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2012年7月29日 (日)

   ~しもべとなられたイエス様~ <ピリピ人への手紙 2章3節-8節>   亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ピリピ人への手紙 2章3節-8節>

2:3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

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先ほどみなさんとお読みした聖書個所は、ピリピの教会の人々に宛ててパウロが書いた手紙のことばです。

ピリピの2章6節―8節はイエス・キリストの謙卑、そしてこの後に続く2章9節-11節はイエス・キリストの高揚について力強く記されている有名なみことばです。その手前のピリピの2章3節-5節は、パウロがピリピ教会の人々にイエス・キリストに倣ってへりくだることを教えています。

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2:3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

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この個所を読むたびに、私はそのような者でありたいと切に願うのですが、実際はなかなか難しいものです。

特に「へりくだってしもべとなって仕える」ということは、私たちの心の奥底にあるプライド(自尊心)や、反対にコンプレックス(劣等感)が邪魔をしてしまって、思うようにできずに葛藤を覚えます。

しかし、イエス様は福音書のいたるところで、そのような葛藤を覚える弱い私たちに、「仕えるしもべ」としての模範を示してくださいました。先ほど読んだピリピの2章6節、7節に

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2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

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と書かれてある通りです。

イエス様は神であられるのに、しもべのように低くなられ、私たちに模範を示してくださいました。

一番印象的な聖書箇所は、やはりヨハネ13章の十字架に架かられる前日に、最後の晩餐をなさった後、12弟子たちの足をお洗いになったという「洗足」の箇所ではないでしょうか。

このイエス様が弟子たちの足を洗われたという箇所を見ながら、イエス様を模範とし、ピリピ書のみことばを実行していくにはどうすればよいかということを共に考えていきましょう。

①イエス様は「仕えるリーダー」となってくださいました。

弟子たちは真のしもべの意味がわかっていませんでした。ルカの福音書22章にも、最後の晩餐での出来事が記されていますが、22章24節にはこの最後の晩餐の時になっても弟子たちは「誰が一番偉いか」という事について論じあっていたことが記されています。

ヨハネの福音書には、最後の晩餐の日は「過ぎ越しの祭りの前」と書かれていますが、他の福音書には過ぎ越し祭りの日の当日だとも書かれています。

この「過ぎ越しの祭り」とは何のお祭りかご存知でしょうか?

この祭りは現在も行われているユダヤ教の3大祭りのひとつです。出エジプト記に書かれていますが、この祭りはモーセが神に命じられてイスラエルの民をエジプトから脱出させたことを記念したものです。この祭りでは神殿に傷のない雄の子羊や子牛や山羊を捧げます。

イエス様の十字架がこの過ぎ越しの祭りと同じ時期であったことは、イエス様が十字架の贖いにより、まさにこの捧げものの子羊(小羊)となられたという事です。それは、ヘブル人への手紙9章12節に「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」と書かれている通りです。

弟子たちは、いつもイエス様のおそば近くにいましたが、イエス様がこれから十字架に向かわれるということが分かっていませんでした。イエス様の近くでいつもイエス様の説教を聞いていたベタニヤのマリヤは、イエス様が死に向かわれていることを察していました。彼女は高価な香油をイエス様の頭に注いで葬りの準備をしましたが、弟子たちはその時、「何のために香油をこんなにむだにしたのか」とマリヤに怒りました。

イエス様がこれから何をなさろうとされているのか弟子たちは全く気にも留めず、彼らはいつも「誰が一番偉いか、誰がリーダーなのか」を競い合っていました。そんな弟子たちにイエス様は仕えるリーダーとなることを教えられました。

この仕えるリーダーとは、どのようなリーダーなのでしょうか。

最近は、「仕えるリーダーシップ」「サーバントリーダーシップ」という考え方が、様々な企業で取り入れられています。このサーバントリーダーシップは、従来のピラミッド型の支配型リーダーシップとは逆の考え方になります。「上から命令する」「先頭にたって引っ張る」というパワーリーダー的なリーダーシップから、「部下を支えるためにリーダーは存在する」「部下の必要に応じて手助けして部下の能力を伸ばす」といったリーダーシップに代わってきているという事です。

このサーバントリーダーシップを語る時、クリスチャンではなくても、聖書に書かれているイエス様がなさった方法が模範とされることがあるようです。10年くらい前に、この亀有教会でも山積みになっていたこの本、「サーバント・リーダシップ」という本をお読みになった方はいらっしゃるでしょうか?

「サーバント・リーダシップ」は、アメリカのロバート・グリーンリーフという人が1960年代に提唱した考え方です。彼はもう亡くなっていますが、敬虔なクリスチャンだったそうです。この本もそのグリーンリーフの流れのものです。この本は物語になっています。あらすじを簡単に言いますと・・・

主人公のジョンは大手製造会社で働くやり手のゼネラルマネージャーで、世の中から見れば彼は成功者でした。しかし、家庭生活においては崩壊寸前で、妻との間は冷え切り、子どもも非行に走っていました。会社の人事マネージャーからは、リーダーシップのスタイルを見直すように言われて彼は激怒。何もかもうまくいかなくなってきた彼は、妻の勧めでカトリックの修道院で行われた7日間の勉強会に参加しました。その修道院には、元有名な実業家だった修道士がいて、彼からサーバントリーダーシップについて学び、主人公は謙遜とへりくだりの心を知って、別人のようになって修道院を出るという話です。この本はもう絶版になっていますが、当時はキリスト教書店だけではなく、一般の書店でも売られていたものでした。

この本を読んで私は本当に気が楽になったのを覚えています。

なぜかと言うと、私はその頃、「どんな人でも心から愛して仕えるなんて私にはできない!」と自分の事を情けなく思っていました。でもこの本には、「“アガペーの愛”つまり“神の愛”とは、感情で愛すという愛ではなく、行為、行動の愛である」と書かれていました。

どういうことかと言うと、“アガペーの愛”とは、例えば卑怯な人や、残虐な事件を起こした人に対して、また単にどうしても生理的に好きになれない人がいたとしても、忍耐して愛しなさいという愛ではないと言うのです。たとえ感情ではその人を愛せなかったとしても、その人に必要なものを与えたり手助けをしたりするという“アクション”を起こすことが“アガペーの愛”だというのです。そうなると、“アガペーの愛”とは、慈善とか奉仕の意味合いが強いイメージになってきますね。

ですから私は、「そうか。英語でいうLove、感情で愛するということが出来なくても、その人の話を聞いたり、その人の必要を満たしてあげたり、助けてあげるというアクションを起こせばいいんだな。」と納得して、何年も過ごして来ましたが・・・今は何となく違和感があります。

果たしてそのような考えで良かったのでしょうか?

以前の私はこう言った本を読んでは鵜呑みにしていましたが、私も年をとってきたからかもしれませんが・・・

まず疑ってかかるようになってきました。特に、マスメディアで流れてくる情報やこのような自己啓発の本、また大学で学んでいる神学も、本当にそうかなぁーと思ってしまいます。

疑ってどう解決するのかと言うと、聖書から答えをいただきます。聖書は本当はどう語っているのか、イエス様はどうなさったかということを思い起こすのです。私は、今はこう思います。やっぱり、慈善や奉仕をするにしても、感情で愛するという気持ちが伴わないと、無機質な感じがして違和感があります。

みなさんはどう思われますか?イエス様はどうなさったでしょうか?

イエス様は、弟子たちに仕えるリーダーについて教えられるとき、時にはたとえ話でわかりやすく、時にはユーモアを交え、また時には弟子たちをお叱りになって教えられましたが、そこには必ず愛がありました。そして必ず自らが模範となって仕えるリーダーの姿を見せてくださいました。弟子たちはイエス様の愛を受けてイエス様をお手本として、ただ信頼してついて行けば良かったのです。仕えるリーダーには愛が必要です。

②イエス様は「仕えるしもべ」となってくださいました。

イエス様は「仕えるリーダー」でもありましたが、さらにご自分を低くされ、「仕えるしもべ」となられました。

天の父なる神のしもべとなって従われ、また人々にも「仕えるしもべ」となられたのです。「しもべ」とは、言い換えれば「奴隷」「召使い」のことです。神であられる御方が奴隷のように低くなられて弟子たちに仕えてくださったのです。

イエス様は私たちに、仕えるリーダーを目指すとともに、仕えるしもべとなることを教えてくださいました。

考えてみれば、私たちにとってサーバントリーダーシップをとることは、難しいですができない事ではないと思います。言ってしまえば、サーバントリーダーシップをとることは、キリスト者でなくてもできます。でも、仕えるしもべとなるには、私たちの心の奥底のもっともっと深い部分での信仰と、そしてさらなる愛が試されます。

みなさんは、仕えるしもべですか?

もし、「そうではない」と思われるなら、仕えるしもべになろうとする心を邪魔するものは何でしょうか。

なぜしもべとなって、心から人を愛して仕えることができないのでしょうか。

パウロが言うように、へりくだることが出来ず、自己中心や虚栄の心で人と接しているということでしょうか。

みなさんにもそれぞれ思い当たることがあるのではないでしょうか

私はいつも、「しもべのようになって人に仕える事は本当に難しい。」と思っています。もし、「世界しもべになれないコンテスト」というものがあったなら、間違いなく7位ぐらいにはなっていると思います。

その原因のひとつは、私の中に二面性があるからだと思います。人間だれでも二面性はあると思いますが、私の場合は、育った環境によって屈折した二面性を身につけてしまいました。

鈴木先生は、よく8人兄弟の7番目に生まれた生い立ち、育った環境のお話をなさいますが、それを聞くたびに、育った環境がいかにその人の人間性に影響をもたらすかという事がよくわかります。

また、それがいかにイエス様によって回復されるかという事もよくわかります。

みなさんも人生いろいろあって、イエス様に回復していただいたお証があると思いますが、私は自分の生い立ちについてメッセージでお話したことがないので、今回は少しお分かちしたいと思います。

今日は第5週なので、分かち合いの時が後でありますので、みなさんもイエス様に回復していただいた事について、ぜひ分かち合ってみてください。

私は、4人兄弟の2番目で育ちました。兄、私、妹2人ですが、一番下の妹は腹違いです。

私は、小学2年生の時、実の母を癌で亡くしました。兄9歳、私7歳、妹4歳でした。

本当に悲しくて寂しかったのですが、残された父と兄と妹と一緒に私たちは笑って暮らしました。泣いて暮らすより、笑って暮らした方がいいからです。だから、参観日に誰も来てくれなくて寂しくても、私は笑っていました。親類や近所の人たちは私たち兄妹を見て「可哀そうな子どもたちだ」と言いましたが、私たちは祖母や父に愛されていたので、笑っていることができました。

小学6年の時に継母がやってきました。私はそれまで“大人はみんな親切でやさしい”と思っていたのですが、継母によって打ち砕かれました。氷のように冷たく刺すような言葉の暴力や陰湿ないじめに遭い、まるで意地悪な姑と暮らしているようで、針のむしろのような日々でした。私を溺愛してくれていた父の愛は継母に移ってしまいましたが、それでも私は学校では友達とバカなことを言っては笑っていました

学校で笑っていると家のことを忘れることが出来たからです。

中学の頃には完全に精神的に自立するようになりました。親には生涯頼らないぞと決意しました。経済的にもなるべく頼りたくなかったので、意地を張ってお金がかからないように、高校は陸上競技のスポーツ特待生で入りました。その陸上競技が私にとっていい影響がなかったように思います。陸上競技というのは、どこまでも個人、自己の追求の世界です。いつしか私は自分のことしか考えなくなりました。全国大会に行くのがあたりまえのハイレベルのスポーツ校でしたので、練習量は半端ではなく、毎日夜まで吐きながら練習していました。人間は極限まで追い込まれると、感情を殺して何も考えないことで耐えるように作られているようです。家族には絶対に弱音を吐きませんでした。友達にも明るい顔しか見せませんでした。でも、自分の部屋に入ると毎晩泣いていたというのを覚えています。

こんな風にいうと、すごく頑張っているいい子みたいですが、悪い事もそれなりに・・・いや、結構やりました!!

こうして、私は青春時代に心と言動が違うという二面性と、徹底した個人主義を育んでしまいました。

・・・回復はイエス様が与えてくださいました。

24年前に、神様の導きで、クリスチャンホームでほ~んわか育った夫と結婚し、ずいぶん癒されました。私は筋肉の力が無くなっていくという難病にかかったりもしましたが、息子も与えられ、イエス様の変わらない愛を知って、孤独から解放されました。

悲しい時は泣いていいんだ、嬉しい時には喜んでいいんだ、という事がわかりました。

また自分が罪人であり、神様の憐みによって生かされているという事を知った時、生まれて初めて自分の事だけではなく、人のことも考えられるようになりました。

ある本に書かれていましたが、「人は、キリストにあるアイデンティティー(自己同一性)を確立しなければ、人に仕えることはできない」という事を実感しました。言い換えれば、イエス様が心のうちにおられるならば、人に仕えることもできるようになるという事です。なんて素晴らしい恵みでしょうか!

③私たちへの真実で完全なるイエス様の愛

しかし私の二面性すっかりなくなったというわけではありません。献身をして、神と人を愛すること、「しもべ」となって人に仕えることを実践しようとしてきましたが、心と言動が一致しないことが多くあります。

私のしていることは、パフォーマンスに過ぎないと感じることが多く、私は愛を実践しているつもりになっているだけのパリサイ人ではないかと苦しい思いをしています。

そんな時、イエス様を思い起こします。

イエス様の愛は真実で完全です。イエス様は、常に心と言動が一致しておられます。イエス様は、心から喜んで「しもべ」となり、弟子たちの足をお洗いになりました。それはイエス様が弟子たちを無条件に愛しておられたからです。イエス様は、弟子たちの足をお洗いになりながら、弟子たちを慈しみ、彼らの将来を憂いながら、祝福をお与えになったのです。

弟子たちの足をお洗いになる箇所、ヨハネ13章1節には、

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13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

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と書かれています。

ペテロの足をお洗いになる時、イエス様はどのようなお気持ちだったでしょうか。

イエス様は、このあと、ペテロがイエス様を3度も「知らない」と言ってしまう事も、後に聖霊を受けて力強く働いて殉教することも御存じでした。

雷の子と呼ばれ、後にイエス様の母マリヤのお世話をするヨハネの足や、その兄弟ヤコブの足をお洗いになる時、イエス様はどのようなお気持ちだったでしょうか。ヤコブは12弟子最初の殉教者です。彼は使徒の働きに出てくるステパノのように華々しく殉教したのではなく、使徒12章の初めにたった1行、「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」と書かれているだけです。

収税人のマタイの足、疑り深いトマスの足、ひとりひとりに愛を注がれながら、足を洗われ・・・

そしてイエス様は、この直後にイエス様を裏切ってしまうイスカリオテのユダの足をもお洗いになりました。

イエス様は、まさにパウロの言うように、ご自分を無にして、仕える者の姿をとられ、十字架の死にまで従われました。それは、弟子たちやイエス様を慕う者たちだけではなく、すべての人々、私たちひとりひとりを愛してくださっておられるからです。

私たちは、イエス様のような「しもべ」になれるでしょうか。

心から喜んで足を洗える「しもべ」となれるでしょうか。

イエス様は私たちにそうなってほしいと願われて、模範を示されました。

私は、もしかしたら一生かけてもそのような「しもべ」にはなれないかもしれませんが、それでもイエス様の真実の愛に少しずつでも近づきたいと願っています。

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<ピリピ2:3-5>

2:3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

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みなさんも、このみことばを握りしめて、イエス様を見上げてともに歩んで参りましょう。

神に仕えるしもべとして、そして人々に仕えるしもべとして、私たちは今日何ができるでしょうか。

愛する主のために、愛する隣人のために、イエス様のようなしもべの心を持って仕えて参りましょう。

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