたので、笑っていることができました。

小学6年の時に継母がやってきました。私はそれまで“大人はみんな親切でやさしい”と思っていたのですが、継母によって打ち砕かれました。氷のように冷たく刺すような言葉の暴力や陰湿ないじめに遭い、まるで意地悪な姑と暮らしているようで、針のむしろのような日々でした。私を溺愛してくれていた父の愛は継母に移ってしまいましたが、それでも私は学校では友達とバカなことを言っては笑っていました

学校で笑っていると家のことを忘れることが出来たからです。

中学の頃には完全に精神的に自立するようになりました。親には生涯頼らないぞと決意しました。経済的にもなるべく頼りたくなかったので、意地を張ってお金がかからないように、高校は陸上競技のスポーツ特待生で入りました。その陸上競技が私にとっていい影響がなかったように思います。陸上競技というのは、どこまでも個人、自己の追求の世界です。いつしか私は自分のことしか考えなくなりました。全国大会に行くのがあたりまえのハイレベルのスポーツ校でしたので、練習量は半端ではなく、毎日夜まで吐きながら練習していました。人間は極限まで追い込まれると、感情を殺して何も考えないことで耐えるように作られているようです。家族には絶対に弱音を吐きませんでした。友達にも明るい顔しか見せませんでした。でも、自分の部屋に入ると毎晩泣いていたというのを覚えています。

こんな風にいうと、すごく頑張っているいい子みたいですが、悪い事もそれなりに・・・いや、結構やりました!!

こうして、私は青春時代に心と言動が違うという二面性と、徹底した個人主義を育んでしまいました。

・・・回復はイエス様が与えてくださいました。

24年前に、神様の導きで、クリスチャンホームでほ~んわか育った夫と結婚し、ずいぶん癒されました。私は筋肉の力が無くなっていくという難病にかかったりもしましたが、息子も与えられ、イエス様の変わらない愛を知って、孤独から解放されました。

悲しい時は泣いていいんだ、嬉しい時には喜んでいいんだ、という事がわかりました。

また自分が罪人であり、神様の憐みによって生かされているという事を知った時、生まれて初めて自分の事だけではなく、人のことも考えられるようになりました。

ある本に書かれていましたが、「人は、キリストにあるアイデンティティー(自己同一性)を確立しなければ、人に仕えることはできない」という事を実感しました。言い換えれば、イエス様が心のうちにおられるならば、人に仕えることもできるようになるという事です。なんて素晴らしい恵みでしょうか!

③私たちへの真実で完全なるイエス様の愛

しかし私の二面性すっかりなくなったというわけではありません。献身をして、神と人を愛すること、「しもべ」となって人に仕えることを実践しようとしてきましたが、心と言動が一致しないことが多くあります。

私のしていることは、パフォーマンスに過ぎないと感じることが多く、私は愛を実践しているつもりになっているだけのパリサイ人ではないかと苦しい思いをしています。

そんな時、イエス様を思い起こします。

イエス様の愛は真実で完全です。イエス様は、常に心と言動が一致しておられます。イエス様は、心から喜んで「しもべ」となり、弟子たちの足をお洗いになりました。それはイエス様が弟子たちを無条件に愛しておられたからです。イエス様は、弟子たちの足をお洗いになりながら、弟子たちを慈しみ、彼らの将来を憂いながら、祝福をお与えになったのです。

弟子たちの足をお洗いになる箇所、ヨハネ13章1節には、

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13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

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と書かれています。

ペテロの足をお洗いになる時、イエス様はどのようなお気持ちだったでしょうか。

イエス様は、このあと、ペテロがイエス様を3度も「知らない」と言ってしまう事も、後に聖霊を受けて力強く働いて殉教することも御存じでした。

雷の子と呼ばれ、後にイエス様の母マリヤのお世話をするヨハネの足や、その兄弟ヤコブの足をお洗いになる時、イエス様はどのようなお気持ちだったでしょうか。ヤコブは12弟子最初の殉教者です。彼は使徒の働きに出てくるステパノのように華々しく殉教したのではなく、使徒12章の初めにたった1行、「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」と書かれているだけです。

収税人のマタイの足、疑り深いトマスの足、ひとりひとりに愛を注がれながら、足を洗われ・・・

そしてイエス様は、この直後にイエス様を裏切ってしまうイスカリオテのユダの足をもお洗いになりました。

イエス様は、まさにパウロの言うように、ご自分を無にして、仕える者の姿をとられ、十字架の死にまで従われました。それは、弟子たちやイエス様を慕う者たちだけではなく、すべての人々、私たちひとりひとりを愛してくださっておられるからです。

私たちは、イエス様のような「しもべ」になれるでしょうか。

心から喜んで足を洗える「しもべ」となれるでしょうか。

イエス様は私たちにそうなってほしいと願われて、模範を示されました。

私は、もしかしたら一生かけてもそのような「しもべ」にはなれないかもしれませんが、それでもイエス様の真実の愛に少しずつでも近づきたいと願っています。

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<ピリピ2:3-5>

2:3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

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みなさんも、このみことばを握りしめて、イエス様を見上げてともに歩んで参りましょう。

神に仕えるしもべとして、そして人々に仕えるしもべとして、私たちは今日何ができるでしょうか。

愛する主のために、愛する隣人のために、イエス様のようなしもべの心を持って仕えて参りましょう。

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2012年7月22日 (日)

あなたがたは幸いです    Ⅰペテロ4:12-19

試練や不当な苦しみ、非難を受けても、喜んでいられるでしょうか?このような人は最高のレベルのクリスチャンではないかと思います。一般的に、私たちが試練や不当な苦しみにあったとき、2つの行動を取ります。第一は怒って立ち向かうという道です。もしかしたら、やられてしまうかもしれません。やったらやり返す、刺し違えてもいいから戦うというタイプです。第二は「長いものには巻かれろ」です。打ち叩かれながら嵐が過ぎ去るのをじっと待つという道です。「これを差し出すので、私を苦しめないで」と貢ぐタイプです。しかし、聖書は第三の道を提示しています。それらを受けても、乗り越えていくタイプです。空を飛ぶ鷲は強い向かい風に乗ってより高く飛ぶことができます。サーファーは高い波が来たら、その波をつかまえて乗ります。クリスチャンとして、そういう生き方を送ることができたらなんと幸いでしょう。

1.たましいの救い

 この手紙は試練や苦しみの只中にあるクリスチャンに書き送られています。ですから、この手紙のテーマは「どうしたら試練や苦しみを乗り越えられるか」です。クリスチャンになって、苦しみや悩みがなくなるでしょうか?あります。信仰を持ったために新たな苦しみもやって来るでしょう。この地上に生きている限り、試練や苦しみを避けることはできません。イエス様は「この世では患難がある」と言われました。では、どうしたら試練や苦しみを乗り越えられるのでしょう。Ⅰペテロ19「これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」とあります。前後から解釈すると、試練や苦しみの中でも喜んでいられるのは、「魂の救いを得ているから」ということです。みなさんは魂の救いを得ているでしょうか?でも、「魂」とは何でしょう?ギリシャ語ではプシュケーであり、精神、感情、心とも訳せます。パウロは人間を3つに分けています。外側から言うと肉体と魂と霊です。すべてのクリスチャンは霊的に救われています。ヨハネ3章には霊的な生まれ変わりこそが救いであると書かれています。しかし、魂の救いとなるとどうでしょうか?魂とは、心とか思い、感情であります。霊は救われていても、心が救われているでしょうか?なんだか、こんなことを言うとキリスト教の異端かと思われるかもしれません。

 しかし、私はあえて申し上げます。私たちはイエス様を信じて、霊的に救われるなら天国に行くことができます。しかし、私は心も救われる必要があると思います。霊的な生まれ変わりも必要ですが、もう1つ心の生まれ変わりも必要であるということです。この考えは丸屋真也先生のカウンセリングを学んで与えられたものです。丸屋先生は「心理的な生まれ変わり」と呼んでいます。長い間、キリスト教会は霊的な救いばかりを述べてきました。しかし、心つまり、考え方が古いままで生きている人が大勢いるということです。エリヤハウスでは「心の中のすべての部分が福音化されるべきだ」と言っています。心のある部分には福音の光が届いていますが、ある部分は古いままであるということです。本当にそんなことが聖書的なのでしょうか?ローマ122「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ書は1章から5章の前半までが罪の赦しについて書かれています。そして、5章の後半からは原罪からの解放について述べられています。そして121節には「そういうわけですから」と別なことが言われています。「心の一新によって自分を変えなさい」とあるので、霊ついては語られていません。ここで言われている心はヌースであり、考えとか思いです。「心の一新」とは、心の更新という意味であり、生まれ変わりと同じ意味です。そして、「変える」というギリシャ語はメタモルフォーで、青虫が蝶に変身することばです。英語ではtransformです。つまり、私たちは霊的に生まれ変わったけれど、心が相変わらず古いままでありえるということです。霊的に生まれ変わったならば、心も生まれ変わるべきではないでしょうか?私は心の癒しを20年以上求めてきました。最初は座間キリスト教会に新井宏二先生が来られ、インナーヒーリングについて教えてくださいました。田中信生先生、聖契神学校のディール師からも学びました。さらにはチャールズ・クラフト、ニール・アンダーソンの本も読みました。インドネシアや蒲郡で「解放のキャンプ」も受けました。服部雄一先生からも「ひきこもり」について学びました。エリヤハウスでは2年間学びました。丸屋真也先生から2年間、李光雨師から2年間学びました。お金と時間をどのくらい使ったか分かりません。

最終的にわかったことはこれです。心が完全に癒されるのは天国に行ってからです。もし、私の心が完全に癒されるのを待つなら、あと200年かかるでしょう。私はこれまでこの「心」が癒されるように願い求めてきました。しかし、別な方法があることに気がつきました。それは私たちが霊的に生まれ変わったのと同じです。私たちはクリスチャンになるとき、古い霊と新しい霊とを取り替えました。救いとはそういうことです。同じように、心の救いとは、古い心と新しい心を取り替えることではないでしょうか?パウロが言っている「心の一新によって自分を変えなさい」とはそういうことだと思います。古い心を治すよりも、新しい心に取り替える方が、自分を変える最短な道ではないでしょうか?私はそれをすることができました。李光雨先生がこの教会でも話されたことがありますが、AコースとBコースです。Aコースというのは、これまでの壊れたコア世界観を持っている心です。コアとは心の核であり、考えや思いの中心となっているものです。多くの場合、Aのコア世界観は弱くて壊れやすいものです。みんなこれで生きているので、恐れと不安で支配されています。それに比べてBのコア世界観は神さまがくださる新しい世界観です。神さまご自身が支えておられるので決して壊れることはありません。しかし、AからBへと、コア世界観を変えるためには理由が必要です。Aのコア世界観の心の叫びを完了させる必要があります。「こうしてくれ、ああしてくれ」という心の叫びが神さまによって完了させられます。その後に、Bのコア世界観を選び取るのです。これがBコースです。では、自分がまったく別人になるかというとそうではありません。相変わらず弱さや欠点を持ったインナー・チャイルドが自分の中にいます。でも、それを脇に置いて、自分はBコースで行きます。そうすると試練や苦しみが来ても、爆発したり過剰反応しません。ちょっとはグラっときますが、神さまがなんとか乗り越えさせてくださいます。そのうち、インナー・チャイルドも成長していきます。私のパソコンにはハードディスクが2つ付いています。箱を開いて、AからBに線を付け替えると今度は、Bが動き出します。同じパソコンですが、Bのプログラムで動くので、Aとは違います。もし、あなたの心の核(コア)をAからBに付け替えたらどうでしょう?あなたの感情や肉体、生き方までも変わってきます。もちろん、Bに付け替えたあと、新しい考え、新しい生き方を教え込まなければなりません。でも、心の核(コア)が安定しているので、どんどん積極的な考えや良いライフ・スタイルを吸収していきます。以前は、不安定で脆弱なAのコアだったので、いくら積極的な考えや良いライフ・スタイルを入れてもすぐはじき返されてきました。心の奥底で、それは不可能だと思っているからです。私は脆弱なAからBのコア世界観に取り替えました。どんどん積極的な考えと良いライフスタイルが身についています。第一に毎日が幸せです。これが、ペテロがいう魂の救いではないでしょうか?Ⅰペテロ19「これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」。ペテロは信仰の結果、たましいの救いを得ていると言いました。霊的な救いと同時に、魂の救い、心の救いを得てください。

2.あなたがたは幸いです

 ペテロは何と言っているでしょう?私たちが試練や苦しみにあったらどうすべきなのでしょうか?Ⅰペテロ412-15「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」ここには3つのことに対する、聖書的な反応の仕方が書かれています。一番目は、燃え盛る火のような試練がやってきたときです。普通でしたら、思いがけないことが起こって驚き怪しむでしょう?別なことばで言うなら「神さまを信じているのに、なんでこんなことが起こるんだ。なんでだよ?」です。「思いがけないこと」とはハプニングです。ギリシャ語辞典には、自然現象や叫び、騒ぎ、不平、飢餓、戦争、争い等で生じると書いてあります。私たちは予期しないこと、自分を壊すようなとんでもないことが起こるとどうでしょうか?2つの反応をします。第一はこっちも怒って立ち向かうという道です。もしかしたら、やられてしまうかもしれません。でも、刺し違えてもいいから戦うしかないという道です。第二は長いものには巻かれるしかない。嵐が通り過ぎるのを、耐えて待つという道です。しかし、魂の救いを得て、Bコースを歩んでいる人は別な反応をします。「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜ぶ」ということです。「苦しみを喜ぶ」そんなことがありえるのでしょうか?パウロはピリピ人への手紙の中で「喜びなさい」と何度も言っています。パウロは何も悪いことをしていないのに、牢獄に閉じ込められ、自由を奪われています。犯罪人のように扱われ、脅かされています。しかし、パウロは自らも喜び、ピリピの人たちにも「喜びなさい」と命じています。イエス様も何も悪いことをしていないのに、打ち叩かれ、苦しめられ、ひどい目に合わされました。「わぁ、私もイエス様と同じだ。イエス様の苦しみにあずかれるんだ。わぁー」。「いや、できるかなー」と思います。でも、空の鷲は向かい風を喜んでいます。サーファーも大きな波が来ると喜んでいます。パウロは言いました。Ⅱコリント110「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」パウロは死ぬほどの危険に会いましたが、そこで神さまの救いを体験しました。だから、「これから将来も救い出してくださる。なおも救い出してくださる」と期待しています。私たちも試練や苦しみの中でも、神様を信頼し、その中で喜ぶべきです。富士急ハイランドにはものすごいジェットコースター「高飛車」があるようです。121度の最大落下角度がギネス世界記録に認定されたそうです。乗っている人は「キャー」と叫びながら、スリルを楽しんでいます。わざわざお金を払って、危険にさらされて、喜んでいます。バンジージャンプを楽しんでいる人もいます。私たちも試練や苦しみの中で、ハプニングを喜ぶようになりたいです。「ここにも神さまがおられ、私をささえておられる。ハレルヤ!」と。

 二番目は人々の非難です。悪口を言われたり、ののしられたりする時、どうすれば良いのでしょう。第一はこちらも負けじと相手を非難し、ののしり返すというやり方です。「死ね!」と言われたら「お前こそ死ね!バカヤロー」と言うことです。第二は言われて萎縮し、そこに座り込むことです。韓国の芸能人で自殺する人がかなりいます。ホームページやブログに「馬鹿、死ね!」と書かれて、しまいに自らの命を絶つ人がいます。第三は何でしょう?第三は魂の救いを得て、Bコースを歩んでいる人です。14節「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」幸いとは、英語の聖書にhappyと書かれています。人から悪いことを言われて、happyになれるんでしょうか?なぜ、happyなんでしょう?神の御霊が、とどまってくださるからです。とどまるとは、そこにじっとして休息するという意味のことばです。聖霊はよく鳩にたとえられます。なぜなら、イエス様が洗礼を受けたとき、聖霊が鳩のように下ってきからです。そのあと、聖霊はずっとイエス様の上にとどまっておられました。私たちもときどきではなく、聖霊がずっと私の上にとどまっておられたなら何とhappyでしょうか?聖霊が私たちをなぐさめ、聖霊が私たちを癒し、聖霊が私たちを立ち上がらせてくださるでしょう。なぜなら、聖霊は「慰め主であり」非難される人の味方だからです。

三番目は16節です。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」これは、辱めを受ける、恥を受けるような苦しみです。イエスさまも辱めを受けました。役人たちは目隠しをして、イエス様を叩き、「だれが叩いたか当てろ!」と言いました。ひげを抜いたり、つばをかけました。みなさんの中で、つばをかけられた人がいるでしょうか?また、イエス様はローマ兵から、いばらの冠をかぶせられ、さんざん嘲弄されました。死ぬ一歩手前まで鞭打たれました。そして裸にされ十字架に付けられました。イエス様と比べたなら、私たちが受ける辱めや恥など、小さいものです。しかし、辱めや恥は私たちの自尊心を傷つけ、人格を破壊する力があります。では、どうしたら良いのでしょうか?第一は侮辱には侮辱を、恥には恥を与えるという道です。第二はそれらをただ受けて、地の底に沈んでしまうという道です。そうでありません。第三の道があります。魂に救いを得、Bコースを歩んでいる人はどうするでしょう?「かえって、この名のゆえに神をあがる。」「ああ、私もイエス様と同じ辱めにあった。嬉しい。主をあがめます」ということです。これはよっぽど神さまから愛されて、心が本当に健康なら耐え忍ぶことができるでしょう。雨がえるが、水をかけられたらどうなるでしょうか?目をぱちぱちして、「うれしい」と思うのではないでしょうか?私もそういうふうになりたいですね。とにかく、いろんな苦しみや試練を受けますが、それを乗り越える姿がここに記されています。本来なら立ち向かうか、あるいは巻き込まれるか、この2つしか選択肢がないようです。しかし、それらを乗り越える第三の道があるということです。乗り越えるというのを英語で、overcomeと言います。李光雨先生はこのことばを大変好んで使われます。overcomeとはその名のごとく、上を乗り越えるということです。たとえ、苦しみや試練を受けても、そこで喜び、そこで幸いを得、そこで主をあがめるということです。私たちは苦しみや試練を乗り越えたら、そうしたいところですが、乗り越える前からそうできたら何と幸いでしょう。「ああ、また来たな。とうとうやってきたな。主よ、あなたの出番です。私と共にいて、乗り越えさせてくださるのですね。」そうしていると苦しみや試練が、苦しみや試練で終りません。その中で、私たちは金のように練られ、純粋なものとされるのです。いよいよ、主の栄光を拝するものとなるのです。

3.神のさばき

ペテロの手紙もそうですが、聖書が一貫している教えがあります。それは神さまのさばきがあるということです。神さまは悪に対しては必ず裁くお方です。私たちは神さまの最終的なさばきがあるので、仕返ししません。「やったらやり返す。言われたら言い返す。侮辱されたら侮辱する。ののしられたらののしり返す。」これは怨念晴らしの世界です。しかし、私たちが復讐しなくても、神さまが復讐してくださいます。私たちは神さまの御手に怒りや復讐心をゆだねることができます。神さまに本当にゆだねたならば、喜びと幸いを得、主をあがめることができるのです。あなたの怒りと復讐心を神さまの御手にゆだねましょう。神さまはどんなお方でしょうか?Ⅰペテロ417-18「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」私たちはこのところから、神さまを恐れるということを学ぶべきです。神さまはお友だちではありません。神さまはあくまでも神さまです。ある人たちは万人救済説、「すべての人が最終的には救われる」という神学を唱えています。聖書にはそういうことは書かれていません。さばきが来るとはっきり言われています。神の福音に従わない人たちの終わり、神を敬わない者や罪人たちがどうなるか言われています。ここには神のさばきがあることが明記されています。しかし、良く見るとさばきには順番があります。さばきは、まず神の家から始まると書いてあります。神の家とは教会です。そして、義人がかろうじて救われるとも言われています。これは人ごとではありません。自分自身も神さまとの関係、さまざまな出来事において、自分を吟味する必要があります。罪が満ちているこの世において、私たちも罪を犯し、そのまま放置している場合があるかもしれません。だから15節で「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」と言われているのです。

そういうことも考えながら、総合的に言えるべきことは何でしょう。ペテロの手紙の主題は試練や苦しみに関するものです。どんな試練や苦しみがあったとしても乗り越える道があります。神さまが共にいて乗り越えさせてくださいます。そして、私たちは精錬された金のように出てくるのです。もう1つはその背後に、はっきりとした神のさばきがあるということです。私たちは神さまと和解することが必要です。罪を贖われたイエス・キリストを信じて、神さまと和解するということです。ある人たちは、神さまと和解できたかもしれませんが、人との和解がまだできていないかもしれません。まだ、恨みをもって生きています。「あいつだけは別だ」と言っているかもしれません。しかし、それでは神さまのさばきに立つことはできません。神さまが「私はあなたを赦してあげましたよ。こんどはあなたの番ではないでしょうか?」とおっしゃるでしょう。これは脅しとか交換条件ではありません。神の恵みに対する応答です。私たちが本当に喜びと幸いを得、主をあがめることができるのは、他者の罪を赦し、怒りを神さまに手渡すときです。ペテロも、4:19「ですから…真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」と言っています。主の祈りにもありますように「私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」と心から祈りましょう。ハレルヤ!

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2012年7月15日 (日)

もう十分です     Ⅰペテロ4:1-6 

きょうの箇所はこの地上において、きよい生活をどのように送るかについて書かれています。イエス様が福音書で「姦淫の時代」と言われました。この世の人たちは、道徳的にも宗教的にも姦淫を行っているということです。私たちもかつては、そのような中で暮らして、何とも思っていませんでした。しかし、イエス・キリストの尊い血潮によって贖われ、神さまのものになったならば、そういう生活を続けることはできません。それで自分は変わったとしても、自分を取り囲む環境は相変わらずそのままです。では、どうしたら私たちは罪から離れ、きよい生活を送ることができるのでしょうか?

1.武装せよ

Ⅰペテロ41-2「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」この手紙を受け取った人たちは様々な試練の中で苦しんでいました。あるしもべは主人から不当な扱いを受けていました。また、ある人は信仰上の迫害を受けていました。しかし、最も大きな戦いは、肉の欲であります。彼らは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を何とか遠ざけて生きてきました。世の終わりになると、愛が冷え、悪がはびこるので、さらに大変になります。そのために、ペテロは「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい」と命じておられます。でも、イエス様はどのように苦しみを受けられたのでしょうか?ヘブル人への手紙には、肉体を持たれたイエス様が私たちと同じような試みに会われたと書かれています。イエス様は私たちにとって信仰の模範であり、同時に完成者でもあります。ヘブル122「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び…」とあります。さらに、3節には「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい」と言われています。当時、イエス様に敵対した罪人たちとはだれでしょうか?ローマ兵でしょうか?取税人でしょうか?あるいは悪人でしょうか?なんと、熱心に神さまを信じている人たちでした。律法学者、パリサイ人、サドカイ人と言われている人たちが、いつもイエス様のじゃまをしました。ないことあることを言い、議論をふっかけ、罠にはめようとしました。最後に、イエス様を捕らえ、十字架につけました。ピラトは仕方なく、イエス様を十字架につけたのです。イエス様は当時の宗教的な指導者たちを「ああ、わざわいだ」と何度もおっしゃいました。

私たちもこの世にあっては患難があります。イエス様と同じではないかもしれませんが、力ある者たちによってねじ伏せられたり、不当な扱いを受けることがあるでしょう。私はテレビや映画を見て、1つのテーマを発見しました。たとえば、刑事もの、捜査官、サスペンスやアクション、共通したテーマがあります。脇役は大きな組織の地位や権力がある人たちです。主人公というのはどちらかと言うと、そういう組織からはじかれた人です。組織からはじかれた人が事件を解決するという筋書きです。一体だれが、捜査の邪魔をするのでしょう?一体だれが仕事の邪魔をするのでしょう?所長とか、地位や権力のある人たちです。彼らは「上からの命令だ。捜査を打ち切れ」とか「お前は捜査からはずれろ」みたいに言います。主人公はそういう力に翻弄されながらも、事件を解決していくのです。見ている人は、組織からはじかれている主人公と自分を同化させます。主人公は、冷や飯を食わされながらも、事件を解決し、憎むべき人たちの鼻を最後に明かすのです。そして、見た後、すっきりするのです。心の浄化、カタルシスです。主人公が、自分の代わりに地位や権力のある人たちをやっつけてくれたからです。問題は、そういうテレビや映画で現実逃避することです。「ああー、すっきりした」と、現実は現実、ドラマはドラマみたいに、切り替えることです。それは違うと思います。ヘブル124「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と書いてあります。テレビや映画の世界で、終ってはいけないということです。

ペテロは「あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい」と命じています。イエス様と同じ心構えになれば、さまざまな罪や誘惑、迫害、不当な扱いに勝利できるということです。イエス様の勝利の秘訣とは何だったのでしょう?このみことばのすぐ後に何と書いてあるでしょう。「もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」アーメン。イエス様は自分の欲望を満たすためではなく、神のみこころを満たすために生きておられました。簡単に言うと、自分の生涯を父なる神さまにささげておられました。欲望を満たすことに力を注がなかったので、罪や誘惑に勝利できたのです。パウロはローマ6章でこのように言っています。ローマ613「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」これまでは、私たちはこの手足を不義の器として罪にささげて生きてきました。しかし、死者の中から生かされた人はどうすべきなのでしょうか?こんどは、「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」と命じられています。これは神さまに献身しなさいということです。多くのクリスチャンは「献身とは牧師や伝道者がすべきことであり、私には関係ない」と思っています。聖書はそんなことを言ってはいません。死者の中から生かされた人、つまりクリスチャン全員が、神さまに献身するのが標準なのです。旧約聖書のいけにえのように、私たち自身とその手足を神さまにささげるということです。でも、その目的は罪のためではなく、義のため、神さまのみこころのためであります。どうでしょう?「私自身も、手足も神さまのものなんだ」と分かれば、罪を行うことができなくなります。結論を申しますと、罪や誘惑するための武装とは、自分自身とその手足を神さまにささげるということなのです。イエス様のように、父なる神様にささげるなら、罪や誘惑に勝利できるのです。なぜなら、それ以外のことをあまりしなくなるからです。クリスチャンはすべての罪が赦されていますので、何をやっても自由です。でも、自分が神さまのものであり、神さまのみこころのために生きなければならないと自覚したらどうでしょう?優先順位ができてきて、神さまのみこころに関した大事なことはやります。そして、あまり大事でないことは後回しにするでしょう。お金の使い方、時間やエネルギーの使い方、何を思うか、考えるかということです。いつまでも、過去のイヤな出来事を思い返しません。それよりも、神さまのみこころを行うことに焦点を絞ろうとします。すべてを神さまにささげましょう。そうしたら、罪と誘惑に勝利できるのです。ハレルヤ!

2.もう十分です

神さまへの献身こそがきよい生活を送ることの重要なポイントです。また、ペテロはどこかで、罪の生活に対して、「もう十分です」と、きっぱりお別れすることの大切さも教えています。Ⅰペテロ43「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」口語訳には「もうそれで十分であろう」と書いています。テレビの水戸黄門でよく言われる、セリフがあります。「助さん、格さん、懲らしめてやりなさい」。その後、チャンチャン・バラバラがはじまります。おもな悪役がやられた後、「助さん、格さん、もう良いでしょう」。それから、「静まれ、静まれ、控えおろう。この紋所が目に入らぬか」(ジャーン)。「こちらにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公に有らせられるぞ!」(ゴワーン)。「なぜ、最初から紋所を出さないのかな」と思います。やっぱり、悪いやつらを懲らしめてから、出すから良いのです。悪人たちは痛めつけられ、きっちりと裁かれます。それが重要なのです。見ている人はそれですっきりするのです。聖書的に考えたらどうなるでしょうか?私たちが罪を犯しても、神さまのさばきはすぐ下りません。神さまは忍耐深いお方なので、未信者のときの罪を見過ごしておられます。しかし、神さまが定めた道徳的な法則がありますので、それを破ると報いが伴います。好色や情欲に伴う報いとはどのようなものでしょう。若者たちの間にはフリー・セックスが当たり前のように行われています。現代は、新種の性病が20種類以上出ているそうです。一度かかると一生治らないウィルス性の病気もあるそうです。酔酒、遊興、宴会騒ぎに伴う報いとはどのようなものでしょう。それらは酒酔い運転、アルコール中毒、家庭崩壊につながります。テレビでやっていましたが、ホストクラブに通った女性がいました。サラ金から借りて、変なところで働いて返すしかありませんでした。忌むべき偶像礼拝などにふけるとどのような報いがあるでしょう。占いやオカルトもそうですが、最後には恐れと悪霊によって縛られてしまいます。それらは、神のさばきというよりも、罪を犯したことの懲らしめです。神さまは悔い改めることを願っておられます。そのとき、「もう十分です」というお声を聞いて、罪を棄てることができたなら何と幸いでしょう?

私は洗礼を受けた翌年、聖書学院に入学しました。その神学校では「きよめ」がものすごく強調されていました。ある教授は教室に入るなり「肉の匂いが、プンプンする」と言いました。「だれか焼肉を食べたのかな?」と思いましたが、そういう意味ではありません。時々、聖会みたいなものが開かれ、集中的に「きよめ」について語られます。ある教授は、「きよめを知らないのに、この学校の卒業生だと言ってはいけない」と言いました。あるとき、既に天に召されましたが、松木先生がⅠペテロ4章からメッセージされました。このところにある罪を説明した後、「もうそれで十分であろう」と言われました。聖書の口語訳でしたが、まるで、神さまが私に語りかけたように思いました。「もうそれで十分であろう」。「はは、わかりました」とそこにぬかずきました。25歳まで、これらの罪を一通り犯したので、「もう十分だなー」と思いました。あのとき、決断できて本当に感謝でした。良く、考えてみますと、これらの罪はみな中毒になってしまいます。「これくらい良いだろう」「まだ、良いだろう」とやっている間に、もうやめられなくなります。自分を壊し、家庭を壊し、社会を壊してしまいます。中毒になると「もう十分です」と言えなくなります。ですから、「もう十分です」と言えるのは、神さまのあわれみであります。神さまが「もう十分です」と語りかけ、自分も「ああ、もう十分です」と答える。そして、罪を離れ、罪を棄て去る。これは新しい道を歩むために絶対に必要なことです。そういう決断をすると、不思議にきよい生活を送ることができます。

 神さまのみ声の大きさは、大小さまざまであると思います。命に関わる緊急な場合は、雷のようなお声でしょう。しかし、神さまが私たちにお願いする場合は、静かで優しい声かもしれません。人の罪を赦してあげるときは、静かな声かもしれません。継続的に犯している罪から離れるべきときは、どのような声でしょうか?神さまが語られているのに、心の耳が鈍くなっているのかもしれません。心が頑なになって、み声が聞こえない。それはとても危険な状態です。テレビで川下りを見たことがあります。滝は上流からは見えないそうです。「ああ、滝だ!」と気づいた頃は、もう手遅れです。私はエルビス・プレスリーのファンです。パットブーンは熱心なクリスチャンでしたが、エルビスはそうではありませんでした。エルビスは洗礼を受けていましたが、教会から離れ、華々しい道を歩み続けました。やがて過食が原因で、ベッドから起き上がることもできなくなりました。義理の弟がいましたが、彼は熱心なクリスチャンでした。ある朝、弟がエルビスに言いました。「お兄さん、そろそろ神さまに立ち返るべき時が来たと思うけど…」。エルビスは「私もそう思う。私のために祈ってくれ」と言いました。その後、エルビスがひとこと祈りました。その翌日、エルビスは帰らぬ人となっていました。42歳でした。しかし、エルビスはちゃんと悔い改めて、天国に行くことができました。神さまは聖書を通して、あるときは親しい人を通して、あるときは超自然的に語ってくださいます。「もう十分です」という声を聞いて、罪から離れ、罪を棄てられる人は幸いです。

3.申し開き

Ⅰペテロ44-6彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」これまでは、「あなたがた」となっていましたが、4節からは「彼ら」となっています。では、彼らとはどういう人たちでしょう。私たちは、かつて、彼らと一緒に好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけっていました。しかし、ある日を境に一緒に行動しなくなりました。「あいつはどうして変わったんだろう。どうして一緒に行かないんだろう」と最初は不思議に思われるでしょう。「おまえ、付き合い悪いぞ。神さまとか言っちゃって、宗教にかぶれてしまったんだろう」。そのように、ののしったり、悪口を言われるようになります。一人だけ良い子になる。一人だけ別行動する。周りは、そういう人を許せません。仲間にひっぱり込もうとしてもだめなら、最後には迫害するでしょう。私も洗礼を受けて1ヵ月後、親友と彼女を一ぺんになくしてしまいました。毎週、礼拝に来ては泣いていました。ヤコブ44「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」神さまを愛しながら、この世を愛することはできません。イエス様は「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」(マタイ624と言われました。イエス様を信じて、洗礼を受ける前後というのは、このような戦いがあるものです。いろんな理由をつけて、なかなか、洗礼に踏み切れない人がいます。だれもがそうだとは言いませんが、私たちは同時に二人の主人に仕えることはできないのです。

それではイエス様を信じないで罪の中を歩み続けた人たちはやがてどうなるのでしょうか?「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません」とあります。さばくお方とはだれでしょう?それは神さまであり、イエス様です。詳しく言うなら、神さまが奥におられ、イエス様が手前におられます。イエス様を救い主として信じて贖われている人は神さまの前に立つ必要はありません。なぜなら、イエス様がその人の罪のためにさばかれたからです。しかし、生前、与えられた賜物と使命に忠実に生きたかが問われます。これが「キリストのさばき」です。このさばきで永遠の地獄に行くわけではありません。御国、すなわち千年王国は忠実さによって、報いが異なっているようです。では、イエス様を信じなかった人はどうなるのでしょうか?弁護者であり、贖い主であられるイエス様がいません。直接、神さまの前に立つことになります。義なる神さまの前に、自分の正しさで立てる人が果たしているでしょうか?ここに「申し開き」ということばがありますが、法律用語で、答弁、弁明、理由の説明という意味です。「神さまはすぐにでもさばく」とありますが、全部お見通してあるということです。ヨブ266「よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれない」とあります。ミケランジェロという人が最後の審判という壁画を書きました。ホームページに解説が載っていました。「群像に裸体が多く、儀典長からこの点を非難され、『着衣をさせよ』という勧告が出されたこともある。ミケランジェロはこれを怨んで、地獄に自分の芸術を理解しなかった儀典長を配したというエピソードもある。さらにこの件に対して儀典長がパウルス3世に抗議したところ、「煉獄はともかく、地獄では私は何の権限も無い」と冗談交じりに受け流されたという。また、キリストの右下には自身の生皮を持つバルトロマイが描かれているが、この生皮はミケランジェロの自画像とされる。」神さまの御前では、すべてが露わにされるということです。私たちはそういう意味で、神さまを恐れなければなりません。

 「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」ということは先週、学びました。敗者復活のようなセカンドチャンスがあれば良いと望みます。でも、一番、重要なのは生きているうちに、神さまと和解するということです。イエス・キリストの十字架によって、神さまは和解の手をすでに差し伸べておられます。もし、私たちが「その和解をありがたく頂戴します」と手を差し伸べたら、救われるのです。私たちは神さまの前に立ったら「申し開き」などできるわけがありません。しかし、イエス様が神さまとの間に立ってくださり、私たちの代わりに弁明してくださるのです。なんとありがたいことでしょう。それだけではありません。私たちは裸ではなく、義の衣が着せられています。生前犯した罪はキリストの血によって完全に覆われています。私たちが「これこれ、こういうことをしました」とお詫びしても、神さまの方が「え?そうでしたか?いのちの文(ふみ)には書いてありませんね」とおっしゃるでしょう。信仰とはどういうものでしょうか?信仰とは時間の概念を飛ばして、現在と将来を同時に見るということです。今、救われているなら、将来も救われているのです。今、神さまから義と認められているなら、将来も義と認められているのです。今と将来が連続している考え方、これが信仰です。どのように申し開きをするかよりも、イエス様を信じて、神様がくださる義の衣をいただくべきです。Ⅰヨハネ21-2「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」

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2012年7月 8日 (日)

キリストの陰府下り    Ⅰペテロ3:18-22

イエス様は肉体的には、3日間死んでいました。しかし、霊においては陰府にくだって何かをなさっておられたようです。ある人たちは「死者たちに、福音を宣べ伝え、そこで信じた者は救われた」と言います。いわゆるセカンド・チャンスであります。柔道には敗者復活戦というのがありますが、人間は死んでからもう一度、救われるチャンスがあるのでしょうか?そういうことを含め、イエス様が陰府に下られた目的について学びたいと思います。

1.キリスト論の全体

キリスト教会には古くから「使徒信条」なるものがあります。当教会は祭典的な礼拝を目指しているので、信条を唱えるということをしなくなりました。おそらく、キリスト教会の半分くらいは、「使徒信条」を礼拝において唱えているかもしれません。しかし、きょうのテキストを見ますと、使徒信条のほとんどの内容が記されています。神学的には、キリスト論の全体を網羅するものであります。ですから、最初のポイントでは神学校で学ぶような「キリスト論」を概略的に学びたいと思います。

キリストがこの地上に来られた第一の目的は何でしょうか?18節「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」ここには処女降誕については触れられていませんが、キリストがこの地上に来られた目的が記されています。目的とは正しい方が悪い人々の身代わりになるためです。「正しい方」とはだれでしょう?イエス・キリストです。イエス様は律法の下で生まれ、律法を全うされました。もし、罪があるならば身代わりになることができません。人類の歴史の中で罪のないお方はイエス様、お一方だけです。すべての人はアダムの子孫として生まれたので罪があります。この世では、相対的に「良い」とか「悪い」と言われるかもしれません。しかし、絶対者なる神の前に立ったならば、どんな人でも「悪い人々」の中に入ります。私たちの正しさでは、義なる神さまの前に立つことはできません。たとえば、嘘を何回ついたら嘘つきになるでしょうか?1回です。では、罪を何回犯したら罪人となるでしょうか?1回です。この世で、罪を犯したことのない完全無欠の人はいません。自力では神さまのところに到達できないのです。そのため、神さまは独り子をこの世に遣わし、全人類の罪を御子の上に負わせました。そして、御子イエスは身代わりに神のさばきを受けられました。歴史の教科書で何と言われようと、キリストの十字架の死は、身代わりの死だったのです。

その後、イエス様はどうなったのでしょうか?18節後半「それは肉においては死に渡され、霊においては生かされて」と書いてあります。イエス様は肉体的に死んで、ヨセフの墓に葬られました。金曜日から日曜日の早朝まで、3日間、死んでいました。しかし、「霊においては生かされ」どこかに行ったようです。19-20節「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」イエス様は死者の霊たちがいる陰府に下られました。では、何しに行ったのでしょうか?ノアの時代に死んだ人たちのところへ行き、「みことばを語られた」と書いてあります。創世記6-9章にはノアの洪水のことが記されています。ノアは100年くらいかけて大きな箱舟を作りました。作っている合間に、「まもなく大雨が降って洪水になるから、この箱舟に入りなさい」と人々に警告しました。しかし、ルカ17章には「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました」と書いてあります。おそらく、ペテロの時代、教会において「ノアの家族以外の人たちはどうなったんだろう?全部滅びてしまったのか?彼らに救いはないのだろうか?」という疑問があったのでしょう。それに答えるために、ペテロは、キリストは霊において死者たちのところへ行ってみことばを語られたのだと教えたのです。では、死後にも救われるチャンスがあるのでしょうか?そのことについては、後半のポイントで語りたいと思います。とにかく、キリストは霊においていかされ、捕らわれの霊たちのところへ行って、みことばを語られたということです。

その次に何と書いてあるでしょう?21節「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」ここにはバプテスマ、つまり洗礼の意味が書いてあります。わずか八人の人々が、この箱舟の中で水を通って救われました。そのことが、今あなたがたを救うバプテスマの型(タイプ)であるということです。箱舟の外は水であり、死でありました。しかし、彼らは死の水を通って救われたのです。レビ記などでは、沐浴、つまり水で洗うということが罪や汚れを洗いきよめることでした。しかし、新約のバプテスマは一度死ぬこと、そして新しく生まれ変わるという意味があります。パウロはローマ6章でこのようにバステスマを説明しています。「私たちはキリストとともに葬られ、キリストとともによみがえったのです。私たちもいのちにあって新しい歩みをするためです」と言っています。当時のキリスト教会において、バプテスマのとき、何かを誓ったのではないかと思います。その証拠に「正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです」と書いてあります。ここは解釈がとても難しいところであります。彼らはバプテスマによって、一度、古い人に死んで、新しくなりました。イエス・キリストの復活にあずかった、正しい良心によって、神さまに誓ったのです。ですから、イエス・キリストの十字架の死と復活は単なる歴史ではなく、自分たちもバプテスマによって、十字架の死と復活にあずかったのです。パウロはローマ67「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」と言いました。クリスチャンはキリストと共に十字架に死んで、キリストと共によみがえった存在なのです。ハレルヤ!

キリストは復活してからどうなされたのでしょうか?322「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」アーメン。キリストは天に上り、神の右の座に着かれました。神学的にはこれを昇天・着座と言います。「昇天」は昇る天であり、イエス様しか使われません。クリスチャンが死んだら、「召天」、召される天であります。しかし、イエス様は天に昇られたので、「昇天」です。そして、父なる神の右の座に座られました。座られたとはどういう意味でしょう?私たちは立ったままでいると疲れるので、「やれやれ」と座ります。座るとはゆっくりするということでしょうか?そうではありません。神の右の座とは権威を象徴しています。父なる神さまは、王権をキリストに与えたのです。そして、座るとは王の執務を開始するということです。つまり、キリストは神の国の王として、治めておられるということです。ヘンデル作曲のメサイヤという曲があります。キリストの降誕、受難、復活、そしてキリストが王として永遠に君臨することが歌われています。ここに、「御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて」とあります。天使には階級があります。救われた人々に仕える御使いがおります。重要なことを告知する天使もいるでしょう。そして、悪魔と戦う天使と天使長がいます。このようにキリストは数えきれない天使たちを従えておられるのです。イエス・キリストは、王の王であり、主の主として、世界を統べ治めておられるのです。

私たちはこの地上で教会において、主の勝利を宣言し、主を礼拝しなければなりません。なぜなら、私たちがイエスを主と告白し、礼拝するときに、悪の軍団が退くからです。毎週、私たちがここに集まっているのは暇だからではありません。キリストにあって古い人に死に、キリストにあって新しい人に生まれていることを確認するためです。私たちは罪と悪魔から解放され、キリストに属する者です。この地上で生かされている限り、神をあがめ、神に仕える者であります。先月の614日午後2時から、古谷惠子姉の告別式がありました。14日の朝、聖書を読んでディボーションしていました。告別式のプログラムもメッセージも前の日にできていました。しかし、「それで良いのかなー」と思いました。「いつくしみ深く」じゃないだろう。「すべての悲しみ、すべての恥を主の喜びに変えてしまおう。すべての病い、すべての痛みを主の喜びに変えてしまおう。イエスロード、イエスロード、イエス、イエスロード、イエス、イエスロード、アーメン」という賛美が浮かんできました。「でも、私が歌ってもきっとリードできない、どうしよう?」と思いました。「そうだ、私たちは生きるにしても死ぬにしてもキリストの名があがめられることなんだ。きょうの葬儀も、一つの礼拝なんだ。キリストの勝利を宣言しよう。キリストは、罪も呪いも恥も病も死さえも取り去るお方だ。これを語ろう」と思いました。賛美は「いつくしみ深き」でしたが、キリストの勝利について大胆にメッセージしました。私だけ浮いていましたが、それでも良かったと思っています。私たちはこの地上でいろんな使命が与えられています。福音を宣べ伝え、隣人を愛することが必要でしょう。しかし、現在から永遠の御国にいたるまで必要なのが、賛美と礼拝であります。キリストの十字架と復活、そしてキリストの王としての支配を賛美するのです。どうぞ、私たちの人生をキリスト論的にしましょう。生きるにも死ぬにも、キリストの御名があがめられますように。アーメン。

2.キリストの陰府下り

 前半においては、キリストが陰府に下られ、ノアの時代の人々にみことばを語ったということをお話ししました。問題なのは、私たちが死んでから、もう一度、救われるチャンスがあるかどうかです。319「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」とあります。みことばとは何でしょうか、どういう内容でしょうか?46「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが…」とあります。福音とはギリシャ語でユーアンゲリオン、「戦争に勝った」という知らせであります。イエス・キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、「私は十字架ですべての罪を贖った。私を信じる者は生きる」と告げたのかもしれません。これと似た記事がエペソ4章にもあります。エペソ4:8-10 「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──」。ここにも、「捕らわれの霊」と似た、「捕虜」という表現があります。神学的にはどうなるでしょう?「キリストは陰府に下り、多くの捕虜を引き連れ、高いところに上られた。高いところとはパラダイスである」ということです。キリスト以前は、陰府が二階建てであったようです。ルカ16章に、貧乏人のラザロとある金持ちが死んで、陰府に行ったことが書いてあります。二人とも陰府に行ったのですが、ラザロの方が高いところです。一方、金持ちは陰府の低いところで炎が燃えています。上と下には大きな淵があって、渡ることができませんでした。陰府の上にいる人たちはノア、アブラハム、ダビデとか旧約聖書の義人であったと思います。イエス様は復活したとき、陰府の上部を携えあげて、パラダイスを作られたのではないかと思います。現在、パラダイスは天国の待合室のようなものとして存在しています。

 問題になるのは、イエス様が復活後、世の終わりが来るまで、陰府にくだって福音を語り、信じる者をパラダイスに引き上げるかどうかです。つまり、そのことが陰府に下り、捕虜を引きつれ、一緒に上られるということが繰り返されるかどうかです。久保有政という牧師がセカンド・チャンスはあると主張します。久保先生は同じ座間キリスト教会の出身で、離散したイスラエル人とか終末論を研究している人です。久保有政師のホームページを見るとこのようなことが書いてあります。フランシスコ・ザビエルが16世紀に日本にやって来たとき、数多くの日本人が、彼を通してカトリックの教義を聞きました。ザビエルは教皇庁へ書き送った手紙の中で、「地獄」についてのカトリックの教義を日本で説くことがいかに困難かを、次のように語っています。「日本人を悩ますことの一つは、地獄という獄舎は二度と開かれない場所で、そこを逃れる道はないと、私たちが教えていることです。彼らは、亡くなった子どもや、両親や、親類の悲しい運命を涙ながらに顧みて、永遠に不幸な死者たちを祈りによって救う道、あるいはその希望があるかどうかを問います。それに対して私は、その道も希望も全くないと、やむなく答えるのですが、これを聞いたときの彼らの悲しみは、信じられないほど大きいものです。そのために彼らはやつれ果ててしまいます。『神は祖先たちを地獄から救い出すことはできないのか、また、なぜ彼らの罰は決して終わることがないのか』と、彼らはたびたび尋ねます。彼らは親族の不運を嘆かずにはいられません。私も、いとしい人々がそのような嘆きを隠せないのを見て、涙を抑えられないことがあります」。ザビエルは結局、日本人に対しては、地獄の恐怖を説くのではなく、十字架の福音の恵みを強調することによって、宣教を推し進めました。しかし、どこへ行っても、「キリストを信じないまま死んだ私の両親や、先祖たちは今どこにいるのですか」という日本人の質問に悩まされ続けたのです。

 久保有政師の回答はこのようなものです。陰府は、地獄とは全く別の場所です。今日、クリスチャンは死後は天国へ行っており、一方、未信者は死後、陰府に行っています。未信者は地獄に行っているのではありません。地上に生きている間になす回心は、他の何にもまさって尊いものです。生きているときに信じるのが、一番良いのです。しかし一方では、地上に生きている間に福音を聞く機会が一度もなかった人々も大勢います。彼らは、今は死んで、一般的死者の世界である「陰府」にいます。あるいは、地上にいるときは福音を聞く機会が充分なかった、という人たちもいます。彼らは、ただそれだけで、もう救われないのでしょうか。そうではありません。聖書は、福音は陰府に行った人々のためにも存在している、と明確に語っているのです!ピリピ21011新共同訳「それはイエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、イエス・キリストは主であると告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。ここで「地下のもの」と言われているのは、陰府にいる人々をさします。「地下」の世界は聖書ではつねに陰府を意味し、陰府は「地下の国」と呼ばれています(エゼ3218)。聖書は、福音は陰府の人々のためにも存在していると、述べているわけです。ヨハネ525-28死人が神の子(キリスト)の声を聞く時が来ます。…そして聞く者は生きるのです」とも言われています。イエス様が「生きる」というとき、それは救われるという意味です。陰府の死人であっても、キリストの福音を聞き、生かされるとき、神への心からの礼拝を捧げることができます。まさに死後のセカンド・チャンス、死後の救いです。キリスト者以外の死者は、今は陰府に行っています。地獄に行っているのではありません。陰府は一般的な死者の世界であり、一方、地獄は最終的な刑罰を宣告された人々のみが、世の終末になって行く所なのです。 陰府はいわば留置場のようなものであり、裁判前のものです。一方、地獄は刑務所のようなものであり、裁判後、刑の確定後に収容されるものです。刑務所では、もはや弁護士も来ることはありません。しかし留置場や拘置所など、裁判前の所では、弁護士も来てくれることがあります。裁判のときに無罪となることもあります。「キリストの陰府における福音宣教」という主題は、ギリシャ正教では昔から一般的なものでした。

 久保有政師の教えはさらに続きますが、最後まで読むと、「ああ、セカンド・チャンス、死後の救いはあるかもしれない」と思うかもしれません。Ⅰペテロ3章や、エペソ4章などに書いてあるセカンド・チャンスのようなことは新約聖書全体にどのくらいあるのでしょうか?私は10%ないと思います。90%以上は、生きているうちに信じなければならないと書いてあるからです。たとえばヨハネ318-19「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。」とあります。ヨハネは「今、信じないならばすでにさばかれており、将来もさばかれる」と言っています。私は交通違反で何度も捕まったことがあります。ある時、6号から入って、すぐ右折しました。なぜなら、前にバスが停車していたからです。道にお巡りさんが立っていて、「ここは右折禁止だ!」と言いました。私は「17年間ここを通っているけど、そんな標識は見たことがない!」と言いました。お巡りさんは私をそこまで連れて行ってくれました。矢印がいっぱいあるけど、右側だけ棒だったのです。「いやー、ひどい標識だなー」と思いました。では、お巡りさんは私が知らなかったということで許してくれたでしょうか?その道路標識は私が亀有に来る前から立っており、右折が禁止されていました。私は法律を破ったのです。だから、捕まったのです。5年前の2007823日です。そのお陰で、7月の書き換えでゴールドの免許になりそこねました。「キリストが復活したなんて知らなかった」「キリストを信じれば救われるなんて知らなかった」。私は「知らなかった」ということも、さばきの対象になると思います。アダム以来、すべての人は罪の中に生まれ、罪を犯し、死んだら永遠の滅びが定まっていました。しかし、例外的にイエス・キリストを信じるならば罪赦され、救われるのです。これは当たり前のことではありません。特権であり、神のあわれみであります。「嬰児や2,3歳で死んだこどもは自動的に天国に行くのでは」という神学もあります。福音を全く知らなかった人、聞かなかった人が確かにいます。ひょっとしたら、イエス様が陰府にくだり福音をもう一度、宣べ伝えてくださるかもしれません。私たちはそのことも含めて、神さまにゆだねるしかありません。私は「信じなかったもの全員がさばかれて、地獄に行く」とは思いません。父なる神さまは善なる神様です。しかし、確実に言えることは、生きているうちに信じるなら救われるということです。ヨハネ1236「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」

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2012年7月 1日 (日)

創立記念礼拝「家の教会」 徒10:1-2 大友幸一牧師

本日は、大友幸一牧師を迎えての創立記念礼拝になりますので、原稿を用意できませんでした。

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