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2012年5月27日 (日)

愛と賜物の源       Ⅰペテロ4:7-11

きょうはペンテコステ礼拝です。ペンテコステというのは、五旬節の祭りから来ています。イスラエルでは、大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われました。それと重なるように、イエス様が復活した日曜日から、50日目に聖霊が降りました。その日から、キリスト教会の歴史が始まったと言っても過言ではありません。なぜなら、キリストの弟子たちが人格的にも能力的にも全く変わったからであります。イエス様は「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは都にとどまっていなさい」と命じておられました。そして、まさしくそのようになったのです。それが今日まで続いています。ロビーのステンドグラスは聖霊の降臨を象徴しています。本当は炎のような曲線を考えていましたが、予算の都合上なのか設計者が四角い形にしてしまいました。私は、がまんならなかったので、「鳩だけでも入れさせて欲しい」とデザインしました。

1.愛の源なる聖霊

 Ⅰペテロ47-9「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」ペテロはペンテコステの日、「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とヨエル書から説教しました。「終わりの日」がいつから始まったかというと、ペンテコステの日から始まったのです。終わりの時代は聖霊が教会を通して働かれる時代であります。イエス様は「ご自身が成就した贖いのみわざを、世界に広げて欲しい」と聖霊様にバトンタッチしたのです。聖霊は教会に対して大きく分けて2つのことをしました。1つは人々を愛の人にしたということです。イエス様の弟子たちはいつも「だれが一番偉いか」争っていました。怒りっぽい人もおれば、多血質、憂鬱質もいたかと思います。もちろん、性格の一部は生まれつきのものもありますが、聖霊による感化によって変わります。あの弟子たちが愛の人になったということはだれも否定できないでしょう。ヨハネの手紙を見て、あの人が「雷の子」だったとだれが想像できるでしょうか?また、パウロも非常に気性の荒い人でしたが、「愛は寛容である」と始まるⅠコリント13章を書いています。ペテロも目立ちがりやで、後先考えないで行動する人でした。そのペテロが何と言っているのでしょうか?

第一に「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」と言っています。「整えるとか、身を慎む」なんて、ペテロには縁遠いものでした。しかし、聖霊によって変えられたのであります。第二は「互いに愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」。ペテロはイエス様を3度も否定しました。イエス様から罪をおおわれた経験があります。箱舟を造ったノアという人物は、洪水で助かったあと油断しました。ぶどう酒で酔っ払って、裸で寝ていました。カナンの父ハムは父の裸を見ました。しかし、セムとヤペテは後ろ向きに歩いて、着物をかけてあげました。カナンがのろわれ、セムとヤペテが祝福されました。酔って裸になるのは父の恥です。しかし、セムとヤペテは裸を見ないで、着物でおおってあげました。私たちクリスチャンも、兄弟姉妹の罪をさばくのではなく、愛によっておおってあげることが求められています。この愛は、人間の愛ではなく、聖霊さまがくださる愛です。第三は「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」です。私たちはつぶやきがそんなに大きな罪だとは理解できないところがあるかもしれません。Ⅰコリント10章にはイスラエルの民が荒野で犯した罪をしるしています。Ⅰコリント1010-11「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」つぶやくというのは、神さまに文句を言うということです。ほめたたえるというのは、神さまを引き上げるこということです。そして、つぶやくというのは、神さまを天から引き降ろすという意味があります。「神さま、何やってんだよ。私が、そこへ行って代わりに神さまになってやろうか?」ということなのです。なんという恐ろしいことでしょうか?神さまへの反逆、クーデターです。ですから、滅ぼす者に滅ぼされないように、つぶやかないようにしましょう。その代わり、私たちは「互いに親切にもてなし合う」べきです。ペテロは聖霊の賜物を語る前に、聖霊がくださる愛について言及しています。ということは、賜物よりも愛が大切であることを言いたいのです。パウロも「もし愛がなければ、いっさいは無益である」(Ⅰコリント133口語訳)と言ったのはそのためです。

2.賜物の源なる聖霊

Ⅰペテロ410-11「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」「それぞれが賜物を受けているのですから」とはどういう意味でしょう?それは「クリスチャンであるならば、もれなく賜物が与えられていますよ」ということです。賜物はギリシャ語でカリスマと言いますが、多くの場合、聖霊によって与えられる超自然的な賜物のことを指します。神さまはご自身の働きをさせるために、その人に霊的な賜物をお与えになります。「それぞれの人がそれぞれの神からの賜物をいただいているので、それによってからだなる教会の働きをせよ」ということなのです。私たちのからだは、いろんな器官でなりたっています。手もあれば足もあります。目や耳、口、鼻もあります。からだの中にはいろんな内臓や神経、骨格もありますので、種類をあげたらきりがありません。第一ポイントであげました愛は、御霊の実であり、だれでもが持たなければならない聖霊の品性であります。しかし、第二のポイントの御霊の賜物はそうではありません。自分が与えられた賜物にだけ、責任があります。ペテロは「神のさまざまな恵みの良い管理人として」と言っています。これはどういうことかと申しますと、「自分に与えられた賜物を発見し、それを正しく用いなさいよ」ということなのです。福音書にはタラントのたとえが書いてあります。主人はある人には5タラント、ある人には2タラント、ある人には1タラントを預けて、「これで商売しなさいよ」と言って旅に出ました。帰って来たとき、それぞれの人が進み出ました。5タラント預けられていた人は、さらに5タラントもうけました。2タラント預けられていた人は、さらに2タラントもうけました。主人は二人に「よくやった。忠実なしもべだ」とほめました。ところが、1タラント預けられたしもべは、地面を掘って、そのお金を隠しました。主人が帰ってきたとき、1タラントをそのまま返しました。主人は「悪い怠け者のしもべだ」と叱って、1タラントを取り上げて、10タラント持っている者にあげました。これはどういう意味でしょう。1タラントは当時のお金で6000日分の給料でした。そう足りない額ではありません。問題は、神さまから与えられた賜物を活用しないことであります。管理するということは、自分に与えられた賜物を用いるということです。そうしたら、「忠実なしもべだ」ということで、さらに賜物が与えられるのかもしれません。

そのあとに、二種類の賜物が取り上げられています。まず、「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り」とあります。原文は「語る人は、神託のように語れ」という意味になります。神託というのは、「神のお告げ」であります。古代ギリシャにおいて、神託を告げる賢者や巫女がいたようです。彼らはおそらく「神からのおつげがありました」みたいに語ったのでしょう。教会でも「神がこう言われます」と預言するところがあるようです。しかし、それはどうでしょうか?Ⅱペテロ121「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」これは聖書を書いた預言者たちのことであります。ペテロは彼らのように語れというのです。つまり、「神がこう言われます」と当時の預言者たちは語りました。では、教会の説教者や教師はどう語るのでしょうか?それは、「自分の考えや意思ではなく、聖霊に動かされて、神からのことばを語る」ということです。新改訳聖書はもっと意訳して「神のことばにふさわしく語り」となっています。「日本語的にどうかな?」という文章ですが、言わんとするところは分かります。おそらく、神のことばである聖書を、神のことばらしく語るということだと思います。直接、神さまから聞いて語る預言もありますが、神のことばである聖書から語ることが第一であります。私が何故、この講壇に立っていられるのか?その理由は、私が聖霊によって神のことばを解き明かしてもらって、神さまのメッセージを取り次いでいるからだと思います。私が講壇を降りて、食堂や家で話す日常会話は、90%が私の思いであります。「え?」と躓かれる方がおられるかもしれません。しかし、私が講壇で準備した説教を語るときは90%が神さまのみこころであると信じています。残念ながら、ここはどうしても伝えたいと私が頑張るとき、肉的なものが出てきて、50%くらいになることがあるかもしれません。だから、頑張らないで、神さまから与えられたメッセージを語れば良いのです。ハレルヤ!でも、どうしても力が入るときはあります。聖霊様の熱心さもあるかもしれません。

第二の賜物は、奉仕者です。日本語で奉仕というと「ただ働き」というニュアンスがありますが、英語の聖書ではミニスターとなっています。ミニスターは、大臣、公使、聖職者という意味があります。しかし、本当は、仕える者、給仕する者、世話する者という意味です。要は、神さまから与えられた奉仕であるならば、低いも高いもないし、粗末だとか尊いということもないということです。ペテロは「奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい」と言っています。奉仕の源はどこにあるでしょうか?「神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕せよ」というのですから、神さまにあります。大体、この世の働きは、生来の賜物や能力に負うところが多いと思います。小さい時に、そろばん塾とか、ピアノのけいこに通った方もおられるでしょう。スポーツにおいても体力やわざを身につけます。基礎的なものと専門的な知識を得るために学校にも行きます。あとは、世の中で経験を積んでいっぱしのその道のプロになります。10年間くらいやったら、専門家になれるかもしれません。さらに、いろんな資格もとるし、何かを身につけるでしょう。そういうものを含めて、私たちは「こういうものができますよ」という人になります。だいたい、そういうものを履歴書に書いて、自分を売り込むわけです。でも、クリスチャンになってから、聖霊がくださる賜物は、多くの場合、履歴書に書けないものです。なぜなら、この世の仕事と違うからです。

どうでしょう?ご自分がクリスチャンになってから、神さまによって与えられた賜物というものを発見しておられるでしょうか?そして、その賜物を生かして奉仕をしておられるでしょうか?昨年、カメイ先生が来られ「賜物の発見」についてセミナーをもってくれました。その後、高柳姉が一生懸命、データーを整理してくれました。そういうところに現れた賜物こそが、生来の才能や能力とは別の、聖霊様がくださった賜物であります。神さまはその賜物を用いて、仕えてもらいたいと望んでおられるのではないでしょうか?私たちは仕事や家事など、自分の生活ですべきことがたくさんあります。その分野の才能や能力がなくても、お金のために仕方なくやっているものもあるでしょう。また、教会につながり、何らかの奉仕に携わっているかもしれません。そう生活の分野を全部含めて、神さまからの賜物を本当に活用しているかどうかです。もし、仕事は仕事、賜物は賜物と分離して考えるならば、淋しいですね。もしかしたら、仕事の中にも神さまの賜物を発揮できるかもしれません。当然なことですが、教会の奉仕の中に、神さまの賜物を発揮できるかもしれません。ある人は、この世の仕事とは全く、別な奉仕の場があるかもしれません。アメリカの教会ですが、普段は弁護士として働いている男性が、日曜日になると知的に障害をもった子どもたちを世話しています。子どもたちが男性の上に馬乗りになり、汗だくになってナーサリーの奉仕をしているわけです。神様が不思議なことに、「あなたは、この分野の奉仕をしなさい」と賜物をくださるということです。

現在、CSで奉仕をなさったり、奏楽や受付をなさったりしておられる兄姉がおられます。教えも伝道も、与えることも大歓迎です。他に慈愛や預言、異言、宣教、牧会、管理、補助・・・いろんな奉仕があります。どうぞ、キリストのからだなる教会において、チャレンジなさられたらどうでしょうか?もちろん、この賜物は職場や家庭や地域社会にも活用できます。「私のは1タラントだ」と地面に隠さないで、ぜひ、活用されたら良いと思います。神さまは「どんな偉大なことができたか」聞きません。そうではなく、「与えられた賜物にいかに忠実であったか」を問われるのです。

3.愛と賜物のゴール

 第一のポイントは聖霊の実である愛でした。これは人格的なものです。第二のポイントは聖霊の賜物でした。これは働きや奉仕です。それら2つのゴール、愛と賜物の目標は何なのでしょうか?Ⅰペテロ411の後半「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」たとえば、愛の源が自分の道徳性や品性であったらどうでしょうか?この世では、「人徳だからね」とよく言ったり、言われたりします。クリスチャンになる前から、穏やかで愛のある人がおられます。そういう人は、聖霊の助けなしに、そういう品性が生まれつきある人です。もし、そういう人が人から「あなたの人柄はすばらしいですね」とほめられたらどうなるでしょうか。その人は「私の人徳かな?」と、神さまではなく自分のせいにするでしょう。つまり、栄光を神さまではなく、自分に帰してしまうということです。もちろん、両親から愛されて、心に傷のない人は、健全な人格を持つことができるでしょう。でも、御霊の実は生まれつきの人格以上のものです。生身の人間は自分の敵を愛することは不可能です。「自分の隣人を愛し、敵を憎め」というのが人間の限界です。しかし、イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。自分を愛してくれる人を愛するのはだれでもできます。しかし、自分に敵対し、悪いことを言ったり、行ったりする人をどうして愛することができるでしょう。私は今でも高校のときを思い出します。修学旅行に行った先で、バスケットをやっている同級生から膝蹴りを食わされたことです。みんなでしゃがんでガイドの話を聞いているとき、後ろから彼の肩に手を置いただけなのに、膝蹴りを食わせやがって! 40年前のことなのに、今でも忘れません。私は復讐心を抱いて人を殺す人の気持ちが良くわかります。しかし、クリスチャンの場合は、イエスの御霊が宿っています。では、イエスの御霊が宿っているだけで、憎しみから解放されるのかというとそうでもありません。やっぱり、聖霊様を認めて、ゆだねて、イエス様が現れるように願う必要があります。自分が小さくなって、イエス様が大きくなる。そうすると、生まれつきの人格ではなく、超自然的な神の品性が現れるのです。私はそうなるように、御霊によって歩むことを心がけています。キリスト教は道徳ではありません。奇跡です。そうすると、「これは自分ではなく、神さまのゆえなんだなー」と神さまをほめたたえたくなるのです。

 もう1つは聖霊の賜物です。うまれつき才能がある人がいます。また、一生懸命、夜も寝ないで、人の何倍も努力して身につけた能力があるでしょう。スポーツ選手、芸術家、ビジネスマン、職人、技術者。そういう人たちはだれをほこるでしょうか?自分を誇るでしょう。歌手などは、観客からもらう拍手喝采が命です。スポーツ選手も応援してくれる人がいるので一生懸命、パフォーマンスするところがあります。この世では、人々から称賛されることは悪いことではありません。もうすぐオリンピックがありますが、メダルを取り、高いところに立つことを願って頑張るでしょう。でも、ほとんどの場合は、栄光が神さまではなく、自分に行きます。「みなさんのお陰です」と口では言うかもしれませんが、「俺がやったんだ。私がやったんだ」と思うでしょう。しかし、御霊の賜物は元来、自分にはなかった能力です。少しは努力したかもしれませんが、神さまから一方的に与えられた賜物です。賜物は英語ではギフト、贈り物です。もらったものですから、自分を誇ることはできません。では、何のために神さまがその人に与えたのでしょう?それは神さまのわざを行うためです。だれが行うのでしょうか?その人を通して、神様が働くためです。だからその人は道具であり、器なのです。道具や器は自分を誇ることができません。それを用いてくださるお方がすばらしいのです。もし、その人が神さまではなく、自分を誇るならどうなるでしょう?それは神さまの栄光を盗んだことになります。「いや、良いでしょう。少しは私も称賛されたって」と思うかもしれません。しかし、神さまは栄光を人とは分かち合いません。栄光は神さまだけのものです。もし、私たちが「やるべきことをしたに過ぎません」と、ふつつかなしもべとして奉仕するならば、生きている限り用いられるでしょう。

 この間、朝、中川を散歩していて、ツバメを見ました。ツバメの羽は独特です。早く飛べるし、急旋回することもできます。そうやって、空中に飛んでいる虫を捕まえるのでしょう。私はものすごいスピードで飛んでいるツバメを見て、神さまをほめたたえました。「神さま、あなたは小さい鳥にそのような能力を与えたんですね。すごい!」と思ったとたん、嗚咽してしまいました。そして、自分にも神さまは特別な賜物を与えておられるんだ、と思いました。学校時代の勉強やスポーツ、適性検査に左右されないでください。クリスチャンには、もれなく、ペンテコステの霊が注がれています。そして、神さまはあなたを特別な分野で用いるために、特別な賜物を与えておられます。どうぞ1タラント預けられたしもべのように地面に隠さないで、豊かに用いましょう。神さまは忠実なしもべには、さらにプラスして与えてくださるお方です。

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2012年5月20日 (日)

キリスト教倫理      Ⅰペテロ2:11-17

倫理という言葉を聞くと、教会では少々、違和感があるかもしれません。パウロの書簡の場合は、前半は教理的なこと、そして後半は愛とか平和、きよい生活など、倫理的なことが書いてあります。ペテロの場合は、教理と倫理的なことが交互に語られていますので、単純に分けることができません。先週は、私たちは選ばれた種族、王である祭司であることを学びました。そして、きょうの箇所では住んでいる国の中でどのように生きるべきか書かれています。当時は、ローマ帝国が世界を支配していました。ローマはローマ法という、ものすごく整えられた法律がありました。しかし、皇帝礼拝も行われていましたので、クリスチャンとして生き辛くなってきた時代でもあります。日本でもたくさんの法律や条例があります。きょうは、私たちが地上において、最も守るべき基本的な事柄について学びたいと思います。

1.肉の欲を遠ざけなさい

 ペテロはいくつかのことを勧めています。少々、命令調になっていますが、どのようなものがあるでしょうか?11節から12節の中心的な命令は「肉の欲を遠ざけなさい」であります。肉の欲には、むさぼり、不品行、酩酊(めいてい)、争い、偶像崇拝などがあります。たとえば、焼肉バイキングなどに行くと、どうしても食べ過ぎてしまいます。この間、セルの集まりで那須の国民宿舎に行きましたが、バイキングのおいしい食べ方を発見しました。私などは1ぺんで全種類のものを持ってきます。すると、味が混じって、かえっておいしくなくなります。ある先生の食べ方を見て、感動しました。まず、和食のものだけを取ってきて一回、食べます。二度目は洋食とデザートを取ってきます。それだったら、味が混ざることがありません。でも、バイキングは普段の2,3倍は食べるので、むさぼりになるでしょうか?また、この世には性的な誘惑が蔓延していますので、負けてしまうかもしれません。そねみや妬み、憤りも肉の欲に入るでしょう。この世の人たちは、肉の欲で普通に生きています。でも、私たちは肉の欲を何故、避けなければならないのでしょう?ここには2つの理由が述べられています。

 第一は、「あなたがたは旅人であり寄留者である」と書いてあります。私たちは、天の御国を目指す旅人であり、地上では寄留者(エグザイル)です。ということは、肉の欲は消え去るもので、一時的なものだということです。「いや、一時的なものでも良いから、十分満たしたい」というのも人情かもしれません。今、NHKの大河ドラマでは平清盛をやっています。そこに西行という人物が出てきます。彼は清盛の友人で、鳥羽天皇に北面武士として仕えていました。ところが23歳で出家しました。彼の出家の動機は何だったのかホームページに書いてありました。第一は親しい友人が急に死んだという説であり、第二は失恋説です。解説には「西行は単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として歩んだ」と書いてありました。同時代に出家した鴨長明という人がいます。彼は「この世はうたかた(水の泡)のように、消えては結び、結んでは消えて行く」と言っています。もしも、永遠というものがなくて、この世限りの人生だとしたら、彼らのように出家するか、あるいは放蕩三昧で生きるしかありません。でも、地上の人生が永遠の御国へと続いているということが分かったならどうでしょう。短い人生にも意味が与えられるのではないでしょうか?信仰の父アブラハムは、地上では旅人であり寄留者であることを告白していました。そして、出てきた故郷ではなく、天の故郷にあこがれていました。私は1ヶ月前、とってもリアルな夢を見ました。ばっと、目の前に故郷の小高い山とふもとの村落が現れました。川を渡ろうとしましたが、川底には水が一滴もありませんでした。その涸れた川を上って村落に近づきました。よく見ると私の家がありません。生まれ育った家がないのです。そのままあたりを見渡すと、それまであった家までも消えてしまいました。そして、裏山には一本の木もなくなり、赤茶けた山肌に変わりました。「うぁー、これはなんだろう」と驚いて目をさましました。あとから、「やっぱり私の本当のふるさとは地上ではなく、天にあるんだなー」と思いました。みなさん、私たちは天の故郷をめざす旅人であり寄留者(エグザイル)です。

 私たちが肉の欲を避ける、第二の理由は何でしょう?11節後半に「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」とあります。たましいとは、救われた心と霊を指しています。心と霊をまとめたものを、たましいと言って良いと思います。なんと、肉の欲がたましいに戦争をしかけているのです。今、北朝鮮が韓国に戦いをいどんでいるのと同じです。やんや、やんやと挑発しています。肉の欲の背後には何がいるのでしょう?そうです。この世の神であり悪魔が誘惑しているのです。肉の欲をし続けるとどうなるのでしょう?まず、たましいを傷つけてしまうでしょう。そして、たましいを汚し、堕落させるでしょう。そうしたらどうなるでしょう?神さまから離れ、全く、無力な信仰者になってしまいます。元ハーベスト・タイムの中川先生が言っていました。「世の中で最も麗しい人たちとはだれでしょう?」「それはクリスチャンです。」と。「それでは世の中で最も醜い人たちとはだれでしょう?」「それもクリスチャンです」と言われました。堕落したクリスチャンは未信者よりもたちが悪いということです。なぜなら、未信者は「罰が当る」とか言って神を恐れます。しかし、堕落したクリスチャンは神を恐れません。神をなめてわざと罪を犯します。ニーチェのお父さんは牧師でした。残念ながら、ニーチェは大学在学中、神学も信仰も棄てました。やがては「神は死んだ」という学説まで唱えました。最後は気が狂って死にました。ニーチェの哲学に傾倒している人には悪いですが、彼は信仰の道をはずれたのではないかと思います。当時、自由主義神学が盛んでしたが、神はいないという哲学が偶像になったのだと思います。哲学は人間の理性を神としているので、行き過ぎると偶像礼拝になります。

 ガラテヤ517には「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」とあります。みなさんの心の中に、肉と霊との戦いがあるのでしょうか?あるのが普通なのです。全くないと人というのは、イエス様を信じていない未信者です。未信者の心に中には御霊がいないので、このような戦いはありません。ちょっと良心が咎めることもありますが、時間が経つと「ま、良いか、みんなやっているから」となります。しかし、クリスチャンになると心の中に聖霊が宿るので、そういうわけには行きません。聖霊が「そうじゃないよ」と訴えるので、しょっちゅう、苦しい思いがします。心にそういう葛藤があるのは良いことなのです。なぜなら、救われているからです。でも、そのままではいけません。肉に負けさせて、霊に勝ってもらわなければなりません。では、どうしたらそのようになれるのでしょうか?それは肉に栄養を与えないで、霊に栄養を与えるということです。それは、どういう意味でしょうか?男性でしたら、ポルノでしょうか?そういうものを見ていると肉が太ってきます。女性でしたら、ねたみや恨みを温存していると肉が太ってきます。そして、聖書も読まないでテレビを見たり、雑誌ばかり見ている。祈らないで、人とおしゃべりしたり、インターネットを見ている。すると霊が弱くなります。片や横綱のように太った肉、片や痩せ細った霊です。そこへ誘惑が近づいてきます。「やめて」と霊が、か細い声で止めます。でも、肉はあまりにも強いので、いとも簡単に霊をねじ伏せてしまうでしょう。それではいけません。ふだんから、肉には栄養を与えないで、霊に栄養を与えるのです。肉を餓死させておいて、霊を太らせるのです。そうすれば、いくら、たましいに戦いをいどむ肉の欲がやって来ても大丈夫です。

 結果的にどうなるのでしょうか?ペテロ2:12「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」「りっぱ」というのは、JB.フィリップスはgood and rightと訳しています。「良くて正しい」ということです。どうぞ、どんなときでも、good and right「良くて正しいふるまい」をしていきたいと思います。そうしたら、私たちを悪くいう人たちでさえも、神をほめたたえるようになるということです。

2.王に従いなさい

 ペテロ213-17「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっ、ても、そうしなさい。というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」冒頭でも述べましたが、当時はローマが世界を支配していました。王とは皇帝カイザルです。そして、領土を治めるために総督と軍隊を派遣していました。ある程度の自由は認めていましたが、納税と労役の義務がありました。ローマ法があったとしても、専制君主の国ですから、公平なわけがありません。それなのにペテロは何と言っているでしょうか?「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても・・・、王から遣わされた総督であってもそうしなさい」と言っています。ペテロが何故こんなことを言ったのでしょう?ペテロは福音を伝えるために「キリスト教は決して危険な宗教ではありません。あなたがたに服従しますよ」とローマにへつらっているのでしょうか?それとも、ローマは神の代理者だと勘違いしているのでしょうか?両方とも間違いです。そうではなく、ペテロはローマも神さまが世の中の権威として立てているということを言いたいのです。世の中に完全な政府、完全な法律など存在しません。「清濁合わせて飲む」というのが政治家の理論なようです。しかし、無政府状態、無法地帯であるなら、どうなるでしょう?極端な言い方ですが政府や法律が全くないよりはましなのです。神さまは人間に一般的な恵みを与えました。それは道徳心です。完全ではありませんが、「私生活においても、国家においても正しい生活をしよう」という願いがあります。しかし、敵意や利己的な心もありますので、争いが発展し、戦争になることもあります。そうならないために、法律を作ったり、条約を結んで平和な生活をしようと努力はしています。ペテロは神さまが、ローマが世界を支配していることを許しておられることを認めています。そして、条件付ではありますが、人の立てたすべての制度に王や総督に従いなさいと言っています。

 では、どんな条件なのでしょうか?ここに「主のゆえに」とあります。主のゆえに、というのは、「神さまがローマにある程度の権威を与えていることを信じる」ということです。主のゆえに従うのです。イエス様はマタイ5章でこのように教えておられます。マタイ5:41「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」当時、ローマ帝国は、被占領国で労働を強制させることができました。何か不足が生じると、だれにでも、強制的に、食物、宿舎、馬、助力を提供させました。クレネのシモンはこのような強制によって、イエス様の十字架を運びました。1ミリオンとは、1480メートルに相当するそうです。2ミリオンだと約3キロです。二倍行くということは、イエス様は「強いられた心ではなく、自由な自発的な心で積極的に従うように」と勧めているのです。「主のゆえに」とは、イエス様が許されているのだから、上の権威に積極的に従いなさいということです。それでは、クリスチャンとして国旗掲揚をしたり、君が代を歌うべきなのでしょうか?日本は第二次世界大戦という不名誉な過去がありました。そのとき、日の丸を掲げて世界中を侵略しました。そして、天皇陛下を神に奉り立てて、君が代を歌いました。戦争に敗れた後、天皇陛下が人間に戻りました。ですから、ある人にとっては、日の丸も君が代は、大変イヤなものなのかもしれません。しかし、日の丸は第二次世界大戦の前からありました。君が代はどうでしょうか?欧米の国歌の多くは、民衆が独立と自由を勝ち取った歌であります。しかし、日本の場合はなしくずし的に、天皇に歌った歌をそのまま使っています。君が代は、歌詞は古今和歌集から取られ、イギリスのフェントンが作曲し、あとで日本人が作曲しなおしたようです。「君」だれなのか?ある人は「作曲者が主イエス・キリストのつもりで作ったのでは?」と言います。もちろん、それは定かではありません。私たちは主にあって、国家も歌って良いのではないかと思います。もちろん、国旗を礼拝したりはしません。

 60年代のローマはだんだん、皇帝礼拝を強いるようになってきました。ネロ皇帝によって、パウロやペテロが殉教したといわれています。そういうことになっても、キリスト教会はローマに従うべきなのでしょうか?それは「ノー」です。国家が神さまの領域を超えた場合は、断じて、従ってはいけません。だから、イエス様の使徒たち、および教会教父たちは殉教していったのです。「他のことは従いますが、これだけは従えません」と断ったのです。ヨハネによる黙示録はローマの迫害時代に書かれた預言書です。この預言書は悪魔化したローマが背景にあります。終末には、これがさらに大きくなり、「獣を拝め」という世界的国家が出現すると預言されています。現代でも、キリスト教の信仰が許されていない国家がたくさんあります。共産国とイスラム圏の国々です。中国は公には宗教の自由を認めていますが、教会で共産主義を批判したら逮捕されます。トルコなども観光で行くなら最高ですが、宣教が最も厳しい国の1つです。インドネシアはイスラムが国を支配しています。キリスト教会がものすごく迫害されていますが、軍隊は見て見ぬふりです。ウクライナのキエフはリバイバルが起こり、キリスト教国になるところでした。しかし、勢力が逆転され、ロシア側に戻りました。指導者のサンディ・アデラジャ牧師が逮捕されたと聞いています。国家のことを全く関知しない教会もあります。でも、「信仰は個人のものだからと政治のことは関知しない」となったらどうなるのでしょうか?ナチス・ドイツが支配していたとき、教会はダンマリを決め込んでいました。ボンフェッファーのように戦った牧師はほとんどいませんでした。日本でも大戦中は教会が日本基督教団1つにまとめられました。そして、礼拝の中で君が代斉唱、国旗掲揚、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)が行われたと聞いています。ホーリネス系の教会が反対して、100名以上の教職者が治安維持法違反で検挙されました。それに対して、教団の幹部らは政府に「不純なものを除去してくれて感謝しています」と答えたそうです。教団の代表は、検挙された牧師たちに「自発的に辞任しなければ、身分を剥奪する」と言ったそうです。韓国の教会は血を流して抵抗しましたが、日本の教会は妥協してしまいました。平和な時代には、「戦争反対」「信教の自由」とか言えますが、いざ、国家権力のもとで支配されてしまうと、簡単にはいかないでしょう。残念ですが、この世からだけではなく、教会内からも、迫害される場合があります。

 ペテロは結論的に、何と言っているのでしょうか?216-17「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」私たちはこの国にいても、本当は自由であり、自由人なんだということです。ペテロはどうしてそのようなこと言えたのでしょうか?イエス様はマタイ10章でこのように言われました。マタイ1028「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」アーメン。この世の国がどんなに悪魔化して、私たちを迫害しても、殺せるのは肉体だけです。私たちの魂は自由です。私たちの永遠の命は神の御手の中にあります。だから、私たちはどんな境遇の中にいても自由なのです。この世の倫理道徳は人間社会という枠組の中で正しく生きるためのものです。私たちはこの世や社会ではなく、それを越えた神の国に生きています。神の国の法律の中で私たちは生きています。魂はこの世と次元の違うところで生きていますが、肉体的にはこの世で生活しています。確かにこの世は私たちを迫害し、ある場合は自由を取り去るかもしれません。しかし、それは肉体的なものまでであり、魂まで束縛することはできません。極端に言えば、私たちは神をおそれ、神さまの御目のもとで正しく願うことを求めれば良いのです。もちろん、私たちはこの世の法律や習慣を守る努力はします。しかし、この世の風習や価値観のゆえに、疎外されたり、迫害されることがあるかもしれません。そういうものは、甘んじて受けるしかありません。でも、私たちの魂、私たちの信仰を捨ててまで妥協してはいけません。この世において、「クリスチャンは、なんと良い人たちだろう」と思われるときがあります。しかし、ある時は、「クリスチャンは、なんと偏屈な人たちなんだろう」と思われるときもあるでしょう。それでも良いのです。パウロはローマ12章でこのように命じています。ローマ12:2 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」JB.フィリップスは「この世の鋳型に押しつぶされてはいけません」と訳しています。「私たちが不自由だなー」と感じるときはどんな時でしょう?それはこの世の価値観や習慣に縛られているときです。この世の人たちにへつらって、貢いでいるからかもしれません。誤解されても、悪く言われても。神さまの御目のもとで正しく生きようと努力していれば良いのです。「というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」とあります私たちは二人の主人に仕えることはできません。一方を重んじたなら、一方を軽んじることになるからです。でも、できるだけ私たちは神さまから与えられた自由と、力を平和のために使いたいと思います。すぐ喧嘩して、すぐ物別れするのは子どもじみています。成熟したクリスチャンは、神の国にしっかりと魂を置きながら、身をかがめて手を伸ばす人です。この世に傷みつけられ、けちょんけちょんにされる時もあるでしょう。たとえ、土曜日に死んだようになったとしても、日曜日の朝、復活のいのちをいただくのです。私たちはこの国に生きてはいますが、本当は神の国で生きているのです。なぜなら、この国、この世は過ぎ行くものであり、神の国は永遠だからです。今週も、神さまの命を豊かにいただいて、日々、勝利して歩みたいと思います。

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2012年5月13日 (日)

王である祭司      Ⅰペテロ2:9-10 

日本人は大和民族と言われていますが、どうなのでしょうか?「大陸から朝鮮半島を渡って来た。」「南方の島から渡って来た。」「北のアイヌと混ざった。」「後からイスラエルの一部族もやって来た。」いろんな説がありますが、単一民族ではないと思います。いろいろ混じり合っているのではないかと思います。鼻が低いし、目も黒いので、アングロサクソンでないことは分かります。日本はモンゴリアンと言われますが、やっぱりアジア系なのでしょうか?日本は島国ですが、大陸では、種族とか部族、国民という分け方をしました。「自分がどの種族、どの部族、どの国民に属しているのか?」ということがとても重要でした。聖書的に、クリスチャンはどういう種族でどういう国民なのでしょうか?

1.私たちの身分

 Ⅰペテロ29前半「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」ここには、4つに分けられています。しかし、これらは全部、イスラエルの民にあてはまることでした。でも、旧約聖書から分かりますようにイスラエルは堕落しました。最後にイエス様がユダヤ人のところにやって来たのに、拒絶されました。少し前の節では、「家を建てる者たちが捨てた石」であると書いてありました。Ⅰペテロ210「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」私たちは以前、神の民ではありませんでした。神のあわれみを受けない異邦人でした。ところが、イエス様を信じたゆえに、神の民となったのです。イエス様が十字架であわれみそのものになったので、私たちはもう、「あわれみを与えてください」と願う必要はありません。なんという特権でしょう。私たちは、新しい神の民、新しいイスラエルとして堂々と胸を張ることができるのです。本来はイスラエルに与えられる呼び名が、私たち異邦人に与えられました。そのことを1つずつ学びたいと思います。

 第一は、選ばれた種族です。種族というのは、「同一先祖から出た者、子孫、一族」という意味です。私たちは、かつてはアダムの子孫でした。アダムの子孫であるならば、罪と死の支配から免れることはできません。アメリカ人であろうと、イギリス人であろうと、中国人であろうと関係ありません。みんな同じような罪を犯し、同じような誘惑に負け、同じようなものを求めます。肌の色や髪の毛は違いますが、私たちと同じように年を取り、同じように死にます。では、選ばれた種族とは何なのでしょうか?イエス・キリストは第二のアダムです。罪と死に勝利し、神のいのちを持っておられる方です。私たちはこの方を信じて、新しく生まれました。もう、アダムの子孫ではありません。キリストにあって神の子どもです。新しい種族なのです。世界には70億人がいるのでしょうか?日本には12700万ぐらいいると思います。でも、人類を2つに分けることができます。アダムの子孫か、キリストある神のこどもか、です。クリスチャンというのは、キリストに属する者という意味です。キリストに属さない者は、アダムの子孫であり、今もなお罪と死の中にいる人たちです。『二つの翼』セミナーでキムソンゴン牧師がこのようなことをおっしゃいました。「あなたのご主人は未信者ですか?もし、そうであるなら、あなたは死人と一緒に暮らしているのと同じです。あなたは死人と一緒に寝ているのです。一日も早く、何とかしなければなりません。」私が直接、言うと怒る人が出るので、他の先生のことばを引用しました。あなたの夫、あるいはあなたの妻は、死人でしょうか?それとも、永遠の命を持つ神の子でしょうか?

第二は、王である祭司です。イスラエルは全世界の祭司として選ばれました。その後、民が堕落して、レビ族だけが祭司となりました。レビ族は世界ではなく、イスラエルの12部族の祭司となったのです。本来、祭司はどのようなことをするのでしょう?神さまと民の間に立って、民をとりなします。また、民が持って来た犠牲を神さまの前にささげます。そして、民に律法について教えます。マルチン・ルターは万人祭司説を唱えました。つまり、すべてのクリスチャンが祭司だということです。ペテロは「王である祭司」と言いました。英語の聖書では、royal(ロイヤル)となっています。直訳すると、王族の祭司です。これはイスラエルやレビ族とは違います。王である神さまの直属の祭司だということです。イエス様も王であり祭司でした。ということは、私たちクリスチャンは、王族の祭司ということになります。まとめて言うと、イエス様と一緒に支配しながら、祭司として国民をとりなすということです。しかし、私たちはこの世においてどのような立場で生活しているでしょうか?ただ、サラリーをもらうためにだけ、仕方なく働いているのでしょうか?そうではありません。私たちはイエス様と一緒に支配しながら、祭司としてとりなすという仕事があるのです。会社でとりなし、家庭でとりなし、地域社会でとりなします。もし、自分の身分を正しく知るならば、おのずと生き方が変わってくるのではないでしょうか?

第三は聖なる国民です。国民は原文では、民族、人民という意味です。これが、複数形になると異邦人、外国人という意味がありました。ここでは「聖なる国民」と単数形になっています。当時はユダヤ人だけが選ばれた国民でした。そして、異邦人は選びから漏れている人たちでした。でも、イエス・キリストを信じると、神の民に加えられます。そして、エペソ2章にあるように、ユダヤ人も異邦人もなくなります。キリストによって民族の壁が取り除かれ、1つとなることができるのです。この地上では、口では「地球という1つの惑星に住んでいる。みんな仲間だ」と言います。しかし、民族間の争い、領土のトラブルが止むことがありません。ますます加熱化しています。先月も、衛星と称するミサイルが飛んできました。途中、海に落下したようですが大変です。朝鮮半島の北と南の緊張が高まっています。日本でも、北方領土、南の尖閣諸島(せんかくしょとう)、東シナ海ガス田の問題があります。君が代を歌うべきか、国旗掲揚をすべきか、いろいろ言う人がいます。しかし、この世はまもなく終るのです。私たちは千年王国を経て、新しい天と新しい地に住むのです。確かに日本に住んではいますが、私たちは聖なる国民、天国人なのです。「日本人としてどう考えるべきか」という文化の問題も教会でも取り上げられます。それよりももっと大事なのは、天国の文化を取り入れて生きることではないでしょうか。

第四は、神の所有とされた民です。これはどういう意味でしょうか?出エジプト195「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」残念ですが、イスラエルの民は、神の契約を守らなかったので、神の民となることはできませんでした。そして、神さまから捨てられてしまいました。しかし、世の終わり、もう一度、迎えるとも書いてあります。では、だれが神の民となったのでしょうか?そうです。イエス様を信じた私たちが神の民になったのです。それは教会です。教会こそが、神が所有とされた民です。聖書では、契約ということばがとても重んじられています。旧約聖書においては、十戒を中心とした契約がありました。新約聖書においても契約がありますが、どのような契約でしょうか?ヘブル915「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」旧約聖書は神さまと人間との契約でした。人間は10度契約を結んでも、10度破ってしまうでしょう。ところが、新約聖書においては、イエス・キリストが神と私たちの間に立って、契約を結んでくださったのです。それだけではありません。初めの契約である十戒の違反をご自身の死によって贖ってくださいました。ですから、私たちは律法の行いではなく、キリストを信じることによって神の民に加えられるようになったのです。これが新しい契約です。しかし、クリスチャンになっても、相変わらず、古い契約の中に生きている人たちがいます。「安息日礼拝を守らなければならない」とか、「什一献金をしなければならない」「奉仕に参加しなければならない」と言います。共通している表現は「○○しなければならない」です。これがひどくなると律法主義になります。礼拝も、献金も、奉仕もすばらしいことです。しかし、これらをしなければ神さまに受け入れられないのでしょうか?そうではありません。主イエス・キリストが私たちのすべての要求を満たしてくださったのです。では、私たちクリスチャンが必要なことは何なのでしょう?それは新しい契約の内を歩むということです。表現を変えるなら、キリストにとどまること、あるいはみことばにとどまるということです。そうすれば、おのずと「御霊によって、信仰によって○○させていただこう」という風になります。キリスト教会は霊で始まったことを、肉によって仕上げるというガラテヤ教会の過ちを繰り返しています。

前半では、Ⅰペテロ19から、私たちの身分ということを取り上げました。4つありました。第一は選ばれた種族です。私たちはアダムの子孫ではなく、キリストの子孫です。第二は王である祭司です。私たちこそ新しいイスラエルであり、世界をとりなす祭司です。第三は聖なる国民です。私たちは神の民となったのですから、天国の価値観のもとで生きるということです。第四は神の所有とされた民です。私たちは仲介者なるキリストの契約によって、神さまのものとなりました。ハレルヤ!アーメン。

2.私たちの職務

Ⅰペテロ29後半「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」前半では、私たちがどういう者とされたのか、身分や特権について語りました。しかし、それには目的があったのです。残念ながらイスラエルは身分や特権の上にあぐらをかいて、その目的を果たすことができませんでした。私たちも「ああ、私は救われて神の民となった。やがては天国で暮らすんだ」となったらどうなるでしょう。「神さまもっと私を祝福してください!天国の豊かな恵みを注いでください」。悪いことではありません。でも、神さまが私たちを祝福する理由は、私たちを通して、この世界を祝福するためです。言わば、私たちは神さまの器であり、神さまは私たち教会を通して、この世に祝福を注ぎたいのです。インドネシアのエディ・レオが来たとき、「あなたがたはペットボトルです」と言いました。20年くらい前、座間のCSキャンプで奉仕したことがあります。そのときは、丹沢のキャンプ場で行いました。帰り、ヤビツ峠というところを通りました。そこに、湧水地の水汲み場があり、おいしい水を4つの口から汲めるようになっていました。多くの人たちが車を止め、ポリタンとかペットボトルに入れていました。しかし、私は何も持っていませんでした。そのとき、座間のCSの校長先生がペットボトルに水を入れて1本くださいました。「わぁ、ありがたいなー」と思いました。今年の正月、家族で河口湖に行ったので、帰り、秦野から丹沢に登りました。ヤビツ峠の水汲み場まで、くねくね道を30分も行かなければなりません。家内と子どもはふもとのそば屋さんに降ろして、いざ出陣です。すでに、3台の車が止まっていました。足もとが凍っていて、あぶなかったのですが、ある人はワゴン車の荷台全部にありとあらゆる入れ物に入れていました。私もポリタンに3つ入れました。これでおいしいコーヒーが飲めます。ヤビツ峠の水汲み場は4つの口から24時間くまなく出ています。しかし、入れ物を持って行かなければ汲むことができません。神さまは良きもので満ちあふれています。その神さまはご自身の器である教会を通して、この世に良きものを届けたいと願っておられるのです。

ペテロは「神さまが一番、私たちにしてもらいたいことは何か」を書いています。「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」私たちは「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」です。本来、イスラエルが世界のためにこのことをなすべきでした。しかし、彼らは堕落してその務めを果たすことができませんでした。では、だれがその務めを果たすのでしょうか?それは新しいイスラエルである、教会であります。キリストのからだである教会がその務めを果たす器となったのです。私たちが神の器として、この世に注ぐ、もっとも重要なものは何でしょう?ここに「みわざを宣べ伝える」と書いてあります。「みわざ」ってなんでしょうか?「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざ」となっています。では、だれが私たちをやみの中から、光の中に招き入れてくださったのでしょうか?父なる神さまであり、イエス様です。イエス様が私たちのために十字架にかかりすべての罪を贖ってくださいました。私たちがこのお方を信じるときに、罪赦され、やみの中から神さま光の中に招き入れられるということです。このことを短く言うと、福音宣教であります。神さまがなされたすばらしいみわざとは、福音であります。私は福音宣教でもっとも重要な立場は、「王である祭司」ではないかと思います。王である祭司とは、キリストと共に支配しながら、祭司のようにとりなすということです。しかし、祭司にはとりなすだけではなく、律法を教えるという職務もありました。新約聖書的に言うなら、福音を宣べ伝え、みことばを教えるということです。神さまはこれらのことを私たち、教会にゆだねておられるのです。支配、とりなし、福音宣教、教えです。これらを別の表現で言うならどうなるでしょう?支配とは神さまの権威を用いるということです。私たちはイエス様の御名の権威を授かっています。この世の罪と悪魔に対して、イエス様の御名の権威を用いることはとても重要です。とりなすということは、祈るということです。天におけるみころがこの地上でもなるように祈るべきです。福音宣教はどういうことでしょう?これは、あらゆる方法を通して、いつ、どんなときでも福音を宣べ伝えるということです。当亀有教会にはいろんなセルや小グループがあります。交わり、学び、音楽、お菓子作り、何でも良いのですが、共通してすべきことは福音宣教です。福音宣教がないとただのサークル、ただの社交クラブになってしまいます。教えとはなんでしょう?これはみことばを互いに教え合う、分かち合うということです。何のためでしょう?みことばは神の真理であり、神のみこころです。そして、私たちがこのみことばによって建て上げられる必要があります。人にもみことばを教えますが、同時に、自分をもその教えによって建て上げるということです。人にばっかり教えても、自分に適用しなければ頭でっかちになり、高慢になります。Ⅰコリント18「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」とあります。知識は実際に行うことによって、本当の知識になるからです。

このようにして、王である祭司は、支配し、としなし、福音を宣べ伝え、教えるという4つの職務を負っています。こう考えると、自分の信仰生活をどのようにすべきでしょうか?「ああ、キリストの御名の権威を用いないで、この世にやられっぱなしだったなー」ということはないでしょうか?一週間、罪と誘惑に負けて、やっと日曜日の礼拝に来る。絆創膏をはがし、癒されて帰る。しかし、月曜日から「誘惑に負けた!傷ついた」と絆創膏をはる。そして、やっとこさ日曜日の礼拝に来て、癒される。この繰り返しだと、この世に支配されていることになります。そうではなく、私たちは権威を帯びて、キリストの御名によって支配する者になるのです。とりなしは祈ることです。当教会には祈祷会がありませんし、祈祷部もありません。伝統的な教会は、水曜日の夜、祈祷会があります。でも、ほんのひと握りの教会員しか来れません。他の人たちはどう思うでしょうか?「ああ、彼らがとりなしているから大丈夫」となるでしょう。とりなしの祈りは専門にだれかがするのではなく、教会員がすべきものです。でも、一人だと弱いので、ニ、三人、心を合わせて祈るなら、祈りが強力になります。福音を宣べ伝えためにはどうしたら良いでしょう?昔はビリーグラハム・クルセードとか大きなホールを借りて、伝道集会を開きました。しかし、お金ばかりかかって、実りが少ないということがわかりました。日本で有効な伝道は、関係伝道だということがわかりました。4月末に岩手の南三陸で奉仕しておられる中澤先生の証を聞くことができました。先生が牧会している仙台西教会から南三陸までは、100キロの道のりがあります。宣教師から応援を頼まれて、すぐ被災地に出向き、それからずっと携わっておられます。田舎は特にそうですが、「講」と言われる強いつながりがあり、個人では決められません。何でも、「講」に相談し、承諾を得なければ、村八分みたいになります。外部の人が被災地にかけつけても、簡単には心を開きません。「神・罪・救い」という西洋的な伝道活動がとても難しいわけです。それで中沢先生は100キロの道のりをひたすら通って、物資を届け、復旧活動を手伝い、いろんな人の話し相手になりました。1年以上たって、やっと認められ、「中澤さんは牧師さんなんでしょう?どうして伝道しなんですか?」と言われたそうです。そして、高校のすぐ下にある地主が、「この土地を提供しますので、センターを作って活動してください」と言われました。中澤先生は「そのお気持ちはわかります。キリスト教でも良いか、どうぞ、ご家族で、そして親戚でお話して下さい」と言いました。いわゆるこう「講」で相談したのですが、みんな「良いよ、どうぞ」と賛成していたということです。早速、そこに建物を建てはじめ、2人の人が常駐することになっています。また、歌津というところも近くにありますが、南三陸町と仲が悪く、全く別のコミュニティを持っています。中沢先生は歌津とも関係があり、センターの話を持ちかけたら、「どうぞ私の土地を」と何名もの方々が名乗り出たそうです。結局、歌津に第二センターを建てることになりました。その土地で最も有力な材木屋さんが「お手伝いします」と言ってくれたそうです。

宣教も教えもそうですが、関係が基盤でないと人々は受け入れてくれません。本当に祈って、仕えて、挨拶して、人々の話を聞いて、やっと福音を聞く基盤ができるのです。日本の福音宣教は人間関係が絶対欠かすことができません。でも、クリスチャンがその土地に入ることにより、人々が永遠に至る希望を持ち、豊かな命を得ることができるなんて何と幸いでしょうか。神さまは個人のクリスチャンと、クリスチャンが組み合わされた教会を用いたいのです。教会という器を通して、この世を祝福し、また神さまの豊かな命を与えたいと願っておられるのです。私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。やみの中から、驚くべき光の中に招いてくださった神さまのみわざを、宣べ伝えて行きたいと思います。

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2012年5月 6日 (日)

選ばれた石       Ⅰペテロ2:4-8 

ゴールデン・ウィークの最後になりました。このたびは、天候は不順であまり良くなかったと思います。私はどこへも行かないで、一番下の子どもの写真を整理しました。9年分もたまっていると、どれがどれだから分からなくなります。ところで、みなさんの信仰生活は安定しているでしょうか?それとも風にゆらぐ葦のように安定を欠いているでしょうか?きょうの聖書箇所には、「石」ということばが何度も出てきます。イエス様は生ける石であり、尊い石です。そして、その上に私たちが生ける石として、のっかったならどうなるでしょうか?やがて、がっちりと組み合わされた、生きた神殿になるでしょう。

1.選ばれた石

旧約聖書において、礼拝において神殿はとても重要なものでした。しかし、イエス様は福音書で、「私は3日で神殿を建てる」と言われました。その神殿とは何でしょう?それはイエス様を信じる人々によって作られる神の宮であります。ペテロは石でできた神殿と、信じる者たちによって作る神殿を比較しています。旧約の神殿は命のない石でできていました。しかし、新約の神殿の石は、生ける石でできています。神殿を建てるときに最も重要なものが礎石でした。礎石は、いしずえの石とも呼ばれており、その石の上に土台が作られます。パウロはエペソ2章でこのように言っています。エペソ220-22「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」パウロも、教会を神殿にたとえています。三位一体の神さまはご自分が住まわれるところを探しています。かつては幕屋や神殿に留まっておられました。しかし、新約の時代は、私たち教会が神殿であり、神の御住まいなのです。個人でも小さな神殿ですが、たくさん集まって大きな神殿になることが重要です。午前の礼拝は大きな神殿になっていますが、これが終ると小さな神殿となっていろんなところに派遣されます。旧約時代の神殿は一箇所にじっと据えられていました。しかし、新約時代の神殿は生きていて、神のみこころのままに活動することができるのです。なぜなら、私たちの内に神さまが住んでおられるからです。

ペテロは「主のもとに来なさい」と呼びかけています。イエス様ご自身も生ける石ですが、私たち一人ひとりも生ける石であります。礎石がイエス様であり、土台が使徒預言者です。その上に生ける石が一個一個、組み合わせられて建物になるのです。私たちは一人でもある程度のことができますが、お互いに組み合わせられることによって、さらに偉大なことができます。では、私たちは一緒に集まって何をするのでしょうか?Ⅰペテロ24-5「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」まず、分かることは、私たちが聖なる祭司だということです。マルチンルターが万人祭司説を唱えました。一部の聖職者だけが祭司なのではなく、私たち一人ひとりが祭司なのです。どんな祭司なのかは次週学びますが、福音を宣べ伝える「王である祭司」と呼ばれています。なぜ、こんなことを言うのでしょう?神さまは最初、イスラエルを神の祭司として選びました。しかし、イスラエルはつまずき堕落したので、私たち異邦人にお鉢が向けられたのです。お鉢なんて、あまり良い表現ではありません。特権であります。私たちはクリスチャンになると、どんなことを求めるでしょうか?「私を祝福してください」「体を癒してください」「もっと与えてください」と、そういう祈りだけだとしたら、間違っています。ペテロは「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」と命じています。何かの間違いではないでしょうか?普通のクリスチャンは「○○を与えてください」と神様に求めます。しかし、ここには「ささげなさい」と書いてあります。つまり、クリスチャンとは受ける人ではなく、与える人だということです。たまに、こういうクリスチャンと出会うことがあります。「教会は○○してくれない」「牧師先生は○○してくれない」と言います。しかし、それは聖書的ではありません。クリスチャンとは、ささげる人、与える人であります。

ペテロは「霊のいけにえをささげなさい」と命じていますが、どういう意味でしょうか?旧約時代は、牛や羊、やぎなどの動物をささげました。しかし、イエス・キリストが一回で永遠の贖いを成し遂げられたので、そういうものは不必要です。では、何をささげるのでしょうか?ローマ12章にこれと似たことばがあります。ローマ121「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ペテロもパウロも、キリストによって贖われた私たち自身をささげなさいと言っているのであります。たとえば、私たちはこうやって日曜日の午前中、ここに来ています。私たちはここで何をしているのでしょうか?牧師のメッセージを聞きに来ているのでしょうか?大変、ありがたいことですが、それがメインではありません。現代はインターネット礼拝というのがあるそうです。個人で、パソコンの前に座って、インターネットで礼拝を守ることができます。文明の利器を用いて何でもできる時代ですが、私は反対です。私はわざわざ時間をさいて、みんなで集まり、賛美をし、礼拝をささげることに意義があると思います。ここに来て礼拝をささげるのと、パソコンの前に座っているのとでは、支払う犠牲の大きさが違います。私たち一人ひとりは生ける石ですが、一個のままでは神殿にはなりません。礎石であるキリストを敬い、その上に私たち一人ひとりが築き上げられるのです。つまり、教会という共同体で神さまにささげなければ意味がないのです。こういうところに来て、時間とお金と体力を使って、礼拝をささげることが大事なのです。でも、それだけではありません。霊的のいけにえとは、私たちの思い、私たちの献身、私たちの愛、私たちのまごころを神様にささげることであります。この世にはいろんな偶像礼拝があります。占いや魔術、オカルトがあります。そういうところに行く人は何をささげるのでしょうか?そうです彼らの魂をささげるのです。もちろん、背後にいる悪魔に対してです。私たちはまことの神さまに、私たち自身をささげるのです。でも、以前の私たちではありません。キリストの尊い血によって贖われた私たちを捧げるのです。古き人が死に、キリストによって新しくされました。するとどうしても、「ああ、救われて良かったなー」という、感謝が出てきます。喜びが湧いてきます。そして、最終的には「主よ、罪を捨てて、あなたに従います。あなたの栄光のため仕えたいです」という思いが出てきます。これこそが、もっともすばらしい、霊のいけにえであります。もちろん、そのことを助けるために、メッセージがあります。でも、メッセージを聞いただけで、神様への応答がなければ、それはただの講演会であります。「良い、話を聞いたなー、恵まれたなー」。しかし、最も大事なのは、私たちの神さまへの応答であります。向こうが私たちを愛しているならば、こちらも「愛します」と応答すべきです。向こうが私たちのことを思って命じているならば、こちらは「従います」と応答するのです。これが、生ける神殿において、聖なる祭司が、神に喜ばれるいけにえをささげるということであります。ハレルヤ!

ペテロは「主のもとに来なさい」と生ける石である私たちに命じています。そして、「霊の家に築きあげられなさい」と勧めています。つまり、クリスチャンは一人ではなく、生ける石どうし、組み合わされて築きあげられなければ神の神殿にはなれません。救われたクリスチャンは生ける石です。でも、生ける石がただ集まっているだけだと、単なる石の山であって、神さまが住まうことができません。そのために、神さまの設計図のもとで、建物になるように互いに組み合わされなければなりません。だからペテロは、「主のもとに来なさい」「霊の家に築きあげられなさい」と命じているのです。相乗効果というのがありますが、一人だと限られことしかできません。いろんな人がいろんなところから来て組み合わされると、すばらしい働きができます。礼拝でも、大勢集まると勢いが出てきます。牧師も2,3人に話すよりも、80名の会衆に話すとやっぱり力が出てきます。賛美や祈りも力強くなります。ですから、クリスチャンが共に集まり、祈りと感謝と賛美をささげることはすばらしいことなのです。そして、このことがこの世に御国をもたらすをための原動力となるのです。昔、塩狩峠という映画で「薪は一本だとすぐ消えるが、二本だと消えない」と言っていました。薪が一本ではなく、何十本を集まったら、ものすごい炎になるでしょう。最後にヘブル人への手紙を引用いたします。ヘブル1024-25「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

2.つまずきの石

26節後半には、イザヤ書と詩篇から、みことばが引用されています。ここには石という言葉が何度も出てきます。6節以降には、5回、岩も含めると6回も出てきます。大きく分けて、石には二つあります。1つは礎石、あるいは「いしずえ」と呼ばれる、建物の土台の石です。そして、もう一つはかしら石であります。かしら石とは、建築の最後を飾って、建物全体を一つに結び合わせる大切な石のことです。もし、切妻の建物であるなら、中央の三角の石です。先ず、最初に27をお読みします。27「したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった』のであって」。これは詩篇118篇からの引用ですが、「家を建てる者たちが捨てた石」とあります。この石こそが、かしら石であります。家を建てる者たちが、建物を完成させるはずの石を「これはいらない」と捨てたのであります。その石はどうなったのでしょうか?その石が別の建物の礎の石となったのです。「捨てる」という同じことばが、福音書にもあります。マルコ831「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」では、家を建てる者たちとはだれのことでしょうか?そうです。「長老、祭司長、律法学者たち」、いわゆるユダヤ教の指導者たちのことです。捨てられたのはイエス様です。イエス様は三日の後によみがえられました。そして、教会の礎の石となったのです。神の民として選ばれたイスラエルは、メシヤであるイエス様を捨てました。そして、イエス様は、神の民として選ばれていなかった異邦人の救い主になったのです。これってすばらしいというか、とっても不思議なことではないでしょうか?「いらない」と言って、捨てられたものが、実は、とてつもなく価値があるものだったのです。

それでは、なぜ、ユダヤ人はかしら石であるイエス様を捨てたのでしょうか?28「『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」同じ石なのに、ある人たちにとっては「救いの石」にもなれば、またある人たちには「つまずきの石」にもなるということです。聖務表の聖書日課では、今、エゼキエル書を学んでいます。エレミヤ書もそうでしたが、ユダの民はなぜ、こうもまた頑ななのでしょうか?彼らは、主の戒めを守らず、偶像に走りました。預言者たちが、口がすっぱくなるほど、警告しても悔い改めない、うなじのこわい民でした。そして、最後の最後に、御子イエス様が神さまのもとから遣わされました。ヨハネ111「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」とあります。これはユダヤ人のことであります。では、なぜ、彼らはメシヤであるイエス様につまずいたのでしょうか?このところには「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」何か、運命付けられていたのでしょうか?一種の呪いみたいなものがあります。つまずきの、一番の原因は「みことばに従わない、従いたくない」ということです。みことばとは、神さまのみこころであり、神さまの命令であります。「みことば、イコール、神さま」と言っても過言ではありません。ユダヤ人がなぜ、メシヤであるイエス様を捨てたのでしょうか?それは、神さまのみことばに従いたくないからです。ユダヤ人たちは自分たちの神さま、自分たちの宗教をこしらえていました。特に宗教的な指導者たちは、それによって地位や富を得ていたのです。もし、イエス様をメシヤとして受け入れたら、すべての特権、生活までも失ってしまうからです。これは、形を変えた偶像礼拝ではないでしょうか?みことばが言う神さまはイヤで、自分流の神さまを拝みたいということです。

教会でも「つまずいた」ということを、たまに聞くときがあります。なぜ、人はつまずくのでしょうか?ジョン・ビビアという人が『人につまずくとき』という本を書いています。まず、つまずきの第一の原因はプライドです。人はプライドにより、自分が犠牲者であるとみなしてしまいます。心の中で、不当な扱いを受け、誤った判断をされたのだから、このような行動に出るのは仕方がないんだ」と自分を正当化します。プライドは、あなたを自由にする心の変化(悔い改め)を妨げます。へりくだりこそが解決の道です。第二の原因は未熟さです。自分を傷つけた人の誤りばかりに目が行き、自分の役割、自分の未熟さ、また自分の罪には決して向き合おうとしません。自分自身の内側を見つめないで、人に責任転嫁してしまうのです。信仰が成長すると、簡単にはつまずかなくなるのはそのためです。第三の原因はサタンの罠にはまる弱さです。サタンは「この人の前に、どんな餌をまいたらつまずくだろうか?」と機会を狙っています。サタンはその人の弱点を良く知っています。どんなことをされたら怒るか、どんなことが起きたらやる気をなくすか知っています。神さまはその弱点から解放されるように願って、そのことを許しておられます。しかし、多くの人たちは、目の前の餌に喰らい付き、魚のように釣られるのです。ジョン・ビビアの本にとても興味深いことが記されていました。イエス様はマタイ15章で「私の天の父がお植えにならなかった木は、根こそぎにされます」言われました。教会やミニストリーチームの中には、神によって派遣されたものでもなく、また神に属するのでもない人たちがいます。真理が語られたときにもたらされるつまずきが、彼らの本当の動機を明らかにし、みずから根こそぎにします。教会を巡回して奉仕する中で、教会を出て行った人たち(教会のスタッフや教会員)のことを牧師が嘆いているのを、多く目の当たりにしてきました。そのほとんどが、真理が語られライフ・スタイルの間違いが指摘されたため、腹を立ててしまったケースです。そして、教会のあらゆることに関して批判的になり、最終的には教会を離れて行きました。牧師が、教会にやって来る人すべてを引き止めようとするなら、やがては真理に妥協しなければならなくなるでしょう。だから私は、いつもこう言って牧師たちを励まします。「もし真理を語るなら、人々を怒らせることになるのです。そして彼らは根こそぎにされ、やがては教会を出て行くのです。しかし、去って行った人のことを嘆き悲しむ必要はありません。むしろ、神が送られる人たちを養い続けることに専念してください。」みことばの前にへりくだり、主だけを見上げて、従って行きたいと思います。

最後に、積極的なみことばでメッセージを終えたいと思います。2 6 「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』」このみことばは、イザヤ書28章からの引用ですが、イザヤ書の方は「これを信じる者は、あわてることがない」となっています。あわてる人は、不安定な人だと言えます。なぜなら、その人の行動は正しく据えられていないからです。こういう人は、迫害や試練の嵐が吹くと、いとも簡単にふらついてしまいます。このペテロの手紙を書いた、ペテロはどういう人物だったでしょうか?イエス様は、ピリポ・カイザリヤで「あなたがたは、私をだれだと言いますか?」と質問しました。真っ先に「あなたは、生ける神の御子、キリストです」と答えました。イエス様は「良く言った。あなたはペテロ(岩)です」と誉めました。その後、イエス様が「苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言いましたが、ペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とたしなめました。イエス様は「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」と叱りました。ペテロは天高く引き上げられたかと思いきや、どん底に落とされました。また、ペテロは荒れ狂う海で、イエス様に「私に来い」と命じてくださいとお願した後、海の上を歩きました。しかし、その直後、波を見て恐れ、海に沈みました。十字架の前、ペテロは「主よ。ご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできています」と誓いました。しかし、イエス様が捕えられ、裁判を受けている時、ペテロは3度も「そんな人は知らない」と否みました。ペテロは大胆ですが、恐れやすい人でもありました。そういう不安定な人だったからこそ、尊い礎石が必要だったのです。

では、どんな人が恐れないで、安定した信仰生活ができるのでしょうか?それは「礎の石、尊い石」に自らを据える人です。しかし、それはどういう意味でしょうか?みことばです。主の口から発せられたみことばに信頼することが重要なのです。ある人は聖書をお守りみたいに、枕の横に置いています。そういうことでは、悪魔はちっとも恐れません。書かれたことばではなく、心に啓示されたみことばこそが石であり、岩になるのです。もし、主が語られたみことばに堅く土台するなら、少々のことではつまずきません。「主がそうおっしゃるので、私はただ従うしかありません」で、決まりです。多くの人たちは、「自分が選択したことが良いか」是認を求めていろいろ相談します。主が何とおっしゃっているのか。主のみことばに土台を置く人は揺るぐことはありません。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」これを信じる者は、あわてることがありません。

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