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2012年6月24日 (日)

弁明できる用意を       Ⅰペテロ3:13-17

当時のクリスチャンはローマ国家の支配の中にありました。身分的には国外追放者であり、寄留者でした。ある人たちはしもべとして、主人に仕えていました。横暴な主人から、善を行っていているのに、苦しみを受けることがありました。現代の私たちは民主的な国家の中にあり、個人の権利や信仰の自由が認められています。ペテロの手紙の時代の人たちよりも、はるかに良い環境の中に暮らしていると思います。しかし、クリスチャンであるがゆえに迫害されたり、イヤな思いをすることがあるでしょう。なぜなら、私たちはこの世の人たちと一緒に悪いことをしないからです。そのためにやっかまれたり、害を受けることがあるでしょう。程度の差はあれ、どの時代においても神の子らはこの世において迫害を受けます。では、どうしたらそういう苦しみから解放されて、平安に生きていけるのでしょうか?

1.キリストをあがめよ

ここには、私たちが苦しみをうけたとき、やってはいけないことと、やるべきことが書いてあります。Ⅰペテロ31315前半まで。「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」この人は、善を行うことにとても熱心でした。しかし、この世においては、正しいことは、良くないことであると思われるときもあります。社員や公務員として働いていて、「馬鹿正直は良くない。ここはごまかしなさい」ということがたまにあるのではないでしょうか?データーの改ざんを求められたり、不正に値段を書き換えざるようなことがあるかもしれません。「いや、クリスチャンとして、それはできません」と断ったなら、どうなるでしょう?「あなたは正しい。そうしましょう」という上司はまずいないでしょう。私たちは神を恐れるので、もし不正なことをし続けたら、後から大きな刈り取りが来ることを知っています。でも、この世の人たちはそうではありません。「いいから、黙ってやれ!」というでしょう。日常生活においても、こちらは善を行っているはずなのに、衝突することがあるでしょう。また、日本の国は仏教がおもなので、葬式や法事のときに、「どうして焼香しないんだ」と言われるかもしれません。とにかく、こちらは最善を尽しているはずなのに、イヤなことを言われたり、害を加えられたりすることがあります。そういうときに「クリスチャンとしてどうすべきか?」ということです。

 ペテロは何と言っているでしょう?「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。」と言っています。どこかで聞いたことがあるみことばです。マタイ5章にあります。マタイ5:10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」そうです。イエス様も同じことをおっしゃっていました。「幸いです」という意味は、祝福されるという意味です。すべてをご存知である神さまが、御手を延べてくださるということです。マタイ5章にはさらに何と書いてあるでしょう。マタイ5:11-12「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」神さまが報いてくださるとあります。「でも、天国に行ってからでは遅すぎます」と言いたくなります。この地上で、何とかならないのでしょうか?もちろん、神さまは地上でも報いてくださるお方ですが、私たちがすべきことが2つあります。第一は「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません」とあります。私のところにたまに「相談があります」という電話がきます。かなり前に、「今、亀有駅にいるけど、相談があるのでお会いできませんか?」と男性から電話がありました。私は「どういうご用件でしょうか?私にも予定がありますので」と答えました。向こうは、「用件は会ってからお話します」と答えました。私は「申し訳ありません。どういうご用件でしょうか」とさらに聞きました。すると、向こうは「バカヤロー、用件があるから電話してんだよ!」と豹変しました。あきらかにヤクザ風です。おそらくお金の無心でしょう。私は「それじゃ、困ります。お会いできません」と答えました。向こうは、さらに逆上して、「てめーこのやろー、名前は何と言う。今から行くから待っていろ!」と電話の向こうから怒鳴りました。私は「ああ、わかった。警察を呼んで待っている」と答えました。私も元現場監督なので、昔の血が騒ぎました。「本当に来るかなー、来たらどうしよう。よーし、覚悟を決めなくちゃ」と心配しました。その時は、来ませんでした。

 今のは、あまり良い例ではないですね。聖書的にはどうなんでしょうか?ペテロは「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません」と言っています。私たちの信仰に最も有害なものは、恐れです。鉄でできた船が水の上に浮いています。どうしてでしょう?それは鋼鉄の板が、たえず、水を外に締め出しているからです。もし、鉄板に穴があいていたらどうでしょう?水がものすごい勢いで、流れ込み、まもなく船は沈没するでしょう。恐れは信仰を失わせてしまう最大の敵です。多くの人は「恐れ」が心の中に入ることを許してしまいます。「もし、こうなったらどうしよう?」「もし、そんなことになったら、もうおしまいだ」。ある人たちは、いつも「最悪だ」「最悪だ」と言っています。そういう人は人生に最悪を呼び込んでいる人です。クリスチャンであるなら、逆に「最善だ」「最善だ」と言うべきです。そうすると、普通に最善のことが起こります。ある人が調査したところ、私たちの恐れる恐れが実際に起こる可能性は3%だそうです。つまり、97%は実際に起こりもしないことを恐れているんだということです。もちろん危機管理は必要です。でも、毎日の生活で、私たちは、信仰をないがしろしにして、恐れすぎていることは確かです。もう1つは何でしょうか?「心を動揺させない」ということです。「動揺する」のギリシャ語は、「精神的にかき乱す、さわがす」という意味です。人からさばかれたり、脅かされて、動揺しない人がいるでしょうか?世の中には、人を強迫したり、付きまとう人がいます。悪質なストーカーもいます。でも、最も気を付けるべきことは、心の問題です。「動揺する」つまり、精神的にかき乱されると、それが妄想にまで発展し、外出すらできなくなります。「人間って本当に弱いもんだなー」と思います。ある人が発した一言で、心の中が混乱し、心配で夜も眠られなくなります。「なんであんなこと言うんだろう、ひどいじゃないか!」と怒りや憎しみまで出てきます。最後には無力感に襲われ、何もできなくなります。多くの人たちは、恐れや動揺を過少評価しがちですが、私たちの生活を破壊するほどの力があります。もちろん、みことばのとおり、恐れないで、動揺しなければ良いのですが、もっと良い手はあるのでしょうか?

 あります。ペテロは「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」と命じています。ペテロは恐れやすい人でした。ペテロの本名はシモンです。シモンは川辺に植わっている葦という意味です。葦ですから、問題の風が吹くとすぐ揺れてしまいます。しかし、イエス様は「お前は、これからシモンではなく、ペテロ、岩なんだ」と言われました。岩はがっちりして動きません。すばらしい名前です。でも、ペテロの信仰生活においてあるときは岩、あるときは葦、ペテロとシモンがたえず入れ替わっていました。でも、ペテロはすばらしい方法を自ら発見して、それを私たちに提供しています。それは、心の中でキリストを主としてあがめるということです。これはどういう意味でしょう? JB.フィリップスは「キリストに向かって完全にささげることに単純に集中しなさい」と訳しています。New English Bibleは「キリストを主として崇敬することに心を向けなさい」と訳しています。私たちの心が1つの部屋だとします。その部屋の中に、恐れや動揺、怒りや憎しみが混在しているとします。どうやって、取り除いたら良いのでしょうか?「恐れや動揺、怒りよ、心から出て行け!」と命じれば良いのでしょうか?それも良いかもしれませんが、一時的で、また戻って来るかもしれません。その代わりに、「キリストは私の主でです。アーメン、ハレルヤ!キリストを礼拝します」とそこに思いを向けたらどうでしょうか?つまり、恐れや動揺の代わりに、キリスト様を礼拝することに集中するということです。そうすると心の中に神の信仰、神の平安、神の光があふれてきます。その結果、恐れや動揺が出て行くのではないでしょうか? 詩篇341「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」とあります。「あらゆる時」です。「うまく行っているときも、うまいう行っていないときも」です。エディ・レオ師は、「男性は一日に約240回、性的な誘惑を受ける」と言いました。睡眠の8時間を引くと、4分に1回の割合で誘惑を受けることになります。もし、4分毎に表れた性的な想像を消して、礼拝と置き換えるならば、男性は1日に240回、4分毎に、主を礼拝して交わることができます。そのような生活はなんと力強いことでしょう。私たちにトラウマや恐れがやってきたときどうしたら良いでしょう?イエス様を礼拝するときにすれば良いのです。私たちに怒りや悲しみがやってきたときどうしたら良いのでしょう?イエス様を礼拝するときにすれば良いのです。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」これこそが、勝利の秘訣です。

2.弁明できる用意を

 ペテロは迫害や苦しみをもっと積極的に用いることを勧めています。Ⅰペテロ315後半から「そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」私たちが迫害や苦しみの中でも神様をあがめつつ、善を行っていたならどうなるでしょうか?中には「あなたはどうしてそういう生き方をしていられるんですか?」と尋ねる人が出てくるということです。最初は馬鹿にしていたのに、「どうしてそういう生き方ができるんだろう」と、興味を持つ人が出てくるということです。神さまは私たちの周りに、平安の子、心の柔らかい人たちを用意しておられます。そういう人たちは、義に飢え渇いている人たちです。「この世に、神さまが本当にいるなら信じてみたい」「人は死んだらどうなるんだろう」「死後においても希望があるのだろうか」。そのような素朴な質問をしてくる人たちがおられます。そういうときにどうするかということです。あるクリスチャンは、「そうですか?一緒に教会に行きましょう!」と言います。悪いとは言いませんが、その前に、すべきことがあります。なぜなら、この世の人たちにとって、教会はあまりにも敷居が高いからです。それに、教会に来て、だれかの力を借りなければ説明できないのでしょうか?そうではありません。あなたがその場の、伝道者であり牧師なのです。ハレルヤ!ルターは、万人祭司を唱えました。祭司とは、この世の人と神さまとの間に立って、とりなす人です。

 このところに、「だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」と書いてあります。「だれにでも」、ということは子供でも大人でも、男性でも女性でも、インテリでもインテリでない人でも、善人でも悪人でも、ということです。私たちは心の中でより分けてしまいます。「この人は、罪深いので神さまから選ばれていないんでは」と敬遠しがちです。でも、一番、信じにくい人は自分を正しいと思っている人です。善良で暮らし向きの良い人ほど、救われにくいのです。一番、信じやすい人は問題のある人です。しかし、私たちは問題がある人には近づきません。なぜなら、問題のある人につかまえられて、一緒に沈没するかもしれないからです。ですから、私たちは、あまり問題のない、健康な人に近づこうとします。イエス様は何と言ったでしょうか?「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。…わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ912-13私たちはどうも、反対なことをしているみたいです。とにかく、「だれにでも」です。次は「いつでも」です。「いつでも」ということは、自分の信仰が上向きとのときも、自分の信仰が下向きのときも、ということです。ある人は「私は良い証になっていないので、イエス様のことは言えない。恥ずかしい」と思っています。では、仕事がうまくいって、正しい行いをしている時だけに、証をすることができるのでしょうか?そうではありません。逆に、「こんな者でも神さまから愛されています」ということの方がよい証になるのです。この教会に山崎長老さんがおられました。山崎さんはいつもこのように言って人々を誘っていました。「わしなんか、酒も飲むし、タバコも吸うよ。それでも救われているんじゃ。はははは」と言っていました。「恥は我がもの、栄えは主のもの」ということばがあります。自分がダメであっても、キリストさまがすばらしいのです。ここに焦点を合わせていけば、ダメな自分がいつか良くなるのです。私たちはこの口を開いて、キリストを証すればするほど、生活がそれに比例して良くなるのです。逆に「私はダメだから」と、口を閉ざしていると、良くなることはありません。どうぞ、福音のために、キリストのために口を開きましょう。

 最後に言われていることは、「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい」ということです。弁明とは擁護するとか、言い開きをするという裁判のときに使われることばです。使徒26章でパウロがアグリッパ王のもとで、自分の信仰を弁明しました。そして、最後にはキリストを信じるように勧めています。現代的に弁明とはどういう意味でしょう?ある英語の聖書はlogicalにと訳しています。これは「論理的な」「筋の通った」という意味です。普通の証は自分の体験ですから、あまり論理的でなくても結構です。しかし、ある場合は、「これはこういう意味です」と論理立てて答えなければならない時があります。ある人が「人間は死ねばみんな同じでしょう」と言ったとします。それに対して、どう答えるべきでしょうか?「人間の魂は不滅なので、死後の世界があります。問題は、どこで永遠を過ごすかです」。また、ある人が「罪、罪というけど、なんでキリスト教は人を罪人呼ばわりするんだ」と言ったとします。どう答えるべきでしょうか?「罪とは、人間がまことの神さまから離れ、自分勝手に生きていることです。子どもが親なんかいらない、自分一人で育ってきたと言うようなものです」。また、ある人が「宗教はみんなおんなじだよ。本物なんかありはしない」と言ったとします。どう答えるべきでしょうか?「この世には偽札がたくさんあります。でも、偽札があるからと言って、本物のお札がないわけではありません。」また、ある人が「キリスト教は狭すぎる。なんで、キリストしか救いはないと言うんだ。とても排他的だ」と言ったとします。私だったらこう答えます。「1たす13になるでしょうか?水素と酸素を化合させると牛乳になるでしょうか? 1たす12です。水素と酸素を化合させると水になります。私たちは数学や自然科学において狭いことに文句を言いません。なぜなら、真理は排他的なのです。キリスト教も同じです」。復活に対しても、十字架に対しても、来世に対しても、弁明できる用意をしておくべきです。

 こういうのを弁証論と言います。「キリスト教弁証論」という本もあります。でも、多くの場合、私もそうですが、話し過ぎるのです。その人が1つしか質問をしていないのに、私たちは10個も答えてしまいます。もう話したら、「今がチャンスだ」とばかり、話が止まりません。もうその人は頭がいっぱいになって、あとはあふれるばかりです。心の中で「もう二度と聞くまい」と思うでしょう。ある人が「口は1つで、耳が2つあります」と言いました。カウンセリングではこれはとても重要な真理です。「下手な鉄砲数打てば当る」という方法もないわけではありません。しかし、本当に獲物をしとめる人は、ライフル銃のように的を絞る人です。では、どうしたら良いでしょうか?その人が持っている問題や心の悩み、あるいは興味を持っていることに耳を傾けるということです。30分も聞いているとその人の世界が見えてきます。聖霊さまが、「ああ、この人の必要なこうものかな?」とテーマを悟らせてくださいます。自分が持っている知識を全部出せば良いというわけではありません。その人のニーズ、必要に対して、1つか2つ答えてあげれば良いのです。1つか2つです。決して10個与えてはいけません。1つか2つでしたら、しばらくするとお腹が減って、またやってきます。真理に対して飢え渇きをもっている人は特にそうです。再びやってきたら、また1つか2つ与えれば良いのです。私を信仰に導いてくれた職場の先輩がまさしくそうでした。私は「神さまがいるなら見せてくれ!」と言いました。すると、先輩は「電波は目に見えないけど、いっぱい飛んでいるよ」と言いました。私は「弱い人が神さまを勝手に作ったんだろう」と言いました。すると先輩は「私たちは弱いよ。自分の弱さを知っている人が強いんじゃないかな」みたいに言いました。全部、正確に覚えていませんが、たとえ話をよく使って聖書の真理を教えてくれました。しかし、あとから分かったことですが、聖書に実際にそういうたとえ話や物語があったんですね。

 ペテロは何と言っているでしょうか?「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい」と言っています。弁明において、一番重要なのは、知識や技術ではなく正しい良心です。未信者とどうしても、議論になる場合があります。本当なら議論に勝ちたいところですが、負けても良いのです。むしろ、負けた方が良いのです。なぜなら、議論に勝ったとしても、その人を失うのがもっと不幸だからです。信仰の世界を全部、理性で説明することは不可能です。全部説明できたら、信仰はいりません。人間は、知性で信じるのではないのです。その人を自分が本当に愛しているかどうかです。愛こそが人を信じさせるのです。三浦綾子さんは自分が学校で教えてきたことが全部間違っていたことに気づき、自暴自棄になっていました。前川青年が一生懸命に語るのですが、皮肉な目でながめながら煙草に火を付けました。やにわ、前川青年は傍らにあった石を取り、自分のひざをゴツンゴツン打ち始めました。三浦綾子さんは「何しているの?やめなさい」と叫びました。前川青年は「信仰のうすいぼくにはあなたを救う力がない。だから、不甲斐ない自分を罰しているんだ」と答えました。そのとき、三浦綾子さんは「だまされたと思って、私はこの人の生きる方向について行ってみようか」と思ったそうです。ことばで論理的に説明することも大切です。でも、神の前における正しい良心こそが、正しい福音を伝えるために最も重要なのです。

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2012年6月17日 (日)

兄弟愛を示し       Ⅰペテロ3:8-12

「最後に、もうひとことだけ」と言いながら、なかなか終らない人がいます。パウロもそうですが、ペテロも「最後に申します」と言いながらも、すぐ終っていません。ある英語の聖書は、「最後に」ではなく「要するに」というふうに訳しています。「つまり、これが大事なことですよ」と言うとき、「最後に」という表現を用いているようです。ペテロが「最後に申します」と言っている内容は、「神の国の価値観で生活しなさい」という勧めであります。もし、こういうことがなされたならば、争いや犯罪、戦争すら起こらないでしょう。ペテロは「この世を変える前に、あなたがたから実行しなさい」と勧めています。「神さまのみこころは何か」と、問う人がいますが、これほどはっきりしているものもないと思います。

1.あれ

 なぜ、「あれ」と言うかと申しますと、英語の聖書が、beとなっているからです。これは行いというよりも心の状態です。この世は、何をするかという行い、つまりdoがすべてです。しかし、聖書はその前に、心の状態がどうあるべきかを教えています。心の状態は外側からは見えません。しかし、それがことばや行動として出てきます。心の状態が正しければ、正しい行動が後から着いてくるからです。つまり、be「どうあるべきか」は、do「何をすべきか」よりも重要だということです。ハレルヤ!このことを1つ学んだだけでも、何か黒い霧が「ぱっ」と晴れた気がしないでしょうか?ペテロは5つのbe「あれ」を説いています。38節を見るとどうでしょうか?「心を1つにし」「同情し合い」「兄弟愛を示し」「あわれみ深く」「謙遜でありなさい」と、5つ出てきます。もしも、5点満点で自分自身をチェックするならば、どのくらいの点数になるでしょうか?1つずつ説明しますので、どうぞ、ご自分でチェックしてみてください。

 第一は「心を一つにし」です。心を一つにするとは、和合することであるとギリシャ語の辞典に書いてありました。詩篇1331-2「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。」とあります。私たちは生身では一つになることは決してできません。罪から贖われて、神さまのもとに集まるときに一つになることができるのです。あくまでも、「キリストにあって一つです」。教会同士も一つになることができません。しかし、どんな教会であっても、異端でない限りは「イエスは主である」と告白することができます。イエス様の周りにいた弟子たちも、みんな違っていました。それぞれ衝突するような考えや性格を持っていました。しかし、彼らはイエス様のもとに集まって、和合することの大切さを学んだのです。イエス様から学んだ初代教会はどうだったでしょうか?使徒246「毎日、こころを一つにして宮で集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」。私たちが一つになるならば、特に伝道をしなくても、人々が集まって来て、救われるのです。

 第二は「同情し合う」ということです。英語の聖書はfeeling感情と訳しています。「感情を1つにする」ということができるのでしょうか?これは難しいと思います。男性は女性と比べて、感情をあまり現しません。人の前で、涙を流すことはほとんどないでしょう。しかし、クリスチャンになると、ぐっと感情が豊かになり、涙もろくなることも確かです。それでも、感情というのはそれぞれ違うと思います。では、ペテロは、どのような感情を言っているのでしょうか?ローマ1215「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」とあります。喜びの中に意志も入っていますが、感情も多分に入っています。赤ちゃんや子どもはよく笑うし、喜びます。もちろん、泣いたり、怒ったりもします。多くの場合は、そういう感情は自分のことであります。自分に良いことがあれば喜ぶし、自分がイヤな思いをすると泣きます。しかし、「同情し合い」ということは、他の人の感情を分かち合うということです。兄弟姉妹の喜びを自分の喜びとする。兄弟姉妹の悲しみを自分の悲しみとすることです。この同情心が、私たちから外の世界に広がったら、すばらしいのではないでしょうか?

 第三は「兄弟愛を示し」です。ギリシャ語の聖書はフィラデルフォイとなっています。アメリカの東部に似ている都市名があります。これは、兄弟姉妹に対する愛、つまり、キリスト者相互間の愛です。聖書には「互いに愛し合いなさい」といたるところで、命じられていますが、多くの場合は、兄弟姉妹に対する愛を指しています。ギリシャ語には「人間愛」「博愛」という言葉が他にあります。どちらも、フィレオー「友を愛する」という語源から来ています。しかし、聖書は「人間愛」「博愛」をほとんど語っていません。宗教改革と同じ時代にヒューマニズムも現れました。その時代、キリスト者でありながら、ヒューマニストがたくさんいました。なぜ、ヒューマニズムが現れたのでしょう?それは、カトリック教会があまりにも人間性を否定し、抑圧したからです。だから、その反動として、人間性を取り戻す意味で、ヒューマニズムが起こったのです。それでも、私は、聖書はヒューマニズムを語っていないと思います。なぜなら、私たちは神さまを愛する愛がないと、隣人も愛せないからです。私たちはキリストを信じて、父なる神の子どもとなります。その次に、聖霊によって神の愛が注がれ、兄弟姉妹を愛することができるようになるのです。でも、本当に神さまを愛しているかどうかは、兄弟愛があるかどうかで分かります。

 第四は「あわれみ深く」です。ギリシャ語は、内臓と関係があります。イエス様が人々をご覧になったとき、「深くあわれまれた」と福音書に書いてあります。あわれみというのは、切実な同情心であります。英語ではcompassionate共に苦しみとなっています。子どもが怪我や病気で、手術をする場合、母親はcompassionate共に苦しむのではないでしょうか。この間、中学の運動会があり、家内が見に行きました。私は、グラウンドが見えづらいので、すぐ帰ってきました。有悟が走るとき、家内の心臓がドキドキしたそうです。子どもの緊張感を母親が感じるのかもしれません。また、聖書では「あわれみ」という言葉と対比することばに「さばき」があります。預言者的な賜物を持っている人は、すぐ、人をさばきます。「ここが足りない、ここが変」とか言って、さばきます。確かに、そういう人はたくさんいるかもしれません。しかし、イエス様の心のメガネは「あわれみ」でした。どうぞ、「あわれみ」というメガネをかけましょう。そうすると、「ああ、こういうわけで、この人はこういう言動をとらざるを得ないんだなー」と深く同情することができるでしょう。不思議なことに、人はさばかれていないということが分かると、心を開き、自ら変わろうとすることも確かです。イエス様の周りにいた人たちは、さばかれないで、受け入れられていることがわかっていたので、喜んで変わろうとしたのです。

 第五は「謙遜であれ」です。謙遜は「心の卑しい、心の低い、卑屈な」という意味があります。ある程度の能力があり、自信にあふれた人は謙遜になるのは難しいでしょう。口では「いや、いや」と言いながら、高慢さを隠します。自信を持つことは良いのですが、自尊心やうぬぼれになりやすいことも確かです。イエス様は神の御子ですから、何でもできました。しかし、イエス様はいつでも謙遜に歩まれました。謙遜とは「自分には能力がない」「自分は何者でもない」と言うことなのでしょうか?謙遜とはどこから来るのでしょうか?そうです。父なる神さまがくださったから、そういう能力や力があるのです。もし、神さまがそれらを取り上げたならば、一瞬にしてなくなるでしょう。旧約聖書のヨブは、一瞬にして10人の子どもたち、財産、名誉、健康まで取られました。謙遜というのは、「すべては神さまによるものです。神さまなしでは何1つできません」という思いから来るのではないでしょうか。

 「心を1つにし」「同情し合い」「兄弟愛を示し」「あわれみ深く」「謙遜であれ」を5つの「あれ」をご提示しました。残念ながら、5つの「あれ」は、この世では、そんなに価値あるものとは見られないでしょう。この世では何ができるか、「行い」がすべてです。しかし、私たちはこの原則を忘れてはいけません。do「何をすべきか」よりも、be「どうあるべきか」が、重要だということです。これら5つの「あれ」は、この世ではなく、神の国の価値観です。では、この世には通用しないし、役にも立たないのでしょうか?そうではありません。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とお命じになられました。2000年前から、イエス様と一緒に神の国が来ているのです。やがて、この世は終わり、神の国がすべてを支配するでしょう。と言うことは、私たちの生き方、私たちの価値観の方が、永遠に続くのです。5つの「あれ」を大事にしましょう。

2.するな

 Ⅰペテロ39「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」原文は「メー」という、否定で始まります。「メー」は、禁止を表す命令で用いられることばです。母親が小さな子どもに言うのと似ています。ペテロはどんなことを「するな」と命じているのでしょうか?まず、「悪をもって悪に報いるな」とあります。リビングバイブルは「害を受けたら」と訳しています。日常生活において、悪を受けたり、害を受けることがあります。私たちはそれに対して、仕返ししたくなります。すぐその場ではしなくても、ちゃんと覚えていて、いつかその時が来たら仕返しするのではないでしょうか?子どものときもよく、口げんかしたものでした。相手は悪いことを言うと、こっちも負けじと仕返しをします。相手が叩くと、こっちも叩き返します。そして、だんだん争いが増してきます。やったらやり返す。これが発展して戦争になるのです。しかし、聖書は「悪をもって悪に報いず」と命じています。キリスト教国と言われているアメリカはどうでしょうか?ベトナム戦争は古いですが、最近はアフガニスタン紛争とイラク戦争がありました。テロリストは確かに問題ですが、アメリカは報復爆撃をしました。そういう意味では、アメリカはもはやキリスト教国ではありません。離婚率や犯罪率もとても高い国です。裁判がとても多く、訴訟大国とも呼ばれています。聖書は「悪をもって悪に報いず」と命じているのに、現実はそうではありません。これはすべてのクリスチャンに言えることですが、頭で信じてはいても、実際の生活に適用されていないということです。アメリカは西部開拓のときから、銃社会で「やったら、やり返す」という考えが染み込んでいます。それが要塞のようになっていて、「正義のために戦うしかない」となるのです。同じように、この世の考えが、聖書の考えよりも強いということが、よくあります。聖書がそう言ったとしても、「これは別の問題だ」と言うのです。私たちの中にも、「これは別の問題だ」と排除しているものはないでしょうか?ちなみに、「デザートは別腹」と言って食べる人がいますが、それは嘘です。同じ腹に入ります。

 もう1つは、「侮辱をもって侮辱に報いず」であります。侮辱とは、「ののしる、そしる、悪口を言う」という、言葉に関するものです。10節に「舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず」とあるのはそのためです。子どものときは、友だちとよく口喧嘩したものです。「お前の母さんでべそ」とか言ったものです。「侮辱には侮辱を」が体に染み付いています。ことばというのは本当に破壊力があります。ヤコブ書には「舌は火であり、死の毒に満ちている」と書いてあります。私たちは「ことばというものは、音の振動なので、たいしたことがない」と過少評価しがちです。しかし、聖書は実体であると言っています。イスラエルでは、シャローム「平安があるように」と言われたなら、その人は「平安をいただいた」と思うそうです。あるとき、ひとりの男性に「シャローム」と挨拶しました。しかし、あとからその人がアラブ人であることを気づきました。それで、その人の後を追いかけ、「さっきのシャロームを返せ」と言ったそうです。同じように、私たちが怒りや憎しみで発する、悪いことばも実体があるのです。ある人が鉢植えの花に対して、実験したそうです。片方には「お前は咲かなくてもよい」と呪ったそうです。そして、もう片方には「美しい花を咲かせておくれ」と祝福したそうです。それを毎日、行ったら、片方の花は枯れて、もう片方の花は美しい花を咲かせたそうです。私たちが何の気なしに言っている子どもへのことば、どうでしょうか?私も家内に対して、侮辱するようなことばを発することが多々あります。この場で、悔い改めます。

 では、聖書は何と言っているのでしょうか?「かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」「かえって」というのは、「その代わりに」という意味です。「悪や侮辱の代わりに、祝福を与えなさい」ということなのです。生身の人間に、そんなことが可能なのでしょうか?もしも、クリスチャンの成熟度をはかるならば、このことができるかどうかでしょう。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」きよめを強調する教団があります。私もその神学校で、少し学んだことがあります。きよめを強調することは悪くはありません。でも、どれくらいきよめられているか計るテストがここにあります。害を受けたり、侮辱された時ではないでしょうか?その人がきよめられ、自我に死んでいるなら、痛みは感じません。なぜなら、死体には感覚がないからです。ある人は、がまんするところまでは行くかもしれません。でも、祝福を与えるところまで行くでしょうか?これは、人間のわざではありません。人間のレベルを超しています。キリスト教は道徳ではありません。むしろ、奇跡です。マタイ5章でもイエス様が「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とお命じになられました。「祝福する」ということの中には、いろんな意味が含まれています。英語の詳訳聖書には「その人の繁栄と幸いと守りのために祈ること。そして、その人を本当に同情し、愛すること」とありました。これは、チャレンジです。どういうチャレンジでしょうか?遠くに入る人ではなく、近くにいる人たちです。ペテロはそれができる根拠を示しています。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

3.させよ

Ⅰペテロ3:10-12 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」ここにはっきりと、幸せな人生を送りたいならどうしたら良いが書かれています。あなたは幸せな人生を送りたいでしょうか?その秘訣がここに書かれています。多くの英語の聖書には、letということばが3回出ています。letというのは、「○○させよ」という使役動詞です。「だれに」でしょうか?それは自分自身に対してであります。自分に対して、「○○させよ」ということですから、そこには意思とか選択が求められます。では、どんな「させよ」があるのでしょうか?第一は「舌に悪を言わせず、くちびるに偽りを語らせるな」ということです。ヤコブ書は「舌とかくちびるは、制御するのが本当に難しい」と告げています。考える間もなく、勝ってにしゃべります。でも、自分の意思と選択によって「舌に悪を言わせず、くちびるに偽りを語らせるな」ということです。第二は「悪から遠ざかり、善を行わせよ」です。聖書は悪と戦えとは言っていません。むしろ、「悪から遠ざかれ」と言っています。詩篇1篇にも幸いになる道が教えられています。1節には「悪者のはかりごとに歩まず。罪人の道に立たず」と書かれています。これは、そばに近づくなということです。悪や誘惑のそばに近づくと、ブラック・ホールのように呑み込まれてしまうということです。第三は「平和を願い、平和を追い求めさせよ」ということです。だれに?これは自分自身に対してです。多くの人たちは「世界が平和でありますように」と願います。しかし、自分自身が平和でない場合があります。平和は、まず自分自身が平和で、その次に家庭や教会、職場、地域社会へと広がるのではないでしょうか?

これら3つのことは、39「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい」ということを言い換えているに過ぎません。ペテロはこれを言わんがために、詩篇34篇を引用したのです。第二のポイントでこれは、人間的には不可能であると申し上げました。そして、最後のポイントでは、「3つのことを自分自身にさせるんだ」ということを聖書から勧めました。でも、舌とかくちびるを制御することが可能でしょうか?やっぱり、「悪をもって悪に報い、侮辱をもって侮辱に報る」というエネルギーがあるのではないでしょうか?そうなんです。何故、私たちが口や行いで仕返しをしてしまうのか?それは、心の深いところに恨みや憎しみがあるからです。それを晴らせるような機会がやって来たとき、内側から自然に出てくるのです。それを李先生は、「怨念晴らし」と呼んでいます。もし、心の奥底が愛と赦しとあわれみに満ちているなら、「悪をもって悪に報い、侮辱をもって侮辱に報る」ということがなくなるのです。次に癒された人が、3つのことを自分自身にさせることが可能になります。ですから、最初のステップは心の中につまっている怒りのマグマ、恨みのマグマを神さまに明け渡すことです。これは負のエネルギーであり、多くの人はこの力によって生きています。私もかつては、「ひどいことしやがって、このやろー」「ちくしょう、いつか復讐してやるぞ」と、そんな風に生きてきました。クリスチャンになってからも、そうしていました。だから、寝言でも、よく叫んでいました。しかし、今はエネルギーを変えました。「原子力エネルギーから自然エネルギーへ」とよく言われています。「ちくしょう!今に見返してやるぞ」みたいに頑張っている人もいます。それも、負のエネルギーです。そういう政治家がたくさんいます。そういう牧師もいます。それではうまくいきません。一番、良いところで、サタンにひっくり返されてしまいます。ですから、その怒りを神さまにゆだねるべきです。私たちの神さまはどのような神さまでしょうか?「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」神さまがさばき、神さまが報いてくださいます。神さまに怒りや憎しみをゆだね、平和を願い、自らに平和を追い求めさせましょう。

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2012年6月10日 (日)

妻たちよ、夫たちよ      Ⅰペテロ3:1-7

3章から、妻たちと夫たちに向けて、教えられています。それでは質問します。妻たちに向けて、何節、使われているでしょうか?1節から6節、6節使われています。夫たちに向けて、何節、使われているでしょうか?7節だけですから、1節です。また、Ⅰテモテ2815節には、男と女へのメッセージが記されています。男性には「男は怒ったりせず、きよい手をあげて祈りなさい」とたった1節だけです。女性には「女はつつましい身なりで、控えめに」で始まり、なんと7節使われています。ペテロは夫が1節に対して、妻は6節、使っています。パウロは男が1節に対して、女性は7節、使っています。なぜでしょう?女性は複雑な生き物だから、6節も7節もいるのです。男性は単純な生き物なので、たった1節で良いのです。隣の方が女性だったら、「あなたは複雑なので、たくさん教えが必要です」とおっしゃってください。

1.妻たちよ

 Ⅰペテロ31-2「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」「同じように」と言われていますので、前からの続きであることがわかります。213節から「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と、王や総督、あるいは主人に従うことが勧められています。「不当な苦しみを受けることがあっても、キリストのように耐え忍ぶのですよ」と教えられています。そして、こんどは「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい」と教えられています。男性にとってはものすごく、すばらしいことばですね。本当に金文字にして、家の目立つところに貼りたいところです。しかし、他の聖書はもっと、柔らかい口調で書かれています。リビングバイブルは「妻は夫に歩調を合わせなさい」となっています。JB.フィリップスは「夫に順応しなさい」と訳しています。英国の聖書は「夫の権威を受け入れなさい」と訳しています。ウーマンリブ運動が盛んだった時代、柔らかく訳したのでしょうか?それは、分かりません。でも、「妻は夫に従いなさい」は、聖書が一貫している教えであります。これは、神さまが定めた法則であり、これに従えば祝福を受けるということです。どんな祝福でしょうか?2節には、みことばに従わない夫の例が上げられています。おそらく、彼は未信者でありましょう。みことばに従わないような夫なら、馬鹿にして良いのでしょうか?そうではありません。「妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」と約束されています。「神のものとされる」とは、「神に獲得される」という意味です。リビングバイブルは「その敬虔な態度に打たれて、やがては信仰を持つようになるからです」と訳しています。

 北朝鮮の話です。まだ「北鮮」と呼ばれていたときです。あるところに、みことばに従わない夫がいました。妻が教会に行くのを決して許しませんでした。些細なことで、妻を迫害し、打ち叩きました。妻は叩かれながら「主よ、みもとに近づかん。のぼる道は十字架に」と賛美しました。夫は「うるさい、やめろ!」とさらに強く叩きました。すると妻はさらに大きな声で「主よ、みもとに近づかん。のぼる道は十字架に」と泣きながら賛美しました。そういうことが数年間か続きました。やがて、朝鮮動乱が起こり、夫は北朝鮮の兵士として出兵しました。そのとき、アメリカ軍が加わって北と戦いました。夫が属していた北の部隊がアメリカ軍に捕らえられました。銃殺刑に処すために、一人ひとり並ばされました。アメリカ軍の隊長が「この中にクリスチャンはいるか。もし、クリスチャンならば許す」と言ったそうです。例の夫が助かりたいあまり、「はい」と手を挙げました。隊長は「クリスチャンだったら、讃美歌を歌えるだろう。一曲歌ってみろ!」と命じました。そのとき妻が泣きながら賛美していた歌を思い出しました。「主よ、みもとに近づかん・・・」。その先の歌詞が分かりません。でも、どうせハングルだから大丈夫だろうと、適当に歌詞を作って賛美しました。そうすると、隊長は「よしわかった」と言って、銃殺刑を免除してくれました。それで助かった夫は、戦争が終ってからクリスチャンになり、教会の長老になったそうです。妻によって助けられたわけです。松戸に岡野先生が牧会している教会があります。岡野先生は「キリストの弟子とは、みことばのとおりに生きることである」と教えています。たとえば、未信者の夫を持つ、クリスチャンの妻に対して、どのように勧めるでしょう。もし、夫から「日曜日の礼拝に行くな!」と言われたとします。聖書は「妻は夫に従いなさい」と書いてあるので、月曜日とか、水曜日の礼拝に行きます。これまでは、神さまを信じない夫を見下していました。「教会に行きましょう!」と誘っても決して来ることはありませんでした。しかし、彼女はみことばのとおり、夫を敬い、夫に仕えました。数ヶ月たちました。夫は何と言ったでしょうか?「妻をこんなに変えた教会が、どんな教会か一度行ってみたい」と言ったそうです。それでご主人は教会に来て、クリスチャンになったそうです。松戸の教会に行くと、そういうカップルがたくさんおられます。クリスチャンになると、真理がわかってきますので、夫がだんだん馬鹿で無能に見えてくるかもしれません。いつしか夫を見下していることが態度にも出てくるでしょう。そうすると、「教会に行きましょう」と誘っても、絶対に行きません。なぜなら、そんな妻に負けたくないからです。最後の抵抗は、教会に行かないこと、信仰を持たないことです。でも、妻が夫を敬い、その無言のふるまいを彼らが見るときに変わるのです。

 次に、みことばは何と教えているのでしょうか?Ⅰペテロ33-4「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」この世では、どんな髪型をするのか、どんなアクセサリーをつけるのか、どんな衣服を着るのか、外面的なものに目が行きます。教会から亀有駅まで行く途中、一体、いくつの美容院があるでしょうか?たまに銀座に行くときがありますが、大きな貴金属店や洋服店が立ち並んでいます。何も、お化粧したり、着飾ることが悪いとは言っていません。「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」と言われています。女性の最も麗しい飾りとは何でしょうか?ジュエル、マスカラ、ネイル、あるいはストッキングでもありません。内面からにじみ出てくる「柔和で穏やかな霊」です。これが一番の飾りであります。英語の聖書は、meek and quiet、「謙遜で静か」あるいはcalm and gentle、「穏やかで優しい」とも訳されています。逆な言い方をすると、ヒステリーであったり、怒りっぽくないということです。たまに、ひとこと言うと、10倍くらいに返してくる女性がいます。箴言219「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。」と書かれています。「柔和で穏やかな霊」と言いますので、これは御霊の実、聖霊がその人に与える人格的なものです。生まれつき穏やかで控え目の人もいます。しかし、これは聖霊が与える人格的な実であります。心の中の隠れた人柄こそが大事であり、神の御前で価値ある飾りなのです。

 ペテロは56節に、その代表的な人物をあげています。「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。」このみことばを読んで、「ああ、むかしの話でしょう?今は違うわ!」と思うでしょうか?テレビで、「男性は得だ。女性に生まれて損している」アンケート調査がありました。それを道行く女性たちに聞いてみました。7-8割くらいの女性が「そう思う」と答えました。確かに男性は素顔で良いし、横暴な振る舞いが許される場合があります。しかし、男性が得しているか、女性が得しているか議論しても始まりません。もう、女性に生まれたのだったら、これは神さまのみ旨として受け入れるしかありません。ペテロは女性に生まれたなら、「サラの子どもとなりなさい」と教えています。サラはアブラハムを主と呼んで従ったと書いてあります。主とは主人と言う意味です。現代は、自分の夫を「主人」と呼ぶでしょうか?あだ名で呼んだり、よくて「旦那」でしょうか?もし、夫を「主人」と呼ぶなら、自分が奴隷みたいに感じるかもしれません。ペテロはサラのことをとっても称賛していますが、創世記を読むとサラはとっても人間的です。自分に子どもが与えられないので、そばめのところに入りなさいと勧めたのは、サラです。そばめに子どもが生まれて、そばめの態度が大きくなりました。サラはイヤになり、今度はアブラハムに「そばめと子どもを追い出してくれ」と頼みました。では、サラがアブラハムを主と呼んだ、その背景はどのようなものだったのでしょうか?創世記1812-13それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。」サラはアブラハムを確かに「主人」と呼んでいます。しかし、この背景を見ると、「サラは自分も年だし、夫も年だよ。子どもなんか産めませんよ」という不信仰があります。その中で「それに主人も年寄りで」と呼んだのです。尊敬のことばの中に、皮肉が2割くらい入っているのではないでしょうか?はっきり言うと、聖書の基準はその程度なのです。その程度で、敬虔な婦人と呼ばれるのです。でも、前半の教えは、心にとめるべきです。「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。柔和で穏やかな霊という朽ちることのない心の中の隠れた人がらを飾りする」ということです。

2.夫たちよ

 Ⅰペテロ37「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」夫に対してはたった1節です。なぜでしょう?男は単純だからです。もし、隣の人が男性だったら「あなたは単純なんですね」とおっしゃってください。そうです。男は単純なんです。どういう意味で単純なのでしょうか?まず、脳のしくみが単純です。女性は左脳と右脳を結ぶ、海馬というのが男性よりも太いそうです。簡単に言うと、左脳と右脳をつなぐ情報のパイプが太いということです。だから、一度でたくさんの情報が、右から左、左から右へと移動できるということです。女性は一度で複数のことが考えられますし、一度で複数のことが可能です。テレビを見ながら、洗濯物をたたみ、子どもと会話ができます。しかし、欠点は一度にたくさんの情報が飛び交うので、パニックになりやすいということです。男性の場合は、左脳と右脳を結ぶ、海馬が細いので、一回で一つのことしかできません。数年前、朝、この礼拝堂で祈っているときです。ガシャンと自転車がこける音がしました。窓から下をのぞくと、男性が携帯を握り締めながら、倒れていました。おそらく、携帯をしながら運転していたので、何かに躓いたのでしょう。男性は一度で複数のことを行うのは無理なのです。魚を焼いて、味噌汁の鍋をかける。そして、フライパンで何かを揚げているとします。味噌汁とフライパンに集中しています。「あれ?魚焼いていたんだ!」と気づいた時は、魚が黒こげということがよくあります。しかし、男性の長所は、1つのことに集中できるということです。そして、一度にたくさんの情報が飛び交わないので、パニックにもなりにくいということです。目の前の1つのことをこなしていくということです。

 そういう脳内の構造はさておき、みことばを見たいと思います。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」ここで、第一に気づくべきことは「妻が女性である」ということです。長年。連れ添った人は、「妻が女性であるということを」と認めるべきです。その次は「自分よりも弱い器だということをわきまえて」とあります。「えー?本当に弱いの?」という疑問が起こるかもしれません。「戦後、靴下と何とかは強くなった」と言われてしばらく経ちます。韓国は儒教の国で男性社会でした。しかし、最近は立場が逆転しているようです。夫が家に入れてもらえなくて、ドアの外で泣いている映像を見たことがあります。日本はどうでしょうか?女性が社会に進出していますので、男性を頼らなくても生きて生ける時代です。そして、職場における男女平等が叫ばれていますので、女性が弱いとは思えない時代かもしれません。女性の方も「男になんか負けないぞ」と、それをエネルギーにしています。しかし、聖書は永遠の書物ですので、その真理はどの時代にも通用します。ここでは「自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し」と書かれています。弱い器というのは、長生きするかどうかという意味ではありません。女性は、男性と比べて肉体的に強健ではないということです。どんな時に、「夫は強い器かな?」と自覚するでしょう。まずは、ビンのキャップを開けるときでしょうか?それから、高い棚から、ミキサーなどを降ろすときでしょうか?アメリカでは、レディス・ファーストと言われ、車のドアを開けてあげたり、階段を下りるときは手を差し伸べるようです。とにかく力仕事は男性がやるものだと言うことでしょう。インドネシアのエディ・レオ師からこんな話を聞いたことがあります。あるお家が古くなって、雨漏りがしたそうです。奥さんが、「あなた雨漏り直して」と言いました。夫は「わかったよ」と言ってテレビを見ていました。また、いつの日か雨が降りました。奥さんが「あなた雨漏りを直してよ」と言いました。夫は「あ、わかったよ」と返事はしましたが、そのままでした。とうとう、奥さんが雨漏りを直すために、屋根に上りました。夫はその日も、下でくつろいでいました。ガターンという大きな音がしました。はしごと一緒に、奥さんが屋根から落ちたのです。ひどく腰を打って、歩けなくなりました。その日、以来、奥さんは車椅子生活になりました。ご主人はずっと奥さんのために、車椅子を押すことになりました。

 37「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」その後、何と書いてあるでしょうか?「それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです」とあります。もし、夫が妻に対して「いのちの恵みをとも受け継ぐ者として尊敬しない」ならどうなるでしょう?そうです。いろんなことによって、祈ることができなくなるということです。韓国のチョー・ヨンギ牧師の証です。チョー先生の奥様は音楽家でプライドの高い人でした。それで、チョー先生は、奥様のささいな欠点を攻撃しました。「どかん」とではなく、針で刺すように、あっちこっちと刺しました。すると、奥様はすっかり自信をなくしてしまいました。チョー先生はそれで幸せになったでしょうか?家庭生活どころか、牧会にも支障をきたしたそうです。もう、神さまの前に祈ることもできません。それで、チョー先生は悔い改めて、奥様のことを尊敬し、小さなことでもほめるようにしたそうです。食卓の椅子をそろえただけでも、「ありがとう」とほめました。すると、奥様はだんだん自信を取り戻したそうです。ダムが崩壊するのは、蟻の穴のように小さなところからだそうです。私たちは小さいことがらを無視してはいけません。私も時々、講壇から家内のことを小馬鹿にするような発言をしてしまいます。かなり前ですが、「先生は奥様の悪口を言っても大丈夫なのですか?私にはとてもできません」と言われました。そのときは、「あのくらい平気だ」と思っていました。しかし、その方は他の教会に転会してしまいました。ひょっとしたら躓いたのかもしれません。今、思うと、牧師が妻のことを批判するということは、耐えられなかったのかもしれません。日本では自分の妻のことを「愚妻」とか言ったりします。外国のように、自分の妻を人前では決してほめません。私も古い人間の中に入っていますが、そういう文化の中で育ちました。しかし、悔い改めなければなりません。いや、この際、悔い改めたいと思います。講壇で、あるいは人々の前で、妻を見下げるような悪口は言わないようにしたいと思います。どうか、私のためにもお祈りください。

エペソ5:28「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」とあります。このみことばには、とても思い出があります。座間キリスト教会にいた頃、高橋みおさんというおばあちゃんがいました。教会が大好きで、いろんな集会にも出るし、掃除もよくしてくれました。あるとき、「みおさんは教会に泊りたい。大川先生の娘になりたい」と言いました。「え?どうしたのかな?」と思って聞いたら、ご主人さんからとても迫害されてるようでした。数年後、高橋みおさんがお風呂場で倒れ、そのまま天に召されてしまいました。教会でご葬儀をすることになりましたが、準備をしているとき、そのご主人が教会にやってきました。そして、私たちスタッフにしみじみとこのように語ってくれました。「わしぁ、妻に悪いことをした。聖書に、『自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである』と書いてある。こんなことが書いてあるのかとわしぁ、びっくりした。わしぁ、妻を長い間、いじめてきた。ということは、自分自身を愛さなかったんじゃ。」と、しみじみと告白されました。それから、ご主人は洗礼を受けられました。その後、長男とその奥様、お嬢様と洗礼を受けられました。「大正に生まれた方が、よく悔い改めることができたなー」と思いました。それで、そのおじいちゃんが言われた「妻を愛することは自分自身を愛することである」というみことばを忘れることができません。私の父は酒を飲んでは、母をよくなぐっていました。母は、私たち子どもたちの前で父の悪口を言っていました。私は、良い模範を見て育ちませんでした。そのせいではありませんが、「妻に負けちゃならない。勝たなければならない。やっつけてなんぼ」みたいなところがありました。せっかくクリスチャンになったのですから、このみことばのとおり生きたいと思います。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」みなさんの中には、「今は一人です」「まだ、一人です」とおしゃる方もおられるかもしれません。どうぞ、そういう方も、神さまからの心の癒しと希望をいただきましょう。

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2012年6月 3日 (日)

キリストの模範      Ⅰペテロ2:2:18-21

 聖書は奴隷制度を容認しているかというとそうではありません。しかし、いきなり社会制度を変えるのではなく、福音を伝え、人々の価値観を変えてから改善するというやり方です。当時、ローマの人口の三分の一が奴隷であったと言われています。戦争で負けると奴隷になるしかありません。でも、当時の奴隷はご主人の家の仕事、家事、家庭教師、すべてを任されていました。ある奴隷は主人のからお金を預けられて商売をしていました。本書に出てくる「しもべ」は家内奴隷であり、家の召使いでした。良い主人もおれば、悪い主人もいるでしょう。現代の私たちに適用するとどのようになるでしょうか?もし、横暴な上司に巡り会ったら、毎日が不幸になるでしょう。どのようにしたら、横暴な上司の不当な扱いに対して、勝利できるのでしょうか?

1.神の前における良心

 もし、自分が召使いだったら、どうでしょうか?「やっぱり、善良でやさしい主人であれば、良いなー」と思うでしょう。ちゃんと自分のことを評価してくれるし、きつい仕事に対しては、その労をねぎらってくれる主人が良いです。逆に、横暴な主人のもとで働くことになったらどうなるでしょう。きっと、毎日が不幸でしょう。「横暴な」という、ギリシヤ語のことばは「厳格な、頑固な、無情な」という意味があります。ある英語の聖書は「へそ曲がり、偏屈」となっています。「この前は、こう言ったのに、きょうは違うことを言う」主人。自分のやり方とちょっとでも違うと、全部やり直しさせられる。気分次第で、コロコロ変わる主人です。一生懸命がんばったのに、感謝もしてくれない。調子に乗って次から次と無理難題を押し付ける主人。このようなことを言うと、「ああ、昔、そういう上司がいたなー」と、思い出すかもしれません。「いや、今の上司がまさしくそうだ」と思っておられるでしょうか。私は建設会社に勤めたことがありますが、最初の現場は東北高速道路でした。所長はおおらかでとてもやさしい人でした。工事主任は器が大きくて、全部、私たちに任せてくれました。とっても良い現場でした。ところが、その次に配属されたのが、筑波学園都市でした。そこの所長はとってもケチで細かい、偏屈おやじでした。工事主任はリーダーシップのない人でした。その現場は待遇も非常に悪く、下請けの労働者と同じ食堂で食べ、同じ風呂に入りました。だから、労働者たちからなめられました。所長や主任次第で、「最善にもなるし、最悪にもなるんだなー」と思いました。

 19節には「不当な苦しみを受ける」とあります。みなさんの生涯の中で、不当な苦しみを受けたことはないでしょうか?あるいは虐待されたり、人格を傷つけられたことはないでしょうか?多くの人たちは、理不尽なことに対して、心の傷があります。両親から理不尽な扱いを受けた。学校の先生から不当な扱いをされた。子どもの頃、権威ある人たちから、ひどい扱いを受けるとどうなるでしょうか?自分が大人になると、まわりには権威ある人、敬うべき人たちが、当然いるでしょう。それが会社の上司、何かの先生、何かのリーダーだとします。もし、傷があると、ちょっとのことで「ああ、ひどい扱いをされた」「ああ、私のことを理解していない」「ああ、横暴で、身勝手だ」と過剰に反応してしまうでしょう。また、そういう人は、心の底に恨みや怒り、反抗心があります。相手がひどい人だと思うと、そういう感情が少なからず出てきます。「むっ」とした顔になるでしょう。すると、会社の上司、先生、リーダーは、何と思うでしょうか?「こいつは、反抗的だなー。何だ、その態度は・・・」と、意地悪したくなります。つまり、上に立つ人は、自分が持っている権威や権力を用いて、反抗的な人をやっつけたくなるのです。そこまでいかなくても、良いことをしてあげたり、便宜をはかったりはしません。そのまま、両者の関係が続くと、最後にはひどい状態になります。確かに悪いのは上司なのですが、自分が上司の悪いものを引き出している場合があります。何が原因しているのでしょう?自分が権威者に対して傷があり、そのため上司を敬えないからです。上司にしてみれば、自分を敬っていない部下には、良いことをしたいとは思いません。では、心にもないことを言って、ゴマをするのでしょうか?確かに、本心を隠して、世渡りの上手な人もいます。しかし、そういう人は、家庭にしわ寄せが行くでしょう。こんど、自分が上司になると、その恨みを部下に晴らすかもしれません。

 では、どうしたらそういう悪循環から解放されるのでしょうか?聖書は何と言っているでしょうか?18-19節「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」ここには、どんな主人に対しても、「尊敬の心を込めて服従しなさい、従いなさい」と言われています。それだけではありません。「神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」とあります。20節にも「それは、神に喜ばれることです」と「喜ばれる」が二度出てきます。心理学的に言うと、上司との関係が悪い人は、自分との父親との関係が悪い人に多いようです。なぜなら、最初の権威は父親から学ぶからです。父親を憎んでいる人は、世の中のすべての権威も憎む傾向にあります。同時に、その人は完全な父親を捜し求めています。「この人は、私が敬える本当の父だろうか?」と一生懸命捜します。しかし、この世の中に、100%完璧な人など存在しません。また、この人には「どうせあなたも、悪い指導者でしょう?」と苦い根の期待があるので、どんな上司からも、悪いものを引き出してしまうのです。でも、私たちの神さまはどういう神さまでしょうか?私たちの神さまは完全な父です。そして、パウロが言うように、すべて世の中の権威は、神さまが与えたものです。ローマ131「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」私たちは、神さまのゆえに上に立つ権威に従うのです。そうするとどうなるでしょうか?Ⅰペテロには「神に喜ばれる」と2回書いてありました。「喜ばれる」は、ギリシャ語で「カリス」と言います。カリスには、「好意、寵愛、恩恵、恵み」という意味があります。英語ではfavorです。favorには、「引き立て、愛顧、えこひいき、偏愛」という意味があります。どうでしょうか?世の中の権威者に喜んで従うならどうなるでしょうか?おそらく、権威者はその人を可愛がり、守ってあげようと思うでしょう。しかし、自分の権威に従わなければ、良くて普通、悪くて冷遇するでしょう。決して、良くしてあげるとういことはないでしょう。なぜなら、その人は自分の権威によって、その人に良くしてあげたいとは思わないからです。結局は、その人は、どこに行っても、だれが上司だとしても、そういう運命、そういう環境を拾っていくしかありません。

 では、どうしたら良いのでしょうか?何べんも言いますが、この地上に、まことの父、100%完璧な父は存在しません。私たちが必要なのは天の父です。このお方は、100%完璧な、愛の持ち主です。ペテロは何と言っているでしょうか?「神の前における良心のゆえに」と言っています。原文は、良心ではなく「意識」とか「自覚」です。私たちは地上の権威者、たとえばそれが、上司であろうと何かの先生、指導者であろうと関係がありません。権威者の背後には、父なる神さまがおられます。父なる神さまを意識することがとても重要です。そして、「目の前の権威ある人に従うということは、それは、神さまに従うことなんだ」と考えるべきです。しかし、そのように従っても、その人は自分を不当に扱い、冷遇するかもしれません。まさしく、ここにあるように「善を行っていて苦しみを受ける」かもしれません。でも、耐え忍ぶならどうなるでしょうか?「神さまに喜ばれる」と書いてあります。神さまに喜ばれるとは、「神さまの好意、神さまの愛顧、神さまの恩恵が得られる」ということです。簡単に言うと、神さまが特別に報いてくださるということです。私たちはどうしても、目の前の上司、目の前の権威ある人から、何とかしてもらわないと気がすまないかもしれません。でも、それはいずれ受けるものと期待して、神さまから、その報いを求めるのです。そうやって、不当な苦しみを忍んでいくなら、どうなるでしょう?いつの日か、横暴な主人が悔い改めるでしょう。「ああ、私はこの人に、不当なことをしているかもしれない」と。しかし、それは、わかりません。ただ1つ確かなことは、あなたは目の前の横暴な主人から解放されることは確かです。その人が、善良で優しかろうが、あるいは横暴で偏屈だろうが関係ありません。あなたはどんな主人に対しても、主に仕えるように仕えていけるからです。旧約聖書にヨセフという人物が出てきます。彼は兄弟たちのねたみを買って、エジプトの奴隷に売り飛ばされました。ヨセフはポテファルの家の奴隷になりました。創世記392-4「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプトの主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の財産をヨセフの手にゆだねた。」アーメン。主はヨセフと共にいて、ヨセフに良くしてくれました。ヨセフの主人は、そのことが見えたので、ヨセフを信頼して、全財産を任せました。私たちも、人に権威を与えた神さまを認め、神さまの御目のもとで、権威者に喜んで従うのです。そうすると、神さまが恵みを与えて、報いてくださいます。権威者の向こうにおられる神さまを意識して生きるときに、私たちは解放され、やがては、良い運命を刈り取ることができるのです。

2.キリストの模範

 Ⅰペテロ221-23「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」プロテスタント教会では、キリストの贖いついては強調しますが、キリストの模範ということはあまり強調しません。何故かというと、キリスト教の歴史の中で、そういう異端がいくつか生まれたからです。もちろん、私たちはキリストに倣うことによって、救われるわけではありません。しかし、救われた後は、キリストに倣うということが求められています。では、ペテロが強調したいことは、どのようなキリストに倣うということなのでしょうか?文脈から、横暴な主人のもとで、不当な扱いをうけたしもべに対して語られていることが分かります。イエス様が苦しまれた第一の理由はもちろん、私たちを贖うためです。しかし、イエス様がこの地上に肉体を取って、同じような苦しみを味わいました。それは、私たちを理解し、私たちを慰め、私たちに解決の道を示すためでもありました。私たちが不当な苦しみを受けて悩んでいるとき、私たちのように苦しまれたイエス様のことを思うとどうなるでしょうか?イエス様は人々に福音を語り、人々の病を癒し、助け、導きました。1つも悪いことをしなかったのに、ののしられ、打ち叩かれ、最後には十字架につけられました。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されなかったのに」です。普通だったら、ののしられたらののしり返す。苦しめられたら、「やめろ!」と、おどすでしょう。しかし、イエス様はそれをしませんでした。

 イエス様は弱かったから、仕返しをしなかったのでしょうか?イエス様は崇高な道徳家だったので、耐え忍ばれたのでしょうか?そうではありません。23節後半には「正しくさばかれる方にお任せになりました」と書いてあります。正しくさばかれる方とは、神さまのことであります。旧約聖書を見ますと、神さまは復讐の神さまであることが分かります。悪や不正に対しては、必ずさばくというお方です。使徒パウロはローマ12章でこのように述べています。ローマ12:19 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」。アーメン。イエス様が示された模範とは、自分で復讐しないで、父なる神さまにゆだねたということです。聖書は「自分に悪をした人を赦しなさい」とは、ストレートに命じていません。そこには、順番があります。まず、自分で復讐しないで、神さまの怒りに任せるのです。ペテロのように、正しくさばかれる方に任せるのです。その後で、その人を赦し、その人と普通に交わるということです。もし、私たちがその人に恨みや復讐心を持ったままでいたなら、普通に交わることは不可能です。でも、自分に対して行ったひどいこと、悪いことを、神さまにゆだねます。つまり、復讐するのは神さまですから、神さまの怒りに任せるのです。その後は、「おー、ハレルヤ!」とその人と普通に交わります。こうやって生きていると、腹に溜まりません。健康にも良いです。人を恨んでいたり、怒りを持っていると、健康に良くありません。関節痛、心臓病、いろんな病気になります。旧約聖書のダビデはどういう人だったでしょう?。サウルから追われて困っているとき、ナバルという人物が、ダビデをなじりました。ダビデは復讐心を神さまにゆだねました。10日ほどたって、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ」(Ⅰサムエル2538とあります。また、ダビデはアブシャロムから追われて、荒野で疲れ果てているとき、シムイがダビデをのろいました。「出て行け、出て行け、血まみれの男、よこしまな者」と、石を投げたり、ちりをかけました。あとで、ダビデがエルサレムにもどったとき、シムイが「どうか私の咎を罰しないでください」と謝りました。ダビデはその場で復讐せず、シムイに「あなたを殺さない」と約束しました。しかし、ソロモンの代になって、シムイはさばかれてしまいました。ダビデは詩篇17篇で「主よ。聞いてください。正しい訴えを。耳に留めてください。私の叫びを。・・・私のためのさばきが御前から出て、公正に御目が注がれますように」と祈っています。ですから、私たちは怒りや憎しみ、復讐心を温存せず、正しくさばかれる方に任せるべきであります。これが、キリストに倣うということです。

 では、キリストに倣うそのエネルギーはどこからいただくべきでしょうか?みなさんは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをしませんか?「私はイエス様のように寛容に生きるんだ。決して怒らないぞ!」と誓っても、3日持つでしょうか?あるいは、「上司から不当な扱いを受けても、恨んだりしないぞ。神さまにゆだねるんだ!」と誓っても、3日持つでしょうか?おそらく、半日も経ったら、自分の決心をすっかり忘れ、爆発している自分を発見するかもしれません。最後には、「キリストに倣うなんて無理!もう、やめよう」と思うでしょう。イエス様のように「寛容になり、愛の人になろう」と思っても、どうしてできないのでしょうか?それは、私が自分の力でイエス様のようになろうと努力するからです。もし、ある人がイチロー選手のような良いバッターになりたいなら、どうするでしょうか?ユニフォームを買って、顔かたちやスタイルを真似るでしょうか?イチロー選手にそっくりな人もいますが、イチロー選手のようにプレーはできません。イチロー選手のようになるというのは、姿かたちではありません。もし、イチロー選手が私の中に住んでくれたらどうでしょう?イチロー選手が私に能力を与え、力を与えてくれます。もし、私がベートーベンのようなピアニストになりたいとしたらどうでしょうか?髪の毛をもじゃもじゃにして、「ジャジャジャジャー」とピアノを叩けば良いのでしょうか?無理です。しかし、ベートーベンが私の中に住んでくれたらどうでしょう?ベートーベンが私に能力を与え、力を与えてくれます。では、イエス様のようになろうと思うならば、どうしたら良いでしょうか?イエス様が私の中に住んでくれたら良いのではないでしょうか?実は、イエス様は公生涯を始めるとき、聖霊の注ぎを受けました。そして、イエス様は私の中に父がおり、父の中に私がいるとおっしゃいました。イエス様は父なる神さまと一緒に歩み、父なる神さまの力によって生活しました。イエス様が大いなるみわざを行ない、きよい生活ができたのは、イエス様ご自身の力でしょうか?もちろん、イエス様は三位一体の神さまですから、自分の力でもできたはずです。しかし、イエス様は「私は自分からは何事も行なうことができません」(ヨハネ519とおっしゃいました。そうです。肉体を持ったイエス様は人間の代表になり、常に父なる神さまに依存して生きておられました。ということは、イエス様は「あなたもそのように生きれば、良いんだよ」と教えておられるのです。

 パウロはコロサイ127「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いました。また、コロサイ34「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストと共に、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストと共に、栄光のうちに現れます」。もし、クリスチャンであるならば、もれなく、内側にはキリスト様が住んでおられます。私たちが自分の力でがんばろうと私たちが大きくなれば、キリストのいのちは小さくなります。しかし、私たちが小さくなるならば、キリストのいのちが大きくなります。この世の人たちは、「頑張りなさい、頑張りなさい」と言うでしょう。しかし、聖書は「頑張らないように、頑張らないように」と言っています。そうではなく、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みなのです。あなたの内から、キリストが現れるようにキリストにゆだねなさい」と言っているのです。自分の意思や力でイエス様に真似ようとすると必ず失敗します。イエス様が父なる神さまにいつも頼っていた、そのライフスタイルを真似るのです。同じように、私たちも「イエス様、イエス様」と頼っていくならば、イエス様があなたの内側から現れてくるのです。イエス様が現れたならば、結果的に、あなあなたは寛容で、愛の人になっているのです。道徳や倫理は外側から「ああしてはいけない、こうしなさい」と、人々を変えようとします。しかし、聖書は修養や改善を言ってはいません。イエス様を信じて、霊的に新しく生まれ変わることを求めています。イエス様を信じたら、聖霊によってイエス様が心の中に住んでくださいます。あなたが意識すべきことは、「イエス様、どうか私の内側から働いてください。あなたの知恵をください。あなたの力をください」と願うことなのです。そうするならば、あなたの内からイエス様が現れて、結果的に、あなたはイエス様に倣う人になっているのです。「主イエスと共に歩きましょう、どこまでも。主イエスと共に歩きましょう、いつも。うれしい時も、悲しいときも、歩きましょう、どこまでも。うれしい時も、悲しいときも、歩きましょう、いつも。」

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