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2012年4月29日 (日)

純粋なみことば      Ⅰペテロ2:1-3

イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによるのである」と言われました。ということは、私たちは肉体を養う食べ物の他に、魂のための食物があるということです。「心のごはん」と言って良いかもしれません。みなさんは心のごはんを食べているでしょうか?中には、一週間、一食の人もいるかもしれません。もし、一週間に一食しか食べなかったら、どうなるでしょうか?霊的な飢餓状態になり、この世の人と何ら変わらない生活をしてしまうでしょう。きょうは、「純粋なみことば」と題して、霊的な食物の必要性について学びたいと思います。

1.純粋なみことば

Ⅰペテロ21-2「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」「ですから」と書いてありますので、前の部分に対する結論であります。123-25には、「私たちは朽ちない種である神のことばから生まれた」と書いてありました。生まれたのでしたら、その後は、成長しなければなりません。福音のことばを信じて新生したときは、霊的な赤ん坊と同じです。過半数のクリスチャンは20代、30代と大人になってから信じたという人が多いのではないでしょうか?私は25歳で霊的に生まれたので、それまでのものの考え方、生き方を聖書のみことばと取り替える必要がありました。私は「人のことなどどうでも良い」。自分が生き延びることで精一杯でした。「ちくしょう!」「ちくしょう!」と怒りをエネルギーにして生きて来ました。でも、クリスチャン生活を始めたなら、そのままでは良くないですね。ペテロも「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて…」と言っています。霊的な食物を取り入れることも大切ですが、その前に捨て去るものもあるということです。どういうものでしょうか?「すべての悪意」とあります。原文は「悪」「悪事」となっています。人のものを盗んだり、いたずらをしたり、何かを壊したりすることです。次は「すべてのごまかし」とあります。これは「欺瞞」「悪巧み」「うそ」「偽り」です。先ごろ、ある企業年金基金が問題視されましたが、ごまかしはよくありません。次は「いろいろな偽善やねたみ」です。偽善とは、「俳優が演技をする」という意味からきています。見せかけ、善人ぶるということです。ねたむことはあるでしょうか?人の不幸には同情できても、人の成功はなかなか喜ぶことができません。最後は「悪口」です。これは誹謗中傷したり、陰口を言うということです。クリスチャンになる前は、こういうことが普通でした。しかし、これらのものを捨てて、純粋な神のことばを食べなさいということです。

ペテロは「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」と言っています。JBフィリップスは「泣き叫びなさい」と訳しています。本当ですね。赤ちゃんはお腹がすいたら、泣き叫んで求めます。親鳥はどういうヒナに餌を与えるでしょうか?一番大きな口を開けて泣くヒナです。遠慮して、口を開けないヒナは与えてもらえません。韓国と比べて、日本の教会は上品ですので、神さまからあまり恵みを受けることができません。私たちは、もっと泣き叫んで求めるべきです。「純粋な、みことばの乳」は、他の訳は「混じり気のない」「混ぜ物のない」となっています。神のことばに混ぜ物をするということがあるのでしょうか?あります。19,20世紀に栄えた「自由主義神学」の影響を受けたものです。「聖書には間違いがある」とか「聖書のイエスと歴史的イエスは違う」といった考えです。最初にそういう書物を読んだり、神学を聞かされるとどうなるでしょう?せっかく、新生してクリスチャンになったのに、聖書を信頼して読まなくなります。「間違いもあるからなー」と思うと、みことばに従うことはできません。また、だれかの神学を基盤として、聖書を読むので、しっかり養われません。だから、霊的に生まれたなら、純粋なみことばの乳、混じり気のないみことばが必要です。生まれた時というのはとても重要です。そのとき、ちゃんとした霊的な栄養を与えられなかったら、やがてどこかに欠陥が現れるでしょう。クリスチャン生活を20年やっていても、何か霧の中を歩んでいる人もたまにいます。なぜでしょう?絶対的なものがないからです。その人にとっては、聖書の真理も救いも相対的です。「キリストは私にとって救い主だけど、他の人には他の人の救いがある」とか言い出します。もし、そう考えたなら、伝道はできません。力強い証人になれないのは、絶対的なみことばから来る基盤がないからです。ですから、生まれたてのクリスチャンに必要なのは、養育であります。たとえば、「救いの確信」「父なる神の愛」「聖書を読む」「祈ること」などです。ヘブル人への手紙4章には堅い食物、つまり義の教えについて書かれています。霊的な赤ちゃんは、そういうものは食べられません。もっと柔らかい霊的な乳、離乳食が必要なのです。しかも、最初は人から食べさせてもらわなければなりません。

最後に「それによって成長し、救いを得るためです」とあります。イエス様を信じただけでは救われていないのでしょうか?これはこういう意味です。1週間前に生まれた赤ちゃんも一人の人間です。10歳になる子どもも一人の人間です。赤ちゃんや子どもが不完全なのでしょうか?そんなことはないですね。ただ、大人として成長していないということです。救いはイエス様を信じただけでいただくことができます。でも、赤ちゃんと同じように、生まれた以上は成長しなければなりません。「救いを得る」とは、救いが完成するという意味です。言い換えると、私たちが聖められ、イエス様の御姿のように成長するということです。そして、神さまから与えられた使命を立派に果たす人になるということです。もちろん、最終的なゴールは復活して、栄えの体に変わることです。でも、神さまは私たちに成長のプロセス(過程)をあえて残しておられます。それは、父なる神さまは、一緒に成長を喜びたいからです。私たちは失っていたものがたくさんあります。いろんな罪を犯し、心の傷もいっぱい受けてきました。父なる神さまはそういったものを洗いきよめ、修復し、回復してくださるのです。これは霊的、心理的、信仰的な分野であります。私は信仰歴34年になりますが、本当に、いろんなものを回復してもらっています。心の傷やトラウマもたくさんありました。でも、最近は夢の中が変わってきました。不思議なことに、生まれ育った家の構造は同じです。少し前は、あばら家に住んでいました。だんだん、家が良くなって、夢も健全になりました。と言うことは、私の潜在意識まで救いがやって来たということです。夢もやっと、教会関係のものになってきました。この間は、大川牧師やチョーヨンギ先生が出てきたので、私の夢は20年以上遅れています。神さまはあえて、この地上で私たちが霊的な赤ちゃんから、若者、父親へと成長するプロセスを残しておられるようです。心理学的に、人間は6歳までが非常に重要だそうです。6歳まで性格や物の考え方、行動パターンがほとんどできてしまうそうです。それを、霊的なことにあてはめるならばどうでしょうか?救われた頃が一番肝心だということです。「鉄は熱いうちに打て」とありますが、心の中から悪いものを排除し、良いものを入れることが肝心です。良いものとは何でしょう?純粋な神のみことばによる養育であります。

私はどちらかと言うとほったらかしで育てられました。親からあまり世話を受けたことがありません。塾とかもなかったので、自分で勉強しました。だから、牧師になっても人を育てるということが疎かったんです。洗礼準備会もある人はやりましたが、ある人は「ま、良いか」ということでやらなかった人もいます。しかし、それを深く反省し、昨年やっと「キリストの青写真」という成長のテキストが完成しました。「遅蒔きながら」であります。とにかく、私たちは自分が霊的な成長のプロセスを歩んでいることを認めましょう。養育を受け、キリストの弟子として成長するという過程を踏んでいきましょう。遅すぎるということはありません。なぜなら、まだ天国に行っていないからです。天国に行っていないということは、私たちには成長し、多くのものを回復させていただくという課題が残されているのです。回復と成長は大きな喜びです。神さまは地上において、私たちにそういう喜びを残しておられることを感謝しましょう。パウロはピリピの手紙でこのように言っています。ピリピ313-14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

2.みことばを味わう

Ⅰペテロ23「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」ほとんどのクリスチャンは、聖書をしっかり学んでから信じるということはないでしょう。あるとき、人から伝えられて、心にぐっときたのでイエス様を信じたのではないでしょうか?人によっていろんな入り口があります。当教会において、2000年からブラックゴスペルで大勢の人が洗礼を受けました。40人近くいるかもしれません。そういう人たちは、これまでにないタイプの人たちでした。普通のクリスチャンは教会の礼拝に来て、聖書をかなり学んでから「信じます」と決断したわけです。しかし、ゴスペルの人たちは、賛美している間に「オー、ジーザス」とか言って体験から入ります。体験から入った後で、礼拝に出席し、聖書を学びます。体験も必要ですが、体験だけだと、信仰が安定しません。ペテロは「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」と命じています。でも、その人たちはどういう人たちだったでしょうか?「すでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっていた」のです。つまり、体験があったのです。主がいつくしみ深いということを味わっていたのです。でも、ペテロは「それだけではいけませんよ。これからは聖書のみことばを味わって成長しなさいよ」と言っているのです。アーメン。どのように救われたとしても、聖書のみことばによって、養われる必要があるのです。そこで、後半は、どのようにしたらみことばを味わって、霊的に成長できるのか、お話したいと思います。これは「ディボーションの方法」と言っても良いかもしれません。従来のディボーションは聖書通読もするでしょうが、だれかの書いた本を読んでから祈ることでした。DLムーディ、スポルジョン、FBマイヤー、カウマン夫人、榎本保郎師が書いた、ディボーションの本があります。しかし、私が薦めるディボーションは、帰納法的な方法です。これは参考書を見ないで、直接、聖書から霊の糧を得るという方法です。たとえて言うと、だれかが調理したものを食べるのではなく、自分がみことばを調理して食べるというものです。レトルト食品ではなく、自分で料理したものが美味しいのではないでしょうか?この方法は、もともとは、ナビゲーターとか、キャンパスクルセードが学生たちに薦めたものです。いたって単純です。

第一は観察です。何が書いてあるか、聖書をじっくり読みます。10節から長くても1章です。福音書ですと1つの物語、書簡になるとそんなに読めません。普通は解説書を先に読んだりします。そうではなく、聖書だけをじっくり読むのです。虚心坦懐という四字熟語があります。これは、「心にわだかまりを持たない、無心で平静な心境。偏見がなく、心を開いていること」です。「神様どうぞ、お語りください」と、真理の御霊に聞きながら、何度も読むのです。すると、何かを発見します。繰り返している。言い換えている。このところは強調されている。気づいたところをノートに書きます。ノートに書くと考えがまとまるし、眠気防止にもなります。内容を観察する、これはとても重要です。

第二は教えです。観察からもう少し突っ込んで、「これはどういう意味だろうな?」と、分脈を追いながら解釈します。「聖書は難しい」と言われていますが、そんなに難しくありません。文章全体を見ていくと、「ああ、これはこういう意味なんだ」と分かります。そうしていくうちに、神さまが聖書を通して、何か教えていることに気づきます。たとえば、「こうしなさい」と命じているものもあります。「こうしてはいけません」と避けるべき罪もあります。また、「このようになりなさい」と模範が示めされたりします。あるいは、約束や励ましがあるでしょう。少し前は、エレミヤ書が聖書日課でした。エレミヤ書はさばきが多いので、読んでもあまり恵まれません。でも、「こういうことをしたらいけませんよ」とたくさんの教訓を与えてくれました。たとえば、きょうの箇所ですと、「すべての悪口を捨てなさい」という教えをいただくこともできます。あるいは、「みことばの乳を慕い求めなさい」という教えであるかもしれません。教えは、1つか2つで良いのです。なぜなら、あまり多くいただいても実行できないからです。

第三は適用です。適用とは、いただいた教えを生活で実行することです。たとえば、「すべての悪口を捨てなさい」という教えをいただいたとします。「私はだれにどんな悪口を言っているのだろうか?」と、聖霊さまに聞きます。すると聖霊さまは具体的に教えてくれます。人から教えられると腹が立ちますが、聖霊さまは優しく示してくださいます。「ああ、わかりました。そうします」と悔い改めます。適用は具体的で実行可能なものほど良いのです。漠然としたものだと、実行できたかどうか分かりません。また、「みことばの乳を慕い求めなさい」という教えをいただいたら、聖書を読むという決断をしなければなりません。一日、どのくらいの時間をあてたら良いだろうか?聖書を読むのは朝なのか、昼なのか、夜なのか決める必要があります。みことばを学んだだけでは生活が変わりません。みことばを行って初めて生活が変わるのです。イエス様は山上の説教の終わりで「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」と教えられました。

最後は、その適用が実行できるように祈ります。聖書を読んでから祈るのと、聖書を読まないで祈るのとでは全然違います。聖書を読むと神さまのみこころ、神さまの約束がわかるので、的を得た祈りができます。ジョージ・ミューラは信仰の人ですが、以前は聖書を読まないでとにかく祈りました。最初は思いがさだまらずに、だらだらと30分が過ぎました。しかし、ディボーションをしてから祈るとすぐさま、神さまの御座に達して祈ることができたそうです。今、お話した「観察」「教え」「適用」を合わせたものを、「黙想」とか「瞑想」と言います。東洋の禅とかヨガの瞑想は自分を無にして、宇宙の何かと一体化することを求めます。彼らにとっての対象は人格のない神さまです。いや、対象が別になくても良いのです。カトリックも「黙想」ということを推奨めます。しかし、それは自分との対話です。自分と対話することも良いかもしれませんが、神さまと対話することがもっと重要です。つまり、私たちはみことばを黙想することによって、父なる神さまと交わるのです。すると、神さまは人格を持っていらっしゃるので、私たちに語りかけてくださいます。クリスチャンでも「私は神さまみこころが分からない」という人がたまにいます。なぜでしょう?それは聖書を開かないで、神さまと交わらないからです。聖書は一般的な神さまのみこころを記しています。そして、ディボーションによって神さまと交わると、特別なみことばが与えられます。これこそが、あなた自身に示された神のみこころであります。前者がロゴス(一般的なみことば)であるなら、後者はレーマ(特別なみことば)です。イエス様が「人は神の口から出る一つ一つのことばによるのである」と言われましたが、このことばはレーマになっています。今、神さまが私にかたってくださる「ことば」が大事なのです。

ですから、私たちはみことばを味わう必要があります。最初はこのディボーションがとても退屈で、何も得られないときもあります。インターネットを見るか、テレビを見ていたほうがよっぽど良いと思うかもしれません。多くの人は携帯で電話やメールをしています。最近はフェイスブックがあります。しかし、それらは人との関係です。人との関係は言わば、水平の関係です。しかし、神さまとの関係は垂直の関係です。神さまは人間と違って、これから起こる未来ことを知っておられます。また人には分からない英知を授けてくださいます。人がいないところで、テレビを止めて、静かな時を持ちましょう。一日、30分でも良いです。そういう、静かな神さまとの交わりの喜びを体験するとクセになります。なぜなら、魂の深いところに、喜びと平安がやってくるからです。詩篇46篇は「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」で始まります。そして、10節には「やめよ。私こそ神であること知れ」と書いてあります。英語では、Be stillとなっています。これは「静まれ」という意味です。エルサレムがアッシリアによって囲まれた時がありました。敵は、さんざん罵倒しました。兵糧攻めというのでしょうか、水も食べ物も絶たれました。しかし、エルサレムには神殿の基から、泉が湧いていますので、水だけは確保できました。ヒゼキヤ王は衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入りました。ヒゼキヤの祈りを主が聞かれました。するとどうでしょう。夜明け前、主の使いが出て、アッシリアの185000人を打ち殺しました。この世では戦いがあります。知らず知らず、身も心も疲れ果てている時があります。あなたはエルサレムのように、神殿の泉を持っているでしょうか?神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助けになっているでしょうか?私たちの生命線は、静まって聖書を読み、神さまと交わることです。

最後に、燃え尽きで倒れたことのある、ハワイのウェイン・コディーロの証を引用して終えたいと思います。「すべてを出しつくし、もう指一本動かせませんでした。ビジョンを失い、続ける意志も消えうせてしまいました。早めに引退して、地の果にまで逃げて行き、そこで誰にも知られずに一生を終えることができるお金があるか銀行の明細を見ては思案するのでした。何ヶ月もの間、そのようにもがき苦しみ、自分をむち打つようにしてメッセージをし、ミニストリーの責任を果たしていました。しかし、それも限界でした。しかし、ひとつだけやめなかったことがあります。それは日々のディボーションです。今ではこれをやめなかったことを、ことばに言い表せないほどうれしく思っています。なぜなら、ディボーションは私の人生を救ってくれたからです。」

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2012年4月22日 (日)

草はしおれ、花は散る   Ⅰペテロ1:22-25

「草はしおれ、花は散る」とありますが、まさしく、桜が散ってしまいました。悲しいかな、花は散るのです。でも、聖書は私たちに、永遠の希望を与えてくれます。Ⅰペテロ122後半で「互いに心から熱く愛し合いなさい」と命じられています。世の終わりは、愛が冷えてくるのに、どうしてそんなことができるのでしょう?ペテロは、「あなたがたは朽ちない種である、神のことばから生まれたからである」と、その根拠を教えています。

1.朽ちない種

Ⅰペテロ123「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」このところに、朽ちる種と朽ちない種の両方が記されています。「朽ちる種」は、英国の聖書には、mortal parentageとなっています。mortalは「死ぬ運命の」という意味です。これがmortalsという複数形になると、「人間」になります。そして、parentageとは「生まれ」「家柄」「血統」という意味です。2つ合わせた語、mortal parentageは、「死ぬ運命の家柄で生まれた」ということです。今はそうでもないかもしれませんが、昔はどの家柄で生まれたかですべてが決まりました。貴族で生まれたなら、貴族です。農奴で生まれたなら、農奴で生きるしかありません。日本でもついこの間まで、士農工商という階層がありました。インドでは今でもカースト制度の中に支配されています。今の私たちでも、裕福な家庭で生まれるか、あるいは貧しい家庭で生まれるかで、勝負が付くようなところはないでしょうか?「いや、私はそうじゃない。テッペンとったるぞ!」と頑張っている人たちもいます。しかし、生まれが貴族であろうと平民であろうと、すべての人は「死ぬ運命の家柄で生まれた」ことには変わりありません。中には、「人生80年、面白おかしく暮らせば良いじゃないか」と思っている人もいるでしょう。でも、永遠のいのちをいただいて、神の子どもとして生きられるとしたら、どんなにすばらしいでしょうか?そうであるなら、「生まれ」「家柄」「血統」は関係ないのではないでしょうか?

ヨハネ112-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」アーメン。今は民主主義の時代なので、「人間は平等だ」という考えがあります。でも、中世の身分の低い人たちや、アメリカの黒人がこのみことばを見たらな、飛び上がるような喜びとなるでしょう。なぜなら、その当時は、生まれや家系がすべてを決めたからです。小学校5年生の頃、知能指数の検査がありました。残念ながら、私はそう高い方ではありませんでした。担任の先生は「靖尋君はいっぱい努力しているんですね」と言われました。そのとき、半分嬉しくて半分は悲しい気持ちがしました。何故、私はそんなに頭が良くないのだろうと思いました。私には他に7人の兄弟がいましたが、ずばぬけて頭が良かったのは長女と長男だけでした。しかし、その下の兄弟たちは平均か、平均以下でした。なぜだろうと思いました。あるとき、「どぶろく造りはやめましょう。頭の悪い子供が生まれます」というニュースを耳にしました。「どぶろく」は、密造酒のことであり、どの家でも、縁の下にこっそり酒を作っていました。「ああ、頭が悪いのは、これだったんだ!」と思いました。また、思春期になると、「どうしてこの家にはお金がないんだ」と父や母を呪いました。会社に入ると、高卒の私がいくら働いても、新卒に給料を追い越されました。「ああ、仕事ができるかではなく、学歴なんだなー」と、また、がっかりしました。皆さんも、ある程度は、自分の生まれや家系にご不満を持っておられるのではないでしょうか?しかし、少し前の総理のように、たとえ裕福な家庭に生まれたとしても、「死ぬ運命の家柄で生まれた」ことには限りはありません。人生80年、裕福であることもすばらしいですが、永遠のいのちを失ったらば、どうでしょう?イエス様はマタイ1626で「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」と言われました。こう考えると、神様はだれにでも逆転勝利のチャンスを与えておられるのではないでしょうか?つまり、「生まれや血統がすべてではない」ということです。イエス・キリストを信じるなら、神の子どもとされ、御国の世継ぎとなることができるからです。身分が変えられ、運命が変えられ、その人の生き方も変えられます。つまり、その人は、目先の損得ではなく、永遠の御国がゴールであるなら、おのずと生き方が変わってきます。お金の使い方、時間の使い方、人生の使い方が変わってくるはずです。

さらに、ペテロが言いたいことは、「朽ちない種である、神のことばから生まれた」ということです。「種」という言葉は、いわゆる植物の種ですが、もう1つ「精子」という意味でもあります。ある英語の聖書は、その意味を表すspermになっています。日本では「子種」とも言われています。「子種を授かる」とは、家系や血統を継ぐ子どもという意味です。いわゆる、「子種」が肉体的な誕生と関係があります。でも、ペテロが言いたいのは、私たちは「朽ちない種、神のことばから生まれた」ということです。「生まれた」というギリシャ語は「再び生まれる」born againです。つまり、「子種」から肉体的な誕生をしますが、それだけではありません。「人は神のことばによって、再び生まれる(生まれ変わる)ことができる」ということです。ヨハネは「神の霊によって再び生まれ変わる」と言っていますが、ペテロは「それは神のことば」であると言っています。しかし、なぜ、神のことばなのでしょうか?もう少し、あとの25節にその答えが書いてあります。「『しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。とあるからです。』あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」とあります。神のことばとは、「宣べ伝えられた福音のことば」です。どうでしょう?私たちが霊的に生まれ変わるとき、何かを信じたのではないでしょうか?そうです。宣べ伝えられた福音のことばを聞いて、信じたのです。福音のことばを心の中に受け入れたと言っても良いかもしれません。パウロはローマ1017「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と言っています。福音のことばは、言い換えるなら、キリストのついてのみことばです。キリストが私の罪ために十字架につかれ、すべての代価を払ってくれました。そして、キリストが三日目によみがえったことにより、私たちにも神の義が与えられる保証となりました。このキリストを信じるときに、人は救われ、霊的に生まれ変わることができるのです。

私たちは全部を理解しなかったかもしれませんが、福音のことばを受け入れたはずです。でも、人によっていろんな信じ方、いろんな受け入れ方があると思います。必ずしも、こういう礼拝のときに、信じたということではないでしょう。私は先輩から、9時間もしつっこく言われて、観念しました。今、考えると、個人伝道によって救われたわけです。当教会はブラックゴスペルで救われた人がたくさんおられます。ゴスペルの歌を歌っている間に、何かが降りて来てジーザスを信じたのでしょう。ある牧師は、「それはおかしい、本当じゃない。なぜなら、みことばがないからだ」と批判します。しかし、ゴスペルの歌詞が、福音そのものであります。そこに音楽があるか、ないかの違いです。柏グローリチャペルの佐々木先生は秋田県の仙北郡(すごい田舎)の出身です。中学生の頃、ラジオを聴いていたら不思議な番組がありました。確か「ルーテルアワー」だったと思います。「この住所にはがきを出せば、聖書を送る」と言うので出しました。まもなく聖書が送られてきましたが、聖書の学習ドリルも入っていました。聖書を調べて、空欄をうめて、それを送るシステムになっています。書いて送ると、添削されたものが戻って来て、さらに次のドリルが入っています。佐々木少年はラジオを聴いて、学習ドリル繰り返しているうちに、イエス様を信じたのです。そして、ルーテル同胞教会につながり、そこの団体の牧師になりました。ラジオの電波は教会が全くないところへも届きます。顔が見えなくても、ラジオの電波によっても、福音が届けられるのです。他に、ゴスペルマジックというのもあります。ハワイにはゴスペル演歌を歌っている人もいます。ゴスペルフラ、ゴスペル喫茶…なんでも良いと思います。大切なのは、そこに福音の種があるかどうかです。私たちはだれかが蒔いた福音の種によって救われました。それだったら、私たちもこれから福音の種を蒔く必要があります。蒔かなければ刈り取ることができません。残念ですが、日本の土壌は福音に向いていません。小笠原先生は、「日本はロシアの凍土のようだ」と言いました。凍土というのは、表面にうっすらと土がありますが、下が氷です。日本はツンドラだということです。でも、終わりの時代、地震や経済危機によって、日本が揺り動かされています。今、頑なな日本人の心が貧しくなっています。これからが福音宣教のチャンスです。詩篇1265-6「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」アーメン。また、イエス様がこのようにおっしゃっています。ヨハネ435-36 「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」終わりの時代は、これまでだれかが蒔いた種を刈り取ることのできる時代です。自分が蒔かなかったのに、前の人が蒔いた種を刈り取ることができるのです。私たちクリスチャンにとっても、困難な時代が来ています。しかし、同時に、人々の中に福音が入りやすい良い時代が来ていることを感謝しましょう。

2.草はしおれ、花は散る

Ⅰペテロ124-25「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」このみことばは、イザヤ書40章から引用されたものです。ですから、そちらの方も見ながら、このみことばを解釈したいと思います。イザヤ書406-8には「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」となっています。イザヤ書40章には「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ」となっています。イスラエルの平原には、アネモネ、ひなげし、原始的なシクラメンなどが咲いています。かわいそうですが、砂漠からの熱風が吹くといっぺんで枯れてしまいます。つまり、草や野の花は、はかない人間のことをたとえています。また「その栄え」とは、王国の繁栄です。旧訳聖書ではエジプト、ツロ、アッシリア、バビロン、そしてイスラエルが栄えた時代がありました。しかし、その繁栄は一時的で、あっという間に他の国に支配されてしまいます。国々の上には、主のいぶきがあるようです。主のいぶきが吹くと、王国が破れ、次の新しい王国が支配します。国々の栄枯盛衰は、神さまが支配しているとしか思えません。人間は草であり、その栄光は野の花のようにはかないのです。一方、神のことばは永遠であり、変わることがありません。第一のポイントで言いましたが、人間はmortals死ぬ運命にあります。一方、神さまはimmortal不死、不滅、永遠なるお方です。私たち人間は、はかなくて弱い存在であることを認めなければなりません。なのに、人間はどこまでも進歩し、万能になれると信じています。現代もいろんな分野でバベルの塔を築いています。科学では原子エネルギー、医学では遺伝子組み換えが上げられるでしょう。電子工学が非常に進み、アメリカではマイクロチップを皮膚の下に埋め込み、すべての情報を管理しようとしています。まさしく666の時代がやってきます。やはり、世の終わりのバビロンとハルマゲドンの戦いまで行くのでしょうか?

話題が広がっていきましたが、ペテロがここで言うとしていることは何でしょう?人間は野の草や花のようにはかない存在ですが、神のことばは永遠に変わらないということです。人間の道徳倫理、科学、医学、生活スタイルもどんどん変わります。携帯電話1つとってもどうでしょう?いろんな機種が出ましたが、今はスマホーが主流です。いろんなアプリをつけて楽しんでいます。速度もどんどん速くなっています。情報が飛び交い、世界がめまぐるしく変化しています。私たちの毎日の生活が変わっていきます。この世の人たちは「進歩」とか「進化」ということばが好きですが、私は必ずしもそれが正しいとは思いません。変化に踊らされている人、変化についていけない人もいます。ペテロはこの世はいつまでも続かないと言っています。この世の歴史には終わりがきます。私たちは終わりの時代にあって、いつまでも変わらない神のことばに、立つべきです。今はGPSかもしれませんが、航海のときには羅針盤と北極星がとても大事です。私たちの人生においても、それと同じものが必要です。この世が終わりに向かって変化しても、変化しないものに基準を置くということはとても大切なことではないでしょうか?テレビのCMを見て思うのですが、まことに日本人は「異邦人だなー、神を知らない国民だなー」と思います。マタイ631-32「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」このみことばのごとく、私たち異邦人がいつも関心を寄せているのは「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」であります。そのことで、みんな思い煩っています。そうではなく、もっと大切なものがあります。イエス様はさらに、マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とおっしゃいました。神の国と神のみことばが永遠です。私たちはこれらを第一に求めるべきであります。

priority優先順位という言葉があります。あれも、これもではなく、一番重要なことに目を向け、重要な事柄から手をつけていくということです。神の国の優先順位とは何でしょうか?それは、神の国とその義とを第一に求めることです。「神の国」とは、神さまのご支配です。「その義」とは神さまのみこころです。それはイコール神のことばです。神のことばに聞かなければ、神の義も神のみこころも分かりません。この世にはいろんな情報が飛び交っています。「あなたはこれを知らないと時代遅れですよ」と私たちをけしかけてくるかもしれせん。ある人たちは、この世の流れに振り回され、押し流されています。しかし、私たちはそういう情報よりも、永遠に変わらない情報、神にことばに焦点を合わせるべきです。だから、たとえ寝る時間がなくても、聖書を読み、神さまと交わる必要があります。忙しければ忙しいほど、そういう時間を持たなければなりません。イエス様はあれこれと思い煩っているマルタにこういわれました。ルカ1041-42「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。」ある人たちは、人に嫌われないように、人から信頼を失わないように一生懸命がんばっています。しかし、人の評価を満たすことは無理です。なぜなら、人は変わるからです。そうやって人に合わせる人は共依存的であり、いつかは燃え尽きてしまうでしょう。そうではなく、私たちは神さまの基準、神さまの価値、神さまの義に焦点を合わせるべきです。たとえ、人から嫌われても良いのです。極端に言えば、神様から嫌われなければ良いのです。おお、なんとシンプルな生活でしょう。シンプルな生活には力があります。優先順位がしっかりしている人は、シンプルな生活をしています。アーメン。

現代の人たちはニュートラル、宙ぶらりんな時間を過ごしています。少し前はネット・サーフィン、今は、スマホ・サーフィンではないでしょうか?電車でもよく見かけますが、指をひたすら動かして、何かを見ています。私たちがちゃんとした目標、自分のゴールを持っていなければ、ぼーっとして時間を過ごしてしまうでしょう。私たちクリスチャンは新たに生まれたので、永遠のいのちが与えられています。そうすると、この地上の短い人生がどうでも良いかというとそうではありません。短い人生だからこそ、貴重になるのではないでしょうか?私たちの魂は永遠ですが、この肉体はそうでもありません。肉体という入れ物が年と共にだんだん、ガタがきます。先日、奥歯が痛いので歯医者さんに行きました。「私は入れ歯にしたくない」と問診表に書きました。レントゲンを取った後、お医者さんから、「あなたは歯槽膿漏ですよ。奥歯をささえる骨が熔けていますよ」と言われました。さらに、歯医者さんは「私は神様じゃないので、なくなった歯茎は元通りにできないよ」と言いました。私はそれを聞いて感動しました。「このお医者さんは、神さまはできる」と信じているんだなと思いました。しかし、家に帰って来て、「ああ、入れ歯になるのかなー」と悲しくなりました。その夜から、新しい歯が生えるように、一生懸命祈っています。アルゼンチンでは、リバイバルのとき第三歯が生えたそうです。それはともかく、この肉体も草のように、野の花のように枯れようとしています。本当に、この肉体を正しく管理しながら、あるいは補修しながら、できるだけ長く持たせるしかありません。魂は永遠でも、この肉体に限りがあるのは残念です。この目も、この脳みそも、この手足もいつまで動くのでしょうか?使徒パウロはローマ8章でこのように励ましています。ローマ811「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」アーメン。私たちの内には聖霊が住んでおられます。聖霊はイエス様を死者の中からよみがえらせました。だったら、同じ聖霊が、私たちの死ぬべきからだを生かしてくださるのです。アンチ・エィジングという言葉がありますが、聖霊様こそ、老化にブレーキをかけてくださる神の力です。枯れそうで枯れない、しぼみそうでしぼまない。なぜなら、私たちはキリストを死者の中からよみがえらせた方の御霊が住んでいるからです。私たちのゴールはどこでしょうか?永遠の御国です。私たちにはすでに神のいのち、永遠のいのちがあります。どうか、このいのちが内側からあふれ出てきて、死ぬべきからだをも生かしてくださるように。

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2012年4月15日 (日)

~イエス様の目~    亀有教会教育牧師 毛利佐保

<ルカ 21章1節-6節>

21:1

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。

21:2

また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。

21:3

それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

21:4

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

21:5

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。

21:6

「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日が

やって来ます。」

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昨年の今頃、3/11の東日本大震災のショックがまだおさまらない中、私は東京基督教大学に入学しました。その時の私には心の葛藤がありました。それは、「被災地には学校どころではないという人がたくさんいるのに、大学に通って授業を受けていても良いのだろうか?」といったものでした。

その時期は、大学の授業を休んで被災地支援のためのボランティアなどに行っている学生がたくさんいました。私が以前通っていた神学校の仲間たちも、震災の次の日から救援物資を運んだり、復興の為のボランティアに何度も行っていました。亀有ゴスペルクワイヤーのメンバーにもアクティブに東北に出かけて支援している人がいました。そういった人たちの報告を聞くたびに、「私はここにいていいのだろうか?現地に行かなくていいのだろうか・・・。」と気持ちが焦りました。

そんな時に心から気持ちが落ち着くメッセージが与えられました。それは大学のチャペルでのほんの15分ほどの短いメッセージでしたが、焦っていた私の心にとても響く内容でした。

それが今日語らせていただく聖書箇所からの「イエス様の目」というメッセージでした。

イエス様は、貧しいやもめの捧げものと、その心を見ておられ、それと同時に石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来るという世の終わりについても見ておられました。

メッセンジャーの牧師は、震災が起きてすぐに、ボランティアの学生を連れて被災地の南三陸に向かったそうです。その時現地の惨状を見て心が固まってしまい、世の終わりを実感されたそうです。

一緒に被災地にボランティアに行った学生は、「先生!もう神学どころじゃないですよ!ギリシャ語なんかのんきに勉強してる場合じゃないですよ!」と言ったそうです。

しかし牧師はメッセージの終わりにこう語っていました。

「私は、それはイエス様の目ではないと思います。東京基督教大学とはどのような大学でしょうか。ここはイエス様のような目を持つために学ぶ学校です。ですから私たちは、いつも通りの生活をして、しっかり学んでいくことが大切です。そして同時に、被災地の痛みを忘れず覚えて祈り、仕えていくのです。」

・・・私は本当にその通りだと思いました。私たちには、神様から与えられたそれぞれの使命があり、守らなければならない家族や、全うしなければならない仕事や学業や生活があります。

やらなければならないことを放り出してまで被災地に行くことを神様は喜ばれるでしょうか。

私はこのメッセージを聞いて、確かに気持ちが落ち着きました。

しかし、はたしてイエス様のような目を持つことなど自分にできるのだろうか?と疑問に思いました。

私の限界のある能力や体力、限られた時間をもって精一杯いつも通りの生活をしつつ、被災地の痛みを覚えて祈り、終末の備えをするなどといったことが一度にできるものなのだろうか?自分自身の生活に追われて、いつしか被災地の事も終末への備えも忘れてしまうのではないだろうか?と考えました。

そこでもっと聖書を深く掘り下げて読み、聖書が語っている本質や隠された奥義を知る必要があるのではないかと思いました。

・「イエス様の目」は、どこを見ておられたのでしょうか。

・また、私たちがイエス様のような目を持つには、どうすれば良いのでしょうか。

聖書の記述を追いながらご一緒に確かめて行きましょう。

①イエス様は貧しいやもめの心を見ておられました。

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<ルカ>

21:1

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。

21:2

また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。

21:3

それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

21:4

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

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この「ある貧しいやもめ」という言葉をギリシャ語の原文で直訳すると、「ある日雇い労働をしながら暮らしているやもめ」となるそうです。「やもめ」というのは「未亡人」のことですが、この未亡人は日雇いで生活をしていて、この日稼いだ生活費をすべて神様に捧げたということになります。

レプタ銅貨は、この時代の最小単位の貨幣だそうです。今でいえば、価値としては50円くらいかもしれません。やもめの全財産は50円玉2枚。・・・つまり100円しか持っていないのに、その100円全部を捧げたのです。ちょっと・・・やもめはもしかしたら算数が苦手だったのかな・・・と思ってしまうような大胆な信仰ですが、この貧しいやもめの心をイエス様は賞賛されました。

この貧しいやもめの話に似たような話ですが、「長者(ちょうじゃ)の万灯(まんとう)より貧者の一灯」という有名な仏教の説話があります。その話の大筋はこうです。

「インドの阿闍世(あじゃせ)王という王が、宮殿に釈迦を招きました。釈迦がその宮殿から祇園精舎へ帰る道に万灯、万の灯明(とうみょう)をともしました。その時貧乏な老女がいて老女も灯明(とうみょう)をかかげようと思い、なんとかお金を都合して一灯をともしたところ、王のあげた灯明は風で消えてしまったり、油が尽きたりしてすべて消えてしまったが、老女の灯明は朝になっても消えていなかった。」

というものです。これは、貧しい人の誠意のこもったわずかな捧げ物は、金持ちの世間体を飾った多くの捧げ物よりも勝っているという、「真心の尊さ」を教えるたとえ話です。

このように仏教でも、聖書の貧しいやもめの献金と同じような教訓が語られているように見えますね。

でも、聖書のこの箇所は道徳的なことを語っているだけではありません。「貧者の一灯」との決定的な違いは、イエス様の圧倒的な存在感と「イエス様の目」です。

この聖書の箇所で語られる礼拝メッセージは、「献金のお勧め」が多いのですが、しかし今朝は、「イエス様の目」に焦点を当てたメッセージを語ろうと思います。

イエス様の目はどこを見ておられたか。

マルコの12:41の並行記事では、

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<マルコ>

12:41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。

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と書かれています。

イエス様は献金箱の向かいに座って人々のようすを見ておられました。
原文のギリシャ語では、「見る」という動詞に「
qewre,w セオレオゥ」という言葉が使われていて、これは過去進行形で書かれています。これは「じっと見る」英語ではBehold・・・「じっくり見る」「注視する」という意味があります。ただの過去形だと「見た」となり、ただ一度見たという意味ですが、過去進行形だと「見続けていた」となります。

イエス様は「じっと見る」ことで、人々のまことの心を見ておられました。

「多くの金持ちが大金を投げ入れていた」の「入れていた」も過去進行形なので、あとからあとから、どんどんお金を入れ続けていた様子が伺えます。

実はこの金持ちたちは、わざとお金を換金して大きな音がジャランジャランするようにして大金を投げ入れていたそうです。どれだけ自慢げにジャランジャランいわせて献金していたか、想像がつきますね。

イエス様はその様子をじっと見ておられました。金持ちたちの我欲も、彼らを取り巻く世界の罪や汚れもすべてをじっとご覧になっていました。来る人、来る人、不純な動機で得意げに献金を捧げる様子をじっと見続けておられたイエス様は、どんなお気持ちだったでしょうか。

そこに、貧しいやもめがやってきたのです。

実は、当時の献金の規定では、2レプタより少ない献金をしてはいけなかったそうです。つまり1レプタは捧げものとしては認められていなかったそうです。ですから、このやもめの選択は、全財産の2レプタを捧げるか、捧げるのをやめてしまうかのどちらかだったのです。

イエス様の目は、このような規定を作った者へも当然向けられていたでしょう。

やもめの決断は全財産を捧げることでした。神が養ってくださるという信仰があったのでしょう。

しかし、もしかしたらやもめには、「全部捧げてしまったら今日食べるものも買えないわ。もし、半分の1レプタでいいならそうしたいわ・・・。」と、こんな迷いもあったかもしれません。

でも、やもめはすべて捧げる方を選びました。

そのようなやもめの心に対してイエス様は、このような言葉で報いてくださいました。

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<ルカ>

21:3

それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

21:4

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

********************************

マルコの福音書にも同じ記述があります。そこにはこう書かれています。

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<マルコ>

12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました・・

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イエス様は「弟子たちを呼び寄せて」語られたと書いています。これは弟子たちに、「神に全信頼をおいて生きているこのやもめの姿こそ、イエス様に従う者の模範である」ということを教えようとされたのです。

やもめはイエス様に褒めてもらおうなどとは全く考えていませんでした。神様に精一杯の捧げものをしたいと思っただけです。イエス様は、このようなやもめの心に対して、素晴らしいことばをかけて応えてくださいました。また同時に弟子たちに信仰者のあるべき姿を教えてくださったのです。

やもめはどんなに嬉しかったことでしょう。そして、このやもめの信仰は聖書に記されて、現代の私たちにも、イエス様は信仰者のあるべき姿を教えてくださっています。

イエス様の目は私たちの心もじっと見ておられます。神様を愛する心、隣人を愛する心、どんなわずかな捧げものでも、人の目には判らないどんな小さな働きでも、イエス様はいつも見過ごさず、じっと見ておられます。そして、このやもめの真実を明かされたように、必ずその心に報いてくださるお方なのです。

②イエス様は同時に世の終わりを見ておられました。

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<ルカ>

21:5

宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。

21:6

「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日が

やって来ます。」

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ここで出てくる宮とは、エルサレムの神殿をさしています。

エルサレムの神殿は、イエス様の時代までに三つの神殿が建てられたようです。

はじめの神殿はソロモン王が紀元前950年に建てたと言われています。ソロモンが神殿を建てるための準備は、ソロモン王の父であるダビデ王がほとんど整えたようですが、神がダビデに神殿を建てる事を許されなかったので、ソロモン王が後を引き継いで建てました。この神殿を第一神殿と言います。建築に7年かかり、約360年の間存続したようです。その後、第一神殿はバビロンの王ネブカデネザルによって紀元前586年に破壊され、イスラエルの民は捕囚の民としてバビロンに連れ去られました。

第二神殿は、イスラエルの民が70年後に帰還して、ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤが中心となって建てた神殿を言います。このエルサレム第二神殿は、様々な困難があって建築に約20年かかり、480年の間存続しました。この神殿はソロモンの神殿にくらべて小規模であったと一般的には言われています。

第三神殿は、イエス様が生まれた時に殺そうとしたヘロデ王(大ヘロデ)が建てました。ヘロデ王は、イエス様が生まれる少し前からローマの後ろ盾でユダヤの王として在位していました。ヘロデ王は、身体強健、精力的で、政治家でもあり、実業家でもあり、勇敢な武人でもあり、統率者としての天分も持っていたようです。しかし、ヘロデ王は生粋のユダヤ人ではなく、エサウの子孫のイドマヤ人でした。ですから、ユダヤ人たちから信頼と支持を得るために豪華な大神殿を建てようとしたのです。この大神殿は、紀元前20年、イエス様が生まれる20年ぐらい前から建て始め、イエス様が30歳になる頃にやっと完成したようです。なんと50年もかかりました。イエス様の弟子たちが見た神殿は、できたてほやほやのヘロデの神殿ということになります。

ちなみにヘロデ王はイエス様が生まれて間もなく死んだらしいので彼の死後も引き継がれて延々と建てられていたということになります。その神殿は、イエス様の預言どおり、紀元70年にローマ軍によって破壊されました。50年もかけて建てた神殿は、わずか40年の存続に終わりました。

この実際に起こった歴史を顧みる時、私たちが暮らしているこの世も、何年もかかって建てては、あっという間に壊されてしまったこれらの神殿のように、実に、はかないものなのではないでしょうか。

ルカでも、マタイやマルコでも、イエス様はこの神殿の記述の後に終末の預言を語られています。

この終末の預言を語られたイエス様の本来の目的は、「終末にはこんなことが起こる」といった情報を、ただ提供するということではなく、終末の預言を通して、私たちがより忠実に神に従う生き方をするようにと教えることにありました。

今、私たちが生きている時代は、イエス様が復活して昇天されてから、再びこの地上に来られる再臨との間です。イエス様は、この時代において私たちが常に慌てることなく、気をつけて、福音を宣べ伝え、目を覚まし、最後まで耐え忍ぶようにと励ましてくださっています。

③イエス様は慈しみのまなざしで私たちを見ておられます。

「イエス様の目」は、私たちが今どのように生きているかという生きざまをじっと見ておられます。

私たちが、神様から与えられた自分自身の進むべき道をしっかりと歩み、また、終末に向けても目を覚ましているかどうかをイエス様はじっと見ておられます。

しかし、イエス様のそのまなざしは冷ややかに私たちを凝視しているまなざしではなく、慈しみ深く、憐れみ深く、私たちを愛と恵みで包み込んでくださるようなまなざしなのではないでしょうか。

私たちは、ついつい人の目を気にしてしまいます。自分がどのように見られているかという事ばかり考えてしまったり、世間体を気にして見栄を張ってしまったり、人から裁かれたりして傷つくのが恐いからと、不本意ながら周りの人に合わせてしまったりしてしまいます。

しかし、本来私たちが気にするべき目は、人の目ではなく、「イエス様の目」だけなのではないでしょうか。はかなく崩れ去った神殿のように、この世で価値があると言われる、見せかけだけのものは、いつかは崩れ去ってしまいます。

みなさんの中には、「自分はそんなに立派なことはできないし、ただ生きるのに精一杯だから、イエス様に顔向けできない。そんなに見つめられると、追い詰められてるみたいで逆につらいなぁー。」と思ってしまう人が、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。

でも大丈夫です。イエス様の12弟子たちも、それほど立派な人たちはいませんでした。

イエス様の一番弟子と言われたペテロなどは、イエス様が捕えられた時、自分も捕まってしまうかと恐れて、イエス様を3度も知らないと言って逃げました。しかし後に聖霊を受けて、力強く福音を伝え、最後は逆さ十字架に架かって殉教したと言われています。そのペテロを支えたのは、「イエス様の祈りと慈しみのまなざし」でした。イエス様はペテロにこう言われました。

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<ルカ>

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

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イエス様は後にイエス様を裏切るペテロのために「信仰がなくならないように」と祈ってくださいました。

また、ペテロがイエス様を3度知らないと言った直後にこのようなことがありました。

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<ルカ>

22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。

22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

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ペテロを見つめたイエス様の目は、どんなに慈しみ深く憐れみ深いものだったことでしょうか。

ペテロはこの時、イエス様を裏切った後悔の涙とともに、あの時の、「信仰がなくならないように」と言ってくださった時の、そしてたった今、裏切ったペテロを振り向いてご覧になった時の、「イエス様の祈りと慈しみのまなざし」を思い出して激しく泣いたのではないでしょうか。

このペテロに向けられた、「イエス様の祈りと慈しみのまなざし」は、私たちにも向けられています。

なぜなら、私たちもペテロと同じように、弱く、人の目を気にしてイエス様を裏切ってしまう存在だからです。

でも、イエス様は、私たちのためにいつも「祈りと慈しみのまなざし」をくださっています。

人の目ではなく、イエス様の目だけを気にしていきましょう。

ギリシャ語で「パンタクリストス」という言葉があります。「パンタ」=「すべて」、「クリストス」=「キリスト」を表し、「キリストがすべて」という意味になります。イエス様の目は、やもめの心を見ておられ、終末を見ておられ、今も私たちを見ておられます。イエス様の目はすべてを見ておられます。

こうして、イエス様の目はどこを見ておられたかを聖書の記述から追っていくうちに、私は冒頭に語った、「イエス様のような目を持つことなど自分にできるのだろうか?」という疑問の答えを見つけました。

私は、「イエス様の目」をいつも身近に感じているならば、それは可能だと思います。

「イエス様の目」を近くで、また心の内で、いつも感じていることによって、私たちは正しい目を持つことができるのではないでしょうか。イエス様のような慈しみのまなざしや、やもめやペテロにかけてくださった愛のことばを持つことができるのではないでしょうか。

またそうすることによって、今やらなければならないことや、神様から与えられたこの世の使命を忠実に果たし、同時に被災地の痛みを覚えて祈り、終末の備えをすることができるようになるのではないでしょうか。

黙示録の最後の章には、

22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

と書かれていますが、この御言葉は、イエス様がすべてを支配しておられるお方だという事を、イエス様ご自身が宣言されている御言葉です。なんとダイナミックで、なんと心強い宣言でしょうか!

私たちは、ただこのお方に従って行けばよいのです!「パンタクリストス」=「キリストがすべて」です。

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2012年4月 8日 (日)

復活の必然性     イザヤ53:10-12 

先週は受難週のメッセージで、イザヤ書53章の前半を引用しました。きょうはイザヤ書53章の後半からイースター、復活祭のメッセージを取り次ぎたいと思います。普通は福音書から、復活の朝の出来事をお話ししますが、旧訳聖書から語るのは初めてです。さきほどの、イザヤ531012を読んでみて、気づかれたでしょうか?苦難の僕が死んだままなら、ありえないことがいくつか書かれていました。たとえば、10節に「彼は末長く、子孫を見ることができる」とありました。また、12節には「彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる」と書いてありました。もし、死んだままなら、そういうことは不可能です。しかし、苦難の僕がよみがえったならば、それらのことが可能であります。イエス様もルカ21章で「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」と言われました。栄光とは復活であり、報いであります。

1.十字架の意義

 意義には、意味よりももっと深いものがあります。ふさわしい価値、値打ちみたいなものが含まれています。イエス様は何のために十字架にかかられたのでしょうか? 10節「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら…」。そして、11節後半「彼らの咎を彼がになう」。さらに、12節後半「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのとりなしをする」とあります。ここには、イエス様が十字架で死なれた、理由が記されています。第一に「罪過のためのいけにえ」とは、レビ記にあります。人が罪を犯した場合、きよい動物を祭司の前に持ってきます。祭司は動物をほふり、血を祭壇に注ぎます。いのちである血によってでしか、罪は贖われないからです。第二は「咎をになう」あるいは「罪を負う」と書いています。これもレビ記にありますが、罪を犯した人は、きよい動物の頭の上に手を置きます。手を置くという行為は、私の罪をこの動物の上に置きますという意味と、これは私の身代わりですという2重の意味があります。差し出された動物を祭司はほふった後、血を注ぎます。まさしく、イエス様は私たちの罪を負い、神さまから打たれ、命を失ったのです。正確に言うなら、イエス様ご自身が、命をささげたのであります。レビ記1章から9章まで、いろいろな犠牲が記されています。共通して言えることは、人に罪があるならば、神さまに近づくことはできません。きよい動物が殺され、血を流すことによって、人の罪が取り除かれます。そのことによって、初めて神さまに近づき、神さまを礼拝することが可能になるのです。キリストの十字架は、私たちの罪過のいけにえでした。キリストは十字架で、私たちの咎・罪を負ってくださり、神さまとの交わりを可能にしてくださったのです。

 しかし、日本人には罪の概念がありません。そのために、十字架の意味もわかりません。たとえば、「人さまに迷惑をかけてはいけない」とよく言われます。逆に言うならば、人に迷惑をかけなければ、何をしても良いことになります。そうなると、人が見ているところでは正しくふるまいますが、人が見ていないとタガがゆるむことがあります。今、幼児虐待とかドメステック・バイオレンスというのが急増しています。性的な罪、薬物中毒、詐欺事件も増えています。「我が子だから何をしても良い」「自分の体だから何をしても良い」「バレなければ良い」と思っています。裁判でも、明らかに罪を犯していているのに「私はやっていません」と無罪を主張します。確かに冤罪もあると思いますが、「そこまで、よくシラを切れるなー」と思うこともあります。日本人は、罪というものは人間との問題だと思っているからではないでしょうか?しかし、そうではありません。罪を犯すということは、神さまの御前で罪を犯していることなのです。それは、私たちを造り、私たち愛しておられる神様に背いていることになるのです。犯した罪に対しては何らかの刑罰、何らかの償いが求められますが、人だけの問題ではありません。神さまに対しても責任があるということです。だから、旧訳聖書では、罪を犯した人はきよい動物を身代わりにささげたのです。大体、「人」という漢字が問題です。金八先生が「人という字は人と人が支え合ってできている」と教えました。新渡戸稲造が最初に、「人、二人説」を提唱した人物だそうです。しかし、漢字学者によると、「人という漢字は人が一人で立っているところを横から見た姿を描いているという」ことです。それはともかく、ギリシャ語で人間はアンソーロポスと言います。これは、「上をあおぎ見て歩く」「神さまを礼拝する」という意味があるそうです。つまり、「人さまに迷惑をかけてはいけない」では、不十分で、「神さまをあおいで生活する」ということが重要なのです。また、罪を犯すということは、人との問題ではなく、何よりも、神さまとの問題だということです。

もし、私たちが神さまを恐れて生活するならば、どうなるでしょう?「結構、きゅうくつだろうなー」と思うかもしれません。クリスチャンでも、「日曜日の10時半から12時までの時間にしてもらいたい。月曜日から土曜日までは、自由にさせていただきたい」と思うのではないでしょうか?私もパソコンを毎日のように動かしています。テキストを作るとき、画像をインターネットから取り入れたりします。そのとき、ピャーっと、エッチな画像が入ってきたりします。「ラッキー」と思って、いろいろクリックするとはまってしまいます。100%大丈夫か、というとそうではありませんが、できるだけ「肉」には栄養を与えないようにしています。これは、エディ・レオ先生から教えられたことです。多くの場合、そういうものを見続けると、肉が太ります。そして、聖書を読まないで祈りもしないと、霊が非常に弱くなります。もし、目の前に誘惑が来たなら、どうなるでしょう?やせ細った霊が「やめなさい!」と忠告します。しかし、横綱のように太った肉が「これくらいなら大丈夫!」と体当たりしてきます。そうなったら、誘惑に負けてしまいます。ですから、普段から、肉にはエサを与えないで、霊を丈夫にするように工夫しなければなりません。そのためには、「私は神の御前で生きているんだ」という意識が必要です。このように神を恐れるということも重要ですが、新約における恵みも知らなければなりません。

イエス・キリストが私たちの罪を負って身代わりに死なれました。そのことによってどうなったのでしょうか?11節には「彼は多くの人を義とし」とあります。さらに、12節「彼は強者たちを分捕り物として分かちとる」とあります。後半には「そむいた人たちのためにとりなしをする」とも書いてあります。これらのことを通して分かることは何でしょう?キリストの十字架は罪の赦しだけではないということです。神さまは御子イエスの犠牲によって満足し、私たちをもう裁きの対象とは見ません。それ以上に、私たちを義とみなしてくださるのです。義とは「法的に、もう裁かれない」ということです。「強者たちを分捕り物とする」とは、私たちを捕えていたサタンや悪霊を打ち砕くということです。私たちは以前、彼らの持ち物であって、手かせ、足かせがはめられていました。しかし、イエス様が私たちを買い戻し、私たちを支配していた悪者どもを打ち破ったということです。これって、すごいことではないでしょうか?私たちはこれまで、やられっぱなしでした。しかし、イエス・キリストが彼らを打ち砕き、黙らせて下さったのです。ハレルヤ!私たちの記憶の中にたくさんのトラウマがあります。しかし、それらは幻影であり、過去の遺物であります。私たちは主の勝利を私たちの潜在意識にも告げ知らせなければなりません。では、私たちがまた罪を犯したり、罪のわだちにはまったらどうするのでしょうか?「そむいた人たちのためにとりなしをする」とあります。これは「これからそうする」という意味があります。なぜなら、第二番目で語りますが、この方がよみがえるからであります。イエス様はずっと、神さまの右の座で、私たちをとりなしてくださるのです。Ⅰヨハネ21-2「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」アーメン。私たちはもちろん、罪を犯さないように努力しなければなりません。しかし、それ以上に、「自分はどういうものとされているか」「私たちの敵はどうなっているのか」「私たちの救い主は今も何をなさっておられるのか」、これらのことを知ることがもっと重要です。私たちの全ての罪、咎をイエス様は十字架で負ってくださいました。今や、私たちはどういうものとされたのでしょう?神の前で義と認められ、私たちを訴える敵どもは敗北し、イエス・キリストが私たちのために今もとりなしていてくださるということです。ハレルヤ!これが信仰です。信仰とは、罪を犯した過去の自分ではなく、神さまが自分に対して何をしてくださっておられるかに目を注ぐことです。車のことを考えてみましょう。あなたはハンドルを握っており、目の前にはフロント・ガラスがあります。あなたの過去の問題は小さなルームミラーです。ルームミラーは後ろを見るために必要なものです。しかし、あなたは車を運転するとき、フロント・ガラスの向こうを見なければなりません。小さなルームミラー、そして大きなフロント・ガラスがあります。それは、過去の問題と今、主にあってどういう者とされているかということの比率です。小さなルームミラーはちらちら見て、多くの時間は、どうぞ前を向いて運転してください。

2.復活の意義

 旧訳聖書に復活のことが本当に書いてあるのでしょうか?もう一度、イザヤ書5310節をお読みいたします。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」問題は、後半です。「彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」死んだままの状態では、末長く、子孫を見ることは不可能です。子孫を見るためには復活しなければなりません。リビングバイブルはこのところをはっきりと訳しています。「彼を傷つけ、悲しみで押しつぶすのは、実は神様の計画だったのです。罪が赦されるためのささげ物として、そのたましいをささげるとき、彼は多くの子孫を見ることができます。しかも彼は復活するので、神様の計画は彼の手によって陽の目を見ます。」後半は、だれが書いたのでしょう?実は英語の詳訳聖書にも確固入りですが、同じようなことが書いてありました。「時が来たら、彼は死からよみがえらされるので、霊的な子孫を見ることができるだろう」と訳しています。これは、意訳というか、補助的に付け加えられたものです。どちらにしても、やはり、苦難のしもべが復活しなければ、子孫を見ることができないということは確かです。日本人は、「草葉の陰から見ている」みたいなことを言います。しかし、それは現実的ではありません。私たちの神さまは実に、御子イエスを死者の中からよみがえらせ、報いを与えてくださったのです。

 イエス様ご自身が福音書でこのようなことを、度々おっしゃっていました。マタイ1038-39「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」イエス様は神さまのみこころを成就するために、十字架でご自分のいのちを捨てました。まさしく、ご自分が教えていたことを実行されたのです。しかし、どうなったでしょうか?自分のいのちを失ったけれど、あとで、それを得たのです。イエス様は神さまのみこころにゆだねて、死にました。しかし、そのままでは終りませんでした、父なる神さまは御子イエスをよみがえらせ、復活のいのちを与えてくださいました。イエス様ご自身が、それを試して、模範を示しされたのです。私たちは自分のいのちに執着して、なかなかいのちを捨てることができません。最後まで自分が可愛いくて、最後まで自分を守ろうとします。福島で原発事故が起きましたが、だれも責任を取ろうとしません。「あれは地震だから、津波だから、想定外だったから」と言います。でも、あとから考えると、「もっと備えておけば良かった。人災の面も多分にあったんじゃないか」と言われています。でも、だれも責任を取ろうとしません。できるだけ早く、もとの姿にもどろうとします。十字架を負って、自分のいのちを捨てるということは易しいことではありません。クリスチャンであっても、肉がありますので、しばしば迷うときがあります。でも、イエス様は自ら、死んでみて、よみがえりました。なんとすばらしい保証でしょうか。私たちに大きなチャレンジを与えてくれます。

 また、イエス様の復活が必然的であったことが、12節からもわかります。5312「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。」これは、どういう意味でしょうか?当時の戦争では、敵に勝利した場合、敵が持っているものを分捕り物として得ることができました。剣や身につけている武具だけではありません。彼らの町の家畜や宝石、全ての持ち物を奪い取りました。負けた敵は殺されるか、奴隷になりました。イザヤ書はこういうことを考慮に入れて書いているものと思われます。それでは、イエス・キリストとどのような関係があるのでしょうか?エペソ人への手紙48-9「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」イエス・キリストが陰府に下られ、復活したときに「多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」ということです。おそらく、陰府の中にいた、多くの捕虜を奪回し、持ち物を奪い取ったということでしょう。では、敵とは一体だれなのでしょうか?敵とはサタンと悪霊たちであります。彼らは神から離れ、罪を犯した人間を自分の持ち物にしています。本来、神の子のものである多くの持ち物まで、横取りしている状態です。しかし、イエス・キリストが十字架の復活によって、強い者であるサタンを打ち負かし、武装を解除したのです。そして、イエス・キリストはご自分が得た分捕り物を、私たちに信仰をもって勝ち取りなさいと命じているのです。分捕り物とは何でしょう?神の国に属するすべてのものであります。たとえば、永遠の命、祝福、健康、神の子としての権威であります。

私たちは本来、神の子どもとして、父なる神さまがご用意されていた御国を受け継ぐべき存在でした。しかし、罪の中あって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者の霊に従って、歩んでいました。「私は自由だ、何の問題もない!」と言っても、霊的には死んでいる状態でした。ところが、イエス・キリストが私たちを罪と悪魔の支配から奪回するために、来られたのです。使徒26章で異邦人に遣わされた使徒パウロがこのように語っています。使徒2618「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」アーメン。救いとは「暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」ことであります。そして、「罪の赦しを得させ、御国を受け継がせる」ことです。つまり、私たちはキリストの十字架と復活を信じることによって、住む世界とこれからの人生が全く変わったということです。なぜなら、イエス・キリストが私たちと私たちの持ち物を奪回してくださったからです。日本基督教団の高砂教会があります。以前、聖霊刷新で、その教会の手束牧師とお交わりをさせていただいたことがあります。手束牧師は会堂建築の1つ1つに、意味を与えておられます。外壁は紫ですが、それは王なるキリストを表現している。シャンデリヤは、その教会に聖霊が降ったときのことを象徴しています。それでは、シルバーの十字架は何でしょう?高砂教会の礼拝堂の十字架は木ではなく、ステンレスの十字架です。それは、イエス・キリストがサタンの国を打ち破った勝利の十字架であるということです。「復活の十字架は、木ではなく、シルバーでなくてはならない」というのが、先生のお考えです。私はそこまでは懲りませんが、大切なところは付いていると思います。もし、クリスチャンが罪赦された罪人であるだけなら、弱いです。クリスチャンは、キリストにあって、神の国に属している王子であり、王女です。そして、キリストの御名によって、かつて私たちのものであった持ち物を、サタンから奪い取ることができるんだということです。

『王家の者として生きる』の巻末に、「王子・奴隷テスト」がありました。これは、本当に自分が、王子・王女として生きているか、あるいは奴隷のままで生きているかのテストです。

1.皮肉的な冗談を言って、人々を傷つけることがある。

2.セールや安売りで物を買うのが好きだ。

3.自分は不十分、力不足だと言う思いに葛藤することがある。

4.知らず知らずのうちに周りの人と競っている。

5.鏡で自分自身をよく見る。

6.他人と自分を比べる。

7.「負け犬」が勝つと嬉しい。

8.神は負け犬の見方だと思う。

9.金持ちや成功している人々と一緒にいるのが苦手である。

10.成功したり自分の上に権力を持っている人に対して反抗する傾向がある。

11.自分の友人に有名人がいること、また自分が励んだ功績について、他人に話したい。

12.一生懸命頑張っても功績が上がらないと落ち込む。

13.自分に与えられた賜物とは関係なく、自分の価値を正当化しようとしてボランティア活動をしたり、ある働きに携わったりしている。

14.関係のある団体やグループ、仕事場でも一番重要な人と必死に友人になろうとする。

15.ゴールに達成できないと自分は失格者だという思いから、目標を立てるのが好きではない。

 「しばしば」「大抵の場合そうだ」という人は、奴隷根性が抜けきれていない人です。私などは、口では王子だと言ってはいますが、「まだ、まだ」です。15問中、10個くらいは当っていました。ということは私の信仰は頭だけであり、心の深いところに入っていないということです。つまり、神の王子として、復活を生きていないということです。2000年前、イエス・キリストが死からよみがえりました。そのとき、私たちをも死と罪とサタンの奴隷から解放されたことを深く思いたいと思います。そして、神の王子、王女として復活の人生を歩んでいきましょう。

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2012年4月 1日 (日)

キリストの苦しみ   Ⅰペテロ2:21-25  

今週は受難週で、来週の日曜日は復活祭、イースターです。ちょうど私たちはⅠペテロから連続して学んでいますので、少し飛んで、Ⅰペテロ221節以降から十字架のメッセージを取り次ぎたいと思います。この箇所はローマのカイザルや総督、あるいは主人のもとで仕えている人たちが対象です。彼らはクリスチャンとしてさまざまな試練の中にいましたが、こういう権威ある人たちの下にいるときは、なおさらです。特に横暴な主人のもとで仕える奴隷は、不当な苦しみを受けることが多かったと思われます。「悪いことをしていないのに、なんで打ち叩かれる必要があるんだ!」という怒りがいっぱいでした。そういう人たちに、ペテロは「十字架の苦しみを忍ばれたイエス様のことを思い起こしなさい」と教えています。

1.キリストの模範

Ⅰペテロ221-23「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」ローマ・カトリックでは、「キリストに倣うべきである」というメッセージがしばしば語られます。しかし、プロテスタント教会では、キリストの贖いを強調して、キリストに倣うということはあまり語られません。しかし、ペテロは「その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」と言っています。ここで誤解をしてはいけません。罪の贖いを成し遂げられたのはイエス・キリストだけであります。私たちはイエス様と同じような、罪の贖いをすることはできないし、する必要もありません。ここで言われていることは、そうではありません。イエス様は罪を犯したことがなく、ちっとも悪いことをしていませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをしませんでした。イエス様は神さまであり、権威と力に満ちていました。罪ある人間に対して、雷のような声で叱りつけ、鉄槌を振り下ろすことも容易なことでした。ヨハネ18章には、イエス様が捕えられたシーンが記されています。イエス様がご自分を捕えようとする者たちに「それはわたしです」と言われました。すると、武器を持った兵士と役人たちは、後ずさりし、地に倒れました。ペテロが大祭司のしもべに切りかかったとき、イエス様は「剣をもとに収めなさい」と叱りました。その後、「それとも、わたしが父にお願して、12軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」(マタイ2653と言われました。イエス様は武力で立ち向かおうと思えば、できたのです。しかし、それをあえてしませんでした。

私たちは、キリストの贖いを受けることが第一の課題です。なぜなら、それがないと救われないからです。しかし、キリストの贖いを信じて、クリスチャンになっても心の問題が解決されていない人がたくさんいらっしゃいます。心の深いところで叫んでいるのです。「わたしが受けた不当な苦しみを何とかしてくれ!これはまだ償われてはいない」と。いや、表面的にはそんなことは思いもしないでしょう。クリスチャンですから、愛と寛容と忍耐が必要なことくらいわかっています。でも、日常生活において、「あなたのせいだ」「お前が悪い」「お前が責任を取れ」と言われたらどうでしょう。それは、学校や職場、家庭、教会の中においてもありえることです。イエス様のようにつばきをかけられたり、打ち叩かれたり、ののしられるところまでは行かないかもしれません。しかし、不当な扱いを受けたり、裁かれたり、プライドを傷つけられるということはあるでしょう。週に1回、月に23回は「何でわたしが!こんな不当な扱いを受けなければならないの!」と過剰に反応することはないでしょうか?同じ思いがぐるぐる駆け巡り、怒りが収まらない、夜も寝付けない。そういうことはないでしょうか?私は家内とたまにあります。私は「津波に飲み込まれた人がなぜ、逃げなかったんだ。逃げる時間はたっぷりあったはずだ」と言います。すると、家内は「逃げたくても逃げられなかったのよ。助けに行ったけど、そこに留まりたい人もいたのよ」と言います。私は「そんなことはない。責任のある人が『津波が来るから高台に逃げろ!』と警告すれば良かったんだ!」と反論します。何故、私が怒るのでしょうか?それは、私の父が家庭を正しく治めていなかったからです。仕事をあまりせず、お酒を飲み、母を叩いていました。兄弟どうし争っていましたが、父は見て見ぬふりです。もし、父が「正義とはこうだ」と自ら模範をしめして、家庭を治めていたら、私の心に「守り」があったはずです。「責任を取るべき人がちゃんと責任を取る」。これがなされていない家庭で育った子どもは、いつも不安があり、怒りがあります。だから、そういう世界観で、何でも見てしまいます。

私たちが今、敵対している夫や妻、あるいは職場の上司、教会の兄弟姉妹、気になるあいつ。実は、その人たちが本当の敵ではないのです。あなたは「ここで会ったが百年目」と過去において晴らせなかった恨みを、今、ここで晴らそうとしているのです。それを李光雨先生は「怨念晴らし」と呼んでいます。私たちは無意識に、未完の行為を、目の前のだれかにぶっつけて、晴らそうとしているのです。でも、それは無理なんです。本当の敵は目の前の人ではなく、あなたを最初に不当に扱った人が張本人だからです。その人とは、あなたの父であったり、母であったり、兄弟、おじさん、友人、先生なんです。あなたの世界を最初に壊した「あいつ」が原因なのです。「あいつ」との問題が解決されていないので、「何とかしてくれ!」と叫んでいるのです。でも、その人たちは年老いたか、死んだか、遠くどこかで生きています。もう、会えないかもしれません。彼らはそんなこと覚えていないかもしれません。どうでしょう?私たちはそういう過去に受けた不当な扱いに苦しんではいないでしょうか。そして、それを今、だれかを敵にみなして、「こんどこそ取り返してやろう。こんどこそギャフンと言わせよう」とやっきになってはいないでしょうか。一時的にそういう仕返しができるときはあります。しかし、また、別の事件が起こり、別の人が出てきて、同じような情況に陥ります。また、怒りがこみあげてきて、夜、眠れなくなります。ですから、問題の解決は現在の問題ではなく、その問題を引き起こした過去にあります。噴火している火山の出口ではなく、怒りのマグマがたまっている場所をなんとかすべきです。

私たちは心の深いところに、苦しみを受けられたイエス様を向かえるべきです。イエス様は十字架にかかる前にどんな扱いを受けたのでしょう。イエス様は神の座を捨て、人となって地上に降りてこられました。福音を宣べ伝え、病を癒し、多くの人を助けました。しかし、当時の宗教家たちはイエス様を非常にねたみました。不当な裁判を開いて、イエス様を罪ある者としました。群衆は彼らに扇動されて、「十字架につけろ!」と叫びました。ローマ兵はイエス様がユダヤの王様だったので、むちゃくちゃひどいことをしました。イエス様はつばきをかけられたり、ひげを抜かれたり、平手で打ち叩かれたり、さんざん嘲弄されました。動物の骨やなまりが先端に縫いこまれたローマの鞭を死ぬ一歩手前まで受けました。そのあと、重い十字架を背負わされ、歩みが遅いので、また鞭で打たれました。最後は、ローマ市民は触れてはならないという最も醜悪な十字架につけられました。「十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやる」と、人々から馬鹿にされました。3本の釘に全体重がかかり、呼吸すらも困難になりました。イエス様は人々から捨てられ、最後には神さまからも捨てられました。つまり、イエス様は直ちに十字架にかかって死んだのではありません。十字架にかかるまで、精神的な苦しみ、肉体的な苦しみをさんざん受けられたのです。これは何故でしょうか?ペテロは24節で「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです」と言っています。本来なら、「あなたがたの罪が贖われたのです」と言うべきです。なぜなら、イエス様の十字架の死は、罪の贖いが第一の目的だったからです。でも、「打たれた傷のゆえに癒された」と書いてあります。死なれたゆえにとは書いてありません。「打たれた傷」となっています。「打たれた傷」とは何でしょうか?それは十字架にかかる前から、不当な裁判を受け、人々の嘲笑を受け、平手で打たれ、こづき回され、ローマの鞭を受け、さらしものになったという苦しみです。イエス様は、人類と神さまのために地上に来られたのに、人からも神さまからも打たれました。なんという不当な扱いでしょうか。

イエス様はただ十字架で死なれたのではありません。こういう仕打ちを受けたられたのは、私たちの心が癒されるためです。私たちがこのように決断するためです。「イエス様が受けられた痛みで、もう十分です。私に不当な扱いをして苦しめた人に、もう仕返しをしません。正しく裁かれるあなたにお任せします。復讐を放棄します。」あなたは当然、訴えることができる証書を持っているはずです。しかし、その証書を神さまに渡しましょう。そして、イエス様の十字架に一緒に釘づけしてもらうのです。これまでの十字架は、自分が犯した加害者的な罪でした。しかし、自分が受けた被害者としての傷や恥、訴えも怒りも、悲しみも、十字架につけましょう。「それらを十字架につけます」と言ったならば、神さまはそれらすべてを処理してくださいます。そして、父なる神さまとイエス様があなたを抱擁し、天の喜びで満たしてくださいます。あなたは父なる神さまとイエス様の間に手を繋がれた子どものように安心できます。父なる神さまはあなたの味方として、これからも、一緒に歩んでくださいます。

2.キリストの贖い

 ペテロは、私たちが受けた心の傷を癒されることを願っていますが、もう1つ私たちの心自体が健全になるように願っています。224-25「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」このところには、私たちが、今後、どのように生きるべきかが示されています。「私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」とあります。さらには「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」と書いてあります。私たちが元来、犯していた罪、別な言い方をすると、的外れな生き方とはどういう生き方だったのでしょうか?アダム以来、人類は神から離れ、自分勝手な生き方をしてきました。神さまなんか認めない、神さまなんかに従わない。むしろ、反逆したい。わがままな羊こそが、私たちの生まれつきの状態です。赤ちゃんは無垢で、罪のひとかけらもないように思えます。お母さんだったらよくご存知でしょうが、数ヶ月たつと、自分の思い通りにいかないと怒り出します。2,3歳になると、親の言うことを全く聞かなくなります。あの可愛い赤ちゃんが怪物のように思えてきます。それで、負けてはならないとガンガン怒るか、それとも無視するか、です。もう、毎日が戦争です。当の子どもはどう思うでしょうか?「親から不当な扱いを受けた」と思うのです。親はこの子が立派に育つようにしつけたつもりでも、子どもの方は、虐待されたと思うのです。「私は立派な大人になりたいので、どうか私をきびしく育ててください」と願う子どもはまずいません。子ども自体が、わがままであり、親の言うことを聞きたくないのです。という訳で、私たちが受けた心の傷と、私たちが持っている心の罪も取り扱う必要があります。

 ペテロがここに書いてあることばは、旧訳聖書のイザヤ53章から引用したものです。もとはどのようになっているのでしょうか?53:6 「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」そして、538後半「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」ペテロもイザヤもそうですが、私たちが羊であり、神さまが羊飼いというふうにたとえています。私たちは羊ですけど、どんな羊なのでしょうか?さまよっていました。さまよっていただけなら、可愛いのですが、それだけではありません。「おのおの、自分かってな道に向かって行った」と書いてあります。ここには、頑固で、身勝手さが見え隠れしています。羊は羊飼いについて行けば、外敵から守られ、草や水にもありつくことができます。しかし、この羊は自分勝手な道を歩んでいます。すぐ後には「そむきの罪」とも書かれています。このところから、羊は羊飼いに背いている、つまり反逆の霊があることが分かります。同じように、子どもには、親に対する反逆の霊があります。親、学校の先生、警察官、牧師…権威ある者に、無性に逆らいたい。そういう気持ちはないでしょうか?聖書には「妻は夫に従いなさい」と書いてあります。妻の方々どうでしょう?「あんな夫に従えるわけがないだろう」と思いませんか。おお!反逆の霊があるのではないでしょうか?ましてや、罪人は、神さまを認めたくもないし、神さまに従いたくもありません。ところで、犬は動物の中でも最も忠実な動物だと言われています。しかし、すべての犬がご主人に忠実なわけではありません。身勝手だったり、噛み付いたり、吼えまくる犬もいます。しかし、多くの場合、ちゃんと訓練されていないからです。わがままで身勝手な犬は、一見、自由で幸せそうに見えます。しかし、犬はご主人に忠実に従うときに、一番幸せなんだそうです。愛情をかけ、正しい訓練を施すなら、犬は忠実な犬になるそうです。私たちは犬ではありませんが、どうしたら幸せになるのでしょう。イザヤ書には「私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」とありました。また、Ⅰペテロ225「今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」と書いてあります。本当の自由とは、自分の思いのままに生きるということではありません。本当の自由は、神様のもとで、神様が与えた目的に従って生きることの中にあるのです。タクシーがいろんなところで走っています。空車の後をついていくと、大変危険です。お客さんをさがしてフラフラ走り、突然、止まったりします。しかし、一旦、タクシーがお客さんを乗せ、メーターを起こすとどうなるでしょう。走り方が一変し、目的地までひたすら走るでしょう。

 クリスチャンになっても、自分が主人であり、自分の思いのままに生きている人がいます。それは、わがままな羊、わがままな犬であります。一見、自由そうに見えますが、人生に目的がありません。趣味はたくさんありますが、使命がないのです。使命とは命を使うと書きますが、何のために命を使っているか分からないのです。「いや、私はやることがたくさんありますよ」と言うかもしれません。しかし、それは心の空洞を埋めるために、ただ動いているだけかもしれません。神さまがこの世に生を与え、イエス様がその生を贖ってくださいました。その次があるはずです。「罪を離れ、義のために生きる」とは、神さまのご栄光のために、贖われた人生を使うということです。そうすると、どうしても矯正されなければならない所が出てきます。自己中心、身勝手さ、反逆心、これが取り扱われる必要があります。神さまは私たちをとても愛しておられますので、そういう環境の中に、すっぽりと入れてくださいます。あるいは、自分を矯正してくれる、イヤなヤツを何名か置いてくださいます。ヤコブは兄と父を騙して、長子の権利を得た狡猾な人物でした。しかし、ヤコブはどこで訓練を受けたのでしょう?ヤコブよりも数枚上手の、おじのラバンのもとに10年以上暮らしました。ラバンは横綱級の狡猾さで、10数回も約束を覆しました。ヤコブはそこで、すっかり砕かれました。モーセは40歳のとき、ヘブル人を救おうと立ち上がりました。しかし、失敗して、ミデヤンの荒野に逃れ、40年間、羊飼いをしました。モーセは「俺が、私が」という思いが、すっかり砕かれ、神さまに従う者になりました。預言者エリヤも使徒のペテロやパウロも、みんなそうです。

 それでは、私たちはどういうことがきっかけで、神さまに従順になるのでしょうか?神さまに逆らうと痛い目に会うからでしょうか?神さまに従えば、幸せになるからでしょうか?動物は、どれで良いかもしれませんが、人間はそういう訳にはいきません。Ⅰペテロ2:24 「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」イエス様は、強いられて、十字架にかかられたのではありません。確かに、ゲツセマネの園では、もがき、苦しみました。イエス様は、死を恐れたのではありません。罪を恐れたのです。Ⅱコリント5 21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」イエス様が私たちの罪を負うことによって、神様から断罪され、神様から捨てられる。これを恐れたのです。それまで、父なる神様と御子イエス様は一瞬たりとも離れたことがありませんでした。しかし、イエス様が罪を負うことにより、父なる神様から捨てられ、拒絶されたのです。イエス様が十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれました。あの苦しみ、あの孤独、あの悲しみが、私たちが罪を離れ、神様に従う動機になるのです。本来なら、私たちが地獄で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばなければなりませんでした。しかし、イエス様が私たちの人生を取り返すために、自ら罪となり、神さまから捨てられたのです。イエス様を十字架に釘づけしていたのは3本の釘ではありません。道行く、人々は「十字架から降りて来い、そうしたら信じる」と馬鹿にしました。イエス様は十字架から降りて、天に帰ることがいつでも可能だったのです。しかし、イエス様は私たち一人ひとりの人生を贖うために、ご自分の意思で十字架にかかっていたのです。イエス様は私たちの罪を贖うだけではなく、私たちの人生を贖うために、十字架にかかってくれたのです。ある人たちは、「キリストを信じるのは、罪赦されて天国にいけることだ。教会には縛られたくない」と言います。しかし、教会はキリストのからだであり、神の家族です。残念ですが、教会を離れて、神様からの目的を果たすことはできません。なぜなら、神さまはキリストのからだである教会を通して、働こうと願っておられるからです。教会は生まれつきわがままな私たちを矯正してくれるところでもあります。また、教会は人間関係で傷ついた私たちを癒してくれる神の家族です。羊は一匹で孤立していると、とても危険です。私たちは大牧者なるイエス様のもとで、共に集まって暮らすべきなのです。「たましいの牧者であり監督者である方」とは、私たちのために十字架で苦しみ、私たちの罪と人生を贖ってくれたイエス・キリストのことです。

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